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第二章 政治と宗教

 

 

 

第二章 政治と宗教


認識のギャップ

 政治と宗教について考えてみたい。宗教の定義について、WEB辞書で引くと次のようになっている。


・しゅうきょう1 [宗教]
神仏を信仰し,幸福を求めようとする教え. (派)(~)的
  「三省堂 Web辞典:
http://www.sanseido.net/User/Dic/Index.aspx

・しゅうきょう ―けう 1 【宗教】
(1)神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。
(2)〔religion〕経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから、ユダヤ教・バラモン教・神道などの民族宗教、さらにキリスト教・仏教・イスラム教などの世界宗教にいたる種々の形態がある。
  「Goo辞書:
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/

 

 要は、目に見えず、理解の外にある存在、いわゆる、神様的存在に価値を見出し、信じることで安らぎを得、幸福を求める体系のこと、となっている。これは、非常にこの世的というか、無神論的立場でみた定義にも見えなくはないのだけれど、今回はこの定義から話を進めてみたい。

 

 宗教というと、よくカルトであるとか、自分は信じてないから、とかいう人も多いけれど、おそらくは、その人の宗教に対する感覚は、「宗教をやっている人は、神様だの、仏様だの、目に見えないものを信じることで、心のやすらぎを「勝手に」得て満足しているだけだ。そうした人が入信するのが「宗教」なのだ。」というものではないかと思う。あんなのは、心の弱い人がすがるものなのだ、と。

 

 ところが、敬虔な宗教信者にしてみれば、「本物の信仰によって、真に心が解放され、魂は救済されるのです。貴方達は、思い通りに勝手に生きているように思っているかもしれませんが、その信仰なき生は、地獄の門の前に立っているということを知らなければなりません。」という具合に見えているのではないかと思う。つまり、救われるべきは、信仰なき貴方達の方なのだ、と。この時点で、既に双方の認識が随分と異なっている。

 

 したがって、政治と宗教を考えるにあたって、日本に限ってみれば、宗教を信仰する人とそうでない人の間には、こうした深い認識のギャップがあると予想される所から出発しなきゃいけない。

 


政治家と預言者

 宗教が実際に、何を教えているのかといえば、新興宗教は兎も角として、伝統的宗教、たとえば、仏教であれば、執着を去って、煩悩を滅却する教えであったり、キリスト教であれば、信仰と愛の教えであったり、多少、教えに違いはあるにせよ、大枠でみれば、善悪を教えて、心を正し、魂を救済する教えであるように見える。そして、実際にそういう認識である人は多いと思う。政治と宗教は別だ、という考えの根拠もこの辺りにあると思われる。つまり、宗教は人の心を癒してさえいれば良いのだ、現実社会には口を出すべきではない、と。

 

 だけど、政治的指導者でありながら、宗教家でもあった例は歴史上存在している。たとえば、モーゼとか、マホメットだとかはそう。モーゼはエジプトの奴隷を解放してカナンの地に向かったし、マホメットは幾多の戦闘の後に、一度は脱出したメッカを奪回した。だから、この世的に見ても、モーゼやマホメットは、政治家であるようにも見える。少なくとも政治家的側面、軍事的資質を持っていたことは確か。当時のエジプトの王から見れば、モーゼはイスラエル人の指導者だし、当時のメッカを支配する人たちからみれば、マホメットは反乱軍の首領。

 

 ところが、モーゼはシナイ山で神から十戒を授けられているし、マホメットはアラーの神から啓示を受けた。そして、それに基づいて神の教えを説いている。だから、神の言葉を預かる人、所謂、預言者を宗教家の範疇に含めていいのであれば、政治家と宗教家が同一人物になることは、十分在り得る話。もしも、そうした人物が、一国の王であったり、大統領であった場合は、政教一致、祭政一致の政治が行われることになる。要は、政治家が神の啓示を受けて預言者となった場合、それでもなお政治家として認めて国政を委ねるかどうかが、祭政一致を是とするかどうかの分かれ目になる、ということ。

 

 もしも、それを是とするならば、政治的指導者が、何某かの啓示を受けて預言者となった場合には、マホメットの例を取るまでもなく、神の教えに従って、具体的にこの世を改革して、世直しを行ってゆく可能性は極めて高い。そして、その人物は、魂だけでなく、この世の生命をも救済していくことになる。だけど、そこには大切な観点がある、それは、その神から預かった言葉に従って、世の中を変革してゆく場合に、その預言が、真に神のものであるか、そうでないかは、余人にはなかなか分からない、ということ。

 

 イエスでさえ、当時の律法学者と度々論争している。当時は律法こそが守るべき戒律で正しい道だった。律法学者を公然と批難したイエスは、当時の権威に対する挑戦者だった。預かった言葉が、本当に神からのもので、それに従って社会をつくることで人々が幸せになるのであれば、それで良いのかもしれないけれど、そうでなかった場合は悲惨なことになる。彼の預言は、神の言葉かもしれないけれど、そうでないかもしれない。そのようなリスク込みで預言者でもある政治家に国政を委ねるのかどうかという問題がそこにはある。


正義と正義のぶつかり合い

 神の言葉であれ、そうでないものであれ、それに基づいて、現体制から変革を行った場合、その是非の結論がでるまでは、ある程度、時間がかかる。それは正義の決まり方に起因している。何某かの主張同士がぶつかるとき、どちらに正義があるかなんて、その場ではなかなか分からない。どちらも自分こそが正義だと主張しているし、どちらの言い分にもそれなりの理があるように思えるもの。そうして主義と主義がぶつかりあい、やがて、力と力のぶつかりあいになって、最後には力の強い方が勝利を収めることになる。

 

 だけど、その勝った方が正義であるかどうかは、やはりある程度の時間が必要で、その後に、そこに顕れてくる世界、そこに住む人々がその世界に納得し、満足し、結果として幸せを得たかどうかに大きく左右される。その後の世界が幸福であれば、あれは正義だったとなるし、そうでなければ、その逆に傾いてゆく。たとえば、明治維新なんかは、幕府側からみれば、下級武士のクーデターであって、当然鎮圧の対象だった。新撰組はせっせと反幕府勢力を取り締まっていた。当時は勤皇だ、左幕だ、いやいや開国だ、とかいろんな主張が交わされていて、どれが正しい道だったかどうかなんて、なかなか分からなかっただろうと思う。

 

 だけど、結局、幕府は倒れ、明治新政府が出来て日本は開国した。今では、明治維新は正義ではない、と主張する人はほとんど見かけない。それは明治維新によって、その後の日本が発展し、結果として人々が幸せに暮らせるようになったから。もし、明治維新後の日本が悲惨なものだったとしたら、幕府再興運動かなんか起きていたかもしれない。今だったら、たとえば、イラク戦争なんかはそうかもしれない。イスラム社会では、コーランがそのまま憲法にもなり、社会秩序を規定するものだから、民主国家と比べてもずっと、祭政一致、政教一体の社会になっている。それに対して、アメリカはイラク戦争を行なって、民主主義という楔を打ち込んだ。

 

 現実には、石油利権の絡みがあって、ドル基軸体制の維持のため、というこの世的な理由があったにせよ、思想的にみれば、預言者兼政治家が、神の教えに従って作った社会に対して、そうではないと民主主義が戦いを挑んだ姿のように見える。預言者が政治を司ることを是とする正義と、民主的に選ばれたものが政治を司るべきだ、という正義同士がぶつかった構図がそこにある。2003年に始まったイラク戦争は、2010年8月31日にようやく正式に終結宣言がなされたばかりで、あの戦争のどちらに正義があったのかどうかはっきりとは分からない。現時点で、はっきりしているのは、フセイン大統領を除いて暫定政権を経て、イラク人による新政府が発足したこと。この政府がどういう政治を行うか、アメリカが置いて行った民主主義の考えがイラクの人々に幸福をもたらすかによって、あの戦争が正義だったのかどうか、時とともに見えてくるようになるのだろう。そして、その時には、預言者兼政治家による政治と、民主主義による政治のどちらが良いのかの判定が下されることになる。


権力を与えるもの

 預言者は神が選ぶけれど、民主国家では、政治家は民衆が選ぶ。王侯貴族などのように生まれながらにして、神から王権を授かった人物が権力を握る社会と、民衆一人一人の総意によって権力を与える社会とでは、その権力を与える主体が異なっている。この権力を与える主体が誰になるか、という一点が、権力の専横を許すか許さないかを分ける鍵になる。

 

 その国の権力、すなわち王である権利は神が授けるものである、とする政体は、いわば預言者が政治家になるようなもので、その政治家に逆らうことは神への反逆になる。確かに、その政治家が真に神の代理人であり、神の声を預かるような人であれば、それこそ、素晴らしい政治をするだろうと予想される。だけど、暗愚な君主で側近に操られ利用されたり、暴君であったりした場合には、最悪の治世となることは火を見るより明らか。だから、権力を与える主体が、極々一部の者しか持っていない社会は、そうしたリスクを抱えている。

 

 そのようなリスクを回避する手立てを、システムとして持たせたのが民主主義。民主国家では、政治家は民衆が選ぶから、多数の民衆の人心を掴んだものしか、政治家として選出されることはない。民衆は数も多くて、いろいろな考えを持っているものだから、その意見は互いに牽制され、総体としてみれば、大抵は、最上ではないにせよ、最悪ではないところに落ち着いてゆく。だから、たとえ、民主選挙における候補者が、何某かの宗教信者だったり、宗教家だったとしても、それとは関係のない人も含めた、大多数の民衆の支持を集めないかぎり、絶対に当選できないシステムになっている。 つまり、民主国家では、宗教が政治に直接参加したくても、その宗教自身が、多数の国民の支持を集めるものでない限り、それは不可能である、ということ。

 

 もちろん、政治家たちに多くの献金をすることで、間接的に政治に大きな影響力を発揮することは可能なのだけれど、それとて、その肝心の献金をするためには、多くの浄財なり布施なりを集めなければいけないから、多くの信者やシンパが必要になる。つまるところ、大多数の民衆の支持が必要になることに変わりはない。

 


信教の自由と政教分離の原則

 世の中一般に通用している正義と宗教の説く正義がぶつかるとき、その場での勝敗は何某かの結果となって現われる。この世において、権力と権威が戦えば、普通は権力側が勝つことになっている。武力を掌握しているのは権力側だから、当然そうなる。民主国家においては、法の下の平等、すなわち国民の自由意思は、最大限尊重されなければならない。故に、「信教の自由」が保障されているのだけれど、その自由は当然、他の何物にも侵害されることはあってはいけない。むろん、その自由が他人の自由を脅かすものであれば、それは当然制約の対象になる。国民一人一人の自由意思を互いに尊重し合うのが前提での話。

 

 本当は、他人の心は自由にできないものだから、「信教の自由」そのものを侵害することはできない筈なのだけれど、権力が「信教の自由」の表明を出来なくさせることはできる。たとえば、国家権力か何かで、ある特定の宗教を弾圧してしまえば、社会的にその宗教は抹殺できるし、その宗教の信者を片っ端から捕まえてしまえば、社会的にその宗教に対する信仰の表明はできなくなる。要は、「信教の自由」といっても、権力なり武力によって、特定の団体なり宗教なりを、いつでも社会的に抹殺できてしまう危険があるということ。中国共産党が、法輪功に対してやっていることは、正にこれ。

 

 これを許してしまっては、民主国家は成り立たない。だから、民主国家には、国家権力がいかなる宗教・宗派を弾圧したり、特定の宗教や団体を強要または規制してはならない、という取り決めが必要になる。それが、いわゆる「政教分離の原則」と呼ばれるもの。今の民主国家の多くは、権力が宗教を押しつぶすことを防ぐ為に、法律としてそれを禁止している。戦前の日本では、神道を国家神道にして、廃仏毀釈をしたことがあるけれど、今の憲法では、それは禁止されている。逆にいえば、個人が自主的に何かの宗教を信仰するのは、その限りではないし、その宗教団体が政治的主張をするのも別に構わない。「信教の自由」と「表現の自由」、そして、「思想結社の自由」によって、それは保障されている。

 

 政教分離の原則に従えば、仮にどこかの宗教政党が第一党になって国政担ったとしても、自分の宗教以外の宗教を弾圧することはあってはならない。それが守られる限り、民主国家は成立する。宗教政党が国政に参加するとなった途端に、全体主義に陥る危険がある、と警戒する人は、おそらく、この点を気にしているものと思われる。

 


カルトが嫌われる理由

 今の日本で、いわゆるカルト教団が嫌われる理由は、その偏狭性にある。自分以外は信じてはならない、とか、自分達だけが正しくて、他は皆間違っているのだ、とかいう心の狭さと、自分の教団に次々と信者を引っ張りこもうという姿勢が嫌われている。民主国家の前提である、法の下の平等を基準にすれば、いかなる教団であれ「来るものは拒まず、去るものは追わず」でないといけない。でないと、個人の自由意思を尊重していることにはならない。

 

 ところがカルトは、来たくない者でも引きずり込み、去る者は、地の果てまで追いかける。こうした態度が応々にして見受けられるし、実際そう思われている。そこが嫌われている理由。要は、自分の意思と関係なく、何かの主張なり思想なりを押し付けられることを警戒し、拒絶する気持ち。それがカルトが忌避される根本にある。だけど、この「思想の押し付け」という行為は、政教分離規定で禁止されているところの、国家による何某かの信仰の押し付け、または弾圧と構造的にはなんら変わらない。だから、個人の自由意思の尊重、「信教の自由」という規定が、いかに民主国家としての根本を支えているかということを、国民一人一人が、しっかりと自覚しなきゃいけない。「信教の自由」に対する理解が広がれば広がるほど、権力の専横を防いでゆく力になるから。したがって、民主国家においては、カルト教団が自らの教えを布教すればするほど、自らの在り方を変えざるを得なくなる。カルトはカルトであるが故に、ごく一部の人達の支持しか集めることしかできないから、そのままでは、国民全部を信者にするのは難しい。他人の自由意志を尊重すればするほど、自らの偏狭性を捨てなくてはならなくなる。

 

 カルトが自身の偏狭性を捨て去れば、それは、もはやカルトでは無くなってくる。更に、その教えに普遍性があれば、時代を超えて教えが伝えられ、広がり、やがて世界宗教へと成長してゆくことも在り得る。だから、民主国家において、もし何かの宗教政党が第一党になるくらい支持を集めることがあるとしたら、もうそれは、かなりの部分はカルトではない、と考えてもいいのではないかと思う。創価学会を支持母体とする公明党が、結党以来40年以上たっても未だに第一党になれない現状を考えると、日本において、ある特定の思想団体が、いくら多くの日本人の支持を集めようと試みたとしても、それがどれほど困難な事であるのか良く分かる。


政治の役目

 政治の役目は、なんといっても国民の命を安んずること。国民の生命および財産を守ることを第一の使命とする。そうして国を定めた上で、その土台の上に、経済・教育・文化がある。だけど、民主国家が、その国の繁栄を築く上において、民主であるが故に重要となる条件がある。教育の問題がそれ。

 

 読み書き・算盤といった基本的な教育は兎も角として、躾を含めて、教育というものを行う限り、何某かの価値観を教え、伝えることになるのは殆ど避けられない。普通、国家によって教育される価値観は、その国の伝統であったり、今の世の中で通用し、常識とされているものになるのだけれど、その肝心の価値観そのものが、民主国家の行く末を決めてゆく。なぜなら、教育を受けた青少年はやがて、成人して選挙権を持ち、各々一票を与えられることになるから。国家が何某かの主義を下に国民に教育を行なうと、何年、何十年後にはその影響が社会全般に出てきて、政治にも反映されるようになる。

 

 だから、国家における教育というものは、もちろん、その時、その社会において、最も正しいだろう、と思われるものについて慎重に精査して教えることにならざるを得ない。それは教育の目的にも依るのだけれど、基本的に、教育は、その社会で自立して、独力で生きていく力を身につけさせる、という目的で行われるものだから、その時、その社会に一番適合する価値観を教えるのは必然だといえる。だけど、思想・主義において、一番の問題は、その正しいだろう、という思想や主義が未来永劫に渡って「正しい」とされるとは限らないということ。その主義・思想が、何処まで、何時まで正しいのか、という中身は、国家を大きく左右する。

 

 これは、正義の問題とも絡んでくるのだけれど、この世における「正しさ」自体が、時代の趨勢や国際環境の影響を受けて、圧力を受けたり、変化したりすることに起因している。ここ百年くらいを眺めてみても、植民地を是とした正義があり、共産主義が良しとされた時代があり、今や、資本主義に疑念が持たれ、保護主義的考え方が勢力を増しつつある。正義なんて時代ごとにコロコロ代わってる。

 

 だから、国家は、国民に基本的なことを教えたら、後は、本人が独力で考えを修正したり、転向したりできるような「材料や環境」を出来る限り整えておくことが望ましい。仮に、マルクス主義思想を持っていた人であっても、それを否定せず、また、いつでも転向できるように、本なり、教育機関なりで、自由主義の考えを学習できる機会を提供したりできていれば、「正しさ」自体が時代とともに変遷しても、個人レベルで思想の修正をしていくことが可能になる。

 

 何某かの教育に対して反対できる人がいるということは、そうではない教育を受けているか、そうではない情報を得て、自らの考えを変えることができる環境があるということを意味してる。特亜のプロパガンダを受けて育ったけれど、ネットの情報やその他の本を読んで洗脳が解けたという人だって沢山いる。

 

 カルト教団に入っている人を称して「洗脳されている」とは、まま言われることでもあるけれど、穿った見方をすれば、教育だって洗脳の一種だ、といえなくもない。戦前・戦中派の人たちが、戦後教育で、大きなショックを受けたというのも、戦前教育の洗脳が解けただけなのだという解釈だってできるし、隣国の反日教育なんかは、日本から見れば、それこそ「洗脳している」ように見える。だから、その国の教育を正しいものにできるかどうかは、つまるところ、宗教なり思想や主義なりが乱立していたとしても、それを無闇に否定したり弾圧したりせずに、むしろ切磋琢磨させてゆく中で、より正しい考えを内包していって、また同時に、そうしたものに触れられる機会をどこまで提供できるか、という問題に帰着するのだと思う。これも、結局は、「信教の自由」を如何に保障してゆくかという問題と軌を一にする。


政治と宗教の役割分担

 昔は、宗教が政治の代わりをしていた部分があった。インフラが整備されていなかったり、教育機関や医療が十分でなかったり、つまり政治の力が国中に行きとどかなかった時代には、僧侶や寺院がその役目の一部を担っていた。弘法大師は「満濃池」と呼ばれる日本最大の溜池を修築しているし、寺子屋では読み書き・算盤を教えていた。

 

 なぜそんなことができたかと言えば、宗教は、教団という独自の組織を持ち、布施や浄財を集めることができたから。ある意味、民主組織の草分けだといえるのかもしれない。だけど、時代が下って、世の中が発達してくると、世の中が専門分化して、より複雑になっていって、世の中を支えるために、専門家が沢山必要とされるようになってきた。

 

 また経済の発達によって、政治の力でインフラや教育制度が整うようになってくると、そうしたこの世的な、肉体生命を維持する部分は、どんどん政治が面倒を見るようになって、宗教は、心の教えだけを説けるようになってきた。ある意味において、政治と宗教の役割分担が明確になってきたとも言える。だから、政治が本当の意味でしっかりしていて、国民が安心して暮らせる社会が出来ていると、宗教は、別に政治に口出しなんかせずに、安心して心の教えだけを説いていればいい。

 

 尤も、現代のように科学技術や社会システムが進んで、専門分化して高度化してしまった社会に対して、宗教が政治的な提言を行うことは、なかなか出来ない事も事実。宗教が各分野の専門家を、信者として大量に抱えることがなければ、提言一つとて難しい。もしも、宗教が政治に口出ししなければならず、しかも、それが「的を得ている」というようなことがあったとするならば、それはよほど政治の力が落ちていることに他ならず、政治家としては非常に情けない状態にある、と思わなくてはいけない。なぜかといえば、世にある識者を、政治がそれだけ掬い上げていないことを意味するから。

 

 政治の力が落ちてくると、当然、国は乱れ、国家運営はうまくいかなくなってゆく。畢竟、国防力の低下や治安の悪化、さらには経済も停滞又は後退して、人心も乱れていって統制が取れなくなってくる。そんなときに選挙が行なわれると、どうなるか。

 

 政治家は自分が当選するために、その乱れた人心のご機嫌を取るようになってくる。平たくいえば、バラマキをしてみせたり、政治改革をして、この国を生まれ変わらせます、とか絶叫して人心をひき付けて票稼ぎに走るようになる。悪くいえば、ポピュリズムに近づいてゆく。そんなとき、国民の価値観がしっかりしていれば、そんな甘言に惑わされることなく、本当に必要なことを求めるから、たとえば、不況下において、「米百俵の精神」を言われても、それを支持したりすることもできる。だから、そうした国民の考え方や価値観を間違えない為には、常に「正しさ」を追求して止まない教育や、様々な考えを許容して内包できる社会がそこにないといけない。


健全な民主国家の条件

 宗教は、自分のところの教えはこうだ、と全面に押し出して布教活動しているから、信者以外の人でもこの宗教は、こういう考えなのだな、こういう価値観を教えているのだな、と分かる。そして、それがその通りかどうかは、その教団なり信者なりの言動をみれば大体判定できる。教え自体は立派そうなことを言っているのに、教団や信者が立派な立ち振る舞いをしていないのであれば、実は、教えが立派ではないか、教団や信者が教えを誤解しているか又は理解していないかのどれか。そんな教団を母体とする政党があれば、その政党の信頼性や支持はその分だけ落ちることになる。

 

 宗教はそんな風にある程度チェックができるのだけれど、同じように、政党や各種団体についても価値観のチェックは出来なきゃいけない。政党は選挙にあたって、公約を国民に示して、何をやらんとするか示すし、個々の議員にしても、その人となりや普段の活動に触れて知っている人にとっては、如何なる価値観に基づいているかどうかのチェックはできる。それはその他の団体に関しても同じ。だけど、その団体なり、政党なりに特に興味がなくて、普段会うことがない人にとっては、その価値観をチェックする機会そのものが殆どない。

 

 必然的に、その相手の価値観に対して、適切な判断をすることは難しくなる。それでも、民主国家では、誰であっても平等に一票を与えられている。だから、特に選挙においてそうなのだけれど、政治に興味がある人ない人関わりなく、広く情報を伝達して、大衆に価値判断の材料を提供できる手段を持たなければ、民主国家は十全に機能しない。つまり、マスコミの健全性がポイントになる、ということ。

 

 仮に、マスコミが、ストローの様に、全ての情報に一切手を加えることなく大衆に伝達できればいいのだけれど、紙面の都合や、放送枠の関係で、流す情報に取捨選択を加えざるを得ない場合が殆ど。いきおい、何を報道して、何を報道しないか、という価値判断がそこに加わることになる。事実を伝えるだけでも、取捨選択という価値判断が加わるのに、伝える情報そのものを操作したり、捏造しようものなら、大衆が正しい判断をすることは著しく困難になる。

 

 だから、マスコミはせめて、自身がどのような価値観で持って記事を選び出し、乗せているかの広報をするべきであって、公正中立を装って、特定の個人、団体の後押しをするような報道は、大衆をミスリードすることになりかねない。広く一般大衆に、思想なり情報なりを伝えるという意味では、宗教団体もマスコミも変わらない。であるならば、マスコミも、如何なる思想信条に基づいて、これを報道している、という看板を掲げるべきであって、それすらないのであれば、マスコミは、自らの教えを高く掲げる宗教以下の存在であることを、自ら宣言していることになる。

 

 別に、今のマスコミ全てに対して愛国心を持てとは言わない。だけど、反日思想を持っているのなら、自分は反日なのだ、とはっきり宣言してから、そうした記事を出すべきであるとは思う。そうすれば、読むほうも、そうだと覚悟してから読むし、最初から読む価値がないと判断することもできる。売買の時点でそうした判断が入るから、必然的に市場原理が働くことになる。その意味において、宗教や各種教育制度、そしてマスコミがしっかりとして在って、それらが常に正しさを追求しながら、お互いに切磋琢磨できる社会であることが、民主国家にとっては何よりも大切なこと。

 

 民主国家は、政治だけでなく、宗教やマスコミなどの価値観や情報の大衆普及手段が、共に正しく機能して始めて、健全な国家を構築することが可能になる。

 


経済大国の責任

 政府が弾圧などの強権を発動しなくても、信教の自由、表現の自由に制約を課すことは簡単にできる。宗教法人税や電波利用料を引き上げてしまえばいい。宗教法人を含む公益法人は、一般事業が利益を獲得する活動とは異なるという趣旨から、収益事業にのみ課税し、その税率も、一般事業の税率より低く設定されている。また、電波利用料に関しても、2007年時点の調査だけど、電波使用料収入総額に対して、テレビ局の占める割合が僅か1%強しかないことから、安すぎるのではないか、と非難の声も上がってる。

 

 確かに、普通の企業と比べて随分優遇されている。もしこれが、普通の企業並みに引き上げたら、相当数の宗教団体が無くなるだろうし、放送局もいくつか姿を消すだろう。税金を普通の企業並みにする、ということは、普通の企業並みの利益を出さないと、教団や放送局を維持できなくなるということを意味する。そうなると、必然的に「布施や浄財を沢山集めることができる」宗教や「人気があって、視聴率の取れる番組」だけを流す放送局しか残らなくなってしまう。

だけど、お金を沢山集められる宗教や、視聴率だけあるテレビ局が、いつも「正しい」とは限らない。

 

 「正しい」考えや優れた見識は、「価値」を生む。正しい考えに基づいた企業活動は、その社会のトレンドや正義に合致しているから、安定した利益を生みだすし、優れた見識を取り入れた政治は、道を誤ることがない。もちろん、その「正しさ」自体は、時代によって変遷するから、今、利益を生んでいても、未来永劫それで利益が得られるとは限らない。企業経営者が口を酸っぱくして、イノベーションと言い続けるのも、価値を生む考え方が次々と考えだされ、市場を創り、リードしてゆくから。

 

 だけど、イノベーションを伴う斬新な考えは、世の中一般に「正しい」とされる考えに逆らうことが多いから、風当たりが強くなるのが普通。だけど、もし、その新しい考えが次の時代を予期させ、先取りするようなものであれば、やがて、世の中が認め、それが当たり前になってゆく。時代の先駆者はいつもそうした風当たりをものともせずに改革をしていったことも事実。

 

 次の時代の萌芽は、現在ただ今の中にある、とは良く言われることだけれど、萌芽の段階では、ほとんどの人はそれに気付かない。そうしたとき、その萌芽を含んだ考えに基づいた公益団体なり、何なりに重税を課せば、簡単に潰れてしまう。萌芽の段階でそれに気づく人が少ないが故に、その団体を経済的に支える力は弱いから。そうした「考え」を打ち出す最たるものが、宗教団体とか、報道機関。尤も、宗教団体と報道機関の打ちだす考えには、少しその性格に違いがある。

 

 宗教団体は過去に説かれ、時代の波に揉まれながらも、今に伝わる伝統的価値や、新興宗教に見られるように、現代にマッチして未来に繋がる価値、つまり時間軸方向に過去や未来に伸びる価値を打ち出す傾向が強い。一方、報道機関は世の中を広くサーチしながら、一般的な報道もする一方、普段はなかなか陽の当らない対象を見出し、クローズアップしたりするという空間軸方向で価値を探し出して報道する特徴がある。

 

 宗教団体でも、報道機関でも、そうした、「考え」を見出し、広く普及させるが故に「公益」があるとみなされるのだろう。だから、「考え」に重税を課すということは、そうした小さな芽を次々と摘み取ってしまうことに成りかねない。要は、「考え」にお金を払ってくれるという、存在なり、パトロンなりがいないと、未来の可能性を潰すことに繋がる、ということ。これは、文化でも同じ。もちろん、その低率な税という特権を逆手にとって、間違った考えや報道を普及させてしまうことで、世の中を間違った方向に導くことも在り得る。「表現の自由」は自由として、保証されているものだけれど、その自由の行使にあたって、責任が付随することは至極当然のこと。

 

 つまり、間違った事を表現し、それによって誰かに迷惑を掛けた場合には、当然、それ相応の罰則なりなんなり、しかるべき処置を甘受しなきゃいけない。これまでのように、間違った報道に関して、形ばかりの訂正記事を隅っこに出してハイおしまい、といったやり方はもう通用しなくなってきている。昨年の毎日新聞WaiWai問題がそれを物語っている。

 

 証券会社がインサイダー取引かなにかで行政指導をうけて、何日間かの業務停止命令を受けたりすることがあるように、間違った報道には、放送停止命令を出して、一週間かそこら放送できないようにするとかしないと、もはや世間は納得しないのではないかと思う。そんな放送局には、いずれスポンサーも離れてゆくだろうし、それこそ市場原理が強力に働く。だけど、「考え」は目に見えないし、手に取ることも、食べることもできない。「考え」だけでは空腹は満たせない。

 

 だから、「考え」にお金を払うことができる、という国は、普通は経済的に豊かな大国が中心になる。だけど、もし、その経済大国で生まれた文化なり、考えや思想なりが、その後の何十年、何百年をリードするものであったとしたら、その芽を摘んでしまうことの損失は計り知れない。何がしかの「考え」が、その後の世界を支える原動力になる程のものであったとしたら、その「考え」を有する国は、かけがえのない宝、全人類を照らす光を持っているということになる。

 

 つまり、現在ただ今の、経済大国には、それだけの責任があるということ。経済大国は、その国ただ一国の国益だけでなくて、世界全体をも潤す価値を生む可能性がある。それが、経済大国が経済大国として存在することを許される条件なのではないかとさえ。

 

 「考え」が価値を生む、ということに賛同できるのであれば、例えそれが乱立であったとしても「考え」を守り、競争させ、それらを互いに磨いてゆくことが大切。それが未来への国力の源泉となる。そして、それは世界を支える力へと飛翔する。