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●第一話

第一章 青蓮院の血しぶき

 

第一話

 わたしが二の仕手となりました。一の仕手は横井源次郎という一つ年上の者でした。二の仕手は、一の仕手と同時に斬って掛るものではありません。一の仕手が倒されたり仕損じたりした時、あるいは敵が移動して一の仕手が掛り得なくなった時、二の仕手が致すことになるのです。もっとも二の仕手は一の仕手と同時に抜刀します。他の者は要所に展開するだけです。これが夜の襲撃のやり方です。
 この夜、横井源次郎は木の根に滑ってよろけました。これは敵が強かったからです。すぐにわたしが押えて出ましたから敵は動きませんでした。これで一の仕手は退きます。このように二の仕手は一の仕手の脇ではありません。もし仕手が崩れるとあとは乱戦になり敵は逃げることができます。
 当夜のことを思うと別の世界の出来事のようです。首領だけが白い襷をしていたのが月下に見えていました。仕手はこのとき紺の鉢巻をしておりました。
 この夜殺害したのは桑名藩の松木七兵衛という侍で会津藩と連繋して青蓮院宮尊融法親王に対する運動に当っていた人物でした。この一件は当人を除くことだけに目的があり、桑名藩を刺戟することは避けたい事情にありましたし、桑名藩でも隠密のうちに処理したようで世に喧伝されることはありませんでした。会津藩主松平容保侯が京都守護職となって京にはいったのが前年の文久二年師走の二十四日、それから間もない時の事件ですから会津藩としても体制が固まっておらず、桑名、会津両藩とも慎重な運びをする必要を感じたのでしょう。会津藩主と桑名藩主が同母の兄弟であることは御承知のとおりであります。
 この文久三年は物凄い年でありました。明治維新は黒船到来から徳川氏の大政奉還にいたる十五年間の動乱であります。この間徳川氏は征夷大将軍でありながら征夷ができないという矛盾を露呈しました。二百数十年の怠慢により任務の責を遂げ得ないからには、職を辞するのが当然ですが、徳川氏は抵抗し、国中が利害の網に絡まれており行うことが出来ない。これが明治維新の根幹でした。
 結局、戦争が必要であったのはこのためです。
 黒船到来から五年目に安政の大獄が起り、十年目がこの文久三年です。幕府批判が安政の大獄で弾圧され、桜田門外の変で勤王派が盛り返し、そしてこの文久三年には会津、薩摩連合によりまたも勤王派が打倒され幕府の天下となります。じつにこのような激しい年でした。三月四日将軍家茂公の上洛、五月長州の外国船砲撃、姉小路卿の暗殺、七月英艦の薩摩攻撃、八月天誅組の旗上げに続いて八月十八日の大政変、つまり長州が京を追われ例の七卿落ちとなり勤王派の総崩れとなる。間もなく天誅組は惨敗し十月には平野次郎国臣らの生野銀山の挙兵失敗、実に激変の年でした。新選組の結成もこの年の春、土佐勤王党の盟主武市半平太が下獄したのもこの年の九月です。
 二年続いた勤王党による京都制圧は終わり、会津藩による京都制圧が始まりました。これから同志の死が続くのでした。
 もっともこれは後から振り返って見ての話で松木七兵衛を討った二月に予測できたことではありません。わたしたちの脳裏にあったのは当然のことながら京における前年から正月にかけての勤王党優勢の状況であります。この正月には大阪で池内大学が勤王党の手で暗殺梟首され、その耳が何者かによって中山忠能、三条実愛両卿の邸へ投込まれ、両卿とも恐れて議秦を辞職するということがありました。
 また続いて千種家の雑掌賀川肇の殺害が起きています。これも勤王方のやったことで、その死人の腕が千種家や岩倉家へ持込まれたりして大騒ぎになりましたが、わたくしどもが松木を討つ謀議をしたのは、その少し後のことです。
 二月もたけた頃でした。当時わたしは烏丸三条下ルの下宿屋に滞在しておりましたが同藩の笠間金兵衛が訪ねてまいりました。同藩とはいっても両名とも脱藩して浪人となっておりました。
 旧暦の二月であり、しかも前年文久二年には閏八月つまり八月が二度ありましたから二月とはいえもう春で厳寒ではないのですが当日は寒い日で、笠間金兵衛は黒木綿の重ね着をして茶渋染めの足袋をはいておりました。金兵衛は私にとっては一刀流の兄弟子で学者でもあったのですが、態度は気楽な人物で蟹に似た顔に髪を大髻に結い上げ、鬢付油を多用した男でした。暫く会っていなかったので、同志とは言いながら意向をただしに来たな、と思いました。
 来客を予期していたわけではありませんから、わたしも刺子丹前に古びた猿綿子を重ねて髪もよく結わないでおりました。急いで火鉢に炭を足しましたが物価高騰の折で下宿屋も粗悪な炭を使っていて煙がくすぶったのに閉口いたしました。
 わたしの居た部屋は半分が板敷、半分が畳敷の八畳間で床の間はありませんが、壁際に置床を置き短い茶軸が掛けてありました。その前に座を作って笠間を招じますと、煙管を出して一服やりましたが、火鉢から火花が散るのに面をそむけながら笑って、
 寒うなって来たな、ときに聞いたか、千種家の件、と申しました。
 賀川肇の件ですか。腕を切って岩倉具視卿の家へ送ったそうに聞きましたけど。
 いや、首もじゃ。首を奉書に包んで後見職へ届けたそうじゃ。
 後見職というのは一橋慶喜公つまり将軍後見職のことで、正月早々上洛して東本願寺の別邸に居りました。
 ほう、先日の池内大学やら賀川肇やら、今年もなんやら去年に続いて天誅ばやりになるみたいですな。
 と、わたしは前年末の暗殺騒ぎが好きでありませんでしたので鼻白んで答えました。
 いや、と笠間金兵衛はわたしの応待にやや意外そうな面持ちで、こういう時には貴公、手を緩めては埒ャカンぞ。まだまだ足らん。考えても見い、会津侯が京都守護職として入京以来の勢いはどうじゃ、幕府が一挙に力を盛り返すみたいな感じで同志一同の心配ナ一方でないぞ。聞いたかい、会津侯は入京の前に家臣を遣わして早いこと正親町三条家や三条家と手を結んだちゅうぞ。しかも旧臘はや近衛殿下に謁見を終えたやないかいヤ。
 そうですか。それは知りませんでしたけど、そこまで手を打っておったんですか。
 家老の田中土佐の暗躍によるそうじゃ。その後守護職の出方を見いマ、硬軟自在やないか。
 自ら攘夷断行、旧弊一新を唱えて、浪人といえども存意あらば忌憚なく申し出よ、ちゅう布達をしたそうですな。
 そうや。そのためわが同志の中でさえ会津侯に心酔する者が出はじめた。轟武兵衛や藤本鉄石らまで黒谷へ出向いたちゅうぞ。
 会津藩は元来、敬神尊皇で有名ですもんな。
 それや、それが曲者。尊皇ゆうても会津は幕府の藩屏やないか。要は公武合体の巨魁や。長州の久坂らは直ちに会津を斬れと叫んどるぞ。
 と笠間金兵衛は説得の口調で、京都守護職と堂上方との関わりなどを詳細に説きはじめました。わたしとしても脱藩の同志とはいえ部下ではなく、他の筋から聞いていたこともありましたし少々もてあまして居りますと、通い婢としてわたしが使っておりました、とくという女が水餅を焼いて黄粉を付けたものをもって二階に上がってきました。正月の鏡餅を固くならぬよう水に漬けて保存したもので客に出すような物ではありませんから私も少々赤面いたしましたが、笠間の話の腰が折れたのには助かりました。笠間はそれでも頓着せず、ほう、これは良い。といって黄粉をつけた水餅をむしゃむしゃと喰い、とくの顔を見て、いつ見てもいい女子やな、とざれ言を言いました。とくの色白の顔が桃色に染まりました。
 とくは近所の豆屋の使用人でしたが、わたしの身の廻りの世話をするための端女にもなっていたもので、豆屋の主人の好意からのことでした。夜の伽もして帰るのですがこれは当時としては当り前のことでした。
 笠間金兵衛は水餅を二つばかり喰うと、
 まあ事情は今のとおりやけど、今日の用件な寄合の知らせや。中島永吉が先刻来て行って、明夕刻、方広寺の例の場所へ来会してくれとのことや。
 と申しました。中島永吉は男爵となった儒者の中島錫胤のことです。わたしが寄合への出席を承諾しますと笠間金兵衛は声をやや低めて、
 今回は論議だけではない。大事の話になるようやぞ。そのつもりでな、
 といって立ち上がりました。するとその時とくが、
 あ、足袋のお紐が、
 といって笠間金兵衛の足許にかがみました。見ると金兵衛の足袋の茶渋染めの結び紐が片方ゆるんでほどけているのでした。
 む、と金兵衛は紐を結ばせています。
 無論とくが端女だからで、わたしの家人であれば、いくら金兵衛でも平然と結ばせるなどということはしなかったでしょう。しかしわたしは愉快ではありませんでした。とくはわたしの顔を見てそれを察したと見え、紐を結び終えるとすぐに一礼して階下へ下って行きました。笠間金兵衛はそれを見やりながら聞こえよがしに、
 いい女や。いや気に入った。あとで礼をゆうといてくれ。
 と申しました。無礼に近いことでしたが、わたしは支藩、大聖寺藩の出、笠間は加賀本藩の上士の出で、道場の兄弟子でもありましたし、いろいろと一目置く関係にあったので、黙って聞きすごしました。実はこの時も金兵衛は懐から黒い麻の巾着を出し、
 いつもの物じゃ。三両ある。
 といって渡してよこしたのです。わたしは一礼して受取りましたが、ただしこれは金兵衛から貰う金ではありません。その場で改めるようなことはいたしませんが後で見ますと一分金が一個あり、あとは銀で一分銀、一朱銀、粒銀を含めて確かに三両ありました。
 もっとも一分銀や一朱銀は金貨である一両の補助貨幣で価値が決まっているものすが、粒銀は匁銀、つまり金貨とは別建ての、目方で通用する銀本意の貨幣でありまして、価値は不正確です。古銀、新銀といろいろあり、表向きは同じ名目扱いですが、悪貨もあり実状は匁当りの価も異ります。商人の店先には必ず小秤がありました。
 関西はことに銀本位で、これは幕府の小判改鋳に対する大阪商人の自衛と、また清国との密貿易の際の金銀相場の都合からも出たものです。金兵衛から受け取った麻の巾着に一分金が一個入れてあったのは武士に対する礼儀上のことでしたが、一分金など質のいい金はこの頃から手に入らなくなります。これも幕府の開国で、金銀相場に眼をつけた異人が金貨を買いあさったからで、このようなことも当時の攘夷熱が高まった原因になっております。
 金兵衛は階段へ向いながら、
 これまで天誅の話のたんびに貴公が避けてきたこと、よう云わん者が多い。弁口達者で周旋ばかりやっとると、本間精一郎みたいな奸物と思われるぞ。
 わたしは弁口を用いたことはない。
 いや、儂は味方や。ようわかっとるわい。剣術な達者なこともやぞ。ほんならいずれ。
 立ったままこのようなことを云ったり金を渡したりする、本藩の元三百石の上士が支藩の下士の出身の者にするにせよ、これは旧藩の礼儀にないことでした。いつもながら軽く見られている、と言う不愉快な気持ちが走りました。
 笠間金兵衛が出て行くと、すぐに階段口からとくが顔を出しました。別に悪びれた顔ではなく、水餅の皿を片付けたものかどうかを見に来たのでした。
 側へ来たのを、着物に手を入れてふくらはぎを撫でてやると手にしかけた皿を脇に置いてとくはへたりと坐りました。
 来いよ。
 へえ。
 とくは丹波の生れだということでしたが、京女らしい色白で丸顔の女でした。その時代の下女にあり勝ちな歯臭いところがないのがわたしの最大の気に入りの点でした。力仕事をしますから身は固いのですが脂肪の乗る体質で、抱くと手の中で心地よくゆらめく体でした。わたしは笠間金兵衛に対する不愉快の気分まで入れて激しくとくを犯しました。主人が端女を犯すのですから対等の愛撫ではありませんが、それでもとくは足を絡めたりして心を表わすのでした。白眼を出せと命じるとその表情を素直に色良く作ります。これを他の女に試みたことがありますが、薄気味の悪い表情になり止めないので閉口したことがあります。とくは決してそうなりませんし、あとで身じまいをするにも紺木綿の着物の裾から出る白い足が不様にならぬように巧みに動きをこなす気持のいい女でした。今から思うと賢い女だったのでしょう。出身が悪くなければ良家の新造になってもおかしくなかったと思います。


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最終更新日 : 2013-03-28 14:05:58

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