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政治の役目

 政治の役目は、なんといっても国民の命を安んずること。国民の生命および財産を守ることを第一の使命とする。そうして国を定めた上で、その土台の上に、経済・教育・文化がある。だけど、民主国家が、その国の繁栄を築く上において、民主であるが故に重要となる条件がある。教育の問題がそれ。

 

 読み書き・算盤といった基本的な教育は兎も角として、躾を含めて、教育というものを行う限り、何某かの価値観を教え、伝えることになるのは殆ど避けられない。普通、国家によって教育される価値観は、その国の伝統であったり、今の世の中で通用し、常識とされているものになるのだけれど、その肝心の価値観そのものが、民主国家の行く末を決めてゆく。なぜなら、教育を受けた青少年はやがて、成人して選挙権を持ち、各々一票を与えられることになるから。国家が何某かの主義を下に国民に教育を行なうと、何年、何十年後にはその影響が社会全般に出てきて、政治にも反映されるようになる。

 

 だから、国家における教育というものは、もちろん、その時、その社会において、最も正しいだろう、と思われるものについて慎重に精査して教えることにならざるを得ない。それは教育の目的にも依るのだけれど、基本的に、教育は、その社会で自立して、独力で生きていく力を身につけさせる、という目的で行われるものだから、その時、その社会に一番適合する価値観を教えるのは必然だといえる。だけど、思想・主義において、一番の問題は、その正しいだろう、という思想や主義が未来永劫に渡って「正しい」とされるとは限らないということ。その主義・思想が、何処まで、何時まで正しいのか、という中身は、国家を大きく左右する。

 

 これは、正義の問題とも絡んでくるのだけれど、この世における「正しさ」自体が、時代の趨勢や国際環境の影響を受けて、圧力を受けたり、変化したりすることに起因している。ここ百年くらいを眺めてみても、植民地を是とした正義があり、共産主義が良しとされた時代があり、今や、資本主義に疑念が持たれ、保護主義的考え方が勢力を増しつつある。正義なんて時代ごとにコロコロ代わってる。

 

 だから、国家は、国民に基本的なことを教えたら、後は、本人が独力で考えを修正したり、転向したりできるような「材料や環境」を出来る限り整えておくことが望ましい。仮に、マルクス主義思想を持っていた人であっても、それを否定せず、また、いつでも転向できるように、本なり、教育機関なりで、自由主義の考えを学習できる機会を提供したりできていれば、「正しさ」自体が時代とともに変遷しても、個人レベルで思想の修正をしていくことが可能になる。

 

 何某かの教育に対して反対できる人がいるということは、そうではない教育を受けているか、そうではない情報を得て、自らの考えを変えることができる環境があるということを意味してる。特亜のプロパガンダを受けて育ったけれど、ネットの情報やその他の本を読んで洗脳が解けたという人だって沢山いる。

 

 カルト教団に入っている人を称して「洗脳されている」とは、まま言われることでもあるけれど、穿った見方をすれば、教育だって洗脳の一種だ、といえなくもない。戦前・戦中派の人たちが、戦後教育で、大きなショックを受けたというのも、戦前教育の洗脳が解けただけなのだという解釈だってできるし、隣国の反日教育なんかは、日本から見れば、それこそ「洗脳している」ように見える。だから、その国の教育を正しいものにできるかどうかは、つまるところ、宗教なり思想や主義なりが乱立していたとしても、それを無闇に否定したり弾圧したりせずに、むしろ切磋琢磨させてゆく中で、より正しい考えを内包していって、また同時に、そうしたものに触れられる機会をどこまで提供できるか、という問題に帰着するのだと思う。これも、結局は、「信教の自由」を如何に保障してゆくかという問題と軌を一にする。


政治と宗教の役割分担

 昔は、宗教が政治の代わりをしていた部分があった。インフラが整備されていなかったり、教育機関や医療が十分でなかったり、つまり政治の力が国中に行きとどかなかった時代には、僧侶や寺院がその役目の一部を担っていた。弘法大師は「満濃池」と呼ばれる日本最大の溜池を修築しているし、寺子屋では読み書き・算盤を教えていた。

 

 なぜそんなことができたかと言えば、宗教は、教団という独自の組織を持ち、布施や浄財を集めることができたから。ある意味、民主組織の草分けだといえるのかもしれない。だけど、時代が下って、世の中が発達してくると、世の中が専門分化して、より複雑になっていって、世の中を支えるために、専門家が沢山必要とされるようになってきた。

 

 また経済の発達によって、政治の力でインフラや教育制度が整うようになってくると、そうしたこの世的な、肉体生命を維持する部分は、どんどん政治が面倒を見るようになって、宗教は、心の教えだけを説けるようになってきた。ある意味において、政治と宗教の役割分担が明確になってきたとも言える。だから、政治が本当の意味でしっかりしていて、国民が安心して暮らせる社会が出来ていると、宗教は、別に政治に口出しなんかせずに、安心して心の教えだけを説いていればいい。

 

 尤も、現代のように科学技術や社会システムが進んで、専門分化して高度化してしまった社会に対して、宗教が政治的な提言を行うことは、なかなか出来ない事も事実。宗教が各分野の専門家を、信者として大量に抱えることがなければ、提言一つとて難しい。もしも、宗教が政治に口出ししなければならず、しかも、それが「的を得ている」というようなことがあったとするならば、それはよほど政治の力が落ちていることに他ならず、政治家としては非常に情けない状態にある、と思わなくてはいけない。なぜかといえば、世にある識者を、政治がそれだけ掬い上げていないことを意味するから。

 

 政治の力が落ちてくると、当然、国は乱れ、国家運営はうまくいかなくなってゆく。畢竟、国防力の低下や治安の悪化、さらには経済も停滞又は後退して、人心も乱れていって統制が取れなくなってくる。そんなときに選挙が行なわれると、どうなるか。

 

 政治家は自分が当選するために、その乱れた人心のご機嫌を取るようになってくる。平たくいえば、バラマキをしてみせたり、政治改革をして、この国を生まれ変わらせます、とか絶叫して人心をひき付けて票稼ぎに走るようになる。悪くいえば、ポピュリズムに近づいてゆく。そんなとき、国民の価値観がしっかりしていれば、そんな甘言に惑わされることなく、本当に必要なことを求めるから、たとえば、不況下において、「米百俵の精神」を言われても、それを支持したりすることもできる。だから、そうした国民の考え方や価値観を間違えない為には、常に「正しさ」を追求して止まない教育や、様々な考えを許容して内包できる社会がそこにないといけない。


健全な民主国家の条件

 宗教は、自分のところの教えはこうだ、と全面に押し出して布教活動しているから、信者以外の人でもこの宗教は、こういう考えなのだな、こういう価値観を教えているのだな、と分かる。そして、それがその通りかどうかは、その教団なり信者なりの言動をみれば大体判定できる。教え自体は立派そうなことを言っているのに、教団や信者が立派な立ち振る舞いをしていないのであれば、実は、教えが立派ではないか、教団や信者が教えを誤解しているか又は理解していないかのどれか。そんな教団を母体とする政党があれば、その政党の信頼性や支持はその分だけ落ちることになる。

 

 宗教はそんな風にある程度チェックができるのだけれど、同じように、政党や各種団体についても価値観のチェックは出来なきゃいけない。政党は選挙にあたって、公約を国民に示して、何をやらんとするか示すし、個々の議員にしても、その人となりや普段の活動に触れて知っている人にとっては、如何なる価値観に基づいているかどうかのチェックはできる。それはその他の団体に関しても同じ。だけど、その団体なり、政党なりに特に興味がなくて、普段会うことがない人にとっては、その価値観をチェックする機会そのものが殆どない。

 

 必然的に、その相手の価値観に対して、適切な判断をすることは難しくなる。それでも、民主国家では、誰であっても平等に一票を与えられている。だから、特に選挙においてそうなのだけれど、政治に興味がある人ない人関わりなく、広く情報を伝達して、大衆に価値判断の材料を提供できる手段を持たなければ、民主国家は十全に機能しない。つまり、マスコミの健全性がポイントになる、ということ。

 

 仮に、マスコミが、ストローの様に、全ての情報に一切手を加えることなく大衆に伝達できればいいのだけれど、紙面の都合や、放送枠の関係で、流す情報に取捨選択を加えざるを得ない場合が殆ど。いきおい、何を報道して、何を報道しないか、という価値判断がそこに加わることになる。事実を伝えるだけでも、取捨選択という価値判断が加わるのに、伝える情報そのものを操作したり、捏造しようものなら、大衆が正しい判断をすることは著しく困難になる。

 

 だから、マスコミはせめて、自身がどのような価値観で持って記事を選び出し、乗せているかの広報をするべきであって、公正中立を装って、特定の個人、団体の後押しをするような報道は、大衆をミスリードすることになりかねない。広く一般大衆に、思想なり情報なりを伝えるという意味では、宗教団体もマスコミも変わらない。であるならば、マスコミも、如何なる思想信条に基づいて、これを報道している、という看板を掲げるべきであって、それすらないのであれば、マスコミは、自らの教えを高く掲げる宗教以下の存在であることを、自ら宣言していることになる。

 

 別に、今のマスコミ全てに対して愛国心を持てとは言わない。だけど、反日思想を持っているのなら、自分は反日なのだ、とはっきり宣言してから、そうした記事を出すべきであるとは思う。そうすれば、読むほうも、そうだと覚悟してから読むし、最初から読む価値がないと判断することもできる。売買の時点でそうした判断が入るから、必然的に市場原理が働くことになる。その意味において、宗教や各種教育制度、そしてマスコミがしっかりとして在って、それらが常に正しさを追求しながら、お互いに切磋琢磨できる社会であることが、民主国家にとっては何よりも大切なこと。

 

 民主国家は、政治だけでなく、宗教やマスコミなどの価値観や情報の大衆普及手段が、共に正しく機能して始めて、健全な国家を構築することが可能になる。

 


経済大国の責任

 政府が弾圧などの強権を発動しなくても、信教の自由、表現の自由に制約を課すことは簡単にできる。宗教法人税や電波利用料を引き上げてしまえばいい。宗教法人を含む公益法人は、一般事業が利益を獲得する活動とは異なるという趣旨から、収益事業にのみ課税し、その税率も、一般事業の税率より低く設定されている。また、電波利用料に関しても、2007年時点の調査だけど、電波使用料収入総額に対して、テレビ局の占める割合が僅か1%強しかないことから、安すぎるのではないか、と非難の声も上がってる。

 

 確かに、普通の企業と比べて随分優遇されている。もしこれが、普通の企業並みに引き上げたら、相当数の宗教団体が無くなるだろうし、放送局もいくつか姿を消すだろう。税金を普通の企業並みにする、ということは、普通の企業並みの利益を出さないと、教団や放送局を維持できなくなるということを意味する。そうなると、必然的に「布施や浄財を沢山集めることができる」宗教や「人気があって、視聴率の取れる番組」だけを流す放送局しか残らなくなってしまう。

だけど、お金を沢山集められる宗教や、視聴率だけあるテレビ局が、いつも「正しい」とは限らない。

 

 「正しい」考えや優れた見識は、「価値」を生む。正しい考えに基づいた企業活動は、その社会のトレンドや正義に合致しているから、安定した利益を生みだすし、優れた見識を取り入れた政治は、道を誤ることがない。もちろん、その「正しさ」自体は、時代によって変遷するから、今、利益を生んでいても、未来永劫それで利益が得られるとは限らない。企業経営者が口を酸っぱくして、イノベーションと言い続けるのも、価値を生む考え方が次々と考えだされ、市場を創り、リードしてゆくから。

 

 だけど、イノベーションを伴う斬新な考えは、世の中一般に「正しい」とされる考えに逆らうことが多いから、風当たりが強くなるのが普通。だけど、もし、その新しい考えが次の時代を予期させ、先取りするようなものであれば、やがて、世の中が認め、それが当たり前になってゆく。時代の先駆者はいつもそうした風当たりをものともせずに改革をしていったことも事実。

 

 次の時代の萌芽は、現在ただ今の中にある、とは良く言われることだけれど、萌芽の段階では、ほとんどの人はそれに気付かない。そうしたとき、その萌芽を含んだ考えに基づいた公益団体なり、何なりに重税を課せば、簡単に潰れてしまう。萌芽の段階でそれに気づく人が少ないが故に、その団体を経済的に支える力は弱いから。そうした「考え」を打ち出す最たるものが、宗教団体とか、報道機関。尤も、宗教団体と報道機関の打ちだす考えには、少しその性格に違いがある。

 

 宗教団体は過去に説かれ、時代の波に揉まれながらも、今に伝わる伝統的価値や、新興宗教に見られるように、現代にマッチして未来に繋がる価値、つまり時間軸方向に過去や未来に伸びる価値を打ち出す傾向が強い。一方、報道機関は世の中を広くサーチしながら、一般的な報道もする一方、普段はなかなか陽の当らない対象を見出し、クローズアップしたりするという空間軸方向で価値を探し出して報道する特徴がある。

 

 宗教団体でも、報道機関でも、そうした、「考え」を見出し、広く普及させるが故に「公益」があるとみなされるのだろう。だから、「考え」に重税を課すということは、そうした小さな芽を次々と摘み取ってしまうことに成りかねない。要は、「考え」にお金を払ってくれるという、存在なり、パトロンなりがいないと、未来の可能性を潰すことに繋がる、ということ。これは、文化でも同じ。もちろん、その低率な税という特権を逆手にとって、間違った考えや報道を普及させてしまうことで、世の中を間違った方向に導くことも在り得る。「表現の自由」は自由として、保証されているものだけれど、その自由の行使にあたって、責任が付随することは至極当然のこと。

 

 つまり、間違った事を表現し、それによって誰かに迷惑を掛けた場合には、当然、それ相応の罰則なりなんなり、しかるべき処置を甘受しなきゃいけない。これまでのように、間違った報道に関して、形ばかりの訂正記事を隅っこに出してハイおしまい、といったやり方はもう通用しなくなってきている。昨年の毎日新聞WaiWai問題がそれを物語っている。

 

 証券会社がインサイダー取引かなにかで行政指導をうけて、何日間かの業務停止命令を受けたりすることがあるように、間違った報道には、放送停止命令を出して、一週間かそこら放送できないようにするとかしないと、もはや世間は納得しないのではないかと思う。そんな放送局には、いずれスポンサーも離れてゆくだろうし、それこそ市場原理が強力に働く。だけど、「考え」は目に見えないし、手に取ることも、食べることもできない。「考え」だけでは空腹は満たせない。

 

 だから、「考え」にお金を払うことができる、という国は、普通は経済的に豊かな大国が中心になる。だけど、もし、その経済大国で生まれた文化なり、考えや思想なりが、その後の何十年、何百年をリードするものであったとしたら、その芽を摘んでしまうことの損失は計り知れない。何がしかの「考え」が、その後の世界を支える原動力になる程のものであったとしたら、その「考え」を有する国は、かけがえのない宝、全人類を照らす光を持っているということになる。

 

 つまり、現在ただ今の、経済大国には、それだけの責任があるということ。経済大国は、その国ただ一国の国益だけでなくて、世界全体をも潤す価値を生む可能性がある。それが、経済大国が経済大国として存在することを許される条件なのではないかとさえ。

 

 「考え」が価値を生む、ということに賛同できるのであれば、例えそれが乱立であったとしても「考え」を守り、競争させ、それらを互いに磨いてゆくことが大切。それが未来への国力の源泉となる。そして、それは世界を支える力へと飛翔する。

 


 

 

 

第三章 世襲と民主主義のコスト



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