目次
1.エアロバイク乗りの日常
1.エアロバイク乗りの日常(1)
1.エアロバイク乗りの日常(2)
1.エアロバイク乗りの日常(3)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(1)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(2)
3.正反対、だから気になる
3.正反対、だから気になる(1)
3.正反対、だから気になる(2)
3.正反対、だから気になる(3)
4.地表
4.地表(1)
4.地表(2)
4.地表(3)
5.平穏な生活
5.平穏な生活(1)
5.平穏な生活(2)
5.平穏な生活(3)
5.平穏な生活(4)
6.ネズミ
6.ネズミ(1)
6.ネズミ(2)
6.ネズミ(3)
6.ネズミ(4)
7.テロリスト
7.テロリスト(1)
7.テロリスト(2)
7.テロリスト(3)
7.テロリスト(4)
7.テロリスト(5)
7.テロリスト(6)
7.テロリスト(7)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(1)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(2)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(3)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(4)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(5)
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2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(1)

 翌日の勤務は、前日に引き続きスラム点検だった。いつもならウンザリするような仕事も、今日ばかりは憂鬱にならない。更に幸運なことに、今日はシンディが事務業務に回って現場に出て来なかった。彼女にとっては物珍しいスラムも、昨日一日見て回って飽きたのだろう。シンディ分の負担が軽減されたことも、浮かれた気分に拍車を掛けた。
「あれ。今日はなんかゴキゲンっすね。男でもできた?」
 ホワイトに茶化されても腹が立たない。
 ロッカーの中に入っている、レインドロップのワンピースのせいだろうか。それとも、それを着て行く久しぶりの合コンのせいだろうか。これまでは嫌いだ嫌いだと言い張っていた合コンだけれど、真剣に彼氏を作りたいと考えている今は、良い男と出会うための恰好なチャンスの場だ。
「さ~てねェ……。ホワイト君、今日はちゃっちゃと仕事済ませて、ちゃっちゃと帰ろうね。残業なんて絶対無理だから」
「え、マジすか! もしかしてデート……とか?」
 ホワイトは驚いて私を見た。私は口を尖らせてブッブー、と言った。
「秘密ですー、秘密」
 ホワイトは引き攣った笑顔を浮かべる。
「何すか、気味悪いなぁ。どうせ、ろくな用事じゃないんでしょうけど。なんだぁ、てっきりこっちにロンカさんも来るんだとばかり思ってたけど」
「こっちって?」
「今夜、マイトさんとエツコさんと飲みに行くんすけどね。ロンカさん来ないんじゃ、俺が一人でパシリ役決定じゃないすか」
「ああ、それね。っていうか、私がいたって結局あんたがパシリになるわよ」
 私もエツコに誘われていたが、今日ばかりは断った。
 エツコは飲みに行くのが大好きで、頻繁に旦那と子供をほったらかしにしてはバーをハシゴしている。そしてパンパンに腫れた酷い顔で出勤してくる。アルコール分解薬を飲んだところで、顔の浮腫みまではカバーできない。身体だってダルいだろう。それでも毎朝子供の弁当を作ってから出勤してくるというのだから、アルコール癖は褒められたものではないものの、主婦としてはまずまずだと思う。
「私の分まで飲んできなよ」
「俺、酒弱いっすからぁ」
 言いながら、ホワイトは煙草に火を点けた。煙草の臭いを嗅ぐとすぐに顔を顰める私だが、今日はその反応すら出てこない。始終締まりなく微笑んでいた。そして早く終業時間にならないかなあ、と仕事の合間に時計ばかり見ていた。
 浮かれた気分を抑えつつ、のろまなホワイトの尻を蹴飛ばしてキリキリ働いたお陰で、ノルマは終業時間の一時間も前に果たすことができた。この珍しく上出来な自分たちの働きっぷりに、私もホワイトも大満足だった。安全バーに固定して空中停車したエアロバイクに腰掛けて、終業時間までの小一時間、缶コーヒーを飲みながら時間を潰した。
 こういう暇な時間に花が咲くお喋りの内容はといえば、大体決まっている。仕事の愚痴や職場の人間関係、そんなものがメインだ。
「シンディの野郎、もうほんっと最近我慢ならないんだけど」
 私が苦々しい表情で言うと、ホワイトが今にも噴き出しそうに頬を膨らました。
「昨日はやばかったっすね。ロンカさんブチ切れ」
「だって! いくら何もやらないにしても、片付けぐらい手伝っても良くない? アイツ、仕事を舐めてるよなー」
「今に始まったことじゃないでしょ」
「いやぁ、昨日はマジで無理だった」
「ロンカさんと俺、いっつもダイレクトに被害被ってますからね。何故かシンディさん、気紛れに外回りに出て来る時、俺らにばっか付いてくるし」
「お前、惚れられてんじゃないの」
「ま、まさかぁ。勘弁して下さいよぅ」
 ホワイトは笑顔を凍らせた。
「ロンカさんは、いっつも我慢してシンディさんに何も言わないから、ストレス溜まるんすよ。俺、嫌味言ったりして密かに反撃してますもん」
「あんた、そういうとこ陰湿よね」
「だって、そうでもしないとやってらんないっすよ」
「あんたの嫌味なんて、あの子には通じてないわよ。大体、何言ったって無駄じゃんか。注意したって言うこと聞かないし、わけ分かんない反論されて、益々ムカつくだけじゃんか」
「だからって溜め込んでると、現にああやって、ロンカさん時々大爆発するじゃないっすか」
「まあ、そうだけどさ……」
「堪えきれなくなったときの反動、デカ過ぎないっすか? いい加減、大人なんだからもうちょっとセーブしないとダメっすよ」
「うぅ……あんたに諭されて、なおかつそれが正論だったりすると、何だか妙にムカつくわぁ」
「えええ~、なんじゃそりゃ」
ホワイトが大袈裟に仰け反った。その拍子に、空中停車した彼のエアロバイクがぐらりと傾いた。ホワイトは慌ててハンドルを掴み、体勢を整えた。
「っぶね」
「気をつけてよ。落ちても助けられないからね。――お、もう時間じゃん」
「そろそろ帰りますか」
 腕時計のアラームが終業時間を告げた。私とホワイトはエアロバイクのテイルをわざと大きく振り、ふざけながら社のガレージへと戻った。
「お帰り」
 そこにはエツコとマイトが既に戻っていて、ピットに停めたエアロバイクの横に胡坐をかいて座り込んでいた。
「今日は残業なし? スラム点検であんたら二人にしちゃ、随分頑張ったじゃない」
 エツコが煙草の煙を吐き出しながら、感心したように眉毛を上げた。私は汚れたゴーグルを頭から外し、ツナギの中から引っ張り出したTシャツの裾でグラスを拭いながら「まあね」と呟いた。
「だって、今日ばかりは残業するわけにはいかないんだもの」
「あのですねぇ、今日はロンカさん、大事な用があるんすよ」
「え、何?」
 エツコが目を瞬かせる。餌の匂いを嗅ぎ付けた動物のように、彼女の瞳が鋭く光った。
「あ、こら!」
 私はホワイトに飛び掛り、手で彼の口を塞ごうとした。しかしホワイトは必死で身体を捻り、私の手を掻い潜って、ケラケラ笑ながら大声で叫んだ。
「ロンカさんは今日、合コン!」
「え~~~~~~~~ッ、マジか」
 案の定、エツコも腹を捩って笑い出した。
「アーッハハハハハハ、ロンカが合コンだってェ」
「エっ……エツコ、そんなに笑うことないでしょ!」
「だってさぁ、あんた。ガラじゃないでしょ。似合わねー」
 私は不貞腐れて口を尖らせ、弱気に反論する。
「だって……例えガラじゃなくったって、チャンスなら乗っとくわよ」
「チャンスって、何の?」
「だからっ……私だって、彼氏の一人や二人欲しいのよ」
 言葉の最後は、何だか自分でも気恥ずかしくて消え入りそうな声になっていた。
 それを聞いたエツコは、ガレージの床を拳でガンガン叩きながら、益々激しく笑い出した。
「ヒーッ、ヒーッ、あー可笑し過ぎる! もー止めて! ロンカ、今日の一等賞はあんたに決定だわ」
「エツコぉ――――――――――ッ!」
 私は大声で叫んだ。顔がカーッと熱くなる。
 エツコの横では、マイトが白けた表情で鼻を鳴らした。
「……何が合コンだよ、馬鹿臭ェ」
「何よ、マイトまで! そりゃエツコは旦那さんいるし、マイトは女に不自由していないだろうから良いかもしんないけどさ。私はそうじゃないのよ」
「ロンカさん、俺が抜けてるんすけど……」
 ホワイトが己を指差して言ったが、私はそちらを見もせずに、手を振って蝿を追い払うようなジェスチャーをした。
「あんたの話はどうでもいい。問題外」
「酷っ」
「だけど、お前、そういう飲み会嫌いなんじゃなかったっけ?」
 マイトに指摘され、私は言葉に詰まる。
「……そうだけどさ」
「だったら無理して行ったって、どうせ不愉快な気分になるだけさ。身の丈に合わないことすると、自分が辛いだけだぞ」
「ふんだ。マイトだって、いい歳して女ナンパして、よく飲みに行ったりしてるじゃんか」
「そりゃ、俺はそういうの嫌いじゃないもん。むしろ大好きだし」
「俺も好きっス!」
「だからお前とは違うんだよ」
 マイトとホワイトは、ティーンエイジャーの少女のようにカワイコぶって「ねーッ」と声を揃えた。気持ち悪い上に、非常にムカついた。
「だってェ、本気で彼氏欲しいんだもん。ちょっとぐらい苦手な場だって我慢するわよ。マイトさ、そんなに私を馬鹿にするんだったら、良い男でも紹介してくれんの? ねえ、責任とってくれんの?」
 マイトはますます私を小馬鹿にしたように目を半開きにして、鼻先で笑った。
「だったら責任とって、俺がお前の相手してやるよ」
「マ、マイトさん、恐ろしいこと言いますね! ロンカさんを相手にするのは、良く噛むブルドック……いやいや暴れ闘牛を相手にするようなモンですよ」
 ホワイトが身を引いて両手で自分の肩を抱き、身体をぶるりと震わせた。
「俺、命知らずの冒険野郎だから、猛獣だろうが怯まないわけよ」
「キャー、マイトさんカッコイイ」
「だろ?」
「惚れるゥ、惚れちゃうゥ」
 ホワイトにヨイショされたマイトは、自分のジョークに得意げだ。
「ギーッ!」
 皆におちょくられまくりの私は、とうとう癇癪を起こして地団太を踏んだ。鉄板の床がゴワンゴワン響く。
「ロンカ、床を壊さないでね」
 書類の束を手に通り掛かった№2のチェが、苦笑いで私に釘を刺した。エツコは相変わらず笑い転げている。
「何なのよ、うちの課の連中は」
 私は失礼極まりない同僚たちにプリプリ怒りながら、乱暴にタイムカードを押して、ロッカールームへと逃げ込んだ。これ以上からかわれ続けるのはごめんだ。
 ロッカールームは、エレベーター通勤の社員のためにある。
 うちの課の人間は、課長とシンディを抜かした全員が、職務特権を乱用してエアロバイク通勤をしているので、帰宅時に着替えることもなく、ロッカールームも必要ない。 しかし、そこは一応「できる限り、社への通勤はエレベーターを使用する」という社内規定に配慮して、全員分設置してある。もちろん、誰も使用していないけれど。大体、私物ならば自分のエアロバイクのトランクにしまっておいた方がずっと便利だ。
 洗面所で、冷たい水で顔を洗う。ヒートアップしていた心が一気にクールダウンした。
 ツナギを脱いで汗ばんだ身体をタオルで拭き、用意してきたレインドロップのワンピースに袖を通した。布地が頼りなくヒラヒラしていて、露出した肌が少し寒い。
 化粧水、乳液、下地、リキッドファンデーション、パウダー。順を追って顔に塗りたくっていると、心の中にはいつの間にか、浮き足立った気分が復活してきた。やはり女は着飾ってこそだ。お洒落をすると、どうしてこんなにも心が弾むのだろうか。ツナギを着ている時とは別人の気分だ。
 調子に乗った私は、マスカラなんて、ここが気合の見せ所とばかりに四度も重ね塗りした。鏡を覗き込むと、駱駝の目のような自分に見つめ返された。
 化粧をしていると、ガレージのほうから何重奏にもなったエアロバイクのエンジン音が轟々と聞こえ、すぐに遠退いていった。仕事を終えた仲間たちが一斉に帰宅していったのだ。
「ふん、帰れ帰れ、さっさと帰れ。馬鹿どもめ」
 私は鼻を鳴らし、壁の向こう側の見えない同僚たちに向かって悪態をついたが、それは鏡に反射して、結果的に自分と睨めっこしながら罵り合っているような状態になってしまった。
 化粧の最後、頬にふんわりとチークカラーを乗せる。チークのお陰で二、三歳は若く見えるのではないか、と勝手に思い込んで満足する。
 よし、これでオフタイムへのファッションチェンジ完了。
 こんな格好でエアロバイクに乗るのは変だが、私服で乗ってはいけないという規則は特にない。おそらく、ひらひらのワンピースで乗る人間のことなど、想定していないだけだろうが。
 ツナギと飛行帽はバイクのトランクに突っ込んで、ゴーグルだけ装着した。お気に入りのジャケットをワンピースの上に羽織って、エンジンを掛ける。フォン、とエンジン音が鳴るのと同時に、風に煽られてワンピースの裾がバタバタと捲くれ上がった。
 これはまずい、と一度エンジンを切り、バックパックを太腿の間に挟み込んで、シートに座り直す。これで、スカートが捲れてパンツが丸見えになり、うちの課の人間ばかりか他社のエアロバイク乗りたちからまで「よう、丸見え」だの「今日のパンツは何色?」だのと、セクハラ紛いのからかいを受けずに済む。

2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(2)

 「ケゴン」は、第三雑居ビルから二つのビルを挟んだ第五雑居ビル内、上階層下部の繁華街にあった。レンガ造りの街並みの、若いプチブルが集うお洒落な街だ。螺旋状にビル側面を上昇し、指示灯に従ってビル間を移動する。
 化粧と着替えにだいぶ時間を取られたが、それでもまだ集合時間より二十分も早い。私はケゴンの一階下のピットにバイクを停めて、非常口からビル内へ入った。バイクで乗りつけたところを合コン相手に見られたくなかったのだ。
 非常口近くのカフェに入り、コーヒーを注文し、ウェイトレスが去って行ったのを確認してから、鞄からコンパクトミラーを取り出した。化粧と髪型をチェックする。いつもの如く、飛行時の風圧のせいで髪が乱れていたものの、手櫛で軽く撫で付けるとすぐに綺麗になった。今日は会社のロッカールームで、ドライヤーとヘアムースをたっぷり使用して丹念にセットしてきたので、自分の髪とは思えないほど柔らかく指通りも滑らか、乱れを直すのも簡単だった。
 コーヒーを一口啜り、今度は化粧室へ。大きな全身鏡で、ワンピースをチェック。大丈夫、まさかこの格好でエアロバイクに乗っていたなんて、誰も思わないだろう。美人と言い切るには難しいけれど、それなりに可愛いのではないかと自己評価。
 っしゃ!
 これならいける、と口角に力を入れて軽く微笑み、鏡の中の自分と頷きあった。
 ピリリリリリリ。
 鞄の中で端末が鳴った。慌てて乱雑に散らかった鞄の中へ手を突っ込み、微振動を続けている端末を探った。
「はい、もしもし」
『もう着いた?』
 通信の相手はミランダだ。
「今ね、キャラメルカフェにいるよ。ケゴンの一階下」
『え、じゃあそっち行くわ』
「うん。でも、もう時間だね……じゃあ、カフェの前に出てるよ」
『了解~』
 暢気に語尾を伸ばして、ミランダが通信を切る。私はもう一度だけ鏡と向き合ってからカフェを出た。
「ハイ、ロンカ」
 ミランダは五分も経たないうちにやって来た。アフロヘアが揺れて、遠目でもすぐに分かる。彼女の頭は非常に目立つ目印になるが、こんな奇抜なヘアスタイルなのに、それでも彼女は色気に満ちているし、男にモテる。
「わあ、カワイイんじゃないの」
 ミランダは微笑を浮かべ、私の頭の上から爪先までをじっくりと眺め回した。ミランダに褒められると、素直に嬉しい。私は綻ぶ口元を両手で押さえた。
「昨日、レインドロップで買ったんだ」
「私が行ったときには、その服セールに出てなかった。ラッキーじゃん、良い買い物したね」
「そう?」
「超似合ってる。男ウケ良さそう」
「っしゃァ、気合入れるぞっと」
 ミランダのお墨付きを貰い、私は得意になってスカートの裾をひらりと振ってみせた。
「……ねえ、ミランダ。頼みがあるんだけどさ」
「何?」
 突然シリアスな調子で話を切り出した私に、ミランダは目を丸くした。私は気恥ずかしくて、無駄に両手の指先を弄り回しながら、ボソボソと言った。
「あのさぁ……その……」
「モジモジしちゃって、どうしたの?」
「……私がEEの整備工だって、伏せといてくんない?」
「何で?」
「だってそれこそ、男ウケ悪そうだし」
 ミランダは吹き出した。
「アッハハハ。何だァ、そんなこと」
「ちょっと! 私にしたら大問題なんだから、真剣に聞いてよ」
「分かった分かった、伏せるよ。じゃあ、あんたはEE社の秘書課で働いてるってことにしよう」
「秘書課ぁ?」
「だってホラ、秘書課って言えばさ、どこの会社だって良い女の巣窟じゃんか。間違いなくモテ職だよ」
「なるほどなるほど」
「よっし、決まりね」
 拳を軽くぶつけ合い、お互いのやる気を確かめ合った後、ミランダと連れ立ってケゴンへ向かった。私は彼女と並んで歩いているときの、自分の足取りが好きだ。蟹股気味で品のない私の足取りまで、ミランダの妖艶な歩調にリードされ、女性らしく美しいテンポを刻むことができるからだ。
 ケゴンは、アジアンテイストのお洒落なレストランバーだった。店内へ入るとすぐ目の前に、滝を模した水のカーテンのようなオブジェがあった。そこから流れてくる空気は水に冷やされており、やや興奮気味の私の肌に心地良かった。
 滝のオブジェの前でしばしの間待っていると、やがてウェイトレスがやって来た。ミランダが予約の確認をすると、店の奥、薄いピンク色のシフォンのカーテンで仕切られた個室タイプのテーブルへと通された。部屋の中央に据えられた朱塗りの大きな丸テーブルには、既に男が4人、女が2人、席について談笑していた。
「あーら、もう私たち以外全員揃ってたのね。早いんだぁ」
 ミランダは全員の顔を見回して言った。ミランダから一番近い席にいた男が、俺らは自己紹介済んでるよ、と答えた。
「ロンカ、このコたちは、エレナとミレイ。アカデミーのときの友達なの」
「よろしく」
 テーブルの向こうから、女の子たちが手をヒラヒラ振って、首を傾げてお辞儀する。このコたちが今日のライバルか。油断していると先を越されそうだ、と心の中で腹黒い計算をする私。
「で、こっちは、うちの店のお得意さんのリチャード」
「あ、どうも」
 ミランダの隣の男が、笑顔でこちらを向いた。笑顔が眩しい、良い男だ。しかし「こいつは彼女持ちだったよな」と、また私の中の腹黒い部分が囁き、良心的な部分はそんな自分に呆れてやれやれ、と首を横に振った。
 リチャードが立ち上がり、他の男の子たちを一人ずつ示してゆく。
「えっと、こいつらは、サダオとトビー、クリス」
「こんにちは」
 紹介された男の子たちを、ざっと見回す。見た目だけで言えば、それなりにレベルが高いと言えるだろう。こりゃあ今回は当たりだな、とミランダに目配せした。ミランダも目元で笑って、右の口角をちょっと持ち上げた。
 アルコールを注文してそれを待つ間、いかにも初対面といったぎこちのないテンポで、当たり障りのない会話が続いた。天気の話に始まり趣味やテレビ番組の話、それから相手がどんな人間なのか遠まわしに探りを入れてみたり。
 心なしか皆の笑顔がわざとらしく感じられる。きっと、私の笑顔も同じなのだろう。笑顔すら、他人から見て少しでも好印象に見えるよう計算している。下らない努力だとは思うけれど、こんな時、実は一番重要なのかもしれない。
 苦手なんだよなぁ、こういうの。
 私は懸命になって、慣れない柔らかな笑みを心掛けつつ、マイトたちの小馬鹿にしたにやけ面を思い出していた。
 ちくしょう。絶対に楽しんでやる。
 私は脳裏に浮かんだ同僚たちの姿を、無理やり掻き消した。
 全員分のアルコールが来て、リチャードが音頭を取って乾杯した。私のグラスの中身はビールだ。仕事上がりで喉が渇いていたし、本当は一気に空けてしまいたいのを堪え、数口飲んだところで一時停止。一気飲みは可愛くない。
 グラスに付着したグロスを気にしながら、こっそりと男の子たちを品定めする。トビーが一番キュートだ。ブロンドの短い髪も、男ながらに整った指先も、ちょっと大袈裟なリアクションも私の好み。
「ロンカちゃんは何やってる人?」
 クリスに名を呼ばれ、私ははっと我に返る。
「え、ごめん。何?」
「仕事、何やってるのって、聞いたんだけど」
「あ、ああ、仕事? 私、私はね……」
 慌てて言葉を探す。
 えっと、何だっけ……ダメだ。頭が働かない。
「ロンカはEE社の秘書課に勤めてんのよ」
 横からミランダが助け舟を出してくれた。私はほっとして、コクコクと何度も頷いた。
「そうそう、秘書課秘書課」
「マジ? 秘書課?」
「すっげーじゃん」
「良い女ばっかなんだろうなぁ」
 男の子たちの食いつきが予想を遥かに上回っていたので、驚いた私は気持ちが引いてしまった。ちょっと自分を隠したかっただけなのに、やり過ぎだったろうかと後悔した。
「……そう? ハハハ」
「どうりでカワイイと思ったよ」
「そんなぁ」
「EEっつったら、大手だもんなぁ。良い会社、勤めてんね」
「でもさ、同じ大手のEEっつっても、整備課とかんなるとマジ最悪だよな」
「え?」
 思わぬところから自分の所属する課の話題が出たので、私はぎくっとして心臓が止まりそうになった。
「整備課の女なんて、大手だろうが弱小だろうが、皆酷いもんだよ」
「何で同じ女なのに、ああも違うんかね」
 サダオとクリスがケラケラと笑う。
「こないださぁ、俺んちの近く散歩してたら、茂みの向こうの業務口から、すっぴんに顔中機会油だらけの女がぬっと顔出してさあ」
「うわぁ。マジでドン引く」
「整備課って、エアロバイク乗ってるアレだよな。ていうか女なんていんの?」
 リチャードが驚いて尋ねた。
「いるいる、たま~にいるんだよ。つっても、男だか女だか分かんないようなのばっかだけど」
「整備課の連中って、どこの会社もガラ悪くね?」
「まあ、本来なら低階層以下の人間だからさ、しょうがないんじゃないの。汚れ仕事じゃん」
 私とミランダ以外の全員が爆笑した。
 顔から血の気が引いてゆく。
 喉がカラカラだ。
 グラスに残ったビールを一気に煽った。飲んで数秒後には、冷たく強張った顔が逆にカーッと高揚した。
「あ、ロンカ、グラス空いたね。もっと飲むでしょ? すみませーん」
 ミランダが大きく手を挙げウェイトレスを呼んだが、彼女もまた、酷く動揺しているようだった。
 ウェイトレスはすぐにやってきて、私の空のグラスと、ビールで満たされた新しいグラスとを交換していった。私は無言でグラスを手に取った。掌も熱を帯びていて、グラスの温度が冷たく肌を刺すように感じられた。
 私の肩にサダオが手を置いた。
「あ、ロンカちゃん、もしかして気に触ったの? 何でそんなに膨れてるの?」
「え」
「同僚思いなんだねえ、やっさしいなぁ」
「でもさあ、秘書課と整備課なんて、同じ会社っつっても、はっきり言って別世界なんだから関係ないじゃん。接点ないでしょ? 気にすることないよ」
 サダオの向こうからクリスも言う。
「花の秘書課と違ってさ、整備課なんてクソ溜めだぜ?」
 クソ溜め……。
 クソ溜めですか。
 はあ、そうですか。
 とうとう堪えきれなくなった。
 私の右手は反射的にグラスを大きく振っていた。中の液体が飛び出して、サダオたちに降り注ぐ。
 狭い個室内に悲鳴のオーケストラが反響する。
 私は立ち上がった。
「何すんだよ!」
 トビーが怒鳴る。既に彼に対する興味は一ミリたりとも残っていなかった。むしろ一瞬でも彼をキュートだなんて評価した自分が憎かった。
「ロンカ」
 ミランダが私を呼んだけれど、返事をする元気もなかった。
 誰の顔も見たくない。
 私は財布から適当にお札を取り出してテーブルの上に激しく叩き付けると、ヒールを鳴らして店を飛び出した。走りながら、いつの間にか涙が頬を伝っていた。
 エレベーターも使わずに走って、走って、エアロバイクのピットへ。ロックを外してバイクに飛び乗り乱暴にエンジンをふかす。
 悪かったわね。
 どうせガラが悪いわよ。
 どうせ低階層以下の人間よ。
 どうせクソ溜めの職場よ。
 どうせ、どうせ、どうせ……。
「うわあああああああああん!」
 人目を気にする余裕もなく、大声で泣き叫びながらバイクを急発進させた。規則違反のスピードでぶっ飛ばす。帰宅途中の同業者とすれ違ったら、相手は驚いた様子で、ビルの側面にぶつかりそうになりながら大きく進路を開けてくれた。
 いつの間にか会社の近くまで来ていた。ガレージを覗くと事務所は真っ暗で、常夜灯の薄らぼんやりとした橙色の照明と、誘導灯の青く小さな光だけが灯っていた。
 誰もいないピット。私は駐車ラインを無視して、ど真ん中にバイクを停めた。だがブレーキを掛ける際、あまりにも乱暴にバイクを振り回し過ぎた。バランスが崩れる。いつもなら絶対にやらないような初歩的なミスだった。
 気付いたときには、横倒しになったバイクから放り出されていた。シートから転げ落ちた私は、腹から無様に鉄板のピットへ叩き付けられた。スカートが捲れてパンツが丸見えになったが、顔面から落ちて鼻の骨を折らなかっただけマシだ。
 無様に転がるバイクと私。起き上がってはみたもののバイクを立て直す気力もなく、倒れたままのバイクに背中を預けてグスグスと泣き続けた。ワンピースがバイクの機械油と煤で汚れるのも、どうでも良かった。見せる相手なんてどこにもいない。
 がらんどうのピットの向こうは薄墨に染まった空。あちこちのビルに、小さな赤い誘導灯が点滅している。時折、黒いビルの影の上をエアロマシンの黄色いヘッドライトが通過して行く。
 両足を抱えて蹲る。零れ落ちる涙を膝で拭った。マスカラが溶けて真っ黒に染まった涙がべっとりと付着した。この分だと、目の周りはオバケみたいに黒くなっていることだろう。
 ウィィィィィン……。
 エアロバイクのエンジン音が聞こえた。顔を上げると、闇の中に年季の入ったエアロバイクが近づいてくるのが見えた。灰色の機体の横っ腹には黄色のペイントで1の数字。シマダの機体だ。
「こんな時間におめェ、何してんだ」
 轟々とガレージ内に反響するエンジン音に負けじと、シマダが大声を張り上げた。私は泣いているのを見られるのが嫌で顔を背けた。
 ビュウィィィィィィィィィィン……。
 エンジン音が萎んでゆく。エアロバイクの着地で、床の鉄板が鈍い音を立てて軋んだ。
「何だい、その格好は。珍しいじゃねェか」
 シマダがこちらに歩いてくる。私は慌てて涙を拭った。
「……どうした?」
 私の様子を察知したシマダが、怪訝な顔で足を止めた。私はどんな顔をして良いのか分からず、困惑してシマダを見つめた。シマダの方もわけが分からないといった顔をして、倒れたままの私のバイクを立て直してくれた。
「化粧が落ちてっぞ」
「――知ってる」
「そんな格好してたら、風邪ェひくぜ」
「うん……」
 シマダは唸って頬を掻いた。
「――別に、おめェが話したくねぇなら、話さなくても良いけどよ。何かあったんかい」
「……下らないことよ」
「物事に、下るも下らないもあるかい。そんなこと言ったら俺の人生なんて全部クソったれだぜ。もちろん女房は抜かすけどよ」
 シマダがおどけて言うので、私は思わずにこりと笑った。私が笑ったので、シマダもようやく安心したように表情を和らげた。
 シマダはポケットから煙草を取り出し火を点けた。美味そうに煙を吸い込むシマダの顔が、ライターの火が灯る間だけ闇に浮かんだ。
「今日ね、合コンだったの」
「合コンってェのはアレかい、お見合いパーテーみたいなもんだろう?」
 パーティーという発音ができないシマダに、私は軽く吹き出した。
「極端に言えばそんな感じだけど、もっと軽いヤツ」
「飲み会か」
「うん」
「いい男はいたか?」
 私は首を振った。
「整備課なんてクソ溜めだって言われて、ビールぶちまけて帰ってきた……」
 シマダは口から煙草の煙をぼふっと漏らして盛大に笑った。
「ロンカよぅ。おめェ、面白いなあ」
「笑い事じゃないわよ。私、私……バカみたい。もう全部イヤ。仕事も私生活も、自分自身も、ほんとイヤ」
「そんなに嫌がるこたァないだろ。かっこいいじゃねぇか。自分の仕事に対して、誇りを持ってる証拠さ」
 私は食って掛かる。
「誇りなんてないわよ! ただ、カッとなって……だって、本当なら低階層以下の人間だとか、ガラが悪いとか言われたから……馬鹿みたい」
「そんなこと口にしてる奴の方が、よっぽど馬鹿野郎だよ。他人を蔑むことでしか自分の価値を推し量れない、能無し野郎さ」
 スパーッと煙草の煙を吐き出しながら、吐き捨てるようにシマダが言う。
「おめェは何も恥じることなんてねえだろ。しっかりしろよ」
「でも、それじゃあモテないのよ」
「モテ?」
 シマダはちょっと目を丸めて、眉根を寄せた。
「……そりゃあ、ちょっくら難儀な問題だな」
「でしょ?」
「うむ……まあ、モテるモテないはともかくとしてよ、もうちょっと自分に自信を持つこったな。おめェに必要なのは、飾り立てることや男連中に媚を売るよりもむしろそっちなんじゃねえかと、俺は思うわけさ」
「自信、ね。難しいけど覚えておく」
シマダは立ち上がる。
「さぁて、俺もこんなところで油売ってるわけにゃいかねぇんだった。忘れた書類を取りにちょっくら行ってくる、と言って出て来たのに、あんまりボヤボヤ時間潰してると、あんたの言う『ちょっくら』っていうのは何時間のことなの!? なんて、女房が角を生やすからな。愛想尽かされちまう前に帰らねぇと」
「そうよ、早く帰ってあげなよ」
 照れ臭そうに笑うシマダは、職場内でも評判のおしどり夫婦だ。何かにつけて、すぐに奥方の話を持ち出す。整備課の人間は、課長とシンディ以外、全員シマダのホームパーティーに一度や二度は呼ばれて行ったことがある。ちなみに課長とシンディは誘われても行かなかった。
「シマダさんは偉いね。仕事も一生懸命だし、家族にもちゃんとサービスしてる」
「そりゃ趣味の問題さ。俺は家族でワイワイやってるのが好きだから、こういう生き方をしているが、もしもアレだ、一人でいるのが好きな趣味人だったとしたら、また違った生き方をしていただろうな」
「趣味?」
「ロンカだってよ、もしも整備課なんかでなく、もっと普通のOLっちゅうのか? ああいった職種についていたら、今とは大分違っていたろうが。それをおめェは、エアロバイクを乗り回したり、給料に見合わねえ中階層暮らしを選んだから、この職場にいるんだろう。馬鹿とケムリはなんとやら、っちゅうからなあ」
「まあ、そうね……そうかも。シマダさんの言うとおり、私がここにいる理由は主にその二つかも」
「ああ、夕暮れ時の中高階層から見える景色は、現実離れしてて本当に美しいもんだからなあ。シティの向こう側、荒地の果てまで延々と伸びる地平線が、浮き上がるようにオレンジ色に染まってなぁ。こんな俺ですら、ガラにもなく感傷的になっちまうくらいさ。低階層以下にいたら到底見れない景色だ」
「だよね」
「どこにいたって、メリットとデメリットは半々で存在するさ。何に重きを置いて何を諦めるのか、それもその人間次第。おめェはモテることよりも別の部分を重要視して選んだ結果、ここにいるんだ。もちろん、今からそれを変更することだって可能さな。もし、ロンカがそう望むなら」
 私は首を横に振った。
「――そうね。それでも私はやっぱり、今の仕事を選ぶんだわ」
 シマダは私の肩を叩いた。
「ま、お前さんがそう言うなら、そうするが良いさ。誰にも文句を言う権利なんぞないんだ。言う奴がいたら、今度はビールぶっ掛けるどころかブッ飛ばしてやれ」
「ハハハ」
「じゃあ、俺は帰るぞ。おめェもさっさと帰って、飯食って寝ろ。明日も仕事だぞ」
 シマダは一端事務所へ入り、書類を手に戻ってきた。そしてゴーグルを装着し、私に片手を上げて合図すると、エアロバイクを宙に浮かせた。バイクの尻を振って小さくカットを決め、流れるようなフロントライトのラインを描き家路へと去っていった。
 私は立ち上がり、シマダの機体が雲間を切って斜めに下降し徐々に小さくなってゆくのを、ガレージの端の安全柵に身体を預け、首を出して眺めていた。シマダの操縦は、年季が入っているだけあって安定していて美しい。
 私はそのまま安全柵に両肘をついて、真っ暗になった空を見ていた。

 企業の看板はビル内の市街地にしか出せないので、外壁を飾るのは誘導灯とエアロマシン用ピットの照明だけ。超高層ビルの窓という窓は、内側からは透明なガラスにしか見えないが、エアロマシンへの安全対策として外側から見ると遮光になっているので、所々に点る照明以外、ビルの影は真っ黒だ。

 こうやって眺めていると、闇にニョキニョキと連立する細長い箱の中にたくさんの人々が生活している巨大な都市があるなんて、信じられないような気持ちになる。
「あれ~、ロンカ何してんの? 合コンは?」
 静寂が支配するガレージ内に、遠慮のない大声が響いた。驚いて振り向くと、そこには私以上に驚いた表情のエツコがいた。エツコの隣にはホワイトとマイトも並んでいる。
「うっわ。さすがに合コンともなると、オサレっこいの着てんねェ」
 エツコが寄ってきて、私のワンピースを抓んで布地を見た。マイトは私をじろじろ眺めながら甲高い口笛を吹いた。
「馬子にも衣装……と思ったら、お前、何だよ。そのパンダ面」
「……色々あんのよ。乙女だから」
 私は肩を竦めた。ホワイトが笑いを噛み殺して言った。
「その分だと、本日のビッグイベントは大失敗の巻だったようですね」
「マジ最低よ」
 私は両手を軽く広げ、肩を竦めた。
「やっぱ慣れないことはしないほうがいいわね。っていうか、あんたらこそ、ここで何してんのよ」
「いやあ、近場で飲んでたんすけどね。二軒目行く話になって、でも俺、常に金欠じゃないっすかァ。だったらこの際EEのガレージで良いんじゃないかってことになって、そこのスーパーで酒とツマミを買ってきたんすよ」
「うわあ。課長に見つかったら、超怒られるよ」
「いいじゃん。どうせハゲオヤジは鈍いから、見つかりゃしないわよ。それよりさ、ロンカも飲もうよぅ」
 エツコは既に相当酒臭い。
「――じゃあ一杯だけ」
「ええ、一杯だけ? つれないわねぇ」
「エツコ、飲みすぎたらエアロバイク運転できなくなるよ」
「クスリ飲むから」
「アルコール分解薬だって、そんだけ飲んでたら効かないわよ」
「クスリも多めに飲んじゃえば大丈夫よ」
「胃やられるよ……」
「そしたらダイエットになるじゃん」
 ヘラヘラと笑うエツコに、マイトが「お前はホント、いくつになっても馬鹿だなあ」と小声で呟いた。
 エツコは眼光を光らせて睨んだが、マイトは知らん顔で視線を逸らした。
「まあまあ、喧嘩しないで。ロンカさんも途中参加したことですし、仕切り直しましょうよ」
 ホワイトがいそいそとビニル袋からビールの缶を取り出し、皆に配った。私たちはガレージの端で、缶ビールを高く掲げて乾杯した。
 一歩踏み出せば、そこは高度1000メートルの空中。
 ああ、何て気持ち良いのだろう。
 夜気に冷やされた春先の風を火照った頬に受けて、私は深呼吸する。
 私はビールの苦味を舌の上に感じながら、何だかんだ言っても、私たちの職場はやっぱり素適な場所だと思った。


3.正反対、だから気になる(1)

 ホワイトが会社に来なくなった。三日間の無断欠勤だ。
 同僚からの電話はもちろん会社からの電話にも出ないようで、課長はカンカンにご立腹だった。朝礼時にホワイトの姿がないのを確認する度、課長はクビだクビだと額に青筋を立てて喚いている。
 ホワイトが欠勤続きなので、私はシンディと二人で点検作業をしていた。二人でとはいえ、当然のことながらシンディは何もしないので、実質私一人で全てをこなしているようなものだった。
 こんなことなら、むしろシンディも休んでくれれば良いのに。
 しかしシンディは、仕事はろくすっぽしないくせに就業時間だけはやたらとキッチリ守る。遅刻も欠勤もほとんどない。逆にそれが私にとっては更に煩わしく、そして負担となる。
 電気系統整備業務は、単独行動は危険回避のため原則として禁止となっている。だからもしシンディがいなければ、私はマイトとエツコにくっついて仕事をすることになる。一日中シンディと二人きりの状況に比べれば、彼らのパシリにでもなった方がよっぽど気が楽だ。
「ホワイトの奴、課長の言うようにこのままクビなのかなあ」
 昼の休憩中、マイトたちと合流して昼食を食べていた私はエツコに尋ねた。
 エツコは口の中のハムサンドをオレンジジュースで流し込みつつ首を捻った。
「まぁ、今のところはまだ大丈夫なんじゃないの。うちの仕事なんてさ、新人雇っても使い物になるまで時間掛かるし、そう簡単にはクビになんてしないよ。でも、このままアイツの無断欠勤が続いたら、そりゃあそのうちねぇ」
「ロンカ、様子見に行ってこいよ」
 マイトが無責任に言い放つので、私はえぇ、と低い声で不満を漏らした。
「なんで私が」
「だってお前、ホワイトの次に下っ端なわけじゃん。こういう雑務はさ、下の人間からやるもんだよな」
「そうよそうよ」
 エツコもマイトに同調する。こうなったらどうあがいても勝てっこない。ここはそういう体育会系な職場だ。
「下っ端で言ったら、私よりシンディじゃんか」
「馬鹿。あの子になんて誰も期待してないでしょ、そういう役割」
 エツコが横目で私を見て、首を横に振る。
 シンディは今、この場にいない。EEの整備工たちは、昼食は弁当持参か近くのスーパー等で買って来て、作業途中の空き時間に道端や公園で食べている。作業効率と節約を考えてのことだ。

 だがシンディはそれを嫌がり、いつも十二時きっかりに、一人でカフェやレストランへ行ってしまうのだ。上階層のお高いランチでも気にもしない。

 もし私やホワイトがシンディと同じことをしていたら、給料を使い果たしてすぐに生活していけなくなるだろう。上階層にある飲食店のランチときたら、低階層のディナー三日分くらいの値段が相場なのだ。
「ったく、給料も出ないプライベートな時間を、ホワイトなんかに割かなきゃならないなんてさ」
「そう言うなよ。より良い職場環境のために、ひいては自分のためにだぞ」
「調子が良いんだから。だったらマイトが行ってよ。同性の先輩の方が、ホワイトだって色々と話しやすいんじゃないの」
 私が言うと、マイトは目を細めて小狡い表情になった。
「いや、こういうときには異性の方が良い」
「どういう理屈でそうなるの?」
「理屈じゃない、先人の知恵だ」
「何よそれ。っていうかぁ、もしホワイトんち行って二人きりで相談事なんてしててさ、そういう雰囲気にでもなっちゃったらどうすんのよ? 私だって一応、女ですからァ」
「――ないだろ?」
「……まぁ、ないだろうけどさ」
「あっても別に構わないだろ」
「絶対イヤなんですけど」
 マイトは頑として「お前が行けよ」と言い張る。エツコなどはさりげなく会話から離れて、ハムサンドを食べることに集中していた。多分、興味がない素振りをすることで、自分は既に無関係なのだというスタンスをさりげなく見せつけているのだ。エツコもこういう時、結構セコい。

 うちの職場はそんな人間ばかりだ。私だって、これまでの人生において特に良い人扱いされた経験はないけれど、この職場内に限って言えばかなりお人よしの部類に入るだろう。
 ホワイト不在のために発生した一時間半の残業後、私は仕方なくエアロバイクを飛ばして自宅を通り越し、更に三十階下のホワイト宅を目指した。時間にすれば数分程度だが、それすら面倒臭い。他人のプライベートに首を突っ込むのには、気力体力ともに相当なエネルギーを必要とするのだ。
 エアロバイクのナビゲーションシステムを何度もチェックし、ホワイトの家を探した。彼の家に行くのは初めてのことだった。同じ間取りが延々と続くこの階層では、家の表玄関と裏玄関に掲げられた数字のプレートのみが手引きだ。間違えて他人の玄関先でうろたえるのは嫌なので、十回くらいしつこく確認した。
 あった。一九二〇一号室、ここだ。
 外壁に迫り出した裏玄関前には「9」とマーキングされたエアロバイクが駐車されていた。どうやらホワイトは在宅しているようだ。エアロバイク乗りが内側の通路を歩くなんて、近所の自販機やコンビニに行く以外、まずありえない。
 ホワイトのバイクの隣に駐車して、バイクのフロントカウルを踏み台に裏玄関へと飛び移る。玄関の呼び鈴を、わざと何度も乱暴に鳴らした。ガランゴロンと壊れた教会の鐘みたいな音が響いた。
「ホーワーイートーく~ん、ホーワーイートー……ホワイト、いるんでしょ、出てきなさいってば!」
 何度呼び鈴を鳴らしてもホワイトは出てこないので、握り拳でドアを無遠慮にドンドン叩いた。それでもまだ出てこない。業を煮やした私は、ドアを蹴破ってでも開けてやろうと、足を思い切り後方へ振り、反動をつけて前へと蹴り上げた。
 が、私の鉄板入りブーツの爪先が思い切りヒットしたのは、ドアではなくて丁度ドアを開いたホワイトの脛だった。ホワイトはヒィヒィ泣きながら、脛を押さえて床を転げ回った。私は呆気に取られ、ぽかんと口を開けてその様子を見守った。
「……大丈夫?」
「大丈夫じゃないっすよ! ロンカさんが蹴ったんでしょ!」
「別に、あんたのことを蹴ろうとして蹴ったわけじゃないのよ。ドアを蹴ろうとしたら、あんたが突然出てきたから……まあ、さっさとドアを開けないのが悪いよね」
「絶対ロンカさんが悪い」
「ごめんね」
「今、面倒だからって適当に謝ったでしょう」
「うん」
「……」
 ようやく痛みが治まってきたのか、ホワイトは床を転がるのを止めて、脛を摩りつつ恨めしげに私を見上げた。私は小首を傾げ、愛想笑いで誤魔化そうとした。
「嘘よ、嘘。ごめんね、ちゃんと謝るから」
「そんなんだから、モテないんだ」
 今度は私がホワイトを睨みつける番だった。
 私が本気でムッとしたのを確認すると、ホワイトはそれで満足したのか、口元を歪めて少し笑った。ホワイトも先輩方に負けず劣らず、性格がとことん捩れている。
 不機嫌になった私は、ホワイトを押し退け図々しく彼の家へと上がりこんだ。
 窓から西日の差し込む部屋は、私の家と同じ間取りの1DK。しかし、例え間取りは同じでも、その雰囲気は随分違う。
 壁にベタベタ貼られたパンクバンドのポスターや、無造作に立て掛けられたギター、空き缶やゴミだらけの床。それに部屋中に立ち込める煙草の嫌なにおいと、古着屋みたいなにおい……こういうのを「男臭い」と言うのだろう、そんな淀んだ空気が滞している。
 私は鼻の上に皺を作った。
「くっさー」
「うるさいなあ……何しに来たんすか」
「あんたが生きてるか確認しに来たのよ。マイトとエツコに押し付けられてさ」
「この通り生きてますよ」
 ホワイトは両手を広げて肩を竦めた。上下とも灰色のスウェットで、足は裸足、髪は酷い寝癖で、毛先があっちこっちに広がったり縮れたりしている。
「じゃあ、何で会社に来ないのよ」
 私が問い質すと、ホワイトは歯切れの悪い口調で答えた。
「……別に……ダルいから……」
「あのねえ、学生じゃないんだから、そういう無責任なこと言うんじゃないの。嫌なら嫌で、ちゃんと辞表出しなよ」
「厳しいんすね」
 私は目を吊り上げる。
「馬ッ鹿じゃないの。周りが迷惑すんだよ。学生時代と違って、あんただけの問題じゃないんだから。私らの仕事はチームでやってんだよ。あんた一人抜けただけでも、仕事に支障が出まくりよ。大体、考えてもみてよ。あんたが来ないせいで、私は毎日あのシンディと二人っきりでやってんのよ。一人で残業までしてさ。もう耐えらんないわ!」
 ホワイトは聞き取れるか聞き取れないかぐらいの小さな溜息をついて、ベッドの端に腰を下ろした。私はその前に仁王立ちになって、ホワイトを見下ろした。寝癖だらけの髪の隙間にホワイトの旋毛が見えた。
「さ、どうすんのよ。出てくる? それとも辞める?」
「――ロンカさんはぁ、オバケ見たことありますか?」
 突然何の脈絡もなく話が切り替えられ、私は戸惑った。
 オバケ?
「……」
「見たことないっすよね」
 ホワイトは私から視線を外した。
「……オバケって何?」
「いや、別にいいんすけど……どうせロンカさんにこんな話したって、馬鹿にされて笑われるか、ふざけてんのかって殴られるだけだし」
 自嘲的に笑うホワイト。私は眉間に皺を寄せた。
「マジメな話なの、それ」
「はい、大真面目にオバケの話してんすよ」
 私は頬を引き攣らせてハハハ、と甲高く笑い鼻を鳴らした
「――本気? それとも病気? 脳味噌の」
「本気ですってば! 俺……こないだ、実はオバケ見たんすよ」
「……」
「終礼が終わって皆帰った後、点検場所に道具箱忘れてきたことに気付いたんすよ。大体の場所の目星はついてたんで、取りに行ったんすけど。点検ポイント開けて中に入ったものの、明かりをつけようとしても、何故かつかなくって。あれ、故障かな、と思ったんすけど、もう就労時間外だったんで、報告の義務もないし別にいいかなって――」
「あんたねぇ、そういうとこがダメなのよ。バイトじゃないんだから、もうちょっと仕事に対する責任感ってモンをさ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよぅ、ソコで突っ込むのは。問題はその先なんすから、ちょっと黙って聞いてください。お願いですから」
 ホワイトが両手を顔の前で擦り合わせて懇願するので、私は仕方なく小言をストップさせた。
「……それで?」
「俺、懐中電灯つけて、奥へ入ってったんすよ。道具箱は、すぐに見つかりました。で、腹も減ったし、さっさと帰ろうと思って振り返ったら……」
 ホワイトはそこで、わざとらしく言葉を切った。唾をゴクリと飲み込んで息を吐く。ホワイトの喉仏が大きく上下した。
「振り返ったら、どうしたの?」
「ロンカさん、点検ポイントでネズミ見たって騒いでたじゃないですか」
「え?」
 そういえば、そんなこともあったっけ。素早く過去の記憶を穿り返した。
「多分あれ、ネズミじゃなかったんすよ」
「はァ?」
「大きさは確かにネズミ大です。これっくらいの」
 ホワイトは両手の親指と人差し指で輪を作った。それはまさしく肥え太った鼠くらいの大きさだった。
「あれはネズミじゃないんすよ」
「どうしてそんなこと分かるんのよ?」
「だって目が真っ赤に光るんすよ! まるでライトでもつけたみたいに、二つの豆粒ぐらいの目が、ピカーッと!」
 ホワイトはそこでぶるりと震え上がった。
「オマケに、口の辺りにはビリビリビリビリ、静電気みたいに小さい稲妻が走ってるんすよ。そんなネズミ、見たことあります? あれは間違いなくオバケっすよ……そうでもなけりゃ、未知のモンスターなんすよ」
「寝ぼけて夢でも見てたんじゃないの」
「そんな、シラフで夢なんか見ませんってば!」
「あんたの説明じゃ分かんないのよ。じゃあ、絵に描いて見せてよ」
「う~ん」
 ホワイトはゴミ溜めみたいになっているサイドテーブルの上を掻き回して、チラシとボールペンを見つけ出した。そしてチラシ裏の白紙部分にボールペンの先を当て、また「う~ん」と唸った。
 ボールペンがゆっくりと紙の上を滑る。小さな丸。その右にもう一つ小さな丸。今度は丸と丸の中間、少し下辺りにジグザグの線を何本か放射線状に描く。
 ボールペンの動きが止まった。私はホワイトの隣に腰掛けてボールペンの軌跡を視線で追っていたが、あまりにもペン先が動かないので、ホワイトを促すように片眉を吊り上げた。
「あとは?」
「それがぁ」
 ホワイトは苦笑いしてペンを置く。
「真っ暗だったから、目の光と口の稲妻しか見えなかったんすよねー」
「……もーいい。アホくさくて聞いてらんない」
 私は気が抜けて、布団をバン、と軽く叩いた。埃臭い空気がもわっと漂う。窓からは、西日を眩しく反射する隣のビルが見えた。
「あっ、ロンカさん信じてないっすね」
 ホワイトが私に詰め寄った。
「俺が冗談言ってるんだと思ってるでしょ?」
「うん」
「本当なんですってば。信じて下さいよぅ」
 私は横目でチラリとホワイトを睨んだ。
「――まさか、そのネズミみたいなちっこいオバケが怖くて、仕事に来ないってんじゃないでしょうね」
 ホワイトは固まった。図星だったようだ。
「だって、だって……点検中に、また奴が出てきたりしたら怖いじゃないっすか」
「呆れた」
「ロンカさんは怖くないんですか」
「もし本当にそんなオバケがいたとしてもよ。相手は一匹、おまけにネズミ大なのよ。足でプチッと踏み潰してやればいいだけの話じゃない。怖いもクソもないでしょうに」
「こっ……怖いっすよ! だって相手は得体の知れないモノなんですよ」
「いざとなったら、元素銃だってあるじゃん」
「そ、そういう問題なんすかね……っていうか、オバケって物理的な攻撃とか、効くんすか」
「知らないわよ。オバケの知り合いなんていないし」
「……ふん。自分なんて、ネズミでギャーギャー騒いでたくせに……」
「何か言った?」 
「いえ」
「ネズミは特別イヤなのよ。あの気持ちの悪い尻尾と、病原菌の巣窟っていうところが、どうにもこうにも生理的に無理なのよね」
「聞こえてんじゃないすか」
 ホワイトは、露骨なまでに不満げな表情で不貞腐れた。だが、やがて大袈裟に肩を落とし、両のこめかみに人差し指と中指を当てて薄い唇を引き結んだ
「何それ。オバケ対策のおまじない?」
「違いますよ。ロンカさんがあんまり適当だから、頭痛くなってきたんです」
 私は舌を打って立ち上がった。
 そしてホワイトの頭を一発殴った。
「ったぁ~~~! 何するんすか」
「うっさい馬鹿! わざわざ来て、下らない悩みにアドバイスまでしてやってんのに、その態度は何よ。ほんっとに可愛くない後輩。もーいい、もー帰る」
「はいはい、わざわざありがとうございましたァ」
 ホワイトの口調は全くありがたがっていない。
 玄関先まで歩いて、私はふと立ち止まった。何のためにここへ来たのかを思い出したためだ。
 踵を軸にくるりと振り返り、人差し指をホワイトに突きつける。
「どうでもいいけど、明日からちゃんと会社に出てくんのよ。いいわね?」
「はぁ……」
 会社の話を持ち出すと、ホワイトは途端に萎れる。
「出てこなかったら、明日も殴りに来るわよ」
「……はい」
 観念したのか、ホワイトは擦れた声で返事をして項垂れた。


3.正反対、だから気になる(2)

 翌日。
 その日の朝も、私は遅刻しそうになりながらミランダの店に寄り道し、いつものように野菜が多めのターキーサンドとコーヒーを注文した。それに対し、ミランダは私に商品を手渡しながら、開けっぴろげな笑顔で「今日も頑張って行ってきなよ!」と送り出してくれるのが常なのだが、今日に限って彼女は何かを含んだ表情で私をじっと見つめた。そのため、私は思わず商品を受け取る手を止めた。
「――何?」
「こないだの今日だから、私あんまりこういう役割はやりたくないのよ。後ろめたいっていうかさ」
「はい?」
 思わせぶりなミランダの言葉に、私はいぶかしんで眉根を寄せた。
「何の話してんの」
「あのね、あんたにこれを渡してくれって人がいんのよね」
 ミランダは、エプロンのポケットから折り畳まれた白い便箋を取り出した。
「誰?」
「最近よく来るお客。良い男だよ」
「……」
 ミランダは困惑気味に苦笑いする。
「どうしようか。いる? いらない?」
 私は白けた顔で首を振った。
「いらない」
「じゃあ捨てちゃうよ?」
「うん……あ、いや待って! 一応もらっとく。多分読まないだろうけど」
「良いの良いの、受け取ってもらえるだけでもちょっと嬉しい。捨てちゃうのもさ、なんか罪悪感に苛まれるし」
「ごめんね。ミランダに気兼ねばっかさせちゃってるね、私。でも、あんたは何も悪くないんだから気にしないで」
 私が笑うと、ミランダは胸を撫で下ろした。
「良かった。こんなことが原因であんたに嫌われたらどうしようって、実はちょっぴり思ってたんだよねぇ……」
「やだ、そんな風に思うわけないじゃん」
「こないだのこと、もう引きずってない?」
「全然! っていうか私がそんなに繊細な人間だと思ってんの?」
「いや思ってない」
「言うねぇ」
「ハハハハ」
 私は手紙を受け取って、胸のポケットにしまった。
「そうだ、ロンカ。夕方暇ならお茶飲みに行こうよ」
「いつものダイナー?」
「そう」
「了解。じゃ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 私はミランダに敬礼して、エアロバイクを発車させた。
 あーあ……。
 ミランダに背を向けるとすぐに、私の顔からは笑顔が消えた。
 溜息と一緒に肩を落とす。
 ミランダには「全然!」なんて調子良く答えてしまったけれど、本当は激しく引きずっていた。あんな馬鹿をやっておいて、引きずらない方がおかしい。
 おまけに私は人一倍ネガティブで、プライドばかり高いときている。だから余計にたちが悪い。
 このままでは――彼氏ができないばかりか、自己嫌悪で自分が大嫌いになりそうだ。
「――№5、№5。聞いとんのか!」
 大声で自分を呼ぶ声に、我に返った。
 そうだ。朝礼中だった。
 考え事に夢中になって、つい課長の話を聞き流していた。
「すみません、聞いてませんでした」
「ロンカ――――――ッ!」
 課長がズカズカ歩いてきて、私の目の前三十センチぐらいのところで怒鳴った。唾の飛沫が飛んできて、私は思わず身を引いた。
「まーったく、お前という奴はどうしていつも気合が足りんのか。後輩が二人もいるんだぞ、見本となるように努力せんでどうする!」
「……はい、すみません」
「すみませんじゃない、いい加減にしろ! ったく……では本日も、エンリコエレキテル社訓、そのいーちッ」
「ひとーつ、全ての建造物の電気配線は、EE社に繋がる……」
 朝礼が終了し、私はエツコの袖を引っ張ってこっそり尋ねた。
「課長、何の話してたの?」
「えー? あぁ、また電気抜かれたって話よ」
「またァ?」
「あんたらが作業した点検ポイント、両方とも含まれてるわよ」
「えぇーっ」
 私がネズミ騒ぎを起こした場所とホワイトがオバケを見たという場所、それらを含めた5箇所もやられていたらしい。偶然にしても背筋が寒くなった。
「マジ?」
「いやよねェ。課長の機嫌も悪くなる一方だしさ。そのうち抜かれたポイントごとに、報告書纏めなきゃなんないらしいよ」
「うえぇ」
 私は思わずホワイトを振り返った。
 ホワイトは私に殴られるのが怖かったのか、それとも引き篭もるのに飽きたのか、今日はようやく職場に出てきた。電気泥棒の話が出たのでまたオバケの言い訳でも始めるのだろうかと、私はホワイトの様子を伺った。しかし、どうやらホワイトは私以外の誰にもその話題を振るつもりはないようで、ただ陰鬱な表情でじっと床を見つめていた。
 私も黙っていた。オバケ話なんてネタにするのも馬鹿らしい。
 私の視線に気付いたホワイトが顔を上げた。私はその話について自ら触れるつもりはなかったので、ホワイトの何か言いたげな視線を無視して点検の準備に取り掛かった。 しかしホワイトはどうしても何か喋らずにはいられなかったのか、小走りに寄って来て私だけにそっと囁いた。
「さっきの話、絶対あのオバケっすよ。間違いない」
「あんたまだそんなこと言ってんの? ネズミはねぇ、電気なんて盗まないのよ」
「だからぁ、そこがオバケのオバケたるところですよ」
「オバケだって電気なんて盗まないでしょ。盗んでどうすんのよ」
「食料っていうか……エネルギーにしてるっていうか……」
「へぇ、凄いね。暗闇でぼんやり光って人間を驚かすためのエネルギーにでもすんの?」
 私はホワイトを鼻で笑ってエアロバイクを発進させた。理解の範疇外の不可思議な出来事なんて、気持ち悪くてこれ以上考えたくなかった。自分の私生活についてだけでも既に脳味噌はパンク寸前なのに、これ以上厄介な出来事で煩わされたくなかった。
 その日は何事もなく終わった。ホワイトは新たな点検ポイントに入るたびにまだビクビクしていが、オバケなんてもちろん出てこなかった。私はいるかいないか分からないオバケなどよりも、むしろこの後に待ち受けている報告書との戦いの日々の方がずっと恐ろしくて、一日中溜息ばかりついていた。
 仕事を終えた私は、ミランダと約束していたダイナーへ寄り道した。ダイナーはミランダの店の一階上にあり、私たちはそこの常連だった。
 ミランダは仕事上がりにこの店へ立ち寄り、コーヒーを飲んで一息ついてから帰るのが日課だった。私も時折ミランダの終業時間を見計らってダイナーへ赴き、彼女と共に仕事後の一休憩を楽しんでいた。
 ダイナーの入り口で客席にミランダの姿を探していると、ウェイトレスの女の子がやって来た。
「あら、ロンカさんいらっしゃい」
「ミランダ来てる?」
 頻繁に来店している上にミランダの職場から至近距離というせいもあり、店のウェイトレスたちとは私もすっかり顔馴染みだ。
 私の質問にウェイトレスは首を横に振った。
「今日はまだですよ。待ちます?」
「うん」
 ウェイトレスが窓際の席に案内してくれた。私は席について、シナモンミルクティをオーダーする。ウェイトレスがくれた温かいお手拭きで両手を拭いたら、白いハンドタオルが薄黒くなった。
「……うわぁ」
 私は呆れて思わず声を漏らした。続いて顔をゴシゴシ拭う。仕事が終わってからまだ洗顔していないので、きっと顔も真っ黒だろう。お手拭きで顔を拭くなんて中年男性みたいな行動だが、人も疎らな夕食前のカフェ、どうせ誰も私のことなど見ていない。
 ああ、気持ち良い。
 顔の表面を刺激するタオルのざらついた感触と、鼻の穴から吸い込む熱い蒸気に恍惚となる。満足して大きく息を吐き出しつつ顔を上げると、そこに人影があった。
「あ、ミランダ来たの――」
 言いかけた私は硬直した。
 ミランダではなかったのだ。
 知らない男が私のすぐ横に立っていた。
「こんにちは、ロンカさん」
「はい?」
 男は細いフレームの眼鏡の下から、はにかむような笑顔を私に向ける。
 誰だっけ。
 こんな知り合いいただろうか。
 ミランダの友達だろうか。
 えっと……。
 えーっと……。
「お名前、ロンカさんでしたよね?」
「……」
 私は男の顔を凝視したまま、記憶の断片を必死に穿り返しては、目の前の人物をそれらと照合した。しかし、全く思い当たる節はなかった。
 男は戸惑ったように目を大きくした。
「あの――手紙、読んでいただけたんですよね?」
「手紙?」
「ミランダに渡した……」
「あっ」
 私は口元を押さえた。
 朝の手紙だ。
 大慌てで胸ポケットから手紙を取り出し、折り目を破きそうになりながら広げる。
『突然のお手紙、申し訳ございません。
毎朝、エアロバイクで目の前を通り過ぎてゆくあなたの姿を見ていたら、どうしても実際にお会いしたいという欲求に突き動かされ、とうとう堪えることができなくなってしまいました。どうぞ、お許しください。今夜六時半、雑貨屋上のダイナーでお待ちしております。切実に、お待ちしております。ティム』
 短いが丁寧で分かりやすい文章だった。それなのに、何度文字の上を視線が辿っても、何故だろうか、その意味はなかなか頭に入ってこなかった。
 五度も読み返し、ふと視線を上げてティムの困惑した表情を直視したその瞬間、ようやく私は悟ることができた。
 ああ、何というバッドタイミング。
 どうしよう。
 どうしよう……。
 こんな状況、慣れていない。
 普段勢いだけで行動しているくせに、意外と不意打ちに弱く、臨機応変という言葉が非常に苦手な私。不器用なので対応の仕方が分からず、困って視線を床に落とした。
 前髪の隙間からティムの様子を伺うと、彼は混乱渦巻く私の視線に怖気づいたのか、気まずそうに視線を泳がせた。強張った白い頬が、心なしか赤く染まっている。
 しかし元来の彼は、どうやら私のように不器用や混乱癖とは無縁のようだった。彼の瞳はすぐに確固たる自信の光を取り戻し、私を再び捉えた。
「すみません。呼び出してしまって」
「……」
「えっと、あの」
「……」
「俺、ティム・コールドウィンと言います」
「……はぁ」
 男――ティムは名乗って、私に名刺を差し出した。私は渡されるままに名刺を見た。肩書きは、エルド広告代理店のデザイナー。エルド広告代理店と言えば、お洒落業界では知らぬ者などいない大手の会社だ。その肩書きを裏付けるかのように、ティムは業界人染みて垢抜けたファッションをしており、先日の合コンみたいな場にこういう男がいたらさぞかしモテるのだろうな……と他人事のようにぼんやりと思った。
「ご注文、何になさいますか?」
 ウェイトレスが興味津々な顔で私とティムを交互に見た。
「コーヒーで」
 ティムが答える。
 私は軽く眉間に皺を寄せて、内心の不安をこっそりとウェイトレスに伝えようとした。だが、ウェイトレスは何故かちょっと笑って、私にウィンクして去って行った。
「こうでもしないと、お話することもままならないと思いましてね」
 ティムが再び話し始めたので、去って行くウェイトレスの背中にしつこくヘルプミーの念を送り続けていた私は、慌てて彼に視線を戻した。
「……」
「ご迷惑でしたか?」
「……いえ」
「ここ、座っても良いですか?」
 私の向かいの席を示してティムが尋ねた。私は仕方なく頷いたが、本心では相変わらず困惑状態が続いていた。
 早くミランダが来てくれれば良いのに。
 気まずさを隠すように、冷め掛けたミルクティを啜る。きっと喫煙者ならこんな時、煙草に火をつけるのだろう。
「あの、堅苦しいのもなんですし、普通に喋っても良いですか? 友達に喋るみたいに気さくな感じで」
「ええ、はい」
 私は低い声で答えた。ティムはふう、と息を吐き出して笑った。
「ああ、良かった。俺、苦手なんだ。丁寧に喋らなきゃって思うと、どんどん言葉が変になっちゃって、ジェントルぶってみてもボロが出るし。ごめん」
「……」
 ティムは私の言葉を待っていた。けれども私は何も喋れなかった。俯いて、ミルクティを啜るふりをひたすら繰り返すだけ。
 ティムは私を安心させようとしているかのように、人好きのする笑顔を浮かべて言葉を続けた。
「俺、どうも君のことが気になって――つまり、どうやら君に気があるみたいなんだよね」
「喋ったこともないのに?」
 思わず口を突いて出た言葉に、私自身がまた戸惑った。
 うわ、意地悪な言い方。
「いや、そうだよね、うん」
 ティムは苦笑いだ。
 そんなんだからモテないんだ、と同僚たちが私を馬鹿にしている映像が脳裏に一瞬浮かんだ。
 だって……と、心の中で反論する私。
 だってどうすれば良いのか分からない。
 自分に自信がないので他人から好意を持たれると、どうしても疑って掛かってしまう。
 何か裏があるのではないか、とか。
 こんな良い男が自分を好きなわけがない、とか。
「嫌な言い方しちゃってごめんなさい。でも私、オイルで薄汚れたツナギ着て、エアロバイク乗り回しているような、可愛げのない整備工なのよ。そんな女を、喋ったこともないのに好きになる男なんている? 疑っても当然だわ」
「随分と自虐的に言うんだね」
「他人から言われたことよ」
 先日の合コンの場面が脳内で再生される。
 急に自分が恥ずかしくなり、頬が熱くなった。
 ああ、もう、この場から一目散に逃げ出してしまいたい。
 ちら、と視線を上げてティムを盗み見る。
 糊の利いたセンスの良いシャツ。嫌味のない短髪。お洒落な眼鏡。上品な顔立ち。全身からインテリジェンスが滲み出ている。
 心臓がまた一段と鼓動を加速させる。もう焼けつきを起こしてしまいそうだ。
 恥ずかしい。
 ティムに比べて、小汚い自分が更に惨めに思えた。
「……本当に本気なの? からかってるだけなら止めて欲しいんだけど」
 最後の力を振り絞って尋ねた。
 ティムは一瞬きょとんとしたが、すぐに肩を震わせて笑い出した。
「そんなに胡散臭いかな、俺」
「え? 違う、そういうわけじゃないの。あなたじゃなくて、ただ――私自身の問題よ」
「言っとくけど、世の男全員が全員、ナイスバディのブロンド美人が好きっていうわけじゃないだろ。ロリコンだってデブ専だってゲイだっている。でしょ?」
「……まあ」
「つまりさ、そういうことなんだよ。極端な話、人の好みなんて十人十色」
「……」
「俺は、君に興味があるんだ」
 そんなこと言われたって。
 私は再び視線を床に落とす。
 何なんだろう、この会話。
 気持ち悪い。
 何が気持ち悪いって、ティムのことではない。
 自分だ。
 どうすれば良いのか、相変わらず全然分からない。空回りしてばかりだ。
 だけど……。
「お待たせいたしました」
 ウェイトレスがティムの前にコーヒーを差し出す。ティムが礼を言っているのが、俯いた私の額に掛かる前髪の間から見えた。
 ウェイトレスの手元から私へと、ティムの視線が戻る。眼鏡のフレームが照明を反射して光っている。
 ティムと視線が合うたびに、自分の鼓動が加速してゆくのを感じた。
「……私はどうしたら良いの?」
 正直に口に出した。
 私の脳は処理能力の限界を超えていた。もう、これ以上考えても無駄だと思った。
 それならばいっそのこと、素直に分からないと伝えた方が良い。
 その方がマシだ。
 だってこれ以上、可愛くない女になりたくない。
 ティムは待ってましたと言わんばかりに、テーブルの上に身を乗り出した。
「ミランダに聞いたんだけど、ロンカさんは」
「ロンカで良いよ。さん、なんてつけないで」
 ティムはちょっと嬉しそうに頷いた。
「ロンカは今、フリーだよね?」
「……そうよ」
「今度、デートしよう。で、お互い気があったら付き合ってみない?」
「本気?」
「本気だよ。だって、エアロバイク乗りの彼女なんてカッコイイじゃんか。俺、ずっとエアロバイクに乗ってみたかったんだよね。そういう憧れを女の子に投影したら、何か変かな?」
 ティムは悪びれる風もなく言った。
 女の子が、高級エアロカーでクラブに乗り付けてくる男に憧れるのと同じ心境なのだろうか。それをあっけらかんと言い放つティムの素直さには、好感が持てた。
「別に悪かないけど……私、あなたのこと何も知らないもの。そんな状態で無理よ」
「お試しで良いじゃんか。ダメなら別れれば良い」
「そんな軽いノリで?」
「そうだよ。何だって、やってみなきゃ分かんないでしょ」
「……」
 私は少しの間考え込んだ。けれど、もう一度ティムの笑顔を目にして思った。
 私が可愛くないことを言っても、さらりとかわす大人な態度。
 ちょっと変わってるけど……こんな人、今逃したらきっともう二度と現れない。
「……良いよ」
 その三文字を喉の奥から搾り出すのが、どれほど息苦しかったことか。
 羞恥心と不安で、身体中の血が沸騰しそうだった。
 けれどもその直後、満足げな表情でコーヒーカップに落としたスプーンをかき回しているティムを見ていたら、それすらどうでも良くなった。
 やばい。
 なんだろう……このときめき。
 こんな簡単な展開で良いのだろうか。ティムにしてみれば私の顔は何度も見ているものなのだろうが、一方の私はと言えば、初対面から十分も経っていないのだから。
 いや、きっとそんなことはどうでも良いのだ。
 問題はこれからだ。
 それこそティムの言うように、デートでもして時間を掛けて見極めれば良いだけ。
 ああ、ミランダに報告しなきゃ……。

3.正反対、だから気になる(3)

「で? 何はともあれ、結果オーライってことよね?」
 ミランダが、私をからかうように人差し指を突き出した。ここは先日ティムと出会ったダイナーだが、しかし私の向かいに座っているのは、今度こそ正真正銘ミランダだ。
「止めてよぉ」
 私は緩んだ頬を両手で押さえ、身体をぐにゃぐにゃ動かした。
「でもさぁ、一瞬『あのくそったれミランダ!』って、めっちゃキレそうになった」
「今は?」
「心の底から感謝してる」
 ミランダはよしよし、と頷いた。
「ティム、どうよ。私が言ったとおり良い男じゃない? 男前だしお洒落だし金持ってるし……まぁ、ちょっとズレてるけど」
「うん……ズレてるよね。真面目な話、ズレてなきゃ出勤途中の私を見て紹介してくれなんてミランダに頼まないと思う」
「ぶっちゃけそうよね。あんたには悪いけど」
「もー、ミランダってば!」
 すまし顔で言うミランダに、私は殴るようなジェスチャーをする。
「ごめんごめん。でもさ、ほら、恋愛って自分に欠けてるところを、相手に求めたりするもんじゃんか。ティムはあんな感じで、何ていうのかな、物静かで知的っていうの? だから野蛮で活発なあんたに惹かれたんじゃないの」
「野蛮って」
「ぱっと見よ、ぱっと見」
「ふうん」
「だってエアロバイク乗りだよ。野蛮以外のどんな言葉が当てはまるっていうのよ」
「せめてスポーティとかアウトドア系とか、そういう感じで言って欲しいよ」
「はァ? 何言ってんのよ。――で、ティムとはその後、どうなってんのさ」
 私はにやーっと笑った。相当緩んだ表情になっているのだろうという自覚があった。
「3回、デートした」
「で?」
「まあ、初日でチューしてみたわけだけど」
「ふんふん」
「嫌じゃなかったから、いやむしろすっごい良かったから、昨日エッチした」
 ミランダが拍手をする。
「来たねー、春が来たね!」
「やっばいんだけど。私今、超幸せなんだけど」
「めでたいね」
「男がいる生活ってこんなに潤いのあるものだなんて、なんか久々に思い出した」
「相当枯れてたのね、あんた」
「……うん。学生の時以来、彼氏なんていなかったから……何かもう、どうやって付き合い始めたとか、そういうの全部忘れてたよ。いや、参った参った」
 ミランダは泣き真似をしつつ、私の肩を軽く叩く。
「でも、これからは幸せよ。あんな素敵な彼氏できてさ。いっぱい甘い蜜吸っとけ!」
「んだね。もーイチャイチャしまくってやるよ。ここぞとばかりに」
 ミランダは満足そうだった。それはそうだろう。自分がキューピットになり、一組のカップルを誕生させたのだ。良い意味でお節介焼きの彼女としては、感慨もひとしおなのだろう。
 それにしても。
 ああ、本当に嬉しい。
 つい浮かれてエアロバイクのスピードを出し過ぎてしまうくらい、毎日が嬉しい。
 一昨日は最高だった。誰かの体温をダイレクトに肌で感じるのも久しぶりだったし、それが私の息、心臓どころか時まで止まってしまいそうなほど、うっとりと心地良いものだということすら忘れていた。
 ティムはひたすらに優しかった。
 お坊ちゃん育ちなのだろう、若干ぼんやりしている部分はあるけれど、私が神経質なタイプなので、それこそミランダの言うように、自分にない部分を補い合って丁度良い感じだった。
 いつものように朝礼を終えると、すぐにホワイトとエツコがやって来て、私の顔を覗き込んで眉を潜めた。
「……あんたさぁ、最近大丈夫? いっつもぼんやりした顔してるけど、今日は特に酷いな。調子でも悪い?」
「疲れてんじゃないすか。最近電気ドロ多発で、報告書の山に押し潰されそうですもんね……」
 ホワイトまで珍しく心配げな声を出す。そう言えば、ホワイトは近頃ようやくオバケの話を口に出さなくなった。
「やァねぇ、ホワイト。そんなに気を使わなくていいのよ」
 私はホワイトの肩を叩いてにっこり笑った。心の底から沸き起こる笑みというのは、何て清々しく気持ちの良いものだろう、と思いつつ。
 だがホワイトは私の笑顔を見ると、尚更心配そうに首を傾げた。
「ホント、大丈夫っすか?」
「違うわよ。別に体調が悪いこともないし、疲れてもいないよ。――実はさ、すっごく良いことがあったの」
「宝くじでも当たった?」
 尋ねるエツコに擦り寄って、耳元で呟いた。
「彼氏、できた」
「え―――――――――ッ! ロンカに彼氏ィ?」
 エツコは、咥えかけていた煙草をポロリと口から落とした。
「マジか」
「マジよ」
「うっへェ」
 ホワイトは半目になって頬を引き攣らせた。
「こりゃ雨が降るな」
「何よぅ。私だって、できるときはできるんだもん!」
「で、で? どんな人? 何してる人? カッコいいの?」
 マシンガンのように質問を浴びせかけるエツコ。私はちょっと得意げに言った。
「エルド広告代理店勤務。お洒落さんで、素敵なのよね」
 背後で咽る音。振り向くと、マイトが紙パックの牛乳を片手にゲホゲホと咳き込んでいた。
「……相手は相当な変わり者だなぁ」
「マイトまで!」
 私は口を尖らせた。しかし、いつもならカッカするはずの場面でも、今日ばかりは腹が立たない。今なら何を言われても、脳内怒りメーターは通常の三分の一しか上昇しないだろうという自信がある。
 自分が幸せだと、他人に対しても寛容になれるものだ。
「ねぇ~、見たい見たい! 会わせてよぅ」
 興味津々で私に詰め寄るエツコ。
「今度ね」
「やった」
 エツコはガッツポーズ。マイトとホワイトは白けた表情を見合せて肩を竦めた。
「あーあ。これじゃ暫くの間は、ロンカさんにノロケ話を聞かされ続けそうっすね」
「俺は逃げるから」
 マイトは右手の人差し指を耳の穴に突っ込んで、くるりと私に背中を向けた。
「あーっ、待って下さいよう」
 ホワイトがマイトの後を追って走る。
「何よ、ほんと失礼な奴ら」
「じゃ、あたしも逃げようっと」
「エツコまで! 私だって一緒に行くわよ、待ってよ」
 私は足元に置いた整備道具箱を引っ掴んで、ピットに向かって走った。

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