目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第9回「『資本論』を読む会」の案内
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第10回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第36回「『資本論』を読む会」 の案内

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

                                                                                                               

 

 「菅降ろし」の声がかまびすしい。

 

 「菅は無能だ」、「とにかく菅さえ辞めさせれば、うまく行く」等々。

 

 今では野党の自民・公明だけではなく、政権与党の民主党の中枢や閣僚の中からも「菅退陣」が叫ばれる有り様である。

 

 しかし6月27日の『朝日新聞』は、こうした策動の震源が「電力権益」の温存を謀る勢力にあることを暴露した。彼らは福島の事故にも何の反省もなく、ただ自らの権益維持のために、何がなんでも原発推進と現体制の維持に固執するのである。だから菅首相が浜岡を止め、原発増設を前提にしたエネルギー政策のゼロベースの見直しを掲げ、発・送電分離に言及したとたんに、「菅降ろし」の激しさが増したのだという。そして電力資本に取り込まれているのは、野党だけではなく、与党の中にも多数いるというわけである。

 

 

 菅首相は、6月28日の民主党両院議員総会で、再生エネルギー法案、第2次補正予算案、特例公債法案の成立が退陣の条件と改めて表明した。そのうえで「エネルギー政策をどのような方向に持って行くかは次期国政選挙でも最大の争点になる」と、「脱原発」を掲げた解散・総選挙をチラつかせて、これらの勢力を牽制し、何とか政権の延命をと策謀を逞しくしているようにも思える。

 

 そして今や菅首相は、「脱原発」派のシンボルとさえなったかである。「鼻をつまみ、断固として菅首相を支持する」(矢作俊彦)と言い出すものさえ出てきた。

 

 イタリアの国民投票では原発反対票が94.53%となり、ベルルスコーニ首相も、「原発にさよならと言わねばならない」と敗北を認めた。ドイツ連邦議会(下院)も、6月30日、「脱原発」法案を圧倒的多数で可決した、等々。今や原発を忌避する声は、日本のみか世界中に溢れているように思える。

 

 しかし肝心なことが忘れられている。

 

 原子力発電も、人類がその社会的物質代謝を豊かにするために、膨大な自然力を生産に貢献させ、生産過程を科学の技術学的応用に転化させてきた一結果であり、その点では、他のどんな技術とも何の違いもないということをである。

 

 あるいは、問題は、資本主義的生産は、そうした過程を歴史的に驚異的な形で促進させるが、しかし、それはあくまでも一つの転倒した形態においてでしかないということをである。

 

 資本主義的生産においては、すべての生産力は「資本の生産力」として現れる。すなわち利潤という抽象的富の獲得のために絶対的に奉仕させられる。

 

 資本主義的生産というのは、そもそも人間の社会的物質代謝を直接目的にした生産ではないのである。それが維持されているのは、あるいは維持されてきたのは、たださまざまな攪乱と偶然の一結果でしかないのだ。今回の原発事故も、その意味では、そうした攪乱の一つともいえるのである。

 

 マルクスは、資本主義的生産は、生命の自然法則によって命ぜられた社会的物質代謝の関連のうちに回復できない裂け目を生じさせ、すべての富の源泉である自然と労働者を同時に破壞するが、しかしそのことによってのみ資本主義的生産は社会的生産過程の技術やその統合を発展させ、将来の社会の物質的基礎を形成しうるのだと指摘している。

 

 だから問われているのは、資本主義的生産様式そのものを克服して、将来の社会の形成のために闘うことなのである。それを誰も問おうとはしない。

 

 しかし、それを実現してこそ、人類はその社会的物質代謝を合理的に統制し、その一契機として、原子力エネルギーの合理的な統御と管理をも可能にするようになるのである。問われているのは、ある特定の技術そのものの是非ではなく、この限界のある特定の歴史的社会的形態そのものなのである。

 

 「社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。」(『資本論』第3巻、全集25巻b1051頁)

 

 貴方もぜひ、『資本論』を一緒に読んでみませんか?

 


第36回「『資本論』を読む会」の報告

第36回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎新参加者!

 

 7月17日に開催された第36回「『資本論』を読む会」に新しい人が参加されました。

 

 2008年にこの読書会を始めてすでに3年の歳月を数えますが、これまでは、参加者が櫛の歯が抜けるように減ることはあっても、増えたことは無かったのでした。それがとうとう新参加者が現れたのです。

 

 新参加者は私たちと同年配の方ですが、20代の若いころに『資本論』を読んだことがあるようでした。彼は友人からこの読書会のことを聞き、堺市立南図書館に電話して、連絡先を聞いて、連絡してきてくれたのでした。

 

 彼は3年もやっているから、もう第2巻に入っていると思っていた、と言っていましたが、それがまだ第1章も終わっていないと聞いて、少し呆れたようです。それほど私たちの「『資本論』を読む会」は、とにかく『資本論』を、ワンパラグラフずつ、徹底的に読み込み、議論を深めながら進み、時には一つのパラグラフの議論だけで終わるという場合も少なくありませんでした。マルクスがそこで何を論じているのかをあらゆる方面から深く考え抜き、解明していくことに重点をおいてきた学習会なのです。

 

 果たして新参加者は、こうした私たちの学習会のあり方に理解を示され、引き続き参加されるでしょうか。それはわかりませんが、期待したいと思います。

 

 新参加者を迎えたものの、学習会そのものはいつものように行われ、結局、今回も進んだのは第7と第8の二つのパラグラフのみでした。さっそく、その報告を行いましょう。

 

◎第7パラグラフ全体の構成が問題に

 

 今回、学習した第7パラグラフの、まず本文を紹介し、それを文節ごとに記号を付して、平易に解読したあと、議論を紹介したいと思います。

 

 【7】〈 (イ)労働生産物は、それらの交換の内部で、はじめてそれらのたがいに感性的に異なる使用対象性から分離された、社会的に同等な、価値対象性を受け取る。 (ロ)有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂がはじめて実際に発現するのは、有用物が交換を目あてに生産されるまでに、したがって、諸物の価値性格がすでにそれらの生産そのものにおいて考慮されるまでに、交換が十分な広がりと重要性とを獲得した時である。 (ハ)この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は、実際に、二重の社会的性格を受け取る。 (ニ)私的諸労働は、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲求を満たさなければならず、そうすることによって、総労働の、自然発生的な社会的分業の体制の諸分肢として実証されなければならない。 (ホ)私的諸労働は、他面では、特殊な有用的私的労働のどれもが、別の種類の有用的私的労働のどれとも交換され得るものであり、したがって、これらと等しいものとして通用する限りでのみ、それら自身の生産者たちの多様な欲求を満たす。 (ヘ)たがいに“まったく”異なる諸労働の同等性は、ただ、現実の不等性の捨象、諸労働が人間労働力の支出として、抽象的人間労働として、もっている共通な性格への還元においてしか、成りたちえない。 (ト)私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換において現れる諸形態でのみ反映する。-- (チ)すなわち、彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が有用でなければならないという、しかも他人にとって有用でなければならないという形態で反映し、種類を異にする労働の同等性という社会的性格を、労働生産物というこれらの物質的に異なる諸物の共通な価値性格という形態で反映するのである。〉

 

 (イ) 労働生産物は、互いに交換されるようになると、その交換の内部で、はじめてそれぞれが互いに異なる使用価値というそれらの具体的な対象性とは分離された形で、社会的に同等な、価値という対象性を受け取ります。

 

 (ロ) 有用物と価値物という、この二つの対象物に労働生産物が分裂する事態が始めて生じてくるのは、有用物が交換を目当てに生産されるまでに、だからさまざまなものが生産される場合に、それらの価値性格がすでに考慮されるまでに、労働生産物の交換が十分な広がりと、重要性とを獲得した時です。

 

 (ハ) この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は、実際に、二重の社会的性格を受け取ります。

 

 (ニ) 私的諸労働は、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲望、つまり他人の欲望を満たさなければなりません。そしてそうすることによって、その労働が社会の総労働の自然発生的分業の体制の諸分肢であることが実証されなければならないのです。

 

 このことはすでに第1節の最後でも次のように述べられていました。

 

 〈ある物は、商品ではなくても、有用であり人間労働の生産物であることがありうる。自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。{しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は領主のために年貢の穀物を生産し、坊主のために十分の一税の穀物を生産した。しかし、年貢の穀物も十分の一税の穀物も、他人のために生産されたということによっては、商品にはならなかった。商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役だつ他人の手に交換によって移されなければならない(11a)。}最後に、どんな物も、使用対象であることなしには、価値ではありえない。物が無用であれば、それに含まれている労働も無用であり、労働のなかにはいらず、したがって価値をも形成しないのである。  (11a) 第四版への注。――括弧内の文句を私が書き入れたのは、この文句がないために、マルクスにあっては生産者以外の人によって消費される生産物はなんでも商品とみなされるかのような誤解が非常にしばしば生まれたからである。――F・エンゲルス〉(全集版55-6頁)

 

 (ホ) 他面では、私的諸労働は、それらの特殊な有用的私的労働のどれもが、別の種類の有用的私的労働のどれとも交換され得るものであり、したがって、それらが等しいものとして通用する限りでのみ、交換され、よってまた生産者たちの多様な欲求を満たすことができます。

 

 (ヘ) 互いにまったく違った諸労働が同等のものとして通用するということは、それらの違いが捨象されること、すなわち諸労働が、人間労働力の支出として、抽象的人間労働として、それらがもっている共通な性格に還元されることなくしてはあり得ません。

 

 (ト) 私的生産者たちの頭脳には、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格は、実際の交易、生産物交換において現れる諸形態でのみ反映します。

 

 (チ) すなわち、一面では、彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格は、彼らの労働生産物が有用でなければならないという、しかも他人にとって有用でなければならないという形態で反映し、他面では、種類を異にする労働の同等性という社会的性格は、労働生産物というこれらの物質的に異なる諸物の共通な価値性格という形態で反映するのです。

 

 さて最初の議論は、この第7パラグラフ全体の構成を如何に理解するかということでした。というのは、JJ富村さんが準備してくれたレジュメでは、全体を(1)~(4)の番号を付して分けられていたからです。しかし、これでは全体の構成がよく分からないのではないか、という意見が出されました。そして最終的には、このパラグラフ全体は大きくは三つに分けられ、主に三つのことが言われている、ということになりました。すなわち次のように分けることが妥当だろうということです。

 

 (1) まず、最初の部分は、文節の記号では、(イ)、(ロ)にあたり、ここでは労働生産物が、価値対象性を受け取るのは、交換の内部であり、しかも、その交換のどういう発展段階においてであるかが述べられている、ということです。

 

 (2) 次は、文節記号では(ハ)、(ニ)、(ホ)、(ヘ)の部分で、ここではそうした発展段階に照応して、私的諸労働が二重の社会的性格を実際に受け取ることが指摘されています。

 

 だからこの部分は、そうした二重の社会的性格に対応して、「一面では」、「他面   では」という形で説明されていることも確認されました。

 

 またレジュメでは、(ホ)の最後にある「それら自身の生産者たちの多様な欲望を満たす」というのが、二重の社会的性格を得ることの両方にかかっているかに説明されていましたが、これもそうではなく、社会的性格の「他面」との関連で述べられているということになりました。

 

 また(ヘ)の文節が別の一つの項目として(3)の番号が付されていましたが、しかし(ヘ)は社会的性格の「他面」の説明から言いうることとして述べられていることも確認されました。

 

 (3) そして最後の部分は、文節記号では(ト)、(チ)の部分ですが、ここではそうした私的諸労働の社会的性格が、私的生産者たちの頭脳にはどのように反映するかについて述べられているということになりました。

 

 そして(1)では労働生産物の交換のどのような発展段階で、労働生産物は有用物と価値物とに分裂するかが指摘され、(2)ではそうした現実を私的諸労働の二重の社会的性格にまで分析を深めて根拠付け、(3)では、それらが生産者の頭脳にどのように反映するかを明らかにして、(1)でわれわれが労働生産物において確認したことが、実際には、私的諸労働の二重の社会的性格が、生産者の頭脳に反映したものであることが確認されるような構造になっていることも指摘されました。

 

◎第7パラグラフの冒頭の「価値物」を如何に理解すべきか?

 

 次に問題になったのは、(ロ)の文節に出てくる「価値物」の理解についてでした。レポーターは、恐らく以前の議論を踏まえて、ここに出てくる「価値物」は、「貨幣」ではないし、そう理解すべきではない、と報告のなかで述べたのでした。レポーターのそうした主張に対しては、大きな異論は出されなかったのですが、マルクスは、ここでは〈それらのたがいに感性的に異なる使用対象性から分離された〉とか、〈有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂〉と述べているように、物的対象が二つの属性に「分離」するとか、「分裂」すると述べており、この場合は文字通りそのように理解すべきで、それまでの具体的な使用対象性としての有用物とは物的に異なる、交換手段という新たな対象性を受け取った物的存在について述べているのではないか(それが「価値物」ではないか)、という意見が出されました。ただこの問題については、それ以上の議論にはなりませんでした。というのは、一つは、以前の議論というものについて、その場では、ハッキリとは確認できず、それを踏まえた厳密な議論ができなかったからですが、他方では、「貨幣ではないし、そうしたものとして理解すべきではない」というレポーターの主張に対して、確かにここではいまだ「貨幣」が直接には問題になっていないことは明らかなように思えたからでした。しかし、以前の解釈に一定の疑義が提起されたわけですから、やはりそれは厳密に検証されなければならないのではないかと考えます。だからここでは、以前の議論にも遡って、マルクスがこのパラグラフで「価値物」と述べているものを如何に理解すべきかについて、少し詳しく検討してみたいと思います。まず、以前の議論とはどういうものだったのかを振り返ることから始めたいと思います。

 

 「価値物」については、第3節「価値形態または交換価値」のさまざまなところで問題にし、議論を紹介してきました(詳しくは第15回報告[その2]、第16回報告[その1]、第17回報告[その3]、第18回報告[その3]等を参照)。その主な論点は、大谷氏が「価値物」を「価値対象性が与えられているもの」、あるいは「価値対象性を持ったもの」と説明しているのに対して、それではマルクスが上着がリンネルの等価物として「価値物」として通用することによって、リンネルの価値が上着で表現されると述べていることの説明が出来ない。大谷氏の「価値物」の説明では、リンネルの価値が上着によって目に見えるように顕れているものとして捉えたことにはならない、だからそれではリンネルの価値の表現を説明できないと批判をし、「価値物」というのは、「価値の目に見える存在形態」と捉えるべきだと主張してきたのでした。例えば第16回報告(その1)では、第3節の「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」の「2 相対的価値形態」の「a 相対的価値形態の内実」の第3パラグラフに出てくる「価値物」についての議論が次のように紹介されています。

 

 【しかし、実は、大谷氏の説明ではリンネルの価値の表現がなされていないのです。例えば、前回紹介した大谷氏の主張をもう一度紹介してみましょう。

 

  〈労働生産物が商品になると、それは価値対象性を与えられているもの、すなわち価値物となる。しかし、ある商品が価値物であること、それが価値対象性をもったものであることは、その商品体そのものからはつかむことができない。商品は他商品を価値物として自分に等置する。この関係のなかではその他商品は価値物として意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を価値物として自己に等置した商品そのものも価値物であることが表現されることになる。〉(『貨幣論』98頁)  このように大谷氏は価値表現を説明していますが、これでは価値は何一つ表現されたことにはなりません。「表現される」ということは、それが目に見えるようになるということです。そしてそのためには、価値が何らかの形ある物として現われる必要があるのです。しかし大谷氏の説明はそうしたものとはなっていません。というのは、大谷氏は「価値物」=「価値対象性を持ったもの」と説明するからです。例えば、この言葉を大谷氏の説明文に出てくる「価値物」の代わりに挿入すれば、それが分かります。

 

  〈商品は他商品を[価値対象性を持ったもの]として自分に等置する。この関係のなかではその他商品は[価値対象性を持ったもの]として意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を[価値対象性を持ったもの]として自己に等置した商品そのものも[価値対象性を持ったもの]であることが表現されることになる。〉

 

  このように書き換えてみると、何一つ価値が表現されていないことが分かります。というのは〈[価値対象性を持ったもの]として意義をもつ、通用する〉と言っても、それだけでは、価値が目に見えるものとして、すなわち形ある物として現われていることにはならないからです。形あるものと顕れていないなら、それは表現されたとは言えません。マルクスは《上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する》と述べています。《価値の存在形態》というのは、本来は“まぼろし”のような対象性しかもたない価値が、形ある物として存在するということなのです。それが《価値物》の意味です。だからそうした「価値物」の理解に立たない大谷説では、価値は表現されているとは言えないのです。】

 

 ただ大谷氏が『貨幣論』(久留間鮫造著、大月書店、1979.12.24)で自説を補強するために、『資本論』から5つの引用文を紹介しているのですが(同著96-7頁)、その最後に紹介している引用文が、今回、まさに問題になっている第7パラグラフの冒頭の部分なのです。そしてこの引用文について、果たしてそれが大谷説を補強するようなものなのかについて、批判的検討を加えたのが、第18回の報告(その3)でした。その内容も少し紹介しておきましょう。

 

 【大谷氏は、『資本論』からの引用文を紹介する前にまず久留間鮫造氏の『価値形態論と交換過程論』からの一文を長く引用したあと、次のように問題を提起しています(傍点は下線に変換)。

 

  〈いまの引用では、等価形態に置かれる上着は、この形態に置かれたときにはじめて「価値物」になる、「価値物」としての形態規定性を与えられることになっています。ここでの「価値物」の意味は、次のところにはっきりと示されています、--「ではどのようにして上衣は--その自然形態そのものが--そのまま価値をあらわすものに、すなわち価値物になるのか……」。また、繰り返して、「抽象的人間的労働の体化物すなわち価値物」と言われています。「価値物」がこのようなものであるとすると、それはもちろん等価形態に立つ商品についてのみ言いうることで、相対的価値形態にある商品、たとえばリンネルはつねに「価値物」ではないということになります。じっさい先生は、上着のほうについてのみ「価値物」と言っておられます。ところが、マルクスの場合には、「価値物(Wertding)」という言葉が先生が使われているのとは違った意味で使われているように思われてならない。『資本論』の第1章からその用例を示すと、次のようなものがあります。〉(『貨幣論』96頁)

 

  そして大谷氏は『資本論』から5つの引用文を紹介しているわけです。しかしそのうちの2~4の引用文は、すでにわれわれがこの「a 相対的価値形態の内実」を詳細に検討するなかで明らかにしてきたものです(第3、第5、第10の各パラグラフに出てくる「価値物」が引用されている)。だからわれわれは大谷氏が最初と最後に引用紹介しているものだけをここでは検討すれば良いと思います。それらが、大谷氏によると、「価値物」は上着だけでなく、リンネルについても言いうる用例であり、〈「価値物」とは価値対象性をもつもの〉という概念を示すものだというわけです。果たしてそうなのか、マルクスはそうした意味で「価値物」という用語を使っているのか、それをこれからその二つの引用文について検討してみようというわけです。それは次のようなものです。

 

  まず大谷氏が最初に引用しているのは、前にも紹介しましたが、次のような第3節の前文に出てくる文章です。

 

 〔中略……この最初の引用文の検討については省略しますが、もし興味のある方は第18回報告を参照してください〕

 

  次に大谷氏が最後に引用しているのは、「第4節 商品の物神的性格とその秘密」のなかにある次の一文です。〔つまり、今回、われわれが学習した第7パラグラフの冒頭部分です〕。

 

  《労働生産物は、それらの交換の内部で、はじめてそれらのたがいに感性的に異なる使用対象性から分離された、社会的に同等な、価値対象性を受け取る。有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂がはじめて実際に発現するのは、有用物が交換を目あてに生産されるまでに、したがって、諸物の価値性格がすでにそれらの生産そのものにおいて考慮されるまでに、交換が十分な広がりと重要性とを獲得した時である。》(全集版99頁)

 

  この一文は、一見すると、如何にも大谷氏らの「価値物」理解を正当化するように思えます。マルクスは《感性的に異なる使用対象性》と《社会的に同等な、価値対象性》を上げ、それを言い換える形で《有用物と価値物》を挙げているのですから、この場合の《価値物》は《価値対象性を受け取る》こと、つまり「価値対象性を持つもの」という大谷氏の主張を根拠づけているように見えるわけです。

 

  しかしこの文章を良く吟味してみるとそうではありません。例えば、マルクスは《それらの交換の内部で》と書いているように、ここで問題になっているのは諸物なのです。《それらが互いに感性的に異なる使用価値から分離》されて、《社会的に同等な、価値対象性を受け取る》と述べています。ここで《受け取る》のは《それら》の《諸物》であり、《それら》の《諸物》が《それらの互いに感性的に異なる使用価値から分離》されて、つまりそれらの諸使用価値と区別された存在として、《社会的に同等な、価値対象性を受け取る》と述べているのですから、この《社会的に同等な、価値対象性》というのは、ある特定の労働生産物がそうした一般的な等価物として分離されてくる事態をマルクスは述べていると考えるべきなのです。この文章は、すでに貨幣形態まで説明が終わったあとに展開されている、第4節の文章であることも考える必要があります。

 

  また上記の引用文は、次の文章とまったく同じ内容を述べていると考えることが出来ます。

 

  《交換の不断の反復は、交換を一つの規則的な社会的過程にする。したがって、時の経過と共に、労働生産物の少なくとも一部分は、意図的に交換めあてに生産されざるをえなくなる。この瞬間から、一面では、直接的必要のための諸物の有用性と交換のための諸物の有用性とのあいだの分離が確定する。諸物の使用価値は、諸物の交換価値から分離する。》(全集版23a118頁)

 

  これは「第2章 交換過程」の中の一文ですが、ここで注意が必要なのは、《諸物の使用価値》が分離するのは、《諸物の交換価値》からだということです。これは先の第4節の引用文のなかにある《有用物と価値物》に該当すると考えてよいでしょう。つまりこの二つの引用文から類推するに、マルクスが先の第4節の引用文で述べている《価値物》は《交換価値》を意味していると考えられるのです。いうまでもなく、《交換価値》というのは、価値が目に見える形で現象している形態にあるものです。すなわち、上記の引用文が述べているのは、諸物の使用価値が、価値の現象形態としての《交換価値》から分離するということです。だから使用価値が分離するのは、ただ単に「価値対象性を持つもの」というような価値を内在的に持っている物からではなく、価値が現象して目に見えている物からなのです。またそれを言い換えて《直接的必要のための諸物の有用性と交換のための諸物の有用性とのあいだの分離が確定する》とも述べています。《交換のための諸物の有用性》というのは、諸物の使用価値がただ交換のためにだけに使われるということです。つまり等価物に置かれた商品の使用価値が価値を表すためにだけに使われるということなのです。だからこれもやはり価値が目に見える形で現われた物を意味しているのです。

 

  だからもう一度、最初の引用文に返ると、マルクスが《有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂》と述べている《価値物》というのは、単に「価値対象性を持つもの」といった意味ではなく、「価値が目に見える物という形で」現われているもの、つまり「一般的な等価物」、あるいは「貨幣」を意味しているのです。そのように理解すべきものなのです。かくして大谷氏らの主張にはまったく根拠がないことがこの引用文でも論証されるのです。】

 

 このようにここでは結論的に【マルクスが《有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂》と述べている《価値物》というのは、単に「価値対象性を持つもの」といった意味ではなく、「価値が目に見える物という形で」現われているもの、つまり「一般的な等価物」、あるいは「貨幣」を意味しているのです】と述べています。レポーターは、恐らくこの以前の解釈を意識して、この第7パラグラフの冒頭でマルクスが述べている「価値物」は「貨幣ではないし、そうしたものとして理解すべきではない」と述べたのだと思います。そしてレポーターが指摘したように、この以前の考察には、一定の行き過ぎと限界があったように思えます。

 

 まず第7パラグラフの冒頭部分では、まだ貨幣が直接問題になっているわけではないのですから、「価値物」を〈「貨幣」を意味している〉などというのは明らかに行き過ぎなのです。また以前の考察は、第3節の価値形態の分析の中での考察なので、やむを得ない面もありますが、しかし今回の第7パラグラフは第4節の物象論の中の一文であるということが十分意識されていない嫌いがあります。この第7パラグラフでは、マルクスは一貫して「労働生産物」の交換について述べていますが、決して「商品」の交換について述べているのではありません。第3節では「商品」はいわば考察の前提でした。諸商品の交換関係を前提した上で、そこに潜む商品の価値の表現形態を分析し明らかにすることが課題だったのです。しかし第4節ではそうではないのです。以前、第4節の課題について次のように指摘したことがあります。

 

 【しかし、それでは第4節はどういう意義を持っているのでしょうか。これは次回以降の学習の対象であり、次回以降の課題になりますが、久留間氏の諸説を検討したついでに、少し先回りして簡単に論じておきましょう。

 

 確かに第3節までで商品とは何かは明らかになったのですが、しかしそれだけでは商品の何たるかが十全に解明されたとは言えないのです。というのは商品というのは、歴史的にはどういう性格のものなのかがまだとらえられていないからです。資本主義的生産様式は歴史的な一つの生産様式です。だから資本主義的生産様式とそれに照応する生産諸関係や交易諸関係というものも、やはり歴史的な存在であるわけです。だから資本主義的生産様式を構成するさまざまな諸契機もやはりそれぞれが、やはり歴史的な存在なのです。つまりそれらも歴史的に形成されてきたものであり、それぞれがそれぞれの歴史を持っており、それぞれがそれぞれの生成や発展、消滅の過程を辿っているものなのです。だから商品の何たるかを十全に把握するためには、それを歴史的なものとしてとらえる必要があるわけです。そしてその課題を解決しているのが、すなわち第4節なのです。】(第32回報告「その2」から)

 

 つまり第1節~第3節は資本主義的生産様式が支配している社会の富の要素形態である「商品」を、そのまま前提して、それを観察・分析・考察することから「商品とは何か」が解明されたのでした。しかし、第4節では、商品そのものが歴史的にどのように生まれてきたのか、あるいはそもそも労働生産物が商品になるのは如何なる理由によるのかを解明することが課題なのです。

 

 もちろん、諸商品を前提して、それを分析していく中でも、その歴史性は明らかにされうるし、されてきたのですが(価値形態の考察では、常に問題は歴史的にも取り扱われています)、しかし商品が商品でないものから(労働生産物から)、商品に如何にして何ゆえになるのかということは、商品を前提した分析では明らかにならないのです。商品を見ている限りは、それ以前のものは歴史の背後に隠されており、決してわれわれは見ることができないからです。だからマルクスはそうした問題は自ずと別の課題になるのだと述べています。そしてその課題を果たすのが、すなわち第4節なのです。

 

 その意味では先の考察(第18回報告、その3)は、そうした第4節の課題を十分踏まえたものにはなっていない面があったと言えます。大谷氏が紹介している5つの引用文のうち前の4つは、すべて第3節の価値形態からのものであり、価値の表現形態が問題になっている部分から引用されたものです。だからそこで問題になっているのは「諸商品」であり、交換され、等置されるのは「商品」なのです。ところが5つ目の引用文だけは、第4節からのものなのです。だからこの引用文の場合は、価値形態や価値表現のそれまでの考察の延長上で考えることは必ずしも正しくは無かったと言えるでしょう。

 

 それでは第4節の位置を意識して、第7パラグラフの冒頭に出てくる「価値物」は如何に理解すべきでしょうか。それについて、一定の見解を明らかにしたいと思います。ただし、このことは学習会で述べたことではないので、次の学習会では批判的に検討される必要があるでしょう。

 

 まず注意しなければならないのは、すでに指摘したように、ここでは商品の価値の表現や形態が問題になっているのではないということです。第3節では商品の価値形態が問題でした。それは商品の交換関係を前提しながら、その交換関係に潜む商品の価値の表現形態を明らかにするものだったのです。しかし、今、問題になっているのは、そうした問題ではありません。ここでは交換されるのは「労働生産物」です。そして交換関係に潜む価値の表現形態ではなく、実際の交換そのもの(その歴史的な発展段階)が問題になっています。労働生産物の価値性格がハッキリ現れてくるのは、労働生産物の交換の一定の発展段階においてだということが指摘されているのです。その意味では、労働生産物の価値性格が明確に現れてきて、初めて労働生産物は「商品」になるとも言えるわけです。そうした問題を論じるなかで、「価値物」というタームが出てくるということがまず確認されなければなりません

 

 そしてパラグラフの本文にそって問題を考えてみますと、そこでは労働生産物が価値を持つのは、労働生産物の交換の内部においてであること、しかも、その労働生産物の交換がある程度発展して初めて、そうした労働生産物の価値性格がハッキリ現れてくるのだと述べているわけです。

 

 われわれが商品の価値の形態を問題にした時には、交換されるのは商品であることは当然のことながら前提されていました。しかし、このパラグラフでは、労働生産物が交換され、その交換される労働生産物が価値を持つようになるのは、どういう交換の発展段階かが問題になっているのです。労働生産物は一つの有用物です。つまりそれは本来は、直接に生産者の欲望を満たすものなのです。生産者は自らの欲望を満たすために、物を作るわけです。しかし、それが価値という性格を持つのは、もはやそれが彼の、つまりその労働生産物を生産した者の欲望を満たすものとしてではないのです。それは生産者にとっては、それ以前に持っていた有用物としての性格とは違ったものとして、すでに彼には現れているのだ、というわけです。だからマルクスはそうした性格は、有用物とは〈分裂して〉現れてくると述べているのだと思います。つまり労働生産物の交換が発展して、生産者がその生産物の価値性格を意識するような段階、つまり交換を目的に生産を行うような段階、そのような段階においては、労働生産物はもはや生産者の欲望を満たす有用物ではなく、ただ彼のさまさまな欲望を満たすために必要なさまざまな他の労働生産物を彼が入手するための「手段」でしかなくなるわけです。だからここには、それが本来は持っていた有用物という属性とは分裂した、ある一つの属性が労働生産物に付け加わっているとマルクスは指摘しているわけです。それはすなわち他の労働生産物との「交換のための手段」という属性です。そしてその限りではそれは他の労働生産物と社会的に同等な性格を持ったものとして存在している、それをマルクスは「価値物」と述べているのだと思います。だから価値形態に出てくる「価値物」は、相対的価値形態にある商品の価値が一つの他の等価形態にある商品の物的姿をとって現れてきた物でしたが、このパラグラフにおける「価値物」とは、そうしたものではなく、労働生産物そのものが「価値物」として現てくるということを述べているのだと思います。

 

  これは分かりやすくいうと、次のような事態を述べているのだと思います。労働生産物の交換がある程度発展し、生産者が交換を目的に生産するようになると、生産者はそれまでの自家消費分(有用物)とは別に、交換用の労働生産物を、それとして区別して、物的にも区別し分けるようになります。これが有用物と価値物とへの労働生産物の「分裂」、あるいは「分離」ということの実際の内容なのです。このように考えてみれば、それほど難しいことを言っているわけではないことが分かります。

 

 マルクスは、有用物と価値物とに労働生産物が分裂する段階を、労働生産物が、すでに交換を目的に生産される段階、だから生産においてすでにその価値性格を意識する段階と述べています。これは価値形態の発展段階としては、どの段階を意味するでしょうか。それは労働生産物のうちの主に剰余物だけが、たまたま偶然に、個別的に、交換されるような段階ではないことは明らかです。だから価値形態の発展段階としては、形態 I(「簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」) の段階ではなく、形態II(全体的な、または展開された価値形態」)か、あるいは形態III(一般的価値形態)の段階だと考えられます。

 

 形態IIというのは、ある特定の労働生産物が次々と他のさまざまな労働生産物と交換されていく段階です。これは具体例を上げて説明しますと、遊牧民族がその遊牧の過程で、接触したさまざまな定着農耕民族と自分たちの生産物である羊を小麦やジャガイモなどと交換してゆくような段階と考えることができるでしょう。羊はさまざまな労働生産物を自らの価値の表現形態にしますが、しかし羊と交換される小麦やジャガイモなどは、それらを生産する定着農耕民族にとっては依然として剰余生産物であり、彼らからみれば、この交換は依然として個別的・偶然的なものにすぎないわけです。つまり彼らから見れば、価値形態としては形態 I の段階です。しかし交換がさらに発展し、商品交換がそうした定着農耕民族までをも捉えるようになると、彼らも交換を目当てに生産するようになり、互いの労働生産物をも交換し始めるようになりますが、そうした段階では、彼らは自分たちの労働生産物の価値性格を、それまでの彼らにとっての共通の物差しであった羊で秤量し、そうして互いの労働生産物を交換するようになります。そのような発展段階が、すなわち形態IIIだったわけです。

 

 だからマルクスがここで、労働生産物が有用物と価値物とに分裂する段階というのは、価値形態の発展段階としては、果たしてどういう発展段階を指していると考えることができるでしょうか。私は形態IIにおける、次々と自らの価値を表現して展開する労働生産物のみが、そうした発展段階に該当すると考えることができると思います。つまり自らの価値を展開して表現する商品のみが、最初から交換を目的に生産され、よってその価値性格を意識して生産されるような段階に達していると考えるわけです。先の第18回報告の考察のなかで紹介していた第2章の一文でもマルクスは次のように述べていました。

 

 《交換の不断の反復は、交換を一つの規則的な社会的過程にする。したがって、時の経過と共に、労働生産物の少なくとも一部分は、意図的に交換めあてに生産されざるをえなくなる。この瞬間から、一面では、直接的必要のための諸物の有用性と交換のための諸物の有用性とのあいだの分離が確定する。諸物の使用価値は、諸物の交換価値から分離する。》(全集版23a118頁)

 

 つまり《労働生産物の少なくとも一部分は、意図的に交換めあてに生産されざるをえなくなる》段階こそ、こうした段階ではないでしょうか。

 

 もちろん、形態IIIの場合も、それ以外の多くの労働生産物も、価値性格を意識して生産するようになる段階なのですから、そうしたものに該当するのはいうまでもありません。しかしマルクスが「この瞬間から」と述べているように、そうした最初の商品が歴史的に登場するのは、どういう段階かと考えるなら、形態IIがそれに相応しいと言えるでしょう。

 

 いずれにせよ、労働生産物が「価値物」という属性を獲得するのは、決して、形態 I のような段階ではないということ、すでに貨幣の萌芽として、労働生産物が本来持っている有用物という性格から分離した形で、ただ交換だけを目的に生産されるようになり、あらゆる他の労働生産物と交換するための手段という、新たな属性を獲得した物という意味が、すなわちマルクスがここで述べている「価値物」だと思うわけです。

 

 これは余談ですが、たまたまNHKのBSプレミアムの番組を観ていると、北欧ノルウェーのバイキングについて、彼らがどうしてあのような極寒の不毛の地で、一大勢力を築き、さまざまなところに出かけて行くようになったのか、について解説していました。それは「干し鱈(タラ)」の製法を彼らが発明したことによるのだというのです。「干し鱈」そのものは、ある時期に大量に取れる鱈を、不漁の時の食料として利用するために保存することが目的だったと思います。つまり「干し鱈」は、当初はその限りでは一つの「有用物」に過ぎなかったのです。しかし「干し鱈」は長期の保存が可能であり、しかもそれを他の多くの隣接民族が欲しがり、彼らが持っているものと交換できるということをバイキングは知るようになるわけです。かくしてバイキングは大量の「干し鱈」を交換を目的に生産するようになり、それを持って大航海をし、それを色々な地域で、小麦や絹など彼らが必要とするさまざまなものと交換するようになっていったというのです。それが彼らが大航海に乗り出した動機であり、原動力だったというわけです。それを解説者は、「干し鱈は貨幣になった」と述べていました。つまり「干し鱈」は単なる保存食としての「有用物」から、「交換手段」という新たな対象性を獲得したのです。「干し鱈」は単なる「有用物」という対象性から、それとは区別された、その対象性から分離した「交換手段」という新たな対象性を獲得したのです。これがすなわち、ここでマルクスが述べている「価値物」ではないだろうかと思ったのでした。 

 

◎第8パラグラフについて

 

 第8パラグラフについても、同じようにまず本文を紹介し、文節ごとの解読をやり、その中で議論の紹介も行っていくことにします。

 

 【8】〈 (イ)したがって、人間が彼らの労働生産物を価値としてたがいに関係させるのは、これらの物が彼らにとって一様な人間労働の単なる物的外皮として通用するからではない。 (ロ)逆である。 (ハ)彼らは、彼らの種類を異にする生産物を交換において価値としてたがいに等置しあうことによって、彼らのさまざまに異なる労働を人間労働としてたがいに等置するのである。 (ニ)彼はそれを知ってはいないけれども、それを行う(27)。 (ホ)だから、価値の額(ヒタイ)にそれが何であるかが書かれているわけではない。 (ヘ)むしろ、価値が、どの労働生産物をも一種の社会的象形文字に転化するのである。 (ト)後になって、人間は、この象形文字の意味を解読して彼ら自身の社会的産物--というのは、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的産物だからである--の秘密の真相を知ろうとする。 (チ)労働生産物は、それが価値である限りでは、その生産に支出された人間労働の単なる物的表現にすぎないという後代の科学的発見は、人類の発達史において一時代を画するものではあるが、労働の社会的性格の対象的外観を決して払いのけはしない。 (リ)商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまること、すなわち、たがいに独立した私的諸労働に特有な社会的性格は、それらの労働の人間労働としての同等性にあり、かつ、この社会的性格が労働生産物の価値性格という形態をとるのだということが、商品生産の諸関係にとらわれている人々にとっては、あの発見の前にも後にも、究極的なものとして現れるのであり、ちょうど、空気がその諸元素に科学的に分解されても、空気形態は一つの物理的物体形態として存続するのと同じである。〉

 

 (イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ) したがって、人間が彼らの労働生産物を価値として互いに関係させるのは、それらの物が彼らにとって、一様な人間労働の単なる物的外皮として通用しているからではありません。つまり彼らは、自分たちの異なる労働が人間労働として同等であることを知っているから、だからそれらの生産物を互いに交換し、関係づけているのではないのです。事態はむしろ逆なのです。彼らは、彼らの種類の異なる生産物を交換において価値として互いに等置しあうことによって、彼らのさまざまに異なる労働を人間労働として互いに等置しあっているのです。だから彼らは、彼らの労働生産物を交換することによって、自分たちの労働を関係させているのですが、彼らはそのことを知りません。知らないままに、実際には、それを行っているのです。

 

 この最初の〈したがって〉は、その前のパラグラフ(第7)の最後の部分を直接受けたものだと思います。フランス語版では、パラグラフをまたいで次のようになっています。

 

 〈私的労働の二重の社会的性格は、実際の交易つまり生産物の交換が生産者たちに押しつけられる形態でのみ、彼らの頭脳に反映される。生産者たちは彼らの労働生産物を価値として対峙させて関連させるが、それは、彼らがその労働生産物のうちに、同一の人間労働を隠している単なる外被を、看取するからではない。全く逆である。彼らは、自分たちの相異なる生産物を交換において同等と見なすことによって、自分たちの相異なる労働が同等であることを実証する。彼らはそうとは知らずにそうする。(27) 〉(江夏他訳49頁)

 

 また初版本文では、一見すると、逆のような表現になっています。

 

 〈人々が彼らの諸生産物を、これらの諸物が同種の人間労働の単なる物的外皮として認められているかぎりにおいて、価値として互いに関係させるならば、このことのうちには、同時にこのこととは逆に、彼らのいろいろな労働が、物的外皮のなかでは、同種の人間労働としてのみ認められる、ということが含まれている。彼らは、自分たちの諸生産物価値として互いに関係させることによって、自分たちのいろいろな労働を人間労働として互いに関係させているのである。人的な関係が物的な形態で蔽い隠されている。〉(江夏訳61頁)

 

 つまり第二版では、〈一様な人間労働の単なる物的外皮として通用するからではない〉となっているのに、初版本文では〈これらの諸物が同種の人間労働の単なる物的外皮として認められているかぎりにおいて、価値として互いに関係させる〉となっているからです。

 

 しかしよく読んでみると、両者は同じことを述べていることが分かります。初版本文の述べていることは、人々が彼らの諸生産物を価値として互いに関係させるのは、それらの諸物が同種の人間労働の単なる物的外皮として認められる限りにおいであるが、このことは、彼らのさまざまな異なった労働が、物的外皮のなかで、同種の人間労働として認められるということが含まれているのだ、ということです。つまり諸物を価値として関係させるということは、実際上は、彼らの異なった諸労働を同種の人間労働として関係させ、認め合っていることになるのだ、ということなわけです。つまり彼らは諸生産物を交換して価値として互いに関係させていると考えているが、しかしそのことは彼ら自身の労働を人間労働として互いに関係させているのだ、しかし、人間のそうした互いの関係が、物的な関係を媒介して行われており、物的な関係によって蔽い隠されてしまっているのだということです。交換当事者には、ただ諸物の交換(諸物を価値として関係させる)という現実しか目に入っていませんが、しかし彼らは、自分では意識せずに、彼ら自身の労働を互いに人間労働として関係させているのだ、本当は、彼らは、そうした物の関係に媒介されて、互いに社会的に人間同士の関係を取り結んでいるのだ、しかしそのことは覆い隠されていし、彼らの知らないことなのだ、ということでしょう。

 

 (ホ)、(ヘ)、(ト)  彼らはそうした事実を知らないのですが、しかしそれを行っているのです。だから、生産物が価値を持っているということは意識されますが、それが何であるかということは一つも分からないのです。むしろ生産物が価値を持っているということが、労働生産物をわけの分からないものに、つまり一種の社会的象形文字にしてしまうのです。それが何であるかは、もっとあとになって、その象形文字を解読して、その秘密を知るのです。使用価値の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的産物なのです。

 

 この部分もフランス版では次のようになっています。

 

 〈だから、価値の額(ヒタイ)の上には、それがなんであるかは書かれていない。価値はむしろ、それぞれの労働生産物を象形文字にする。時が経ってやっと、人間はこの象形文字の意味を解読し、自分が関与して作ったこの社会的生産物の秘密を洞察しようと試みるのであって、有用物の価値への転化は、言語と全く同じに社会の産物なのだ。〉(49頁)

 

 (チ) 労働生産物は、それが価値であるかぎりでは、その生産に支出された人間労働の単なる物的表現に過ぎないという後代の科学的発見は、人類の発達史において一時代を画する偉大な発見ですが、しかし、それが発見されたからといって、労働の社会的性格が、物の関係として現れている現実そのものを決して無くさないのです。

 

 ここで〈後代の科学的発見〉について、マルクスのことを述べているのかという質問がありましたが、そうではなく古典派経済学のことではないかという指摘がありました。なおこの点に関連して、『経済学批判』の次の一文を紹介しておきましょう。

 

 〈商品を二重の形態の労働に分析すること、使用価値を現実的労働または合目的な生産的活動に交換価値を労働時間または同等な社会的労働に分析することは、イギリスではウィリアム・ペティに、フランスではボアギユベールに始まり、イギリスではリカードに、フランスではシスモンディに終わる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判的最終成果である。(中略) 

  ペティは、労働の創造力が自然によって制約されているということについて思いちがいをすることなしに、使用価値を労働に分解している。彼は現実的労働をただちにその社会的総姿態において、分業としてとらえた。素材的富の源泉についてのこの見解は、たとえば彼の同時代人ホッブズの場合のように、多かれ少なかれ実を結ばずに終わることなく、彼をみちびいて、経済学が独立の科学として分離した最初の形態である政治算術に到達させた。けれども彼は、交換価値をそれが諸商品の交換過程で現象するままに、貨幣と解し、しかも貨幣そのものを実在する商品、つまり金銀と解した。彼は重金主義の表象にとらわれて、金銀を獲得する特殊な種類の現実的労働を、交換価値を生みだす労働だと説明した。実際上、彼はブルジョア的な労働が生産しなければならないのは、直接的な使用価値ではなく、商品であり、交換過程におけるその外化によって金銀として、すなわち貨幣として、すなわち交換価値として、すなわち対象化された一般的労働として自分をあらわすことのできる使用価値である、と考えた。それはとにかく、彼の例は、労働を素材的富の源泉と認識しても、それはけっして労働が交換価値の源泉となっている一定の社会的形態についての誤解をとりのぞくものではない、ということを適切に示している。〉(全集13巻36-7頁)

 

 (リ) 互いに独立した私的諸労働の独特な社会的性格が、それらの労働の人間労働としての同等性にあり、またこの社会的性格が労働生産物の価値性格という形態をとるということは、商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまることです。だから、商品生産の社会に身を置き、それを当然の前提として受け入れている人々、つまり物象的な関係にとらわれている人たちとっては、価値が、その生産に支出された人間労働の物的表現に過ぎないということが分かったとしても、しかしそれによって商品生産の社会こそが究極の絶対的なものとして現れるということは何一つ変わらないのです。それは空気がその諸元素に科学的に分解されたとしても、そのことによって空気形態が依然として、一つの物理的形態として存在しているのと同じなのです。

 

 この部分も参考のためにフランス語版を紹介しておきましょう。

 

 〈この特殊な生産形態、つまり商品生産にとってのみ真実であるもの--すなわち、この上なく多様な諸労働のもつ社会的性格が、人間労働としてのそれらの同等性のうちに成り立っていること、そしてまた、この独自な社会的性格が労働生産物の価値形態という客体的形態をとっていること--、この事実は、商品生産の機構と関係のなかにとらわれている人間にとっては、価値の性質の発見の前後を問わず不変であり、自然界の事実であるかのように見えるのであって、このことは、空気の化学元素の発見の前後を問わず相変わらず同じである空気という気体形態のばあいと、全く変わりがない。〉(同上50頁)

 

 なお注27については、ほとんど議論にもならなかったので解読も省略します。

 

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【付属資料】

 

●第7パラグラフに関連したもの

 

《補足と改訂》

 

 〈◇

 

 労働生産物は、それらの交換の内部ではじめて、互いに感性的に異なる使用対象から分離された、社会的に同等な、価値対象性を受け取る。有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂がはじめて実際に発現するのは、有用物が交換をめあてに生産されるまでに、したがって、諸使用価値の価値性格がすでにそれらの生産そのものにおいて考慮されるまでに、交換が十分な広がりと重要性とを獲得したときである。この瞬間から、生産者たちの私的労働は、実際に、二重の社会的性格を受け取る。私的労働は、一面では、一定の有用的労働として一定の社会的欲求を満たさなければならず、そうすることによって、総労働の、自然発生的な社会的分業の体制の、諸分肢として実証されなければならない。私的諸労働は、他面では、特殊的な有用的な種類の私的労働のどれもが、別の種類の有用的私的労働のどれとも交換されうるものであり、したがって、これらと等しいものとして適用する限りでのみ、それら自身の生産者たちの多様な欲求それ自体を満たす。しかし、互いにまったく異なる諸労働の同等性は、ただ、現実の不等性の捨象、諸労働が人間的労働力の支出として、抽象的人間的労働として、もっている共通な性格への還元においてしか、成り立ちえない。[33]異なった具体的私的労働の、同じ人間的労働という抽象物への還元は、事実上、異なった労働の生産物が、互いに等置される交換を通してのみ行なわれる。[31]5)それゆえ、商品生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換で受け取る諸形態でのみ反映する。つまり、商品生産者たちの頭脳は、彼らの私的労働の社会的有用的性格を、労働生産物が有用物である、いわば他人にとって有用でなければならない、という形態において反映し、異なった穫類の労働の同等性という社会的性格を、これら物質的に異なった物の、労働生産物の、共通の価値性格として反映するのである。〉(30-1頁)

 

《フランス語版》

 

 〈労働生産物はその交換のなかではじめて、有用物としての多様な物的存在とは区別されるところの、同等で一様な社会的存在を、価値として獲得する。有用物と価値物への労働生産物のこのような分裂が実際にひろがるのは、有用物が交換を目あてに生産されるほどに、交換が充分広範囲かつ大量に行なわれるようになった直後のことであって、このために、これらの有用物の価値性格は、生産そのもののなかですでに考慮されるようになるのである。生産者たちの私的労働は、この瞬間から、事実上二重の社会的性格を獲得する。これらの私的労働は一方では、有用労働でなければならず、社会的な必要をみたさなければならず、このようにして総労働の、すなわち自然発生的に形成される社会的分業体制の、構成部分として確認されなければならない。他方、これらの私的労働は、それぞれの有用な私的労働種類が他のすぺての有用な私的労働種類と交換可能なものであり、すなわち、これらと同等であると見なされるがゆえにはじめて、生産者自身のさまざまな必要をみたすのである。相互に全くちがっている労働の同等性は、それらの労働の現実の非同等性を無視するばあい、すなわち、それらを人間労働力の支出としての、人間労働一般としての共通な性格に還元するぽあいに、はじめて成立しうるのであって、ただ交換だけが、この上なく多様な労働生産物を同等の立場で相互に対面させることによって、こうした還元を行なうのである。〉(48-9頁)

 

●第8パラグラフに関連したもの

 

《初版本文》

 

 〈人々が彼らの諸生産物を、これらの諸物が同種の人間労働の単なる物的外皮として認められているかぎりにおいて、価値として互いに関係させるならば、このことのうちには、同時にこのこととは逆に、彼らのいろいろな労働が、物的外皮のなかでは、同種の人間労働としてのみ認められる、ということが含まれている。彼らは、自分たちの諸生産物価値として互いに関係させることによって、自分たちのいろいろな労働を人間労働として互いに関係させているのである。人的な関係が物的な形態で蔽い隠されている。したがって、価値の額には、価値がなんであるかは書かれていない。人々は、自分たちの諸生産物を商品として互いに関係させるためには、自分たちのいろいろな労働を、抽象的な、人間的な、労働に、等置することを強制されている。彼らはこのことを知つてはいないが、彼らは、物質的な物を抽象物である価値に還元することによって、このことを行なうのである。これこそが、彼らの頭脳の自然発生的な、したがって無意識的で本能的な作用であって、この作用は、彼らの物質的生産の特殊な様式と、この生産によって彼らが置かれているところの諸関係とから、必然的にはえ出てくるものである。第一に、彼らの関係は実践的に存在している。だがしかし、第二に、彼らは人間であるがゆえに、彼らの関係は、彼らにとっての関係として存在している。それが彼らにとって存在している仕方、あるいは、それが彼らの頭脳のなかに反射している仕方は、この関係の性質そのものから生まれてくる。のちになって彼らは、科学に頼って、彼ら自身の社会的生産物の秘密を見抜こうとする。なぜならば、物の価値としての規定は、言語と同じに、彼らの産物だからである。〉(江夏訳61-2頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈したがって、人聞が彼らの労働生産物を価値として互いに関連させるのは、これらの物が彼らにとって一様な人間的労働の単なる物的外皮のために通用するからではない。逆である。彼らは、彼らの種類を異にする生産物を交換において価値として互いに等置し合うことによって、彼らのさまざまに異なる労働を人間的労働として互いいに等置するのである。彼らはそれを知ってはいないけれども、それを行なう。〔注27。だから、ガリアーニが、価値は二人のあいだの関係である、と言うとき、(ガリアーニ『貨幣について』クストーディ編『イタリヤ古典経済学者』叢書、近代編、第3巻、ミラノ、1803年、221ぺージ)  彼は、物的外皮のもとにおおい隠された関係、とつけ加えるべきであったろう。〕だから、価値の額にそれがなんであるかが書かれているわけではない。むしろ、価値が、どの労働生産物をも一種の社会的象形文字に転化するのである。あとになって、人聞は、この象形文字の意味を解読して彼ら自身の社会的産物--というのは、労働生産物の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的産物だからである--の秘密を知ろうとする。労働生産物は、それが価値である限り、その生産に支出された人間的労働の単なる物的表現にすぎないという後代の科学的発見は、人間の発達史において一時代を画するものではあるが、労働の社会的性格の対象的外観を決して払いのけはしない。商品生産というこの特殊的生産形態だけにあてはまること、すなわち、私的労働の独特な社会的性格は、人間労働一般としてのそれらの同等性にあり、かつ、この独特な社会的性格が対象的形態、労働生産物の価値性格という形態をとらねばならないということが、[3 2 ]商品生産の諸関係にとらわれている人々にとっては、あの発見のまえにもあとにも、自然なものとして現われるのであり、ちょうど、空気がその諸元素に分解されでも、そのまえにもあとにも、空気形態は物体の白然な形態として存続するのと同じである。〉(31-2頁)

 

《フランス語版》

 

 〈私的労働の二重の社会的性格は、実際の交易つまり生産物の交換が生産者たちに押しつけられる形態でのみ、彼らの頭脳に反映される。生産者たちは彼らの労働生産物を価値として対峙させて関連させるが、それは、彼らがその労働生産物のうちに、同一の人間労働を隠している単なる外被を、看取するからではない。全く逆である。彼らは、自分たちの相異なる生産物を交換において同等と見なすことによって、自分たちの相異なる労働が同等であることを実証する。彼らはそうとは知らずにそうする。(27) だから、価値の額(ヒタイ)の上には、それがなんであるかは書かれていない。価値はむしろ、それぞれの労働生産物を象形文字にする。時が経ってやっと、人間はこの象形文字の意味を解読し、自分が関与して作ったこの社会的生産物の秘密を洞察しようと試みるのであって、有用物の価値への転化は、言語と全く同じに社会の産物なのだ。〉(49頁) 〈労働生産物は価値としてはその生産に支出された人間労働の純粋にして単純な表現である、という後世の科学的発見は、人類の発展史上に一時期を画すものであるが、労働の社会的性格を物の性格、生産物自体の性格として出現させる幻影を、少しも一掃するものではない。この特殊な生産形態、つまり商品生産にとってのみ真実であるもの--すなわち、この上なく多様な諸労働のもつ社会的性格が、人間労働としてのそれらの同等性のうちに成り立っていること、そしてまた、この独自な社会的性格が労働生産物の価値形態という客体的形態をとっていること--、この事実は、商品生産の機構と関係のなかにとらわれている人間にとっては、価値の性質の発見の前後を問わず不変であり、自然界の事実であるかのように見えるのであって、このことは、空気の化学元素の発見の前後を問わず相変わらず同じである空気という気体形態のばあいと、全く変わりがない。〉(49-50頁)

 

 


第37回「『資本論』を読む会」の案内

『 資  本  論  』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

                                                                         

 

 

 福島原発事故による放射能汚染の深刻な実態が明らかになりました。

 

 放射性セシウムが稲藁を汚染し、その汚染された稲藁を食べた汚染牛が、全国に出荷され、すでに一部は消費者の胃袋に入ってしまったのです。稲藁の放射性セシウムの最高値は、1キロ・グラムあたり17万7000ベクレルに上り、これは水分を含んだ状態に換算すると牧草の政府の規制値(300ベクレル)の約130倍に相当します。

 

 今年収穫される新米の汚染も懸念され、昨年の古米が早々と買い占められているといいます。「実りの秋」は一転して「不安の秋」になりそうな気配です。

 

 福島第一発電所では、1、2号機の原子炉建屋の西側にある排気塔下部の配管付近で事故後最高値の毎時10シーベルト(1万ミリシーベルト)以上の高い放射線量が計測されました。毎時10シーベルトというのは1度の被爆で必ず死に至るという恐るべき値です。原発事故の恐ろしさが改めて思い知らされます。

 

 福島原発1、2号機原子炉建屋西側の排気塔下部で高い放射線量を計測したガンマカメラの画像=東京電力提供

 

 こうしたなかで、「反原発」の声がますます高まっています。

 

 私たちの仲間の間でも論争が生じ、ある人は、放射線被曝は特別な問題であり、原子力発電はそもそも人類と共存できないのだ、と主張します。かと思うと、他の人は、そうした主張は原発問題を“善悪”で裁断する形而上学であり、観念論だと批判します。一体どちらが正しいのか、原発問題を如何に考えたらよいのでしょうか。

 

 実は、私たちが「『資本論』を読む会」で現在学習している、第1章第4節「商品の物神的性格とその秘密」は、この問題を考えるための理論的基礎を与えてくれているのです。

 

 私たちが生活している資本主義社会では、生活に必要なほとんどの物が商品として生産されています。人類はその生活に必要なものをすべて自然に働きかけて、自然から得てきました。その原理は今日でも変わりませんが、しかし、関係は単純ではありません。私たちが自然に働きかけるのは、直接にではなく、労働者として資本に雇われなければならず、そこで得た賃金で必要なものを商品として購入しなければなりません。このような社会では、私たちの生活を維持する社会的な物質代謝は、商品や資本という物象的な関係を通じて、維持されるようになっており、その結果、人々は物によって支配されるという転倒した社会になってしまっているのだ、とマルクスは説明しています。そしてそのために、すべての生産力や科学や技術も資本の諸力として現れるのだ、と次のように述べています。

 

 「このような過程では労働者の労働の社会的性格がいわば資本化されて労働者たちに相対するのであるが--たとえば機械の場合に、目に見える労働諸生産物が労働の支配者として現われるように--、こうした過程において、自然力や、その抽象的精髄において一般的な社会的発展の産物である科学についても、同じことが生ずるのは当然である、--それらは資本の諸力として労働者に相対する。それらは事実上個々の労働者の技能や知識からは分離し--そしてその根源を考えて見ればやはり労働の生産物であるにもかかわらず--、それらが労働過程にはいりこむところでは、どこでも、資本に合体されたものとして現われる。資本家は、ある機械を充用しても、その機械を利用しても、その機械を理解する必要はない。(ユーアを見よ。)だが機械においては、実現された科学が労働者にたいして資本として現われるのである。そして実際にも、科学や自然力や大量の労働生産物のこのような社会的労働に基づく充用は、すべてそれ自身ただ労働の搾取手段としてのみ、剰余労働を取得する手段としてのみ、それゆえ、労働に対立し資本に所属する諸力としてのみ現われるのである。もちろん、資本は、ただ労働を搾取するためにのみこれらすべての手段を充用するのであるが、労働を搾取するためには、資本はそれらの手段を生産に充用しなければならない。このようにして労働の社会的生産力の発展もこの発展の諸条件も、資本の行為として現われるのであって、これにたいして個々の労働者は受動的な態度をとるだけでなく、むしろ労働者に対立してこれが進行するのである。」(『剰余価値学説史』26巻 I 498頁)

 

 そして原子力発電も、この限りではまったく同じなのです。それは電力資本として労働者に敵対し、ただ労働者を搾取して、利潤を得るために存在しているのです。だからこそ、それはどんなに危険なものであっても、資本は儲けを優先して、その「安全」措置を怠るのです。そしてその結果、今回のような事故を引き起こしてしまうのです。

 

 だから根本問題は、こうしたすべての生産力が資本の諸力として現れる社会にこそあるのです。それこそが変革されないと、いつまでも労働者は資本に従属し、支配され続けなければならず、恐ろしい原発事故の克服や一掃も不可能なのです。

 

 だから原発問題を考えるためにも、やはり『資本論』をしっかり勉強する必要があります。是非、貴方も一緒に『資本論』を読んでみませんか。

 


第37回「『資本論』を読む会」の報告

第37回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎今回の報告は若干形式を変えて行います

 

 第37回は亀仙人は都合により欠席したために、報告はJJ富村さんにお願いしました。メールで送られてきたものをそのまま、以下、紹介することにします。だから、今回は、いささか報告の形式は異なりますが、ご了承ください。 

 

◎第9パラグラフを議論

 

 今回は参加者が少なく、それでトントンと進むと思いきや、あーでもない、こーでもないと考え込むことが多く、一段落しか終えることができませんでした。見解の分かれたままのところもありますが、一応の理解には達したと思っています。

 

<段落 9 > 本文 (岩波文庫 p135、向坂訳)

 

  〈 (イ)生産物交換者がまず初めに実際上関心をよせるもの、自分の生産物にたいしてどれだけ他人の生産物を得るか、したがって、生産物はいかなる割合で交換されるかという問題である。 (ロ)このような割合は、ある程度慣習的な固定牲をもつまでに成熟すると同時に、労働生産物の性質から生ずるかのように見える。 (ハ)したがって、例えば1トンの鉄と2オンスの金とは、1ポンドの金と1ポンドの鉄が、その物理的化学的属性を異にするにもかかわらず同じ重さであるように、同じ価値であることになる。 (ニ)事実、労働生産物の価値性格は、価値の大いさとしてのその働きによってはじめて固定する。 (ホ)この価値の大いさは、つねに交換者の意志、予見、行為から独立して変化する。 (ヘ)彼ら自身の社会的運動は、彼らにとっては、物の運動の形態をとり、交換者はこの運動を規制するのではなくして、その運動に規制される。 (ト)相互に独立に営まれるが、社会的分業の自然発生的な構成分子として、あらゆる面において相互に依存している私的諸労働が、継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的で、つねに動揺せる交換諸関係において、その生産に社会的に必要なる労働時間が、規則的な自然法則として強力的に貫かれること、あたかも家が人の頭上に倒れかかるばあいにおける重力の法則のようなものであるからである(注28)が、このことを、経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには、その前に完全に発達した商品生産が必要とされるのである。 (チ)労働時間によって価値の大いさが規定されるということは、したがって、相対的商品価値の現象的運動の下にかくされた秘密なのである。 (リ)その発見は、労働生産物の価値の大いさが、単なる偶然的な規定という外観をのぞくが、しかし、少しもその事物的な形態をなくするものではない。 

 (ヌ)注28 「周期的な革命によってのみ貫徹されうる法則をなんと考えるべきであろうか? それはまさしく一つの自然法則であって、関与者たちの無意識にもとづいているものなのである。」(フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、『独仏年誌』アーノルト・ルーゲおよびカール・マルクス編、パリ、1844年、所載〔ディーツ版『全集』第1巻、515べージ。新潮社版『選集』第1巻、161ページ〕)。

 

 文節番号(イ)~(ヌ)は引用者

 

 (イ) 報告者のレジュメでは、「生産物交換者が・・・・関心をよせる」交換比率とは、交換価値と価値のいずれか、としていましたが、これは交換価値であるということになりました。「如何なる割合で交換されるか」とは交換比率であり、生産物が価値として現れるのはも少し後だからです。

 

 (ロ) 「このような割合」つまり交換価値は「ある程度習慣的な固定性を持つまでに成熟」というのは、交換が量的にも空間的にも広がると交換比率が一定化するということであり、それは当然でしょう。  ところで「慣習的な固定性を持つ」のは何かということで、これは交換比率即ち交換価値のことです。だから、交換価値が「慣習的な固定性を持つ」ということになります。

 

 次に「労働生産物の性質から生ずるかのように見える」の主語は何か。これはまたこの文の先頭にある「このような割合」、即ち、交換価値であり、だから交換価値は「労働生産物の性質から生ずるかのように見える」となります。  そこでこの「労働生産物の性質」とは何なのか、が問題になりましたが、なかなか分かりにくい議論になりました。しかし、次の文(ハ)を手がかりに、これは価値ではないかということに。価値については第1節でその実体は抽象的人間労働であると論じられています。しかし、抽象的人間労働が必ず労働生産物をして価値ならしめるかというとそうではないだろう。この節の少し後のほうでロビンソンクルーソーの話が出てきますが、そこで論じられています。労働生産物の交換価値が一定の比率に固定化する、すなわち1つの商品に交換価値があるのは、その労働生産物それ自体に価値があるからだというわけです。

 

 (ハ) この文は直前の文(ロ)の説明です。労働生産物それ自体の属性として価値というものが現れるということです。

 

 (ニ) ここでは、「労働生産物の価値性格」と「価値の大いさとしてのその働き」の意味が議論になりました。  「労働生産物の価値性格」は労働生産物が価値という属性を持つことであろう。価値をもったものとして現れるということでしょう。

 

 次に、「価値の大いさとしてのその働き」とは、どの働きか。それは、次の(ホ)、(ヘ)だろうと思われます。  そして価値の性格が全面的に現れる。

 

 (ホ)、(ヘ) 価値の大きさは、交換者の意志、予見、行為から独立して変化する。つまり客観的なものであること。分業や大量生産によって価値が下がること、などの意味でしょうか。

 

 報告者は「交換者の社会的運動」とは、生産や分配のこととしたのですが、生産活動のように思えます。生産の計画を立て、材料や労働力を準備し、その生産物を他の生産の材料として供給する、あるいは消費財として供給する、ことだと思われます。そしてそれは生産者どうしで直接的に行なわれるのではなく、物の運動すなわち商品の運動の形態をとるという訳です。  そのため商品の運動が交換者を規制する。貨幣形態にある資本を生産資本に転化できないとか、生産物を貨幣に転化できないとか、そういうことだろう。

 

 さて、後半に入ります。

 

 (ト) 一つの文節としては非常に長く読みづらい文です。「相互に独立に・・・・からである(注28)が」は、 その後にでてくる「科学的洞察が成長してきて看破する」内容です。この科学的認識に到達するには、十分に発展した商品生産が必要と言うのです。  さて、その科学的認識の内容で問題になったのは、「・・・・私的諸労働が・・・・一定の・・・・量に整約される」の意味です。その後に「社会的に必要なる労働時間」とあるので、必要労働時間、したがって生産物の価値が決まってくることを意味するのかどうか、ということです。報告者は最初この点曖昧でした。しかし、そのすぐ後に「規則的な自然法則として強力的に貫かれる」と言っていることから、生産への制約・恐慌、すなわち価値法則が貫かれることを言っているではないか、と意見がでました。JJ富村さんは、注28は恐慌のことを言っているのだから、この科学的認識とは価値法則のことではないかと主張しました。

 

 (チ) 「相対的商品価値の現象的運動」の意味がつかみにくい。「相対的商品価値」とは商品の相対的価値形態のことだろうか。「現象的な運動」とは何なのか。と議論になりました。しかし、要するに商品の運動ということだろうと言うことです。

 

 (リ) 「価値量の偶然的な規定」というのは、内在的規定性がない、多数の売買の中で決まってくるものということでしょう。価値の実体が抽象的人間労働であるということがわかっても、「その事物的な形態」、すなわち商品は商品である、と理解しました。

 

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 (電子書籍化するにあたり、ブログに公開した上記の報告とは別に亀仙人が事前に第37回「「『資本論』を読む会」のために用意した解説も、以下、付け加えておきます)

 

 

 【9】〈 (イ)生産物の交換者たちがさしあたり実際に関心をもつのは、自分の生産物と引き換えにどれだけの他人の生産物が手に入るか、すなわち、どのような割合で生産物が交換されるかという問題である。 (ロ)この割合が一定の慣習的な固定性にまで成熟すると、この割合はあたかも労働生産物の性質から生じるかのように見える。 (ハ)たとえば、一トンの鉄と二オンスの金とが等しい価値のものであるのは、ちょうど、一ポンドの金と一ポンドの鉄とが、それらの物理的化学的諸属性の相違にもかかわらず、等しい重さのものであるのと同じように見えるのである。 (ニ)労働生産物の価値性格は、事実上、価値の大きさとしての諸生産物の発現によってはじめて固まる。 (ホ)価値の大きさは、交換者たちの意志、予見、および行為にはかかわりなく、たえず変動する。 (ヘ)交換者たち自身の社会的運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとり、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御される。 (ト)たがいに独立〔unabhaengig〕に営まれながら、しかも社会的分業の自然発生的な諸分肢としてたがいに全面的に依存している〔abhaengig〕私的諸労働が社会的に均斉のとれた基準にたえず還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的でつねに動揺している交換比率を通して、それらの生産のために社会的に必要な労働時間が--たとえば、だれかの頭の上に家が崩れおちる時の重力の法則のように--規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹するからである(28)、という科学的洞察が経験そのものから生じるためには、その前に、完全に発展した商品生産が必要である。 (チ)だから、労働時間による価値の大きさの規定は、相対的な諸商品価値の現象的運動のもとに隠されている秘密である。 (リ)この秘密の発見は、労働生産物の価値の大きさが単に偶然的に規定されるだけであるという外観を取りのぞくが、この規定の物的形態を取りのぞきはしない。〉

 

 (イ) 生産物を交換する人が、最初に関心を持つのは、自分の生産物と引き換えにどれだけ他人の生産物が手に入るか、つまり、どんな割合で生産物が交換されるかという問題です。

 

 このパラグラフは、明らかにその前のパラグラフ(第8パラグラフ)が、労働生産物の価値性格が、生産者の意識に対して直接にはどういう関係にあるのかを、いわば質的に考察したのに対して、同じ問題をいわば量的に考察しているものと思われます。また前のパラグラフの後半部分で、商品生産の諸関係にとらわれている人々にとっては、〈たがいに独立した私的諸労働に特有な社会的性格は、それらの労働の人間労働としての同等性にあり、かつ、この社会的性格が労働生産物の価値性格という形態をとるのだということが〉〈究極的なものとして現れる〉という指摘を受けて、〈商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまること〉を物理的物体形態と同じように、当たり前の現実として受け入れ、それを当然のものとしている人たちが、交換者として直接にはどのような問題意識を持つか、彼らは量的な問題意識から、商品の価値性格の理解に到達することが論じられているように思います。

 

 (ロ)、(ハ) 生産物の交換割合が慣習によって一定の固定性をもつようになると、この割合はあたかも労働生産物の性質から生じるように見えます。例えは一トンの鉄と二オンスの金が等しい価値をもつものであるのが、丁度、一ポンドの金と一ポンドの鉄とが、同じ重さを持つのと同じように、見えるのです。

 

 これもやはり商品生産とそこから生じる現象をそのまま受け入れている意識には、直接見えてくるものをそのまま述べているように思えます。

 

 (ハ) たとえば、一トンの鉄と二オンスの金とが等しい価値のものであるのは、ちょうど、一ポンドの金と一ポンドの鉄とが、それらの物理的化学的諸属性の相違にもかかわらず、等しい重さのものであるのと同じように見えるのです。

 

 この部分はフランス語版では、違った説明になっています。

 

 〈この比率がある慣習的な固定性を獲得するやいなや、それが交換者にとっては労働生産物の性質自体から生ずるかのように見える。化学物質が固定的な比率で化合しているのと同じように、これら諸物のうちには、一定の比率で交換されるという属性が宿っているかのように見える。〉(50-51頁)

 

 またこの部分は、モストの『資本論入門』の次の一文も参考になります。

 

 〈生産がもっぱら自家需要に向けられているかぎり、交換はごくまれに、それも交換者たちがちょうど剰余分をもっているようなあれこれの対象について、生じるにすぎない。例えは毛皮が塩と、しかもまず最初はまったく偶然的なもろもろの比率で交換される。この取引がたびたび繰り返されるだけでも、交換比率はだんだん細かく決められるようになり、一枚の毛皮はある一定量の塩とだけ交換されるようになる。〉(大谷訳10頁)

 

 つまり生産物の交換割合がまず交換者に意識される現実が指摘されています。交換割合というのは、生産者が交換手段として持ち出す生産物の使用価値量と、それと交換される他の労働生産物の使用価値量との割合のことです。つまり交換者がまず持つ直接的な問題意識は、こうした量的意識であることをマルクスは指摘しているわけです。そしてそうした量的割合が、最初は交換者のそのときのさまざまな欲望などの偶然的な条件によって大きく変化しますが、しかし交換が繰り返されるとその偶然性が徐々になくなり、交換割合も細かく決められるようになり、やがてある使用価値の一定量とは、他の使用価値の一定量とが交換されべきだという形で交換比率に固定性が生じてくるわけです。そうすると、その割合はあたかもその労働生産物そのものに属する性質であるかに見えてくるのだというわけです。毛皮一枚はかならず塩1キログラムと交換できる。それは毛皮そのものがもつ性質である、というわけです。それが価値性格が交換者の意識に直接現象する最初のものだと言えます。

 

 (ニ) 労働生産物の価値性格は、事実上、価値の大きさとしての諸生産物の発現によってはじめて固まります。

 

 この文章は言い回しとしてはやや分かりづらいのですが、それまで述べてきたことの結論をまとめていると考えられます。フランス語版は次のようになっています。

 

 〈労働生産物の価値性格が実際に目立つのは、労働生産物が価値量として規定されるばあいにかぎられる。

 

 (ホ) 価値の大きさは、交換者たちの意志や予見、あるいは彼らの行為に関わりなく、絶えず変動します。

 

 この(ホ)以下は、(ニ)の命題をさらに説明しているように思えます。フランス語版では、(ニ)から段落が変わり、それ以下の一連の文章は、この段落の最初の命題〔(ニ)〕をさらに説明したものであることもよく分かるような展開になっています。

 

 (ヘ) この結果、交換者たち自身の社会的運動は、彼らにとっては諸物の運動という形態をとり、彼らは、この運動を制御するのではなく、この諸物の運動によって制御されることになります。

 

 直接的に見ても、諸物が一定の割合で交換されるのは、それぞれの交換者が互いに彼らの意志にもとづいて交換し合うからにほかなりません。彼らの行為がなければ、そもそも諸物の交換もないわけです。しかも彼らの交換行為がますます頻繁になるからこそ、諸物の交換割合に一定の固定性が生まれるのです。しかしある使用価値の一定量は、他の使用価値の一定量と必ず交換されるという交換比率の固定性は、彼らの意志によるものではありません。毛皮の持ち主が、毛皮1枚と塩2キロとを交換したいという意志があっても、しかし、客観的な交換の過程では、結局は、塩1キロとしか交換できないという現実が生じてくるのです。彼にはそれはどうしてかは分かりません。それは彼らの交換行為から生じてくるものなのに、その一定の固定性を持った交換割合そのものは、彼らの意志から独立したものなのです。だからそれはあたかも毛皮や塩そのものに備わった属性であるかに彼らには思えるのです。結局、毛皮の持ち主は、それと塩1キロとの交換という現実を受け入れざるを得ません。そして彼は、その後は、毛皮の生産を、塩1キロとの交換という現実を前提にして行うことになります。つまり彼は毛皮と塩との交換、という諸物の運動に規制されて、毛皮の生産行為を行わなければならなくなるわけです。つまり彼らの社会的運動は、諸物の運動という形態をとる結果、彼らはこの運動を制御するのではなく、この諸物の運動によって制御されることになるわけです。それはどうしてなのかはもちろん交換者当事者には分かりません。しかし彼らは諸物の交換を規制するある客観的な何かがそこにはあることに気づくようになります。すなわち価値性格を意識するようになるわけです。

 

 (ト) 互いに独立して営まれながら、社会的分業の自然発生的な諸分肢として互いに全面的に依存し合っている私的諸労働が、社会的に均斉のとれた基準に絶えず引き戻され、その均衡が維持されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な、絶えず動揺している交換比率を通じて、それらが社会的に必要な労働時間が、例えば、誰かの頭の上に家が崩れ落ちる時の重力の法則のように、規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹するからだ、という科学的洞察が経験そのものから生じるためには、完全に発展した商品生産が必要です。

 

 ここで述べている「科学的洞察」というのは、マルクスによってなされた考察を意味しているのかという疑問が生じますが、必ずしもそうではなく、古典派経済学においてもそうした一定の理解に到達していただろうといえます。例えばスミスの「神の見えざる手」というのは、まさにそうした理解に彼らが経験的に到達していたことを意味するわけです。商人相互の自由な競争にゆだねておけば、「神の見えざる手」が働いて、自ずから社会的な生産はもっとも合理的なところにおいて均衡するという理解は古典派経済学のものでもあったと言えるでしょう。ただ古典派経済学が、そうした理解の実際の内容を理解していたかは疑問です。だからここで書かれていることは、古典派経済学の到達した理解そのものというより、彼らが「神の見えざる手」という言葉で語った、実際の内容を、マルクス自身が述べていると理解すべきではないでしょうか。

 

 (チ) だから、労働時間による価値の大きさの規定は、相対的な諸商品価値の現象的な運動の背後に隠された秘密です。

 

 だから古典派経済学はこうした秘密を暴露したという点で、彼らは科学的な洞察に貢献できた歴史的名誉を得ることができたということができるでしょう。

 

 (リ) この秘密の発見は、労働生産物の価値の大きさが単に偶然的に規定されるだけであるという外観を取り除きますが、しかし、この規定が物的に表現されなければならない現実を何一つ取り除くことはできません。

 

 ここで「この規定の物的形態」というのが何を指すのかがやや分かりにくいように思えます。「この規定」というのは、「価値の大きさの規定」ということでしょう。とするとある商品の「価値の大きさの規定の物的形態」というのは、結局、それは他の商品の使用価値量によって表現されるわけです。そしてそれが発展すれば、すなわち貨幣によって秤量されることになります。つまり諸商品の価値の大きさは、その商品の生産に必要な社会的な労働によって規定されるという科学的認識に例え達したとしても、商品の価値の大きさが貨幣の一定量によって尺度されなければならないという、商品生産社会の現実そのものは、何一つ変わらないし、取り除くことはできないのだ、ということです。つまり科学的認識は、対象を変革する条件にはなるが、対象の変革するには十分な条件ではない、ということです。そのためには対象を変革する実践が要求されるということかも知れません。

 

 なおこのパラグラフの理解については、次の初版本文が参考なると思います。このパラグラフそのものは、この初版本文を書き換えたものと言えます。

 

 〈ところで、さらに、価値量にかんして言えば、互いに独立して営まれていても、自然発生的な分業の諸肢体であるがゆえに全面的に互いに依存しあっているところの、私的諸労働は、次のことによって、それらの社会的に釣り合いのとれた大きさに、絶えず還元されている。すなわち、これらの労働の生産物の偶然的な、そして絶えず変動する交換割合のうちで、それらの生産物の生産のために社会的に必要な労働時聞が、たとえばある人の頭上に家が崩れ落ちるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹する、ということによって。だから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の目に見える諸運動の背後に隠されている秘密なのである。生産者たち自身の社会的な運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとっているのであって、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御されているのである。〉(江夏訳61-3頁)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

【付属資料】

 

《初版本文》

 

 〈ところで、さらに、価値量にかんして言えば、互いに独立して営まれていても、自然発生的な分業の諸肢体であるがゆえに全面的に互いに依存しあっているところの、私的諸労働は、次のことによって、それらの社会的に釣り合いのとれた大きさに、絶えず還元されている。すなわち、これらの労働の生産物の偶然的な、そして絶えず変動する交換割合のうちで、それらの生産物の生産のために社会的に必要な労働時聞が、たとえばある人の頭上に家が崩れ落ちるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹する、ということによって。だから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の目に見える諸運動の背後に隠されている秘密なのである。生産者たち自身の社会的な運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとっているのであって、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御されているのである。ところで、最後に価値形態について言えば、この形態こそはまさに、私的労働者たちの社会的な諸関係を、したがって私的諸労働が社会的に規定されていることを、あらわにするのではなくて、物的に蔽い隠している。私が、上着や長靴等々は、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物としてのリンネルに、関係していると言えば、この表現の奇矯なことは明白である。ところが、上着や長靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的な等価物としてのリンネルに関係させると、彼らにとっては、自分たちの私的諸労働の社会的な関係が、まさにこのような奇矯な形態で現われるのである。〉(江夏訳61-3頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈生産物の交換者たちがさしあたり実際に関心をもつのは、自分の生産物と引き換えにどれだけの他人の生産物が手にはいるか、すなわち、生産物が交換される割合である。この割合が一定の慣習的な固定性にまで成熟すると、この割合はあたかも労働生産物の本性から生じるかのように見える。p.4 (草稿)を見よ。[32a]労働生産物の価値性格は、事実上、価値の大きさとしての諸生産物の発現によってはじめて展開する。価値の大きさは、生産者たちの意志と予見にはかかわりなく絶えず変動する。生産者たちにとっては、彼ら自身の社会的運動が、したがって、諸物の運動という形態をとり、彼らはこの運動を制御するのではなく、制御されるのである。...[3 2 ]等(5,p. 3 8) という科学的洞察が経験そのものから生じるためには、完全に発達した商品生産が必要なのである。

5 (p. 3 9 )、それの最終的な解決は、価値の大きさの単なる偶然的な規定を廃棄するが、しかし、その物的形態を決して廃棄することはない。〉(32頁)

 

《フランス語版》

 

 〈交換者が最初に実際上関心をもつことは、自分の生産物と引き換えにどれだけのものを手に入れるか、すなわち、生産物が互いに交換される比率を、知ることである。この比率がある慣習的な固定性を獲得するやいなや、それが交換者にとっては労働生産物の性質自体から生ずるかのように見える。化学物質が固定的な比率で化合しているのと同じように、これら諸物のうちには、一定の比率で交換されるという属性が宿っているかのように見える。  労働生産物の価値性格が実際に目立つのは、労働生産物が価値量として規定されるばあいにかぎられる。価値量は、生産者たちの意志や予測にかかわりなく不断に変化し、したがって、彼ら自身の社会的運動が彼らの眼には物の運動という形をとる。彼らはこの運動を導きうるどころではなく、運動が彼らをひきずるのである。次のような科学的真理が経験そのものから引き出されるまでには、商品生産が完全に発展していることが必要である。この科学的真理は、相互に独立して営まれる私的労働が、社会的、自然発生的な分業体制の分枝として絡み合っているとはいえ、その社会的な比率尺度に絶えず還元される、ということである。それでは、なぜか? 私的労働の生産物の偶然的な、いつも可変的な交換比率においては、その生産に必要な社会的労働時間が規制的な自然法則として力ずくで勝利を占めるからであり、このことは、象が頭上に崩れ落ちてくれば誰にでも重力の法則が感じられるのと同じである。(28)したがって、労働時間によって価値量がきまるということは、商品の価値の表面的な運動の背後に隠された秘密である。とはいえ、この秘密の解決は、価値量が外観のように偶然的にきめられるものでないということを示すものの、それによって、価値量が諸物のあいだの、労働生産物自体のあいだの量的関係として表わされるところの形態を、消滅させることはない。〉(50-51頁)

 

 【注28】  〈(28) 「周期的な革命によってのみ自己を貫徹しうる法則を、われわれは何と考えるべきであろうか? それこそ、まさに、関与者たちの無意識にもとづいている自然法則なのである」(フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、所収、アーノルド・ルーゲおよびカール・マルクス編『独仏年誌』、パリ、一八四四年〔『全集』、第1巻、559ページ〕)。〉

 

《フランス語版》

 

 〈(82) 「周期的な革命によってしか貫徹されえない法則については、どう考えるべぎであろうか? それはただたんに、この法則に従う人々の無意識にもとつく自然法則なのである」(フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、一〇三ページ。アルノルト・ル1ゲおよびカール・マルクス編『独仏年誌』、パリ、一八四四年、に所載)。〉(51頁)

 

 


第38回「『資本論』を読む会」の案内

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

                                                                                                               

 

 

 野田新内閣が誕生しました。自らを「ドジョウ」に例え、泥臭さを売りにしています。しかしウナギと同様ドジョウも、ヌルヌルして掴み所がないように、野田新政権も何をやろうとしているのか今のところ掴み所がありません。

 

 

 しかしどうやら野田政権を全面的に支えているのは、増税実現に執念を燃やす財務省だと言われています(9月3日朝日)。野田首相も2日の就任会見で、「財政再建は待ったなしだ」と強調しました。経済財政相に財務省OBの古川元久を起用し、自民党時代の経済財政諮問会議を復活させて、司令塔に据えようとしているとも言われています。

 

 まずは東日本大震災の復興のための復興増税、そして「税と社会保障の一体改革」なるものの消費税増税、等々。野田新政権は、どうやら増税一直線内閣になりそうな気配です。

 

 おりから9月9日に主要7国(G7)財務省・中央銀行総裁会議が開かれました。今回のG7の主要議題は世界的な金融危機を招きかねない欧米の政府債務問題です。ソブリンデフォルト(国家債務不履行)のリスクが世界経済を揺さぶっているのです。

 

 

 08年のリーマンショックから3年、未曾有の危機を脱するために各国は景気刺激策、金融緩和策として、政府債務を積み増してきました。そのツケがギリシャの債務危機やスペインやイタリアの信用不安として吹き出し、ユーロ圏全体を揺さぶっているのです。アメリカ国債の格付け会社(S&P)による格下げも同じような危機を暗示しています。そして日本の債務残高はもはや天文学的な数値になりつつあることは言うまでもありません。08年に次ぐ、世界的な経済恐慌の「二番底」が恐れられているのです。

 

 マルクスは、資本主義的生産においては「信用主義(Creditsystem)から重金主義(Monetarsystem)への転回」は不可避だと指摘しています。マルクスの時代とは異なり、現代では世界的な信用システムが発展しています。だから現代の世界経済では、むき出しの金(キン)が出てくることはよほどのことがない限りはありません。しかし、マルクスが当時の国家的な危機の兆候である地金流出について述べていることは、高度に発展した現代の資本主義においても、依然として正しいのです。

 

 「地金流出の諸結果のうちには,生産が現実には社会的生産として社会的統制を受けていないという事情が、富の社会的形態が富の外にある物として存在するという形で、はっきりと現われてくるのである。これは、じっさい、資本主義体制にもそれ以前の諸生産体制にも、これらの体制が商品取引と私的交換とにもとづいているかぎりでは、共通なことである。しかし、それは資本主義体制のなかではじめて最も明確に、そしてばかげた矛盾と背理との最もグロテスクな形で、現われるのである。なぜならば、(1)資本主義体制では、直接的使用価値のための、生産者たちの自家使用のための生産は最も完全に止揚されており、したがって、富は、ただ、生産と流通との錯綜として現われる社会的過程として存在するだけだからである。(2)信用制度の発展につれて、資本主義的生産は、このような、富とその運動との金属による制限を、物的であると同時に幻想的でもある制限を、絶えず廃棄しようと努めながら、また絶えず繰り返しこの制限に頭をぶつけるからである。」(全集25b740頁)

 

 現代の世界経済の危機を読み解くためにも、貴方も『資本論』を一緒に読んでみませんか。

 



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