目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第9回「『資本論』を読む会」の案内
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第10回「『資本論』を読む会」の案内
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第14回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第40回「『資本論』を読む会」の案内

『資 本 論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

                                                                                                               

 

 

 

 欧州の国家債務危機と信用不安は、ギリシャからイタリアへと飛び火し、ますますその深刻の度を加えています。

 

 ギリシャでは、EU首脳会議が決めた支援策の受け入れで、国民投票をするかどうかですったもんだした挙句、それを言い出したパパンドレウ首相が辞任、パパデモス前欧州中央銀行(ECB)副総裁が後任につき、来年2月実施予定の総選挙までの暫定政権が発足しました。

 

 しかしギリシャの財政危機は依然として増大しており、国債償還が集中する12月中旬には、国際通貨基金(IMF)や欧州金融安定基金(EFSF)などから80億ユーロ(約8500億円)のつなぎ融資を受けられなければ、国家破綻する事態を迎えています。

 

 一方、イタリアの国債価格が急落し、10年物国債の利回りが自力返済不能のボーダーライン(危険水域)とされる7%を超え、一気に、財政・金融不安が広まりました。イタリアの政府債務は約1兆9000億ユーロ(約200兆円)、国内総生産(GDP)比120%に達しています。

 

 もしイタリアが国家危機に陥るなら、その影響はギリシャの比ではありません。イタリアの経済規模はユーロ圏全体の約17%を占め、ドイツ・フランスに次ぐ「大国」なのです。

 

 先の主要20ヵ国・地域(G20)首脳会議では、IMFによるイタリアの財政改革の実行状況の監視を決めました。もし国債の利回りがこのまま上昇し続ければ、IMFからの支援なしでは、資金調達が困難になり、国債償還時に資金繰りに行き詰まり突然の債務不履行(デフォルト)に陥る可能性があるからです。結局、ベルルスコーニ首相は自ら退陣を表明、2013年までに対GDP比4.6%の財政赤字を解消させる財政安定法の成立を国際公約させられました。

 

 こうしたなかで、財政危機のしわ寄せを一方的に押しつけられようとしている、ギリシャやイタリアの労働者は、敢然と闘いに立ち上がっています。ギリシャでは10月19~20日に、数百万人規模の官民48時間ゼネストと数十万人の集会や、国会包囲デモが行われ、イタリアでも600万人の労働者を組織しているイタリア最大の労組CGIL(イタリア労働総同盟)の呼びかけで、ベルルスコーニ政権の緊縮財政攻撃に反対する8時間ゼネストに決起しました。労働者への犠牲の押しつけで国家的危機を乗り切ろうとする資本に対して、その反撃は当然といえます。

 

 

 今回のEU発の世界的な信用不安は、08年のリーマンショックの延長であり、世界市場恐慌の一層の深化を示しています。そして恐慌の時こそ、労働者階級が、新しい社会の建設に向けて闘いに立ち上がる時でもあるのです。マルクスは、恐慌と革命の関係について、次のように述べています。

 

 〈本当の革命は……この二要因、つまり近代的な生産諸力とブルジョア的生産諸形態とが、たがいに矛盾に陥る時期にだけ、可能である。……新しい革命は新しい恐慌につづいてのみ起こりうるしかし革命はまた、恐慌が確実であるように確実である。〉(下線はマルクスによる。全集7巻450頁)

 

 世界市場恐慌のより一層の深まりは、やがては世界の労働者階級を闘いに駆り立てずにはおかないでしょう。ギリシャやイタリアの労働者の闘いは、その先駆けといえます。来るべき革命の一時代に備えるためにも、貴方も、共に『資本論』を学びませんか。

 


第40回「『資本論』を読む会」の報告

第40回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎大阪ダブル選挙

 

 大阪府知事選と大阪市長選のダブル選挙は「維新の会」の圧勝に終わりました。橋下前府知事が「大阪都」構想を掲げ、「大阪維新の会」を基盤に大阪市長選に鞍替えして立候補したために、実現した選挙でしたが、橋下前知事の狙いが着々と具体化しつつあることに、危機感を持たざるを得ません。

 

 橋下氏は、「独裁者」よろしく、乱暴な攻撃的な物言いで、さまざまな作られた「敵」を相手に、派手な立ち回り演じることによって、人気を集めています。

 

 しかし、北海道大学准教授の中島岳志氏が「橋下徹の言論テクニックを解剖する」(http://www.magazine9.jp/hacham/111109/)で暴露していますが、橋下氏は自らが著した『図説・心理戦で絶対に負けない交渉術』(日本文芸社)で、自分の言論のテクニックを披露し、手の内を明かしているのだそうです。

 

 それによれば、この間の橋下氏のマスコミを上手に使い、耳目を引き付ける奇抜な言動のすべてが、大衆を欺き、錯覚を引き起こして、操作するための、計算されたものであることが分かります。

 

 このようなファシストまがいの大衆操作のテクニックを操る危険な人物を私たちは決して、認めるわけには行きません。

 

 「維新の会」進出に警鐘を乱打しながら、とにかく、第40回の学習会の報告を行います。

 

◎第14パラグラフ

 

 今回も第14パラグラフと第15パラグラフの二つのパラグラフをやりました。まず最初にそれぞれのパラグラフの本文を紹介し、文節ごとに記号を打って、平易に解説しながら、議論の紹介もして行くことにします。まずは第14パラグラフ本文です。

 

 【14】〈 (イ)共同的な、すなわち直接的に社会化された労働を考察するためには、われわれは、すべての文化民族の歴史の入口で出会う労働の自然発生的形態にまでさかのぼる必要はない(30)。 (ロ)自家用のために、穀物、家畜、糸、リンネル、衣類などを生産する農民家族の素朴な家父長的な勤労が、もっと手近な一例をなす。 (ハ)これらのさまざまな物は、家族に対して、その家族労働のさまざまな生産物として相対するが、それら自身がたがいに商品として相対することはない。 (ニ)これらの生産物を生み出すさまざまな労働、農耕労働、牧畜労働、紡績労働、織布労働、裁縫労働などは、その現物形態のままで、社会的機能をなしている。 (ホ)なぜなら、それらは、商品生産と同じように、それ自身の自然発生的分業をもつ、家族の諸機能だからである。 (ヘ)男女の別、年齢の相違、および季節の推移につれて変わる労働の自然的諸条件が、家族のあいだでの労働の配分と個々の家族成員の労働時間とを規制する。 (ト)しかし、ここでは、継続時間によってはかられる個人的労働力の支出が、はじめから、労働そのものの社会的規定として現れる。 (チ)なぜなら、個人的労働力は、はじめから、家族の共同的労働力の諸器官としてのみ作用するからである。〉

 

 (イ) 共同的な、つまり直接的に社会化された労働を考察するためには、私たちは、すべての文化民族の歴史の入り口で出会う労働の自然発生的形態にまでさかのぼる必要はありません。

 

 さて、ここでは〈共同的な、つまり直接的に社会化された労働〉が問題になっています。その前の第13パラグラフのところで紹介したように、マルクスは人間の社会諸形態を三つの大きな段階として位置づけていました。すなわち(1)〈人格的な依存諸関係(最初はまったく自然生的)は最初の社会諸形態〉、(2)〈物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性は第二の大きな形態〉、(3)〈個人の共同体的、社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることのうえにきずかれた自由な個体性は、第三の段階〉と。

 

 この最初の〈人格的な依存諸関係〉について、マルクスは〈社会的な力〔Kraft〕を交換手段がもつことが少なければ少ないほど、つまり交換手段がいまだに直接的な労働生産物の性質や交換者の直接的諸必要とかかわりあいがあればあるほど、諸個人を結びつける共同団体--家父長的関係、古代の共同団体、封建制度、ギルド制度--の力は、まだそれだけ大きいにちがいない〉とも説明していました。つまり人格的依存関係というのは、何らかの共同体的な関係が労働における人間の社会的関係(生産関係)になっているものです。だからそれは封建制度だけではなく、家父長的関係や古代の共同体やギルド制度などにも共通して言えるものであるとの認識に立っているわけです。その意味では第13パラグラフの封建的な生産も、〈共同的な、つまり直接的に社会化された労働〉にもとづくものだったといえるでしょう。

 

 だからこのパラグラフでは、同じ〈共同的な、つまり直接的に社会化された労働〉の別の社会的諸形態を論じようとしているわけです。さらにマルクスは〈われわれは、すべての文化民族の歴史の入口で出会う労働の自然発生的形態にまでさかのぼる必要はない〉と述べていることにも注意が必要です。つまりマルクスには時代を遡って商品生産とは異なる別の生産諸形態に逃げ込もうという意図があるということです。マルクスが『資本論』で対象にしているのは、いうまでもなく資本主義的生産様式です。そこから時代を遡って最初に問題になるのは、封建的生産様式であることは明らかでしょう。だからこそ、マルクスはロビンソンの孤島での生活というあらゆる社会形態に共通な一般的条件をまず考察したあと、最初に取り上げたのは、中世の生産諸形態であったといえるでしょう。そして中世の生産諸形態では、人格的な依存関係が直接的に労働における人間の社会的関係(生産諸関係)をなしていることが指摘されたのでした。つまり労働は最初から人格的な依存関係によって社会的関連の枠のなかにあったのです。そして同じ労働が直接に社会的に結びついている社会、つまり直接的に社会化された労働を問題にするためには、原始的な共同体社会まで時代を遡る必要はない、として次は、つまりこのパラグラフでは、自家需要のために生産する家父長制の家族共同体の生産形態を問題にしているといえます。

 

 (ロ) その直接的に社会化された労働としては、自家用のために、穀物や家畜、糸、リンネル、衣類などを生産する農民の家族の素朴な家父長的な勤労が、もっとも手近な一例をなしています。

 

 (ハ) これらのさまざまな物は、家族に対して、その家族労働のさまざまな生産物として相対しますが、それら自身がたがいに商品として相対することはありません。

 

 (ニ) これらの生産物を生み出すさまざまな労働、例えば農耕労働(穀物)や牧畜労働(家畜)、紡績労働(糸)、織布労働(リンネル)、裁縫労働(衣類)などは、その現物形態のままで、社会的機能をなしています。

 

 (ホ) というのは、それらの労働は、商品生産と同じように、それ自身の自然発生的分業をもつ、家族の諸機能だからです。

 

 (ヘ) 男女の別や年齢の相違、季節の移り変わりによって変化する労働の自然条件などが、家族の間での労働の配分と個々の家族構成員の労働時間を規制します。

 

 (ト)、(チ) しかし、ここでは継続時間によってはかられる個人的労働力の支出は、はじめから、労働そのものの社会的規定として現れます。というのは、個人的労働力は、はじめから、家族の共同的労働力の諸器官としてのみ作用するからです。

 

 この家父長制の労働について、学習会では、家父長制の労働は果たして自然発生的な分業と言えるのだろうか、という疑問が出されました。というのは、文節(ニ)では家父長制のもとにおける家族労働は、その現物形態のままで社会的機能を持っているとしています。ということは、それらは直接に社会的に結びつけられた労働ということでしょう。ということはそれらの諸労働の分業もその限りで意識的・計画的なものと言えるのではないかと言うわけです。工場内の分業が意識的・計画的なものであり、だから工場内の労働はその現物形態のままで工場の枠内においては社会的ものとしてあるのと同じように、家父長制の家族労働もやはり意識的・計画的に諸労働が分割されて、家族のさまざまな構成員に配分されるのではないだろうか、というわけです。

 

 この点について、マルクスは、資本主義以前の社会諸形態における分業について、次のように述べています。

 

 〈それ以前の諸社会形態では諸産業の分化がまず自然発生的に発展し、次いで結晶し、最後に法的に固定された〉と。(全集23a468頁)

 

 そしてその具体的な例としてインドの太古的小共同体の場合を紹介し、次のように述べています(全体を引用すると長すぎるので一部省略しました。興味のある方は『資本論』に直接当たって参照してください)。

 

 〈たとえば、部分的には今日なお存続しているインドの太古的な小共同体は、土地の共有と、農業と手工業との直接的結合と、固定した分業とを基礎としており、この分業は、新たな共同体の建設にさいしては与えられた計画および設計図として役だっている。……生産物の大部分は共同体の直接的自己需要のために生産され、商品として生産されるのではなく、したがって、生産そのものは、商品交換によって媒介されるインド社会の全体としての分業からは独立している。……この共同体機構は計画的分業を示してはいるが、しかしマニュファクチュア的分業は不可能である。……共同体労働の分割を規制する法則は、ここでは自然法則の不可侵的権威をもって作用するのであるが、他方、鍛冶師などのようなそれぞれの特殊な手工業者は、伝統的な仕方に従って、しかし独立的に、自分の作業場ではどんな権威も認めることなしに、自分の専門に属するあらゆる作業を行なうのである。〉(全集23a6468-9頁)

 

 このように、マルクスはインドの太古の小共同体では、さまざまな労働が分割されているが、それらは商品として生産されるのではなく、その〈共同体機構は計画的分業を示して〉いると述べています。ただそれらの労働の分化そのものは自然発生的に発展したものであり、次いでそれが結晶し、法的に固定したものだと述べています。

 

 だから家父長制の家族労働も、それらが家族の構成員にそれぞれ振り分けられるやり方は、男女の別や年齢の相違、あるいは季節によって移り変わる自然条件の変化によって、自然発生的に行われてきたものであるが、しかしそれらはやがては固定されて、最初から家族の各構成員のそれぞれの義務として、家族の中の一つの決まりとなったものであり、その限りでは最初から計画的なものとしてあるということではないでしょうか。

 

◎注30について

 

 注30についても議論しましたので、紹介しておきましょう(ただし文節ごとの解説は省略します)。

 

 【注30】〈(30) 第2版への注。「自然発生的な共有の形態は、特にスラヴ的な、しかももっぱらロシア的な形態であると言うのは、近ごろ広まっている笑うべき偏見である。それは、われわれがローマ人、ゲルマン人、ケルト人のあいだで指摘できる原初形態であるが、これについては、さまざまな見本をそなえた立派な見本台帳が、今なお、一部は遺制としてであるけれども、インド人のあいだに見いだされる。アジア的な、ことにインド的な共有諸形態のいっそう厳密な研究は、自然発生的な共有のさまざまな形態からどのようにしてその崩壊のさまざまな形態が出てくるかを示すであろう。こうして、たとえば、ローマ的およびゲルマン的私有のさまざまな原型が、インド的共有のさまざまな形態から導出されるのである」(カール・マルクス『経済学批判』、10ページ〔『全集』、第13巻、19ページ〕)。〉

 

 この注30については、そもそもこの注30『経済学批判』からの引用になっていますが、『経済学批判』でも、やはり注としてあることが紹介されました。そしてその本文は次のようなものだという紹介もされました。

 

 〈これに反して、紡ぎ手も織り手も同じ屋根の下に住んでいて、いわば自家需要のために、家族のうちの女たちは紡ぎ、男たちは織っていた家父長制的農村工業においては、家族の限界内で糸とリンネルとは社会的生産物であり、紡績労働と織布労働とは社会的労働であった。けれどもそれらの社会的性格は、一般的等価物としての糸が一般的等価物としてのリンネルと交換されること、つまり両者が同じ一般的労働時間のどちらでもよい、同じ意味の表現として互いに交換されることにあったのではない。むしろ原生的な分業をもつ家族関連が、労働の生産物にその固有な社会的極印をおしたのである。あるいはまた、中世の賦役と現物給付をとってみよう。ここでは現物形態にある個々人の一定の労働が、労働の一般性ではなくて特殊性が、社会的紐帯をなしている。あるいはまた最後に、すべての文化民族の歴史の入口で見られるような、原生的形態にある共同労働をとってみよう〔*〕。ここでは労働の社会的性格は、明らかに個々人の労働が一般性という抽象的形態をとることによって、つまり彼の生産物が一つの一般的等価物の形態をとることによって媒介されているのではない。個々人の労働が私的労働となることを妨げ、彼の生産物が私的生産物となることを妨げ、むしろ個々の労働を直接に社会有機体の一肢体の機能として現われさせるものは、生産の前提とされている共同体である。交換価値であらわされる労働は、個別化された個々人の労働として前提されている。それが社会的となるのは、それがその正反対の形態、抽象的一般性の形態をとることによってである。〉(全集13巻18-19頁)

 

 この本文中にある〔*〕につけられた注として、上記の一文が存在しているのです。

 

 この本文を読んでも、家父長制の家族関連そのものが、それらの家族の諸労働の社会的関連そのものになっており、だからそれらの諸労働は最初から社会的労働であったという指摘がなされています。労働が家族のさまざまな構成員に配分されるのは、家族の生理的な理由や自然条件によって、自然発生的に決まってきたのですが、しかしそれらが家族のさまざまな諸機能として直接に結びつけられており、その限りでは計画的分業をなしていたということが出来るでしょう。

 

◎第15パラグラフ

 

 次は第15パラグラフです。

 

 【15】〈 (イ)最後に、目先を変えるために、共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体を考えてみよう。 (ロ)ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現されるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。 (ハ)ロビンソンのすべての生産物は、もっぱら彼自身の生産物であり、したがってまた、直接的に彼にとっての使用対象であった。 (ニ)この連合体の総生産物は一つの社会的生産物である。 (ホ)この生産物の一部分は、ふたたび生産手段として役立つ。 (ヘ)この部分は依然として社会的なものである。 (ト)しかし、もう一つの部分は、生活手段として、連合体の成員によって消費される。 (チ)この部分は、だから、彼らのあいだで分配されなければならない。 (リ)この分配の仕方は、社会的生産組織体そのものの特殊な種類と、これに照応する生産者たちの歴史的発展程度とに応じて、変化するであろう。 (ヌ)もっぱら商品生産と対比するだけのために、各生産者の生活手段の分け前は、彼の労働時間によって規定されるものと前提しよう。 (ル)そうすると、労働時間は二重の役割を果たすことになるだろう。 (ヲ)労働時間の社会的計画的配分は、さまざまな欲求に対するさまざまな労働機能の正しい割合を規制する。 (ワ)他面では、労働時間は、同時に、共同労働に対する生産者たちの個人的関与の尺度として役立ち、したがってまた、共同生産物のうち個人的に消費されうる部分に対する生産者たちの個人的分け前の尺度として役立つ。 (カ)人々が彼らの労働および労働生産物に対してもつ社会的諸関係は、ここでは、生産においても分配においても、簡単明瞭である。〉

 

 (イ) 最後に、目先を変えるために、共同的生産手段で労働して、自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体を考えてみましょう。

 

 (ロ) ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現されますが、ただ、個人的なものとしてではなく、社会的なものとしてです。

 

 (ハ) ロビンソンのすべての生産物は、もっぱら彼自身の生産物であり、したがってまた、直接に彼にとって使用対象でした。

 

 (ニ) この連合体の場合は、その総生産物は一つの社会的生産物です。

 

 (ホ)、(ヘ) この生産物の一部分は、再び生産手段として役立ちます。だからこの部分は依然として社会的なものです。

 

 (ト)、(チ) しかし、もう一つの部分は、生活手段として、連合体の成員によって消費されます。だからこの部分は、彼らの間で分配されなければなりません。

 

 (リ) この分配の仕方は、社会的な生産組織そのものの特殊な種類と、これに照応する生産者たちの歴史的発展程度に応じて、変化するでしょう。

 

 (ヌ) もっぱら商品生産と対比するだけのために、各生産者の生活手段の分け前は、彼の労働時間によって規定されるものと前提しましょう。

 

 (ル) そうすると、労働時間は二重の役割を果たすことになるでしょう。

 

 (オ) 労働時間の社会的計画的配分は、さまざまな欲求に対するさまざまな労働機能の正しい割合を規制します。

 

 これに関連すると思われる文言は、『資本論』の他の部分にもみられます。例えば……

 

 〈ただ生産が社会の現実の予定的統制のもとにある場合にだけ、社会は、一定の物品の生産に振り向けられる社会的労働時間の範囲とこの物品によってみたされるべき社会的欲望の範囲とのあいだの関連をつくりだすのである。〉全集25a236頁)

 

 〈第二に、資本主義的生産様式が解消した後にも、社会的生産が保持されるかぎり、価値規定は、労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分、最後にそれに関する簿記が以前よりもいっそう重要になるという意味では、やはり有力に作用するのである。〉(全集25b1090頁)

 

   (ワ) 他方、労働時間は、同時に、共同労働に対する生産者たちの個人的な関与の尺度として役立ち、したがってまた、共同生産物のうち個人的に消費されるべき部分に対する生産者たちの個人的分け前の尺度としても役立ちます。

 

 労働時間が、共同生産物のうち個人的消費されうる分け前を規制するというのは、『ゴータ綱領批判』のなかでより詳しく展開されています。

 

 〈個々の生産者は、彼が社会にあたえたのと正確に同じだけのものを――控除をしたうえで――返してもらう。個々の生産者が社会にあたえたものは、彼の個人的労働量である。たとえば、社会的労働日は個人的労働時間の総和からなり、個々の生産者の個人的労働時間は、社会的労働日のうちの彼の給付部分、すなわち社会的労働日のうちの彼の持分である。個々の生産者はこれこれの労働(共同の元本のための彼の労働分を控除したうえで)を給付したという証明書を社会から受け取り、この証明書をもって消費手段の社会的貯蔵のうちから等しい量の労働が費やされた消費手段を引きだす。個々の生産者は自分が一つのかたちで社会にあたえたのと同じ労働量を別のかたちで返してもらうのである。〉(全集19巻20頁)

 

 (カ) 人々が彼らの労働や労働生産物に対してもつ社会的な諸関係は、ここでは、生産においても分配においても、簡単明瞭であり、何の神秘的な性格を帯びることもないでしょう。

 

 学習会では、労働時間は二重の役割を果たすとありますが、「三重」ではないのか、という意見が出されました。第一に社会的欲望に対応したさまざまな労働機能の正しい割合に応じて労働時間を社会的計画的に配分する役割、第二にそうした労働の計画的な配分に応じて、個々人の労働を社会的に直接割り振る役割、第三に、個々人が社会に与えた労働に応じて、各人が共同生産物から個人的消費分の分け前を受け取る役割、ということです。第二と第三は同じ労働時間ですが、しかしその果たしている役割はやはり別のものと考えるべきではないかという意見です。しかしこの問題は、「二重」か「三重」かということ以上ではなく、大した問題ではないので、それ以上には問題になりませんでした。

 

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【付属資料】

 

●第14パラグラフに関連して

 

《補足と改訂》

 

 〈共同的な、すなわち直接的に社会化された労働を考察するためには、われわれは、すべての文化民族の歴史の入口で出会う労働の自然発生的形態にまでさかのぼる必要はない。注「それは云々J (W 批判~ p. 1 0 、注1)。自家用のために、穀物、家畜、糸、リンネル、衣類などを生産する農民家族の素朴な家父長的な勤労が、もっと手近にある一例を提供する。これらのさまざまな物は、家族にたいして、その家族労働のさまざまな生産物として相対するが、それら自身が互いに商品として相対することはない。これらの生産物を生み出すさまぎまな労働、農耕労働、牧畜労働、織布労働、裁縫労働などは、その自然的形態のままで、社会的機能をなしている。なぜなら、それらは、商品生産と同じように、それ独自の自然発生的分業をもっ、家族の諸機能だからである。一面では男女の別、年齢の相達、および他面では季節の推移につれて変わる労働の自然的諸条件が、家族の間での労働の配分と個々の家族構成員の労働時間とを規制する。しかし、ここでは、労働の継続時間によってはかられる個人的労働力の支出が、はじめから、労働そのものの社会的規定として現れる。なぜなら、個人的労働力は、はじめから、家族の共同的労働力の器官としてのみ作用するからである。〉(34頁)

 

《フランス語版》

 

 〈共同の労働、すなわち直接的な協力に出会うためには、すべての文明国民の歴史の入口で見られるような、この労働の原始的な自然形態にまで、さかのぼる必要はない(30)。自分たち自身の必要のために家畜、小麦、リンネル、亜麻糸、衣服等を生産している農民家族の田園的、家父長的事業のなかに、この労働の全く身近な一例がある。これらさまざまな物品は、その家族にとっては、家族労働のさまざまな生産物として現われるが、相互に交換される商品としては現われない。これらの生産物の源であるさまざま労働、農耕や牧畜や機織や衣服の仕立等は、当初から社会的機能の形態をとっている。というのは、それらは、商品生産と全く同じように、分業が行なわれている家族の機能であるから。季節の変化につれて変わる自然条件も、年齢や性のちがいも、家族内では、各人にたいする労働の配分と労働時間とを規制する。労働時間による個々人の労働力の支出の測定が、ここでは直接に、労働そのものの社会的性格として現われる。というのは、個々人の労働力は、家族の共同労働力の諸器官としてのみ機能するからである。〉(53-54頁)

 

●注30に関連して

 

《経済学批判》

 

 〈〔*〕原生的な共有の形態は、とくにスラヴ的な、しかももっぱらロシア的な形態だというのは、近ごろひろまっているばかげた偏見である。それは、われわれがローマ人、ゲルマン人、ケルト人のあいだで指摘することのできる原初形態であるが、これについては、さまざまな見本をそなえたりっぱな見本帳が、いまでもなお、一部分は遺制としてであるとはいえ、インド人のあいだに見いだされる。アジア的な、ことにインド的な諸共有形態のいっそう詳しい研究は、原生的共有の種々の形態からどのようにしてその崩壊の種々の形態が出てくるかを示すであろう。こうして、たとえばローマ的およびゲルマン的私有の種々の原型が、インド的共有の種々の形態からみちびきだされるのである。〉(全集13巻19頁)

 

《フランス語版》

 

 〈(30) 共有の原始的形態が特にスラヴ的な、あるいはもっぱらロシア的な形態であるというのは、最近流布されている笑うべき偏見である。それは、ローマ人やゲルマン人やケルト人のもとでも出会う形態であって、この形態については現在でもなお、たとえ断片や破片としてであろうと、さまざまの標本をそなえたそれの見本台帳を、インド人のもとで見出すことができる。アジア、とりわけインドにおいての分割されていない所有形態の徹底的な研究は、それのさまざまな解体形態がどのようにして出てきたかを、示すであろう。こうして、たとえばローマでの、そしてまたゲルマン人のもとでの私有の種々の原型が、インド的共有のさまざまな形態から発生することができるのである。〉(54頁)

 

●第15パラグラフに関連して

 

《初版本文》

 

 〈さて、ロビンソンに代わって、共同の生産手段を用いて労働し、自分たちのたくさんの個人的な労働力を意識的に一つの社会的な労働力として支出するところの、自由な人々の団体を、想定することにしよう。ロビンソンの労働のあらゆる規定が繰り返されるが、このことは、個人的にではなく社会的にというにすぎない。とはいっても、一つの本質的な区別が生ずる。ロビンソンのすべての生産物は、彼ひとりの個人的生産物であったし、したがって、彼にとっては、直接的な使用対象であった。団体の総生産物は社会的な生産物である。この生産物の一部分は再び生産手段として役立つ。それは相変わらず社会的である。ところが、ほかの一部分は生活手段として団体の構成員たちの手で消費される。したがって、それは、彼らのあいだに分配されなければならない。この分配の様式は、社会的生産有機体そのものの特殊な様式に応じて、また、この様式に対応する生産者たちの歴史的な発展の高さに応じて、変化するであろう。ただ商品生産と対比してみるために、生活手段についての各生産者の分けまえが各生産者の労働時間によって規定されている、と前提しよう。そうすると、労働時聞は二重の役割を演ずることになろう。労働時間の社会的に計画された配分が、いろいろな必要にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を、規制する。他方、労働時聞は同時に、共同労働についての生産者の個人的な分担分の尺度として役立ち、したがってまた、共同生産物中の個人的に消費可能である部分についての生産者の個人的な分けまえの尺度としても役立つ。人々が彼らの労働や彼らの労働生産物にたいしてもっている社会的な諸関係は、ここでは依然として、生産においても分配においても、透明で簡単である。〉(江夏訳61頁)

 

《フランス語版》

 

 〈最後に、共同の生産手段を用いて労働し、協議した計画にしたがって多くの個別的労働力を同一の社会的労働力として支出するような、自由な人々の集まりを描くことにしよう。ロビンソンの労働についてすでに述べたことはどれも、ここでも再現されているが、それは社会的にであって、個別的にではない。ロビンソソの生産物はすべて、彼の個人的で専有的な生産物であり、したがって、彼のために直接的な有用性をもつ物品であった。結合した労働者の全生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部は再び生産手段として役立ち、相変わらず社会的であるが、他の部分は消費され、したがって、全員のあいだで分配されなけれぽならない。この分配様式は、社会の生産有機体と労働者の歴史的な発展段階とに応じて変化するであろう。この事態を商品生産と比較対照するために、個々の労働者に与えられる分け前が彼の労働時間に比例するものと前提しよう。そうすると、労働時間は二重の役割を演じるであろう。一方では、社会内での労働時聞の配分が、さまざまな必要にたいするさまざまな機能の正確な比率を規制する。他方では、労働時間が、共同労働内での個々の生産者の個別的分担を測定し、同時に、消費に充てられる共同生産物部分のうち個々の生産者に帰属する分け前を測定する。労働においての人澗の社会的関係も、労働から生ずる有用物にたいする人澗の社会的関係も、ここでは相変わらず、生産でも分配でも簡単明瞭である。〉(54-5頁)

 


第41回「『資本論』を読む会」の案内

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

                                    

 

 大阪ダブル選挙では、橋下徹前府知事率いる「大阪維新の会」が圧勝しました。

 

 「維新の会」圧勝の原因として上げられているのが、既成政党への不信です。大阪市長選では、民自公共が現市長平松氏支持でタッグを組んだのに負けました。橋下氏からは「理念なき野合」と批判されるありさまでした。もう一つの理由として上げられているのが、蔓延する「閉塞感」です。「市を解体するという前代未聞の訴えが、『大阪を変えてほしい』という市民、府民の切実な思いをとらえた」(東京新聞)というのです。

 

 「維新の会」は、その政策で「大阪の危機」の深刻さを訴え、さらには「国家自体の未曾有の危機」も次のように訴えています。

 

 「国家自体も未曾有の危機に瀕している。2010年の国・地方を合わせた財政収支赤字はGDP比で10%程度にまで拡大し、公的債務残高はGDP比で200%にも達すると予測されている(OECD推計)。政府は全国一律のバラマキ(再分配政策)を始め、財政赤字をさらに拡大させようとしている。日本経済はまさに破綻への道を転がり落ちている。しかし、中央の政府も政党も危機の深刻さを理解しようとせず、どのように窮状から抜け出すのか短期的なビジョンも示せずにいる。」(同会HPから)

 

 では「維新の会」はそうした危機を打開する方途を示しているのか、というと、まったくそうではありません。ただ「大阪都構想」なるものを提示して、都市の構成を再編すると主張しているに過ぎません。こんなもので現在の危機を乗り越える展望など何一つないのに、しかし「何かやってくれるかも」という漠然とした期待が、有権者を選挙に向かわせ、「維新の会」を押し上げたというわけです。

 

 ただ、大阪のみならず、日本全体が深刻な危機と閉塞感にあることは事実です。あるいは日本ばかりか、欧米の先進各国も同じような状況にあるとも言えるでしょう。これはどうしてなのでしょうか。

 

 マルクスは『資本論』「一般的利潤率の傾向的低下の法則」を明らかにしました。資本は最大の利潤を得ようと互いに競争して生産力を高めます。大規模な機械や設備をどんどん導入します。生産過程で労働者を機械に置き換えます。しかし資本が求める利潤(剰余価値)の源泉は、労働者の剰余労働なのです。つまり資本は利潤を求めて生産力を高めるために機械化や省力化に取り組めば取り組むほど、自分が求める利潤の源泉を生産過程から追い出すという矛盾したことをやらざるを得ないのです。そのために生産手段の価値は、そこで使う労働力の価値に比べてますます大きくなり、その結果、一般的に利潤率は低下する傾向にあるというのです。これがマルクスが明らかにした資本主義的生産に固有の根本的な矛盾を暴露する法則なのです。しかもこの法則は、低下する利潤率を補うために資本をさらなる生産拡大に追いやります。低落する利潤率に追われるように諸資本は生産の拡大・蓄積に狂奔するわけです。その行き着く先がすなわちバブルです。そしてその結果が、08年のリーマン・ショックで私たちが経験した過剰生産恐慌なのです。

 

 マルクスの時代の恐慌は、ほぼ十年周期の産業循環の最後の局面において、こうした資本主義的生産に固有の矛盾の爆発であるとともに、同時にその矛盾を暴力的に調整し、解決する手段でもありました。資本は恐慌という大変な経済的な混乱の煉獄を経て、再び産業循環を最初から開始することができたのです。

 

 「世界市場恐慌は、ブルジョア的経済のあらゆる矛盾の現実的総括および強力的調整として理解しなければならない。」(『剰余価値学説史』全集26II-689頁)

 

 しかしマルクスの時代とは異なり、国家が経済過程に深く関与する現代の資本主義においては、恐慌はもはやこうした産業循環をリセットする機能を十分に果たせなくなっています。恐慌時に特有の価値の暴力的な破壊が徹底して行われる前に、経済的混乱や体制的な危機を恐れる資本の政府がさまざまな救済策を講じてしまうからです。資本主義的生産の矛盾は、十分清算されず温存され、そのために資本は低落したままの利潤率の下で生産への意欲を失い(これが「失われた20年」と言われているものの背景にあるものです)、そればかりか本来破壊されるべき膨大な資本価値(その中には「架空」なものも少なからずあります)を諸資本に代わって背負い込んだ政府は、そのために膨大な債務を抱え込むことになったのです。つまり資本主義的生産の矛盾が、政府の債務危機という形をとって現れることになったのです。それが今日の先進各国を襲っているソブリン危機(国家債務危機)の本当の原因なのです。

 

 だから先進各国を捉えている深刻な停滞と閉塞感、あるいはそれに規定された政治的な混迷は、こうした資本主義的生産そのものの行き詰まりに起因しています。だからこそ、大阪という一都市の構造を変えようが、問題が解決するようなものではないのです。しかしこうした資本主義のどうしようもない行き詰まりは、資本主義的生産様式そのものを根本的に克服する道が示されなければ、やがては混迷を突き抜けようと、戦争への道を掃き清めるファシズム的な“解決”を求める悪しき道へと迷い込むことを歴史は教えています。「維新の会」は、そうした危険な芽を持った存在とも言えるでしょう。

 

 こうした意味でも、現代の資本主義社会を新しい社会へと展望する労働者階級の闘いこそが、ますます必要となっているのです。そしてそのためにも意識ある労働者の『資本論』の学習は欠かせません。是非、貴方も共に『資本論』を読んでみませんか。

 


第41回「『資本論』を読む会」の報告

第41回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎収束宣言?!

 

 野田首相は、16日、東電福島第一原発事故の収束宣言を行いました。「発電所の事故そのものは収束に至ったと判断される」と。しかし、メルトダウンし、さらに圧力容器をメルトスルーし、あるいは格納容器さえも突き抜けかねない融け落ちた核燃料が今どうなっているかは、誰も直接には知ることができていないのではないでしょうか。

 

 そればかりか、すでに広範囲に拡散され、今も垂れ流され続けている深刻な放射能汚染は、福島県を中心にした東北地方のみならず、首都東京や西日本も含めたまさに日本列島全体を、その海域も含め、これから放射能の恐怖に晒そうとしているのです。

 

 いったい、どの面さげて「事故は収束した」などと言えるのでしょうか。住み慣れた美しい故郷を汚され、安住の地を失い、剥ぎ取られ、追い払われた何万人もの人たちの心を踏みにじるものではないでしょうか。

 

 腹立たしい気持ちは容易に納まりませんが、しかし、とにかく第41回「『資本論』を読む会」の報告をやりたいと思います。

 

◎第12パラグラフの「ロビンソン物語」に関連する二つの疑問

 

 今回は、すでに第39回で学習した第12パラグラフのロビンソン物語に関連して、二つの疑問が出され、まず、その議論から始まりました。というのは、以前紹介した新参加者の方(今、仮に「Nさん」としておきます)が、そのときには都合で参加されなかったために、今回、その疑問を改めて提出されたからです。だから、まずその疑問と関連する議論の紹介から始めることします。

 

★第一問、どうして「ヤギ」ではなく、「ラマ」なのか?

 

 最初の疑問は、次の部分に対するものです。

 

 〈経済学はロビンソン物語を好むから(29)、まず孤島のロビンソンに登場願おう。生まれつきつつましい彼ではあるが、それでもさまざまな欲求を満たさなければならず、したがってまた、道具をつくり、家具をこしらえ、ラマ〔南アメリカ産のラクダ科の役畜〕を馴らし、魚をとり、狩りをするといったさまざまな種類の有用労働を行わなければならない。〉

 

 ここでマルクスはロビンソンが〈ラマ〔南アメリカ産のラクダ科の役畜〕を馴らし〉たと書いていますが、Nさんによれば、デフォーの書いた『ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険』によれば、ロビンソンが飼っていたのは「ヤギ」になっているのだそうです。ロビンソン・クルーソー物語そのものは空想物語ですが、そのヒントになったと言われている、スコットランド人航海長アレキサンダー・セルカークの実話(その体験談が1713年に出版されている)によれば、そのヤギというのはセルカーク自身が島(マス・ア・ティエラ島、後にロビンソン・クルーソー島と改名)に持ち込んだものなのだそうです。

 

 だからどうしてマルクスは物語とは違った「ラマ」にしているのか、というのがNさんの疑問なのです。あるいはマルクスはロビンソン物語の実話の島がチリの沖合に浮かぶファン・フェルナンデス諸島(その主島がロビンソン・クルーソー島)であることを知り、南米ならばヤギではなくラマだろうと考えたのかも知れないが、しかしラマというのは南米のアンデス山脈の高地で古くから役畜として飼育されてきたようですが、果たしてチリ沿岸とはいえ、島にも生息していたといえるのだろうか、というのもNさんの疑問でもあるのです。果たしてどうでしょうか。困ってしまいました。

 

 マルクスが「ヤギ」ではなく、どうして「ラマ」にしたのか、というのは、よく分かりませんが、そもそもマルクスが「ロビンソン物語」という場合、それはある程度、象徴的な意味をもたせているのではないだろうか、という意見がだされました。というのは注29で〈リカードにも彼のロビンソン物語がないわけではない〉と述べて、〈彼は、原始的な漁師と猟師にも、ただちに商品所有者として、魚と獣とを、それらの交換価値に対象化された労働時間に比例して交換をとり行わせている〉という『経済学批判』の一文を紹介していますが、しかし、実際にリカードの著書を見ても、ロビンソン物語そのものが直接論じられているのではなく、〈アダム・スミスが説ける、彼の初期の状態〉の話として、〈海狸〉(ビーバーの別名)と〈鹿〉の狩猟に必要な労働の違いによって、〈一頭の海狸は当然二頭の鹿よりも多くの価値を有する〉などと論じているだけです(『経済学及び課税の原理』第1章第3節)。だから現在の経済諸関係や諸法則を、人間社会の原初的な関係にまで遡って説明しようとする試みを、象徴的に「ロビンソン物語」としているところがあるのではないだろうかというのです。その意味では、実際のロビンソン物語に忠実ではないということそのものは、それほど重要な問題ではないだろうというわけです。

 

 またこれに関連して、以前にも問題になりましたが、第12パラグラフで論じているロビンソン物語の考察は、そもそもどういう意義があるのか、またそれに続いて第13パラグラフで取り上げられているのが、どうして中世社会なのか、という疑問も出されました。つまりこの一連のマルクスの考察の順序にはどんな意味があるのか、という問題です。

 

 この問題については、すでに第39回の報告のなかでも触れましたので、その部分を少し紹介することをお許しください。そこでは次のように論じています。

 

 〈マルクスの場合、すでに見たように、ロビンソンの孤島での生活をあらゆる社会的な関係とは無縁の一つの抽象物として論じています。ロビンソンは孤島でひとりぼっちなので、ここでは彼と自然との関係のみがあるだけです。これはマルクスが「第5章 労働過程と価値増殖過程」の「第1節 労働過程」において、労働過程をとりあえずはあらゆる社会形態から独立してそのものとして考察したのと同じような関係が、ここにはそのまま、つまり何の抽象も必要なく、具体的なものとして存在しているわけです。・・・・(中略)・・・・ここでマルクスが述べているように、マルクスのロビンソンの孤島での生活の考察は、それが〈人間の欲求を満たす自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永遠の自然的条件であり、・・・・人間生活のすべての社会形態に等しく共通なもの〉としてではないかと思います。それがロビンソンの孤島での生活では、一つの空想的な物語とはいえ、具体的に何の抽象も必要のない形で存在しており、その具体性において、一般的条件が考察できるからではないかと思うわけです。〉

 

 議論のなかでは、ロビンソンは漂流して、孤島に流れ着くことによって、ロビンソンが生活していたその時代の社会的な生産諸関係から切り離されてしまったたために、彼の孤島での生活は、〈人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件〉という、どんな社会形態からも独立した関係になってしまったのではないか。つまり漂流は彼の生活をある特定の生産諸関係から抽象する役割を果たしたと言えるのではないか、との指摘もありました。そしてそれがマルクスが最初にロビンソン物語を考察している理由ではないかということです。

 

 では、それ(第12パラグラフの考察)に続いて、マルクスが中世社会の労働(第13パラグラフ)や家父長制の下での労働(第14パラグラフ)、将来の連合体社会の労働(第15パラグラフ)という順序で考察していますが、この順序には何か意味があるのか、という問題についてはどうでしょうか。

 

 これについては、一つは、マルクスは第11パラグラフまで、商品世界の物神的性格について、それを生み出す原因を明らかにし、労働生産物の物象的諸関係が、ブルジョア経済学の諸カテゴリーをなしていること、だからそれらは歴史的に規定された商品生産を基礎とする社会(資本主義社会)に固有のものであることを明らかにしたのでした。そしてマルクスは、だから商品生産を基礎とする社会とは違った別の生産諸形態の場合には、そうした労働生産物に纏い付く神秘的なものは直ちに消え失せるのだ、と述べて、第12~15パラグラフにおいて、そうした資本主義的生産様式とは異なる別の生産諸形態の考察を行っているわけです。

 

 それをマルクスは、まず最初に、人間生活のすべての社会形態に等しく共通なものであり、人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件を示す具体例として、空想物語であるロビンソンの孤島での生活を例に考察を行い、そのあと資本主義的生産様式から歴史的に遡って、最初の前資本主義的生産様式である中世社会の考察に移っていると考えられます。そこでは人格的な依存関係が、労働の社会的な関係に、すなわち生産諸関係になっている社会でした。そこで次に、マルクスは〈共同的な、すなわち直接的に社会化された労働を考察するためには、われわれは、すべての文化民族の歴史の入口で出会う労働の自然発生的形態にまでさかのぼる必要はない〉として、中世の封建社会へと発展する以前の社会形態である、家父長制の家族労働の分析を行ったのでした。そして最後に、マルクスは今度は、一転して、将来の自由な個人の自覚的な連合体の社会を想定して、そこでも諸関係は極めて透明であり、労働生産物が神秘的な霧に覆われる必要はないことを明らかにしたのです。もしこの考察の順序に意味があるとすれば、その程度のものではないでしょうか。

 

 あるいは、こうした考察の順序自体には、それほど重要な意味がないのかも知れない、という意見も出されました。というのは、第40回の報告でも注30と関連して、紹介したことのある『経済学批判』では次のようにマルクスは論じているからです(すでに一度紹介しましたが、もう一度紹介しておきます)。

 

 〈これに反して、紡ぎ手も織り手も同じ屋根の下に住んでいて、いわば自家需要のために、家族のうちの女たちは紡ぎ、男たちは織っていた家父長制的農村工業においては、家族の限界内で糸とリンネルとは社会的生産物であり、紡績労働と織布労働とは社会的労働であった。けれどもそれらの社会的性格は、一般的等価物としての糸が一般的等価物としてのリンネルと交換されること、つまり両者が同じ一般的労働時間のどちらでもよい、同じ意味の表現として互いに交換されることにあったのではない。むしろ原生的な分業をもつ家族関連が、労働の生産物にその固有な社会的極印をおしたのである。あるいはまた、中世の賦役と現物給付をとってみよう。ここでは現物形態にある個々人の一定の労働が、労働の一般性ではなくて特殊性が、社会的紐帯をなしている。あるいはまた最後に、すべての文化民族の歴史の入口で見られるような、原生的形態にある共同労働をとってみよう〔*〕。ここでは労働の社会的性格は、明らかに個々人の労働が一般性という抽象的形態をとることによって、つまり彼の生産物が一つの一般的等価物の形態をとることによって媒介されているのではない。個々人の労働が私的労働となることを妨げ、彼の生産物が私的生産物となることを妨げ、むしろ個々の労働を直接に社会有機体の一肢体の機能として現われさせるものは、生産の前提とされている共同体である。交換価値であらわされる労働は、個別化された個々人の労働として前提されている。それが社会的となるのは、それがその正反対の形態、抽象的一般性の形態をとることによってである。〉(全集13巻18-19頁)

 

 この本文中にある〔*〕につけられた注として、現行版の注30とほぼ同じ内容のものが付けられているのです。

 ところで、ここでマルクスが考察している順序は、(1)家父長制の家族労働、(2)中世の賦役と現物給付、(3)原生的形態にある共同労働、というものです。だからこの考察の順序自体に、何か意味があるようにはどうしても思えません。こうした例を考えてみると、『資本論』の場合も、あまりその考察の順序自体に何か深い意味があるかに考えるのは、やはり考えすぎではないかと思うわけです。

 

★第二問、〈価値のすべての本質的規定〉の三つ目はどこに〈含まれている〉のか?

 

 これは次の部分に対する疑問です。

 

 〈ロビンソンと彼の手製の富である諸物とのあいだのすべての関係は、ここではきわめて簡単明瞭であって、M・ヴィルト氏でさえ、とりたてて頭を痛めることなしに理解できたほどである。にもかかわらず、そこには、価値のすべての本質的規定が含まれているのである。〉

 

 このように、マルクスはロビンソンと彼の作った諸物とのあいだの関係は、簡単明瞭であって、簡単に理解できるものであるにもかかわらず、そこには、価値のすべての本質的規定が含まれていると述べています。マルクスがわざわざ〈すべての〉と述べているのは、いうまでもなく、マルクスが第2パラグラフで次のように述べていたことに対応しています。

 

 〈したがって、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではない。それはまた、価値規定の内容から生じるのでもない。と言うのは、第一に、有用労働または生産的活動がたがいにどんなに異なっていても、それらが人間的有機体の諸機能であること、そして、そのような機能は、その内容やその形態がどうであろうと、どれも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは、一つの生理学的真理だからである。第二に、価値の大きさの規定の基礎にあるもの、すなわち、右のような支出の継続時間または労働の量について言えば、この量は労働の質から感覚的にも区別されうるものである。どんな状態のもとでも、人間は--発展段階の相違によって一様ではないが--生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった(26)。最後に、人間が何らかの様式でたがいのために労働するようになるやいなや、彼らの労働もまた一つの社会的形態を受け取る。〉

 

 このようにマルクスはここでは「価値規定の内容」として三つの契機について論じています。(1)価値の実体である抽象的人間労働の基礎にあるものは、その内容や形態がどうであろうと、人間有機体の諸機能として、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは生理学的真理であり、そこには何の神秘性もない。(2)また価値の大きさの規定の基礎にある、そうした労働の支出の継続時間、あるいは労働の量についても、やはり労働の質から感覚的に区別されうるものであり、やはり何の神秘性もない。(3)労働の社会的形態についても、やはり人間が何らかの様式で互いのために労働するようになるやいなや、必ずそうした形態を受け取るものである、と。

 

 Nさんの疑問は、このマルクスが〈最後に〉と述べているものは、ロビンソンと彼の諸物とのあいだの如何なる関係に〈含まれている〉のか、というものです。

 

 この問題については、第39回の学習会でも問題になりました。そして議論の結果、それは〈彼の全活動の中でどの機能がより大きい範囲を占め、どの機能がより小さい範囲を占めるかは、所期の有用効果の達成のために克服されなければならない困難の大小によって決まる。経験がそれを彼に教える〉という部分に合致しているのではないか、ということになったのでした。だから報告では次のように書いています。

 

 【(ト)、(チ) 彼の全活動のなかで、どの機能がより大きな範囲を占めるか、あるいはどの機能がより小さい範囲を占めるかは、必要な有用な効果を達成するためにやらなければならないことの困難さの大小によって決まってくるでしょう。経験がそれを彼に教えます。

 

  この部分もロビンソンのさまざまな諸機能が対象である自然に働きかけて、彼が目的にしたものを獲得するために、相互に有機的に関連しあった形で支出される必要があることが指摘されているわけですが、これも先の価値規定の内容の第三のものに対応していると考えることが出来るでしょう。

 

  〈最後に、人間が何らかの様式でたがいのために労働するようになるやいなや、彼らの労働もまた一つの社会的形態を受け取る。

 

  つまり社会的にはさまざまな人間によって担われる、彼らの社会的形態を受けた労働、すなわち社会的に結びあっている労働が、ロビンソンの場合は、彼自身のさまざまな機能として一人の人間の諸機能として関連し合って支出されるということです。

 

  このようにこれらのロビンソンの労働の分析は、第2パラグラフの価値規定の内容には何の神秘的な性格もないと述べていた内容に対応しています。これはある意味では当然なのです。というのは、初版本文では、この第12パラグラフのロビンソンの生活の考察と、第15パラグラフの将来の自由な人々の連合体の社会の考察は、第2パラグラフの直後に、その第2パラグラフで述べている価値規定の内容には神秘的なものは何もない具体的な例証として論じられていたものなのです(だから初版では第3、第4パラグラフにありました)。それをマルクスは第2版ではやや位置づけを変えて、今の位置に持ってきているのです。こうした初版と第2版との違いは、どういう意味があるのかも、一つの問題といえばいえますが、それはまた別に機会があれば論じたいと思います。】

 

 しかし、今回、議論のなかで、この〈最後に〉とマルクスが述べている価値規定の内容の三つ目の内容は、人間労働が社会的形態をとることについて述べているのに、今、ロビンソンのところで引用している部分は、労働の社会的形態というより、ロビンソンの時間がさまざまな労働に配分されることについて述べているという指摘がありました。だからロビンソンの諸労働が互いに結び合って一つの分業の体系をなしているということを言っているのは、その部分ではなく、むしろ最初に言われている次の部分の方が適切ではないか、ということになりました。すなわち次の部分です。

 

 〈生まれつきつつましい彼ではあるが、それでもさまざまな欲求を満たさなければならず、したがってまた、道具をつくり、家具をこしらえ、ラマ〔南アメリカ産のラクダ科の役畜〕を馴らし、魚をとり、狩りをするといったさまざまな種類の有用労働を行わなければならない。〉

 

 つまりこうしたロビンソンのさまざまな労働は、彼の諸欲求を満たすために、全体として有機的に関連して支出されなけれはならないという意味で、一定の“社会的”形態を持たねばならないと言えるのではないか、というわけです。

 

 なおこれに関連して、Nさんは、さまざまな解説書がその部分をどのように説明しているかも紹介してくれましたが、それはここでは割愛させて頂きます。ただNさんが河上肇『資本論入門』も例に上げてくれましたが、河上肇の場合は、ロビンソンと彼の諸物との関係に含まれる価値規定の内容として上げているのは、最初の二つだけで、マルクスが〈最後に〉と述べている部分は取り上げていません。つまりNさんが問題にしている部分については何ら論じていないように思えます。もちろん、これではマルクスが〈価値のすべての本質的規定〉(下線は引用者)と述べていることに必ずしも忠実ではないことになりますが。

 

◎第16パラグラフ

 

 さて、今回はそういうこともあって、実際に進んだのは、第16パラグラフ一つだけでした。その報告を次に行います。これまでと同じように、まず本文を紹介し、それを文節ごとに記号を付して、それぞれについて平易に解説しながら、議論の内容も紹介していくことにします。

 

【16】〈 (イ)商品生産者たちの一般的社会的生産関係は、彼らの生産物を商品として、したがってまた価値として取りあつかい、この物的形態において彼らの私的諸労働を同等な人間労働としてたがいに関係させることにあるが、このような商品生産者たちの社会にとっては、抽象的人間を礼拝するキリスト教、ことにそのブルジョア的発展であるプロテスタント、理神論などとしてのキリスト教が最もふさわしい宗教形態である。 (ロ)古アジア的、古代的等々の生産様式においては、生産物の商品への転化、したがってまた商品生産者としての人間の現存は、一つの副次的な役割を--といっても、共同体が崩壊の段階にはいっていけばいくほど、ますます重要な役割を--演じている。 (ハ)本来の商業民族は、エピクロスの言う神々のように、あるいはポーランド社会の気孔の中のユダヤ人のように、古代世界の空所にのみ存在する。 (ニ)あの古い社会的生産有機体は、ブルジョア的生産有機体よりもはるかに簡単明瞭ではあるが、それらは、他の個々人との自然的な種族関係のへそのおからまだ切り離されていない個々人の未成熟にもとづいているか、さもなければ、直接的な支配隷属関係にもとづいている。 (ホ)それらの生産有機体は、労働の生産諸力の発展段階の低さによって、またそれに照応して局限された、物質的生活生産過程の内部における人間の諸関係、したがって人間相互の諸関係と人間と自然との諸関係によって、制約されている。 (ヘ)この現実の被局限性が古代の自然宗教や民族宗教に観念的に反映している。 (ト)現実世界の宗教的な反射は、一般に、実際の日常生活の諸関係が、人間に対して、人間相互の、また人間と自然との、すいて見えるほど合理的な諸関係を日常的に表すようになる時、はじめて消えうせる。 (チ)社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿態は、それが、自由に社会化された人間の産物として彼らの意識的計画的管理のもとにおかれる時、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎすてる。 (リ)けれども、そのためには、社会の物質的基礎が、あるいは、それ自身がまた長い苦難に満ちた発展史の自然発生的産物である一連の物質的存在諸条件が、必要とされる。〉


 (イ) 生産物をもっぱら商品として生産する生産者の社会的な関係(つまり資本主義的な生産関係)は、生産物を商品として、したがってまた価値として取り扱い、その商品の価値という物的形態において、生産者の私的な諸労働を同等な人間労働として互いに関係させることにあります。こうした商品生産者たちの社会においては、抽象的人間を礼拝するキリスト教、ことにそのブルジョア的発展であるプロテスタントや理神論などとしてのキリスト教が最も相応しい宗教形態です。

 

 このパラグラフから問題が一転しています。第12~15パラグラフは、第11パラグラフで〈したがって、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧に包む商品世界のいっさいの神秘化、いっさいの魔法妖術は、われわれが別の生産諸形態のところに逃げこむやいなやただちに消えうせる〉と述べたのを受けて、その〈別の生産諸形態〉が考察されたのでした。だからその考察が第15パラグラフで終わった今、第16パラグラフからは、再び、〈商品生産の基礎の上で労働生産物を霧に包む商品世界のいっさいの神秘化、いっさいの魔法妖術〉の問題に戻り、それが宗教の諸形態として反映することが、今度は問題になっているように思えます。初版本文ではこのパラグラフの冒頭は、次のように始まっています。

 

 〈つまり、商品の神秘性は次のことから生じている。すなわち、私的生産者たちにとっては、自分たちの私的労働の社会的な諸規定が、労働生産物の社会的な自然規定性として現われているということ、人々の社会的な生産諸関係が、諸物の対相互的および対人的な社会的諸関係として現われているということ。社会的総労働にたいする私的労働者たちの諸関係は、彼らに対立して対象化され、したがって、彼らにとっては、諸対象という形態で存在している。[/]商品生産者たちの一般的な社会的生産関係は、自分たちの生産物を商品として、したがって価値として取り扱い、この物的な形態において、自分たちの私的労働を同等な人間労働として互いに関係させる、という点にあるのであるが、このような商品生産者たちの社会にとっては、抽象的な人間にたいする礼拝を伴うキリスト教が、ことにそれのブルジョア的な発展であるプロテスタントや理神論等々におけるキリスト教が、最もふさわしい宗教形態である。・・・・〉(但し[/]は引用者が付けた)

 

 つまり初版本文では、こうした一連の文章であったのです。[/]より前の一文は、現行版の第4パラグラフ、〈したがって、商品形態の神秘性は、単に次のことにある。すなわち、商品形態は、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということにある〉とほぼ同じ内容になっています。つまり〈商品の物神的性格とその秘密〉(第4節の表題)が結論的に説明されています。そしてそのあとそれらは宗教としても反映されていることに問題が移っているわけです。フランス語版では、このパラグラフの最初に〈宗教界は現実世界の反映にほかならない〉という一文が来たあとほぼ同じ内容の(やや文章が違いますが)展開があります。だからこのパラグラフからは、明らかに商品の物神的性格の宗教的反映が問題になっているといえるでしょう。

 

 ここでは、キリスト教が商品生産者たちの社会にとってもっとも相応しい宗教形態であることが指摘されています。そしてその理由として、商品生産者たちの社会では、生産者たちの社会的関係を生産物を商品として、あるいは価値として取り扱うことによって、物の関係によって、彼らの私的諸労働を同等性な人間労働として関係させる社会だからというものです。それが抽象的人間を礼拝するキリスト教、特にプロテスタントや理神論として反映しているのだとしています。

 

 学習会ではキリスト教が抽象的人間を礼拝する宗教だというのがよく分からないという意見が出ました。これについては、埼玉の所沢で行われている「『資本論』を読む会」のブログで紹介されている浜林正夫氏の著書からの引用が紹介されました。それをそのサイトから重引して紹介しておきましょう。

 

 《キリスト教には、カトリックとプロテスタントがあります。カトリックのほうは飾りたてた物を拝むという傾向があります。カトリックの教会には十字架やキリスト像など飾り物がいっぱいあります。それにたいしてプロテスタントの教会には飾り物はありません。そこで、人びとは十字架を拝むのではなく、自分の心の中に神を思いうかべて拝むという内面的、抽象的な形をとります。理神論というのは、さらにそれが徹底され、特定の神を思いうかべない。つまり、具体的にキリストやエホバなどの特定の神ではなく、心の中に思いうかべる神といった抽象性をもつようになります。そういうかたちが、ブルジョア社会、商品生産の社会にいちばんふさわしいのはなぜか。そこでは、身分の違いをこえて人間がすべて平等に考えられているようなそういう社会だということです。》(「『資本論』を読む(上)」137‐138頁)

 

 またこれと関連して、宗教というのは、そもそもどういうものか、それは将来の社会では無くなるというのは本当か、という議論にもなりました。そこで、少しこの問題について、エンゲルスの見解を紹介しておきましょう。エンゲルスは『フォイエルバッハ論』のなかで次のように述べています。

 

 〈宗教は、非常に原始的な時代に、人間が自分自身の本性と自分をとりまく外的自然とについていだいていた誤った非常に原始的な諸観念から発生したものである。ところが、どのイデオロギーもひとたび存在するようになると、与えられた観念材料と結びついて、この観念材料をいっそう発展させるものである。そうでないなら、それはイデオロギーではないであろう。つまり、独立に発展し、ただ自分自身の法則だけにしたがう自立的な存在としての思想との取り組みではないであろう。こうした思想過程がその頭のなかで生じている人間には、自分の物質的生活の諸条件がけっきょくはこの過程の経過を規定するのだということは、必然的に意識されないままである。というのは、もし意識されるなら、およそイデオロギー全体がおしまいになってしまうであろうから。そういうわけで、たいてい近縁のどの民族群にも共通であるこの根源的な宗教的諸観念は、民族群が分離したのちには、各民族において、その民族に与えられた生活条件にしたがって、独特の発展をとげる。そして、この発展の過程は、一連の民族群、とくにアーリア民族群(いわゆるインド・ヨーロッパ民族群)にかんしては、比較神話学のおかげでくわしく示されている。各民族においてこのようにつくりあげられた神々が民族神であって、その領域は、この神々の手で守護されるはずになっている民族の領土を越えることはなく、その境界のかなたでは、別の神々が文句も言われずに大きなことを言っていたのである。この神々は、ただその民族が存続しているあいだだけ、その観念のなかに生きながらえることができた。その民族の没落とともに神々は亡びた。〉(全集第21巻308-9頁)

 

 またキリスト教については、次のように述べています。

 

 〈中世においてはキリスト教は、封建制が発達するのとちょうど同じ歩調で封建制に照応した宗教となり、この制度に照応した封建的位階制度をもっていた。そしてブルジョアジーが台頭してきたとき、封建的なカトリック教に対抗してプロテスタント的異端が発展してきた。それはまず、南フランスの諸都市が最も繁栄していた時代に、そこのアルビ派のあいだで発展した。中世は、神学以外のイデオロギーのすべての形態――哲学、政治学、法学――を神学に併合して、これを神学の部門としていた。そのために、中世では、どの社会的運動も政治的運動も神学的形態をとるほかはなかった。大衆の気持はもっぱら宗教でやしなわれていたから、大きなあらしをまきおこすためには、大衆自身の利益も宗教的に扮装してもちださなければならなかったのである。そしてブルジョアジーが最初からその付属物として、公認された身分に属していない無産の都市平民、日雇人、あらゆる種類の召使いなど、のちのプロレタリアートの先駆をなす人々を生みだしていたように、プロテスタント的異端もまた、すでにはやくから、ブルジョア的に穏健なものと、ブルジョア的異端者たちからもきらわれていた平民的に革命的なものとに分かれていた。
 プロテスタント的異端が根絶できないのは、台頭するブルジョアジーを打ちまかすことができないのに照応していた。このブルジョアジーが十分に強くなったとき、これまでは主として地方的なものであった封建貴族との闘争は、全国的な規模をとりはじめた。その最初の大行動はドイツで起こった。いわゆる宗教改革がそれである。……(中略)……キリスト教は、以後どれにせよ進歩的な階級のためにその要求のイデオロギー的扮装として役だつということができなくなった。それは、ますます支配階級の独占物となり、支配階級はそれを下層階級を制御するただの統治手段としてもちいている。この場合さまざまな階級のうちのどれも、自分自身に照応した宗教を利用している。すなわち、地主貴族はカトリックのイェズイット派やプロテスタントの正統派を、自由主義的および急進的ブルジョアは理性宗教を、利用している。〉(同309-310頁)

 

 (ロ) 古代アジア的、古代的などの生産様式においては、生産物の商品への転化、したがって商品生産者としての人間の存在は、一つの副次的役割を演じています。といっても、共同体が崩壊段階にはいっていけばいくほど、そうした関係は重要な役割を果たすようになるのですが。

 

 ここでは、商品生産を基礎とする社会、すなわち資本主義以前の生産様式が問題になり、やはりそこでの社会的関係の宗教的な反映はどうかが論じられています。そしてそのために、まずここではそれらの生産様式では、商品生産の諸関係がまだ副次的な役割しか果たしていないことが指摘されています。

 

 またここでは〈古アジア的、古代的等々の生産様式〉という文言が出てきます。これはマルクスが『経済学批判』序言で次のように述べていたことに対応していると思います。

 

 〈大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式を経済的社会構成のあいつぐ諸時期としてあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。〉(全集13巻7頁)

 

 この〈アジア的〉あるいは〈古アジア的〉というのは、「アジア的生産様式」を指すことが指摘されましたが、しかしアジア的生産様式をどういう社会構成体として捉えるかについては、さまざまな論争があり、学習会の議論もその点ではあまり深まりませんでした。かつてはアジア的生産様式を原始共同体と同じものとして捉える主張が優勢でしたが、最近では、原始共同体が崩壊する過程で最初に見られる生産様式であり、マルクスが『資本主義的生産に先行する諸形態』で指摘している「総体的奴隷制」と同じ、最初の階級社会であるとする主張が一般的になっているようです(といっても、それは「奴隷制」とは違った概念であることに注意が必要です)。

 

 また〈古代的〉というのは、同じく『先行する諸形態』で、マルクスが「ギリシャ・ローマ的」と述べいているものと同じであり、奴隷制的な生産様式を指しているという意見が出されました。

 

 こうした社会では、商品生産は未発達で、従属的な役割しか果たしていないということです。マルクスは『経済学批判要綱』の序説では、次のように述べています。

 

 〈貨幣や貨幣の生まれるための条件である交換は、個々の共同体の内部ではまったく現われないか、またはわずかしか現われないで、むしろ共同体の境界で他の共同体との交渉で現われる。じっさい、交換を共同体そのもののなかに本源的な構成要素としてもちこむことは、およそまちがいなのである。むしろ、交換は、当初は、一つの同じ共同体のなかの諸成員のあいだでよりも別々の共同体の相互関係のなかでのほうがより早く現われるのである。さらに、貨幣は、非常に早くから全面的に一つの役割を演じてはいるが、しかし古代に支配的要素としてそれが現われているのは、ただ、一面的に規定された諸国民、すなわち商業国民の場合だけである。そして、最高度に完成された古代にあってさえも、すなわちギリシア人やローマ人のもとでさえも、近代ブルジョア社会で前提されているような貨幣の十分な発展は、ただその崩壊の時代に現われるだけである。つまり、このようなまったく簡単な範疇でも、それが歴史的にその内包性をもって現われることは、社会の最も発展した状態のもとでよりほかにはないのである。それは、けっしてすべての経済関係にゆきわたっていたのではない。たとえぽローマ帝国では、その最高の発展期にも、相変わらず現物租税や現物給付が基礎になっていた。ローマ帝国で貨幣制度が完全に発展していたのは、もともとただ軍隊だけでのことだった。それが労働の全体に及んだことも、けっしてなかったのである。〉(全集13巻630頁)

 

(ハ) 本来の商業民族は、エピクロスのいう神々のように、あるいはポーランド社会の気孔の中のユダヤ人のように、古代世界の空所にのみ存在していました。

 

 ここでは古代ギリシャの哲学者であるエピクロスが出てきます。JJ富村さんは昔読んだことがあるということで、その主張は、原子論を唱え、ほとんど無神論に近い主張なので、神を空所に追いやったのではないか、との説明でした。マルクスは「ライプティッヒ宗教会議.III 聖マックス」という論文で、エピクロスについて次のように述べています。

 

 〈エピクロスは古代のほんとうのラディカルな啓蒙家であった。彼は古代の宗教を大っぴらに攻撃したのであって、ローマ人にみられる無神論も--これがローマ人のもとに存在したかぎりは、--彼に由来したのである。ルクレティウスが彼を、まっさぎに神々を倒し宗教を踏んづけた英雄としてたたえたのもこのゆえであり、エピクロスがプルタルコスからルターまでのすべての教父たちから、本格的な涜神哲学者、豚野郎の異名をとったのもこのためであり、アレクサンドレイアのクレメソスが、哲学を目の仇にするパウロの念頭にはただエピクロス哲学があるばかりなのだと言うのもそのためである(『雑纂』第1巻〔第11章〕295頁、ケルン版(1688年)。これによってみれば、世間の宗教を歯に衣きせずに攻撃したこのむき出しの無神論者が世の中にたいしてどんなに「狡くて、インチキで」そして「賢い」態度をとったかということ、これにたいしてストア派のほうは古い宗教をわが身に合わせて思弁的にうまくアレンジし、懐疑派のほうは彼らの「そう見える」を口実にして自分たちの判断にいつでも心の中での留保をともなわせうるようにしたことがわかる。〉(全集第3巻127頁)

 

 またマルクスは先に紹介した『要綱』序説では、古代の商業民族について、次のように述べています。

 

 〈古代世界で商業民族--フェニキア人やカルタゴ人--が示した純粋性(抽象的規定性)は、まさに、農業民族が優勢だったということ自体によるものである。商業資本または貨幣資本としての資本は、資本がまだ社会の支配的要素になっていないところでこそこのような抽象性で現われるのである。ロンバルド人やユダヤ人も、農業を営む中世の社会にたいして、これと同じ地位を占めている。〉(同635頁)

 

(ニ) こうした古い社会的生産有機体は、ブルジョア的生産有機体よりもはるかに簡単明瞭ですが、それらは、他の個々人との自然的な種族関係のへその緒からまだ切り離されていない個々人の未成熟にもとづいているか(アジア的生産様式の場合)、そうでなけれは、直接的な支配隷属関係にもとづいているのです(古代的生産様式の場合)。

 

(ホ) それらの生産有機体は、労働の生産力の発展の低さによって、またそれに照応して極めて限られた、物質的な生活過程の内部における人間の諸関係、だからまた人間相互の諸関係と人間と自然との諸関係によって、制約されています。

 

(ヘ) この現実の生活の局限された状態が、古代の自然宗教や民族宗教に観念的に反映しています。

 

 ここでは〈古代の自然宗教や民族宗教〉という言葉が出てきますが、その内容については、すでに紹介したエンゲルスの『フォイエルバッハ論』からの最初の引用文や、すぐ後で紹介する『反デューリング論』の中にその説明があると思います。

 

(ト)、(チ) 現実世界の宗教的な反射は、一般に、実際の日常生活の諸関係が、人間に対して、あるいは人間相互の、また人間と自然との、透明な関係として、よって合理的な諸関係を日常的に表すようになると、初めて消え失せるようになります。社会的生活過程の、すなわち物質的な生活過程の姿は、それが、自由に社会化された人間の産物として彼らの意識的で計画的な管理のもとにおかれたとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てるのです。

 

 宗教の消滅については、まずエンゲルスの『反デューリング論』から紹介しておきましょう。

 

 〈ところで、いっさいの宗教は、人間の日常生活を支配する外的な諸力が、人間の頭のなかに空想的に反映されたものにほかならないのであって、この反映のなかでは、地上の諸力が天上の諸力の形態をとるのである。歴史の初期には、まず最初に自然の諸力かこういう反映の対象となるのであって、それらは、その後の発展につれて、さまざまな民族のあいだでぎわめて多様な、きわめて雑多な人格化をこうむる。……(中略)……さらにすすんだ発展段階では、多くの神々のもっていた自然的および社会的な属性が、ことごとく全能の唯一神に移されるが、この唯一神そのものはこれまた抽象的人間の反射にすぎない。このようにして一神信仰が成立したが、これは、歴史的にはギリシア後期の俗流哲学の最終の産物であって、ユダヤ人の排他的な民族神ヤハウェ〔エホヴァ〕に、既成のものとして自分の化身を見いだした。こういう便利で手ごろな、なんにでも適応できる姿では、宗教は、人間を支配する外的な自然的および社会的な諸力にたいする人間のふるまいの直接的な、すなわち情緒的な形態として、人間がこのような諸力の支配のもとにあるかぎり、つづくことができるのである。だが、すでに幾度も見たように、今日のブルジョア社会では、人間は、あたかも外的な力によるかのように、彼ら自身がつくりだした経済的諸関係によって、彼ら自身が生産した生産手段によって、支配されている。だから、宗教的反射作用の現実の基礎はいまなお存続しているのであって、それとともに、宗教的反射そのものも存続している。そして、たとえブルジョア経済学がこのような外的な力の支配の因果関係をいくぶん洞察する道をひらいたにしても、実質上はなにも変わらない。ブルジョア経済学は、恐慌を全般的に阻止することもできなければ、個々の資本家を損失や貸しだおれや破産から守ることも、個々の労働者を失業や貧困から守ることもできない。いまでもやはり、事を計画するのは人間、事の成否を決するのは神(つまり、資本主義的生産様式の外的な力の支配)という状態になっている。たんなる認識だけでは、たとえそれがブルジョア経済学の認識よりもいっそうすすんだ、いっそう深いものであっても、社会的な諸力を社会の支配に服させるには足りない。そのためには、なによりもまず一つの社会的行為が必要である。そして、この行為がなしとげられたとき、すなわち、社会がいっさいの生産手段を掌握しそれを計画的に運用することによって、社会自身とその全成員とを、現在彼らがこの生産手段――彼ら自身で生産したものでありながら、優越する外的な力として彼らに対立しているところの――のためにおとしいれられている隷属状態から解放するとき、したがって、人間がもはや事を計画するだけではなく事の成否をも決するようになるとき、そのときにはじめて、いまなお宗教に反映されている最後の外的な力が消滅し、それとともに宗教的反映そのものも消滅する。それは、そのときにはもう反映すべきものがないという、簡単な理由によるのである。〉(全集第22巻325-6頁)

 

 またマルクスも『剰余価値学説史』の中で次のように述べています。

 

 〈人間が自分自身の自然や外部の自然や他の人間にたいする自分の関係を宗教的な形態で独立化して、そのためにこれらの観念によって支配されるようになれば、人間は聖職者たち彼らの労働とを必要とする。しかし、意識の宗教的形態や意識の諸関係の消滅とともに、聖職者のこの労働も社会的生産過程にはいることはなくなる。聖職者とともに聖職者の労働もなくなり、同様に、資本家とともに、彼が資本家として行なうかまたは他の者に行なわせる労働もなくなる。〉(全集第26巻III639-40頁)

 

(リ) けれども、そのためには、社会の物質的基礎が、あるいは、それ自身がまた長い苦難に満ちた発展史の自然発生的な産物である一連の物質的存在条件が、必要とされるのです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

【付属資料】

 

●第16パラグラフに関連するもの

 

《初版本文》

 

 〈つまり、商品の神秘性は次のことから生じている。すなわち、私的生産者たちにとっては、自分たちの私的労働の社会的な諸規定が、労働生産物の社会的な自然規定性として現われているということ、人々の社会的な生産諸関係が、諸物の対相互的および対人的な社会的諸関係として現われているということ。社会的総労働にたいする私的労働者たちの諸関係は、彼らに対立して対象化され、したがって、彼らにとっては、諸対象という形態で存在している。商品生産者たちの一般的な社会的生産関係は、自分たちの生産物を商品として、したがって価値として取り扱い、この物的な形態において、自分たちの私的労働を同等な人間労働として互いに関係させる、という点にあるのであるが、このような商品生産者たちの社会にとっては、抽象的な人間にたいする礼拝を伴うキリスト教が、ことにそれのブルジョア的な発展であるプロテスタントや理神論等々におけるキリスト教が、最もふさわしい宗教形態である。古代アジア的、古代的等々の諸生産様式にあっては、生産物の商品への転化、したがって、商品生産者としての人間の存在は、従属的な役割を演じている。といっても、この役割は、共同体が没落の段階にはいるにつれて、ますます重要になってくる。本来の商業民族は、エピクロス〔ギリシアの哲学者〕の神々のように、または、ポーランド社会の気孔のなかのユダヤ人のように、古代世界の透き間にしか生存していない。上記の古い社会的な諸生産有機体は、ブルジョア的な生産有機体よりも異常なほどにずっと単純で透明であるが、それらは、他の人間との自然的な種属関係の臍の緒からまだたちきられていない個々人の未熟にもとづいているか、または、直接的な支配および隷属関係にもとついている。それらは、労働の生産力の低い発展段階によって制約されており、また、この発展段階に対応して偏狭であるところの、人間たちの物質的な生活創造過程内部における彼らの諸関係--したがって、彼ら同士の諸関係と彼らの自然にたいする諸関係--によって、制約されている。このように現実に偏狭であることは、観念的には、古代の自然宗教や民族宗教のなかに反映している。現実の世界の宗教的な反映は、実践的な日常生活の諸関係が、人間にたいして、人間の相互間および対自然の・日常的に透明であり合理的である諸関係を、表わすやいなや、初めて消滅しうるのである。こういった諸関係は、それのあるがままのものとしてのみ、現われることができる。社会的な生活過程の姿、すなわち物質的な生産過程の姿は、それが、自由に社会化された人間の産物として、人間の意識的に計画された制御のもとにおかれるやいなや、初めてその神秘な霧のヴェールを脱ぎ捨てる。しかし、そのためには、社会の物質的な基礎または一連の物質的な存在条件が必要なのであって、これらの条件そのものもまた、長くて苦悩にみちた発展の歴史の、自然発生的な産物なのである。〉(江夏訳63-5頁)

 

《フランス語版》

 

 〈宗教界は現実世界の反映にほかならない。労働生産物が一般に商品形態をとる社会、したがって、生産者たちのあいだの最も一般的な関係が彼らの生産物価値を比較することから成り立ち、また、この関係が諸物のこういった外被のもとで彼らの私的労働を同等な人間労働として相互に比較することから成り立っている社会、このような社会は、抽象的な人間を礼拝するキリスト教、とりわけプロテスタントや理神論等というキリスト教のブルジョア的な典型のうちに、最もふさわしい宗教的補足物を見出している。古代アジアの生産様式、一般には古代の生産様式では、生産物の商品への転化は副次的な役割しか演じない。とはいえ、共同体がその解体に近づくにつれ、この役割はいっそう重要なものになるのであるが。厳密な意味での商業国民は、エピクロスの神々流に、あるいはポーランド社会の隙間に生きるユダヤ人のように、古代世界の幕間にしか生存していない。これらの古い社会的有機体は、生産関係についてはブルジョア社会よりもはるかに簡単明瞭だが、個々人の未成熟--彼を原始部族の自然共同体に結びつけているいわばへその緒を、歴史はまだ断ち切らないでいる--か、または専制主義と奴隷制の諸条件を土台とするものである。これらの有機体を特徴づけ、したがって物質生活の全域に浸透しているところの労働生産力の低い発展度、人間相互の関係または人間と自然との関係の狭さは、古い民族宗教のなかに観念的に反映している。一般的に言って、現実世界の宗教的反映は、労働と実際生活との諸条件が人間にたいして、対同類および対自然の透明で合理的な関係を、目に見えるようにするときにはじめて、消滅しうるであろう。物質的生産とそれに含まれている諸関係とにもとづく社会生活は、自由に協力し意識的に行動し自分自身の社会的運動の主人公となった人間の仕事が、そこに現われる日にはじめて、その姿を蔽い隠す神秘的な雲から解放されるであろう。だが、このためには、社会内に一そろいの物質的存在条件が必要であるが、この存在条件自体が、長くて苦悩にみちた発展の産物でしかありえないのである。〉(江夏他訳55頁)

 

 

 
 

 

 

 

 


第42回「『資本論』を読む会」の案内

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

                                    

                                      

 あけまして、おめでとうございます。

 

 早いもので、「『資本論』を読む会」を初めてから、今年で5年目に入ります。ところが、まだ第1章が終わっていないありさまです。何ともゆっくりしたペースですが、これが私たちのやり方なのです。

 

 これからでも、一度、『資本論』を読んでみようか、などと考えておられる方も、だから、十分間に合いますので、是非、ご参加頂きますようお願いします。

 

 さて、野田首相は、年頭所感で「社会保障と税の一体改革」は「待ったなし」だと、消費税導入を示唆しました。そして昨年末には民主党は2015年10月までに段階的に10%まで引き上げることを確認したのでした。

 

 野田・民主党は、マニフェストで掲げた公約をことごとく御破算にしながら、公約にもない消費税の引き上げを「不退転の決意」でやるというのですから、これは有権者を裏切り、愚弄するものと言わなければなりません。

 

 確かに国の借金は886兆円、地方も併せると1000兆円とも言われ、GDPの倍近い額になっています。これは事実上の国家破綻といっても過言ではない状況です。しかし、こうした現実に誰が責任を負うべきでしょうか。消費税でまかなうということは、一般国民、特に収入が少なく、そのほとんどを生活費に支出しなければならない低所得者に重い負担を強いるということです。

 

 国家の負債増大の本当の責任は大資本にあるのです。

 

 日本の国債発行が目立って増えだしたのは、90年のバブル崩壊以後です。92年8月の宮沢内閣から始まって、先の菅内閣まで、経済対策(景気刺激策)は合計17回に及び、その総額は約300兆円にもなっています。これは金融機関を直接救済した費用を除いたもので、不況にあえぐ資本を救済するために、公共事業等に費やしたものです。それらのほとんどが国債によってまかなわれてきたのです。

 

 

 「社会保障と税の一体改革」というのは、あたかも国家負債の原因が社会保障の増大にあるかに思わせ、その本当の原因を隠す意図があると言わねばなりません。

 

 社会保障費も確かに2010年末で約100兆円と、その増加も急激ですが、年金や医療の増加は、資本の都合で定年制の名のもとで、高齢者の首を切り、ただ年金に依存するしかない状態に追いやる今の制度にこそ問題があり、医療費の増加も医療が金儲けの手段になっている現実に問題があるのです。医者などの高額の診療報酬はいうまでもなく、製藥会社や医療器具会社の儲けの手段に現代の医療はなっています。

 

 ところが、こうした負担を消費税によってまかなおうというのが野田首相の狙いです。資本救済費用やその儲けのための負担を、労働者・国民に背負わせる政策には断固反対して行かねばなりません。

 

 マルクスは「個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示」のなかで、「直接税と間接税」の特徴を述べ、税制を変えても資本と賃労働との関係には何の変化もないが、あえてどちらを選ぶかを問題にするなら、直接税だとその理由を次のように述べています。

 

 〈間接税では、個人が国家に支払う額がどれだけかということは、その個人に隠されているのに、直接税はあからさまで、ごまかしがなく、どんな頭のわるい人間にも誤解のおこりようがないこと。だから、直接税は各人を刺激して、統治者を監督しようという気持にさせるが、間接税は自治への志向をいっさいおしつぶす。〉(全集16巻197頁)

 

 野田民主党政権の国民への裏切りを告発し、消費税導入に断固反対して行きましょう。貴方も『資本論』を学び、共に、資本主義の仕組みを科学的に考えてみませんか。

 



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