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 最後の一語を読み上げたとたんに、その娘が泣き崩れたのは、結末が兄の死を書いているからだった。
 傍らに控える通訳に署名を求め、報告書が適式の書類になるのを眺めるうちにゆるやかな署名が走り、閉じられ、渡される。
「そのキュディス人の署名も、必要になります」
 立ち上がると、長いこと異国の言葉で読み続けた喉の痛みに気付く。
 厚い報告書を抱え、豪奢を尽くした悪趣味な執務室を横切りながら、船上での仕事は終わりだと急に気がゆるんでよろめきそうになる。船の揺れが少なくなったのは首都ラスペの内港に入ったからであり、それで醜態をさらすことにならなかったのであるが、それは法で裁かれる刻が近づいていることを意味していた。
(しっかりしろ、リニー)
 堅い樫の椅子を引き、座って泣きじゃくる娘の前に、書類の束を置く。
「署名が必要だ。これが真実であるならば署名を」
「これは兄の不名誉です」
 感情を振りまくそのうつくしい娘を見つめ、諦めたように呟く。
「ならばいい。しかし、これは不名誉ではなく、お前の兄は戦いに敗れただけで、堂々と戦ったと書いてある。事実はなかったと逃げ回るといい。逃げ回るということは自らがやましいと認めることだ。自らにやましさがないと分かるなら、現実と戦え」
 はたかれたように娘は視線を上げ、わたしの視線を受けると、震える手でペンを手に取る。どっと疲れが出たような気がして、娘をぼんやり見る。北方の大国キュディスでの顛末はこれで終結したはずで、報告書が適式であろうがなかろうが、それが発禁処分となることはわかりきっていた。
 木製の、奴隷用のカップを握り、生ぬるい水を飲む。
 ひからびた喉をしめらせる。
 海鳥の声に気づき、次の戦場がやってきたことを確かめる。
(この娘はなにと戦っているのだろう)
 そう想起したときに、自分が抱え込む膨大な戦いの全貌が見えた気がして、吐き気がし、手の中のカップを掴んでいるのが困難になる。
 まずは法廷。
 そこから海洋の覇権国家シドの闇はどれだけ深いのだろうと、先を読むことはできそうになく、首都ラスペに潜む闇の商人たちとネットワーク、シドの成り立ち、国家がどのように維持されているか、犠牲になっているものたちの嘆き、全貌が明らかになったときに最高権力者たちはどのような処断をするか、と途方もない広がりが目の前に広がる。

 娘が、必死の表情で署名する見る。
 きれいな指が、厚い報告書に署名していく。
 数秒の時間のはずだったが永遠に思える。
 そう、軽口をたたいてもいいほど、あっけない膨大だった。
 報告書を受け取り、よくがんばったなと言葉をかける。なだめる。もう一度、豪奢な執務室を横切り、座り、通訳という名目のシド貴族に話しかけた。
「これで終わりだ。さすがに疲れた」
「そ、そうでしょうか? 読んだ限りは」
 わたしは、シッと指を立て、言葉を止める。
「立つ気があるならいい。止めはしない。だが、義務ではないはずだ。わたしの問題だ。それとも戦いたいか? 世界と?」
「いえ」
 くちびるを噛みしめる青年を頼もしくみる。
「仲間だ。同じものをみている。が、危険は侵すな。門は開いている。焦る必要はない。頼りにしている」
 愕然とする青年に微笑みかける。
「しかし、ガスコイン卿。あなたはたったひとりで」
「リニーだ。キュディスでもひとりだったとは思ったことはない。いまも仲間ができた。楽しい仕事だった。この仕事を誇りに思う。だからいまもひとりじゃない」
 報告書をみせて、肩をたたく。
 船内の誰もがわたしを怖れているのは分かっていた。
 32名の水夫たちも、仕える数名の北方蛮族たちも、青年も、わたしという存在は心をわしづかみにする存在であるようで、それは、わたしが切りぬけた絶望的な戦いが、たったひとりの小娘を特別な存在に仕立て上げているようだった。
(借財の形にしては、いい仕事だったか)
 乗っ取った奴隷船が唯一の戦利品で、その忠誠は生命を維持する方便にすぎないのだが、ラスペに上陸するまでは手放すことができない安全である。
 寄港が近いのに旅装を解かないのはそのためであるし、冷たい声も、貴族然とした態度、軽蔑したようなまなざし、厳しい言葉も、すべては船をわたしの支配下に置いておくための方便であることは否定しない。
 100人の奴隷を収容可能な船を、マードックの元部下たちが占拠することの方が正当性があるし、無気力な水夫が結託すれば、それは容易なはずだった。
「御客人」
 執務室に水夫長が現れる。冷たい声で話す。
「なんだ」

「接岸の許可が下りました、その」
 水夫長の怯えた瞳を、深くみつめる。
 毅然と立ち上がり、帯剣したまま、その横を通る。
「罰を受けるのはわたしだ。お前たちには罪もない。それとも、このような船の水夫をしていることを恥じているのか? ならば恥じろ」
 振り返ると、縮み込んだ老水夫の姿があるのみで、それに感慨は浮かばない。
 わたしにはまだ彼の地での戦の音が地鳴りのように残っていたし、フードを払えばこびりついた粉雪が舞うような気がした。それでも、甲板で見上げた太陽は南国のまぶしさで、ねっとりと肌にまとわりつく海風は故郷を感じさせた。
(戻ったか、ラスペへ)
 大洋の覇権国家シド。
 その首都を海から眺め、フードを脱ぎ、髪がなびくままにして、ふと浮かんだのは、庭には野バラが欲しいというささやかで陳腐なことだった。
 財産を売り払って山村に住み、葡萄酒とチーズを作って静かに暮らす。
 そのとき、庭に野バラがあるといい。
 書物はどうするのか。
 それなら神殿を頼って修道女のような日々の方がよいだろうか?
 しかし、その神殿に野バラを植えることは許されるのだろうか?
 他愛もない空想をし、それより暖かい暖炉の火にあたりたいと願う。
 キュディスでの自由交易都市アドレルを巡る争いは心を凍てつかせるには充分で、その苛烈な結末に対する罰を国家はわたしに与えることは自明だった。
(だれか、野バラの庭を欲しいと思ってくれる人が現れるのだろうか)
「リニー、準備はいいか?」
 ふいに傍らに少年が立つ。
 北方蛮族らしく毛皮を四肢にまとい、いまにも羽ばたきそうなしなやかな肉体で、上空を見上げて風を読む。キュディスの翼竜兵団を支える、生え抜きの精鋭。この少年が求めることは、はっきりしていた。
「復讐か? シドに対する?」
「そうだ」
 まっすぐな視線と、正直な回答に笑う。
「ならば徹底的に行わなければならない。それを遂行するのに、わたしときみでふたりで足りるか?」
「リニーが考え、おれが飛ぶ。足りている」

 少年の明快な答えにまた笑う。それならば行こう。微妙な問題が残っているとすれば、それはわたしに反逆罪で死が言い渡されるかだった。飛びたいか? 飛びたい。この少年と復讐を果たしたい。外套のポケットから、じゃらじゃらと金属音を鳴らす鍵束を取り出して、少年にみせる。
「ならば、飛ぼう」
 少年は懐から笛を取り出し、複雑な韻律でそれを吹く。上空から翼竜が甲板に降り立ち、その衝撃で船が揺れる。少年は駆けだし、今にもシドを滅ぼしそうになる。
「リニー! 報告書が!」
 甲板に顔を出した通訳が言う。その真摯な眼鏡顔に、わたしは風にあらがって叫ぶ。
「手続きは分かっているはずだ! お前に全権を委ねる! 役所は任す!」
「しかし、貴方は! まだ、その……、法の判断を仰いでいない!」
 ふっと笑う。
「召喚状を提示されるまでは、わたしは自由だよ」
 手を振る。乗り慣れた翼竜の背へと歩む。少年の手を借りて、その背に乗り込む。少年は鞭を打ち、翼竜は空高く舞い上がる。
 その途端、全身に南国の空の風を浴びた。

 2.

 キュディスの翼は、北限の蛮族連合を結びつける、さながら鎖のよう。
 戦火絶えない広大な辺境を北方最大の国家たらしめているのは、最強と称される翼竜の兵団。
 活火山の灼熱と地吹雪の極寒。
 蛮勇と規律。
 火山神信仰を核に築き上げられたカルティックな翼竜兵団が、この最強国の制度のすべてとなっている。
 虹翼の名で知られる精鋭兵団は、キュディス全土で頻発する争いのために七兵団にわかれ、その独特の装束から「虹」と呼ばれる。七翼のうち一翼が飛べば国が滅び、二翼が飛べば帝都が落ちると語られる。
 ホラ好きなシスティア人の弁によれば、かつて衝突した北方二強の一角トランとの大戦で飛んだ翼はわずか三翼で、大戦の原因となった浮遊要塞都市は猛攻を受け、墜ちたという。文字通り墜ちたと。真っ赤に燃え盛る陥落を、大地を引き裂く墜落を、そのシスティア人はその眼で見たと歌うが、トラン・キュディスの熾烈な大戦は、もう何十年も前の話だ。
 信頼できる筋の話では、虹翼騎竜兵団の絨緞爆撃により国境域が不毛の地となったことで、大戦は終結したという。
 そう。
 たしかに、わたしはその一翼と戦った。
 しかし、それは、戦ったと言えるか?
 500騎近い翼竜の波状攻撃に自由交易都市アドレルは無力で、それは戦いと言うより、殺戮に近かった。アドレルは上層部のみがごっそりと滅ぼされ、富は灰燼の中に消えた。一般市民を守ったと主張するのは容易ではあるが、それは方便にすぎない。
 フードを払い、少年の背中をみる。
 ラスペの海上を走り、塔の都市の中に、復讐相手を探そうとする横顔をみる。
 純粋な乗り手ではあるが、誇り高く、腕はいい。
「北西に向け、マードックはそこにいる、奴隷市場だ」
「リニー、しゃべるな。上昇する。矢が狙ってる」
 少年は翼竜を湾から上昇させ、島々にひしめく街並みから上昇する。それは耐え難い変更で、翼竜の背に身体が潰されるのを奥歯を噛んで耐える。大河クローナに抱かれる塔の首都ラスペは、突如あらわれた翼竜乗りにざわめき、しばらく使われていなかった塔の上にさえ急ごしらえの弓持ちが、にわか仕込みの弓を引き絞る。
(アドレルの顛末が伝わった?)
 燦然と築かれた無数の塔たちが、キュディスの兵団に怯えるというのはおかしな話だ。そう重力に潰されながら思う。


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