目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
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第4回「『資本論』を読む会」の案内
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第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第43回「『資本論』を読む会」の報告

第43回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎関電、全原発停止

 

 関西電力は21日未明、福井県にある高浜原子力発電所3号機(出力87万キロワット)の原子炉を停止しました。これで関電の11基あるすべての原発が停止したことになります。当面の電力需給は安定していますが、関電は夏の需要ピーク時には大変なことになるなどと「危機的状況」を強調し、「電力の需給安定には、原子力の再稼働が不可欠」(八木社長)などと述べています。

 

 ところがおかしなことに、関電は、大阪府や大阪市の電力需給の詳しいデータの公開要請にはガンとして答えようとしていません。節電への協力を呼びかけながら、それが必要である裏付けとなるデータの公開を拒み続けているのです。これは一体、どうしたことでしょうか。

 

 それは恐らくデータを公開すれば、これまで原発に反対する人たちが主張してきた、原発がなくても日本には電力需要を十分にまかなうだけ発電設備はある、という主張を裏付けてしまうからではないかと思われます。

 

 というのも、私の知人は関電で長く働き、今はすでに定年退職していますが、彼のいうには、これまでは、原発の稼働率を上げるために、関電管内の火力発電所の多くは停止ししてきたというのです。だから停止した火力発電所を再稼働すれば、十分電力の需要に応じることが出来るだけの余力を今の関電は持っていると言います。例えば多奈川第二火力発電所は定格出力は120万キロワットです。これがすべて停止したままなのです。あるいは海南火力発電所(同210万キロワット)もその一部は停止したままです。

 

 もちろん、停止している火力発電所を再稼働すれば、それだけ燃料代がかかるかも知れません。しかし、老朽化して危険極まりない原発を再稼働して、放射能の恐怖にさらされるより、よっぼとましというものではないでしょうか。

 

 関電にとっては、原発は“ドル箱”であり、稼ぎ頭なので、何としても原発を動かしたいとの思いがあるのは分かるのですが・・・・。

 

◎ロビンソンの問題を再び議論

 

 さて、今回の学習会はやや違った趣のもとに始まりました。というのはNさんが、彼は第41回の報告で紹介しましたように、第12パラグラフに関連して、ロビンソンが飼っていたのはヤギなのに、どうしてマルクスはラマにしたのか、と問題提起をされた方ですが、今度は、同じ第12パラグラフに関連する資料として、大塚久雄『社会科学における人間』(岩波新書)からロビンソンに言及しているところ(96-110頁)をコピーして資料として持ってきてくれたからです。だから学習会は、まずこの資料に一通り目を通すことから始めました。そしてその中身について、若干の議論を行ったわけです。その詳しい内容を紹介することは、やはりこの報告のなかでは主題を外してしまうので、出来ませんが、大塚氏のこの著書は、コピーされた部分を読むだけでも、細かく見て行くと色々と問題が多いものでした。だからここでは、主要な点に限って、その問題点を指摘しておきたいと思います。

 

●わざわざマルクスの取り上げている問題を、近代経済学(ブルジョア経済学)の「資源配分」という用語に置き換える

 

 さて、この大塚氏の著書は、1976年のNHK人間大学における講義を新書に再編したもののようですが、同氏は、マルクスがロビンソン物語で問題にしているのは次のようなことだと述べています。

 

 〈このマルクスの指摘する基本的な諸事実は、実は、われわれが現在使い慣れている語で言いかえますと、物的ならびに人的資源の配分、簡単に資源配分とよばれているものですね。〉〈経済の本質が資源配分である〉〈およそ経済現象なるものはつねに「資源配分」の問題だ〉云々。

 

 確かにマルクスがロビンソン物語を取り上げているのは、これまでの報告でも指摘してきたように、あらゆる社会的生産諸形態に共通する物質的な生産を人間と自然というもっとも抽象的な契機に還元して考察するためでした。しかしそれを〈物的ならびに人的資源の配分、簡単に資源配分とよばれているもの〉だと捉えるのは、決して正しくありません。そもそもマルクスは商品の物神的性格の秘密を暴露しているのです。その内容を紹介するに際して、物神崇拝に取り込まれたカテゴリーである〈物的ならびに人的資源の配分〉などという用語を使うこと自体、おかしなことです。ましてや、それがマルクスの主張していることだ、などと説明することは途方もないことではないでしょうか。おまけに大塚氏は〈「資源配分論」はいわれる近代経済学の方のレパートリーのなかに含まれている〉などとも述べており、そのことを先刻承知の上で使っているのですから、何をか況んやです。

 

 〈人的資源〉という用語を調べてみますと、次のような説明があります。

 

 〈資源ということばは・・・主として人間の利用できる天然資源 natural resources を指すようである。しかし,一方〈人的資源〉なることばも使われ,この場合は人間がみずからを客観的に見て,なんらかの目的の達成には人間も必要な資源と考えているのであろう。〉〈資本とは投資によってその価値を増大させることのできる財貨であるが,この考え方を投資対象としての人間に適用したものが〈人的資本〉の概念である。すなわち,人間の経済的価値を投資によって高めることができるという考え方である。〉(平凡社世界大百科事典)

 

 しかしマルクスはこうした考え方こそ〈資本主義的な考え方の狂気の沙汰〉だと、次のように述べているのです。

 

 〈国債という資本ではマイナスが資本として現われる――ちょうど利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であってたとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われることができるように――のであるが、このような資本に対比して次には労働力を見てみよう。労賃はここでは利子だと考えられ、したがって、労働力は、この利子を生む資本だと考えられる。たとえば一年間の労賃が五〇ポンドで利子率が五%だとすれば、一年間の労働力は一〇〇〇ポンドという資本に等しいとみなされる。資本家的な考え方の狂気の沙汰はここでその頂点に達する。〉(全集25b596頁)

 

 マルクスはあらゆる社会的生産諸形態に共通して存在している〈本来の物質的生産の領域〉(『資本論』第3部・全集25巻b1051頁)について、次のように述べています。

 

 〈未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。〉(同1051頁)

 

 このように、ここでもマルクスはロビンソン物語と同じように、社会を一人の人間に置き換えて、未開人や文明人という形で、それを直接自然に対峙させて、「彼の発達」を問題にしています。大塚氏が指摘していることは、その限りでは、こうしたあらゆる社会形態からも独立した物質的生産の領域そのものなのですが、しかし、大塚氏は、それを、マルクスが「商品の物神的性格とその秘密」を暴露しているパラグラフの説明として、敢えてわざわざブルジョア経済学の「資源配分」という用語に置き換えて論じているのです。これはまさに氏のブルジョア的本性を暴露するだけではなく、悪しき意図をも示すものではないでしょうか。

 

●「人間類型」から社会を説明する観念的な俗説をマルクスに被せる

 

 また大塚氏はマックス・ウェーバーの「人間類型論」に引き付けて、マルクスを読んでいます。ロビンソンクルーソーを「第一の人間類型」とし、「中産的生産層の典型」として捉えているわけです。そしてマルクスにも同じようなとらえ方があるのではないか、というのが、どうやら大塚氏の問題意識のようです。次のように述べています。

 

 〈少なくとも、経済学の範囲内で論じている限り、マルクスもまた「ロビンソン的人間類型」を認識のモデルとして前提していた、と。あるいは、マルクスは、「ロビンソン的人間類型」がおよそ経済学における理論形成の前提となっている、と考えていた、と。私はそう言ってさしつかえないのではない、と思います。〉

 

 しかし、これはとんでもない話ではないでしょうか。『資本論』のどこを読めばそうした理解が可能なのか、さっぱり分かりませんが、こんな観念的な歴史観をマルクスになすりつけることは許されるものではありません。大塚氏は最後には〈厳密な意味では、マルクスの学問には、人間論は立派にあっても、人間類型論はなかった、ということになるかと思います〉などとも述べていますが、とうていマルクスの理論を語る資格などないといわざるを得ないと思います。

 

 また大塚氏は、『資本論』の前に書かれた遺稿として『資本制的生産に先行する諸形態』も紹介して、それについて次のようにも述べています。

 

 〈そこでは、・・・・『資本論』の段階では慣用することになるような、そしてわれわれにはなじみの、生産諸力が発達すれば生産関係としての共同体は解体する、というような言い方はしていません。〉

 

 しかし、これも真っ赤なウソであることは明らかです。次の一文を見てください。

 

 〈労働する諸主体相互間の、また彼らの自然にたいする、一定の諸関係は、彼らの生産諸力の一定の発展段階に対応するのであって、彼らの共同体組織もこれにもとづく所有も、結局のところ、この発展段階に帰着するのである。ある点までは再生産〔が行われる〕。それから解体に転変する。〉(『資本論草稿集』2、149頁)

 

 そもそも『先行する諸形態』というのは、一般に『経済学批判要綱』と言われている1857-58年の草稿の一部なのです。マルクスはこの『要綱』での研究とそこで明確になった経済学批判のプランにもとづいて、その第一分冊として『経済学批判』を1859年に刊行し、その「序言」で、〈私の研究にとって導きの糸として役だった一般的結論〉として定式化したものが、あの有名な「唯物史観の定式」と言われるものなのです。つまりマルクス自身が、『批判』のもとになった『要綱』における研究を、「序言」で定式化したような観点を導きとして行ったのだと、自ら述べていることになるのです。だからその一部である『先行する諸形態』にそうした観点が貫かれていることは当然といえばあまりにも当然なのです。

 

 大塚氏が『先行する諸形態』が書かれた、こうした経緯を知った上であのようなことを述べているのでしたら、でたらめな人間であるといわざるを得ないし、知らずに書いているなら、学者として“失格”であると言わなければなりません。

 

 いずれにせよ、大塚氏のこの著書は、残念ながら、われわれの『資本論』の理解を助けて、深めるものというより、間違った理解へと、われわれを導き迷わす類のものといわざるを得ないでしょう。 

 

◎第18パラグラフ

 

 さて、そういうわけで、最初に頂いた資料を読む時間をとり、若干のそれについての議論を行ったあと、テキストにもどり、第18パラグラフから学習を開始しました。その報告を行います。いつものように、まず最初にテキスト本文を紹介し、それに文節ごとに記号を付して、それぞれを平易に書き下しながら、議論も紹介していくことにしましょう。

 

 【18】〈 (イ)商品世界にまつわりついている物神崇拝に、あるいは社会的労働諸規定の対象的外観に、一部の経済学者がどんなにはなはだしくあざむかれているかということは、とりわけ、交換価値の形成における自然の役割についての退屈でばかばかしい論争が示している。 (ロ)交換価値は、ある物に支出された労働を表現する一定の社会的様式であるから、たとえば為替相場と同じように、それが自然素材を含むことはありえないのである。〉

 

 (イ) 商品世界にまとわりついている物神崇拝、あるいは社会的な労働諸規定の対象的外観に、一部の経済学者がどんなにはなはだしくあざむかれているかということは、とくに交換価値の形成における自然の役割についての退屈でばかばかしい論争が示しています。

 

 ここで〈商品世界にまつわりついている物神崇拝〉を言い換えて、〈社会的労働諸規定の対象的外観〉とも述べているように思えます。学習会では、この二つは同じものと考えてよいのか、また「物神崇拝」を「物象化」と区別して、後者は労働の社会的性格が物の社会的自然属性や物の社会的関係として現れる客観的な現象をいうが、前者はそれが意識に反映したものだとする理解があるが、こうした理解は正しいのか、あるいは次のパラグラフには「物神的性格」という言葉も出てきますが(これは第4節の表題「商品の物神的性格とその秘密」にもなっています)、これらはどのように区別されるのか、また、第3章「貨幣または商品流通」第2節「流通手段」「a 商品の変態」の最後の方に出てくる「物の人格化と人格の物化との対立」の理解との関連などが話題になりました。これらは、しかし、話題になったというだけで、議論のなかで問題がハッキリ解決したわけではなく、ある意味では、今後の課題として問題提起されたものと受け止めています。よって、今後、こうした問題も考えていくための一つの参考文献として『資本論体系 2 商品・貨幣』所収の西野勉「物神性論に関する諸学説」から少し紹介しておきましょう。西野氏は平子友長氏の主張に依拠して、この問題を次のように説明しています。

 

  〈広義の「物象化」とは、「物神崇拝」という転倒した意識を生ずる客観的現象のなりたち、すなわち、人間の社会的関係がどういう関連を通じて「物象化」(広義の)し、さらにそれがどういう関連を通じて物の自然的関係・属性として現象する=「物化」することになるのか、という客観的現象のなりたちをとらえた概念であるのにたいして、「物神性」とは、その広義の「物象化」の結果、「物象」の社会的関係が、物の自然的属性や質料的関係性として現象しているその結果としての転倒現象のみを批判的にとらえた概念だというべきであろう。その転倒現象をあるがままに受け入れるところの日常意識が「物神崇拝」というべきであろう。〉(393頁、傍点で強調されている部分を下線にした)

 

 このように西野氏や平子氏らは、「物神崇拝」を「意識の問題」と捉えているようです。しかし、果たしてそうした理解は正しいのでしょうか。学習会では、単に意識の問題として捉えるのはおかしいのではないか、という疑問が出されました。いずれにせよ、もう一度、この問題を考えるために参考になるので、以前学習した第4パラグラフを見てみることにしましょう。

 

 〈したがって、商品形態の神秘性は、単に次のことにある。すなわち、商品形態は、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということにある。この“入れ替わり”によって、労働生産物は商品に、すなわち感性的でありながら超感性的な物、または社会的な物に、なる。たとえば、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的刺激としては現れないで、目の外部にある物の対象的形態として現れる。しかし、視覚の場合には、外的対象である一つの物から、目というもう一つの物に、現実に光が投げられる。それは、物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係である。これに対して、労働生産物の商品形態およびこの形態が自己を表すところの労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的性質およびそれから生じる物的諸関係とは絶対に何のかかわりもない。ここで人間にとって物と物との関係という幻影的形態をとるのは、人間そのものの一定の社会的関係にほかならない。だから、類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。ここでは、人間の頭脳の産物が、それ自身の生命を与えられて、相互のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ自立した姿態のように見える。商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを、私は物神崇拝と名づけるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなや労働生産物に付着し、したがって、商品生産と不可分なものである。〉

 

 ここではマルクス自身が、〈これを、私は物神崇拝と名づける〉と述べており、だから「物神崇拝」とは何かを理解するカギは、このパラグラフにあると考えることが出来ます。そしてこのパラグラフを読む限り、「物神崇拝」というのは、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、つまりこれらの物の社会的自然属性として反映したものであり、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に存在する諸対象の社会的関係として反映させることから生じるものだと説明されています。労働生産物の商品形態は、決して単なる意識の問題ではないことは明らかです。だからこのマルクスの説明を見る限り、「物神崇拝」を単なる意識の問題と理解することにはやはり疑問を持たざるを得ません。

 

 またいわゆる「物象化」と言われているものは、こうした人間自身の労働の社会的性格や、総労働に対する生産者たちの社会的関係が、物の社会的自然属性や物の社会的関係として反映され、しかもそれらによって人間自身が支配され、引き回される転倒した関係を意味します。だから「物象化」というのは、「物神崇拝」とその限りでは同じものです。ただ「物神崇拝」は、「物象化」という同じ事態を、すなわち人間が自分自身の労働の社会的属性や総労働に対する関係を反映させたものに支配される事態を、人間が自分たちの社会的な意識の産物にすぎない神によって支配される関係にアナロジーさせて、物を神として崇拝し、それに跪く現実を指して「物神崇拝」と述べているものではないでしょうか。だから「物象化」は「物神崇拝」とは何か別物ではなく、また前者は現実の関係であるが、後者はその現実を反映した、あるいはそれに捕らわれた意識の問題だというのでもなく、基本的には同じ内容を述べたものだと考えられるのではないでしょうか。

 

 「カネさえあればなんでもかなう」というのは、単に意識の問題ではなく、ブルジョア社会の現実であり、だからこそ、カネをありがたがり、札束の前に卑屈になって跪くのではないでしょうか。それは決して単なる意識の問題ではないのです。

 

 また〈交換価値の形成における自然の役割についての退屈でばかばかしい論争〉というのは、『剰余価値学説史』の〈(b)労働概念の自然過程への拡張によるそれへの歪曲。交換価値と使用価値との同一視〉(全集26巻III・231頁)という項目を見ると、こうした見解は、価値の生産価格への転化という現象をリカードの理論では説明不可能なところから生まれたようです。一般的利潤率の生成を知らず、よって価値の生産価格への転化を知らなかったリカードはそれを「例外」としたのですが、リカード学派を解体させた経済学者たちは、さらに突き進んで、だから価値は労働によって規定されないのだと結論し、次のような例を挙げたというのです。

 

 〈その事例は次のようなものであった。すなわち、ある種の諸商品は、それに労働が費やされることなしに、生産過程のなかに留まるのであって(たとえぽ酒倉のなかのぶどう酒)、その期間のあいだ、それらの商⑱品はある種の自然過程の作用にさらされる、ということである。(たとえばミルによっては指摘されていないが、いくつかの新たな化学的能因が充用される前の、農耕や皮なめしにおける労働の長い中断が、そうである。)それにもかかわらず、この期間は利潤を生みだしているものとして計算される。商品に労働が加えられない期間が労働期間として計算されるのである。(一般に、より長い流通期間が見込まれる場合も同じである。)、ミルはこの難局をいわば「うそを言って切り抜けた」のであるというのは彼は次のように言っているからであるすなわち人は、たとえばぶどう酒が酒倉のなかにある期間をたとえ前提からすれば実際にはそうでないにしても、労働を吸収している期間とみなすことができるであろう、と。そうでなければ、人は「時間」が利潤をつくりだし、時間そのものが「音や煙」である、と言わなけれぽならないであろう、と。ミルのこのような駄弁をマカロックは話の糸口にし、というよりはむしろ彼のいつもの気どった剽窃のやり方で、その駄弁を一般的な形態で再生産しているのであって、そのなかでは、隠されていたばかげた考えが解放され、リカードの体系の、また一般にすべての経済学的思考の、最後の残存物までが都合よく除去されているのである。〉(全集26巻III・232-3頁)

 

 またこの引用の最後で言われているマカロックの主張については、次のように説明されています。

 

 〈不都合が取り除かれているのは、諸商品の使用価値が-- 交換価値と呼ばれ、また、諸商品が使用価値として通過する作業や、諸商品が使用価値として生産過程のなかで果たす役だちが--労働と呼ばれる、ということによってなのである。このようにして、実際、日常生活のなかでは、労働する役畜や労働する機械が云々され、また、詩的に、鉄は炎熱のもとで労働しているとか、ハンマーの重圧のもとでうめくとき労働している、とも言われたりするのである。それどころか、鉄が歩いたりもするのである。そして労働は一つの作業なのだからどんな作業でも労働であるということよりも容易に証明できることはないまったく同様に証明されうることは感覚のあるものはすべて肉体的なものだからすべての肉体的なものが感覚をもっているということであろう 

 「労働は、正確には、それが人間や下等な動物や機械や自然力のどれによって行なわれようと、ある望ましい所産をもたらす傾向のあるなんらかの種類の作用または作業である、と定義しうるであろう。」(マカロック『経済学原理』七五ぺージ。) 

 そして、このことは、けっして〔ただ〕労働用具に〔だけ〕かかわりがあることではない。それは、事実上、原料についてもまったく同様にあてはまる。羊毛は、それが染料を吸収する場合には、ある物理的な作用または作業を受ける。一般に、「ある望ましい所産をもたらすために」ある物に、物理的、機械的、化学的などの作用を及ぼすならば、必ずその物自体は反作用をする。だから、それ自身が労働することなしに、それが加工されるということはありえない。こうして、生産過程にはいるすべての商品は価値が増加するのであるが、それは、それ身の価値が保存されるからだけではなく、それらの商品が、単に対象化された労働ではなく「労働する」ということによって、新しい価値をつくりだすからである。これによって当然すべての困難は除去される。実際には、これは、単に、セーの「資本の生産的役だち」や「土地の生産的役だち」などの遠回しな表現にすぎず、それを改名したものにすぎない。〉(同325-6頁)

 

 以下、マルクスの叙述は続きますが、これぐらいで十分でしょう。

 

 (ロ) 交換価値は、ある物に支出された労働を表現する一定の社会的な様式なのですから、例えば、為替相場と同じように、それに自然素材が含まれるということはありえないのです。

 

 ここでは〈交換価値は、ある物に支出された労働を表現する一定の社会的様式である〉という説明があります。実際、生産物が商品という形態をとらない社会では、ある物に支出された労働は直接労働時間で計られていました。例えば、農民は田植えをしなければならない時期から逆算して、田を耕したり、水を入れて均すなどさまざまな田植えの準備をやりますが、それぞれの作業にどれだけの労働日が必要かを常に意識して自分の労働を配分します。同じように、大工は棟上げの日を決めて、そこから逆算して、上棟に必要な一切のものを材木を加工して準備しますが、その場合にどの作業にどれだけの日数が必要かを常に考えて作業をしています。これらはすべて一つの生産過程のなかでの話ですが、本来は、社会的な生産においても同じことが必要なのです。しかし労働が直接社会的に結びつけられていない社会では、その労働の社会的な結びつきや、ある物にどれだけの労働が支出されるべきかは、結局、それらの労働生産物が商品として交換されるなかで事後的に決まってくるわけです。だから価値というのは、そうした物に支出された労働を表現する一つの社会的やり方であって、だから価値にはそもそも自然素材などはまったく含まれていないのだというわけです。それは為替相場に自然素材が含まれていないのと同じだとも。しかし為替相場に自然素材が含まれていないことは認めるブルジョア経済学者も、しかし物神崇拝に取り込まれているがために、商品の価値には、自然の産み出す「価値」も含まれるのだと考えているわけです。それは次のパラグラフを見れば分かります。

 

◎第19パラグラフ

 

  【19】〈 (イ)商品形態は、ブルジョア的生産の最も一般的な最も未発展な形態であるから--だからこそ、商品形態は、こんにちほど支配的な、したがって特徴的な様式でではないにしても、早くから登場するのだが--その物神的性格はまだ比較的にたやすく見ぬけるように見える。 (ロ)もっと具体的な形態の場合には、簡単であるという外観さえ消えうせる。 () 重金主義の幻想はどこから来るのか?  (ニ)重金主義は、金銀を見ても、貨幣としての金銀は一つの社会的生産関係を、しかも奇妙な社会的属性をおびた自然物という形態で、表示するのだということを見てとることができなかった。 (ホ)また、お高くとまって重金主義を冷笑している近代の経済学は、それが資本を取りあつかうやいなや、その物神崇拝は手に取るように明らかになるではないか?  (ヘ)地代は大地〔Erde〕から生じるのであって、社会から生じるのではないという重農主義的幻想が消えてから、どれだけたったであろうか?〉

 

 (イ)、(ロ) 商品形態は、ブルジョア的生産の最も一般的な最も未発展な形態ですから、そしてだからこそ、商品形態は、ブルジョア的な生産ではそうであるように、支配的で特徴的な様式にまでなっていないとしても、早くから歴史的には登場します。しがし、そうした未発展な商品形態では、まだその物神的性格は比較的容易に見抜くことが可能なように見えます。しかし、もっと具体的な形態、例えば貨幣形態であるとか、資本形態などの場合は、簡単であるという外観さえ消え失せます。

 

 ここでは商品形態では、その物神的性格はまだ比較的にたやすく見抜けると言われていますが、これはどういうことかが問題になりました。

 

 商品形態を、その発展したものである貨幣形態や資本形態と比較してこのように言われているのですが、商品形態では物神的性格が比較的容易に見抜けるというのは、商品の価値は、生産物の「社会的自然属性」だと言われますが、しかしそれが生産物の実際の自然の属性とは異なるものであることが比較的容易に理解されるということではないかと思います。

 

 初版付録の等価形態の第四の特性の表題は、〈商品形態の物神崇拝は、等価形態では、相対的価値形態においてよりも顕著である〉となっています。つまりここで相対的価値形態にあるのは、単なる一つの商品ですが、等価形態にある商品は、さらに貨幣へと発展するものなのです。つまり相対的価値形態にある商品リンネルの価値は、ここでは上着という別の商品の使用価値によって表現されています。だからリンネルの価値は、リンネルの使用価値とは異なるものであり、何らかの商品の関係から生じるものであるということは、ここでは容易に理解できるわけです。それに対して、上着は、リンネルとの価値関係(表現)の中では、その使用価値そのものが価値なっています。つまりその自然属性そのものが価値という社会的属性と密接不可分に癒着しているのです。しかし,まだ等価形態の未発達な段階では、上着は別のある商品と入れ代わることが可能ですから、別に上着の使用価値そのものにそうした属性がくっついているわけではないことはまだ分かります。しかし、貨幣形態では、金という商品にそれが最終的に固着し、それ以のすべての商品は等価形態から排除されています。つまりここでは金という自然属性そのものが、そうした社会的属性を独占的にまとっており、だからこそ今度は、自然属性そのものが社会的属性と密接不可分になっています。だから貨幣形態では、金という物的姿そのものが価値そのものに、価値の絶対的化身として現れて、その物神的性格を見抜くことは、単なる商品形態に比べてより困難になっているとマルクスは述べているのだと思います。

 

 そしてさらに発展した資本形態では、ブルジョア経済学者は資本を物として、すなわち財貨として見るのは彼らにとってより強い常識として一般化しているのだというわけです。

 

 (ハ)、(ニ) 重金主義の幻想はどこから来るのでしょうか? 重金主義は、金銀を見ても、貨幣としての金銀は一つの社会的な生産関係を、金銀という自然物の社会的な自然属性として、表しているのだということが分かりませんでした。

 

 ここで〈重金主義の幻想〉というのは、金銀こそが唯一の富だと考えたことではないかと思います。つまり商品形態のより発展した貨幣形態では物神崇拝を見抜くことはより困難であり、よって重金主義者は、金銀を見ても、それが社会的な生産関係を表すものであり、金銀が持つ社会的な力は、彼ら自身の社会的な関係から生じているということを理解できなかったわけです。重金主義については付属資料を参照してください。

 

 (ホ) また、その重金主義を批判し、冷笑している近代の経済学は、しかし自分たちも資本を取り扱うとなると、資本は工場や機械などの財物だという強固な理解から抜けきれず、その物神崇拝は手にとるように明らかではないでしょうか。

 

 ここで〈近代の経済学〉とあるのは古典派経済学、特にスミスリカード以降の経済学を指すのだと思います。スミスは『諸国民の富』第4篇で「重商主義体系の原理」を取り上げ、金銀を唯一の富とする重商主義者は、羊や牛を唯一の富としたタタール人と同じであり、むしろタタール人の方が「真理にもっとも近かった」などと述べ、重商主義者たちの主張を、ことごとく批判しています。

 

 また『経済学批判』では、マルクスは次のようにも述べています。

 

 〈最後に、交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関係が、いわば逆さまに、つまり物と物との社会的関係としてあらわされることである。一つの使用価値が交換価値として他の使用価値に関係するかぎりでだけ、いろいろな人間の労働は同等な一般的な労働として互いに関係させられる。したがって交換価値とは人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、物の外被の下に隠された関係ということをつけくわえなければならない。一ポンドの鉄と一ポンドの金とが、その物理的、化学的属性が違っているにもかかわらず、同一の量の重さをあらわしているように、同一の労働時間をふくんでいる二つの商品の使用価値は、同一の交換価値をあらわしている。こうして交換価値は、使用価値の社会的な自然規定性として、物としての使用価値に属する一つの規定性として現われる。そしてその結果として、諸使用価値は、交換過程において一定の量的割合で互いに置き換えられ、等価物を形成するが、それはちょうど、単純な化学元素が一定の量的割合で化合して、化学当量を形成するのと同じことである。社会的生産関係が対象の形態をとり、そのために労働における人と人との関係がむしろ物相互の関係および物の人にたいする関係としてあらわされること、このことをあたりまえのこと、自明のことのように思わせるのは、ただ日常生活の習慣にほかならない。商品では、この神秘化はまだきわめて単純である。交換価値としての諸商品の関係は、むしろ人々の彼らの相互の生産的活動にたいする関係であるという考えが、多かれ少なかれ、すべての人の頭にある。もっと高度の生産諸関係では、単純性というこの外観は消えうせてしまう。重金主義のすべての錯覚は、貨幣が一つの社会的生産関係を、しかも一定の属性をもつ自然物という形態であらわすということを貨幣から察知しなかった点に由来する。重金主義の錯覚を見くだして嘲り笑う現代の経済学者たちにあっても、彼らがもっと高度の経済学的諸範疇、たとえば資本を取り扱うことになると、たちまち同じ錯覚が暴露される。彼らが不器用に物としてやっとつかまえたと思ったものが、たちまち社会関係として現われ、そして彼らかようやく社会関係として固定してしまったものが、こんどは物として彼らを愚弄する場合に、彼らの素朴な驚嘆の告白のうちに、この錯覚が突然現われるのである。〉(全集13巻19-20頁)

 

 また〈近代の経済学は、それが資本を取りあつかうやいなや、その物神崇拝は手に取るように明らかになるではないか?〉という部分については、『資本論』第2部の固定資本と流動資本との区別を論じた部分から一部紹介しておきましょう。

 

 〈根本的な誤り--固定資本と流動資本という範疇と不変資本と可変資本という範疇との混同--は別としても、経済学者たちのあいだに見られる従来の概念規定の混乱は、何よりもまず次の諸点に基づくものである。  人々は、労働手段が素材としてもっている特定の諸属性、たとえば家屋などの物理的な不動性のようなものを、固定資本の直接的属性だとする。このような場合にいつでもたやすく指摘できるのは、労働手段としてやはり固定資本である他の労働手段が反対の属性をもっているということであり、たとえば船などの物理的な可動性である。  あるいはまた、価値の流通から生ずる経済上の形態規定を物的な属性と混同する。あたかも、それ自身では決して資本ではなくてただ特定の社会的諸関係のもとでのみ資本になる物が、それ自体としてすでに生まれ長柄に固定資本とか流動資本とかいう一定の形態の資本でありうるかのように。〉(第2部、全集24巻197頁)

 

 (ヘ) あるいは地代は土地から生じるのであって、社会から生じるのではないという重農主義的な幻想が消えてから、どれだけたったでしょうか。

 

 学習会では、ここでマルクスは何を言いたいのかが問題になりました。重金主義、重商主義、重農主義、そしてそれらを克服した近代の経済学との関係を、マルクスは、『経済学批判への序説』において、労働一般の観念の成立と関連させて、次のように述べています。

 

 〈労働はまったく簡単な範疇のように見える。このような一般性においての――労働一般としての――労働の観念も非常に古いものである。それにもかかわらず、経済学的にこの簡単性において把握されたものとしては、「労働」は、この簡単な抽象を生みだす諸関係と同様に近代的な範疇である。たとえば重金主義は、富を、まだまったく客体的に、自分の外に貨幣の姿をとっている物として、定立している。マニュファクチュア主義または重商主義が、対象から主体的活動に――商業労働とマニュファクチュア労働に――富の源泉を移しているのは、重金主義にたいして大きな進歩だった。といっても、まだこの活動そのものを金儲けという局限された意味でしか把握していないのであるが。この主義にたいして、重農主義は、労働の一定の形態――農業――を、富を創造する労働として定立し、また対象そのものを、もはや貨幣という仮装のなかでではなく、生産物一般として、労働の一般的結果として、定立するのである。しかしまだこの生産物を、活動の局限性に対応して、やはりまだ自然的に規定された生産物――農業生産物、とくに〔par excellence〕土地生産物――として考えているのである。  富を生みだす活動のあらゆる限定を放棄したのは、アダム・スミスの大きな進歩だった。――マニュファクチュァ労働でもなく、商業労働でもなく、農業労働でもないが、しかもそのどれでもあるたんなる労働。富を創造する活動の抽象的一般性とともに、いまやまた、富として規定される対象の一般性、生産物一般、あるいはさらにまた労働一般、といっても過去の対象化された労働としてのそれ。この移行がどんなに困難で大きかったかは、アダム・スミス自身もまだときどきふたたび重農主義に逆もどりしているということからも明らかである。〉(全集13巻630-1頁)

 

  重金主義は16-17世紀の重商主義の前期の経済政策あるいは経済思想ですが、重農主義は主に18世紀にフランスで学派を形成した経済学者の一団です。その中心に位置するケネーは1694-1774年です。それに対して、スミスは1723-1790年、リカードは1772-1823年です。だからマルクスが〈重農主義的幻想が消えてから、どれだけたったであろうか?〉というのは、〈近代の経済学〉が、そうした重農主義的幻想を克服してから、すでに一世紀ほど経っているのに、いまだに彼らは資本を取り扱うや、物神崇拝の幻想に惑わされているではないか、という意味で、述べているのではないか、ということになりました。

 

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【付属資料】

 

●第18パラグラフに関するもの

 

《初版本文》

 

 〈商品世界に付着している物神崇拝、あるいは、社会的な労働規定の対象的な外観を見て、一部の経済学者がどんなに欺かれているかは、なかんずく、交換価値の形成における自然の役割にかんしての退屈でくだらない論争が、明らかにしている。交換価値は、ある物に費やされた労働を表現する特定の社会的なやり方であるから、たとえば為替相場と同じに、もはや自然素材を含んでいるはずがない。〉(江夏訳67頁)

 

《フランス語版》

 

 〈商品世界に内在的な物神崇拝によって、あるいは労働の社会的属性の物的な外観によって、大半の経済学者のもとに産み出された幻想を、とりわけ証明するものは、交換価値の創造における自然の役割についての、長々しい、無味乾燥な彼らの論争である。交換価値は、ある物体の生産に使用された労働を計算するための、特殊な、社会的なやり方にほかならないから、たとえば為替相場と同じように、物的な要素を含むはずがない。〉(江夏他訳58頁)

 

●第19パラグラフに関するもの

 

《初版本文》

 

 〈商品形態は、ブルジョア的な生産の最も一般的で最も未発展な形態として、すなわち、それゆえに、すでに以前の生産時代においても、今日と同じように支配的なやり方、したがって特徴的なやり方ではないにせよ、現われているところの形態として、まだ比較的容易に見抜かれるものであった。ところが、たとえば資本のような、いっそう具体的な諸形態は、どうか? 古典派経済学の物神崇拝が、ここでは手にとるように明らかになる。〉(江夏訳68頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈商品形態は、プルジョワ的生産のもっとも一般的なそしてもっとも未発達な形態であるから--だからこそ、商品形態は、今日ほど支配的な、それゆえ特徴的な様式でではないにしても、すでに早くから登場するのだが--その物神的性格はまだ比較的にたやすく見抜けるように見える。もっと具体的な社会的諸形態にあっては、簡単であるという外見さえ消えうせる。重金主義の幻想はどこから来るのか? 金銀を見ても、貨幣としての金銀は一つの社会的生産関係を、しかも自然物の形態において、表示するのだということを見てとることができなかった。

  [A]

 また、お高くとまって重金主義を冷笑している近代の経済学は、それが資本を取り扱うやいなや、その物神崇拝は手に取るように明らかだということではなくなるのではないか?  近代の経済学がまぬけにも、物だとして理解しようとした資本は、彼らにとって社会的関係として相対するとき、そして彼らがすぐにまた物だとからかい、そのあとで彼らは資本を社会的関係としてはおよそ規定しないのを見るとき、同じ幻想があらわになっている。地代は土地から生じるのであって、社会から生じるのではないという重農主義的幻想が消えてから、どれだけたったであろうか?

  [B]

 また、お高くとまって重金主義を冷笑している近代の経済学は、それが資本を取り扱うやいなや、その物神崇拝、は手に取るように明らかだということではなくなるのではないか? 地代は土地から生じるのであって、社会から生じるのではないという重農主義的幻想が消えてから、どれだけたったであろうか? 〉(小黒訳26-7頁)

 

《フランス語版》

 

 〈今日の社会では、労働生産物に結びつく最も一般的で最も単純な経済形態、すなわち商品形態は、誰もがそれに悪意を認めないほど、万人に身近なものである。もっと複雑な別の経済形態を考察しよう。たとえぽ、重商主義の幻想はど鋤こから生ずるか? それは明らかに、貨幣形態が貴金属に極印を押す物神崇拝的な性格からである。それでは、自由思想家をよそおって、重商主義者の物神崇拝にたいして色槌せた冷やかしを倦むことなくむしかえす近代の経済学は、この外観にだまされることがいっそう少ないか? 諸物、たとえぽ労働手段が本性上資本であること、労働手段からこの純粋に社会的な性格を奪い取ろうとして人は反自然の罪を犯すこと、これが近代の経済学の基礎的学説ではないのか?最後に、重農主義者は、多くの点で優れているにしても、地代が人間から奪われた貢物ではなく、自然そのものが土地所有者に与える贈り物である、と考えなかったか?(フランス語版では、ここで改行せずに、現行版の次のパラグラフの最初の文節がこのパラグラフの最後に来たあと改行している。--引用者) 〉(江夏他訳58頁)

 

●『資本論辞典』から

 

重金主義Monetarsystem 重金主義とは.資本主義の初期にあたる16-17世紀にかけて西ヨーロッパ,とくにイギリスを中心として支配的におこなわれた経済政策ならびに経済思想の総称である広義の〈重商主義〉の前期をいう.この経済思想の基調は.貨幣が本性上金銀であるところから,金銀を富の唯一の形態だとみて,一国の富の大いさは金銀の保有量によって測られるとする点に求められる.したがって貨幣としての金銀を極度に重要視し,それを保蔵ないし蓄積することを強調したのであって,その限りでは素朴で一面的な主張というほかはない.だが反面においてこの思想のなかには,近代資本主務社会にたいする鋭い認識がひそんでいる.すなわち‘近代世界の最初の通弁である重金主義--重商主義はただその一変種にすぎない--の創始者たちは,金および銀つまり貨幣を唯一の富だと宣言し,正当にもブルジョア社会の使命をば貨幣をもうけること……だ, と明言したのである’(Kr 170;岩波208:国民197:選集補3-184:青木209)・初期資本主義の時代には,まだ国民的生産の大部分が封建的緒形態によって営まれており,生産物の商品への転形,貨幣を媒介とする商品流通は,まだきわめて限られた部面であらわれたにすぎなかった.それゆえに生産物の大部分は,総じて全社会的な素材変換の過程のなかに入らないから.むろん一般的抽象的労働の対象化としてはあらわれず,事実上ブルジョア的冨を形成するものではなかった.そこでせいぜい‘その当時の真にブルジョア的な経済の領域は,商品流通の領域であった.'この商品流通という原初的な領域に立脚してブルジョア的生産の全過程を判断して,そこにこの社会的生産形態に固有の秘密を,すなわちそれが交換価値によって支配されているということを洞見しえた点は.重商主義者の卓見である.のみならず,彼らの提唱した具体的諸政策の背後には,世界商業や外国貿易を尊重する思想の裏づけとして,こうした内外商業に直接につながる国民的労働の特定の諸部門を,富または貨幣の唯一の真の源泉だとみる見地があった(Kr170-172 ;岩波208-210;国民197-199;選集補3-184-185;青木209-211)・すなわち貨幣としての金銀は富の基盤をなすものであるが,しかし外国貿易に登場する生産物の生産やまたその生産物の商品への転形も,それらがけっきょくは貨幣に転形されて自国に金銀をもたらすならば,やはり富を実現するための条件であるといわなければならない.それゆえ重金主義は世界市場のための生産,生産物の商品への転形をも,正当に資本主義的生産の前提および条件として布告したのである(KIII-834-835 ;青木13・1106:岩波11-289)・しかしこの学説は,金銀をみても,それが貨幣としての社会的生産関係をば社会的属性を具えた自然物の形態で表示することを感知しなかったし(Kr20:岩波32:国民25;補3-18;青木38),また貨幣の運動をとらえても,それをG-W-G'という無概念的形態において固定化し. この循環形式の背後にひそむ生産関係にまでたちいって洞察する観点をもちえないで,もっぱらそこに貨幣形態での金銀量の増加を考えるだけにとどまり,貨幣をそのまま資本と混同したのである(KII-57;青木5-81:岩波5-95). これは,この経済思想がその根本的性絡において粗雑な〈実利主義〉にもとづく本来的な俗流経済学であることを示すものである(KIII-834青木13-1106:岩波11-289). 〔原典〕KIII・834-835:青木13-1105-1106:岩波11・289-290. Kr第1編第2章C→重商主義(石垣博美)

 

フィジオクラートPhysiokrat Ⅰ 名称 フィジオクラートとは. 18世紀の後半フランスで学派を形成した経済学者の一団.すなわちフランソワ・ケネー(Francois Quesnay. 1694-1774)を中心とするミラボー侯(Victor Riquetti,Ma rquls de Mirabeau,1715-1789),デュポン ・ド・ヌムール(Pierre Samuel Dupont de Nemours,1739-1817),メルシェ・ド・ラ・リグィエール(Paul Pierre Le Mercier de Ja Riviere de Saint Medard,1720-1793). ボードー師(L'abbe Nicolas Baudeau. 1730-1792). ル・トローヌ(Guil1aume Francois Le Trosne,1728-1780)などのひとびとを指すのである.彼らはケネーを学祖として学派を形づくったが,テュルゴ(Anne Robert Jacques Turgot,1727-1781)はこの学派の正系と見られていず,またみずからもこの学派に属することを否定した.それにもかかわらず彼がケネーの経済学説の骨子を継承し,それを発展させた重要な思想家であることはよく知られている.だからマルクスも彼をこうした意味でフィジオクラートのー人に数えているのである.ちなみに彼らはその在世当時からみずからをエコノミスト(economistes) と称し,また19世紀の前半までは他からもその名をもって呼ばれた.多分に思想の神秘的特徴を匂わせるフィジオクラートという名称が起ったのは,デュポンがヶネーの論稿を集めて公刊した害物の名《フィジオクラシー (Physiocratie. 1767)からであり,さらにこの名が一般化したのはおそらく. 19世紀の中葉,デール(EugeneDaire)がデュポンの編著にのっとり,学派の主要著作を編纂して《フィジオクラト》(Physiocrates,1846)と題する二巻本を刊行してから後のことと考えられる.マルクスが学派の著作に接したのは,主としてこの二巻本を通じてである. II 業綬と性格 フィジオクラシー (重農主義)とは自然の統治というほどの意味をもつ.この学派は社会という体躯を支配する自然的秩序を開明し,とくに経済生活の自然的組織を貫ぬく物理的法則をあきらかにしようとしたが,このような意図は現状の批判,なかんずくフランス重商主義(Colbertismus)批判の動機と深く結びついている.批判の対象となった社会はいうまでもなく.アンシャン・レジム(ancienregime)下の経済的に荒廃し,財政的にも破綻に瀕した農業国フランスであり,解決の狙いは農業経営の資本主義化である.ここに彼らの政策の基本的項目としての大農論が,(農産物)取引の自由化政策ならびに課税対象をもっぱら農業生産の剰余価値たる〈純生産物〉(produit net). すなわち地代のみに限るべしという単一税(impdtunique)政策とともに前景に出てくる.しかしフィジオクラシーはたんなる政策論ではなかった.それは政治算術的な方法にもとづいて国民の経済生活に実躍的な分析を加え,そこから一つの物理的法則すなわち資本の再生産の秩序をさぐり出そうとしたのである.この秩序はまず社会の構成を機能的に地主階級と生産階級たる(借地)農業者の階級と不生産階級たる商工業者の階級に三分し,農業のみが生産的であること,したがって農業生産においてのみ剰余価値たる純生産物が創出されること,この創出された純生産物が年々地代として地主階級に支払われ,その収入を形成することを前提とし,さらに取引における自由と経営資本の所有権の完全な保症とが存するばあい,商業国間に適用する恒常的な平均価格(prix commun)の存立を基礎として,農業者の経営資本がいかに流通過程における転形(W'-G'-W…P…W')を経つつ純生産物を産出し,年々同じ規模の単純再生産を繰り返えすかの構想となって実を結ぶ.この構想の図式化が《経済表》(Tableau Oeconomique. 1758 ;〔岩波文庫〕増井幸雄=戸田正雄訳:坂田太郎訳)であることはいうまでもない.かような分析こそまさしく彼らを近代経済学の父たらしめるものといわれるが.この分析の基本方向は,剰余価値を流通過程における‘富の譲渡またはその振動にもとづく利潤'(MWI-32:青木1-82)と見る〈重商主義〉とはまさに対蹠的に,剰余価値創出の場を流通過程から直接的生産過程に移したところにある(MWI-ll:青木1-51)・しかしながらわれわれはその反面に,彼らが当時の素朴な重農論者のように,いたずらに貨幣を賎視し.富の財物観にとらわれ,したがって重商主義以前に逆行したりすることなく,再生産過程を流通過程との相即においてとらえた識見の高さを十分評価しなくてはならない.マルクスがフィクオクラートの理論的立場を〈商品資本循環の方式〉として特徴づけた意味を,よく汲みとる必要があると考えるのである(KII第1篇第3章,とくにKII-95:青木5・131:岩波5-155)・  ところで彼らが剰余価値創出の場を流通過程から直接的生産過程に移し..資本主義的生産の分析に鍬を入れるに当って,当然労働力の価値とその労働力がつくりだす価値との差異を把握Lてかからなくてはならなかった.資本主義的生産が発展するための基礎は,まず商品としての労働力が資本ないしは土地所有としての労働諸条件に対立することにあるが,労働力の価値とそれが創出する価値との差異を見極めるためには,さしあたって前者がある一定の大いきとしてとらえられる必要がある.フィジオタラートはこれを必要生活手段の価格としての労賃最低限としてつかんだ.もっとも彼らはいまだ価値そのものの本性を認識することがなく.価値一般の分析に入りこみえなかったため,この差異はひっきょう労働者が年々消費する使用価値の総額を超えて生産する使用価値の超過分としてとらえられざるをえず,したがってすべての生産部門のうち,そのいきさつが判然とあらわれる農業のみが生産的と考えられたわけである(MWI-11-12 :青木1-50-53)・そのばあい彼らにとっては.剰余価値を生む農業労働の生産性が自然の生産力,自然のたまものとしてあらわれるが,農業労働から分離してそれに対立する労働諸条件としての土地所有が,おのずから自然のたまものとしての剰余価値を地代として収得する権能を認められる.フィジオクラートにあっては,封建制--土地所有の支配--がブルジョア的生産の見地のもとで再生産され,封建制がブルジョア化されることによってブルジョア社会が封建的仮象をうけとるといわれるのは,こうした構想の性格によるのである(MWI-16:青木1-57-58).  たしかにフィジオタラートの体系は,資本主義的生産の最初の体系的把握である.産業資本の代表者たる借地農業者の階級が全経済運動を指導する.農耕は資本主義的に経営される(KII-36l;青木7-468;岩波7-21)・しかしながらこのぼあいの資本主義的生産は,正しくは封建制からの脱出期におけるブルジョア社会に照応するものであることに注意しなくてはならない.したがってとの点にフィジオクラートの思想の性格の複雑さ,あいまいさがあらわれるのは当然ということができる.しかし彼らの一人一人の思想のニュアンスは,けっして一様でない.たとえば封建的仮象はミヲボーにおいてもっとも著しいが,テュルゴにおいてはこうした仮象がほとんど消滅し,思想の明瞭な近代化を認めることができる(MWI-16:青木1-58)・ところで,かような性格の複雑さは,一方において土地所有者が外見上は賛美されるが,そのことが反面においてその経済的否認に,そして資本主義的生産の確認につながる点に端的にあらわれる.すなわち単一税政策の主張は,すべての租税が唯一の剰余価値たる地代に転嫁さるべしというのであり.したがって土地所有を部分的に没収しようとするのであるが,これこそはフランス革命立法が遂行しようとLた当の政策である.かようにして借地農業者をはじめ商工業者は,租税の負担から解放されることになるが,そればかりでな〈彼らはいっさいの国家的干渉や特権の付与からも自由にされなくてはならない.この自由放任政策は,その動機において良価(bon prix)すなわち十分に生産費を償う価格の確立を目ざすものである点に注意を要するが.いずれにしろ単一税政策も自由放任政策も,そのことごとくが表向きは土地所有の利益のために行なわれるといういきさつに,思想の過渡的性絡をはっきりと読みとることができるのである(MW1-18-19 ;青木1-61-62). 〔原典)KII第1篇第3章;第3遍第19章1.MWⅠ第2章 →ケネー(坂田太郎)

 

 


第44回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

 

 

 2000億円もの企業年金の資金が煙のように消滅してしまった!

 

 AIJ投資顧問会社が、建設業や電気工事業など中小企業の厚生年金基金から預かった資金の運用に失敗して、ほぼ3年の間にそのほとんどを失ってしまったというのである。しかもAIJは、そうした実態を隠し、高利回りの運用実績を上げているかに偽って、顧客を拡大して、その新たに獲得した資金を、それまでの顧客に利回りとして配分するという、自転車操業を繰り返して、損失をますます拡大していった実態が明らかになっている。

 

 それにしても、2000億円というのは、途方もない金額である。この消失した企業年金というのは、三階建てといわれる日本の年金制度のうち三階部分の企業が独自に上乗せする部分で、労働者や企業の資金を元手に、機関投資家に運用を委託しているものである。従来は信託銀行や生命保険に運用は限定されていたが、金融自由化のなかで97年に規制緩和された結果、有象無象の投資顧問会社が参入し、企業年金の残高約73兆円(11年3月末)のうち約3割がこうした投資顧問会社に運用を委託しているのだという。しかもこうした投資顧問会社への政府の規制や監査はほとんどなされず、野放しの状態だったというから、今回のAIJの問題は、あるいは“氷山の一角”かも知れないのである。

 

 

 AIJは旧社会保険庁(現日本年金機構)OBらと結託して、3種類の投資信託を年金資産の運用者(ここにも旧社保庁OBが天下りしている)らに販売していたらしいが、そのすべては、金融派生商品や米国やドイツの国債や未公開株などさまざまなものを組み合わせたものらしく、すべて投機的な資産運用を行うものである。これらは儲けが大きい代わりに、損失額も桁違いに大きいものである。にも関わらず、AIJはリーマンショック以後も7.45%の高利回りを謳い、おまけに浅川社長ら幹部は、「偽の運用成績」に基づいて、20%もの成功報酬を受け取っていたというのである(浅川社長だけで毎年8億円近くの報酬!)。これはもう金融詐欺以外の何ものでもないであろう。

 

 この消失した2000億円はもはや取り返しは不可能である。詐欺師たちを罰することはできても、彼らにそんな莫大な損失を返済する能力があるはずもない。では誰がそのツケを払うのか、結局は弱いものが犠牲を強いられるのが目に見えている。

 

 いわゆるマネーゲームといわれる、金融の世界は、いわば架空の資本価値を取り引きする世界であり、だからこそ、それらは信用によって一気に膨れ上がるかと思えば、一遍にしぼんでしまう世界でもあるのである。

 

 マルクスは、「利子生み資本一般がすべての狂った形態の母」だと述べ、株式や債権などが、「ただの詐欺を表しているということも、けっして排除されているわけではない」とも指摘している。今回のAIJの販売した投資信託はまさにそうしたものだったというわけである。

 

 マルクスが解明している「架空資本」の理論は決して易しいものではないが、要するに定期的な貨幣利得が得られるなら、それをもたらす理由如何に関わらず、その貨幣利得をもたらす「利子生み資本」が存在するものと計算され、幻想的な資本価値が形成されるというものである。しかもそれらは、そうした資本価値として売買されて、運動するのである。だからその定期的な利子支払いが滞れば、たちまちその資本価値は蜃気楼のように消失するような性格のものである。だからこそそれらは「架空」な資本価値なのである。リーマンショックをもたらした、サブプライムローンをもとに証券化され、売買されたさまざまな金融派生商品も同様のものである。現代の金融の世界は不可解至極であるが、しかしこうした現象も科学的に解明していくことは可能である。

 

 貴方もぜひ『資本論』を共に学習して、現代資本主義の不可解な謎の解明に挑戦してみませんか。

 


第44回「『資本論』を読む会」の報告

第44回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎教育労働者への不当な思想弾圧を許すな!

 

 大阪府教育委員会は、9日、卒業式での君が代斉唱時に起立しなかったのは、職務命令違反であるとして、17名の教師に対して戒告処分を言い渡したということです。特に一人の教師は勤務日では無かったのに、当日、校門前で保護者と生徒に日の丸・君が代の強制に反対するビラを配布し、そのあと式場に参列して、斉唱時に起立しなかったとして処分されたと新聞は報じています。

 

 教育労働者は、どうして卒業式や入学式において、日の丸・君が代の強制に反対しているのでしょうか。

 

 その理由は、その配布されたビラの内容をみれば分かります。そのビラには、まず「卒業おめでとう」と生徒や保護者に呼びかけながら、次のようにその理由について書かれています。

 

 「私たちがこうした強制や命令に反対する理由は、第二次世界大戦前の学校教育の中で日の丸や君が代が果たしていた役割を思い出すからです。戦前は『お国のために』『天皇陛下のために』といった愛国主義教育が行われ、多くの若者を戦場へ送り出したのです。そして、戦後、こうした経験を反省し、『二度と子供たちを戦場に送らない』『二度と戦争を起こさない』ことを私たちは教職員は誓ったのです」

 

 そして次のようにも述べています。

 

 「民主主義のもとになっている憲法の第12条には『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない』とあります。つまり憲法で保障されている『表現の自由』や『思想・信条の自由』も、私たちが自分たちの努力で、その権利を主張し、守っていかなければならないのです。だから私たちは、納得できないことに黙っているのは良くないと考えます。」

 

 そして最後に、『戦死せる教え子よ』と題する竹本源元の詩が掲載されています。

 

 逝(い)いて還(かえ)らぬ教え児(ご)よ

 わたしの手は血まみれだー

 君をくびったその綱の 端(はし)を私も持っていた

 しかも人の子の師の名において 鳴呼(ああ)ー

 「お互いにだまされていた」の言い訳が何でできよう

 慚愧(ざんき) 悔恨(かいこん) 懺悔(ざんげ)を重ねても

 それがなんの償いになろう

 逝(い)った君はもう還(かえ)らない

 今ぞわたしは汚濁の手をすすぎ

 涙をはらって君の墓標に誓う

 「繰り返さぬぞ絶対に!」

 

 こうした教育労働者は、いわば日本の労働者階級の“良心”ともいうべき存在ではないでしょうか。時の権力が反動化して行くときに、真っ先に攻撃の対象になるのが、教育です。というのは将来の世代を担う子供たちを、まず思想的に改造することが、国民全体を反動的な思想に染め上げていくための端緒になるからです。だからこそ、今まさに、戦前と同じような反動的な思想統制が、まず教育の場で行われているのです。もしこうした事態を、ただ教育の職場や一部の教師だけの問題だとして放置すれば、やがてはそれは国民全体に広まり、私たちがその危険性に気づいたときは、もはや手遅れということにもなりかねません。

 

 だからこうした教育労働者を孤立させてはなりません。彼らは、全国の労働者全体の“良心”を代表して、声を上げ、起ち上がっているのです。自分の良心を大切に思うなら、労働者はこうした労働者を包み込み、支援し、その闘いを労働全体の闘いにしてゆく必要があるのではないでしょうか。

 

◎第20パラグラフ

 

 さて、教育労働者は厳しい闘いを強いられているのですが、だからこそ私たちも彼らの闘いを見守り、支援できるところは支援しながら、一層身を入れて『資本論』の学習をやらなければと考えています。

 

 第44回「『資本論』を読む会」は、第1章第4節の第20~22パラグラフの学習を行い、これでようやく、「第1章 商品」を最後まで終えたことになります。2008年4月13日に第1回を開催して、実に4年間、44回の学習会を重ねて、ようやく乗り越えることが出来たわけです。あまりにも長い時間をかけすぎではないか、と思われる方もあるかも知れませんが、しかし、この第1章は、マルクス自身がその理解が難しいと認めている部分なのです。しかもこの部分の理解が、『資本論』全3巻の理解にとって決定的に重要でもあるのです。だからそれを十分に理解するためには、決して長くはない時間ではなかったかと考えています。

 

 そういうことで、第20パラグラフから、学習会の報告を行いたいと思います。まず最初は本文を紹介し、各文節ごとに記号を付して、それぞれを平易に書き下しながら、議論の内容を紹介し、吟味して行くことにしましょう。

 

 【20】〈 (イ)しかし、先まわりしないために、ここでは商品形態そのものについてのもう一つの例で満足することにしよう。 (ロ)諸商品がものを言えるとすれば、こう言うであろう。 (ハ)われわれの使用価値は人間の関心を引くかもしれない。 (ニ)それは物としてのわれわれには属さない。 (ホ)そうではなくて、われわれに物的に属しているものは、われわれの価値である。 (ヘ)商品物としてのわれわれ自身の付きあいがそのことを証明している。 (ト)われわれは、ただ交換価値としてのみ自分たちをたがいに関係させあうのだ、と。 (チ)では、経済学者が、この商品の心をどのように伝えるかを聞いてみよう。〉

 

 (イ)、(ロ) しかし、先回りを止めて、ここでは商品形態そのものについてのもう一つの例を挙げることにしましょう。諸商品がものを言えるとすれば、こういうでしょう。

 

 この部分は、初版本文では、次のようにもう少し長い説明が付いています。

 

 〈しかし、先走りをしないためには、ここでは、商品形態そのものについてのもう一つの例をあげれば充分である。すでに見たように、商品にたいする商品の関係、たとえば脱靴器にたいする長靴の関係にあっては、脱靴器の使用価値、したがって脱靴器の現実の物的な諸属性の有用性は、長靴にとっては全くどうでもよい。長靴商品は、それ自身の価値の現象形態としてのみ、脱靴器に関心をもっている。したがって、諸商品がものを言うことができれば、こう言うであろう。〉(江夏訳68頁)

 

 マルクスはここで長靴と脱靴器という使用価値としては密接に関連しているものを例に挙げて、しかしそれらが商品としてある限り、あるいは商品として関係する限りは、それらの使用価値は問題にはならないのだ、と述べています。つまり長靴にとって、脱靴器の有用性そのものはまったくどうでもよいのだというのです。もちろん、長靴を脱ごうする人にとって、脱靴器の有用性はどうでもよいどころか極めて関心のあるものです。上手く長靴が脱げるかどうかが、脱靴器の善し悪しを決めるでしょうから。しかし、ここで、マルクスが問題にしているのは、そういうことではなくて、商品としての長靴と商品としての脱靴器との間の関係が問題なのだ、ということです。商品自身が互いに商品として交わる関係、商品が主体となって関係し合う、そういう関係から見るなら、商品は自分の関係する他の商品の有用性には何の関心もないのだ、ただ長靴という商品にとっては、自分の価値を表現するものとしての脱靴器に関心を持っているだけで、脱靴器自身がもつ有用性そのものには何の関心も持っていない、脱靴器の使用価値は、ただ長靴の価値の表現する材料、すなわち価値の現象形態としてのみ意義があるだけなのだ、ということです。だから、諸商品がものを言うことができるすれば、次のように言うだろう、という形で、マルクスは商品自身に語らせているわけです。商品自身が語るわけですから、これは以前出てきた、「商品語」ということでもあります(「商品語」については、別途検討します)。

 

 (ハ)、(ニ)、(ホ)、(ヘ)、(ト) われわれの使用価値は人間の関心を引くかも知れません。しかし、それは物としてのわれわれには属さないのです。そうではなくて、われわれに物的に属しているものは、われわれの価値なのです。商品物としてのわれわれ自身の付き合い(あなた方が「交換」と言っているものですが)が、そのことを証明しています。われわれは、ただ交換価値としてのみ自分たちを互いに関係させあうのです、と。

 

 これは商品自身が語っている内容です。使用価値は人間の関心を引くかもしれないが、物としての商品に属しているのは使用価値ではなくて、価値だと述べています。しかしそれにしても、使用価値は〈物としてのわれわれには属さない〉、〈われわれに物的に属しているものは、われわれの価値である〉というのは、一体、どういうことでしょうか。商品は直接には使用価値であると共に価値です。しかし使用価値は労働生産物が商品にならなくても、備わっている属性です。だから労働生産物が商品であるということは、そこに価値があるからだということになります。つまり物としての商品にだけ属しているのは、使用価値ではなくて、価値なのだというのです。そしてそれは物が互いに商品として関係し合うその仕方(すなわち人間が「交換」といっている関係)を見れば、それを証明しているとも述べています。というのは、物が互いに商品として関係し合うのは、それらが交換価値として関係し合う限りにおいてのみだからだ、というわけです。

 

 つまり商品という物象的な関係をおびた物は、客観的に互いにこうした関係を取り結んでいるとマルクスは述べているのです。なぜ、マルクスは、こうした商品自身が主体的に互いの関係を取り結ぶというようなものとして問題を論じているのでしょうか。商品はそれらが交換価値として関係するのは、当然、人間がそれらを交換するから、そうした関係を結ぶことは明らかなのに、あたかも商品自身が自分で互いの関係を取り結び、そうしたなかで商品自身が自分たちのそうした関係を語るというような説明をしているわけです。どうしてマルクスは、こうした説明をしているのでしょうか。

 

 それは商品の交換関係が、一つの客観的な法則として人間を外的に拘束するものとして現れているからです。商品生産者は、自分が売ろうとする商品の市況に一喜一憂して、何時、自分の商品を売るべきかタイミングを考えています。つまり商品同士の交換関係は、あたかも人間自身の意識や行動とは独立した過程、客観的な物象的関係として存在し、それによって、人間は拘束され、それに引き回されるような転倒した関係が生じているのです。

 

 だからこそ、マルクスはあたかも商品自身が主体的に自分たちで互いの関係を取り結ぶような自立したものであり、またそうした自分たちの関係を自分自身の言葉で語るようなものとして説明しているのです。こうした物象的な関係というのは、それ自身、人間の労働の社会的な関係を反映したものであるにも関わらず、それが人間の意識や意志からは直接には独立したものとして立ち現れてきて、人間を支配し、拘束し、引き回すような転倒した関係にあることを、マルクスはこうした商品自身の主体的な行動や関係、言葉や話として説明しているのだと思います。

 

 (チ) では、経済学者たちが、この商品の心をどのように伝えているのかを聞いてみることにしましょう。

 

●商品語について

 

 ここでは〈諸商品がものを言えるとすれば、こう言うであろう〉という形で商品の語りが取り上げられています。私たちは「第3節 価値形態または交換価値」、「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」、「2 相対的価値形態」、「a 相対的価値形態の内実」の第10パラグラフで、〈上述のように、商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのことを、リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである。ただ、リンネルは、自分だけに通じる言葉で、商品語で、その思いを打ちあける〉というように書かれていたことを思い出します。ここで出てくる「商品語」というのは、何なのか、ということについては、第18回の報告のなかで、次のように説明しました。

 

 【それはある商品と別のある商品が互いに関連し合うときに、特定の商品の立場から両商品の反省関係を一方の商品自身の〈語り〉として述べているものと考えることができるように思えます。つまりこの場合、リンネルは上着を自身に対する等置関係に置き、自分から二商品の反省関係を展開しているわけです。それが〈商品語〉です。上着が自分と等しいものと置かれ、通用する限りは、二つは同質であり、だから上着は価値でなければならない、そうであるなら、上着という姿そのものは、リンネルと同じ労働からから成り立っている。つまり人間労働一般から成り立っている。これがリンネルが上着に対して一方的に述べていることだ、とマルクスはいうわけです。  このような反省関係というのは、例えば初版本文の次のような一文を読めばよく分かります。

 

 〈リンネルは、他の商品を自分に価値として等置することによって、自分を価値としての自分自身に関係させる。リンネルは、自分を価値としての自分自身に関係させることによって、同時に自分を使用価値としての自分自身から区別する〉(国民文庫版45頁、訳文を若干変えています)。

 

 マルクスのいう〈商品語〉は、こうした商品自身が交わす反省関係を、一商品の〈語り〉として述べているものと考えることができます。】

 

 またこうした〈商品語〉という形での説明の意義について、次のように解説しています。

 

 【われわれが第1節で諸商品の交換関係から商品の価値を分析し抽象したのは、われわれの思惟による理論的営為であり、われわれの意志的な行為でした。そしてその分析の結果は、われわれの分析そのものからわれわれに語られた(明らかになった)のでした。  しかしそうしたいっさいのことは、実際には、われわれが意識的に分析して認識する以前に、商品自身が他の商品との交わりのなかで客観的に商品自身が語っている内容なのだ、というのがマルクスが言いたいことなのです。つまりそうした反省規定は、何かわれわれが外的に商品の交換関係を分析して、われわれの頭脳を使ってやっていることだけではなくて、商品自身が他の商品との関係のなかで社会的に行なっている客観的な過程なのだというのです。だからそれらは商品という物象と物象との社会的関係そのものにある客観的な過程なのであり、それはわれわれの認識から独立した過程であって、むしろわれわれの意識や行為はそうした物象的関係に規制され拘束されるという転倒した関係こそがそこにはあるのだ、というのがマルクスがこの〈商品語〉として語っている内容ではないだろうかと思います。つまりこのパラグラフの内容は、第4節で問題になる物象化の内容を先取りしてその示唆を,あるいはその基礎を与えたものと言えるでしょう。】

 

 こうした物象的な関係を取り上げているのは、だからこの第4節「商品の物神的性格とその秘密」なのですから、ここでも商品自身の語りが出てきたのは、その意味では当然だと言えるかもしれません。 

 

◎第21パラグラフ

 

 【21】〈 (イ)「価値」(交換価値)「は物の属性であり、富」(使用価値)「は人間の属性である。 (ロ)価値は、この意味では、必然的に交換を含んでいるが、富はそうではない(34)」。(ハ)「富」(使用価値)「は人間の属性であり、価値は商品の属性である。(ニ)人間や社会は富んでいる。(ホ)真珠やダイヤモンドには価値がある。・・・(ヘ)真珠やダイヤモンドは、真珠やダイヤモンドとして価値をもつ(35)」。〉

 

 このパラグラフは引用だけですので、平易な書き下しは不要と考えます。よって若干の解説を試みることにしましょう。

 

 (イ)、(ロ) これは匿名の論争書、『経済学におけるある種の用語論争の考察。とくに価値および需要供給に関して』からの引用です。マルクスは『剰余価値学説史』では、この著書を重視し、かなりのスペースを割いて、何度か取り上げています。「種々の論争書」と題された部分のリードは次のようなものです。

 

 〈1820年から1830年までの時期は、イギリスの国民経済学の歴史において形而上学的に最も重要な時期である。リカードの理論にたいする賛否の理論上の試合が行なわれ、一連の匿名の論争書が出版された。ここで言及するのは、そのうちの最も重要なもので、特にただ、われわれの論題に属する点に触れているものだけである。だが同時に、これらの論争書を特徴づけているのは、それらのすべてが実際には単に価値概念の規定とそれの資本との関係を中心問題にしているだけだ、ということである。〉(全集26巻III・138頁)

 

 そして〈この著書には、いくらか鋭さがないこともない。『用語論争』という表題は特徴的である〉と述べています。

 

 さて、この引用文は、要するに当時の経済学者は先のパラグラフで見たような、商品のいうがままに、そのまま問題を取り扱っているということでしょう。『学説史』では、まったく同じ部分を引用して、かなり長い批判を試みていますので、それを紹介しておきましょう。

 

 〈例のりこうぶっている男が(『用語論争』の著者のこと--引用者)どんなに深い呪物崇拝にはまりこんでいるか、また、彼がどのようにして相対的なものをある積極的なものに転化させているか、ということは、次のような文章が最も明瞭にそれを示している。

 「価値物の属性であり、人間属性である。価値は、この意味では、必然的に交換を含んでいるが、富はそうではない。」(同前、一六ぺージ。) 

 ここでは富とは使用価値のことである。使用価値は、もちろん、人間に関して富なのであるが、しかし、それ自身の属性、それ自身の特性によってこそ、物は、使用価値なのであり、したがってまた人間にとっての富の一要素なのである。仮りにぶどうから、それをぶどうにさせている属性を取り去れば、それが人間にとってぶどうとしてもっている使用価値はなくなり、また、それはぶどうとして富の一要素であることもなくなる。使用価値と同じものとしての富は物の属性であり、この属性は人間によって利用され、また人間の欲望との関係を表わすものである。ところが「価値」は「物の属性」だと言っているのである! 

 価値としては諸商品は社会的な大きさであり、したがって、「物」としてのそれの「属性」とは絶対に区別されたものである。諸商品は、価値としては、ただ人間の生産的活動における彼らの関係だけを表わす。価値は事実上「交換」を「含んでいる」が、しかし交換とは、人々のあいだでの物の交換であり、物それ自体には絶対になんの関係もない交換である。物は、Aの手にあろうとBの手にあろうと、同じ「属性」を保持する。「価値」の概念は事実上生産物の「交換」を想定している。労働が共同である場合には、人間の社会的生産における彼らの関係は「物」の「価値」としては表わされない。諸商品としての諸生産物の交換は、労働を交換し、各人の労働が他人の労働によって定まる一定の方法、社会的な労働または社会的な生産の一定の様式である。 

 私は、私の著書の第一冊で、私的交換にもとづく労働を特徴づけているのは、労働の社会的な性格が物の「属性」として--転倒して--「表わされ」、また、社会的な関係が物(生産物、使用価値、商品)のあいだの関係として現象することだ、ということを述べておいた。例の呪物崇拝の使徒は、この外観を、ある現実的なものと解し、そして実際に次のように信じている、すなわち、物の交換価値は、物としてのその属性によって規定され、一般にその物の自然的属性である、と。これまでに自然科学者で、嗅ぎたばこと絵画とがどんな自然的属性によって一定の割合で相互に「等価物」であるのか、を発見した者はいない。  こうして彼は、この知ったかぶりをする男は、価値を、ある絶対的なものに、「物の属性」に、転化させているのであって、彼は価値のなかにただ相対的なものだけを、すなわち、社会的労働つまり私的交換にもとつく社会的労働にたいする物の関係だけを、見ているわけではない。このような社会的労働においては、物は独立したものとしてではなく、社会的生産の単なる表現として規定されているのである。 

 だが、「価値」が、絶対的なものではなく、一つの実在物としては把握されないということは、諸商品が、自分たちの交換価値に、一つの独立な、自分たちの使用価値または現実の生産物としての自分たちの定在とは違った、それとはかかわりなく存在する一つの独立な表現を与えなければならないということ、言い換えれば、商品流通が貨幣形成にまで進行しなければならないということ、とはまったく別なことである。諸商品は、自分たちの交換価値に、このような貨幣での、まず第一に価格での、表現を与えるのであって、この価格では諸商品はすべて同じ労働の物質化として表わされ、同じ実体のただ量的にだけ違った表現として表わされる。商品の交換価値の貨幣での独立化は、それ自身、交換過程の、商品に含まれている使用価値と交換価値との矛盾の発展の、また、それに劣らずその商品に含まれている次のような矛盾の発展の、所産である。その矛盾とは、私的個人の一定の特殊な労働が、その反対物、すなわち同等な、必要な、一般的な、そしてこの形態では社会的な労働として表わされなければならない、というのがそれである。商品の貨幣としての表示のなかには、ただ、諸商品の価値量の相違が、排他的な一商品の使用価値での自分たちの価値の表示によって計られる、ということが含まれているだけではない。同時に、次のことが含まれている、すなわち、諸商品はすべて一つの形態で表わされ、この形態では諸商品は社会的な労働の具体化として存在し、したがってまた他のどの商品とも交換可能であり、任意にどの任意な使用価値にも置き換えることが可能である、ということがそれである。それだから、諸商晶の貨幣としての--価格での--表示が最初にただ観念的にだけ現われるのであり、この表示は、諸商品の現実の販売によってはじめて実現するのである。リカードの場合の欠点は、彼がただ価値の大きさだけに注意を奪われているということである。だから彼の注意が向けられているのは、ただ、相対的な労働量だけであり、これは、いろいろな商品が表わすもので、価値として具体化されてそれ自身のうちに含まれているものである。だが、諸商品に含まれている労働は、社会的な労働として、譲渡される個人的労働として、表わされなければならない。価格では、この表示は観念的である。販売によってはじめてその表示は実現される。諸商品に含まれている私的な諸個人の労働の、同等な社会的労働への、したがって、すべての使用価値での表示可能な、すべての使用価値と交換可能な、労働としてのそれへの、このような転化、すなわち、交換価値の貨幣としての表示のなかに含まれている事柄のこのような質的な側面は、リカードでは説明されていない。このような事情を--諸商品に含まれている労働を同等な社会的労働として、すなわち貨幣として、表わす必然性を--リカードは見落としているのである。〉(同166-8頁)

 

 (ハ)、(ニ)、(ホ)、(ヘ) これはベイリーの著書からの引用です。マルクスはベーリーは先の匿名の論争書『考察』から剽窃していると批判しています。『学説史』には同じ部分を引用したものがあります。それも紹介しておきましょう。

 

 〈それはまったく『用語論争の考察』から盗用されたものであって、事実上このばかげたこと全体の秘密は、次のような文句のなかで徐々に漏れており、その文句は、また、べーリが自分では注意深く隠している『用語論争の考察』を剥窃者として利用したことをも、私に確信させるものである。 

 「富は人間の属性であり、価値は商品の属性である。人間または社会は富んでいるのであって、真珠またはダイアモンドは価値があるのである。」(同前、一六五ページ。〔鈴木訳、一五一ページ。〕)

  真珠またはダイアモンドが貴重であるのは、真珠またはダイアモンドとしてであり、すなわち、それらの性質によってであり、人間にとっての使用価値として、すなわち--富としてである。だが、真珠またはダイアモンドのなかには、それらのあいだの交換関係が与えられるようなものはなにも存在しない。〉(同211頁)

 

◎注34と注35

 

 第21パラグラフには注34と注35が付いていますが、ただ本文で引用した部分の英文がそのまま紹介されているだけですので、ここでも、ただそれを紹介するだけにとどめます。

 

 【注34】〈(34) "Value is a property of things, riches of man. Value, in this sense,necessarily implies exchanges, riches do not." (『経済学におけるある種の用語論争の考察。とくに価値および需要供給に関して』、ロンドン、一八二一年、一六ページ。)〉

 

 【注35】〈(35) "Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable ... A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond." (S・ベイリー『価値の性質、尺度、および諸原因に関する批判的論究』、一六五ページ以下〔鈴木訳『リカアド価値論の批判』、日本評論社、一五一ページ〕)。〉

 

◎第22パラグラフ

 

 【22】〈 (イ)これまでまだどの化学者も、真珠やダイヤモンドの中に交換価値を発見してはいない。 (ロ)ところが、批判の鋭さを特に自負するこの化学的実体の経済学的発見者たちは、物の使用価値はそれらの物的属性にはかかわりがないが、これに対して、それらの価値は物としてのそれらに属するということを見いだすのである。 (ハ)ここで彼らの見解を確証するのは、物の使用価値は人間にとって交換なしに、したがって物と人間との直接的関係において実現されるが、反対に物の価値はただ交換においてのみ、すなわち一つの社会的過程においてのみ、実現されるという奇妙な事情である。 (ニ)ここで、あの善良なドッグベリーを思いださない人があろうか。彼は夜番のシーコウルに教えて語る。 (ホ) 「男ぶりのいいのは運の賜物だが、読み書きは自然に備わるものだ」(36)。〉

 

 (イ) これまでどの化学者も、真珠やダイヤモンドのなかに交換価値を発見していません。これは当然です。交換価値は、労働の社会的な性格が反映したものであって、それは自然素材とはまったく異なるものだからです。価値の対象的性格には一物もの自然素材は含まれていません。

 

 (ロ) ところが、批判の鋭さを自負しリカードを批判するこれらの経済学者たちは、交換価値という化学的実体を発見したかのように、物の使用価値はそれらの物的属性にはかかわりがないが、それらの価値は物としてのそれらに属するということを見いだしているのです。つまり彼らはまったく物神崇拝に取り込まれているわけです。

 

 (ハ) こうした彼らの見解を確証するのは、物の使用価値は人間にとっては、交換なしに、したがって物と人間との直接的な関係において実現するという事実です。使用価値は人間との関係のなかでのみ使用価値なのだから、だから使用価値は物的属性には関わりがないというのです。それに反して、物の価値は、ただそれらの交換においてのみ、つまり物の関係においてのみ、すなわち人間とは関係のない物自身の一つの社会的な過程として実現されている事実です。だからそれらは物自身の属性によるものだというわけです。だから彼らは使用価値は人間に関係するもので、物の物的属性には関係はないが、価値としてはそれらは物そのものの関係によるものであり、よってそれは物そのものの属性なのだ、と考えるわけです。

 

 (ニ)、(ホ)  しかしこれは、あのシェークスピアの『から騷ぎ』に登場する善良な警察官、ドッグベリーが夜番のシーコールに教えるセリフを思い出させます。すなわち「おとこぶりのいいのは運の賜物だが、読み書きは自然に備わるものだ」。このように彼は終始、言葉を誤用するのですが、物神崇拝にとりつかれた経済学者たちもまるで同じように語っているわけです。

 

◎注36

 

 この第22パラグラフには注36も付いています。この注は少し重要ですので、少し解説を加えておきます。

 

 【注36】〈(36) 『考察』の著者やS・ベイリーは、リカードが交換価値を単に相対的なものから絶対的なものに転化させたと言って、リカードを責めている。逆である。彼は、これらの物、たとえばダイヤモンドや真珠が交換価値としてもっている外観的相対性を、その外観の背後に隠されている真の関係に、人間労働の単なる表現としてのそれらの相対性に、還元したのである。リカード学派のベイリーに対する反論が粗雑であり、適切でなかったとすれば、そのわけは、彼らがリカード自身のうちに、価値と価値形態または交換価値との内的関係について何の解明も見いださなかったからにほかならない。〉

 

 この注も文節ごとの平易な書き下しは略しますが、マルクスは『剰余価値学説史』のなかで、同じ問題を論じていますので、それを少し長くなりますが紹介しておくことにしましょう。

 

 〈第二の異論は、リカードが、相対的なものである価値を、絶対的なものに転化させているということであるが、これは、のちに現われた別の論争書(ベーリのそれ)で、リカードの体系全体にたいする攻撃の要点にされた。〉(26III・140頁) 

 

 〈『考察』の筆者がリカードを非難しているのは、リカードが、価値を、諸商品の相互関係におけるそれの相対的な属性から絶対的なものに転化させている、ということである。 

 リカードがこの点で非難されるべきことは、ただ、彼が価値概念の説明にさいしていろいろな契機を厳密に区別していないということだけである。すなわち、諸商品の交換過程のなかで表わされ現われる商品の交換価値が、物や生産物や使用価値としての商品の定在とは違う価値としての商品の定在から区別されていない、ということである。 

 『考察』のなかでは次のように言われている。 

 「大部分の諸商品または一商品を除くすべての商品を生産する労働の絶対量が増加しても、この一商品の価値は変わらないと言うことができるであろうか? 〔どんな意味でなのか?〕というのは、それは、他のすべての商品のより少ない量と交換されるだろうからである。もし実際に、価値の増減ということの意味が、当該商品を生産した労働量の増滅のことを主張しているつもりで言われているとすれば、私がいま反対理由にあげた結論は、十分真実でありうるであろう。だが、リカード氏が言っているように、二つの商品を生産する比較的労働量が、これら二つの商品を相互に交換する比率、すなわち各商品の交換価値の原因であると言うことは--、各商品の交換価値が、他の商品また他の商品の存在とのどんな関係も考慮されずに、その商品を生産した労働量のことを意味すると言うこととは、非常に違っている。」(『考察』、一三ページ。) 

 「リカード氏は、妻われわれに向かってこう言っている、『自分が読者の注意をひきたいと思う研究は、諸商品の相対的価値の変動の効果に関してであって、絶対的価値のそれに関してではない』と。あたかも彼は、そこでは、相対的ではない交換価値のようなある物が存在する、と考えていたかのようである。」(同前、九/ 一〇ページ。) 

 「リカード氏が価値という言葉の彼の最初の用法から離れて、それを相対的なものではなくなにか絶対的なものにしたということは、『価値と富、両方を区別する特性』と題する彼の一章のなかで、もっと明瞭になっている。そこで論じられている問題は、他の人によっても論じられたものだが、純粋に用語上のもので、役にはたたない。」(同前、一五ぺージ以下。) 

 われわれはこの男に立ち入る前に、なおリカードのこの点に触れておこう。彼が「価値と富」に関するその章のなかで論じていることは、社会の富は生産された商品の価値によっては定まらない、とはいえ、あとのほうの点はすべての個々の生産者にとって決定的なものである、ということである。そうだとすれば、いっそう彼は、単に剰余価値を目的としている生産形態、すなわち生産者大衆の相対的な貧困を基礎にしている生産形態が、彼の絶えず叙述しているような絶対的な富の生産形態ではありえないことを理解しなければならなかったはずである。 

 では、「用語について」りこうぶっている男の『考察』に移ろう。 

 一商品を除くすべての商品が、以前より多くの労働時間を要するために、その価値が増大するならば、その労働時間に変動を生じなかった一商品は、他のすべての商品のより少ない量と交換されることになるであろう。この商品の交換価値は、それが他の諸商品に実現されるかぎりでは、減ったのである。すなわち、その交換価値は、他のすべての商品の使用価値で表わせば、減ったのである。「それにもかかわらず、その交換価値は変化していないと言うべきであろうか?」これは、ただ、問題を問題として提起しただけで、肯定的な解答にも否定的な解答にも賛成はしていない。同じ結果は、一商品の生産に必要な労働時間が減って他のすべての商品のそれが変わらない場合にも、生ずるであろう。この一商品の一定量は、他のすべての商品のより少ない量と交換されるであろう。この両方の場合は同じ現象である。とはいえ、直接相対立する原因から生じたのであるが。仮りに反対に、一商品Aの生産に必要な労働時間は変わらないのに、他のすべての商品のそれが減ったとすれば、この商品Aは他のすべての商品のより多くと交換されるであろう。同じことは、Aの生産に必要な労働時間がふえて他のすべての商品のそれが変わらないという反対の原因からも、生ずるであろう。こうして商品Aは、一度は、すべての商品のより少ない量と交換され、しかも、それは二とおりの対立する原因によってである。もう一度は、他のすべての商品のより多くの量と交換され、この場合にも、二とおりの対立する原因によってである。だが、注意すべきことは、商品Aは、どの場合にも、前提によれば、その価値どおりに、したがって等価物と交換される、ということである。それは、どの場合にも、それと交換される他の使用価値の量で白分の価値を実現するのであって、たとえこの使用価値の量がどんなに変動してもそうなのである。 

 このことから明らかに次のような結論が出てくる。すなわち、諸商品が使用価値として相互に交換される量的な関係は、なるほど諸商品の価値の表現であり、諸商品の実現された価値であるが、しかしその量的関係は、それらの商品の価値そのものではない、というのは同じ価値関係が使用価値のまったく違った量で表わされるからである、ということがそれである。諸商品の価値としての定在は、その商品自身の使用価値--その商品の使用価値としての定在--では表現されない。それは、他の使用価値でのその商品の表現のなかに、すなわち、このような他の使用価値がその商品と交換される関係のなかに、現象する。1オンスの金と1トンの鉄とが等しくて、それゆえ金の少量が鉄の多量と交換されるとすれば、そのために、鉄で表現される1オンスの金の価値のほうが金で表現される鉄の価値よりも大きいであろうか? 諸商品がそれらに含まれている労働に比例して交換されるということは、諸商品が、同じ労働量を表わすかぎりでは、相等しく、同じものである、ということなのである。だから同時にそれは、各商品が、対自的に考察されれば、その商品自身の使用価値、すなわちその商品自身の使用価値としての定在とは区別されたものである、ということを意味している。 

 同じ商品の価値は、それ自身は変わることがなくても、私がその価値をあれやこれやの商品の使用価値で表わすのに応じて、使用価値の無限に違った量で表わされうる。このことは、その価値の表示を変えるものではあっても、価値を変えるわけではない。同様に、商品Aの価値がそれで表わされるところの、種々な使用価値の種々な量は、すべて等価物であり、相互に価値としてだけではなく、相等しい大きさの価値として関係し合うのである。だから、これらの非常に違った量の使用価値が取り替えられる場合でも、価値は変わらないのであって、それは、ちょうど、その価値がまったく違った使用価値での表示を受け取らなかったであろう場合と同じなのである。 

 諸商品が交換されるのは、それらが等量の労働時間を表わす関係においてだとすれば、対象化された労働時間としての諸商品の定在、つまり具体化された労働時間としての諸商品の定在は、諸商品の単一性、諸商品の同一要素のことである。このようなものとして諸商品は質的に同じであり、ただ、それらが表わす同一物すなわち労働時間の大小に応じて、量的にだけ区別される。諸商品は、この同一なものの表示としては価値であり、等量の労働時間を表わすかぎりで、等しい大きさの価値、等価物である。諸商品を大きさとして比較するためには、前もって諸商品が、同名の大きさ、質的に同一なものでなければならない。 

 このような単位の表示としてこそ、これらのいろいろな物は価値なのであり、また価値として相互に関係し合うのであって、それによって、それらの価値の大きさの相違、それらの内在的な価値尺度も与えられるのである。また、それだからこそ、一商品の価値は、その価値の等価物としての他の商品の使用価値で表わされ表現されうるのである。したがって、個々の商品そのものも、価値としては、このような単位の定在としては、使用価値すなわち物としてのそれ自身とは違っている--他の諸商品での価値の表現をまったく別にすれば。商品は、労働時間の定在としては価値一般であり、量的に規定された労働時間の定在としては、一定の価値の大きさである。 

 だから、例のりこうぶっている男にとって特徴的なのは、彼が次のように言う場合である。もしわれわれがそのことを考えているつもりであっても、われわれはそのことを考えているわけではない、逆の場合も同じである、と。われわれの「意図」は、われわれが考察している事柄の本質的な性格とはまったくなんの関係もない。われわれがある物の交換価値について語るとすれば、まず第一に考えることは、もちろん、最初の商品と交換されうる他のそれぞれの商品の相対的な量である。だが、さらに進んで考察すれば、次のことがわかるであろう。すなわち、ある物が、それとまったくなんの共通点ももっていない--たとえそれらの物のあいだに自然的な、またはその他の類似点があるとしても、それは交換にあたっては考慮されない--無限量の他の物と交換される割合にとって、それが固定した割合であるためには、それらのすべて異質で多様な物が、同じ共通な単位、それらの物の自然的な存在や現象とはまったく違った一要素の、比例配分的表現と考えられなけれぽならない、ということである。そうだとすれば、さらに進んで次のことがわかるであろう。すなわち、もしわれわれの意図がなにか意味をもつとすれば、一商品の価値とは、その商品がそれによって他の商品と区別され、それと関係させられるなにかあるものであるというだけでなく、その商品を一物体つまり使用価値としてのそれ自身の存在から区別する一つの性質でもある、ということである。〉(同161-165頁)

 

 〈〔だが〕次のように言うのはまったくまちがいである、すなわち、それによって商品の価値は相対的なものか絶対的なものに転化される、と。逆である。使用価値としては商品はある独立なものとして現われる。これに反して、価値としては、単に定立されたものとして、つまり単に、社会的に必要で、同等な、単純な労働時間にたいするその商品の割合によって規定されているものとして、現われるだけである。このようにまったく相対的なものであるから、再生産に必要な労働時間が変わるならば、たとえその商品に現実に含まれている労働時間は変わらないとしても、その商品の価値は変化するのである。〉(同165-6頁)

 

◎初版本文のいわゆる「移行規定」

 

 学習会では第1章の最後に、初版本文では、いわゆる「移行規定」があることが紹介されました。その内容は、第1章と次の第2章との関連を知る上で役立つと思いますので、ここに紹介しておきましょう。

 

 【初版にある移行規定】

 

 〈商品は、使用価値と交換価値との、したがって二つの対立物の、直接的な統一である。だから、商品は直接的な矛盾である。この矛盾は、商品が、これまでのように、分析的に、あるときは使用価値の観点のもとで、あるときは交換価値の観点のもとで、観察されるのではなくて、一つの全体として、現実に、他の諸商品に関係させられるやいなや、発展せざるをえなくなる。諸商品の相互の現実の関係は、諸商品の交換過程なのである。〉(江夏訳69頁)

 

 学者のなかには、このいわゆる「移行規定」が第二版では消えているのはどうしてか、などと色々と論じている人もいますが、しかし、われわれにとっては要らざる詮索と思いますので、ここでは立ち入らないことにします。

 

  最後に、以前、第32回の報告で紹介した第1章と第2章(さらに第3章)との関連について論じたものをもう一度、紹介して(但し不要な部分は省略して)、第1章の締めくくりとします。

 

 【「第1篇 商品と貨幣」は「第1章 商品」と「第2章 交換過程」、「第3章 貨幣または商品流通」からなっています。この構成をみれば、第1章では商品とは何かが解明され第3章では貨幣の諸機能と商品流通における諸法則が解明されることが明らかになり、第2章は、第1章と第3章を媒介する章であることが分かるのです。・・・・

 

 そして第2章が第1章と第3章を媒介する章であるとの位置づけが分かれば、それが短いのに一つの章として第1章と第3章と対等の位置に置かれているという理由も分かると思います。それは例えば第2篇には、一つの章しかなく、しかも分量としては短いものであるのに、第1篇や第3篇と対等の位置にどうして位置づけられているのかという理由と同じ理由なのです。第2篇の表題は「貨幣の資本への転化」ですが、これはまさに第1篇と第3篇を媒介する篇であることをその表題そのものが示しているといえるでしょう。だから同じような位置づけで考えるなら、「第2章 交換過程」は、内容からいえば、いわば「商品の貨幣への転化」とでも言えるような位置にあると考えられるわけです。・・・・

 

 では第3節 「価値形態または交換価値」は第1章でどういう位置と役割を持っているのでしょうか。

 

 第1章の表題は「商品」です。つまり商品とは何かを明らかにすることが課題になっています。しかし第1章の冒頭パラグラフでは、マルクスは「第1部 資本の生産過程」が「第1篇 商品と貨幣」の考察から始まり、さらにそれは「第1章 商品」の考察から始めなければならない理由を述べています。

 

 そして第1節「商品の二つの要因--使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)」において、商品をそのありのままの姿で観察して、それがまず使用価値として存在すること、しかしそれが商品である限りは、同時に交換価値でもあることを指摘して、交換価値の考察に移り、交換価値をさしあたりは一つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係としてとらえます。つまり諸商品の交換関係という現象から考察を始めているのです。そしてマルクスはそこからその交換関係に内在する商品の価値を摘出し、価値の概念を与え、さらに使用価値と価値という二重物である商品に表される労働の二重性の考察まで深めたあと(第2節「商品に表される労働の二重性」)、もう一度、商品の交換価値という現象形態に帰ってくるのです。それがすなわち第3節「価値形態または交換価値」でした。第1節で価値の概念を明らかにしたところでも、次のように述べていました。

 

 〈研究の進行は、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値にわれわれをつれ戻すであろうが、やはり、価値は、さしあたり、この形態から独立に考察されなければならない。〉(全集版53頁)

 

 だから第3節はわれわれが第1章の冒頭で商品をそのまま観察した現象の背後にある本質的なもの(価値)を取り出して考察したあとで、その現象形態(交換価値)に再び帰ったものなのです。つまり現象の背後にある本質的な関係を考察したあと、再びその本質から最初の現象形態を展開して説明するのが第3節の課題であると言えるでしょう。つまり価値の概念からその現象形態(価値形態)を展開して説明することです。

 

 第3節の課題については、その冒頭の前文ともいうべきところで、次のように述べています。  

 

 〈商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である。けれども、商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである。〉(全集版64頁)  

 

 このようにマルクスはまず〈商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である〉と商品のもっとも最初の現象に帰っています。つまり商品がわれれわれの目に写るありふれた姿をそれ自体としてとらえているわけです。これは第1節の冒頭で商品をまず使用価値としてとらえていたのと同じです。そして同時に〈商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない〉と指摘するのです。〈だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである〉というのが大変重要なのです。つまりわれわれが商品をみて、これは商品だと分かるのは、商品が現物形態(これは鉄、リンネル、小麦という物的姿そのものです)と同時に価値形態という二重形態を持たねばならないと述べています。「価値形態」というのは、価値が形あるものとして目に見えるものとして現われているということです。だから商品が商品という形態、つまりその姿そのもので商品であることが分かるようなものになるためには、その物的形態だけではなく、商品に内在する価値も、何らかの形あるものとして直接的なものとして現われていなければならないのだ、とマルクスは述べているわけです。ではその価値形態というのはどういうものなのか、それが問題です。それについては、マルクスは次のように述べています。  

 

 〈だれでも、ほかのことは何も知らなくても、諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な現物形態とはきわめて著しい対照をなす共通の価値形態をもっているということは知っている。すなわち、貨幣形態である。〉(65頁)  

 

 つまりわれわれが商品の価値形態として、そのありふれた姿として見えているのは、貨幣形態だとマルクスは述べています。そしてすでに貨幣形態まで学んだわわれは、マルクスがここで述べている「貨幣形態」というのは「価格形態」であることを知っています。つまり商品はその物的形態と同時に価格形態、すなわち「値札」をつけているというのが、われわれが商品を店頭でみるもっともありふれた姿なのです。だから例え商品であっても、それにもし値札が付いていないとそれが商品であるのか、すなわち売り物であるのか、それともその商店が自分で使っているものなのかは分かりません。値札がついていて、「ああ、これは商品だな」と分かるわけです。だから値札こそ、商品の価値形態であり、その発展したもの、すなわち貨幣形態なのです。だから第3節の課題は、商品とは何かを解明するために、商品にはどうして値札が付いているのかを説明することなのです。そしてそのためには貨幣形態を説明しなければならず、どうして商品は貨幣形態を持つのかを説明しなければならなかったわけです。だからマルクスは次のように述べているのです。  

 

 〈しかし、今ここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも単純なもっとも目立たない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。それによって、同時に、貨幣の謎も消えうせる。〉(65頁)  

 

 だからこの第3節は確かに貨幣に言及し、貨幣形態の発生を立証しているわけですが、しかし、それはあくまでも商品とは何か(それが第1章の課題です)を明らかにする一環としてそうしているのだということ、商品とは何かを明らかにするために、商品にはどうして値札が付いているのかを説明するためのものだという理解が重要なのです。同じように貨幣の発生を説明しているように見える「第2章 交換過程」が、第1章の商品論を前提にして、商品がその現実の交換過程において、如何にして貨幣へと転化するのかを解明するものであり、それによって第1章と第3章とを媒介するものであるという、その役割や位置づけにおける相違も分かってくるのです。

 

 だから第3節を最後まで考察し終えたわれわれは、すでに商品とは何かがそれによって掴むことができたことになります。しかし、それでは第4節はどういう意義を持っているのでしょうか。

 

 確かに第3節までで商品とは何かは明らかになったのですが、しかしそれだけでは商品の何たるかが十全に解明されたとは言えないのです。というのは商品というのは、歴史的にはどういう性格のものなのかがまだとらえられていないからです。資本主義的生産様式は歴史的な一つの生産様式です。だから資本主義的生産様式とそれに照応する生産諸関係や交易諸関係というものも、やはり歴史的な存在であるわけです。だから資本主義的生産様式を構成するさまざまな諸契機もやはりそれぞれが、やはり歴史的な存在なのです。つまりそれらも歴史的に形成されてきたものであり、それぞれがそれぞれの歴史を持っており、それぞれがそれぞれの生成や発展、消滅の過程を辿っているものなのです。だから商品の何たるかを十全に把握するためには、それを歴史的なものとしてとらえる必要があるわけです。そしてその課題を解決しているのが、すなわち第4節なのです。

 

 そして第1章として「商品」が解明されたあと、諸商品の実際の交換過程のなかから、如何にして貨幣が生まれてくるのかを説明するのが、第2章の課題であり、それを踏まえて貨幣の諸機能や商品流通における諸法則を解明するのが、第3章の課題である、ということができるのです。・・・・】

 

  また第33回報告では、第4節の最初のパラグラフの説明として、この部分はこの第4節全体の序論のような役割を果たしているとして、第4節全体の課題を次のように説明しました。それもこの第4節の位置づけを知る上で、参考になると思います。

 

 【商品というのは、われわれが日常目にしているものであり、それ自体は、ありふれたものです。しかしこれまでわれわれは商品を分析し、「商品とは何か」を考察してきたのですが、その過程で明らかになったように、「商品とは何か」を明らかにしようとすると、恐ろしくやっかいな代物であることが分かりました。そのためには、ややこしい形而上学的ともいえる理屈をこねなければならず、わけのわからない神学的な小言と同じようなことを論じなければならなかったわけです。どうして商品とは、こんなわけの分からないものなのでしょうか。これが分からないと、「商品とは何か」ということを十分に解明したとは言えないのではないでしょうか。

 つまりこれまで、われわれは商品にはどうして値札がついているのかを、貨幣の発生を辿ることによって明らかにして、われわれが日常見ている商品のありのままの姿がどうしてそうなっているのかを解明したのです。しかしその解明が、どうしてあのように難しい説明にならざるを得ないのか、どうして商品というのは、そうしたわけの分からない、やっかいな説明を必要とするものなのかが、実はまだ十分解明されているとはいえないわけです。だからそれが説明されて、初めて、われわれは「商品とは何か」について十全に理解したといえるでしょう。それをこれから説明することにしましょう。

 

 そしてそれもいまや説明されました。それではこれで「第1章 商品」を終えることにしましょう。

 

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【付属資料】

 

●第20パラグラフに関するもの

 

《初版本文》

 

 〈しかし、先走りをしないためには、ここでは、商品形態そのものについてのもう一つの例をあげれば充分である。すでに見たように、商品にたいする商品の関係、たとえば脱靴器にたいする長靴の関係にあっては、脱靴器の使用価値、したがって脱靴器の現実の物的な諸属性の有用性は、長靴にとっては全くどうでもよい。長靴商品は、それ自身の価値の現象形態としてのみ、脱靴器に関心をもっている。したがって、諸商品がものを言うことができれば、こう言うであろう。--われわれの使用価値は人聞の関心をひくかもしれない。この使用価値は、物としてのわれわれに属しているわけではない。物としてのわれわれに属しているものは、われわれの価値である。商品物としてのわれわれ自身の交わりが、このことを証明している。われわれは交換価値としてのみ互いに関係しあっている--と。ところで、経済学者がこの商品の心をどのように伝えているか、聞いてみることにしよう。(初版本文は、ここに改行はなく、次の現行版の最後のパラグラフまで一つのパラグラフとして続いている--引用者)〉(江夏訳68頁)

 

《フランス語版》

 

 〈……だが、先走りせずに、商品形態そのものについてもう一つの例で満足することにしよう。  もし商品が語ることができたらこう言うだろう。すなわち、われわれの使用価値は確かに人間の関心をひくかもしれないが、物体としてのわれわれにしてみれば、そんなものは全く相手にもしない。われわれに関係があるのは、われわれの価値である。売買という、物としてのわれわれ同士の関係が、このことを証明している。われわれは交換価値としてのみ、お互いに注目しあっているのだ。経済学者が次のように述べるぽあい、彼が自分の言葉を商品の魂そのものから借りてきたとは、誰も思わないであろう。(フランス語版は、現行版の次のパラグラフから最後までの一文がこのあと一つのパラグラフとして続いている。--引用者)〉(59頁)

 

●第21パラグラフに関するもの

 

《初版本文》--(初版では、このパラグラフは前のパラグラフとさらに次の22パラグラフとも、改行なしに、一続きになっているが、ここでは分割して抜粋しておく。)

 

 〈「価値(交換価値)は物の属性であり、富(使用価値)は人間の属性である。価値はこの意味では必然的に交換を含んでいるが、富はそうではない(29)。「富(使用価値)は人間の属性であり、価値商品の属性である。人間または共同体は富んでいる。真珠またはダイヤモンドは大いに価値がある。……真珠またはダイヤモンドは、真珠またはダイヤモンドとして価値をもっている(30)。〉(江夏訳68頁)

 

《フランス語版》--(フランス語版では、現行版のこのパラグラフは、前のパラグラフと同じ最後までの一続きのパラグラフになっている。--引用者)

 

 〈……「価値(交換価値) は物の属性であり、.富(使用価値) は人間の属性である。価値はこの意味では必然的に交換を前提とするが、富はそうではない(33)」。「富(使用価値) は人間の属性であり、価値は商品の属性である。人間または共同体は富んでおり、真珠またはダイヤモンドは、価値をもち、それぞれそのものとして価値をもっている(34)」。

 

●注34と注35に関するもの

 

《初版本文》

 

 〈(29) "Value is a property of things, riches of man. Value, in this sense,necessarily implies exchanges, riches do not." (『経済学におけるある種の用語論争にかんする考察。特に価値および需要供給にかんして。ロンドン、一八二一年』、一六ページ。)〉(同69頁)

 

《フランス語版》

 

 〈(33) "Value is a property of things, riches of man. Value, in this sense,necessarily implies exchanges, riches do not." (『経済学におけるある種の用語論争にかんする考察。特に価値および需要供給に関連して』、ロンドン、一八二一年、一六ページ。)〉(59頁)

 

《初版本文》

 

 〈(30) "Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable ... A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond." (S・ベイリー、前掲書、一六五ページ。)〉(同69頁)

 

《フランス語版》

 

 〈(34) "Riches are the attribute of men, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable ... A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond." (S・ベイリー『価値の性質、尺度、および原因に関する批判的論文』、一六五ページ)。〉(59-60頁)

 

●第22パラグラフに関するもの

 

《初版本文》--(同前)

 

 〈真珠やダイヤモンドのなかに交換価値を発見した化学者は、これまでにまだ一人もいない。ところが、批判の深刻さをことさら自負するわれわれの著作家たちは、諸物の使用価値はそれらの物的な諸属性にはかかわりがないのに、それらの交換価値は物としてのそれらにそなわっている、ということを見いだしている。ここで彼らの見解を裏づけているものは、諸物の使用価値は、人間たちにとって、交換ぬきで、つまり物と人間との直接的な関係のなかで、実現されるが、諸物の価値は、逆に、交換のなかでのみ、すなわちある社会的な過程のなかでのみ実現される、という奇妙な事情である。ここでは、あのお人好しのドッグペリが思い出されないだろうか。彼は夜番のシーコールにこう教えている。「男ぷりがよいのは境遇の賜物だが、読み書きできるのは生まれつきだ(31)」と。〉(江夏訳68-9頁)

 

《フランス語版》--(このパラグラフも先に紹介したように、一続きのパラグラフになっている。--引用者)

 

 〈いままでにどんな化学者も、真珠またはダイヤモソドのなかに交換価値を発見しなかった。こういうたぐいの化学的物質を発見または発明して、深遠であることを若干自慢する経済学者は、物の使用価値は、その物の物質的属性にかかわりなくその物に属するのに対して、物の価値は物としてその物に属している、ということを発見するのである。経済学者のこうした意見の正しさを確証するものは、物の使用価値は人間にとっては交換なしに、すなわち、物と人間とのあいだの直接的関係のなかで実現されるが、これに反して、物の価値は逆に、交換すなわち社会的関係のなかでのみ実現される、という奇妙な事情である。ここで、お人好しのドッグベリと、ドッグベリが夜番のシーコールに与える次の教訓とを、想い起こさない者があろうか。「男ぷりがよいのは境遇の賜物だが、読み書きができ るのは生まれつきだ(35)」〈“To be a well favoured man is the gift of fortune; but to write and read comes by nature.”〉(シェイクスピア)。〉(江夏他訳59頁)

 

《初版本文》

 

 〈 (31)『考察』の著者やべーリは、リカードに、交換価値をたんに相対的なものからなにか絶対的なものに転化したという罪を負わせている。しかし逆である。リカードは、これらの物たとえばダイヤモンドや真珠が交換価値としてもっている外観上の相対性を、外観の背後に隠されている真の関係に、人間労働の単なる表現としてのこれらの物の相対性に、還元したのである。リカード学派の人たちがべーリーにたいして大ざっぱに答えて、的確に答えなかったとすれば、それは、彼らがリカード自身のうちに、価値交換価値との内的な関連にかんしてなんの解明をも見いださなかったからにほかならない。〉(同69頁)

 

《フランス語版》

 

 〈(35) 『考察』の著者やS ・べーリは、リカードが純粋に相対的な物である交換価値を絶対的なあるものにした、と言って彼を非難している。リカードはこれとは全く逆に、たとえば真珠やダイヤモンドのようなこれらの物体が交換価値としてもっている外観的な相対性を、この外観の背後に隠されている真の関係に、すなわち、人間労働の単なる表現としてのこれら物体の相対性に、還元したのである。リカードの信奉者たちはべーリにたいして、粗雑で少しも説得的でないやり方でしか答えることができなかったが、それは、ただたんに、彼らがリカード自身のうちに、価値と価値形態あるいは交換価値とのあいだに存在する内的関係についてなに一つ解明してくれるものを、発見しなかったからにすぎない。〉(60頁)

 

 


第45回「『資本論』を読む会」の案内

『資本論』 を 読 ん で み ま せ ん か 

                                    

                                      

 

 前回(第44回)の報告の最初にも紹介した、大阪府教育委員会による、教育労働者への不当な思想弾圧は、とうとう、教育労働者の解雇にまで発展しました。

 

 前回も紹介したのですが、勤務日ではなかったが、卒業式当日、校門前で生徒と保護者に日の丸・君が代の強制に反対するビラを配布し、そのあと式場にも参列して、斉唱時に起立しなかったという教師がその対象者です。今回の不起立者17名全員が訓戒処分を受け、うち8名が再任用の内示が保留されたままであったのが、彼だけがその内示を取り消されたというのです。

 

 この不当な処分を受けた教育労働者について、『朝日新聞』(3月30日)は、かなり詳しい紹介記事を掲載しています。

 

 

今回、処分を受けた教諭(3月30日「朝日」から)

 

 

 まず「不起立は人から職を奪うほどの大きな罪だろうか」と疑問を呈しています。まったく同感です。

 

  府教委は今回の処分の理由として「勤務実績が良好でない」としています。しかし、この新聞記事によれば、この教諭の同僚は、昨春、定年を迎えたこの教諭を生徒たちが胴上げしたのを見たと書いています。そして「あんなに慕われる先生はいない。生徒を尊重し、決して馬鹿にしないから、どんなワルも心を開く」とその同僚の言葉を紹介しています。また職場では処分取り消しと再雇用を求める署名が同僚の間で行われ、8割を超える署名が集まったのだといいます。そればかりかこの教諭は、堺市の伝統産業であるタタラ製鉄を教育実習に取り上げ、その教育実践によって、昨年3月、当の教育委員会から表彰までされているというのです。何が「勤務実績が良好ではない」でしょうか。

 

 この教諭の「勤務実績」のどこをみても、再任用の内示を取り消さなければならない理由はないのです。おまけにこの教諭は卒業式当日は、勤務日ではなく、校長も「休みの人間に職務命令は出せない」と述べているのに、府教委は、「事前の校長からの指示を口頭での職務命令とみなした」と強引に解釈して、職務命令違反として訓戒処分にしているのです。

 

 しかし府教委が処分の根拠とした地方公務員法第32条は「職員は、その職務を遂行するに当たって」と断っており、だから勤務日ではないものが「職務を遂行する」立場にもないことは当然であり、よって当の教諭に、この法律を適用することそのものがそもそも出来ない話なのです。

 

 こうしたことを考えると、今回の処分は、府教委が、この教諭が校門前で配布したビラの内容まで処分の理由の一つにしていることをみても、明らかに思想的な弾圧であり、統制であると言わざるを得ません。これは、教育労働者全体への思想統制を強めるために、一つの見せしめとして、今回の処分が行われたことを物語っています。

 

 私たちは、こうした教育労働者への攻撃を断じて許すことは出来ません。それはやがては、国民全体に対する思想統制と弾圧が開始される兆しを意味するからです。

 

 マルクスは『共産党宣言』において、「教育を支配階級の影響からひきはなす」べきことを次のように述べています。

 

 〈社会が教育にはたらきかけるのは、なにも共産主義者が発明したことではない。共産主義者は、ただこのはたらきかけの性格を変えるだけである。ただ教育を支配階級の影響からひきはなすだけである。〉(全集4巻492頁)

 

 教育への不当な思想統制を断じて許さない闘いを!

 厳しい闘いを強いられている教育労働者へ支援の手を!

 『資本論』を学び、闘いの武器として鍛え上げよう!

 


第45回「『資本論』を読む会」の報告

第45回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎桜も終わり・・・・

 

 あっというまに桜は終わり、今はツヅジが満開です。

 

 第45回「『資本論』を読む会」が開催された4月15日には、会場の堺市立南図書館の3階の窓からは、散り急ぐ桜がまだ僅かに残っていました。

 

 しかし5月のゴールデンウィークも終わりました。つまり報告はずいぶんと遅れてしまったわけです。せっかくの連休はどうしたのか? 言い訳はしません。遊ぶのに忙しく、また雑用もあって、無駄に過ごしてしまった次第です。面目無い。

 

 というわけで、とにかく遅ればせながら、第45回の報告を行わなければなりません。今回から、ようやく第2章に入りました。今回は三つのパラグラフを進んだだけでしたが、この章もなかなか難しく、それも報告が遅れた一因ともいえます。しかし、とにかく、テキストを徹底的に読み込んで、その解読を試みることにしましょう。

 

◎第1章と較べた第2章の課題

 

 まず第2章にとりかかるにあたって、やはり第2章の課題について、論じる必要があります。つまり第2章では、何が問題になるのか、また何が新しく考察の対象にならなければならないのか、ということです。以前にも一度紹介したことがありますが、もう一度、第2章の課題を確認するために、初版のいわゆる「移行規定」と『経済学批判』の「交換過程」の分析が始まる冒頭部分とを、紹介しておきましょう。

 

 〈商品は、使用価値と交換価値との、したがって二つの対立物の、直接的な統一である。だから、商品は直接的な矛盾である。この矛盾は、商品が、これまでのように、分析的に、あるときは使用価値の観点のもとで、あるときは交換価値の観点のもとで、観察されるのではなくて、一つの全体として、現実に、他の諸商品に関係させられるやいなや、発展せざるをえなくなる。諸商品の相互の現実の関係は、諸商品の交換過程なのである。〉(初版、江夏訳69頁)

 

 〈いままで商品は、二重の観点で、使用価値として、また交換価値として、いつでも一面的に考察された。けれども商品は、商品としては直接に使用価値と交換価値との統一である。同時にそれは、他の諸商品にたいする関係でだけ商品である。諸商品相互の現実的関係は、それらの交換過程である。それは互いに独立した個人がはいりこむ社会的過程であるが、しかし彼らは、商品所有者としてだけこれにはいりこむ。彼らのお互いどうしのための相互的定在は、彼らの諸商品の定在であり、こうして彼らは、実際上は交換過程の意識的な担い手としてだけ現われるのである。〉(『批判』全集13巻、26頁)

 

 これらの文章を検討すると、第1章に対する第2章の特徴、あるいはそこでの課題、つまり、そこでは何が解明されなければならないかが明らかになります。

 

 (1) まず第1章では商品は、二重の観点で観察され、ある時は使用価値の観点のもとに、他の時は、交換価値の観点のもとに、分析されたのですが、しかし第2章では、商品はひつの全体として、すなわち使用価値と交換価値との直接的な統一物として考察されるということです。つまり第1章では、その限りでは商品は抽象的に取り上げられたのですが、第2章では、商品はより具体的なものとして取り上げられることが分かります。だから諸商品の相互の現実の関係、つまり諸商品の交換過程が考察の対象になるというわけです。

 

 (2) そしてそうすると、商品はそうした使用価値と交換価値との直接的な統一物としては、直接的な矛盾だとも指摘されています。第1章では商品の二要因である使用価値と交換価値(価値)とは、互いに対立するものとして考察されました。これに対して、第2章では、そうした対立物の直接的な統一として商品は考察されるために、諸商品は直接的な矛盾だというのです。矛盾ということは、諸商品が、使用価値として存在する場合、あるいは交換価値として存在する場合、それらは互いに前提し合いながらも、同時に排斥し合う関係にもあるということです。第2章では、現実の諸商品の相互の関係が、こうした直接的な矛盾として分析されることが指摘されています。そしてその矛盾が現実に解決されていく過程こそが、すなわち貨幣の発生過程でもあるというわけです。だから第2章は現実の諸商品の交換過程において、如何にして商品は貨幣へと転化するのかを解明するものでもあるといえるでしょう。

 

 (3) そしてまた商品の現実の関係である交換過程においては、互いに独立した諸個人、すなわち商品所有者が入り込む社会的過程でもあると指摘されています。つまり商品は第1章に比べてより具体的に考察されるわけですが、それは使用価値と交換価値との直接的な統一物として考察されるだけではなく、第1章では捨象されていた、それらの諸商品の所有者が新たに考察の対象に入ってくるということです。

 

 とりあえず、こうしたことを確認して、テキストの解読に取りかかることにします。いつものように、テキストの各文節ごとに(イ)、(ロ)、(ハ)、・・・・の記号を打ち、それぞれについて解読していくことにします。

 

◎第1パラグラフ

 

 【1】〈 (イ)諸商品は、自分で市場におもむくこともできず、自分で自分たちを交換することもできない。 (ロ)したがってわれわれは、商品の保護者、すなわち商品所有者たちを探さなければならない。 (ハ)商品は物であり、したがって人間に対して無抵抗である。 (ニ)もしも商品が言うことを聞かなければ、人間は暴力を用いることができる。 (ホ)言いかえれば、商品を持っていくことができる(37)。 (ヘ)これらの物を商品としてたがいに関係させるためには、商品の保護者たちは、自分たちの意志をこれらの物に宿す諸人格としてたがいに関係しあわなければならない。 (ト)それゆえ、一方は他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらも両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を譲渡することによって他人の商品を自分のものにする。 (チ)だから、彼らはたがいに相手を私的所有者として認めあわなければならない。 (リ)契約をその形式とするこの法的関係は、法律的に発展していてもいなくても経済的関係がそこに反映する意志関係である。 (ヌ)この法的関係または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている(38)。 (ル)諸人格は、ここではただ、たがいに商品の代表者としてのみ、したがってまた商品所有者としてのみ、存在する。 (ヲ)われわれは、展開が進むにつれて、諸人格の経済的扮装はただ経済的諸関係の人格化にほかならず、諸人格はこの経済的諸関係の担い手としてたがいに相対するということを、総じて見いだすであろう。〉

 

 (イ)、(ロ) 諸商品は、物であり、自分で市場に行くわけでもなく、自分で自分たちを交換することも出来るわけではありません。だからわれわれは、商品を市場に持って行く人、つまり商品の所有者を問題にする必要があるわけです。

 

 第1章では諸商品の交換は前提されていました。つまり現実に交換されている諸商品の、商品そのものに注目し、それらの交換関係だけを純粋に取り出し、分析したのです。だから第1章では、あたかも諸商品は主体的に互いに関係し合うものとして取り扱われ、だから商品所有者は捨象されて登場しませんでした。しかし第2章からは、第1章では捨象されていた、商品の所有者が登場します。第2章では、使用価値と交換価値の統一物としての商品が主体となります。そうしたものとして、他の諸商品との現実の関係、すなわち交換過程が問題になるわけです。そして現実の交換過程では、現実の商品の運動が問題になるわけですが、その運動を商品の意を体して担うのが、商品の保護者である商品所有者というわけです。つまり商品を市場に持って行き、その交換を行う商品の保護者であり監督者である、商品所有者が登場しなければならないというわけです。

 

 (ハ)、(ニ)、(ホ) 商品は単なる物ですから、人間に対して無抵抗です。もちろん、商品が言うことを聞かないとなれば、人間は暴力を用いてでも、それを市場に持っていくことが出来るわけです。

 

 ここには〈もしも商品が言うことを聞かなければ、人間は暴力を用いることができる〉という一文があります。学習会では、ここでマルクスは何を言いたいのか、ということが問題になりました。これは、注37で〈当時のフランスの一詩人は、ランディ〔パリ近郊の町〕の市場に見られた商品のうちに、服地、靴、なめし革、農具、皮革類などと共に、「“みだらな遊び女 femmes folles de leur corps ”」をあげている〉と指摘されているように、マルクスは、商品の一つとして娼婦を想定して、このように述べているのではないかということになりました。つまり例え商品に意志があって、市場に出て行くことを拒んでも、しかし商品としては例え娼婦や奴隷のように意志を持った人間であっても、彼ら(彼女ら)は単なる「物」として扱われ、無理やり暴力を持ってでも、市場に引っ張りだされて売りに出されるというわけです。

 

 (ヘ) これらの物を商品としてたがいに関係させるためには、商品の保護者たちは、自分の意志をこれらの商品に宿す諸人格として互いに関係し合わなければなりません。

 

 ここで学習会では、「諸人格(Person)」という用語が出てきますが(全集版では単に「」と訳されています)、これは(ハ)や(ニ)に出てくる「人間(Mensch)」とどのように区別されるのか、ということが問題になりました。第1版序文には、次のような一文があります。

 

 〈起こるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。私は決して、資本家や土地所有者の姿態をバラ色には描いていない。そしてここで諸人格(Person)が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化(Personifikation)であり、特定の階級諸関係や階級利害の担い手である限りにおいてである。経済的社会構成体の発展を一つの自然史的過程ととらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個々人に社会的諸関係の責任を負わせることはできない。個人は主観的には諸関係をどんなに超越しようとも、社会的には依然として諸関係の被造物なのである。〉(10-11頁。頁数は全集版ですが、訳文は新書判から。全集版では「諸人格」ではなく、単なる「人」と訳されています。)

 

 つまり「人格」というのは、経済的な関係を反映し、それを代表している人間のことを意味しているのにたいして、「人間」というのは、この場合は「物」に対峙するものとして述べられていることが分かります。

 

 (ト) それゆえに、一方は他方の同意のもとにのみ、つまり両者に共通な一つの意志行為にもとづいて、彼らは自分の商品を譲渡する代わりに、他人の商品を自分のものにします。

 

 (チ) だから、彼らは互いに相手を私的所有者として認め合わなければなりません。

 

 ここには〈私的所有者〉という言葉が出てきます。「私的所有」とはそもそもどのように理解したら良いのでしょうか。マルクスは『剰余価値学説史』において〈「社会」そのものが--人間は「社会」のなかで生活するのであって、独立独歩の個人として生活するのではないということが--所有の根源なのであり、この所有に立脚する法律と不可避的な奴隷制度との根源なのである〉(26巻Ⅰ431頁)と述べています。そして『資本論』第1部「第24章 いわゆる本源的蓄積」「第7節 資本主義的蓄積の歴史的傾向」の最初のところで、次のように述べています。

 〈社会的・集団的所有の対立物としての私的所有は、労働手段と労働の外的諸条件とが私人に属する場合にのみ存立する。しかし、この私人が労働者であるか非労働者であるかに応じて、私的所有もまた異なる性格をもつ。一見したところ私的所有が示している無限にさまざまな色あいは、ただこの両極端のあいだにあるいろいろな中間状態を反映しているにすぎない。〉(『資本論』23巻b-993頁)

 

 つまり私的所有とは「私人」の所有ということです。人間の「社会」が人間自身の関係として、すなわち彼らの相互の意識的で自覚的な関係として存在するのではなく、彼らから疎外されたものとして、第三者(個人あるいは共同体組織や諸物象)によって代表され、支配されるものとして存在するようになることによって、人間が「公人」と「私人」とに分裂する結果、私的所有は社会的・集団的所有の対立物として生まれてくるということです。だから私的所有は社会が諸階級に分裂し、対立する、階級社会の発生と同時に生まれるものでもあるわけです。

 

 (リ) 契約をその形式とするこの法的関係は、法律的に発展していても、いなくても経済的関係がそこに反映している意志関係です。

 

 ここで〈契約をその形式とするこの法的関係〉とありますが、〈この〉というのはその前に述べていること、すなわち〈これらの物を商品としてたがいに関係させるためには、商品の保護者たちは、自分たちの意志をこれらの物に宿す諸人格としてたがいに関係しあわなければならない。それゆえ、一方は他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらも両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を譲渡することによって他人の商品を自分のものにする。だから、彼らはたがいに相手を私的所有者として認めあわなければならない〉という全体を指していると思います。つまり〈一方は他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらも両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を譲渡することによって他人の商品を自分のものにする〉ということを商品所有者は互いに「契約」という形式で法的関係として結び合うということです。これは民法のような法律として明文化されていようが、いまいが、商品所有者の間では、互いに結び合わなければならない関係だということです。あるいはそれが契約書という文書になっていようが、口頭によるものであっても、やはり「契約」なわけです。

 

 因みに民法第555条は「売買」について、〈売買は、当事者の一方がある財産権を相手方に移転することを約し、相手方がこれに対してその代金を支払うことを約することによって、その効力を生ずる〉とし、売買契約が成立する要件としては次のように定めているのだそうです。

 

 〈契約は法律行為であるから、総則の意思表示の規定が適用される。すなわち、効果が発生するには以下の要件を満たす必要がある。
 1.成立要件
  1.申込みと承諾(521条~528条)
   2.売買契約は諾成契約であるので、意思表示の合致のみで成立する。
    3.売買契約は不要式契約であるので、書面の作成は必須でない。口頭の合意でも成立する。〉(以上、ウィキペディアから)

 

 (ヌ) この法的関係、あるいは意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられています。

 

 (ル) 諸人格は、ここでは、ただ互いに商品の代表者としてのみ、だから商品所有者としてのみ存在しています。

 

 (ヲ) われわれは、展開が進むにしたがって、諸人格の経済的扮装はただ経済的諸関係の人格化にほかならず、諸人格はこの経済的関係の担い手として互いに相対することを、総じて見いだすでしょう。

 

 つまり「資本家」=「資本の人格化」というのは、こうしたことを意味しています。例えば次のように説明されています。

 

 〈単純な商品流通--購買のための販売--は、流通の外にある究極目的、すなわち使用価値の取得、欲求の充足、のための手段として役立つ。これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値の増殖は、このたえず更新される運動の内部にのみ存在するからである。したがって、資本の運動には際限がない。……この運動の意識的な担い手として、貨幣所有者は資本家になる。彼の人格、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。あの流通〔G-W-G〕の客観的内容--価値の増殖--は彼の主観的目的である。そして、ただ抽象的富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の推進的動機である限り、彼は資本家として、または人格化された--意志と意識とを与えられた--資本として、機能するのである。〉(『資本論』23a198-200頁)

 

 〈資本家としては彼はただ人格化された資本でしかない。彼の魂は資本の魂である。〉(同23a302頁)

 

◎注37と注38

 

 なおこのパラグラフには注37と注38が付いています。それらも紹介して起きましょう。

 

 【注37】〈(37) その敬けんさで聞こえた一二世紀にも、これらの商品のうちに、しばしば、はなはだか弱いものが出現する。たとえば、当時のフランスの一詩人は、ランディ〔パリ近郊の町〕の市場に見られた商品のうちに、服地、靴、なめし革、農具、皮革類などと共に、「“みだらな遊び女 femmes folles de leur corps ”」をあげている。〉

 

 これは特に説明は不要でしょう。ここで〈当時のフランスの一詩人〉というのは、ギヨーの風刺詩『ランディ物語』を指しているのだそうです。

 

 【注38】〈(38) プルードンは、まず正義、“永遠の正義 justice eternelle ”という彼の理想を商品生産に照応する法的諸関係からくみ取る。ついでに言っておけば、このことによって、商品生産の形態は正義と同じように永遠であるというすべての素町人にとってはなはだ好ましい証明が与えられるというわけである。彼は、今度は反対に、現実の商品生産とこれに照応する現実の法をこの理想に従って改造しようとする。もしも物質代謝の現実的諸法則を研究してこれらの法則に基づいて一定の課題を解決するのではなく、「“自然状態 naturalite ”」や「“親和力 affinite ”」という「永遠の理念」によって物質代謝を改造しようとする化学者がいたとしたら、この化学者を何と考えたらよいであろうか? 「高利」は「“永遠の正義”」や「“永遠の公正 equite eternelle ”」や「“永遠の相互扶助 mutualite  eternelle ”」やその他の「“永遠の真理 verites  eternelles ”」と矛盾すると言う時、人が「高利」なるものについて知るところは、教父たちが高利は「“永遠の恩寵 grace  eternelle ”」、「“永遠の信仰 foi  eternelle ”」、「“神の永遠の意志 volonte eternelle de dieu ”」と矛盾すると言う時に彼らが高利について知っていたものよりも、はたしてより多いであろうか?〉

 

 この注は〈この法的関係または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている(38)。〉という一文に付けられています。つまり法的関係や意志関係の内容というのは、経済的諸関係を反映したものに過ぎないということを理解しない一例としてプルードンの主張が紹介されているわけです。こうしたプルードンの観念的な主張の特徴をより分かりやすく説明したものとして、マルクスのアンネコフへの手紙(1846年12月28日ブリュッセル)があります。そこから少し紹介しておきましょう。

 

 〈歴史の現実の運動を追跡することができないで、プルードン氏は幻覚をつくりだしている。それは弁証法的幻覚である、と言いはっている。彼は17、18、19世紀のことを述べる必要を感じていない。というのは、彼の歴史は霧ふかい想像の国でおこっており、時間と場所をはるかに超越しているからである。一言でいえば、それはへーゲルふうの古いがらくたであり歴史ではない。それは一世俗的な歴史──人間の歴史──ではなく、聖なる歴史、すなわち観念の歴史である。彼の見方によると、人間というものは、観念または永遠の理性がそれを利用して展開するための道具であるにすぎない。プルードン氏のいう進化は、絶対的観念の神秘的な胎内でおこなわれるような進化だと考えられている。この神秘的な言語からヴェールをはぐとしたら、それはプルードン氏が彼の頭のなかで経済的範疇がならんでいる順序をわれわれにしめしているということである。〉(全集第4巻564-5頁、但し訳文は文庫本から、以下同じ)

 

 〈このようにプルードン氏は、主として歴史の知識が欠けているために、人間がその生産諸力を発展させるとともに、つまり生活するとともに、相互のあいだの一定の関係を発展させること、この関係の仕方がこれら生産諸力の変化と増大につれて変化することを、見なかった。彼は、経済的範疇がこれらの現実の関係の抽象にすきないこと、これらの関係が存するかぎりでこれらの範疇が真理であるにすぎないことを、見なかった。こうして、彼は、これらの経済的範疇を永遠の法則とみとめ、生産諸力のある一定の発展にだけあてはまる法則である歴史的法則とみとめないブルジョア経済学者の誤謬におちいった。そこで、政治的=経済的範疇を、現実の、暫時的な、歴史的な、社会関係から抽象されたものとして観察するかわりに、プルードン氏は、神秘的に転倒したために、現実の諸関係をこれらの抽象の具象化だとみとめている。これらの抽象そのものは、天地開闢以来、神のふところでまどろんでいた公式なのである。〉(同上567-8頁)

 

 〈プルードン氏は、その物質的生産様式に応じて社会関係をつくりあげる人間が、観念範疇をも、すなわちこれらの社会関係の観念的・抽象的表現をも、つくりだすということは、なおさら理解しなかった。したがって、範疇は、自分が表現する関係とまさに同じように、永遠のものではない。範疇は歴史的・暫時的な産物である。プルードン氏にとっては、これとは正反対に、抽象、範疇が第一原理である。彼の意見にしたがうと、歴史をつくるのはそれであって、人間ではない。抽象、範疇それ自体、つまり人間およびその物質的行動と切りはなしてとりあげられた範疇は、もちろん不死、不変、不動である。それは、純粋理性の一つの有である。それは、抽象それ自体は抽象的である、というだけのことである。すばらしい同語反復
 このように範疇の形でみられた経済関係は、プルードン氏にとっては、起源も進歩もない永遠の公式である。
 別の言いかたをしてみよう。プルードン氏は、ブルジョア的生活が彼にとって永遠の真理であると直接に主張しているわけではない。彼は、ブルジョア的関係を思想の形で表現する範疇を神化することによって、間接にそう言っている。〉(同上570頁)

 

◎第2パラグラフ

 

 【2】〈 (イ)商品所有者を特に商品から区別するものは、商品にとっては他のどの商品体もただ自分の価値の現象形態としての意味しかもたないという事情である。 (ロ)だから、生まれながらの水平派であり犬儒学派である商品は、他のどの商品とも、たとえそれがマリトルネスよりまずい容姿をしていても、魂だけでなく体までも取り替えようとたえず待ちかまえている。 (ハ)商品所有者は、こうした、商品には欠けている、商品体の具体性に対する感覚を、彼自身の五感およびそれ以上の感覚でもって補う。 (ニ)彼の商品は彼にとっては何らの直接的使用価値をも持たない。 (ホ)さもなければ、彼はそれを市場に持っていきはしなかっただろう。 (ヘ)それがもっているのは他人にとっての使用価値である。 (ト)彼にとってそれは、直接的には、ただ交換価値の担い手であり、したがって交換手段であるという使用価値をもっているだけである(39)。 (チ)だからこそ、この商品を彼は自分を満足させる使用価値をもつ商品と引きかえに譲渡しようとするのである。 (リ)すべての商品は、その所有者にとっては非使用価値であり、その非所有者にとっては使用価値である。 (ヌ)したがって、これらの商品は、全面的に持ち手を交換しなければならない。 (ル)そして、この持ち手の交換が諸商品の交換なのであって、またそれらの交換が諸商品を価値としてたがいに関係させ、諸商品を価値として実現する。 (ヲ)したがって、諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない。〉

 

  (イ) 商品の所有者を商品そのものと区別するものは、商品にとっては他のどの商品体(使用価値)もただ自分の価値の現象形態としての意味しかもたないということです。

 

  第1パラグラフで、第1章では商品そのものが分析の対象であったのに対して、第2章では、さらに商品の所有者が分析の対象として加わることが指摘されましたが、では、商品そのものを分析の対象にするのと、より具体的に商品所有者をも分析の対象として加えることで何が問題になるのかが次に問われているわけです。そして、まず、第1章の場合は、商品にとって、他の商品の使用価値は、ただ自分の価値の現象形態、つまり自分の価値を相対的に表す材料という意味しか持たなかったと指摘されています。

 

  (ロ) だから、生まれながらの水平派であり犬儒学派である商品は、他のどの商品とも、例えそれがマリトルネスよりまずい容姿をしていても、魂だけでなく体までも取り替えようとたえず待ち構えています。

 

  水平派というのは、新日本出版の新書版の注によれば、〈17世紀イギリスのピューリタン革命期にリルバーンたちに指導されて活躍した左翼民主主義的平等主義者たち〉のことであり、犬儒学派というのは〈ディオゲネスたち古代ギリシアの一学派で、禁欲的自然主義者。礼儀、慣習を無視した〉との説明があります。またマリトルネスというのは、セルパンテスの『ドン・キホーテ』に出てくる醜い女中のことだそうです。つまりどちらも相手の風采は気にせずに、誰彼とも無く相手にするということでしょうか。つまり第1章では商品リンネルは商品上着と交換すると前提されていましたが、もちろん、リンネルと交換されるのは、上着に限らず、コーヒーでも鉄でも金でも何でも良かったわけです。とにかく商品であれば任意のものを想定して、われわれは考察することが出来たのでした。

 

  (ハ) 商品所有者は、こうした商品には欠けている、商品の使用価値に対する具体的な感覚を、彼の五感、あるいはそれ以上の感覚で補うことになります。

 

  ところが、商品所有者が分析の対象に加わってくる第2章では、商品所有者の欲望が問題になります。つまり交換の対象になる商品の使用価値は、何でもよいというわけでは無くなるわけです。そうしたことが第2章では、新たに問題になってくるということが分かるわけです。

 

  ここで〈彼自身の五感およびそれ以上の感覚〉とありますが、〈五感〉は、視覚・嗅覚・味覚・聴覚・触覚ですが、〈それ以上の感覚〉というのは、内面的な欲望にもとづく感覚ということでしょうか。

 

 (ニ)、(ホ)、(ヘ) 彼にとって自分の商品は直接的な使用価値ではありません。つまりそれは彼の欲望の対象ではないのです。なぜなら、もしそれが彼の欲望の対象であれば、彼はそれを市場に持って行く代わりに、自分の欲望を満たすために消費してしまうでしょう。だから、それは商品にはなりえません。だからそれが彼の商品であるということは、それは彼にとっては直接的な使用価値ではないとういことです。彼の欲望の対象は、彼が交換しようとする他人の持っている商品であり、だから彼の商品の使用価値も、それが商品である限りは、他人にとっての使用価値で無ければならないわけです。

 

  すでに第1章「商品」の第1節「商品の二つの要因--使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)」において、次のように説明されていました。

 

  〈自分の生産物によって自分自身の欲求を満たす人は、たしかに使用価値を作りだすが、商品を作りだしはしない。商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない。{しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は、封建領主のために年貢の穀物を生産し、僧侶のために十分の一税の穀物を生産した。しかし、年貢穀物も十分の一税穀物も、それらが他人のために生産されたということによっては、商品にはならなかった。商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手に、交換を通して移譲されなければならない(エンゲルスの追加)。}〉(全集版55-6頁)

 

  ただ、ここでは商品所有者の欲望と商品の使用価値との関係が問題になっています。商品所有者にとって彼の商品は何らの直接的な使用価値を持ちません。それは彼の生産物のうち、彼の欲望を満たしたあとに残った余剰物のようなものでなければならないわけです。だからそれは他人にとっての使用価値、つまり社会的使用価値を持たねばならないのです。社会的使用価値を持つということは、その商品に支出された労働が、社会的な分業の環をなしているということです。

 

 (ト)、(チ) 彼にとって、それは直接的には、ただ交換価値の担い手であり、したがって交換手段であるという使用価値を持っているだけです。だからこそ、この商品を自分の欲望を満足させる使用価値をもつ商品と引き換えに譲渡しようとするわけです。

 

 (リ)、(ヌ)、(ル) すべての商品は、その所有者にとっては非使用価値であり、その非所有者にとって使用価値です。だからこそ、これらの商品は、その持ちを手を全面的に交換しなければならないのです。そしてこの持ち手の交換が、すなわち諸商品の交換なのであって、またこれらの交換が諸商品を価値として互いに関係させ、諸商品を価値として実現するのです。

 

 (ヲ) したがって、諸商品は、みずからを使用価値として実現しうる前に、価値として実現しなければなりません。

 

  ここでは〈価値として実現する〉、〈使用価値として実現〉という用語が出てきます。ここで〈価値として実現する〉とは、「価値の実現」とは同じではありません。商品の価値の実現とは、貨幣の存在を前提した上で、商品を貨幣に転換すること、つまり商品の販売のことです。だから商品を〈価値として実現する〉とは、商品が他の諸商品と質的に同じものとして関係するということです。つまりそれが抽象的人間労働の対象化されたものとして妥当するということではないかと思います。また〈使用価値として実現する〉とは、「使用価値の実現」とは違います。「使用価値の実現」とは商品が交換過程から出て、消費過程に入り、その使用価値が消費されることです。しかし〈使用価値として実現する〉というのは、交換過程内の問題であり、だから商品に支出された具体的な有用労働が、社会的な分業の環をなしていることが示されることにほかなりません。つまりそれが社会的使用価値であることが実証されることです。

 

  さて全体としてのこのパラグラフを理解するのに役立つと思える『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

 

  〈商品は、使用価値、小麦、リンネル、ダイヤモンド、機械等々であるが、しかし商品としては、同時にまた使用価値でない。もしそれがその所有者にとって使用価値であるならば、すなわち直接に彼自身の欲望を満足させるための手段であるならば、それは商品ではないであろう。彼にとっては、それはむしろ非使用価値であり、すなわち、交換価値のたんなる素材的な担い手、またはたんなる交換手段である。交換価値の能動的な担い手として、使用価値は交換手段となる。その所有者にとっては、商品は交換価値としてだけ使用価値なのである〔*〕。だから、使用価値としては、それはこれから生成しなければならないのである。しかもまずもって他の人々にとっての使用価値としてである。商品はそれ自身の所有者にとっての使用価値ではないのであるから、他の商品の所有者にとっての使用価値である。そうでないとすれば、彼の労働は無用な労働であったし、したがってその成果は商品ではなかったわけである。他方では、商品は所有者自身にとっての使用価値にならなければならない。なぜならば、彼の生活手段は、この商品以外に、他人の諸商品の使用価値として存在しているからである。使用価値として生成するためには、商品は自分が充足の対象であるような特殊の欲望に出会わなければならない。だから諸商品の使用価値は、商品が全面的に位置を転換し、それが交換手段である人の手から、それを使用対象とする人の手に移ることによって、使用価値として生成するのである。諸商品のこのような全面的外化〔*〕によってはじめて、それにふくまれている労働は有用労働になる。使用価値としての諸商品相互のこのような過程的関係においては、諸商品はなんら新しい経済的形態規定性をうけない。それどころか、商品を商品として特徴づけた形態規定性が消え去る。たとえばパンは、パン屋の手から消費者の手に移っても、パンとしてのその定在を変えない。反対に、それがパン屋の手中では一つの経済的関係の担い手であり、一つの感覚的でしかも超感覚的なものであったのに、消費者がはじめて、使用価値としての、こうした一定の食料品としてのパンに関係するのである。だから、諸商品が使用価値としてのその生成中にはいりこむ唯一の形態転換は、それがその所有者にとって非使用価値、その非所有者にとって使用価値であった、その形態的定在の揚棄である。諸商品の使用価値としての生成は、その全面的外化、それが交換過程へはいることを予想しているが、しかし交換のための商品の定在は、交換価値としてのその定在である。したがって、使用価値として自己を実現するには、商品は交換価値として自己を実現しなければならない。

 〔*〕 アリストテレス (本章の冒頭に引用した個所を参照)が交換価値を把握したのは、この規定性においてである。
 〔*〕 「外化」の原語はEntäuβerung。あるものが自分自身をある状態から自分にとって外的な状態に移すことであり、またあるものを自分の手から外部の者の手へ移すといった意味である。 前者の意味では、Entfremdung「疎外」ということばと同義と解してよく、同じ現象を「外化」は過程として把握し、「疎外」は結果の側からみたものといえよう。ここでは諸商品が全面的な位置転換によってそれぞれそれを使用対象とする人の手に移ることをさしている。日常用語では「譲渡」、「移譲」の意味に用いられる。 本書で「外化」とある場合も、以上の意味がふくまれている。〉(全集13巻27-8頁)

 

◎注39

 

  第2パラグラフには、注がついています。それも一応紹介しておきましょう

 

  【注39】〈(39) 「なぜなら、どの物の用途も二通りあるからである。--一方は物としての物に固有であり、他方はそうではない。たとえば、靴には、靴としてはくという用途と交換されうるという用途とがある。両方とも靴の使用価値である。なぜなら、靴を、自分にないもの、たとえば食物と交換する人でも、やはり靴を靴として用いているからである。もっとも、これは靴の本来の用法ではない。なぜなら、靴は交換のために存在しているのではないからである」(アリストテレス『政治学』、第一巻、第九章〔山本光雄訳、『アリストテレス全集』15、岩波書店、二三ページ。同訳、岩波文庫、五一~五二ページ〕)。〉

 

  この注は特に解読の必要はないと思いますが、ほぼ同じような注は『経済学批判』では冒頭の〈一見したところでは、ブルジョア的富は一つの巨大な商品の集まりとして現われ、一つ一つの商品はその富の基本的定在として現われる。ところがそれぞれの商品は、使用価値交換価値という二重の観点のもとに自己をあらわしている〔*〕〉(同前13頁)に付けられています(引用文の最後に〈他の物についても同じことが言える。〉という一文が付け加わっている)。そして先に紹介した一文--〈商品は、使用価値、小麦、リンネル、ダイヤモンド、機械等々であるが、しかし商品としては、同時にまた使用価値でない。もしそれがその所有者にとって使用価値であるならば、すなわち直接に彼自身の欲望を満足させるための手段であるならば、それは商品ではないであろう。彼にとっては、それはむしろ非使用価値であり、すなわち、交換価値のたんなる素材的な担い手、またはたんなる交換手段である。交換価値の能動的な担い手として、使用価値は交換手段となる。その所有者にとっては、商品は交換価値としてだけ使用価値なのである〔*〕〉に付けられている注では、この冒頭の注を参照するように指示して、〈アリストテレス・・・・が交換価値を把握したのは、この規定性においてである〉と指摘しています。

 

◎第3パラグラフ

 

 【3】〈 (イ)他面では、諸商品は、自分を価値として実現しうる前に、自分が使用価値であることを実証しなければならない。 (ロ)というのは、諸商品に支出された人間労働が、それとして認められるのは、この労働が他人にとって有用な形態で支出された場合に限られるからである。 (ハ)ところが、その労働が他人にとって有用であるかどうか、したがってその生産物が他人の欲求を満足させるかどうかは、ただ諸商品の交換だけが証明できることである。〉

 

  (イ)、(ロ) 他方では、諸商品は、自分たちを価値として実現しうる前に、自分たちが使用価値であることを実証しなければなりません。というのは、諸商品に支出された人間労働が、そういうものとして認められるのは、それらの労働が他人にとって有用な形態で支出された場合に限られるからです。

 

  ここで〈それとして認められる〉というところは、初版では〈数のなかにはいる〉となっています。またフランス語版では〈それが他人に有用な形態のもとで支出されるかぎりでしか、計算に入らないからである〉となっています。だから商品に支出された人間労働が、社会の総労働量の一部分として、社会的・平均的に必要な量だけ支出される限りで、それが価値として認められるのであり、それは価値として他の諸商品と関係することが出来るのだということではないかと思います。

 

  またここで〈使用価値であることを実証しなければならない〉というのは、先に出てきた〈使用価値として実現〉するということと、同じだと思います。というのは、〈使用価値であることを実証〉するとは、〈この労働が他人にとって有用な形態で支出された場合に限られる〉とも述べているように、社会的使用価値であることを実証するということと同義だからです。つまり社会的な分業の総体の一分肢であることを示すことだと思います。

 

  (ハ) ところが、この労働が他人にとって有用であるか、だからその生産物が他人の欲求を満足させうるかどうかは、ただ諸商品の交換だけが証明できることなのです。

 

  このパラグラフの場合も、その理解に役立つと思える『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

 

  〈個々の商品は、使用価値の観点のもとでは、本来独立した物として現われたが、これに反して交換価値としては、はじめから他のすべての商品との関係で考察された。けれどもこの関係は、ただ理論的な、思考上の一関係にすぎなかった。この関係が実際に証明されるのは、ただ交換過程においてだけである。他方では、たしかに商品は、一定量の労働時間がそれについやされており、したがってそれが対象化された労働時間であるかぎり、交換価値である。しかしそれは、直接そのままでは、特殊な内容の対象化された個人的労働時間であるにすぎず、一般的労働時間ではない。だからそれは、直接ものままでは交換価値ではなく、これからそれにならなければならない。まず商品は、一定の有用なしかたで用いられた、したがってある使用価値にふくまれた労働時間をあらわすかぎりでだけ、一般的労働時間の対象化でありうる。商品にふくまれた労働時間が、一般的社会的労働時間として前提されたのは、こういう素材的条件のもとだけであった。だから商品は、交換価値として実現されることによってはじめて使用価値として生成しうるのだが、他方ではその外化において使用価値としての実を示すことによってはじめて交換価値として実現されうるのである。〉(前掲28頁)

 

  さて、この第2、第3パラグラフで分析されている交換過程の矛盾をどのように理解したらよいのでしょうか。ここでは、以前、大阪で行っていた「『資本論』を学ぶ会」のニュースから、それについて論じた部分を紹介しておくことにします。

 

 【マルクスが最初に問題にしている矛盾とは、「諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない」ということと「価値として実現しうるまえに、みずからが使用価値であることを実証しなければならない」ということです。つまり使用価値も交換価値もその実現のためには相手の実現を前提し合う関係にあるということです。ということは現実には商品交換は不可能だということになります。『経済学批判』ではマルクスはこれを「悪循環」とも述べています。

 

  問題はこれはいったいどういう現実を言っているのだろうか、ということです。しかしこれはそれほど難しいことではなくて、現実の生産物の物々交換(つまり貨幣がまだ現われていない交換)を想定してみれば分かります。私が魚をとって市場で野菜と交換したいと考えても、たまたま野菜を市場に持って来ている人が、魚をほしがっているならば交換可能ですが、そうでなければ交換できません。両者の欲求が一致するのはまったく偶然であって、実際にはなかなか一致せず、だから交換も出来ないのです。マルクスが明らかにしている矛盾はまさにこうした現実を示しているのではないでしょうか。

 

  交換過程を問題にするときには、商品は使用価値と価値の統一物であり、商品所有者の欲求が分析の対象にならなければなりません。だからまたこうした矛盾が生じるのです。第一章では20エレのリンネルは上着一着と交換されましたが、しかし等価形態に上着が来るか、鉄がくるかコーヒーが来るかは問題ではありませんでした。それは何でも良かったのです。というのは第一章では商品が交換されている現実を前提にしてそれを直接分析の対象にしていたからであって、そこでは商品所有者も彼の欲望も捨象されて問題にはされなかったからです。しかし第二章では商品交換はより具体的に分析され、商品は現実の商品としていわば運動するものとしてとらえられているともいえます。】(「学ぶ会ニュース」No.27)

 

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【付属資料】

 

●表題

 

《初版本文》

 

 〈「諸商品の交換過程」〉

 

《フランス語版》

 

 〈「諸交換について」〉

 

●第1パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈諸商品は、自分たち自身で市場に行くととができないし、自分たち自身を交換しあうこともできない。だから、われわれは、それらの番人である商品所持者たちを探し出さなければならない。諸商品は、物であり、したがって人間にたいしては無抵抗である。それらが従順でなければ、人聞は暴力を用いることができる。言い換えれば、それらをっかまえることができる(32)。これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志がこれらの物においてある存在をもつところの諸個人として、互いに関係しあわなければならない。したがって、各人は、自分の意志と他人の意志とをもってのみ、つまり、双方が共通の意志をもってのみ、自分たちの商品を譲渡することによって他人の商品を取得しなければならず、そしてまた、他人の商品を取得するためには自分の商品を譲渡しなければならない。だから、彼らは互いに、私的所有者として認めあわなければならない。法的に表示されていようといまいと契約という形式をとる、この法的関係は、経済的関係がそのなかに反映しているところの意志関係にほかならない。この法的関係または意志関係内容は、経済的関係そのものによって与えられている(38)。諸個人は、ここでは、自分たちがなんらかの諸物を商品として互いに関係させることによって、互いに関係しあっているにすぎない。だから、この関係のあらゆる規定は、商品としての物の規定のなかに含まれている。ここでは、一方の人は、他方の人にたいし、商品の代表者として、したがって商品所持者として、存在しているにすぎない。叙述が進むにつれて、諸個人の経済的な諸扮装は経済的な諸関係の擬人化にすぎず、彼らはこれらの関係の担い手として互いに相対しているということを、われわれは一般的に見いだすであろう。〉(江夏他訳70頁)

 

《フランス語版》

 

 〈諸商品はけっして自分たち自身で市場に行くこともできないし、自分たち自身を互いに交換しあうこともできない。したがって、われわれは商品の保管者や監督者、すなわち商品の所有者のほうに眼を向けなければならない。商品は物であり、したがって、人間に少しも抵抗できない。もし商品に善意がなければ、人間は暴力を用いることができる、換言すれば、商品をとらえることができる(1)。これらの物を商品として互いに関係させるためには、その保管者たち自身が、これらの物自体のうちに意志を宿す人として、互いに関係しあわなければならず、したがって、一方の意志は他方の意志でもあり、個々の保管者は共通の意志行為によって、自分の商品を手ばなして他人の商品をわがものにすることになる。だから、彼らは互いに私有者として認めあわなければならない。合法的に結ばれようとそうでなかろうと、契約という形式をとるこの法的関係は、経済的関係を反映する意志関係にほかならない。その内容は、経済的関係そのものによって与えられている(2)。人々はここでは、数々の物を商品として互いに関係させるかぎりでのみ、互いに関わりあっているのである。人々が互いに相手として存在するのは、彼らが所有する商品の代表者としてのことでしかない。われわれはさらに、よりいっそう詳述を進めてゆく過程のなかで、人々が状況に応じてかぶるさまざまな仮面が、彼らが互いに相手にたいして維持する経済的関係の擬人化にほかならない、ということを知るであろう。〉(江夏他訳61頁)

 

●注37と注38

 

《初版本文》

 

 〈(32)敬虔で聞こえた12世紀には、これらの商品のなかには、しばしば、非常にやんわりした物が見いだされる。それだから、当時のフランスのある詩人は、ランディの市場内に現われた諸商品のなかに、服地や靴や革や農器具や毛皮等々のほかに「浮気な女」をも数えあげている。〉(同71頁)

 

 〈(33)プルードンは、まず、正義すなわち永遠の正義という彼の理想を、商品生産に対応する法的諸関係から汲み取っているが、ついでに言っておくと、このことによって、商品生産という形態も正義と同様に永遠であるというすべての俗物にとって大いに慰めになる証明も、提供されているのである。次いで、彼は、逆に、現実の商品生産とこれに対応する現実の法律とを、ニの理想にのっとって改造しようとする。物質代謝の現実の諸法則を研究しこれらを基礎として特定の諸課題を解決せず、「自然的性状」や「親和力」という「永遠の理念」にのっとって物質代謝を改造しようとするような化学者がいれば、人はこの化学者をどう思うだろうか? 人が、高利は「永遠の正義」や「永遠の公正」や「永遠の相互扶助」やその他の「永遠の真理」と矛盾している言うとき、その人が「高利」について知っていることは、教父たちが高利は「永遠の恩寵」や「永遠の信仰」や「神の永遠の意志」と矛盾していると言ったとき、彼らが高利について知っていたことよりも、いくらかは長じていることになるのだろうか? 〉(同71頁)

 

《フランス語版》

 

 〈(1) 敬度なことであれほど評判の高い12世紀には、往々にして商品のなかにきわめてなよやかな物が見出される。たとえば、当時のフランスの一詩人は、ランディの市場で見た商品のなかに、布地や靴や皮や農具のほかに「浮気な女」をあげている。〉(61頁)

 

 〈(2) 多くの人々は彼らの正義理想を、商品生産に基礎を置く社会から生まれた法的関係から汲みとっている。ついでに言っておくが、このことは、この種の生産が正義そのものと同じくらい長持ちするであろうという証拠を、彼らに快く提供しているのである。次いで彼らは、現在の社会から引ぎ出されるこの理想のなかに、この社会とその法とを改良するための支点を置く。物質化合の法則を研究もせず、この基礎の上で一定の課題を解決もせずに、「親和力や自然的性情という永久的理念」にしたがってかこの化合を変えようとする化学者がいたら、人はこの化学者をどう考えるであろうか? 例えば、人が「高利」は「永遠の正義」や「永遠の公正」と矛盾すると言うとき、この人が高利について知っていることは、教父が、高利と「永遠の恩寵や永遠の信仰や神の永遠の意志」との矛盾を宣言して同じことを行ったとき、この教父が高利について知っていたことよりも、どこか長じているところがあろうか?〉(61-2頁)

 

●第2パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈商品所持者を特に商品から区別するものは、商品にとってはどの他商品の使用価値も自分自身の価値の現象形態としてしか認められない、という事情である。だから、生まれながらの平等派であり犬儒学派である商品は、絶えず、どの他商品とでも、たといそれがマリトルネス〔セルパンテスの『ドン・キホーテ』に出てくる醜い女中〕よりも体裁が悪かろうと、魂だけでなく体までもとり交わそうとしている。商品には欠けている、商品体という具体物にたいするこういった感覚を、商品所持者は、自分自身の五感およびそれ以上の感覚で補うのである。彼の商品は、彼にとっては直接的な使用価値をなんらもっていない。もっていれば、彼はその商品を市場にもってゆきはしない。彼の商品は、他人にとって価値をもっている。彼にとって、それは直接的に、交換価値の担い手でありしたがって交換手段であるという使用価値のみを、もっている(34)。それだから、彼は、自分を満足させる使用価値をもっ商品と引き換えに、この商品を譲渡しようとする。すべての商品は、それの所持者にとっては非使用価値でありそれの非所持者にとっては使用価値である。だから、これらの商品は全面的に持ち手を変更しなければならない。ところが、この持ち手の変更が、これらの商品の交換を形成しており、これらの商品の交換が、これらの商品を価値として互いに関係させ、これらの商品を価値として実現するのである。だから、諸商品は、それらが使用価値として実現されうる以前に、価値として実現されていなければならない。〉(71-2頁)

 

《フランス語版》

 

 〈交換者を彼の商品から特に区別するものは、この商品にとっては他のどの商品自体の価値の現象形態にほかならない、ということなのだ。この商品は、生まれながらにして放蕩で厚かましいから、他のどんな商品とでも--たとえそれがマリトルネス〔セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』に出てくる醜い女中〕と同じくらい魅力に乏しかろうとも--、自分の魂やさらに肉体までも交換しようと、いつも身構えている。この商品は自分の姉妹の具体的な側面を評価する感覚を欠いているが、この欠落を、交換者は五つ以上もある自分自身の感覚で補い、発達させるのである。彼にとっては、この商品はどんな直接の使用価値ももっていない。そうでなければ、彼はこれを市場にもってゆかない。彼がこの商品に見出す唯一の使用価値は、この商品が他人にとって有用な価値の担い手であり、したがって交換手段である、ということである(3)。だから、彼は、自分を満足させることのできる使用価値をもつ別の商品と引き換えに、この商品を譲渡しようとする。すべての商品は、それを所有する人々にとっては非使用価値であり、それを所有しない人々にとっては使用価値である。したがって、すべての商品は一方の持ち手から他方の持ち手へと全面的に移行しなけれぽならない。ところが、この持ち手変更が商品交換をなすのであって、この商品交換が商品を価値として互いに関係させ、商品を価値として実現する。したがって、商品は使用価値として実現されうる以前に価値として現われていなければならない。〉(62頁)

 

●注39

 

《初版本文》

 

 〈(34)「なぜならば、どの財貨の用途も二重であるからである。--一方の用途は物としての物に固有であり、他方の用途はそうではない。たとえば、サンダルは、はき物として役立つし、また交換可能でもあるというように。両方の用途ともサンダルの使用価値である。というのは、サンダルを自分がもっていない物、たとえば食物と交換する人でも、やはり、サンダルをサンダルとして利用するからである。といっても、サンダルの本来の用い方ではないが。なぜならば、サンダルは交換のために存在するものではないからである。」(アリストテレス『国家論』、第一巻、第九章。)〉(72頁)

 

《フランス語版》

 

 〈(3) 「なぜかというと、どの物にも二種の用途があるからである。その一方は、物としての物に固有であり、他方はそうでない。たとえばサンダルは、履物としても交換手段としても役立つ。この二つの観点のもとで、サンダルは使用価値なのである。自分に欠けているもの、たとえば食糧と引ぎ換えに、サンダルを交換する人も、サンダルをサンダルとして用いるからである。だが、このことはサンダルの生来の用い方ではない。サンダルはまさに、交換のためにそこにあるわけではないからである」(アリストテレス『政治学』、第1巻、第9章)。〉(62-3頁)

 

●第3パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈他方では、諸商品は、それらが価値として実現されうる以前に使用価値として実証されていなければならない。というのは、諸商品に支出された人間労働は、それが有用な形態で支出されたかぎりでのみ、しかも他人にとって有用な労働であるかぎりでのみ、数のなかにはいるからである。ところが、その労働が他人にとって有用であるかどうか、したがってその労働の生産物が他人の必要をみたすかどうかは、諸商品の交換だけが証明しうるところである。〉(72頁)

 

《フランス語版》

 

 〈他方では、商品が価値として実現されうる以前に、その使用価値が確認されていなけれぽならない。商品の生産に支出された人間労働は、それが他人に有用な形態のもとで支出されるかぎりでしか、計算に入らないからである。ところで、この労働が他人に有用であるかどうか、すなわち、その生産物が他人の必要をみたすことができるかどうかは、商品の交換だけが証明しうることなのだ。〉(63頁)

 

 

 

 

 



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