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正義と正義のぶつかり合い

 神の言葉であれ、そうでないものであれ、それに基づいて、現体制から変革を行った場合、その是非の結論がでるまでは、ある程度、時間がかかる。それは正義の決まり方に起因している。何某かの主張同士がぶつかるとき、どちらに正義があるかなんて、その場ではなかなか分からない。どちらも自分こそが正義だと主張しているし、どちらの言い分にもそれなりの理があるように思えるもの。そうして主義と主義がぶつかりあい、やがて、力と力のぶつかりあいになって、最後には力の強い方が勝利を収めることになる。

 

 だけど、その勝った方が正義であるかどうかは、やはりある程度の時間が必要で、その後に、そこに顕れてくる世界、そこに住む人々がその世界に納得し、満足し、結果として幸せを得たかどうかに大きく左右される。その後の世界が幸福であれば、あれは正義だったとなるし、そうでなければ、その逆に傾いてゆく。たとえば、明治維新なんかは、幕府側からみれば、下級武士のクーデターであって、当然鎮圧の対象だった。新撰組はせっせと反幕府勢力を取り締まっていた。当時は勤皇だ、左幕だ、いやいや開国だ、とかいろんな主張が交わされていて、どれが正しい道だったかどうかなんて、なかなか分からなかっただろうと思う。

 

 だけど、結局、幕府は倒れ、明治新政府が出来て日本は開国した。今では、明治維新は正義ではない、と主張する人はほとんど見かけない。それは明治維新によって、その後の日本が発展し、結果として人々が幸せに暮らせるようになったから。もし、明治維新後の日本が悲惨なものだったとしたら、幕府再興運動かなんか起きていたかもしれない。今だったら、たとえば、イラク戦争なんかはそうかもしれない。イスラム社会では、コーランがそのまま憲法にもなり、社会秩序を規定するものだから、民主国家と比べてもずっと、祭政一致、政教一体の社会になっている。それに対して、アメリカはイラク戦争を行なって、民主主義という楔を打ち込んだ。

 

 現実には、石油利権の絡みがあって、ドル基軸体制の維持のため、というこの世的な理由があったにせよ、思想的にみれば、預言者兼政治家が、神の教えに従って作った社会に対して、そうではないと民主主義が戦いを挑んだ姿のように見える。預言者が政治を司ることを是とする正義と、民主的に選ばれたものが政治を司るべきだ、という正義同士がぶつかった構図がそこにある。2003年に始まったイラク戦争は、2010年8月31日にようやく正式に終結宣言がなされたばかりで、あの戦争のどちらに正義があったのかどうかはっきりとは分からない。現時点で、はっきりしているのは、フセイン大統領を除いて暫定政権を経て、イラク人による新政府が発足したこと。この政府がどういう政治を行うか、アメリカが置いて行った民主主義の考えがイラクの人々に幸福をもたらすかによって、あの戦争が正義だったのかどうか、時とともに見えてくるようになるのだろう。そして、その時には、預言者兼政治家による政治と、民主主義による政治のどちらが良いのかの判定が下されることになる。


権力を与えるもの

 預言者は神が選ぶけれど、民主国家では、政治家は民衆が選ぶ。王侯貴族などのように生まれながらにして、神から王権を授かった人物が権力を握る社会と、民衆一人一人の総意によって権力を与える社会とでは、その権力を与える主体が異なっている。この権力を与える主体が誰になるか、という一点が、権力の専横を許すか許さないかを分ける鍵になる。

 

 その国の権力、すなわち王である権利は神が授けるものである、とする政体は、いわば預言者が政治家になるようなもので、その政治家に逆らうことは神への反逆になる。確かに、その政治家が真に神の代理人であり、神の声を預かるような人であれば、それこそ、素晴らしい政治をするだろうと予想される。だけど、暗愚な君主で側近に操られ利用されたり、暴君であったりした場合には、最悪の治世となることは火を見るより明らか。だから、権力を与える主体が、極々一部の者しか持っていない社会は、そうしたリスクを抱えている。

 

 そのようなリスクを回避する手立てを、システムとして持たせたのが民主主義。民主国家では、政治家は民衆が選ぶから、多数の民衆の人心を掴んだものしか、政治家として選出されることはない。民衆は数も多くて、いろいろな考えを持っているものだから、その意見は互いに牽制され、総体としてみれば、大抵は、最上ではないにせよ、最悪ではないところに落ち着いてゆく。だから、たとえ、民主選挙における候補者が、何某かの宗教信者だったり、宗教家だったとしても、それとは関係のない人も含めた、大多数の民衆の支持を集めないかぎり、絶対に当選できないシステムになっている。 つまり、民主国家では、宗教が政治に直接参加したくても、その宗教自身が、多数の国民の支持を集めるものでない限り、それは不可能である、ということ。

 

 もちろん、政治家たちに多くの献金をすることで、間接的に政治に大きな影響力を発揮することは可能なのだけれど、それとて、その肝心の献金をするためには、多くの浄財なり布施なりを集めなければいけないから、多くの信者やシンパが必要になる。つまるところ、大多数の民衆の支持が必要になることに変わりはない。

 


信教の自由と政教分離の原則

 世の中一般に通用している正義と宗教の説く正義がぶつかるとき、その場での勝敗は何某かの結果となって現われる。この世において、権力と権威が戦えば、普通は権力側が勝つことになっている。武力を掌握しているのは権力側だから、当然そうなる。民主国家においては、法の下の平等、すなわち国民の自由意思は、最大限尊重されなければならない。故に、「信教の自由」が保障されているのだけれど、その自由は当然、他の何物にも侵害されることはあってはいけない。むろん、その自由が他人の自由を脅かすものであれば、それは当然制約の対象になる。国民一人一人の自由意思を互いに尊重し合うのが前提での話。

 

 本当は、他人の心は自由にできないものだから、「信教の自由」そのものを侵害することはできない筈なのだけれど、権力が「信教の自由」の表明を出来なくさせることはできる。たとえば、国家権力か何かで、ある特定の宗教を弾圧してしまえば、社会的にその宗教は抹殺できるし、その宗教の信者を片っ端から捕まえてしまえば、社会的にその宗教に対する信仰の表明はできなくなる。要は、「信教の自由」といっても、権力なり武力によって、特定の団体なり宗教なりを、いつでも社会的に抹殺できてしまう危険があるということ。中国共産党が、法輪功に対してやっていることは、正にこれ。

 

 これを許してしまっては、民主国家は成り立たない。だから、民主国家には、国家権力がいかなる宗教・宗派を弾圧したり、特定の宗教や団体を強要または規制してはならない、という取り決めが必要になる。それが、いわゆる「政教分離の原則」と呼ばれるもの。今の民主国家の多くは、権力が宗教を押しつぶすことを防ぐ為に、法律としてそれを禁止している。戦前の日本では、神道を国家神道にして、廃仏毀釈をしたことがあるけれど、今の憲法では、それは禁止されている。逆にいえば、個人が自主的に何かの宗教を信仰するのは、その限りではないし、その宗教団体が政治的主張をするのも別に構わない。「信教の自由」と「表現の自由」、そして、「思想結社の自由」によって、それは保障されている。

 

 政教分離の原則に従えば、仮にどこかの宗教政党が第一党になって国政担ったとしても、自分の宗教以外の宗教を弾圧することはあってはならない。それが守られる限り、民主国家は成立する。宗教政党が国政に参加するとなった途端に、全体主義に陥る危険がある、と警戒する人は、おそらく、この点を気にしているものと思われる。

 


カルトが嫌われる理由

 今の日本で、いわゆるカルト教団が嫌われる理由は、その偏狭性にある。自分以外は信じてはならない、とか、自分達だけが正しくて、他は皆間違っているのだ、とかいう心の狭さと、自分の教団に次々と信者を引っ張りこもうという姿勢が嫌われている。民主国家の前提である、法の下の平等を基準にすれば、いかなる教団であれ「来るものは拒まず、去るものは追わず」でないといけない。でないと、個人の自由意思を尊重していることにはならない。

 

 ところがカルトは、来たくない者でも引きずり込み、去る者は、地の果てまで追いかける。こうした態度が応々にして見受けられるし、実際そう思われている。そこが嫌われている理由。要は、自分の意思と関係なく、何かの主張なり思想なりを押し付けられることを警戒し、拒絶する気持ち。それがカルトが忌避される根本にある。だけど、この「思想の押し付け」という行為は、政教分離規定で禁止されているところの、国家による何某かの信仰の押し付け、または弾圧と構造的にはなんら変わらない。だから、個人の自由意思の尊重、「信教の自由」という規定が、いかに民主国家としての根本を支えているかということを、国民一人一人が、しっかりと自覚しなきゃいけない。「信教の自由」に対する理解が広がれば広がるほど、権力の専横を防いでゆく力になるから。したがって、民主国家においては、カルト教団が自らの教えを布教すればするほど、自らの在り方を変えざるを得なくなる。カルトはカルトであるが故に、ごく一部の人達の支持しか集めることしかできないから、そのままでは、国民全部を信者にするのは難しい。他人の自由意志を尊重すればするほど、自らの偏狭性を捨てなくてはならなくなる。

 

 カルトが自身の偏狭性を捨て去れば、それは、もはやカルトでは無くなってくる。更に、その教えに普遍性があれば、時代を超えて教えが伝えられ、広がり、やがて世界宗教へと成長してゆくことも在り得る。だから、民主国家において、もし何かの宗教政党が第一党になるくらい支持を集めることがあるとしたら、もうそれは、かなりの部分はカルトではない、と考えてもいいのではないかと思う。創価学会を支持母体とする公明党が、結党以来40年以上たっても未だに第一党になれない現状を考えると、日本において、ある特定の思想団体が、いくら多くの日本人の支持を集めようと試みたとしても、それがどれほど困難な事であるのか良く分かる。


政治の役目

 政治の役目は、なんといっても国民の命を安んずること。国民の生命および財産を守ることを第一の使命とする。そうして国を定めた上で、その土台の上に、経済・教育・文化がある。だけど、民主国家が、その国の繁栄を築く上において、民主であるが故に重要となる条件がある。教育の問題がそれ。

 

 読み書き・算盤といった基本的な教育は兎も角として、躾を含めて、教育というものを行う限り、何某かの価値観を教え、伝えることになるのは殆ど避けられない。普通、国家によって教育される価値観は、その国の伝統であったり、今の世の中で通用し、常識とされているものになるのだけれど、その肝心の価値観そのものが、民主国家の行く末を決めてゆく。なぜなら、教育を受けた青少年はやがて、成人して選挙権を持ち、各々一票を与えられることになるから。国家が何某かの主義を下に国民に教育を行なうと、何年、何十年後にはその影響が社会全般に出てきて、政治にも反映されるようになる。

 

 だから、国家における教育というものは、もちろん、その時、その社会において、最も正しいだろう、と思われるものについて慎重に精査して教えることにならざるを得ない。それは教育の目的にも依るのだけれど、基本的に、教育は、その社会で自立して、独力で生きていく力を身につけさせる、という目的で行われるものだから、その時、その社会に一番適合する価値観を教えるのは必然だといえる。だけど、思想・主義において、一番の問題は、その正しいだろう、という思想や主義が未来永劫に渡って「正しい」とされるとは限らないということ。その主義・思想が、何処まで、何時まで正しいのか、という中身は、国家を大きく左右する。

 

 これは、正義の問題とも絡んでくるのだけれど、この世における「正しさ」自体が、時代の趨勢や国際環境の影響を受けて、圧力を受けたり、変化したりすることに起因している。ここ百年くらいを眺めてみても、植民地を是とした正義があり、共産主義が良しとされた時代があり、今や、資本主義に疑念が持たれ、保護主義的考え方が勢力を増しつつある。正義なんて時代ごとにコロコロ代わってる。

 

 だから、国家は、国民に基本的なことを教えたら、後は、本人が独力で考えを修正したり、転向したりできるような「材料や環境」を出来る限り整えておくことが望ましい。仮に、マルクス主義思想を持っていた人であっても、それを否定せず、また、いつでも転向できるように、本なり、教育機関なりで、自由主義の考えを学習できる機会を提供したりできていれば、「正しさ」自体が時代とともに変遷しても、個人レベルで思想の修正をしていくことが可能になる。

 

 何某かの教育に対して反対できる人がいるということは、そうではない教育を受けているか、そうではない情報を得て、自らの考えを変えることができる環境があるということを意味してる。特亜のプロパガンダを受けて育ったけれど、ネットの情報やその他の本を読んで洗脳が解けたという人だって沢山いる。

 

 カルト教団に入っている人を称して「洗脳されている」とは、まま言われることでもあるけれど、穿った見方をすれば、教育だって洗脳の一種だ、といえなくもない。戦前・戦中派の人たちが、戦後教育で、大きなショックを受けたというのも、戦前教育の洗脳が解けただけなのだという解釈だってできるし、隣国の反日教育なんかは、日本から見れば、それこそ「洗脳している」ように見える。だから、その国の教育を正しいものにできるかどうかは、つまるところ、宗教なり思想や主義なりが乱立していたとしても、それを無闇に否定したり弾圧したりせずに、むしろ切磋琢磨させてゆく中で、より正しい考えを内包していって、また同時に、そうしたものに触れられる機会をどこまで提供できるか、という問題に帰着するのだと思う。これも、結局は、「信教の自由」を如何に保障してゆくかという問題と軌を一にする。



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