目次
1.エアロバイク乗りの日常
1.エアロバイク乗りの日常(1)
1.エアロバイク乗りの日常(2)
1.エアロバイク乗りの日常(3)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(1)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(2)
3.正反対、だから気になる
3.正反対、だから気になる(1)
3.正反対、だから気になる(2)
3.正反対、だから気になる(3)
4.地表
4.地表(1)
4.地表(2)
4.地表(3)
5.平穏な生活
5.平穏な生活(1)
5.平穏な生活(2)
5.平穏な生活(3)
5.平穏な生活(4)
6.ネズミ
6.ネズミ(1)
6.ネズミ(2)
6.ネズミ(3)
6.ネズミ(4)
7.テロリスト
7.テロリスト(1)
7.テロリスト(2)
7.テロリスト(3)
7.テロリスト(4)
7.テロリスト(5)
7.テロリスト(6)
7.テロリスト(7)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(1)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(2)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(3)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(4)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(5)
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6.ネズミ(4)

 マイトは事務所の中へ入っていった。後に残された私たちは、重苦しい気分で口を閉ざしていた。エツコは煙草を口に咥えたが、中々火のつかないライターに苛立っている。ホワイトは眉間に皺を寄せ、自分のブーツの爪先をひたすら睨んでいた。私はと言えば、気分が全く落ち着かず、強張った身体を解すため無駄に屈伸ばかりしていた。
 身体が伸び上がった瞬間に、いつの間にかガレージの端に移動していたシンディの姿が目に入った。
 シンディはいつものように一人壁際に座り込み、眼鏡を光らせて漫画を読んでいた。
 ――何?
 何なの、アイツ?
 カッと頭に血が上る。
 一直線に歩いて行って、シンディの読んでいた漫画本を叩き落した。
「何やってんのよ」
 シンディは掴む対象を奪われた手先から視線を上げ、私を睨んだ。
「何って……特に今、私がするべき仕事はありませんし、いつものように待機しているだけですが、それが何か?」
「漫画なんて読んでる場合じゃねーだろっつってんのよ! さっきから爆発はボンボコ続いてるわ、シマダさんとチェが危ないわって時に、よりによって漫画? ……ちょっとは空気読めよ!」
 激昂する私とは対照的に、シンディはいつもの無表情。相変わらず感情の篭らない低いトーンの声で呟いた。
「――私には、関係ありませんから」
 関係ない?
 その言葉を聞いた私は激昂して、思わず手を振り上げた。
 もう止められなかった。
「止めな、ロンカ!」
 エツコが叫んだけれど、私の腕は止まらなかった。宙を斜めに切って、掌がシンディの肉付きの良い頬を打った。
 パツーン、と甲高い音がガレージ内に響いた。直後、シンディの眼鏡が床に落ち、鉄の床がカン、と鋭く鳴った。
 私は反射的に落ちた眼鏡を見た。左のレンズが割れている。それを見てようやく、とんでもないことをしてしまったという若干の後ろめたさと後悔の念が沸き起こった。
 しかし後悔はすぐに打ち消された。やはり腹立たしさの方がずっと強かったから。
 だって、そうじゃない。
 人の命が掛かっているのに。
 心の内に燻り続ける不快さを吐き出すように、私はつっけんどんに言った。
「私は、例え大嫌いな人間が死にそうな目に遇っていたとしても助けるわ。関係ないなんて絶対に言わない」
 シンディは目を真ん丸に見開いて、私を直視していた。彼女の頬は徐々に真っ赤に腫れていった。元から肉まんみたいな頬が、私に叩かれた左側だけ更に膨らんだ。
「大嫌いな人間でも助けるんだもの、職場の仲間だったら、自分の命張ってだって助けるわよ。どうして関係ないなんて言えるの? いつも助け合って仕事してきてんのよ。時々は、そりゃあムカつくことだってあるわよ。でも仲間でしょ? そんなに簡単に切り捨てられるもんじゃないわよ!」
 エツコが私とシンディの間に割って入る。
「分かったから落ち着きなさいよ。ダメよ、興奮しちゃ」
「エツコは黙っててよ! だって、だってこんな……あの二人が死んじゃったら、どうすんのよ!」
「まだ死んでないでしょ。だから、私たちで助けに行くのよ。こんなところでゴタゴタしてる場合じゃないでしょうが」
 その通りだ。私はぐっと詰まってエツコを見た。エツコも強張った表情をしていたが、口元を少し緩めて私に微笑んでくれた。
「大丈夫だからね、ロンカ? さあ、落ち着いて」
「……ごめん」
 私は頷いた。気が昂り過ぎて、泣き出してしまいそうだった。
 その時、私たちのオンボロなエアロバイクのものとは全く違う、お上品で静かな高級エアロカーのエンジン音がピットにゆっくりと降りてきた。それは毎日シンディを送迎しに来る、黒塗りのエアロカーだった。
 ピットに着地するとすぐに、中からスーツ姿の運転手が現れてシンディの傍へ立った。運転手は赤くなったシンディの頬を見て驚いたように口を開きかけたが、何も言わなかった。シンディに仕える彼はシンディと同じように、自分の仕事外のことは一切しないように教育されているのだろう。
「シンディ様。ご両親からお迎えに上がるようにと」
「……」
「ご両親は、既に避難する準備を整えてございます。停電により空気循環システムが停止しておりますので、一刻も早く外部に脱出しませんと、危険な状態でございます」
「えっ、マジで?」
 エツコが詰め寄ると、運転手は若干身を引いて、嫌そうな表情を浮かべつつ頷いた。
「は、はい。酸素が薄くなり、中階層から低階層にかけての避難民が集中しているエリアは大騒動になっているようです」
「うえぇ~、やっばいじゃんか!」
「さあ、シンディ様。お急ぎください」
 運転手は一刻も早くこの場から立ち去りたくて仕方がない様子でシンディを促した。しかしシンディは壁のように突っ立ったまま動こうとしない。私に叩かれた瞬間の姿勢のまま、立ち尽くしていた。
そこへ元素銃の調整機を手にしたマイトが戻ってきた。
「――どうした? 何騒いでんだ」
「いや、それが……あっちで話しましょ」
 首を傾げるマイトと青ざめたホワイトの袖を引いて、エツコがピットの脇へと連れて行った。残された私は、それでも意固地になってシンディと睨み合っていたが、エツコの言う通り、こんなことをしている場合ではないと気持ちを切り替えた。
 出発の準備を始めたエツコたちをサポートしようと、シンディに背を向ける。背中越しに、私は吐き捨てるように言った。
「行くならさっさと行っちまいなよ!」
「……ロンカさん」
 シンディが私の名を呼んだ。
「何?」
 相変わらずカッカしたまま、私は再びシンディに向き直り怒鳴り返した。シンディは私の勢いに怯んだが、おちょぼ口をもごもごさせて言った。
「……もし、私がチェさんのような目に遭っていたら……シノダさんのように怪我をしたら、それでも助けに来てくれるんですか?」
 シンディは割れた眼鏡を拾い上げつつ尋ねた。不意打ちの質問に、私は一瞬返事に窮したが、大きな声で答えた。
「当たり前でしょ! 私はあんたが大ッ嫌いだけど、それでも間違いなく、助けに行くわよ」
 シンディの無表情が少しだけ歪んだ。小鼻がぴくりと動いて、彼女の目がじわりと潤んだような気がした。
「……そうですか」
「それが何よ」
 シンディは俯いた。
「いえ……」
「は?」
「すみません、失礼します」
 シンディは、くるりと踵を返して運転手が待つエンリコ・エレキテル重役専用車へと乗り込んでしまった。
 ……何言ってんだ、あのデブ。
 私は呆気に取られて、シンディの広くて丸い背中を見送った。
「ロンカ、あんたの銃も調整するから貸しな」
 いつの間にかエツコがこちらに戻ってきて、私の肩を叩いた。
「うん……ありがと」
 私はもう一度だけシンディに視線を送り、腰の元素銃をホルダーから外した。
「シンディ、泣いてたね」
 遠退いてゆくエアロカーを見送りながら、エツコが呟いた。
「そう? ……っていうか、マジで意味分かんないんだけど、あの子」
 私が鼻から息を漏らしてぼやくと、エツコは肩をちょっと竦めた。
「できる子には、できない子の気持ちが分からないのよね」
「――どういうこと?」
「シンディは人付き合いが苦手なのよ。他人に自分の気持ちを伝えるのも、逆に他人の気持ちを汲み取ることも思うようにできない」
「確実に、空気は読めないわよね。でもさ、分からなきゃ聞けば良いし、分かってもらえてないなら、分かってもらえるまで話し合えば良いだけじゃんか。そんな簡単なことを……」
「だから、それがどうしてもできない人間だって、世の中にはたくさんいるのよ。あんたの定規で全てを測っちゃいけないよ、ロンカ」
「そりゃそうかもしれないけどさ」
「どうしてあの子がこんな職場に入ってきたのか分かる? きっと自分の殻を打ち破りたかったのよ。まあ、結果的に難しかったわけだけど。うーん、ちょっと可哀想なことしたかね」
「ええーっ、ただ単にオタクなミーハー心から、エアロバイクに乗りたいって言って、入ってきたんじゃないの」
「それもあるかもしれないけど、でもきっと、あの子なりに頑張っていた部分もあったはずよ。私らが気付いてあげられなかっただけでさ。なーんて言ってる私だって、ワガママで使えない、太りすぎのお嬢様だとばかり思っていたけどね。ハハハ」
「だって、その通りじゃん。それ以外の何者でもねーわ。頑張ってたって言われても、努力が見えてないんじゃ評価のしようもないしね」
「全くあんたも若いわね。その辛辣な意見ったら。自分のこと棚に上げてさ」
 からかうようなエツコの言葉に、私は思わず赤くなった。
 そうだ。シンディの文句ばかり言ってもいられない。
 私にだって直すべき点はたくさんある。例えば、こうやってすぐに手を上げてしまう暴力的なところ。。他人を傷つけるようなことを、平気で口走ってしまう短絡的な愚かさ。その他色々……挙げ始めたらきりがない。
「でもさ、あれできっとシンディも、何か学べたんじゃないの。この先、ちっとはマシな人生歩めるわよ。きっとね」
「……うん」
 私は去り際のシンディが浮かべた表情を思い出していた。
 多分彼女にとって、あの若干の顔の歪み、それが外に出すことのできる感情の全てだったのだろう。
 結局最後まで、私は彼女の内面に渦巻く感情の波を捉えることができなかった。
 このゴタゴタが落ち着いたら――今度はもう少し諦めないで、シンディとのコミュニケーションを図ってみようかな。
 心の隅の方でそう思ったけれど、結局私が彼女の肉まんみたいな顔を見たのは、その時が最後だった。

7.テロリスト(1)

 私とホワイトはガレージに待機、マイトとエツコはシノダを救助に向かった。
 いつもなら、何かあればすぐに私の神経を逆撫でするような発言をするホワイトだったが、私とシンディとの一悶着については触れてこなかった。黙って俯き、ただ煙草を次から次へと消費するばかりだった。
 私はと言えば、やはり沈黙を守ってピットから見える風景を眺めていた。
 青い空。高く高く伸びる、超高層ビル群。それはとても静かな風景だ。
 それなのに、その風景の中に時折響く轟音と振動は、まるで地獄から這い出てきた巨大な悪魔の足音のようで、聞こえる度に私とホワイトは首を竦めて震え上がった。
 最初の爆発が起きてからおよそ三十分が経過した。その間に合計6回の爆発があった。幸い私たちの近くで爆発は起きなかったけれど、しかしここだっていつまで安全なのか分からない。もしかしたらあと数分後、いや、あと数秒後には瓦礫の山になっているかもしれない。そう考えると背筋が寒くなった。
 周囲が静かになってようやく、私はティムのことを思い出した。途端に酷い不安と動悸に襲われた。
 大丈夫だろうか?
 まさか、爆発に巻き込まれたりしていないよね……。
 ティムに電話を掛ける。
 しかし繋がらない。
 何度掛けても、ただ虚しく呼び出し音が繰り返されるだけ。
 そうこうしているうちに課長から連絡が来た。
『どこにいる?』
「ピットにいます」
 マイトとエツコがシマダの救出に向かっていることは伏せておいた。何となくそうした方が良いような気がした。どうせ課長に言ったところで、そんな命令はしていないとガミガミ怒られるだけなのは目に見えていた。
『よーし、そのまま全員、課で待機だ。上からの命令が来るまで、エアロバイクの点検でもしておけ。何かあったらすぐに出動できるようにな』
「えっ……さっきから爆発が続いているのに、私たちをここに置いておくんですか?」
 課長は鼻を鳴らした。
『お前らは、自分たちだけさっさと逃げようっていうのか?』
「じゃあ、課長はどこにいらっしゃるんですか? もしかして、もう本社のお偉方と一緒に地表に降りてたりして」
『……いいから、そこで待ってろ!』
 おそらく図星だ。何て理不尽なのだろうか。
「あっ、あの、課長」
『何だ』
 通信を切ろうとしていた課長は、私がそれを止めたので煩そうに唸った。
「№2は……チェはどうなりました? テロリストから連絡は?」
『何かあれば伝えると言っているだろう。お前らは、黙ってわしの命令を聞いていれば良いんだ。分かったか?』
 課長は刺々しい口調でまくし立て、そのままブチリと通信を切ってしまった。
 私は今度こそキレそうになったけれど、ここで揉めても仕方がないと、ぐっと堪えた。
「くっそー……シマダさんとチェのことがなけりゃ、アンタの命令なんて無視して、速攻で逃げ出してやるのに」
 私は端末を睨み付けて毒づいた。
 マイトたちが出て行ってから十五分が経過した。私は数分おきにひたすらティムに電話をし続けたが、やはり繋がることはなかった。
「皆、地表に避難してるんでしょうねぇ」
 ホワイトが気の抜けた声で呟いた。最早自分には関係ないといった感じだった。
「俺たち、生き残れるんですかね」
「馬鹿言わないでよ。当然でしょ」
 私は端末を弄りながら、憮然として答えた。ホワイトはちょっと笑った。
「強気だなぁ」
「どこがよ。私今、滅茶苦茶怖いんだけど」
「え、そうなんすか? 俺はむしろ、もう全然怖くないんすけど」
「嘘ォ、マジ? さっきまで真っ青な顔してたじゃんか」
「ホラ、空腹もピーク超えると食えなくなるでしょ? アレと一緒でェ、恐怖心もピーク超えると、どうでも良くなるっていうか」
「あんた、空腹と恐怖心を同じレベルで考えてんの? やっぱホワイトはホワイトだな」
「あっ、何すかその言い方。今、すっげー馬鹿にしたでしょ」
「うん」
 床の上で私の端末が鳴った。私とホワイトはびくっと飛び上がり、端末を見た。発信元はマイトだった。ティムでないことに少しガッカリし、課長とテロリストでないことにはほっとした。
「はい!」
 端末を耳に当てると、マイトの声が響いた。
『こちら№3。今、シマダさんを回収したぞ』
「よかったぁ」
 私はホワイトを振り返り、シマダの無事を伝えた。ホワイトは半泣きの笑顔で頷いた。
『撃たれた怪我は大したことない。ただ、エアロバイクと端末を壊されて、立ち往生してただけだ』
「なァんだ、そうだったの」
『――ちょっと待て。今、シマダさんに代わる』
 雑音が入って、シマダの声になった。
『よう、心配掛けたな』
「シマダさん! ああ、良かったァ。チェは?」
『それが……』
 シマダが舌を打つ。
 先程チェの端末から連絡が入った、とシマダは言った。テロリストたちに、チェが喋らされていたらしい。
『映像データを送るから、それをメディアに流せという要求だった』
「ええ、そんなことうちらに言われたって、テレビ局じゃないんだから……」
『俺だってそう言ってやったけどよ、相手はテロリストだぜ。そんな理屈が通じる相手かよ』
「どうすんの。データは?」
『俺の端末に入ってる。でもよ、そんな映像、速攻でポリスに止められるだろ』
「局に直接交渉してもダメかな? 得ダネだよ、流すんじゃないの」
『こんな非常事態に、益々混乱を引き起こすようなモン流してくれっかよ。どうしたもんだか』
「う~ん……」
 私は考えを巡らせたが、元々良く回る頭でもないし、良案など即座に出てくるわけがない。
『とりあえず、そっちに戻るから待ってろ』
「了解」
 私は通信を切った。
「今から戻ってくるって。待ってろってさ」
「チェさんは?」
 シマダの話をホワイトに伝えた。ホワイトは口を尖らせて聞いていたが、彼も唸るばかりで、やはり解決策は見出せなかった。
「でも、流さないとチェさんの命が危ないわけでしょ?」
「流したからって助かるとは限らないけどね。そんな生易しい相手じゃないもの」
「そうっすね……」
「まあ、やらないよりは確率的にマシだろうけどね」
 疲労感に襲われて、私はピットに座り込んだ。ホワイトも私の隣に腰を下ろす。
 法定速度を完全に無視したエアロマシンが、さっきからひっきりなしにピット前を横切って行く。企業のものもあったし、役人用の高級エアロカーも通った。
 酷いクラッシュ音が聞こえた。階下を覗き込んだら、灰色の煙を濛々と立ち上らせながら、鉄屑の残骸となったエアロカーが地表目掛けて落下してゆくのが見えた。
「あ~あ」
 私の頭上から顔を出したホワイトが、首を振って呟いた。
「派手にやってますね、死んだかな」
 無感動な声だった。

7.テロリスト(2)

 目の前を、またエアロバイクの集団が横切った。
 見たことのないペイント。どこの会社のものだろうか。
 ピット前の空間を左下から右上へ、斜めに横切る。連続する全てのエアロバイクが、二人乗りだった。目に止まったのは、誰も飛行帽やツナギを着用しておらず、全員がエアロバイク乗りらしからぬカジュアルなファッションだったためだ。
 何だ、この集団。
 視線で追っていた私は、その中に見知った顔を見つけて血の気が引いた。
 ティム!
 見間違えることはない、大切な恋人の顔。
 ティムは私の後ろでいつもそうしているように、一台のエアロバイクの後部シートに跨っていた。
 一瞬、目が合ったような気がした。
 私はピットの端まで走り、手摺から身体を思い切り乗り出して、ぐんぐん上昇して遠退いてゆくエアロバイクの集団を見送った。
 ティムだ。
 絶対にティムだ。
 何故あんな集団にいたのだろう。
 そこで私は、チェの境遇を思い出した。
 もしかしたら……ティムも何かのアクシデントに遭って、チェのようにテロリストたちに人質に取られてしまったのではないだろうか。
 私はいてもたってもいられなくなり、自分のエアロバイクに飛び乗った。
「ロンカさん、どうしたんすか」
 尋常ならぬ様子の私に驚いて、ホワイトが走り寄って来る。私はエアロバイクのエンジンを掛けながら叫んだ。
「ティムがいたのよ! 今のエアロバイクの集団に」
「え、ええ?」
「もしかしたら、テロリストに拉致られてるのかも」
「マジっすか? 本当にティムさんなんすか?」
 私はエアロバイクを発進させる。フォン、と気の抜けた高音を響かせ、エアロバイクが宙に浮いた。
「ロンカさん、勝手に動いたらマズいですってば」
「うるさい!」
 ホワイトが私のエアロバイクのフロントにしがみ付き、必死で止めようとする。私はエアロバイクを左右に大きく揺らしてホワイトを振り払い、急上昇させた。
「ロンカさん、ああもう……!」
 ホワイトが自分のエアロバイクを慌てて発進させようとしている光景が視界に入ったけれど、私はすぐに視線を天に向け直す。
 エアロバイクの集団は、既に随分上まで行ってしまっていた。もう胡麻粒ぐらいにしか見えない。
 私もエアロバイクを加速させる。
 絶対に見失うわけにはいかなかった。
 エアロバイクのスピードと比例するかのように、私の中の不安もどんどん加速していった。
 ティム、ティム、ティム……。
 最悪の事態が脳裏にちらつく。私は時折目をぎゅっと瞑って、嫌な妄想を振り払おうとした。
 私と集団との距離は、徐々に縮まっていった。胡麻粒ぐらいにしか見えなかった集団の影が、少しずつ大きくなってくる。だが胡麻粒から大豆大になったとき、その集団はふいに私の視界から姿を消した。おそらくどこかに停車したのだ。
 私は更にエアロバイクのスピードを上げる。頬がブルンブルンと風圧に煽られた。メーターを見るとレッドランプが点滅している。未だかつて出したことのない高速だった。バイクのフレーム全体がガタガタと微振動している。これ以上のスピードを出したらエンジンが焼きつくか車体が空中分解してしまうのではないだろうか、と思った。
 集団のエアロバイクが乗り捨てられたかのような乱雑さで停車していたのは、上階層中部、一四二三階だった。私は勢い余ってその三階上まで行ってしまい、慌ててUターンした。
 エアロバイクを停めて周囲を見回したが、ビルの裏口に人影はない。
 私は深呼吸を一つ。それから腰のホルダーから元素銃を手に取って、そろそろと裏口の扉を開いた。
 ビルの中は静かだった。時折、どこからか爆発の振動が響いてくるだけ。音を立てないようにビル内部へと足を踏み入れる。
 若干息苦しい気がする。もう酸素が薄くなっているのだろうか。――いや、まさか。低階層の避難民が集中して混雑しているエリアならともかく、既に人気のないこの階層ならば、まだ空気は有り余っているはず。空気循環システムが停止してしまったと聞いたものだから、きっと自己暗示に掛かっているだけだ。
 人の話し声が遠くで聞こえた。私は壁に背をつけて、声のする方へじりじりと近づいて行った。
 そこは高級住宅が建ち並ぶ居住エリアだった。しかし上階層の人間はとうに避難した後で、無人となった今、街はまるでゴーストタウンのようだ。電力が途切れているので 街を照らす太陽光代わりの照明も消え、弱々しい光の非常灯のみが、所々にぼんやりと光を発している。
 薄暗闇に目を凝らす。一箇所だけ妙に明るい場所があった。誰かが携帯ライトを使用しているようだ。放たれる強い光の中心から放射線状に、長い人影がいくつも揺れている。
 私は闇に紛れて人影に近付いた。徐々に彼らの輪郭がはっきりとしてくる。書類を広げ何事か話し合っているようだ。彼らの足元には大きな鞄や謎の機械がいくつもあった。
 携帯ライトに照らし出される顔の中に、私はティムを探した。
 ――いた!
 額から汗が一筋流れた。
 ティム、待ってて。
 今、助けるから。
 私はティムから目を逸らさずに、元素銃の安全装置を解除した。

7.テロリスト(3)

 その時。
 ピリリリリリリリリ!
 私の端末の着信音が、静寂の中にけたたましく響いた。
 心臓が止まりそうになった。私は身体中をまさぐり必死になって端末を探った。端末は腰のポケットに突っ込んであった。急いで取り出し着信を切ったが、時既に遅し。
 顔を上げようとした私のつむじ辺りに、冷たく硬いものが押し付けられた。
「銃、捨てて」
 知らない男の声が言った。
 私は生唾を飲み込んで、ゆっくりと銃を床に置いた。命を守ってくれるはずの頼もしい重量感が手の中から消えた。武器を失った今、もう私に戦う力は残されていない。武術の心得などあるわけもなく、かといって策士でもない。私はただの非力な女だ。
「立て」
 言われるがままにゆっくりと立ち上がる。顔を上げると、相手は若い男だった。どこにでもいそうな、学生なのか社会人なのか分からないカジュアルなファッション。とりわけ凶悪そうにも見えない。
 本当にテロリスト?
 しかし、その疑問を打ち消すための最高の材料である銃が、私の額に押し付けられているのだ。突然他人の額に銃を押し付けるという物騒な行為は、平和を愛する一般市民のすることではない。
 私は無言で相手を睨む。足音がして、他のテロリストたちもこちらにやって来た。
「なに? 誰、それ」
「知らねーよ」
「――あぁ、ツナギ着てるってことは、電気屋か」
「整備工だよな。大変だったでしょ、俺らが電気盗むから。迷惑掛けたね」
 テロリストたちは声を立てて笑った。この場にそぐわない、和やかな雰囲気だ。私は呆気に取られて彼らを眺めた。
「あんたら……この爆破騒ぎの犯人なんでしょ?」
「そうだよ。ご存知かとは思うけど、真世界党だよ」
 私に銃を突きつけている男が頷いた。
「何でこんなことすんのよ」
「何でって――そりゃ、しなきゃならないからだよ」
 また、一斉に笑い声。
「あれ、ロンカ」
 大好きな声がした。私は視線だけで声の主を探す。
 テロリストたちの向こうにティムがいた。
「ティム……」
 ティムは心底驚いたような表情で私を見つめている。
「どうして君が、こんなところにいるんだ」
「……あんたが、エアロバイクで上ってくのが見えたから」
 ティムは視線を逸らし、眉根を寄せて舌を打った。
「えっ、知り合い?」
「――ちょっとね」
 テロリストの一味に尋ねられ、素直に頷くティム。
 彼らとティムは敵同士には見えなかった。
 むしろ親しげにすら見えた。
 私に対する態度の方がそっけない。目もろくに合わせようとしない。
「どうする?」
 銃を構える男が、ティムを振り返って尋ねた。ティムは床を睨んだまま答えた。
「銃だけ取り上げとけば、別にほっといても大丈夫だろ」
「まあね、女だし」
「今更通報されたって、どうってことないしな」
「おまけに、どうせ整備工だろ……二人もいらねえよ、お荷物になる」
 二人?
 その台詞に、私はチェを思い出した。
「あのっ、もう一人、人質になってる整備工は……チェはどうなってるの?」
「え? ……さぁ、どうなってんのかな」
 一人が暢気な口調で言った。
「どうなってんのかなって……あんたたちの仲間の仕業なんでしょ?」
「そうだけど、別働隊だし」
「ちょっと聞いてあげなよ。心配だろ、仲間なんだろうからさ」
「それもそうだね」
 別の仲間に言われ、その男は端末で仲間に連絡を取る。
「あ、もしもし? 俺です。ちょっと聞きたいんすけど、さっき整備工一人、人質に取ってるって言ってたじゃないすかぁ。あれってどうなりました? え? いやなんか今、こっちも一人、EEの整備工とバッティングしちゃって、どうしようかなって話になってて……あ、邪魔? やっぱり? ええ、はい。あーなるほど、そうっすよね、わっかりました。了解です。え? はい、異常ないです。もうバッチリ。はい、頑張ります。任せてください、じゃあ」
 通信を切った男は、私を見てにっこり笑った。
「とっくに解放されたらしいよ。人質はもういらないってさ。結局、俺らの仲間がメディアを乗っ取ったって。頼もしい限りだよ、全く」
 男は得意げだ。
 私には解せなかった。
 過激派のくせに、テロを起こしている真っ最中だというのに、何故こんなに余裕綽々でいられるのだろうか。
 これではまるで、サークルのイベント準備でもしているみたいではないか。
「あんたたち、本当にテロリストなの? 本当に真世界党なの?」
 いぶかしむ私に、テロリストたちは一瞬顔を見合わせ、それから大爆笑した。
「え、まだ信じてなかったの?」
「信用されてねぇなぁ、俺ら」
「でも、だって……何だか……」
 私は言葉を詰まらせた。
「悪者に見えない、とか?」
 私は頷いた。
「それに緊迫感がないし」
「あーあ、言われちゃったよ」
 テロリストたちは、肩を竦めてまた笑う。
「俺たちはさ、別に自分たちを悪者だとは思っていないよ。もっと平和で住みやすい世の中になれば良いなって、ただそう思って行動しているだけだから」
「でもこんな事件を起こしたら、絶対に何人も人が死ぬわ。それなのに」
「多少の犠牲は仕方ない。現実的に考えてそういうもんだろ。――とか言いつつ、やっぱり俺たちだってこんなことするのは慣れてないし、もちろん怖いさ。それに、自分たちのせいで人が死ぬのは明白なんだから、罪悪感がないわけがない。だから、気を楽にするために、ちょっとした小道具は使ってる」
 その男はポケットから何か取り出した。広げた手に乗っているのは、白い錠剤。
「何これ」
「いわゆる違法な薬さ。ひたすら楽しい気分になるやつ」
「ばっ……」
 バカじゃないの、と言おうとして、私は言葉を飲み込んだ。もう、言い合うことすら不毛だと思った。
 だがテロリストたちは私の内心を読み取ったのか、ニヤニヤ笑った。
「バカって言わないでくれよ。俺たちだって、馬鹿げているのは充分過ぎるほど分かってるんだ。でも、人間そこまで強くない。それが分かっているから、目的を達成するためなら馬鹿なことだって何だってするさ」
「それに、どうせなら楽しい気分であの世に行く方が良いもんな」
「え?」
「じゃあな、お嬢さん」
 私の背後にいたテロリストの一人が、突然私を羽交い絞めにした。
「何すんのよ!」
「おっと、暴れないでよ」
 あっという間に、何かのコードでぐるぐる巻きに縛り上げられてしまった。そのまま私は引き摺られ、近くの看板の棒に縛り付けられた。
「止めてよ、離して!」
 それまで私から離れた場所で傍観していたティムが近寄ってきて、私のポケットを探った。
「端末借りるよ」
「ちょっ、勝手に弄らないでよ」
「――あ、もしもし? ホワイト君?」
 ティムが私をちらりと見た。しかしすぐに視線を逸らす。
「俺、ティムだよ。あのね、今ロンカと一緒にいるんだけど、迎えに来てあげてくれる? いや、それはまあ後でロンカにでも聞いてよ。とにかく早く迎えに来て。場所? GPSで分かるだろ? じゃあ、そういうことで」
 ティムは端末を切った。無言で私のポケットにそれを戻す。そういえば、ハイになっている仲間たちの中にあって、ティム一人だけは緊張した面持ちだった。例の妙な薬を飲んでいないのだろう。
「さっさと行こうぜ、時間がねーよ」
 遠くから、仲間たちがティムを呼んでいる。彼らはティムが端末を操作している間に、手早く荷物を纏めて、1ブロック先の方まで行ってしまっていた。
「今行く」
 ティムも足元に置いてあった無骨なリュックサックを背負い、私に一瞥をくれると、仲間たちの方へと小走りに行ってしまった。
「待て―――――――――――ッ!」
 私は大声で叫んだが、彼らも、そしてティムも振り返らなかった。
 何よ……。
 何なのよ……。
 私は混乱して頭を振った。
 ティム、どうして……。
「……あッ」
 もしかして、もしかしてティムは……。
 私は恐ろしい事実に気付いてしまった。
 ティムはビル内部の配電図を手に入れるため、私に近付いたのではないだろうか?
 そうだ。きっとそうだ。
 チャンスはいくらでもあったはず。例えばホワイトと三人で飲んだ帰り道。他の日だって、私はいつも会社のキィを玄関にぶら下げた鞄の中に入れっぱなしでいたのだから。
 私の頭の中は、絶望の黒に塗り潰されていった。
 ピラミッドの中に詰まった大切な思い出のかけらが、ティムの顔をしたスフィンクスの前足で薙ぎ払われ、ガラガラと総崩れしてゆくという間抜けな幻覚が頭の中で展開した。
 嘘だったんだ……。
 あんなに幸せで楽しかった日々。
 ティムの瞳を見る度に、初心な少女のようにドキドキしていたのに。
 出だしは確かに微妙だったけど、いつの間にか「この人となら――」なんて柄にもなく乙女チックなことまで考えていたのに。
 こんなに誰かを好きになったのは、そして心を許したのは生まれて初めてだったのに。
 それなのに、あのチョコレートみたいに濃くて甘い生活は全て幻想だった。
 嘘のコーティングで固めた土台の上に建てられた、儚く崩れやすい夢の城だったのだ。
 涙が溢れ出てきた。
 悔しいのと同時に、死にたいくらいに恥ずかしくなった。
 恋に酔っていた自分の言動が、今となっては全て醜態のように思える。
 あんなに喜んで有頂天になって、ただ踊らされていただけだったなんて。
 ダサ過ぎる。
 最低だ。
 私を騙したティムも最低だが、コロッと騙されていた私の方が更に最低だ。
 なんてダサくて気持ち悪い。
 頭の悪い、絵に描いたような馬鹿な女……。
 歯を食い縛って堪えようとしたが、無駄な足掻きだった。ぽろぽろと涙が頬を伝う。両手を封じられているので、拭うことすらできなかった。
 悔しかった。
 騙されていたことが本当に悔しかった。
 私が今まで愛を注いでいたのは、作り上げられた「ティム」という架空のキャラクターだったのだ。

7.テロリスト(4)

「ロンカさーん」
 遠くでホワイトが私を呼ぶ声。私は顔を上げ、擦れた泣き声を振り絞った。
「ここよ、ここ!」
 やがて乱暴な足音が近付いてきて、街の角からホワイトのひよこみたいな金髪頭がひょっこりと顔を出した。
「あっ、ロンカさん、いたぁ」
「ホワイト……」
 ホワイトは腰の工具ホルダーからナイフを取り出し、私の身体を縛りつける縄を切ってくれた。
 両腕が解放されるのと同時に、私は素早く顔を擦って涙を拭い去ろうとしたが、拭っても拭っても後から流れてくる。結局涙は雫となって、乾いた瓦礫の床に落ちていった。
「ロンカさん……何があったんすか?」
 ホワイトがおろおろしながら私を覗き込んだ。
「大丈夫っすか」
「大丈夫なもんか! ティム……ティムが、テロリストだったんだよ。真世界党だよ。私はただ、利用されていただけだったのよ!!!!!!!!!」
「えっ……え―――――――――――――――――――ッ?」 
 ホワイトに泣き顔を見られるのが嫌で、俯いた。これ以上、屈辱感に塗れるのはゴメンだ。
 悔しい。
 歯軋りするくらい悔しい。
「ちッ」
 私は舌を打った。
 止まれ、涙。
 泣いている場合じゃないんだから。
「……くっそーッ」
 私は小声で悪態をついた。
 そうだ。それでいい。
「ティムの野郎……覚えてろ……」
 いつまでも泣いていたって、何も始まらない。自己嫌悪でへこんでいたところで、状況が良くなることはない。
 自分を取り戻せ。
 自分のペースを。
 いつもの元気を。
 そして自信を。
 例えどんなに打ち砕かれたとしても、その気になれば、またきっと作り直せる。そして今度は、更に強固で洗練されたものとして、再構築すれば良い。
 心って、きっとそういうものだ……きっと……。
 キッと顔を上げ、彼がいるであろう上階層を睨みつける。
「いつか、ぶっ殺してやる!!!!!!!!」
「怖ァ……」
 怯えるホワイトを睨む。
「何よ」
「……いえ、何でもないっす」
「ふん、さっさと行くわよ」
 私は床に転がった自分の銃を拾った。そしてエアロバイクへ足早に戻った。テロリストたちは、どうやらエアロバイクを乗り捨てたようだ。私はその中の一台をブーツの踵で思い切り蹴飛ばした。ゴワン、と音がしてフロントカバーがへこんだ。
「おーい」
 聞き慣れた声が、遠くから私たちを呼んだ。
 声は私たちよりずっと階下から聞こえてきた。私はエアロバイクの腹の横から顔を突き出し、声の主を確認した。
「おーい、ロンカぁ~」
「マイト、エツコ!」
 私とホワイトは下に向けて手を振って合図する。マイトたちのエアロバイクは規定違反の垂直上昇で、猛スピードで上がってきた。
「ロンカ!」
 私のエアロバイクのすぐ横に駐車したエツコがバイクから飛び降りて、私の頭を蝿でも叩き落すように上から叩いた。
「いッたぁ! エツコ、何よ」
「ホワイトからあんたが飛び出していったって連絡入って、びびったわよ! 何やらかしてんの、この非常時に」
「……」
 私は叩かれた頭を押さえて、口を尖らせて視線を落とした。ホワイトがエツコに何事か耳打ちしているのが見えた。
「げっ、嘘でしょ……?」
 蛙でも踏み付けてしまったかのような表情で、エツコが硬直する。聞き耳を立てていたマイトも、取り出した煙草を咥えることも忘れて私を凝視した。
 数秒間、いたたまれない沈黙が私を取り巻いた。
 ああ、本当に……本当に恥ずかしい。
 顔がカーッと熱くなり、私は両手で顔を覆った。
「ずっと、ずっと、私……だっ、騙されてたのよ! ……馬鹿だよね、気付かなかったなんて。あんなに浮かれてさんざんノロケておいて、ほんと……ほんと、恥ずかしい! もう、恥ずかしすぎて穴に埋まっちゃいたいくらい恥ずかしい!」
「ロンカ……」
 エツコが私の肩に手を置いた。
「……もー、仕方ないよ。恋は盲目って言うじゃない。私だって若い頃はさぁ、散々恥を掻き捨ててきたもんよ。――あんたほどじゃないけど」
 励まされてるのか貶されてるのか分からないが、どちらにせよあまり効果はなかった。
「だけど――それだけじゃないのよ。多分、多分ね、会社の機密事項を……」
 嫌なことを思い出したら、また涙が滲み出てきた。
「ストップ!」
 突然マイトが大声を出して、分厚く堅い整備士の掌で私の口を塞いだ。
「止めろ止めろ、そんな話。今はどうでも良いだろ」
「ふぉが……」
「やっちまったことは仕方ねえ。今更嘆いたって、もうどうにもならないんだから。それよりも、やれることをやっちまう方が先だろ」
 私はマイトの手を押し退け、噛み付くように尋ねた。
「でも、どうやって!」
 マイトは掌に付着した私の唾液を見て、嫌そうな顔をしてツナギの腿で拭った。
「良く考えてみろよ。俺らはこのビルの電気系統の整備を生業にしてんだぜ」
「電力を取り戻せば良いのよ」
 エツコが私の背中を叩く。
「そっか。そうすれば、空気循環システムも復旧しますね」
 ホワイトも身を乗り出した。

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