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 歩(あゆみ)は寝不足な目をぱちぱちと瞬かせた。

 昨日はなぜか眠れなくて、仕方なくインターネット小説をを片っ端から閲覧していっていたのだけれど。まさか、朝を迎えてしまうとは──ずっと椅子に座りっぱなしで疲れたからだを伸ばす。ため息をついて、ベッドに潜り込んだ。

 今からでも遅くない、さっさと寝よう。

 そう思って寝返りを打った歩の目が、カーテンにとまった。ベッドは壁に寄せられいて窓の下にあるため、見ようとせずとも窓──もといカーテンは目に入る。水色のチェックのカーテンは、歩のお気に入りだ。もう太陽の光が漏れ出すカーテンは直視するとやや眩しい。目を細めてそちらを眺めていると、尚更眠気などどこかへ吹き飛んでしまって、寧ろ散歩にでも行きたい気分になった。

 なぜだろう。夜通し起きていたことなど滅多にないが、そういうときは大抵気分が悪いというのに。

 ボーっとカーテンを眺めていると一瞬だけ、視界の端に、青空を数羽の鳥が上へと飛翔していくのが映った。

「えっ──!?」

 思わず漏らした声よりも早く、視線はそちらへ向けられる。

 が、向けた瞬間にはもう青空どころか鳥すら見えず、チェックのカーテンが朝日を透かしているだけだった。

「気の……せい?」

 無理をして起きていたわけではないが、慣れてもいないくせに夜通し起きていたせいで幻でも見たのだろうか。首を傾げながら、もう一度カーテンをじっと眺める。

 もう一度、映った。

「……嘘ぉ……」

 今度は視線は向けずに、ぼんやりと視線の中で捉える。

 それは、海だった。

 歩の家は海沿いにある。二階へ行けば遠くの水平線が見えるし、僅か五分ほどで砂浜に行くことはできる。しかし──そこに映る海は歩の見知った汚く濁ったような色でも、捨てられたゴミが大量に落ちているわけでもなかった。テレビでしか見たことのない、濃淡様々な青が、藍色が、美しくグラーデーションを広げた海。しかしその美しさを更に引き立てるはずの空は、一面に雲影が満ちて靉靆(あいたい)としている。

 遠くのほうから眺めているらしい、本来は美しいであろう海を、歩は息を飲んで見つめる……といっても、視界の端に必死で移す感じではあるが。

 まだそれを夢ではないかと疑う自分がいる反面、やはり自分が確かに起きている確信はあるし、そうしてしっかりと見て記憶をしているのだから、夢というには、“幻想”というにはさすがに無理があった。

 不意に女らしき姿が映った。

 顔や表情まではわからないが、泣いているのか白いワンピースを纏った背中は丸く、腰まで揺れる黒髪を時折激しく振り乱した。砂に足を縺(もつ)れさせ、転びそうになりながら女は小さく漣を立てる海へと歩を進める。そこに躊躇う様子が皆無だからか、殊更怖い。

 海を観賞するにはどう見ても不向きな空模様、どう考えても泳ぐためとは思えないワンピース……歩の大して知識の詰まっていない脳みそで行き着く考えはただひとつだった。

 ──入水自殺でもしようとしているの?

 だったら変なものを見た、とは思うものの、一向にそこに視線は向けられなかった。

 この情景の続きもっと見たいという心と、早く視線を向けて終わらせろと戦う自分がいる。しかし一瞬の迷い、それがこの情景を終わらせる結果になってしまった。わずかにチラリと視線を向けたその瞬間、あっという間に消えうせて、そこには最早朝日に透かされた水色のカーテンが存在するだけだ。

「あ」と今更焦ったような声で自分の失態に歯噛みする。しかしそれから何度ためしても、朝日を透かすカーテンにに海が映ることはなかった。



 結局、歩が通常に起きる時刻まで寝ることもできず、何時間もパソコンを見続けたせいで疲れた目をこすりながら下へと降りていく。いくら時間が経てどあの早朝の神妙な出来事はしっかりと歩の脳内に刻み込まれ、いつまでたってもそのことが脳内をちらつく。

「お母さんおはよぉ」

 台所で朝食を作っていた母親は、歩の声にびっくりしたように振り向いた。

「珍しいわね、あんたがこんな時間に起きてくるなんて」

「たまには起きるしぃー」

 文句をいいつつソファにすわり、テレビのチャンネルを変えていつも朝見ているニュース番組に合わせる。朝だというのにとても元気なニュースキャスターが、まじめくさった顔でニュースを読み上げた。

「昨夜、東京都江戸川市付近海岸で水死体が発見されました。死体は死後約一週間から二週間と思われ、争った形跡がないため警察は入水自殺とみて調査しています。死体は財布の中にはいっていた写真から、東京都の三竹雪子(みたけゆきこ)さんと判明しました」

 そこまでぼんやりと聞いていた歩は、拡大されて若干ぼやけた写真を見てはっとした。色の白い不健康そうな顔、肩までまっすぐと伸ばしたややパサついた、珍しいくらいの黒髪、そして頼りなげな撫で肩(なでがた)。この女性──目を一瞬見開いてもう一度聞き流してしまった内容を脳内で反芻した。

 入水自殺、水死体、女性──?

 朝の情景とぴたりと当て嵌まったそれぞれの単語のピースに、背筋がゾクリと粟だった。何より、ぼんやりとしか見れなかったとはいえ、その容姿はあの女性とぴたりと一致していた。あれは真実、実際に起きた出来事だったんだ……。

 なぜ私のところに? 全く関係ないというのに。

 テレビは最早話題を変えているというのに、視線は釘付けになったまま動かない。なぜ、なぜ、なぜ……頭の中は先ほどよりもあの出来事で支配されていって、歩は自然動けなくなってしまった。

「朝ごはん、できたけど食べないの?」

 背中から訝しげな声がかかって、歩はようやくハッとした。

「あ……うん、食べる」

「早くしないと、お姉ちゃん起きてきて洗面所使えなくなるわよ。さっさと食べなさい。──にしても、あんたがテレビをまじめに見るなんて、本当に今日は槍でも降るんじゃない? 起きるのも早いし」

「あ……うん。私だってやればできるの」

 からかったように笑った母親にも、うまく返事ができない。笑顔でさえもひきつってしまったような気がした。

 ──本当に、笑い事じゃない。人の自殺場面を見てしまっただなんて、口が裂けても言えないわ。

 黙々と朝ごはんを食べる歩の顔に陰鬱な影がかかっているのをさすがに心配したのか、母親は労わるように「何かあったら言うのよ」とだけ付け加え、父親の弁当を作りに台所に戻っていった。

 歩はそんな言葉も頭に入らず、食欲さえもなくなってしまって、早々と席を立った。

 何も考えぬよう、いつもはだらだらと用意する制服も、アイロンも髪が焦げるのではないかというくらい丁寧にする。

 だから当たり前といえば当たり前、いつもよりも二十分も余裕を持って家を出ると、今度はただひたすら歩を進めた。



 学校ではぼーっと過ごしたため、あまりの静かさに自分を心配する声も頭に入らない歩だった。

 帰り──これまた歩はひたすら歩を進めていた。しかし行き先は自分の家ではない。その証拠に歩は家とは正反対の場所へと行こうとしていた。

 着いたのは、おんぼろ喫茶──もとい「向日葵」という、もう齢七十を迎えるおばあちゃんが経営している喫茶店だった。壊れた部分をガムテープで補正したガラス──おばあちゃんの喫茶店に人が来ない要因のひとつになっていると歩は思っている──のはめ込まれた扉を、ゆっくりと押す。入った瞬間、ホッとした。歩はこの喫茶店の埃っぽい空気に包まれると安堵する。

 久しぶりに入ったその小さなおんぼろ喫茶を、歩は懐かしい気持ちで眺め回した。静かな落ち着く空間、うすく埃をかぶった椅子や棚に飾られている雑貨。小さな窓から差し込む光、ところどころ補正されている古い椅子。小学生までは毎日のようにここに来ていたのに、いつから来なくなったのだろう。

「おばあちゃん、新瀬(にいせ)歩ですが」

「あいよ。あんたがここに来るなんて珍しいねえ。今日はなんだい? 占いは真っ平ごめんだね」

 気だるそうな、しゃがれた声で歩に返事を返したおばあちゃんは、よっこらせと小さく呟いて、厨房のほうから顔を出した。その口には煙草がくわえられている。歩の鼻が、顔を顰めそうな臭いにひくりと動いた。

「あの……聞いてほしいことがあって」

「座ンな」

 埃をかぶった椅子のうちのひとつに、埃を払って座り、おばあちゃんの出してくれた埃の浮いたお茶に視線を向けた。

 そうして、朝の出来事をぽつりぽつりと話す。おばあちゃんは相変わらず、煙草をふかしながら黙っていた。

「なるほどねえ」

 しゃがれた声で一人頷いたおばあちゃんに、歩みは返答を求める。

「多分、その霊と波長があったんじゃないかねえ」

「波長?」

「そう。自分の体から出る波みたいなもんさ。なんにせよ、お前に危害を加えたりはしないと思うよ。もうそいつの“抜け殻”は見つかったんだろ? なら大丈夫だ。そういう映像を見せたってことは見つけてほしかったに違いねえからな」

 しゃがれた声で相変わらず喋りながらそういいきると、ヤニで黄ばんだ歯をニッと見せた。

 その顔を見るとなぜかホッとして、安堵で体中の強張っていた筋肉が解れていった。

「……ありがとうございました。お陰でホッとしました」

 深々と改めて頭を下げた歩に、おばあちゃんはもう一度ヤニで汚れた歯をみせニヤリとした。椅子に深々と座り、美味しそうに煙草を吸うおばあちゃんを横目で捕らえながら、歩は外へと出る。

「本当のことはわしの口からは言えねえ。追い追い知るだろうさ」

 おばあちゃんはそれを横目で眺めながら、独り言をぽつりと零した。

 外は気づかぬうちに雨が降ったらしく、軒下にはぽたりぽたりと雨が垂れ、澄んだ空気が歩の鼻腔を通り抜けた。天気雨だったのだろう、雨が降ったにも関わらず、晴天が空に広がっていた。

 歩はその空をちらりと眺め、家へと急ぐ。

「ただいまー」

「おかえり。歩、これから葬式行くから早く用意して」

「えっ、誰が亡くなったの?」

「いや……とにかくっ、道々説明するから早く用意しなさい!」

 一瞬ためらうように視線を泳がせ、それから焦ったように歩を急かした母親を不思議に思いつつ、歩は急いで用意をする。歯を磨き、髪を整え、喪服に袖を通す。リップクリームを薄く唇へ広げると、鏡を覗き込んでもう一度チェックをした。

 一人で頷くと、もうエンジン音を響かせて歩を待ち構えている母親と父親、そして姉に一度詫びて乗り込んだ。

 歩は誰だか知らないのだが、母親、父親、そして姉までもが朝の歩以上に陰鬱さを顔にらせていた。

「お母さん。それで誰なの? 名前は?」

「──ああ……ええ、そのね……三竹、雪子さんというの」

 歩は「へ?」と間抜けな声を出したまま目を見開き、数秒動かなかった──というよりも、動けない。そして……

「ええええぇぇぇぇ!?」

 今更のように狭い車内で絶叫し、姉に迷惑そうに睨まれた。絶叫した歩に驚いたのは父親と母親である。二人そろって赤信号で後ろを振り向き、口々に知っているのかどうか攻め立てた。

 歩はその雰囲気に圧倒されながら、どう打開しようか思考を巡らせる。知っているといえば朝の出来事を話さなければいけない。それは言い辛いことな上に、莫迦にされかねないものだった。知らないといえば今の絶叫の意味を問われかねない。──数秒迷った末、一番無難と思えることを口にした。

「……えと、朝のニュースでやってたじゃん! ほら、覚えてないかなお母さん」

 慌てて言ったのでやや早口になり、動揺がばれていないか内心どきどきする。が、母親は明らかにホッとした表情で「そうだったかしら……」と搾り出すようにいったあと、前を向いてしまった。

 しかし歩は納得できない。なぜニュースの女性が、あの朝の情景の女性が私たちに関係あるのだ。あまりの空気の重さに今すぐ口を開くのは躊躇われたため、次の信号を通り抜けたら聞こうと決意し、前をじっと見つめる。少しも経たぬうちに信号は見つかった。通り抜けた瞬間、決意したように歩は口を開く。

「で──? お母さん、その三竹雪子さんって、私たちとどういう関係?」

 そう口にした瞬間、空気がぴりりと緊張するのが歩にもわかった。周りの緊張のせいか、それとも本当に緊張しているのか、歩も若干緊張して、返事を待つ。

「うん……その……えっとね……」

 ようやく開いた母の口から出てきた言葉はそういったものばかり。さすがにあまりの躊躇いように、イラっとして、自分自身もまた戸惑う。しかし、自分だけ知らないという不満に後押しされて、少しばかり強く言ってしまった。

「早く言ってよ」

 その瞬間、困ったように項垂れていた母親がさらに深くシートに体を埋めた。

「あなたの……母親なのよ」

「はへっ?」

 ようやく搾り出すように発せられた言葉に、思考回路が追いつかない。思わず間抜けな声をあげた歩は、ぐるぐると混乱する頭を必死に動かし、状況を理解しようとする。

「私の、母親……? だって、じゃあお母さんは……どういう……こと?」

「あなたは養子なの! ずっと黙っていたけれど、雪子さんが離婚したときに、親権をどちらも受け取りたがらなくて、結局押し付けられた雪子さんはまだ二歳の貴方を児童施設へ預けていった──私たちが──」

「ちょっと待って! あの人が私の母親? なんで? 意味解らない! 私はお母さんの子供じゃなかったの!?」

 ヒステリックに大声を出した歩に、全員がびくりと肩を震わせた。

「あなたは……養子なのよ……」

 若干泣き声になった母親も歩の視界には入らない。「あなたは養子なの!」そう自棄になったように叫んだ母親の声がぐわんぐわんと頭の中に響き渡る。

 養子? なんで? そんなこと一言も言ってくれなかった。どうして今更言うの──。

 目頭が熱くなり、視界がぼんやりとぼやける。ほとんど思考停止してしまったような頭の中、泣きそうだ、とようやく気づいてごしごしと目元を擦った。



 重たい空気の中時間はただ過ぎていき、気づけばそこは葬儀場だった。黙って降りた三人に倣(なら)い、ハンカチで目元を拭いた歩も着いていく。当然だけれど、そこにいるのは知らない顔ばかり。そして勿論三竹雪子だって、朝の出来事とニュースぐらいでしか顔を見た記憶はない。

 ──本当に、私の母親があの人?

 ぼんやりとその顔を見つめてみるけれど、歩にはどう考えても母親には見えなかった。

 確かに歩の肩は撫で肩で、髪も珍しいくらいに漆黒だ。三竹雪子の面影は、なんとなくとはいえあった。だが、そうだとしても歩の心境は変わらなかった。

 幾分か落ち着いたとはいえ、叫んでしまいたい衝動を心の中で必死に押さえ込む。黙って不機嫌そうにする歩は、姉の横に座ってただ葬儀が始まるのを待った。

「君……もしかして歩? 絶対にそうだよね。だって、この美しい黒髪……アイツにそっくりじゃないか」

 低い掠れた声が聞こえて、歩ははたと横を見た。自分を覗き込むように見るその顔に、見覚えはない。

「誰ですか?」

 自分が不機嫌なのを悟られぬようにか、葬式で大きな声をあげるのが恥ずかしかったのか、声を押し殺して歩は言う。男は戸惑ったような笑みを見せて、頬を人差し指で掻いた。

「覚えてるわけ、ないよね。僕は、大沼隆志(おおぬまたかし)。君の父親……いや、元父親か。あの時親権を受け取らなかったのには深い事情があったんだ……今まで忘れたことなんてなかった! それにしても、養子になっていたんだね。良かったよ、僕の可愛い娘が不幸な人生を辿るなんて真っ平ごめんだから。……皮肉なもんだよね。前妻の自殺で歩と再び会えるなんて」

 言葉を挟む余裕もなくそう言い切った男に、歩は本当に叫びだしたくなった。

 ──元父親? 私の父親は新瀬信夫(にいせのぶお)ただ一人だ。今日はいったいなんなの!? こう次から次へと──。

 胸の中で渦巻くモノをこらえた歩は、その男──もとい、大沼隆志をぎろりと睨んでやった。

「申し訳ありませんが、知りません。私の父親は新瀬信夫ただ一人です。そこにいる母と父以外の子供だった覚えなんてありません」

 面食らったような大沼を、歩はもう一度思い切り睨むと、ふんっ、と鼻息荒く逆方向を見る。と、姉と父と、母と、目があった。心配そうな表情で歩を見ているのは母親だけで、姉と父は呆れたように苦笑いしている。

 普段の歩ならにやりと笑い返してやるだろう。けれど今はそんな余裕ないのか、そのまま俯いてしまった。しばらく呆然と眺めていた大沼は、小さくため息をついてどこかへ去っていく。

 大沼は、密かにどれだけ自分の娘が可憐に成長しているのか楽しみだったため、その落胆ようは実は半端ではなかった。けれど、肩を落とし去っていく大沼以外、それは誰も知らない



しゃくしゃした気持ちを抱えながら、歩はひたすらに俯いて、黙っていた。未だ(当たり前だといえば当たり前だけれど)信じられない気持ちが大きくて、今更顔すら覚えていない父親に対してアラハジメマシテヨロシクネとはいかないものだ。それと同じで、もう亡き三竹雪子の腹から自分が出てきたなんて信じられないし、ましてや五歳まで一緒に暮らしてたなんて──

「それでは、三竹雪子様の葬儀を始めさせていただきます」

 若い男性の声に、ようやく歩は俯かせていた顔を上げた。いつの間にやら席は喪服に身を飾られた老若男女で埋め尽くされている。後ろは見ることができないが、歩より前の席をザッと眺めてもその人数はあまり多いとはいえなかった。三竹雪子は内向的、というかあまり社交的ではなかったのだろうか。

 低い男性の声で始まったお経をどこか遠くで聞きながら、歩の意識はどこか違うところへ向けられていた。

 今まであまりに目まぐるしく起こる事態に混乱していた頭がようやく冷静さを取り戻し、あることを思い出していた。──朝の出来事である。

 なぜ自分の母親である三竹雪子の自殺場面が視(み)えたのだろう? 本当にハチョウというものがあっただけなんだろうか。もしかしたら私になにか訴えたかったのでは──?

 そんな考えがポンポンと飛び出しては歩の頭の中は毒霧が充満したように疑問を溜め続け、歩自身を殊更追い込んでいくのだった。

「……歩。お焼香回ってきたけど……ねえ、聞いてる?」

 姉の声ではたと我に返ると、お焼香がもう目の前まで来ていた。小さな声で姉に謝り、三度つまんで手を合わせる。何も、思わなかった。……それどころではなかった。

 隣の人に回すと、また歩の脳は疑問を増やし続けようとする。けれど、またあの頭の重たくなるような、鈍痛が襲ってくるような思いはしたくない歩は頭(かぶり)を二、三度振って意識を現実へ向けた。

 低い声でお経を唱え続ける僧侶をぼんやりと眺め、下へ視線を落とした。



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