目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第9回「『資本論』を読む会」の案内
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第10回「『資本論』を読む会」の案内
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第14回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第37回「『資本論』を読む会」の案内

『 資  本  論  』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

                                                                         

 

 

 福島原発事故による放射能汚染の深刻な実態が明らかになりました。

 

 放射性セシウムが稲藁を汚染し、その汚染された稲藁を食べた汚染牛が、全国に出荷され、すでに一部は消費者の胃袋に入ってしまったのです。稲藁の放射性セシウムの最高値は、1キロ・グラムあたり17万7000ベクレルに上り、これは水分を含んだ状態に換算すると牧草の政府の規制値(300ベクレル)の約130倍に相当します。

 

 今年収穫される新米の汚染も懸念され、昨年の古米が早々と買い占められているといいます。「実りの秋」は一転して「不安の秋」になりそうな気配です。

 

 福島第一発電所では、1、2号機の原子炉建屋の西側にある排気塔下部の配管付近で事故後最高値の毎時10シーベルト(1万ミリシーベルト)以上の高い放射線量が計測されました。毎時10シーベルトというのは1度の被爆で必ず死に至るという恐るべき値です。原発事故の恐ろしさが改めて思い知らされます。

 

 福島原発1、2号機原子炉建屋西側の排気塔下部で高い放射線量を計測したガンマカメラの画像=東京電力提供

 

 こうしたなかで、「反原発」の声がますます高まっています。

 

 私たちの仲間の間でも論争が生じ、ある人は、放射線被曝は特別な問題であり、原子力発電はそもそも人類と共存できないのだ、と主張します。かと思うと、他の人は、そうした主張は原発問題を“善悪”で裁断する形而上学であり、観念論だと批判します。一体どちらが正しいのか、原発問題を如何に考えたらよいのでしょうか。

 

 実は、私たちが「『資本論』を読む会」で現在学習している、第1章第4節「商品の物神的性格とその秘密」は、この問題を考えるための理論的基礎を与えてくれているのです。

 

 私たちが生活している資本主義社会では、生活に必要なほとんどの物が商品として生産されています。人類はその生活に必要なものをすべて自然に働きかけて、自然から得てきました。その原理は今日でも変わりませんが、しかし、関係は単純ではありません。私たちが自然に働きかけるのは、直接にではなく、労働者として資本に雇われなければならず、そこで得た賃金で必要なものを商品として購入しなければなりません。このような社会では、私たちの生活を維持する社会的な物質代謝は、商品や資本という物象的な関係を通じて、維持されるようになっており、その結果、人々は物によって支配されるという転倒した社会になってしまっているのだ、とマルクスは説明しています。そしてそのために、すべての生産力や科学や技術も資本の諸力として現れるのだ、と次のように述べています。

 

 「このような過程では労働者の労働の社会的性格がいわば資本化されて労働者たちに相対するのであるが--たとえば機械の場合に、目に見える労働諸生産物が労働の支配者として現われるように--、こうした過程において、自然力や、その抽象的精髄において一般的な社会的発展の産物である科学についても、同じことが生ずるのは当然である、--それらは資本の諸力として労働者に相対する。それらは事実上個々の労働者の技能や知識からは分離し--そしてその根源を考えて見ればやはり労働の生産物であるにもかかわらず--、それらが労働過程にはいりこむところでは、どこでも、資本に合体されたものとして現われる。資本家は、ある機械を充用しても、その機械を利用しても、その機械を理解する必要はない。(ユーアを見よ。)だが機械においては、実現された科学が労働者にたいして資本として現われるのである。そして実際にも、科学や自然力や大量の労働生産物のこのような社会的労働に基づく充用は、すべてそれ自身ただ労働の搾取手段としてのみ、剰余労働を取得する手段としてのみ、それゆえ、労働に対立し資本に所属する諸力としてのみ現われるのである。もちろん、資本は、ただ労働を搾取するためにのみこれらすべての手段を充用するのであるが、労働を搾取するためには、資本はそれらの手段を生産に充用しなければならない。このようにして労働の社会的生産力の発展もこの発展の諸条件も、資本の行為として現われるのであって、これにたいして個々の労働者は受動的な態度をとるだけでなく、むしろ労働者に対立してこれが進行するのである。」(『剰余価値学説史』26巻 I 498頁)

 

 そして原子力発電も、この限りではまったく同じなのです。それは電力資本として労働者に敵対し、ただ労働者を搾取して、利潤を得るために存在しているのです。だからこそ、それはどんなに危険なものであっても、資本は儲けを優先して、その「安全」措置を怠るのです。そしてその結果、今回のような事故を引き起こしてしまうのです。

 

 だから根本問題は、こうしたすべての生産力が資本の諸力として現れる社会にこそあるのです。それこそが変革されないと、いつまでも労働者は資本に従属し、支配され続けなければならず、恐ろしい原発事故の克服や一掃も不可能なのです。

 

 だから原発問題を考えるためにも、やはり『資本論』をしっかり勉強する必要があります。是非、貴方も一緒に『資本論』を読んでみませんか。

 


第37回「『資本論』を読む会」の報告

第37回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎今回の報告は若干形式を変えて行います

 

 第37回は亀仙人は都合により欠席したために、報告はJJ富村さんにお願いしました。メールで送られてきたものをそのまま、以下、紹介することにします。だから、今回は、いささか報告の形式は異なりますが、ご了承ください。 

 

◎第9パラグラフを議論

 

 今回は参加者が少なく、それでトントンと進むと思いきや、あーでもない、こーでもないと考え込むことが多く、一段落しか終えることができませんでした。見解の分かれたままのところもありますが、一応の理解には達したと思っています。

 

<段落 9 > 本文 (岩波文庫 p135、向坂訳)

 

  〈 (イ)生産物交換者がまず初めに実際上関心をよせるもの、自分の生産物にたいしてどれだけ他人の生産物を得るか、したがって、生産物はいかなる割合で交換されるかという問題である。 (ロ)このような割合は、ある程度慣習的な固定牲をもつまでに成熟すると同時に、労働生産物の性質から生ずるかのように見える。 (ハ)したがって、例えば1トンの鉄と2オンスの金とは、1ポンドの金と1ポンドの鉄が、その物理的化学的属性を異にするにもかかわらず同じ重さであるように、同じ価値であることになる。 (ニ)事実、労働生産物の価値性格は、価値の大いさとしてのその働きによってはじめて固定する。 (ホ)この価値の大いさは、つねに交換者の意志、予見、行為から独立して変化する。 (ヘ)彼ら自身の社会的運動は、彼らにとっては、物の運動の形態をとり、交換者はこの運動を規制するのではなくして、その運動に規制される。 (ト)相互に独立に営まれるが、社会的分業の自然発生的な構成分子として、あらゆる面において相互に依存している私的諸労働が、継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的で、つねに動揺せる交換諸関係において、その生産に社会的に必要なる労働時間が、規則的な自然法則として強力的に貫かれること、あたかも家が人の頭上に倒れかかるばあいにおける重力の法則のようなものであるからである(注28)が、このことを、経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには、その前に完全に発達した商品生産が必要とされるのである。 (チ)労働時間によって価値の大いさが規定されるということは、したがって、相対的商品価値の現象的運動の下にかくされた秘密なのである。 (リ)その発見は、労働生産物の価値の大いさが、単なる偶然的な規定という外観をのぞくが、しかし、少しもその事物的な形態をなくするものではない。 

 (ヌ)注28 「周期的な革命によってのみ貫徹されうる法則をなんと考えるべきであろうか? それはまさしく一つの自然法則であって、関与者たちの無意識にもとづいているものなのである。」(フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、『独仏年誌』アーノルト・ルーゲおよびカール・マルクス編、パリ、1844年、所載〔ディーツ版『全集』第1巻、515べージ。新潮社版『選集』第1巻、161ページ〕)。

 

 文節番号(イ)~(ヌ)は引用者

 

 (イ) 報告者のレジュメでは、「生産物交換者が・・・・関心をよせる」交換比率とは、交換価値と価値のいずれか、としていましたが、これは交換価値であるということになりました。「如何なる割合で交換されるか」とは交換比率であり、生産物が価値として現れるのはも少し後だからです。

 

 (ロ) 「このような割合」つまり交換価値は「ある程度習慣的な固定性を持つまでに成熟」というのは、交換が量的にも空間的にも広がると交換比率が一定化するということであり、それは当然でしょう。  ところで「慣習的な固定性を持つ」のは何かということで、これは交換比率即ち交換価値のことです。だから、交換価値が「慣習的な固定性を持つ」ということになります。

 

 次に「労働生産物の性質から生ずるかのように見える」の主語は何か。これはまたこの文の先頭にある「このような割合」、即ち、交換価値であり、だから交換価値は「労働生産物の性質から生ずるかのように見える」となります。  そこでこの「労働生産物の性質」とは何なのか、が問題になりましたが、なかなか分かりにくい議論になりました。しかし、次の文(ハ)を手がかりに、これは価値ではないかということに。価値については第1節でその実体は抽象的人間労働であると論じられています。しかし、抽象的人間労働が必ず労働生産物をして価値ならしめるかというとそうではないだろう。この節の少し後のほうでロビンソンクルーソーの話が出てきますが、そこで論じられています。労働生産物の交換価値が一定の比率に固定化する、すなわち1つの商品に交換価値があるのは、その労働生産物それ自体に価値があるからだというわけです。

 

 (ハ) この文は直前の文(ロ)の説明です。労働生産物それ自体の属性として価値というものが現れるということです。

 

 (ニ) ここでは、「労働生産物の価値性格」と「価値の大いさとしてのその働き」の意味が議論になりました。  「労働生産物の価値性格」は労働生産物が価値という属性を持つことであろう。価値をもったものとして現れるということでしょう。

 

 次に、「価値の大いさとしてのその働き」とは、どの働きか。それは、次の(ホ)、(ヘ)だろうと思われます。  そして価値の性格が全面的に現れる。

 

 (ホ)、(ヘ) 価値の大きさは、交換者の意志、予見、行為から独立して変化する。つまり客観的なものであること。分業や大量生産によって価値が下がること、などの意味でしょうか。

 

 報告者は「交換者の社会的運動」とは、生産や分配のこととしたのですが、生産活動のように思えます。生産の計画を立て、材料や労働力を準備し、その生産物を他の生産の材料として供給する、あるいは消費財として供給する、ことだと思われます。そしてそれは生産者どうしで直接的に行なわれるのではなく、物の運動すなわち商品の運動の形態をとるという訳です。  そのため商品の運動が交換者を規制する。貨幣形態にある資本を生産資本に転化できないとか、生産物を貨幣に転化できないとか、そういうことだろう。

 

 さて、後半に入ります。

 

 (ト) 一つの文節としては非常に長く読みづらい文です。「相互に独立に・・・・からである(注28)が」は、 その後にでてくる「科学的洞察が成長してきて看破する」内容です。この科学的認識に到達するには、十分に発展した商品生産が必要と言うのです。  さて、その科学的認識の内容で問題になったのは、「・・・・私的諸労働が・・・・一定の・・・・量に整約される」の意味です。その後に「社会的に必要なる労働時間」とあるので、必要労働時間、したがって生産物の価値が決まってくることを意味するのかどうか、ということです。報告者は最初この点曖昧でした。しかし、そのすぐ後に「規則的な自然法則として強力的に貫かれる」と言っていることから、生産への制約・恐慌、すなわち価値法則が貫かれることを言っているではないか、と意見がでました。JJ富村さんは、注28は恐慌のことを言っているのだから、この科学的認識とは価値法則のことではないかと主張しました。

 

 (チ) 「相対的商品価値の現象的運動」の意味がつかみにくい。「相対的商品価値」とは商品の相対的価値形態のことだろうか。「現象的な運動」とは何なのか。と議論になりました。しかし、要するに商品の運動ということだろうと言うことです。

 

 (リ) 「価値量の偶然的な規定」というのは、内在的規定性がない、多数の売買の中で決まってくるものということでしょう。価値の実体が抽象的人間労働であるということがわかっても、「その事物的な形態」、すなわち商品は商品である、と理解しました。

 

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 (電子書籍化するにあたり、ブログに公開した上記の報告とは別に亀仙人が事前に第37回「「『資本論』を読む会」のために用意した解説も、以下、付け加えておきます)

 

 

 【9】〈 (イ)生産物の交換者たちがさしあたり実際に関心をもつのは、自分の生産物と引き換えにどれだけの他人の生産物が手に入るか、すなわち、どのような割合で生産物が交換されるかという問題である。 (ロ)この割合が一定の慣習的な固定性にまで成熟すると、この割合はあたかも労働生産物の性質から生じるかのように見える。 (ハ)たとえば、一トンの鉄と二オンスの金とが等しい価値のものであるのは、ちょうど、一ポンドの金と一ポンドの鉄とが、それらの物理的化学的諸属性の相違にもかかわらず、等しい重さのものであるのと同じように見えるのである。 (ニ)労働生産物の価値性格は、事実上、価値の大きさとしての諸生産物の発現によってはじめて固まる。 (ホ)価値の大きさは、交換者たちの意志、予見、および行為にはかかわりなく、たえず変動する。 (ヘ)交換者たち自身の社会的運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとり、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御される。 (ト)たがいに独立〔unabhaengig〕に営まれながら、しかも社会的分業の自然発生的な諸分肢としてたがいに全面的に依存している〔abhaengig〕私的諸労働が社会的に均斉のとれた基準にたえず還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的でつねに動揺している交換比率を通して、それらの生産のために社会的に必要な労働時間が--たとえば、だれかの頭の上に家が崩れおちる時の重力の法則のように--規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹するからである(28)、という科学的洞察が経験そのものから生じるためには、その前に、完全に発展した商品生産が必要である。 (チ)だから、労働時間による価値の大きさの規定は、相対的な諸商品価値の現象的運動のもとに隠されている秘密である。 (リ)この秘密の発見は、労働生産物の価値の大きさが単に偶然的に規定されるだけであるという外観を取りのぞくが、この規定の物的形態を取りのぞきはしない。〉

 

 (イ) 生産物を交換する人が、最初に関心を持つのは、自分の生産物と引き換えにどれだけ他人の生産物が手に入るか、つまり、どんな割合で生産物が交換されるかという問題です。

 

 このパラグラフは、明らかにその前のパラグラフ(第8パラグラフ)が、労働生産物の価値性格が、生産者の意識に対して直接にはどういう関係にあるのかを、いわば質的に考察したのに対して、同じ問題をいわば量的に考察しているものと思われます。また前のパラグラフの後半部分で、商品生産の諸関係にとらわれている人々にとっては、〈たがいに独立した私的諸労働に特有な社会的性格は、それらの労働の人間労働としての同等性にあり、かつ、この社会的性格が労働生産物の価値性格という形態をとるのだということが〉〈究極的なものとして現れる〉という指摘を受けて、〈商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまること〉を物理的物体形態と同じように、当たり前の現実として受け入れ、それを当然のものとしている人たちが、交換者として直接にはどのような問題意識を持つか、彼らは量的な問題意識から、商品の価値性格の理解に到達することが論じられているように思います。

 

 (ロ)、(ハ) 生産物の交換割合が慣習によって一定の固定性をもつようになると、この割合はあたかも労働生産物の性質から生じるように見えます。例えは一トンの鉄と二オンスの金が等しい価値をもつものであるのが、丁度、一ポンドの金と一ポンドの鉄とが、同じ重さを持つのと同じように、見えるのです。

 

 これもやはり商品生産とそこから生じる現象をそのまま受け入れている意識には、直接見えてくるものをそのまま述べているように思えます。

 

 (ハ) たとえば、一トンの鉄と二オンスの金とが等しい価値のものであるのは、ちょうど、一ポンドの金と一ポンドの鉄とが、それらの物理的化学的諸属性の相違にもかかわらず、等しい重さのものであるのと同じように見えるのです。

 

 この部分はフランス語版では、違った説明になっています。

 

 〈この比率がある慣習的な固定性を獲得するやいなや、それが交換者にとっては労働生産物の性質自体から生ずるかのように見える。化学物質が固定的な比率で化合しているのと同じように、これら諸物のうちには、一定の比率で交換されるという属性が宿っているかのように見える。〉(50-51頁)

 

 またこの部分は、モストの『資本論入門』の次の一文も参考になります。

 

 〈生産がもっぱら自家需要に向けられているかぎり、交換はごくまれに、それも交換者たちがちょうど剰余分をもっているようなあれこれの対象について、生じるにすぎない。例えは毛皮が塩と、しかもまず最初はまったく偶然的なもろもろの比率で交換される。この取引がたびたび繰り返されるだけでも、交換比率はだんだん細かく決められるようになり、一枚の毛皮はある一定量の塩とだけ交換されるようになる。〉(大谷訳10頁)

 

 つまり生産物の交換割合がまず交換者に意識される現実が指摘されています。交換割合というのは、生産者が交換手段として持ち出す生産物の使用価値量と、それと交換される他の労働生産物の使用価値量との割合のことです。つまり交換者がまず持つ直接的な問題意識は、こうした量的意識であることをマルクスは指摘しているわけです。そしてそうした量的割合が、最初は交換者のそのときのさまざまな欲望などの偶然的な条件によって大きく変化しますが、しかし交換が繰り返されるとその偶然性が徐々になくなり、交換割合も細かく決められるようになり、やがてある使用価値の一定量とは、他の使用価値の一定量とが交換されべきだという形で交換比率に固定性が生じてくるわけです。そうすると、その割合はあたかもその労働生産物そのものに属する性質であるかに見えてくるのだというわけです。毛皮一枚はかならず塩1キログラムと交換できる。それは毛皮そのものがもつ性質である、というわけです。それが価値性格が交換者の意識に直接現象する最初のものだと言えます。

 

 (ニ) 労働生産物の価値性格は、事実上、価値の大きさとしての諸生産物の発現によってはじめて固まります。

 

 この文章は言い回しとしてはやや分かりづらいのですが、それまで述べてきたことの結論をまとめていると考えられます。フランス語版は次のようになっています。

 

 〈労働生産物の価値性格が実際に目立つのは、労働生産物が価値量として規定されるばあいにかぎられる。

 

 (ホ) 価値の大きさは、交換者たちの意志や予見、あるいは彼らの行為に関わりなく、絶えず変動します。

 

 この(ホ)以下は、(ニ)の命題をさらに説明しているように思えます。フランス語版では、(ニ)から段落が変わり、それ以下の一連の文章は、この段落の最初の命題〔(ニ)〕をさらに説明したものであることもよく分かるような展開になっています。

 

 (ヘ) この結果、交換者たち自身の社会的運動は、彼らにとっては諸物の運動という形態をとり、彼らは、この運動を制御するのではなく、この諸物の運動によって制御されることになります。

 

 直接的に見ても、諸物が一定の割合で交換されるのは、それぞれの交換者が互いに彼らの意志にもとづいて交換し合うからにほかなりません。彼らの行為がなければ、そもそも諸物の交換もないわけです。しかも彼らの交換行為がますます頻繁になるからこそ、諸物の交換割合に一定の固定性が生まれるのです。しかしある使用価値の一定量は、他の使用価値の一定量と必ず交換されるという交換比率の固定性は、彼らの意志によるものではありません。毛皮の持ち主が、毛皮1枚と塩2キロとを交換したいという意志があっても、しかし、客観的な交換の過程では、結局は、塩1キロとしか交換できないという現実が生じてくるのです。彼にはそれはどうしてかは分かりません。それは彼らの交換行為から生じてくるものなのに、その一定の固定性を持った交換割合そのものは、彼らの意志から独立したものなのです。だからそれはあたかも毛皮や塩そのものに備わった属性であるかに彼らには思えるのです。結局、毛皮の持ち主は、それと塩1キロとの交換という現実を受け入れざるを得ません。そして彼は、その後は、毛皮の生産を、塩1キロとの交換という現実を前提にして行うことになります。つまり彼は毛皮と塩との交換、という諸物の運動に規制されて、毛皮の生産行為を行わなければならなくなるわけです。つまり彼らの社会的運動は、諸物の運動という形態をとる結果、彼らはこの運動を制御するのではなく、この諸物の運動によって制御されることになるわけです。それはどうしてなのかはもちろん交換者当事者には分かりません。しかし彼らは諸物の交換を規制するある客観的な何かがそこにはあることに気づくようになります。すなわち価値性格を意識するようになるわけです。

 

 (ト) 互いに独立して営まれながら、社会的分業の自然発生的な諸分肢として互いに全面的に依存し合っている私的諸労働が、社会的に均斉のとれた基準に絶えず引き戻され、その均衡が維持されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な、絶えず動揺している交換比率を通じて、それらが社会的に必要な労働時間が、例えば、誰かの頭の上に家が崩れ落ちる時の重力の法則のように、規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹するからだ、という科学的洞察が経験そのものから生じるためには、完全に発展した商品生産が必要です。

 

 ここで述べている「科学的洞察」というのは、マルクスによってなされた考察を意味しているのかという疑問が生じますが、必ずしもそうではなく、古典派経済学においてもそうした一定の理解に到達していただろうといえます。例えばスミスの「神の見えざる手」というのは、まさにそうした理解に彼らが経験的に到達していたことを意味するわけです。商人相互の自由な競争にゆだねておけば、「神の見えざる手」が働いて、自ずから社会的な生産はもっとも合理的なところにおいて均衡するという理解は古典派経済学のものでもあったと言えるでしょう。ただ古典派経済学が、そうした理解の実際の内容を理解していたかは疑問です。だからここで書かれていることは、古典派経済学の到達した理解そのものというより、彼らが「神の見えざる手」という言葉で語った、実際の内容を、マルクス自身が述べていると理解すべきではないでしょうか。

 

 (チ) だから、労働時間による価値の大きさの規定は、相対的な諸商品価値の現象的な運動の背後に隠された秘密です。

 

 だから古典派経済学はこうした秘密を暴露したという点で、彼らは科学的な洞察に貢献できた歴史的名誉を得ることができたということができるでしょう。

 

 (リ) この秘密の発見は、労働生産物の価値の大きさが単に偶然的に規定されるだけであるという外観を取り除きますが、しかし、この規定が物的に表現されなければならない現実を何一つ取り除くことはできません。

 

 ここで「この規定の物的形態」というのが何を指すのかがやや分かりにくいように思えます。「この規定」というのは、「価値の大きさの規定」ということでしょう。とするとある商品の「価値の大きさの規定の物的形態」というのは、結局、それは他の商品の使用価値量によって表現されるわけです。そしてそれが発展すれば、すなわち貨幣によって秤量されることになります。つまり諸商品の価値の大きさは、その商品の生産に必要な社会的な労働によって規定されるという科学的認識に例え達したとしても、商品の価値の大きさが貨幣の一定量によって尺度されなければならないという、商品生産社会の現実そのものは、何一つ変わらないし、取り除くことはできないのだ、ということです。つまり科学的認識は、対象を変革する条件にはなるが、対象の変革するには十分な条件ではない、ということです。そのためには対象を変革する実践が要求されるということかも知れません。

 

 なおこのパラグラフの理解については、次の初版本文が参考なると思います。このパラグラフそのものは、この初版本文を書き換えたものと言えます。

 

 〈ところで、さらに、価値量にかんして言えば、互いに独立して営まれていても、自然発生的な分業の諸肢体であるがゆえに全面的に互いに依存しあっているところの、私的諸労働は、次のことによって、それらの社会的に釣り合いのとれた大きさに、絶えず還元されている。すなわち、これらの労働の生産物の偶然的な、そして絶えず変動する交換割合のうちで、それらの生産物の生産のために社会的に必要な労働時聞が、たとえばある人の頭上に家が崩れ落ちるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹する、ということによって。だから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の目に見える諸運動の背後に隠されている秘密なのである。生産者たち自身の社会的な運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとっているのであって、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御されているのである。〉(江夏訳61-3頁)

 

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【付属資料】

 

《初版本文》

 

 〈ところで、さらに、価値量にかんして言えば、互いに独立して営まれていても、自然発生的な分業の諸肢体であるがゆえに全面的に互いに依存しあっているところの、私的諸労働は、次のことによって、それらの社会的に釣り合いのとれた大きさに、絶えず還元されている。すなわち、これらの労働の生産物の偶然的な、そして絶えず変動する交換割合のうちで、それらの生産物の生産のために社会的に必要な労働時聞が、たとえばある人の頭上に家が崩れ落ちるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹する、ということによって。だから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の目に見える諸運動の背後に隠されている秘密なのである。生産者たち自身の社会的な運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとっているのであって、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御されているのである。ところで、最後に価値形態について言えば、この形態こそはまさに、私的労働者たちの社会的な諸関係を、したがって私的諸労働が社会的に規定されていることを、あらわにするのではなくて、物的に蔽い隠している。私が、上着や長靴等々は、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物としてのリンネルに、関係していると言えば、この表現の奇矯なことは明白である。ところが、上着や長靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的な等価物としてのリンネルに関係させると、彼らにとっては、自分たちの私的諸労働の社会的な関係が、まさにこのような奇矯な形態で現われるのである。〉(江夏訳61-3頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈生産物の交換者たちがさしあたり実際に関心をもつのは、自分の生産物と引き換えにどれだけの他人の生産物が手にはいるか、すなわち、生産物が交換される割合である。この割合が一定の慣習的な固定性にまで成熟すると、この割合はあたかも労働生産物の本性から生じるかのように見える。p.4 (草稿)を見よ。[32a]労働生産物の価値性格は、事実上、価値の大きさとしての諸生産物の発現によってはじめて展開する。価値の大きさは、生産者たちの意志と予見にはかかわりなく絶えず変動する。生産者たちにとっては、彼ら自身の社会的運動が、したがって、諸物の運動という形態をとり、彼らはこの運動を制御するのではなく、制御されるのである。...[3 2 ]等(5,p. 3 8) という科学的洞察が経験そのものから生じるためには、完全に発達した商品生産が必要なのである。

5 (p. 3 9 )、それの最終的な解決は、価値の大きさの単なる偶然的な規定を廃棄するが、しかし、その物的形態を決して廃棄することはない。〉(32頁)

 

《フランス語版》

 

 〈交換者が最初に実際上関心をもつことは、自分の生産物と引き換えにどれだけのものを手に入れるか、すなわち、生産物が互いに交換される比率を、知ることである。この比率がある慣習的な固定性を獲得するやいなや、それが交換者にとっては労働生産物の性質自体から生ずるかのように見える。化学物質が固定的な比率で化合しているのと同じように、これら諸物のうちには、一定の比率で交換されるという属性が宿っているかのように見える。  労働生産物の価値性格が実際に目立つのは、労働生産物が価値量として規定されるばあいにかぎられる。価値量は、生産者たちの意志や予測にかかわりなく不断に変化し、したがって、彼ら自身の社会的運動が彼らの眼には物の運動という形をとる。彼らはこの運動を導きうるどころではなく、運動が彼らをひきずるのである。次のような科学的真理が経験そのものから引き出されるまでには、商品生産が完全に発展していることが必要である。この科学的真理は、相互に独立して営まれる私的労働が、社会的、自然発生的な分業体制の分枝として絡み合っているとはいえ、その社会的な比率尺度に絶えず還元される、ということである。それでは、なぜか? 私的労働の生産物の偶然的な、いつも可変的な交換比率においては、その生産に必要な社会的労働時間が規制的な自然法則として力ずくで勝利を占めるからであり、このことは、象が頭上に崩れ落ちてくれば誰にでも重力の法則が感じられるのと同じである。(28)したがって、労働時間によって価値量がきまるということは、商品の価値の表面的な運動の背後に隠された秘密である。とはいえ、この秘密の解決は、価値量が外観のように偶然的にきめられるものでないということを示すものの、それによって、価値量が諸物のあいだの、労働生産物自体のあいだの量的関係として表わされるところの形態を、消滅させることはない。〉(50-51頁)

 

 【注28】  〈(28) 「周期的な革命によってのみ自己を貫徹しうる法則を、われわれは何と考えるべきであろうか? それこそ、まさに、関与者たちの無意識にもとづいている自然法則なのである」(フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、所収、アーノルド・ルーゲおよびカール・マルクス編『独仏年誌』、パリ、一八四四年〔『全集』、第1巻、559ページ〕)。〉

 

《フランス語版》

 

 〈(82) 「周期的な革命によってしか貫徹されえない法則については、どう考えるべぎであろうか? それはただたんに、この法則に従う人々の無意識にもとつく自然法則なのである」(フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、一〇三ページ。アルノルト・ル1ゲおよびカール・マルクス編『独仏年誌』、パリ、一八四四年、に所載)。〉(51頁)

 

 


第38回「『資本論』を読む会」の案内

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

                                                                                                               

 

 

 野田新内閣が誕生しました。自らを「ドジョウ」に例え、泥臭さを売りにしています。しかしウナギと同様ドジョウも、ヌルヌルして掴み所がないように、野田新政権も何をやろうとしているのか今のところ掴み所がありません。

 

 

 しかしどうやら野田政権を全面的に支えているのは、増税実現に執念を燃やす財務省だと言われています(9月3日朝日)。野田首相も2日の就任会見で、「財政再建は待ったなしだ」と強調しました。経済財政相に財務省OBの古川元久を起用し、自民党時代の経済財政諮問会議を復活させて、司令塔に据えようとしているとも言われています。

 

 まずは東日本大震災の復興のための復興増税、そして「税と社会保障の一体改革」なるものの消費税増税、等々。野田新政権は、どうやら増税一直線内閣になりそうな気配です。

 

 おりから9月9日に主要7国(G7)財務省・中央銀行総裁会議が開かれました。今回のG7の主要議題は世界的な金融危機を招きかねない欧米の政府債務問題です。ソブリンデフォルト(国家債務不履行)のリスクが世界経済を揺さぶっているのです。

 

 

 08年のリーマンショックから3年、未曾有の危機を脱するために各国は景気刺激策、金融緩和策として、政府債務を積み増してきました。そのツケがギリシャの債務危機やスペインやイタリアの信用不安として吹き出し、ユーロ圏全体を揺さぶっているのです。アメリカ国債の格付け会社(S&P)による格下げも同じような危機を暗示しています。そして日本の債務残高はもはや天文学的な数値になりつつあることは言うまでもありません。08年に次ぐ、世界的な経済恐慌の「二番底」が恐れられているのです。

 

 マルクスは、資本主義的生産においては「信用主義(Creditsystem)から重金主義(Monetarsystem)への転回」は不可避だと指摘しています。マルクスの時代とは異なり、現代では世界的な信用システムが発展しています。だから現代の世界経済では、むき出しの金(キン)が出てくることはよほどのことがない限りはありません。しかし、マルクスが当時の国家的な危機の兆候である地金流出について述べていることは、高度に発展した現代の資本主義においても、依然として正しいのです。

 

 「地金流出の諸結果のうちには,生産が現実には社会的生産として社会的統制を受けていないという事情が、富の社会的形態が富の外にある物として存在するという形で、はっきりと現われてくるのである。これは、じっさい、資本主義体制にもそれ以前の諸生産体制にも、これらの体制が商品取引と私的交換とにもとづいているかぎりでは、共通なことである。しかし、それは資本主義体制のなかではじめて最も明確に、そしてばかげた矛盾と背理との最もグロテスクな形で、現われるのである。なぜならば、(1)資本主義体制では、直接的使用価値のための、生産者たちの自家使用のための生産は最も完全に止揚されており、したがって、富は、ただ、生産と流通との錯綜として現われる社会的過程として存在するだけだからである。(2)信用制度の発展につれて、資本主義的生産は、このような、富とその運動との金属による制限を、物的であると同時に幻想的でもある制限を、絶えず廃棄しようと努めながら、また絶えず繰り返しこの制限に頭をぶつけるからである。」(全集25b740頁)

 

 現代の世界経済の危機を読み解くためにも、貴方も『資本論』を一緒に読んでみませんか。

 


第38回「『資本論』を読む会」の報告

第38回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎「自然の猛威」

 

 3・11の東日本大震災では、地震と津波の恐ろしい破壊力に人力の限界を知らされました。最近では台風の猛威が紀伊半島を中心に大きな被害をもたらしました。「自然の猛威」はやはり圧倒的ではあります。

 

 ただ同時に、私たちはこうした地震や津波、台風等に対して、現代の科学技術を総動員して対処している多くの人たちの努力もニュース等で知ることが出来ます。「自然の猛威」は確かにいまだ圧倒的ですが、しかし、それに対処する人間の力も確実に前進していることが確かめられるのではないでしょうか。

 

 幸い、私たちが生活する泉州地方は、台風の被害は今のところはほとんどありません。第38回「『資本論』を読む会」が開催された日は、まるで真夏のような日差しがありました。新しく参加された方は前回欠席されたために、参加が危ぶまれたのですが、今回は参加されました。徐々にでも参加者が増えていくことを期待したいものです。

 

◎第10パラグラフ

 

 前回は第9パラグラフの一つのパラグラフだけでしたが、今回も、第10・第11の二つのパラグラフだけで終わりました。早速のその報告を行います。前回の報告は亀仙人が欠席したために、若干形式を変えてJJ富村さんから送られてきた報告をそのまま紹介しましたが、今回はこれまでと同じように、まず本文を紹介し、文節ごとに記号〔(イ)、(ロ)、・・・〕を付し、それぞれについて平易な解説を行い、その中で議論も紹介していくという形で行いたいと思います。

 

 【10】〈 (イ)人間の生活の諸形態についての省察、したがってまたそれらの科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどる。 (ロ)この分析は“後から”始まり、したがって発展過程の完成した諸結果から始まる。 (ハ)労働生産物に商品の刻印を押す、したがって商品流通に前提されている、諸形態は、人々が、これらの形態の歴史的性格についてではなく--これらの形態は人々にはむしろすでに不変のものと考えられている--これらの形態の内実について解明しようとする以前に、すでに社会的生活の自然諸形態の固定性をおびている。 (ニ)こうして、価値の大きさの規定に導いたのは商品価格の分析にほかならなかったし、諸商品の価値性格の確定に導いたのは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかった。 (ホ)ところが、商品世界のまさにこの完成形態--貨幣形態--こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的労働者たちの社会的諸関係を、あらわに示さず、かえって、物的におおい隠すのである。 (ヘ)もし私が、上着、長靴などが抽象的人間労働の一般的化身としてのリンネルに関係すると言えば、この表現がばかげていることはすぐに目につく。 (ト)ところが、上着、長靴などの生産者たちが、これらの商品を、一般的等価としてのリンネルに--または金銀に、としても事態に変わりはない--関係させるならば、社会的総労働に対する彼らの私的諸労働の関係は彼らにとってまさにこのばかげた形態で現れるのである。〉

 

 (イ)、(ロ) 人間の生活の諸形態についての省察、よってまたそれらの科学的分析は、一般には、現実の発展とは反対の道を辿ります。この分析は“後から”始まり、したがって発展過程の完成した諸結果から始まるのです。

 

 これは「ミネルバの梟は夕暮れとともに飛び立つ」という有名なヘーゲルの言葉が示すものと同じ真実を語っているとの指摘がありました。つまり物事の概念的な考察は、対象が十分発達してから始まるということです。

 

 またマルクスが『経済学批判要綱』「序説」のなかで、「経済学の方法」という小項目を立てて、その中で、次のように述べているとの指摘もありました。

 

 〈ブルジョア社会は、最も発展した最も多様な歴史的な生産組織である。それゆえ、ブルジョア社会の諸関係を表現する諸範疇は、またブルジョア社会の編制の理解は、同時に、すべての滅亡した社会形態の編制と生産関係との認識を可能にするのである。ブルジョア社会はこれらの社会形態の破片や要素できずかれてきたのであり、これらの要素のうちのまだ一部克服されていない遺物がブルジョア社会のなかでまだ余命を保っていたり、たんに暗示されていただけのものが完成された意義をもつまでに発展していたりするのである。人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である。ところが、下等な動物種類に見られる高等なものへの暗示は、この高等なもの自身がすでに知られている場合にだけ理解されうる。こうして、ブルジョア経済は古代その他の経済への鍵を提供するのである。〉(全集13巻632頁)

 

 このマルクスの〈人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である〉という言葉と関連させて、それは自然の認識についても言いうるのかというピースさんの問題提起に触発される形で、個体発生と系統発生との関係や、論理と歴史との関係、物質の究極の構成要素であるクォークと宇宙のビッグバンに始まる進化の過程にまで話が及びました。それらはそれなりに興味深く、面白かったのですが、当面の課題から逸れますので、紹介は割愛したいと思います。

 

 (ハ) 労働生産物に商品の極印を押す諸形態、だから商品流通に前提されている諸形態は、人々が、これらの形態の歴史的性格についてではないのですが--むしろこれらの形態は人々にとってはすでに不変のものと考えられています--これらの形態の内実について解明しようとする以前に、すでに社会的生活の自然諸形態の固定性を帯びています。

 

 この部分では、まず「商品流通」という言葉が初めて出てくる箇所であり、第1章ではここだけで、第2章にも出てこず、第3章以降にしか出てこないことが指摘されました。そして第3章には、次のような説明があるとの指摘もありました。

 

 〈ある一つの商品の循環をなしている二つの変態は、同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしている。同じ商品(リンネル)が、それ自身の変態の列を開始するとともに、他の一商品(小麦)の総変態を閉じる。その第一の変態、売りでは、その商品はこの二つの役を一身で演ずる。これに反して、生きとし生けるものの道をたどってこの商品そのものが化してゆく金蛹(さなぎ)としては、それは同時に第三の一商品の第一の変態を終わらせる。こうして、各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っている。この総過程は商品流通として現われる。〉(全集23a148頁)

 

 次に、〈これらの形態の歴史的性格についてではなく--これらの形態は人々にはむしろすでに不変のものと考えられている--これらの形態の内実について解明しようとする以前に〉という部分で、どうして〈これらの形態の歴史的性格についてではなく〉と書かれているのか、という疑問が出されました。これについては、この部分では総じて古典派経済学による物象的な過程の認識について論じていると思うが、古典派経済学者たちは商品流通に前提されている諸形態の内実については、ある程度までは認識することは出来たが、彼らはそれらの歴史的性格についてはまったく認識できず、資本主義的生産様式を不変のものと考えていたことをここで指摘しているのではないだろうか、という意見が出されました。

 

 そしてそうした古典派経済学者たちの認識が開始される段階では、すでに商品流通に前提されている諸形態(諸商品の価格、貨幣等々)は社会生活のありふれた現実として存在しており、だから古典派経済学者たちはそうした現象からその内実を把握する分析を開始する必要があったのだということではないかと思います。

 

 (ニ) だから価値の大きさの理解に導いたのは諸商品の価格の分析にほかなりませんでしたし、諸商品の価値性格を確定するようになったのは、諸商品の共通な貨幣表現から出発することによって可能だったのです。

 

   この部分についても、古典派経済学者たちが、さまざまに変動する価格のなかに、その変動の中心となる「自然価格」の存在に気づき、価値の大きさの規定に至ったこと、また諸商品の共通な貨幣表現から、諸商品に共通な価値の存在に気づくようになったことが指摘されているのではないかとの意見が出されました。

 

 (ホ) ところが、商品世界の完成形態と言ってもよい、この貨幣形態こそ、私的諸労働の社会的性格、したがって私的労働者たちの社会的諸関係を、あらわに示さず、かえって、それを物的におおい隠すのです。

 

 ここで貨幣形態のことを〈商品世界のまさにこの完成形態〉と述べているのは、貨幣形態が価値形態の発展の最後の形態であり、価値形態の発展が、商品形態の発展に照応しているというマルクスの指摘を思い出せば、よく理解できます。

 

 マルクスは一般的価値形態について、〈労働生産物を区別のない人間労働の単なる凝固体として表す一般的価値形態は、それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している〉と述べ、〈こうして、一般的価値形態は、商品世界の内部では労働の一般的人間的性格が労働の特有な社会的性格をなしているということを明らかにしている〉述べていました。ところが一般的価値形態のさらに発展した貨幣形態では、20エレのリンネル=2オンスの金 というように、その構造は単純な相対的価値形態に戻っています。貨幣形態では、商品世界の社会的表現は貨幣という物的属性と分かちがたく結びついてしまっているわけです。だから貨幣形態は私的労働の社会的性格や私的労働者たちの社会的諸関係を、かえって物的に覆い隠すといえるのだと思います。

 

 誰も自分の生産した生産物を販売して貨幣に変えることが、自分の私的労働の社会的性格を実証し、自分自身と他の多くの生産者たちの社会的関係を作り上げているのだ、などとは思わないわけです。

 

 (ヘ)、(ト) もし私が、上着、長靴などを一般的等価物であるリンネルと交換することによって、抽象的人間労働の一般的化身であるリンネルに関係するといえば、この表現がばかげていることはすぐに目につきます。ところが上着や長靴の生産者たちが、これらの商品を、一般的等価としてのリンネルに--あるいは金銀に、としても同じですが--関係させるなら、社会的総労働に対する彼らの私的諸労働の関係は、彼らにとってまさにこの馬鹿げた形態で現れるわけです。

 

 つまり上着や長靴の生産者たちは、こうしたことをまったく意識せずにやっているということでしょう。彼らは彼らの生産物を一般的等価としてのリンネルと交換するということは、彼らの支出した私的諸労働が社会的な総労働のなかでその自然発生的な分業の一分肢であることを確証することになるわけですが、そうしたことも彼らは意識せずにやっています。ましてや彼らの交換行為は、抽象的人間労働の一般的化身であるリンネルに関係していることなのだ、といえば、彼らはその馬鹿らしさに呆れるでしょうが、しかし、彼らが実際にやっていることは、実はそうしたことなのだ、ということではないでしょうか。

 

◎第8~第10パラグラフの位置づけ

 

 以前、第34回の「報告(その1)」で、「第3パラグラフへの補足」を書きました。そこでは、現行版の第3パラグラフに該当する初版本文の長い引用文を紹介し、それが第2版では現行のように簡潔にまとめられていること、同時に初版本文に引用者が付けた(a)(b)(c)の各部分は第2版(現行版)の第8~第10パラグラフに部分的に使われていることも指摘しました。

 

 まず現行版と初版本文との関連については、次のように指摘しています。

 

 「現行版の第3パラグラフでは、第2パラグラフにおいて価値規定の内容として述べられた、(1)価値の実体としての抽象的人間労働の基礎にある、人間有機体の諸機能としての本質的に人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出、(2)価値の大きさとしての社会的に必要な人間労働の基礎にある生理学的な意味での人間労働力の支出の継続時間、(3)労働の社会的形態のそれぞれが、商品形態においては、どのような物的、対象的形態を受け取るのかが説明されていました。すなわち(1)は労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を、(2)は労働生産物の価値の大きさという形態を、(3)は労働生産物の社会的関係という形態を、です。上記の初版本文の(a)(b)(c)の各部分も、概ねこれら(1)(2)(3)に対応していると考えることができます。つまり初版本文の(a)(b)(c)は、現行版の第3パラグラフの(ハ)の内容をそれぞれに解説するものと考えられるわけです。」

 注:(文節(ハ)とは、次のようなものです。〈(ハ)人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の測定は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がその中で発現する彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。〉)

 

 さらに第二版の第8~10パラグラフとの関連についても、次のように述べています。

 

 「あるいはまた、この(a)(b)(c)の各部分が第二版の第8~10パラグラフに、若干文章を変えてではあるが、その一部として利用されているということは、この第二版の第8~10パラグラフは、第3パラグラフで価値規定の内容である三つの契機がそれぞれ商品形態において、どのような物的形態を受け取るかを簡潔に説明したものを、さらに展開して明らかにしているところでもある、という位置づけも分かってくることになります。そうした現行版の各パラグラフ間の関係を知る上で、この初版本文は重要ではないかと思ったわけです」

 

 それでは第8~第10パラグラフのどの部分が初版本文から転用したものでしょうか。それぞれについて現行版と初版本文を並べて紹介してみましょう。

 

●第8パラグラフではその前半部分がほぼ初版本文からの転用になっています。

 

・現行版  〈したがって、人間が彼らの労働生産物を価値としてたがいに関係させるのは、これらの物が彼らにとって一様な人間労働の単なる物的外皮として通用するからではない。逆である。彼らは、彼らの種類を異にする生産物を交換において価値としてたがいに等置しあうことによって、彼らのさまざまに異なる労働を人間労働としてたがいに等置するのである。彼はそれを知ってはいないけれども、それを行う(27)。だから、価値の額(ヒタイ)にそれが何であるかが書かれているわけではない。むしろ、価値が、どの労働生産物をも一種の社会的象形文字に転化するのである。後になって、人間は、この象形文字の意味を解読して彼ら自身の社会的産物--というのは、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的産物だからである--の秘密の真相を知ろうとする。〉

 

・初版本文  〈人々が彼らの諸生産物を、これらの諸物が同種の人間労働の単なる物的外皮として認められているかぎりにおいて、価値として互いに関係させるならば、このことのうちには、同時にこのこととは逆に、彼らのいろいろな労働が、物的外皮のなかでは、同種の人間労働としてのみ認められる、ということが含まれている。彼らは、自分たちの諸生産物価値として互いに関係させることによって、自分たちのいろいろな労働を人間労働として互いに関係させているのである。人的な関係が物的な形態で蔽い隠されている。したがって、価値の額には、価値がなんであるかは書かれていない。人々は、自分たちの諸生産物を商品として互いに関係させるためには、自分たちのいろいろな労働を、抽象的な、人間的な、労働に、等置することを強制されている。彼らはこのことを知つてはいないが、彼らは、物質的な物を抽象物である価値に還元することによって、このことを行なうのである。これこそが、彼らの頭脳の自然発生的な、したがって無意識的で本能的な作用であって、この作用は、彼らの物質的生産の特殊な様式と、この生産によって彼らが置かれているところの諸関係とから、必然的にはえ出てくるものである。第一に、彼らの関係は実践的に存在している。だがしかし、第二に、彼らは人間であるがゆえに、彼らの関係は、彼らにとっての関係として存在している。それが彼らにとって存在している仕方、あるいは、それが彼らの頭脳のなかに反射している仕方は、この関係の性質そのものから生まれてくる。のちになって彼らは、科学に頼って、彼ら自身の社会的生産物の秘密を見抜こうとする。なぜならば、物の価値としての規定は、言語と同じに、彼らの産物だからである。〉

 

●第9パラグラフは、後半部分です。

 

・現行版  〈価値の大きさは、交換者たちの意志、予見、および行為にはかかわりなく、たえず変動する。交換者たち自身の社会的運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとり、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御される。たがいに独立〔unabhaengig〕に営まれながら、しかも社会的分業の自然発生的な諸分肢としてたがいに全面的に依存している〔abhaengig〕私的諸労働が社会的に均斉のとれた基準にたえず還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的でつねに動揺している交換比率を通して、それらの生産のために社会的に必要な労働時間が--たとえば、だれかの頭の上に家が崩れおちる時の重力の法則のように--規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹するからである(28)、という科学的洞察が経験そのものから生じるためには、その前に、完全に発展した商品生産が必要である。〉

 

・初版本文  〈ところで、さらに、価値量にかんして言えば、互いに独立して営まれていても、自然発生的な分業の諸肢体であるがゆえに全面的に互いに依存しあっているところの、私的諸労働は、次のことによって、それらの社会的に釣り合いのとれた大きさに、絶えず還元されている。すなわち、これらの労働の生産物の偶然的な、そして絶えず変動する交換割合のうちで、それらの生産物の生産のために社会的に必要な労働時聞が、たとえばある人の頭上に家が崩れ落ちるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹する、ということによって(26)。だから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の目に見える諸運動の背後に臆されている秘密なのである。生産者たち自身の社会的な運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとっているのであって、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御されているのである。〉

 

●第10パラグラフは、最後の部分が初版本文からの転用になっています。

 

・現行版  〈ところが、商品世界のまさにこの完成形態--貨幣形態--こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的労働者たちの社会的諸関係を、あらわに示さず、かえって、物的におおい隠すのである。もし私が、上着、長靴などが抽象的人間労働の一般的化身としてのリンネルに関係すると言えば、この表現がばかげていることはすぐに目につく。ところが、上着、長靴などの生産者たちが、これらの商品を、一般的等価としてのリンネルに--または金銀に、としても事態に変わりはない--関係させるならば、社会的総労働に対する彼らの私的諸労働の関係は彼らにとってまさにこのばかげた形態で現れるのである。〉

 

・初版本文  〈ところで、最後に価値形態について言えば、この形態こそはまさに、私的労働者たちの社会的な諸関係を、したがって私的諸労働が社会的に規定されていることを、あらわにするのではなくて、物的に蔽い隠している。私が、上着や長靴等々は、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物としてのリンネルに、関係していると言えば、この表現の奇矯なことは明白である。ところが、上着や長靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的な等価物としてのリンネルに関係させると、彼らにとっては、自分たちの私的諸労働の社会的な関係が、まさにこのような奇矯な形態で現われるのである。〉

 

 このように現行版と初版本文とを比べると、微妙に文章に手を入れて、マルクスは第2版に転用していることが分かります。もう一度、初版本文の展開から類推できる第8~第10パラグラフの位置づけについて確認しておきましょう。

 

 マルクスは、第2パラグラフで商品の神秘的性格は価値規定の内容から生じるものではないことを指摘し、価値規定の内容として三つの契機のそれぞれについてそれらには神秘性がないことを確認しています。そして第3パラグラフの冒頭、〈では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎のような性格は、どこから来るのか?〉と問い、それは〈この形態そのものから〉だとして、価値規定の内容の三つの契機が、それらが商品形態において、それぞれどのような神秘性を帯びるのかを明らかにします。

 

 初版本文では、そうした現行版の簡潔な説明の代わりに、そうした価値規定の内容である三つの契機が、商品形態でどのような神秘的性格を受け取るのかを、それぞれについて詳しく展開しているのが、現行版の第8~第10パラグラフに転用されたものなのです。

 

 だから現行版の第8~第10パラグラフについて、おおよそいえることは、価値規定の内容の三つの契機が、商品形態で受け取るそれぞれの神秘的性格について、さらに展開したものと言うことができるでしょう。ただマルクスはそれらを現行版では、商品生産者たちの意識には、どのような形で捉えられるかという観点を加えて論じているように思えます(なお初版本文が現行版では、その展開がどのように変えられたのか、そしてそれはどんな意味かあるのか、ということについては、もっとあとで--この節の終わりぐらいで--考えてみることにしましょう)。

 

◎第11パラグラフについて

 

 【11】〈 (イ)この種の諸形態こそが、まさにブルジョア経済学の諸カテゴリーをなしている。 (ロ)それらは、商品生産というこの歴史的に規定された社会的生産様式の生産諸関係についての、社会的に認められた、つまり客観的な思考諸形態なのである。 (ハ)したがって、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧に包む商品世界のいっさいの神秘化、いっさいの魔法妖術は、われわれが別の生産諸形態のところに逃げこむやいなやただちに消えうせる。〉

 

 (イ) この種の諸形態こそが、ブルジョア経済学の諸カテゴリーをなしているのです。

 

 ここで〈この種の諸形態〉というのは、何を指しているのかが問題になりました。これは一見すると、その直前の前パラグラフの最後で述べている〈このばかげた形態〉を受けているように思えるのですが、そうではなく、前のパラグラフで〈労働生産物に商品の刻印を押す、したがって商品流通に前提されている、諸形態〉のことではないかということになりました。それらは〈人々が、・・・・これらの形態の内実について解明しようとする以前に、すでに社会的生活の自然諸形態の固定性をおびている〉ようなものです。ブルジョア経済学はそうした固定性をおびた現象諸形態から出発して、その内実である価値の大きさや価値性格を確定したわけです。それがブルジョア経済学の諸カテゴリーをなしていると述べていると思えます。

 

 (ロ) その意味では、それらは、商品生産というこの歴史的に規定された社会的生産様式の生産諸関係についての、社会的に認められた、つまり客観的な思考諸形態なのです。

 

 ブルジョア経済学の諸カテゴリーとはいえ、それは社会生活の自然諸形態の固定性をおびた現象から、その内実をある程度まで捉えたものであり、その限りでは、商品生産という歴史的に規定された生産様式の生産諸関係を、客観的に理解しようとするものであるということでしょう。

 

 (ハ) だから、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧の中に包む商品世界のいっさいの神秘化、一切の魔法妖術は、私たちが別の生産諸形態に逃避するや、直ちに消え失せるのです。

 

 商品の物神的性格というのは、商品生産という歴史的に規定された社会的生産に固有のものですから、商品生産とは違った別の社会的な生産では、そうした神秘的なものはなくなるということです。それを次のパラグラフからみて行くことになります。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

【付属資料】

 

●第10パラグラフに関連するもの

 

《初版本文》

 

 〈私が、上着や長靴等々は、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物としてのリンネルに、関係していると言えば、この表現の奇矯なことは明白である。ところが、上着や長靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的な等価物としてのリンネルに関係させると、彼らにとっては、自分たちの私的諸労働の社会的な関係が、まさにこのような奇矯な形態で現われるのである。〉(63頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈社会的生活の諸形態についての考察は、したがってそれらの科学的分析もまた、本来つねに、現実の発展とは反対の道をたどる。この分析はあとからくpost fest日間>発展過程の完成した諸結果から始まる。労働生産物に商品の刻印を押す、それゆえ商品流通に(43)前提されている諸形態は、人々が、これらの形態の歴史的性格についてではなく--これらの形態は人々にはむしろすでに不変のものと考えられている--これらの形態の内実について解明しようとする以前に、すでに社会的生活の自然諸形態の固定性を帯びている。こうして、価値の大きさの規定に導いたのは商品価格の分析にほかならなかったし、諸商品の価値性格の確定に導いたのは、諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかった。ところが、商品世界のまさにこの完成形態--そしてそれは貨幣形態においてのみ存在するのだが--こそは、私的諸労働の社会的性格を、それゆえ私的労働者の社会的関係を、あらわにしめさず、かえって、物的におおい隠すのである。〉(32-3頁)

 

《フランス語版》

 

 〈社会生活の諸形態にかんする反省、したがって、それらの科学的分析は、現実の運動とは完全に反対の道に沿って行く。それは後から、すでにすっかり確立された与件とともに、発展の結果とともに始まる。労働生産物に商品の刻印を押し、したがって、商品流通をすでに支配している諸形態が、すでに社会生活の自然形態として固定されるにいたってはじめて、人間は、自分たちにはむしろ不変なものに見えるこれらの形態について、その歴史的性格ではなくその内的意義を理解しようとする。こうして、商品価格の分析からのみ、商品価値の量的規定が導かれたのであり、商品の共通な貨幣表現からのみ、商品の価値性格の固定が導かれたのであった。ところで、商品世界のこうした固定した既定の形態、商品の貨幣形態は、私的労働の社会的性格と生産者たちの社会的関係をあぼくのではなしに、これを蔽い隠すだけである。小麦や上衣や長靴は、抽象的な人間労働の一般的な化身としてのリンネルに関連する、と私が言うならば、この表現の虚偽と異常さはたちどころに一目瞭然である。ところが、これらの商品の生産者たちが、これらの商品をリソネルあるいは金か銀に、同じことになるが、一般的等価物に関連させるばあい、彼らの私的労働と社会の総労働とのあいだの関係は、彼らにはまさにこういう奇妙な形態のもとで現われるのだ。〉(51頁)

 

●第11パラグラフに関連するもの

 

《初版本文》

 

〈この種の諸形態は、まさに、ブルジョア経済学の諸範疇を形成している。これらの諸形態は、この歴史的に規定されている社会的な生産様式の生産諸関係にとっての、社会的に妥当な・つまり客観的な・思考形態である。〉

 

《補足と改訂》

 

 〈(P. 3 9 )それゆえ、商品生産の基礎上で労働生産物を霧に包む商品世界のいっさいの神秘化、いっさいの魔法妖術は、われわれが別の生産諸形態のところに逃げ込むやいなや、ただちに消えうせる。〉(33頁)

 

《フランス語版》

 

 〈ブルジョア経済学の諸範疇は、それらが現実の社会的諸関係を反映するかぎり、客観的な真理をもつ悟性形態であるが、これらの諸関係は、商品生産が社会的な生産様式であるような特定の歴史時代にしか属していない。われわれが別の生産形態を考察すれば、現代において労働生産物を蔽い隠しているこの神秘性はまるごと、たちどころに消え失せるであろう。〉(51-2頁)

 


第39回「『資本論』を読む会」の案内

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

                                                                             EUの信用不安が止まらない。

 

 EUの政府債務問題への対応が、なかなか具体化しないからである。

 

 まず当面の課題としてギリシャのデフォルト(債務不履行)回避に必要とされる計80億ユーロ(約8千億円)の融資さえ、3日の財務相会合では決定を先送りしてしまった。ギリシャが来年までの財政赤字削減目標の達成が困難と表明したこともあり、ギリシャの財政状況を検証する専門家チームの結論待ちの様相である。

 

 さらにEU全体に広まる信用不安に対応する欧州金融安定化基金(EFSF)の拡充にしても、具体的には進みそうもないのである。

 

 こうした政府債務危機がEUにおいて表面化したのは、EUでは通貨は統一しているものの、財政や国債の発行は各国バラバラであり、08年のリーマン・ショックによる資本の危機を救済するために、各国がそれぞれに野放図に政府債務を拡大したからである。そのツケが、ギリシャなど経済的に弱い部分からソブリン・リスク(国家危機)として生じ、それがEU全体の信用不安へと拡大する恐れが出てきているわけである。

 

 世界の先進各国が国債発行等によって国家財政の赤字を拡大して資本救済に走り始めたのは、70年代の石油ショック以降であるが、特に08年の世界的な金融恐慌以降は、ほとんどの国で財政赤字が拡大している。だからEUの危機は“対岸の火事”ではなく、世界的な信用不安へと再び突入する恐れが出てきているのである。

 

主要先進国の一般政府債務残高(グロスベース)

 

 ソブリンデフォルト(国家債務不履行)のリスクは、資本主義の矛盾の総合的な爆発である世界市場恐慌の現代的な現れと言うことができる。現代資本主義においては、国家の経済過程への介入が重要な特徴の一つになっており、それに伴って、恐慌の現れ方も変化してきたからである。

 

 マルクスは、国家の経済過程への介入について、資本主義が黎明期(本源的蓄積期)にあったとき、植民制度や国債制度、近代的租税制度、保護貿易制度によって、資本の強蓄積を温室的に促進したと指摘している。その後、資本主義は自由競争の時代に入り、国家の干渉を極力排除する“自由放任”が主張された。しかし、19世紀の後半になると、資本主義は独占資本主義の時代へと突入し、再び国家の経済過程への介入は顕著になってきたのである。

 

 もっとも同じ国家の経済過程への介入といっても、国家の果たす歴史的役割は異なっている。一方は資本主義の黎明期に、資本主義の本源的蓄積を助け保護したのに対して、他方は資本主義の黄昏期に、資本主義的生産の崩壊を国家的信用によってくい止め、その延命を図ろうとするものである。

 

 マルクス自身は、こうした現代資本主義の新しい傾向を知るよしもなかったが、しかしそれでも、現代資本主義では普遍的なものとなった株式会社の発展について、〈それはある種の諸部面では独占を成立させ,したがってまた国家の干渉を誘い出す〉(全集25a559頁)と、将来の資本主義においては、国家の干渉が重要な特徴になることを示唆している。

 

 このように、現代資本主義を深く理解するためには、やはり『資本論』の研究は必要である。ぜひ、貴方もいっしょに『資本論』を読んでみませんか。

 



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