目次
1.エアロバイク乗りの日常
1.エアロバイク乗りの日常(1)
1.エアロバイク乗りの日常(2)
1.エアロバイク乗りの日常(3)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(1)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(2)
3.正反対、だから気になる
3.正反対、だから気になる(1)
3.正反対、だから気になる(2)
3.正反対、だから気になる(3)
4.地表
4.地表(1)
4.地表(2)
4.地表(3)
5.平穏な生活
5.平穏な生活(1)
5.平穏な生活(2)
5.平穏な生活(3)
5.平穏な生活(4)
6.ネズミ
6.ネズミ(1)
6.ネズミ(2)
6.ネズミ(3)
6.ネズミ(4)
7.テロリスト
7.テロリスト(1)
7.テロリスト(2)
7.テロリスト(3)
7.テロリスト(4)
7.テロリスト(5)
7.テロリスト(6)
7.テロリスト(7)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(1)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(2)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(3)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(4)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(5)
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1.エアロバイク乗りの日常(1)

 ジリリリリリリリリリ!
 無慈悲な目覚まし時計がけたたましい音を立てて、私を甘い眠りから引き戻す。
 もう少し、あと五分だけ眠らせて……。

 私は布団から腕を出し、目覚まし時計のベルを止めるスイッチを探った。布団の外の空気は薄ら寒く、素肌が一瞬にして粟立った。慌てて腕を引っ込める。布団の中のぬるんだ空気が、それだけでもパラダイスへの足掛かりみたいに思えた。
……。
「!」
 やばい。
 やばいやばい。
 眠ってはいけない。
 上下の瞼を無理やり引き剥がす。
 ここで眠っては遅刻してしまう。
 今日は平日。いくら嫌でもダルくとも、仕事が私を待っている。
 絶対に起きなければ。
 よし、3カウントで起き上がるぞ。
 3、2、1!
 ……。
 もう一回。
 3、2、1!
 そんなスリーカウントを十回ぐらい繰り返した後、ようやく私は寝起きの気だるさに打ち勝ち、緩慢な動きで上半身を起こした。
 身震いをして溜息を一つ。部屋着のTシャツ一枚では、薄暗い部屋の空気は寒すぎる。
 名残惜しい布団の温もりに別れを告げ、足の裏に氷のように冷たい床の洗礼を受ける。パンツ一枚の下半身も、すぐに腕と同じように鳥肌に覆われた。
 洗面所で顔を洗う。温いお湯で頬を濡らすと、やっと重い瞼が開いた。ミント味の歯磨き粉をたっぷりと付けて、歯ブラシを口の中に突っ込む。勢いに任せて歯を磨き、口をすすぐついでにうがいもした。
 コンタクトレンズを装着。化粧は……面倒だから、まあいっか。
 余計な場所に生えてきた眉毛を毛抜きピンセットで引き抜いて、眉毛だけアイブロウで手早く描いた。いくら面倒だといっても、眉毛すらない平坦な顔ではさすがに外出できない。
 最後に髪を纏めてヘアゴムで結う。
 よし。
 部屋着の着古した白いTシャツを脱いで、脇の下にデオドラントを塗りたくった。手首には、パッションフルーツのオーデコロン。両手首を擦り合わせた後、首筋にも擦り付けた。どうせあと一時間もすれば機械油と埃のにおいに塗れてしまう体ではあるが、せめてこの爽やかな朝のひと時ぐらいは、女らしい甘い香りに包まれていたい。
 ピンクと黒の縞柄ブラジャーをつけ、その上から黒いTシャツを着た。部屋着には白いTシャツ、仕事時には黒いTシャツと決めている。でないと、機械油でドロドロに汚れた作業着と、その他の洗濯物が一緒くたになってしまうからだ。石鹸でも落ちにくいほど汚れた仕事着と、その他の私服を同時に洗濯機にぶち込むのには、さすがに抵抗があった。
 最後に派手なオレンジ色のツナギを着た。これは、会社から支給された私の制服だ。腕には青と白でデザインされた『EE』という文字のロゴマーク。私の所属する会社、エンリコ・エレキテルの略だ。
 ジッパーを一番上まで引き上げる。仕事が始まれば、暑くなってすぐに引き下ろしてしまうのだが、こうしないと朝礼時、口うるさい課長にブーブー文句を言われてしまう。朝っぱらから小言を頂くなんて真っ平ゴメンだ。
 腕時計を巻き、裏玄関の壁に掛けてあるバックパックを手に取る。
 カバンの口を開け、中身を確認する。
 仕事道具、お財布、水筒、手帳、それから、それから……。
 準備万端。
 裏玄関の扉を開く。途端に、明るい朝の光と共に、生ぬるい春先の風が室内に吹き込んできた。
 なんだ。外は室内よりもずっと暖かい。
 私は嬉しくなって微笑みながら、黒い革製のグローブと無線付きの飛行帽を装着する。目の前には第二住居ビル。その向こうにもニョキニョキと土筆のように空に向かって伸びる、巨大で目も眩むほどのっぽなビルの群れ。
 ビル群を抜ければ、そこはどこまでも続く青空。
 本日も晴天。清々しいことこの上ない。
「っしゃァ! 行くか」
 この「っしゃ!」という短い言葉は、私にとって気合の呪文だ。品こそないかもしれないけれど、口から吐き出せば、気が乗らないときにでも身体にエンジンが掛かりやすくなる。バイクのチョークみたいなもんだ。
 フロントカウルを踏み台に、スキップするようなテンポで、裏玄関前に駐車したエアロバイクに跨る。キィを差し込みエンジンを掛ける。
 マシン状態をチェック。エンジン音異常なし。ブレーキ異常なし。全てのランプは正常に点灯。非常エンジン異常なし。オイルは当然満タンだ。
 額のゴーグルを下ろす。ガラスが少し曇っていたので、グローブの甲でくるくると拭った。
 アクセルを捻るとフォン、と気の抜けた高音が響く。エンジンが正常に作動していることをもう一度確認し、アクセルを軽く捻ったまま安全バーを切り離した。
 エアロバイクが浮上する。
 ワンテンポ置いて、更にアクセルを捻る。勢い付いたエアロバイクがぐん、と風を切って上昇した。
 目指すのは四〇〇階。私の所属する、EE整備課のある企業フロア。
 途中、同業者たちのエアロバイクと何度となくすれ違う。その度に、片手を上げて挨拶した。皆が同じような格好をしているし、ゴーグルと飛行帽を装着しているため顔も見えず、誰が誰だか分からない。運転中に個人を識別するには、エアロバイクのペイントのみが頼りだ。
 数階上の食料雑貨店に立ち寄った。ここは外壁面がドライブスルー形式になっている。注文してからその場で作ってくれるサンドウィッチが好評で、内通路から来る一般客からはもちろんのこと、ドライブスルーで必要な物を伝えると、店員が準備して渡してくれるので、エアロバイク乗りにも重宝がられている。
 今日も店員のミランダが、大きな窓からトレードマークのアフロヘアを左右に揺らし、ニッコリと私に微笑み掛けた。
「ロンカぁ、おはよ。今日は何にすんの?」
 私は鞄から空の水筒を取り出して、ミランダに手渡した。
「ターキーサンドとコーヒー」
「野菜多めよね?」
「あと、バブルガム」
「チェリーで良い?」
「うん」
 バイクをニュートラルにして、雑貨屋カウンターの安全バーに固定する。ミランダの髪にいくつも刺された星型の髪留めが、綿飴みたいな髪の合間にキラキラ輝いているのが見えた。
「それ、カワイイね」
「でしょ? レインドロップで買ったの」
 窓際で手際よくターキーサンドを作りながら、ミランダが答えた。レインドロップとはファッション雑誌でもよく見かける、ガーリィな服や雑貨が並ぶ人気のショップだ。
「いいなぁ。でもあそこ、高いよね」
「今、セールやってんのよ」
「へえ、私も帰りに寄ってみようかな」
 ミランダが水筒と紙袋を差し出しつつ、私に尋ねた。
「ねえ、ロンカ。明後日の夜、飲みに行かない?」
「いーよ。どこ?」
「ケゴン」
「メンツは?」
「うちらと、プラス女子二人。あと私の男友達。そいつが更に三人、男連中を連れてくるよ。割と合コン的な……」
「合コン? うへぇ」
「そう言わないの。あんた彼氏欲しいって言ってたじゃんか。今回の合コンはねぇ、あちらさん全員空通社員だよ! ほ~ら、もちろん来るよね?」
「わぁ、景気の良い話だね。空通ったらエリートじゃん」
「でしょ? それだけでも行く価値あるっしょ?」
「男前、いるかなぁ」
「さあね、私に合コン話振ってきた友達以外、会ったことないんだ。でも、私の友達は、なかなかだよ。とは言え、奴は女いるけどね」
「うわー何それ。彼女いるとか、合コンの意味ないじゃん……」
「まあ、そう言うなって」
 ミランダは半目になってニヤリと笑い、私を見た。
「まーだ分かんないよ。だってあと三人残ってるわけだし。私は彼氏いるから、あんたのライバルじゃないし」
「そこよ。ミランダだって彼氏いるのに、何で合コンなんて行くのよ」
「だぁってさーっ、たまには面識のない男の子たちと遊んだり、こう、若干の緊張感を伴うようなイベントを入れないと、生活に潤いとハリがなくなるってもんでしょ! 話を持ちかけてきた空通の男友達だって、私と一緒よ。彼女いるけど、とりあえず他の女の子とも遊びたい、みたいな」
 おどけるミランダに、よくやるよ、と苦笑いすると、ミランダは形の良い鼻を上に向けて言った。
「ま、そーいうことだから! ばっくれないでよ」
「はいはい」
 パッパーッ!
 けたたましいクラクション音に、私とミランダは首を竦めた。振り返ると、私の後ろに並んでいた他社のエアロバイク乗りが、いい加減にしろと言わんばかりに何度も繰り返しクラクションを鳴らしている。
 私はぺろっと舌を出し、ゴーグルを掛け直した。ミランダに片手を上げて挨拶し、エアロバイクのエンジンをふかす。バイクは勢い良く、第三雑居ビルの側面を螺旋状に上昇していく。
 頬に当たる風が心地良い。優しい春の風だ。
 人工的な風景と空ばかりが広がる高度八百メートルなのに、青い草の匂いと甘い花の香りが微かに匂っている。風だ。上昇気流に乗って立ち上る風が、地表からの春の匂いを連れて来るのだ。
 遥か眼下を見下ろすと、ビルの谷間、灰色が続く地表の街の狭間に、ピンクや緑の塊が散らばっているのが見えた。桜だろうか。
 気付けばもう、そんな季節。
 昔は一年が長かった。それなのに、二十五歳にもなると、時間が経つのはあっという間に感じられるようになってくる。仕事をして、酒に酔って、騒いで、眠って。そんな単調な毎日を繰り返していると、いつの間にか季節が変わっている。
 EEのガレージに着くと、私を除いた第三雑居ビル電気系統の整備工たち六人分のエアロバイクが、既にそれぞれ所定の駐車スペースに停めてあった。
 やべ。
 私は若干焦りつつ、『5』と中央に記してある黄色の四角枠の中に駐車した。ピットの駐車スペースには全てナンバリングしてあって、1から7までの数字が書かれていた。各バイクにも、同じ数字のナンバープレートが取り付けられている。
 社内では、○○ビルの№いくつ、という風に、エアロバイク乗りの整備工たちを呼ぶ決まりがあり、それで整備工たちを統制している。このナンバーは年功序列式で、誰かが退職すると繰り上がるようになっているのだが、うちの課は長期就労者ばかりな上に、エアロバイクの扱いに掛けても腕の良い整備工ばかりで、今のところ殉職者も出ておらず、そのため、私はいつまで経っても№5から抜け出せないでいた。
 バイクを地面に降ろすのには、ちょっとしたコツがある。それは、安全バーに固定する空中停車方式よりも面倒だ。駐車するスペースの上でバランスを取り直し、一瞬僅かに上昇、そしてエンジンを切り、惰性でゆっくりと下降する。しくじると側面にひっくり返るので、乗り慣れない頃は何度も怪我をしたり、バイクを破損させたりしたものだ。
 うちの課の№7ホワイトなどは、ここに配属されて半年経っても、未だにライン内にピッタリ収めることができず、四苦八苦している。
 しかしホワイトはまだマシな方で、彼よりちょっとだけ先輩の№6シンディなんて、自力で上手く停車することなどはなから諦めている。どこから持ってきたのか、補助器具まで使っている始末。完全に特別扱いだ。まあ、彼女には理由があるのだが……。
「おせーぞ、ロンカ!」
 ガレージの端でたむろしていた仲間の整備工たちが、遅れてきた私を叱咤した。
「いやぁ、ミランダに捕まっちゃってさ」
 私は言い訳しながら、エアロバイクから飛び降りる。№3のマイトが、鼻から煙草の煙を漏らして言った。
「おめー、課長がプリプリしてっぞ」
「あ~……課長はどこ?」
「書類取りに事務所へ行ってる。帰ってきたら、今日も大目玉だな」
「うはっ」
 私は舌をべろりと出す。
「まあ、アレだよ。整備道具忘れてきたホワイト君よりはマシだね」
 №4エツコが、咥え煙草で目を細める。彼女は二人の子持ちで、旦那も別会社の整備工だ。うちの課の男連中以上にガラが悪いし、大人げのない悪ふざけばかりするけれど、間違ったことは言わないし、何より本当は優しい。
「アイツ、今週何度目だよ」
「すんませーん」
 ガレージ脇のトイレから、濡れた手をツナギの腿に擦り付けつつ、問題のホワイトが現れた。
「すんませんじゃねーよ、馬鹿」
 私が小突くと、ホワイトは「自分だって遅刻魔のくせに……」と呟いた。こういうところが、この後輩の可愛くないところだ。
 課の最年長、五十七歳の№1シマダがホワイトを諭す。
「若いと、遊びだ仕事だで落ち着かんだろうから、忘れっぽくもなろうがな。しかし、気をつけにゃいかんぜ」
「あっ、はい」
 ホワイトが姿勢を正して頷いた。ホワイトはクソ生意気だが、シマダには一目置いているようで、彼にだけはいつも礼儀正しい。
「そういやこないだ貸した金、早く返してよ。飲み屋での支払い」
 私がホワイトの耳を引っ張ると、ホワイトはすっ呆けた。
「え、ロンカさん。あれ奢りだったんじゃないんすか」
「ふざけんな!」
「ホワイト、ロンカだって金ないんだから、たかるんじゃないよ。自分のメシぐらい自分で食いな」
「ちぇっ……はーい」
 エツコにビシリと釘を刺され、軟弱ホワイトは金髪頭を掻いた。私は心の中で「ざまあみろ」と悪態をついた。
 他の二人は何をしているのだろう。ガレージ内を見回すと、ジュースの自販機脇では№2チェが、生真面目な彼らしく仕事前に整備道具を点検していた。
 そこから更に視線をガレージ奥へ移動させると、日陰の薄暗がりの中に、巨大な達磨のような影……№6シンディが、分厚いメガネを光らせて漫画を読んでいた。見ているだけでも憂鬱になる。私は顔を背けた。ホワイトだけでも面倒臭いのに、シンディときたら更に扱い難い後輩で、私は持て余し気味だった。
 正直なところ、シンディはエアロバイク乗りとして適した人材ではない。プライドばかり高く、チームプレイを軽く無視する身勝手な性格。そして、エアロバイクからはみ出す巨漢。全てにおいて向いていない。しかし、何が彼女の琴線に触れたのか、EEの重役である彼女の父親のコネで、この職場へ入ってきたのだ。彼女のたっての希望であったらしい。
 そのため、嫌味な部長もシンディにだけは何も言わない。むしろ腫れ物に触るように気を使っている。同じようにエツコやマイトも何も言わないが、彼らは気を使うというよりも、ただ単に面倒臭がって無視しているだけだ。シンディに注意や助言をしたところで、彼女は素直に聞くようなタイプではなく、口を出した人間が嫌な思いをするだけだということは、整備課内では暗黙の了解になっている。
「整れ―――――――――ッつ!」
 廊下へのドアが乱暴に開き、キンキン耳障りな怒声がガレージ内に反響した。私たちは起床ラッパに叩き起こされた兵隊のように飛び上がり、それぞれのバイクの前へダッシュした。シンディだけが緩慢な動きで、一足遅れて列に加わる。
 私たちは背筋をピンと伸ばし、クソ真面目な澄まし顔を作った。目の焦点はピットの外へ。ひたすらどこまでも広がる青空の、更に向こう側まで飛ばしてしまう。朝礼の間中、ブルドッグの老犬みたいな課長の顔を眺め続けるのはしんどい。
「1、2、3、4、5、6、7……フン、ようやく全員揃ったな」
 薄くなった頭に太陽光を反射させながら、課長は鬼軍曹よろしく、ご丁寧に私たち全員を順番に睨み付けた。わざわざ口に出して数えなくたって、たった7人しかいないのだから、人数確認など一目瞭然なのだが、何でも仰々しくやらないと気がすまないのが、この課長の困ったところの一つだ。課長には他にも困ったところが恐らく百個以上はある。

 つまり、課長は世間一般で言うところの嫌な上司そのものだった。
「おい、ロンカ」
「はい!」
 私はハキハキと返事をしたが、視線はそのまま青空の向こう側だった。課長は私の前に仁王立ちになり、分厚い唇の両端を下方にひん曲げた。
「まーた今日も遅刻ギリギリか。良い御身分だな」
「すみません、課長」
「五分前行動は社会人の鉄則だ。なのにお前ときたら、遅刻はするわ、例え遅刻しない日でも、業務開始時間の一分以上前に来たことがない」
「すみません」
「どうして、そんなに時間にルーズなんだ」
「昼食を買っていると、つい遅れてしまうのです」
「馬鹿者!」
 課長の一際高い怒声が鼓膜を直撃し、私は思わず首を竦めた。課長の声は、ガレージの高い天井にグワングワン反響した。
「遅れるんならメシなんて買うな。昼休みに買いに行け!」
「昼休みになると品切れです」
「だったら、前日に買っとけ!」
「そうしまっす」
 心の中で舌を出しつつ、言葉上では素直に従う。私以外の全員が、あーあ、今日のスケープゴートもまたアイツか……という憐れみを込めた視線を私に送った。それと同時に、マイト、エツコ、ホワイトの三人は、口の端にうっすらと含み笑いを浮かべた。私も同類なので文句を言えるような立場ではないが、彼らは他人が怒られている様を見ると、おかしくなってつい笑ってしまうような性分なのだ。性格の悪さが半分、ジョークセンスの問題が半分だろう。
「本日の仕事内容を通達するぞ。№1、2は200~258階までの電気系統を点検、修理。3、4、5、7、お前らはいっつもふざけてる罰として、600階~640階だ。良いな! 6は好きな場所に入れ」
「ええええええ」
 思わず不満の声を漏らした私たちだったが、課長が眼を剥いたので、すぐに口を閉ざして元の知らん顔を決め込んだ。
 私たちの住むセントラルシティの超高層ビルには、上の階層へ行くほど富裕層が、地表に近付けば近付くほど貧困層が住むという図式ができ上がっている。しかし、中には例外のエリアもある。それは、ビル内に唐突現れるスラムエリアだ。
 それらは大概の場合、繁華街エリア付近の階層にある。私たちが配属となっている第三雑居ビルの場合、600~640階が最も荒んだスラムだった。
 住んでいる者のほとんどが貧民であるという点では地表と同じだ。しかし決定的な差があった。貧しさで言えば地表の圧勝だが、治安の悪さではビル内の方が上だ。ビル内のスラムはマフィアに牛耳られており、立ち並ぶ店舗のほとんどが法に触れる無法地帯、政府も裏で懐柔されているのか見て見ぬふり、ポリスももちろん政府の右に倣えで、いくら事件が起きようと、絶対に介入してこない。
 スラムエリアは汚いし臭いし危険だし、勝手な配線改造も厄介だった。予算の都合で滅多に点検されない低階層下部と並んで、作業が酷く面倒なので整備工泣かせのエリアだった。
 私だって断れるものなら断りたい。しかし頑固者の課長に行けと言われれば、答えはイエスのみ。行くしかないのだ。拒否しようもんなら、即刻クビだと怒鳴られかねない。
「詳細は各々ファイルをチェック。1は通常通り総括だ。無線で連絡を取り合って、午後5時までには作業を完了させるように。さて、6はどうする? 1、2について行くか? 事務仕事も若干停滞しているから、ここに残っても構わないぞ」
 課長の野郎……と私は苦々しい気持ちで下を向いた。シンディのご機嫌取りなどしている暇があったら、溜まった伝票の整理でもしてろってもんだ。いっつも課長室に踏ん反り返って、コーヒーばかり啜っているくせに……。
「№5につきます」
 シンディの言葉に、私は床を見つめたまま小さく舌を打った。ちらりと隣のホワイトを見ると、彼も青菜が萎びたような気力のない顔になっていた。
 無法地帯の整備というだけでもダルいのに、そこにお荷物どころか体重百キロ超えの大荷物がついてこようとは……。何が楽しくて厄介な仕事を押し付けられた私たちについて来ようという気になるのか、変人の考えることは理解できない。
 不貞腐れる私たちを無視して、課長の大声がガレージ内に響き渡る。
「――それではエンリコエレキテル社訓、そのいーちッ」
「ひとーつ、建造物内の全ての電気配線は、EE社に繋がる!」
「そのにーッ」
「ひとーつ、電気配線はすっきりシンプルに、かつ頑丈に配線すべし!」
「そのさーんッ」
「ひとーつ、全ての建造物に住まう人間は、全てエンリコエレキテル社のお客様として丁寧に対応すべし!」
「よォし。それから最後にもう一つ」
 言いながら、課長はただでさえ仏頂面なのを、更にをぎゅっと顰めた。垂れた頬の皺が深くなり、醜く老けて見えた。
「近頃、我が第三雑居ビル内で、原因不明の電気漏れだか電気泥棒だかが多発している。漏電ポイントは毎回違うし、電気漏れの原因が何なのかすら未だ不明。何にせよ、貴重な電力の損失は我が社にとっては由々しき問題だからして、手掛かり原因等を発見した場合には、無線にて即刻報告すること。以上、朝礼終わり!」
 私たちは踵を鳴らして敬礼した。朝礼の度に思うのだが、どうしてうちの会社は全てが軍隊式なのだろう。おそらく上層部の誰かが軍人上がりか軍マニアなのだろうが、従業員としては甚だしく迷惑な話だ。
「も~マジだるいんだけど」
 窮屈な朝礼から開放され、エツコが伸びをしながらぼやいた。ホワイトは返事をする代わりに、あ~あ~と大きな溜息をつきエアロバイクに跨った。
 朝からダレ切っている私たちを、マイトが励ます。
「さっさと終わらせちまって、スッキリしようじゃねえか。しょうがねえだろ、課長の命令なんだから」
「あーい」
 マイトの大人な意見に、私は気の抜けた返事をした。
 ああ、朝から気が重い。私たちは課長に倣ったような仏頂面で、バイクを発進させた。


1.エアロバイク乗りの日常(2)

 マイトとエツコが600~620階を、そして私とホワイト、シンディが620~640階を担当することになった。どうせだったらホワイトなんかと組むよりも、頼れる経験豊富なマイトか、女ながらに豪儀なエツコと組みたい。もちろんシンディ抜きで。
 ホワイトときたら、腕と足ばかりが無駄に伸びたひょろっこい貧相な体にそばかすだらけの間抜け面、未だに仕事はろくすっぽ覚えていないし、頭は悪いくせに悪知恵ばかり働くし、とにかく頼りにならないのだ。そこにシンディまでくっついて来ているのだから、何か起きたら結局立ち回らなければならないのは私だ。やり切れないにも程がある。
 エアロバイクを620階のEE専用ピットに停車し、しっかりと鍵を掛け、スラム内へ潜り込んだ。点検箇所が記載された地図を眺めながら、小便臭くて汚い街を歩く。
 通路には、痩せ細った犬やいかにもチンピラ染みたスーツ姿の男たち、永遠の地獄での労働を言い渡された哀れな亡者みたいな表情の貧しい日雇い労働者が行き来している。その足元には、パンツすら履いていない皮膚病の肌を晒け出した男が、酒に酔ってかドラッグに溺れてか、はたまた体調不良なのか眠いだけなのかは不明だが、大の字になって転がっていたりするのだ。
 600階域は、人口の70パーセントは男性で25パーセントは女性、残り5パーセントはニューハーフだが、男性の18パーセント、そして女性とニューハーフの90パーセントが売春に加担している。そして住人も商店もほとんど100パーセント、マフィアの息が掛かっている。
「きッたねェとこだなぁ。さっさと終わらせて、冷たいビールでも飲みたいっすよ」
 ホワイトがライターで煙草に火を点けながら、ブツクサ不平を垂れている。私は睨めっこしていた点検帳から視線を外し、舌を打った。
「あんたねえ、煙草なんて悠長に吸ってないで、さっさと次のポイント修理するよ。ったく、みーんなして煙草煙草煙草……」
「ま、世の風潮はさておき、俺らの職場はロンカさんとシンディさん以外、全員スモーカーっすから」
 ホワイトが調子付いて生意気を言う。
 うちの職場の何が嫌かといえば、まずその喫煙率の高さだ。私は煙草を吸わない。煙草の臭いが髪についたり、息が煙草臭くなったり、歯や壁紙がヤニで黄ばんだりするのが我慢ならないのだ。健康にだってとにかく悪い。
 それなのに周囲はほぼ全員スモーカー。私まで始終、副流煙に晒されている。
「あ~あ、転職しようかな……」
 ボールペンを齧りながら呟いた私を、小走りに追いついてきたホワイトが茶化す。
「またまたァ、そんな気なんてないくせに。大体、今更どんな職に就くっていうんすか。ロンカさん、エアロバイクなしで生きていけるんすか?」
「……」
「3K揃った職場っすけどォ、特権は多いわけっすよ。中階層住まいにエアロバイク。そう易々と捨てられるわけないじゃないっすか。俺なんて合コンでエアロバイク乗りだって言うと、女の子にキャー、エアロバイク乗せてェ、なんて言われてモテちゃうわモテちゃうわ、まあウハウハなわけでェ、だからオイル塗れになって男前が台無しになろうが、エツコさんに殴られようがロンカさんに足蹴りされようが、こうして必死に我慢してるんすよネ!」
 ペラペラペラペラ、良く回る舌だ……。
 本気でウザい。相手もしたくないくらいにウザい。ホワイトは十分間中七分間ぐらいはウザい奴だ。時々、上と下の唇を縫い付けてやりたくなる。
「ねー、シンディさんもそうでしょ? だから整備課になんて、わざわざ入って来たんすよね」
 うわ。
 私はぎょっとして、恐る恐るシンディの様子を伺った。よくもまあシンディにそんな話を振れるもんだと、感心半分、呆れ半分で。ホワイトの空気の読めなさときたら、ここまで来ると逆に褒めてやりたくなるくらいだ。
 シンディの分厚い眼鏡がきら、と光った気がした。眼鏡の下の淀んだ瞳が、ホワイトを照準にロック・オン。
「私は別に特権など意識しておりません。私の家は更に上階層にありますから、元より社宅など関係ありませんし、大体3Kというものを感じたことはありませんね」
「え、シンディさんて鈍いんすか? 完全なる3K職場っすよ、ここ」
「ホワイト止めなよ」
 救いようのない馬鹿だ、こいつは……。私はホワイトの袖を引っ張った。
 シンディは私たちみたいな汚れ仕事には一切関わっていないのだから、3K云々と言ったって、事実彼女には全く関係がないのだ。ホワイトは悪戯っぽい表情で私に視線を送ったが、私が怖い顔で睨んだらそれ以上は何も言わなかった。
 シンディはいつもの無表情でちら、と私を見たが、すぐに視線を床に落とした。彼女は首を固定されてでもいるかのように、いつも下ばかりみている。だから、ただでさえ余計な肉でたぷたぷの顎は二重どころか三重にも重なっている。
 次の点検ポイントはD-302地点。オイル屋脇の路地にある業務口から入った先だった。
 盗電防止のため、電力ラインは強固な特殊素材で作られた壁の内側を通っている。そのため修理や点検には、業務口を開いて分厚い壁の内側へ入らなければならない。それも指紋、声紋、網膜照合を経て、やっと業務口のドアの鍵穴に差し込んだキィが回るという入念さ。
 現在、電力は公共資源の中で最も高価だ。火力・原子力発電がその危険性・環境破壊性により禁止された今、残るのは風力と第二太陽の周回軌道上に配置されたソーラーパネルによる太陽光発電のみ。
 しかし太陽光発電は、膨大なエネルギーを電波に乗せ遥かな長距離転送するために、その経過中に採取したエネルギーの半分は消費されてしまう。風力発電もまた、高階層へ行けば行くほど風力が高く採取が容易になるので、金さえ出せば好きなだけ使えるものの、地表や地表に近い低階層となると、供給が安定せず頻繁に滞る。

 ビル内は全てがエレクトリカルで、膨大な電力を必要とするが、上階層が特に電力を消費してしまうので、低階層にまで回らないのだ。しかし低階層以下の住民たちは、電力に金なんて満足に払えないような貧乏人ばかりなので、いくら政府に対して不満を叫んでも、政府は知らん顔、むしろ文句は電力税を納めてから言えとの一点張り、聞く耳なんて持ってはくれない。
 低階層の電力不足は深刻だ。一般家庭ですら大問題だというのに、例えば病院などは更に事態は切実で、人間の生死にまで関わってくる。重病人の大手術の間でも、容赦なく電力は停まってしまうのだから。
 大概の病院は四六時中起きる停電に備えてある程度の非常電力を蓄えているが、それでも充分とは言えず、停電が原因で簡単な手術中に病人や怪我人が命を落としたり、患者の治療延命装置が停止、そのまま死亡してしまうというような事故が頻繁に起きた。
 だがそういった類の話は、ビル内の公のニュースとしてはほとんど流れない。政府の手により、ちょっとした情報操作が行われているのだろうし、第一、低階層以下の事故や事件は、ニュースにしきれないほど起こっているのできりがないのだろう。
 人の命とは、嫌なものだが金で重さが決まるのだ。
 私が生まれたのは貧しい地表の街だった。幼い頃は着る服もボロボロのお古ばかりで、時々食物にすら困ったこともある。しかし私は運が良かった。大人になってEEの第三雑居ビル電気系統整備課で働くことになったお陰で、私生活の電気代まで会社持ちで、こうして中階層に住めるようになったのだ。
 エアロバイクと身分に合わない中階層暮らし、それはビルの電気系統整備工の特権だ。
 それだけ聞くと、さぞかし競争率の激しい人気職であるかのようだが、就職先として考慮した場合、まともな神経の人間ならまず躊躇する。整備工の特権には、もれなくマイナス点も付いて回るためだ。ホワイトの言うように「きつい」「汚い」「危険」と三拍子揃った完全なる3K職なのだ。
 嫌な臭いのオイルや埃で汚れるのは仕方がないにしろ、社から支給されているオンボロのエアロバイクは、エアロバスや高階層住まいの金持ちが使っている最新式エアロカーの内部構造には程遠く、うっかりすると整備不良や操作ミスで簡単に墜落するし、そうなれば死亡は確実。
 それにこうやって、今日の私たちみたいに大人の男でも嫌がるスラムにまで入り込んで作業しなければならないことも多い。軍やポリスと比較しても、遥かに死亡率が高い職場でもあるのだ。
 D-302地点に行くと、路地の入り口には一人の男がゲロ塗れでぶっ倒れていた。青ざめた顔に赤い斑点を浮かべた、ヨレヨレの麻薬中毒者だった。
 しかし私は点検表に夢中でそれに気付かず、危うく男を踏み掛けてしまった。地面とは違う足裏の感触にびっくりして悲鳴を上げそうになったが、しかしスラムではこんなことも日常茶飯事の出来事。一々大袈裟に驚いているのも馬鹿らしいので、悲鳴を飲み込みそっと足を上げ、男を跨いで通り過ぎた。
 男は私に踏まれたにも関わらず、ぴくりとも動かなかった。もしかしたら死んでいるのかもしれない。ぞっとしたが私はそれを無視した。
 危険回避のための社内マニュアルに従い、ホワイトに元素銃を構えさせて見張りに立たせ、点検ポイントの業務口を開いた。部外者が入ることのできない壁の内部に入ってロックを掛け、ようやく胸を撫で下ろす。
「はあ……何が嫌かって、修理点検以前の問題よね。街を移動するのにまで一々気を使わなきゃならないって、どういうことよ。だからって、危険手当がつくわけでもなく、労災使えば嫌な顔されるし。神経磨り減るわァ」
「まあ、ここはスラムど真ん中なんで、そりゃしゃあないっすよね」
ホワイトは大したことでもないとでも言いたげだ。
 しかし私は知っている。配属一週間も経たないうちに、ホワイトはこの地区の点検時に私とはぐれ、首絞め強盗に遭遇した。私がホワイトを見つけ出したとき、彼は気を失った状態で、財布の中身はもちろんスッカラカン。それ以来、彼はスラムを歩くときには財布を持参せず、小銭しかポケットに入れていない。
「よく言うよねぇ。あれ、ホワイト君。今日は財布持ってないの?」
 私が意地悪に目を細めて囁くと、ホワイトは急に真っ赤になって決まりが悪そうに下を向いた。
 おや、いきがった若い男のプライドを傷つけてしまっただろうか。まあ、知ったこっちゃない。
「ホワイト、突っ立ってないで電圧測定機持ってきて」
「へェい」
 ホワイトは面白くなさそうに顔を強張らせたまま、私について来た。私たちはマニュアル通りに作業を進め、およそ三十分ほどでそのポイントの点検を終えた。とりあえず異常なし。
 点検の間中、シンディは端の方に突っ立って、ただ私たちの様子を眺めていた。彼女はいつもこうだ。何もしない。しかし、それに対して誰も文句を言わない。何故ならば、彼女は名目上「社員」ということになってはいるが、実質社員でも何でもないただの厄介なお客様みたいなものなのだ。
 シンディに関しては何から何まで特別扱いだった。整備課の人間なら自分のエアロバイクの日常点検は自分でするのが当然なのだが、シンディだけは絶対にやらない。日替わりで私とホワイトが押し付けられている。
 しかも私たちのエアロバイクが旧式で性能の悪いオンボロなのに対し、シンディのエアロバイクだけは溜息の出るような最新式の高価なものだった。腹立たしい限りだが、課長に文句を言ったところで「文句ばかり言っていると、給料を下げるぞ」と脅されるのがオチなので何も言えない。下っ端の私たちは、不満が蓄積していくばかりだ。
「っしゃ。さっさと次行くよ」
「うぃっす」
 ホワイトが工具を片付けるのに手間取っている。相変わらずシンディはそれを眺めているだけで、片付けすら手伝う気配はない。
 ……。
 私は舌打ちして、思わずシンディに向き直った。
「あのさあ、見てんなら手伝ってあげてよ。そのくらいできるでしょ」
 普段ならぐっと我慢して飲み込む言葉が、今日は何だか止められなかった。
 案の定、シンディは険のある視線を私に向けた。
「でも私のではなくて、ホワイトさんの工具ですから」
「工具なんて社の備品なんだから、ホワイトのもあなたのもないでしょう。第一、これは仕事なのよ」
「でも他人の工具箱なんて、整理の仕方、私には分かりませんので」
 ……。
 ふっざけんな。
 いつもならこういう時、私はあっさり引き下がる。いくら文句があっても、溜息と引き換えに言葉を飲み込む。その方が、人生ラクに乗り切れると信じているからだ。しかし、その代わりにストレスは溜まる。そして本来短気な私は、時々堪えきれなくなる。
 今日がその日だった。
「でもでもでもでも、でもばっかり! じゃあ、一体何ならできんのさ。何のためについて来てるわけ? 仕事しに来てんじゃないの?」
とうとう怒鳴り散らしてしまった。
 今日の私は虫の居所が悪かったのだ。朝イチで課長に怒鳴られた上にスラム点検を押し付けられ、ホワイトの無駄口を延々と聞かされ、おまけにさっきから腹ペコだった。堅いバリアの内側に常日頃のストレスを封じ込めていたのが、シンディの最後の一押しで一気に決壊してしまったかのようだった。
 キレる私とは対照的に、そのストレスの元凶であるシンディは逆に嫌味なくらいに冷めていた。
「私としては、社会勉強のつもりだったのですが。こんな治安の悪い場所、未だかつて足を踏み入れたことはありませんし、これから先も来ることなどないでしょうから。見学するには丁度良い機会だと思って、ただそれだけの話です」
「あのねぇ、お遊びの見学会じゃないのよ。さっきも言ったけど、仕事なの。分かってんの?」
「――もう終業時間も近いですし、さっさと次の点検を終わらせて、社に戻りませんか。残業代出ませんよ?」
「……」
 言葉も出なかった。
 怒りのあまり、自分の髪が海胆みたいに逆立ったような気がした。
 これにはさすがに阿呆で鈍いホワイトも焦りを覚えたようで、口をへの字にひん曲げて立ち尽くす私の両肩に手を掛け、まあまあまあ、と言いながら壁際まで移動させた。
「ロンカさん、落ち着いて。シンディさんがイラつくのは、毎度のことじゃないっすか」
「だけど、今日のアレはないよ! 酷くない? だって、だって仕事なのよ……仕事もしないくせに、何でアイツはここにいんのよ。あのキモいメガネデブ」
「ダメっすよ、そんなこと言っちゃ。差別用語使用で訴えられかねませんよ」
「うううう……だって……悔しい……ムカつく……」
「仕方ないっすよ、上役の娘さんなんすから。もう俺らには、どうしようもないっていうか」
「エアロバイクに細工して、落としてやろうかしら」
 私が低い声で呟いたら、ホワイトが言葉を失った。
「冗談よ」
「……怖い怖い。ロンカさんが言うと、冗談に聞こえませんし」
 私とホワイトは中途半端にへらりと苦笑いをし、その後二人で同時に肩を落とした。
 結局シンディは何も手伝わず、私とホワイトがせかせかと片付けた。
「普段からきちんと整頓しておかないから、こういう時に手間取るのよ。時間押してんだから、面倒掛けないでよね」
 片付けを手伝いながら、行き場を失った苛立ちをホワイトにぶつけてしまう私。でも言っていることは正論だ。完全なる八つ当たりだが、間違ったことは一つも言っていない。
「はぁ、なーんで整備工の女って……まあ、シンディさんはともかくとして、エツコさんといいロンカさんといい、こう……」
「こう、何よ」
「もうちょっと、新人に対して寛大になってくれても良いんじゃないっすかね。マイトさんなんて、ああ見えて優しいですよう」
「あんた、もう入社して半年も経ってんだから新人って言えないでしょ。大体、マイトは優しいんじゃなくて適当なのよ。あんたのことなんて、最初から当てにしてないだけ」
「うっへぇ」
 ホワイトは目玉をぐるりと回した。それがあまりにもマヌケな表情だったので、私は思わず笑ってしまった。気分も少し落ち着いてきた。ホワイトの軽口は普段ならムカつくところだけれど、こういう時だけは場を和ませる効果がある。
「よし、行くよ。――ん?」
 踏み出そうとした私の足元を素早くかすめて、黒い影が通り過ぎた。
「ひッ! 何、何?」
 私は悲鳴を上げて飛び上がった。後退した拍子に、背後にいたホワイトにぶつかった。
「ってェ、何すか」
「今、ネ、ネズミが……」
「ネズミぃ? そんなもん、どこにもいませんよ」
「いや、いたんだってば!」
「ロンカさんも意外に小心者だなー」
 ホワイトは歯を剥き出して、小憎らしい意地悪な笑みを浮かべる。私はむっと膨れて、ホワイトの肩をグーで殴った。
「イタッ。殴ることないじゃないすか」
「……本当にいたんだもん」
「ええ? どれどれ。まさか、電気泥棒の犯人がネズ公ってわけじゃないっすよねー」
 ホワイトが配管の陰を覗き込む。
「ほら。やっぱ、いないっすよ」
「え~、ちゃんと見てよ! もうやだ!」
「そういうとこだけ、ちゃっかり女らしいフリするんだから。ずるいずるい」
「フリって何よ、真剣に探せっての!」
 ヒステリックに怒鳴った直後、ふと我に帰って周囲を見回すと、シンディは既に入り口のところまで逃げていて、つまらなさそうな顔で私たちを眺めていた。普段ノロノロと亀のように動作が遅いのに、こういう時の逃げ足だけは早い。
「――もういい、次行こう」
 私は諦めて、電圧測定器を手に歩き出した。直後、通信が入ったので足を止める。
『こちら№3。№5、調子はどうだ?』
「あ、マイト。こっちはあと一件で、今日のノルマは終了よ。そっちは?」
『ああ。まだ元素銃を使わずに済んでるよ。もっとも、エツコ様はぶっ放したくて仕方ないみたいだけどな』
『ちょっと止めてよ。あたし、そんなこと一言も言ってないからね』
 端末の向こうでエツコが否定しているのが聞こえて、私とホワイトは声を立てて笑った。
「さっきですねェ、ロンカさんがネズミを見て驚いて、ギャーギャー騒いでたんすよ」
 ホワイトが横から告げ口するので、今度は私が怒る番だった。
「余計な報告するんじゃないの!」
『え、ネズミ? そりゃまずいなあ。駆除業者呼ばないと。どこ?』
「D-302」
『ちゃんと課長に報告しとけよ』
「だけど、ロンカさんの見間違いかもしれないんすよねェ。探したけど、全然そんな気配ないし」
『まあ、それでも一応報告しといた方が良いな。もし本当に、壁の内側にネズミがいたら、配線食いちぎられて大問題になるぞ』
「まあ、そうね。了解」
『ほんじゃな』
 マイトが通信を切った。
 私は溜息をつく。今日何度目だか分からない。
 これ以上仕事が増えるのは御免だ。忘れずに課長に報告しなければ……。


1.エアロバイク乗りの日常(3)

 仕事帰り、私はミランダに教えてもらった例の雑貨屋のセールへ行くことにした。隣のビルの723階までバイクを走らせる。
 その雑貨屋――レインドロップは、なかなかセンスの良いセレクトショップだった。もし男性一人ならちょっと入りにくいような甘くガーリィな雰囲気の店で、それはつまり仕事帰りの私にとっても入りにくい場所とも言える。何故ならば、仕事帰りの私ときたらお洒落とは程遠い作業服だし、おまけに機械油と埃と汗に塗れてドロドロなのだから。
 できれば一度帰宅してシャワーを浴びてから出掛けたかったが、レインドロップは閉店時間が早く、職場から直で行かないと間に合わない。普段は使わない会社のロッカールームでとりあえず身体の汗を拭き、顔と手を洗い、薄汚れたTシャツだけは取り替えた。
 着替えつつ、何を買おうか思案する。
 今月は無駄遣いを控えていたので、財布にはまだ若干の余裕があった。とはいえ、ここは中階層。基本的に物価は高い。本来ならば分不相応な場所に住んでいると、いくら家賃が会社持ちでタダであるとはいえ生活は苦しい。物価の安い低階層まで降りれば良いのだが、それもなかなか面倒臭い。おまけに、より身近な場所に高価ではあるがお洒落で素敵な品物が溢れ返っているのだ。私だって女だから、そういったものについ目がいってしまうのは当然のこと。
 レインドロップに置いてある雑貨や服も、例に漏れず高価だった。普段なら指を咥えて眺めるだけなのだが、セール中なら安月給の私にでもなんとか手が届く。無駄に吹かしたエアロバイクのエンジン音も、久しぶりの買い物に浮き足立つ私の心のように軽やかでリズミカルだ。
 ショップの脇にエアロバイクを停めたら、大きなガラス張りの壁の向こうで店員と客たちが一斉にこちらを振り向き、目を丸めた。
 かなり気まずい。
 知らん顔を決め込んで、飛行帽とゴーグルを外しバイクのトランクに収納する。
 サイドミラーに映った私の髪は、風圧でボサボサだった。言うことを聞かない頑固な髪を懸命に撫で付けながら、顔を洗ったついでに軽くだが化粧をしてきたのが唯一の救いだな、と思った。
 ガラス越しに店内の様子を盗み見る。客層は予想通り女性ばかりだ。緩やかな水の流れのように渦を巻くヘアスタイル、照明を反射して鋭く輝くネックレス、ふんわりと広がったバルーンスカート、キュッと締まった足首を飾るアンクレット。店内の女性たちは皆、美しく着飾っていた。
 それなのに私ときたら……。
 着ているのは汚いツナギだし、グローブを外した手は何度も石鹸で洗ったというのにも関わらず、未だにこびり付いた機械油で薄黒い。エアロバイクから降りると、鉄板の床にブーツの底が当たってバゴン、と重く尖った音がした。いかにも無骨なその音が私の埃臭い生活そのものを物語っている気がして、少し悲しくなった。
 ショップの雰囲気に不釣合いな出で立ちで、私は店先に立った。ショーウィンドーに映った自分の姿を見て、やっぱり来なければ良かったかも、と一瞬躊躇する。
 しかしそんな私にでも、商売熱心なショップの女性店員は入り口のドアを開けて、にこやかに招き入れてくれるのだった。その腕はほっそりとしていて、力仕事などとは無縁なのだろうな、と私は心の片隅で思った。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「いえ、あの……」
 条件反射で、へらりと曖昧な笑みを浮かべてしまう。私は、自分がこの笑顔を浮かべていると認識した瞬間が大嫌いだ。何に対して感じているのか自分でも分からないけれど、あの敗北感というか、屈辱感というか……とにかく本当に気持ち悪い。それなのに、大嫌いなはずのお愛想笑いは無意識のうちに顔の表面に浮かんでいるのだ。
 ああ……。店員の脱色してパーマをあてた髪が、それ自体が発光しているわけでもないのに、酷く眩しく感じられる。
「何か御用がございましたら、お呼び下さいね」
 気後れでもじもじしていると、店員は私を売り上げ貢献に期待できない客と見なしたのか、それでも模範的な笑顔を浮かべてさっさと店の奥へと去っていった。
 店員の背中を見て、私は大きく溜息をついた。
 しかし店員にあれこれ口を挟まれながら買い物するよりも、一人で自由に見て回るほうがずっと気楽だ。放っておかれるならそれに越したことはない。
 陳列された商品に手を伸ばしかけたが、そのまま触れずに手を下ろす。薄汚れた手で商品に触るのは気が引けた。そんな気遣いをしなければならない自分が情けない。
 私だって、ミランダや他の同世代の女友達みたいに、缶ジュースすら開けられないような美しいネイルアートに彩られた指で洒落こみ、優雅な気分でショッピングしたいと思うことだってある。
 そう、もっと小洒落た生活をしてみたい。
 こんな風に思う瞬間が、一日のうちに五分ぐらいはある。
 だが悔しいけれどホワイトの言うように、今の私にエアロバイクなしの生活なんて考えられない。
 エアロバイクで急上昇、急下降するときの爽快感。そして目覚めてすぐに、部屋の裏玄関を開き、青空の中へ飛び出して行く時に感じる自由な気分。
 他人からしてみれば馬鹿げたことかもしれない。そんなことぐらいで、汚くて危険な仕事を続けるなんて酔狂だと言われても当然だ。
 でも私にとって、それはとても重要なこと。
 どちらを諦めどちらを取るか。
 相反する二つの感情に挟まれてのジレンマ。
 クレヨン箱のような色彩のラック前をゆっくりと歩きながら、再び溜息を漏らした。気付けば私の視線は、目の前の数々の洋服をただの色彩としか捉えていなかった。これでは何をしに来たのか分からない。
 気を取り直して商品を物色する。手に取ったのは黒いワンピースの掛かったハンガー。しかし数ある色の中で、私が黒をとりわけ好んでいるというわけではない。多分、私はまた無意識のうちに指先の汚れを気にしていたのだろう。
「それ、最後の一着なんですよ、ステキじゃないですかぁ?」
 いつの間にか私の背後に回りこんでいた店員が、鼻に掛かった口調で肩越しに声を掛けてきた。
「私も色違いで持ってるんですけどぉ、ドレープが綺麗でしょう? あと、ここのスワロフスキーの飾りがぁ――」
 店員に説明されるままに、慌ててワンピースの造作を確認する。胸元の大きく開いたデザインで、袖はひらひらと熱帯魚のようだ。袖の先だけグラデーションで暗い青に変化しており、細かなビーズがまぶしてある。
「是非、御試着なさって下さい。きっとお似合いになると思いますよぉ」
「じゃあ……お願いします」
 ありったけの笑みを浮かべ、店員は私を試着室へと案内してくれた。
 店員は私の服装とエアロバイクについて色々と詮索したがった。わざわざ隠し立てするのも面倒だったので、素直にEE社の電気系統整備工だと告げた。それを聞いた店員は、明らかにわざとらしい仕草で両目を見開き「キャー、女性なのにエアロバイクなんて、かっこいいですねぇ」と大袈裟にゴマをすった。
 私は適当に笑って誤魔化したが、褒められても嬉しくない。それどころか逆に恥ずかしかった。
 店員の言葉だって本心だかどうだか分からない、とすら思った。自他共に認める捻くれ者の私だが、それはおそらく自分に対する自信のなさに起因しているのだろう。
ツナギを脱いでワンピースに着替える。背中のジッパーに若干手こずった。
 着替え終わり、全身鏡を覗き込んで苦笑い。靴下を履いたままだった。フェミニンなワンピースに作業用の靴下では酷すぎる。靴下を脱いだら、ゴムの線のせいで肌に跡がついていた。
 カーテンを開けると、試着室前の棚で商品の整理をしていたさっきの店員がそそくさと走り寄ってきた。
「わあ、やっぱりお似合いですよぉ。これ、今なら六割引ですし。買いですよ!」
 腰にぶら下がる値札をさりげなく見る。
 うわ。
 私は声にならない呟きを溜息に変えて漏らした。
 元値が元値だけに、例え六割引だとしても結構な値段だった。しかしギリギリで予算内だ。買えないことはない。
 もう一度全身鏡を覗き込む。店員がワンピースに合うハイヒールの靴を出してくれた。それに履き替えて、ちょっと気取って斜めに立ってみる。
「――良いかも」
 適当に選んだ割には似合っているような気がする。……いや、店員のおべっかに乗せられて、そんな気がしているだけかもしれない。でもまあサイズもピッタリだし、明日の合コンに着ていく服がなかったから……。
「じゃあ、これ買います」
 元のツナギに着替えながら、試着室の中で私は鼻歌交じりだった。私の頭も単純なもので、蟠っていた気後れや気恥ずかしさも、購入する服が決まった途端、いつの間にやらどこかへ吹き飛んでいた。
 っしゃァ、明日は気合入れていくぞ。なんちゃって。
 私の顔は、若干にやけていたかもしれない。
 例えどんな女でも、女というものは、やっぱり買い物好きな生き物なのだ。


2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(1)

 翌日の勤務は、前日に引き続きスラム点検だった。いつもならウンザリするような仕事も、今日ばかりは憂鬱にならない。更に幸運なことに、今日はシンディが事務業務に回って現場に出て来なかった。彼女にとっては物珍しいスラムも、昨日一日見て回って飽きたのだろう。シンディ分の負担が軽減されたことも、浮かれた気分に拍車を掛けた。
「あれ。今日はなんかゴキゲンっすね。男でもできた?」
 ホワイトに茶化されても腹が立たない。
 ロッカーの中に入っている、レインドロップのワンピースのせいだろうか。それとも、それを着て行く久しぶりの合コンのせいだろうか。これまでは嫌いだ嫌いだと言い張っていた合コンだけれど、真剣に彼氏を作りたいと考えている今は、良い男と出会うための恰好なチャンスの場だ。
「さ~てねェ……。ホワイト君、今日はちゃっちゃと仕事済ませて、ちゃっちゃと帰ろうね。残業なんて絶対無理だから」
「え、マジすか! もしかしてデート……とか?」
 ホワイトは驚いて私を見た。私は口を尖らせてブッブー、と言った。
「秘密ですー、秘密」
 ホワイトは引き攣った笑顔を浮かべる。
「何すか、気味悪いなぁ。どうせ、ろくな用事じゃないんでしょうけど。なんだぁ、てっきりこっちにロンカさんも来るんだとばかり思ってたけど」
「こっちって?」
「今夜、マイトさんとエツコさんと飲みに行くんすけどね。ロンカさん来ないんじゃ、俺が一人でパシリ役決定じゃないすか」
「ああ、それね。っていうか、私がいたって結局あんたがパシリになるわよ」
 私もエツコに誘われていたが、今日ばかりは断った。
 エツコは飲みに行くのが大好きで、頻繁に旦那と子供をほったらかしにしてはバーをハシゴしている。そしてパンパンに腫れた酷い顔で出勤してくる。アルコール分解薬を飲んだところで、顔の浮腫みまではカバーできない。身体だってダルいだろう。それでも毎朝子供の弁当を作ってから出勤してくるというのだから、アルコール癖は褒められたものではないものの、主婦としてはまずまずだと思う。
「私の分まで飲んできなよ」
「俺、酒弱いっすからぁ」
 言いながら、ホワイトは煙草に火を点けた。煙草の臭いを嗅ぐとすぐに顔を顰める私だが、今日はその反応すら出てこない。始終締まりなく微笑んでいた。そして早く終業時間にならないかなあ、と仕事の合間に時計ばかり見ていた。
 浮かれた気分を抑えつつ、のろまなホワイトの尻を蹴飛ばしてキリキリ働いたお陰で、ノルマは終業時間の一時間も前に果たすことができた。この珍しく上出来な自分たちの働きっぷりに、私もホワイトも大満足だった。安全バーに固定して空中停車したエアロバイクに腰掛けて、終業時間までの小一時間、缶コーヒーを飲みながら時間を潰した。
 こういう暇な時間に花が咲くお喋りの内容はといえば、大体決まっている。仕事の愚痴や職場の人間関係、そんなものがメインだ。
「シンディの野郎、もうほんっと最近我慢ならないんだけど」
 私が苦々しい表情で言うと、ホワイトが今にも噴き出しそうに頬を膨らました。
「昨日はやばかったっすね。ロンカさんブチ切れ」
「だって! いくら何もやらないにしても、片付けぐらい手伝っても良くない? アイツ、仕事を舐めてるよなー」
「今に始まったことじゃないでしょ」
「いやぁ、昨日はマジで無理だった」
「ロンカさんと俺、いっつもダイレクトに被害被ってますからね。何故かシンディさん、気紛れに外回りに出て来る時、俺らにばっか付いてくるし」
「お前、惚れられてんじゃないの」
「ま、まさかぁ。勘弁して下さいよぅ」
 ホワイトは笑顔を凍らせた。
「ロンカさんは、いっつも我慢してシンディさんに何も言わないから、ストレス溜まるんすよ。俺、嫌味言ったりして密かに反撃してますもん」
「あんた、そういうとこ陰湿よね」
「だって、そうでもしないとやってらんないっすよ」
「あんたの嫌味なんて、あの子には通じてないわよ。大体、何言ったって無駄じゃんか。注意したって言うこと聞かないし、わけ分かんない反論されて、益々ムカつくだけじゃんか」
「だからって溜め込んでると、現にああやって、ロンカさん時々大爆発するじゃないっすか」
「まあ、そうだけどさ……」
「堪えきれなくなったときの反動、デカ過ぎないっすか? いい加減、大人なんだからもうちょっとセーブしないとダメっすよ」
「うぅ……あんたに諭されて、なおかつそれが正論だったりすると、何だか妙にムカつくわぁ」
「えええ~、なんじゃそりゃ」
ホワイトが大袈裟に仰け反った。その拍子に、空中停車した彼のエアロバイクがぐらりと傾いた。ホワイトは慌ててハンドルを掴み、体勢を整えた。
「っぶね」
「気をつけてよ。落ちても助けられないからね。――お、もう時間じゃん」
「そろそろ帰りますか」
 腕時計のアラームが終業時間を告げた。私とホワイトはエアロバイクのテイルをわざと大きく振り、ふざけながら社のガレージへと戻った。
「お帰り」
 そこにはエツコとマイトが既に戻っていて、ピットに停めたエアロバイクの横に胡坐をかいて座り込んでいた。
「今日は残業なし? スラム点検であんたら二人にしちゃ、随分頑張ったじゃない」
 エツコが煙草の煙を吐き出しながら、感心したように眉毛を上げた。私は汚れたゴーグルを頭から外し、ツナギの中から引っ張り出したTシャツの裾でグラスを拭いながら「まあね」と呟いた。
「だって、今日ばかりは残業するわけにはいかないんだもの」
「あのですねぇ、今日はロンカさん、大事な用があるんすよ」
「え、何?」
 エツコが目を瞬かせる。餌の匂いを嗅ぎ付けた動物のように、彼女の瞳が鋭く光った。
「あ、こら!」
 私はホワイトに飛び掛り、手で彼の口を塞ごうとした。しかしホワイトは必死で身体を捻り、私の手を掻い潜って、ケラケラ笑ながら大声で叫んだ。
「ロンカさんは今日、合コン!」
「え~~~~~~~~ッ、マジか」
 案の定、エツコも腹を捩って笑い出した。
「アーッハハハハハハ、ロンカが合コンだってェ」
「エっ……エツコ、そんなに笑うことないでしょ!」
「だってさぁ、あんた。ガラじゃないでしょ。似合わねー」
 私は不貞腐れて口を尖らせ、弱気に反論する。
「だって……例えガラじゃなくったって、チャンスなら乗っとくわよ」
「チャンスって、何の?」
「だからっ……私だって、彼氏の一人や二人欲しいのよ」
 言葉の最後は、何だか自分でも気恥ずかしくて消え入りそうな声になっていた。
 それを聞いたエツコは、ガレージの床を拳でガンガン叩きながら、益々激しく笑い出した。
「ヒーッ、ヒーッ、あー可笑し過ぎる! もー止めて! ロンカ、今日の一等賞はあんたに決定だわ」
「エツコぉ――――――――――ッ!」
 私は大声で叫んだ。顔がカーッと熱くなる。
 エツコの横では、マイトが白けた表情で鼻を鳴らした。
「……何が合コンだよ、馬鹿臭ェ」
「何よ、マイトまで! そりゃエツコは旦那さんいるし、マイトは女に不自由していないだろうから良いかもしんないけどさ。私はそうじゃないのよ」
「ロンカさん、俺が抜けてるんすけど……」
 ホワイトが己を指差して言ったが、私はそちらを見もせずに、手を振って蝿を追い払うようなジェスチャーをした。
「あんたの話はどうでもいい。問題外」
「酷っ」
「だけど、お前、そういう飲み会嫌いなんじゃなかったっけ?」
 マイトに指摘され、私は言葉に詰まる。
「……そうだけどさ」
「だったら無理して行ったって、どうせ不愉快な気分になるだけさ。身の丈に合わないことすると、自分が辛いだけだぞ」
「ふんだ。マイトだって、いい歳して女ナンパして、よく飲みに行ったりしてるじゃんか」
「そりゃ、俺はそういうの嫌いじゃないもん。むしろ大好きだし」
「俺も好きっス!」
「だからお前とは違うんだよ」
 マイトとホワイトは、ティーンエイジャーの少女のようにカワイコぶって「ねーッ」と声を揃えた。気持ち悪い上に、非常にムカついた。
「だってェ、本気で彼氏欲しいんだもん。ちょっとぐらい苦手な場だって我慢するわよ。マイトさ、そんなに私を馬鹿にするんだったら、良い男でも紹介してくれんの? ねえ、責任とってくれんの?」
 マイトはますます私を小馬鹿にしたように目を半開きにして、鼻先で笑った。
「だったら責任とって、俺がお前の相手してやるよ」
「マ、マイトさん、恐ろしいこと言いますね! ロンカさんを相手にするのは、良く噛むブルドック……いやいや暴れ闘牛を相手にするようなモンですよ」
 ホワイトが身を引いて両手で自分の肩を抱き、身体をぶるりと震わせた。
「俺、命知らずの冒険野郎だから、猛獣だろうが怯まないわけよ」
「キャー、マイトさんカッコイイ」
「だろ?」
「惚れるゥ、惚れちゃうゥ」
 ホワイトにヨイショされたマイトは、自分のジョークに得意げだ。
「ギーッ!」
 皆におちょくられまくりの私は、とうとう癇癪を起こして地団太を踏んだ。鉄板の床がゴワンゴワン響く。
「ロンカ、床を壊さないでね」
 書類の束を手に通り掛かった№2のチェが、苦笑いで私に釘を刺した。エツコは相変わらず笑い転げている。
「何なのよ、うちの課の連中は」
 私は失礼極まりない同僚たちにプリプリ怒りながら、乱暴にタイムカードを押して、ロッカールームへと逃げ込んだ。これ以上からかわれ続けるのはごめんだ。
 ロッカールームは、エレベーター通勤の社員のためにある。
 うちの課の人間は、課長とシンディを抜かした全員が、職務特権を乱用してエアロバイク通勤をしているので、帰宅時に着替えることもなく、ロッカールームも必要ない。 しかし、そこは一応「できる限り、社への通勤はエレベーターを使用する」という社内規定に配慮して、全員分設置してある。もちろん、誰も使用していないけれど。大体、私物ならば自分のエアロバイクのトランクにしまっておいた方がずっと便利だ。
 洗面所で、冷たい水で顔を洗う。ヒートアップしていた心が一気にクールダウンした。
 ツナギを脱いで汗ばんだ身体をタオルで拭き、用意してきたレインドロップのワンピースに袖を通した。布地が頼りなくヒラヒラしていて、露出した肌が少し寒い。
 化粧水、乳液、下地、リキッドファンデーション、パウダー。順を追って顔に塗りたくっていると、心の中にはいつの間にか、浮き足立った気分が復活してきた。やはり女は着飾ってこそだ。お洒落をすると、どうしてこんなにも心が弾むのだろうか。ツナギを着ている時とは別人の気分だ。
 調子に乗った私は、マスカラなんて、ここが気合の見せ所とばかりに四度も重ね塗りした。鏡を覗き込むと、駱駝の目のような自分に見つめ返された。
 化粧をしていると、ガレージのほうから何重奏にもなったエアロバイクのエンジン音が轟々と聞こえ、すぐに遠退いていった。仕事を終えた仲間たちが一斉に帰宅していったのだ。
「ふん、帰れ帰れ、さっさと帰れ。馬鹿どもめ」
 私は鼻を鳴らし、壁の向こう側の見えない同僚たちに向かって悪態をついたが、それは鏡に反射して、結果的に自分と睨めっこしながら罵り合っているような状態になってしまった。
 化粧の最後、頬にふんわりとチークカラーを乗せる。チークのお陰で二、三歳は若く見えるのではないか、と勝手に思い込んで満足する。
 よし、これでオフタイムへのファッションチェンジ完了。
 こんな格好でエアロバイクに乗るのは変だが、私服で乗ってはいけないという規則は特にない。おそらく、ひらひらのワンピースで乗る人間のことなど、想定していないだけだろうが。
 ツナギと飛行帽はバイクのトランクに突っ込んで、ゴーグルだけ装着した。お気に入りのジャケットをワンピースの上に羽織って、エンジンを掛ける。フォン、とエンジン音が鳴るのと同時に、風に煽られてワンピースの裾がバタバタと捲くれ上がった。
 これはまずい、と一度エンジンを切り、バックパックを太腿の間に挟み込んで、シートに座り直す。これで、スカートが捲れてパンツが丸見えになり、うちの課の人間ばかりか他社のエアロバイク乗りたちからまで「よう、丸見え」だの「今日のパンツは何色?」だのと、セクハラ紛いのからかいを受けずに済む。

2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(2)

 「ケゴン」は、第三雑居ビルから二つのビルを挟んだ第五雑居ビル内、上階層下部の繁華街にあった。レンガ造りの街並みの、若いプチブルが集うお洒落な街だ。螺旋状にビル側面を上昇し、指示灯に従ってビル間を移動する。
 化粧と着替えにだいぶ時間を取られたが、それでもまだ集合時間より二十分も早い。私はケゴンの一階下のピットにバイクを停めて、非常口からビル内へ入った。バイクで乗りつけたところを合コン相手に見られたくなかったのだ。
 非常口近くのカフェに入り、コーヒーを注文し、ウェイトレスが去って行ったのを確認してから、鞄からコンパクトミラーを取り出した。化粧と髪型をチェックする。いつもの如く、飛行時の風圧のせいで髪が乱れていたものの、手櫛で軽く撫で付けるとすぐに綺麗になった。今日は会社のロッカールームで、ドライヤーとヘアムースをたっぷり使用して丹念にセットしてきたので、自分の髪とは思えないほど柔らかく指通りも滑らか、乱れを直すのも簡単だった。
 コーヒーを一口啜り、今度は化粧室へ。大きな全身鏡で、ワンピースをチェック。大丈夫、まさかこの格好でエアロバイクに乗っていたなんて、誰も思わないだろう。美人と言い切るには難しいけれど、それなりに可愛いのではないかと自己評価。
 っしゃ!
 これならいける、と口角に力を入れて軽く微笑み、鏡の中の自分と頷きあった。
 ピリリリリリリ。
 鞄の中で端末が鳴った。慌てて乱雑に散らかった鞄の中へ手を突っ込み、微振動を続けている端末を探った。
「はい、もしもし」
『もう着いた?』
 通信の相手はミランダだ。
「今ね、キャラメルカフェにいるよ。ケゴンの一階下」
『え、じゃあそっち行くわ』
「うん。でも、もう時間だね……じゃあ、カフェの前に出てるよ」
『了解~』
 暢気に語尾を伸ばして、ミランダが通信を切る。私はもう一度だけ鏡と向き合ってからカフェを出た。
「ハイ、ロンカ」
 ミランダは五分も経たないうちにやって来た。アフロヘアが揺れて、遠目でもすぐに分かる。彼女の頭は非常に目立つ目印になるが、こんな奇抜なヘアスタイルなのに、それでも彼女は色気に満ちているし、男にモテる。
「わあ、カワイイんじゃないの」
 ミランダは微笑を浮かべ、私の頭の上から爪先までをじっくりと眺め回した。ミランダに褒められると、素直に嬉しい。私は綻ぶ口元を両手で押さえた。
「昨日、レインドロップで買ったんだ」
「私が行ったときには、その服セールに出てなかった。ラッキーじゃん、良い買い物したね」
「そう?」
「超似合ってる。男ウケ良さそう」
「っしゃァ、気合入れるぞっと」
 ミランダのお墨付きを貰い、私は得意になってスカートの裾をひらりと振ってみせた。
「……ねえ、ミランダ。頼みがあるんだけどさ」
「何?」
 突然シリアスな調子で話を切り出した私に、ミランダは目を丸くした。私は気恥ずかしくて、無駄に両手の指先を弄り回しながら、ボソボソと言った。
「あのさぁ……その……」
「モジモジしちゃって、どうしたの?」
「……私がEEの整備工だって、伏せといてくんない?」
「何で?」
「だってそれこそ、男ウケ悪そうだし」
 ミランダは吹き出した。
「アッハハハ。何だァ、そんなこと」
「ちょっと! 私にしたら大問題なんだから、真剣に聞いてよ」
「分かった分かった、伏せるよ。じゃあ、あんたはEE社の秘書課で働いてるってことにしよう」
「秘書課ぁ?」
「だってホラ、秘書課って言えばさ、どこの会社だって良い女の巣窟じゃんか。間違いなくモテ職だよ」
「なるほどなるほど」
「よっし、決まりね」
 拳を軽くぶつけ合い、お互いのやる気を確かめ合った後、ミランダと連れ立ってケゴンへ向かった。私は彼女と並んで歩いているときの、自分の足取りが好きだ。蟹股気味で品のない私の足取りまで、ミランダの妖艶な歩調にリードされ、女性らしく美しいテンポを刻むことができるからだ。
 ケゴンは、アジアンテイストのお洒落なレストランバーだった。店内へ入るとすぐ目の前に、滝を模した水のカーテンのようなオブジェがあった。そこから流れてくる空気は水に冷やされており、やや興奮気味の私の肌に心地良かった。
 滝のオブジェの前でしばしの間待っていると、やがてウェイトレスがやって来た。ミランダが予約の確認をすると、店の奥、薄いピンク色のシフォンのカーテンで仕切られた個室タイプのテーブルへと通された。部屋の中央に据えられた朱塗りの大きな丸テーブルには、既に男が4人、女が2人、席について談笑していた。
「あーら、もう私たち以外全員揃ってたのね。早いんだぁ」
 ミランダは全員の顔を見回して言った。ミランダから一番近い席にいた男が、俺らは自己紹介済んでるよ、と答えた。
「ロンカ、このコたちは、エレナとミレイ。アカデミーのときの友達なの」
「よろしく」
 テーブルの向こうから、女の子たちが手をヒラヒラ振って、首を傾げてお辞儀する。このコたちが今日のライバルか。油断していると先を越されそうだ、と心の中で腹黒い計算をする私。
「で、こっちは、うちの店のお得意さんのリチャード」
「あ、どうも」
 ミランダの隣の男が、笑顔でこちらを向いた。笑顔が眩しい、良い男だ。しかし「こいつは彼女持ちだったよな」と、また私の中の腹黒い部分が囁き、良心的な部分はそんな自分に呆れてやれやれ、と首を横に振った。
 リチャードが立ち上がり、他の男の子たちを一人ずつ示してゆく。
「えっと、こいつらは、サダオとトビー、クリス」
「こんにちは」
 紹介された男の子たちを、ざっと見回す。見た目だけで言えば、それなりにレベルが高いと言えるだろう。こりゃあ今回は当たりだな、とミランダに目配せした。ミランダも目元で笑って、右の口角をちょっと持ち上げた。
 アルコールを注文してそれを待つ間、いかにも初対面といったぎこちのないテンポで、当たり障りのない会話が続いた。天気の話に始まり趣味やテレビ番組の話、それから相手がどんな人間なのか遠まわしに探りを入れてみたり。
 心なしか皆の笑顔がわざとらしく感じられる。きっと、私の笑顔も同じなのだろう。笑顔すら、他人から見て少しでも好印象に見えるよう計算している。下らない努力だとは思うけれど、こんな時、実は一番重要なのかもしれない。
 苦手なんだよなぁ、こういうの。
 私は懸命になって、慣れない柔らかな笑みを心掛けつつ、マイトたちの小馬鹿にしたにやけ面を思い出していた。
 ちくしょう。絶対に楽しんでやる。
 私は脳裏に浮かんだ同僚たちの姿を、無理やり掻き消した。
 全員分のアルコールが来て、リチャードが音頭を取って乾杯した。私のグラスの中身はビールだ。仕事上がりで喉が渇いていたし、本当は一気に空けてしまいたいのを堪え、数口飲んだところで一時停止。一気飲みは可愛くない。
 グラスに付着したグロスを気にしながら、こっそりと男の子たちを品定めする。トビーが一番キュートだ。ブロンドの短い髪も、男ながらに整った指先も、ちょっと大袈裟なリアクションも私の好み。
「ロンカちゃんは何やってる人?」
 クリスに名を呼ばれ、私ははっと我に返る。
「え、ごめん。何?」
「仕事、何やってるのって、聞いたんだけど」
「あ、ああ、仕事? 私、私はね……」
 慌てて言葉を探す。
 えっと、何だっけ……ダメだ。頭が働かない。
「ロンカはEE社の秘書課に勤めてんのよ」
 横からミランダが助け舟を出してくれた。私はほっとして、コクコクと何度も頷いた。
「そうそう、秘書課秘書課」
「マジ? 秘書課?」
「すっげーじゃん」
「良い女ばっかなんだろうなぁ」
 男の子たちの食いつきが予想を遥かに上回っていたので、驚いた私は気持ちが引いてしまった。ちょっと自分を隠したかっただけなのに、やり過ぎだったろうかと後悔した。
「……そう? ハハハ」
「どうりでカワイイと思ったよ」
「そんなぁ」
「EEっつったら、大手だもんなぁ。良い会社、勤めてんね」
「でもさ、同じ大手のEEっつっても、整備課とかんなるとマジ最悪だよな」
「え?」
 思わぬところから自分の所属する課の話題が出たので、私はぎくっとして心臓が止まりそうになった。
「整備課の女なんて、大手だろうが弱小だろうが、皆酷いもんだよ」
「何で同じ女なのに、ああも違うんかね」
 サダオとクリスがケラケラと笑う。
「こないださぁ、俺んちの近く散歩してたら、茂みの向こうの業務口から、すっぴんに顔中機会油だらけの女がぬっと顔出してさあ」
「うわぁ。マジでドン引く」
「整備課って、エアロバイク乗ってるアレだよな。ていうか女なんていんの?」
 リチャードが驚いて尋ねた。
「いるいる、たま~にいるんだよ。つっても、男だか女だか分かんないようなのばっかだけど」
「整備課の連中って、どこの会社もガラ悪くね?」
「まあ、本来なら低階層以下の人間だからさ、しょうがないんじゃないの。汚れ仕事じゃん」
 私とミランダ以外の全員が爆笑した。
 顔から血の気が引いてゆく。
 喉がカラカラだ。
 グラスに残ったビールを一気に煽った。飲んで数秒後には、冷たく強張った顔が逆にカーッと高揚した。
「あ、ロンカ、グラス空いたね。もっと飲むでしょ? すみませーん」
 ミランダが大きく手を挙げウェイトレスを呼んだが、彼女もまた、酷く動揺しているようだった。
 ウェイトレスはすぐにやってきて、私の空のグラスと、ビールで満たされた新しいグラスとを交換していった。私は無言でグラスを手に取った。掌も熱を帯びていて、グラスの温度が冷たく肌を刺すように感じられた。
 私の肩にサダオが手を置いた。
「あ、ロンカちゃん、もしかして気に触ったの? 何でそんなに膨れてるの?」
「え」
「同僚思いなんだねえ、やっさしいなぁ」
「でもさあ、秘書課と整備課なんて、同じ会社っつっても、はっきり言って別世界なんだから関係ないじゃん。接点ないでしょ? 気にすることないよ」
 サダオの向こうからクリスも言う。
「花の秘書課と違ってさ、整備課なんてクソ溜めだぜ?」
 クソ溜め……。
 クソ溜めですか。
 はあ、そうですか。
 とうとう堪えきれなくなった。
 私の右手は反射的にグラスを大きく振っていた。中の液体が飛び出して、サダオたちに降り注ぐ。
 狭い個室内に悲鳴のオーケストラが反響する。
 私は立ち上がった。
「何すんだよ!」
 トビーが怒鳴る。既に彼に対する興味は一ミリたりとも残っていなかった。むしろ一瞬でも彼をキュートだなんて評価した自分が憎かった。
「ロンカ」
 ミランダが私を呼んだけれど、返事をする元気もなかった。
 誰の顔も見たくない。
 私は財布から適当にお札を取り出してテーブルの上に激しく叩き付けると、ヒールを鳴らして店を飛び出した。走りながら、いつの間にか涙が頬を伝っていた。
 エレベーターも使わずに走って、走って、エアロバイクのピットへ。ロックを外してバイクに飛び乗り乱暴にエンジンをふかす。
 悪かったわね。
 どうせガラが悪いわよ。
 どうせ低階層以下の人間よ。
 どうせクソ溜めの職場よ。
 どうせ、どうせ、どうせ……。
「うわあああああああああん!」
 人目を気にする余裕もなく、大声で泣き叫びながらバイクを急発進させた。規則違反のスピードでぶっ飛ばす。帰宅途中の同業者とすれ違ったら、相手は驚いた様子で、ビルの側面にぶつかりそうになりながら大きく進路を開けてくれた。
 いつの間にか会社の近くまで来ていた。ガレージを覗くと事務所は真っ暗で、常夜灯の薄らぼんやりとした橙色の照明と、誘導灯の青く小さな光だけが灯っていた。
 誰もいないピット。私は駐車ラインを無視して、ど真ん中にバイクを停めた。だがブレーキを掛ける際、あまりにも乱暴にバイクを振り回し過ぎた。バランスが崩れる。いつもなら絶対にやらないような初歩的なミスだった。
 気付いたときには、横倒しになったバイクから放り出されていた。シートから転げ落ちた私は、腹から無様に鉄板のピットへ叩き付けられた。スカートが捲れてパンツが丸見えになったが、顔面から落ちて鼻の骨を折らなかっただけマシだ。
 無様に転がるバイクと私。起き上がってはみたもののバイクを立て直す気力もなく、倒れたままのバイクに背中を預けてグスグスと泣き続けた。ワンピースがバイクの機械油と煤で汚れるのも、どうでも良かった。見せる相手なんてどこにもいない。
 がらんどうのピットの向こうは薄墨に染まった空。あちこちのビルに、小さな赤い誘導灯が点滅している。時折、黒いビルの影の上をエアロマシンの黄色いヘッドライトが通過して行く。
 両足を抱えて蹲る。零れ落ちる涙を膝で拭った。マスカラが溶けて真っ黒に染まった涙がべっとりと付着した。この分だと、目の周りはオバケみたいに黒くなっていることだろう。
 ウィィィィィン……。
 エアロバイクのエンジン音が聞こえた。顔を上げると、闇の中に年季の入ったエアロバイクが近づいてくるのが見えた。灰色の機体の横っ腹には黄色のペイントで1の数字。シマダの機体だ。
「こんな時間におめェ、何してんだ」
 轟々とガレージ内に反響するエンジン音に負けじと、シマダが大声を張り上げた。私は泣いているのを見られるのが嫌で顔を背けた。
 ビュウィィィィィィィィィィン……。
 エンジン音が萎んでゆく。エアロバイクの着地で、床の鉄板が鈍い音を立てて軋んだ。
「何だい、その格好は。珍しいじゃねェか」
 シマダがこちらに歩いてくる。私は慌てて涙を拭った。
「……どうした?」
 私の様子を察知したシマダが、怪訝な顔で足を止めた。私はどんな顔をして良いのか分からず、困惑してシマダを見つめた。シマダの方もわけが分からないといった顔をして、倒れたままの私のバイクを立て直してくれた。
「化粧が落ちてっぞ」
「――知ってる」
「そんな格好してたら、風邪ェひくぜ」
「うん……」
 シマダは唸って頬を掻いた。
「――別に、おめェが話したくねぇなら、話さなくても良いけどよ。何かあったんかい」
「……下らないことよ」
「物事に、下るも下らないもあるかい。そんなこと言ったら俺の人生なんて全部クソったれだぜ。もちろん女房は抜かすけどよ」
 シマダがおどけて言うので、私は思わずにこりと笑った。私が笑ったので、シマダもようやく安心したように表情を和らげた。
 シマダはポケットから煙草を取り出し火を点けた。美味そうに煙を吸い込むシマダの顔が、ライターの火が灯る間だけ闇に浮かんだ。
「今日ね、合コンだったの」
「合コンってェのはアレかい、お見合いパーテーみたいなもんだろう?」
 パーティーという発音ができないシマダに、私は軽く吹き出した。
「極端に言えばそんな感じだけど、もっと軽いヤツ」
「飲み会か」
「うん」
「いい男はいたか?」
 私は首を振った。
「整備課なんてクソ溜めだって言われて、ビールぶちまけて帰ってきた……」
 シマダは口から煙草の煙をぼふっと漏らして盛大に笑った。
「ロンカよぅ。おめェ、面白いなあ」
「笑い事じゃないわよ。私、私……バカみたい。もう全部イヤ。仕事も私生活も、自分自身も、ほんとイヤ」
「そんなに嫌がるこたァないだろ。かっこいいじゃねぇか。自分の仕事に対して、誇りを持ってる証拠さ」
 私は食って掛かる。
「誇りなんてないわよ! ただ、カッとなって……だって、本当なら低階層以下の人間だとか、ガラが悪いとか言われたから……馬鹿みたい」
「そんなこと口にしてる奴の方が、よっぽど馬鹿野郎だよ。他人を蔑むことでしか自分の価値を推し量れない、能無し野郎さ」
 スパーッと煙草の煙を吐き出しながら、吐き捨てるようにシマダが言う。
「おめェは何も恥じることなんてねえだろ。しっかりしろよ」
「でも、それじゃあモテないのよ」
「モテ?」
 シマダはちょっと目を丸めて、眉根を寄せた。
「……そりゃあ、ちょっくら難儀な問題だな」
「でしょ?」
「うむ……まあ、モテるモテないはともかくとしてよ、もうちょっと自分に自信を持つこったな。おめェに必要なのは、飾り立てることや男連中に媚を売るよりもむしろそっちなんじゃねえかと、俺は思うわけさ」
「自信、ね。難しいけど覚えておく」
シマダは立ち上がる。
「さぁて、俺もこんなところで油売ってるわけにゃいかねぇんだった。忘れた書類を取りにちょっくら行ってくる、と言って出て来たのに、あんまりボヤボヤ時間潰してると、あんたの言う『ちょっくら』っていうのは何時間のことなの!? なんて、女房が角を生やすからな。愛想尽かされちまう前に帰らねぇと」
「そうよ、早く帰ってあげなよ」
 照れ臭そうに笑うシマダは、職場内でも評判のおしどり夫婦だ。何かにつけて、すぐに奥方の話を持ち出す。整備課の人間は、課長とシンディ以外、全員シマダのホームパーティーに一度や二度は呼ばれて行ったことがある。ちなみに課長とシンディは誘われても行かなかった。
「シマダさんは偉いね。仕事も一生懸命だし、家族にもちゃんとサービスしてる」
「そりゃ趣味の問題さ。俺は家族でワイワイやってるのが好きだから、こういう生き方をしているが、もしもアレだ、一人でいるのが好きな趣味人だったとしたら、また違った生き方をしていただろうな」
「趣味?」
「ロンカだってよ、もしも整備課なんかでなく、もっと普通のOLっちゅうのか? ああいった職種についていたら、今とは大分違っていたろうが。それをおめェは、エアロバイクを乗り回したり、給料に見合わねえ中階層暮らしを選んだから、この職場にいるんだろう。馬鹿とケムリはなんとやら、っちゅうからなあ」
「まあ、そうね……そうかも。シマダさんの言うとおり、私がここにいる理由は主にその二つかも」
「ああ、夕暮れ時の中高階層から見える景色は、現実離れしてて本当に美しいもんだからなあ。シティの向こう側、荒地の果てまで延々と伸びる地平線が、浮き上がるようにオレンジ色に染まってなぁ。こんな俺ですら、ガラにもなく感傷的になっちまうくらいさ。低階層以下にいたら到底見れない景色だ」
「だよね」
「どこにいたって、メリットとデメリットは半々で存在するさ。何に重きを置いて何を諦めるのか、それもその人間次第。おめェはモテることよりも別の部分を重要視して選んだ結果、ここにいるんだ。もちろん、今からそれを変更することだって可能さな。もし、ロンカがそう望むなら」
 私は首を横に振った。
「――そうね。それでも私はやっぱり、今の仕事を選ぶんだわ」
 シマダは私の肩を叩いた。
「ま、お前さんがそう言うなら、そうするが良いさ。誰にも文句を言う権利なんぞないんだ。言う奴がいたら、今度はビールぶっ掛けるどころかブッ飛ばしてやれ」
「ハハハ」
「じゃあ、俺は帰るぞ。おめェもさっさと帰って、飯食って寝ろ。明日も仕事だぞ」
 シマダは一端事務所へ入り、書類を手に戻ってきた。そしてゴーグルを装着し、私に片手を上げて合図すると、エアロバイクを宙に浮かせた。バイクの尻を振って小さくカットを決め、流れるようなフロントライトのラインを描き家路へと去っていった。
 私は立ち上がり、シマダの機体が雲間を切って斜めに下降し徐々に小さくなってゆくのを、ガレージの端の安全柵に身体を預け、首を出して眺めていた。シマダの操縦は、年季が入っているだけあって安定していて美しい。
 私はそのまま安全柵に両肘をついて、真っ暗になった空を見ていた。

 企業の看板はビル内の市街地にしか出せないので、外壁を飾るのは誘導灯とエアロマシン用ピットの照明だけ。超高層ビルの窓という窓は、内側からは透明なガラスにしか見えないが、エアロマシンへの安全対策として外側から見ると遮光になっているので、所々に点る照明以外、ビルの影は真っ黒だ。

 こうやって眺めていると、闇にニョキニョキと連立する細長い箱の中にたくさんの人々が生活している巨大な都市があるなんて、信じられないような気持ちになる。
「あれ~、ロンカ何してんの? 合コンは?」
 静寂が支配するガレージ内に、遠慮のない大声が響いた。驚いて振り向くと、そこには私以上に驚いた表情のエツコがいた。エツコの隣にはホワイトとマイトも並んでいる。
「うっわ。さすがに合コンともなると、オサレっこいの着てんねェ」
 エツコが寄ってきて、私のワンピースを抓んで布地を見た。マイトは私をじろじろ眺めながら甲高い口笛を吹いた。
「馬子にも衣装……と思ったら、お前、何だよ。そのパンダ面」
「……色々あんのよ。乙女だから」
 私は肩を竦めた。ホワイトが笑いを噛み殺して言った。
「その分だと、本日のビッグイベントは大失敗の巻だったようですね」
「マジ最低よ」
 私は両手を軽く広げ、肩を竦めた。
「やっぱ慣れないことはしないほうがいいわね。っていうか、あんたらこそ、ここで何してんのよ」
「いやあ、近場で飲んでたんすけどね。二軒目行く話になって、でも俺、常に金欠じゃないっすかァ。だったらこの際EEのガレージで良いんじゃないかってことになって、そこのスーパーで酒とツマミを買ってきたんすよ」
「うわあ。課長に見つかったら、超怒られるよ」
「いいじゃん。どうせハゲオヤジは鈍いから、見つかりゃしないわよ。それよりさ、ロンカも飲もうよぅ」
 エツコは既に相当酒臭い。
「――じゃあ一杯だけ」
「ええ、一杯だけ? つれないわねぇ」
「エツコ、飲みすぎたらエアロバイク運転できなくなるよ」
「クスリ飲むから」
「アルコール分解薬だって、そんだけ飲んでたら効かないわよ」
「クスリも多めに飲んじゃえば大丈夫よ」
「胃やられるよ……」
「そしたらダイエットになるじゃん」
 ヘラヘラと笑うエツコに、マイトが「お前はホント、いくつになっても馬鹿だなあ」と小声で呟いた。
 エツコは眼光を光らせて睨んだが、マイトは知らん顔で視線を逸らした。
「まあまあ、喧嘩しないで。ロンカさんも途中参加したことですし、仕切り直しましょうよ」
 ホワイトがいそいそとビニル袋からビールの缶を取り出し、皆に配った。私たちはガレージの端で、缶ビールを高く掲げて乾杯した。
 一歩踏み出せば、そこは高度1000メートルの空中。
 ああ、何て気持ち良いのだろう。
 夜気に冷やされた春先の風を火照った頬に受けて、私は深呼吸する。
 私はビールの苦味を舌の上に感じながら、何だかんだ言っても、私たちの職場はやっぱり素適な場所だと思った。



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