目次
1.エアロバイク乗りの日常
1.エアロバイク乗りの日常(1)
1.エアロバイク乗りの日常(2)
1.エアロバイク乗りの日常(3)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(1)
2.エアロバイク乗りの非日常~合コン~(2)
3.正反対、だから気になる
3.正反対、だから気になる(1)
3.正反対、だから気になる(2)
3.正反対、だから気になる(3)
4.地表
4.地表(1)
4.地表(2)
4.地表(3)
5.平穏な生活
5.平穏な生活(1)
5.平穏な生活(2)
5.平穏な生活(3)
5.平穏な生活(4)
6.ネズミ
6.ネズミ(1)
6.ネズミ(2)
6.ネズミ(3)
6.ネズミ(4)
7.テロリスト
7.テロリスト(1)
7.テロリスト(2)
7.テロリスト(3)
7.テロリスト(4)
7.テロリスト(5)
7.テロリスト(6)
7.テロリスト(7)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(1)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(2)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(3)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(4)
8.終幕、そしてまた始まるエアロバイク乗りの日常(5)
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3.正反対、だから気になる

3.正反対、だから気になる(1)

 ホワイトが会社に来なくなった。三日間の無断欠勤だ。
 同僚からの電話はもちろん会社からの電話にも出ないようで、課長はカンカンにご立腹だった。朝礼時にホワイトの姿がないのを確認する度、課長はクビだクビだと額に青筋を立てて喚いている。
 ホワイトが欠勤続きなので、私はシンディと二人で点検作業をしていた。二人でとはいえ、当然のことながらシンディは何もしないので、実質私一人で全てをこなしているようなものだった。
 こんなことなら、むしろシンディも休んでくれれば良いのに。
 しかしシンディは、仕事はろくすっぽしないくせに就業時間だけはやたらとキッチリ守る。遅刻も欠勤もほとんどない。逆にそれが私にとっては更に煩わしく、そして負担となる。
 電気系統整備業務は、単独行動は危険回避のため原則として禁止となっている。だからもしシンディがいなければ、私はマイトとエツコにくっついて仕事をすることになる。一日中シンディと二人きりの状況に比べれば、彼らのパシリにでもなった方がよっぽど気が楽だ。
「ホワイトの奴、課長の言うようにこのままクビなのかなあ」
 昼の休憩中、マイトたちと合流して昼食を食べていた私はエツコに尋ねた。
 エツコは口の中のハムサンドをオレンジジュースで流し込みつつ首を捻った。
「まぁ、今のところはまだ大丈夫なんじゃないの。うちの仕事なんてさ、新人雇っても使い物になるまで時間掛かるし、そう簡単にはクビになんてしないよ。でも、このままアイツの無断欠勤が続いたら、そりゃあそのうちねぇ」
「ロンカ、様子見に行ってこいよ」
 マイトが無責任に言い放つので、私はえぇ、と低い声で不満を漏らした。
「なんで私が」
「だってお前、ホワイトの次に下っ端なわけじゃん。こういう雑務はさ、下の人間からやるもんだよな」
「そうよそうよ」
 エツコもマイトに同調する。こうなったらどうあがいても勝てっこない。ここはそういう体育会系な職場だ。
「下っ端で言ったら、私よりシンディじゃんか」
「馬鹿。あの子になんて誰も期待してないでしょ、そういう役割」
 エツコが横目で私を見て、首を横に振る。
 シンディは今、この場にいない。EEの整備工たちは、昼食は弁当持参か近くのスーパー等で買って来て、作業途中の空き時間に道端や公園で食べている。作業効率と節約を考えてのことだ。

 だがシンディはそれを嫌がり、いつも十二時きっかりに、一人でカフェやレストランへ行ってしまうのだ。上階層のお高いランチでも気にもしない。

 もし私やホワイトがシンディと同じことをしていたら、給料を使い果たしてすぐに生活していけなくなるだろう。上階層にある飲食店のランチときたら、低階層のディナー三日分くらいの値段が相場なのだ。
「ったく、給料も出ないプライベートな時間を、ホワイトなんかに割かなきゃならないなんてさ」
「そう言うなよ。より良い職場環境のために、ひいては自分のためにだぞ」
「調子が良いんだから。だったらマイトが行ってよ。同性の先輩の方が、ホワイトだって色々と話しやすいんじゃないの」
 私が言うと、マイトは目を細めて小狡い表情になった。
「いや、こういうときには異性の方が良い」
「どういう理屈でそうなるの?」
「理屈じゃない、先人の知恵だ」
「何よそれ。っていうかぁ、もしホワイトんち行って二人きりで相談事なんてしててさ、そういう雰囲気にでもなっちゃったらどうすんのよ? 私だって一応、女ですからァ」
「――ないだろ?」
「……まぁ、ないだろうけどさ」
「あっても別に構わないだろ」
「絶対イヤなんですけど」
 マイトは頑として「お前が行けよ」と言い張る。エツコなどはさりげなく会話から離れて、ハムサンドを食べることに集中していた。多分、興味がない素振りをすることで、自分は既に無関係なのだというスタンスをさりげなく見せつけているのだ。エツコもこういう時、結構セコい。

 うちの職場はそんな人間ばかりだ。私だって、これまでの人生において特に良い人扱いされた経験はないけれど、この職場内に限って言えばかなりお人よしの部類に入るだろう。
 ホワイト不在のために発生した一時間半の残業後、私は仕方なくエアロバイクを飛ばして自宅を通り越し、更に三十階下のホワイト宅を目指した。時間にすれば数分程度だが、それすら面倒臭い。他人のプライベートに首を突っ込むのには、気力体力ともに相当なエネルギーを必要とするのだ。
 エアロバイクのナビゲーションシステムを何度もチェックし、ホワイトの家を探した。彼の家に行くのは初めてのことだった。同じ間取りが延々と続くこの階層では、家の表玄関と裏玄関に掲げられた数字のプレートのみが手引きだ。間違えて他人の玄関先でうろたえるのは嫌なので、十回くらいしつこく確認した。
 あった。一九二〇一号室、ここだ。
 外壁に迫り出した裏玄関前には「9」とマーキングされたエアロバイクが駐車されていた。どうやらホワイトは在宅しているようだ。エアロバイク乗りが内側の通路を歩くなんて、近所の自販機やコンビニに行く以外、まずありえない。
 ホワイトのバイクの隣に駐車して、バイクのフロントカウルを踏み台に裏玄関へと飛び移る。玄関の呼び鈴を、わざと何度も乱暴に鳴らした。ガランゴロンと壊れた教会の鐘みたいな音が響いた。
「ホーワーイートーく~ん、ホーワーイートー……ホワイト、いるんでしょ、出てきなさいってば!」
 何度呼び鈴を鳴らしてもホワイトは出てこないので、握り拳でドアを無遠慮にドンドン叩いた。それでもまだ出てこない。業を煮やした私は、ドアを蹴破ってでも開けてやろうと、足を思い切り後方へ振り、反動をつけて前へと蹴り上げた。
 が、私の鉄板入りブーツの爪先が思い切りヒットしたのは、ドアではなくて丁度ドアを開いたホワイトの脛だった。ホワイトはヒィヒィ泣きながら、脛を押さえて床を転げ回った。私は呆気に取られ、ぽかんと口を開けてその様子を見守った。
「……大丈夫?」
「大丈夫じゃないっすよ! ロンカさんが蹴ったんでしょ!」
「別に、あんたのことを蹴ろうとして蹴ったわけじゃないのよ。ドアを蹴ろうとしたら、あんたが突然出てきたから……まあ、さっさとドアを開けないのが悪いよね」
「絶対ロンカさんが悪い」
「ごめんね」
「今、面倒だからって適当に謝ったでしょう」
「うん」
「……」
 ようやく痛みが治まってきたのか、ホワイトは床を転がるのを止めて、脛を摩りつつ恨めしげに私を見上げた。私は小首を傾げ、愛想笑いで誤魔化そうとした。
「嘘よ、嘘。ごめんね、ちゃんと謝るから」
「そんなんだから、モテないんだ」
 今度は私がホワイトを睨みつける番だった。
 私が本気でムッとしたのを確認すると、ホワイトはそれで満足したのか、口元を歪めて少し笑った。ホワイトも先輩方に負けず劣らず、性格がとことん捩れている。
 不機嫌になった私は、ホワイトを押し退け図々しく彼の家へと上がりこんだ。
 窓から西日の差し込む部屋は、私の家と同じ間取りの1DK。しかし、例え間取りは同じでも、その雰囲気は随分違う。
 壁にベタベタ貼られたパンクバンドのポスターや、無造作に立て掛けられたギター、空き缶やゴミだらけの床。それに部屋中に立ち込める煙草の嫌なにおいと、古着屋みたいなにおい……こういうのを「男臭い」と言うのだろう、そんな淀んだ空気が滞している。
 私は鼻の上に皺を作った。
「くっさー」
「うるさいなあ……何しに来たんすか」
「あんたが生きてるか確認しに来たのよ。マイトとエツコに押し付けられてさ」
「この通り生きてますよ」
 ホワイトは両手を広げて肩を竦めた。上下とも灰色のスウェットで、足は裸足、髪は酷い寝癖で、毛先があっちこっちに広がったり縮れたりしている。
「じゃあ、何で会社に来ないのよ」
 私が問い質すと、ホワイトは歯切れの悪い口調で答えた。
「……別に……ダルいから……」
「あのねえ、学生じゃないんだから、そういう無責任なこと言うんじゃないの。嫌なら嫌で、ちゃんと辞表出しなよ」
「厳しいんすね」
 私は目を吊り上げる。
「馬ッ鹿じゃないの。周りが迷惑すんだよ。学生時代と違って、あんただけの問題じゃないんだから。私らの仕事はチームでやってんだよ。あんた一人抜けただけでも、仕事に支障が出まくりよ。大体、考えてもみてよ。あんたが来ないせいで、私は毎日あのシンディと二人っきりでやってんのよ。一人で残業までしてさ。もう耐えらんないわ!」
 ホワイトは聞き取れるか聞き取れないかぐらいの小さな溜息をついて、ベッドの端に腰を下ろした。私はその前に仁王立ちになって、ホワイトを見下ろした。寝癖だらけの髪の隙間にホワイトの旋毛が見えた。
「さ、どうすんのよ。出てくる? それとも辞める?」
「――ロンカさんはぁ、オバケ見たことありますか?」
 突然何の脈絡もなく話が切り替えられ、私は戸惑った。
 オバケ?
「……」
「見たことないっすよね」
 ホワイトは私から視線を外した。
「……オバケって何?」
「いや、別にいいんすけど……どうせロンカさんにこんな話したって、馬鹿にされて笑われるか、ふざけてんのかって殴られるだけだし」
 自嘲的に笑うホワイト。私は眉間に皺を寄せた。
「マジメな話なの、それ」
「はい、大真面目にオバケの話してんすよ」
 私は頬を引き攣らせてハハハ、と甲高く笑い鼻を鳴らした
「――本気? それとも病気? 脳味噌の」
「本気ですってば! 俺……こないだ、実はオバケ見たんすよ」
「……」
「終礼が終わって皆帰った後、点検場所に道具箱忘れてきたことに気付いたんすよ。大体の場所の目星はついてたんで、取りに行ったんすけど。点検ポイント開けて中に入ったものの、明かりをつけようとしても、何故かつかなくって。あれ、故障かな、と思ったんすけど、もう就労時間外だったんで、報告の義務もないし別にいいかなって――」
「あんたねぇ、そういうとこがダメなのよ。バイトじゃないんだから、もうちょっと仕事に対する責任感ってモンをさ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよぅ、ソコで突っ込むのは。問題はその先なんすから、ちょっと黙って聞いてください。お願いですから」
 ホワイトが両手を顔の前で擦り合わせて懇願するので、私は仕方なく小言をストップさせた。
「……それで?」
「俺、懐中電灯つけて、奥へ入ってったんすよ。道具箱は、すぐに見つかりました。で、腹も減ったし、さっさと帰ろうと思って振り返ったら……」
 ホワイトはそこで、わざとらしく言葉を切った。唾をゴクリと飲み込んで息を吐く。ホワイトの喉仏が大きく上下した。
「振り返ったら、どうしたの?」
「ロンカさん、点検ポイントでネズミ見たって騒いでたじゃないですか」
「え?」
 そういえば、そんなこともあったっけ。素早く過去の記憶を穿り返した。
「多分あれ、ネズミじゃなかったんすよ」
「はァ?」
「大きさは確かにネズミ大です。これっくらいの」
 ホワイトは両手の親指と人差し指で輪を作った。それはまさしく肥え太った鼠くらいの大きさだった。
「あれはネズミじゃないんすよ」
「どうしてそんなこと分かるんのよ?」
「だって目が真っ赤に光るんすよ! まるでライトでもつけたみたいに、二つの豆粒ぐらいの目が、ピカーッと!」
 ホワイトはそこでぶるりと震え上がった。
「オマケに、口の辺りにはビリビリビリビリ、静電気みたいに小さい稲妻が走ってるんすよ。そんなネズミ、見たことあります? あれは間違いなくオバケっすよ……そうでもなけりゃ、未知のモンスターなんすよ」
「寝ぼけて夢でも見てたんじゃないの」
「そんな、シラフで夢なんか見ませんってば!」
「あんたの説明じゃ分かんないのよ。じゃあ、絵に描いて見せてよ」
「う~ん」
 ホワイトはゴミ溜めみたいになっているサイドテーブルの上を掻き回して、チラシとボールペンを見つけ出した。そしてチラシ裏の白紙部分にボールペンの先を当て、また「う~ん」と唸った。
 ボールペンがゆっくりと紙の上を滑る。小さな丸。その右にもう一つ小さな丸。今度は丸と丸の中間、少し下辺りにジグザグの線を何本か放射線状に描く。
 ボールペンの動きが止まった。私はホワイトの隣に腰掛けてボールペンの軌跡を視線で追っていたが、あまりにもペン先が動かないので、ホワイトを促すように片眉を吊り上げた。
「あとは?」
「それがぁ」
 ホワイトは苦笑いしてペンを置く。
「真っ暗だったから、目の光と口の稲妻しか見えなかったんすよねー」
「……もーいい。アホくさくて聞いてらんない」
 私は気が抜けて、布団をバン、と軽く叩いた。埃臭い空気がもわっと漂う。窓からは、西日を眩しく反射する隣のビルが見えた。
「あっ、ロンカさん信じてないっすね」
 ホワイトが私に詰め寄った。
「俺が冗談言ってるんだと思ってるでしょ?」
「うん」
「本当なんですってば。信じて下さいよぅ」
 私は横目でチラリとホワイトを睨んだ。
「――まさか、そのネズミみたいなちっこいオバケが怖くて、仕事に来ないってんじゃないでしょうね」
 ホワイトは固まった。図星だったようだ。
「だって、だって……点検中に、また奴が出てきたりしたら怖いじゃないっすか」
「呆れた」
「ロンカさんは怖くないんですか」
「もし本当にそんなオバケがいたとしてもよ。相手は一匹、おまけにネズミ大なのよ。足でプチッと踏み潰してやればいいだけの話じゃない。怖いもクソもないでしょうに」
「こっ……怖いっすよ! だって相手は得体の知れないモノなんですよ」
「いざとなったら、元素銃だってあるじゃん」
「そ、そういう問題なんすかね……っていうか、オバケって物理的な攻撃とか、効くんすか」
「知らないわよ。オバケの知り合いなんていないし」
「……ふん。自分なんて、ネズミでギャーギャー騒いでたくせに……」
「何か言った?」 
「いえ」
「ネズミは特別イヤなのよ。あの気持ちの悪い尻尾と、病原菌の巣窟っていうところが、どうにもこうにも生理的に無理なのよね」
「聞こえてんじゃないすか」
 ホワイトは、露骨なまでに不満げな表情で不貞腐れた。だが、やがて大袈裟に肩を落とし、両のこめかみに人差し指と中指を当てて薄い唇を引き結んだ
「何それ。オバケ対策のおまじない?」
「違いますよ。ロンカさんがあんまり適当だから、頭痛くなってきたんです」
 私は舌を打って立ち上がった。
 そしてホワイトの頭を一発殴った。
「ったぁ~~~! 何するんすか」
「うっさい馬鹿! わざわざ来て、下らない悩みにアドバイスまでしてやってんのに、その態度は何よ。ほんっとに可愛くない後輩。もーいい、もー帰る」
「はいはい、わざわざありがとうございましたァ」
 ホワイトの口調は全くありがたがっていない。
 玄関先まで歩いて、私はふと立ち止まった。何のためにここへ来たのかを思い出したためだ。
 踵を軸にくるりと振り返り、人差し指をホワイトに突きつける。
「どうでもいいけど、明日からちゃんと会社に出てくんのよ。いいわね?」
「はぁ……」
 会社の話を持ち出すと、ホワイトは途端に萎れる。
「出てこなかったら、明日も殴りに来るわよ」
「……はい」
 観念したのか、ホワイトは擦れた声で返事をして項垂れた。


3.正反対、だから気になる(2)

 翌日。
 その日の朝も、私は遅刻しそうになりながらミランダの店に寄り道し、いつものように野菜が多めのターキーサンドとコーヒーを注文した。それに対し、ミランダは私に商品を手渡しながら、開けっぴろげな笑顔で「今日も頑張って行ってきなよ!」と送り出してくれるのが常なのだが、今日に限って彼女は何かを含んだ表情で私をじっと見つめた。そのため、私は思わず商品を受け取る手を止めた。
「――何?」
「こないだの今日だから、私あんまりこういう役割はやりたくないのよ。後ろめたいっていうかさ」
「はい?」
 思わせぶりなミランダの言葉に、私はいぶかしんで眉根を寄せた。
「何の話してんの」
「あのね、あんたにこれを渡してくれって人がいんのよね」
 ミランダは、エプロンのポケットから折り畳まれた白い便箋を取り出した。
「誰?」
「最近よく来るお客。良い男だよ」
「……」
 ミランダは困惑気味に苦笑いする。
「どうしようか。いる? いらない?」
 私は白けた顔で首を振った。
「いらない」
「じゃあ捨てちゃうよ?」
「うん……あ、いや待って! 一応もらっとく。多分読まないだろうけど」
「良いの良いの、受け取ってもらえるだけでもちょっと嬉しい。捨てちゃうのもさ、なんか罪悪感に苛まれるし」
「ごめんね。ミランダに気兼ねばっかさせちゃってるね、私。でも、あんたは何も悪くないんだから気にしないで」
 私が笑うと、ミランダは胸を撫で下ろした。
「良かった。こんなことが原因であんたに嫌われたらどうしようって、実はちょっぴり思ってたんだよねぇ……」
「やだ、そんな風に思うわけないじゃん」
「こないだのこと、もう引きずってない?」
「全然! っていうか私がそんなに繊細な人間だと思ってんの?」
「いや思ってない」
「言うねぇ」
「ハハハハ」
 私は手紙を受け取って、胸のポケットにしまった。
「そうだ、ロンカ。夕方暇ならお茶飲みに行こうよ」
「いつものダイナー?」
「そう」
「了解。じゃ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 私はミランダに敬礼して、エアロバイクを発車させた。
 あーあ……。
 ミランダに背を向けるとすぐに、私の顔からは笑顔が消えた。
 溜息と一緒に肩を落とす。
 ミランダには「全然!」なんて調子良く答えてしまったけれど、本当は激しく引きずっていた。あんな馬鹿をやっておいて、引きずらない方がおかしい。
 おまけに私は人一倍ネガティブで、プライドばかり高いときている。だから余計にたちが悪い。
 このままでは――彼氏ができないばかりか、自己嫌悪で自分が大嫌いになりそうだ。
「――№5、№5。聞いとんのか!」
 大声で自分を呼ぶ声に、我に返った。
 そうだ。朝礼中だった。
 考え事に夢中になって、つい課長の話を聞き流していた。
「すみません、聞いてませんでした」
「ロンカ――――――ッ!」
 課長がズカズカ歩いてきて、私の目の前三十センチぐらいのところで怒鳴った。唾の飛沫が飛んできて、私は思わず身を引いた。
「まーったく、お前という奴はどうしていつも気合が足りんのか。後輩が二人もいるんだぞ、見本となるように努力せんでどうする!」
「……はい、すみません」
「すみませんじゃない、いい加減にしろ! ったく……では本日も、エンリコエレキテル社訓、そのいーちッ」
「ひとーつ、全ての建造物の電気配線は、EE社に繋がる……」
 朝礼が終了し、私はエツコの袖を引っ張ってこっそり尋ねた。
「課長、何の話してたの?」
「えー? あぁ、また電気抜かれたって話よ」
「またァ?」
「あんたらが作業した点検ポイント、両方とも含まれてるわよ」
「えぇーっ」
 私がネズミ騒ぎを起こした場所とホワイトがオバケを見たという場所、それらを含めた5箇所もやられていたらしい。偶然にしても背筋が寒くなった。
「マジ?」
「いやよねェ。課長の機嫌も悪くなる一方だしさ。そのうち抜かれたポイントごとに、報告書纏めなきゃなんないらしいよ」
「うえぇ」
 私は思わずホワイトを振り返った。
 ホワイトは私に殴られるのが怖かったのか、それとも引き篭もるのに飽きたのか、今日はようやく職場に出てきた。電気泥棒の話が出たのでまたオバケの言い訳でも始めるのだろうかと、私はホワイトの様子を伺った。しかし、どうやらホワイトは私以外の誰にもその話題を振るつもりはないようで、ただ陰鬱な表情でじっと床を見つめていた。
 私も黙っていた。オバケ話なんてネタにするのも馬鹿らしい。
 私の視線に気付いたホワイトが顔を上げた。私はその話について自ら触れるつもりはなかったので、ホワイトの何か言いたげな視線を無視して点検の準備に取り掛かった。 しかしホワイトはどうしても何か喋らずにはいられなかったのか、小走りに寄って来て私だけにそっと囁いた。
「さっきの話、絶対あのオバケっすよ。間違いない」
「あんたまだそんなこと言ってんの? ネズミはねぇ、電気なんて盗まないのよ」
「だからぁ、そこがオバケのオバケたるところですよ」
「オバケだって電気なんて盗まないでしょ。盗んでどうすんのよ」
「食料っていうか……エネルギーにしてるっていうか……」
「へぇ、凄いね。暗闇でぼんやり光って人間を驚かすためのエネルギーにでもすんの?」
 私はホワイトを鼻で笑ってエアロバイクを発進させた。理解の範疇外の不可思議な出来事なんて、気持ち悪くてこれ以上考えたくなかった。自分の私生活についてだけでも既に脳味噌はパンク寸前なのに、これ以上厄介な出来事で煩わされたくなかった。
 その日は何事もなく終わった。ホワイトは新たな点検ポイントに入るたびにまだビクビクしていが、オバケなんてもちろん出てこなかった。私はいるかいないか分からないオバケなどよりも、むしろこの後に待ち受けている報告書との戦いの日々の方がずっと恐ろしくて、一日中溜息ばかりついていた。
 仕事を終えた私は、ミランダと約束していたダイナーへ寄り道した。ダイナーはミランダの店の一階上にあり、私たちはそこの常連だった。
 ミランダは仕事上がりにこの店へ立ち寄り、コーヒーを飲んで一息ついてから帰るのが日課だった。私も時折ミランダの終業時間を見計らってダイナーへ赴き、彼女と共に仕事後の一休憩を楽しんでいた。
 ダイナーの入り口で客席にミランダの姿を探していると、ウェイトレスの女の子がやって来た。
「あら、ロンカさんいらっしゃい」
「ミランダ来てる?」
 頻繁に来店している上にミランダの職場から至近距離というせいもあり、店のウェイトレスたちとは私もすっかり顔馴染みだ。
 私の質問にウェイトレスは首を横に振った。
「今日はまだですよ。待ちます?」
「うん」
 ウェイトレスが窓際の席に案内してくれた。私は席について、シナモンミルクティをオーダーする。ウェイトレスがくれた温かいお手拭きで両手を拭いたら、白いハンドタオルが薄黒くなった。
「……うわぁ」
 私は呆れて思わず声を漏らした。続いて顔をゴシゴシ拭う。仕事が終わってからまだ洗顔していないので、きっと顔も真っ黒だろう。お手拭きで顔を拭くなんて中年男性みたいな行動だが、人も疎らな夕食前のカフェ、どうせ誰も私のことなど見ていない。
 ああ、気持ち良い。
 顔の表面を刺激するタオルのざらついた感触と、鼻の穴から吸い込む熱い蒸気に恍惚となる。満足して大きく息を吐き出しつつ顔を上げると、そこに人影があった。
「あ、ミランダ来たの――」
 言いかけた私は硬直した。
 ミランダではなかったのだ。
 知らない男が私のすぐ横に立っていた。
「こんにちは、ロンカさん」
「はい?」
 男は細いフレームの眼鏡の下から、はにかむような笑顔を私に向ける。
 誰だっけ。
 こんな知り合いいただろうか。
 ミランダの友達だろうか。
 えっと……。
 えーっと……。
「お名前、ロンカさんでしたよね?」
「……」
 私は男の顔を凝視したまま、記憶の断片を必死に穿り返しては、目の前の人物をそれらと照合した。しかし、全く思い当たる節はなかった。
 男は戸惑ったように目を大きくした。
「あの――手紙、読んでいただけたんですよね?」
「手紙?」
「ミランダに渡した……」
「あっ」
 私は口元を押さえた。
 朝の手紙だ。
 大慌てで胸ポケットから手紙を取り出し、折り目を破きそうになりながら広げる。
『突然のお手紙、申し訳ございません。
毎朝、エアロバイクで目の前を通り過ぎてゆくあなたの姿を見ていたら、どうしても実際にお会いしたいという欲求に突き動かされ、とうとう堪えることができなくなってしまいました。どうぞ、お許しください。今夜六時半、雑貨屋上のダイナーでお待ちしております。切実に、お待ちしております。ティム』
 短いが丁寧で分かりやすい文章だった。それなのに、何度文字の上を視線が辿っても、何故だろうか、その意味はなかなか頭に入ってこなかった。
 五度も読み返し、ふと視線を上げてティムの困惑した表情を直視したその瞬間、ようやく私は悟ることができた。
 ああ、何というバッドタイミング。
 どうしよう。
 どうしよう……。
 こんな状況、慣れていない。
 普段勢いだけで行動しているくせに、意外と不意打ちに弱く、臨機応変という言葉が非常に苦手な私。不器用なので対応の仕方が分からず、困って視線を床に落とした。
 前髪の隙間からティムの様子を伺うと、彼は混乱渦巻く私の視線に怖気づいたのか、気まずそうに視線を泳がせた。強張った白い頬が、心なしか赤く染まっている。
 しかし元来の彼は、どうやら私のように不器用や混乱癖とは無縁のようだった。彼の瞳はすぐに確固たる自信の光を取り戻し、私を再び捉えた。
「すみません。呼び出してしまって」
「……」
「えっと、あの」
「……」
「俺、ティム・コールドウィンと言います」
「……はぁ」
 男――ティムは名乗って、私に名刺を差し出した。私は渡されるままに名刺を見た。肩書きは、エルド広告代理店のデザイナー。エルド広告代理店と言えば、お洒落業界では知らぬ者などいない大手の会社だ。その肩書きを裏付けるかのように、ティムは業界人染みて垢抜けたファッションをしており、先日の合コンみたいな場にこういう男がいたらさぞかしモテるのだろうな……と他人事のようにぼんやりと思った。
「ご注文、何になさいますか?」
 ウェイトレスが興味津々な顔で私とティムを交互に見た。
「コーヒーで」
 ティムが答える。
 私は軽く眉間に皺を寄せて、内心の不安をこっそりとウェイトレスに伝えようとした。だが、ウェイトレスは何故かちょっと笑って、私にウィンクして去って行った。
「こうでもしないと、お話することもままならないと思いましてね」
 ティムが再び話し始めたので、去って行くウェイトレスの背中にしつこくヘルプミーの念を送り続けていた私は、慌てて彼に視線を戻した。
「……」
「ご迷惑でしたか?」
「……いえ」
「ここ、座っても良いですか?」
 私の向かいの席を示してティムが尋ねた。私は仕方なく頷いたが、本心では相変わらず困惑状態が続いていた。
 早くミランダが来てくれれば良いのに。
 気まずさを隠すように、冷め掛けたミルクティを啜る。きっと喫煙者ならこんな時、煙草に火をつけるのだろう。
「あの、堅苦しいのもなんですし、普通に喋っても良いですか? 友達に喋るみたいに気さくな感じで」
「ええ、はい」
 私は低い声で答えた。ティムはふう、と息を吐き出して笑った。
「ああ、良かった。俺、苦手なんだ。丁寧に喋らなきゃって思うと、どんどん言葉が変になっちゃって、ジェントルぶってみてもボロが出るし。ごめん」
「……」
 ティムは私の言葉を待っていた。けれども私は何も喋れなかった。俯いて、ミルクティを啜るふりをひたすら繰り返すだけ。
 ティムは私を安心させようとしているかのように、人好きのする笑顔を浮かべて言葉を続けた。
「俺、どうも君のことが気になって――つまり、どうやら君に気があるみたいなんだよね」
「喋ったこともないのに?」
 思わず口を突いて出た言葉に、私自身がまた戸惑った。
 うわ、意地悪な言い方。
「いや、そうだよね、うん」
 ティムは苦笑いだ。
 そんなんだからモテないんだ、と同僚たちが私を馬鹿にしている映像が脳裏に一瞬浮かんだ。
 だって……と、心の中で反論する私。
 だってどうすれば良いのか分からない。
 自分に自信がないので他人から好意を持たれると、どうしても疑って掛かってしまう。
 何か裏があるのではないか、とか。
 こんな良い男が自分を好きなわけがない、とか。
「嫌な言い方しちゃってごめんなさい。でも私、オイルで薄汚れたツナギ着て、エアロバイク乗り回しているような、可愛げのない整備工なのよ。そんな女を、喋ったこともないのに好きになる男なんている? 疑っても当然だわ」
「随分と自虐的に言うんだね」
「他人から言われたことよ」
 先日の合コンの場面が脳内で再生される。
 急に自分が恥ずかしくなり、頬が熱くなった。
 ああ、もう、この場から一目散に逃げ出してしまいたい。
 ちら、と視線を上げてティムを盗み見る。
 糊の利いたセンスの良いシャツ。嫌味のない短髪。お洒落な眼鏡。上品な顔立ち。全身からインテリジェンスが滲み出ている。
 心臓がまた一段と鼓動を加速させる。もう焼けつきを起こしてしまいそうだ。
 恥ずかしい。
 ティムに比べて、小汚い自分が更に惨めに思えた。
「……本当に本気なの? からかってるだけなら止めて欲しいんだけど」
 最後の力を振り絞って尋ねた。
 ティムは一瞬きょとんとしたが、すぐに肩を震わせて笑い出した。
「そんなに胡散臭いかな、俺」
「え? 違う、そういうわけじゃないの。あなたじゃなくて、ただ――私自身の問題よ」
「言っとくけど、世の男全員が全員、ナイスバディのブロンド美人が好きっていうわけじゃないだろ。ロリコンだってデブ専だってゲイだっている。でしょ?」
「……まあ」
「つまりさ、そういうことなんだよ。極端な話、人の好みなんて十人十色」
「……」
「俺は、君に興味があるんだ」
 そんなこと言われたって。
 私は再び視線を床に落とす。
 何なんだろう、この会話。
 気持ち悪い。
 何が気持ち悪いって、ティムのことではない。
 自分だ。
 どうすれば良いのか、相変わらず全然分からない。空回りしてばかりだ。
 だけど……。
「お待たせいたしました」
 ウェイトレスがティムの前にコーヒーを差し出す。ティムが礼を言っているのが、俯いた私の額に掛かる前髪の間から見えた。
 ウェイトレスの手元から私へと、ティムの視線が戻る。眼鏡のフレームが照明を反射して光っている。
 ティムと視線が合うたびに、自分の鼓動が加速してゆくのを感じた。
「……私はどうしたら良いの?」
 正直に口に出した。
 私の脳は処理能力の限界を超えていた。もう、これ以上考えても無駄だと思った。
 それならばいっそのこと、素直に分からないと伝えた方が良い。
 その方がマシだ。
 だってこれ以上、可愛くない女になりたくない。
 ティムは待ってましたと言わんばかりに、テーブルの上に身を乗り出した。
「ミランダに聞いたんだけど、ロンカさんは」
「ロンカで良いよ。さん、なんてつけないで」
 ティムはちょっと嬉しそうに頷いた。
「ロンカは今、フリーだよね?」
「……そうよ」
「今度、デートしよう。で、お互い気があったら付き合ってみない?」
「本気?」
「本気だよ。だって、エアロバイク乗りの彼女なんてカッコイイじゃんか。俺、ずっとエアロバイクに乗ってみたかったんだよね。そういう憧れを女の子に投影したら、何か変かな?」
 ティムは悪びれる風もなく言った。
 女の子が、高級エアロカーでクラブに乗り付けてくる男に憧れるのと同じ心境なのだろうか。それをあっけらかんと言い放つティムの素直さには、好感が持てた。
「別に悪かないけど……私、あなたのこと何も知らないもの。そんな状態で無理よ」
「お試しで良いじゃんか。ダメなら別れれば良い」
「そんな軽いノリで?」
「そうだよ。何だって、やってみなきゃ分かんないでしょ」
「……」
 私は少しの間考え込んだ。けれど、もう一度ティムの笑顔を目にして思った。
 私が可愛くないことを言っても、さらりとかわす大人な態度。
 ちょっと変わってるけど……こんな人、今逃したらきっともう二度と現れない。
「……良いよ」
 その三文字を喉の奥から搾り出すのが、どれほど息苦しかったことか。
 羞恥心と不安で、身体中の血が沸騰しそうだった。
 けれどもその直後、満足げな表情でコーヒーカップに落としたスプーンをかき回しているティムを見ていたら、それすらどうでも良くなった。
 やばい。
 なんだろう……このときめき。
 こんな簡単な展開で良いのだろうか。ティムにしてみれば私の顔は何度も見ているものなのだろうが、一方の私はと言えば、初対面から十分も経っていないのだから。
 いや、きっとそんなことはどうでも良いのだ。
 問題はこれからだ。
 それこそティムの言うように、デートでもして時間を掛けて見極めれば良いだけ。
 ああ、ミランダに報告しなきゃ……。

3.正反対、だから気になる(3)

「で? 何はともあれ、結果オーライってことよね?」
 ミランダが、私をからかうように人差し指を突き出した。ここは先日ティムと出会ったダイナーだが、しかし私の向かいに座っているのは、今度こそ正真正銘ミランダだ。
「止めてよぉ」
 私は緩んだ頬を両手で押さえ、身体をぐにゃぐにゃ動かした。
「でもさぁ、一瞬『あのくそったれミランダ!』って、めっちゃキレそうになった」
「今は?」
「心の底から感謝してる」
 ミランダはよしよし、と頷いた。
「ティム、どうよ。私が言ったとおり良い男じゃない? 男前だしお洒落だし金持ってるし……まぁ、ちょっとズレてるけど」
「うん……ズレてるよね。真面目な話、ズレてなきゃ出勤途中の私を見て紹介してくれなんてミランダに頼まないと思う」
「ぶっちゃけそうよね。あんたには悪いけど」
「もー、ミランダってば!」
 すまし顔で言うミランダに、私は殴るようなジェスチャーをする。
「ごめんごめん。でもさ、ほら、恋愛って自分に欠けてるところを、相手に求めたりするもんじゃんか。ティムはあんな感じで、何ていうのかな、物静かで知的っていうの? だから野蛮で活発なあんたに惹かれたんじゃないの」
「野蛮って」
「ぱっと見よ、ぱっと見」
「ふうん」
「だってエアロバイク乗りだよ。野蛮以外のどんな言葉が当てはまるっていうのよ」
「せめてスポーティとかアウトドア系とか、そういう感じで言って欲しいよ」
「はァ? 何言ってんのよ。――で、ティムとはその後、どうなってんのさ」
 私はにやーっと笑った。相当緩んだ表情になっているのだろうという自覚があった。
「3回、デートした」
「で?」
「まあ、初日でチューしてみたわけだけど」
「ふんふん」
「嫌じゃなかったから、いやむしろすっごい良かったから、昨日エッチした」
 ミランダが拍手をする。
「来たねー、春が来たね!」
「やっばいんだけど。私今、超幸せなんだけど」
「めでたいね」
「男がいる生活ってこんなに潤いのあるものだなんて、なんか久々に思い出した」
「相当枯れてたのね、あんた」
「……うん。学生の時以来、彼氏なんていなかったから……何かもう、どうやって付き合い始めたとか、そういうの全部忘れてたよ。いや、参った参った」
 ミランダは泣き真似をしつつ、私の肩を軽く叩く。
「でも、これからは幸せよ。あんな素敵な彼氏できてさ。いっぱい甘い蜜吸っとけ!」
「んだね。もーイチャイチャしまくってやるよ。ここぞとばかりに」
 ミランダは満足そうだった。それはそうだろう。自分がキューピットになり、一組のカップルを誕生させたのだ。良い意味でお節介焼きの彼女としては、感慨もひとしおなのだろう。
 それにしても。
 ああ、本当に嬉しい。
 つい浮かれてエアロバイクのスピードを出し過ぎてしまうくらい、毎日が嬉しい。
 一昨日は最高だった。誰かの体温をダイレクトに肌で感じるのも久しぶりだったし、それが私の息、心臓どころか時まで止まってしまいそうなほど、うっとりと心地良いものだということすら忘れていた。
 ティムはひたすらに優しかった。
 お坊ちゃん育ちなのだろう、若干ぼんやりしている部分はあるけれど、私が神経質なタイプなので、それこそミランダの言うように、自分にない部分を補い合って丁度良い感じだった。
 いつものように朝礼を終えると、すぐにホワイトとエツコがやって来て、私の顔を覗き込んで眉を潜めた。
「……あんたさぁ、最近大丈夫? いっつもぼんやりした顔してるけど、今日は特に酷いな。調子でも悪い?」
「疲れてんじゃないすか。最近電気ドロ多発で、報告書の山に押し潰されそうですもんね……」
 ホワイトまで珍しく心配げな声を出す。そう言えば、ホワイトは近頃ようやくオバケの話を口に出さなくなった。
「やァねぇ、ホワイト。そんなに気を使わなくていいのよ」
 私はホワイトの肩を叩いてにっこり笑った。心の底から沸き起こる笑みというのは、何て清々しく気持ちの良いものだろう、と思いつつ。
 だがホワイトは私の笑顔を見ると、尚更心配そうに首を傾げた。
「ホント、大丈夫っすか?」
「違うわよ。別に体調が悪いこともないし、疲れてもいないよ。――実はさ、すっごく良いことがあったの」
「宝くじでも当たった?」
 尋ねるエツコに擦り寄って、耳元で呟いた。
「彼氏、できた」
「え―――――――――ッ! ロンカに彼氏ィ?」
 エツコは、咥えかけていた煙草をポロリと口から落とした。
「マジか」
「マジよ」
「うっへェ」
 ホワイトは半目になって頬を引き攣らせた。
「こりゃ雨が降るな」
「何よぅ。私だって、できるときはできるんだもん!」
「で、で? どんな人? 何してる人? カッコいいの?」
 マシンガンのように質問を浴びせかけるエツコ。私はちょっと得意げに言った。
「エルド広告代理店勤務。お洒落さんで、素敵なのよね」
 背後で咽る音。振り向くと、マイトが紙パックの牛乳を片手にゲホゲホと咳き込んでいた。
「……相手は相当な変わり者だなぁ」
「マイトまで!」
 私は口を尖らせた。しかし、いつもならカッカするはずの場面でも、今日ばかりは腹が立たない。今なら何を言われても、脳内怒りメーターは通常の三分の一しか上昇しないだろうという自信がある。
 自分が幸せだと、他人に対しても寛容になれるものだ。
「ねぇ~、見たい見たい! 会わせてよぅ」
 興味津々で私に詰め寄るエツコ。
「今度ね」
「やった」
 エツコはガッツポーズ。マイトとホワイトは白けた表情を見合せて肩を竦めた。
「あーあ。これじゃ暫くの間は、ロンカさんにノロケ話を聞かされ続けそうっすね」
「俺は逃げるから」
 マイトは右手の人差し指を耳の穴に突っ込んで、くるりと私に背中を向けた。
「あーっ、待って下さいよう」
 ホワイトがマイトの後を追って走る。
「何よ、ほんと失礼な奴ら」
「じゃ、あたしも逃げようっと」
「エツコまで! 私だって一緒に行くわよ、待ってよ」
 私は足元に置いた整備道具箱を引っ掴んで、ピットに向かって走った。