目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
第6回「『資本論』を読む会」の報告
第7回「『資本論』を読む会」の案内
第7回「『資本論』を読む会」の報告
第8回「『資本論』を読む会」の案内
第8回「『資本論』を読む会」の報告
第9回「『資本論』を読む会」の案内
第9回「『資本論』を読む会」の報告
第10回「『資本論』を読む会」の案内
第10回「『資本論』を読む会」の報告
第11回「『資本論』を読む会」の案内
第11回「『資本論』を読む会」の報告
第12回「『資本論』を読む会」の案内
第12回「『資本論』を読む会」の報告
第13回「『資本論』を読む会」の案内
第13回「『資本論』を読む会」の報告
第14回「『資本論』を読む会」の案内
第14回「『資本論』を読む会」の報告
第15回「『資本論』を読む会」の案内
第15回「『資本論』を読む会」の報告
第16回「『資本論』を読む会」の案内
第16回「『資本論』を読む会」の報告
第17回「『資本論』を読む会」の案内
第17回「『資本論』を読む会」の報告
第18回「『資本論』を読む会」の案内
第18回「『資本論』を読む会」の報告
第19回「『資本論』を読む会」の案内
第19回「『資本論』を読む会」の報告
第20回「『資本論』を読む会」の案内
第20回「『資本論』を読む会」の報告
第21回「『資本論』を読む会」の案内
第21回「『資本論』を読む会」の報告
第22回「『資本論』を読む会」の案内
第22回「『資本論』を読む会」の報告
第23回「『資本論』を読む会」の案内
第23回「『資本論』を読む会」の報告
第24回「『資本論』を読む会」の案内
第24回「『資本論』を読む会」の報告
第25回「『資本論』を読む会」の案内
第25回「『資本論』を読む会」の報告
第26回「『資本論』を読む会」の案内
第26回「『資本論』を読む会」の報告
第27回「『資本論』を読む会」の案内
第27回「『資本論』を読む会」の報告
第28回「『資本論』を読む会」の案内
第28回「『資本論』を読む会」の報告
第29回「『資本論』を読む会」の案内
第29回「『資本論』を読む会」の報告
第30回「『資本論』を読む会」の案内
第30回「『資本論』を読む会」の報告
第31回「『資本論』を読む会」の案内
第31回「『資本論』を読む会」の報告
第32回「『資本論』を読む会」の案内
第32回「『資本論』を読む会」の報告
第33回「『資本論』を読む会」の案内
第33回「『資本論』を読む会」の報告
第34回「『資本論』を読む会」の案内
第34回「『資本論』を読む会」の報告
第35回「『資本論』を読む会」の案内
第35回「『資本論』を読む会」の報告
第36回「『資本論』を読む会」 の案内
第36回「『資本論』を読む会」の報告
第37回「『資本論』を読む会」の案内
第37回「『資本論』を読む会」の報告
第38回「『資本論』を読む会」の案内
第38回「『資本論』を読む会」の報告
第39回「『資本論』を読む会」の案内
第39回「『資本論』を読む会」の報告
第40回「『資本論』を読む会」の案内
第40回「『資本論』を読む会」の報告
第41回「『資本論』を読む会」の案内
第41回「『資本論』を読む会」の報告
第42回「『資本論』を読む会」の案内
第42回「『資本論』を読む会」の報告
第43回「『資本論』を読む会」の案内
第43回「『資本論』を読む会」の報告
第44回「『資本論』を読む会」の案内
第44回「『資本論』を読む会」の報告
第45回「『資本論』を読む会」の案内
第45回「『資本論』を読む会」の報告
第46回「『資本論』を読む会」の案内
第46回「『資本論』を読む会」の報告
第47回「『資本論』を読む会」の案内
第47回「『資本論』を読む会」の報告
第48回「『資本論』を読む会」の案内
第48回「『資本論』を読む会」の報告
第49回「『資本論』を読む会」の案内
第49回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

閉じる


第3回「『資本論』を読む会」の案内

第3回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 『蟹工船』ブームなのだという。

 

 もちろん、あの小林多喜二『蟹工船』である。

 

 異常とも言える売れ行きに、新潮社は5月の時点で10万7千部増刷することを決定したという。

 

 買ってゆくのは「格差社会」の真っ只中にある「30代から50代の働きざかりの人が多い」とも言われ、「ワーキングプア」との関連で特設スタンドをおいたら飛ぶように売れた、などとも言われている。

 

 『蟹工船』で描かれている世界は、多喜二自身が「この一篇は、『植民地に於ける資本主義侵入史』の一頁である」と小説の最後の「付記」で書いているように、当時はまだ開拓途上にあって「植民地」とほとんど変わらなかった北海道における資本の「原始的な」「虐使」の実態である。

 

 人を人とも思わない資本の過酷な搾取の有り様がこれでもかこれでもかと描かれている。

 

 つまり『蟹工船』で描かれている世界は、当時でも最も劣悪な労働条件で酷使されていた労働者たちなのである。

  「ここの百に一つくらいのことがあったって、あっちじゃストライキだよ」と元芝浦の工場にいた労働者は語る。

  「--内地では、労働者が『横柄』になって無理がきかなくなり、市場もだいたい開拓されつくして、行き詰まってくると、資本家は『北海道・樺太へ』鉤爪をのばした。そこでは、彼らは朝鮮や、台湾の植民地と同じように、面白いほど無茶な『虐使』ができた。」

 

 と多喜二は書いている。

 それほど過酷な労働の実態がそこにはある。それがこの現在の高度に発達した資本主義の下で働く労働者たちに共感を呼んでいるのである!

 

 働いても働いてもカツカツの生活を維持するのがやっとの「ワーキングプア」たち。

 

 多くの労働者が超過密で長時間の労働に追いまくられるなかで、明日の生活の不安にさいなまれている。

 

 資本主義は80年前と何一つ変わっていないではないか、と誰もが思っている。

 『資本論』は“古くさくなった”と何度も言われてきた。しかし『資本論』で明らかにされている現実は、まさに今の資本主義の現実なのである。

 《資本主義制度の内部では、労働の社会的生産力を高めるいっさいの方法は、個々の労働者の犠牲として行われるのであり、生産を発展させるいっさいの手段は、生産者の支配と搾取との手段に転化し、労働者を部分人間へと不具化させ、労働者を機械の付属へとおとしめ、彼の労働苦で労働内容を破壊し、科学が自立的能力として労働過程に合体される程度に応じて労働過程の精神的能力を労働者に疎遠なものにするのであり、またこれらの方法・手段は、彼の労働条件をねじゆがめ、労働過程中ではきわめて卑劣で憎むべき専制支配のもとに彼を服従させ、彼の生活時間を労働時間に転化させ、彼の妻子を資本のジャガノートの車輪のもとに投げ入れる。しかし、剰余価値の生産のいっさいの方法は、同時に蓄積の方法であり、その逆に、蓄積のどの拡大も、右の方法の発展の手段となる。それゆえ資本が蓄積されるのにつれて、労働者の報酬がどうであろうと--高かろうと低かろうと--労働者の状態は悪化せざるをえないということになる。最後に、相対的過剰人口または産業予備軍を蓄積の範囲と活力とにたえず均衡させる法則は、ヘファイストスの楔(クサビ)がプロメテウスを岩に縛りつけたよりもいっそう固く、労働者を資本に縛りつける。この法則は資本の蓄積に照応する貧困の蓄積を条件づける。したがって、一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である。》(『資本論』第1巻・全集版840-1頁)

 『資本論』『蟹工船』の背後で何がどのように作用し、その過酷な搾取を必然ならしめているかを明らかにしている。

 『蟹工船』でストライキに立ち上がった労働者たちから現代の労働者は何を学ぶのだろうか? 彼らが『蟹工船』だけでなく、さらに『資本論』からも学び始めることだけは確かではないだろうか。

 貴方も是非『資本論』を私たちと一緒に読んでみませんか?

 【なお下記サイトからは「漫画蟹工船」が無料でダウンロードできます。

 http://www.takiji-library.jp/announce/2007/20070927.html

 


第3回「『資本論』を読む会」の報告

第3回「『資本論』を読む会」の報告
 
 
 
◎図書館は閉まり、フロアも真っ暗

 今回の「『資本論』を読む会」は、初めて夕方の6時開始でした。
 
 会場の堺市立南図書館に行くと、どうしたことか、入り口の自動ドアは開かず、中は電気も落ちて真っ暗でした。一瞬、曜日を間違えたかと思いました。しかし、そんなはずはないと思いなおし、ウロウロするうちに、中の守衛室には電気が灯っているので、守衛さんが部屋から出てくるのを待って、ドアの外から声をかけると、彼は自動ドアを手で開けて顔を出してくれたので、「実は、今日は読書会があるハズなんですかが…」というと、「ああ、あの『資本論』のやつですね」という。「まだ時間が早いのでそこて待っていてください」と薄暗いフロアーの椅子を指さします。ということは、やはり曜日は間違っていなかったのだと思い、なかに入る。そのうちJJ富田さんも半信半疑で別の自動ドアを手動で開けて入ってくるということで、ようやく一安心。
 
 しかしそれにしても、もう少し分かりやすい案内があってもよいのではないでしょうか。どうやら集会室は開いているが、図書館は土・日は午後5時までらしい。だから入り口の自動ドアも電気を切り、フロアの電灯も消してあるらしい。なるほど“節約精神”は買うにしても、しかしこれでは集会室の利用者は、とまどうだろう。私のように読書会が必ずあると確信しているような者でさえ、一瞬、曜日を間違えたかと疑ったほどだから、もし案内ビラやこのブログを見て初めて参加された方があったとしたら(そんな人はいないだろうって? そうとも限らないでしょう)、恐らくその人は入り口の自動ドアが開かず、中のフロアの電灯が消えているから、そのまま帰ってしまったに違いないのです。せめて自動ドアに「集会室の利用者は手でドアを開けて入ってください」ぐらいの案内があってしかるべきではないでしょうか(自動ドアを手動で開けるという発想は通常はなかなか出て来ないものです)。
 
 なになに、「タダで借りているのに、文句は言うな」ですって? しかし利用料が無料だから、サービスがいい加減でよいということはないでしょう。それに利用料が無料といっても図書館や集会室は市民税で運営されているのですから、まったく負担がないわけではないのです。
 
 というわけで(もちろん、それだけが理由ではないでしょうが)、今回の「『資本論』を読む会」も新参加者はゼロでした。

◎《幾何学上の一例》は問題を分かりやすくしているのか?

 さて、今回も進んだのは、たったの三つのパラグラフのみでした(第7~9パラグラフ)。参加者も同じ顔ぶれでややマンネリ化したのか、議論もあまり盛り上がらず、比較的短時間で終わりました。
 
 ここで問題になったのは、マルクスは第7パラグラフで、二つの商品の等式《1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄》から《同じ大きさのある共通物が、二つの異なった物の中に、……存在する》こと、だから《両者はどちらも、それが交換価値である限り、この第三のものに還元されうるものでなければならない》という結論を引き出しています(これはまあ良い)。そしてさらにそのことを説明して、第8パラグラフでは、《幾何学上の一例》を上げています。ところがこの《幾何学上の一例》が今一つよく分からないのです。ここでは出された疑問点をとにかく列挙してみましょう。

 (1)まず第7パラグラフでは二商品の等式から、第三のものへの還元を説明していますが、第8パラグラフでは等式ではなく、《直線形の面積をはかり、比較する》ことが課題になっています。これは第7パラグラフの説明としては、あまり適切とはいえないのではないか、という疑問です。
 
 もし幾何学上の一例の方も等式から説明するとなると、例えば、四角形と六角形がイコールで結ばれるなら、両者の中に《同じ大きさのある共通物が、二つの異なった物の中に、……存在する》こと、ということになり、結局、両者の共通物は何かというと、ただ面積が等しい、というような説明になるのではないか、ということなのです。

 (2)第7パラグラフでは、《同じ大きさのある共通物が、二つの異なった物の中に、……存在する》ことを見出しています。ということは《幾何学上の一例》でも、さまざまな形状の《直線形》の中に《同じ……共通物》を見い出さなければならないハズですが、マルクスはまずそれを《いくつかの三角形に分解》し、さらに《三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現--底辺×高さ/2--に還元される》としています。
 
 ここでマルクスがさまざまな《直線形》の《共通物》として見ているのは、果たして《三角形》なのか、それともその三角形の面積を求める公式である《底辺×高さ/2》なのか、ということが問題になりました。

 (3)もし《共通物》として《三角形》を見ているだけなら、それだけでは面積は比較できないから、当然、後者であろうということになります。しかしもし後者なら、果たしてそれはさまざまな《直線形》の中に存在する《共通物》といえるのかどうか、三角形を求める公式《底辺×高さ/2》は果たして何か一つの質といえるようなものなのかどうか、という疑問が出されました。
 
 もしさまざまな形状の《直線形》の共通の質を問題にするのなら、やはりそれはそれらの「面積」ではないのか、と。面積を求める公式と面積そのものとはやはり違うのであり、公式を一つの質と考えることが果たしてできるのかどうか、という疑問です。

 (4)またマルクスが《三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現--底辺×高さ/2--に還元される》ということで強調したいことは、《その目に見える形とはまったく異なる》もの《に還元される》ということではないか、という意見が出されました。
 
 一クォーターの小麦やaツェントナーの鉄の《その目に見える形とはまったく異なる》《第三のものに還元されうる》ということを、マルクスはこの一例で示そうとしているのではないか、ということなのです。
 
 しかしそう考えると、またおかしなことがでてきます。というのは、マルクスは《三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現-- 底辺×高さ/2--に還元される》と述べているだけであり、《その目に見える形とはまったく異なる》としているのは《三角形》に対してであって、決して最初の比較の対象であるさまざまな《直線形》に対してではないからです。もちろん、《底辺×高さ/2》が《三角形》と《その目に見える形とはまったく異なる》のだから、当然、最初の《直線形》とも《その目に見える形とはまったく異なる》といえるのではないか、とはいえますが、果たして《その目に見える形とはまったく異なる(もの)に還元される》ことが、ここでのポイントなのかどうか、どうなんでしょう?

 結局、この問題は未解決のままで終わり、まあ、そんなに細かく詮索しなくても良いのではないかという結論になりました。皆さんはどうお考えでしょうか?

 以上のように、今回の議論は内容的にはあまり面白くもなく、また時間も短く終わりましたが、とりあえず、報告しておきます。

(そろそろこの「『資本論』を読む会」も“終末”が見えつつあるですって? 誰ですか、そんな陰口を叩くのは!)

第4回「『資本論』を読む会」の案内

第4回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 7月7日から洞爺湖サミットが開かれる。

 

 今回のサミットのテーマは「環境・気候変動」「開発・アフリカ」「世界経済」そして「不拡散をはじめとする政治問題」だという。

 

 特に地球の環境変動問題は待ったなしと言われている。

 

 昨年2月、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が発表した第4次評価報告書によれば、2100年には地球の平均気温が最大で6.4℃上昇し、海面水位は平均38.5cm(最大59cm)上昇するとされている。

 

 地球規模の生態系の変化、異常水温現象の増加、太平洋熱帯域でのエルニーニョ現象の増強、海流の大規模な変化、深層循環の停止、あるいはこれらに伴う気候の大幅かつ非可逆的な変化等々、さまざまな恐ろしい未来図が予想されている。

 

 こうした地球環境の破壊も、資本主義の無政府的な生産が地球規模に広がり、あまりにも大規模になってしまった結果でしかない(世界の人口のほぼ3分の1を占める中国とインドの急速な資本主義的発展が決定的な影響を及ぼしつつある!)。

 われわれが地球環境破壊の原因とその本質を考え、その真の解決の方向を見いだすための理論的武器も、やはり『資本論』は与えている。

 マルクスは資本の無政府的な生産の本性を次のように明らかにしている。

 《資本が、人類の将来の退廃や結局どうしても止められない人口減少やの予想によって、自分の実際の運動をどれだけ決定されるかということは、ちょうど、地球が太陽に落下するかもしれないということによって、どれだけそれが決定されるかというようなものである。どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは、だれでも知っているのであるが、しかし、だれもが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。われ亡きあとに洪水はきたれ! 〔Apres moi le deluge!〕これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのである。》(第1巻352-3頁)

 だから世界の主要国の首脳がいくらサミットと称して鳩首会談をやろうと、すべての資本家国家はこの標語どおりのこと以上のことはしようとはしない。

 《資本主義的生産様式は、それが大中心地に集積させる都市人口がますます優勢になるに従って、一方では、社会の歴史的原動力を蓄積するが、他方では、人間と大地とのあいだの物質代謝を、すなわち、人間が食糧・衣料の形態で消費した耕地成分の耕地への回帰を、したがって持続的な耕地肥沃度の永久的自然条件を撹乱する。こうしてこの資本主義的生産様式は、都市労働者の肉体的健康と農村労働者の精神生活とを、同時に破壊する。しかしそれは同時に、あの物質代謝の単に自然発生的に生じた諸状態を破壊することを通じて、その物質代謝を、社会的生産の規制的法則として、また完全な人間の発展に適合した形態において、体系的に再建することを強制する。》(1巻656-7頁)

 今日の地球規模の環境破壊も、われわれに地球規模の《物質代謝を社会的生産の規制的法則として、完全な人間の発展に適合した形態において、体系的に再建することを強制する》ものの一つではないだろうか!

 《資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである。資本とその自己増殖とが生産の出発点と終点、動機と目的として現われるということである。生産はただ資本のための生産だということ、そしてそれとは反対に生産手段が生産者たちの社会のために生活過程を絶えず拡大形成して行くための単なる手段なのではないということである。生産者大衆の収奪と貧困化とにもとづく資本価値の維持と増殖とはただこのような制限のなかでのみ運動することができるのであるが、このような制限は、資本が自分の目的のために充用せざるをえない生産方法、しかも生産の無制限な増加、自己目的としての生産、労働の社会的生産力の無条件的発展に向かって突進する生産方法とは、絶えず矛盾することになる。手段――社会的生産力の無条件的発展――は、既存資本の増殖という制限された目的とは絶えず衝突せざるをえない。それだから、資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させこれに対応する世界市場をつくりだすための歴史的な手段だとすれば、それはまた同時に、このようなその歴史的任務とこれに対応する社会的生産関係とのあいだの恒常的矛盾なのである。》(3巻313-4頁)

 だから問題の根本的解決のためには、現代の資本主義的生産様式そのものを革命的に変革しなければならない。人間の自然に対する働きかけを資本の無政府性のままに放置するのではなく、それを人間自身の意識的な統制のもとに取り戻さなければならないのである。

 《すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。》(3巻1050-1頁)

 しかし、そのためにはこの資本主義社会を変革する労働者階級の闘いが必要であり、その階級闘争の発展が何よりも望まれる。

 貴方も是非、この資本主義社会を変革する武器として、『資本論』を学んでみませんか?

 


第4回「『資本論』を読む会」の報告

第4回「『資本論』を読む会」の

 

 

 

◎夏真っ盛り、とにかく暑い!(@_@)

 

 関西地方も梅雨が明け、第4回「『資本論』を読む会」が開催された20日も、お日さんがカンカンと照りつける好天日でした。こんな日には、若い者なら海や山に、あるいはプールへと、老人たちは静かに家でクーラーの効いた部屋で昼寝でもやりたいものです。何が因果かこのクソ暑い中、昼日中にノコノコと出かけなければならないのか、などと愚痴をこぼしながら、とにかく出かける羽目に相成りました。

 

 泉が丘駅から会場の図書館までほんの2~300m歩道橋を歩いていくのですが、途中から日差しを避けるものが何もなく、私は持っていた汗ふきタオルを頭に乗せて、照り返しの強い歩道橋を汗をタラタラ流しながら歩きました。

 

 しかしこんなに暑くても、ありがたい事に会場はクーラーが効いていました。私たちは第2集会室を利用したのですが、この部屋も4~50人規模の大きな部屋。それを私たちはたった4人で利用しました。こんな大きな部屋をたった4人で、しかもクーラーを効かせて、タダで使用するのは何となく気が引けるというか、後ろめたい気持ちが否めません。私たちはもっと小さな部屋があればそれで十分なのですが、あいにく図書館に併設されている集会室にはそうした適当な大きさのものがありません。もっとも私たちの隣の第1集会室(これも4~50人規模の大きな部屋だが)を利用しているグループもたったの3人ほどのようでしたので、まあ何というかその後ろめたさがやや和らいだというか、私たちだけが罪深いことをしているのではないという安堵感のようなものがあった次第です。

 

 こんな大きな集会室ですが、部屋を借りてくれているピースさんの話では、案外に土日は空いているのだそうです。平日の夜はさまざまなサークルで一杯のようですが、土日は誰もが休みたいのか、利用者は少ないといいます。それに図書館に併設されていることから、その利用目的が制限されている(「読書会」や「読み聞かせ会」、「お話し会」等々のグループの利用が多いよう)ことも、会場が案外空いている理由のようです。いずれにせよ、とにかくありがたい事です。

 

 ◎「価値」を導き出すややこしい論理

 

 さて、いよいよ私たちの『資本論』を読む会も佳境に入り、これまで多くの人達が議論し、論争してきた部分にさしかかってきました。まずその部分を全文引用しておきましょう。

 

 《使用価値としては、諸商品は、何よりもまず、相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、一原子の使用価値も含まない。

 

 そこで、諸商品体の使用価値を度外視すれば、諸商品体にまだ残っているのは、ただ一つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。しかし、労働生産物もまたすでにわれわれの手で変えられている。もしもわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば、われわれは、労働生産物を使用価値にしている物体的諸成分と諸形態をも捨象しているのである。それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的性状はすべて消しさられている。それはまた、もはや、指物(サシモノ)労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格と共に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。

 

 そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値--商品価値である。 諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現れた。そこで今、実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、今まさに規定された通りのそれらの価値が得られる。したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表している共通物とは、商品の価値である。……》(全集版51-2頁)

 

 何とも複雑な論理で、頭がこんがらがってしまいそうです。

 

 ピースさんは、「どうして、マルクスはこんなに回りくどい説明をしているのかなあ、“諸商品を互いに質的に区別している諸使用価値を捨象したら、あとに残るそれらの共通物がすなわち価値である”とスッキリ説明したらどうしてアカンのやろ」と疑問を出しました。

 

 実際、マルクスも引用文の最後のパラグラフでは《実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、……それらの価値が得られる》とスッキリ説明しています。

 

 もっともこれだと価値の実体が説明されたことにはならないのですが、だからマルクスはそれを説明するために色々と工夫したのではないか、ということになったのでした。

 

 そこで初版では、ここはどのように説明していたのかを見てみました。次のようになっています。

 

  《交換価値の実体が商品の物理的な手でつかめるある存在または使用価値としての商品の定在とはまったく違ったものであり独立なものであるということは、商品の交換関係がひと目でこれを示している。この交換関係は、まさに使用価値の捨象によって特徴づけられているのである。すなわち、交換価値から見れば、ある一つの商品は、それがただ正しい割合でそこにありさえすれば、どのほかの商品ともまったく同じなのである。

 

 それゆえ、諸商品は、それらの交換関係からは独立に、またはそれらが諸交換-価値として現われる場合の形態からは独立に、まず第一に、単なる諸価値として考察されるべきなのである。

 

 諸使用対象または諸財貨としては、諸商品は物体的に違っている諸物である。これに反して、諸商品の価値存在は諸商品の統一性をなしている。この統一性は、自然から生ずるのではなくて、社会から生ずるのである。いろいろに違う諸使用価値においてただ違って表わされるだけの、共通な社会的な実体、それは--労働である。

 

 諸価値としては諸商品は結晶した労働よりほかのなにものでもない。(以下、価値の量の考察に移っている)》(岡崎訳・国民文庫24-5頁、注は省略しました)

 

  なるほど、初版では全体に簡潔だし、ここにはまだ「抽象的人間労働」といった言葉もでて来きません。ただ「共通な社会的実体」としての「労働」が指摘されているのみです。そして論理としてはむしろスッキリしているような印象を与えます。

 

 しかしこれが第二版のための『補足と改訂』(1871年12月-1872年2月執筆)だと次のようになっています。

 

  《そこで,諸商品体の使用価値を度外視すれば,諸商品体にまだ残っているのは,一つの属性,労働生産物という属性だけである。しかし,労働生産物もまたすでにわれわれの手によって変えられている。もしわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば,われわれは,労働生産物を有用にしている,すなわち使用価値にしている肉体的諸成分と形態をも捨象しているのである。それはもはや,テーブル,家,糸,等その他なんらかの使用対象ではない。その感性的性状はすべて消し去られている。したがって,それはまた,もはや,指物労働,建築労働,紡績労働,あるいはその他何かある一定の有用的生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格とともに,労働生産物に含まれている労働の有用的性格も消えうせ,したがってまた,ある労働がなにかある一つの使用対象を生産するときの,一定の具体的形態も消えうせる。

 

 そこで,これらの労働生産物にのこっているものを考察しよう。いま,一つの商品は他の商品と同しようにみえる。それらはすべて,何かあるものの同じまぼろしのような対象性以外の物ではない。何のか? 区別のない,人間的労働の,すなわち,その支出の特殊な,有用的な,規定された形態にかかわりのない人間的労働力の支出の対象性である。これらの物が現わしているのは,それらの生産に人間的労働力が支出されており,人間的労働が堆積されている,ということ以外のなにものでもない。それらに共通な,この社会的実体の結晶として--これらの物は価値である。

 

 われわれは次のことを見てきた。--諸商品の交換関係あるいはそれらの交換価値の形態そのものは,交換価値を使用価値の抽象と,特徴づけた。使用価値の抽象が現実に行われ,いままさに規定されたとおりのそれらの価値が得られる。(以下、略)》(小黒正夫訳『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』第5・7号56頁)

 

 これは現行版にかなり近くなっていますが、まだ「抽象的人間労働」という用語そのものはこの範囲では出て来ません。しかしこの『補足と改訂』にはそのすぐあとに次のような注目すべき言及があります。

 

 《労働生産物を,それらの非常に多様な使用対象性とは異なる,同し種類の価値対象性に還元するさいに,一つの状況を見過ごしてはならない。すなわち,諸労働生産物が価値対象性を持つ,あるいは価値つまり単なる労働凝固であるのは,それらのなかに実現されているさまざまな具体的諸労働が,すべて抽象的人間的労働に還元されているからに他ならない,ということである。》(同)

 

  第二版ではこの二つが合わさって現行のような敍述になったと考えられるのではないでしょうか。

 

  さて、この部分については、戦前から今日に至るまで多くの議論がなされてきたのですが、それについては次回の報告の時にでも検討することにして、今回はこのぐらいにしましよう。


第5回「『資本論』を読む会」の案内

第5回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 総務省が7月25日に発表した6月の全国消費者物価指数は、前年同月比1.9%も上昇し、9カ月連続のプラスとなった。

 

 消費税率引き上げの影響で物価が上がった1998年1月以来、10年5カ月ぶりの高い伸び率だという。ガソリンの高騰や、穀物価格上昇に伴う食品の値上げなどが影響したなどと言われている。

 

 

 実際、身の回りの生活必需品を見回しても、値上げラッシュである。パンやスパゲッティ、チーズ、インスタントラーメン等々、食料品はいうに及ばず、電気やガスも値上げが予定されている。テレビのニュースでは教育費やPTAの会費まで値上げしているなどと報じていた。そして唯一労働者の賃金だけが低下し続けている、と。

 

 すでにインフレは明らかになりつつある。6月に大阪で開かれたG8財務相会合でも世界インフレが指摘され、「警戒を怠らず、共同で適切な行動を」などと訴えていたが、インフレは世界中で広がろうとしているのである。

 

 世界的なインフレは、サブプライム問題などによって、オイルマネーなど世界的な投機資金が金融商品を回避し、石油や穀物など現物商品の先物市場に流れ込んでいるからだとも言われているが、しかしその背景にはドルの“タレ流し”による過剰な貨幣資本があることは明らかである。

 

 こうした国家信用で膨れ上がった架空な貨幣資本は、為替や有価証券などに向かっている限りは、ただ剰余価値の上前をハネルための権利のやりとりでしかないし、物価に対する影響はほんどないのだが、しかし一旦、現物商品に向かうと、たちまちその架空性が暴露されて(というのはこうした架空な貨幣資本は現実資本に対する直接な請求権を代表していないから)、物価の騰貴を引き起し、結果として、その貨幣“価値”の下落、すなわちインフレをもたらすことになるのである。

 

 だから今日のインフレは国家的な信用膨張と深く結びついた現象であり、なかなか複雑ではあるが、しかしインフレそのものは、直接的には貨幣的現象であり、それを解明するためには、やはり『資本論』で明らかにされている「貨幣論」が必要なのである。

 

 だから貴方も是非、今日の複雑な経済現象を理論的に読み解くためにも、共に『資本論』を読んでみませんか?

 



読者登録

亀仙人さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について