目次
1.エアロバイク乗りの日常
1.エアロバイク乗りの日常(1)
1.エアロバイク乗りの日常(2)
1.エアロバイク乗りの日常(3)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(1)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(2)
3.正反対、だから気になる
3.正反対、だから気になる(1)
3.正反対、だから気になる(2)
3.正反対、だから気になる(3)
4.地表
4.地表(1)
4.地表(2)
4.地表(3)
5.平穏な生活
5.平穏な生活(1)
5.平穏な生活(2)
5.平穏な生活(3)
5.平穏な生活(4)
6.ネズミ
6.ネズミ(1)
6.ネズミ(2)
6.ネズミ(3)
6.ネズミ(4)
7.テロリスト
7.テロリスト(1)
7.テロリスト(2)
7.テロリスト(3)
7.テロリスト(4)
7.テロリスト(5)
7.テロリスト(6)
7.テロリスト(7)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(1)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(2)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(3)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(4)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(5)
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3.正反対、だから気になる(2)

 翌日。
 その日の朝も、私は遅刻しそうになりながらミランダの店に寄り道し、いつものように野菜が多めのターキーサンドとコーヒーを注文した。それに対し、ミランダは私に商品を手渡しながら、開けっぴろげな笑顔で「今日も頑張って行ってきなよ!」と送り出してくれるのが常なのだが、今日に限って彼女は何かを含んだ表情で私をじっと見つめた。そのため、私は思わず商品を受け取る手を止めた。
「――何?」
「こないだの今日だから、私あんまりこういう役割はやりたくないのよ。後ろめたいっていうかさ」
「はい?」
 思わせぶりなミランダの言葉に、私はいぶかしんで眉根を寄せた。
「何の話してんの」
「あのね、あんたにこれを渡してくれって人がいんのよね」
 ミランダは、エプロンのポケットから折り畳まれた白い便箋を取り出した。
「誰?」
「最近よく来るお客。良い男だよ」
「……」
 ミランダは困惑気味に苦笑いする。
「どうしようか。いる? いらない?」
 私は白けた顔で首を振った。
「いらない」
「じゃあ捨てちゃうよ?」
「うん……あ、いや待って! 一応もらっとく。多分読まないだろうけど」
「良いの良いの、受け取ってもらえるだけでもちょっと嬉しい。捨てちゃうのもさ、なんか罪悪感に苛まれるし」
「ごめんね。ミランダに気兼ねばっかさせちゃってるね、私。でも、あんたは何も悪くないんだから気にしないで」
 私が笑うと、ミランダは胸を撫で下ろした。
「良かった。こんなことが原因であんたに嫌われたらどうしようって、実はちょっぴり思ってたんだよねぇ……」
「やだ、そんな風に思うわけないじゃん」
「こないだのこと、もう引きずってない?」
「全然! っていうか私がそんなに繊細な人間だと思ってんの?」
「いや思ってない」
「言うねぇ」
「ハハハハ」
 私は手紙を受け取って、胸のポケットにしまった。
「そうだ、ロンカ。夕方暇ならお茶飲みに行こうよ」
「いつものダイナー?」
「そう」
「了解。じゃ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 私はミランダに敬礼して、エアロバイクを発車させた。
 あーあ……。
 ミランダに背を向けるとすぐに、私の顔からは笑顔が消えた。
 溜息と一緒に肩を落とす。
 ミランダには「全然!」なんて調子良く答えてしまったけれど、本当は激しく引きずっていた。あんな馬鹿をやっておいて、引きずらない方がおかしい。
 おまけに私は人一倍ネガティブで、プライドばかり高いときている。だから余計にたちが悪い。
 このままでは――彼氏ができないばかりか、自己嫌悪で自分が大嫌いになりそうだ。
「――№5、№5。聞いとんのか!」
 大声で自分を呼ぶ声に、我に返った。
 そうだ。朝礼中だった。
 考え事に夢中になって、つい課長の話を聞き流していた。
「すみません、聞いてませんでした」
「ロンカ――――――ッ!」
 課長がズカズカ歩いてきて、私の目の前三十センチぐらいのところで怒鳴った。唾の飛沫が飛んできて、私は思わず身を引いた。
「まーったく、お前という奴はどうしていつも気合が足りんのか。後輩が二人もいるんだぞ、見本となるように努力せんでどうする!」
「……はい、すみません」
「すみませんじゃない、いい加減にしろ! ったく……では本日も、エンリコエレキテル社訓、そのいーちッ」
「ひとーつ、全ての建造物の電気配線は、EE社に繋がる……」
 朝礼が終了し、私はエツコの袖を引っ張ってこっそり尋ねた。
「課長、何の話してたの?」
「えー? あぁ、また電気抜かれたって話よ」
「またァ?」
「あんたらが作業した点検ポイント、両方とも含まれてるわよ」
「えぇーっ」
 私がネズミ騒ぎを起こした場所とホワイトがオバケを見たという場所、それらを含めた5箇所もやられていたらしい。偶然にしても背筋が寒くなった。
「マジ?」
「いやよねェ。課長の機嫌も悪くなる一方だしさ。そのうち抜かれたポイントごとに、報告書纏めなきゃなんないらしいよ」
「うえぇ」
 私は思わずホワイトを振り返った。
 ホワイトは私に殴られるのが怖かったのか、それとも引き篭もるのに飽きたのか、今日はようやく職場に出てきた。電気泥棒の話が出たのでまたオバケの言い訳でも始めるのだろうかと、私はホワイトの様子を伺った。しかし、どうやらホワイトは私以外の誰にもその話題を振るつもりはないようで、ただ陰鬱な表情でじっと床を見つめていた。
 私も黙っていた。オバケ話なんてネタにするのも馬鹿らしい。
 私の視線に気付いたホワイトが顔を上げた。私はその話について自ら触れるつもりはなかったので、ホワイトの何か言いたげな視線を無視して点検の準備に取り掛かった。 しかしホワイトはどうしても何か喋らずにはいられなかったのか、小走りに寄って来て私だけにそっと囁いた。
「さっきの話、絶対あのオバケっすよ。間違いない」
「あんたまだそんなこと言ってんの? ネズミはねぇ、電気なんて盗まないのよ」
「だからぁ、そこがオバケのオバケたるところですよ」
「オバケだって電気なんて盗まないでしょ。盗んでどうすんのよ」
「食料っていうか……エネルギーにしてるっていうか……」
「へぇ、凄いね。暗闇でぼんやり光って人間を驚かすためのエネルギーにでもすんの?」
 私はホワイトを鼻で笑ってエアロバイクを発進させた。理解の範疇外の不可思議な出来事なんて、気持ち悪くてこれ以上考えたくなかった。自分の私生活についてだけでも既に脳味噌はパンク寸前なのに、これ以上厄介な出来事で煩わされたくなかった。
 その日は何事もなく終わった。ホワイトは新たな点検ポイントに入るたびにまだビクビクしていが、オバケなんてもちろん出てこなかった。私はいるかいないか分からないオバケなどよりも、むしろこの後に待ち受けている報告書との戦いの日々の方がずっと恐ろしくて、一日中溜息ばかりついていた。
 仕事を終えた私は、ミランダと約束していたダイナーへ寄り道した。ダイナーはミランダの店の一階上にあり、私たちはそこの常連だった。
 ミランダは仕事上がりにこの店へ立ち寄り、コーヒーを飲んで一息ついてから帰るのが日課だった。私も時折ミランダの終業時間を見計らってダイナーへ赴き、彼女と共に仕事後の一休憩を楽しんでいた。
 ダイナーの入り口で客席にミランダの姿を探していると、ウェイトレスの女の子がやって来た。
「あら、ロンカさんいらっしゃい」
「ミランダ来てる?」
 頻繁に来店している上にミランダの職場から至近距離というせいもあり、店のウェイトレスたちとは私もすっかり顔馴染みだ。
 私の質問にウェイトレスは首を横に振った。
「今日はまだですよ。待ちます?」
「うん」
 ウェイトレスが窓際の席に案内してくれた。私は席について、シナモンミルクティをオーダーする。ウェイトレスがくれた温かいお手拭きで両手を拭いたら、白いハンドタオルが薄黒くなった。
「……うわぁ」
 私は呆れて思わず声を漏らした。続いて顔をゴシゴシ拭う。仕事が終わってからまだ洗顔していないので、きっと顔も真っ黒だろう。お手拭きで顔を拭くなんて中年男性みたいな行動だが、人も疎らな夕食前のカフェ、どうせ誰も私のことなど見ていない。
 ああ、気持ち良い。
 顔の表面を刺激するタオルのざらついた感触と、鼻の穴から吸い込む熱い蒸気に恍惚となる。満足して大きく息を吐き出しつつ顔を上げると、そこに人影があった。
「あ、ミランダ来たの――」
 言いかけた私は硬直した。
 ミランダではなかったのだ。
 知らない男が私のすぐ横に立っていた。
「こんにちは、ロンカさん」
「はい?」
 男は細いフレームの眼鏡の下から、はにかむような笑顔を私に向ける。
 誰だっけ。
 こんな知り合いいただろうか。
 ミランダの友達だろうか。
 えっと……。
 えーっと……。
「お名前、ロンカさんでしたよね?」
「……」
 私は男の顔を凝視したまま、記憶の断片を必死に穿り返しては、目の前の人物をそれらと照合した。しかし、全く思い当たる節はなかった。
 男は戸惑ったように目を大きくした。
「あの――手紙、読んでいただけたんですよね?」
「手紙?」
「ミランダに渡した……」
「あっ」
 私は口元を押さえた。
 朝の手紙だ。
 大慌てで胸ポケットから手紙を取り出し、折り目を破きそうになりながら広げる。
『突然のお手紙、申し訳ございません。
毎朝、エアロバイクで目の前を通り過ぎてゆくあなたの姿を見ていたら、どうしても実際にお会いしたいという欲求に突き動かされ、とうとう堪えることができなくなってしまいました。どうぞ、お許しください。今夜六時半、雑貨屋上のダイナーでお待ちしております。切実に、お待ちしております。ティム』
 短いが丁寧で分かりやすい文章だった。それなのに、何度文字の上を視線が辿っても、何故だろうか、その意味はなかなか頭に入ってこなかった。
 五度も読み返し、ふと視線を上げてティムの困惑した表情を直視したその瞬間、ようやく私は悟ることができた。
 ああ、何というバッドタイミング。
 どうしよう。
 どうしよう……。
 こんな状況、慣れていない。
 普段勢いだけで行動しているくせに、意外と不意打ちに弱く、臨機応変という言葉が非常に苦手な私。不器用なので対応の仕方が分からず、困って視線を床に落とした。
 前髪の隙間からティムの様子を伺うと、彼は混乱渦巻く私の視線に怖気づいたのか、気まずそうに視線を泳がせた。強張った白い頬が、心なしか赤く染まっている。
 しかし元来の彼は、どうやら私のように不器用や混乱癖とは無縁のようだった。彼の瞳はすぐに確固たる自信の光を取り戻し、私を再び捉えた。
「すみません。呼び出してしまって」
「……」
「えっと、あの」
「……」
「俺、ティム・コールドウィンと言います」
「……はぁ」
 男――ティムは名乗って、私に名刺を差し出した。私は渡されるままに名刺を見た。肩書きは、エルド広告代理店のデザイナー。エルド広告代理店と言えば、お洒落業界では知らぬ者などいない大手の会社だ。その肩書きを裏付けるかのように、ティムは業界人染みて垢抜けたファッションをしており、先日の合コンみたいな場にこういう男がいたらさぞかしモテるのだろうな……と他人事のようにぼんやりと思った。
「ご注文、何になさいますか?」
 ウェイトレスが興味津々な顔で私とティムを交互に見た。
「コーヒーで」
 ティムが答える。
 私は軽く眉間に皺を寄せて、内心の不安をこっそりとウェイトレスに伝えようとした。だが、ウェイトレスは何故かちょっと笑って、私にウィンクして去って行った。
「こうでもしないと、お話することもままならないと思いましてね」
 ティムが再び話し始めたので、去って行くウェイトレスの背中にしつこくヘルプミーの念を送り続けていた私は、慌てて彼に視線を戻した。
「……」
「ご迷惑でしたか?」
「……いえ」
「ここ、座っても良いですか?」
 私の向かいの席を示してティムが尋ねた。私は仕方なく頷いたが、本心では相変わらず困惑状態が続いていた。
 早くミランダが来てくれれば良いのに。
 気まずさを隠すように、冷め掛けたミルクティを啜る。きっと喫煙者ならこんな時、煙草に火をつけるのだろう。
「あの、堅苦しいのもなんですし、普通に喋っても良いですか? 友達に喋るみたいに気さくな感じで」
「ええ、はい」
 私は低い声で答えた。ティムはふう、と息を吐き出して笑った。
「ああ、良かった。俺、苦手なんだ。丁寧に喋らなきゃって思うと、どんどん言葉が変になっちゃって、ジェントルぶってみてもボロが出るし。ごめん」
「……」
 ティムは私の言葉を待っていた。けれども私は何も喋れなかった。俯いて、ミルクティを啜るふりをひたすら繰り返すだけ。
 ティムは私を安心させようとしているかのように、人好きのする笑顔を浮かべて言葉を続けた。
「俺、どうも君のことが気になって――つまり、どうやら君に気があるみたいなんだよね」
「喋ったこともないのに?」
 思わず口を突いて出た言葉に、私自身がまた戸惑った。
 うわ、意地悪な言い方。
「いや、そうだよね、うん」
 ティムは苦笑いだ。
 そんなんだからモテないんだ、と同僚たちが私を馬鹿にしている映像が脳裏に一瞬浮かんだ。
 だって……と、心の中で反論する私。
 だってどうすれば良いのか分からない。
 自分に自信がないので他人から好意を持たれると、どうしても疑って掛かってしまう。
 何か裏があるのではないか、とか。
 こんな良い男が自分を好きなわけがない、とか。
「嫌な言い方しちゃってごめんなさい。でも私、オイルで薄汚れたツナギ着て、エアロバイク乗り回しているような、可愛げのない整備工なのよ。そんな女を、喋ったこともないのに好きになる男なんている? 疑っても当然だわ」
「随分と自虐的に言うんだね」
「他人から言われたことよ」
 先日の合コンの場面が脳内で再生される。
 急に自分が恥ずかしくなり、頬が熱くなった。
 ああ、もう、この場から一目散に逃げ出してしまいたい。
 ちら、と視線を上げてティムを盗み見る。
 糊の利いたセンスの良いシャツ。嫌味のない短髪。お洒落な眼鏡。上品な顔立ち。全身からインテリジェンスが滲み出ている。
 心臓がまた一段と鼓動を加速させる。もう焼けつきを起こしてしまいそうだ。
 恥ずかしい。
 ティムに比べて、小汚い自分が更に惨めに思えた。
「……本当に本気なの? からかってるだけなら止めて欲しいんだけど」
 最後の力を振り絞って尋ねた。
 ティムは一瞬きょとんとしたが、すぐに肩を震わせて笑い出した。
「そんなに胡散臭いかな、俺」
「え? 違う、そういうわけじゃないの。あなたじゃなくて、ただ――私自身の問題よ」
「言っとくけど、世の男全員が全員、ナイスバディのブロンド美人が好きっていうわけじゃないだろ。ロリコンだってデブ専だってゲイだっている。でしょ?」
「……まあ」
「つまりさ、そういうことなんだよ。極端な話、人の好みなんて十人十色」
「……」
「俺は、君に興味があるんだ」
 そんなこと言われたって。
 私は再び視線を床に落とす。
 何なんだろう、この会話。
 気持ち悪い。
 何が気持ち悪いって、ティムのことではない。
 自分だ。
 どうすれば良いのか、相変わらず全然分からない。空回りしてばかりだ。
 だけど……。
「お待たせいたしました」
 ウェイトレスがティムの前にコーヒーを差し出す。ティムが礼を言っているのが、俯いた私の額に掛かる前髪の間から見えた。
 ウェイトレスの手元から私へと、ティムの視線が戻る。眼鏡のフレームが照明を反射して光っている。
 ティムと視線が合うたびに、自分の鼓動が加速してゆくのを感じた。
「……私はどうしたら良いの?」
 正直に口に出した。
 私の脳は処理能力の限界を超えていた。もう、これ以上考えても無駄だと思った。
 それならばいっそのこと、素直に分からないと伝えた方が良い。
 その方がマシだ。
 だってこれ以上、可愛くない女になりたくない。
 ティムは待ってましたと言わんばかりに、テーブルの上に身を乗り出した。
「ミランダに聞いたんだけど、ロンカさんは」
「ロンカで良いよ。さん、なんてつけないで」
 ティムはちょっと嬉しそうに頷いた。
「ロンカは今、フリーだよね?」
「……そうよ」
「今度、デートしよう。で、お互い気があったら付き合ってみない?」
「本気?」
「本気だよ。だって、エアロバイク乗りの彼女なんてカッコイイじゃんか。俺、ずっとエアロバイクに乗ってみたかったんだよね。そういう憧れを女の子に投影したら、何か変かな?」
 ティムは悪びれる風もなく言った。
 女の子が、高級エアロカーでクラブに乗り付けてくる男に憧れるのと同じ心境なのだろうか。それをあっけらかんと言い放つティムの素直さには、好感が持てた。
「別に悪かないけど……私、あなたのこと何も知らないもの。そんな状態で無理よ」
「お試しで良いじゃんか。ダメなら別れれば良い」
「そんな軽いノリで?」
「そうだよ。何だって、やってみなきゃ分かんないでしょ」
「……」
 私は少しの間考え込んだ。けれど、もう一度ティムの笑顔を目にして思った。
 私が可愛くないことを言っても、さらりとかわす大人な態度。
 ちょっと変わってるけど……こんな人、今逃したらきっともう二度と現れない。
「……良いよ」
 その三文字を喉の奥から搾り出すのが、どれほど息苦しかったことか。
 羞恥心と不安で、身体中の血が沸騰しそうだった。
 けれどもその直後、満足げな表情でコーヒーカップに落としたスプーンをかき回しているティムを見ていたら、それすらどうでも良くなった。
 やばい。
 なんだろう……このときめき。
 こんな簡単な展開で良いのだろうか。ティムにしてみれば私の顔は何度も見ているものなのだろうが、一方の私はと言えば、初対面から十分も経っていないのだから。
 いや、きっとそんなことはどうでも良いのだ。
 問題はこれからだ。
 それこそティムの言うように、デートでもして時間を掛けて見極めれば良いだけ。
 ああ、ミランダに報告しなきゃ……。

3.正反対、だから気になる(3)

「で? 何はともあれ、結果オーライってことよね?」
 ミランダが、私をからかうように人差し指を突き出した。ここは先日ティムと出会ったダイナーだが、しかし私の向かいに座っているのは、今度こそ正真正銘ミランダだ。
「止めてよぉ」
 私は緩んだ頬を両手で押さえ、身体をぐにゃぐにゃ動かした。
「でもさぁ、一瞬『あのくそったれミランダ!』って、めっちゃキレそうになった」
「今は?」
「心の底から感謝してる」
 ミランダはよしよし、と頷いた。
「ティム、どうよ。私が言ったとおり良い男じゃない? 男前だしお洒落だし金持ってるし……まぁ、ちょっとズレてるけど」
「うん……ズレてるよね。真面目な話、ズレてなきゃ出勤途中の私を見て紹介してくれなんてミランダに頼まないと思う」
「ぶっちゃけそうよね。あんたには悪いけど」
「もー、ミランダってば!」
 すまし顔で言うミランダに、私は殴るようなジェスチャーをする。
「ごめんごめん。でもさ、ほら、恋愛って自分に欠けてるところを、相手に求めたりするもんじゃんか。ティムはあんな感じで、何ていうのかな、物静かで知的っていうの? だから野蛮で活発なあんたに惹かれたんじゃないの」
「野蛮って」
「ぱっと見よ、ぱっと見」
「ふうん」
「だってエアロバイク乗りだよ。野蛮以外のどんな言葉が当てはまるっていうのよ」
「せめてスポーティとかアウトドア系とか、そういう感じで言って欲しいよ」
「はァ? 何言ってんのよ。――で、ティムとはその後、どうなってんのさ」
 私はにやーっと笑った。相当緩んだ表情になっているのだろうという自覚があった。
「3回、デートした」
「で?」
「まあ、初日でチューしてみたわけだけど」
「ふんふん」
「嫌じゃなかったから、いやむしろすっごい良かったから、昨日エッチした」
 ミランダが拍手をする。
「来たねー、春が来たね!」
「やっばいんだけど。私今、超幸せなんだけど」
「めでたいね」
「男がいる生活ってこんなに潤いのあるものだなんて、なんか久々に思い出した」
「相当枯れてたのね、あんた」
「……うん。学生の時以来、彼氏なんていなかったから……何かもう、どうやって付き合い始めたとか、そういうの全部忘れてたよ。いや、参った参った」
 ミランダは泣き真似をしつつ、私の肩を軽く叩く。
「でも、これからは幸せよ。あんな素敵な彼氏できてさ。いっぱい甘い蜜吸っとけ!」
「んだね。もーイチャイチャしまくってやるよ。ここぞとばかりに」
 ミランダは満足そうだった。それはそうだろう。自分がキューピットになり、一組のカップルを誕生させたのだ。良い意味でお節介焼きの彼女としては、感慨もひとしおなのだろう。
 それにしても。
 ああ、本当に嬉しい。
 つい浮かれてエアロバイクのスピードを出し過ぎてしまうくらい、毎日が嬉しい。
 一昨日は最高だった。誰かの体温をダイレクトに肌で感じるのも久しぶりだったし、それが私の息、心臓どころか時まで止まってしまいそうなほど、うっとりと心地良いものだということすら忘れていた。
 ティムはひたすらに優しかった。
 お坊ちゃん育ちなのだろう、若干ぼんやりしている部分はあるけれど、私が神経質なタイプなので、それこそミランダの言うように、自分にない部分を補い合って丁度良い感じだった。
 いつものように朝礼を終えると、すぐにホワイトとエツコがやって来て、私の顔を覗き込んで眉を潜めた。
「……あんたさぁ、最近大丈夫? いっつもぼんやりした顔してるけど、今日は特に酷いな。調子でも悪い?」
「疲れてんじゃないすか。最近電気ドロ多発で、報告書の山に押し潰されそうですもんね……」
 ホワイトまで珍しく心配げな声を出す。そう言えば、ホワイトは近頃ようやくオバケの話を口に出さなくなった。
「やァねぇ、ホワイト。そんなに気を使わなくていいのよ」
 私はホワイトの肩を叩いてにっこり笑った。心の底から沸き起こる笑みというのは、何て清々しく気持ちの良いものだろう、と思いつつ。
 だがホワイトは私の笑顔を見ると、尚更心配そうに首を傾げた。
「ホント、大丈夫っすか?」
「違うわよ。別に体調が悪いこともないし、疲れてもいないよ。――実はさ、すっごく良いことがあったの」
「宝くじでも当たった?」
 尋ねるエツコに擦り寄って、耳元で呟いた。
「彼氏、できた」
「え―――――――――ッ! ロンカに彼氏ィ?」
 エツコは、咥えかけていた煙草をポロリと口から落とした。
「マジか」
「マジよ」
「うっへェ」
 ホワイトは半目になって頬を引き攣らせた。
「こりゃ雨が降るな」
「何よぅ。私だって、できるときはできるんだもん!」
「で、で? どんな人? 何してる人? カッコいいの?」
 マシンガンのように質問を浴びせかけるエツコ。私はちょっと得意げに言った。
「エルド広告代理店勤務。お洒落さんで、素敵なのよね」
 背後で咽る音。振り向くと、マイトが紙パックの牛乳を片手にゲホゲホと咳き込んでいた。
「……相手は相当な変わり者だなぁ」
「マイトまで!」
 私は口を尖らせた。しかし、いつもならカッカするはずの場面でも、今日ばかりは腹が立たない。今なら何を言われても、脳内怒りメーターは通常の三分の一しか上昇しないだろうという自信がある。
 自分が幸せだと、他人に対しても寛容になれるものだ。
「ねぇ~、見たい見たい! 会わせてよぅ」
 興味津々で私に詰め寄るエツコ。
「今度ね」
「やった」
 エツコはガッツポーズ。マイトとホワイトは白けた表情を見合せて肩を竦めた。
「あーあ。これじゃ暫くの間は、ロンカさんにノロケ話を聞かされ続けそうっすね」
「俺は逃げるから」
 マイトは右手の人差し指を耳の穴に突っ込んで、くるりと私に背中を向けた。
「あーっ、待って下さいよう」
 ホワイトがマイトの後を追って走る。
「何よ、ほんと失礼な奴ら」
「じゃ、あたしも逃げようっと」
「エツコまで! 私だって一緒に行くわよ、待ってよ」
 私は足元に置いた整備道具箱を引っ掴んで、ピットに向かって走った。

4.地表(1)

 付き合い始めて一ヶ月も経った頃だろうか。時間は本当にあっという間で、毎日ティムに会うことばかり考えていたら、季節の移り変わりなんて目に入らないまま、いつの間にか時は過ぎ去っていた。
 私とホワイトは、珍しく低階層の点検に派遣されることになった。
 低階層の居住者は低所得者ばかり、税金の徴収もままならないのが現状なので、必然的に建物のメンテナンスは最後に回される。壁にヒビが入り通路の照明が壊れても、そのままだ。電力ケーブルが老朽化しても修理や交換がされることもなく、従って停電がよく起きる。
 それでも見て見ぬふりをされ続けるのが低階層以下の宿命であり、そのため私たちは朝礼で課長から今日の担当エリアを言い渡された時、思わず聞き返してしまったほどだ。おそらく、見て見ぬふりすら不可能になって、ようやくEE社の上層部が渋々ながら重い腰を上げたのだろう。
 ある程度の覚悟はしていたが、それでも私たちは指示された点検ポイントに入って絶句した。想像を上回る無残な状態だった。
「ここ、何年前の設備?」
「多分ビルが建設された当初のまま、放置されてたんじゃ……」
 旧式の配電盤には埃が山のように積もっており、配電盤が見えない程。明らかに危険である。
「時間掛かりそうね」
 なるべく残業はしたくない。ティムと付き合い出してからは、いかに残業をせずに帰るか、私はその方法ばかりを考えて、増え続ける仕事と必死に格闘していた。それはもちろんプライベートの時間を守るための努力だったが、結果的に仕事の効率も上がり、一石二鳥となっていた。マイペースで無駄な労働を嫌うホワイトは、そんな私の張り切り具合に嫌な顔をしたけれど、先輩の力で黙らせた。
「ここ、断線してますね。うわぁ、何だこりゃ。盗電の跡だらけだ」
 ホワイトが奥の暗闇で騒いでいる。私は携帯ライトでそちらを照らした。点検ポイント内の照明は、当然のように切れていた。携帯ライトがないと仕事にならない。
「ロンカさぁん、一人にしないで下さいよぅ! 早く、こっちに来てください」
 ホワイトが情けない声を張り上げるので、私は怒鳴り返した。
「うっさいなぁ、今行くから先に進めてなさいよ!」
「だって……気味が悪いんすよ! 照明つかないし、変にジメジメしてるし」
「照明つかなくたってジメジメしてたって、オバケは出ないから大丈夫だってば」
「オバケは出ないかもしれないっすけど、ネズミはいるかもっすよ」
 ホワイトが嫌なことを言うので、ぞっとした私は慌ててホワイトの元へと走り寄った。
「そういうこと言うの、止めてよ!」
「ロンカさんこそ止めてくださいよ!」
 工具を手に、ホワイトが私を本気で睨んだ。まあ、お互い様というやつだ。
 切れたケーブルを取り替える作業に入り、徐々に奥へ奥へと進んで行く。壁に触れていた手が、何かぬるっとするものに触れた。
「ひっ」
 見ると、大きなナメクジ。
「ギャ~~~~~~~~~~~~~~ッ!」
 私は飛び上がってホワイトにしがみ付いた。
「何よ、これェ」
 目を凝らすと、壁のシミだと思っていたものは、びっしりと張り付いたナメクジの群れだった。
「もうイヤぁ!」
「俺もイヤぁ!」
「これじゃあ整備以前に、害虫駆除業者入れないとダメじゃない!」
「こんなとこで作業するの、もう限界っすよぉ」
「私の方が勘弁よ! あんた男でしょ。先に行ってよ」
「えええ、何を今更。女尊男卑!」
「それっておかしくない?」
 喧々囂々やり合いながら、私たちはおっかなびっくり先へと進んだ。
 すると今度は、私のブーツが激しい水音を立てた。
「おわっ!」
「どうしました?」
 足元を照らすと、巨大な水溜りが奥の暗闇へと通路いっぱいに広がっていた。
「何でこんな所に、水溜りが……」
 ホワイトが私の肩越しに床を覗き込む。
「こんなもん、どっから……」
「やばいやばい、これはヤバいでしょ、どっから漏電してるか分かんないってのに。感電死なんて、ゴメンだわ」
「大袈裟だなぁ、安全靴履いてるんだから大丈夫っすよ」
 ホワイトは言うが、それにしたって危険だ。
「一度、作業打ち切りですねぇ」
「そうね。このままじゃ、補修は無理ね」
 携帯ライトで辺りを舐めるように丹念に照らし、私たちは水漏れの原因を探った。どうやら天井近くの壁にある縦長のヒビから漏れてきているようだった。壁の中に埋め込まれている水道管が破損して、水が漏れ出てきているのだろう。
「まあ良いわ。丁度、代えのケーブル使い切っちゃったとこだし。一端会社に戻らないといけないから、その間に業者に頼んで、害虫駆除と水漏れの修理してもらおう」
 私は内心少しだけほっとしていた。取り合えず、嫌な作業を先延ばしできる。
 端末を取り出し、シマダに連絡をとる。
「こちら№5。№1、応答願います」
『おう、ロンカ。どうしたぃ?』
「点検ポイント内部に、水漏れがあるんだけど」
『規模は?』
「う~ん、相当酷いよ。半端じゃないデカさの水溜り、できちゃってるわ。通路いっぱい水浸し」
『そりゃ、俺らの手におえるような代物じゃねえな。よし、上に言っとくよ』
「あとね、害虫駆除業者も呼んで欲しいの。壁にナメクジがビッシリだから」
『うっへぇ』
「もーヤバいんだけど、ここ。何から何まで問題だらけ」
『低階層の下部だからな。今まで放っておいたツケが、一気に回ってきたってとこだろ。まあ、予想の範囲内だろ』
 シマダが苦笑いする。面倒ごとを押し付けられた被害者である私は、さすがに笑えなかった。
「ケーブルなくなっちゃったから、一度取りに戻るわ。できればその間にも、業者に作業進めておいてもらいたいんだけど」
『分かった、聞いてみるよ』
「お願いします」
 私は通信を切った。そしてもう一度、今度は社の方へ連絡した。
『はい、こちらEE社電気系統整備課です』
 シンディの声。彼女は本日、事務所内勤務だ。
「こちら№5。シンディ、悪いんだけどケーブルを用意しておいてくれない? 使い切っちゃったの」
『こちらには、もう在庫がありません』
 シンディが即答する。私は「え?」と尋ね返した。
「何で?」
『何でって、今言った通りです。使い切ってしまったからです』
「そうじゃなくてさ、何で補充しておかないのよ。残り少なくなったら工場に発注掛けとくの、あんたの仕事でしょ?」
 数少ないシンディの仕事のうちだ。
 シンディの声が低くなった。彼女が不機嫌になった証拠だ。
『急に使用量が多くなったので』
「使用量が多くなったって、そんなの前日に残り数調べておけば、問題なく発注できるじゃない」
『とにかく、こちらにはもうないです。工場に取りに行ってください。用意しておいてもらうように連絡しておきますから』
 その口調に反省の色はない。腹が立ったが、私は自分を抑えた。こんなもの、いつものこと、いつものこと……一々腹を立てている方が損なのだ。
「分かったわ」
 私は頭を振りながら通信を切った。
「シンディさん、また何かやらかしたんすか」
「発注ミス。ケーブル、私たちで工場まで取りに行ってこいとさ」
「うっへえ、地表まで行けってことっすか」
 ホワイトはあからさまに気落ちした様子だった。

4.地表(2)

 電力ケーブルを製造している工場は地表にあった。一部の食品製造工場を除いた大概の工場は、土地代の安い地表にあるのだ。
 ホワイトが地表を嫌う理由は明白だ。ビルに住んでいる人間は地表を嫌うものなのだ。それは、文化的なビル内部の世界に対し、地表があまりにも後進的で、なおかつ貧困の匂いがプンプン漂っている、見たくない世界なのだ。
 地表の風景は、ビルの中とは別次元のもののようだった。建物は粗末で、高さもせいぜい三階建てが良いところ。廃墟なのか、それとも実際に住んでいるのか分からないような家が立ち並ぶ。街全体の色彩を一言で表すのならば、寒々とした灰色だ。建物も人の様子も、ビルの内部と外部とでは何十年もの時代の差があるようだ。
 地表への道は、ビルのすぐ外側にあるゲートで仕切られていて、地表の人間が簡単に上がってこれないようになっている。ビルの住民票、もしくはビル内部に関連のある企業のカードを所持していないと、ゲートを通してもらえない。犯罪を抑制するための処置だというのが政府やビル会社の言い分だが、私にはただの人種差別にしか思えない。
私たちはゲートで社員証を提示した。ゲートは難なく開いた。
 エアロバイクを運転しながら、私はゴーグルの下で目を細めた。
 ここに来るのは何年ぶりだろうか。
 久しく目にすることがなかった地表の街並み。
 忘れかけていた風景。いや、忘れることなんてできない、ただ思い出さないように努力していたからこそ、思い出さずにいられたのだ。
 私は遠い昔、この地表の街に住んでいた。
 貧しい暮らしをしていた。
 それでも幸せだった。父、母、祖父母、そして幼い弟がいて――あの頃は、温かい家庭があった。
 今はもうない。全て失った。
『ロンカさん、あそこですよね?』
 ホワイトが無線越しに尋ねてきたので、私は過去の記憶が脳裏をぐるぐる回るのをストップさせた。
 ああ、嫌だ。思い出さないよう、ずっと気をつけていたというのに。
 過去を回想するのは未だにとても辛い。やっとここ数年、夢に見ないで済むようになったのだ。
「そう、あそこよ。シンディから連絡が行ってるはずだから、多分すぐに出してもらえるわ」
 私たちは工場に隣接した駐車場にエアロバイクを駐車した。駐車場で作業していたトラックの作業員が、物珍しそうにこちらを眺めている。
「こんにちは」
 私が挨拶すると、作業員は帽子をちょっと持ち上げてそれに応えた。
「エアロバイク乗りが地表に来るなんて、珍しいね」
「ええ。ちょっと手違いがあって、電力ケーブルが足りなくなっちゃったのよ」
「そうかい、そりゃ大変だ」
 作業員はおどけた調子でそう言って、トラックに乗り込みエンジンを掛けた。懐かしい排気ガスのにおいが、トラックのマフラーから立ち上る。
「臭いなあ」
 嗅ぎ慣れていないのか、ホワイトは嫌な顔をした。しかし私に言わせれば、ホワイトがスパスパ消費している煙草の副流煙だってトラックの排気ガスと同じようなものだ。
 私たちは工場の事務所へ行き、ケーブルの件を告げた。
 しかし事務員は首を傾げた。
「ええと……そのような連絡は、まだ入っておりませんね」
「シンディ~~~~~~!!」
 私は小声で唸った。ホワイトは額に手を沿え失望したように下を向いた。
 仕方がないので、私は事務員に詳細を一から説明した。伝票は、明日以降の発注と合わせて後ほど課に届けてもらうことになった。
 事務員は同情の表情を浮かべつつ、手際良くケーブルを準備してくれたので、私たちはすぐに受け取ることができた。
「ああ、もう疲れたわ。どっかでちょっと休もうよ」
 ビルへの帰路、エアロバイクを走らせながら、私は無線越しにホワイトに提案した。
『別に構いませんけど。時間は大丈夫なんすか?』
「だって、今日はもう作業にならないじゃない。害虫駆除業者がナメクジを片っ端からこんがり焼き殺していくの、あそこに戻って見守りたいっての?」
『いやぁ、それは……勘弁ですね』
「課長には、業者と一緒に作業してるってことにしといてさ。今日はサボっちゃおうよ。もうやる気ねーわ、私」
 それを聞いたホワイトの声は、途端に明るくなった。
『ロンカさんにしては珍しく、ナイスアイディアっすね』
「でしょ?」
 私は現在地点から一番近い公園へと向かった。この辺りは昔住んでいた家から近いエリアなので、ナビで確認せずとも地理は頭に入っている。
 エアロバイクを停めて、自販機で買ってきた飲み物を手に公園のベンチに座る。
 ホワイトがベンチに深く腰掛けて、空を見ながら大欠伸した。
「ふあぁ。こんな長閑な午後も、たまには良いっすねぇ」
「今は良いけど後が怖いわよ」
 私は缶の縁を噛みつつ答えた。
 公園は商店街の通りに面した小さなもので、子供の遊具などは何一つ置いてなかった。ベンチが二つと灰皿が一つ、それからベンチの後ろに荒れ果てた花壇があるだけだった。
 公園の前には古ぼけた病院が建っていた。外壁には黒い汚れが目立つ。
 私はその原因を知っている。昔この辺りを襲った大火事の名残だ。
 思い出すと、頭が痛くなる……。
 その時、耳障りな救急車の音が近付いてくるのが聞こえた。救急車は私たちのすぐ目の前に停車して、二人の救急隊員が後部のドアを開いた。救急隊員たちが、担架に乗せられた十歳前後くらいの少年を運び出す。髪をボサボサに振り乱した若い母親が、錯乱した様子で担架にしがみ付き、しきりに少年の名を連呼していた。 
 担架はすぐに病院の奥へと消えた。その一連の様子を、ホワイトは言葉もなく凝視していた。
「今の子、血だらけだったわね。どうしたんだろう」
 私が呟くと、ホワイトは自分の顔を撫で回して言った。
「嫌なもの見ちゃいましたね。可哀想に。助かると良いけど」
 自分には幼い妹がいるのだとホワイトは以前語っていた。もしかしたら彼は、先ほどの少年に自分の妹をの姿を重ね合わせてしまったのかもしれない。
 私たちのエアロバイクは、救急車のすぐ横に停車してあった。邪魔になるかもしれないと危ぶんだ私は、ホワイトを促してエアロバイクを移動させるために立ち上がった。
 病院の表玄関が開き、中から先ほどの担架と母親、そして当惑した様子の救急隊員が戻ってきた。そこにはもう一人、先ほどはいなかった白衣の医師らしき人物の姿もあった。
「先生、お願いします、どうか見てやってください。このままでは、この子が……この子が死んでしまいます!」
 母親が悲痛な金切り声を上げている。
 しかし医師は、表情を強張らせて首を横に振った。
「お母さん、すみません。停電中なんです。手術室が使えないのですよ。それに、うちの病院には薬品が不足しておりまして……申し訳ございません、本当に」
「そんな……他の病院でも断られてしまって、ここが最後の頼みの綱なんです! 何とかして下さい、お願いですから」
 母親は医師に縋りついた。
 しかし医師はひたすらに謝罪するばかり、決して首を縦には振らなかった。医師は何かをぐっと堪えているような、見ているこっちが苦しくなるような表情をしていた。
「先生ェ……お願いです、どうか……」
 終いには、母親は泣き出して医師の足元に蹲ってしまった。私は見ていられなくなり、お節介焼きの心が鎌首をもたげた。
「あの、どうしたんですか」
 母親は錯乱のために半ば焦点が合っていない顔を私に向けた。
「うちの子が、車に轢かれて大怪我をしているんです!」
 私は医師に尋ねる。
「ビル内の病院なら、電力も通っているし薬だってあるでしょう? そちらに運べないんですか」
「いや、それが……地表の救急隊は、ビル内部に入れないんですよ」
 医師の声が小さくなった。私は眉を吊り上げた。
「どうして?」
「どうもこうも、そういう規則なんです」
「そんなのって……でも、緊急事態なんだから、さすがに入れてくれるでしょ?」
「いいえ。緊急事態だろうがなんだろうが無理ですよ。入れるものなら、とっくの昔に運び込んでます」
 私は少年を見た。真っ青な顔で、ぴくりとも動かない。ただ荒い呼吸を繰り返すだけ。真っ赤に染まった包帯の右腕は、異様に短かった。どうやら右腕の先は切断されているようだ。素人目に見ても、相当危険な状態のように思える。
 おそらくこのまま放置していたら、この少年は死んでしまうだろう。
 私は死の淵に立たされた人間を目前にして見て見ぬ振りをできるような、図太い神経は持ち合わせていない。
 意を決して私は言った。
「私が、エアロバイクでビルの中に運びます」
「え?」
 母親と、少し離れたところで成り行きを見守っていたホワイトが、同時に驚いた声を上げた。
「ロンカさん、それはまずいっすよ。だってこの子、居住証持ってないじゃないっすか」
「大丈夫よ。あんたがゲートで社員証出せば、開けてもらえるんだから。その間、私はこの子を後ろに乗せてあんたの後ろで待機してる。開いたところをさっと通り抜ければ問題ないわよ」
「んな、無茶な」
「だって、このまま放っておけないでしょ!」
「うぅぅ」
 ホワイトは血塗れの少年と私とを交互に見た。そして、ようやく折れて頷いた。
「これでまた、課長にどやされる……」
「ありがとうございます、ありがとうございます」
 母親が私にぺこぺこと何度も頭を下げた。しかし私はそれどころではなかった。救急隊員に手伝ってもらい、自分の体に少年をバンドで括りつけ、少年が落ちないように工夫するので手一杯だった。
 時間がない。一刻一秒を争う事態だ。
「ちょっとの辛抱だからね、我慢するのよ」
 私は少年を励ました。少年はうっすらと瞼を開けて小さく頷いた。
 エアロバイクを飛ばしてゲートへと向かう。ホワイトは緊張した面持ちで、ゲートに設置されたマシンに社員証を突っ込み操作した。
 ゲートが開いた。ホワイトがこちらを振り向いて頷く。
 私はエアロバイクのエンジンを掛けて、そそくさとゲートを通り抜けた。ゲートの監視カメラには少年の姿が捉えられているだろうから、問題が起きればすぐにバレる。しかし今、そんなことを気にかけている場合ではない。
 私たちはナビを使い、低階層で一番地表から近い外科病院を探した。緊急の患者にも対応してくれる、それなりの設備が整った病院を。低階層も施設の設備は充分とは言えないけれど、それにしたって地表よりはずっとマシだ。
 ナビが示す目的地は、二十階の外壁近くにあった。エアロバイクを浮上させて病院を目指す。途中、私の背後で少年が「浮いてる」と小さな声で呟いたのが聞こえた。


4.地表(3)

 病院に着くと、私たちは受付に走った。
 受付の看護婦が、少年の様子を見て目を丸めた。
「交通事故で、大怪我をしているんです」
「え、ええとですね……それでは、居住カードの提示をお願いします」
「居住カードですか?」
 私とホワイトは、どきりとして視線を合わせた。
 どうやってこの場を切り抜けようか。
「えっと、あの……忘れてしまって」
「居住カードの所持は、ビル居住者の義務です。それがないと、いくら緊急とはいえ診察できないのですよ」
 看護婦は困惑している。
 私は仕方なく真実を話し、懇願した。この少年は地表居住者である。でも地表の病院には電力も薬品も不足しており手術してもらうことができない。だからここで何とか手術をしてもらいたいのだ、と。
 しかし、看護婦はぴしゃりとそれを跳ね除けた。
「誠に申し訳ございません。診て差し上げたいのは山々ですが、それは規則で禁じられているのです」
「でも、緊急なのよ。どうにかしてよ! このままじゃこの子、死んでしまうわ」
「そうおっしゃられましても……」
 看護婦は当惑して、私たちを横目でちらちら見ながら電話でどこかに連絡を取った。するとすぐに、病院の奥からこの病院の医師がやって来た。
「お客様、何事ですか」
「この子を診てあげて欲しいんです。車に轢かれて大怪我してるのよ。何度も言わせないで!」
 私は怒鳴った。
「申し訳ございません、看護婦も申し上げたことでしょうが、うちの病院では外部のお客様を診ることができないのです」
「どうしてそんな意地悪が言えるのよ!?」
「意地悪ではありません。規則なんですよ。私どもには、どうすることもできません」
「――もう、良いわ。他の病院に行くわよ」
 しかし医師は首を横に振った。
「他を当たっても同じです。ビル内部の病院では、その子を助けることができません。規則で決められているのです、破れば営業していけなくなるでしょう」
「じゃあ、どうしたら良いのよ」
 私が医師に詰め寄ると、医師の声は言い難そうに萎んでいった。
「地表の病院で、何とかしてもらうしかないですね」
「そんな……地表で無理だから、ここまで来たって言うのに」
「申し訳ございません」
 医師は、それ以上会話を続けるのが嫌だったのだろう。踵を返し、そそくさと奥へと引っ込んでしまった。看護婦も、私たちと喋るどころか視線すら合わせようとしなかった。まるで、私たちとの間に目に見えない壁でも存在しているかのような態度だった。
 私たちはその病院を後にした。他にも近場の病院を何件も当たったけれど、どこへ行っても揃ったように対応は同じ。門前払いだった。
 少年は私の背中で、目に見えて衰弱していった。
 もうこのままでは、本当に……。
「――地表へ戻ろう」
「えっ」
「ホワイト、あんたは社に戻ってな。私一人で行くから」
「でも……ロンカさん」
「処分を受けるのは、私一人で充分よ。もともと私が言い出したことだしね。でも、ゲートだけ開けてよ。この子を後ろに乗せていたら、身動き取れないから」
 私はゲートでホワイトと別れた。サイドミラーに映ったホワイトは心残りな表情で、長いこと私を見送っていた。
 エアロバイクを飛ばして、母親の待つ病院へと戻った。病院の入り口にはまだ救急車が停まっていて、私が病院のロビーへ入ると、そこには母親と医師、そして救急隊員たちが無言で長椅子に座っていた。
 母親が気付いて顔を上げる。私の背中で少年がぐったりとしている様を見ると、母親の顔から血の気が引いていった。
 彼女の頬に幾筋もの涙が伝う。
「……ごめんなさい」
 私は視線を伏せた。母親の顔を直視できなかった。
 母親が近付いてきて、私の背から少年をそっと下ろした。そして少年を抱きかかえ、その場に座り込んだ。
「ユウ君、ママがついてるわよ……大丈夫よ、ここにいるからね。ずっと傍にいるからね……」
 少年の片方残された左手を握り、母親が囁いている。しかし母親に握られたその手からは既に生きるための力が抜けていて、まるで芯のないシリコン製の人形の手でも掴んでいるかのように見えた。
 母親が小さく子守唄を歌っている。私は立ち尽くしてその様子を見守っていた。やがて子守唄は啜り泣きに変わっていった。医師が母親に近寄り、母親から子供の左手を取り上げた。
 脈拍を測る。
 そして首を横に振った。
「お母さん、もう……」
 母親の肩にそっと手を置く。母親は啜り泣いたまま、少年の身体の上に自らの上半身を覆い被せるようにして縋りついた。
「ユウ君……」
 緊急隊員たちは、医師に一礼してロビーから出て行った。隊員の一人が私とすれ違い様に、お疲れ様という意味なのか、仕方がないよという意味なのか、肩を何度か無言で叩いていった。
 医師が受付の電話で何か喋ると、すぐに奥から数人の看護婦たちがやって来て、母親と少年の亡骸を病院の奥へと連れて行った。母親は立ち去り際に私の方へ振り向いて、無理に貼り付けたような笑顔を作り、涙ながらに「ありがとうございます」と呟いた。
 何も言葉を返せなかった。
 一人残った医師が私に言った。
「これが地表の現実ですよ」
 私は俯いた。
「知っています。……でも、それでも何とかしてあげたかったんです」
「大怪我の患者や重病人が運び込まれてきた時、私はいつも死を宣告する覚悟をします。地表の病院では、助けられる確立よりも、見殺しにしてしまう確立の方がずっと高いのです」
「ええ、それも知っています」
 私は頷いた。
「私も、元は地表の人間ですから」
「――そうですか」
 私は医師に一礼して病院を後にした。
 泣き出してしまいそうなのを必死で押し殺して、エアロバイクを走らせた。家に帰ってツナギを脱いだら、背中が血で茶色に変色していた。私はそれを洗濯機にぶち込み、大量の洗剤を投入しながら、堪えきれなくなって泣いた。
 その晩、ティムがやって来た。ベッドに潜り込んで泣きじゃくっていた私は、ティムを見るなり縋り付いてわんわん子供みたいに声を出して泣いた。当然、ティムは何があったのか尋ねてきたけれど、私はあまりにも辛過ぎて、喋ることすらできなかった。
 クビにこそならなかったものの、その月の私の給料は、大幅に減額されていた。

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