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涼風通信のパスワード
【更新履歴】
はじめに
三つの質問
三つの質問とは
問い1 仏とは何か
問い2 どうすれば覚れるのか
問い3 私も覚れるのか ~ 切実な問いへの答え
ニルヴァーナ
ニルヴァーナ
覚った後の仏の生活はどうなる
解脱
解脱
解脱知見
三種の明智 ~漏尽通、宿命通、天眼通
諸仏の誓願
解脱の根拠
解脱の本体(名称と形態:nama-rupa)
正法
正法
正法の所在
智慧
善知識
言葉
修行
修行
仏道
聖求
信仰
省察
覚りの機縁
善き談論 ~ 知足について
道中の不安を払拭する方法
一つの修行法
在家でも覚れるのか
性別に関係なく覚れるのか
修行すれば必ず覚れるのか
覚りのプロセス
覚りはどのような順で起こるか
① 発心
② 観(=止観)を完成させる
③ 善知識に出会う
④ 解脱する(覚る)
実例1)SRKWブッダの場合(善知識により慧解脱)
実例2)kassii長老の場合(公案を通過して心解脱)
実例3)涼風尊者の場合(経典を読んで阿羅漢となる)
苦のありかと苦の滅尽
苦の関係構造(縁起)
一切皆苦
無常 ~ 解脱を保証する根本
不生 ~ 作られざるもの
あとがき
あとがきに代えて
付録
涼風尊者の備忘録
三つの解脱
奥付
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 ── 目次 ──

注記) 記号をつけた節は試し読み可です         【2012.02.14版】

1章 三つの質問
    三つの質問とは 752文字
     問い1 仏とは何か 813文字
     問い2 どうすれば覚れるのか 3,015文字
     問い3 私も覚れるのか ~ 切実な問いへの答え 1,053文字

2章 ニルヴァーナ
    ニルヴァーナ 1,523文字
    覚った後の仏の生活はどうなる 1,394文字

3章 解脱
    解脱 1,905文字
    解脱知見 481文字
    三種の明智 ~ 漏尽通、宿命通、天眼通 881文字
    諸仏の誓願 1,775文字
    解脱の根拠 413文字
    解脱の本体(名称と形態:nama-rupa) 3,677文字

4章 正法
    正法 395文字
    正法の所在 385文字
    智慧 2,489文字
    善知識 880文字
    言葉 1,229文字

5章 修行
    修行 1,968文字
    仏道 1,063文字
    聖求 3,432文字
    信仰 1,195文字
    省察 1,216文字
    覚りの機縁 1,022文字
    善き談論 ~ 知足について 2,017文字
    道中の不安を払拭する方法 2,555文字
    一つの修行法 2,228文字
    在家でも覚れるのか 1,386文字
    性別に関係なく覚れるのか 173文字
    修行すれば必ず覚れるのか  2,185文字

6章 覚りのプロセス
    覚りはどのような順で起こるか 646文字
     ① 発心 1,249文字
     ② 観(=止観)を完成させる 405文字
     ③ 善知識に出会う 653文字
     ④ 解脱する(覚る) 1,144文字

    実例1)SRKWブッダの場合(善知識により慧解脱) 4,251文字
    実例2)kassii長老の場合 (公案を通過して心解脱) 1,587文字
    実例3)涼風尊者の場合 (経典を読んで阿羅漢となる) ,154文字

7章 諦
    苦のありかと苦の滅尽 1,198文字
    苦の関係構造(縁起) 4,051文字
    一切皆苦 1,288文字
    無常 ~ 解脱を保証する根本   943文字
    不生 ~ 作られざるもの   1,690文字

 あとがきに代えて 1,021文字

【付録

    涼風尊者の備忘録        ,970文字
    三つの解脱        628文字

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【更新履歴】


 2011年 2月 4日  第1版完成 正式に刊行した。
 2011年 2月 5日  5章-修行 に節-省察 を追加した。
 2011年 2月 6日  あとがきに代えて を追加 (著者近影を含む)した。
 2011年 2月 7日  一部に色文字を採用した。
 2011年 2月 8日  読者の指摘により脱字を訂正した。
 2011年 2月10日  智慧 および 覚ったあと生活はどうなる の内容を拡充した。
 2011年 2月14日  7章-諦 に節-不生 ~ 作られざるもの を追加した。
 2011年 2月14日  苦の関係構造(縁起) の内容を拡充した。
 2011年 2月18日  諸仏の誓願 の内容を加筆した。
 2011年 2月18日  5章-修行 に節-覚りの機縁 を追加した。
 2011年 2月22日  5章-修行 に節-善き談論 ~ 知足について を追加した。
 2011年 3月 2日  奥付を作成した。
 2011年 6月11日  心解脱者の出現に伴い、在家でも覚れるのか の内容を改訂した。
 2011年 7月28日  6章-覚りのプロセスに2つの実例を追加した。
 2011年 7月29日  付録-涼風尊者の備忘録を追加した。
 2011年 7月29日  
付録-涼風尊者の備忘録を拡充した。
 2011年 9月19日  全体的に内容を拡充した。
 2011年10月23日  6章-覚りのプロセス-例3)涼風通信の場合 の内容を拡充した。
 2011年12月22日  全体的に内容を拡充した。
 2012年01月05日  苦の関係構造(縁起) の内容を拡充した。
 2012年01月11日  性別に関係なく覚れるのか,修行すれば必ず覚れるのか の内容を拡充した。
 2012年01月21日  覚りのプロセス-実例の表題に簡単な説明をつけた。
 2012年02月14日  付録に「三つの解脱」を追録。


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はじめに

 私は、若い頃から仏教に興味があった。しかし仏教は難解で、いろいろな仏教書を読んでも容易に理解することは出来なかった。また仏教以外にも興味があって、たとえば中国の史書・道教・儒教その他諸子にも親しんだ。私にとって仏教書を一つの極としたとき、その対極には実践的な処世の書物があると考えられた。たとえば孫子や呉子、韓非子などである。仏教は清らかだが実践的ではない。中国の諸子は実践的だがどこかなまぐさい。私の心はくり返し清らかさを求める気持ちとその対極にある処世術との間を振り子のように行き来してそれぞれの本を交互に読んだ。

 しかし、その苦闘はついに終局を迎えることになった。私は42歳のとき解脱して覚り、仏(=如来)となって、この世のすべてを知ったからである。

 この本は、仏が住する円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)の境地、すなわち「覚りの境地」についてその全貌を記したものである。現代に生きる現代の仏たる私(SRKWブッダ)がこの本を著す。ここには覚るために必要なすべてのことを書いた。覚りに興味があって、こころからそれを望む人がこの本を手にしたならばきっと覚るであろう。

 ところで、仏教の知識が得られればよいという人は別にこの本を読む必要はない。世に存する数多の経典が釈尊以来この世に出現した仏たちの言葉をよく伝えているからである。知識としてはそれで充分である。その中には偽経と呼ぶべき仏典ならざるものも紛れているが、心構え正しき人はもしそれを誤って読むことがあっても心を汚されることはないであろう。なんとなれば、覚りの機縁・因縁がある人は何をどのように読もうとも必要なものだけを過不足なく吸収してまっすぐに覚りの道を歩むからである。

 人にはそれぞれ自分に縁のある経典がある。ある人にとってすでに存在する経典がそれである。多くの人々はそれで問題ないかも知れぬ。新たに経典を著す必要が本当にあるかどうかは議論が分かれるところだろう。それでも敢えて私がこの本を著したのは、現代の人々に現代の仏が現代の言葉で理法を説くことによって私に縁有る人々がよりすみやかに覚りに近づくに違いないと考えたからである。

 なお、ここで言っておきたいことがある。私は読者の「覚ることができました」という声を聞きたくてこの本を書いたのではない。もちろんそれは何よりもうれしい声なのであるが、もろもろの仏が本当に聞きたいのはそうではない別の声なのである。覚り以前においてさえそれが何なのか分かったとき、その人は今世での覚りをおそらく間違いのないものにしたのである。


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三つの質問とは

 仏教に興味がある人は必ず三つの質問をする。それは次のことである。
 
 「仏とは何か?」
 「どうすれば仏になれるのか?」
 「私も仏になれるのか?」
 
 とくに最後の質問は切実である。この世に仏が実在し、その境地が人々が羨むような素晴らしいものであるとしても、もしも自分自身がそうなれるので無ければ覚りについての話など聞いても切なく空しいこととなるからである。
 
 しかしながら、その心配はいらない。人は、こころから望むならば誰もが仏になれると断言できるからである。と言うのは、もろもろの如来はそれがまさしくそのとおりであることを知って人々に広く理法を説くのであるからである。そして、如来がそのように説くというその事実そのものが、誰もが覚り得ることを示唆している。すなわち、もしも覚れる人とそうでない人とが予め分かれていて覚りが一種運命づけられたものであるならば、仏たちは理法を広く説くことはないであろうからである。なんとなれば、その場合、覚れない人に向かって覚りについて語ることはまったくやさしさを欠く行為に他ならないこととなるからである。
 
 そもそも、仏とは、一言で言えば究極のやさしさを体現した人格完成者を指している。仏は決してやさしくない行為を為すことができない。それが仏の仏たるゆえんである。その仏たちが口を揃えて人々に広く理法を説く以上、この世に望んでも覚れない人など一人もいないと言えるのである。
 
 私(=SRKWブッダ)もまたそのように理法を説く。この世には、こころから望んだのに仏になれない人など一人もいないことを知っているからである。今を生きるすべての人がそうだとは言わないが、私との縁によって覚りに至る人はすみやかに覚りに到達してほしい。覚りの道について問う人があるならば、私は隠すことなくすべてを明かしたいと思う。
 
 ただし、先に述べたことと矛盾するように聞こえるかも知れないが、如来は誰もが覚り得ると説くが誰もが覚るとは言わない。覚りはそれぞれ人の因縁にもとづいて起こることであって、確約できるものではないからである。こころから望む人だけが覚りに至る。これが実際のことである。この点については5章-修行において節を分けて詳しく述べたい。
 
 さて、次節から首記の三つの質問に対する答えを記すことにしよう。

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問い1 仏とは何か

 仏とは何か? これが最初の質問である。

 そもそも、仏がどんな存在であるか知らなければ自ら仏になろうとは誰も思わないだろう。人が仏道に入るのは、先ずこのことが気になって身近かな人に尋ねたりいろいろな書物を読みあさったりして、微かなりとも仏というものがどういうものかを知って、一種憧れを生じるからであろう。そうして自分も仏を目指そうと思うのである。

 「仏とは何か?」 この素朴な質問には次のように答えなければならない。

 『仏とはやさしさの究極を体現した人格完成者である。』

 ところで、世の仏教書には次のような説明がしばしば見られる。

 「仏とは抜苦与楽を為す人のことである──。」

 つまり、苦を抜き楽を与える人のことであると言うのである。この説明は当たらずとも遠からずだが、仏の本質とは少し違っている。なんとなれば、仏は直接に人々の苦を抜くことはできないからである。ただ仏は苦を抜くための真の方法を説く。それを総じて理法と呼ぶ。仏が説いた理法を信じ実践するならば、人は自分自身で苦を抜き去ることができ、そうしてこの世の最上の楽が訪れることになる。この安らけく境地をニルヴァーナと言いならわす。

 人は解脱して覚り、仏になるべきである。仏が住する覚りの境地、すなわちニルヴァーナは無上の楽しみを体現した境地であるからである。それは一切の苦悩の滅である。そこに至れば憂いが無い。まるで夢のような境地であるが、これは決して思い込みの所産ではなく実在するもの、虚妄ならざるものである。もろもろの如来はその楽しみを知り、未だ仏ならざる人にもひとしくこの境地に至って欲しいと思い、願い、人々を覚りへといざなうのである。

 なお、この仏たちが思い願い勤しむところの根底の動機たる誓願を”諸仏の誓願”と言う。これについては章をあらためて説明したい。また、覚ったあとの生活、つまり仏の生活がどうなるかについても章をあらためて私の経験を述べることにする。


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