目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第32回「『資本論』を読む会」の案内

『 資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

 

  チュニジアにおけるベンアリ独裁政権を打ち倒したジャスミン革命(チュジニアの国花の名にちなんでこう呼ばれている)は、多くの人たちにとっては、“寝耳に水”の驚きであった。

 

  1987年以降20数年にわたって独裁權力を欲しいままにしてきたベンアリ政権はそれほど安定したものに思われてきたのである。

 

  しかしそれが歴史的必然であったことは、この革命がたちまち中東・北アフリカ諸国に波及して、中東最大国であるエジプトでも、革命が起こり、30年の長期にわたるムバラク独裁政権をも打ち倒したことを見ても明らかである。

 

タハリール広場に集まり革命の成功を祝う群衆 

 

 革命の波は、ヨルダンやイエメン、アルジェリア等にも及び、中東諸国にいまだに居すわっている王国や首長国にも大きな脅威として迫りつつある。そればかりか長期の共産党一党独裁が続く隣の中国でも、為政者はその波及をくい止めようと必死だといわれている。

 

 今回の革命の特徴は、インターネット等を利用したものであることが取り沙汰されている。しかし、われわれが注目するのは、イスラムという宗教色の薄いものだという点である。チュニジアでもエジプトでもデモの中心にいるのは宗教者ではない。独裁政権の圧政に苦しみ、貧富の格差に憤り、失業と貧困、食料品の高騰による生活苦に対して民衆は立ち上がったのである。

 

 これまでの中東諸国における様々な革命や政変の多くは、宗教的色彩を帯びて、イスラム教の原理に帰れという呼びかけと共に行われ、イスラム原理主義組織がその中心にあった。しかし今回のエジプトの革命運動の中心を担ったともいわれる「4月6日運動」とは、2008年に始まった、緩やかな無党派反政府ネットワークだという。彼らは昨年の人民議会選挙でも既存野党からの共闘の呼びかけを拒否し、選挙にも参加しなかったという。反ムバラクだけでなく、既存の政党への不信を表明しているところに特徴があるのだという。

 

 中東・北アフリカ諸国においては、チュジニアやエジプトだけではなく、リビアやイエメンなど長期にわたる独裁政権が続く国家が多い。またサウジアラビアやバーレーンなどの湾岸諸国においては、いまだに国王が国政の実権を握り、首長が国を治めている。それに反対するさまざまな政治運動も、イランのイスラム革命に象徴されるように、イスラムの宗教色が強いのが一般的であった。

 

 こうしたこれらの地域の特徴は、ひとえにこれらの諸国が、資本主義的発展がいまだ十分ではなく、労働者の階級としての未発達と未成熟に起因するといえる。

 

 マルクスは『資本論』第1版序文で、自分がこの著作で研究するのは、資本主義的生産様式と、それに照応する生産諸関係および交易諸関係であるが、その典型をなしているのは、イギリスだと述べ、同時に、当時のイギリスに較べて、資本主義的発展が遅れていた大陸諸国について、次のように述べている。

 

 〈資本主義的生産の発展ばかりでなく、その発展の欠如もまた、われわれを苦しめている。近代的な窮境とならんで、一連の伝来的な窮境がわれわれを締めつけているが、これらの窮境は、古風で時代遅れの生産諸様式が、時勢に合わない社会的政治的諸関係という付随物をともなって、存続していることから生じている。われわれは、生きているものに悩まされているだけでなく、死んだ者にも悩まされている。“死者が生者をとらえる! Le mort saisit le vif! ”〉(全集23a9頁)

 

 しかし今回のチュジニアやエジプトの革命は、こうした諸国においても近代的な資本主義的生産の発展と労働者階級の発達は、不可避にそれに相応した政治体制を要求しつつあることを教えている。これらの諸国においても、〈こんにちの支配階級は、より高尚な動機は別として、まさに彼ら自身の利害関係によって、労働者階級の発達をさまたげている、法律により処理可能ないっさいの諸障害を取りのぞくことを命じられている〉(『資本論』同10頁)といえるであろう。

 

 「革命」という、既に歴史の倉庫の中でホコリを被っていたと思われていた“幽霊”が再び甦りつつある。貴方も『資本論』を読んで、共に来るべき「革命」に備えませんか。

 


第32回「『資本論』を読む会」の報告

第32回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎ジャスミン革命

 

 ジャスミン」というのは香料の名前として知っていましたが、その花については、恥ずかしながら、知りませんでした。チュジニアの国花だそうで、だからチュジニアで起こった革命を「ジャスミン革命」というのだそうです。その革命の波は、エジプトにも及び、いまはリビアをも巻き込んでいます。お隣の中国でも「中国ジャスミン革命」が呼びかけられているのだとか。

 

ハゴロモジヤスミン

 

 花の名前を冠した革命というのも、いい感じですが、厳しい冬の季節を克服して、暖かい春の到来をいち早く告げる梅の花も、あるいは革命の名に相応しいのかも知れません。

 

 第31回「『資本論』を読む会」もようやく寒さが緩んで、春を感じさせるなかで開催されました。もちろん、参加者の状況は、相変わらずのお寒い限りではありましたが・・・。

 

 今回は〈D 貨幣形態〉をやりました。これは分量も大したことはないので、一回で終わりました。これで〈第3節 価値形態または交換価値〉が終わったことになります。だから学習会の議論の最後には、この第3節全体の位置づけについても話題になりました。さっそく、その報告に移ることにしましょう。

 

◎一般的な価値形態から貨幣形態への移行と、それ以前の発展移行との差異

 

 まず現行版には〈D 貨幣形態〉として次のような図示があります。

 

 〈 20エレのリンネル  =

   1着の上着      =

   10ポンドの茶    =

   40ポンドのコーヒー =  2オンスの金

   1クォーターの小麦 =

   1/2トンの鉄    =

   x量の商品A     =       〉

 

 そして、初版付録の「IV 貨幣形態」には三つの小項目がついています。まずそれを紹介しておきましょう。

 

 〈(1)一般的な価値形態から貨幣形態への移行と、それ以前の発展移行との差〉--(【1】【2】)

 

 〈(2)一般的な相対的価値形態の価格形態への転〉--(【3】)

 

 〈(3)単純な商品形態は、貨幣形態の秘密である〉--(【4】)

 

 それぞれの項目のあとに( )に入れて書いたものは、それぞれの項目に該当すると考えられる、現行版のパラグラフの番号です。この報告も、この初版付録の項目にもとづいて、各パラグラフを三つの項目に分けて、行うことにします。まず最初は第1パラグラフです。

 

【1】〈 (イ)形態Ⅰから形態Ⅱへの、形態Ⅱから形態Ⅲへの移行に際しては、もろもろの本質的な変化が起きる。 (ロ)これに対して、形態Ⅳは、今やリンネルの代わりに金が一般的等価形態をとるということのほかには、形態Ⅲと区別されるところがない。 (ハ)形態Ⅳにおける金は、あい変わらず、形態Ⅲにおいてリンネルがそうであったもの--一般的等価である。 (ニ)進歩は、ただ、直接的一般的交換可能性の形態または一般的等価形態が、今や社会的慣習によって、商品金の特有な現物形態に最終的に癒着しているということだけである。〉

 

 (イ) 形態 I (単純な価値形態)から形態II(展開された価値形態)への移行、あるいは形態IIから形態III(一般的な価値形態)への移行に際しては、もろもろの本質的な変化が起きました。それを私たちは、〈C 一般的価値形態〉の〈2 相対的価値形態と等価形態との発展関係〉のなかで詳しく見てきました。例えば等価形態は、単純な価値形態→個別的等価形態、展開された価値形態→特殊的等価形態、一般的価値形態→一般的等価形態と発展し、また相対的価値形態と等価形態の対立も、価値形態が発展または完成するのと同じ度合いで、発展して硬化することが指摘されたのでした。

 

 (ロ)、(ハ) これに対して、形態IV(貨幣形態)では、形態IIIで一般的等価形態にあったリンネルの代わりに、金が来るだけで、それ以外では形態IIIと区別されるところがありません。形態IVにおける金は、形態IIIにおいてリンネルがそうであったのと同じように、一般的等価形態にあるという点では変わらないのです。

 

 (ニ) ただ違うところ、進歩は、一般的等価形態が持っている直接的な一般的な交換可能性の形態が、今では社会的な慣習によって、商品金の特有な現物形態(そのキラキラまばゆく光る形態)に最終的に癒着(全集版では「合生」)しているということだけです。

 

 学習会ではこの最後の全集版で「合生」と訳されている部分について、JJ富村さんから、この原語のverwachsenの訳語の中には「合生」というのがあったことが紹介されました。木村・相良 独和辞典(新訂版) 博友社 昭和45年1月15日第9刷によると、次のような項目があったということです。

 

 〈見出し語 verwachsen

 (I) t. ①

  ② 成長して失う。

 (II) i. ① 成長してきえる, ふさがる, 癒着する。

   ② mit et. ~, 或物(生えるもの)におおわれる。

  ③ 合生する。もつれ合う, からみあう。

  ④ 成長して不具になる。ぶかっこうになる。せむしになる。

 (III) refl. sich ~

  ① 成長しすぎる。

  ② 成長して或物になる, に悪変する。

  ③ ふさがる, 癒着する。〉

 

 次は第二パラグラフです。

 

【2】〈 (イ)金が他の諸商品に貨幣として相対するのは、金が他の諸商品にすでに以前から商品として相対していたからにほかならない。 (ロ)他のすべての商品と等しく、金もまた、個別的な交換行為における個々の等価としてであれ、他の商品等価物とならぶ特別な等価としてであれ、等価として機能した。 (ハ)しだいに、金は、広い範囲か狭い範囲かの違いはあっても、一般的等価として機能するようになった。 (ニ)金が商品世界の価値表現におけるこの地位の独占を勝ちとるやいなや、それは貨幣商品となり、そして、それがすでに貨幣商品となったその瞬間から、はじめて形態Ⅳは形態Ⅲから区別される。 (ホ)言いかえれば、一般的価値形態が貨幣形態に転化するのである。〉

 

 このパラグラフは先のパラグラフで〈一般的等価形態が、今や社会的慣習によって、商品金の特有な現物形態に最終的に癒着している〉と言われていたことに対応し、それを説明しているように思えます。

 

 (イ) 金が形態IVで、他の諸商品に対して貨幣として相対するようになるのは、金がすでに以前から他の商品と同じように一つの商品として、他の諸商品に相対していたからにほかなりません。

 

 (ロ) つまり、他のすべての商品と同じように、金もまた、個別的な交換行為において(つまり単純な価値形態において)、個々の等価物としてあらわれたし、また展開された価値形態では、他の商品と並んで一つの特殊な等価物としてあらわれ、それぞれ等価として機能していたのです。

 

 (ハ) そして、金は、しだいに広い範囲や狭い範囲の違いはあったとしても、徐々に一般的等価として機能するようになったのです。

 

 (ニ)、(ホ) そして金が商品世界の価値を表現する、こうした地位、つまり一般的等価物としての地位、を他の諸商品を押し退けて独占するようになると(本当は他の諸商品の一般的な相対的な価値表現の列から金は例外的なものとして排除されて、受動的にそうした地位につかされるわけですが)、それは貨幣商品になり、そして金がそうした地位についた瞬間から、はじめて形態IV(つまり貨幣形態)は、形態III(一般的価値形態)から区別されるのです。言いかえると、一般的価値形態が貨幣形態に転化するのです。

 

 学習会では、ここでは金が一般的等価物の地位を独占することを、一般的価値形態と貨幣形態とを区別するメルクマールとしているのですが、果たして歴史的もそういうことがいえるのだろうか、ということが疑問として出されました。というのは古代ローマでは、金ではなく、銅が貨幣(鋳貨)であったとマルクス自身も語っていますし、マルクスが生きていた時代においても、大陸諸国では、例えば一大商業都市であったアムステルダムなどでは銀が貨幣だったからです。また日本の江戸時代では、大阪では銀が、江戸では金がそれぞれ貨幣として流通していたとも言われています。つまり歴史的には貨幣は銅や銀、そして金へと貴金属のなかでも変遷して来たといえるのではないだろうかというわけです。だから、もしそういうことなら、このパラグラフのように、金が一般的等価形態の地位を独占して、初めてそれは貨幣形態と言いうるのだというようにいうと、まだ銅や銀が一般的等価形態であった時代や地域では、そうしたものは、いまだ貨幣形態とはいえないものだったのかという疑問が生じてくる、というわけです。  そして「第2章 交換過程」では、次のようにも述べられている、との指摘もありました。

 

 〈商品交換がそのもっぱら局地的な束縛を打破し、したがって商品価値が人間労働一般の物質化にまで拡大していくのと同じ割合で、貨幣形態は、一般的等価という社会的機能に生まれながらにして適している商品に、すなわち貴金属に、移っていく。〉(全集版119頁)

 

 つまりここでは、貨幣形態そのものが、貴金属に移っていくと述べられており、ということは貴金属以前のものも貨幣形態であったかに述べられているわけです。また「金銀は生まれながらにして貨幣ではないが、貨幣は生まれながらにして金銀である」と『経済学批判』の一文が紹介されているように、ここでは貨幣形態として「金銀」という形で金と銀が一緒に語られているとの指摘もありました。しかし、この問題は疑問として出されただけで、それ以上の議論にはならずに終わりました。

 

◎一般的な相対的価値形態の価格形態への転化

 

 次は第3パラグラフです。

 

【3】〈 (イ)すでに貨幣商品として機能している商品たとえば金による、一商品たとえばリンネルの単純な相対的価値表現は、価格形態である。 (ロ)だから、リンネルの「価格形態」は、  20エレのリンネル=2オンスの金 であり、あるいは、二ポンド・スターリングが二オンスの金の鋳貨名であれば、  20エレのリンネル=2ポンド・スターリング である。〉

 

 (イ)、(ロ) すでに貨幣商品として機能している商品、例えば金による、一商品、例えばリンネルの単純な相対的価値表現は、価格形態です。だからそれは次のように表されます。

 

  20エレのリンネル=2オンスの金

 

  あるいは、2ポンド・スターリングが2オンスの金の鋳貨名であれば、

 

  20エレのリンネル=2ポンド・スターリング

 

 がリンネルの価格形態となるわけです。

 

 ここでは、そもそも価格形態と貨幣形態とは何が違うのか、両者はどのように区別されるのか、が問題になりました。ピースさんは、次のように説明してくれました。

 

 〈一般的価値形態の貨幣形態への転化〉と言われるように(第2パラグラフ)、貨幣形態は一般的価値形態に対応している。

 

  それに対して〈一般的な相対的価値形態の価格形態への転化〉と言われるように、価格形態は一般的相対的価値形態に対応しているのではないか、というわけです。

 

  だから価格形態は一般的な相対的価値形態にある商品、例えばリンネルに対して言われているのに対して、貨幣形態の場合は、相対的価値形態と等価形態との全体を含めた価値形態の一つとして、単純な価値形態(形態 I )、展開された価値形態(形態II)、さらには一般的価値形態(形態III)に対応するもの(形態IV)として言われているというわけです。

 

  同じように、一般的等価形態(あるいは一般的等価物)は、貨幣(貨幣商品)になるということができるかも知れません。

 

◎単純な商品形態は、貨幣形態の秘密である

 

 最後の第4パラグラフです。

 

【4】〈 (イ)貨幣形態の概念把握における困難は、一般的等価形態、したがって一般的価値形態一般、形態Ⅲに限定される。 (ロ)形態Ⅲは、もとにさかのぼれば形態Ⅱ、すなわち展開された価値形態に帰着し、そして、この形態Ⅱの構成要素は形態Ⅰ、すなわち、20エレのリンネル=1着の上着 または x量の商品A=y量の商品B である。 (ハ)だから、単純な商品形態は貨幣形態の萌芽である。〉

 

 (イ) 貨幣形態を概念的に把握する困難は、一般的等価形態、だから一般的価値形態そのものの理解に限られています。

 

 (ロ) しかし一般的価値形態の理解は、そもそももとに遡れば、形態II(展開された価値形態)の理解に帰着し、そしてその理解はさらにはそれの構成要素でもある形態 I (単純な価値形態)の理解に帰着するのです。つまり 20エレのリンネル=1着の上着 または x量の商品A=y量の商品B という単純な価値形態の理解こそが、すべての出発点であり、その概念的な理解こそが重要であるということです。

 

 (ハ) だから、単純な商品形態は貨幣形態の萌芽だといえるわけです。

 

 まずここでは最初に単純な価値形態ではなく、〈単純な商品形態〉と言われているが、これはどうしてなんだろうか、ということが疑問として出されました。これに対しては、〈4 簡単な価値形態の全体〉において、次のような指摘があったことが紹介されました。

 

 〈労働生産物は、どのような社会状態においても使用対象であるが、労働生産物を商品に転化するのは、ただ、使用物の生産において支出された労働を、その使用物の「対象的」属性として、すなわちその使用物の価値として、表す歴史的に規定された一つの発展の時期だけである。それゆえ、こうなる--商品の単純な価値形態は、同時に労働生産物の単純な商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展は価値形態の発展と一致する、と。〉(全集版83頁)

 

 だからここで〈単純な商品形態〉と言われているのは、商品形態の未発達の状態を意味しているのではないか、そしてそれは単純な価値形態でもあったということではないか、ということになりました。

 

 次に問題になったのは、最初に出てくる〈貨幣形態の概念把握における困難〉というように、どうして〈概念的把握における困難〉が問題にされているのか、ということでした。というのは、初版付録では、この部分は次のようになっているからです。

 

 〈(3)単純な商品形態は、貨幣形態の秘密である

 

 要するに、本来の貨幣形態は、それ自体としては、全くなんらの困難をも呈していない。一般的な等価形態がひとたび看破されてしまうと、この等価形態が金という独自の商品種類に固着するということを理解するには、いささかも苦慮する必要がないのであって、このことは、一般的な等価形態は、本来、ある特定の商品種類が他のすべての商品によって社会的に排除されることを条件としている、ということを理解するのに苦慮する必要がない、のと同じである。問題になるのは、こういった排除が、客観的社会的一貫性一般的妥当性とを獲得し、したがって、いろいろな商品にかわるがわる付着するのでもないし、商品世界のたんに特殊な範囲内でたんに局地的な射程をもっているだけでもない、ということだけである。貨幣形態の概念上の困難は、一般的な等価形態の理解に、したがって、形態IIIという一般的な価値形態一般の理解に、かぎられている。ところが、形態IIIは、反射的に形態IIに解消し、そして、形態IIの構成要素は、形態 I 、すなわち 20エレのリンネル1着の上着 または、x量の商品Ay量の商品B なのである。そこで、使用価値と交換価値がなんであるかを知れば、この形態 I は、たとえばリンネルのような任意の労働生産物を、商品として、すなわち、使用価値と交換価値という対立物の統一として、表示するところの、最も単純で最も未発展な仕方である、ということがわかる。そうなると、同時に、単純な商品形態である 20エレのリンネル1着の上着 が、この形態の完成した姿態である 20エレのリンネル2ポンド・スターリング すなわち貨幣形態を獲得するために通過しなければならないところの、諸変態の系列も、容易に見いだされることになる。〉(906-7頁)

 

 つまりこの初版付録と較べてみると、現行版は初版付録についていた前半部分がカットされているように思えます。しかし初版付録の展開をみると、途中かから言われている〈貨幣形態の概念上の困難は〉云々という文言は、明らかに、最初の〈要するに、本来の貨幣形態は、それ自体としては、全くなんらの困難をも呈していない〉に対比した形で言われているように読めます。初版本文の最初で言われていることは、要するに、一般的価値形態から貨幣形態への移行というのは何の困難もなく理解できるということのようです。ただ問題になるのは、それが客観的・社会的一貫性と一般的妥当性を獲得し、もはやアチコチに付着することもなく、局地的なものではなくなるということだということのようです。そして、それに対して〈貨幣形態の概念上の困難〉が対比されているように思えます。

 

  この問題については、ピースさんから、それに関連するのではないかと、久留間鮫造氏が問題にした〈第2章 交換過程〉の最後の方にある次の一文が指摘されました。

 

 〈すでに一七世紀の最後の数十年間には、貨幣分析のずっと踏み越えた端緒がなされていて、貨幣が商品であるということが知られていたけれども、それはやはり端緒にすぎなかった。困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある。〉(全集版123頁)

 

 つまり貨幣形態を概念的に捉えるというのは、ここでマルクスが言っている〈どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する〉ということではないか、というわけです。〈商品が貨幣である〉というのをどのように理解するのかはなかなか難しいのですが、どうして商品には価格形態がついているのか、つまりどうして商品には値札がついているのかを商品の価値の概念から出発して、展開して説明することは困難なのだとマルクスは言っているのではないでしょうか。マルクスは第3節の前文のところでも、次のように述べていました。

 

 〈だれでも、ほかのことは何も知らなくても、諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な現物形態とはきわめて著しい対照をなす共通の価値形態をもっているということは知っている。すなわち、貨幣形態である。しかし、今ここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも単純なもっとも目立たない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。それによって、同時に、貨幣の謎も消えうせる。〉(全集版65頁)

 

 まさに〈貨幣形態の概念把握における困難〉というのは、これまでの展開でマルクスが試みた〈ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること〉の困難だといえると思います。

 

 なおこれは学習会では指摘されなかったのですが、フランス語版のこのパラグラフは極めて簡略化されており、その代わりにそれに付けられた注25ではかなり詳しい説明がなされています。そこでは〈古典派経済学はいまだかつて、商品、特に商品の価値の分析から、商品が交換価値になる形態を演繹することに成功したためしがなく、これがこの経済学の主要な欠陥の一つである〉云々とあります。しかし詳しくは付属資料を参照してください。

 

◎「第3節 価値形態または交換価値」の位置

 

 さて、今回で〈第3節 価値形態または交換価値〉が終わったのですが、そもそもこの第3節は第1章のなかでどういう位置と役割を持っているのかも最後に問題になりました。そしてこうした第1章の各節や第2章、第3章のそれぞれの役割や意義について、最初に問題にして、自身の理解を明らかにし、その後、その見解が多くの人たちにも受け入れられ、また最近になって批判されもしているという点で大きな影響を与えたものとして、久留間鮫造著『価値形態論と交換過程論』が話題になりました。そこで、ここでは、この久留間氏の著書を取り上げるなかでこの問題を考えてみたいと思います。

 

 久留間氏は次のように自身の問題意識を紹介することから始めています。

 

 〈「資本論」の最初の部分の構成を見てみると、第一章が「商品」で、これが四つの節に分れている。第一節が「商品の二つの要因、使用価値および価値」、第二節が「商品で表示される労働の二重性格」、第三節が「価値形態または交換価値」、第四節が「商品の物神的性格とその秘密」。それから章がかわって、第二章が「交換過程」、その次の第三章が「貨幣または商品流通」となっている。この構成を見てみるといろいろな疑問が起きてくる。貨幣という言葉は、表題では、第三章の「貨幣または商品流通」のところにはじめてあらわれてくる、これがいわゆる貨幣論にあたるものと考えられる。しかし内容をみると、その前にすでに貨幣に関するさまざまな議論が展開されている。第一は価値形態論、第二は物神性論、第三は交換過程論で、すべて貨幣が出てくる。いったいこれらは、第三章の貨幣論に対してどういう関係に立つのか。こういう疑問が当然おきてくる。第三章の貨幣論は本格的な貨幣論で、それ以前のものは序論的なものだと考えるのが当然のように思われるが、それではいったい、序論といい本論といい、その間にどういう本質的な区別があるのか、これがはっきりしないと具合がわるい。それから第二には、この第三章以前の貨幣に関する議論は序論的なものだとして、この今あげた三つのもの、すなわち価値形態論と物神性論と交換過程論、これらは序論としてそれぞれどういう特殊な意味をもっているのか。これがまた疑問のたねになる。そしてこれがわからぬとやはり具合がわるい。それから第三には、序論にあたると考えられる以上の三論のうちで、価値形態論と物神性論とは、「資本論」の現行版でいうと、第一章「商品」のうちのそれぞれ一つの節をなしているのに対して、交換過程論は、この商品論の全体とならぶ位置を与えられて、第二章になっている。しかも、頁数を見てみると、いまあげた第一章のどの一節よりもはるかに少いのである。にもかかわらず、それらの全部をふくむ第一章と対等な地位を与えられている。これはいったいどういうわけなのか。これがまた擬問のたねになる。こういういろいろな疑問が、「資本論」の最初の部分の構成を徹底的に理解しようとするならば、きっとおきてくるにちがいない。少くともわたくしのばあいにはそうであった。〉(1-2頁)

 

 この久留間氏の問題意識をみて最初に気付くのは、氏が問題にしているのは、第1篇の内容であるのに、そもそも第1篇の「商品と貨幣」という表題には注意が及んでいないことです。だから氏の問題意識は、第3章の「いわゆる貨幣論」から始まっており、この貨幣論の本論ともいうべき第3章と、その前で貨幣について論じている序論というべき部分(第1章第3節、同第4節、第2章)との関係はどうか、それは貨幣論の本論に対してどんな意義があるのかという問題意識しかないということです。

 

 しかし第1篇の表題が「商品と貨幣」であることを考えるなら、マルクス自身は、この第1篇では、まず「商品」を考察し、その上で「貨幣」を考察していると捉えなければなりません。貨幣が中心にあるわけではないのです。もちろん、貨幣とは何かを明らかにするためには、まず商品が明らかにされなければならないわけですが、しかし貨幣を明らかにするのは、資本を明らかにするためでもあり、決して、貨幣が事の中心にあるわけではないのです。まず商品とは何かが解明されて、初めて貨幣とは何かも明らかになり、貨幣の諸機能と諸法則が解明されるわけです。そして第2篇の「貨幣の資本への転化」へと繋がっていると捉える必要があるわけです。

 

 だからそもそもの久留間氏の問題意識そのものに問題があると言わなければならないのです。最初からこうしたやや偏った問題意識から出発しているが故に、その解決も必ずしも正しいものにならなかった、とわれわれは結論せざるをえません。

 

 氏は上記の引用では、三つの問題を提起していますが、それらはすべて、この氏の最初の間違った問題意識と関連しており、そうした間違った意識そのものによって生じてきている問題でもあるということです。それぞれについて少し検討してみましょう。

 

 まず久留間氏の最初の問題意識は、「価値形態論」(第1章第3節)と「物神性論」(同第4節)と「交換過程論」(第2章)では、すべて貨幣が出てくるが、これらは第3章の貨幣論に対してどういう関係に立つのか、〈第三章の貨幣論は本格的な貨幣論で、それ以前のものは序論的なものだと考えるのが当然のように思われるが、それではいったい、序論といい本論といい、その間にどういう本質的な区別があるのか、これがはっきりしないと具合がわるい〉というものです。すでに述べたように、第1章第3節や同第4節、第2章は、決して第3章の「序論」といった性格のものではありません。われわれは、『資本論』の展開に則して、素直にみて行くべきです。すなわち、それは次のようになっています。

 

 まず「第1篇 商品と貨幣」は「第1章 商品」と「第2章 交換過程」、「第3章 貨幣または商品流通」からなっています。この構成をみれば、第1章では商品とは何かが解明され、第3章では貨幣の諸機能と商品流通における諸法則が解明されることが明らかになり、第2章は、第1章と第3章を媒介する章であることが分かるのです。これが問題の正しい捉え方なのです。

 

 だから次の久留間氏の第二の問題意識も同じことが言えます。つまりそれは久留間氏が貨幣論の序論として位置づけた〈すなわち価値形態論と物神性論と交換過程論、これらは序論としてそれぞれどういう特殊な意味をもっているのか。これがまた疑問のたねになる。そしてこれがわからぬとやはり具合がわるい〉というものです。しかしこれらは第1章第3節、同第4節、第2章なのです。だからこの三つを、ただ貨幣が出てくるというだけで貨幣論の序論として位置づけることそのものがおかしいわけです。少なくとも「価値形態論」と「物神性論」は「第1章 商品」のそれぞれ第3節と第4節をなしており、だからそれらは「商品とは何か」を解明している第1章の、いわば「商品論」の一部である、という認識が必要なのです。それが十分意識されていないことが久留間氏の問題意識の決定的な誤りと言えるでしょう。今述べたことは、だから久留間氏の第三の問題意識にも直接関連しています。だから第三の問題意識もついでにみておくことにします。それは次のようなものです。

 

 第三の問題意識は、〈序論にあたると考えられる以上の三論のうちで、価値形態論と物神性論とは、「資本論」の現行版でいうと、第一章「商品」のうちのそれぞれ一つの節をなしているのに対して、交換過程論は、この商品論の全体とならぶ位置を与えられて、第二章になっている。しかも、頁数を見てみると、いまあげた第一章のどの一節よりもはるかに少いのである。にもかかわらず、それらの全部をふくむ第一章と対等な地位を与えられている。これはいったいどういうわけなのか。これがまた擬問のたねになる〉というものです。

 

 しかし第2章が第1章と第3章を媒介する章であるとの位置づけが分かれば、それが短いのに一つの章として第1章と第3章と対等の位置に置かれているという理由も分かると思います。それは例えば第2篇には、一つの章しかなく、しかも分量としては短いものであるのに、第1篇や第3篇と対等の位置にどうして位置づけられているのかという理由と同じ理由なのです。第2篇の表題は「貨幣の資本への転化」ですが、これはまさに第1篇と第3篇を媒介する篇であることをその表題そのものが示しているといえるでしょう。だから同じような位置づけで考えるなら、「第2章 交換過程」は、内容からいえば、いわば「商品の貨幣への転化」とでも言えるような位置にあると考えられるわけです。

 

 そこで今問題になっている。第3節の第1章全体における位置とその役割はどういうものと考えるべきか、についてですが、まず久留間氏の問題意識が、その点でもやはりおかしい点を指摘しておかなければなりません。氏は次のように述べています。

 

 〈特に価値形態論と交換過程論との関係、これが、三十四五年前に「資本論」を読みはじめてから間もない頃から、ずいぶん長いあいだわたくしを苦しめた。どちらを読んでみても、貨幣がどのようにしてできるかについて論じているように思われる。ところがその論じかたを見てみると、全くちがっている。そのちがいは、本質的にはどういう点にあるのか。これがなかなかわからない。そしてそれに関連して、前にも述べたように、価値形態論の方は第一章の商品論のうちの第三節になっているが、交換過程論の方は独立した第二章になっている。これもいったいどういうわけなのかということ、これまた長いあいだ疑問のたねであった。〉(2頁)

 

 やはり久留間氏の問題意識そのものが間違っているのです。と言うのは、氏は第3節と第2章との関係を直接問うているのですが(そしてこの問いは、この著書の表題『価値形態論と交換過程論』そのものになっていることをみても久留間氏にとっては重要な問題意識だったことか分かります)、しかし、関係を問題にするのなら、いきなり第1章第3節と第2章とではなく、まず第3節の第1章のなかでの位置を明確にした上で、次に第1章と第2章との関係を問うべきではないでしょうか。そうすれば自ずから、第1章第3節と第2章との関係も明らかになるはずなのです。

 

 では第3節は第1章でどういう位置と役割を持っているのでしょうか。

 

 第1章の表題は「商品」です。つまり商品とは何かを明らかにすることが課題になっています。しかし第1章の冒頭パラグラフでは、マルクスは「第1部 資本の生産過程」が「第1篇 商品と貨幣」の考察から始まり、さらにそれは「第1章 商品」の考察から始めなければならない理由を述べています。

 

 そして商品をそのありのままの姿で観察して、それがまず使用価値として存在すること、しかしそれが商品である限りは、同時に交換価値でもあることを指摘して、交換価値の考察に移り、交換価値をさしあたりは一つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係としてとらえます。つまり諸商品の交換関係という現象から考察を始めているのです。そしてマルクスはそこからその交換関係に内在する商品の価値を摘出し、価値の概念を与え、さらに使用価値と価値という二重物である商品に表される労働の二重性の考察まで深めたあと(第2節)、もう一度、商品の交換価値という現象形態に帰ってくるのです。それがすなわち第3節でした。第1節で価値の概念を明らかにしたところでも、次のように述べていました。

 

 〈研究の進行は、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値にわれわれをつれ戻すであろうが、やはり、価値は、さしあたり、この形態から独立に考察されなければならない。〉(全集版53頁)

 

 だから第3節はわれわれが第1章の冒頭で商品をそのまま観察した現象の背後にある本質的なもの(価値)を取り出して考察したあとで、その現象形態(交換価値)に再び帰ったものなのです。つまり現象の背後にある本質的な関係を考察したあと、再びその本質から最初の現象形態を展開して説明するのが第3節の課題であると言えるでしょう。つまり価値の概念からその現象形態(価値形態)を展開して説明することです。

 

 第3節の課題については、その冒頭の前文ともいうべきところで、次のように述べています。

 

 〈商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である。けれども、商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである。〉(全集版64頁)

 

 このようにマルクスはまず〈商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である〉と商品のもっとも最初の現象に帰っています。つまり商品がわれれわれの目に写るありふれた姿をそれ自体としてとらえているわけです。これは第1節の冒頭で商品をまず使用価値としてとらえていたのと同じです。そして同時に〈商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない〉と指摘するのです。〈だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである〉というのが大変重要なのです。つまりわれわれが商品をみて、これは商品だと分かるのは、商品が現物形態(これは鉄、リンネル、小麦という物的姿そのものです)と同時に価値形態という二重形態を持たねばならないと述べています。「価値形態」というのは、価値が形あるものとして目に見えるものとして現われているということです。だから商品が商品という形態、つまりその姿そのもので商品であることが分かるようなものになるためには、その物的形態だけではなく、商品に内在する価値も、何らかの形あるものとして直接的なものとして現われていなければならないのだ、とマルクスは述べているわけです。ではその価値形態というのはどういうものなのか、それが問題です。それについては、マルクスは次のように述べています。

 

 〈だれでも、ほかのことは何も知らなくても、諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な現物形態とはきわめて著しい対照をなす共通の価値形態をもっているということは知っている。すなわち、貨幣形態である。〉(65頁)

 

 つまりわれわれが商品の価値形態として、そのありふれた姿として見えているのは、貨幣形態だとマルクスは述べています。そしてすでに貨幣形態まで学んだわわれは、マルクスがここで述べている「貨幣形態」というのは「価格形態」であることを知っています。つまり商品はその物的形態と同時に価格形態、すなわち「値札」をつけているというのが、われわれが商品を店頭でみるもっともありふれた姿なのです。だから例え商品であっても、それにもし値札が付いていないとそれが商品であるのか、すなわち売り物であるのか、それともその商店が自分で使っているものなのかは分かりません。値札がついていて、「ああ、これは商品だな」と分かるわけです。だから値札こそ、商品の価値形態であり、その発展したもの、すなわち貨幣形態なのです。だから第3節の課題は、商品とは何かを解明するために、商品にはどうして値札が付いているのかを説明することなのです。そしてそのためには貨幣形態を説明しなければならず、どうして商品は貨幣形態を持つのかを説明しなければならなかったわけです。だからマルクスは次のように述べているのです。

 

 〈しかし、今ここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも単純なもっとも目立たない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。それによって、同時に、貨幣の謎も消えうせる。〉(65頁)

 

 だからこの第3節は確かに貨幣に言及し、貨幣形態の発生を立証しているわけですが、しかし、それはあくまでも商品とは何か(それが第1章の課題です)を明らかにする一環としてそうしているのだということ、商品とは何かを明らかにするために、商品にはどうして値札が付いているのかを説明するためのものだという理解が重要なのです。同じように貨幣の発生を説明しているように見える第2章が、第1章の商品論を前提にして、商品がその現実の交換過程において、如何にして貨幣へと転化するのかを解明するものであり、それによって第1章と第3章とを媒介するものであるという、その役割や位置づけにおける相違も分かってくるのです。

 

 だから第3節を最後まで考察し終えたわれわれは、すでに商品とは何かがそれによって掴むことができたことになります。しかし、それでは第4節はどういう意義を持っているのでしょうか。これは次回以降の学習の対象であり、次回以降の課題になりますが、久留間氏の諸説を検討したついでに、少し先回りして簡単に論じておきましょう。

 

 確かに第3節までで商品とは何かは明らかになったのですが、しかしそれだけでは商品の何たるかが十全に解明されたとは言えないのです。というのは商品というのは、歴史的にはどういう性格のものなのかがまだとらえられていないからです。資本主義的生産様式は歴史的な一つの生産様式です。だから資本主義的生産様式とそれに照応する生産諸関係や交易諸関係というものも、やはり歴史的な存在であるわけです。だから資本主義的生産様式を構成するさまざまな諸契機もやはりそれぞれが、やはり歴史的な存在なのです。つまりそれらも歴史的に形成されてきたものであり、それぞれがそれぞれの歴史を持っており、それぞれがそれぞれの生成や発展、消滅の過程を辿っているものなのです。だから商品の何たるかを十全に把握するためには、それを歴史的なものとしてとらえる必要があるわけです。そしてその課題を解決しているのが、すなわち第4節なのです。

 

 そして第1章として「商品」が解明されたあと、諸商品の実際の交換過程のなかから、如何にして貨幣が生まれてくるのかを説明するのが、第2章の課題であり、それを踏まえて貨幣の諸機能や商品流通における諸法則を解明するのが、第3章の課題である、ということができるのです。極めて簡略ですが、久留間氏の問題意識に答えるものとして、このように説明しておきましょう(久留間氏の著書を批判的に検討するのは、それはそれで別の課題であり、ここでの課題ではありません)。

 

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【付属資料】

 

●【Dの表題】

 

《初版付録》

 

 〈IV 貨幣形態〉(905頁)

 

《フランス語版》

 

 〈(貨幣形態《Forme monnaie ou argent(24)》

 

 (24)“Geld,Geldform”というドイツ語の正確な翻訳は困難である。“forme argent”という表現は、貴金属を除いてすべての商品に無差別に適用できる。人はたとえば、読者の頭を混乱させずに、“forme argent de I'argent”とか“I'or devient argent”などとは言えないであろう〔フランス語の“”は、「貨幣」という意味と「銀」という意味をもっているから〕。さて、“forme monnaie”という表現は、“monnaie”という語がフランス語では鋳造された貨幣片の意味でしばしば用いられることから生じるところの、別の不都合を示している。われわれは状況に応じて、といっても、いつも同じ意味で、“forme monnaie”と“forme argent ”との両語を交互に使用することにする〔両語とも本書では「貨幣形態」と訳すことにする〕。〉(43-4頁)

 

●【貨幣形態の図示】

 

《初版付録》

 

 〈 20エレのリンネル  =

   1着の上着       =

   10ポンドの茶     =

   40ポンドのコーヒー =   2オンスの金

   1クォーターの小麦  =

   1/2トンの鉄     =

   x量の商品A      =

    その他の商品     =      〉

 

《フランス語版》

 

 〈 20メートルリンネル  =

    1着の上衣         =

    10ポンドの茶       =

    40ポンドのコーヒー  =    2オンスの金  

    1/2トンの鉄      =

    x量の商品A       =

       その他                 =       〉(44頁)

 

●【1】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 初版付録には、「IV 貨幣形態」には三つの小項目がある。すなわち

 

 〈(1)一般的な価値形態から貨幣形態への移行と、それ以前の発展移行との差異。〉

 〈(2)一般的な相対的価値形態の価格形態への転化。〉

 〈(3)単純な商品形態は、貨幣形態の秘密である。〉

 

 ここでは、まず項目(1)の内容を紹介する。

 

 〈(1)一般的な価値形態から貨幣形態への移行と、それ以前の発展移行との差異

 

 本質的な変化は、形態 I から形態IIへの移行、形態IIから形態IIIへの移行にさいして、生じている。これに反して、形態IVは形態IIIとは、いまではリンネルに代わって金が一般的な等価形態をもっているということを除くと、なんらの差異もない。金は、形態IVでは、リンネルが形態IIIでそうであったもの--一般的な等価物である。進歩があるのは、直接的な一般的交換可能性という形態あるいは一般的な等価形態が、いまでは、社会的な慣習にのっとって、商品体独自な現物形態最終的に癒着している、という点だけである。〉(905頁)

 

《フランス語版》

 

 〈本質的な変化は、形態 I から形態IIへの移行、形態IIから形態IIIへの移行において生ずる。これに反して、形態IVは、いまでは金がリンネルにかわって一般的等価形態をもつようになったことを除けば、形態IIIと全然ちがわない。進歩はただたんに、直接的、普遍的な交換可能性の形態、すなわち一般的等価形態が、金という独自な自然形態のうちに終局的に体現された、ということにある。〉(44頁)

 

●【2】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 以下も項目(1)である。

 

 〈が他の諸商品に貨幣として相対しているのは、金がこれらの商品にたいしてすでにあらかじめ商品として相対していたからにほかならない。金もまた、他のすべての商品と同じに、個々別々の交換行為における単一の等価物としてであろうと、他の商品等価物と並んで特殊的な等価物としてであろうと、等価物として機能していたのである。だんだんに、金は、もっと狭いかもっと広い範囲のなかで、一般的な等価物として機能するようになった。金が商品世界の価値表現においてこの地位の独占をかちとってしまうと、金が貨幣商品になる。そして、金がすでに貨幣商品になってしまった瞬間から、初めて、形態IVが形態IIIと区別されることになる。すなわち、一般的な価値形態貨幣形態に転化する。〉(905-6頁)

 

《フランス語版》

 

 〈金が他の商品にたいして貨幣の役割を演じるのは、金がすでに以前から他の商品にたいして商品の役割を演じていたからにほかならない。他のすべての商品と同じように金もまた、孤立的交換において偶然的にであろうと、他の等価物とならんで特殊な等価物としてであろうと、等価物として機能してきた。金は広狭さまざまな限度内で、しだいに一般的等価物として機能したのだ。金は、商品世界の価値表現においてこういった地位の独占を勝ちとるやいなや、貨幣商品になったのであり、金がもはや貨幣商品になったその時にはじめて、形態IVが形態IIIから区別される、すなわち、一般的価値形態が貨幣形態に変態する。〉(44-5頁)

 

●【3】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 次から小項目の(2)である。

 

 〈(2)一般的な相対的価値形態の価格形態への転化

 

 すでに貨幣商品として機能している商品での、たとえば金での、一商品たとえばリンネルの単純な相対的価値表現が、価格形態なのである。だから、リンネルの価格形態は

  20エレのリンネル2オンスの金

であり、または、二ポンド・スターリングが二オンスの金の鋳貨名であれば、

  20エレのリンネル2ポンド・スターリング

である。〉(906頁)

 

《フランス語版》

 

 〈たとえばリンネルという一商品の、すでに貨幣として機能している商品たとえば金においての、単純な相対的価値表現が、価格形態になる。したがって、リンネルの価格形態は、   20メートルのリンネル2オンスの金 あるいは、2ポンド・スターリングが2オンスの金の鋳貨名であれば、  20メールのリンネル2ポンド・スターリング になる。〉(45頁)

 

●【4】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 次は小項目(3)である。

 

 〈(3)単純な商品形態は、貨瞥形態の秘密である

 

 要するに、本来の貨幣形態は、それ自体としては、全くなんらの困難をも呈していない。一般的な等価形態がひとたび看破されてしまうと、この等価形態が金という独自の商品種類に固着するということを理解するには、いささかも苦慮する必要がないのであって、このことは、一般的な等価形態は、本来、ある特定の商品種類が他のすべての商品によって社会的に排除されることを条件としている、ということを理解するのに苦慮する必要がない、のと同じである。問題になるのは、こういった排除が、客観的社会的一貫性一般的妥当性とを獲得し、したがって、いろいろな商品にかわるがわる付着するのでもないし、商品世界のたんに特殊な範囲内でたんに局地的な射程をもっているだけでもない、ということだけである。貨幣形態の概念上の困難は、一般的な等価形態の理解に、したがって、形態IIIという一般的な価値形態一般の理解に、かぎられている。ところが、形態IIIは、反射的に形態IIに解消し、そして、形態IIの構成要素は、形態 I 、すなわち 20エレのリンネル1着の上着 または、x量の商品Ay量の商品B なのである。そこで、使用価値と交換価値がなんであるかを知れば、この形態 I は、たとえばリンネルのような任意の労働生産物を、商品として、すなわち、使用価値と交換価値という対立物の統一として、表示するところの、最も単純で最も未発展な仕方である、ということがわかる。そうなると、同時に、単純な商品形態である 20エレのリンネル1着の上着 が、この形態の完成した姿態である 20エレのリンネル2ポンド・スターリング すなわち貨幣形態を獲得するために通過しなければならないところの、諸変態の系列も、容易に見いだされることになる。〉(906-7頁)

 

《フランス語版》

 

 〈したがって、単純な商品形態は貨幣形態の胚種である(25)。

 

 (25)古典派経済学はいまだかつて、商品、特に商品の価値の分析から、商品が交換価値になる形態を演繹することに成功したためしがなく、これがこの経済学の主要な欠陥の一つである。まさにアダム・スミスやリカードのような古典派経済学の最良の代表者は、価値形態を、商品そのものの本性には無関心なあるもの、すなわち、この本性とはどんな内的関係もないあるもの、として論じている。それは、量としての価値が彼らの注意をひいたためばかりではない。その理田はもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、現在の生産様式の最も抽象的な、最も一般的な形態であって、それゆえに歴史的な性格を、特殊な社会的生産様式という性格を獲得しているのである。これを、あらゆる社会におけるあらゆる生産の自然約な永遠の形態と取りちがえる、という誤りをおかすならば、価値形態、次いで商品形態、また、さらに発達した段階では貨幣形態、資本形態等の独自な側面を、必ず見失ってしまう。労働時間による価値量の測定については完全に意見がお互いに一致している経済学者たちのあいだで、貨幣、すなわち、一般的等価物の固定した形態については、この上もなく多種多様でこの上もなく矛盾しあった考えが見出されるのも、このためである。たとえば銀行問題のような問題が姐上にのぼるやいなや、われわれはこのことに特に気がつくものだ。そのばあいになると、貨幣の定義やこの定義について絶えず言いふらされてきた常套旬とは、もはや縁が切れなくなる。私はきっぱりと指摘するが、私が古典派経済学と言うのは、俗流経済学とは反対に、ウィリアム・ペティ以降、ブルジョア社会における生産関係の現実的で内的な総体を洞察しょうと努める、すべての経済学のことである。俗流経済学は、外観に満足し、自分自身の必要のために、また、この上なく大ざっぱな現象の俗流化のために、先行者たちによってすでに丹念に作りあげられた諸材料を絶えず反芻し、ブルジョアが自分に属する世界すなわち可能なかぎりすばらしい世界に好んで繁殖させる幻想を、衒学的に体系にまで昇格させ、これを永遠の真理である、と宣言するにとどまっている。〉(45-6頁)

 

 

 


第33回「『資本論』を読む会」の案内

『 資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

 

                                                                                                                      第33回「『資本論』を読む会」の案内文を出そうと思いながら、ぐずぐずしていたら、東北の三陸沖でM8.8という(後にM9.0に修正)巨大な地震が起こり、東北地方や関東地方を含めて、甚大な被害に見舞われる災害が発生した。

 

3月12日『朝日新聞』夕刊より

 

  とくに大津波の猛威は想像をはるかに越えるものであり、大きな船もろともに家屋までもを巻き込んで、一切合切を撫で斬りに流し去ってしまっている。家も何も跡形もなく、残ったのはただ瓦礫の山だけになっている。そこで生活していた人たちはどうなってしまったのか、その安否を思うにつけ、心痛の限りであるが、ただテレビの画面に釘付けになり、見入ることしかできない自分に歯がゆさを感じざるを得ない。

 

 おまけに福島原子力発電所では、地震によって緊急停止装置が働き停止したのはよいものの、緊急炉心冷却システム(ECCS)が作動せず、第一原発の建屋が骨組みを残して吹っ飛んだとニュースでは報じている。これはチェルノブイリ原発事故に相当する災害をもたらしかねない事態が生じていることを物語っている。放射能による二次災害はさらに広い範囲に長期間に渡る被害をもたらすことが予想される。まさに大変な事態である。

 

 考えてみれば、われわれ人類が築いてきた産業や毎日の生活の営みは、ただ地球のマントルの上べりにできた瘡蓋(カサブタ=地殻)の上にあるわけである。その瘡蓋は地球自体の長い歴史のなかで、火の玉の状態から徐々に冷却してくる過程で生じたものであるが、当然のことながら、今もって、その冷却は進んでおり、その冷却を媒介しているものがマントルの対流なのである。それによって地球はその内部の熱を宇宙に放出して徐々に冷えているわけだ。

 

 そしてそのマントルの対流に応じて、その瘡蓋は地球の表面を長い時間をかけて(われわれ人類の歴史から見て長いだけであるが)移動しており、日本列島は、そうした瘡蓋(プレート)の幾つかが地球内部のマントルにもぐり込んでいる場所にできた島である。

 

 

プレートテクトニクスから見た日本列島

 

 だから今回のような地震は当然予想されてきた。東海地震や東南海地震、あるいは南海地震というのがそれであるが、まさか三陸沖にそれが生じるとはあまり予想されて来なかったのではないだろうか。しかしそうであるなら、やがては来るだろうといわれているわれわれの身近で起こる南海地震も、同じような甚大な被害を関西地方にもたらすだろうことは容易に想像できる。だから、これはまったく人ごとではないわけである。

 

 マルクスは社会の歴史を地球の歴史になぞらえて「社会構成体(Gesellschaftsformation)」という概念を提起している。マルクスはこれを地質学の用語からとってきたと言われている。

 

 〈社会史の諸時代は抽象的な厳密な境界線によっては区分されないということは、地球史の諸時代の場合と同じことだからである。〉(全集23a486頁)

 

 〈さまざまな地質の累層の順次的継起について,ひとは,明確に分離された諸時代が突如として現われるなどと考えてはならないが,さまざまな社会構成体の形成についても同様である。〉(『1861-1863年草稿集』9巻129頁)

 

 地球の歴史は人類の歴史からすれば、気の遠くなるほど長いスタンスで変化しているものであるが、同じように人類の歴史も決して不変ではなく、現在の資本主義的生産様式も、やがては新しい社会構成体へと移行する一時代が来るものと思われる。それは今回の自然災害をもたらすようなものではないが、やはり世界全体を巻き込んだ一つの生みの苦しみともいうべき陣痛を伴うものなのかも知れない。

 

 そうしたことを今回の地震で考えさせられた。

 

 『資本論』など読んでいる場合ではない、と言われそうだが、一応、会場の予約もあり、第33回「『資本論』を読む会」は予定どおり開催します。

 


第33回「『資本論』を読む会」の報告

第33回「『資本論』を読む会」の報告

 

◎大地震と原発事故

 

 東北・関東地方が大地震と大津波によって壊滅的な被害を受けました。何万もの人命が失われ、何十万もの人々が住む家を失いました。引き続く福島原発の事故による放射能の恐怖は首都圏をも巻き込みつつあります。全国や世界からも多くの支援の手がさしのべられ、官民上げて原発の暴走をくい止めようと必死の対策がとられています。それらが奏効し、災害からの復興と事故拡大が未然に防止されることを願うばかりです。

 

 第33回「『資本論』を読む会」はこうした大変なときに開催されました。今回から第1章の第4節「商品の物神的性格とその秘密」に入りました。今回はいつも報告を担当して頂いているピースさんがお休みなので、JJ富村さんがピンチヒッターで報告を担当してくれました。ピースさんもいつもレジュメを準備してくれていますが、JJ富村さんも大変丁寧なレジュメを準備してくれました。今回は三つのパラグラフを進んだだけでしたが、その内容を報告しましょう。

 

◎商品の神秘的性格はその使用価値から来るものではない

 

 今回も、まず最初にパラグラフ全文を紹介し、文節ごとに(イ)、(ロ)、・・・・と記号をうち、それぞれについて平易に解説することにします。まず最初は第1パラグラフです。

 

【1】〈 (イ)商品は、一見、自明な、平凡な物らしく見える。 (ロ)商品の分析は、商品が形而上学的な小理屈と神学的な小言に満ちた非常にやっかいなしろ物であるということを明らかにする。 (ハ)商品が使用価値である限り、その諸属性によって人間の諸欲求を満たすという観点から見ても、あるいは、人間労働の生産物としてはじめてこれらの諸属性を受け取るという観点から見ても、商品には神秘的なものは何もない。 (ニ)人間がその活動によって自然素材の諸形態を人間にとって有用な仕方で変えるということは、感性的に明らかなことである。 (ホ)たとえば、木材でテーブルがつくられれば、木材の形態は変えられる。 (ヘ)にもかかわらず、テーブルはあい変わらず木材であり、ありふれた感性的なものである。 (ト)ところが、テーブルが商品として登場するやいなや、それは感性的でありながら超感性的なものに転化する。 (チ)それは、その脚で床に立つだけでなく、他のすべての商品に対しては頭で立ち、そしてその木の頭から、テーブルがひとりでに踊りだす場合よりもはるかに奇妙な妄想を展開する(25)。〉

 

 (イ) 商品は、一見すると、自明で、平凡なもののように見えます。

 

 (ロ) ところが、「商品とは何か」と商品の分析を開始すると、それは非常にやっかいなものであるということが明らかになります。それは形而上学的な理屈や神学的な小言に満ちたものであるかにさえ見えるのです。

 

 この二つの文節は、いわばこの第4節全体の導入部分のように思えます。つまりこれまでの第1章の商品の分析(第1節~第3節)を振り返って、この節(第4節)での課題を明らかにしているものと思えます。少し、その意味を込めて、書き直すと次のようになるかと思います。

 

 〈商品というのは、われわれが日常目にしているものであり、それ自体は、ありふれたものです。しかしこれまでわれわれは商品を分析し、「商品とは何か」を考察してきたのですが、その過程で明らかになったように、「商品とは何か」を明らかにしようとすると、恐ろしくやっかいな代物であることが分かりました。そのためには、ややこしい形而上学的ともいえる理屈をこねなければならず、わけのわからない神学的な小言と同じようなことを論じなければならなかったわけです。どうして商品とは、こんなわけの分からないものなのでしょうか。これが分からないと、「商品とは何か」ということを十分に解明したとは言えないのではないでしょうか。  つまりこれまで、われわれは商品にはどうして値札がついているのかを、貨幣の発生を辿ることによって明らかにして、われわれが日常見ている商品のありのままの姿がどうしてそうなっているのかを解明したのです。しかしその解明が、どうしてあのように難しい説明にならざるを得ないのか、どうして商品というのは、そうしたわけの分からない、やっかいな説明を必要とするものなのかが、実はまだ十分解明されているとはいえないわけです。だからそれが説明されて、初めて、われわれは「商品とは何か」について十全に理解したといえるでしょう。それをこれから説明することにしましょう。

 

 まあ、だいたい、こういう内容をここで言いたいわけです。そしてこれがこの第4節の課題を説明することでもあるわけです。

 

 (ハ) 商品をその使用価値の属性で見るなら、それは人間の諸欲求を満たすということや、あるいは、それが人間労働の生産物であり、そうした生産によってそうした欲求を満たす属性を受け取ったのだということなどについては、まったく神秘的なものは何もないわけです。

 

 ここからは、まず商品の一つの属性である使用価値そのものには、何の神秘的なものはないということから、商品の神秘性はどこから来るのかを説明するための前提として、商品の何については神秘的ではないのかをまず見極めることから始めているといえます。そしてその上で、では、商品の神秘的性格はどこから来るのかを説明しようとしているわけです。だから最初の二つのパラグラフそのものは、この節の本論の前提ともいうべきものなのかも知れません。

 

 (ニ) 人間がその活動によって自然素材をさまざまにその形態を変えて、人間にとって有用なものに作り替えるということは、まったく感覚的にも理解できることであり、明らかなことです。

 

 (ホ)、(ヘ) 例えば、木材でテーブルを作るならば、木材の形態は変えられますが、しかし、依然としてテーブルは木材であり、ありふれた感覚的に捉えられるものであり続けます。

 

 ここまでは、とにかく商品の使用価値やそれをつくる労働についても、何も神秘的なものはないことが指摘されています。

 

 (ト)、(チ) ところが、テーブルがひとたび商品として登場するやいなや、それは感性的存在でありながら、それ以上のもの、超感性的なものに転化するのです。テーブルはその脚で床に立っているだけではなくて、他の商品に対しては頭で立ち、そしてその木の頭から、テーブルがひとりでに踊りだす場合よりはるかに奇妙な妄想を展開するようになるのです。

 

 これまでの考察のように商品の使用価値を問題にしている限りでは、それらはすべて感性的に、つまりわれわの五感で捉えられるものであり、だからわれわれにとっては神秘的なものは何もないのですが、しかし、商品の神秘性は商品が他の商品との関係のなかで捉えられるようになると、その神秘的な性格が現われてくるのだということが、ここでまず指摘されています。それをやや文学的な表現でなされているといえるでしょう。

 

 学習会では、まず〈それは、その脚で床に立つだけでなく、他のすべての商品に対しては頭で立ち〉の部分について、報告者のレジュメでは〈他のすべての商品に対して価値関係を取り結ぶ。脚で立つ机, 即ち, 使用価値としてではなく, 価値, 交換価値として振る舞う〉との説明がありました。これはその通りなのですが、なぜ〈頭で立ち〉と説明されているのかが今一つよく分かりません。価値関係を取り結ぶということは、他の商品との違いを示している商品の使用価値を生み出した有用な労働の諸属性を捨象して、他の商品との共通なもの、抽象的な人間労働が対象化したものに還元する必要があるわけです。そうすると、それは抽象の産物となり、そういう意味で頭の産物だから、このように述べているのではないか、という説明がありました。初版本文には次のような説明もあります。

 

 〈リンネルを人間労働の単なる物的な表現として把握するためには、リンネルを現実に物にしているところのいっさいのものを、なによりもまず捨象しなければならない。それ自身抽象的であってその他には質も内容ももたない人間労働の対象性は、必然的に、抽象的な対象性、すなわち思考産物である。こうして亜麻織物は幻想になる。〉(江夏訳36頁)

 

 またレジュメでは、〈そしてその木の頭から、テーブルがひとりでに踊りだす場合よりもはるかに奇妙な妄想を展開する〉の部分がよく分からないと「?」マークがついていましたが、これはこれまでの展開を振り返って論じているのではないか、つまり価値形態の発展を論じた部分の難しい展開を〈奇妙な妄想の展開〉ともじっているのではないか、との意見がありました。

 

 さらに、第4節の表題は〈商品の物神的性格とその秘密〉ですが、そもそも〈物神的性格〉とは何だろうということになりました。レジュメでは平凡社の百科事典の「フェティシズム」の項からの引用が紹介されていましたが、〈物神〉というのは、物を神のように崇めるということ。例えば奇岩・奇石などを神が宿るものとして崇めたり、巨大な古木をご神木として崇めるというような例が紹介されました。しかし単に物を神として崇めるというだけでは、〈物神的性格〉の理解としては不十分ではないか、との指摘もあり、有井行夫著『マルクスはいかに考えたか』の内容の紹介など色々と議論がありましたが、その内容をすべて紹介してしまうと、この節の内容を先取りしてしまいかねず、よって今回は割愛したいと思います。それについてはまた論じる機会があるかと思います。

 

 この第1パラグラフについている注25についても簡単に議論しましたので、それも紹介しておきましょう。

 

 【注25】〈(25) 世界の残りの部分がすべて静止しているように見えた時に、中国〔China、「陶器」と同文字〕とテーブルが踊りだした--“ほかのものたちを励ますために pour encourager les autres ”--ということが思い出される。〉

 

 これに関しては、レジュメでは全集版の注解28で次のような説明があると紹介されていました。

 

 〈全集版の注解(28) ほかのものを励ますために(pour encourager les autres)

 

 1848-49年の革命の敗北後、ヨーロッパでは暗い政治的反動期が始まった。そのころヨーロッパ貴族仲間は、またブルジョア仲間も霊交術や特に卓踊術に熱中していたが、他方、シナでは特に農民のあいだに強力な反封建的解放運動が広がっており、それは太平天国の乱として歴史に残っている。〉

 

 また新日本新書版では次のような説明があることも紹介されました。

 

 〈〔テーブルや陶器が踊るというのは心霊術の一種で、1848年の革命の敗北後ヨーロッパで大流行したが、マルクスはここで、1850年から起こった太平天国運動とそれをかけている。「中国問題」、邦訳『全集』、第15巻、490頁参照。なお、「ほかのものたちを励ますために」は、ヴォルテール『カンディード』、第23章からとられている。吉村正一郎訳、岩波文庫、129頁〉

 

 全集版の「中国問題」の当該箇所については、埼玉・所沢の「『資本論』を読む会」のサイトでは次のように紹介されていました。

 

 《この中国革命で独特なのは、実際はただその担当者だけである。彼らは、王朝の交替ということを除いては、どのようなスローガンももっていない。彼らは旧統治者によるよりも人民大衆によってよけいに恐れられている。彼らの使命は、保守的老衰に対立して、怪奇な、いとわしい形態における破壊、なんらの新しい建設の萌芽ももたない破壊を代表する以外にはなにもないかのように思われる。》(全集第15巻490頁)

 

 とりあえず、この注25については、こうした資料だけを紹介しておきます。

 

◎商品の神秘的性格は価値規定の内容からも生じるのではない

 

 次は第2パラグラフです。

 

【2】〈 (イ)したがって、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではない。 (ロ)それはまた、価値規定の内容から生じるのでもない。 (ハ)と言うのは、第一に、有用労働または生産的活動がたがいにどんなに異なっていても、それらが人間的有機体の諸機能であること、そして、そのような機能は、その内容やその形態がどうであろうと、どれも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは、一つの生理学的真理だからである。 (ニ)第二に、価値の大きさの規定の基礎にあるもの、すなわち、右のような支出の継続時間または労働の量について言えば、この量は労働の質から感覚的にも区別されうるものである。 (ホ)どんな状態のもとでも、人間は--発展段階の相違によって一様ではないが--生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった(26)。 (ヘ)最後に、人間が何らかの様式でたがいのために労働するようになるやいなや、彼らの労働もまた一つの社会的形態を受け取る。〉

 

 (イ) だから商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではありません。

 

 (ロ) では、それは商品の価値から生じているのでしょうか。しかしまた、商品の価値規定の内容を見る限りでは、そこから生じているともいえないのです。

 

 (ハ) というのは、商品の価値規定の内容というのは、第一に、有用労働が、あるいは生産的な活動がそれがどんなに互いに違っていたとしても、それらが人間有機体の諸機能だという点ではどんな違いもありませんし、またそれがどういう具体的な形態でなされるかに違いはあったとしても、それらはどれも本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるという点では同じであることは、生理学的真理であって、これ自体には何の神秘的な性格もないわけです。

 

  ここで注意が必要なのは、マルクスが「価値規定の内容」として語っているものには、「価値の実体」と言われる「抽象的人間労働の凝固」という言葉がないことです。だから「価値規定の内容」というのは「価値の実体」とはまた違って、その基礎にあるものだということです。

 

 (ニ)、(ホ) 次に価値規定の内容として問題になるのは、価値の大きさの基礎にあるもの、すなわち先の生理学的な労働力の支出の継続時間、またはその労働の量については、労働の質とは感覚的に区別されるものです。

 

  ここでも注意深く吟味してみる必要があるのは、マルクスは「価値の大きさ」そのものを問題にしているのではなく、「価値の大きさの基礎にあるもの」を問題にしているということです。価値の大きさは商品の生産に社会的に必要な労働時間ですが、そうしたものを直接問題にしているのではなく、その「基礎にあるもの」なのです。それはマルクスが「価値規定の内容」として抽象的人間労働を問題とせず、さまざまな具体的な形態か規定された人間労働力の支出というものが、その具体的形態が如何なるものであろうと、人間有機体の諸機能であり、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出なのだとして捉えていることに対応しています。

 

  以前、第2節の最後のパラグラフを分析したときに、このパラグラフがシンメトリーの構成になっていることと、三層の構造を持っていることを指摘しました。それをもう一度思い出してみましょう。まず、第2節の最後のパラグラフを紹介します。

 

   《すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する。》(全集版63頁)

 

  このパラグラフの構成を図示したものも紹介しておきます。

 

 

 

  つまりマルクスは「商品価値を形成する」労働を分析して、「生理学的意味での人間労働力の支出」というものと「同等な人間労働または抽象的人間労働」という属性とを区別しているということです。同じように「使用価値を生産する」労働についても、「特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出」ということと、「具体的有用労働」という属性とが区別されています。

 

  だから今ここで、マルクスが「価値規定の内容」として述べているものでいえるのは、「価値を形成する」労働のうち、まさに最初の層、つまり「生理学的意味での人間労働力の支出」とその継続時間なのだということです。第二層、つまり価値の実体である「同等な人間労働または抽象的人間労働」の凝固と社会的に必要な人間労働の継続時間ではないということに注意が必要なのです。多くのマルクス経済学者は「抽象的人間労働」と「生理学的な意味での人間労働力の支出」を同じものとして扱っていますが、マルクス自身はこれらを明確に区別していることに注意が必要なのです。

 

 (ヘ) そして最後に、人間が何らかの様式で互いのために労働するようになるやいなや、彼らの労働も社会的な形態を受け取るということはあたりまえのことであり、彼の労働が社会的な形態を持っているということ自体には何の神秘的なものもないのです。

 

 ここでは〈価値規定の内容〉という言葉が出てきます。マルクスはこの内容を三つの部分からなると考えているようです。では、それは第1節のどういう内容に照応しているのでしょうか。

 

 (1)まず価値規定、つまり価値の規定というのは、次のような第一節の一文を指すのではないでしょうか。

 

 〈そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値--商品価値である。 

  諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現れた。そこで今、実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、今まさに規定された通りのそれらの価値が得られる。したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表している共通物とは、商品の価値である。 

  したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。

 

  これが「価値規定」です。しかし、ここでマルクスが問題にしているのは、こうした「価値規定」そのものではなく、その基礎にあるものとだということです。それが「価値規定の内容」なのです。

 

 (2) 次は量的な価値規定について、

 

 〈では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。…… 

  したがって、ある使用価値の価値の大きさを規定するのは、社会的に必要な労働の量、または、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間にほかならない。

 

  この場合も、しかしマルクスがここで問題にしているのは価値の量的規定そのものではなく、「その基礎にあるもの」なのだということが重要です。

 

 (3)次は、価値を形成する労働の社会的性格についてです。

 

 〈商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない。〉  

 〈したがって、われわれは次のことを見てきた--どの商品の使用価値にも一定の合目的的な生産的活動または有用労働が含まれている。諸使用価値は、質的に異なる有用労働がそれらに含まれていなければ、商品として相対することはできない。その生産物が一般的に商品という形態をとっている社会においては、すなわち商品生産者たちの社会においては、独立生産者たちの私事としてたがいに従属せずに営まれる有用労働のこうした質的相違が、一つの多岐的な体制に、すなわち社会的分業に、発展する。

 

  しかしこうした労働の社会的形態は、商品を生産するという様式において取り結ぶ社会的形態であるということが理解されなければなりません。価値規定の内容としてマルクスが述べているのは、そうしたもののさらに一般化されたものだということです。

 

 報告者のレジュメでは、以前、大阪でやっていた「『資本論』を学ぶ会」のニュースNo.23(1998/11/5)からの紹介がありました。だからそれも少し紹介しておきましょう。

 

  【ここではマルクスは「価値規定の内容」とは、労働を基礎とする人間のどんな社会にも妥当するような、もっとも基本的なものだと述べているように思えます。だからそれは資本主義以前の社会はもちろん、将来の社会、つまり社会主義、共産主義の社会においても存在するものだということでもあります。だからこうしたものには何の神秘的なものもないのだということだと思います。このようなマルクスの考えは、それ以外の文献でも色々と述べられています。今、その主なものを紹介しておきましょう。

 

 例えばマルクスは1868年7月11日付けの「クーゲルマンへの手紙」で次のように書いています。

 

 〈価値概念を証明する必要があるなどというおしゃべりは、当面の問題についての、さらにまた、この科学の方法についての完全な無知にもとづくものにほかならない。いかなる国民でも、一年間はおろか二、三週間でも労働を停止しようものなら、たちまちまいってしまうということは、どんな子どもでも知っている。また、種々の欲望の量に応じる諸生産物の量は、社会的総労働の種々のそして特定の分量を必要とするということもどんな子どもでも知っていることである。このように社会的労働を一定の割合で配分する必要は、社会的生産の一定の形態によってなくされるものではなくて、ただそのあらわれかたが変わるにすぎないことは自明である。自然法則をなくすことはけっしてできないことである。いろいろの歴史的状態につれて変化しうるのは、それらの法則が貫徹される形態だけである。そして、社会的労働の連関が個人的労働生産物の私的交換としてあらわれる社会状態においてこの労働の比例的配分が貫徹される形態がまさしくこれらの生産物の交換価値なのである。〉(国民文庫版87~9頁)

 

 (中略)つまりマルクスが「価値規定の内容」として述べていることは、いわばこの手紙でマルクスが「自然法則」として述べていることと同義であって、だから商品生産社会において「それらの法則が貫徹される形態」こそが、まさに「生産物の交換価値」であり、それが「労働生産物の謎的性格」をもたらすのだ、ということではないでしょうか。

 

 もう一つ紹介しましょう。「アードルフ・ヴァーグナー著『経済学教科書』への傍注」では次のような一文が見られます。

 

 〈さて、ロートベルトゥスが--私はあとでなぜ彼にこれがわからなかったのか、その理由を言おう--すすんで商品の交換価値を分析したとすれば、--交換価値は商品が複数で見いだされ、さまざまな商品種類が見いだされるところにだけ存在するのだから--彼はこの現象形態の背後に「価値」を発見したはずである。彼がさらにすすんで価値を調べたとすれば、彼はさらに、価値においては物、「使用価値」は人間労働のたんなる対象化、等一な人間労働力の支出と見なされ、したがってこの内容が物の対象的性格として、商品自身に物的にそなわった〔性格〕として表示されていること、もっともこの対象性は商品の現物形態には現れないということ〔そして、このことが特別な価値形態を必要にするのである〕、こういうことを発見したことであろう。つまり、商品の「価値」は、他のすべての歴史的社会形態にも別の形態でではあるが、同様に存在するもの、すなわち労働の社会的性格--労働が「社会的」労働力の支出として存在するかぎりでの--を、ただ歴史的に発展した一形態で表現するだけだということを発見したことであろう。このように商品の「価値」があらゆる社会形態に存在するものの特定の歴史的形態にすぎぬとすれば、商品の「使用価値」を特徴づける「社会的使用価値」もやはりそうである。〉(全集・376~7頁)

 

 こうしたマルクスの論述は、それ以外の諸文献でも見ることができます。ここで重要なのは、マルクスはこうした「価値規定の内容」は、確かにあらゆる社会に存在するものではあるが、しかしそれは「価値」がそうであるとは言っていないということです。むしろ「価値」はその「特定の歴史的形態にすぎない」と述べています。(以下略)】

 

 ところで、初版本文では、このパラグラフに続いて、現行版では12パラグラフに来るロビンソンの例と15パラグラフに来る共同社会の例の二つのパラグラフが続いています。つまりこの価値規定の内容には何の神秘的な性格はないということを説明する例として、ロビンソンの孤島での生活や将来の共同社会の例が展開されているのです。この現行版の二つのパラグラフは、当然、後に問題になるわけですが、初版本文の展開の意義を確認するために、若干先取りして、その内容を少しだけ検討しておきましょう。

 

  まずロビンソンの島の生活においては、〈ロビンソンと彼の自家製の富を形成している物とのあいだのいっさいの関係は、ここではきわめて簡単明快〉だと指摘しながら、〈それにもかかわらず、これらの関係のうちには、価値のすべての本質的な規定が含まれている〉とも述べられています。つまりそれらが価値規定の内容を意味することが示唆されているのです。

 

  また〈共同の生産手段を用いて労働し、自分たちのたくさんの個人的な労働力を意識的にさて、一つの社会的な労働力として支出するところの、自由な人々の団体〉については、〈ロビンソンの労働のあらゆる規定が繰り返されるが、このことは、個人的にではなく社会的にというにすぎない〉と指摘され、やはり〈人々が彼らの労働や彼らの労働生産物にたいしてもっている社会的な諸関係は、ここでは依然として、生産においても分配においても、透明で簡単である〉と述べられています。つまり先に「クーゲルマンへの手紙」「アードルフ・ヴァーグナー著『経済学教科書』への傍注」でも指摘されていましたが、それらはあらゆる社会に共通な内容をもったものであり、こうした関係には何の神秘的な性格もないと言うわけです。

 

  そして初版本文では、こうした二つのパラグラフによる価値規定の内容の具体的な例の検討を行ったあと、それを受けて、次のパラグラフで〈それでは、労働生産物が商品という形態をとるやいなや、労働生産物の謎めいた性格はどこから生ずるのか?〉と続いているのです(しかしその後の展開は現行版とは若干異なります。その検討は次回以降にしたいと思います)。

 

 次の注26については、ほとんど議論にはなりませんでしたが、まずその本文を紹介しておきましょう。

 

 

 【注26】〈(26) 第2版への注。古代のゲルマン人のあいだでは、一モルゲンの土地〔Land〕の大きさは一日の労働によってはかられ、そこから、一モルゲンは、 Tagwerk (あるいは Tagwanne )〔一日の仕事〕(jurnale または jurnalis,terra jurnalis,jornalis または diurnalis)、Mannwerk〔男一人の仕事〕、Mannskraft〔男一人の力〕、Mannsmaad〔男一人の草刈り〕、Mannshauet〔男一人の刈り取り〕などと呼ばれた。ゲオルク・ルートヴィッヒ・フォン・マウラー『歴史への序論、マルク・農地等々・・・の制度について』、ミュンヘン、一八五四年、一二九ページ以下を見よ。〉

 

 これは〈どんな状態のもとでも、人間は--発展段階の相違によって一様ではないが--生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった〉ということの一つの例証として、古代ゲルマンでも、一人の男の労働時間によって彼の土地の大きさが決められたことを紹介しているだけですから、あまり拘る必要もないでしょう。

 

◎労働生産物の謎的性格は、商品形態そのものから来る

 

 次は第3パラグラフです。

 

 【3】〈 (イ)では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎のような性格は、どこから来るのか?  (ロ)明らかに、この形態そのものからである。 (ハ)人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の測定は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がその中で発現する彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。〉

 

 (イ) では、労働生産物が商品の形態をとるやいなや生じる、その謎のような性格は、どこから来るのでしょうか?

 

 (ロ) それは、明らかに、この形態そのもの、つまり商品形態から来るのです。

 

 ここで〈形態そのもの〉とありますが、学習会では、第3節の最初の前文ともいうべき部分にある次の一文に注目すべきことが指摘されました。

 

 〈商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である。けれども、商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである。

 

 だからここで〈形態そのもの〉と言われているのは、商品形態の二重の形態のうちの、価値形態を指すことは明らかでしょう。「価値形態そのもの」から労働生産物の謎的性格が来ていることになります。

 

 (ハ) 価値規定の内容のそれぞれの契機は、商品形態において、次のような形態を受け取ることによって謎的性格を帯びます。まず人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、次にその継続時間による人間労働力の支出の測定は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がそのなかで発現する彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのです。

 

 この最後の部分の文章に注意が必要だということが指摘されました。まず〈生産者たちの労働のあの社会的諸規定がその中で発現する彼らの諸関係〉という部分の〈あの社会的諸規定〉の〈あの〉というのは、一つ前のパラグラフにある〈人間が何らかの様式でたがいのために労働するようになるやいなや、彼らの労働もまた一つの社会的形態を受け取る〉を受けていると思えます。つまり先のパラグラフで指摘された社会的形態を受け取った労働の〈あの社会的諸規定〉ということです。

 

 労働そのものは、その具体的な属性によって社会的な関係を体現しています。マルクスは使用価値について次のように述べていました。

 

 〈まざまな種類の使用価値または商品体の総体のうちには、同じように多様な、属、種、科、亜種、変種を異にする有用労働の総体--社会的分業--が現れている。

 

 つまり有用労働はその有用な属性によって社会的分業の総体を表しているわけです。

 

 その労働の〈社会的諸規定〉が〈その中で発現する〉〈その中〉というのは〈生産者たち〉の〈諸関係〉ということです。つまり労働それ自体がもっている社会的諸規定というのは、社会の物質代謝を維持するために必要不可欠な物質的な条件なのです。それが生産者が取り結ぶ社会的諸関係のなかで発現する(実現される、あるいは具体化される)と述べているわけです。しかしこの生産者の社会的諸関係は、しかし、〈労働生産物の社会的関係という形態を受け取る〉ことによってその謎的性格が生まれるのだというわけです。つまり生産者の社会的諸関係が物の社会的関係という形態を受け取っているということです。この最後の部分は少し難しいのですが、もっと後で詳しく論じられると思いますので、ここでは、これぐらいにしておきましょう。

 

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【付属資料】

 

●第4節の表題

 

《初版付録》

 

 〈δ 等価形態の第四の特性商品形態の物神崇拝は等価形態では相対的価値形態よりも顕著である。〉(893頁)〉

 

《補足と改訂》

 

 〈4)商品の物神的性格とその秘密〉(小黒正夫訳下26頁)

 

《フランス語版》

 

 〈第四節 商品の物神性とその秘密〉(江夏他訳46頁)

 

●第1パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈商品は、一見したところでは、自明の、ありきたりの物に見える。商品の分析が示すところでは、商品は非常に奇妙な物であり、形而上学的な屁理屈や神学的なしかめつつらでいっぱいになっている。単なる使用価値としては、商品はある感覚的な物であって、私がいま、それを、それの諸属性が人聞の必要をみたすという観点から観察しても、または、それが人間労働の生産物として初めてこれらの属性を得るという観点から観察しても、それにはなんら神秘的なものはない。人聞が自分の行為によって自然素材の諸形態を自分にとって有用な仕方で変えるということには、謎めいたものは絶対になにもない。たとえば、材木から机を作れば材木の形は変えられる。にもかかわらず、机は依然として、材木というありふれた感覚的な物である。ところが、机が商品として現われるやいなや、机は、感覚的でありながら超感覚的な物に変わる。机は、その脚で地上に立っているだけでなく、すべての他商品に向かって逆立ちし、その木の頭から、机が自ら進んで踊り出すときよりもはるかに奇怪な妄想を、繰り広げるのである(25)。〉(江夏訳59頁)

 

《フランス語版》

 

 〈商品は一見したところでは、ありふれた自明なあるもの、のように見える。これとは反対に、われわれの分析の示すところでは、商品は、形而上学的な精密さと神学的なうわべの飾りにみちたきわめて複雑な物である。商品には、それがその属性によって人間の必要をみたそうと、その属性が人間労働によって産み出されようと、使用価値としてはなんら神秘的なものはない。人間の活動が自然の提供する素材を加工して、これを有用なものにするということは、自明のことである。たとえぽ、机を木材で作るならば、木材の形態が変化したのである。それにもかかわらず、机は依然として木材、すなわち、ありきたりで火を見るより明らかな物である。だが、机が商品として現われるやいなや、事態は全くちがってくる。机は、手でつかみうると同時に手でつかみえないものであるから、その足を地上に立てるだけでは充分でない。机は、いわば他の商品にむかって木の頭〔鈍い頭という意味も兼ねている〕で逆立ちし、踊りだすよりもいっそう奇妙な幻想に耽るのである。〉(46頁)

 

●注25

 

《初版本文》

 

 〈(25)ほかの世界がすべて静止しているように見えたとき、シナと机が踊り出した--ほかのものを励ますために--、ということが思い起こされる。〉(59頁)

 

●第2パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈だから、商品の神秘的な性格は、商品の使用価値からは生まれてこない。それは同様に、それ自体として観察された価値規定からも生まれてこない。というのは、第一に、もろもろの、有用な労働あるいは生産活動は、どんなにそれぞれに相異なったものであっても、ほかの有機体とはちがうところの独自に人間的な有機体の諸機能であるということは、そしてまた、このような諸機能はどれも、その内容やその形態がどうあろうとも、本質的には、人間の頭脳や神経や筋肉や感覚器官等々の支出であるということは、生理学上の真理だからである。第二に、価値量の規定の基礎になっているもの、上記の支出の継続時間または労働のについて言えば、このは、感覚的にさえ、労働のと区別できる。生活手段の生産に費やされる労働時間は、たとい発展段階がちがえば一様ではないにしても、どんな状態のもとでも、人間の関心事でなければならなかった。最後に、人聞がなんらかの仕方で相互のために労働するように怒ると、彼らの労働も、ある社会的な形態をとることになる。〉(59-60頁)

 

《フランス語版》

 

 〈したがって、商品の神秘的な性格はその使用価値から生ずるものではない。この性格はなおさら、価値を規定する性格からも生じない。第一に、実際のところ、有用労働すなわち生産活動がどんなに種々さまざまなものでありえようとも、それらはなによりもまず人間有機体の機能であること、このような機能はどれも、その内容や形式がどうあろうとも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、器官、感覚等の支出であることは、生理学的真理である。第二に、価値量を規定するのに役立つもの、すなわち、こういった支出の継続時間あるいは労働の量については、この労働の量が労働の質から明らかに区別されることは、否定できないであろう。どんな社会状態でも、消費手段を生産するために必要な時間は、文明の段階の相違に応じて不均等であっても、人間の関心事でなけれぽならなかった。(26)最後に、人間がなんらかのやり方で相互のために労働するやいなや、彼らの労働も社会的な形態を獲得するのである。〉(47頁)

 

●注26

 

《フランス語版》

 

 〈(26) 古代ゲルマン人のあいだでは、1アルバンの土地の大きさは、1日の労働にしたがって計算され、そのため1日の仕事Tagewerk〉、男1人の仕事Mannewerk〉等(jurnale または jurnalis,terra jurnalis または diunalis)という大きさの名称が生じた。さらに、「一人が一日に耕せる〈journal〉」土地の面積という表現は、フランスの若干の地方ではいまなお存続している。〉(47頁)

 

●第3パラグラフ

 

《フランス語版》--パラグラフの構成がやや違っている

 

 〈労働生産物が商品形態を帯びるやいなや、労働生産物の謎めいた性格はいったいどこから生ずるか? 明らかにこの形態そのものからである。  人間労働の同等性という性格は、労働生産物の価値という形態を獲得する。継続時間による個別的労働の測定は、労働生産物の価値量という形態を獲得する。最後に、生産者たちの労働の社会的性格がそのなかで確認されるところの彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を獲得する。〉(47頁)

 


第34回「『資本論』を読む会」の案内

『 資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

                                                                                                                              

 

 東日本大震災から一カ月が経過したが、福島第一原子力発電所の事故は、深刻の度を加えこそすれ、いまだに核の暴走を完全に防ぐ見通しさえ立てる事が出来ないでいる。放射性物質はすでに地球全体に振りまかれてしまい、原発周辺の土地や海洋の放射能汚染の被害は甚大であるが、さらに深刻な事態を迎えないとは誰も断言できないありさまである。

 

無残にも崩壊した福島第一原発

 

 今回の原発事故は、直接には大地震と大津波という自然の猛威によるものであるが、しかしそれだけを理由にすることは出来ない。なぜなら、同じ第一原発でも5・6号機は同じように外部電源がすべて途絶えながらも、何とか非常用ディーゼル発電機が作動し原子炉を冷却する水の循環を回復することが出来たからである。また同じような地震と津波に晒された福島第二原発や東北電力の女川原発では何とか重大事故に至らずに済ますことが出来ているからである。

 

 福島第一原発は60~70年代にかけて建設され、国内ではもっとも古い部類に入るのだという。だから安全設計もずさんであったというわけである。しかしそんなことが果たして理由になるだろうか。その後に建設された原発がより安全な設計指針にも基づいたものなら、そうした新しい安全指針によって、古いものを見直すのが当然ではないのか。しかし東京電力はそれを怠ってきたのである。

 

 06年に新たに改訂された原発の耐震指針では津波対策も明記され、福島第一の中間報告を審査した09年の専門家会合では、今回のような大津波「貞観(ジョウガン)津波」(869年)を考慮するよう指摘されたが、結局、東電は「学術的な見解がまとまっていない」などと屁理屈を述べ、最後まで最終報告を出さなかったと指摘されている(3月31日『朝日』)。結局、東電は「安全とコストを天秤にかけた」のである(4月9日『サンケイ』)。要するに儲けのために、コストのかかる安全対策を怠ってきたわけである。これが今回の深刻な事態を招いた最大の理由であろう。

 

 人類がこれまで使いこなしてきた化石燃料に代わって、原子エネルギーによって高度な生産が必要とする膨大なエネルギー需要に応じることを可能にしたのは、資本主義的生産の偉大な成果の一つである。しかし原子力の技術自体は、まだまだ未成熟なものであり、膨大な放射性廃棄物を生み出す等の問題も抱えている。しかも今回の原発事故が示したように、危険極まりないこうした技術が、ただ利潤(儲け)だけを唯一の目的とも推進動機ともする資本主義的生産によって担われていることには、深刻な矛盾があるのである。

 

 新しい技術は、新しい社会によるあたしい人たちによってこそ、十分に管理し、運営することが出来るとマルクスは次のように述べている。

 

 〈われわれのあらゆる発明や進歩は、物質的な力に知的な生命をあたえる一方、人間の生命を愚鈍化して物質的な力に変える結果となるようにみえる。一方における現代の工業と科学、他方における現代の貧困と衰退のこの対立、現代の生産力と社会関係のこの対立は、明白な、圧倒的な、争う余地のない事実である。ある党派はこのことを嘆き悲しむかもしれない。また別の党派は、現代の衝突をとりのぞくために現代の技術をとりのぞきたいと望むかもしれない。あるいはまた、こうも顕著な工業の進歩を、それに劣らず顕著な政治の退歩で補う必要があると考える者もいるかもしれない。われわれとしては、これらすべての矛盾にたえず印を残しているすばしこい妖精の姿を見ちがえることはない。社会の新しい力をうまくはたらかせるには、新しい人問がこの力を支配しさえすればよいことを、われわれは知っている。--そして、そういう新しい人間とは労働者である。〉(全集12巻4頁)

 

 今回の事故は「人災」であると同時に、資本主義という生産のシステムそのものにも起因するものである。そうした問題を理解するためにも『資本論』の研究が是非とも必要である。貴方も、一緒に『資本論』を読んでみませんか。

 



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