目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
第6回「『資本論』を読む会」の報告
第7回「『資本論』を読む会」の案内
第7回「『資本論』を読む会」の報告
第8回「『資本論』を読む会」の案内
第8回「『資本論』を読む会」の報告
第9回「『資本論』を読む会」の案内
第9回「『資本論』を読む会」の報告
第10回「『資本論』を読む会」の案内
第10回「『資本論』を読む会」の報告
第11回「『資本論』を読む会」の案内
第11回「『資本論』を読む会」の報告
第12回「『資本論』を読む会」の案内
第12回「『資本論』を読む会」の報告
第13回「『資本論』を読む会」の案内
第13回「『資本論』を読む会」の報告
第14回「『資本論』を読む会」の案内
第14回「『資本論』を読む会」の報告
第15回「『資本論』を読む会」の案内
第15回「『資本論』を読む会」の報告
第16回「『資本論』を読む会」の案内
第16回「『資本論』を読む会」の報告
第17回「『資本論』を読む会」の案内
第17回「『資本論』を読む会」の報告
第18回「『資本論』を読む会」の案内
第18回「『資本論』を読む会」の報告
第19回「『資本論』を読む会」の案内
第19回「『資本論』を読む会」の報告
第20回「『資本論』を読む会」の案内
第20回「『資本論』を読む会」の報告
第21回「『資本論』を読む会」の案内
第21回「『資本論』を読む会」の報告
第22回「『資本論』を読む会」の案内
第22回「『資本論』を読む会」の報告
第23回「『資本論』を読む会」の案内
第23回「『資本論』を読む会」の報告
第24回「『資本論』を読む会」の案内
第24回「『資本論』を読む会」の報告
第25回「『資本論』を読む会」の案内
第25回「『資本論』を読む会」の報告
第26回「『資本論』を読む会」の案内
第26回「『資本論』を読む会」の報告
第27回「『資本論』を読む会」の案内
第27回「『資本論』を読む会」の報告
第28回「『資本論』を読む会」の案内
第28回「『資本論』を読む会」の報告
第29回「『資本論』を読む会」の案内
第29回「『資本論』を読む会」の報告
第30回「『資本論』を読む会」の案内
第30回「『資本論』を読む会」の報告
第31回「『資本論』を読む会」の案内
第31回「『資本論』を読む会」の報告
第32回「『資本論』を読む会」の案内
第32回「『資本論』を読む会」の報告
第33回「『資本論』を読む会」の案内
第33回「『資本論』を読む会」の報告
第34回「『資本論』を読む会」の案内
第34回「『資本論』を読む会」の報告
第35回「『資本論』を読む会」の案内
第35回「『資本論』を読む会」の報告
第36回「『資本論』を読む会」 の案内
第36回「『資本論』を読む会」の報告
第37回「『資本論』を読む会」の案内
第37回「『資本論』を読む会」の報告
第38回「『資本論』を読む会」の案内
第38回「『資本論』を読む会」の報告
第39回「『資本論』を読む会」の案内
第39回「『資本論』を読む会」の報告
第40回「『資本論』を読む会」の案内
第40回「『資本論』を読む会」の報告
第41回「『資本論』を読む会」の案内
第41回「『資本論』を読む会」の報告
第42回「『資本論』を読む会」の案内
第42回「『資本論』を読む会」の報告
第43回「『資本論』を読む会」の案内
第43回「『資本論』を読む会」の報告
第44回「『資本論』を読む会」の案内
第44回「『資本論』を読む会」の報告
第45回「『資本論』を読む会」の案内
第45回「『資本論』を読む会」の報告
第46回「『資本論』を読む会」の案内
第46回「『資本論』を読む会」の報告
第47回「『資本論』を読む会」の案内
第47回「『資本論』を読む会」の報告
第48回「『資本論』を読む会」の案内
第48回「『資本論』を読む会」の報告
第49回「『資本論』を読む会」の案内
第49回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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はじめに

 この本は、『資本論』の学習を大阪の泉州地域で行った時の報告をまとめたものです。

 

 「『資本論』を読む会」そのものは第2章が終了した時点で、諸般の事情でやむなく中止になってしまい、それまでの成果と第3章の冒頭部分を解読したものを、今は「『資本論』学習資料室」(http://blog.goo.ne.jp/sihonron)として掲載しているものです。しかし新たな更新はいまは中断しており、再開の見通しも今のところはハッキリとしません。

 

 よってブログは今も掲載中なのですが、ブログという形式上なかなか遡って読みにくいので、とりあえず、第1章・第2章部分だけでも、これまでの案内と報告のすべてをまとめて一つの冊子として電子書籍化したものです。

 

 途中で解説する手順や形式を変えたりしていますが、すべてもとのまま紹介します。ただ部分的には、解説のほとんどを担当した亀仙人自身のその後の理論的深まりを踏まえて、より一層深く論じた部分もあります。だからブログに掲載されているものと一部異なるところもあります。また挿入されていた写真や図表のなかにはすでに消失してしまっているものもあり、すべて再現できなかったものもありますので、ご了承ください。

 


第1回「『資本論』を読む会」の案内

『資本論』を読んでみませんか

 

 

 

 

 

 

 「大坂城は誰が建てた?」

 「太閤さんや」

  小学生でも答えられる。

 しかしほんまやろか?

  ほんまは、太閤さんは、大坂城を建てるために、石垣の石の一つも、屋根瓦の一つも作ったり、運んだりはしてへん。

 ほんまに建てたのは、当時の築城工事に動員された、農民や大工、石工、左官などの人夫たちや。

 

  世の中の生活やそのもとにある経済は、こうした実際に額に汗して働いている人たちによって支えられ動いています。こんな世の中のほんまの仕組みを科学的に解きあかしているのが、カール・マルクスという人が書いた『資本論』なんです。

  『資本論』は「資本主義」という今の世の中の経済の仕組みをもっとも簡単なものから、もっとも複雑で高度な内容まで、順序よう、一つ一つ理論を積み重ねて明らかにしたものです。

 確かに初めての人にはむずかしいと思うかも知れんけど、実際に自分で働いたことのある人には、読んだら「なるほど」とようわかるように書いています。

 

  それに私らの読書会は、初めから、丁寧に読んで行くことを心がけています。

  一つの段落ごとに、読み合わせて、その内容について話し合い、みんなが納得してから、次に進むというように、読んで行くわけです。

 一人でも「わしゃ分からんわ」という人がいたら、何度もそこで議論して、色々な参考文献も読んだりして、とくにかく全員が納得してから、次に進むというようにやっていくつもりです。

 

 そやから初めて読もかという人も、もちろん何度も読んでよう知ってるわ、という人も、参加してもろて、知っている人は色々とその蘊蓄(ウンチク)を傾けてもろて、みんなでガヤガヤいいながら、まあ、茶菓子でもつまみながら、ゆっくり読んでゆこやないか、という読書会なわけです。

 

  そんな読書会ですから、前もって予習をせよとか、むずかしいことは言いません。

 古本屋でも覗いて安売りしているものでも、あるいは家の本箱の隅でホコリをかぶっているものでも、どんな版のものでも結構ですから、『資本論』の最初の巻(分冊)を持って参加して下さい。そしてみんなで声を出して読んでゆきましょう。そうしたらぼちぼち分かってくるはずです。

 

  まあ、そんな『資本論』の読書会ですから、誰でも気軽に、参加してください。 

 


第1回「『資本論』を読む会」の報告

第1回「『資本論』を読む会」の報告
 
 
 
◎すぐに散るわけには……

 関西の桜もそろそろ見納めですが、まだまだこれからというところもあることはあります。造幣局の通り抜けはこれからですし(期間は4/16~22)、吉野山の下千本と中千本は今が散りはじめですが、上や奥はまだ下旬に向けて見頃を迎えるところです。
 
 会場の堺市南図書館の3階の教室からは、丁度、散り初めの桜が窓一杯に見えました。満開の桜は見事ですが、はらはらと舞落ちる桜吹雪を見るのもまた格別です。
 
 第1回の「『資本論』を読む会」は、なかなか満開とはいかず、かといってまだ散るには早すぎるという、何と表現したら良いのでしょうか、まあそういう状況でした。そもそも会場が、40人規模というのですから、あまりにもだだっぴろく、私たちは部屋のすみに長机を四つくっつけて、細々と読書会をやったのでした。
 
 しかし、まあ、形としては貧相でしたが、議論の内容は必ずしもそうとは限りません。その報告をすることにしましょう(なお以下『資本論』の頁数は全集版の原頁とします)。

◎いきなり本文から始める

 参加者は4人、進行役は、私、亀仙人が担当、報告はピース(peace)さんがやってくれました、JJ富村さんと、あと紅一点の女性(クミさん)。
 
 代々木の党本部に300人を超える幹部を集めて『資本論』の講義をやるのも良いのでしょうが、私たちのように、少人数でじっくり議論しながら『資本論』を読むのもまた良いものです。
 
 私たちは、すぐに『資本論』の本文、つまり「第1部 資本の生産過程」の「第1篇 商品と貨幣」の「第1章 商品」、「第1節 商品の二つの要因--使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)」から始めました。
 
 ご存知のように、『資本論』には長い「序言」やら「後書き」等々があります。新日本新書版でいうと、それだけでほぼ50頁もあるわけです。もしこれを私たちのやり方であるワンパラグラフごとに議論し読んで行きますと、こうした類のものを読むだけで、何カ月も要することになり、いつまでたっても本文にたどり着けないことになり兼ねません。だからこうした類はすべて省略し、いきなり本文から始めたというわけです。
 
 もちろん、「序言」や「後書き」には「方法論」的に重要な示唆を与えるものがいろいろとありますが、そうしたものも本文を読んで行くなかで、必要に応じて取り上げて議論して行けばよいという判断です。

◎「第1章 商品」の位置

 ピースさんは、簡単なレジュメを用意してくれました。まずピースさんが最初のパラグラフを朗読し、そしてレジュメにもとづいてその内容を解説、それを受けて全員で議論を行う、という順序で始めました。
 
 最初の議論は、第1パラグラフの説明として、レジュメにある〈貨幣形態をその完成した姿とする価値形態を明らかにするために商品の分析から始めることを明らかにしている〉という一文に、JJ富田さんが噛みついたことから始まりました。
 
 「第1章 商品」の説明として、これで良いんだろうか、というのがJJ富田さんの疑問でしたが、すぐに亀仙人もその疑問に同意し、第1章が貨幣形態を説明するためにあるかの位置づけはおかしいのではないかと言いました。そこでそもそも第1章の位置づけをどう考えるべきかという問題に議論は発展しました。
 
 『資本論』の最初の部分の章や節の関連については、久留間鮫造氏の有名な説明があり、それも関連して議論されました。久留間氏の説明は、第2章の最後のあたりに出てくる《困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある》(107頁)という一文の《どのようにして》《なぜ》《何によって》とマルクスが述べているのは、それぞれ第1章の「第3節 価値形態または交換価値」、「第4節 商品の物神的性格とその秘密」、そして「第2章 交換過程」で、それぞれの問題を論じて来たのだ、というものです。
 
 しかしこのように説明されても、なるほどとは思うものの、それだけでは、第1章の各節や、第2章と第3章のそれぞれの関連など各章・節の課題が必ずしも明らかになるわけではありません。やはりそれは『資本論』そのものの展開に沿って考えるべきではないかという意見が亀仙人から出されました。亀仙人の意見はだいたい次のようなものです。

 【なるほど久留間さんの説明だと何となく第3節、第4節、第2章のそれぞれの関連が説明されたかのように思えるけど、しかしまず第一に、なぜ第3節、第4節、第2章なんや、という疑問がどうしても生まれる。なぜ第1章の第1節や第2節は問題にならへんのや、それになぜ第2章なんや、前の二つは「節」やのに、三つ目は「章」や。これはどう考えても、この三つを同じレベルで捉えるのはおかしいのやないか、と思う。それにそもそもマルクスの「商品がどのようにして、なぜ、何によって貨幣であるか」という設問そのものが分かりにくいし、それが第3節、第4節、第2章のそれぞれを指しており、そこで解明されたのやと説明されても、それによって俄にはそれらの関連が理解されたとはなかなか言いにくいのやないか。
 
 それに対して私はむしろマルクスの『資本論』の叙述に沿って全体の構成を見るべきやと思っている。
 
 まず第1章は商品論ということや。これは『資本論』の目次を見れば明らかやからそれほど注目されへんが、しかし重要なことや。目次を見ると「第1章 商品」となってる。つまり第1章はあくまでも商品が分析の対象なんや、商品とはそもそも何かが問題になっている。つまり商品の概念が明らかにされ、展開されているんや。これはどうして重要なんかというと、特に第3節が往々にして「貨幣の発生」が展開されていると理解される場合が多いからや。もちろん、こうした理解が間違いというのではない、しかし武田信照氏のような誤りがあるように、つまりそれまでも貨幣論の立場から理解しようとするような間違いがあるんや。今回のピースさんのレジュメもそれと同様なニュアンスがあるように思うんやが、往々にしてこの第三節も商品論であり、品とは何かを明らかにする一環として「貨幣の発生」も論じられているんやということが忘れられがちなんや。
 
 少し第1章を商品論としてどのように展開されているのかを、私の記憶だけで辿ってみまひょう。
 
 まず、マルクスはなぜ『資本論』を商品の分析から始めるか、その理由を説明する。それが「冒頭の商品」として論争になった部分や。それは資本主義的生産の社会の富が商品として生産されているからであり、商品がこの社会の富のもっとも基本的な要素(単位)になっているからやとマルクスは説明する。
 
 では商品とはそもそも何なのか、とマルクスは商品の分析を開始する。マルクスはまず商品をそのもっとも直接的な、すなわち商品を目の前に置いたときにわれわれの表象に捉えられる、そのありのままの姿において観察することから開始しようとする。これが唯物論的な分析の端緒なんや(この点がヘーゲルの始元との違いでもある)。
 
 マルクスは商品とはまず一つの使用価値であることを見る。しかし同時にそれが商品である限りは、単に人の欲望を満たす有用物というだけではなく、他の物と交換できるという交換価値を持っていること、この二つの属性を持っていて初めてそれが商品であると言いうることを指摘する。そして前者の使用価値はとりあえずはわれわれの分析の対象ではないことも確認する。というのは単なる使用価値でありながら商品でないものはいくらでもあるが、しかし交換価値でないのに商品であるようなものはなく、やはり問題は交換価値であるということがそれを商品たらしめているものであることが確認できるからや。だから商品とは何かを知るためには、使用価値ではなく、交換価値を分析する必要があることが分かるのや。
 
 そしてマルクスは交換価値の分析にとりかかる。この場合もマルクスはまず交換価値のもっともありふれた直接的な表象から開始する。それは直接には一つの商品が他の諸商品と交換される割合として見える。だからそこからマルクスの分析が開始される。つまり諸商品が交換されるということは、それらが同等性を持つからだというのや。つまり両者が交換されるということは、それらの中に等しい何かがあるからであり、その何かが交換価値とは何かを示すものだろうと考えるのや。しかし交換される諸商品は当然、それぞれ違ったものであり、違った使用価値を持っている。にもかかわらずそれらに同じものがあるというのはどうしてなのか、と問題を追求する。そのためにはまずそれらを共通の質に還元しなければならんのやが、それは何か。それは結局は、それらの諸商品がいずれも労働生産物やということに気づくんやな。つまりそれらは労働生産物という共通性を持っている。しかし労働生産物といってもそこに支出されている労働は、決してそれぞれ違った質を形成する具体的な労働ではないことになる。なぜなら、そうだとそれらは違った質の持つものとなり、共通性はなくなるからや。だからそれらは抽象的な人間的労働の生産物だということが理解される。そしてそういう抽象的な人間労働が対象化したもの、つまり生産物に凝結し積み重なったものがそれらを交換価値にしているものであり、それがすなわちそれらの「価値」なんや、というのがマルクスの分析の一つの結論なんや。
 
 そしてそれらが互いに交換されることは、そうした「価値」という共通の質を含むからであり、同時にその量も同じやからやということが分かる。では価値の量とは何かというと、そうした対象に支出され凝結されている抽象的人間労働の継続時間がすなわちそれや。そして個別の商品に対象化されている抽象的人間労働の継続時間とは、ようするにその社会において、その社会が必要としている生産物に支出しなければならない社会的な総労働時間の一部分やということが分かり、これがすなわち価値の量を規定するものやというわけや。ここまでがまあ第1節の内容である。
 
 次にマルクスは、こうした商品に対象化されている労働が一方で具体的な有用労働としての側面を持ち、他方では抽象的人間労働の側面を持つという商品に現われる労働の二重性が、この社会では重要な意義を持っていることを指摘する。そして労働のこの二つの側面が、この社会ではどのような意義を持っているのかを解明するのが第2節の課題なんや。
 
 こうして少なくともわれわれは商品とは何かを問うて、その商品が持つ二つの属性、使用価値と価値という相反する二つの属性の統一物であるという認識を得たのであり、しかもそれが具体的有用労働と抽象的人間労働という労働の二つの契機が、この社会では使用価値と価値という、商品の対立した二つの属性として現れ、それが商品の中に統一されていることを知ったのや。
 
 しかしわれわれが商品をそのものとして眺めた場合、それが商品であるかどうかは俄には分からへん。というのは価値というのは目に見えるものやないからや。そやから、それが商品であるかどうかは、結局、そこに値札(価格)が付いているかどうかによってやっとそれが商品であることを知るんや。ではそもそも商品に値札(価格)が付いているということはどういうことなんや。値札(価格)というんは諸商品がわしは交換価値を持っているで、と自分で示すことなんやが、それはどうしてそうなってるんか、ということを説明するんが第3節の課題なんや。
 
 つまり第3節で展開されている「貨幣の発生」というのは、そういう商品についている価格とはそもそも何かを明らかにするためのものなんや。だからあくまでも第3節も対象は商品であり、その限りでは「商品とは何か」を解明しているんや。つまりそれはマルクスがいうように「商品はいかにして貨幣なのか」、つまり商品にはどうして値札(価格)が付いているのか、を解明することがすなわち第3節の課題なんや。「貨幣の発生」もその限りで問題になっている、そこ
のところが重要なんや。
 マルクスはまず商品が自らが価値物であることを示すのはどうして可能かを問う。そしてそれはそもそも価値とは何やったのか、われわれはそれをどのようにして明らかにしたんかを振り返るなら、それはもともと諸商品が交換されるところからわれわれも分析を開始してそこに到達したことを思い出させる。ということは結局、この価値というものはそうした諸商品の社会的な関連のなかから明らかになることが分かるのや。だから商品がその自らの価値物としての属性を示すのは、結局は他の諸商品との関係のなかにおいてであることを指摘する。そしてマルクスはそうした関係を分析するために、まずもっとも簡単な関係からわれわれは分析を開始するとして二つの商品の交換関係を取り上げてるんや。
 
 ここでもマルクスは、まず二つの商品の交換関係というもっともありふれた、その意味ではわれわれにとって直接目にできるものから分析を始めている。そして二つの商品が交換されるという、そういう関係に置かれていることを確認したあと、それが二つの商品の価値の関係(等価関係)でもあることを見るんや。
 
 しかし二つの商品は価値の関係として見た場合、同じ役割を果たしているのではない。なぜならわれわれはまず最初に一つの商品であるリンネルに注目して、それが商品としてどうして値札をつけているのか、を知ろうとしているのやからや。だからまずリンネルが自らが価値物であることをどのようにして他の商品との、この場合は上着との交換関係(=価値の関係)のなかで示すのか、が問われているんや。だからリンネルは自らの価値を表す立場にあり、上着はその価値を表すのに役立つ立場にある。つまりリンネルは自らの価値を相対的に表現する立場にあり、上着はそのための協力者の立場にある。それをマルクスはリンネルは相対的価値形態にあり、上着は等価形態にあると指摘するんや。
 
 こうした二つの商品の価値の関係におけるそれぞれの役割を確認したあと、次に、マルクスはそれではリンネルはどのようにして自らの価値を表するのかを分析する。そしてそのためにまずリンネルが上着を自分に等置するということはどういうことかをさらに分析することによって、それを行う。リンネルが上着を自分に等置するということは、リンネルは上着は価値としては自分と同じであるということを示すことである、とマルクスは指摘する。つまりそれによってリンネルは自分の内にあって直接には目に見えない自分の価値に等しいものとして、上着を自分に等置するんやが、そのことによって、上着そのものが自分(リンネル)の価値と等しいのや、上着そのものが自分(リンネル)の価値そのものやと言っているのやというんや。つまり上着こそがリンネルの価値物やというのが、この価値関係のなかで明らかになることなんや。
 
 そしてそもそもこうした関係になっているんは、リンネルの価値を形成した抽象的人間労働に上着という使用価値を形成した具体的な有用労働が等置されることを意味するんであり、それによってリンネルの価値を形成した抽象的人間労働が上着という使用価値を形成した具体的有用労働によって表されていることでもある、とマルクスは指摘している。つまり上着という具体的姿態を形作った裁縫労働が、この場合、リンネル価値を織った抽象的人間労働という、その限りでは全く目に見えないものが、上着という目に見える具体的な形あるものとして表されているのだというんや。つまり裁縫労働がこの場合、抽象的人間労働の目に見える形態としてある、というんや。
 
 だからこそ、この抽象的人間労働の現実的な形態である裁縫労働によって作られた上着形態そのものが、価値そのものになっている、まさにその体で価値を表すものになっている、すなわち「価値体」になっているんや、とマルクスは指摘している。
 
 だからこの場合、上着の使用価値はリンネルの価値の現象形態、つまり目に見えるようなものとして現われている物やと、マルクスは一連の分析の結果をまとめている。これが相対的価値形態の内実としてマルクスが語っていることなんや。
 
 次にマルクスは等価形態の分析を行い、等価形態の謎、つまりその物質的な形態が社会的な力を持つ(金がものをいう!)というこのブルジョア社会の物神性の謎を解明している。
 
 そしてさらにマルクスは二つの商品からなるもっとも簡単な価値形態から、一つの商品の価値を他のさまざまな諸商品によって表す関係、展開された価値形態に進み、さらにそれを逆転したさまざまな諸商品が、ある特定の一商品によって共同してそれらの価値を表現する形態、すなわち一般的価値形態への分析へと進んで、これこそが潜在的な貨幣形態であることを指摘する。すなわちそれが特定の一商品、金に固着したとき、それは貨幣形態になることを指摘するんや。
 
 こうして諸商品は貨幣形態をもち、どのようにしてそれらの価値は価格として表示されるのかが分かった。つまり商品がどのようにして値札をつけているのかが分かったんや。
 
 以上が、第3節までのマルクスの分析や。ここまでで商品なるものの概念はその限りでは展開し終わったんや。商品とは何かが明らかになり、商品はそれ自体として存在するものとして一つの現存在として把握された。あとはこの商品が一つの自立的存在として運動する、その運動をわれわれは分析することになるんやが(「第2章 交換過程」)、しかし、マルクスはその前に、商品そのものの歴史性を暴露する節を設けている。それがすなわち第4節なんや。これも商品とは何かを明らかにする上で不可欠の節や。マルクスは資本主義的生産様式の深い分析は、おのずとその歴史的な考察を必要とする所をわれわれに明らかにすると『経済学批判要綱』で述べているが、ここはまさにそういうところの一つやな。
 
 つまり第4節の商品の物神性というのは、商品そのものの歴史性、すなわちその発生、発展、消滅の必然性を明らかにするところなんや。
 
 だから第2章は、第1章で明らかにされた商品をもとに、今度は自立した商品の運動が、すなわちその交換の過程が考察される章なんや。商品は自分で市場に行くわけやないから、ここからは商品所持者が問題になる。そしてそこでは商品の運動に内在する矛盾こそが貨幣の発生を必然にしたことが解明されるんや。つまり確かに久留間さんがいうように、「何によって」が解明される。だからこの第2章は、第1章の商品論と第3章の貨幣論を媒介するものであり、いわば商品から貨幣への移行を橋渡しする章ともいえる。それは商品の矛盾した運動のなかから貨幣が必然的に生み出されることを明らかにして、次の第3章の貨幣論へと移行する章なんや。
 
 そして第3章では、今度は貨幣が主体となる。つまり今度は貨幣が分析の対象になるんや。ここでは貨幣の機能とその諸法則が解明される。そして貨幣が解明されたあとは、第2篇の「貨幣の資本への移行」へと続くことになるんや。
 
 まあ、だいたい以上が『資本論』の第1篇の主な流れやと私は考えているんや。このように見たら、久留間さんの主張するいわゆる「シェーマ」が、第1篇全体のなかでのそれぞれの章や節やらの位置を必ずしも明らかにするものとは言えんのやないか、という私の疑問も了解してもらえるんとちゃうやろか……。】

  【どこやらから「亀仙人は自分の意見だけえらい丁寧に説明してすっこいなあ~っ」という声が聞こえそうやが、これはまあブログという七面倒くさいことを担当させられている者の、いわば「補償措置」みたいなもんですわ。自分の意見ももっと丁寧に紹介せよという人がありましたら、ご面倒ですが、ちゃんと文章化して頂いたら、喜んで紹介させてもらいます。もっとも内容にもよりけりですけど……。】

◎「市場経済」って?

 新しい趣向として、最初にもちょこっと紹介しましたが、不破哲三氏の講義録《『資本論』全三部を読む》(新日本出版社2003.5.10刊)も並行して一緒に検討して行こうということになりました。そこで最初の「商品」論の位置に関して、不破氏はどういうてるかというと、次のように言うてます。

 〈第1部第1篇は「商品と貨幣」、内容は、いわば市場経済の研究だと思ってもらえればよい、と思います。全体で三つの章にわかれていて、「第1章 商品」は、まず商品そのものの研究、「第2章 交換過程」は、その商品をつくる生産者の市場での行動の研究、「第3章 貨幣または商品流通」は、貨幣の役割と運動を中心にした市場経済の研究です。〉(99頁)

 まず不破氏は何故か「市場経済」という言葉がお好きで、何度もでてきます。なぜ「市場経済」なのか? と「読む会」でも疑問が出されました。そもそも「市場経済」などという用語は、『資本論』には出てきませんし、マルクス・エンゲルス全集の事項索引にも該当するものはありません。もちろん「市場」そのものや「商品市場」、あるいは「世界市場」、「労働市場」、「貨幣市場」、「市場価値」や「市場価格」等々という用語は『資本論』でも出てきますが、「市場経済」などいう用語はありません。不破氏のこうした説明は、私には何か非常に通俗的な響きをもつのですが、私の偏見のせいでしょうか。
 
 まあ、それはよいとして、不破氏の第1章、第2章、第3章のそれぞれの位置づけのなかで、特に第2章の位置づけは、少しおかしいのではないかという意見が出ました。「商品をつくる生産者の市場での行動」が研究されると不破氏は説明しているのですが、それが果たして第2章の課題なのでしょうか? 確かに第2章では商品所有者が登場します。しかしマルクスは《諸人格は、ここではただ、たがいに商品の代表者としてのみ、したがってまた商品所有者としてのみ、存在する。われわれは、展開が進むにつれて、諸人格の経済的扮装はただ経済的諸関係の人格化にほかならず、諸人格はこの経済的諸関係の担い手としてたがいに相対するということを、総じて見いだすであろう》(100頁)と述べています。
 
 つまり商品の所有者の行動も、それは商品の運動を代表するものであって、だからあくまでも考察の対象は市場における商品それ自体の運動ではないのでしょうか。そして商品の運動(交換過程)に内在する矛盾が貨幣を必然にするのではないのでしょうか。「読む会」の意見としては、だいたいそのように纏まったと思います。

 第1パラグラフについては、それ以外にも興味深い議論が次々と展開されたのですが、あまりにも長くなりすぎるので、これぐらいにしておきます。
 
 

第2回「『資本論』を読む会」の案内

第2回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 昨年夏に表面化したサブプライム問題は、たちまち世界中に広がり、世界経済の深刻な危機を招いています。

 

 サブプライムローンとは、アメリカの優良(プライム)でない階層(サブプライム)向けに貸し出した住宅ローンのことです。それがどうして世界経済を揺るがす震源になっているのでしょうか?

 

  それはこうしたローンを融資した金融機関が、その債権をいくつかの媒体機関を通じて証券化して売り出し、その媒体機関(投資銀行など)がそれをさらにいくつかの別の債権とまぜ合わせて、世界的なカネ余りのなかで、ぼろ儲けを企んでいるさまざまな機関投資家やヘッジファンドなどに売りつけていたからです。

 

 こうした世界の資産担保証券市場で売買されている証券類の総額は十数兆ドル(日本のGDPのほぼ3倍!)とも言われています。その約70%がアメリカ、残りの30%がヨーロッパ・アジアその他の市場で発行されているというのです。

 

  だからアメリカの住宅ブームが終わり、住宅価格の上昇が伸び悩むと、たちまちその価格上昇をあてにしてローンを組んでいた人たちが返済に行き詰まり、ローンの焦げつきを引き起し、こうした劣悪な債権を含んだ証券の価格が暴落して、それを買ってぼろ儲けを企んでいた連中=世界中の金融機関や投資家に膨大な損失をもたらしたというわけです。

 

 これは言ってみれば自業自得というべきなのでしょうが、しかしそれが世界経済の危機へと発展するからそうも言っておれません。

 

 だからブッシュ政権は、ローン債務者への支払い猶予に加え、総額18兆円の財政政策を打ち出しましたが、しかしその効果はほとんど見られないというのが現状なのです。

 

 こうした複雑な金融問題を解明していく基礎も『資本論』で与えられています。

 

 資本主義社会では、すべての定期的な一定の貨幣額の収入(貨幣請求権)は、資本還元されて、利子を生む架空な資本として価格を付けられ売買されるようになります。国債や株式、住宅ローン債権等もしかりなのです。マルクスは「利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であってたとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」(『資本論』第3部、全集版596頁)と述べています。

 

  だから『資本論』は決して古くさい古典などではなく、現代の「狂った」世界経済を根源的に解明する手段なのです。一度、是非、貴方も『資本論』を読んでみませんか。

 


第2回「『資本論』を読む会」の報告

第2回「『資本論』を読む会」の報告
 
 
◎新参加者もなく、欠席もあったりして、さらに寂しく……

 新参加者もなく(ピースさんの言うには、参加しそうな人があったらしいのだが?)、常連参加者の一人に不幸があり欠席したために、ただでさえ少ない参加者がさらに少なくなり、寂しい限りであった。しかし泣き言ばかり言っててもしょうがないから、とにかく読書会を続けることにした。
 参加者が少なかったから、という分けではないだろうが、テキストは捗り、前回はたった二つのパラグラフを終えただけだったのに、今回は四つも進み、第6パラグラフまで終わってしまった。
 だから議論もあっさりしたものだっただろう、って? これがなかなかどうして、何しろ自説を滔々と説いて止まない御仁がおるものですから……。

◎「交換価値の素材的担い手」とは?

 最初に問題提起をしたのは例によって例のごとくJJ富田さんだった。第4パラグラフの次の一文--

 《使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態においては、それは同時に交換価値の素材的担い手をなしている。》(新日本新書版61頁)

 ここで使用価値が「交換価値の素材的担い手をなしている」というのは、どういうことなのかというのである。
 この部分は、これまで当たり前のこととしてあまり問題にもされて来なかったところなのだが、JJ富田さんのいうには、これに続くパラグラフでは交換価値について述べているが、例えばそこで言われている「一クォーターの小麦」の諸交換価値として「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」などがあげられているが、「使用価値は……交換価値の素材的担い手をなしている」という場合、ここでいう「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」等々の諸使用価値のことを指しているのか、それとも「一クォーターの小麦」の交換価値の「素材的担い手」になっているのは「一クォーターの小麦」という使用価値そのものなのか、というのである。果たしてどうなんでしょう?

 「一クォーターの小麦」の交換価値は、当然、「一クォーターの小麦」自身が持っているものだから、その交換価値の素材的担い手というなら、 「一クォーターの小麦」という使用価値のことではないのか、というのがピースさんの意見。「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」等々は、「一クォーターの小麦」の交換価値を表現する材料にはなっているが、しかしそれは「素材的担い手」ということとはまた別のことではないのか、というわけ。

 亀仙人もピースさんとまったく同じように解釈していた。だからすぐにその意見に賛成したのだが、しかしあとで振り返って反省してみるに、JJ富田さんの問題提起は、もっと良く考えてみる必要があると思うようになった。

 この部分は、『資本論』を読んでいるだけだと、なかなか分かりにくい。「素材的担い手」というだけだと、どちらとも取れるような感じがするからである。ところが『経済学批判』を読むと、これがハッキリするのである。当日は『批判』を持っていなかったからしょうがなかったが、『批判』ではその部分は次のようになっている。

 《使用価値であるということは、商品にとって必要な前提であると思われるが、商品であるということは、使用価値にとって無関係な規定であるように思われる。経済的形態規定にたいしてこのように無関係な場合の使用価値は、すなわち使用価値としての使用価値は、経済学の考察範囲外にある。使用価値がこの範囲内にはいってくるのは、使用価値そのものが形態規定である場合だけである。直接には使用価値は、一定の経済的関係である交換価値があらわされる素材的土台である。》(国民文庫版25頁)

 ついでに『資本論草稿集』第3巻ではこの部分は次のように訳されている(ただし最後の部分だけ)。

 《……直接的には使用価値は、一定の経済的関係である交換価値が自らを表すさいの素材的な土台である。》(214頁)

 もちろん、『資本論』『批判』とは違った文献だし、書かれた年代にはかなりのブランクもある。だから両者がまったく同じ内容を論じているとは断定できないのだが、しかし『批判』では、マルクスが「素材的土台」として論じているのは、明らかに交換価値を表す対象であることが分かる。だからそれから類推して『資本論』の当該部分の解釈をやってみると、「一クォーターの小麦」の「交換価値の素材的担い手をなしている」ものとしてマルクスが語っているのは、「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」等々の諸使用価値のことであることが分かるのである。これがまあ、正しいのではないか。一件落着。

 (補足〔09.8.16〕:この『資本論』を読む会の報告を書き進めていくなかで、マルクスが第二版のために作成した『補足と改訂』のなかに、次のような一文があることを知った。

 《上着の生産においては,裁縫労働という形態のもとに,人間的労働力が実際に支出され,したがって,上着のなかに人間的労働が堆積されている。それゆえ,この面からすれば,上着体は価値の担い手である。もっとも,上着のこの属性そのものは,上着がどんなにすり切れてもその糸目から透けて見えるわけではないが。》(大黒正夫訳『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』第5号65頁)

 つまりここでは「素材的担い手」という文言はないが、上着体は上着の価値の担い手であるとのマルクスの言明がある。だからピースさんや亀仙人が最初に理解していた解釈もまんざら間違いとは言い切れないのではないかということを補足しておきたい。)

◎やはり第6パラグラフが問題に

 次に問題になったのは、やはり第6パラグラフであった。ここではマルクスは「一クォーターの小麦」が「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」などと交換される関係を例に引いて、そこから次のような二つの結論を導き出している。

 《それゆえ、こういうことになる。第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。しかし、第二に、交換価値は、一般にただ、それとは区別されるある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。》(新書版63頁)

 この二つの結論がどうして出てくるのか今一つ分かったようで分からない、という疑問が、やはりJJ富田さんから出された。
 ピースさんも今一つ納得ゆく説明ができなかったのだが、亀仙人は、以前、大阪でやった「『資本論』学ぶ会」でも同じところが問題になり、「『資本論』学ぶ会ニュース」でそれについて論じたことを指摘した。そしてそのニュースをその場で読み聞かせたのだが、ここではそれを紹介するだけにしておこう(以下同ニュース№5から)

 【議論になったのは、第6パラグラフを巡ってです。ここではマルクスは、交換価値から価値を導き出すために、まず1クオーターの小麦を例に上げ、それがさまざまな物と交換されることを指摘します。x量の靴墨、y量の絹、z量の金などです。そしてそうした小麦の他商品との交換を分析して結論として次の二つのことを導き出しています。

 「第一に、同じ商品の妥当な交換価値は一つの等しいものを表現する。しかし第二に、交換価値は、一般にただ、それとは区別されうるある内実の表現様式、『現象形態』でしかありえない」と。

 さて、ここで出された疑問は、結論として言われている二つのうち、最初のものは何となく分かるが、第二のものはどうしてそれが言えるのか、もう一つ良く分からない、この二つは同じことを別の観点から言っているのか、マルクスはここでは全体として「交換価値の限界」といったものを言いたいのか、といったものです。

 こうしてこの二つの結論の理解を巡って喧々諤々の議論が行われました。今、その議論の一つ一つを再現することは出来ませんが、これを考える上で、参考になると思える、文献から関連部分を紹介しておくことにしましょう。

 第二の結論として言われていることで、分かりにくいのは、なぜ、小麦と諸商品との交換関係から、交換価値が「ある内実の表現様式」だと分かるのか、ということではないかと思います。その点、マルクスは『剰余価値学説史』の中でベーリーの価値論を批判しているところで、次のような分かりやすい例を上げて説明しているところがあります。

 「ある物が他の物から離れている場合には、事実上、距離が、ある物と他の物とのあいだの関係である。だが同時に距離は、二つの物のあいだのこの関係とは違ったあるものである。それは空間の広がりであり、いくらかの長さであって、比較されうるこの二つの物以外の、他の二つの物の距離をも同様に表しうる。だが、これがすべてではない。もし二つの物のあいだの関係として距離を論じる場合には、われわれは、両方の物が相互に離れていることを可能にしているそれらの物自身の、ある『内在的なもの』、ある『属性』を想定しているのである。文字Aとテーブルとのあいだの距離というのは、なんのことであろうか?
 こんな問題はばかげているであろう。二つの物の距離を論じる場合に、われわれが論じているのは、空間のなかでの二つの物の相違なのである。したがって、われわれは、二つの物がともに空間のなかに含まれていること、空間の二つの点であること、を想定しているのである。したがってまた、われわれがその二つの物を同等化するのは、ともに空間のあり方としてである。そして、同等化したのちにはじめて、空間の観点のもとで、われわれは、二つの物を、空間の違った二つの点として区別するのである。空間に属しているということが、それらの物に共通な単位なのである」(全集二六巻・184~5頁)

 つまり小麦を靴墨や絹、金などとの交換関係に置くということは、両者に共通な「内在的なもの」「属性」の観点から両者を見ているということなわけです。だからマルクスは「ある内実の表現様式」だと結論したのではないでしょうか。

 もう一つ、河上肇はその『入門』で、この部分を、『資本論』の第一版、第二版、エンゲルス版、カウツキー版と比べながら、次のように説明しています。

 「かくの如く表現の仕方は版本によって種々の相違があるが、しかし何れにしても内容にさしたる相違はない。それは要するに次のことを意味する。--すでに述べたように、商品という以上は孤立して存在するものでなく、必ず他の種々なる商品と種々の割合で交換される。例えば1クォーターの小麦は、あるいは20ポンドの靴墨と交換され、あるいは2エルレの絹と交換され、あるいは半オンスの金、等々と交換されるのであるが、そうすると、その1クォーターの小麦の交換価値は、20ポンドの靴墨であると表現されると同時に、あるいは2エルレの絹であるとも、あるいは半オンスの金、等々であるとも、表現されることになり、かくてx量の靴墨、y量の絹、z量の金、等々は、各々分量を異にし且つ甚だしく種類を異にする使用価値であるにも関わらず、1クォーターの小麦の交換価値であるという点では、それらのものが皆な同じだということになる。すなわち吾々が日常の経験において見るところで、理屈でも何でもない。だが吾々はこのことから、交換価値は『かくの如き種々なる表現の仕方と区別されうる或る内容を有たねばならぬ』ということを推理しうるのである。同じものが或いは雲となり雨となり或いは雪となり氷となるというのであれば、これらのものは雲でもなく雨でもなく、すなわちそれ自身とは区別されうるところの、或る内容を有たねばならぬ。かくて吾々は先ず、交換価値なる現象形態と区別されうるところの、或る内容に考え到った。次に吾々は、その内容が何であるかの論究に進む」(『資本論入門』青木文庫第一分冊137~8頁)

 このように河上肇はわかりやすく説明しています。これらを参考に、皆さん自身でもう一度考えてみて下さい。】

 以上、今回は比較的簡単になりましたが、報告を終わります。


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