目次
1.エアロバイク乗りの日常
1.エアロバイク乗りの日常(1)
1.エアロバイク乗りの日常(2)
1.エアロバイク乗りの日常(3)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(1)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(2)
3.正反対、だから気になる
3.正反対、だから気になる(1)
3.正反対、だから気になる(2)
3.正反対、だから気になる(3)
4.地表
4.地表(1)
4.地表(2)
4.地表(3)
5.平穏な生活
5.平穏な生活(1)
5.平穏な生活(2)
5.平穏な生活(3)
5.平穏な生活(4)
6.ネズミ
6.ネズミ(1)
6.ネズミ(2)
6.ネズミ(3)
6.ネズミ(4)
7.テロリスト
7.テロリスト(1)
7.テロリスト(2)
7.テロリスト(3)
7.テロリスト(4)
7.テロリスト(5)
7.テロリスト(6)
7.テロリスト(7)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(1)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(2)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(3)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(4)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(5)
奥付
奥付

閉じる


8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常

8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(1)

 頬に微かに触れる温い風が、頬の産毛を逆撫でして、心地良くもくすぐったい。
 ゆっくりと繰り返す呼吸。
 吸って、吐いて。また吸って、吐いて。
 少しだけ埃っぽい。
 遠くでピィー、と笛のような音が小さく響いている。頼りないその音は、おそらく風鳴りの音。
 私は……瞼を閉じている。
 眠っていたのだろうか。
 あれ、
 私は誰だっけ?
 ここで何をしているんだっけ?
 一瞬の疑問。しかし次の瞬間には徐々に思い出す。
 そうだ。
 私はロンカ。エンリコ・エレキテル株式会社の、第三雑居ビル電気系統整備工だ。
 ゆっくりと瞼を開ける。
 崩れ落ちた天井が見えた。痛々しく配管やコードが飛び出ていて、人間がはらわたを抉られているスプラッタムービーを彷彿とさせた。
 少し首を捻ると、崩れた壁の先に澄んだ青空が見えた。
 私は――。
 瓦礫の山に生き埋めになって、それから……。
 それから?
 我に返って飛び起きた。床に手を着いた拍子に、指先に痛みが走る。グローブを外して両手の指先を見ると、皮膚が擦りむけて真っ赤になり、引っかき傷に血が滲んでいた。爪の間には、グローブの繊維と砂埃が入り込み黒ずんでいる。
 どうして私はここにいるのだろう?
 あの後どうなったのだろう?
 自力で脱出できたとは思えない。
 周囲を見回した。人影はない。
 誰もいない。
 立ち上がり、私は歩き出した。
 誰だ? 私を助けてくれたのは。
 まさか、ティム?
「ティム――――――――――――――ッ!」
 思わず大声で叫んだ。
「そんなに大声で呼ばなくったって、ここにいるよ」
 思いがけずに至近距離で声が聞こえたので、私はぎょっとして振り返った。
 果たしてティムはそこにいた。
 小山のように積み重なった瓦礫の上に腰掛けて、静かに私を見下ろしていた。
 いつものお洒落な服装で、物静かな雰囲気で……どこをどうとってもテロリストには見えなかった。
 今でも嘘だと思いたい。
 でも、これが現実。
「……」
 私は何かを言おうと口を開きかけた。けれど無限に浮かび上がる言葉は、全て喉元で団子のように詰まってしまい、何一つ出てこないのだった。
「怪我は大丈夫?」
 ティムは微笑んで尋ねる。
 これまたいつもの静かな笑顔。
 何も変わらないその表情。
 嘘つきだ。
 全部違うのだ。
 今はもう何もかも違う。それなのに、私は危うく目を眩まされそうになる。
 全部まやかし。
 変わらないように見えても、全てが嘘だ。
「……あんた、私に嘘をついていたんだよね」
 違う。本当はそんなことを言いたいのではない。
 だけど……。
 これで良いのだ。本当の気持ちなんて、言っても仕方のないことだから。
 ティムは頷いた。
「君の会社の電気配線図を手に入れるために、俺は君に近づいた。目的は難なく達成することができた。ロンカ、ありがとう」
「お礼なんて言われたくないわ」
 私はティムを睨んだ。ティムはまた頷いた。
「ごめん。君には本当にすまないことをしたと思っている」
「……」
「でも、俺はやらなければならなかったんだ。ビルの一、二本でも潰してみせれば、政府も焦って考えを改めるだろう。そのための見せしめさ。君だって分かるだろ? 地表に住む貧しい人々の現状ぐらい、知っているはずだ」
「そんなこと、あんたに言われなくったって充分承知よ。言ったでしょう、私は地表の貧民窟出身なんだから」
「だったら尚のこと、君だって思っているはずだ。こんな世の中おかしいってね。地表や低階層の人々がどんなに苦しい生活を強いられていたって、政府は何もしてくれない。解決策など考えようともしない。貧乏人はずっと貧乏で苦しいまま、金持ちはどんどん懐を膨らませる。資本主義社会の悪習ばかりを残したような世の中だ」
「そりゃ、そうだけど」
「誰かが変えないと、ずっとこのままだ。前にも一度話したよね?」
 私は思い出す。
 午後の日差しの差す公園。
 美味しいサンドウィッチ。
 幸せだった日の記憶に、涙が溢れそうになった。

「あの時、俺は言ったよね。世界のトップになるか悪の帝王になるか、そうでもしない限り世の中変えられないって。そして君は、世界のトップなんて到底無理だと言った。その通りさ。だから俺は、悪の帝王側についたわけだ。それで世の中変わるなら、俺は自分の縋るものが正義だろうが悪だろうが、何だって構わない」
「あのときの話は、全部本当だったの?」
「八割方は嘘さ。俺は君の思想に話を合わせていたんだ。その方が君の愛情と、そして信頼を簡単に得ることができるからね。共感こそが、人と人との関係性をより深いものにするための、一番手っ取り早くて簡単なツールなんだから」
「……」
「折角だから、本当のことを教えるよ。俺は君と同じ、セントラルの貧民窟出身さ。皮肉なもんだね。俺の家族も、あの火事で死んだんだよ。それがきっかけとなり、俺は真世界党に入ったんだ。だから君の身上を聞いたとき、あまりの偶然にちょっと驚いた。俺は適当に目星を付けて、君を選んだだけだったから。整備工の女なんて、きっと男日照りだろうから落とすのは簡単だろうと、そう思ってね」
 ティムは困ったように首を傾げた。私は唇を噛んだ。
「同じような悲惨な目に遇いながら、俺は恨みを忘れないまま新世界党の過激派になり、君は仕方がないと割り切って、今じゃビルの整備工か。運命っていうのは分からないもんだな」
「だからってこんな風にビルを爆破して、関係のない人々まで巻き込んで……何人死んだことか分かりゃしないわよ」
「いつの世でも、革命に若干の犠牲は付き物だ。でも、それで世の中が変わるなら」
「そんなの違うわ!」
 私は怒鳴った。
「それは驕りよ。あんただって、あの時言ったじゃない! こんなこと考えるのすら驕っている気がして嫌だって」
「……」
「そりゃあ、私だってこんな世の中カスだと思ってるわよ。だけど、だからって大勢の人の命を奪って革命を起こすなんて、そんなの旧時代的だと思わないの? 下らない過去の遺物よ。これまでだって数え切れないくらい最低な戦争が起きて、何千何万って命が奪われて……そういった悲惨な過去を繰り返さないようにしようって、そう考えることが思考回路と言葉を手に入れた人間の進化ってもんじゃないの? もっと平和的な解決法だってあったはずでしょ!」
「平和的な解決法? じゃあ、どうしろって言うんだよ」
 ティムが鼻で笑った。今まで見たことのない冷たい笑い方だった。
「それは……」
 私は口篭る。懸命に考えたが、良い答えは思いつかなかった。
「ほら、言えないだろう。俺たちだって、暴力を過信するだけの馬鹿ではないよ。君が言うような平和的な解決法っていうの? そんなもの、数え切れないくらい試してきたさ。でも、何も変わらなかった。だから、いつの世だって戦争や革命が起きるんじゃないの? 結局、最終的には力で訴えるという原始的な方法に頼るしかないんだよ。それが俺たちの結論だ。人間っていうのは、そういうもんだ。合理的で平和的な思考回路しかインプットされていないロボットにでもならない限り、俺たち人間から暴力的な思想なんて消えやしないよ」
 ああ、この人とは根本的に分かり合えない。
 私は悟った。
 共感できないことが、堪らなく悲しかった。
 これまで二人で過ごしてきた日常生活の、凹凸がぴったり合わさったようなあの心地良さ、それはもう二度と感じることのできないものなのだと私は理解した。
 それでもやはり、私はティムが好きだ。
 心の底から好きだ。
 そう。本当は、私はティムの顔を見て第一声に言いたかったのだ。
 愛していると。
 けれど私は今、永遠にその感情を封印した。頑丈な箱に押し込めて、もう二度と開かないように永遠の鍵を掛け、脳味噌の奥底に埋めてしまおう。
 だって、
 だって私は……。「あの時、俺は言ったよね。世界のトップになるか悪の帝王になるか、そうでもしない限り世の中変えられないって。そして君は、世界のトップなんて到底無理だと言った。その通りさ。だから俺は、悪の帝王側についたわけだ。それで世の中変わるなら、俺は自分の縋るものが正義だろうが悪だろうが、何だって構わない」
「あのときの話は、全部本当だったの?」
「八割方は嘘さ。俺は君の思想に話を合わせていたんだ。その方が君の愛情と、そして信頼を簡単に得ることができるからね。共感こそが、人と人との関係性をより深いものにするための、一番手っ取り早くて簡単なツールなんだから」
「……」
「折角だから、本当のことを教えるよ。俺は君と同じ、セントラルの貧民窟出身さ。皮肉なもんだね。俺の家族も、あの火事で死んだんだよ。それがきっかけとなり、俺は真世界党に入ったんだ。だから君の身上を聞いたとき、あまりの偶然にちょっと驚いた。俺は適当に目星を付けて、君を選んだだけだったから。整備工の女なんて、きっと男日照りだろうから落とすのは簡単だろうと、そう思ってね」
 ティムは困ったように首を傾げた。私は唇を噛んだ。
「同じような悲惨な目に遇いながら、俺は恨みを忘れないまま新世界党の過激派になり、君は仕方がないと割り切って、今じゃビルの整備工か。運命っていうのは分からないもんだな」
「だからってこんな風にビルを爆破して、関係のない人々まで巻き込んで……何人死んだことか分かりゃしないわよ」
「いつの世でも、革命に若干の犠牲は付き物だ。でも、それで世の中が変わるなら」
「そんなの違うわ!」
 私は怒鳴った。
「それは驕りよ。あんただって、あの時言ったじゃない! こんなこと考えるのすら驕っている気がして嫌だって」
「……」
「そりゃあ、私だってこんな世の中カスだと思ってるわよ。だけど、だからって大勢の人の命を奪って革命を起こすなんて、そんなの旧時代的だと思わないの? 下らない過去の遺物よ。これまでだって数え切れないくらい最低な戦争が起きて、何千何万って命が奪われて……そういった悲惨な過去を繰り返さないようにしようって、そう考えることが思考回路と言葉を手に入れた人間の進化ってもんじゃないの? もっと平和的な解決法だってあったはずでしょ!」
「平和的な解決法? じゃあ、どうしろって言うんだよ」
 ティムが鼻で笑った。今まで見たことのない冷たい笑い方だった。
「それは……」
 私は口篭る。懸命に考えたが、良い答えは思いつかなかった。
「ほら、言えないだろう。俺たちだって、暴力を過信するだけの馬鹿ではないよ。君が言うような平和的な解決法っていうの? そんなもの、数え切れないくらい試してきたさ。でも、何も変わらなかった。だから、いつの世だって戦争や革命が起きるんじゃないの? 結局、最終的には力で訴えるという原始的な方法に頼るしかないんだよ。それが俺たちの結論だ。人間っていうのは、そういうもんだ。合理的で平和的な思考回路しかインプットされていないロボットにでもならない限り、俺たち人間から暴力的な思想なんて消えやしないよ」
 ああ、この人とは根本的に分かり合えない。
 私は悟った。
 共感できないことが、堪らなく悲しかった。
 これまで二人で過ごしてきた日常生活の、凹凸がぴったり合わさったようなあの心地良さ、それはもう二度と感じることのできないものなのだと私は理解した。
 それでもやはり、私はティムが好きだ。
 心の底から好きだ。
 そう。本当は、私はティムの顔を見て第一声に言いたかったのだ。
 愛していると。
 けれど私は今、永遠にその感情を封印した。頑丈な箱に押し込めて、もう二度と開かないように永遠の鍵を掛け、脳味噌の奥底に埋めてしまおう。
 だって、
 だって私は……。


8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(2)

「あんたの言いたいことも良く分かるわ。だけど、私はあんたの話には絶対に頷きたくない。あんたが私を体制側に付いた負け犬だと思いたいなら、そう思えば良い。それでも私はこのビルを最後まで守る。私には、このビルの電気系統を守らなきゃいけないっていう使命があるのよ。だって私は整備工なんだから! それが私の信念、私の正義よ」
 ティムはクソ真面目な顔で、黙って私の話を聞いていた。あんまり怖い顔をしているので、馬鹿にされているのだろうな、と思った。片や理想主義のテロリスト、片やしがない整備工、いくら議論したところで私の言葉なんて、世界の片隅でひっそりと生きる歯車の軋みでしかなく、そこにグローバルで高尚な視点などない。
 分かっている。そんなことは自分自身分かりきっていることだ。
 けれども私は言わずにはいられなかった。息が切れるまで喋り続け、息継ぎのために口を閉じた瞬間、きっとまたティムに鼻で笑われるのだろうと覚悟していた。
 でも、ティムは笑わなかった。
 それどころか彼は頷いた。
「……君の信じる正義がそこにあるのなら、君はそれを貫けば良いよ」
「言われなくったって、そうするわよ!」
 怒鳴り返すと、ティムはちょっとだけ微笑んで立ち上がった。
「そうだ、ロンカ。俺は君のそう言うところが好きだ」
「ふざけないでよ! 騙してたくせに」
「ごめんよ」
「正義云々以前に、それって人としてどうなのよ。この詐欺師!」
「そうだな。俺は最低な人間だ」
 ティムは自分の尻を叩いて、砂埃を払った。
「早くこのビルから降りた方が良いよ」
「うっさいわね、テロリストが指図しないで。それとも何? ここにいてあんたの邪魔をしたら、私のことも殺そうっていうの? はっ、上等だわ。私だって一応武器ぐらい持っているのよ。一騎打ちでもしましょうか?」
 もう私はやけっぱちだった。しかし、ティムは感情的になっている私を諭すように、落ち着き払った口調言った。
「そんな不毛なことは止めよう。とにかく、降りてくれ。あと二時間もしたら、この場所はなくなるんだから」
「は?」
「このビルは、確実に崩れる。下に住む地表の住民たちは、既にずっと遠くへ避難している。予め、俺たちの仲間が誘導して避難させたから」
「ちょっと……そんなこと……」
「何のために、グズグズと小規模な爆破を繰り返していたか、分かるだろ? 俺たちだって、一般人はできるだけ巻き込みたくなかったんだ。だから早く、君も逃げて」
「嫌だ!」
「君が嫌だと言ったって、爆破は敢行されるよ」
「止めてよ!」
 私は素早く腰のホルダーから銃を抜き、安全装置を外してティムに向けた。
「止めなさいよ! あんたなら、止められるんでしょ?」
 ティムはただ、私を見つめるだけ。
「止めないと、あんたのこと撃つよ!」
「俺のことを撃ったって、爆破は止められないよ。もう爆弾は仕掛けられているし、俺の仲間が何人もこのビルの中を見張っていて、邪魔が入らないように爆破地点を守っているんだから。俺一人の力じゃ、どうにもならない。だから諦めて逃げてくれ。無駄な殺生なんてしたくないんだ」
「どうして……どうして私を助けようとするの? あんたにとって大事なのは、あんたの信じるあんたの組織の考え方なんでしょう? 私なんて、そのための踏み台でしかないんでしょう? だから私の気持ちなんて考えずに、騙して上手く利用したんでしょう? だったら私のことなんて、どうだって良いじゃない。私はねぇ、既に一度あんたに殺されているのよ、心をね。もうズタボロよ。だからほっといてよ。今更、良い人面なんてしないで、この卑怯者!」
「……そうだね。その通りだ。だけど、これだけは聞いてくれ。俺は君を騙していたけれど、君と一緒にいた時間はとても楽しかった。だから、全部が全部嘘というわけじゃないんだ……なあ、俺は君を殺したくない。生きてて欲しいんだ」
「うるっさいわね、黙れ、黙れ!」
 私は身を捩って叫んだ。
 ティムは私の方へと足を踏み出し掛けた。私は身体を強張らせて銃を構え直したが、しかしティムはそれ以上こちらへ近寄ることはなく、代わりに大きく息を吐いた。
「――いや、止めておこう。今、君に触ってしまったら、俺はもう前に進めなくなるだろうから」
「……何よ?」
 ティムは微笑んだ。
「さよならだ」
「え?」
 ティムは私に背を向けて、瓦礫の山の向こう側へと歩き始めた。
「ちょっ……どこ行くのよ」
「俺の担当場所だよ」
「担当場所って……あんた、もしかして、ビルと一緒に吹っ飛ばされる気なの?」
 ティムはちらりと私を振り返って言った。
「俺もね、俺の信じる正義を貫き通したいんだ」
「馬鹿ッ、動いたら撃つからね!」
 私は怒鳴った。
 銃を持つ手に力が篭る。
 しかし結局、引き金を引くことはできなかった。
 私を放置したまま、ティムは瓦礫の向こう側へと姿を消した。
 私の腕は、誰もいなくなった空間に向かって頑固に銃を構え続けていた。硬直してしまい、動かすことができなかった。しかし筋力には限界がある。徐々に上げっぱなしの両腕が疲労でプルプル震え始めた。硬直が解けて両腕からがくりと力が抜けるのと同時に、緊張の糸が切れて身体中の力まで一緒になって抜けてしまい、私はその場に膝から崩れ落ちた。
 溜息。
 涙。
 鼻水。
 銃を握ったままの右腕で、それらを顔から拭い去る。
「あぁ……」
 言葉にならない声が、空気と一緒に零れ出した。
 よろよろと立ち上がる。
 降りよう。
 そして、シマダたちに伝えなければ。
「ロンカ――――――――――――――――――ッ」
 エアロバイクの小気味良いエンジン音とともに、喉の奥底から搾り出すような野太い声が響いた。
 私はビルの外に目を向ける。
 マイトと彼のエアロバイクが視界に飛び込んできた。
「大丈夫か?」
 マイトは乱暴にエアロバイクを着地させ、ひらりと飛び降りた。そして、瓦礫を蹴散らしながら私の方へと走り寄ってきた。
「ロンカ!」
 元素銃を手に座り込む私のすぐ傍まで来て、マイトは目を見開いて立ち止まった。
「お前……」
 私は慌てて顔を擦る。涙も鼻水も一まとめになって、ツナギの袖を汚した。
「マイト、ごめんね」
 私が言い終わるか終わらないかのうちに、マイトが筋肉質な腕を伸ばし、私の肩を掴んだ。殴られる、と首を竦めた私の予想とは裏腹に、マイトは私を強く抱き締めて言った。
「良かった……」
 彼らしからぬ行動に私は酷く驚いたけれど、マイトの整髪剤の匂いを嗅いだらとても気分が落ち着いて、深呼吸して目を閉じた。そして、腕を回してマイトの広い背中を軽く叩いた。
「ありがとう」
 私は大丈夫。
 遠退いていた安寧の日常が、少しだけ戻ってきたような気がした。
「中階層から下は、シマダさんたちのお陰で、電気と空気、通ったぞ。皆が避難する間ぐらいなら、何とか持つだろ」
「そっか……」
 私は目を閉じたまま頷いた。
 心の底から嬉しかった。

8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(3)

 マイトのエアロバイクに便乗して降りる道すがら、マイトにティムの話を語って聞かせた。もちろん個人的な部分は伏せ、これからティムたちが何をしようとしているのか、その部分のみだったけれど。
 マイトは相槌を打つこともなく、視線をこちらに向けることもなく、ただ黙ってエアロバイクを走らせた。私はマイトの保つ沈黙こそが、私の話を聞いてくれている証拠だと思い、淡々と事のあらましを語った。
 語り終えた数十秒後、マイトは一言だけ「シマダさんに連絡しなきゃな」と呟いた。その口調は重く暗かった。
多分マイトは悔しかったのだと思う。自分たちが懸命に守ろうとしたものを、見捨てなければならない結末になってしまったという事実が。
 もちろん私だって悔しい。
 でもこうなってしまった以上、仕方がないことだ。ここで無理に意地を押し通し、しがみ付いて殉職したって何も残らない。いや、一つだけ残るとしたら、それは「犬死」という馬鹿馬鹿しい二文字だ。
 生きていれば、また何かできる。
 きっとできるのだから。
「早く知らせて、全員逃がさなきゃ」
 私が小声で囁くと、マイトは無言で頷いた。
 シマダへと伝えた爆破予告の話は、すぐにエツコや課長に伝えられ、課長は更にEEの上層部へ、EE上層部はポリスや政府のトップへと伝達し、あっという間に緊急避難警告が広められた。
 セントラル中の飛行交通手段を掻き集め、まだ逃げ遅れていた人々を片っ端から拾っては五キロ以上先の地表へ下ろすという作業を、蜂の巣を突付いたような大騒ぎをしながら最後の一人がいなくなるまで繰り返した。その間およそ一時間半。危ないところだった。
 マイトに私のエアロバイクが停めてある場所まで戻ってもらい、そこからは二台で下層へと降りてエツコたちと合流した。私たちはポリスや政府の避難活動をサポートすることにした。慌てふためきパニックとなった一般市民を宥めすかし、スムーズな移送のための人員整備に徹することになった。
 死への恐怖から暴れ出す人もいた。人の雪崩が起きて、爆破でビルの側面にできた穴から転落し、死ぬ人もいた。私たちは拡声器を使って怒鳴りまくり、時には励まし、時には叱りつけ、マイトやエツコは拳まで使って人々の群れを統制した。
 途中、ホワイトが私に愚痴をこぼした。
「俺たちは整備工なのに、これじゃあ政府の牧羊犬だ」
「良いんだよ、それで。さっきの一働きが、整備工としての最後の仕事だったのよ。もうじき、このビルは崩れるわ。そうしたら、私たちの役割はなくなるんだから」
「……」
 ホワイトは唇を噛み締めて、何も返してこなかった。
 多少のアクシデントは至るところで起きていたが、全体的に見れば、避難活動は何とか無事に完了した。
 無線により、シンディ以外の第三雑居ビル整備課の全員が集めらた。私たちは、ずっと遠くから自分たちが住んでいたビルを無言で眺めていた。こんな時、いつもならすっ飛んできて粗探しをしては私たちを怒鳴りつける課長ですら、今は何も言わなかった。あまりにも事が大き過ぎて、怒る気力さえないのだろう。
 課長に怒られずとも、おそらく今後私はポリスの尋問を受けることになるだろうし、整備課の全員が、社の命令を無視して動いたことに対しての査問委員会が開かれることになるだろう。それを考えると、ウンザリする。
 人々がざわめいている。
 子供の泣き声。
 大人の怒り声。
 ボソボソと小さく囁きあう声。
 足音。
 政府やポリスのメッセージを、機械的な声で読み上げる特設テレビの音声。
 ニュースキャスターの事務的な声。
 ざわざわ。
 ざわざわ……。
 ドッ。
 低音が響いた。
 一瞬にして消えるざわめき。
 ドドン!
 再び低音。静寂の中にドロドロと地響きが響き渡る。
 ビルの横っ腹に数箇所、灰色の煙が噴き出した。
 ドドドドドドド……。
 更に強くなる地鳴り。
「ビルが……」
 誰かが呟く声がした。
 数え切れないほどの人々の目が、私たちのビルに注がれていた。
 隣接する第六企業ビルを巻き込んで、南極の氷のように崩れ落ちる長い長い灰色の影。
 すぐに濃い粉塵に飲み込まれ、見えなくなってしまう。
 溜息。
 落胆の声。
 啜り泣きが近くで聞こえた。
 私の隣でホワイトが、手で目元を押さえて泣いていた。
「泣くなよ、バカ」
 私はホワイトを小突いた。
 爆風で膨らんだぶ厚い粉塵のカーテンが、私たちのいる場所まで広がってきた。まるで雪山の雪崩に飲み込まれるように、私たちは灰色の中に閉じ込められた。
「皆さん、吸い込まないように! 埃が風で流されるまで、口元を覆っていて下さい」
 大きな特設スピーカーから、消防士の怒鳴り声がワンワンと響いた。言われなくったって、こんな中で大口開けて深呼吸する人間なんていないだろう、と私は思った。
 ゴウン、ギュイイイィィィィィィィ……。
 マシンが作動する音。
 どこから持ってきたのか、軍用大型トラックで運ばれてきた巨大な工事現場用らしきファンが、人の群れの所々に設置されており、それが一斉に動き出した。すぐに強風が巻き起こり、粉塵を遥か彼方へと吹き飛ばしてゆく。ファンの轟々鳴る音と、粉塵とファンの音に驚いて火が付いたように泣き出した子供の甲高い声、それにあちらこちらでゲホゴホと咳き込む音が聞こえた。
 私はゴーグルを装着して口元をタオルで覆っていたので、特に苦しくはなかった。ゴーグルのお陰で、煙が徐々に薄くなってゆく過程を観察することができた。灰色のカーテンが切れ切れになり、再び覗いた空の色は目が痛くなるような美しい青だった。
 粉塵が去り、ファンが役目を終えて電源を切られると辺りは静かになった。そして再び人々のざわめきが戻ってきた。
 隣に立つホワイトを見ると、彼はゴーグルをしないまま啜り泣いていたようで、涙が流れた跡に粉塵が付着して、ドロドロに汚れていた。
「げぇ、お前、きったない顔!」
「え?」
「普段は仕事に不真面目だったくせに、こんなときばっか、人一倍泣きやがって」
 私は口元に当てていたタオルを、ホワイトに突き出した。無言で顔をゴシゴシ拭うホワイトの肩に、エツコが苦笑いしながら腕を回した。
「ったく、あんたはホント赤ん坊だねェ。うちのチビの方が、まーだマシよ」
「エツコの子供って、いくつだっけ?」
「五歳」
「俺、五歳に負けてるんすか?」
 タオルから顔を出したホワイトが、いじけて呟いた。
 課長以外の整備課の皆が笑った。
 笑うしかなかった。
 悲しい顔をしていたって何も始まらない。
「課長、これからどうなるんすか」
 マイトがぶっきらぼうに課長に尋ねる。
 課長はこれ以上ないくらいに不機嫌だった。怒るといつも真っ赤になる課長の頬が、今は土気色に見える。
「わしが知るか!」
 吐き捨てるように言って、課長はEEの重役たちが鎮座する仮設テントの方へドスドス歩いて行ってしまった。
「カンカンですね」
 チェが困惑して呟く。マイトが肩を竦めた。
「俺たちはともかく、課長だって良くて左遷、悪けりゃクビだろうからな。そりゃ不機嫌にもなるだろ」
「まあ、そうですよね」
「俺たち、どうなるんすかね……もう中階層には住めないし、エアロバイクにも乗れないのかなぁ」
 ホワイトがぽつりと漏らした。
「そうかもしれんが、最後にやれるだけのことはやったんだ。気持ち良いじゃねぇか」
 シマダが腰を伸ばしつつ、風呂上りのようなさっぱりした顔で言った。
 そうだ。
 やれるだけのことはやった。
 正義の味方を気取るつもりはないし、自分たちの力を過信しているつもりもない。
 私たちはヒーローではない。ただの一般市民、特別な人間ではない。
 けれど、できる範囲の中で、もがいてもがいて出せる力は出し切った。例えその結果が報われなかったとしても、やれるだけのことはやったのだ。
 私たちはきっと大丈夫。
 また一から出直せる。
『ティム……』
 私は心の中で、彼の名を呟いた。
 もう二度と会うことのない恋人の名を。
 下から三分の一ぐらいを残して瓦礫の山となった私たちのビルを、私はずっと見つめていた。
 ティムはおそらく、あの中に埋もれているのだろう。
 そう考えたら目頭が熱くなってきた。

8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(4)

「まーた泣いてんのかよ、ロンカは」
 マイトが呆れた声を出す。煙草の匂いがした。振り返ると、マイトは一人、暢気に煙草をふかしていた。
 私はマイトを睨んで目元を拭った。
「だって、しょうがないでしょ! 恋人がテロリストで、おまけに死んじゃったんだから……」
「はいはい、そりゃあ悲劇的だな。でもよ、そんなろくでもない男なんて、さっさと忘れちまえよ。だって、結局騙されてたんだろ?」
「うっさいわね。それでも幸せだったのよ。だからこそ、こんなにショックなんじゃない! すぐに忘れられるわけがないでしょ、マイトの無神経」
「大丈夫大丈夫、新しい男ができりゃ、すぐに忘れるって」
「ふざけんじゃないわよ。そんなに簡単に男なんてできないわよ! だから、ティムにまんまと引っかかったんじゃない。簡単に次なんて、見つかるわけが……」
「じゃあ、俺が付き合ってやるよ」
 マイトがにんまり笑って言った。
 私は白けた表情で肩を落とした。
「つまんない。もう、そういうジョークはいらないから」
「いや本気だから」
「ええッ?」
 大声を出したのは、私ではなくホワイトだ。毒でも飲まされたような顔で私とマイトを凝視している。
「何度も言ってんだろ」
 マイトは何事もなかったかのような、飄々とした調子で言う。私は硬直する。
「……ほ、本気だったんすか……」
 ホワイトが呟くと、マイトは軽く頷いた。
「そうだってば」
「嘘でしょ……?」
「嘘じゃないって。俺、一度もジョークだなんて言ってないもん」
 そうだったろうか?
 マイトの背後で、エツコが笑いを必死で堪えていた。
「ちょ、ちょっと! エツコ、何笑ってんのよ」
「――まあ、私は気付いてたけどね」
「はァ?」
「年の功で、敏感なのよね」
 最低な職場だ。
「はーッ、ハードワーク後の煙草は格別ね」
 エツコも煙草に火をつけて、いかにも美味そうに目を細めた。
 その一言に火をつけられたのか、シマダ、チェ、ホワイトの三人まで煙草を取り出し、火を点けた。
 私以外の全員が煙草を吸っている。
 最低な職場だ。
 私は顔を顰める。
「……もう、全員禁煙しろよなー」
 私は内心物凄くドキドキしているのに、平静を装って毒づいた。エツコが無理無理、と首を横に振る。
「こんだけ長いこと吸ってるとね、もう吸わない人生なんて考えられなくなるのよ」
「おぇぇ、信じらんない。私、煙草のケムリ、大嫌いなのよね。だからね、マイト。煙草吸う男なんて勘弁なのよ」
 私が上目遣いにマイトを睨むと、マイトは少し笑って思い切り煙草を吸い込んだ。肺にも胃にも、体内全ての空洞に煙を充満させようとしているかのような勢いで。
 そして、鼻の穴からも口の穴からもモクモクと煙を吐き出しながら呟いた。
「――じゃあ、煙草やめるよ。それで良いんだろ?」
「えっ……?」
 口をぽかんと開けた私の目を見つめたまま、マイトは煙草を地面に落とし、無骨なワークブーツの踵で捻り潰した。
 私は唖然として、ぺしゃんこになった煙草の吸殻をいつまでも眺めていた。

8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(5)

 騒動が一段落した後、ポリスの厳しい尋問を受けるだろうと覚悟していた私だが、他の社員たちと同じく簡単な事情聴取を受けただけだったので、ちょっと拍子抜けしてしまった。
 もしかしたら泳がされているだけかもしれないと勘繰って、しばらくの間警戒して過ごしていたのだが、特にポリスからマークされているということもなさそうだった。後に判明した話だが、何と課長が上手いこと取り繕ってくれたらしい。裏口のロックを知らぬ間に不正解除され、社のデータをテロリストたちによって盗み出されていたと言い張っていたのだそうだ。
 あの鬼課長にしては珍しく、部下に対する親心でも沸いたのだろうか……と感心したのも束の間で、実は課長はただ自分の保身のために動いていただけだった。部下の私が大きな不祥事を起こせば、ただでさえ分が悪い現在の課長の進退にも当然多大な影響が及ぶ。しかし例え課長の身勝手で打算的な行為だとしても、結果オーライ、私にとってはありがたいことだ。面倒事にならずに済んだので、正直ほっとしている。
 監視カメラはうちの課にも取り付けられていたけれど、ビルが崩壊したので証拠となるものは何も残されていない。更に、ティムは崩れ落ちるビルと運命を共にしたので彼の口から私の名前が漏れることもない。そして、ティム以外のテロに関わった真世界党の連中は、ティムが私を篭絡してEEの社内機密文書を手に入れたことを、彼から報告されていなかったらしく(つまりあれはティムの独断による単独行動だったのだ)、真世界党側からも私の情報がポリスに漏れることはなかった。
 私は重ね重ね、運が良かった。
 そんなわけで、私とティムに関する一連の出来事は、私を含む第三雑居ビル電気系統整備課社員と、ミランダの記憶の中だけに封印されている。彼女はあの騒動の中、無事に逃げおおせることができた。今は別のビルで雑貨屋を営んでいる。レインドロップなんかよりも、もっとフランクでお洒落な店だ。
 第三雑居ビルと、第三雑居ビルが崩れ落ちるときに巻き添えになった第六企業ビルの残骸は、後始末に一年以上も費やすこととなった。掘れば掘るほど犠牲になった人々の遺体が発見され、報道される被害者数は日々増えていった。
 事件から三ヶ月ほど経ったある日、テレビでニュースを見ていたら、崩れ落ちるビルの映像の隣にティムの顔写真が大きく映し出された。
 ショックで息が詰まり、私の指は反射的にリモコンのチャンネル変更ボタンを押していた。これ以上、彼に関する情報を脳にインプットすることは避けたかった。
 忘れたければ、距離と時間を置くしかない。そうすれば例え忘れることなどできなくても、いつしかただの懐かしい過去の一部として、自分自身にダメージを与えることなく受け入れられるようになる。今度の件もそうあって欲しいと切実に願った。
 あれからもう三年の月日が流れた。
 大規模なテロ騒ぎがあったにも関わらず、世の中はほとんど変わっていない。事件のせいで、それまでの政府のトップは引き摺り下ろされ、低所得層に有利なスローガンを掲げた候補者が選挙で当選したけれど、結果的に人々の生活にはあまり変化がなかった。上階層と地表の経済格差はちっとも縮まらないし、貧しい人々は相変わらずの苦しい生活を強いられている。
 でもきっと、少しずつ良くなっていくだろう。
 生き物の進化過程だって急激に変わったわけではない。何世代も経て徐々に環境に適応してきたのだから、人間の世界だって同じように段々変わっていくだろう。そのスピードは目に見えないくらいのスローペースかもしれないけれど、状況は確実に変化している。
 だって私たちは、それぞれがこんなにも毎日懸命に生きているのだから、世界が変わらないわけがない。大勢の人々が自分のより良い生活のために、家族や愛する人が幸せになるためにと願っているのだから、その願いが通じないわけはない。
 きっと、きっと少しずつ。
 例え世界のトップに立てなくても、悪の帝王にならずとも、普通の人間のままだって……私はそう思いたい。
 事件後、私たち第三ビル電気系統整備課の人間は、課長以外の全員が解雇された。
 シマダは整備工稼業から引退し、現在はセントラルからずっと離れた山奥で、大切な奥方と共に、家庭菜園を作って自給自足の隠居生活を楽しんでいる。
 真面目で素行の良いチェは、なんと政府から引き抜かれ、公務用エアロカーの運転手に転職した。時折空中ですれ違うが、いつも白い手袋とパリッとした上品なスーツを着用しており、EEにいた頃のオイル塗れで薄汚れたツナギ姿とは別人のようだった。しかしすれ違い様に交わす挨拶は相変わらずで、エアロバイク乗りの良くやる乱暴な敬礼みたいな動作だ。私はそれを見る度、嬉しい気分になる。
 エツコは専業主婦となり、昨年三人目の子供が生まれた。彼女とは今でもよく飲みに行く。若いと言って良いのか大人げがないと言うべきか分からないが、あのノリは相変わらずだ。
 彼女のエアロバイクの免許はまだ有効で、EEから支給されていたエアロバイクを取り上げられてしまった今でも、旦那のエアロバイクを無断で乗り回しては叱られている。だが、もうすぐ免許更新の時期が迫っているようで、そろそろエアロバイク乗りとして復帰しようと目論んでいるらしい。エアロバイクの免許は、特殊職以外の一般市民には取得が不可能なので、エツコが免許を更新するにはいずれかの会社に所属する必要がある。まだ子供も幼いというのに、エツコはどうしてもエアロバイク乗りの血が押さえられない、と酒の席で漏らしていた。
 シンディの姿を見たのはあの事件の日が最後だった。それ以降の彼女の消息を私は知らない。特に興味も引かれないので誰かに尋ねたこともない。けれど、おそらく今もどこかのビルの上階層から、階下を見下ろして生活しているのだろう。
 ホワイトは、第十五雑居ビル等を管轄としているハロルド・エレキテルの電気系統整備課に転職した。EEにいるときには、仕事に対する愚痴ばかり溢していたホワイトだったが、何だかんだ言っても整備工の仕事を愛しているのだろう。しかしここまで頑張るとは正直思っていなかったので、少しだけ見直した。
 ホワイトにはつい最近、年下の可愛らしい彼女ができた。それは大変良いことだと思うのだが、会う度にデレデレしながら端末に撮り溜めた写真を見せびらかしてくるのには辟易する。だが、しばらくの間彼の教育係だった私としては、後輩が充実した生活を送っているのを垣間見ることは嬉しいものだ。
 マイトもホワイトと同じく別会社の同職に就いた。経験豊富なマイトは、EEを解雇されると同時に複数の会社から引き抜きの電話が掛かってきた。すぐに転職先が決まったマイトだったが、何故か私まで彼にくっついて再就職する運びとなってしまった。
「お前だって、どうせエアロバイクに乗るくらいしか能がねぇんだからさ」
というマイトの発言にはカチンときたけれど、悔しいことに、マイトの意見は的を得ている。それに整備工の職に再び就いたお陰で、エアロバイクも中階層暮らしも、若干の変化はあったにしろ失わずに済んだのだ。ティムと事件のことを思い出すのが辛くて職変えしようかと悩んだ私だったが、今となってはマイトに感謝している。
 私も結局、エアロバイクに乗るのが一番性に合っているのだ。
 現在の職場も相変わらずスモーカーばかりだ。この職場では新人のくせに、私は遠慮の欠片もなく先輩たちに悪態をついては苦笑いされている。
 どうしてこうも、エアロバイク乗りにはスモーカーが多いのだろうか。
 終業後、停車したエアロバイクに跨って遠くの空を眺めながら吸う煙草の味が、スモーカーにとって格別なものなのだろうということには薄々感付いているが、それでも私は煙草なんて健康に悪いものを吸う気にはなれない。
 そうそう、最後にもう一つだけ。
 こんなスモーカーだらけの職場だけれど、マイトの禁煙は奇跡的にまだ続いている。

 

 

 Fin