目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
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第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第34回「『資本論』を読む会」の案内

『 資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

                                                                                                                              

 

 東日本大震災から一カ月が経過したが、福島第一原子力発電所の事故は、深刻の度を加えこそすれ、いまだに核の暴走を完全に防ぐ見通しさえ立てる事が出来ないでいる。放射性物質はすでに地球全体に振りまかれてしまい、原発周辺の土地や海洋の放射能汚染の被害は甚大であるが、さらに深刻な事態を迎えないとは誰も断言できないありさまである。

 

無残にも崩壊した福島第一原発

 

 今回の原発事故は、直接には大地震と大津波という自然の猛威によるものであるが、しかしそれだけを理由にすることは出来ない。なぜなら、同じ第一原発でも5・6号機は同じように外部電源がすべて途絶えながらも、何とか非常用ディーゼル発電機が作動し原子炉を冷却する水の循環を回復することが出来たからである。また同じような地震と津波に晒された福島第二原発や東北電力の女川原発では何とか重大事故に至らずに済ますことが出来ているからである。

 

 福島第一原発は60~70年代にかけて建設され、国内ではもっとも古い部類に入るのだという。だから安全設計もずさんであったというわけである。しかしそんなことが果たして理由になるだろうか。その後に建設された原発がより安全な設計指針にも基づいたものなら、そうした新しい安全指針によって、古いものを見直すのが当然ではないのか。しかし東京電力はそれを怠ってきたのである。

 

 06年に新たに改訂された原発の耐震指針では津波対策も明記され、福島第一の中間報告を審査した09年の専門家会合では、今回のような大津波「貞観(ジョウガン)津波」(869年)を考慮するよう指摘されたが、結局、東電は「学術的な見解がまとまっていない」などと屁理屈を述べ、最後まで最終報告を出さなかったと指摘されている(3月31日『朝日』)。結局、東電は「安全とコストを天秤にかけた」のである(4月9日『サンケイ』)。要するに儲けのために、コストのかかる安全対策を怠ってきたわけである。これが今回の深刻な事態を招いた最大の理由であろう。

 

 人類がこれまで使いこなしてきた化石燃料に代わって、原子エネルギーによって高度な生産が必要とする膨大なエネルギー需要に応じることを可能にしたのは、資本主義的生産の偉大な成果の一つである。しかし原子力の技術自体は、まだまだ未成熟なものであり、膨大な放射性廃棄物を生み出す等の問題も抱えている。しかも今回の原発事故が示したように、危険極まりないこうした技術が、ただ利潤(儲け)だけを唯一の目的とも推進動機ともする資本主義的生産によって担われていることには、深刻な矛盾があるのである。

 

 新しい技術は、新しい社会によるあたしい人たちによってこそ、十分に管理し、運営することが出来るとマルクスは次のように述べている。

 

 〈われわれのあらゆる発明や進歩は、物質的な力に知的な生命をあたえる一方、人間の生命を愚鈍化して物質的な力に変える結果となるようにみえる。一方における現代の工業と科学、他方における現代の貧困と衰退のこの対立、現代の生産力と社会関係のこの対立は、明白な、圧倒的な、争う余地のない事実である。ある党派はこのことを嘆き悲しむかもしれない。また別の党派は、現代の衝突をとりのぞくために現代の技術をとりのぞきたいと望むかもしれない。あるいはまた、こうも顕著な工業の進歩を、それに劣らず顕著な政治の退歩で補う必要があると考える者もいるかもしれない。われわれとしては、これらすべての矛盾にたえず印を残しているすばしこい妖精の姿を見ちがえることはない。社会の新しい力をうまくはたらかせるには、新しい人問がこの力を支配しさえすればよいことを、われわれは知っている。--そして、そういう新しい人間とは労働者である。〉(全集12巻4頁)

 

 今回の事故は「人災」であると同時に、資本主義という生産のシステムそのものにも起因するものである。そうした問題を理解するためにも『資本論』の研究が是非とも必要である。貴方も、一緒に『資本論』を読んでみませんか。

 


第34回「『資本論』を読む会」の報告

第34回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎桜も終わり

 

 東日本大震災で被災された方々のことを思うと、花見どころではないだろう、と言われそうですが、しかし、花の下でのどんちゃん騒ぎならともかく、静かに花をめでることにまで目くじらを立てることもないかと思います。

 

 かくいう私も4月の第二日曜日に、コンビニで買った弁当を下げて、近くの公園まで花見に行ってきました。大勢の花見客は避けて、静かなところで弁当を広げましたが、桜の花には、ヒヨドリやメジロ、シジュウカラが花の蜜を吸いに集まり、コゲラが幹についた虫か何かをついばんでいました。また無数の蜜蜂が群がり、その羽音がワーンと響いていました。静かですが、それなりににぎやかな花見です。

 

 第34回「『資本論』を読む会」が開催された堺市立南図書館の三階から見える桜はすでに半ば散って、部分的に葉桜になっていました。もう桜も終りです。窓から見える金剛山などの山並みは春陽に霞んでいました。

 

 今回はピースさんも参加されたのですが、前回ピンチヒッターを引き受けて頂いた、JJ富村さんが引き続きレポートを担当して下さいました。しかし、今回は、たった一つ、第4パラグラフを進んだだけに終わりました。さっそくその報告を行います。

 

◎第3パラグラフへの補足

 

 前回(第33回)は、第1~3パラグラフまで進みましたが、第3パラグラフの解読では準備不足から十分解説できずに終わっている部分がありましたので、それを補足的に紹介しておくことにします。まず第3パラグラフをもう一度、全文紹介しておきます。

 

 【3】〈 (イ)では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎のような性格は、どこから来るのか?  (ロ)明らかに、この形態そのものからである。 (ハ)人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の測定は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がその中で発現する彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。〉

 

 文節ごとの平易な解説はすでに前回の報告で済ませました。今回は、この第3パラグラフに対応する初版本文を紹介したいと思います。というのは、その文章が次のように、大変長ものになっているからです。

 

 〈それでは、労働生産物が商品という形態をとるやいなや、労働生産物の謎めいた性格はどこから生ずるのか?  

 (a)【人々が彼らの諸生産物を、これらの諸物が同種の人間労働の単なる物的外皮として認められているかぎりにおいて、価値として互いに関係させるならば、このことのうちには、同時にこのこととは逆に、彼らのいろいろな労働が、物的外皮のなかでは、同種の人間労働としてのみ認められる、ということが含まれている。彼らは、自分たちの諸生産物価値として互いに関係させることによって、自分たちのいろいろな労働を人間労働として互いに関係させているのである。人的な関係が物的な形態で蔽い隠されている。したがって、価値の額には、価値がなんであるかは書かれていない。人々は、自分たちの諸生産物を商品として互いに関係させるためには、自分たちのいろいろな労働を、抽象的な、人間的な、労働に、等置することを強制されている。彼らはこのことを知つてはいないが、彼らは、物質的な物を抽象物である価値に還元することによって、このことを行なうのである。これこそが、彼らの頭脳の自然発生的な、したがって無意識的で本能的な作用であって、この作用は、彼らの物質的生産の特殊な様式と、この生産によって彼らが置かれているところの諸関係とから、必然的にはえ出てくるものである。第一に、彼らの関係は実践的に存在している。だがしかし、第二に、彼らは人間であるがゆえに、彼らの関係は、彼らにとっての関係として存在している。それが彼らにとって存在している仕方、あるいは、それが彼らの頭脳のなかに反射している仕方は、この関係の性質そのものから生まれてくる。のちになって彼らは、科学に頼って、彼ら自身の社会的生産物の秘密を見抜こうとする。なぜならば、物の価値としての規定は、言語と同じに、彼らの産物だからである。】(b)【ところで、さらに、価値量にかんして言えば、互いに独立して営まれていても、自然発生的な分業の諸肢体であるがゆえに全面的に互いに依存しあっているところの、私的諸労働は、次のことによって、それらの社会的に釣り合いのとれた大きさに、絶えず還元されている。すなわち、これらの労働の生産物の偶然的な、そして絶えず変動する交換割合のうちで、それらの生産物の生産のために社会的に必要な労働時聞が、たとえばある人の頭上に家が崩れ落ちるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹する、ということによって(26)。だから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の目に見える諸運動の背後に臆されている秘密なのである。生産者たち自身の社会的な運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとっているのであって、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御されているのである。(c)【ところで、最後に価値形態について言えば、この形態こそはまさに、私的労働者たちの社会的な諸関係を、したがって私的諸労働が社会的に規定されていることを、あらわにするのではなくて、物的に蔽い隠している。私が、上着や長靴等々は、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物としてのリンネルに、関係していると言えば、この表現の奇矯なことは明白である。ところが、上着や長靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的な等価物としてのリンネルに関係させると、彼らにとっては、自分たちの私的諸労働の社会的な関係が、まさにこのような奇矯な形態で現われるのである。 (b)【(26)「周期的な革命によってのみ自己を貫徹しうる法則を、われわれはどう考えるべきか? それはまさに、関与者たちの無意識にもとづいている自然法則である。」(フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、103ページ。所収、『独仏年誌、アルノルト・ルーゲおよびカール・マルクス編、パリ、一八四九年』。)】〉(江夏訳61-3頁、但し、【 】やその前に記した(a)(b)(c)は引用者が付けた。)

 

 つまりこの長い一文が第二版では上記のように極めて簡潔にまとめられていると考えられるのです。他方、マルクスはこの初版本文の一部分(上記の引用文中【 】で囲い、(a)(b)(c)の記号を付した部分)を第2版のなかでは、少し文章を書き換えて、(a)の部分は第8パラグラフに、(b)の部分は第9パラグラフに、(c)の部分は第10パラグラフに、それぞれを、各パラグラフの文章の一部として取り入れています。それらがどのように書き換えられて、それぞれのパラグラフの文章として生かされているのか、ということについては、それぞれのパラグラフを考察するときにまた必要な限りで問題にしたいと思います。

 

 ここでは、この初版本文について若干の検討を加えたいと思います。

 

 現行版の第3パラグラフでは、第2パラグラフにおいて価値規定の内容として述べられた、(1)価値の実体としての抽象的人間労働の基礎にある、人間有機体の諸機能としての本質的に人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出、(2)価値の大きさとしての社会的に必要な人間労働の基礎にある生理学的な意味での人間労働力の支出の継続時間、(3)労働の社会的形態のそれぞれが、商品形態においては、どのような物的、対象的形態を受け取るのかが説明されていました。すなわち(1)は労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を、(2)は労働生産物の価値の大きさという形態を、(3)は労働生産物の社会的関係という形態を、です。上記の初版本文の(a)(b)(c)の各部分も、概ねこれら(1)(2)(3)に対応していると考えることができます。つまり初版本文の(a)(b)(c)は、現行版の第3パラグラフの(ハ)の内容をそれぞれに解説するものと考えられるわけです。

 

 あるいはまた、この(a)(b)(c)の各部分が第二版の第8~10パラグラフに、若干文章を変えてではあるが、その一部として利用されているということは、この第二版の第8~10パラグラフは、第3パラグラフで価値規定の内容である三つの契機がそれぞれ商品形態において、どのような物的形態を受け取るかを簡潔に説明したものを、さらに展開して明らかにしているところでもある、という位置づけも分かってくることになります。そうした現行版の各パラグラフ間の関係を知る上で、この初版本文は重要ではないかと思ったわけです(なお、この初版本文の内容の解読については、それらが利用されている現行版の当該パラグラフの解読のなかで行う予定ですので、今回は、やらないでおきます)。

 

◎第4パラグラフについて

 

 それでは、第34回「『資本論』を読む会」で学習した第4パラグラフの議論の紹介をしましょう。まず例によってパラグラフ全文を紹介し、各文節に(イ)、(ロ)、(ハ)・・・・の記号を付して、それぞれを平易に解説していくことにします。

 

 【4】〈 (イ)したがって、商品形態の神秘性は、単に次のことにある。 (ロ)すなわち、商品形態は、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということにある。 (ハ)この“入れ替わり”によって、労働生産物は商品に、すなわち感性的でありながら超感性的な物、または社会的な物に、なる。 (ニ)たとえば、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的刺激としては現れないで、目の外部にある物の対象的形態として現れる。 (ホ)しかし、視覚の場合には、外的対象である一つの物から、目というもう一つの物に、現実に光が投げられる。 (ヘ)それは、物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係である。 (ト)これに対して、労働生産物の物理的性質およびそれから生じる物的諸関係とは絶対に何のかかわりもない。 (チ)ここで人間にとって物と物との関係という幻影的形態をとるのは、人間そのものの一定の社会的関係にほかならない。 (リ)だから、類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。 (ヌ)ここでは、人間の頭脳の産物が、それ自身の生命を与えられて、相互のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ自立した姿態のように見える。 (ル)商品世界では人間の手の生産物がそう見える。 (ヲ)これを、私は物神崇拝と名づけるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなや労働生産物に付着し、したがって、商品生産と不可分なものである。〉

 

 (イ)、(ロ) したがって、商品形態の神秘性は、商品という形態が、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を彼らの労働生産物そのものの対象的性格として、すなわち物の社会的自然属性として反映させ、だからまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、彼ら自身の関係としてはではなく、彼らの外部に存在している諸対象物相互の社会的関係として反映させるということにあるのです。

 

  このパラグラフの冒頭の「したがって」は、当然、その前のパラグラフ(第3パラグラフ)を受けたものであることは明らかです。つまり第2パラグラフで、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのでも、価値規定の内容から生じるのでもなく、労働生産物が商品形態をとる場合の、この形態そのものから生じるものであること、すなわち価値規定の内容として述べられた三つの契機(①人間有機体の諸機能としての生理学的な意味での人間労働力の支出ということや、②その継続時間として労働の量、③あるいはその労働が互いに社会的な関係を持つということ)が、それぞれ①労働生産物の同等な価値対象性という形態、②労働生産物の価値の大きさという形態、③労働の社会的な関係が発現する生産者の関係が、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るということから生じるのだと説明されたわけです。

 

 そしてそうした説明を受けて、このパラグラフでは「したがって」とそれを受けているわけです。しかし一見すると、ここで述べられているのは、二つのことだけであるように思えます。つまり一つは商品という形態が、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を彼らの労働生産物の対象的性格として、物の社会的自然属性として反映させるということ、もう一つは、「したがってまた」総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということの二つです。

 

 第2パラグラフや第3パラグラフでは、価値規定の内容として三つの契機が指摘され、それらが商品形態ではそれぞれどういう物的、対象的形態を受け取るかが指摘され、そこから商品形態の神秘的性格が出てくると言われていたのですが、ここでは二つのことしか言われていないように思えます。これはどうしてなのか、という疑問が、まず出されました。

 

 これについては、色々と議論されましたが、結論としては、このパラグラフの最初で言われていることは、第2、第3の各パラグラフで言及されていた三つの契機のどれかに対応するというより、それら三つのもの全体を前提して述べているものであろうということです。

 

 だから最初に述べていること(商品形態の神秘性は、商品という形態が、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を彼らの労働生産物そのものの対象的性格として、すなわち物の社会的自然属性として反映させること)も、その次に述べていること(総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に存在している諸対象の社会的関係として反映させるということ)も、両方とも先のパラグラフ(第3パラグラフ)全体を受けているのではないか、ということになりました。

 

 では、この二つのことは同じことを述べているのでしょうか。それとも違ったことを述べているのでしょうか。

 

 最初に述べていることは次のようなことではないでしょうか。

 

  人間が互いのために労働するようになるや、彼らの労働は一つの社会的形態を受け取ります(これは第2パラグラフで指摘されました)。そして商品生産の社会も、その意味では、人間が互いのために労働しあう社会なのですが、しかし、労働生産物が商品形態をとる社会では、人間の労働の社会的性格は、人間自身の直接の社会的関係としては現われていません(人間自身が直接に社会的関係を結べないからこそ、その労働生産物は商品という形態をとるわけです)。人間は彼らの労働を自身の社会的関係を意識して支出するわけではないのです。だから、彼らの労働の社会的性格は、労働生産物そのものの対象的性格として、つまり労働生産物の価値性格として現われ、そうした価値対象性が、あたかも労働生産物が自然に持っている属性と同じようなものとして、人間には見えるような形で現われてくるということです。つまり労働生産物という物の属性のように見えているもの--「社会的自然属性」--は、実は人間の労働の社会的な性格が物の属性のように現われているものであり、人間自身が直接的にではないが、本質的には持っている、つまり社会の物質代謝を維持するために客観的必然性として貫くようなものとして持っている、社会的な関係そのものなのだということです。

 

 では次はどういうことでしょうか。

 

  総労働というのは、個々別々の労働の総和として社会的には存在しています。それに対する生産者たちの社会的関係というのは、個々の生産者の労働が総労働のなかでどういう位置を占めるべきか、また社会の物質代謝を維持する上で、与えられた生産力のもとで、どれだけ支出されるべきかということではないでしょうか。そうしたことは、商品生産社会では、個々の商品の生産者には分かりません。彼らは彼らの生産した生産物を商品として交換に出して、初めてそこに支出した労働が社会的に適切なものであるかどうかを知るのです。だから彼らの総労働に対する社会的関係は、彼らの生産した生産物、つまり彼らの外部に存在する諸対象が商品として交換されて、社会的関係を取り結んだ結果として、事後的に分かるに過ぎないのです。つまり彼らは彼ら自身の総労働に対する社会的関係を彼らの外に存在している諸対象の関係からしか知ることができないのです。その結果、そうした物的諸対象の関係が、彼らを規制し、彼らがそれらに従属するような関係として、立ち現れてくるということではないでしょうか。

 

 だから最初の部分は、労働生産物が商品形態をとることによって、労働の社会的性格が、労働生産物の価値性格として現わてくることが中心に述べられ、その次の部分では、総労働に対する社会的関係は、労働生産物の価値の大きさとして、それらの交換関係のなかに貫くものとして、彼らを規制することが述べられているように思えます。

 

 (ハ) この“入れ替わり”によって、つまり人間の社会的関係が、物の社会的自然属性や社会的関係として立ち現れてくるという“入れ替わり”によって、労働生産物は商品になるのです。すなわちその使用価値においては、感覚的に捉えられるような、感性的なものでありながら、しかし同時に、価値としては、確かにそれも商品そのものに存在しているように見えながら、しかし直接には目にも見えず、捉えどころのない、超感性的なものという両性を備えたものになるのです。

 

 (ニ) 例えば、物が視神経に与える光の印象は、私たちには、視神経への主観的な刺激とは意識されず、目の外部にある物として現われるのと同じようなものです。

 

 この例えは、明らかにその前で述べている、“入れ替わり”によって起こる現象を説明しているものですが、何がどのような例になっているのか今一つよく分かりません。

 

 まず目の場合の“入れ替わり”というのは、視神経への刺激が、目の外にある物の像として現われるという“入れ替わり”のように思えます。つまりわれわれは、外にある物のとして意識しているが、しかし、実際にはそれはただわれわれの目が刺激されているだけだということでしょうか。これは3Dの映画を見たときに、あたかも目の前に存在しているように見えるものが、しかし手を伸ばしても、つかむことはできず、それはただ単に目に与える刺激が、そうしたものとしてわれわれに意識させているだけだということが分かる例を考えると、よく分かるのではないでしょうか。しかしわれわれはそうしたものとしては意識せずに、あたかもわれわれの外に物があると意識するわけです。

 

 商品形態の神秘性の場合は、人間の社会的な関係が、物の社会的自然属性や関係として現われるということです。だから両者の対応関係を考えると、視神経への刺激が、すなわち人間の社会的関係に対応し、目の外にある物として意識させることが、物の社会的自然属性や関係として現われるということに対応しているように思えます。つまり物の社会的自然属性や関係として見えているもの、あるいはわれわれがそのように意識しているものは、実は、われわれ自身の社会的関係の反映したものなのだということです。しかしわれわれは、それらをわれわれ自身の社会的関係としては意識せずに、あたかもわれわれの外にある物のそのものに備わった自然属性であるかに、あるいは物そのものの社会的関係であるかに意識しているというわけです。

 

 (ホ)、(ヘ) しかし、視覚の場合には、外的対象である一つの物から、目というもう一つ物に、現実に光が投げかけられます。それは物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係です。つまりわれわれは、外にある物として意識するのですが、そうした物が確かに外にはあり、そこから発した光が、われわれの目に投じるという物理的な関係がそこにはあるわけです。

 

 (ト) これに対して、労働生産物の社会的自然属性やそれらの社会的関係として見えているものは、何かそしたものとしての実体が労働生産物にあるかというとそうではないのです。それらは労働生産物の物理的な性質やそこから生じる物的な関係とは何の関わりもないのです。

 

 (チ) ここで人間に物の属性や物と物との関係として見えているものは、人間そのものの一定の社会的関係に他ならないのです。それは人間が直接互いに意識して取り結んでいる関係としては存在していませんが、しかし人間が彼らの社会の物質代謝を維持するためには必要な彼ら自身の社会的関係として、人間の社会の中に本質的なものとして存在しているものです。それが物と物との関係として現われ、その物と物との関係に規制される形で、結果として、人間の社会的関係が現実化するような性格のものなのです。

 

 (リ) だから、類例を見いだそうとすると、宗教世界の夢幻境に逃げ込まなければなりません。

 

 (ヌ) 宗教世界では、人間の頭脳の産物が、神として、それ自体が生命を与えられた自立的存在であるかのように現われ、神々の関係や世界を作り上げ、またさまざまな戒律によって人間を規制するものとして現われてきます。

 

 (ル) 商品世界では、人間の手の生産物がそのように見えるのです。つまり労働生産物の関係が、人間自身の行動や関係を規制するものとして立ち現れてくるわけです。

 

 (ヲ) これを、私は物神崇拝と名付けますが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなや労働生産物に付着してきます。だからそれは商品生産と不可分なものなのです。

 

 ところで、学習会では、第4パラグラフの後半部分((ニ)~(ヲ))は、初版付録から採られていることが指摘されました。この初版付録の一文も、現行版のこれまでの展開を理解するうえで役立つと思いますので、紹介しておきましょう。それは〈等価形態の諸特性〉として、現行版では第一の特性から第三の特性まで説明されていますが、初版付録では、これにさらに〈(δ)等価形態の第四の特性。商品形態の物神崇拝は、等価形態では、相対的価値形態においてよりも顕著である〉が加わっているのです。その前半部分からです。

 

 〈諸労働生産物が、すなわち、上着やリンネルや小麦や鉄等々のような諸有用物が、価値であり一定の価値量であり一般的に商品であるということは、われわれの交易においてのみこれらの労働生産物に当然そなわっている属性であって、たとえば、重さがあるとか保温するとか栄養になるとかいう属性のように、天然にそなわっているものではない。ところが、われわれの交易の内部では、これらの物は商品として相互に関係しあっている。それらは価値であり、それらは価値の大きさとして計量可能であり、それらの共通な価値属性は、それらを互いに価値関係のなかに置いている。ところで、たとえば 20エレのリンネル1着の上着、あるいは、20エレのリンネルは1着の上着に値する、が表現しているのは、(1)これらの物の生産のために必要ないろいろな種類の労働が、人間労働として同等であると認められているということ、(2)これらの物の生産に支出された労働量が、特定の社会的な法則にのっとって測られているということ、(3)裁断師と織り職とが、ある特定の社会的な生産関係のなかにはいっているということ、でしかない。この関係は、生産者たちのある特定の社会的な関係であって、この社会的な関係のなかで、彼らは、自分たちのいろいうな有用な労働種類を人間労働として等置しているのである。この関係は、同様に、そのなかで生産者たちが自分たちの労働の大きさを人間労働力の支出の持続時間によって測っているところの、生産者たちの特定の社会的関係でもある。ところが、われわれの交易の内部では、生産者たちにとっては、自分たち自身の労働のこれらの社会的な性格は労働生産物そのものの、社会的な自然属性すなわち対象的な規定として、現われているし、人間労働の同等性は、労働生産物の価値属性として、現われているし、社会的に必要な労働時間による労働の尺度は、労働生産物の価値の大きさとして現われているし、最後に、生産者たちの労働によって結ばれている彼らの社会的な関係は、これらの物の、すなわち労働生産物の、価値関係あるいは社会的な関係として、現われている。だからこそ、彼らにとっては、労働生産物が、商品として、感覚的で超感覚的な、すなわち社会的な物として現われているのである。 たとえば、ある物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主体的な刺激として表われるのではなく、目の外にある物の対象的な形態として現われるようなものである。ところが、物を視るときには、外的な対象という一方の物から、目という他方の物に、光が現実に投ぜられている。それは、物理的な物同士のあいだの物理的な関係である。これに反して、労働生産物の商品形態および価値関係は、労働生産物の物理的な性質およびこの性質から生ずる物的な関係とは絶対に無関係である。それは、人間たち自身の特定な社会的関係でしかなく、この関係はこのばあい、彼らにとっては、諸物の関係という幻影的な形態を帯びている。だから、類似のものを見いだすためには、宗教的世界という霧のかかった領域のなかに逃げ場を求めざるをえない。ここでは、人間の頭の諸生産物が、それら自身の生命を授けられてそれら自身のあいだでも人間たちとのあいだでも関係を結ぶ独立の姿態として、現われている商品世界では、人間の手の生産物がそうなのである。これを私は物神崇拝と呼ぷが、この物神崇拝は、労働生産物が商品として生産されるやいなや労働生産物に付着するし、したがって、商品生産とは不可分なのである。】〉(江夏訳893-4頁、ただし【 】は引用者が付けた。)

 

 ごらんの通り、初版付録の上記の引用文のうち【 】で括った部分が、現行版に生かされているわけです。しかも、この初版付録の内容を検討してみると、〈20エレのリンネルは1着の上着に値する、が表現しているのは〉として、〈(1)……(2)……、(3)……〉と述べていることは、表現は若干異なるものの、丁度、現行版の第二パラグラフで述べている価値規定の内容や、それが物的形態をとることによって神秘的性格を帯びると述べている第三パラグラフで述べている内容に合致しています。 だから、その次に書かれている内容、すなわち〈この関係は、生産者たちのある特定の社会的な関係であって、この社会的な関係のなかで、彼らは、自分たちのいろいうな有用な労働種類を人間労働として等置しているのである。この関係は、同様に、そのなかで生産者たちが自分たちの労働の大きさを人間労働力の支出の持続時間によって測っているところの、生産者たちの特定の社会的関係でもある〉と述べている内容は、丁度、第四パラグラフで〈商品形態は、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということにある〉に対応していることが分かるのです。

 

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【付属資料】

 

 (ここでは本文で紹介したものは省きます)。

 

●第4パラグラフに関連したもの

 

《初版本文》

 

 〈つまり、商品の神秘性は次のことから生じている。すなわち、私的生産者たちにとっては、自分たちの私的労働の社会的な諸規定が、労働生産物の社会的な自然規定性として現われているということ、人々の社会的な生産諸関係が、諸物の対相互的および対人的な社会的諸関係として現われているということ。社会的総労働にたいする私的労働者たちの諸関係は、彼らに対立して対象化され、したがって、彼らにとっては、諸対象という形態で存在している。〉(江夏訳63-4頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈したがって、商品形態の神秘性は、単に次のことにある。すなわち、商品形態は、人聞にたいして、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの社会的性格として、これらの物の社会的自然属性として反映させ、それゆえまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に実存する諸対象の社会的関係として反映させるということにある。この入れ替わりによって、労働生産物は商品に、すなわち感性的に超感性的な物、または社会的な物に、なる。〉(小黒訳28-9頁)

 

《フランス語版》

 

 〈このことが、これらの生産物がなぜ商品に、すなわち、火を見るより明らかでしかもそうではない物、あるいは社会的な物に変換するか、の理由なのである。かくして、視神経にたいするある物体からの光の印象は、この神経そのものの主体的な刺激としてではなく、眼の外部に存在するあるものの感知しうる形態として現われる。付言しなければならないが、視るという行為にあっては、外界のある物体から眼という他の物体にたいして光が実際に投影される。それは、物理的な諸物間の物理的な関係である。だが、労働生産物の価値形態や価値関係は、その物理的性質とは全くなんの関係もない。このぼあい人間にとって諸物相互の関係という幻想的な形態をとるものは、たんに、人間相互間の特定の社会的関係であるにすぎない。この現象に類似したものを見出すためには、それを宗教世界という曇った領域のうちにもとめざるをえない。そこでは人間の頭脳の産物が、それぞれ特殊な体躯を賦与されて人間との交渉やこれら産物相互間の交渉を.行なうところの独立的な存在、という外観を呈する。商品世界における人間の手の生産物についても、同じである。これが、労働生産物が商品として現われるやいなや労働生産物に付着する物神崇拝、すなわち、この生産様式に不可分の物神崇拝、と名づけることのでぎるものなのだ。〉(江夏他訳47-8頁)

 


第35回「『資本論』を読む会」の案内

『資 本 論 』 を 読 ん で み ま せ ん か 

 

                                                                               

 

  オバマ米大統領は、5月始め、9・11、ニューヨーク・ツインビル爆破など同時多発テロを首謀し、国際テロ組織・アルカイダのリーダーであるウサマ・ビンラディンを殺害したと発表した。

 

 

ウサマ・ビンラーディン

 

 9・11以降、アメリカは対テロ戦争を標榜して、“大儀なき闘い”と酷評されたイラク戦争に突入し、アフガン侵略戦争を引き起し、ビンラディンを匿うタリバン政権を打倒した。そしてこの10年間追い続けた最大の標的であり、「対テロ戦争」の「最優先事項」である、ビンラディンの殺害という課題をなし遂げたのだ、とオバマは誇った。「正義はなされた」と。

 

 しかしウサマ・ビンラディンは、帝国主義の超大国であるアメリカの、色々な意味での“産物”以外の何物でもなかった。

 

 タリバンの指導者オマルが、旧ソ連のアフガン侵攻に抵抗するムジャヒディンの一員として育ち、そのムジャヒディンを資金的にも軍事的にも支えたのがパキスタンやサウジアラビアの諜報機関であり、その背後にあったのはアメリカであったことは周知のことである。

 

 そしてアフガンで闘うムジャヒディンに、国際的に義勇兵を募り、訓練を施して送り出し、それを支えたのがビンラディンであり、その国際的なネットワークが、後にアルカイダになったのである。

 

 つまりこれらのほとんどはアメリカ自身の対旧ソ連への帝国主義的な争いと策謀のなかで培われてきたものなのである。

 

 そしてイスラム原理主義に凝り固まったこうした戦闘組織は、その後、それぞれの出身地に帰ると、アフガンで培った戦争技術を、今度は、アメリカの中東支配をはじめとする帝国主義的な世界支配に対抗する闘いへと生かし始め、それが98年のタンザニア・ケニア米大使館同時爆破事件など一連のテロ事件を引き起し、そして9・11へと繋がっていったのである。

 

 そして今やアメリカは、世界に張り巡らした自国の権益--経済的・金融的世界支配という超大国としての帝国主義的利害--を守るために、軍事的な支配の網の目を国際的に張りめぐらせる理由として、「対テロ戦争」を一つの口実として利用しているというわけである。

 

 今回のビンラディンの殺害は、イスラム急進派によるアメリカ帝国主義に対するテロリズムによる“闘い”の一つの挫折であり、その限界を暴露するものであろう。

 

 なぜなら、アメリカ帝国主義との闘いは、少数の陰謀組織が行うテロによってではなく、アメリカのそして世界の労働者階級によってこそなされなければならないし、なされるだろうからである。

 

 労働者階級はテロ戦術といった絶望的な闘いではなく、資本に対する階級闘争をこそ発展させるのであり、そうした闘いによって国際的に結び合い、世界中から帝国主義の支配を一掃するまで闘い抜くのである。

 

 マルクスは「革命的テロリズム」そのものは否定しなかったが、しかし、それは労働者の階級闘争の一環としてであり、労働者階級の革命政権が、反革命を打ち破るべき「剣」として認めたに過ぎない。次のように指摘している。

 

 「コミューンの組織がいったん全国的な規模で確立されたとき、おそらくその前途になお待っている災厄は、奴隷所者の散発的な反乱であろう。それらの反乱は、平和な進歩の仕事をしばらく中断させはするが、社会革命の手に剣を握らせることによって、かえって運動を促進するだけであろう。」(『フランスにおける内乱』第一草稿、全集17巻517頁)

 

 また次のようにも述べている。

 

 「反革命派の残忍さなどをみれば、諸国民は次のことを確信するようになるだろう。それは、古い社会の血なまぐさい死の苦しみと新しい社会の血にまみれた産みの苦しみを短くし、単純化し、一つにまとめる手段はたった一つしかないということ、そのたつた一つの手段とは革命的テロリズムだということである。」(「ヴィーンにおける反革命の勝利」全集第5巻457-8頁)

 

 だから、必要なのは資本の支配と闘う労働者の階級闘争を発展させることである。そしてそうした各国の労働者階級の闘いが国際的に結合することであろう。

 

 そしてそのためにも、労働者階級自身が、現代の資本主義社会の仕組みを科学的に解明し、理解することを不可欠にしている。

 

 是非、貴方も共に『資本論』を読んでみませんか?

 


第35回「『資本論』を読む会」の報告

第35回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎改むるに憚ること勿れ

 

 菅首相は、先の会見で浜岡原発全面停止要請を行い、中部電力はその要請を受け入れ、浜岡原発は停止しました。

 

 この首相の要請について、米倉経団連会長は「唐突感は否めない」と不満を述べ、各マスコミも一斉に「唐突だ」との批判の声を上げました。

 

 しかし福島原発事故の経験を踏まえれば、首相の判断は当然ではないでしょうか。浜岡原発は予想される東海地震の震源域のど真ん中に位置し、日本の大動脈である東海道線や首都東京にも近く、それが福島原発と同じ事態に陥れば、その影響は測り知れないことは容易に想像できます。地震調査研究推進本部の評価によると、30年内にマグニチュード8程度の地震が発生する可能性は87%と極めて高く、今日、明日にも大地震と大津波が生じても、決しておかしくはない状況だというわけですから。

 

 「過ちては改むるに憚ること勿れ」と言います。そもそもこんなところに原発を作ってしまったこと自体が問題なのですが(電力資本と癒着して原子力政策を推し進めてきた歴代の自民党の責任です)、それを直ちに止める判断そのものは是としたいと思います。事故が起きてしまってからでは、取り返しがつかないのですから。もちろん、止めるだけでなはなく、廃炉にすべきでしょう。

 

 福島の状況は一進一退を繰り返して、気にはなるところですが、私たちの「『資本論』を読む会」も、相変わらず細々とやっております。第35回は、再びピースさんが参加できないということで、JJ富村さんが、やはりピンチヒッターでレポートを担当してくれました。今回も、進んだのは第5・6の二つのパラグラフだけでした。その報告を行います。

 

◎商品の生産する労働の固有の社会的性格

 

 最初は第5パラグラフです。いつものように、最初にパラグラフ全文を紹介し、文節ごとに記号を打ち、平易に書きおろす形で解読して行きます。

 

 【5】〈( イ)このような、商品世界の呪物的性格は、前の分析がすでに示したように、商品を生産する労働の特有な社会的性格から生ずるものである。〉

 

 (イ) こうした商品世界の物神的な性格は、これまでの分析で明らかになったように、商品を生産する労働の特有の社会的性格から生じます。

 

 ここで、〈このような、商品世界の物神的性格は〉の〈このような〉というのは、その直前の第4パラグラフで〈これを私は呪物崇拝と呼ぶ〉と書かれていたのを受けていることは明らかです。それではその次の、〈前の分析がすでに示したように〉の〈前の分析〉とは、どの部分を指すのでしょうか。

 

 これはやはり、〈前の分析〉、つまり商品の物神的性格はどこから来るのかを追求し、探り出してきた、第4節の第1パラグラフ以降の分析ということではないかということになりました。

 

 では〈前の分析で〉〈商品を生産する労働に特有な社会的性格〉がどのように明らかにされ、そこから〈商品世界の・・・・物神的性格〉がどのように〈生じ〉ることが明らかにされたのでしょうか。それをもう一度念のために確認するために振り返ってみることにしましょう。

 

 もちろん、ここで言われている〈商品を生産する労働に特有な社会的性格〉については、続くパラグラフ以降でより詳しく説明されるのだろうという予測は立つのですが、少なくとも〈前の分析がすでに〉それをどのように〈示した〉のかを確認しておこうというわけです。

 

 マルクスは、商品の物神的性格を、直接的には、まずはそれが感覚的でありながら、同時に超感覚的なものであるというところにみているように思えます。そして感覚的に捉えられるものとしては、まず使用価値やそれを生産する労働の具体的性格等々については、何の神秘的なものはないこと、では商品の価値からその神秘的性格は来るのかと問うて、確かにそうなのですが、しかし価値と言っても価値規定の内容そのものには、やはり何の神秘性もないのだと指摘しています。そしてその結果、だから商品の神秘性は商品の形態そのものから来るのだと突き止めているわけです。

 

 そして商品の形態においては、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのもの対象的性格として、それらの物があたかも自然に備わっている属性と同じようなものであるかに反映させ、総労働に対する生産者たちの社会的な関係を、そうした諸対象の社会的関係として反映させるということ、こうした“入れ替わり”が生じていることを明らかにし、それこそが商品が感覚的でありながら、同時に超感覚的なものとして、われわれにとって現われてくる原因なのだと述べています。つまり商品を生産する労働の社会的性格が、生産者自身の直接的な社会的関係としては現われず、労働生産物の社会的自然属性や社会的諸関係として現われるという、商品を生産する労働の特有な社会的性格から来ているのだ、ということだったように思えます。

 

◎翻訳が問題に

 

 次は第6パラグラフです。

 

 【6】〈 (イ)およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。 (ロ)これらの私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。 (ハ)生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになるのだから、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格もまたこの交換においてはじめて現われるのである。 (ニ)言いかえれば、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産者たちがおかれるところの諸関係によって、はじめて実際に社会的総労働の諸環として実証されるのである。 (ホ)それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現われるのである。 (ヘ)すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現われるのである。〉

 

 (イ) そもそも使用対象が商品になるのは、それらの使用対象が互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかなりません。

 

 これについては、第2節で次のように書かれていました。

 

 〈いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体――社会的分業が現われている。社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。古代インドの共同体では、労働は社会的に分割されているが、生産物が商品になるということはない。あるいはまた、もっと手近な例をとってみれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されてはいない。ただ、独立に行なわれていて互いに依存し合っていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである〉(全集版57頁、下線は引用者)

 

 また「補足と改訂」では、もう少し詳しく、次のように書かれています。

 

 〈そもそも使用対象が商品になるのは、使用対象が互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならず、それゆえ、それらのなかに表れている労働が互いに独立した私的労働によるものであるからにほかならない。〉(小黒訳下29頁)

 

 (ロ) これらの私的諸労働の総体は社会的総労働なしています。

 

 この部分も「補足と改訂」ではより詳しく次のように説明されています。

 

 〈さまざまな私的労働は物質的には互いに独立しており、また物質的に互いに補いあっている。それは、一方がこの社会的欲望を充足し、他方があの社会的欲望を充足して、それゆえ、すべてが一緒になって社会的欲望の全体を充足する、という限りでにほかならず、言い替えれば、どの私的労働もその特殊な有用的な性格によって、社会の総労働の一部分を遂行し、自然発生的社会的体制の、分業体制の一分肢をなすからにほかならない。まさに、部分労働者が特別な個々の社会的欲望だけを充足するがゆえに、私的労働者の労働はその私的労働者自身の多様な社会的欲望を充足しはしない。〉(同上)

 

 また初版本文には、次のような一文もあります。少し長いですが、参考のために紹介しておきましょう。

 

 〈すべての使用価値がじっさいに商品であるのは、それらの使用価値が、互いに独立した私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的労働は、私的労働とはいいながら、分業という自然発生的な体制の・独立しているとはいえ特殊な肢体として、素材的に互いに依存しあっている、というような私的労働なのだ。これらの私的労働がこのように社会的に関係しあっているのは、まさに、それらの差異に、それらの特殊な有用性に、依拠しているからである。だからこそ、これらは、質的に相異なる諸使用価値を生産している。そうでなければ、これらの使用価値は相互同士での商品にはならないであろう。他方、有用な品質がこのようにちがうだけでは、生産物はまだ商品にはならない。ある農民家族が自分自身の消費用に上着やリンネルや小麦を生産すれば、これらの物は、その家族には、その家族労働のそれぞれにちがった生産物として相対しているが、これらの物自身が相互に商品として相対しているわけではない。労働が直接的に社会的な労働、すなわち共同の労働であれば、諸生産物は、それらの生産者たちにとっては、共同生産物という直接的に社会的な性格を得るであろうが、相互同士での商品という性格を得ることはないであろう。とはいえ、われわれは、ここでは、諾商品のなかに含まれていて互いに独立している私的諸労働の社会的な形態が、なんであるかを、さらに立ち入って探究するには及ばない。この形態はすでに、商品の分析から明らかになっている。これらの私的労働の社会的な形態は、同等な労働としてのそれらの相互関係なのである。つまり、千差万別のいろいろな労働の同等性は、それらの不等性の捨象においてのみ存在しうるのであるから、それらの社会的な形態は、人間労働一般としての、人間労働力の支出としての、たといすべての人間労働がそれらの内容や作業様式がどうあろうとじっさいにそうであるところのものとしての、それらの相互関係なのである。どんな社会的な労働形態にあっても、別々な個々人の労働はやはり、人間労働として互いに関係しあうが、ここでは、この関係そのものが、諸労働の独自に社会的な形態として認められている。だが、これらの私的労働はどれも、それの自然形態では、抽象的な、人間的な、労働という、独自に社会的な形態をもたないが、このことはちょうど、商品がそれの現物形態では、単なる労働膠着物すなわち価値という社会的形態をもたない、のと同じである。〉(江夏訳54-5頁)

 

 (ハ)、(ニ) 生産者たちは、自分たちの労働生産物を互いに交換することによって、はじめて社会的に接触するようになるのですから、彼らの私的諸労働の独自な社会的な性格も、この交換によってはじめて現われるのです。言いかえますと、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれるところの、あるいは労働生産物を介して生産者たちがおかれるところの、諸関係によって、はじめて実際に社会的総労働の諸環として、すなわち社会的分業の一分肢であることが実証されるのです。

 

 (ホ)、(ヘ) そういうことから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的な結びつきは、その現実にあるがままに現われます。すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて直接結び合うような社会的な関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係として、あるいは諸物の社会的な諸関係として、現われるのです。

 

 学習会ではこのパラグラフの最後の部分〔(ホ)、(ヘ)〕の翻訳が問題になりました。というのは、JJ富村さんは岩波文庫版を亀仙人は新日本新書版をそれぞれ読んでいたのですが、その翻訳が少し違っており、微妙に意味も違って解釈できるように思えたからです。

 

 まず岩波文庫版のこの部分の翻訳を紹介してみましょう。

 

 〈したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、あるがままのものとして現われる。すなわち、彼らの労働自身における人々の直接に社会的な諸関係としてでなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また物の社会的な関係として現われるのである。〉(133頁)

 

 この翻訳は全集版とほぼ同じです。ついでに全集版も紹介しておきましょう。

 

 〈それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現われるのである。すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現われるのである。〉(99頁)

 

 岩波版も全集版も、この部分は二つの文節に分けられています。ところが新日本新書版は、この部分は次のようになっているのです。

 

 〈だから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的諸関係は、そのあるがままのものとして、すなわち、人と人とが彼らの労働そのものにおいて結ぶ直接的に社会的な諸関係としてではなく、むしろ、人と人との物的諸関係および物と物との社会的諸関係として現れるのである。〉(125頁)

 

 つまり新日本新書版では一続きの文になっているのです。そして亀仙人はこの新書版にもとづいて、〈そのあるがままのものとして、すなわち、人と人とが彼らの労働そのものにおいて結ぶ直接的に社会的な諸関係としてではなく〉を一つの文として理解して、〈そのあるがままのもの〉というのを〈私的諸労働の社会的関係〉の「本来的なもの」というような意味として理解して、〈人と人とが彼らの労働そのものにおいて結ぶ直接的に社会的な諸関係〉のことを指していると理解したのでした。しかし、JJ富村さんは、そうではなく、〈そのあるがままのもの〉というのは、私的諸労働の社会的諸関係が、実際に現われるままのものとして、すなわち〈人々の物的な諸関係として、また物の社会的な関係として現われる〉ことを指しているのだと理解したというわけです。

 

 さて、そこで、果たしてどちらの翻訳が原文を正しく訳しているのかが問題になりました。あいにく、学習会当日は原文を持っていなかったので、直接、確認することができませんでしたが、原文は、次のようになっていました。

 

 〈Den letzteren erscheinen daher die gesellschaftlichen Beziehungen ihrer Privatarbeiten als das, was sie sind, d.h. nicht als unmittelbar gesellschaftliche Verhältnisse der Personen in ihren Arbeiten selbst, sondern vielmehr als sachliche Verhältnisse der Personen und gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen.〉(S.87)

 

 ドイツ語原文をみる限りでは、これらは一続きの文になっており、その限りでは新日本新書版の訳の方が、より原文に忠実であるかに思えます。しかし、果たして亀仙人のような読み方は正しいのかどうかです。残念ながら、学習会の参加者の中にはドイツ語に堪能な人はいないので、ドイツ語により詳しい友人に問い合わせたところ、亀仙人のような読み方は、ドイツ語としては読めないのではないかという返事でした。というわけで、岩波版や全集版の方が、訳としてはより正確であり、新日本新書版の場合は、亀仙人のような読み方の余地を残しているという点では、やや問題があるという結論に、どうやらなりそうなようです。どなたかドイツ語に堪能な方のご意見をお伺いしたいと思います。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

【付属資料】

 

●第5パラグラフ

 

《補足と改訂》

 

〈[A]

 

 そこで、商品のこの物神的性格はどこから来るのか、とさらに問うとするならば、この秘密はすでにこれまでの分析で解決されている。商品の物神的性格は、商品を生産する労働の特殊な社会的性格から、また、それに照応した商品生産者の特有な社会的関係から発する。〉(29頁)

 

〈[B]

 

 商品世界のこの物神的性格は、これまでの分析がすでに示したように、商品を生産する労働の独特な社会的性格から発する。〉(29頁)

 

●第6パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈私的生産者たちは、自分たちの私的生産物である諸物に媒介されて、初めて社会的な接触にはいる。だから、彼らの労働の社会的な諸関係は、彼らの労働における人々の直接的に社会的な諸関係として、存在し現われているのではなくて、人々の物的な諸関係または諸物社会的な諸関係として、存在し現われている。ところで、物を、社会的な物として、最初にかつ最も一般的に表わすことは、労働生産物商品に転化することなのである。〉(63頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈そもそも使用対象が商品になるのは、使用対象が互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならず、それゆえ、それらのなかに表れている労働が互いに独立した私的労働によるものであるからにほかならない。さまざまな私的労働は物質的には互いに独立しており、また物質的に互いに補いあっている。それは、一方がこの社会的欲望を充足し、他方があの社会的欲望を充足して、それゆえ、すべてが一緒になって社会的欲望の全体を充足する、という限りでにほかならず、言い替えれば、どの私的労働もその特殊な有用的な性格によって、社会の総労働の一部分を遂行し、自然発生的社会的体制の、分業体制の一分肢をなすからにほかならない。まさに、部分労働者が特別な個々の社会的欲望だけをを充足するがゆえに、私的労働者の労働はその私的労働者自身の多様な社会的欲望を充足しはしない。〉

 

〈[B1]

 

 そもそも使用対象が商品になるのは、使用対象が互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的諸労働の複合体が社会的総労働をなす。私的諸労働は物質的に互いに独立しておりそして互いに補いあっている。それは、その私的諸労働が、あるものはこの、そして他のものはあの特殊な社会的欲望を充足する特殊な産業部門に属しているかぎりにおいてであり、言い替えれば、すべての私的労働がその特殊な有用的な性格によって社会的総労働の一部分を遂行し、それゆえ、栓会的分業という自然発生的体制の分肢をなすかぎりにおいてである。まさに、私的生産者が社会的総労働の特別な一部分しか遂行しないがゆえに、そしてそれゆえ、その生産的行為が一定の社会的欲望しか充足しないがゆえに、私的労働者の労働は彼自身の多様な欲望を充足しはしない。

 

[B2]

 

 そもそも使用対象が商品になるのは、使用対象が互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的諸労働の複合体が社会的総労働をなす。第三者たちは彼らの労働生産物の交換を通してはじめて社会的接触にはいるから、彼らの私的諸労働の独特な社会的性格もまたこの交換の内部ではじめて現われる。あるいは、私的諸労働は、交換によって労働生産物が、そしてまた労働生産物を媒介として生産者たちが、結ばれる諸関連を通して、事実上はじめて、社会的総労働の諸分肢として自己を発現する。だから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的諸関連は、そのあるがままのものとして、すなわち、入と人とが彼らの労働そのものにおいて結ぶ直接的に社会的な諸関係としてではなく、むしろ、人と人との物的諸関係および物と物との社会的諸関係として現れるのである。〉(小黒訳下29-30頁)

 

《フランス語版》

 

 〈一般的に言うと、有用物が商品になるのは、それらの有用物が、相互に独立して営まれる私的労働の生産物であるからにほかならない。これら私的労働の総体が、社会的労働を形成する。生産者たちは、彼らの生産物の交換によってはじめて社会的に接触するのであるから、彼らの私的労働の社会的性格が最初に確認されるのも、この交換の限界内に限られる。あるいは、私的労働は実際には、次の関係によってはじめて社会的分業として現われる。すなわち、交換が労働生産物のあいだに、そして間接には生産者たちのあいだにうちたてられるという関係によって。この結果、生産者たちには、自分たちの私的労働の関係が、あるがままのものとして、すなわち、自分たちの労働そのものにおける人と人との直接的な社会的関係としてではなくむしろ物と物との社会的関係として、現われることになる。〉(江夏他訳48頁)

 


第36回「『資本論』を読む会」 の案内

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

                                                                                                               

 

 「菅降ろし」の声がかまびすしい。

 

 「菅は無能だ」、「とにかく菅さえ辞めさせれば、うまく行く」等々。

 

 今では野党の自民・公明だけではなく、政権与党の民主党の中枢や閣僚の中からも「菅退陣」が叫ばれる有り様である。

 

 しかし6月27日の『朝日新聞』は、こうした策動の震源が「電力権益」の温存を謀る勢力にあることを暴露した。彼らは福島の事故にも何の反省もなく、ただ自らの権益維持のために、何がなんでも原発推進と現体制の維持に固執するのである。だから菅首相が浜岡を止め、原発増設を前提にしたエネルギー政策のゼロベースの見直しを掲げ、発・送電分離に言及したとたんに、「菅降ろし」の激しさが増したのだという。そして電力資本に取り込まれているのは、野党だけではなく、与党の中にも多数いるというわけである。

 

 

 菅首相は、6月28日の民主党両院議員総会で、再生エネルギー法案、第2次補正予算案、特例公債法案の成立が退陣の条件と改めて表明した。そのうえで「エネルギー政策をどのような方向に持って行くかは次期国政選挙でも最大の争点になる」と、「脱原発」を掲げた解散・総選挙をチラつかせて、これらの勢力を牽制し、何とか政権の延命をと策謀を逞しくしているようにも思える。

 

 そして今や菅首相は、「脱原発」派のシンボルとさえなったかである。「鼻をつまみ、断固として菅首相を支持する」(矢作俊彦)と言い出すものさえ出てきた。

 

 イタリアの国民投票では原発反対票が94.53%となり、ベルルスコーニ首相も、「原発にさよならと言わねばならない」と敗北を認めた。ドイツ連邦議会(下院)も、6月30日、「脱原発」法案を圧倒的多数で可決した、等々。今や原発を忌避する声は、日本のみか世界中に溢れているように思える。

 

 しかし肝心なことが忘れられている。

 

 原子力発電も、人類がその社会的物質代謝を豊かにするために、膨大な自然力を生産に貢献させ、生産過程を科学の技術学的応用に転化させてきた一結果であり、その点では、他のどんな技術とも何の違いもないということをである。

 

 あるいは、問題は、資本主義的生産は、そうした過程を歴史的に驚異的な形で促進させるが、しかし、それはあくまでも一つの転倒した形態においてでしかないということをである。

 

 資本主義的生産においては、すべての生産力は「資本の生産力」として現れる。すなわち利潤という抽象的富の獲得のために絶対的に奉仕させられる。

 

 資本主義的生産というのは、そもそも人間の社会的物質代謝を直接目的にした生産ではないのである。それが維持されているのは、あるいは維持されてきたのは、たださまざまな攪乱と偶然の一結果でしかないのだ。今回の原発事故も、その意味では、そうした攪乱の一つともいえるのである。

 

 マルクスは、資本主義的生産は、生命の自然法則によって命ぜられた社会的物質代謝の関連のうちに回復できない裂け目を生じさせ、すべての富の源泉である自然と労働者を同時に破壞するが、しかしそのことによってのみ資本主義的生産は社会的生産過程の技術やその統合を発展させ、将来の社会の物質的基礎を形成しうるのだと指摘している。

 

 だから問われているのは、資本主義的生産様式そのものを克服して、将来の社会の形成のために闘うことなのである。それを誰も問おうとはしない。

 

 しかし、それを実現してこそ、人類はその社会的物質代謝を合理的に統制し、その一契機として、原子力エネルギーの合理的な統御と管理をも可能にするようになるのである。問われているのは、ある特定の技術そのものの是非ではなく、この限界のある特定の歴史的社会的形態そのものなのである。

 

 「社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。」(『資本論』第3巻、全集25巻b1051頁)

 

 貴方もぜひ、『資本論』を一緒に読んでみませんか?

 



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