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七割未満 (一)

   七割未満

 

清水らくは

 

 

 朝、気が付くと何かがおかしかった。いつもと空気の感触が異なる気がする。目を開ける。薄暗くて、それでいて生暖かい。外は大雨か何かだろうか……と思って、ようやく思い出した。そういえば、カーテンを買ったのだった。

 一人暮らしを始めて一年。昨日まで我が家にはカーテンがなかった。日の出とともに目が覚め、コーヒーを飲み、散歩して、朝食をとる。その繰り返しだった。それが今日はいつもなら朝食を食べ終わっている時間まで寝てしまった。カーテンの威力は恐ろしい。

 何となくテレビをつける。これも二か月ほど前に買ったものだ。普段はDVDを鑑賞するぐらいにしか使わない。主にロックやクラシックをBGMとしてかける。面倒な時はそれもパソコンで済ます。

 今日はなぜかいつもと違うことをしたいと思った。着替えるため、クローゼットを開ける。非常に大きめの備え付けのものだが、がらんとしている。普段は制服で過ごすことが多い。何となく対局もそうしている。実際には高校はほとんど行っていない。行った方がいいと言われたものの、何も楽しさを見いだせなくなってしまった。何より、行かないことを誰にも咎められない。それでは張り合いがない。

 外の世界には、敵が少なすぎる。

 俺自身は、自分はしょうもない人間だと考えている。たまたま将棋が強かっただけで、本当はみっともない、まだまだいろいろと勉強しないといけない人間だと。でも、将棋が強いことで、将棋をがんばることで、将棋でプロになることで、全てが許されてしまった。だから、将棋だけは手を抜けない。

 しばらく着ていなかったパーカーを身にまとう。なんかこういうのが若者っぽいんじゃないだろうか。昨日届いたばかりの詰将棋の雑誌を鞄に入れる。知らない街の初めてのレストランで、これを読もう。なんとなく、ワックスで髪も固めてみた。自分で言うのもなんだが、俺は結構かっこいいと思う。ただ、そんなこともどうでもいい。顔で名人が取れるわけじゃない。

 家を出る。次の対局のことを考える。三日後、ベテランの先生と。中身のことをあれこれ考えることはしない。先後もわからない中で、予想で一喜一憂しても仕方ない。ただ、負けると勝率七割を切ってしまう。それだけは避けたかった。とびぬけた実績もなく、C級2組で、それでいて一流を目指すには勝率七割が最低条件。それは、自分に課した重たい枷だった。

 十代でデビューした先輩が、苦しむ姿を見ている。気を抜けばすぐにその他大勢だ。正直、そうなるのは怖い。俺にとって、この世界だけが希望なのだ。上を見れなくなったら、ただのつまらない人間になってしまう。

 名人になれるなら、負け越したっていいとすら思う。ただ、今はとにかく、七割勝たねばならない。

 

 

 午後四時の控室。奨励会員が二人、興奮しながら局面を検討している。

 対局はあっさり終わった。終盤に入った途端、相手がぽっきりと折れた、という感じだった。

 七割は守られた。

「どうしたんですか?」

 二人とも先輩だ。僕は丁寧に尋ねた。

「いやこれね、金本さんの将棋なんだけど」

「金本さん……ああ、女の子の」

 最近入会した女性の話は聞いていた。別に女性が将棋をするのはそんなに珍しくはないけれど、何より話題になったのが「誰も知らない子」だったことだ。普通奨励会を受けるような子は何かしらの大会で活躍しているもので、同年代には名前を知られている。しかし金本さんは、全国大会の実績ゼロ、地方の大会にも出場したことがないという話だった。師匠の三東四段はまったく成績の良くないぱっとしない若手だし、いったいどこからそのような逸材が発掘されたのだろう……とゴシップ好きな人たちは随分と話題に挙げていたようだ。

 ただ、実際にはただの奨励会6級。何をそんなに騒ぐことがあろうか、と思う。

「いやあ、それがですよ。女の子どころか若者とも思えない」

「そうなんですか」

「これなんだけど……」

 盤面には、ひねり飛車の局面が出現している。しかも、後手は左の金が出ていく戦法……いわゆる「タコ金戦法」と呼ばれるもののようだ。

「確かに古いですね」

「しかもこの後、金を地道に動かして押さえ込んでいくんだよ」

「へえ」

「で、この戦法選んだ理由が、『名人の手がしっくりきたから』って」

「名人?」

「小川名人」

「はあ……」

 昭和の大名人の名前が出てくるのは、確かにすごい。すごいがおすすめかと言われると悩む。

「まあ将棋もすごいんだけどね。本人が全く強そうじゃないんだよ」

「そうなんですか」

「内気でおどおどしてあんまりしゃべらなくて。勝ちたいとかそういうのも感じられないけど、将棋を始めるとちょっと空気が変わるというか。不思議な感じ」

「へえ」

「でもかわいいですよ。こう、ツインテールで」

 そのあとも先輩の説明は続入けれど、そんなに興味はわかなかった。勝負の世界に入ってきたら、ライバルとして見るに値するかどうか、だろう。かわいい子を見たいならばこの世界の外へと目を向ければいい。高校に行けば女の子はたくさんいる。それでも行きたくないのだから、今の俺は女の子そのものに興味がないのかもしれない。

「あ、じゃあ僕はこれで」

 控室もつまらない時はつまらない。なんというか、気合が乗らない時がある。きょうなどは気になる一局があったのだけれど、あの先輩たちと検討したいとは思えなくなっていた。

 どうせ結果はわかっている。川崎四段の勝ちだろう。

 俺より一学年上。小学生の時から何度も対局してきた。そして、勝てなかった。お互い奨励会に入っても苦手で、ダブルスコアに近かった。それでもなぜか俺の方が先にプロになれた。運が良かったのだと思う。

 でも、彼も追いついてきた。デビューから五連勝。内容も全く隙がない。すでに周囲からは期待のホープと呼ばれている。

 それは、俺のものだった。いや、今でもある程度は俺のものだ。けれども、これだけ勝っても何一つ達成できなかったことは、周囲の評価を少なからず下げている。順位戦昇級ならず、タイトル戦リーグ入りならず、新人戦決勝いけず、早指し戦本選出場ならず。面白いぐらいあと一歩のところで負けている。そして多分、自分より強い三割の人にきっちり負けているのだ。

 急にどうこうなるとは思わない。それでももう一つの目標だけは、譲れないと思っている。

 川崎さんにだけは、負けられない。

 会館から外に出る。このまま家に帰るのは、本当に虚しい。

 

 

「ふーん。不真面目なんだ」

 大阪、将棋会館から少し歩いたところにある喫茶店。昔よく俺はここにきてゲームをしていた。家にいても楽しいことなどない。親はお金だけ渡していれば子供は育つと思っていたし、俺はあんまりお金の使い方を知らなかった。だから、喫茶店で少し高い食事をするのが精いっぱいの贅沢だったのだ。

 そして今、二人分のビーフシチューがテーブルには載っている。

「そうですよ、知りませんでした?」

 頬杖を突きながらけだるそうに話す女性。彼女は俺の姉弟子である、皆川女流二級だ。変な柄の入った赤いシャツに胸元にはネックレス。髪は茶色に染められていて、眉毛も細くきりっと描かれている。昔は爽やかな女の子だったのだが、正直最近もったいないぐらい頑張りすぎている。

「でも高校は出といたほうがいいんじゃないの」

「なんか、そういうことに興味なくなっちゃたんですよね」

「ふーん。じゃあやめるの」

「まだ決められてないんですよねえ」

「煮え切らない子ねー」

 別に迷っているわけではないのだ。決断を悩むほどのことではないと思っているにすぎない。放っておけばそのうち退学処分になるだろう。決断などいらないというわけだ。

「まあ僕のことはいいじゃないですか。それより用事ってなんですか」

「え、あー。うん。なんかこうさ、みんなで集まって将棋する機会とかあればって……最近ないじゃん?」

「研究会ですか」

「まー、簡単に言えば」

 確かに昔は一門で集まって定期的に将棋を指していたけれど、弟弟子がやめたり僕が関東に移ったりで立ち消えになっていた。

「そうですねえ。じゃあその時は皆川さんこっちまで来てくださいね」

「え……なんで私が」

「皆川さん実家じゃないですか。うちならいつでも使えますよ」

「辻村の家で?」

「ほとんど物ないですし広いですよ。六人ぐらいは入れるんじゃないかな」

「そ、そうか。じゃあそれで」

 研究会というのは、実はあまり興味がない。一人でする研究の方が、効率がいい気がする。それに、研究会では一方的に搾取する人がいる。協力する場面では、せめて努力する姿ぐらい全力で表現すればいいのに、と思うものだ。

 とはいえ姉弟子の提案を断る気もなかった。彼女は見た目は派手になってしまったが、内面はとても実直で、俺は確かにお世話になってきた。同時期にプロになり、何となく「同期」としても見ているのは内緒だ。

「じゃあ、よさそうな人いたら声掛けときますね」

「頼んだ」

 断りはしなかったものの、忘れてしまう可能性は大きいと思った。


 思ったよりも早く、その日が来ることになった。

 新年度の順位戦C級二組、三回戦で俺と川崎さんは対戦することになった。

 このリーグは、年に3人しか抜けられない。40人を超える中からたった3人。三段リーグを抜けてきた俊英たちが、毎年何人も取り残されるのだ。

 昇段後驚異的な成績を残してきた川崎さんか、昨年七割の勝率を残した俺か。どちらかが三回戦で負けるのだ。

 他の勝負は、常に均等に対処してきた。実力を出せば七割勝つのは当然だし、三割は負けても仕方ないと思ってきた。けれども川崎さんとの対局だけは、意味付けをして考える。たとえ実力では下回っていても、どうしても勝ちたい。

 ライバルというのは周囲が決めるものだと思う。川崎さんはこれから絶対に活躍する。その人のライバルと呼ばれるためには、勝つことが一番手っ取り早い。

 もう、高校など行っている場合ではないと感じている。そこで過ごす時間を研究に充てている若手に抜かれたら、本当に笑えない。そして今日は、川崎さんの対局がある。観に行かなければならない。

 電車に乗っている間も、将棋のことを考え続けた。最初はそんなに将棋の強い子供じゃなかったと思う。何にしろ努力が好きなタイプじゃないのだ。それでも負けたら悔しくて、それを親に言ったら将棋教室に通わせてくれた。うちの親は、お金で解決することなら大体のことはしてくれたのだ。そして、そこで言われるがままに将棋を指して、詰将棋を解いて、棋譜を並べていったら強くなった。それが普通なんだと思っていた。そしていつの間にか、アマ五段とかになっていた。

 プロになれる、と言われてその気になったのだ。俺にはそれ以外の取り柄がなかったし、早く何かで一人前になりたかった。家にいるのが好きじゃなかったから。

 どこで停滞するでもなくプロになって、そこで初めて大変さというものを知った。強い人というのは、とことん強い。俺が勝てない三割の人たちは、まるで別の次元で戦っているのだ。

 電車を下りて、歩いて。仕事場だけれど、対局がなければ一円ももらえない。将棋会館というのは不思議な場所だ。

 棋士室には誰もいなかった。そういう時間もある。モニターに映っているのは、ベテラン同士の対決だ。最新研究とはかけ離れたクラシックな戦型だけど、こういうのも好きだ。将棋は何かを解明すればいいというわけではない。目の前の相手が力戦好きならば、それに対応しなければいけない。終盤型の棋士には、一気にまくられないように気を付けなければならない。参考にならない将棋などない、と思う。

 そういえば今日は沢崎九段と三東四段の対局もある。沢崎九段はタイトル獲得歴もある偉大な棋士だけれど、最近は負けが込んでいる。他方三東四段はデビューした時から負けが込んでいる。すでに降級点を二つ持っていて、来期はフリークラスに落ちてしまう可能性すらある。まだ若いのに、存在感が全くない。

 そんな三東さんだが、噂の金本さんの師匠なのだ。何となく気になる部分もある。普通の棋士が持っているような、しつこさや粘っこさというのが全く見られないのだ。ある意味それでプロになれたということは、天性の素質があるということかもしれない。

「いやー、まいったまいった」

 大きな声を出しながら、影山六段が入ってきた。四十手前の先生で、豪快な風貌ながら細かい駆け引きを得意とする。

「あら、辻村君」

「お疲れ様です」

「うん。対局終わっちゃったよ」

「先生のがですか?」

「ああ。いやあ、まいった」

 聞かなくても負けたというのはわかる。夕食休憩前に負けるというのは、よほど序盤から上手く指されたのか、途中で一手ばったりがあったのか。

「そういえばね、あの子が記録係やってたよ」

「あの子?」

「金本さん。朝から三東君がしきりに頭下げててね。何でも奨励会入るままで棋譜取りどころか、ストップウォッチ使ったことも、お茶を入れたこともないとかで。幹事とも随分練習したらしいよ」

「そこまで……」

 もうなんというか、将棋用に開発されたロボットじゃないかとすら思えてくる。あまりにも世間と離れていて、しかも女の子で、師匠は目立たない若手で。三東四段は実はマッドサイエンティストなんじゃないだろうか。

「でね、つっこちゃんがね」

「つっこちゃん?」

「月子だから。つっこちゃん、かわいらしいんだよ。ちょっとびくびくしてるけど、まじめそうで。今までいなかったタイプだね」

「ヘー……」

 なんだか、こちらにも興味がわいてきた。年齢も大して変わらない、不思議な女の子。高校に行ってもなかなか出会えるものではない。

 だんだん人も集まり始めた。何となく押し出されるように、部屋を出る。居づらいというのではなく、ふさわしくない空気の時があるのだ。そして今は夕食休憩らしく、対局室を覗いても棋士は見当たらなかった。

「あっ」

 誰かが、俺の足を踏んづけた。そして、かわいらしい声。

「ご、ごめんなさい」

「いや、別に。……つっこちゃん?」

「え、あ、はい」

 背は低くて、体の線は細くて、サラサラの髪はツインテールに結っていて。子リスのように動く様は、とても将棋を指す人だとは思えなかった。そして俺の胸は高鳴っていた。こんなことは初めてだ。

「俺……辻村って言うんだ。四段」

「わ、私金本です。4級です」

 ただ、ぶつかっただけなのだ。もうこれ以上話すことはない。けれども、それで終わらせてはいけないと思った。何かきっかけを、口実を、理由付けを……

「つっこちゃん今度さ、うちの研究会来ない」

 思わずそんなことを言っていた。皆川さんとこの間話しただけで、そんなものまだ開催したこともないのに。

「……え……私、そういうのよくわからなくて……」

「いやまあさ、対局したり検討したり、ご飯食べたりゲームしたりするんだ。皆川さんも参加してるしさ、考えといてよ」

「……はい」

 やった! しかしこれでは社交辞令で終わってしまうかもしれない。

「また詳しいことは連絡するしさ、メアド教えてよ」

「……メアド……は……ないです」

「え、携帯は?」

「……持ってないです」

「じゃあ電話は?」

「一応……。先生が出るかもしれませんが」

「……えっと……まあいいや、じゃあ電話番号教えてよ。またかけるからさ」

 先生が出るかも、というのは気になったけれど、電話番号を交換することには成功した。月子さんにメモを渡し、僕も手帖に番号を書き込む。確かに市外局番からだった。

「じゃあ、今度連絡するね」

「は、はい。よろしくお願いします」

 体が少し軽くなっているような気がした。そのまま玄関を出て、ご飯を食べに行くことにした。これまで選択肢に入れたこともなかったけれど、鰻を食べたくなってきたのである。


 少し降り始めた雨は、結構強くなってきていた。それを見越して先に帰った人もいるようだ。

 傘なんて持ってきていない。濡れるのは構わないけれど、そのまま電車に乗るというのは悪手というものだろう。

 そして、気付いた。つっこちゃんはどうするのだろう? 女の子がこんな時間に一人で帰るだけでも危ないのに、この雨だ。ここは送っていくのが紳士的なのではないか。そうに違いない。

 再び対局室を覗いたが、すでに対局は終わっており、誰もいなかった。棋士室にもいなかった。靴を確認すればわかるかと思い玄関に下りていったら、ちょうどそこに彼女はいた。玄関を出てすぐのところで、空を見上げていた。

「つっこちゃん!」

「あ、……辻村先生」

「今から帰るの?」

「はい。でも、雨ですね……」

「送ってくよ。丁度俺もタクシーで帰ろうと思ってたところだから」

「え、いえ、そんなタクシーだなんて……贅沢なことは……」

「いいよいいよ、気にしなくて」

 つっこちゃんは押しに弱い、と信じて、そのままタクシーを拾い乗り込んだ。幸い俺の家とそんなに遠くはないようだ。

「じゃあ、つっこちゃんをまず送るよ」

「……すみません……」

「先輩にはお世話になればいいんだよ。お世話する立場になっていくんだし」

 と、俺が依然言われたまんまの言葉を拝借する。実際今の自分はお金を稼ぐ一方で、こういう時でもないと使いどころがない。

「つっこちゃんは、どうやって将棋覚えたの」

「え……はい、父から教わって」

「お父さん強いのかな」

「一応アマ六段とか……」

「へー。結構強いね。それで三東先生を紹介されて?」

「はい、知り合いだったみたいで……その、先生のところを訪れて」

「お父さんが?」

「いえ、私が」

「一人で?」

「はい。それ以来ずっとお世話になってます」

「ふうん。でも、家近くなんだよね。親御さんは来なかったんだ」

「家は……その、近くないです。自転車で一晩かけて……」

「……え?」

 おかしな話になってきた。東京に金本なんて強豪いたっけな、などと考えていたのだ。一晩かけて自転車で?

「じゃあ、今の家は一人で?」

「いえ、先生と住んでます」

「内弟子?」

「そうとも言うみたいですね……」

 いまどき内弟子なんて話、なかなか聞かない。しかも女の子である。しかも稼いでない若手棋士が師匠である。聞けば聞くほど謎が湧き出てくる存在だ。

「あの、このあたりです……」

 どこにでもあるようなアパートの前。どちらかというとおしゃれな感じだった。お金を払い、タクシーを降りる。雨は小降りになっていた。

「ちゃんと師匠のところまで送り届けるよ」

「え、あ、はい」

 本当のところは、確かめたかったのだ。あの三東さんと、このつっこちゃんが一緒に暮らしているなんてことがあるのだろうか。あるとしたらもうなんというか、いろいろ問題あるんじゃないか。

「あの……私からもお願いします、せめて何かお礼を」

「え、いやそれはいいけど……」

「私持ち合わせがなくて……色々と出世払いなんで……」

 もう尋ねるのはやめた。いるというのなら三東さんに直接聞くのが一番よさそうだ。

 階段を上がり、廊下を歩いて三番目の部屋。月子さんはゆっくりと扉を開けた。

「あの……遅くなりました」

「ああ、おかえり」

 それは、まぎれもなく三東さんの声だった。

「あの、入ってください。……実は、辻村先生が送ってくれて……」

 つっこちゃんは部屋の中に入っていったが、俺はしばらく玄関で立ち尽くしていた。想像通りのそれほど広くない部屋。普通は一人暮らしをするサイズだろう。しかしピンク色のコップ、パソコンの前に置かれたぬいぐるみ、ハンガーにかかったカーディガン、全てがつっこちゃんのいる生活を物語っていた。そしてそれ以外は、ほとんどが男性のものだった。

「……本当に……一緒に暮らしていたんですね……」

 ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。

「色々とあるんだ。まあ、上がりなさい」

 三東先生は普段とは違い、父親のような落ち着きを見せている。テーブルの前にどっしりと座り、こちらへと手招きしてくる。先輩が導くのなら行くしかない。

「あの……先生……」

「ん?」

「私タクシー代持ってなくて……」

「まあ……辻村君、そういうつもりじゃなかったんだろ」

「え、ええ……」

「どういうつもりだった?」

「え?いや、何も……」

 下心がなかったと言ったらうそになる。けれどもそれを正直に言う場面でもない。

「ここからどのくらい?」

「あ、そんなにかからないです」

「じゃあ、これで帰れるかな」

「え、いや……これは……」

 三東さんは千円札を僕の方へと差し出した。たぶんタクシーに乗ると、少し余る。どうしていいものかと思ってきたが、三東さんは無理やりそれを僕の手の中に押し込んでしまった。

「コーヒー飲む?」

「え、はい、いただきます……」

「月子さんも飲む?」

「はい」

「じゃあ、待っててね」

 三東さんの入れたコーヒーを飲む間、俺たちは一言も話さなかった。自分がちっぽけに思えた。そして、ちびちびとコーヒーを飲むつっこちゃんは、やっぱりかわいかった。

 

 

「うーん……迷うよね」

 十時半。健康的とも言える外出時間、俺たちは服を選んでいた。

「違いがわからないんですよね。私服とかほとんど買わなくて」

 ショップに一人で入るのさえなかなか勇気がいる中、皆川さんはずんずんと入っていくことができた。普段からおしゃれには時間をかけているようなので、何ら抵抗はないようだ。

「辻村はなで肩だからねー。似合わないのも多そう」

 皆川さんはいろいろな服を進めてくるのだが、そもそも何がいいかわからないから一緒に来てもらったのだ。どんな服でも「これにしろ」と言ってもらえれば納得するのだが、本人の意見を尊重するタイプらしい。

「あ、このジャケットいいかも」

 とりあえずこのままでは持ち時間が減っていくばかりなので、直感に頼ってジャケットに手を伸ばしてみた。紺と青の中間のような色で、ボタン穴が普通のものより大きいような気がする。

「え、いいけど……それ……」

「問題あります?」

「値段」

「75000円ですね。持ってますよ」

「……まあ、本人がいいならいいけどね」

 だいたい服の相場なんて知らないので、気に入ったものが予算内なら買えばいいのだ。今のところ家も車も買う予定がないし、欲しくなったころにはタイトルでもとって大金をもらえばいいのだ。

「じゃあさ、パンツはこういうのどう」

「あ、いいですね。えらい細いもんですね」

「辻村なら大丈夫でしょ」

 なんやかんやで、服を選ぶのが楽しくなってきた。あまり人に見られるということを意識したことがなかったけれど、着るものによって俺はずいぶんと違って見えることだろう。これまでの俺にとって対局以外の時間はただの準備期間でしかなかった。誰にどう思われようとよかったのだ。

 けれども、今はそうじゃない。俺は、勝負に勝つためには努力を惜しまないつもりだ。何せ相手は、同じ屋根の下で暮らしているのだ。

「意外に楽しそうに買いものするんだね」

「自分でもびっくりです。あ、でも一人だとそうじゃないかも」

「え、そ、そう?」

 これまでは必要なものさえあればよかった。欲しいものができても、ネットで注文することが多かった。買い物に来ても、研究の時間を削っているような後悔に襲われたのだ。

 今はとにかく胸のざわめきを止めるのが先決だ。そのためには早くかっこよくなりたいし、こういう時間を楽しみたい。多分他の棋士もこういう悩みを抱えながら戦っていて、乗り越えた人がタイトルに届くんだろうな、と思った。全てにストイックな人はどこかで折れてしまうだろう。

「時間あうなら、まあ別に、いつでも誘ってくれれば一緒に来てあげてもいいんだけどね」

「ありがとうございます。またお願いします。あ……あと」

「なに」

「あれです、スーツのオーダーメイドってのをしたいんですよ」

「……本当に、急にどうしたの?」

 本当にどうかしてしまっているのだ。そして、原因はわかっているので対処しようとしているわけだ。

「実は……好きな人ができたんです」

 言ってしまった。誰かに言わずにはいられなかったし、一番信頼できる相談相手になってくれると思ったのだ。

「……え?」

 しかし、俺の読みは外れていた。皆川さんは動きを止め、信じられない、といった表情でこちらを見ている。

「いや、俺もこの歳ですから。それぐらいできますよ」

「その……えーと、私の知ってる人?」

「どうでしょう。名前ぐらい聞いたことあると思います」

「……そう。頑張ってね」

 急に皆川さんは口数が少なくなってしまった。ガキのくせに、とか思われたのだろうか。それとも意外なこと過ぎて戸惑っているのだろうか。

 女性に対する研究も、もっとしていかなければならないようだ。

 

 

 夜中電気を消すと、カーテンの隅から細く薄い光だけが差し込んでくる。カーテンのない時には気が付かなかったけれど、夜というのはさびしい。暗くなった部屋の中、一人布団の中で目を開いていると、世界から見放されているような気分になる。そんなわけで目を閉じるのだけれど、そこにもやはり闇が広がっている。頭の中に将棋盤を浮かべるのだが、そうするといろいろと疑問が生まれて、起きて調べたくなってしまう。

 実家にいるときは、家族なんて鬱陶しいものだと思っていた。俺にたいして興味がないのに、義務を果たすためにいろいろと世話をしてくれる人たち。両親が「どうせなら作家とかに興味持ってくれたらねえ」と言っているのを聞いてしまったこともある。将棋なんて、という思いは常に伝わってきた。それならばせめて止めてくれ、と思ったこともある。

 それでも、そんな家族でも、同じ屋根の下にいるだけで安心できたらしいのだ。どんな暗闇でも、叫べば誰かが駆けつけてくれる。熱を出せば、病院に連れて行ってくれる。

カーテンを買わなかったのは、闇を恐れる潜在意識のなせる業だったのかもしれない。

 かと言って電気を点けたら眠ることができない。それはもう、体が受け付けないのだ。難儀だ。

 つっこちゃんには、三東先生がいる。どんな関係かはわからないけど、そばに誰かがいるだけで随分と安心できるだろう。その役割は、俺ではだめだろうか。

 立ち上がり、カーテンを七割開ける。明日のために、眠らなければならない。

 

 

<つづく>


作品紹介

将棋小説「ベース オブ シークレット」 清水らくは

 『駒.zone』というタイトルと同時に浮かんだ物語です。もちろんあの大ヒット曲から連想しました。基本的に筆者はハッピーエンドしか書けないため、必然的にあのような結末に。自分では斬新な設定のつもりでしたが、執筆中に新棋戦設立のニュースがあり「海外選手招待」という報が! あと一か月早く発表できれば……。そして、こんなベタなもの書いたの初めてですが、楽しかったです。

将棋短歌「穴熊」 半島・落波
 日ごろお世話になっている半島さんにご協力いただき、スカイプでお話ししながら短歌を作っていただきました。最初はテーマ詠だけだったのですが、そのうち詰将棋や必至問題のヒントを詠むという聞いたことのない形に。そのあと自分でも作ったのですが……実は詰将棋作るのが苦戦。ただでさえ苦手なのに、穴熊という条件は大変でした。余詰めあったら教えてくださると助かります。

写真物語「お城はあきた」 清水らくは
 映像的なものを入れてみようと作りました。が、作者の古いデジカメではうまく撮れず、携帯で写真を撮ることに。荒い画像で申し訳ないです。将棋を指しているとき、王将がするすると逃げていくのはなかなか楽しいものです。続きも制作できたら次号で。

将棋詩 「3六歩」 清水らくは
 とある対局で登場した驚愕の一手を題材に書きました。プロの将棋は関数的で、突然駒の損得を超えた効率やスピードという要素が重要になったりします。どの要素を重視するか、そのコントロールがプロの技なんでしょうね。

将棋詩「一番長い日の一瞬」 清水らくは
たまにこういう
ての込んだ
よくばったものを試して
みたくなるのです。

ツイッター対局 「金本月子×ぜいらむ」 @Zeirams @tsukiko_sann @rakuha
 ツイッターでお世話になっているぜいらむさんに頼んで、『五割一分』に登場する金本月子プロとツイッター上で対局してもらいました。諸事情により月子さんは筆者程度の実力しか出せない状態でしたが、「ハンデがほしい」ということで三択チャンスルールを採用。その結果……。今後もルールを変えてやってみたい企画です。

将棋小説 「七割未満」 清水らくは
 本誌が実現する最大の要因であったともいえる『五割一分』のスピンオフ作品です。辻村君の魅力をもっと伝えたいという思いから書きました。三東先生と違い一人称が難しいキャラでしたが、書いていて楽しい部分もありました。

 


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