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 丸尾信二は午後一時きっかりに事務所に入る。彼のパンクチュアリティは高い。何しろ時の神様が司る仕事をしているからには、自分も時を大切にしないと、安心して仕事に専念できない。午後一時、古い雑居ビルの一階に借りた事務所に入るとお茶を淹れて心を鎮めてから、郵便とファックス、加えて電子メールをチェックし、一日の流れを組み立てる。午後二時に看板「丸尾信二事務所」を表に出す。受付と接客が始まる。予約客も直接来店の客も、二〇分で済む客も、一時間以上かかる客も、様々な客が来る。話を聞き、必要なアドバイスをする。お説教はしないように注意している。午後八時に受付を締め切って、午後九時前に最後の客を送り出すと、その日の営業は終わりだ。早ければ午後九時過ぎ、遅くても十時半頃には事務所を出る。木曜から日曜まではこうして過ごす。カント程ではないが、判で押したような営業の日々である。
 月曜は講習会の講師を引き受けている。だから、残りの火曜と水曜が休日だ。趣味のフルートを奏でたり、知人と食事をしたり、散歩や買い物も楽しむ。気になることがあると、内外の専門書で仕事に関する研究もする。目的がない時間が出来て使い道を思いつかないと、目的がないということを目的とする時間を設定する。待ち時間は苦手であるという自覚はある。
 であるにもかかわらず、客を待つ商売を選んだのは何の因果か、というのは一人で事務所にいると、時折出る口癖である。それが出るたびに、自分が選んだ職を考え、時計に目をやってから、書類や専門書に目を落とす。それが自分を律する唯一の絆なのだと言い聞かせる。
 だから、既に春の潤みを含んで豊かな陽射しに溢れていたその日も、事務所に入り、デスクについて忙しく働き、客をさばいていた。口癖が出たのは、たまたま午後六時半で客足が途絶えた時だ。この時刻では珍しく、少々幸せな気分を味わうことにする。立ち上がって高山烏龍茶を淹れ、香りに少しだけ酔う。茶碗は淡い青緑に満ちて微かに湯気を立て、口に含めばさらりと涼しい後味が鼻から脳天へ抜ける。
 上機嫌でメールをチェックするが、特に返事が必要なメールもなく、本棚から仕事の本を取り出そうと指を走らせた。指は止まらずに、デスクに戻って鞄から読みかけの「言語と脳科学」を取り出した。仕事柄、心をとりまく諸問題についての情報収集は欠かせない。茶を啜りつつ読み進めていく。
 序論を経てやっと言語学と脳科学の関わりに触れたところで、ふと目が本から離れた。細長い部屋は飲食店に狭すぎても、個人事務所には快適だ。その奥、客を迎えるデスクに着いた丸尾から見て、右には本棚とロッカー、その脇にはタペストリー。反対側の壁にかかる時計。丸尾の背後には、カレンダーが存在するはずだ。シンプルな、いつも通りの事務所である。
 時を刻む硬い音は、時計からの直接音と壁に反射する間接音とが微妙に違う硬さで耳に到達する。音が外界の気配を圧倒する。微かな緊張を覚えた瞬間、ほとんど自動的に手が左前方のパーソナルコンピュータに伸びていた。
 画面にはシンプルな図が表示される。円内に記号が散らばり、中心から放射状に伸びる直線が円を十二分割している。天球図を黄道で輪切りにして、二次元の円に射影したそのチャートには、太陽に月、太陽系惑星などが記されている。
「まだ客は来そうだな…いや、これは客じゃないか」
 呟きざま、一度戸口に目をやる。特に事もないそこから目を離し、再び本に戻した。

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 どれくらい経ったか。外界の音、商店街のBGMが微かに飛び込んできた。戸が開いたのだ。小さく開いたそこに、卵形の小さな顔が覗いていた。
「あのぅ、まだやってますか」
 顔立ちにしては意外に低い声に時計を見ると、七時と四十分を過ぎようとしている。
「だいじょうぶですよ、どうぞ」
 白くつややかな顔、細く真っ黒な瞳がはにかんで、身体を屋内へ連れ入る。静々と白いストレートのジーンズが歩み、デスク前で止まった。クリーム色の上着を脱ぐと、空色をさらに淡くしたセーターが細身の彼女を引き立てている。
「はじめてなんですけど」
「どうぞ」と手で椅子を勧めつつ、丸尾は見上げる「まずはこちらにご記入ください。表の料金表は見ました?」
「えぇ」
 さわやかな外見とは裏腹の声だが、はっきりした発音で聞き取りやすい。彼女は机上の紙を見ている。氏名、生年月日、出生時刻、出身地と現在地を記す欄を目で追ってから、丸尾に向ける。
「あの…相談に、こういうのは必ずいるんでしょうか」
 やはり来たか、とは表情にも出さず、身体を椅子に預けて見れば、先のはにかみは頬を中心に堅い。笑みの鎧に向けて、静かに口を開く。
「そうですね、どうしても伝えたくないなら、今の時点での情報だけでご相談に乗ることは可能ですが、少々精度は落ちるかもしれませんね、内容にもよりますけど。どういったご相談でしょうか」
「あの…そうだな、なんていえばいいだろ…」
 俯いたまま十秒ほど固まっていたろうか。そういう女性は珍しいわけではなく、しばらく息を整えて待っているとおもむろに顔を上げるものだ。中には泣き出す女性もいる。こういう時は待つしかないことをごく自然に学べたから、これを職業に出来たのかもしれない、などと思っていると、いきなり顔が上がり、意外にも鋭い目が彼をとらえた。
「傍観者になる方法って、ありますかね」
「は?」
 思わず首を傾げたが、それは聞いたことのない質問というより、ぼーかんしゃという語感からすぐに漢字が出てこなかったからだ。黙ってこちらを見ている彼女は、一度視線を落とした。
「ぼうかんしゃって、要するに脇で立って見ているだけの人、ですよね」
「はい」
 答えてからもう一度こちらに目を向け、軽く息を吐いた彼女を前に、丸尾も軽く息を吐き、次いでゆっくり息を吸った。彼女の気配が丸尾に向かう。
「ヘンですか」
「ヘンというより、何に対する傍観者になりたいのか…」
「だから、どんなことに対しても、です」
 毅然と背筋を伸ばす彼女が、即座に答えた言葉をもう一度胸においてみる。つまりは、人生の傍観者になりたいということか。
「傍観者、ねぇ…とにかく傍観者になりたい、と」
 はい、という声色は明るい。こちらに視線を定めて動かない彼女を前に、丸尾は両肘を机に置いた。
 よくわからない質問が来たら、まず話をしてみるしかないし、聞いてみれば意外にこちらに得るものもある、それが丸尾のスタンスである。普通の相談では埒があかないからこそ来る人々は、まず話を聞くだけでも半分くらい解決してしまうこともあるし、心の病が関係していそうなら神経科や心療内科へ紹介する。ただ、これはどこか違う。すぐに把握できないもどかしさにゆっくり息を吸うと、彼女も自分の緊張に気づいたのか、肩を落として息を吐き出した。
「わざわざ質問しに来るってことは、傍観者っていう職業があるわけじゃないことはわかっていて、たとえば生計のために就職しても、男女関係でも、下手すると親子関係でも、とにかく自分は傍観者として、当事者じゃないようにしていたい、ということかな?」
「うーん…どっちかといえば、傍観者という職業につきたいくらいですけど…でもいいです、そういうことだとしても」
 とりあえず質問を発することが出来たためか、質問を否定しなかったためか、顔が和らいできた。丸尾は先ほどのチャートを思い出し、口に出さずにトレースしていく。質問者を示すポイントは隠れた場所にあり、簡単に意図は読めそうにない。他に何か考えていそうに思えるが、客の質問に必要以上に立ち入るのも問題がある、自分はそういう職業ではない、もっとテクニカルに答えたい。どこまで踏み込むか。
「表の看板の相談とは毛色が違いますが、こういう時は四〇分一セッションでみてます。十分千八百円として七千二百円」
 静かにえぇと答えた彼女の目は、力が出てきた。少し念を押す必要を感じた丸尾が続ける。
「ただ、今のお話からすると、質問の答えがはっきりしにくい内容だから、四十分で終わる保証はない。また、話もまとまらないかもしれない。一応、それはご承知いただきますよ」

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     あとがき


 「オモイのタネ」は二〇〇四年十一月の第3回文学フリマで発売した新刊『オモイのタネ』の表題作として発表しました。今回、電子書籍として改めて刊行いたします。
 なお、最初に刊行した際には、「No News is Good News -- 繭玉2」を併録しました。この作品は、今回の電子書籍版では収録しませんでした。作品の内容や出来に不満を持っており、再版しない所存です。
 「オモイのタネ」は、元技術職の占星術師という変わった経歴の男が、傍観者になりたいというやはり妙な望みを持つ女性客との会話を軸とします。ここでは占星術の内容や妥当性をテーマにしてはいません。とはいえ、作中の占星術に関する知識や解読手順は実際に使われるものであり、リサーチした内容を反映させています。
 作中の、人の行動や意識が決定論的に語り得るのか、そこにおいて自由意志とはどのような扱いになるのか、といったことの当否や印象は、お読みになった方により様々だと思います。そのような問いに明確な答えを、作品で示せるものでもありませんが、人間について真剣に考えればこの問いにはぶつかるのは当然です。哲学で長く論じられてきた問題に、自然科学という視座から人間を分析出来るようになったのはせいぜい二〇世紀後半からであり、積み重ねが本格化するのはこれからというのが、哲学や心理学、また大脳生理学などの知見でしょう。一方、丸尾という男は、自然科学をベースにする工学や技術を仕事にした上で、占星術という原始的な認識のパターンも知り、一見矛盾するものを同居させている面があります。そんな人間がみる世界を通じた、答えのない問題に対する思考実験を彩った面はあります。
 企みはともかく、これまでの作品と同じように、ちょっと変わった話を、自由に楽しんでいただけるだけでも嬉しく思います。お読みいただきありがとうございました。

作者拝


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初出

「オモイのタネ」
 冊子「作品集2『オモイのタネ』」に収録
 2004年11月14日(第3回文学フリマ)

なお、電子書籍化に当たり、ご購入前の立ち読みページを設定する都合上、最初の版にはなかった細かな節分けを行っています。本文には変更を加えておりません。

[注]紙媒体の「橋本賢一 作品集2『オモイのタネ』」では、短編「No news is good news -- 繭玉2」も収録していましたが、この作品は電子書籍版には収録しておりません。

試し読みはここまでです。続きは購入後にお読みいただけます。

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販売価格200円(税込)

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