目次
1.エアロバイク乗りの日常
1.エアロバイク乗りの日常(1)
1.エアロバイク乗りの日常(2)
1.エアロバイク乗りの日常(3)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(1)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(2)
3.正反対、だから気になる
3.正反対、だから気になる(1)
3.正反対、だから気になる(2)
3.正反対、だから気になる(3)
4.地表
4.地表(1)
4.地表(2)
4.地表(3)
5.平穏な生活
5.平穏な生活(1)
5.平穏な生活(2)
5.平穏な生活(3)
5.平穏な生活(4)
6.ネズミ
6.ネズミ(1)
6.ネズミ(2)
6.ネズミ(3)
6.ネズミ(4)
7.テロリスト
7.テロリスト(1)
7.テロリスト(2)
7.テロリスト(3)
7.テロリスト(4)
7.テロリスト(5)
7.テロリスト(6)
7.テロリスト(7)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(1)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(2)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(3)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(4)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(5)
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4.地表(2)

 電力ケーブルを製造している工場は地表にあった。一部の食品製造工場を除いた大概の工場は、土地代の安い地表にあるのだ。
 ホワイトが地表を嫌う理由は明白だ。ビルに住んでいる人間は地表を嫌うものなのだ。それは、文化的なビル内部の世界に対し、地表があまりにも後進的で、なおかつ貧困の匂いがプンプン漂っている、見たくない世界なのだ。
 地表の風景は、ビルの中とは別次元のもののようだった。建物は粗末で、高さもせいぜい三階建てが良いところ。廃墟なのか、それとも実際に住んでいるのか分からないような家が立ち並ぶ。街全体の色彩を一言で表すのならば、寒々とした灰色だ。建物も人の様子も、ビルの内部と外部とでは何十年もの時代の差があるようだ。
 地表への道は、ビルのすぐ外側にあるゲートで仕切られていて、地表の人間が簡単に上がってこれないようになっている。ビルの住民票、もしくはビル内部に関連のある企業のカードを所持していないと、ゲートを通してもらえない。犯罪を抑制するための処置だというのが政府やビル会社の言い分だが、私にはただの人種差別にしか思えない。
私たちはゲートで社員証を提示した。ゲートは難なく開いた。
 エアロバイクを運転しながら、私はゴーグルの下で目を細めた。
 ここに来るのは何年ぶりだろうか。
 久しく目にすることがなかった地表の街並み。
 忘れかけていた風景。いや、忘れることなんてできない、ただ思い出さないように努力していたからこそ、思い出さずにいられたのだ。
 私は遠い昔、この地表の街に住んでいた。
 貧しい暮らしをしていた。
 それでも幸せだった。父、母、祖父母、そして幼い弟がいて――あの頃は、温かい家庭があった。
 今はもうない。全て失った。
『ロンカさん、あそこですよね?』
 ホワイトが無線越しに尋ねてきたので、私は過去の記憶が脳裏をぐるぐる回るのをストップさせた。
 ああ、嫌だ。思い出さないよう、ずっと気をつけていたというのに。
 過去を回想するのは未だにとても辛い。やっとここ数年、夢に見ないで済むようになったのだ。
「そう、あそこよ。シンディから連絡が行ってるはずだから、多分すぐに出してもらえるわ」
 私たちは工場に隣接した駐車場にエアロバイクを駐車した。駐車場で作業していたトラックの作業員が、物珍しそうにこちらを眺めている。
「こんにちは」
 私が挨拶すると、作業員は帽子をちょっと持ち上げてそれに応えた。
「エアロバイク乗りが地表に来るなんて、珍しいね」
「ええ。ちょっと手違いがあって、電力ケーブルが足りなくなっちゃったのよ」
「そうかい、そりゃ大変だ」
 作業員はおどけた調子でそう言って、トラックに乗り込みエンジンを掛けた。懐かしい排気ガスのにおいが、トラックのマフラーから立ち上る。
「臭いなあ」
 嗅ぎ慣れていないのか、ホワイトは嫌な顔をした。しかし私に言わせれば、ホワイトがスパスパ消費している煙草の副流煙だってトラックの排気ガスと同じようなものだ。
 私たちは工場の事務所へ行き、ケーブルの件を告げた。
 しかし事務員は首を傾げた。
「ええと……そのような連絡は、まだ入っておりませんね」
「シンディ~~~~~~!!」
 私は小声で唸った。ホワイトは額に手を沿え失望したように下を向いた。
 仕方がないので、私は事務員に詳細を一から説明した。伝票は、明日以降の発注と合わせて後ほど課に届けてもらうことになった。
 事務員は同情の表情を浮かべつつ、手際良くケーブルを準備してくれたので、私たちはすぐに受け取ることができた。
「ああ、もう疲れたわ。どっかでちょっと休もうよ」
 ビルへの帰路、エアロバイクを走らせながら、私は無線越しにホワイトに提案した。
『別に構いませんけど。時間は大丈夫なんすか?』
「だって、今日はもう作業にならないじゃない。害虫駆除業者がナメクジを片っ端からこんがり焼き殺していくの、あそこに戻って見守りたいっての?」
『いやぁ、それは……勘弁ですね』
「課長には、業者と一緒に作業してるってことにしといてさ。今日はサボっちゃおうよ。もうやる気ねーわ、私」
 それを聞いたホワイトの声は、途端に明るくなった。
『ロンカさんにしては珍しく、ナイスアイディアっすね』
「でしょ?」
 私は現在地点から一番近い公園へと向かった。この辺りは昔住んでいた家から近いエリアなので、ナビで確認せずとも地理は頭に入っている。
 エアロバイクを停めて、自販機で買ってきた飲み物を手に公園のベンチに座る。
 ホワイトがベンチに深く腰掛けて、空を見ながら大欠伸した。
「ふあぁ。こんな長閑な午後も、たまには良いっすねぇ」
「今は良いけど後が怖いわよ」
 私は缶の縁を噛みつつ答えた。
 公園は商店街の通りに面した小さなもので、子供の遊具などは何一つ置いてなかった。ベンチが二つと灰皿が一つ、それからベンチの後ろに荒れ果てた花壇があるだけだった。
 公園の前には古ぼけた病院が建っていた。外壁には黒い汚れが目立つ。
 私はその原因を知っている。昔この辺りを襲った大火事の名残だ。
 思い出すと、頭が痛くなる……。
 その時、耳障りな救急車の音が近付いてくるのが聞こえた。救急車は私たちのすぐ目の前に停車して、二人の救急隊員が後部のドアを開いた。救急隊員たちが、担架に乗せられた十歳前後くらいの少年を運び出す。髪をボサボサに振り乱した若い母親が、錯乱した様子で担架にしがみ付き、しきりに少年の名を連呼していた。 
 担架はすぐに病院の奥へと消えた。その一連の様子を、ホワイトは言葉もなく凝視していた。
「今の子、血だらけだったわね。どうしたんだろう」
 私が呟くと、ホワイトは自分の顔を撫で回して言った。
「嫌なもの見ちゃいましたね。可哀想に。助かると良いけど」
 自分には幼い妹がいるのだとホワイトは以前語っていた。もしかしたら彼は、先ほどの少年に自分の妹をの姿を重ね合わせてしまったのかもしれない。
 私たちのエアロバイクは、救急車のすぐ横に停車してあった。邪魔になるかもしれないと危ぶんだ私は、ホワイトを促してエアロバイクを移動させるために立ち上がった。
 病院の表玄関が開き、中から先ほどの担架と母親、そして当惑した様子の救急隊員が戻ってきた。そこにはもう一人、先ほどはいなかった白衣の医師らしき人物の姿もあった。
「先生、お願いします、どうか見てやってください。このままでは、この子が……この子が死んでしまいます!」
 母親が悲痛な金切り声を上げている。
 しかし医師は、表情を強張らせて首を横に振った。
「お母さん、すみません。停電中なんです。手術室が使えないのですよ。それに、うちの病院には薬品が不足しておりまして……申し訳ございません、本当に」
「そんな……他の病院でも断られてしまって、ここが最後の頼みの綱なんです! 何とかして下さい、お願いですから」
 母親は医師に縋りついた。
 しかし医師はひたすらに謝罪するばかり、決して首を縦には振らなかった。医師は何かをぐっと堪えているような、見ているこっちが苦しくなるような表情をしていた。
「先生ェ……お願いです、どうか……」
 終いには、母親は泣き出して医師の足元に蹲ってしまった。私は見ていられなくなり、お節介焼きの心が鎌首をもたげた。
「あの、どうしたんですか」
 母親は錯乱のために半ば焦点が合っていない顔を私に向けた。
「うちの子が、車に轢かれて大怪我をしているんです!」
 私は医師に尋ねる。
「ビル内の病院なら、電力も通っているし薬だってあるでしょう? そちらに運べないんですか」
「いや、それが……地表の救急隊は、ビル内部に入れないんですよ」
 医師の声が小さくなった。私は眉を吊り上げた。
「どうして?」
「どうもこうも、そういう規則なんです」
「そんなのって……でも、緊急事態なんだから、さすがに入れてくれるでしょ?」
「いいえ。緊急事態だろうがなんだろうが無理ですよ。入れるものなら、とっくの昔に運び込んでます」
 私は少年を見た。真っ青な顔で、ぴくりとも動かない。ただ荒い呼吸を繰り返すだけ。真っ赤に染まった包帯の右腕は、異様に短かった。どうやら右腕の先は切断されているようだ。素人目に見ても、相当危険な状態のように思える。
 おそらくこのまま放置していたら、この少年は死んでしまうだろう。
 私は死の淵に立たされた人間を目前にして見て見ぬ振りをできるような、図太い神経は持ち合わせていない。
 意を決して私は言った。
「私が、エアロバイクでビルの中に運びます」
「え?」
 母親と、少し離れたところで成り行きを見守っていたホワイトが、同時に驚いた声を上げた。
「ロンカさん、それはまずいっすよ。だってこの子、居住証持ってないじゃないっすか」
「大丈夫よ。あんたがゲートで社員証出せば、開けてもらえるんだから。その間、私はこの子を後ろに乗せてあんたの後ろで待機してる。開いたところをさっと通り抜ければ問題ないわよ」
「んな、無茶な」
「だって、このまま放っておけないでしょ!」
「うぅぅ」
 ホワイトは血塗れの少年と私とを交互に見た。そして、ようやく折れて頷いた。
「これでまた、課長にどやされる……」
「ありがとうございます、ありがとうございます」
 母親が私にぺこぺこと何度も頭を下げた。しかし私はそれどころではなかった。救急隊員に手伝ってもらい、自分の体に少年をバンドで括りつけ、少年が落ちないように工夫するので手一杯だった。
 時間がない。一刻一秒を争う事態だ。
「ちょっとの辛抱だからね、我慢するのよ」
 私は少年を励ました。少年はうっすらと瞼を開けて小さく頷いた。
 エアロバイクを飛ばしてゲートへと向かう。ホワイトは緊張した面持ちで、ゲートに設置されたマシンに社員証を突っ込み操作した。
 ゲートが開いた。ホワイトがこちらを振り向いて頷く。
 私はエアロバイクのエンジンを掛けて、そそくさとゲートを通り抜けた。ゲートの監視カメラには少年の姿が捉えられているだろうから、問題が起きればすぐにバレる。しかし今、そんなことを気にかけている場合ではない。
 私たちはナビを使い、低階層で一番地表から近い外科病院を探した。緊急の患者にも対応してくれる、それなりの設備が整った病院を。低階層も施設の設備は充分とは言えないけれど、それにしたって地表よりはずっとマシだ。
 ナビが示す目的地は、二十階の外壁近くにあった。エアロバイクを浮上させて病院を目指す。途中、私の背後で少年が「浮いてる」と小さな声で呟いたのが聞こえた。


4.地表(3)

 病院に着くと、私たちは受付に走った。
 受付の看護婦が、少年の様子を見て目を丸めた。
「交通事故で、大怪我をしているんです」
「え、ええとですね……それでは、居住カードの提示をお願いします」
「居住カードですか?」
 私とホワイトは、どきりとして視線を合わせた。
 どうやってこの場を切り抜けようか。
「えっと、あの……忘れてしまって」
「居住カードの所持は、ビル居住者の義務です。それがないと、いくら緊急とはいえ診察できないのですよ」
 看護婦は困惑している。
 私は仕方なく真実を話し、懇願した。この少年は地表居住者である。でも地表の病院には電力も薬品も不足しており手術してもらうことができない。だからここで何とか手術をしてもらいたいのだ、と。
 しかし、看護婦はぴしゃりとそれを跳ね除けた。
「誠に申し訳ございません。診て差し上げたいのは山々ですが、それは規則で禁じられているのです」
「でも、緊急なのよ。どうにかしてよ! このままじゃこの子、死んでしまうわ」
「そうおっしゃられましても……」
 看護婦は当惑して、私たちを横目でちらちら見ながら電話でどこかに連絡を取った。するとすぐに、病院の奥からこの病院の医師がやって来た。
「お客様、何事ですか」
「この子を診てあげて欲しいんです。車に轢かれて大怪我してるのよ。何度も言わせないで!」
 私は怒鳴った。
「申し訳ございません、看護婦も申し上げたことでしょうが、うちの病院では外部のお客様を診ることができないのです」
「どうしてそんな意地悪が言えるのよ!?」
「意地悪ではありません。規則なんですよ。私どもには、どうすることもできません」
「――もう、良いわ。他の病院に行くわよ」
 しかし医師は首を横に振った。
「他を当たっても同じです。ビル内部の病院では、その子を助けることができません。規則で決められているのです、破れば営業していけなくなるでしょう」
「じゃあ、どうしたら良いのよ」
 私が医師に詰め寄ると、医師の声は言い難そうに萎んでいった。
「地表の病院で、何とかしてもらうしかないですね」
「そんな……地表で無理だから、ここまで来たって言うのに」
「申し訳ございません」
 医師は、それ以上会話を続けるのが嫌だったのだろう。踵を返し、そそくさと奥へと引っ込んでしまった。看護婦も、私たちと喋るどころか視線すら合わせようとしなかった。まるで、私たちとの間に目に見えない壁でも存在しているかのような態度だった。
 私たちはその病院を後にした。他にも近場の病院を何件も当たったけれど、どこへ行っても揃ったように対応は同じ。門前払いだった。
 少年は私の背中で、目に見えて衰弱していった。
 もうこのままでは、本当に……。
「――地表へ戻ろう」
「えっ」
「ホワイト、あんたは社に戻ってな。私一人で行くから」
「でも……ロンカさん」
「処分を受けるのは、私一人で充分よ。もともと私が言い出したことだしね。でも、ゲートだけ開けてよ。この子を後ろに乗せていたら、身動き取れないから」
 私はゲートでホワイトと別れた。サイドミラーに映ったホワイトは心残りな表情で、長いこと私を見送っていた。
 エアロバイクを飛ばして、母親の待つ病院へと戻った。病院の入り口にはまだ救急車が停まっていて、私が病院のロビーへ入ると、そこには母親と医師、そして救急隊員たちが無言で長椅子に座っていた。
 母親が気付いて顔を上げる。私の背中で少年がぐったりとしている様を見ると、母親の顔から血の気が引いていった。
 彼女の頬に幾筋もの涙が伝う。
「……ごめんなさい」
 私は視線を伏せた。母親の顔を直視できなかった。
 母親が近付いてきて、私の背から少年をそっと下ろした。そして少年を抱きかかえ、その場に座り込んだ。
「ユウ君、ママがついてるわよ……大丈夫よ、ここにいるからね。ずっと傍にいるからね……」
 少年の片方残された左手を握り、母親が囁いている。しかし母親に握られたその手からは既に生きるための力が抜けていて、まるで芯のないシリコン製の人形の手でも掴んでいるかのように見えた。
 母親が小さく子守唄を歌っている。私は立ち尽くしてその様子を見守っていた。やがて子守唄は啜り泣きに変わっていった。医師が母親に近寄り、母親から子供の左手を取り上げた。
 脈拍を測る。
 そして首を横に振った。
「お母さん、もう……」
 母親の肩にそっと手を置く。母親は啜り泣いたまま、少年の身体の上に自らの上半身を覆い被せるようにして縋りついた。
「ユウ君……」
 緊急隊員たちは、医師に一礼してロビーから出て行った。隊員の一人が私とすれ違い様に、お疲れ様という意味なのか、仕方がないよという意味なのか、肩を何度か無言で叩いていった。
 医師が受付の電話で何か喋ると、すぐに奥から数人の看護婦たちがやって来て、母親と少年の亡骸を病院の奥へと連れて行った。母親は立ち去り際に私の方へ振り向いて、無理に貼り付けたような笑顔を作り、涙ながらに「ありがとうございます」と呟いた。
 何も言葉を返せなかった。
 一人残った医師が私に言った。
「これが地表の現実ですよ」
 私は俯いた。
「知っています。……でも、それでも何とかしてあげたかったんです」
「大怪我の患者や重病人が運び込まれてきた時、私はいつも死を宣告する覚悟をします。地表の病院では、助けられる確立よりも、見殺しにしてしまう確立の方がずっと高いのです」
「ええ、それも知っています」
 私は頷いた。
「私も、元は地表の人間ですから」
「――そうですか」
 私は医師に一礼して病院を後にした。
 泣き出してしまいそうなのを必死で押し殺して、エアロバイクを走らせた。家に帰ってツナギを脱いだら、背中が血で茶色に変色していた。私はそれを洗濯機にぶち込み、大量の洗剤を投入しながら、堪えきれなくなって泣いた。
 その晩、ティムがやって来た。ベッドに潜り込んで泣きじゃくっていた私は、ティムを見るなり縋り付いてわんわん子供みたいに声を出して泣いた。当然、ティムは何があったのか尋ねてきたけれど、私はあまりにも辛過ぎて、喋ることすらできなかった。
 クビにこそならなかったものの、その月の私の給料は、大幅に減額されていた。

5.平穏な生活(1)

 私とティムは、私の家で夕食をとっていた。食事の合間に喋る話題は、いつの間にかお互いの部屋の話になっていた。
「俺の部屋、超汚いんだよね」
 ティムは、自分の部屋では落ち着けないと言う。
「ロンカの部屋はいつも綺麗だね。シンプルだし、とても過ごし易いよ」
「え、そうかな」
 ティムがまじまじと私の部屋を眺め回すので、私もつられて周囲に目を向けた。改めて見てみると、確かに簡素な部屋だ。余計なものは何一つ飾っていない。映画のポスター、置物、人形の類もない。嫌いなわけではないのだが、掃除が面倒になるから何となく飾らないでいた。とは言え、私にとって目の保養になるものなど、窓から見える外の風景だけでも充分なのだ。
「これだけ綺麗だと良いよなあ」
「ティムの部屋はどんな感じなの?」
 ティムは私の部屋に何度も来ているが、私がティムの家へ遊びに行ったことはない。
 苦笑いしながら、ティムは皿に盛ったサラダを突付く。
「雑誌と書類の山に埋もれてる。パソコンの周りに色んなものが積み重なってて、床だって足の踏み場もないよ。唯一ベッドの上だけは、何も乗っけないようにしているけれど」
「料理とか、家でするの?」
「いや……料理は嫌いじゃないけど、キッチンも資料や空のペットボトルなんかでいっぱいだから、料理できるスペースなんてないよ。いっつも買い食いか外食」
「マジ?」
 私は驚いた。ティムは小奇麗な身なりをしているし、デザイナーなどというお洒落な仕事をしているのだから、さぞかしインテリアにもこだわっているのだろうと勝手に決め込んでいた。
「片付けるのも一苦労だし、なんかもう、寝るためと持ち帰った仕事するためだけのスペースになってるね」
 ティムは自嘲気味に言う。
 私はちょっとの間考えていたが、思い切って提案した。
「あのさ……嫌じゃなければ、私の家に来れば? もちろん仕事が残ってるときは、家に帰ればいいし」
「大概のことはノートPCで済ませられるから、まあ、その辺は問題ないかな。ロンカんちでもできる仕事がほとんどだ」
「じゃあ――普段家でリラックスできないって言うんだったら、うちにいれば良いじゃない」
「迷惑じゃないの?」
「ティムなら構わないよ」
 それを聞くと、ティムは口元を少し持ち上げた。そしてトマトを口に含み、それを噛みながらの聞き取り難い声で言った。
「半同棲かぁ」
 私は途端に恥ずかしくなって下を向いた。
 ああ、そういうことになるのか……。
 付き合って一ヶ月で半同棲、早かっただろうか。
「良い響きだね」
 ティムが呟いた。私は照れ隠しにビールをガブ飲みした。
「――合鍵、作っとくね」
「うん」
「うちに来る日はメールしてくれたら、ティムの会社までエアロバイクで迎えに行くから」
「うわあ、送迎付きか。俺、まだペーペーの平社員なのに、重役並みの扱いじゃんか」
 私はおかしくなってくすりと笑った。ティムが嬉しそうな顔をすると、私まで気分が温かくなる。
 幸せってこういう些細なことなのかも……なんて、心の片隅でこっそりと考えていた。

5.平穏な生活(2)

 休日、たまには外に出てのんびりしたいとティムが言うので、私たちはお弁当を作って公園へ出掛けることにした。
 私は上階層にあるジオラマパークへ行こうと提案したが、ティムは別の場所が良いと言い張った。
「もっと、本当の自然があるところに行きたいよ」
「どこ?」
「折角だから、ビルの中じゃなくて外が良いなぁ」
「地表? 物好きだなぁ」
「新しい自然公園ができたって、ニュースでやってたんだ。凄いでっかいんだってさ。そこに行きたい」
 そんなわけで、私たちはエアロバイクでビルをぐんぐん下り、地表まで降りることにした。
 ティムは私のエアロバイクに乗るのを好んだ。もちろん彼は運転できないから、私の後ろにしがみ付いて乗る。二人乗りなんてしているとすれ違い様に他のエアロバイク乗りたちに冷やかされたけれたけれど、それすら何だか嬉しかった。
 社外の人間を乗せるのは規定違反だが、私以外の整備工たちも当然のように違反しまくっているので、特に咎められることもない。
 私用で地表に降りるのは初めてのことだった。しかしEE社の社員証を見せれば、例えプライベートでも何も言われることはないと、違反常習犯のマイトから情報を得ていたため、特に不安もなく通ることができた。同乗者もビル居住許可証を提示すれば、問題はないらしい。マイトはよく、女の子を引っ掛けては海に連れて行くと言う。大概は、それで女の子をお持ち帰りできるらしい。
 私は若干気が滅入っていた。先日噛み締めた苦い思い出が、じんわりとまた心の表面に浮かんできたためだ。
 サイドミラーで背後のティムを確認すると、ティムの表情も心なしか曇っていた。快適なビルの中に住んでいたら、地表の風景など見るだけでも憂鬱な気分になるだろう。 聞いた話によると、ビル内部から地表へと向かうバスの窓は外が見えないように全て塞がれ、映像が流れるようになっているらしい。
 地表に比べれば、ビル内のスラム階層の方がまだマシだ。汚いし治安は悪いが明らかに文明の香りがする。地表には、ひたすらに貧しさとやるせなさ、時代から取り残されたうら寂れた風情ばかりが漂っている。
 地表に降りてから数十分も走ると、やがて雑多な市街地を抜け、広々とした田園が広がり始めた。更に進むと、前方に大きな森林地帯が見えてきた。
 ティムが行きたがっていた巨大な地表の公園は、その森林地帯の入り口にあった。
 公園には整備の行き届いた駐車場があって、高級エアロカーやエアロバスが何台も停車していた。
「貧民街を抜けると、森の中には金持ちの巣窟か」
 ティムは呆れ顔でそれらを眺めていた。私はゴーグルを外しながら説明する。
「貧乏人は、こんなところへ遊びにやって来る余裕なんてないわよ。セントラルの街からここまでのバス代だって、地表暮らしの人間からすれば、バカみたいに高いんだから」
「まあ、そうだよね……」
「ティムが来たいって言い出したんだから、暗い顔なんてしないでよね。こんなこと、初めから判りきっていたことじゃない」
「ごめん」
「私、これでも地表のことには詳しいのよ」
「え? ほんと?」
「だって私の実家はね、地表で自転車屋をやっていたんだから」
 普段なら、絶対に口に出さない過去。でもティムになら躊躇なく話すことができた。
 何故だろう。何を打ち明けるにしても、彼なら安心して話すことができる。取り繕うこともなく、素直になれるのだ。
 ティムは興味深そうに私を見る。
「今も、ロンカの家族は地表にいるの?」
「ううん、いないよ。街で大火事が起きたときに、私の家も巻き込まれて、私以外の全員が死んでしまったからね。私が十九の時よ。私は隣の区画のバーでバイトしてて助かったの。真夜中過ぎだった。私の職場からでも、自分の家の辺りが激しく燃えているのがはっきりと見えたよ。大きな火の柱がビルの狭間にゆらゆら揺れて、煙が濛々と立ち上っている光景がね……何区画も丸ごと焼けてしまって、百人以上死んだわ」
 脳裏に封印していた記憶。しかし思い出そうとすれば、いとも容易く鮮明に浮かんでくる。止まらない涙に滲む、炎上する街の様子が。
「丁度同じタイミングでね、運悪く第二住居ビルの中階層でも火事が起きたの。そっちはてんで大したことのない火事だったのに、消防はビルを全面優先して、地表は見捨てられたのよ」
「酷いな」
「ビルを恨んだわ。金持ちなんて全員死ねば良い、って。今にして思えばただの逆恨みだけど、そのときは憤りのやり場がそこしかなかったのよ。時間が経過するのと共に、徐々に冷静になってきて素直に諦められるようになったけれど、それでもやっぱり、今でも辛いわ。そう簡単に忘れられるもんじゃないもの。一人きりになった私は、親戚に頭を下げまくって、やっとのことでお金を借りて、専門学校へ入ったの。そして、整備工になったんだ。まさかビルの電気系統の整備をすることになるとは、学生時代は思いもよらなかったけどね。精々、地表の公共施設にでも就職することしか考えていなかったから」
 私は歩きながら語った。ティムは黙って私の話を聞いていた。
「学校でね、週に一度選択科目でエアロバイクの学科があって、整備とか乗り方とか教えてくれたんだよね。成績が良いと免許取得のための試験を受けさせてくれるの。私はたまたま適性があったみたいで、すんなり試験に合格したから、それで先生が就職先を斡旋してくれたのよ」
「そっか……ロンカにそんな過去があったなんてなぁ。ビルで生まれて、ビルで育ってきた人間だとばかり思っていたよ」
 ティムは遠い目をして呟いた。
「ティムはどんな風にして育ってきたの? 私も知りたい」
 私はティムの過去について何も知らなかった。
 ティムは首を捻って私を見た。私は彼よりも頭一つ分身長が低いので、少しだけ見下ろされる形になった。
「俺はこの辺りではなくて、もっと北の方で生まれたんだ」
「どこ?」
「ロンカはきっと知らないよ。凄く小さな街だから。でもセントラルみたいに地表は荒れていなかった。もっと昔風の暮らしをしている土地だったよ。金持ちも貧乏人も皆地表に住んでいて、超高層ビルなんて一本も建っていない」
「そうだね、世界中でセントラルだけよね、こんな風になっているのは」
「でも、少なくともセントラルよりは、良くも悪くも人間らしい暮らしができる場所だったね。俺は小金持ちの家に生まれて、何不自由なく育ってきたよ。だからこそ、ちょっと捻くれ者になってしまったんだろうね。学生の頃は学生運動にばかり参加していて、ちっとも真面目に学校へ通ってはいなかった」
「え、そうなの? 全然そんな風には見えない」
 私たちはしばらく歩いて、公園中央に広がる見晴らしの良い野原に辿り着いた。芝生の上にシートを敷くと、青い草の匂いがふんわりと漂った。シートの上にめいいっぱいお弁当を広げる。食事をしながらも、話は終始自分たちの過去のことばかりだった。
「俺は全寮制の私立の学校に通っていたんだけど、同室の過激派の先輩に影響を受けちゃったんだよね。それ以前にも、世界の不条理さについてずっと燻るように考え続けていたから、引き込まれるのは簡単だった。先輩たちに唆されて随分色々とやったよ。今にして思えば、道楽息子の暇潰しと言われても仕方ないようなことばかりだけどね。……だって実際に貧しさで苦しんでいる人たちからしてみれば、何苦労なく育ってきておいて一体何を理解してるんだって感じだよ」
「そんなことないよ。何も考えないよりも、考える方がずっとマシでしょう」
 私が言うと、ティムは苦笑いした。
「そう言ってくれると、ちょっとは気が晴れるよ。まあ、そんな具合にろくでなしの学生生活を送っていたんだけれど、最終的に素行の悪いのを親に感付かれて、無理やり家に引き戻されたんだ。そして政治的思想とは全く掛け離れた、セントラルのデザイン学校へ行かされることになって、今の俺がいるってわけ」
「へぇ」
「最初は猛反発したよ。でも先輩たちに、セントラルの現状を見てこれるのは我々の活動にとっても良い機会だって言われて、渋々やって来たんだ。ところがさ、学校に入ったらデザインの勉強が楽しくなっちゃってね。無駄に思い煩うこともないし、何よりやりがいがあるだろ、自分の思い描いたものがすぐに形になるっていうのは。学生の政治的な活動なんて、フラストレーションばかり溜まってちっとも先に進まない。それにあの頃の自分は真剣なつもりだったけど、傍から見たら、世間知らずな学生の猿芝居にしか見えなかっただろうしね。大人になってから思ったよ。本当に世界を変えたいのなら、自分が世界のトップになるか、逆に悪の帝王にでもなって、世界中を破壊しまくってから理想の世界を再構築し直すとか……そのくらいしないと無理だ。中途半端にやってたって、何も進まないんだ」
 ティムがおどけた調子で言うので、私はおかしくなってケラケラ笑った。
「世界のトップは、今から勉強しまくっても無理だね」
「そうだよねぇ。何だかんだ言って、家柄とかも関わってくるだろうし」
「じゃあ、悪の帝王にでもなってみる?」
「その方が手っ取り早いかも」
「でもさ、悪の帝王ってことは悪いことをしなきゃいけないんでしょ? 私、そんなの嫌だな。皆が幸せに住めるような世界のが良いもん」
「違うよ、現在の政府を覆すって事自体が、既に悪行になるんだから、それだけで立派な悪の帝王の一丁あがりだよ。だけどクーデターがもし成功すれば、悪の帝王から正義の使者に早代わりさ。漫画の中みたいなハッキリした正義や悪なんて、この世の中には存在しないだろ」
「ふふふ、なんかおかしい」
 嫌いな人間は山ほどいるけれど、心の底から悪一色の人間なんて見たことがない。例えばあの課長だって、私や整備課の面々からすれば最悪な上司だけれど、もしかしたら彼の家族の前では良き父親であるのかもしれない。自分以外の人間が持つ全ての顔を把握できるということはないのだ。自分に見えているその人の面が全て最悪だとしても、イコール相手の全てが最悪だということにはならないのではないだろうか。
「でもね、今でもよく考えるんだ……あのまま進んでいたら、俺はどうなっていたんだろう。本当にこのまま平穏な日常に溺れていて良いんだろうか、って。いつか誰かが変えないと、ずっと変わらないんじゃないかって。でもそんな風に考えること自体、やっぱり驕っているような気もするけどね」
「考え過ぎだよ」
 私はティムの肩に手を置いた。
「私はね、自分が担っている今の役割をまっとうするのが一番だと思っているよ。私は一時、ビル住まいの人々を恨んだりもしたけれど、今はその人たちの生活のために働いている。もちろんその労働は、自分のためである部分が大きいけれど……お給料を貰って食べていかなきゃいけないからね。だけどそこには、何ていうのかな。正義っていうか、信念っていうか……そう言っちゃうと仰々しいけどさ、微かにではあるけれど、やっぱり存在している。そしてそれは、昔の私が持っていた今とは正反対の価値観にとっても、実は無関係なことではないのよ。私がここで頑張れば、ビル内の人々のためだけではなく、きっと回り回って全ての人たちに還元されるような、そういうものだと思ってるよ。だって社会って連鎖しているでしょう? 私なんて末端の末端だから、偉そうなことなんて言える立場じゃないけどさ」
「そんなことないよ。世の中のほとんどが、その末端の人間で構成されてるんだから。俺だって末端の末端だ」
 私は、三つ目のサンドウィッチを手に取った。二人で一緒に作ったお弁当だ。卵とレタス、チーズとハムが挟んであって、調子に乗って具を詰め過ぎたので、うっかりすると中身がボロボロこぼれたけれど、とても美味しかった。
 ティムがペットボトルのコーラを飲みながら呟いた。
「空気、綺麗だね」
「緑に囲まれているからね」
「有機質な匂いが良いよね。ビル内の空気も綺麗なんだろうけど、あれは機械臭い」
「完全にイオン消臭されてるから、ニオイなんてないはずだけど、確かに機械っぽい感じがするよね」
「本来人間の住むような環境じゃないから、身体が違和感を感じているんだよ。俺たちも本当はこういった場所に住むべきなんだ、やっぱり」
「じゃあ、お金を貯めて引っ越そうか? 昔ティムが住んでいたような、もっとずっと田舎の街に」
 ティムがごろりと寝転がって、満足げに頷いた。
「そりゃあいいね。そんでさ、畑とか耕しちゃったりして、――動物も飼おう。猫かオウム。犬は嫌だな、涎を垂らすから。俺は看板屋にでもなって、細々と暮らすんだ。子供は二人が良いな、男も女も両方欲しい」
「え?」
「あ、でもロンカは、エアロバイクがないと生きていけないか。どうしよう……そっか、普通のバイクに乗り換えればいいよ。それなら田舎でも使えるだろ」
「ちょっとォ、勝手に話進めないでよ。何よ子供って」
 私は口を尖らせたけれど、本心ではなかった。
 これまではずっと子供なんていらない、自由に生きていたいと思っていたから、他人から子供の話なんてされると、自分の年齢のことばかり考えてしまい不愉快になったものだ。しかし愛する人の唇からその単語が出ると、嫌な気がしない。
 本当に不思議だ。
 私はランチの入ったバスケットを除けて、ティムの隣に寝転がった。
「……良いよ。いつかそうしよう」
「うん」
 ティムが微笑んで私の髪を軽く撫でた。私は目を瞑って午後の日差しにまどろんだ。
 優しい日差し、ティムの指、そしてささやかな風。全てが完全に調和して、私はこれ以上ないほど心地良い空間に身体を預けていた。

5.平穏な生活(3)

 私たちはその夜、滅多に使われない会議室に閉じ込められていた。
 時計を見ると午後九時半。退社時間などとっくに過ぎている。
 私は口をだらしなく開けたまま、正面のホワイトボードをバンバン叩いて大袈裟に話し続ける課長の剥げ頭が電灯を反射して光っているのをじっと眺めていた。隣ではホワイトがメモを取るフリをしつつ、実際には机に涎を垂らして居眠りしている。
 シンディ以外の整備課の人間全員が、ここに集められていた。例の如く、シンディだけは特別扱いなので残業せずにさっさと帰ってしまった。
 退社時間になると、毎度黒塗りのピカピカに磨き込まれたエアロカーがシンディを迎えに上階層から参上する。シンディは社内で何が起きようと、例え火事が起きようが水漏れが起きようが殺人事件が起きようが、退社時間になったら絶対に帰ってしまう。
 いつもは何も言わないシマダもとうとう業を煮やしたのか、今日に限ってシンディに対して釘を刺した。
「お前さん、それじゃあいつまでも本物のエアロバイク乗りにはなれねえぞ。チームワークが大事なんだからな」
 だがシンディは反省するでもなく、ちらりとシマダを見て、
「本物ってなんですか?」
 と一言尋ね、運転手がドアを開けて待つエアロカーへ乗り込んでしまった。一同絶句だ。ここまでいくと大したもんだとさえ思う。
 私は今夜、ティムと二人で近頃評判のロシア料理店へディナーを食べに行く予定だった。一週間前に約束して店に予約まで入れて楽しみにしていたというのに、一週間分の期待が残業によってパァになってしまった。
「仕方ないよ、仕事頑張って。家で風呂沸かして待ってるからさ」
 ティムは電話越しに励ましてくれたけれど、私の気分は全く晴れない。
 それもこれも、例の盗電騒ぎのせいだ。
 一体どれほど私たちに負担を掛けようというのだろう。もしも今、目の前に盗電犯が現れたら、絶対にそいつをボコボコの半殺しにしてやる。私の腹の底では、溜まりに溜まった仕事に対するストレスが怒りに姿を変えてとぐろを巻いていた。
 緊急ミーティングは、先日起きたちょっとした事件に関するものだった。
 盗電するための道具が、とうとう発見されたのだ。
 それはまさに、ホワイトや私が見たネズミのような形状のマシンだった。いや、生物としてのネズミとPCのマウス、その中間と言った方が想像しやすいかもしれない。尻尾の代わりに電力コード。目の代わりに暗視スコープと小型ライト。ネズミを特徴付ける大きな耳はないもののしっかりと歯も付いていて、針のような鋭い刃が二本、電力ケーブルの厚いゴム製の表皮を突き破り、中のファイバーから電気を吸い出す仕組みになっていた。
 マシン下部には小さなローラーがたくさんついていたが、しかし実際にそのマシンを動かすのはどうやらそのローラーではなくマシンの尻から伸びるケーブルの方で、蛇の身体を真似て作られたような構造だった。ケーブルをくねらせ、松毬のように重なり合った表皮の溝で地面を引っ掛けて動く仕組みになっているらしい。
 マシンは見た目以上に非常に軽量で、たった直径5センチのケーブルによって楽々に先端のボディを支え前進後退し、大概の障害物をも乗り越えられるというのが調査機関の見解だった。しかしまだ細かい分析は進んでおらず、発表されているのはあまりにも大雑把な鑑識の調査結果のみだった。しかも政府の機関内と、盗電被害に関係のある一部電力会社等にしか公表されておらず、まだ各メディアにその情報は流れていない。
 そんなわけだったので、もちろんEE社内部に流された事件の関連文書にも大した情報は記載されていなかった。実際に一番事件に関わりのあるであろう私たちの課にすら、マシン外部から見て判断できる大体の構造の仕組みが書かれているだけで、実際に動かして測定したデータは記載されていなかった。
 私には鑑識の仕事のペースなど知る由もないので、はっきりしたことは分からないけれど、おそらく表面に付着した繊維や指紋を採取分析するのもまだこれからなのだろうし、あのマウス型マシンに関する完全なデータが公表されるのには、今しばらくの時間を要するだろう。
 発見したのは巡回中のポリスマン。上階層の整備業者用出入り口で深夜に不審者を発見し、職務質問しようとしたところ、不審者は逃亡。余程慌てていたのか、持っていたマシンを取り落とし、そのまま走って行ってしまったらしい。
 課長は盗電マシンの図解と写真をホワイトボードにマグネットで貼り付け、そこにいくつもマルだのバツだのの図形を書き込んでは、唾を飛ばしてがなりまくった。
「良いか、このマシンを見つけたら、即刻取り除き、社に報告するように。付近に電気ドロが潜んでいる可能性もあるからして――」
「見つけたらったって、今まで散々盗まれておいて、一匹も見つからなかったわけじゃねえか。今回はたまたま、泥棒の野郎が落としてったから見つかっただけでよぅ……」
 隣に座るエツコにマイトが耳打ちしている。エツコは欠伸を噛み殺し、目の端に涙を浮かべている。
「そうそう、どーせ見つかりゃしないわよ。遠隔操作で動かしてるんだろうしさ、私らが近寄ったら、速攻で感づいて逃げられちゃうでしょ。深追いするだけ無駄っていうか、そんな得体の知れない犯人追っかけて、危険な目に遇うなんてゴメンだわね」
「こら、№4何をゴチャゴチャ言っとる。全部聞こえとるぞ!」
 課長がエツコを指差した。エツコは口の端に馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「知ってますよぅ。だって、聞こえるように言ったんだもん」
「な、何だと――――――――――ッ」
 私、マイト、チェの三人は、思わず吹き出しそうになって口を押さえた。シマダはさすがに落ち着いたもので、顔を引き攣らせつつもフォローに回る。
「まあまあ……我々は民間人だし、逮捕云々はポリスに任せてですな、補修と点検に徹しましょうや。深追いしても、何も良いこたァありませんぜ。事件に巻き込まれて怪我でもしようもんなら、労災の手続きが面倒だし」
「――まあ、それもそうだがね、シマダさん。いい加減、社の上層部にも苛立ちが募っているわけですよ。それがね、現場の私らに向けられる。上から責められ下から馬鹿にされる、私の身にもなって下さいよ」
 終いには、課長はやってられないとばかりにシマダに愚痴を溢し始めた。シマダは眉を八の字にして苦笑いだ。
「そりゃぁ、課長さんの気苦労はよーっく存じておりますがね。実際危険に晒されるのは上層部のお偉方じゃなくて、俺ら現場の人間ですからな。その辺のところも汲んで、エツコの意見も少し分かってやって下さいよ。課長さん」
「ぐぬぅ……」
 シマダに諭され、課長は口をひん曲げたが、とりあえず黙った。
 課長はホワイトボードに向き直り、更に言葉を続けようとした。しかしそこに貼り出してある資料や書き込まれた文章の全ては、既に何度となく繰り返し説明されたものだったので、課長の粗探しも底を尽きたのか、それ以上何も言い出さなかった。
「この辺でお開きにしちゃどうですかね。皆、課長さんが丁寧に説明してくれたんだからな、明日からはそこら辺、ちゃんと気をつけて仕事に励まにゃならんぜ」
「はーい」
「了解でっす」
 私たちは素直に返答した。シマダの上手い締め方に課長も納得したようで、渋々ながらに解散宣言が出た。
 課長の姿がドアの向こうへ消えるのを確認した途端、溜まっていた疲労がどっとあふれ出て、私は折りたたみ式の長机に突っ伏した。
「課長の話、長過ぎ! シマダさんが上手いこと纏めてくんなかったら、いつまで同じ話繰り返されてたか分かんないし」
「くっだらねェ。盗電犯の捜査なんて、ポリスが勝手にやってろっての。補修だけでもてんてこまいだってのによ」
 マイトもうんざりしたように毒づいた。
「このアホたれどもが」
 シマダが珍しく不機嫌な顔で振り向いた。
「課長をカッカさせてどうする。ますます会議が長引くだけだろ」
「すんませーん、つい……」
 エツコが頭を掻いて苦笑する。
「俺ァ今夜、女房を映画に連れて行く約束になってんだ。さっさと帰らねェと、また不機嫌になられちまう」
 シマダはやれやれ、と首を振り筆記用具を片付ける。
「課長にも困ったもんさなぁ。上から責められるっちゅうのは可哀想なもんだが、だからといって俺らにどうにかしろっつったって、そりゃ無茶さ」
「でしょォ? そーいうのはポリスの管轄じゃない。私らは整備工なのよ。大体、今の時点で仕事量パンパンなのに、この先更に増やされたら……無理無理! そうなったらボイコットね、ボイコット」
「せめて、残業代か特別手当でも出してもらえりゃ良いんですがね」
 課長が書きっ放しで帰ってしまったホワイトボードを掃除しながら、チェがぼやいた。
 マイトが皮肉に笑って立ち上がる。
「そりゃないわな。絶対に」
「ですよねぇ」
「さーて、帰ろ帰ろ」
 シマダを筆頭に、私とまだ居眠りをしているホワイト以外の全員が会議室から出て行った。私は下っ端なので、使い終わった折り畳みの椅子と長机を片付けるという使命を負っている。椅子を全て壁際に寄せたところで、シマダたちのエアロバイクのエンジン音が遠退いてゆくのが聞こえた。
「ホワイト。もういい加減起きなさいってば」
 私が肩を揺すって起こすと、ホワイトはやっと目を覚まし、寝ぼけ眼で涎を拭きながら顔を上げた。
「んん……あれ、皆は?」
「とっくの昔に帰ったわよ。椅子、私が全部片付けたんだからね。机はあんたがやりなさいよ」
「えーっ、机の方がはるかに面倒じゃないっすか。冷たいこと言わずに手伝って下さいよぅ」
「嫌よ」
 私は壁際にもたれ掛かり腕組みをして、ホワイトを見張るように立った。ホワイトはまだ眠たそうで、ぶすぶす愚図りながら机を片付け始めた。会議室の青白い照明のせいで、モヤシみたいなホワイトの顔色は、尚のこと不健康そうに見えた。
「あ~しんどい。しんど過ぎる。昼間の仕事だけでもキツいってのに、何だって残業代なしでこんなに残らなきゃなんないんだ……」
「あんただけじゃないのよ、文句言わないの。私なんて、ティムとディナーの約束がパァよ。くっそー、腹減ったなぁ」
「帰りに一杯引っ掛けてきません? メシもまだだし、何かもう飲まなきゃやってらんないっていうか」
「う~ん……でも、ティムが待ってるしなぁ」
「いいじゃないっすか。どうせティムさんメシ食っちゃってますよ、だってもう十時ですもん」
 私はホワイトにせがまれて、仕方なくティムに電話を掛ける。
「あのさぁ、今終わったんだけど、ホワイトが軽く飲んで帰ろうって言うのよね」
『いいんじゃない? 俺もうメシ食ったし、ロンカも外で食ってきなよ』
「うん、でも……今日うちにいる? 待っててくれる?」
 ティムは笑った。
『もちろん待ってるよ。起きてるから』
「十二時前には帰るから」
『ああ。ホワイト君によろしくね』
 私が携帯を切ると、すかさず肩越しにホワイトが茶化してきた。
「ロンカさん、甘えん坊キャラっすか。キモ……」
「うるっさい!」
 私はホワイトの頭に拳骨を落とした。

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