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My Top Of The World

 日陰を選んだつもりが、いつのまにか初夏の陽射しを浴びていた。キャンパスの広場に植えられた芝のいきれが増したような気がした。  午後の講義が二つとも休講になり、ぽっかりと時間が空いた。こういう時、自宅から通う学生は、なんだかんだとする事があるんだろう。同じ学科の連中はさっさと帰って行った。
「おい、暇?」
頭上で声がした。数少ない別の学部の友人だった。たまたま入学式で隣りに座ったので、それから度々話すようになった。
「午後は休講だよ。二つとも」
「そんなら八事あたりまで飯喰いに行かん?」
別に断る理由もない。クラブにもサークルにも入っていないので用事もない。学食が空いたら昼飯を食べて下宿に帰り、夕方のバイトの時間まで本でも読んで過ごすだけだ。
「いいよ」
彼は立ち上がりジーンズについた芝を払った。

  大学生活が始まって二ヶ月がたった。まさか東京の学校を全て滑るとは考えてもいなかった。浪人する事も考えたが、見知らぬ町への憧れもあった。悩んだ末一人暮らしもいいかと思い、入学を決めた。
  だが、初めて暮らすこの町は、彼の育った東京とは余りに違った。新幹線を降りた瞬間目に入る「大名古屋ビルヂング」の文字からして呆れるほど田舎くさく見えた。彼が部屋を借りた杁中という町まで、バスしか交通機関が無いのにも閉口した。彼が育った町では、最寄りに国電と地下鉄の二駅があり、五分と待たずに電車が来る。わかってやってきたはずだが、いざ住んでみると、どこへ行くにもバスに揺られなければならないのは想像以上に苦痛だった。

 山手通りのなだらかな坂を上ると、しだいに学生がまばらになる。頂上を越えると道はゆっくり右へとカーブする。そのあたりから再び学生の数が増える。彼らの学校の学生はこのあたりにはほとんど来ない。大して離れてもいないのに、集まる学生が違うと、なんとなく町の雰囲気も違って見えるから不思議だ。と言っても学生にしかわからない独特の差なんだろうが。
 真っ赤なスパゲティのイミテーションが飾ってある喫茶店の前で友人が足を止めた。
「スパを喰いたゃー」
 出会って一月以上経つが、この凄まじい名古屋弁にはいまだについていけない。まあ、
四年の我慢だと思うことにしている。
「スパゲティの事か?」
「東京じゃスパって言わんの?」
彼は、外国人がやるように両手を広げて肩をすくめて見せた。
「ワタシ、ナゴヤベンワカリマセーン」
友人はちょっとむっとした表情で扉を開けて先に入った。
 右手にカウンター、奥に二つほどのテーブルがある。サークルの打合せでもしているのだろう。奥の席は近くの大学の学生達が占拠していた。
「どうぞ」
カウンターに座っていた女性が立ち上がって中に入った。
「イタリアンとライス」
友人は座るなり迷わずにオーダーをした。ナポリタンなら知ってるがイタリアンってなんだ。そもそも、
「おい、なんでスパゲティにライスなんだよ」
「なんでー、スパゲティにはライスだがや」
溜息が出た。これも四年間の我慢だ。
「君もそれにする?」
くりっとした大きな目がこちらを見て微笑んだ。白いTシャツに膝の部分が少しだぶっとした薄い色のジーンズ、レイヤードの髪を耳にかけた姿は、さりげないことが嫌みなくらい今風だ。
「同じ物だと早くできるのよね」
「じゃあそれ、ライスはいりません」
彼女の大人びた雰囲気に、思わず敬語で応えた。
 料理が出てくるまで彼と友人は、意味のないスパゲティ論争を繰り返した。その間中、友人は度々奥のキッチンに視線を送った。
「おまえ何度目だ」
友人は黙って指を二本出した。人を出汁に使いやがってとは思ったが、彼も美人を見るのは嫌いではない。
 両手にスパゲティを持ち、カーテンを背中で押すようにして彼女はキッチンから出てきた。板の上にジュージューと音を立てる鉄板、その上には卵がしかれ、更に伸びたようなスパゲティ。一口食べて彼は言った。
「ライス下さい」
「ほれみー」
友人が勝ち誇ったように言った。敗北感を味わいながら、彼は無言で食べることに専念した。
 有線からカーペンターズのトップ・オブ・ザ・ワールドが流れてきた。カウンターの中の彼女はセットの珈琲を入れながら、サビが来る度に発音の良い英語で口ずさんだ。

 I'm on the top of the world lookin' down on creation 
And the only explanation I can find 
(私はもう夢中なの、回りがみんな小さく見える。その理由がわかったの)
 Is the love that I've found ever since you've been around Your love's put me a
t the top of the world 
(それはあなたと出会ってみつけた愛があるから。あなたの愛が私を夢中にさせるの)

 彼もそこだけなら歌えた。中学時代に大ヒットした曲だ。その頃は、意味など考えたこともなかったが、最後の“Top of the world” のフレーズだけは曲にあわせて自然に口をついたものだ。
  高校一年の英語の授業で、女の先生がこの曲を課題に持ち出して来たことがあった。誰もが知ってる曲だったし、中学英語の復習をするのに説明しやすい文法がたくさん含まれているからだろう。一カ所だけわからない箇所があった。その“Top of the world”だ。いや意味はわかる。「有頂天になる」、「意気揚々として」と辞書に書いてある。わからなかったのはその先生の説明だ。
「恋に落ちると、エベレストの頂から下界を見下ろすような気分になるでしょう」
とその先生は言った。残念ながら誰もエベレストに登った事など無かった。

 友人はすでに彼女に夢中だった。その日のうちに珈琲チケットを買った。何日もしない内に、彼女が、市の更に東の方にある女子大の四年生で、平日学校が終わるとおばさんがやってるその店を手伝いに来ている事を聞き出してきた。
「俺らはついとったで、普段は夕方にしかこんのやて」
「俺らじゃない、おまえだろう」
友人は、彼の反応などお構いなしで彼女の話を続けた。友人のたった一つの気がかりは、彼女につきあってる男が居るかどうかだった。
「聞いて見りゃいいじゃないか」
「そんなこときけえせんぞー」
「怖いのか?」
「たわけー、失礼だがや」
それが嘘だと言う事は火を見るよりも明らかだった。

 友人の八事通いの二回に一回はつきあわされた。そしてイタスパを食べ、彼女の口ずさむトップ・オブ・ザ・ワールドを聞いた。素敵な人だとは思ったが、三つも年上の彼女はあまりに大人すぎた。
  膨大なコーヒーチケットを消費したにも関わらず、彼女と友人の距離は一向に縮まったようには見えなかった。いつまでたっても彼女は店員で、友人はお客だった。
  
  まだ梅雨があけていないある日、前期試験の合間の日曜日だった。学科の友人が参加しているオーケストラの演奏会に彼は招待された。試験期間に迷惑な話だが、気分を変えるつもりで出かけた。招待といってもノルマのチケットが回ってきたというだけだ。眠いのを必死に我慢をしながら、長旅で力尽きた旅人が叩くノックの様な「運命」を、なんとか最後まで聞き、公会堂を後にした。小雨が降る薄暗い照明の下、あちこちで相合い傘が花開き、敷かれた砂利がざくざくと足下で音を立てた。傘の下で抱き合うカップルを横目で見ながら公園を抜けた。公園の出口付近に傘もささずに立ちすくむ男女が居た。サラリーマン風の男の向こうでレイヤードの彼女の目が潤んでいた。膝丈のスカートを履いた彼女は普段にもまして大人びて見えた。
  
 彼は試験を理由に友人からの誘いを断った。あの店で友人の顔を見るのがつらかったし、彼女にどう話しかけたらいいかがわからなかった。断り切れずにつきあったのは、東京に戻る前日だ。
「とんでもないところ見られちゃったね」
友人がトイレに立った隙に彼女が言った。
  
 彼は黙って首を横に振った。
「ねえ、お酒飲める」
「ちょっとは」
「今晩つきあってよ」
頷いたつもりはなかったが、そう見えたのかもしれない。
「7時に杁中のM楽器にいて」
彼女が言い終わった時、トイレのドアが開いた。友人に後ろめたさを感じながら、彼はいつになく緊張していた。
 女性と二人だけでお酒を飲む店に行く。いつかは経験することなのだろうが、それが突然有無を言わさずやってきた。しかもわずか3時間後だ。
  部屋に帰って彼が最初にした事は、全財産を数えることだ。そもそもいくらかかるのかもわからない。学科の新歓コンパの時は、先輩達が余計払っているので1500円しか出していない。そんな額ではすまないだろうと言う事だけは想像ができた。幸いアルバイト代が入った直後だ。なんとかなるだろう。新幹線代をよけ、残りを財布に入れた。
  次にしたことは服を選ぶことだ。散々悩んだものの、洗濯してあるのは薄いベージュのコットンパンツとブルーのボタンダウンのシャツだけだった。慌てて髭を剃り、一足しか持っていないローファーを履いて、20分も早くM楽器についた。
  普段ならレコード屋で過ごす20分など、どうってことはない。だがこの日の20分は果てしなく長かった。洋楽の棚を2回、ジャズの棚を1回見た。機械的にレコードを手前から後に送った。今の彼の興味を引く物は一つもなかった。ふと気になってカーペンターズの棚を見た。真っ赤なジャケットを見つけた。ア・ソング・フォー・ユー。トップ・オブ・ザ・ワールドが入っているアルバムだ。
「人は恋に落ちるとエベレストの頂から下界を見下ろすような気分になる」
あの先生も恋をしていたんだろうか。ジャケットのクレジットを見ながら英語の授業を思い出した。
  5分ほど遅れて彼女はやってきた。店員の視線が
「待ち合わせに使いやがって」
と言っているような気がした。
 どこで着替えたのか、ストライプ柄のノースリーブのワンピースから伸びた白い腕が輝いていた。隣を歩く自分が彼女に相応しくないように思えて気恥ずかしかった。
 彼女はすでに行く場所を決めているようだった。横断歩道を三つ渡り、八事の方へ向かって歩く彼女に、彼は黙って従った。隼人池を過ぎてしばらく行って右に曲がった。なだらかな坂を少し上ったところに木の看板が下がった店があった。
「一度入って見たかったの」
彼女はそう言うと重そうな木のドアを押した。彼の好きなイーグルスが流れていた。薄暗い店内に一歩踏み入れただけで自分の鼓動が聞こえるような気がした。
「アーリー・タイムズの水割り、君は」
「それで」
 初めて飲むバーボンは少しも美味しくはなかった。フライド・チキンやポテトを頼んだが、落ち着いて味わう余裕など彼にはなかった。 
 料理が大方片付いたところで、突然彼女が切り出した。
「別れちゃったのよ」
つきあっていた人は高校の先輩らしい。
 商社で働いていて、今度海外に転勤が決まった。行ったら数年は帰って来れないので、残念だけど別れなきゃならないと言われた。
  そんな話だったと思うが、まだ四年間が始まったばかりの彼には、正直その事情の半分も理解出来なかった。時折、自分の事も尋ねられたが、すぐに彼女の失恋話に戻った。
  突然、場違いなトップ・オブ・ザ・ワールドが流れた。
「出よう」
彼女が言った。
 薄暗い裏通りを歩いて池のほとりに出た。彼女が立ち止まった。すすり泣きが聞こえた。
(いったいこういう時はどうすればいいんだよ)
困っている彼の胸に、彼女がもたれかかってきた。おそるおそる彼女の背中に手をあてた。
ノースリーブの袖から出た素肌に腕が触れた。ハイウェイ・スターのイントロのように心臓が連打を繰り返した。レイヤードの髪から良い香りがした。
 彼を押しやるようにして彼女の体が離れていった
「ありがとう。帰るわ」
タクシーを拾って彼女は帰っていった。その日、彼の胸と手にいつまでも彼女の感触が残っていた。

「ねえ、いつ帰ってくるのよ」
夏休みが終わる頃、東京の家に、突然彼女から電話があった。
「明日です」
「そう、荷物多いんでしょう。車で迎えに行ってあげる」

 新幹線が速度を落とした。ホームの待ち人が次々と後へ流れ去っていく。
「名古屋ってどうも好きになれないっすよねえ、なんか中途半端っていうか」
無遠慮な声を別の男がたしなめている。
「うるせえ」
と思いながら彼は苦笑した。列車が停車しドアが開いた。あれ程田舎くさいと思っていた「大名古屋ビルヂング」の文字が懐かしく見えた。 コンコースの壁画前に彼女はいた。
「なんで電話番号わかったんですか」
「なんでって、君の友達に聞いたに決まってるじゃない。東京の事で聞きたい事があるんだけどって言ったらすぐに教えてくれたよ。彼、毎日来てたみたいだから」
彼女の白いカローラのおかげで30分とかからずに杁中の下宿についた。
「ねえ、部屋見せてよ」
彼女が言った。大家と同じ下宿に住む学生を気にしながら金属の階段を昇った。階段の音がいつもより大きく聞こえた。部屋の掃除をしてあったかどうかが気になった。幸い最低限の事はしてから帰ったようだ。部屋は彼が知る限り一番綺麗な状態だ。窓を開けて空気を入れ換えた。振り返ると彼女と目があった。彼女が近寄ってきて背伸びをした。唇と唇が触れた。離れた彼女の吐息が顔にかかった。今度は躊躇わなかった。彼女の背中に手を回し、包み込むように抱きしめた。

  1976年のクリスマスが終わるまで、彼はトップ・オブ・ザ・ワールドを口ずさんでいた。後ろめたいとは思ったが、相変わらず彼女に夢中の友人には何も言えなかった。時折、ふと鶴舞公園で見かけた男が気になる事はあったが、彼はエベレストの頂から下界を見下ろしていた。
 東京で年を越した。期待していた彼女からの電話は来なかった。名古屋駅から一人で50番のバスに乗った。下宿の郵便受けに一通の封筒が入っていた。
  
ごめんね、ニューヨークへ行きます。もう会わないって決めていたんだけど。卒業が決まったら、彼が迎えに来てくれたの。有意義な大学生活を、

 後期試験は散々だった。
「彼女結婚してニューヨークへ行くらしいがや、この世の終わりだがや」
店で聞き込んできたのだろう。友人がなげやりに、そして脳天気に言った。
(冗談じゃない。こっちのセリフだ)
 
  あの春休み、結局彼は東京には帰らなかった。休みの間に地下鉄が開通した。その日、八事まで一駅だけ乗ってみた。あの店の外から居るはずのない彼女を捜した。オーナーのおばさんが暇そうにカウンターで雑誌を読んでいた。帰りは歩いた。初めて彼女に触れた池の前で足をとめた。彼女を抱いた感触を思い出そうとしたが、温もりは戻っては来なかった。代わりに思い出したのは、傘もささずに雨に濡れて泣いていた彼女だった。

  何故帰らなかったのか、もう良くは覚えていない。ここに居ればまた彼女に会えるとでも思ったのかも知れないし、もしかしたら、この町に愛着ができたのかもしれない。
  
  三十年以上の年月が過ぎ去った。
  まだ彼はこの町に住んでいる。

この本の内容は以上です。


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