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山田のおかげ 1

 あたしはラーメンが、嫌い。


 あれは忘れもしない高2の冬。
 その日は、めちゃめちゃ寒い日だった。


 もう寒くて寒くて、凍えそうになりながら、暖房の効いた店内に足を踏み入れた途端、眼鏡が白く曇って、何も見えなくなった。

 そんなあたしの様子に気づいた彼が、脇で笑いをこらえている気配を感じながら、仕方なく眼鏡を外してハンカチで拭く。その脇から、彼の遠慮のない声が言う。

「詩乃(しの)ちゃんもさあ、コンタクトとかにすりゃあいいのに」
…ええと…俺は眼鏡っ子が好みなんだとか、言いませんでしたっけ?…
 内心でそう突っ込みつつも、返す言葉は、
「…うん」
 ぐらいしか出ない。


 だって、初カレなんだもん。
 誰よりもかわいいって思ってて欲しいじゃん。


 とにかく嫌われる様な事は絶対にしないって、細心の注意を払う乙女心が、当時のあたしの思考の真ん中にドーンと居座っていて、彼といる時のあたしは、いつも緊張しっぱなしだった。


 眼鏡が復旧して、彼と並んでカウンターに座ると、すぐにいい匂いを漂わせて、ラーメンが出てきた。
「…いただきます」
 食べている間も、あまり大きな音をさせない様に気を使いながら、あたしはラーメンをすすり始めた。
 異変はそのすぐ後にやってきた。
…え…うそお…
 それは、鼻水が垂れてくる気配。その事実にあたしは驚愕する。カレシの前で、鼻をかむなんて考えられない。

 しかも、今は食事中…

 彼に気づかれない様に、音を殺して鼻をすすりながら、一刻も早くラーメンを食べ終わろうと躍起になる。
 そうこうするうちに、いつしか額からは汗が滴り、それをハンカチで拭おうかどうしようかと迷っているうちに、カウンターの上に、汗のしずくが、ぽとりと落ちた。

 それがちょうど、彼の眼に止まってしまった。
「…汗ぐらい拭けよ。お前、ひどい顔になってるぞ。すげ~汗まみれ」

 そう言われて、もう仕方がなく、あたしは眼鏡を外して、情けない思いと共にハンカチを額に当てた。そこからの事は良く覚えていない。ただ、その時の恥ずかしかった記憶だけが、胸の中でしこりの様に残っている。




…その、数日後。あたしは振られた。
 だから、あたしは、ラーメンが大嫌い。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 いつもの宴会部長様が、インフルエンザでぶっ倒れたせいで、普段、おいしいものを食べ歩いているという評判のあたしに、何と忘年会幹事のお鉢が回ってきた。
 確かにグルメ雑誌は愛読してるし、この近辺のお店は大抵チェック済。でも、忘年会で行く様な居酒屋系のお店は、済みませんが、よく知りません。

…という事で、適当に詩乃ちゃんの好きな所に決めていいからのお言葉に甘えて、おしゃれなイタ飯屋を借り切って、立食形式のパーティにした。
 この企画、普段は忘年会と聞くと腰が引けていた女の子達には結構評判良くて、女の子の出席率が上がり、それで若手の男の子たちの評判も良くて、あたしは意気揚揚とした気分で、二次会のカラオケを満喫した。


 その帰り道。
 あたしは、ほろ酔い気分で、飲食店街の路地を、社の男性数人と駅に向かって歩いていた。路地の先に、駅の明かりが見えて、これで、幹事という大役から解放されると、気を緩めた時である。

「…ラーメン、食べて行きません?」
 ふと思いついた様に、後輩の山田君がおっしゃいました。
「こっちの路地行った所に、おいしい屋台が出るんですよ。この時間なら、ちょうどやってる頃だから」

…ちょ、お前~あれだけ高カロリーなもの飲み食いした後で、まだ食べんのか~しかも、ラーメンだと~だめだめだめだめ、絶対、却下っ…

 そんなあたしの心の声は、
「お~ちょうどラーメン、食いに行きたい気分だったぜ」
「ないす山田」
「ワインにパスタじゃ、ちょっともの足りない感じだったしな~」
 という男共の声にかき消された。

「…何で男って、あれだけ飲んだ後で、ラーメンなんて脂っこいもの食べようって気になるんだろ」
 今度はあえて声に出して言った言葉も、
「詩乃ちゃん先輩も行きましょうよ。おいしいですよ」 
 という山田の愛らしい声に瞬殺された。

「え…あたしは…ちょっと」
 という躊躇の声も、
「今日のご褒美だ~詩乃の分は、俺が奢っちゃるぞ」
 という部長の酔っぱらった声に粉砕された。

「でも、詩乃ちゃん先輩がラーメン食べてる姿って、何か想像出来ませんよね」
…や~ま~だ~あ~…
 心の中で毒づきながら、あたしはその屋台に引っ張られていく羽目になった。

 

 


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最終更新日 : 2010-06-25 11:34:09

山田のおかげ 2

…はあ…ラーメンねえ…

 すかさず、端っこの席をゲットしたし、男共とは横一列だし、裸電球の明るいとは言えない照明に、こいつらみんな酔っぱらってる。
 そう思えば、それ程前途多難って訳でもない…女も二十代を半ば過ぎると、変に度胸がついてくるってもんですね。
 そして、目の前に置かれたラーメン。

…ああ、久し振りだけど、やっぱ、いい匂いなんだなあ…

 割りばしを手にして、ドンブリを覗き込む。今はもう眼鏡じゃないから、レンズの曇りを気にする事もない。
…が。

 箸を付けて、麺を口に運ぼうとした瞬間、肩まで伸ばしていた長い髪がドンブリ目掛けて、勢い良くなだれ込んでいく事に気付いた。慌ててドンブリから身を離す。
 横からは、男共が勢いよくラーメンをすする音が聞こえてくる。早く食べないと、皆が見ている前でラーメンを食べるなんて羽目になりかねない。

…汗だくで化粧の剥げた顔さらすなんて、ありえないから~でも…どうしようねえ、これ。食べづらいなんてもんじゃ…

「良かったら、これ、どうぞ」
 声がして顔を上げると、屋台の兄ちゃんが…たった今気づいたけど、お兄ちゃん随分若くない?…そのお兄ちゃんが、ヘアゴムと箱ティッシュを差し出してくれていた。
「あ、どうも」
…気が利くなあ…
 と、感心しながら、貰ったゴムで髪を束ねると、あたしは勢いよくラーメンをすすった。途中、ティッシュにも何度かお世話になりながら、あたしは無事ラーメンを完食した。

「はあ~おいしかった」
 箸を置いて思わずその言葉が出た。
「良かった」
 その声に顔を上げると、カウンターの向こうから、お兄ちゃんが嬉しそうな顔をしてこちらを見ていた。
「この屋台、一人で…?」
「ええ。いずれ店を出すのが夢なんで、修業のつもりで。でも、目標にはまだ全然遠いんですけどね」
「え~頑張んなよ。これ、すっごくおいしいもの」
「有難うございます。詩乃さんにそう言って貰えて、何か元気湧いて来ました」
「…あれ、なんであたしの名前?」
 言い掛けたあたしに、
「お~詩乃ちゃん、食い終わったら、行くぞ~急がないと終電行っちゃうぞ~」
 と、背後から部長の声。

 ああ、そうですね、ここに来てから、皆で散々、詩乃、詩乃、連呼してましたっけね。

「…正直、時々、自分何で、こんな事してんのかなって思う事あるんですよ。夢が遠すぎて。でも、おいしいって言ってもらえると、やってて良かったって思うんです。明日から、また頑張ろうって気になれるんです」

「え~そんなんで良いんなら、毎日でも食べに来て、言ってあげるよ。おいしいって。だって、本当においしいもの。自信持ちなよ」
「有難うございます」
 そう言った彼の、ちょっとはにかんだ様な笑顔が、何というか、あたしは気に入ってしまったのだろう。


 その後しばらく、あたしの屋台通いが続く事になる。
 で、数年後…


 気づけばあたしは、ラーメン屋さんのオカミさんになっていた。

 もちろんその厨房に立っているのは、お兄ちゃんこと、あたしのダンナ様である。




【 山田のおかげ 完 】

 

 


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最終更新日 : 2010-06-25 11:31:26

この本の内容は以上です。


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