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遠足

 山神小学校六年三組担任教師、武田真吾は、イライラしながらバスのタラップを何度も往復していた。
 校舎の大時計を見上げると時刻は午前九時十三分。
  うららかな春の空の下、蒼天山に向かう六年生の遠足バスは、武田のクラスを残してみな出発してしまっていた。他の学年もそれぞれの目的地に出発し終え、恐らく学校に残っているのは校長先生と用務員の松林さんぐらいだろう。
 武田のクラスの出発が遅れているのは、生徒の嵐山金太が突然消えたためだった。金太が学校に登校していることは、武田も出発式の時に確認していて間違いないのだが、全員がバスに乗り込む段になって不意にいなくなってしまった。
「一体どこに行ったんだ? あいつは」
 武田は学生時代に空手で鍛えた身長百八十五センチ、体重九十キログラムの筋肉質な巨体を揺らし、タラップを大きく踏み鳴らしながら、落ちつきなく乗り降りを繰り返していた。まったく、あのお調子者は、いったい何をやってるんだ。
 大時計をまた見上げる。嵐山金太がいなくなってすでに十五分が過ぎようとしていた。 停車したままで、いっこうに動き出そうとしないバスの中では、待ちくたびれた生徒たちがすでに大騒ぎをしている。
「リイ先生、もうあんな奴ほっといていこうよぅ」
 ふいに武田の服のすそを、背後からひっぱりそう言ったのは、沢村吉光だった。さっきからしつこく武田にじゃれてくる。リイ先生というのは武田先生のあだ名だ。
「もう席に戻れ、吉光。金太はもう少しで来るから」
 武田は、顔だけで振り返ってうるさそうに言った。吉光はむくれたようにぷいっと後部座席の方に走っていった。
「悪いなあ、運転手さん、もう少し待ってくれ」
 武田が運転席にそう声を掛けると、人の良さそうな老運転手は前方を向いたままでこちらに向かっていいよ、いいよと手をひらひらさせた。
  最前席に座っている奈美子がさっそく老運転手のまねをして手をひらひらさせている。武田は苦笑しながらも、奈美子に怖い顔を作って見せた。それを見たとたん奈美子はぎょっと驚いて両手を膝の上にきちんと置いた。
 そんなに俺の顔は怖いかな? その奈美子の反応に武田は思った。
 ふと、娘がまだ赤ん坊の時、武田が彼女を抱き上げるといつもひどく泣き出して、なかなか、なついてくれなかったのを思い出した。
 それにしても金太の奴、一体全体どこへ行ったんだ? どうせ便所だとは思うが……まさか便所で気分が悪くなって倒れたんじゃないだろうな? あのお調子者は昨日さんざん遠足のことで騒いでたから、意外とありうるかもしれない。
 そのいやな想像をうち消すように、武田は車内に目をやった。
  遠足直前のバスの中は生徒たちの歓声や騒音で満ち満ちていた。
 新学年の初めの月といっても、五年生からの繰り越しクラスなので、お互いに気心は知れていて完全にリラックスしたムードだった。すでにリュックを開けてお菓子を食べてる生徒がいたり、その菓子を取り上げて投げ合っている生徒、カラオケの機械を持ち込んで歌っている生徒や携帯ゲームに熱中している生徒など、みな好き勝手に振る舞い、いろんな物や音がバスの中を飛び交っていてとにかく凄い騒ぎだった。
  武田は大きく息を吸うとよく通る野太い声で怒鳴った。
「おいッ! 静かにッ! ……静かにッ! ……そこ、まだうるさい! ………よし。聞いてくれ……ええと、誰か金太がどこに行ったか知ってるか?」
  お説教を予想していた生徒達は、気抜けしたように一瞬ざわつき、そして口々に金太の行方についてしゃべり始めた。しかし結局「出発式のあとから見てないよなあ」ということにクラスの連中の意見は一致した。
「金太の行き先は誰も知らないのか……」
 武田は腕時計を見た。時間は刻一刻と過ぎていく。だが金太はいっこうに戻ってくる気配はなかった。このままだと、すでに出発している他のクラスの予定まで、狂わせてしまうかもしれなかった。
「先生、金太はトイレに行ってるんじゃないかなー」
 武田のそばの座席に座っていた宇佐見唯子が武田を見上げて言った。彼女はそのうさぎを連想させる可愛らしい容姿と名前から誰からもうさ子というあだ名で呼ばれている。
「そうよね、昨日あんなにはしゃいでたのに来ないのはおかしいよね」
  と隣の席の柏木美雪がうさ子に話しかけた。美雪はきれいな長い髪とすらりとした雰囲気が印象的な女の子だ。
 うさ子と美雪、この二人は一年生の時からクラスが同じの仲良しでいつも一緒にいるが、かなり対照的なコンビだった。美雪は学級委員長をいつも任されるような優等生タイプであるのに対して、うさ子は好奇心旺盛で時々突拍子もない行動に出て担任を困らせる、どちらかと言えば問題児の部類にはいるような子である。しかしこの二人は意外と馬が合うようでほとんど喧嘩するようなこともなくこれまで過ごしてきた。
「とりあえず俺がひとっ走りしてトイレの様子を見てくるか」
  武田は誰に言うともなしにそう言った。バスの止まっているこの校庭から、最も近いトイレは体育館の通路にある。だだし、かなり汚いので緊急時以外は誰も使用しようとしない。それに今日は遠足だから体育館通路口はロックされているだろう。次に近いのは校舎の一階にある職員室の隣のトイレだ。校舎の裏口はまだ閉められてないから武田は金太がそこにいると判断した。
「じゃ、ちょっと出てきますので、後よろしくお願いします」
 とさっそく半ば居眠りしかけている老運転手に声を掛け、武田はタラップを降りた。するとうさ子と美雪が追いかけてきた。
「リイ先生あたし達も一緒に行ってもいい?」
 宇佐見唯子ことうさ子が甘える風に言った。
「来なくていいよ」
「そんなこと言わずにさー、お願い、手伝いたいの」
「手分けした方が早く見つかるかも」
 柏木美雪はうさ子の後ろから控えめにそう言った。
 確かに、金太が校舎のトイレにいなかった場合は何人かで手分けして探さないと時間が掛かりすぎるかもしれない。うさ子が何かしでかさないか心配だが、しっかり者の美雪が一緒なら心配ないかな……。
「それならお前らは体育館の便所を見てきてくれ。俺は校舎を見るから。多分、鍵が掛かっていて体育館には入れないと思うんだけど一応な。
 ───あ、そうだ、体育館裏も念のため見ておいてくれ。ただし、金太がいなかったらすぐバスに戻ってること」
「うん。わかった」
 うさ子は素直にうなずいた。
「じゃあ先生、僕たちも行ってもいいですね」
  急に頭上から聞こえたその声に武田が見上げると、タラップに立った北野春樹がつくったような笑顔を浮かべながら、武田を見下ろしていた。その後ろには先ほど武田にまとわりついていた沢村吉光がうつむいて立っている。
 クラスでも三番目に長身で、目元までたらした前髪が印象的な北野春樹と、小柄で自信のなさそうな目がきょろきょろと落ち着かない沢村吉光、二人はいつも一緒に行動していて仲良しとクラスのみんなには思われているのだが…。
「こんなにいっぱい来てどうすんだよ」
 武田はうさ子たちを連れて行くことにしたのをやや後悔しながら言った。
「先生、それはひどいじゃないですか。僕たちは先生のお手伝いがしたくて、来てるだけなのに。先生方はいつもお互いに協力しなさいって言ってるじゃないですか」
 春樹は自慢の髪を手でパサッと跳ね上げながら、堂々と言ってのけた。
「確かにそうだな」
「そうですか、ありがとうございます。行くぞ吉光」
  武田に断る隙を与えず、春樹は素早く吉光を連れバスを降りた。
「しょうがないな、だったらお前らふたりは俺と校舎に来てもらおう」
 少々苦い表情で武田は言うと、周囲の生徒たちをゆっくりと見渡し、
「よし、行くか、もし何かあったらすぐ言えよ」
 武田は校舎に向かって走り、うさ子と美雪は体育館の方向に走って行く。遅れて、春樹が吉光を引っ張るようにして、武田の後を追い走って行く。
 武田は走り出しながら、ふいに空を見上げた。さっきまでの晴天が嘘のように、空を灰色の雲が覆い始めている。灰色の雲はまるで獣のように校舎の背後から忍び寄り、この学園を飲み込もうとしてるように武田には感じられた。


校長室

武田が校舎の裏口(正面玄関は施錠されているため)に一足先に到着して、靴を脱いでいると、すぐに春樹と吉光も追いついて来た。
  目の前にそびえる校舎は東西に伸びる長方形の建物で、三階建て、正面中央に玄関口、裏手に東西二カ所の出入り口という、いたってシンプルな造りの校舎だ。これとは別に古めかしい校舎が南にひとつあるため、区別して新校舎と呼ばれることもある。
 武田は靴を脱ぎ、普段はシューズを履いてから入る校舎に、靴下のままで上がり込んだ。春樹と吉光もそれに習い後に続く。
 校舎内はシンと静まり返っていた。人の気配は全くなく、照明も落としてあり、外のあかりだけなので薄暗い。窓の外を見ると黒い雲が一面に立ちこめ、今にも降り出しそうだった。
 武田は遠足の行く末を案じていた。生徒たちはみんな、口ではめんどくさいだの何だと言っていたが本当は楽しみにしてたはずだ。特に金太は遠足だ遠足だと一番騒いでいたのに…。よっぽど変な物でも食ったんだろうか?
「先生、どうします?」
 武田の背後からニコニコと愛想良く春樹は言った。
「ああ。そうだな」
 武田はチラリと腕時計を見てから、
「お前らもいるし、念のため俺はひとっ走り三階の教室を見てくる、だから奥のトイレは頼むな」
  この階のトイレは廊下の奥、職員室の隣にある。そこをふたりに託し、武田は三階にある六年三組の教室に向かうことにした。教室で忘れ物を必死に探している可能性もあるかもしれない、そう考えていた。
「あ、リイ先生」
  さっそく階段に向かおうとする武田を吉光が呼び止めた。
「ん? なんだ、吉光」
「ぼく、今日の朝、誰かが裏門の階段のとこにいるのを見たよ。もしかしたら金太くんじゃないかなあ」
 教室で朝礼を終えて校庭に出ようとしているとき、窓の外にちらりと見たのだった。
「裏門に?」
「なにいい加減なこと言ってるんだよ、吉光。裏門は階段が急で危ないからって開かないようにしてあるはずだろ」 
  春樹がすかさず横やりを入れた。
 この山神小学校は小高い山の頂上付近にある。山上小と間違って表記されることもあるほどだ。
  だから、学校の正門から町へ下って行く道路は、まるで蛇が巻き付いたように、この山をなだらかにぐるりと巻いている。その道路の途中に降りる近道のための階段が、学校の裏手にはついているのだが、その側は切り立った崖のような急斜面になっていて、なにしろ急なので、子供の怪我が多く、数年前に保護者からの要望でその階段へ降りるための裏門は封鎖されていた。
「でも、見たんだけどな……」
  吉光は小声でつぶやいている。
「わかった。そのことは後で詳しくきこう、いまは時間ないからもう行くぞ」
 そして武田はふたりにはやくなと、言い残しタッタッタとすぐ側の階段を掛け上っていった。
 それを春樹は笑顔で見送っていた。しかし武田の姿が見えなくなった瞬間、春樹の表情は一変し、冷えた表情になっていた。それは吉光だけに見せる表情だった。
 この二人、いつも一緒に行動していて傍目には仲が良さそうに見えるのだが、実は春樹が吉光を強引に連れ回しているという関係だ。春樹はまるで吉光を自分の手下か何かのように扱い、色々なことを命令したり、悪質ないたずらを仕掛けたりするのだ。
 しかし、春樹は先生の前や他の生徒の前では決して吉光をひどく扱ったりしなかったので、そのことは誰にも知られずに、彼の嫌がらせはますますエスカレートするばかりだった。吉光の方もそんな関係が嫌でたまらないのだが、体も小さく気の弱い彼は、どうしても逆らえないでいた。
「おい、吉光。お前がトイレ見てこい、いいな!」
 まるで自分の支配権を誇示するように春樹は言った。
「……わかったよ」
  吉光は嫌々ながらも頷いた。
 しかし内心では怒っていた。何だよ、おもしろそうだから行ってみようって言って無理矢理僕を連れてきたくせに、命令するだけで、自分は何にもしないなんて、ホントに嫌な奴だ。ああ! 僕がリイ先生みたいに強かったら春樹なんかケチョンケチョンにしてやるのになあー。
「あ、何か言ったか?」
 春樹が先を歩く吉光の背中を小突いて言った。やばい、やばい、知らず知らずの内に吉光は声に出してブツブツ言っていたようだ。
「何にも言ってないよ、春樹君」
 そう言うとトイレに向かう廊下を逃げるように歩き始めた。春樹もゆっくりと後に続いた。
  玄関ロビーを横切ると事務室があり、その隣に校長室がある。薄暗い廊下の中、『校長室』と書かれた白いプレートが、光っている。吉光は校長室の前を通り過ぎた。
 その後をぶらぶらとついていく春樹は、校長室のノブ式のドアがほんの少しだけ開き、室内の明かりが廊下に漏れているのに気づいた。
  校長がいるのかな? 春樹はそう何気なく思いながら、ふと好奇心に駆られ校長の様子をこっそり覗いてみたい気持ちになった。
 一方、前を歩いている吉光は、ついてきているはずの春樹の気配がしないので、後ろを振り返った。するとちょうど春樹が、ドアの隙間からやや身を屈めて室内を覗こうとしているところだった。
 その時、奇妙なことが起こった。
  まるで校長室の内側からそよ風でも吹いたように、春樹の目の前でドアがゆっくりと廊下側に開いたのだ。そしてその途端、春樹が石にでもなったように身動き一つしなくなった。その目は一点をジッと見つめ大きく見開いていた。
 室内からずるずると何かが這いずるような音と低くうめくような声が、吉光の元まで聞こえた。春樹は何を見ているのか自分の足下を凝視し続けている。しかし吉光からは、その春樹の横顔は見えても、彼が室内の何を見ているのかまでは見えなかった。
 いきなり、春樹は呪縛が解けたように口を異常なほど大きく開いた。叫ぼうとしている。しかしあえぐ息が漏れるだけで声は凍りついてるように出ない。
 春樹の足の辺りを見た吉光は息を飲んだ。春樹の右足首を青白い手がグイとつかんでいる! 次の瞬間、もう一方の足首にも冷たそうな青白い手がムンズとかけられた。そして、よく見るとその青白い手は両方とも右手だった……。
 ───ふたりいる
  吉光がそう思った時には春樹の両足は四本の腕でぐわっと掴まれていた。
  両足をがっちり掴まれた春樹はついに大きな悲鳴を上げて仰向けにドンと倒れた。その機を逃さず、青白い手の持ち主は一気に校長室に春樹を引きずり込む。
  倒れた春樹はその目の端に呆然と立ちすくむ吉光の姿を捉えた。春樹は必死になって吉光に手を伸ばした。吉光は、助けを求めて懇願するような春樹の目を一瞬見た。「助けてくれ、お願いだ、吉光」その目はそう語っていた。いま吉光が駆け寄れば、その手を掴むことが出来たかもしれない、だが、彼のした行動はただ、おびえた表情でかすかに首を横に振ることだけだった。
  春樹の手は、ドアの下の方を数秒掴むのがやっとだった。そして無情にもそのままドアは引っ張り込まれる春樹の手によってバタンと閉じられた。次の瞬間、室内で猛獣が蠢くようなガサゴソという激しい物音がした後、急にパタッと静かになった。
  後には数分前と同じ、何事もなかったように静まり返った廊下に、吉光の激しい息づかいだけがただ響いていた。


臨時ニュース

 その頃、バスの運転手である高田義昭(59)はいつまでも騒がしい生徒たちを気にする様子もなく、ラジオ放送を聞きながら妻が用意してくれた魔法瓶の中のホットコーヒーをニコニコとうまそうに飲んでいた。
  ラジオ放送では、お気に入りのDJが「あの人に贈りたい曲」というテーマで、寄せられた視聴者の手紙を相手に軽妙なトークを繰り広げている最中だった。
「番組の途中ですが、臨時ニュースです」
 突然割り込んできた醒めきった声に、高田は引き込まれ耳をすませた。はじめて背後の生徒たちの声がひどく耳障りにきこえてきた。 
「今朝未明、X市中央駅構内で起こった薬物汚染とみられる集団中毒事件についての続報が入りました。警察の発表によると、つい先頃、犯人グループからX市の地元新聞社に犯行声明が出され、この集団中毒事件はテロ事件と判明したとのことです。被害にあった会社員など数名は重度の薬物中毒と見られ山神中央病院に緊急入院したとのことです。現在この……」
「ほう、山神中央病院と言ったらこの学校のすぐ近くじゃないか、お気の毒に」
  バスの運転手はそうひとり呟くと、まだ続いているニュースのボリュームをゆっくりとあげた。


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