目次
1.エアロバイク乗りの日常
1.エアロバイク乗りの日常(1)
1.エアロバイク乗りの日常(2)
1.エアロバイク乗りの日常(3)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(1)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(2)
3.正反対、だから気になる
3.正反対、だから気になる(1)
3.正反対、だから気になる(2)
3.正反対、だから気になる(3)
4.地表
4.地表(1)
4.地表(2)
4.地表(3)
5.平穏な生活
5.平穏な生活(1)
5.平穏な生活(2)
5.平穏な生活(3)
5.平穏な生活(4)
6.ネズミ
6.ネズミ(1)
6.ネズミ(2)
6.ネズミ(3)
6.ネズミ(4)
7.テロリスト
7.テロリスト(1)
7.テロリスト(2)
7.テロリスト(3)
7.テロリスト(4)
7.テロリスト(5)
7.テロリスト(6)
7.テロリスト(7)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(1)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(2)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(3)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(4)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(5)
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4.地表(1)

 付き合い始めて一ヶ月も経った頃だろうか。時間は本当にあっという間で、毎日ティムに会うことばかり考えていたら、季節の移り変わりなんて目に入らないまま、いつの間にか時は過ぎ去っていた。
 私とホワイトは、珍しく低階層の点検に派遣されることになった。
 低階層の居住者は低所得者ばかり、税金の徴収もままならないのが現状なので、必然的に建物のメンテナンスは最後に回される。壁にヒビが入り通路の照明が壊れても、そのままだ。電力ケーブルが老朽化しても修理や交換がされることもなく、従って停電がよく起きる。
 それでも見て見ぬふりをされ続けるのが低階層以下の宿命であり、そのため私たちは朝礼で課長から今日の担当エリアを言い渡された時、思わず聞き返してしまったほどだ。おそらく、見て見ぬふりすら不可能になって、ようやくEE社の上層部が渋々ながら重い腰を上げたのだろう。
 ある程度の覚悟はしていたが、それでも私たちは指示された点検ポイントに入って絶句した。想像を上回る無残な状態だった。
「ここ、何年前の設備?」
「多分ビルが建設された当初のまま、放置されてたんじゃ……」
 旧式の配電盤には埃が山のように積もっており、配電盤が見えない程。明らかに危険である。
「時間掛かりそうね」
 なるべく残業はしたくない。ティムと付き合い出してからは、いかに残業をせずに帰るか、私はその方法ばかりを考えて、増え続ける仕事と必死に格闘していた。それはもちろんプライベートの時間を守るための努力だったが、結果的に仕事の効率も上がり、一石二鳥となっていた。マイペースで無駄な労働を嫌うホワイトは、そんな私の張り切り具合に嫌な顔をしたけれど、先輩の力で黙らせた。
「ここ、断線してますね。うわぁ、何だこりゃ。盗電の跡だらけだ」
 ホワイトが奥の暗闇で騒いでいる。私は携帯ライトでそちらを照らした。点検ポイント内の照明は、当然のように切れていた。携帯ライトがないと仕事にならない。
「ロンカさぁん、一人にしないで下さいよぅ! 早く、こっちに来てください」
 ホワイトが情けない声を張り上げるので、私は怒鳴り返した。
「うっさいなぁ、今行くから先に進めてなさいよ!」
「だって……気味が悪いんすよ! 照明つかないし、変にジメジメしてるし」
「照明つかなくたってジメジメしてたって、オバケは出ないから大丈夫だってば」
「オバケは出ないかもしれないっすけど、ネズミはいるかもっすよ」
 ホワイトが嫌なことを言うので、ぞっとした私は慌ててホワイトの元へと走り寄った。
「そういうこと言うの、止めてよ!」
「ロンカさんこそ止めてくださいよ!」
 工具を手に、ホワイトが私を本気で睨んだ。まあ、お互い様というやつだ。
 切れたケーブルを取り替える作業に入り、徐々に奥へ奥へと進んで行く。壁に触れていた手が、何かぬるっとするものに触れた。
「ひっ」
 見ると、大きなナメクジ。
「ギャ~~~~~~~~~~~~~~ッ!」
 私は飛び上がってホワイトにしがみ付いた。
「何よ、これェ」
 目を凝らすと、壁のシミだと思っていたものは、びっしりと張り付いたナメクジの群れだった。
「もうイヤぁ!」
「俺もイヤぁ!」
「これじゃあ整備以前に、害虫駆除業者入れないとダメじゃない!」
「こんなとこで作業するの、もう限界っすよぉ」
「私の方が勘弁よ! あんた男でしょ。先に行ってよ」
「えええ、何を今更。女尊男卑!」
「それっておかしくない?」
 喧々囂々やり合いながら、私たちはおっかなびっくり先へと進んだ。
 すると今度は、私のブーツが激しい水音を立てた。
「おわっ!」
「どうしました?」
 足元を照らすと、巨大な水溜りが奥の暗闇へと通路いっぱいに広がっていた。
「何でこんな所に、水溜りが……」
 ホワイトが私の肩越しに床を覗き込む。
「こんなもん、どっから……」
「やばいやばい、これはヤバいでしょ、どっから漏電してるか分かんないってのに。感電死なんて、ゴメンだわ」
「大袈裟だなぁ、安全靴履いてるんだから大丈夫っすよ」
 ホワイトは言うが、それにしたって危険だ。
「一度、作業打ち切りですねぇ」
「そうね。このままじゃ、補修は無理ね」
 携帯ライトで辺りを舐めるように丹念に照らし、私たちは水漏れの原因を探った。どうやら天井近くの壁にある縦長のヒビから漏れてきているようだった。壁の中に埋め込まれている水道管が破損して、水が漏れ出てきているのだろう。
「まあ良いわ。丁度、代えのケーブル使い切っちゃったとこだし。一端会社に戻らないといけないから、その間に業者に頼んで、害虫駆除と水漏れの修理してもらおう」
 私は内心少しだけほっとしていた。取り合えず、嫌な作業を先延ばしできる。
 端末を取り出し、シマダに連絡をとる。
「こちら№5。№1、応答願います」
『おう、ロンカ。どうしたぃ?』
「点検ポイント内部に、水漏れがあるんだけど」
『規模は?』
「う~ん、相当酷いよ。半端じゃないデカさの水溜り、できちゃってるわ。通路いっぱい水浸し」
『そりゃ、俺らの手におえるような代物じゃねえな。よし、上に言っとくよ』
「あとね、害虫駆除業者も呼んで欲しいの。壁にナメクジがビッシリだから」
『うっへぇ』
「もーヤバいんだけど、ここ。何から何まで問題だらけ」
『低階層の下部だからな。今まで放っておいたツケが、一気に回ってきたってとこだろ。まあ、予想の範囲内だろ』
 シマダが苦笑いする。面倒ごとを押し付けられた被害者である私は、さすがに笑えなかった。
「ケーブルなくなっちゃったから、一度取りに戻るわ。できればその間にも、業者に作業進めておいてもらいたいんだけど」
『分かった、聞いてみるよ』
「お願いします」
 私は通信を切った。そしてもう一度、今度は社の方へ連絡した。
『はい、こちらEE社電気系統整備課です』
 シンディの声。彼女は本日、事務所内勤務だ。
「こちら№5。シンディ、悪いんだけどケーブルを用意しておいてくれない? 使い切っちゃったの」
『こちらには、もう在庫がありません』
 シンディが即答する。私は「え?」と尋ね返した。
「何で?」
『何でって、今言った通りです。使い切ってしまったからです』
「そうじゃなくてさ、何で補充しておかないのよ。残り少なくなったら工場に発注掛けとくの、あんたの仕事でしょ?」
 数少ないシンディの仕事のうちだ。
 シンディの声が低くなった。彼女が不機嫌になった証拠だ。
『急に使用量が多くなったので』
「使用量が多くなったって、そんなの前日に残り数調べておけば、問題なく発注できるじゃない」
『とにかく、こちらにはもうないです。工場に取りに行ってください。用意しておいてもらうように連絡しておきますから』
 その口調に反省の色はない。腹が立ったが、私は自分を抑えた。こんなもの、いつものこと、いつものこと……一々腹を立てている方が損なのだ。
「分かったわ」
 私は頭を振りながら通信を切った。
「シンディさん、また何かやらかしたんすか」
「発注ミス。ケーブル、私たちで工場まで取りに行ってこいとさ」
「うっへえ、地表まで行けってことっすか」
 ホワイトはあからさまに気落ちした様子だった。

4.地表(2)

 電力ケーブルを製造している工場は地表にあった。一部の食品製造工場を除いた大概の工場は、土地代の安い地表にあるのだ。
 ホワイトが地表を嫌う理由は明白だ。ビルに住んでいる人間は地表を嫌うものなのだ。それは、文化的なビル内部の世界に対し、地表があまりにも後進的で、なおかつ貧困の匂いがプンプン漂っている、見たくない世界なのだ。
 地表の風景は、ビルの中とは別次元のもののようだった。建物は粗末で、高さもせいぜい三階建てが良いところ。廃墟なのか、それとも実際に住んでいるのか分からないような家が立ち並ぶ。街全体の色彩を一言で表すのならば、寒々とした灰色だ。建物も人の様子も、ビルの内部と外部とでは何十年もの時代の差があるようだ。
 地表への道は、ビルのすぐ外側にあるゲートで仕切られていて、地表の人間が簡単に上がってこれないようになっている。ビルの住民票、もしくはビル内部に関連のある企業のカードを所持していないと、ゲートを通してもらえない。犯罪を抑制するための処置だというのが政府やビル会社の言い分だが、私にはただの人種差別にしか思えない。
私たちはゲートで社員証を提示した。ゲートは難なく開いた。
 エアロバイクを運転しながら、私はゴーグルの下で目を細めた。
 ここに来るのは何年ぶりだろうか。
 久しく目にすることがなかった地表の街並み。
 忘れかけていた風景。いや、忘れることなんてできない、ただ思い出さないように努力していたからこそ、思い出さずにいられたのだ。
 私は遠い昔、この地表の街に住んでいた。
 貧しい暮らしをしていた。
 それでも幸せだった。父、母、祖父母、そして幼い弟がいて――あの頃は、温かい家庭があった。
 今はもうない。全て失った。
『ロンカさん、あそこですよね?』
 ホワイトが無線越しに尋ねてきたので、私は過去の記憶が脳裏をぐるぐる回るのをストップさせた。
 ああ、嫌だ。思い出さないよう、ずっと気をつけていたというのに。
 過去を回想するのは未だにとても辛い。やっとここ数年、夢に見ないで済むようになったのだ。
「そう、あそこよ。シンディから連絡が行ってるはずだから、多分すぐに出してもらえるわ」
 私たちは工場に隣接した駐車場にエアロバイクを駐車した。駐車場で作業していたトラックの作業員が、物珍しそうにこちらを眺めている。
「こんにちは」
 私が挨拶すると、作業員は帽子をちょっと持ち上げてそれに応えた。
「エアロバイク乗りが地表に来るなんて、珍しいね」
「ええ。ちょっと手違いがあって、電力ケーブルが足りなくなっちゃったのよ」
「そうかい、そりゃ大変だ」
 作業員はおどけた調子でそう言って、トラックに乗り込みエンジンを掛けた。懐かしい排気ガスのにおいが、トラックのマフラーから立ち上る。
「臭いなあ」
 嗅ぎ慣れていないのか、ホワイトは嫌な顔をした。しかし私に言わせれば、ホワイトがスパスパ消費している煙草の副流煙だってトラックの排気ガスと同じようなものだ。
 私たちは工場の事務所へ行き、ケーブルの件を告げた。
 しかし事務員は首を傾げた。
「ええと……そのような連絡は、まだ入っておりませんね」
「シンディ~~~~~~!!」
 私は小声で唸った。ホワイトは額に手を沿え失望したように下を向いた。
 仕方がないので、私は事務員に詳細を一から説明した。伝票は、明日以降の発注と合わせて後ほど課に届けてもらうことになった。
 事務員は同情の表情を浮かべつつ、手際良くケーブルを準備してくれたので、私たちはすぐに受け取ることができた。
「ああ、もう疲れたわ。どっかでちょっと休もうよ」
 ビルへの帰路、エアロバイクを走らせながら、私は無線越しにホワイトに提案した。
『別に構いませんけど。時間は大丈夫なんすか?』
「だって、今日はもう作業にならないじゃない。害虫駆除業者がナメクジを片っ端からこんがり焼き殺していくの、あそこに戻って見守りたいっての?」
『いやぁ、それは……勘弁ですね』
「課長には、業者と一緒に作業してるってことにしといてさ。今日はサボっちゃおうよ。もうやる気ねーわ、私」
 それを聞いたホワイトの声は、途端に明るくなった。
『ロンカさんにしては珍しく、ナイスアイディアっすね』
「でしょ?」
 私は現在地点から一番近い公園へと向かった。この辺りは昔住んでいた家から近いエリアなので、ナビで確認せずとも地理は頭に入っている。
 エアロバイクを停めて、自販機で買ってきた飲み物を手に公園のベンチに座る。
 ホワイトがベンチに深く腰掛けて、空を見ながら大欠伸した。
「ふあぁ。こんな長閑な午後も、たまには良いっすねぇ」
「今は良いけど後が怖いわよ」
 私は缶の縁を噛みつつ答えた。
 公園は商店街の通りに面した小さなもので、子供の遊具などは何一つ置いてなかった。ベンチが二つと灰皿が一つ、それからベンチの後ろに荒れ果てた花壇があるだけだった。
 公園の前には古ぼけた病院が建っていた。外壁には黒い汚れが目立つ。
 私はその原因を知っている。昔この辺りを襲った大火事の名残だ。
 思い出すと、頭が痛くなる……。
 その時、耳障りな救急車の音が近付いてくるのが聞こえた。救急車は私たちのすぐ目の前に停車して、二人の救急隊員が後部のドアを開いた。救急隊員たちが、担架に乗せられた十歳前後くらいの少年を運び出す。髪をボサボサに振り乱した若い母親が、錯乱した様子で担架にしがみ付き、しきりに少年の名を連呼していた。 
 担架はすぐに病院の奥へと消えた。その一連の様子を、ホワイトは言葉もなく凝視していた。
「今の子、血だらけだったわね。どうしたんだろう」
 私が呟くと、ホワイトは自分の顔を撫で回して言った。
「嫌なもの見ちゃいましたね。可哀想に。助かると良いけど」
 自分には幼い妹がいるのだとホワイトは以前語っていた。もしかしたら彼は、先ほどの少年に自分の妹をの姿を重ね合わせてしまったのかもしれない。
 私たちのエアロバイクは、救急車のすぐ横に停車してあった。邪魔になるかもしれないと危ぶんだ私は、ホワイトを促してエアロバイクを移動させるために立ち上がった。
 病院の表玄関が開き、中から先ほどの担架と母親、そして当惑した様子の救急隊員が戻ってきた。そこにはもう一人、先ほどはいなかった白衣の医師らしき人物の姿もあった。
「先生、お願いします、どうか見てやってください。このままでは、この子が……この子が死んでしまいます!」
 母親が悲痛な金切り声を上げている。
 しかし医師は、表情を強張らせて首を横に振った。
「お母さん、すみません。停電中なんです。手術室が使えないのですよ。それに、うちの病院には薬品が不足しておりまして……申し訳ございません、本当に」
「そんな……他の病院でも断られてしまって、ここが最後の頼みの綱なんです! 何とかして下さい、お願いですから」
 母親は医師に縋りついた。
 しかし医師はひたすらに謝罪するばかり、決して首を縦には振らなかった。医師は何かをぐっと堪えているような、見ているこっちが苦しくなるような表情をしていた。
「先生ェ……お願いです、どうか……」
 終いには、母親は泣き出して医師の足元に蹲ってしまった。私は見ていられなくなり、お節介焼きの心が鎌首をもたげた。
「あの、どうしたんですか」
 母親は錯乱のために半ば焦点が合っていない顔を私に向けた。
「うちの子が、車に轢かれて大怪我をしているんです!」
 私は医師に尋ねる。
「ビル内の病院なら、電力も通っているし薬だってあるでしょう? そちらに運べないんですか」
「いや、それが……地表の救急隊は、ビル内部に入れないんですよ」
 医師の声が小さくなった。私は眉を吊り上げた。
「どうして?」
「どうもこうも、そういう規則なんです」
「そんなのって……でも、緊急事態なんだから、さすがに入れてくれるでしょ?」
「いいえ。緊急事態だろうがなんだろうが無理ですよ。入れるものなら、とっくの昔に運び込んでます」
 私は少年を見た。真っ青な顔で、ぴくりとも動かない。ただ荒い呼吸を繰り返すだけ。真っ赤に染まった包帯の右腕は、異様に短かった。どうやら右腕の先は切断されているようだ。素人目に見ても、相当危険な状態のように思える。
 おそらくこのまま放置していたら、この少年は死んでしまうだろう。
 私は死の淵に立たされた人間を目前にして見て見ぬ振りをできるような、図太い神経は持ち合わせていない。
 意を決して私は言った。
「私が、エアロバイクでビルの中に運びます」
「え?」
 母親と、少し離れたところで成り行きを見守っていたホワイトが、同時に驚いた声を上げた。
「ロンカさん、それはまずいっすよ。だってこの子、居住証持ってないじゃないっすか」
「大丈夫よ。あんたがゲートで社員証出せば、開けてもらえるんだから。その間、私はこの子を後ろに乗せてあんたの後ろで待機してる。開いたところをさっと通り抜ければ問題ないわよ」
「んな、無茶な」
「だって、このまま放っておけないでしょ!」
「うぅぅ」
 ホワイトは血塗れの少年と私とを交互に見た。そして、ようやく折れて頷いた。
「これでまた、課長にどやされる……」
「ありがとうございます、ありがとうございます」
 母親が私にぺこぺこと何度も頭を下げた。しかし私はそれどころではなかった。救急隊員に手伝ってもらい、自分の体に少年をバンドで括りつけ、少年が落ちないように工夫するので手一杯だった。
 時間がない。一刻一秒を争う事態だ。
「ちょっとの辛抱だからね、我慢するのよ」
 私は少年を励ました。少年はうっすらと瞼を開けて小さく頷いた。
 エアロバイクを飛ばしてゲートへと向かう。ホワイトは緊張した面持ちで、ゲートに設置されたマシンに社員証を突っ込み操作した。
 ゲートが開いた。ホワイトがこちらを振り向いて頷く。
 私はエアロバイクのエンジンを掛けて、そそくさとゲートを通り抜けた。ゲートの監視カメラには少年の姿が捉えられているだろうから、問題が起きればすぐにバレる。しかし今、そんなことを気にかけている場合ではない。
 私たちはナビを使い、低階層で一番地表から近い外科病院を探した。緊急の患者にも対応してくれる、それなりの設備が整った病院を。低階層も施設の設備は充分とは言えないけれど、それにしたって地表よりはずっとマシだ。
 ナビが示す目的地は、二十階の外壁近くにあった。エアロバイクを浮上させて病院を目指す。途中、私の背後で少年が「浮いてる」と小さな声で呟いたのが聞こえた。


4.地表(3)

 病院に着くと、私たちは受付に走った。
 受付の看護婦が、少年の様子を見て目を丸めた。
「交通事故で、大怪我をしているんです」
「え、ええとですね……それでは、居住カードの提示をお願いします」
「居住カードですか?」
 私とホワイトは、どきりとして視線を合わせた。
 どうやってこの場を切り抜けようか。
「えっと、あの……忘れてしまって」
「居住カードの所持は、ビル居住者の義務です。それがないと、いくら緊急とはいえ診察できないのですよ」
 看護婦は困惑している。
 私は仕方なく真実を話し、懇願した。この少年は地表居住者である。でも地表の病院には電力も薬品も不足しており手術してもらうことができない。だからここで何とか手術をしてもらいたいのだ、と。
 しかし、看護婦はぴしゃりとそれを跳ね除けた。
「誠に申し訳ございません。診て差し上げたいのは山々ですが、それは規則で禁じられているのです」
「でも、緊急なのよ。どうにかしてよ! このままじゃこの子、死んでしまうわ」
「そうおっしゃられましても……」
 看護婦は当惑して、私たちを横目でちらちら見ながら電話でどこかに連絡を取った。するとすぐに、病院の奥からこの病院の医師がやって来た。
「お客様、何事ですか」
「この子を診てあげて欲しいんです。車に轢かれて大怪我してるのよ。何度も言わせないで!」
 私は怒鳴った。
「申し訳ございません、看護婦も申し上げたことでしょうが、うちの病院では外部のお客様を診ることができないのです」
「どうしてそんな意地悪が言えるのよ!?」
「意地悪ではありません。規則なんですよ。私どもには、どうすることもできません」
「――もう、良いわ。他の病院に行くわよ」
 しかし医師は首を横に振った。
「他を当たっても同じです。ビル内部の病院では、その子を助けることができません。規則で決められているのです、破れば営業していけなくなるでしょう」
「じゃあ、どうしたら良いのよ」
 私が医師に詰め寄ると、医師の声は言い難そうに萎んでいった。
「地表の病院で、何とかしてもらうしかないですね」
「そんな……地表で無理だから、ここまで来たって言うのに」
「申し訳ございません」
 医師は、それ以上会話を続けるのが嫌だったのだろう。踵を返し、そそくさと奥へと引っ込んでしまった。看護婦も、私たちと喋るどころか視線すら合わせようとしなかった。まるで、私たちとの間に目に見えない壁でも存在しているかのような態度だった。
 私たちはその病院を後にした。他にも近場の病院を何件も当たったけれど、どこへ行っても揃ったように対応は同じ。門前払いだった。
 少年は私の背中で、目に見えて衰弱していった。
 もうこのままでは、本当に……。
「――地表へ戻ろう」
「えっ」
「ホワイト、あんたは社に戻ってな。私一人で行くから」
「でも……ロンカさん」
「処分を受けるのは、私一人で充分よ。もともと私が言い出したことだしね。でも、ゲートだけ開けてよ。この子を後ろに乗せていたら、身動き取れないから」
 私はゲートでホワイトと別れた。サイドミラーに映ったホワイトは心残りな表情で、長いこと私を見送っていた。
 エアロバイクを飛ばして、母親の待つ病院へと戻った。病院の入り口にはまだ救急車が停まっていて、私が病院のロビーへ入ると、そこには母親と医師、そして救急隊員たちが無言で長椅子に座っていた。
 母親が気付いて顔を上げる。私の背中で少年がぐったりとしている様を見ると、母親の顔から血の気が引いていった。
 彼女の頬に幾筋もの涙が伝う。
「……ごめんなさい」
 私は視線を伏せた。母親の顔を直視できなかった。
 母親が近付いてきて、私の背から少年をそっと下ろした。そして少年を抱きかかえ、その場に座り込んだ。
「ユウ君、ママがついてるわよ……大丈夫よ、ここにいるからね。ずっと傍にいるからね……」
 少年の片方残された左手を握り、母親が囁いている。しかし母親に握られたその手からは既に生きるための力が抜けていて、まるで芯のないシリコン製の人形の手でも掴んでいるかのように見えた。
 母親が小さく子守唄を歌っている。私は立ち尽くしてその様子を見守っていた。やがて子守唄は啜り泣きに変わっていった。医師が母親に近寄り、母親から子供の左手を取り上げた。
 脈拍を測る。
 そして首を横に振った。
「お母さん、もう……」
 母親の肩にそっと手を置く。母親は啜り泣いたまま、少年の身体の上に自らの上半身を覆い被せるようにして縋りついた。
「ユウ君……」
 緊急隊員たちは、医師に一礼してロビーから出て行った。隊員の一人が私とすれ違い様に、お疲れ様という意味なのか、仕方がないよという意味なのか、肩を何度か無言で叩いていった。
 医師が受付の電話で何か喋ると、すぐに奥から数人の看護婦たちがやって来て、母親と少年の亡骸を病院の奥へと連れて行った。母親は立ち去り際に私の方へ振り向いて、無理に貼り付けたような笑顔を作り、涙ながらに「ありがとうございます」と呟いた。
 何も言葉を返せなかった。
 一人残った医師が私に言った。
「これが地表の現実ですよ」
 私は俯いた。
「知っています。……でも、それでも何とかしてあげたかったんです」
「大怪我の患者や重病人が運び込まれてきた時、私はいつも死を宣告する覚悟をします。地表の病院では、助けられる確立よりも、見殺しにしてしまう確立の方がずっと高いのです」
「ええ、それも知っています」
 私は頷いた。
「私も、元は地表の人間ですから」
「――そうですか」
 私は医師に一礼して病院を後にした。
 泣き出してしまいそうなのを必死で押し殺して、エアロバイクを走らせた。家に帰ってツナギを脱いだら、背中が血で茶色に変色していた。私はそれを洗濯機にぶち込み、大量の洗剤を投入しながら、堪えきれなくなって泣いた。
 その晩、ティムがやって来た。ベッドに潜り込んで泣きじゃくっていた私は、ティムを見るなり縋り付いてわんわん子供みたいに声を出して泣いた。当然、ティムは何があったのか尋ねてきたけれど、私はあまりにも辛過ぎて、喋ることすらできなかった。
 クビにこそならなかったものの、その月の私の給料は、大幅に減額されていた。

5.平穏な生活(1)

 私とティムは、私の家で夕食をとっていた。食事の合間に喋る話題は、いつの間にかお互いの部屋の話になっていた。
「俺の部屋、超汚いんだよね」
 ティムは、自分の部屋では落ち着けないと言う。
「ロンカの部屋はいつも綺麗だね。シンプルだし、とても過ごし易いよ」
「え、そうかな」
 ティムがまじまじと私の部屋を眺め回すので、私もつられて周囲に目を向けた。改めて見てみると、確かに簡素な部屋だ。余計なものは何一つ飾っていない。映画のポスター、置物、人形の類もない。嫌いなわけではないのだが、掃除が面倒になるから何となく飾らないでいた。とは言え、私にとって目の保養になるものなど、窓から見える外の風景だけでも充分なのだ。
「これだけ綺麗だと良いよなあ」
「ティムの部屋はどんな感じなの?」
 ティムは私の部屋に何度も来ているが、私がティムの家へ遊びに行ったことはない。
 苦笑いしながら、ティムは皿に盛ったサラダを突付く。
「雑誌と書類の山に埋もれてる。パソコンの周りに色んなものが積み重なってて、床だって足の踏み場もないよ。唯一ベッドの上だけは、何も乗っけないようにしているけれど」
「料理とか、家でするの?」
「いや……料理は嫌いじゃないけど、キッチンも資料や空のペットボトルなんかでいっぱいだから、料理できるスペースなんてないよ。いっつも買い食いか外食」
「マジ?」
 私は驚いた。ティムは小奇麗な身なりをしているし、デザイナーなどというお洒落な仕事をしているのだから、さぞかしインテリアにもこだわっているのだろうと勝手に決め込んでいた。
「片付けるのも一苦労だし、なんかもう、寝るためと持ち帰った仕事するためだけのスペースになってるね」
 ティムは自嘲気味に言う。
 私はちょっとの間考えていたが、思い切って提案した。
「あのさ……嫌じゃなければ、私の家に来れば? もちろん仕事が残ってるときは、家に帰ればいいし」
「大概のことはノートPCで済ませられるから、まあ、その辺は問題ないかな。ロンカんちでもできる仕事がほとんどだ」
「じゃあ――普段家でリラックスできないって言うんだったら、うちにいれば良いじゃない」
「迷惑じゃないの?」
「ティムなら構わないよ」
 それを聞くと、ティムは口元を少し持ち上げた。そしてトマトを口に含み、それを噛みながらの聞き取り難い声で言った。
「半同棲かぁ」
 私は途端に恥ずかしくなって下を向いた。
 ああ、そういうことになるのか……。
 付き合って一ヶ月で半同棲、早かっただろうか。
「良い響きだね」
 ティムが呟いた。私は照れ隠しにビールをガブ飲みした。
「――合鍵、作っとくね」
「うん」
「うちに来る日はメールしてくれたら、ティムの会社までエアロバイクで迎えに行くから」
「うわあ、送迎付きか。俺、まだペーペーの平社員なのに、重役並みの扱いじゃんか」
 私はおかしくなってくすりと笑った。ティムが嬉しそうな顔をすると、私まで気分が温かくなる。
 幸せってこういう些細なことなのかも……なんて、心の片隅でこっそりと考えていた。

5.平穏な生活(2)

 休日、たまには外に出てのんびりしたいとティムが言うので、私たちはお弁当を作って公園へ出掛けることにした。
 私は上階層にあるジオラマパークへ行こうと提案したが、ティムは別の場所が良いと言い張った。
「もっと、本当の自然があるところに行きたいよ」
「どこ?」
「折角だから、ビルの中じゃなくて外が良いなぁ」
「地表? 物好きだなぁ」
「新しい自然公園ができたって、ニュースでやってたんだ。凄いでっかいんだってさ。そこに行きたい」
 そんなわけで、私たちはエアロバイクでビルをぐんぐん下り、地表まで降りることにした。
 ティムは私のエアロバイクに乗るのを好んだ。もちろん彼は運転できないから、私の後ろにしがみ付いて乗る。二人乗りなんてしているとすれ違い様に他のエアロバイク乗りたちに冷やかされたけれたけれど、それすら何だか嬉しかった。
 社外の人間を乗せるのは規定違反だが、私以外の整備工たちも当然のように違反しまくっているので、特に咎められることもない。
 私用で地表に降りるのは初めてのことだった。しかしEE社の社員証を見せれば、例えプライベートでも何も言われることはないと、違反常習犯のマイトから情報を得ていたため、特に不安もなく通ることができた。同乗者もビル居住許可証を提示すれば、問題はないらしい。マイトはよく、女の子を引っ掛けては海に連れて行くと言う。大概は、それで女の子をお持ち帰りできるらしい。
 私は若干気が滅入っていた。先日噛み締めた苦い思い出が、じんわりとまた心の表面に浮かんできたためだ。
 サイドミラーで背後のティムを確認すると、ティムの表情も心なしか曇っていた。快適なビルの中に住んでいたら、地表の風景など見るだけでも憂鬱な気分になるだろう。 聞いた話によると、ビル内部から地表へと向かうバスの窓は外が見えないように全て塞がれ、映像が流れるようになっているらしい。
 地表に比べれば、ビル内のスラム階層の方がまだマシだ。汚いし治安は悪いが明らかに文明の香りがする。地表には、ひたすらに貧しさとやるせなさ、時代から取り残されたうら寂れた風情ばかりが漂っている。
 地表に降りてから数十分も走ると、やがて雑多な市街地を抜け、広々とした田園が広がり始めた。更に進むと、前方に大きな森林地帯が見えてきた。
 ティムが行きたがっていた巨大な地表の公園は、その森林地帯の入り口にあった。
 公園には整備の行き届いた駐車場があって、高級エアロカーやエアロバスが何台も停車していた。
「貧民街を抜けると、森の中には金持ちの巣窟か」
 ティムは呆れ顔でそれらを眺めていた。私はゴーグルを外しながら説明する。
「貧乏人は、こんなところへ遊びにやって来る余裕なんてないわよ。セントラルの街からここまでのバス代だって、地表暮らしの人間からすれば、バカみたいに高いんだから」
「まあ、そうだよね……」
「ティムが来たいって言い出したんだから、暗い顔なんてしないでよね。こんなこと、初めから判りきっていたことじゃない」
「ごめん」
「私、これでも地表のことには詳しいのよ」
「え? ほんと?」
「だって私の実家はね、地表で自転車屋をやっていたんだから」
 普段なら、絶対に口に出さない過去。でもティムになら躊躇なく話すことができた。
 何故だろう。何を打ち明けるにしても、彼なら安心して話すことができる。取り繕うこともなく、素直になれるのだ。
 ティムは興味深そうに私を見る。
「今も、ロンカの家族は地表にいるの?」
「ううん、いないよ。街で大火事が起きたときに、私の家も巻き込まれて、私以外の全員が死んでしまったからね。私が十九の時よ。私は隣の区画のバーでバイトしてて助かったの。真夜中過ぎだった。私の職場からでも、自分の家の辺りが激しく燃えているのがはっきりと見えたよ。大きな火の柱がビルの狭間にゆらゆら揺れて、煙が濛々と立ち上っている光景がね……何区画も丸ごと焼けてしまって、百人以上死んだわ」
 脳裏に封印していた記憶。しかし思い出そうとすれば、いとも容易く鮮明に浮かんでくる。止まらない涙に滲む、炎上する街の様子が。
「丁度同じタイミングでね、運悪く第二住居ビルの中階層でも火事が起きたの。そっちはてんで大したことのない火事だったのに、消防はビルを全面優先して、地表は見捨てられたのよ」
「酷いな」
「ビルを恨んだわ。金持ちなんて全員死ねば良い、って。今にして思えばただの逆恨みだけど、そのときは憤りのやり場がそこしかなかったのよ。時間が経過するのと共に、徐々に冷静になってきて素直に諦められるようになったけれど、それでもやっぱり、今でも辛いわ。そう簡単に忘れられるもんじゃないもの。一人きりになった私は、親戚に頭を下げまくって、やっとのことでお金を借りて、専門学校へ入ったの。そして、整備工になったんだ。まさかビルの電気系統の整備をすることになるとは、学生時代は思いもよらなかったけどね。精々、地表の公共施設にでも就職することしか考えていなかったから」
 私は歩きながら語った。ティムは黙って私の話を聞いていた。
「学校でね、週に一度選択科目でエアロバイクの学科があって、整備とか乗り方とか教えてくれたんだよね。成績が良いと免許取得のための試験を受けさせてくれるの。私はたまたま適性があったみたいで、すんなり試験に合格したから、それで先生が就職先を斡旋してくれたのよ」
「そっか……ロンカにそんな過去があったなんてなぁ。ビルで生まれて、ビルで育ってきた人間だとばかり思っていたよ」
 ティムは遠い目をして呟いた。
「ティムはどんな風にして育ってきたの? 私も知りたい」
 私はティムの過去について何も知らなかった。
 ティムは首を捻って私を見た。私は彼よりも頭一つ分身長が低いので、少しだけ見下ろされる形になった。
「俺はこの辺りではなくて、もっと北の方で生まれたんだ」
「どこ?」
「ロンカはきっと知らないよ。凄く小さな街だから。でもセントラルみたいに地表は荒れていなかった。もっと昔風の暮らしをしている土地だったよ。金持ちも貧乏人も皆地表に住んでいて、超高層ビルなんて一本も建っていない」
「そうだね、世界中でセントラルだけよね、こんな風になっているのは」
「でも、少なくともセントラルよりは、良くも悪くも人間らしい暮らしができる場所だったね。俺は小金持ちの家に生まれて、何不自由なく育ってきたよ。だからこそ、ちょっと捻くれ者になってしまったんだろうね。学生の頃は学生運動にばかり参加していて、ちっとも真面目に学校へ通ってはいなかった」
「え、そうなの? 全然そんな風には見えない」
 私たちはしばらく歩いて、公園中央に広がる見晴らしの良い野原に辿り着いた。芝生の上にシートを敷くと、青い草の匂いがふんわりと漂った。シートの上にめいいっぱいお弁当を広げる。食事をしながらも、話は終始自分たちの過去のことばかりだった。
「俺は全寮制の私立の学校に通っていたんだけど、同室の過激派の先輩に影響を受けちゃったんだよね。それ以前にも、世界の不条理さについてずっと燻るように考え続けていたから、引き込まれるのは簡単だった。先輩たちに唆されて随分色々とやったよ。今にして思えば、道楽息子の暇潰しと言われても仕方ないようなことばかりだけどね。……だって実際に貧しさで苦しんでいる人たちからしてみれば、何苦労なく育ってきておいて一体何を理解してるんだって感じだよ」
「そんなことないよ。何も考えないよりも、考える方がずっとマシでしょう」
 私が言うと、ティムは苦笑いした。
「そう言ってくれると、ちょっとは気が晴れるよ。まあ、そんな具合にろくでなしの学生生活を送っていたんだけれど、最終的に素行の悪いのを親に感付かれて、無理やり家に引き戻されたんだ。そして政治的思想とは全く掛け離れた、セントラルのデザイン学校へ行かされることになって、今の俺がいるってわけ」
「へぇ」
「最初は猛反発したよ。でも先輩たちに、セントラルの現状を見てこれるのは我々の活動にとっても良い機会だって言われて、渋々やって来たんだ。ところがさ、学校に入ったらデザインの勉強が楽しくなっちゃってね。無駄に思い煩うこともないし、何よりやりがいがあるだろ、自分の思い描いたものがすぐに形になるっていうのは。学生の政治的な活動なんて、フラストレーションばかり溜まってちっとも先に進まない。それにあの頃の自分は真剣なつもりだったけど、傍から見たら、世間知らずな学生の猿芝居にしか見えなかっただろうしね。大人になってから思ったよ。本当に世界を変えたいのなら、自分が世界のトップになるか、逆に悪の帝王にでもなって、世界中を破壊しまくってから理想の世界を再構築し直すとか……そのくらいしないと無理だ。中途半端にやってたって、何も進まないんだ」
 ティムがおどけた調子で言うので、私はおかしくなってケラケラ笑った。
「世界のトップは、今から勉強しまくっても無理だね」
「そうだよねぇ。何だかんだ言って、家柄とかも関わってくるだろうし」
「じゃあ、悪の帝王にでもなってみる?」
「その方が手っ取り早いかも」
「でもさ、悪の帝王ってことは悪いことをしなきゃいけないんでしょ? 私、そんなの嫌だな。皆が幸せに住めるような世界のが良いもん」
「違うよ、現在の政府を覆すって事自体が、既に悪行になるんだから、それだけで立派な悪の帝王の一丁あがりだよ。だけどクーデターがもし成功すれば、悪の帝王から正義の使者に早代わりさ。漫画の中みたいなハッキリした正義や悪なんて、この世の中には存在しないだろ」
「ふふふ、なんかおかしい」
 嫌いな人間は山ほどいるけれど、心の底から悪一色の人間なんて見たことがない。例えばあの課長だって、私や整備課の面々からすれば最悪な上司だけれど、もしかしたら彼の家族の前では良き父親であるのかもしれない。自分以外の人間が持つ全ての顔を把握できるということはないのだ。自分に見えているその人の面が全て最悪だとしても、イコール相手の全てが最悪だということにはならないのではないだろうか。
「でもね、今でもよく考えるんだ……あのまま進んでいたら、俺はどうなっていたんだろう。本当にこのまま平穏な日常に溺れていて良いんだろうか、って。いつか誰かが変えないと、ずっと変わらないんじゃないかって。でもそんな風に考えること自体、やっぱり驕っているような気もするけどね」
「考え過ぎだよ」
 私はティムの肩に手を置いた。
「私はね、自分が担っている今の役割をまっとうするのが一番だと思っているよ。私は一時、ビル住まいの人々を恨んだりもしたけれど、今はその人たちの生活のために働いている。もちろんその労働は、自分のためである部分が大きいけれど……お給料を貰って食べていかなきゃいけないからね。だけどそこには、何ていうのかな。正義っていうか、信念っていうか……そう言っちゃうと仰々しいけどさ、微かにではあるけれど、やっぱり存在している。そしてそれは、昔の私が持っていた今とは正反対の価値観にとっても、実は無関係なことではないのよ。私がここで頑張れば、ビル内の人々のためだけではなく、きっと回り回って全ての人たちに還元されるような、そういうものだと思ってるよ。だって社会って連鎖しているでしょう? 私なんて末端の末端だから、偉そうなことなんて言える立場じゃないけどさ」
「そんなことないよ。世の中のほとんどが、その末端の人間で構成されてるんだから。俺だって末端の末端だ」
 私は、三つ目のサンドウィッチを手に取った。二人で一緒に作ったお弁当だ。卵とレタス、チーズとハムが挟んであって、調子に乗って具を詰め過ぎたので、うっかりすると中身がボロボロこぼれたけれど、とても美味しかった。
 ティムがペットボトルのコーラを飲みながら呟いた。
「空気、綺麗だね」
「緑に囲まれているからね」
「有機質な匂いが良いよね。ビル内の空気も綺麗なんだろうけど、あれは機械臭い」
「完全にイオン消臭されてるから、ニオイなんてないはずだけど、確かに機械っぽい感じがするよね」
「本来人間の住むような環境じゃないから、身体が違和感を感じているんだよ。俺たちも本当はこういった場所に住むべきなんだ、やっぱり」
「じゃあ、お金を貯めて引っ越そうか? 昔ティムが住んでいたような、もっとずっと田舎の街に」
 ティムがごろりと寝転がって、満足げに頷いた。
「そりゃあいいね。そんでさ、畑とか耕しちゃったりして、――動物も飼おう。猫かオウム。犬は嫌だな、涎を垂らすから。俺は看板屋にでもなって、細々と暮らすんだ。子供は二人が良いな、男も女も両方欲しい」
「え?」
「あ、でもロンカは、エアロバイクがないと生きていけないか。どうしよう……そっか、普通のバイクに乗り換えればいいよ。それなら田舎でも使えるだろ」
「ちょっとォ、勝手に話進めないでよ。何よ子供って」
 私は口を尖らせたけれど、本心ではなかった。
 これまではずっと子供なんていらない、自由に生きていたいと思っていたから、他人から子供の話なんてされると、自分の年齢のことばかり考えてしまい不愉快になったものだ。しかし愛する人の唇からその単語が出ると、嫌な気がしない。
 本当に不思議だ。
 私はランチの入ったバスケットを除けて、ティムの隣に寝転がった。
「……良いよ。いつかそうしよう」
「うん」
 ティムが微笑んで私の髪を軽く撫でた。私は目を瞑って午後の日差しにまどろんだ。
 優しい日差し、ティムの指、そしてささやかな風。全てが完全に調和して、私はこれ以上ないほど心地良い空間に身体を預けていた。

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