目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第9回「『資本論』を読む会」の案内
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第10回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第33回「『資本論』を読む会」の案内

『 資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

 

                                                                                                                      第33回「『資本論』を読む会」の案内文を出そうと思いながら、ぐずぐずしていたら、東北の三陸沖でM8.8という(後にM9.0に修正)巨大な地震が起こり、東北地方や関東地方を含めて、甚大な被害に見舞われる災害が発生した。

 

3月12日『朝日新聞』夕刊より

 

  とくに大津波の猛威は想像をはるかに越えるものであり、大きな船もろともに家屋までもを巻き込んで、一切合切を撫で斬りに流し去ってしまっている。家も何も跡形もなく、残ったのはただ瓦礫の山だけになっている。そこで生活していた人たちはどうなってしまったのか、その安否を思うにつけ、心痛の限りであるが、ただテレビの画面に釘付けになり、見入ることしかできない自分に歯がゆさを感じざるを得ない。

 

 おまけに福島原子力発電所では、地震によって緊急停止装置が働き停止したのはよいものの、緊急炉心冷却システム(ECCS)が作動せず、第一原発の建屋が骨組みを残して吹っ飛んだとニュースでは報じている。これはチェルノブイリ原発事故に相当する災害をもたらしかねない事態が生じていることを物語っている。放射能による二次災害はさらに広い範囲に長期間に渡る被害をもたらすことが予想される。まさに大変な事態である。

 

 考えてみれば、われわれ人類が築いてきた産業や毎日の生活の営みは、ただ地球のマントルの上べりにできた瘡蓋(カサブタ=地殻)の上にあるわけである。その瘡蓋は地球自体の長い歴史のなかで、火の玉の状態から徐々に冷却してくる過程で生じたものであるが、当然のことながら、今もって、その冷却は進んでおり、その冷却を媒介しているものがマントルの対流なのである。それによって地球はその内部の熱を宇宙に放出して徐々に冷えているわけだ。

 

 そしてそのマントルの対流に応じて、その瘡蓋は地球の表面を長い時間をかけて(われわれ人類の歴史から見て長いだけであるが)移動しており、日本列島は、そうした瘡蓋(プレート)の幾つかが地球内部のマントルにもぐり込んでいる場所にできた島である。

 

 

プレートテクトニクスから見た日本列島

 

 だから今回のような地震は当然予想されてきた。東海地震や東南海地震、あるいは南海地震というのがそれであるが、まさか三陸沖にそれが生じるとはあまり予想されて来なかったのではないだろうか。しかしそうであるなら、やがては来るだろうといわれているわれわれの身近で起こる南海地震も、同じような甚大な被害を関西地方にもたらすだろうことは容易に想像できる。だから、これはまったく人ごとではないわけである。

 

 マルクスは社会の歴史を地球の歴史になぞらえて「社会構成体(Gesellschaftsformation)」という概念を提起している。マルクスはこれを地質学の用語からとってきたと言われている。

 

 〈社会史の諸時代は抽象的な厳密な境界線によっては区分されないということは、地球史の諸時代の場合と同じことだからである。〉(全集23a486頁)

 

 〈さまざまな地質の累層の順次的継起について,ひとは,明確に分離された諸時代が突如として現われるなどと考えてはならないが,さまざまな社会構成体の形成についても同様である。〉(『1861-1863年草稿集』9巻129頁)

 

 地球の歴史は人類の歴史からすれば、気の遠くなるほど長いスタンスで変化しているものであるが、同じように人類の歴史も決して不変ではなく、現在の資本主義的生産様式も、やがては新しい社会構成体へと移行する一時代が来るものと思われる。それは今回の自然災害をもたらすようなものではないが、やはり世界全体を巻き込んだ一つの生みの苦しみともいうべき陣痛を伴うものなのかも知れない。

 

 そうしたことを今回の地震で考えさせられた。

 

 『資本論』など読んでいる場合ではない、と言われそうだが、一応、会場の予約もあり、第33回「『資本論』を読む会」は予定どおり開催します。

 


第33回「『資本論』を読む会」の報告

第33回「『資本論』を読む会」の報告

 

◎大地震と原発事故

 

 東北・関東地方が大地震と大津波によって壊滅的な被害を受けました。何万もの人命が失われ、何十万もの人々が住む家を失いました。引き続く福島原発の事故による放射能の恐怖は首都圏をも巻き込みつつあります。全国や世界からも多くの支援の手がさしのべられ、官民上げて原発の暴走をくい止めようと必死の対策がとられています。それらが奏効し、災害からの復興と事故拡大が未然に防止されることを願うばかりです。

 

 第33回「『資本論』を読む会」はこうした大変なときに開催されました。今回から第1章の第4節「商品の物神的性格とその秘密」に入りました。今回はいつも報告を担当して頂いているピースさんがお休みなので、JJ富村さんがピンチヒッターで報告を担当してくれました。ピースさんもいつもレジュメを準備してくれていますが、JJ富村さんも大変丁寧なレジュメを準備してくれました。今回は三つのパラグラフを進んだだけでしたが、その内容を報告しましょう。

 

◎商品の神秘的性格はその使用価値から来るものではない

 

 今回も、まず最初にパラグラフ全文を紹介し、文節ごとに(イ)、(ロ)、・・・・と記号をうち、それぞれについて平易に解説することにします。まず最初は第1パラグラフです。

 

【1】〈 (イ)商品は、一見、自明な、平凡な物らしく見える。 (ロ)商品の分析は、商品が形而上学的な小理屈と神学的な小言に満ちた非常にやっかいなしろ物であるということを明らかにする。 (ハ)商品が使用価値である限り、その諸属性によって人間の諸欲求を満たすという観点から見ても、あるいは、人間労働の生産物としてはじめてこれらの諸属性を受け取るという観点から見ても、商品には神秘的なものは何もない。 (ニ)人間がその活動によって自然素材の諸形態を人間にとって有用な仕方で変えるということは、感性的に明らかなことである。 (ホ)たとえば、木材でテーブルがつくられれば、木材の形態は変えられる。 (ヘ)にもかかわらず、テーブルはあい変わらず木材であり、ありふれた感性的なものである。 (ト)ところが、テーブルが商品として登場するやいなや、それは感性的でありながら超感性的なものに転化する。 (チ)それは、その脚で床に立つだけでなく、他のすべての商品に対しては頭で立ち、そしてその木の頭から、テーブルがひとりでに踊りだす場合よりもはるかに奇妙な妄想を展開する(25)。〉

 

 (イ) 商品は、一見すると、自明で、平凡なもののように見えます。

 

 (ロ) ところが、「商品とは何か」と商品の分析を開始すると、それは非常にやっかいなものであるということが明らかになります。それは形而上学的な理屈や神学的な小言に満ちたものであるかにさえ見えるのです。

 

 この二つの文節は、いわばこの第4節全体の導入部分のように思えます。つまりこれまでの第1章の商品の分析(第1節~第3節)を振り返って、この節(第4節)での課題を明らかにしているものと思えます。少し、その意味を込めて、書き直すと次のようになるかと思います。

 

 〈商品というのは、われわれが日常目にしているものであり、それ自体は、ありふれたものです。しかしこれまでわれわれは商品を分析し、「商品とは何か」を考察してきたのですが、その過程で明らかになったように、「商品とは何か」を明らかにしようとすると、恐ろしくやっかいな代物であることが分かりました。そのためには、ややこしい形而上学的ともいえる理屈をこねなければならず、わけのわからない神学的な小言と同じようなことを論じなければならなかったわけです。どうして商品とは、こんなわけの分からないものなのでしょうか。これが分からないと、「商品とは何か」ということを十分に解明したとは言えないのではないでしょうか。  つまりこれまで、われわれは商品にはどうして値札がついているのかを、貨幣の発生を辿ることによって明らかにして、われわれが日常見ている商品のありのままの姿がどうしてそうなっているのかを解明したのです。しかしその解明が、どうしてあのように難しい説明にならざるを得ないのか、どうして商品というのは、そうしたわけの分からない、やっかいな説明を必要とするものなのかが、実はまだ十分解明されているとはいえないわけです。だからそれが説明されて、初めて、われわれは「商品とは何か」について十全に理解したといえるでしょう。それをこれから説明することにしましょう。

 

 まあ、だいたい、こういう内容をここで言いたいわけです。そしてこれがこの第4節の課題を説明することでもあるわけです。

 

 (ハ) 商品をその使用価値の属性で見るなら、それは人間の諸欲求を満たすということや、あるいは、それが人間労働の生産物であり、そうした生産によってそうした欲求を満たす属性を受け取ったのだということなどについては、まったく神秘的なものは何もないわけです。

 

 ここからは、まず商品の一つの属性である使用価値そのものには、何の神秘的なものはないということから、商品の神秘性はどこから来るのかを説明するための前提として、商品の何については神秘的ではないのかをまず見極めることから始めているといえます。そしてその上で、では、商品の神秘的性格はどこから来るのかを説明しようとしているわけです。だから最初の二つのパラグラフそのものは、この節の本論の前提ともいうべきものなのかも知れません。

 

 (ニ) 人間がその活動によって自然素材をさまざまにその形態を変えて、人間にとって有用なものに作り替えるということは、まったく感覚的にも理解できることであり、明らかなことです。

 

 (ホ)、(ヘ) 例えば、木材でテーブルを作るならば、木材の形態は変えられますが、しかし、依然としてテーブルは木材であり、ありふれた感覚的に捉えられるものであり続けます。

 

 ここまでは、とにかく商品の使用価値やそれをつくる労働についても、何も神秘的なものはないことが指摘されています。

 

 (ト)、(チ) ところが、テーブルがひとたび商品として登場するやいなや、それは感性的存在でありながら、それ以上のもの、超感性的なものに転化するのです。テーブルはその脚で床に立っているだけではなくて、他の商品に対しては頭で立ち、そしてその木の頭から、テーブルがひとりでに踊りだす場合よりはるかに奇妙な妄想を展開するようになるのです。

 

 これまでの考察のように商品の使用価値を問題にしている限りでは、それらはすべて感性的に、つまりわれわの五感で捉えられるものであり、だからわれわれにとっては神秘的なものは何もないのですが、しかし、商品の神秘性は商品が他の商品との関係のなかで捉えられるようになると、その神秘的な性格が現われてくるのだということが、ここでまず指摘されています。それをやや文学的な表現でなされているといえるでしょう。

 

 学習会では、まず〈それは、その脚で床に立つだけでなく、他のすべての商品に対しては頭で立ち〉の部分について、報告者のレジュメでは〈他のすべての商品に対して価値関係を取り結ぶ。脚で立つ机, 即ち, 使用価値としてではなく, 価値, 交換価値として振る舞う〉との説明がありました。これはその通りなのですが、なぜ〈頭で立ち〉と説明されているのかが今一つよく分かりません。価値関係を取り結ぶということは、他の商品との違いを示している商品の使用価値を生み出した有用な労働の諸属性を捨象して、他の商品との共通なもの、抽象的な人間労働が対象化したものに還元する必要があるわけです。そうすると、それは抽象の産物となり、そういう意味で頭の産物だから、このように述べているのではないか、という説明がありました。初版本文には次のような説明もあります。

 

 〈リンネルを人間労働の単なる物的な表現として把握するためには、リンネルを現実に物にしているところのいっさいのものを、なによりもまず捨象しなければならない。それ自身抽象的であってその他には質も内容ももたない人間労働の対象性は、必然的に、抽象的な対象性、すなわち思考産物である。こうして亜麻織物は幻想になる。〉(江夏訳36頁)

 

 またレジュメでは、〈そしてその木の頭から、テーブルがひとりでに踊りだす場合よりもはるかに奇妙な妄想を展開する〉の部分がよく分からないと「?」マークがついていましたが、これはこれまでの展開を振り返って論じているのではないか、つまり価値形態の発展を論じた部分の難しい展開を〈奇妙な妄想の展開〉ともじっているのではないか、との意見がありました。

 

 さらに、第4節の表題は〈商品の物神的性格とその秘密〉ですが、そもそも〈物神的性格〉とは何だろうということになりました。レジュメでは平凡社の百科事典の「フェティシズム」の項からの引用が紹介されていましたが、〈物神〉というのは、物を神のように崇めるということ。例えば奇岩・奇石などを神が宿るものとして崇めたり、巨大な古木をご神木として崇めるというような例が紹介されました。しかし単に物を神として崇めるというだけでは、〈物神的性格〉の理解としては不十分ではないか、との指摘もあり、有井行夫著『マルクスはいかに考えたか』の内容の紹介など色々と議論がありましたが、その内容をすべて紹介してしまうと、この節の内容を先取りしてしまいかねず、よって今回は割愛したいと思います。それについてはまた論じる機会があるかと思います。

 

 この第1パラグラフについている注25についても簡単に議論しましたので、それも紹介しておきましょう。

 

 【注25】〈(25) 世界の残りの部分がすべて静止しているように見えた時に、中国〔China、「陶器」と同文字〕とテーブルが踊りだした--“ほかのものたちを励ますために pour encourager les autres ”--ということが思い出される。〉

 

 これに関しては、レジュメでは全集版の注解28で次のような説明があると紹介されていました。

 

 〈全集版の注解(28) ほかのものを励ますために(pour encourager les autres)

 

 1848-49年の革命の敗北後、ヨーロッパでは暗い政治的反動期が始まった。そのころヨーロッパ貴族仲間は、またブルジョア仲間も霊交術や特に卓踊術に熱中していたが、他方、シナでは特に農民のあいだに強力な反封建的解放運動が広がっており、それは太平天国の乱として歴史に残っている。〉

 

 また新日本新書版では次のような説明があることも紹介されました。

 

 〈〔テーブルや陶器が踊るというのは心霊術の一種で、1848年の革命の敗北後ヨーロッパで大流行したが、マルクスはここで、1850年から起こった太平天国運動とそれをかけている。「中国問題」、邦訳『全集』、第15巻、490頁参照。なお、「ほかのものたちを励ますために」は、ヴォルテール『カンディード』、第23章からとられている。吉村正一郎訳、岩波文庫、129頁〉

 

 全集版の「中国問題」の当該箇所については、埼玉・所沢の「『資本論』を読む会」のサイトでは次のように紹介されていました。

 

 《この中国革命で独特なのは、実際はただその担当者だけである。彼らは、王朝の交替ということを除いては、どのようなスローガンももっていない。彼らは旧統治者によるよりも人民大衆によってよけいに恐れられている。彼らの使命は、保守的老衰に対立して、怪奇な、いとわしい形態における破壊、なんらの新しい建設の萌芽ももたない破壊を代表する以外にはなにもないかのように思われる。》(全集第15巻490頁)

 

 とりあえず、この注25については、こうした資料だけを紹介しておきます。

 

◎商品の神秘的性格は価値規定の内容からも生じるのではない

 

 次は第2パラグラフです。

 

【2】〈 (イ)したがって、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではない。 (ロ)それはまた、価値規定の内容から生じるのでもない。 (ハ)と言うのは、第一に、有用労働または生産的活動がたがいにどんなに異なっていても、それらが人間的有機体の諸機能であること、そして、そのような機能は、その内容やその形態がどうであろうと、どれも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは、一つの生理学的真理だからである。 (ニ)第二に、価値の大きさの規定の基礎にあるもの、すなわち、右のような支出の継続時間または労働の量について言えば、この量は労働の質から感覚的にも区別されうるものである。 (ホ)どんな状態のもとでも、人間は--発展段階の相違によって一様ではないが--生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった(26)。 (ヘ)最後に、人間が何らかの様式でたがいのために労働するようになるやいなや、彼らの労働もまた一つの社会的形態を受け取る。〉

 

 (イ) だから商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではありません。

 

 (ロ) では、それは商品の価値から生じているのでしょうか。しかしまた、商品の価値規定の内容を見る限りでは、そこから生じているともいえないのです。

 

 (ハ) というのは、商品の価値規定の内容というのは、第一に、有用労働が、あるいは生産的な活動がそれがどんなに互いに違っていたとしても、それらが人間有機体の諸機能だという点ではどんな違いもありませんし、またそれがどういう具体的な形態でなされるかに違いはあったとしても、それらはどれも本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるという点では同じであることは、生理学的真理であって、これ自体には何の神秘的な性格もないわけです。

 

  ここで注意が必要なのは、マルクスが「価値規定の内容」として語っているものには、「価値の実体」と言われる「抽象的人間労働の凝固」という言葉がないことです。だから「価値規定の内容」というのは「価値の実体」とはまた違って、その基礎にあるものだということです。

 

 (ニ)、(ホ) 次に価値規定の内容として問題になるのは、価値の大きさの基礎にあるもの、すなわち先の生理学的な労働力の支出の継続時間、またはその労働の量については、労働の質とは感覚的に区別されるものです。

 

  ここでも注意深く吟味してみる必要があるのは、マルクスは「価値の大きさ」そのものを問題にしているのではなく、「価値の大きさの基礎にあるもの」を問題にしているということです。価値の大きさは商品の生産に社会的に必要な労働時間ですが、そうしたものを直接問題にしているのではなく、その「基礎にあるもの」なのです。それはマルクスが「価値規定の内容」として抽象的人間労働を問題とせず、さまざまな具体的な形態か規定された人間労働力の支出というものが、その具体的形態が如何なるものであろうと、人間有機体の諸機能であり、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出なのだとして捉えていることに対応しています。

 

  以前、第2節の最後のパラグラフを分析したときに、このパラグラフがシンメトリーの構成になっていることと、三層の構造を持っていることを指摘しました。それをもう一度思い出してみましょう。まず、第2節の最後のパラグラフを紹介します。

 

   《すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する。》(全集版63頁)

 

  このパラグラフの構成を図示したものも紹介しておきます。

 

 

 

  つまりマルクスは「商品価値を形成する」労働を分析して、「生理学的意味での人間労働力の支出」というものと「同等な人間労働または抽象的人間労働」という属性とを区別しているということです。同じように「使用価値を生産する」労働についても、「特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出」ということと、「具体的有用労働」という属性とが区別されています。

 

  だから今ここで、マルクスが「価値規定の内容」として述べているものでいえるのは、「価値を形成する」労働のうち、まさに最初の層、つまり「生理学的意味での人間労働力の支出」とその継続時間なのだということです。第二層、つまり価値の実体である「同等な人間労働または抽象的人間労働」の凝固と社会的に必要な人間労働の継続時間ではないということに注意が必要なのです。多くのマルクス経済学者は「抽象的人間労働」と「生理学的な意味での人間労働力の支出」を同じものとして扱っていますが、マルクス自身はこれらを明確に区別していることに注意が必要なのです。

 

 (ヘ) そして最後に、人間が何らかの様式で互いのために労働するようになるやいなや、彼らの労働も社会的な形態を受け取るということはあたりまえのことであり、彼の労働が社会的な形態を持っているということ自体には何の神秘的なものもないのです。

 

 ここでは〈価値規定の内容〉という言葉が出てきます。マルクスはこの内容を三つの部分からなると考えているようです。では、それは第1節のどういう内容に照応しているのでしょうか。

 

 (1)まず価値規定、つまり価値の規定というのは、次のような第一節の一文を指すのではないでしょうか。

 

 〈そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値--商品価値である。 

  諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現れた。そこで今、実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、今まさに規定された通りのそれらの価値が得られる。したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表している共通物とは、商品の価値である。 

  したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。

 

  これが「価値規定」です。しかし、ここでマルクスが問題にしているのは、こうした「価値規定」そのものではなく、その基礎にあるものとだということです。それが「価値規定の内容」なのです。

 

 (2) 次は量的な価値規定について、

 

 〈では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。…… 

  したがって、ある使用価値の価値の大きさを規定するのは、社会的に必要な労働の量、または、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間にほかならない。

 

  この場合も、しかしマルクスがここで問題にしているのは価値の量的規定そのものではなく、「その基礎にあるもの」なのだということが重要です。

 

 (3)次は、価値を形成する労働の社会的性格についてです。

 

 〈商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない。〉  

 〈したがって、われわれは次のことを見てきた--どの商品の使用価値にも一定の合目的的な生産的活動または有用労働が含まれている。諸使用価値は、質的に異なる有用労働がそれらに含まれていなければ、商品として相対することはできない。その生産物が一般的に商品という形態をとっている社会においては、すなわち商品生産者たちの社会においては、独立生産者たちの私事としてたがいに従属せずに営まれる有用労働のこうした質的相違が、一つの多岐的な体制に、すなわち社会的分業に、発展する。

 

  しかしこうした労働の社会的形態は、商品を生産するという様式において取り結ぶ社会的形態であるということが理解されなければなりません。価値規定の内容としてマルクスが述べているのは、そうしたもののさらに一般化されたものだということです。

 

 報告者のレジュメでは、以前、大阪でやっていた「『資本論』を学ぶ会」のニュースNo.23(1998/11/5)からの紹介がありました。だからそれも少し紹介しておきましょう。

 

  【ここではマルクスは「価値規定の内容」とは、労働を基礎とする人間のどんな社会にも妥当するような、もっとも基本的なものだと述べているように思えます。だからそれは資本主義以前の社会はもちろん、将来の社会、つまり社会主義、共産主義の社会においても存在するものだということでもあります。だからこうしたものには何の神秘的なものもないのだということだと思います。このようなマルクスの考えは、それ以外の文献でも色々と述べられています。今、その主なものを紹介しておきましょう。

 

 例えばマルクスは1868年7月11日付けの「クーゲルマンへの手紙」で次のように書いています。

 

 〈価値概念を証明する必要があるなどというおしゃべりは、当面の問題についての、さらにまた、この科学の方法についての完全な無知にもとづくものにほかならない。いかなる国民でも、一年間はおろか二、三週間でも労働を停止しようものなら、たちまちまいってしまうということは、どんな子どもでも知っている。また、種々の欲望の量に応じる諸生産物の量は、社会的総労働の種々のそして特定の分量を必要とするということもどんな子どもでも知っていることである。このように社会的労働を一定の割合で配分する必要は、社会的生産の一定の形態によってなくされるものではなくて、ただそのあらわれかたが変わるにすぎないことは自明である。自然法則をなくすことはけっしてできないことである。いろいろの歴史的状態につれて変化しうるのは、それらの法則が貫徹される形態だけである。そして、社会的労働の連関が個人的労働生産物の私的交換としてあらわれる社会状態においてこの労働の比例的配分が貫徹される形態がまさしくこれらの生産物の交換価値なのである。〉(国民文庫版87~9頁)

 

 (中略)つまりマルクスが「価値規定の内容」として述べていることは、いわばこの手紙でマルクスが「自然法則」として述べていることと同義であって、だから商品生産社会において「それらの法則が貫徹される形態」こそが、まさに「生産物の交換価値」であり、それが「労働生産物の謎的性格」をもたらすのだ、ということではないでしょうか。

 

 もう一つ紹介しましょう。「アードルフ・ヴァーグナー著『経済学教科書』への傍注」では次のような一文が見られます。

 

 〈さて、ロートベルトゥスが--私はあとでなぜ彼にこれがわからなかったのか、その理由を言おう--すすんで商品の交換価値を分析したとすれば、--交換価値は商品が複数で見いだされ、さまざまな商品種類が見いだされるところにだけ存在するのだから--彼はこの現象形態の背後に「価値」を発見したはずである。彼がさらにすすんで価値を調べたとすれば、彼はさらに、価値においては物、「使用価値」は人間労働のたんなる対象化、等一な人間労働力の支出と見なされ、したがってこの内容が物の対象的性格として、商品自身に物的にそなわった〔性格〕として表示されていること、もっともこの対象性は商品の現物形態には現れないということ〔そして、このことが特別な価値形態を必要にするのである〕、こういうことを発見したことであろう。つまり、商品の「価値」は、他のすべての歴史的社会形態にも別の形態でではあるが、同様に存在するもの、すなわち労働の社会的性格--労働が「社会的」労働力の支出として存在するかぎりでの--を、ただ歴史的に発展した一形態で表現するだけだということを発見したことであろう。このように商品の「価値」があらゆる社会形態に存在するものの特定の歴史的形態にすぎぬとすれば、商品の「使用価値」を特徴づける「社会的使用価値」もやはりそうである。〉(全集・376~7頁)

 

 こうしたマルクスの論述は、それ以外の諸文献でも見ることができます。ここで重要なのは、マルクスはこうした「価値規定の内容」は、確かにあらゆる社会に存在するものではあるが、しかしそれは「価値」がそうであるとは言っていないということです。むしろ「価値」はその「特定の歴史的形態にすぎない」と述べています。(以下略)】

 

 ところで、初版本文では、このパラグラフに続いて、現行版では12パラグラフに来るロビンソンの例と15パラグラフに来る共同社会の例の二つのパラグラフが続いています。つまりこの価値規定の内容には何の神秘的な性格はないということを説明する例として、ロビンソンの孤島での生活や将来の共同社会の例が展開されているのです。この現行版の二つのパラグラフは、当然、後に問題になるわけですが、初版本文の展開の意義を確認するために、若干先取りして、その内容を少しだけ検討しておきましょう。

 

  まずロビンソンの島の生活においては、〈ロビンソンと彼の自家製の富を形成している物とのあいだのいっさいの関係は、ここではきわめて簡単明快〉だと指摘しながら、〈それにもかかわらず、これらの関係のうちには、価値のすべての本質的な規定が含まれている〉とも述べられています。つまりそれらが価値規定の内容を意味することが示唆されているのです。

 

  また〈共同の生産手段を用いて労働し、自分たちのたくさんの個人的な労働力を意識的にさて、一つの社会的な労働力として支出するところの、自由な人々の団体〉については、〈ロビンソンの労働のあらゆる規定が繰り返されるが、このことは、個人的にではなく社会的にというにすぎない〉と指摘され、やはり〈人々が彼らの労働や彼らの労働生産物にたいしてもっている社会的な諸関係は、ここでは依然として、生産においても分配においても、透明で簡単である〉と述べられています。つまり先に「クーゲルマンへの手紙」「アードルフ・ヴァーグナー著『経済学教科書』への傍注」でも指摘されていましたが、それらはあらゆる社会に共通な内容をもったものであり、こうした関係には何の神秘的な性格もないと言うわけです。

 

  そして初版本文では、こうした二つのパラグラフによる価値規定の内容の具体的な例の検討を行ったあと、それを受けて、次のパラグラフで〈それでは、労働生産物が商品という形態をとるやいなや、労働生産物の謎めいた性格はどこから生ずるのか?〉と続いているのです(しかしその後の展開は現行版とは若干異なります。その検討は次回以降にしたいと思います)。

 

 次の注26については、ほとんど議論にはなりませんでしたが、まずその本文を紹介しておきましょう。

 

 

 【注26】〈(26) 第2版への注。古代のゲルマン人のあいだでは、一モルゲンの土地〔Land〕の大きさは一日の労働によってはかられ、そこから、一モルゲンは、 Tagwerk (あるいは Tagwanne )〔一日の仕事〕(jurnale または jurnalis,terra jurnalis,jornalis または diurnalis)、Mannwerk〔男一人の仕事〕、Mannskraft〔男一人の力〕、Mannsmaad〔男一人の草刈り〕、Mannshauet〔男一人の刈り取り〕などと呼ばれた。ゲオルク・ルートヴィッヒ・フォン・マウラー『歴史への序論、マルク・農地等々・・・の制度について』、ミュンヘン、一八五四年、一二九ページ以下を見よ。〉

 

 これは〈どんな状態のもとでも、人間は--発展段階の相違によって一様ではないが--生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった〉ということの一つの例証として、古代ゲルマンでも、一人の男の労働時間によって彼の土地の大きさが決められたことを紹介しているだけですから、あまり拘る必要もないでしょう。

 

◎労働生産物の謎的性格は、商品形態そのものから来る

 

 次は第3パラグラフです。

 

 【3】〈 (イ)では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎のような性格は、どこから来るのか?  (ロ)明らかに、この形態そのものからである。 (ハ)人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の測定は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がその中で発現する彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。〉

 

 (イ) では、労働生産物が商品の形態をとるやいなや生じる、その謎のような性格は、どこから来るのでしょうか?

 

 (ロ) それは、明らかに、この形態そのもの、つまり商品形態から来るのです。

 

 ここで〈形態そのもの〉とありますが、学習会では、第3節の最初の前文ともいうべき部分にある次の一文に注目すべきことが指摘されました。

 

 〈商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である。けれども、商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである。

 

 だからここで〈形態そのもの〉と言われているのは、商品形態の二重の形態のうちの、価値形態を指すことは明らかでしょう。「価値形態そのもの」から労働生産物の謎的性格が来ていることになります。

 

 (ハ) 価値規定の内容のそれぞれの契機は、商品形態において、次のような形態を受け取ることによって謎的性格を帯びます。まず人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、次にその継続時間による人間労働力の支出の測定は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がそのなかで発現する彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのです。

 

 この最後の部分の文章に注意が必要だということが指摘されました。まず〈生産者たちの労働のあの社会的諸規定がその中で発現する彼らの諸関係〉という部分の〈あの社会的諸規定〉の〈あの〉というのは、一つ前のパラグラフにある〈人間が何らかの様式でたがいのために労働するようになるやいなや、彼らの労働もまた一つの社会的形態を受け取る〉を受けていると思えます。つまり先のパラグラフで指摘された社会的形態を受け取った労働の〈あの社会的諸規定〉ということです。

 

 労働そのものは、その具体的な属性によって社会的な関係を体現しています。マルクスは使用価値について次のように述べていました。

 

 〈まざまな種類の使用価値または商品体の総体のうちには、同じように多様な、属、種、科、亜種、変種を異にする有用労働の総体--社会的分業--が現れている。

 

 つまり有用労働はその有用な属性によって社会的分業の総体を表しているわけです。

 

 その労働の〈社会的諸規定〉が〈その中で発現する〉〈その中〉というのは〈生産者たち〉の〈諸関係〉ということです。つまり労働それ自体がもっている社会的諸規定というのは、社会の物質代謝を維持するために必要不可欠な物質的な条件なのです。それが生産者が取り結ぶ社会的諸関係のなかで発現する(実現される、あるいは具体化される)と述べているわけです。しかしこの生産者の社会的諸関係は、しかし、〈労働生産物の社会的関係という形態を受け取る〉ことによってその謎的性格が生まれるのだというわけです。つまり生産者の社会的諸関係が物の社会的関係という形態を受け取っているということです。この最後の部分は少し難しいのですが、もっと後で詳しく論じられると思いますので、ここでは、これぐらいにしておきましょう。

 

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【付属資料】

 

●第4節の表題

 

《初版付録》

 

 〈δ 等価形態の第四の特性商品形態の物神崇拝は等価形態では相対的価値形態よりも顕著である。〉(893頁)〉

 

《補足と改訂》

 

 〈4)商品の物神的性格とその秘密〉(小黒正夫訳下26頁)

 

《フランス語版》

 

 〈第四節 商品の物神性とその秘密〉(江夏他訳46頁)

 

●第1パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈商品は、一見したところでは、自明の、ありきたりの物に見える。商品の分析が示すところでは、商品は非常に奇妙な物であり、形而上学的な屁理屈や神学的なしかめつつらでいっぱいになっている。単なる使用価値としては、商品はある感覚的な物であって、私がいま、それを、それの諸属性が人聞の必要をみたすという観点から観察しても、または、それが人間労働の生産物として初めてこれらの属性を得るという観点から観察しても、それにはなんら神秘的なものはない。人聞が自分の行為によって自然素材の諸形態を自分にとって有用な仕方で変えるということには、謎めいたものは絶対になにもない。たとえば、材木から机を作れば材木の形は変えられる。にもかかわらず、机は依然として、材木というありふれた感覚的な物である。ところが、机が商品として現われるやいなや、机は、感覚的でありながら超感覚的な物に変わる。机は、その脚で地上に立っているだけでなく、すべての他商品に向かって逆立ちし、その木の頭から、机が自ら進んで踊り出すときよりもはるかに奇怪な妄想を、繰り広げるのである(25)。〉(江夏訳59頁)

 

《フランス語版》

 

 〈商品は一見したところでは、ありふれた自明なあるもの、のように見える。これとは反対に、われわれの分析の示すところでは、商品は、形而上学的な精密さと神学的なうわべの飾りにみちたきわめて複雑な物である。商品には、それがその属性によって人間の必要をみたそうと、その属性が人間労働によって産み出されようと、使用価値としてはなんら神秘的なものはない。人間の活動が自然の提供する素材を加工して、これを有用なものにするということは、自明のことである。たとえぽ、机を木材で作るならば、木材の形態が変化したのである。それにもかかわらず、机は依然として木材、すなわち、ありきたりで火を見るより明らかな物である。だが、机が商品として現われるやいなや、事態は全くちがってくる。机は、手でつかみうると同時に手でつかみえないものであるから、その足を地上に立てるだけでは充分でない。机は、いわば他の商品にむかって木の頭〔鈍い頭という意味も兼ねている〕で逆立ちし、踊りだすよりもいっそう奇妙な幻想に耽るのである。〉(46頁)

 

●注25

 

《初版本文》

 

 〈(25)ほかの世界がすべて静止しているように見えたとき、シナと机が踊り出した--ほかのものを励ますために--、ということが思い起こされる。〉(59頁)

 

●第2パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈だから、商品の神秘的な性格は、商品の使用価値からは生まれてこない。それは同様に、それ自体として観察された価値規定からも生まれてこない。というのは、第一に、もろもろの、有用な労働あるいは生産活動は、どんなにそれぞれに相異なったものであっても、ほかの有機体とはちがうところの独自に人間的な有機体の諸機能であるということは、そしてまた、このような諸機能はどれも、その内容やその形態がどうあろうとも、本質的には、人間の頭脳や神経や筋肉や感覚器官等々の支出であるということは、生理学上の真理だからである。第二に、価値量の規定の基礎になっているもの、上記の支出の継続時間または労働のについて言えば、このは、感覚的にさえ、労働のと区別できる。生活手段の生産に費やされる労働時間は、たとい発展段階がちがえば一様ではないにしても、どんな状態のもとでも、人間の関心事でなければならなかった。最後に、人聞がなんらかの仕方で相互のために労働するように怒ると、彼らの労働も、ある社会的な形態をとることになる。〉(59-60頁)

 

《フランス語版》

 

 〈したがって、商品の神秘的な性格はその使用価値から生ずるものではない。この性格はなおさら、価値を規定する性格からも生じない。第一に、実際のところ、有用労働すなわち生産活動がどんなに種々さまざまなものでありえようとも、それらはなによりもまず人間有機体の機能であること、このような機能はどれも、その内容や形式がどうあろうとも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、器官、感覚等の支出であることは、生理学的真理である。第二に、価値量を規定するのに役立つもの、すなわち、こういった支出の継続時間あるいは労働の量については、この労働の量が労働の質から明らかに区別されることは、否定できないであろう。どんな社会状態でも、消費手段を生産するために必要な時間は、文明の段階の相違に応じて不均等であっても、人間の関心事でなけれぽならなかった。(26)最後に、人間がなんらかのやり方で相互のために労働するやいなや、彼らの労働も社会的な形態を獲得するのである。〉(47頁)

 

●注26

 

《フランス語版》

 

 〈(26) 古代ゲルマン人のあいだでは、1アルバンの土地の大きさは、1日の労働にしたがって計算され、そのため1日の仕事Tagewerk〉、男1人の仕事Mannewerk〉等(jurnale または jurnalis,terra jurnalis または diunalis)という大きさの名称が生じた。さらに、「一人が一日に耕せる〈journal〉」土地の面積という表現は、フランスの若干の地方ではいまなお存続している。〉(47頁)

 

●第3パラグラフ

 

《フランス語版》--パラグラフの構成がやや違っている

 

 〈労働生産物が商品形態を帯びるやいなや、労働生産物の謎めいた性格はいったいどこから生ずるか? 明らかにこの形態そのものからである。  人間労働の同等性という性格は、労働生産物の価値という形態を獲得する。継続時間による個別的労働の測定は、労働生産物の価値量という形態を獲得する。最後に、生産者たちの労働の社会的性格がそのなかで確認されるところの彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を獲得する。〉(47頁)

 


第34回「『資本論』を読む会」の案内

『 資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

                                                                                                                              

 

 東日本大震災から一カ月が経過したが、福島第一原子力発電所の事故は、深刻の度を加えこそすれ、いまだに核の暴走を完全に防ぐ見通しさえ立てる事が出来ないでいる。放射性物質はすでに地球全体に振りまかれてしまい、原発周辺の土地や海洋の放射能汚染の被害は甚大であるが、さらに深刻な事態を迎えないとは誰も断言できないありさまである。

 

無残にも崩壊した福島第一原発

 

 今回の原発事故は、直接には大地震と大津波という自然の猛威によるものであるが、しかしそれだけを理由にすることは出来ない。なぜなら、同じ第一原発でも5・6号機は同じように外部電源がすべて途絶えながらも、何とか非常用ディーゼル発電機が作動し原子炉を冷却する水の循環を回復することが出来たからである。また同じような地震と津波に晒された福島第二原発や東北電力の女川原発では何とか重大事故に至らずに済ますことが出来ているからである。

 

 福島第一原発は60~70年代にかけて建設され、国内ではもっとも古い部類に入るのだという。だから安全設計もずさんであったというわけである。しかしそんなことが果たして理由になるだろうか。その後に建設された原発がより安全な設計指針にも基づいたものなら、そうした新しい安全指針によって、古いものを見直すのが当然ではないのか。しかし東京電力はそれを怠ってきたのである。

 

 06年に新たに改訂された原発の耐震指針では津波対策も明記され、福島第一の中間報告を審査した09年の専門家会合では、今回のような大津波「貞観(ジョウガン)津波」(869年)を考慮するよう指摘されたが、結局、東電は「学術的な見解がまとまっていない」などと屁理屈を述べ、最後まで最終報告を出さなかったと指摘されている(3月31日『朝日』)。結局、東電は「安全とコストを天秤にかけた」のである(4月9日『サンケイ』)。要するに儲けのために、コストのかかる安全対策を怠ってきたわけである。これが今回の深刻な事態を招いた最大の理由であろう。

 

 人類がこれまで使いこなしてきた化石燃料に代わって、原子エネルギーによって高度な生産が必要とする膨大なエネルギー需要に応じることを可能にしたのは、資本主義的生産の偉大な成果の一つである。しかし原子力の技術自体は、まだまだ未成熟なものであり、膨大な放射性廃棄物を生み出す等の問題も抱えている。しかも今回の原発事故が示したように、危険極まりないこうした技術が、ただ利潤(儲け)だけを唯一の目的とも推進動機ともする資本主義的生産によって担われていることには、深刻な矛盾があるのである。

 

 新しい技術は、新しい社会によるあたしい人たちによってこそ、十分に管理し、運営することが出来るとマルクスは次のように述べている。

 

 〈われわれのあらゆる発明や進歩は、物質的な力に知的な生命をあたえる一方、人間の生命を愚鈍化して物質的な力に変える結果となるようにみえる。一方における現代の工業と科学、他方における現代の貧困と衰退のこの対立、現代の生産力と社会関係のこの対立は、明白な、圧倒的な、争う余地のない事実である。ある党派はこのことを嘆き悲しむかもしれない。また別の党派は、現代の衝突をとりのぞくために現代の技術をとりのぞきたいと望むかもしれない。あるいはまた、こうも顕著な工業の進歩を、それに劣らず顕著な政治の退歩で補う必要があると考える者もいるかもしれない。われわれとしては、これらすべての矛盾にたえず印を残しているすばしこい妖精の姿を見ちがえることはない。社会の新しい力をうまくはたらかせるには、新しい人問がこの力を支配しさえすればよいことを、われわれは知っている。--そして、そういう新しい人間とは労働者である。〉(全集12巻4頁)

 

 今回の事故は「人災」であると同時に、資本主義という生産のシステムそのものにも起因するものである。そうした問題を理解するためにも『資本論』の研究が是非とも必要である。貴方も、一緒に『資本論』を読んでみませんか。

 


第34回「『資本論』を読む会」の報告

第34回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎桜も終わり

 

 東日本大震災で被災された方々のことを思うと、花見どころではないだろう、と言われそうですが、しかし、花の下でのどんちゃん騒ぎならともかく、静かに花をめでることにまで目くじらを立てることもないかと思います。

 

 かくいう私も4月の第二日曜日に、コンビニで買った弁当を下げて、近くの公園まで花見に行ってきました。大勢の花見客は避けて、静かなところで弁当を広げましたが、桜の花には、ヒヨドリやメジロ、シジュウカラが花の蜜を吸いに集まり、コゲラが幹についた虫か何かをついばんでいました。また無数の蜜蜂が群がり、その羽音がワーンと響いていました。静かですが、それなりににぎやかな花見です。

 

 第34回「『資本論』を読む会」が開催された堺市立南図書館の三階から見える桜はすでに半ば散って、部分的に葉桜になっていました。もう桜も終りです。窓から見える金剛山などの山並みは春陽に霞んでいました。

 

 今回はピースさんも参加されたのですが、前回ピンチヒッターを引き受けて頂いた、JJ富村さんが引き続きレポートを担当して下さいました。しかし、今回は、たった一つ、第4パラグラフを進んだだけに終わりました。さっそくその報告を行います。

 

◎第3パラグラフへの補足

 

 前回(第33回)は、第1~3パラグラフまで進みましたが、第3パラグラフの解読では準備不足から十分解説できずに終わっている部分がありましたので、それを補足的に紹介しておくことにします。まず第3パラグラフをもう一度、全文紹介しておきます。

 

 【3】〈 (イ)では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎のような性格は、どこから来るのか?  (ロ)明らかに、この形態そのものからである。 (ハ)人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の測定は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がその中で発現する彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。〉

 

 文節ごとの平易な解説はすでに前回の報告で済ませました。今回は、この第3パラグラフに対応する初版本文を紹介したいと思います。というのは、その文章が次のように、大変長ものになっているからです。

 

 〈それでは、労働生産物が商品という形態をとるやいなや、労働生産物の謎めいた性格はどこから生ずるのか?  

 (a)【人々が彼らの諸生産物を、これらの諸物が同種の人間労働の単なる物的外皮として認められているかぎりにおいて、価値として互いに関係させるならば、このことのうちには、同時にこのこととは逆に、彼らのいろいろな労働が、物的外皮のなかでは、同種の人間労働としてのみ認められる、ということが含まれている。彼らは、自分たちの諸生産物価値として互いに関係させることによって、自分たちのいろいろな労働を人間労働として互いに関係させているのである。人的な関係が物的な形態で蔽い隠されている。したがって、価値の額には、価値がなんであるかは書かれていない。人々は、自分たちの諸生産物を商品として互いに関係させるためには、自分たちのいろいろな労働を、抽象的な、人間的な、労働に、等置することを強制されている。彼らはこのことを知つてはいないが、彼らは、物質的な物を抽象物である価値に還元することによって、このことを行なうのである。これこそが、彼らの頭脳の自然発生的な、したがって無意識的で本能的な作用であって、この作用は、彼らの物質的生産の特殊な様式と、この生産によって彼らが置かれているところの諸関係とから、必然的にはえ出てくるものである。第一に、彼らの関係は実践的に存在している。だがしかし、第二に、彼らは人間であるがゆえに、彼らの関係は、彼らにとっての関係として存在している。それが彼らにとって存在している仕方、あるいは、それが彼らの頭脳のなかに反射している仕方は、この関係の性質そのものから生まれてくる。のちになって彼らは、科学に頼って、彼ら自身の社会的生産物の秘密を見抜こうとする。なぜならば、物の価値としての規定は、言語と同じに、彼らの産物だからである。】(b)【ところで、さらに、価値量にかんして言えば、互いに独立して営まれていても、自然発生的な分業の諸肢体であるがゆえに全面的に互いに依存しあっているところの、私的諸労働は、次のことによって、それらの社会的に釣り合いのとれた大きさに、絶えず還元されている。すなわち、これらの労働の生産物の偶然的な、そして絶えず変動する交換割合のうちで、それらの生産物の生産のために社会的に必要な労働時聞が、たとえばある人の頭上に家が崩れ落ちるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹する、ということによって(26)。だから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の目に見える諸運動の背後に臆されている秘密なのである。生産者たち自身の社会的な運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとっているのであって、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御されているのである。(c)【ところで、最後に価値形態について言えば、この形態こそはまさに、私的労働者たちの社会的な諸関係を、したがって私的諸労働が社会的に規定されていることを、あらわにするのではなくて、物的に蔽い隠している。私が、上着や長靴等々は、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物としてのリンネルに、関係していると言えば、この表現の奇矯なことは明白である。ところが、上着や長靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的な等価物としてのリンネルに関係させると、彼らにとっては、自分たちの私的諸労働の社会的な関係が、まさにこのような奇矯な形態で現われるのである。 (b)【(26)「周期的な革命によってのみ自己を貫徹しうる法則を、われわれはどう考えるべきか? それはまさに、関与者たちの無意識にもとづいている自然法則である。」(フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、103ページ。所収、『独仏年誌、アルノルト・ルーゲおよびカール・マルクス編、パリ、一八四九年』。)】〉(江夏訳61-3頁、但し、【 】やその前に記した(a)(b)(c)は引用者が付けた。)

 

 つまりこの長い一文が第二版では上記のように極めて簡潔にまとめられていると考えられるのです。他方、マルクスはこの初版本文の一部分(上記の引用文中【 】で囲い、(a)(b)(c)の記号を付した部分)を第2版のなかでは、少し文章を書き換えて、(a)の部分は第8パラグラフに、(b)の部分は第9パラグラフに、(c)の部分は第10パラグラフに、それぞれを、各パラグラフの文章の一部として取り入れています。それらがどのように書き換えられて、それぞれのパラグラフの文章として生かされているのか、ということについては、それぞれのパラグラフを考察するときにまた必要な限りで問題にしたいと思います。

 

 ここでは、この初版本文について若干の検討を加えたいと思います。

 

 現行版の第3パラグラフでは、第2パラグラフにおいて価値規定の内容として述べられた、(1)価値の実体としての抽象的人間労働の基礎にある、人間有機体の諸機能としての本質的に人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出、(2)価値の大きさとしての社会的に必要な人間労働の基礎にある生理学的な意味での人間労働力の支出の継続時間、(3)労働の社会的形態のそれぞれが、商品形態においては、どのような物的、対象的形態を受け取るのかが説明されていました。すなわち(1)は労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を、(2)は労働生産物の価値の大きさという形態を、(3)は労働生産物の社会的関係という形態を、です。上記の初版本文の(a)(b)(c)の各部分も、概ねこれら(1)(2)(3)に対応していると考えることができます。つまり初版本文の(a)(b)(c)は、現行版の第3パラグラフの(ハ)の内容をそれぞれに解説するものと考えられるわけです。

 

 あるいはまた、この(a)(b)(c)の各部分が第二版の第8~10パラグラフに、若干文章を変えてではあるが、その一部として利用されているということは、この第二版の第8~10パラグラフは、第3パラグラフで価値規定の内容である三つの契機がそれぞれ商品形態において、どのような物的形態を受け取るかを簡潔に説明したものを、さらに展開して明らかにしているところでもある、という位置づけも分かってくることになります。そうした現行版の各パラグラフ間の関係を知る上で、この初版本文は重要ではないかと思ったわけです(なお、この初版本文の内容の解読については、それらが利用されている現行版の当該パラグラフの解読のなかで行う予定ですので、今回は、やらないでおきます)。

 

◎第4パラグラフについて

 

 それでは、第34回「『資本論』を読む会」で学習した第4パラグラフの議論の紹介をしましょう。まず例によってパラグラフ全文を紹介し、各文節に(イ)、(ロ)、(ハ)・・・・の記号を付して、それぞれを平易に解説していくことにします。

 

 【4】〈 (イ)したがって、商品形態の神秘性は、単に次のことにある。 (ロ)すなわち、商品形態は、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということにある。 (ハ)この“入れ替わり”によって、労働生産物は商品に、すなわち感性的でありながら超感性的な物、または社会的な物に、なる。 (ニ)たとえば、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的刺激としては現れないで、目の外部にある物の対象的形態として現れる。 (ホ)しかし、視覚の場合には、外的対象である一つの物から、目というもう一つの物に、現実に光が投げられる。 (ヘ)それは、物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係である。 (ト)これに対して、労働生産物の物理的性質およびそれから生じる物的諸関係とは絶対に何のかかわりもない。 (チ)ここで人間にとって物と物との関係という幻影的形態をとるのは、人間そのものの一定の社会的関係にほかならない。 (リ)だから、類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。 (ヌ)ここでは、人間の頭脳の産物が、それ自身の生命を与えられて、相互のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ自立した姿態のように見える。 (ル)商品世界では人間の手の生産物がそう見える。 (ヲ)これを、私は物神崇拝と名づけるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなや労働生産物に付着し、したがって、商品生産と不可分なものである。〉

 

 (イ)、(ロ) したがって、商品形態の神秘性は、商品という形態が、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を彼らの労働生産物そのものの対象的性格として、すなわち物の社会的自然属性として反映させ、だからまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、彼ら自身の関係としてはではなく、彼らの外部に存在している諸対象物相互の社会的関係として反映させるということにあるのです。

 

  このパラグラフの冒頭の「したがって」は、当然、その前のパラグラフ(第3パラグラフ)を受けたものであることは明らかです。つまり第2パラグラフで、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのでも、価値規定の内容から生じるのでもなく、労働生産物が商品形態をとる場合の、この形態そのものから生じるものであること、すなわち価値規定の内容として述べられた三つの契機(①人間有機体の諸機能としての生理学的な意味での人間労働力の支出ということや、②その継続時間として労働の量、③あるいはその労働が互いに社会的な関係を持つということ)が、それぞれ①労働生産物の同等な価値対象性という形態、②労働生産物の価値の大きさという形態、③労働の社会的な関係が発現する生産者の関係が、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るということから生じるのだと説明されたわけです。

 

 そしてそうした説明を受けて、このパラグラフでは「したがって」とそれを受けているわけです。しかし一見すると、ここで述べられているのは、二つのことだけであるように思えます。つまり一つは商品という形態が、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を彼らの労働生産物の対象的性格として、物の社会的自然属性として反映させるということ、もう一つは、「したがってまた」総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということの二つです。

 

 第2パラグラフや第3パラグラフでは、価値規定の内容として三つの契機が指摘され、それらが商品形態ではそれぞれどういう物的、対象的形態を受け取るかが指摘され、そこから商品形態の神秘的性格が出てくると言われていたのですが、ここでは二つのことしか言われていないように思えます。これはどうしてなのか、という疑問が、まず出されました。

 

 これについては、色々と議論されましたが、結論としては、このパラグラフの最初で言われていることは、第2、第3の各パラグラフで言及されていた三つの契機のどれかに対応するというより、それら三つのもの全体を前提して述べているものであろうということです。

 

 だから最初に述べていること(商品形態の神秘性は、商品という形態が、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を彼らの労働生産物そのものの対象的性格として、すなわち物の社会的自然属性として反映させること)も、その次に述べていること(総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に存在している諸対象の社会的関係として反映させるということ)も、両方とも先のパラグラフ(第3パラグラフ)全体を受けているのではないか、ということになりました。

 

 では、この二つのことは同じことを述べているのでしょうか。それとも違ったことを述べているのでしょうか。

 

 最初に述べていることは次のようなことではないでしょうか。

 

  人間が互いのために労働するようになるや、彼らの労働は一つの社会的形態を受け取ります(これは第2パラグラフで指摘されました)。そして商品生産の社会も、その意味では、人間が互いのために労働しあう社会なのですが、しかし、労働生産物が商品形態をとる社会では、人間の労働の社会的性格は、人間自身の直接の社会的関係としては現われていません(人間自身が直接に社会的関係を結べないからこそ、その労働生産物は商品という形態をとるわけです)。人間は彼らの労働を自身の社会的関係を意識して支出するわけではないのです。だから、彼らの労働の社会的性格は、労働生産物そのものの対象的性格として、つまり労働生産物の価値性格として現われ、そうした価値対象性が、あたかも労働生産物が自然に持っている属性と同じようなものとして、人間には見えるような形で現われてくるということです。つまり労働生産物という物の属性のように見えているもの--「社会的自然属性」--は、実は人間の労働の社会的な性格が物の属性のように現われているものであり、人間自身が直接的にではないが、本質的には持っている、つまり社会の物質代謝を維持するために客観的必然性として貫くようなものとして持っている、社会的な関係そのものなのだということです。

 

 では次はどういうことでしょうか。

 

  総労働というのは、個々別々の労働の総和として社会的には存在しています。それに対する生産者たちの社会的関係というのは、個々の生産者の労働が総労働のなかでどういう位置を占めるべきか、また社会の物質代謝を維持する上で、与えられた生産力のもとで、どれだけ支出されるべきかということではないでしょうか。そうしたことは、商品生産社会では、個々の商品の生産者には分かりません。彼らは彼らの生産した生産物を商品として交換に出して、初めてそこに支出した労働が社会的に適切なものであるかどうかを知るのです。だから彼らの総労働に対する社会的関係は、彼らの生産した生産物、つまり彼らの外部に存在する諸対象が商品として交換されて、社会的関係を取り結んだ結果として、事後的に分かるに過ぎないのです。つまり彼らは彼ら自身の総労働に対する社会的関係を彼らの外に存在している諸対象の関係からしか知ることができないのです。その結果、そうした物的諸対象の関係が、彼らを規制し、彼らがそれらに従属するような関係として、立ち現れてくるということではないでしょうか。

 

 だから最初の部分は、労働生産物が商品形態をとることによって、労働の社会的性格が、労働生産物の価値性格として現わてくることが中心に述べられ、その次の部分では、総労働に対する社会的関係は、労働生産物の価値の大きさとして、それらの交換関係のなかに貫くものとして、彼らを規制することが述べられているように思えます。

 

 (ハ) この“入れ替わり”によって、つまり人間の社会的関係が、物の社会的自然属性や社会的関係として立ち現れてくるという“入れ替わり”によって、労働生産物は商品になるのです。すなわちその使用価値においては、感覚的に捉えられるような、感性的なものでありながら、しかし同時に、価値としては、確かにそれも商品そのものに存在しているように見えながら、しかし直接には目にも見えず、捉えどころのない、超感性的なものという両性を備えたものになるのです。

 

 (ニ) 例えば、物が視神経に与える光の印象は、私たちには、視神経への主観的な刺激とは意識されず、目の外部にある物として現われるのと同じようなものです。

 

 この例えは、明らかにその前で述べている、“入れ替わり”によって起こる現象を説明しているものですが、何がどのような例になっているのか今一つよく分かりません。

 

 まず目の場合の“入れ替わり”というのは、視神経への刺激が、目の外にある物の像として現われるという“入れ替わり”のように思えます。つまりわれわれは、外にある物のとして意識しているが、しかし、実際にはそれはただわれわれの目が刺激されているだけだということでしょうか。これは3Dの映画を見たときに、あたかも目の前に存在しているように見えるものが、しかし手を伸ばしても、つかむことはできず、それはただ単に目に与える刺激が、そうしたものとしてわれわれに意識させているだけだということが分かる例を考えると、よく分かるのではないでしょうか。しかしわれわれはそうしたものとしては意識せずに、あたかもわれわれの外に物があると意識するわけです。

 

 商品形態の神秘性の場合は、人間の社会的な関係が、物の社会的自然属性や関係として現われるということです。だから両者の対応関係を考えると、視神経への刺激が、すなわち人間の社会的関係に対応し、目の外にある物として意識させることが、物の社会的自然属性や関係として現われるということに対応しているように思えます。つまり物の社会的自然属性や関係として見えているもの、あるいはわれわれがそのように意識しているものは、実は、われわれ自身の社会的関係の反映したものなのだということです。しかしわれわれは、それらをわれわれ自身の社会的関係としては意識せずに、あたかもわれわれの外にある物のそのものに備わった自然属性であるかに、あるいは物そのものの社会的関係であるかに意識しているというわけです。

 

 (ホ)、(ヘ) しかし、視覚の場合には、外的対象である一つの物から、目というもう一つ物に、現実に光が投げかけられます。それは物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係です。つまりわれわれは、外にある物として意識するのですが、そうした物が確かに外にはあり、そこから発した光が、われわれの目に投じるという物理的な関係がそこにはあるわけです。

 

 (ト) これに対して、労働生産物の社会的自然属性やそれらの社会的関係として見えているものは、何かそしたものとしての実体が労働生産物にあるかというとそうではないのです。それらは労働生産物の物理的な性質やそこから生じる物的な関係とは何の関わりもないのです。

 

 (チ) ここで人間に物の属性や物と物との関係として見えているものは、人間そのものの一定の社会的関係に他ならないのです。それは人間が直接互いに意識して取り結んでいる関係としては存在していませんが、しかし人間が彼らの社会の物質代謝を維持するためには必要な彼ら自身の社会的関係として、人間の社会の中に本質的なものとして存在しているものです。それが物と物との関係として現われ、その物と物との関係に規制される形で、結果として、人間の社会的関係が現実化するような性格のものなのです。

 

 (リ) だから、類例を見いだそうとすると、宗教世界の夢幻境に逃げ込まなければなりません。

 

 (ヌ) 宗教世界では、人間の頭脳の産物が、神として、それ自体が生命を与えられた自立的存在であるかのように現われ、神々の関係や世界を作り上げ、またさまざまな戒律によって人間を規制するものとして現われてきます。

 

 (ル) 商品世界では、人間の手の生産物がそのように見えるのです。つまり労働生産物の関係が、人間自身の行動や関係を規制するものとして立ち現れてくるわけです。

 

 (ヲ) これを、私は物神崇拝と名付けますが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなや労働生産物に付着してきます。だからそれは商品生産と不可分なものなのです。

 

 ところで、学習会では、第4パラグラフの後半部分((ニ)~(ヲ))は、初版付録から採られていることが指摘されました。この初版付録の一文も、現行版のこれまでの展開を理解するうえで役立つと思いますので、紹介しておきましょう。それは〈等価形態の諸特性〉として、現行版では第一の特性から第三の特性まで説明されていますが、初版付録では、これにさらに〈(δ)等価形態の第四の特性。商品形態の物神崇拝は、等価形態では、相対的価値形態においてよりも顕著である〉が加わっているのです。その前半部分からです。

 

 〈諸労働生産物が、すなわち、上着やリンネルや小麦や鉄等々のような諸有用物が、価値であり一定の価値量であり一般的に商品であるということは、われわれの交易においてのみこれらの労働生産物に当然そなわっている属性であって、たとえば、重さがあるとか保温するとか栄養になるとかいう属性のように、天然にそなわっているものではない。ところが、われわれの交易の内部では、これらの物は商品として相互に関係しあっている。それらは価値であり、それらは価値の大きさとして計量可能であり、それらの共通な価値属性は、それらを互いに価値関係のなかに置いている。ところで、たとえば 20エレのリンネル1着の上着、あるいは、20エレのリンネルは1着の上着に値する、が表現しているのは、(1)これらの物の生産のために必要ないろいろな種類の労働が、人間労働として同等であると認められているということ、(2)これらの物の生産に支出された労働量が、特定の社会的な法則にのっとって測られているということ、(3)裁断師と織り職とが、ある特定の社会的な生産関係のなかにはいっているということ、でしかない。この関係は、生産者たちのある特定の社会的な関係であって、この社会的な関係のなかで、彼らは、自分たちのいろいうな有用な労働種類を人間労働として等置しているのである。この関係は、同様に、そのなかで生産者たちが自分たちの労働の大きさを人間労働力の支出の持続時間によって測っているところの、生産者たちの特定の社会的関係でもある。ところが、われわれの交易の内部では、生産者たちにとっては、自分たち自身の労働のこれらの社会的な性格は労働生産物そのものの、社会的な自然属性すなわち対象的な規定として、現われているし、人間労働の同等性は、労働生産物の価値属性として、現われているし、社会的に必要な労働時間による労働の尺度は、労働生産物の価値の大きさとして現われているし、最後に、生産者たちの労働によって結ばれている彼らの社会的な関係は、これらの物の、すなわち労働生産物の、価値関係あるいは社会的な関係として、現われている。だからこそ、彼らにとっては、労働生産物が、商品として、感覚的で超感覚的な、すなわち社会的な物として現われているのである。 たとえば、ある物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主体的な刺激として表われるのではなく、目の外にある物の対象的な形態として現われるようなものである。ところが、物を視るときには、外的な対象という一方の物から、目という他方の物に、光が現実に投ぜられている。それは、物理的な物同士のあいだの物理的な関係である。これに反して、労働生産物の商品形態および価値関係は、労働生産物の物理的な性質およびこの性質から生ずる物的な関係とは絶対に無関係である。それは、人間たち自身の特定な社会的関係でしかなく、この関係はこのばあい、彼らにとっては、諸物の関係という幻影的な形態を帯びている。だから、類似のものを見いだすためには、宗教的世界という霧のかかった領域のなかに逃げ場を求めざるをえない。ここでは、人間の頭の諸生産物が、それら自身の生命を授けられてそれら自身のあいだでも人間たちとのあいだでも関係を結ぶ独立の姿態として、現われている商品世界では、人間の手の生産物がそうなのである。これを私は物神崇拝と呼ぷが、この物神崇拝は、労働生産物が商品として生産されるやいなや労働生産物に付着するし、したがって、商品生産とは不可分なのである。】〉(江夏訳893-4頁、ただし【 】は引用者が付けた。)

 

 ごらんの通り、初版付録の上記の引用文のうち【 】で括った部分が、現行版に生かされているわけです。しかも、この初版付録の内容を検討してみると、〈20エレのリンネルは1着の上着に値する、が表現しているのは〉として、〈(1)……(2)……、(3)……〉と述べていることは、表現は若干異なるものの、丁度、現行版の第二パラグラフで述べている価値規定の内容や、それが物的形態をとることによって神秘的性格を帯びると述べている第三パラグラフで述べている内容に合致しています。 だから、その次に書かれている内容、すなわち〈この関係は、生産者たちのある特定の社会的な関係であって、この社会的な関係のなかで、彼らは、自分たちのいろいうな有用な労働種類を人間労働として等置しているのである。この関係は、同様に、そのなかで生産者たちが自分たちの労働の大きさを人間労働力の支出の持続時間によって測っているところの、生産者たちの特定の社会的関係でもある〉と述べている内容は、丁度、第四パラグラフで〈商品形態は、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということにある〉に対応していることが分かるのです。

 

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【付属資料】

 

 (ここでは本文で紹介したものは省きます)。

 

●第4パラグラフに関連したもの

 

《初版本文》

 

 〈つまり、商品の神秘性は次のことから生じている。すなわち、私的生産者たちにとっては、自分たちの私的労働の社会的な諸規定が、労働生産物の社会的な自然規定性として現われているということ、人々の社会的な生産諸関係が、諸物の対相互的および対人的な社会的諸関係として現われているということ。社会的総労働にたいする私的労働者たちの諸関係は、彼らに対立して対象化され、したがって、彼らにとっては、諸対象という形態で存在している。〉(江夏訳63-4頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈したがって、商品形態の神秘性は、単に次のことにある。すなわち、商品形態は、人聞にたいして、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの社会的性格として、これらの物の社会的自然属性として反映させ、それゆえまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に実存する諸対象の社会的関係として反映させるということにある。この入れ替わりによって、労働生産物は商品に、すなわち感性的に超感性的な物、または社会的な物に、なる。〉(小黒訳28-9頁)

 

《フランス語版》

 

 〈このことが、これらの生産物がなぜ商品に、すなわち、火を見るより明らかでしかもそうではない物、あるいは社会的な物に変換するか、の理由なのである。かくして、視神経にたいするある物体からの光の印象は、この神経そのものの主体的な刺激としてではなく、眼の外部に存在するあるものの感知しうる形態として現われる。付言しなければならないが、視るという行為にあっては、外界のある物体から眼という他の物体にたいして光が実際に投影される。それは、物理的な諸物間の物理的な関係である。だが、労働生産物の価値形態や価値関係は、その物理的性質とは全くなんの関係もない。このぼあい人間にとって諸物相互の関係という幻想的な形態をとるものは、たんに、人間相互間の特定の社会的関係であるにすぎない。この現象に類似したものを見出すためには、それを宗教世界という曇った領域のうちにもとめざるをえない。そこでは人間の頭脳の産物が、それぞれ特殊な体躯を賦与されて人間との交渉やこれら産物相互間の交渉を.行なうところの独立的な存在、という外観を呈する。商品世界における人間の手の生産物についても、同じである。これが、労働生産物が商品として現われるやいなや労働生産物に付着する物神崇拝、すなわち、この生産様式に不可分の物神崇拝、と名づけることのでぎるものなのだ。〉(江夏他訳47-8頁)

 


第35回「『資本論』を読む会」の案内

『資 本 論 』 を 読 ん で み ま せ ん か 

 

                                                                               

 

  オバマ米大統領は、5月始め、9・11、ニューヨーク・ツインビル爆破など同時多発テロを首謀し、国際テロ組織・アルカイダのリーダーであるウサマ・ビンラディンを殺害したと発表した。

 

 

ウサマ・ビンラーディン

 

 9・11以降、アメリカは対テロ戦争を標榜して、“大儀なき闘い”と酷評されたイラク戦争に突入し、アフガン侵略戦争を引き起し、ビンラディンを匿うタリバン政権を打倒した。そしてこの10年間追い続けた最大の標的であり、「対テロ戦争」の「最優先事項」である、ビンラディンの殺害という課題をなし遂げたのだ、とオバマは誇った。「正義はなされた」と。

 

 しかしウサマ・ビンラディンは、帝国主義の超大国であるアメリカの、色々な意味での“産物”以外の何物でもなかった。

 

 タリバンの指導者オマルが、旧ソ連のアフガン侵攻に抵抗するムジャヒディンの一員として育ち、そのムジャヒディンを資金的にも軍事的にも支えたのがパキスタンやサウジアラビアの諜報機関であり、その背後にあったのはアメリカであったことは周知のことである。

 

 そしてアフガンで闘うムジャヒディンに、国際的に義勇兵を募り、訓練を施して送り出し、それを支えたのがビンラディンであり、その国際的なネットワークが、後にアルカイダになったのである。

 

 つまりこれらのほとんどはアメリカ自身の対旧ソ連への帝国主義的な争いと策謀のなかで培われてきたものなのである。

 

 そしてイスラム原理主義に凝り固まったこうした戦闘組織は、その後、それぞれの出身地に帰ると、アフガンで培った戦争技術を、今度は、アメリカの中東支配をはじめとする帝国主義的な世界支配に対抗する闘いへと生かし始め、それが98年のタンザニア・ケニア米大使館同時爆破事件など一連のテロ事件を引き起し、そして9・11へと繋がっていったのである。

 

 そして今やアメリカは、世界に張り巡らした自国の権益--経済的・金融的世界支配という超大国としての帝国主義的利害--を守るために、軍事的な支配の網の目を国際的に張りめぐらせる理由として、「対テロ戦争」を一つの口実として利用しているというわけである。

 

 今回のビンラディンの殺害は、イスラム急進派によるアメリカ帝国主義に対するテロリズムによる“闘い”の一つの挫折であり、その限界を暴露するものであろう。

 

 なぜなら、アメリカ帝国主義との闘いは、少数の陰謀組織が行うテロによってではなく、アメリカのそして世界の労働者階級によってこそなされなければならないし、なされるだろうからである。

 

 労働者階級はテロ戦術といった絶望的な闘いではなく、資本に対する階級闘争をこそ発展させるのであり、そうした闘いによって国際的に結び合い、世界中から帝国主義の支配を一掃するまで闘い抜くのである。

 

 マルクスは「革命的テロリズム」そのものは否定しなかったが、しかし、それは労働者の階級闘争の一環としてであり、労働者階級の革命政権が、反革命を打ち破るべき「剣」として認めたに過ぎない。次のように指摘している。

 

 「コミューンの組織がいったん全国的な規模で確立されたとき、おそらくその前途になお待っている災厄は、奴隷所者の散発的な反乱であろう。それらの反乱は、平和な進歩の仕事をしばらく中断させはするが、社会革命の手に剣を握らせることによって、かえって運動を促進するだけであろう。」(『フランスにおける内乱』第一草稿、全集17巻517頁)

 

 また次のようにも述べている。

 

 「反革命派の残忍さなどをみれば、諸国民は次のことを確信するようになるだろう。それは、古い社会の血なまぐさい死の苦しみと新しい社会の血にまみれた産みの苦しみを短くし、単純化し、一つにまとめる手段はたった一つしかないということ、そのたつた一つの手段とは革命的テロリズムだということである。」(「ヴィーンにおける反革命の勝利」全集第5巻457-8頁)

 

 だから、必要なのは資本の支配と闘う労働者の階級闘争を発展させることである。そしてそうした各国の労働者階級の闘いが国際的に結合することであろう。

 

 そしてそのためにも、労働者階級自身が、現代の資本主義社会の仕組みを科学的に解明し、理解することを不可欠にしている。

 

 是非、貴方も共に『資本論』を読んでみませんか?

 



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