目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第9回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第28回「『資本論』を読む会」の報告

第28回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎ようやく訪れた秋

 

  少し前まで厳しい残暑に悪態をついていたかと思ったら、急速な秋の深まりです。

 

  今回報告する第28回「『資本論』を読む会」が開催された9月19日は、まだまだ厳しい残暑があり、報告者は泉が丘駅で配布していたチラシ(ハンバーグの安売りの宣伝)を、捨てる場所もないまま持って図書館に急いだのですが、真夏を思わせる日差しに、そのチラシを頭の上にかざして、日傘の代わりとして利用して、これはなかなかグッドアイディアだと思ったほどなのですが、今日この頃のこの寒さはどうでしょうか。  季節の変わり目における体調の維持と管理には、お互い気をつけなければなりません。おかげでこの報告もずいぶんと遅くなってしまいました。しかし今回から入った〈C 一般的価値形態〉は、なかなか重要な部分でもあり、進んだのはわずかに5つのパラグラフだけでしたが、議論は充実したものとなりました。さっそく、その報告を行うことにしましょう。

 

◎何度も書き換えられた「一般的価値形態」

 

  「一般的価値形態」のところは、「単純な価値形態」のところと同じように、マルクスによって何度も推考され書き換えられたところです。初版本文と同付録との間ではその構成に大きな変化が見られ、「補足と改訂」でもさらなる考察が加えられ、現行版とほぼ同じ第二版へと繋がっています。少しその変化の目立った特徴を紹介しておきましょう。

 

 《初版本文と初版付録との相違》

 

  初版本文と初版付録との構成上の大きな違いは、初版本文の「第1章 商品と貨幣」の価値形態論と思われる部分には、「貨幣形態」が出て来ないことです。初版本文では「貨幣形態」の代わりに、「形態Ⅳ」が位置づけられています。この「形態Ⅳ」の理解もなかなか難しく、さまざまな議論もありますが、ここではその詳細には触れないでおきます(また論じる機会があるかもしれません)。その「形態Ⅳ」とは、次のようなものです。

 

 〈 だから、われわれは最後に次の形態を得ることになる。

 

 形態Ⅳ

 

 20エレのリンネル=1着の上着、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=x量の鉄、または=y量の小麦、または=等々

 1着の上着=20エレのリンネル、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=x量の鉄、または=y量の小麦、または=等々

  u量のコーヒー=20エレのリンネル、または=1着の上着、または=v量の茶、または=x量の鉄、または=y量の小麦、または=等々  〉(江夏訳56-7頁)

 

 つまり「形態Ⅳ」というのは、「形態II」をさまざまな商品ごとに並列させたものなのです。なぜこうしたものになるのかはここでは詳述できませんが、これを見ても、現行版とは大きく異なる展開になっていることが分かると思います。

 

 初版付録にはすでに現行版と同じように「III 一般的な価値形態」のあとに「Ⅳ 貨幣形態」があります。また初版付録では初版本文とは異なり、全体が小さな項目で分けられて、その展開が一目で分かるようになっているのは、他の部分とも同じですが、これは今回の部分においても、現行版の構成を考える上でも参考になるので、項目だけを紹介しておきましょう。最初に現行版の項目を紹介し、それが初版付録ではどうなっているのかを較べてみましょう。

 

 現行版の項目

 

 〈 C 一般的価値形態

 

 1 価値形態の変化した性格

 

 2 相対的価値形態と等価形態との発展関係

 

 3 一般的価値形態から貨幣形態への移行 〉

 

 初版付録の項目

 

 〈 III 一般的な価値形態

 

 (1) 相対的価値形態の変化した姿

 

 (2) 等価形態の変化した姿

 

 (3) 相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係

 

 (4) 相対的価値形態と等価形態との対極性の発展

 

 (5) 一般的価値形態から、貨幣形態への移行 〉(夏目訳)

 

 この初版付録の項目を見ると、現行版の展開がどのようになっているのかが一目瞭然となります。つまり現行版の〈1 価値形態の変化した性格〉は、〈相対的価値形態の変化した姿〉と〈等価形態の変化した姿〉という順序で考察されていることが分かります。実際には、〈相対的価値形態の変化した姿〉も、その質的な考察(【1】~【6】パラグラフ)と(この質的な考察における初版付録と現行版との一つの大きな相違は、『補足と改訂』のところでも紹介しますが、後者には前者にはない歴史的な考察が加わっていることです)量的な考察(【7】パラグラフ)とに分けられて、そのあと〈等価形態の変化した姿〉(【8】パラグラフ)が考察され、さらに〈価値形態の変化全体のまとめ〉(【9】パラグラフ)が加わっています。

 

 また現行版の〈2 相対的価値形態と等価形態との発展関係〉は、〈相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係〉(【1】【2】)と〈相対的価値形態と等価形態との対極性の発展〉(【3】~【6】)とが、この順序で考察されていることも分かります。

 

 〈一般的価値形態から貨幣形態への移行〉は現行版がより簡潔になっているとはいえ初版付録とには目立った相違はありません(初版付録にはここに若干の歴史的考察が加えられているが、現行版ではそれが無くなっている)。

 

 《『補足と改訂』における変化》

 

 マルクスは第二版の準備のために初版に手を入れた『補足と改訂』を書きましたが、そこには「一般的価値形態」の冒頭部分の同じところ(「§1.相対的価値形態の変化した姿」)を、主要なものとしては、[A]、[B]、[C]の三つの書き直した原稿(しかしそれぞれ長さは違います)が残されています(【付属資料】参照。但し今回は[B]をすべて収録すると余りにも資料が大きくなってしまうので、今回の問題に直接には関連しない部分は割愛しています)。一般的価値形態の最初のあたりでは、[A]はそれほど長いものではなく、書き出しなどは初版とそれほどの違いはありません。[B]は、初版本文や同付録、そして現行版にもない詳細な展開を見ることができます。その中には現行版の「第4節 商品の物神的性格とその秘密」に該当するような考察もみられ、そこには〈これは全部、商品にかんする最後の章(「章の最後」の誤訳?--引用者)に置かれるべきである〉というコメントがあったりします。一般的な相対的価値形態の質的考察における歴史的な考察の挿入は、[B]から行われたことが分かりますが、それがどういう位置づけのもとに挿入されるようになったのかは、[A]との比較検討で類推することができます。それは[A]で〈その一般的性格によってはじめて価値形態は価値概念に対応する〉云々というパラグラフがあるのですが、その部分を全体として詳述し膨らませたものが、[B]で出てくる歴史的な考察や内容的には第4節につながるような考察が行われている部分であることが分かるのです。つまり一般的価値形態においてはじめて価値形態は価値概念に対応したものになるのだということを価値形態の論理的・歴史的な発展をあとづけて説明しようとしたところがそうした詳細な考察に繋がって行ったことがよく分かるのです。そしてそうした考察を踏まえて書かれた[C]は、第二版(現行版)とほぼ同じものになっています。このように『補足と改訂』は、推考を重ねるなかでマルクスの問題意識がどのように変化して第二版として結実して行ったかをわれわれに教えてくれています。この『補足と改訂』はそれ自体として詳細な研究の対象になるべき文献だとつくづく今回、思いました。

 

 前書きはこれぐらいにして、本文の解読に移ることにしましょう。今回も各パラグラフをまず紹介し、それを文節ごとに解読していくようにします。

 

 

◎「一般的価値形態」の具体的な例示

 

 まず、次のような図示から始まっています。

 

 〈    C 一般的価値形態

   1着の上着       =

    10ポンドの茶     =

    40ポンドのコーヒー=

    1クォーターの小麦 =  20エレのリンネル

    2オンスの金      =

    1/2トンの鉄     =

    x量の商品A      =

    等々の商品      =    〉

 

 これだけを紹介しても、それまでの展開との関連がなかなかわかりづらいと思いますので、その一つ前の「B 全体的な、または展開された価値形態」の最後のパラグラフを振り返っておきましょう。それは次のようなものでした。

 

  〈じっさい、ある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換し、したがってまたリンネルの価値を一連の他の商品で表現するならば、必然的に他の多くの商品所持者もまた彼らの商品をリンネルと交換しなければならず、したがってまた彼らのいろいろな商品の価値を同じ第三の商品で、すなわちリンネルで表現しなければならない。――そこで、20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=etc. という列を逆にすれば、すなわち事実上すでにこの列に含まれている逆関係を言い表わしてみれば、次のような形態が与えられる。〉

 

 つまり「」の冒頭で、最初に提示された「全体的な、または展開された価値形態」の具体例というのは次のようなものでした。

 

 〈(20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=40ポンドのコーヒー または=1クォーターの小麦 または=2オンスの金 または=1/2トンの鉄 または=等々)〉

 

 これを図示しますと、次のようになります。

 

             = 1着の上着

             = 10ポンドの茶

             = 40ポンドのコーヒー

20エレのリンネル = 1クォーターの小麦

             = 2オンスの金

             = 1/2トンの鉄

             = 等々     

 

 そしてこれを左右ひっくり返したものが、今回、新たに得られた「一般的価値形態」になるというわけです。どうしてこうしたことが言いうるのかということは、すでに前回の報告のなかで紹介したと思います(第27回報告を参照)。

 

◎「一般的価値形態」の「相対的価値形態の変化した姿」の質的分析

 

 これは、すでに述べたように、【1】~【6】パラグラフで展開されています。だから今回私たちは【5】パラグラフまでで終わったのですが、その意味では、やや中途半端な終わり方であったと言えます。各パラグラフごとに見て行きましょう。

 

 【1】〈 (イ)いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に表わしている、というのは、ただ一つの商品で表わしているからであり、そして(2)統一的に表わしている、というのは、同じ商品で表わしているからである。 (ロ)諸商品の価値形態は単純で共通であり、したがって一般的である。〉

 

 (イ) まずこれは一般的価値形態の直接的な考察です。一般的価値形態の図示された具体例をみて、直接得られる表象からその特徴を並べているわけです。まず気づくのは、すべての商品が自らの価値を一つの商品、リンネルで表していることです。マルクスはそれを〈単純に表している〉としています。そして〈統一的に表している〉とも述べています。というのは同じ商品ですべての商品の価値を表しているからです。つまり同じ商品ですべての商品の価値が統一的に表現されているというわけです。

 

 (ロ) そして最後に、こうした特徴から、諸商品の価値形態は〈単純で〉〈共通で〉、したがって〈一般的〉だというのです。

 

 学習会では、どうして〈単純で共通〉なら、〈一般的〉と言えるのかという疑問が出されました。そこでこのパラグラフをよく見ると、最初は〈単純〉であることと〈統一的〉であることが指摘されながら、最後の文節では〈単純〉と〈共通〉が指摘され、だから〈一般的〉だとされています。そして(2)の記述を見ると、〈統一的〉である理由として、〈同じ商品で表しているから〉だと述べています。つまり〈共通〉だからだというわけです。しかしこのパラグラフの文章を詳細に分析しても、なかなか、何故、〈単純〉で〈統一的〉で、〈共通〉であれば、〈一般的〉と言いうるのかという納得のゆく理解が出てきません。実はこれはある意味では当然なのです。というのは【2】パラグラフ以降は、まさにその理由を説明しているともいえるのだからです。そこでこうした疑問を持ったまま、次のパラグラフに進むことにしましょう。

 

 【2】〈形態 I とIIはどちらも、ただ、一商品の価値をその商品自身の使用価値またはその商品体とは違ったものとして表現することしかできなかった。〉

 

 マルクスはまず〈形態 I〉(単純な価値形態)と〈形態II〉(全体的な、または展開された価値形態)の欠陥というか、不十分性を指摘しています。〈一商品の価値をその商品自身の使用価値またはその商品体とは違ったものとして表現することしかできなかった〉、というのですが、どうしてこうした欠陥が指摘される必要があるのでしょうか。

 

 私たちは第1章の商品の価値の分析で、諸商品は価値としてはすべて質的に同等で量的に異なるに過ぎないことを理解しました。しかしこれまで私たちが見てきた商品の価値形態をふり返ると、単純な価値形態(形態 I )では確かにリンネルの価値は上着に等しいものとして表されましたが、しかしそれ以外の商品との質的な同一性そのものは、この形態では表現されていません。また展開された価値形態(形態II)の場合はどうかというと、リンネルの価値はさまざまな商品の使用価値で表現されることによって、その価値の他の諸商品との同一性が表現されているように見えます。しかしリンネルの価値の表現は、他方でそれ以外の商品の価値の表現を排除してしまっていることに気づきます。つまりリンネルの価値は、表現された価値としては他の商品の価値の表現と同じものとはいえないのです。というのはリンネルの展開された価値形態は、リンネルを除く他のすべての商品で表現されるように、例えば上着の展開された価値形態も、上着を除く他のすべての商品で表現されるわけですから、この二つの表現形態は同じとはいえません。つまり展開された価値形態もリンネルの価値と上着の価値の質的同一性を表現しているとはいえないわけです。だからこれらは、やはり価値の概念からみれば、その表現形態としては不完全な、欠陥を持ったものと言わざるを得ないのです。以下のパラグラフはこうした問題を論じて行くわけです。

 

 【3】〈 (イ)第一の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄 などという価値等式を与えた。 (ロ)上着価値はリンネルに等しいもの、茶価値は鉄に等しいものというように表現されるのであるが、しかし、リンネルに等しいものと鉄に等しいものとは、すなわち上着や茶のこれらの価値表現は、リンネルと鉄とが違っているように違っている。 (ハ)この形態が実際にはっきりと現われるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折りの交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。〉

 

 (イ)、(ロ) 単純な価値形態(形態 I 、第一の形態)は、〈1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄〉などという、それぞれ異なる二つの商品の価値等式によって表されました。しかし上着の価値と茶の価値は、リンネルと鉄が異なるように違ったものとして表現されており、両者が価値として同じものとして表現されているとはとてもいえません。

 

 (ハ) これは当然であって、こうした形態が実際に現われてくるのは、ただ労働生産物が時折り偶然に交換されるような原始時代のものだからです。だから上着がリンネルと交換され、上着の価値がリンネルで表現されたとしても、それが茶の価値と比較しなければならない必要性もまたないわけです。茶が鉄と交換されるのは、上着がリンネルと交換されるのと同じように、まったく偶然の時折の出来事に過ぎず、それらの交換が互いに関連し合うこともまたないからです。

 

 【4】〈 (イ)第二の形態は第一の形態よりももっと完全に一商品の価値をその商品自身の使用価値から区別している。 (ロ)なぜならば、たとえば上着の価値は、いまではあらゆる可能な形態で、すなわちリンネルに等しいもの、鉄に等しいもの、茶に等しいもの、等々として、つまりただ上着に等しいものだけを除いて他のあらゆるものに等しいものとして、上着の現物形態に相対しているからである。 (ハ)他方、ここでは諸商品の共通な価値表現はすべて直接に排除されている。なぜならば、ここではそれぞれの商品の価値表現のなかでは他のすべての商品はただ等価物の形態で現われるだけだからである。 (ニ)展開された価値形態がはじめて実際に現われるのは、ある労働生産物、たとえば家畜がもはや例外的にではなくすでに慣習的にいろいろな他の商品と交換されるようになったときのことである。〉

 

 (イ)、(ロ) 単純な価値形態(第一の形態)に較べると展開された価値形態(第二の形態)は商品の価値をより普遍的に表現しているように思えます。というのは、例えば上着の価値は、いまでは上着を除くすべての商品によって表現されているからです。

 

 (ハ) しかし、やはりこの場合も諸商品の共通な価値表現というものはすべて直接に排除されています。というのは、上着の価値は上着を除く他のすべての商品で表されるのと同じように、茶の価値も茶を除く他のすべての商品で表されるので、この両者の価値表現は同じものとはいえないからです。だから上着と茶は共通の価値表現を持っているとはいえませんし、それはすべての商品の価値の表現についても言いうることなのです。

 

 (ニ) こうした展開された価値形態がはじめて実際に現われるのは、ある労働生産物、例えは家畜がほぼ慣習的に他のさまざまな商品と交換されるようになったときですが、しかしそれは家畜と交換される他のさまざまな商品が、いまだ必ずしも相互に商品として対峙し合うとは限らない状態のものです。だから上着の展開された価値形態が、それ以外の価値形態を排除していても大きな困難が生じなかったともいえます。

 

 しかし商品交換の発展は、やがては家畜と交換される諸商品相互の間においても、それらを互いに商品として対峙させるようになることは明らかです。そうなると、それらの商品は互いの価値を共通な等価物である家畜で表現しあうことによって、互いの価値を比較し合うことになりますが、それがすなわち一般的な価値形態なわけです。

 

 【5】〈 (イ)新たに得られた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一つの同じ商品種類、たとえばリンネルで表現し、こうして、すべての商品の価値を、その商品とリンネルとの同等性によって表わす。リンネルと等しいものとして、どの商品の価値も、いまではその商品自身の使用価値から区別されるだけではなく、いっさいの使用価値から区別され、まさにこのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして表現されるのである。 (ロ)それだからこそ、この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させるのであり、言いかえれば諸商品を互いに交換価値として現われさせるのである。〉

 

 (イ) 一般的価値形態は、すべての商品が、その価値をただ一つの共通の商品リンネルで表現しています。リンネルだけが商品世界から分離されて、そうした価値表現の材料として役立っているわけです。リンネルは、それ以外のすべての商品の、よって商品世界の価値を表しているといえます。こうしてどの商品も自分の価値を自分自身の使用価値から区別して表現するだけではなくて、一切の使用価値からも区別されています。例えば上着の価値はリンネルとして表現されていますが、同じように茶の価値もやはりリンネルとして表現されており、あるいは鉄の価値も、金の価値も、やはり同じリンネルとして表現されているわけですから、それらの価値はすべて同じであることが、この価値形態によって初めて表現されているわけです。つまり上着の価値は、単に上着の使用価値から区別されるだけではなくて、他のすべての使用価値からも区別されているからこそ、その価値は、他の諸商品の価値と同じものとして、共通なものとして表現されているといえるわけです。

 

 (ロ) こうして、この形態がはじめて現実の諸商品を互いに価値として関係させるのであり、質的に同一で量的に比較可能な形態に置くのです。言い換えれば、諸商品を互いに交換価値として、すなわち価値の現象形態として、価値が目に見える形で現われているものとして関係させるのです。

 

 ところで【1】パラグラフで提起された疑問は解決したでしょうか。実は最初にも述べましたように、「相対的価値形態の変化した姿」の質的分析は【6】パラグラフまで続くので、本来なら、【6】パラグラフが終わって問題の解決を論じるべきなのですが、しかしそれでは次回まで待たねばなりません。だからここでとりあえず一つの結論のようなものを述べておきましょう。

 

 すでに述べましたように、「単純な価値形態」や「展開された価値形態」では、「諸商品は価値としては質的に同じで量的に比較可能なもの」という「価値の概念」にあった表現形態になっていないことが分かりました。そして翻って一般的価値形態を見ると、上着の価値はリンネルで表現されているだけではなく、茶やコーヒーや鉄、等々の諸商品もリンネルで表現されています。だから上着の価値と茶やコーヒーや鉄等々の諸商品の価値の表現は、まさに質的に同じで量的に比較可能なものとして表現されていることが分かるのです。このように一般的価値形態によって、商品の価値はその概念に相応しい表現形態を得たといいるわけです。今では上着の価値はリンネルとして表されることによって、茶やコーヒーや鉄に対しても交換価値として現われており、よって「一般的に」表されているわけです。〈価値形態は、諸商品が、無差別で同質な人間労働の単なる膠状物として、すなわち、同じ労働実体の物的な表現として、相互に現われあっている。……なぜならば、諸商品のどれもが、同じ労働の具象物として、すなわち、リンネルに含まれている労働の具象物として、または、労働の同じ具象物として、すなわちリンネルとして、表現されているからである。こうして、諸商品は質的に等置されているわけである〉(初版付録、江夏訳901頁)。価値形態が「一般的」であるというのは、こうした意味だと思います。

 

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【付属資料】

 

●【表題と式】

 

《初版本文》

 

 〈III 相対的価値の、第三形態・あるいは第二形態を倒置しあるいは逆の関係に置いた形態

  1着の上着     =20エレのリンネル

  u量のコーヒー   =20エレのリンネル

  v量の茶        =20エレのリンネル

  x量の鉄        =20エレのリンネル

  y量の小麦      =20エレのリンネル

  その他        =20エレのリンネル 〉(46-7頁)

 

《初版付録》    

 

 〈 III 一般的な価値形態

   1着の上着       =

    10ポンドの茶     =

    40ポンドのコーヒー =

    1クォーターの小麦  =

    2オンスの金      =   20エレのリンネル

    1/2トンの鉄      =

    x量の商品A       =

    等々の商品        =       〉

 

《補足と改訂》

 

 〈一般的価値形態〉の表題だけで、等式はない。

 

《フランス語版》

 

 〈C 一般的価値形態

   1着の上衣      =

    10ポンドの茶    =

    40ポンドのコーヒー

    2オンスの金     =   20メートルのリンネル

    1/2トンの鉄    =

    x量の商品A     =

    その他         = 〉(江夏他訳36頁)

 

●【1の表題】

 

《初版本文》--なし

 

《初版付録》

 

 〈(一) 相対的価値形態の変化した姿〉

 

《補足と改訂》

 

 〈§1.相対的価値形態の変化した姿〉

 

《フランス語版》

 

 〈(A)価値形態の性格の変化〉(36頁)

 

●【1】パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈商品の相対的価値表現は、ここでは、それの最初の形態である 1着の上着=20エレのリンネル に戻っている。とはいえ、この単純な等式はいまではさらに発展している。この等式はもともと次のことだけを含意している。すなわち、上着価値が、別の一商品で表現されることによって、上着という使用価値あるいは上着体そのものからは区別され独立している形態を得ている、ということ。いまではこの同じ形態は、上着を、すべての他商品にたいしても価値として表わしており、したがって、上着の普遍妥当的な価値形態なのである。上着だけではなく、コーヒーや鉄や小麦、要するにすべての他商品が、いまでは自分たちの価値を、リンネルという素材で表現している。このように、すべての商品が、人間労働の同じ具象物として、相互に自己を表示している。すべての商品は量的に差異があるにすぎ、したがって、一着の上着、u量のコーヒー、x量の鉄等々、すなわちこれらのさまざまな物のさまざまな量は、20エレのリンネルにイコールであり、対象化された人間労働の同じ量に等しい。こうして、すべての商品は、リンネルという素材での自分たちの共同の価値表現に依拠して、交換価値として自分たち自身の使用価値から区別され、そして同時に価値量として互いに関係しあい、質的に等置されて量的に比較される。この統一的な相対的価値表現において初めて、これらの商品のすべてが互いに価値として現われ、したがって、これらの商品の価値は初めて、それにふさわしい、交換価値としての現象形態を、得ることになる。一商品の価値をすべての他商品の広がりのなかで表わすところの、相対的価値の発展した形態(形態II)と区別して、われわれは、この統一的な価値表現を、一般的な相対的価値形態と呼ぼう。〉(47-8頁)

 

《初版付録》

 

 〈相対的価値形態は、いまでは、全く変化した姿をもっている。すべての商品は、自分たちの価値を、(1)単純に、すなわち唯一の他の商品体で、(2)統一的に、すなわち同じ他の商品体で、表現している。それらの商品の価値形態は、単純であり、また、共通的すなわち一般的である。すべての雑多な商品体にたいして、いまではリンネルが、それらの商品体の共通で一般的な価値姿態として認められている。一商品の価値形態、すなわち、リンネルにおいてのその商品の価値の表現は、いまでは、その商品を、価値として使用対象としてのその商品自身の存在から、すなわち、その商品自身の現物形態から区別するばかりでなく、同時に、その商品を、価値として他のすべての商品にその商品と同じものであるすべての商品に、関係させている。だから、その商品は、こういった価値形態において、一般的社会的形態をもっている。  価値形態は、この形態の一般的な性格によって、初めて、価値概念にかなったものになる。価値形態は、諸商品が、無差別で同質な人間労働の単なる膠状物として、すなわち、同じ労働実体の物的な表現として、相互に現われあっている、というような形態でなければならなかった。このことがいまでは達成されている。なぜならば、諸商品のどれもが、同じ労働の具象物として、すなわち、リンネルに含まれている労働の具象物として、または、労働の同じ具象物として、すなわちリンネルとして、表現されているからである。こうして、諸商品は質的に等置されているわけである。〉(初版付録、江夏訳900-901頁)〉

 

《補足と改訂》

 

 〈            [A]

 一般的価値形態の一要素をなしている1着の上着=20エレのリンネル、1クオーターの小麦=20エレのリンネル等といった、個々のすべての価値等式を考察すれば、相対的価値表現の最初の姿、すなわち、簡単な相対的価値形態を見いだす。たとえば、上着の価値は、ただ上着とは異なった種類の商品の使用価値において、すなわち、リンネルにおいてのみ表現される。しかし、コーヒ一、茶、小麦、金、鉄、ようするに他のすべての商品種類の価値は、いまや同じようにリンネルで表現されている。簡単な相対的価値形態は、すべての商品の価値等式の関連を通して新しい性格を獲得する。価値表現という行為はいまや、個々の商品の私的な行ないではなくなる。いまや、価値表現は商品世界の共同の、社会的行為の結果として生ずる。

  最初の価値形態では、一商品Aに価値表現の材料を提供する商品Bは、何であってもよいがとにかくなんらかの、商品Aとは異なる商品種類である。それとは逆に、新たに見いだされた価値形態は、一定の商品種類、たとえばリンネルだけが、すべての他の商品にとって価値表現のために役立つ、ということから生ずる。同じ等価物におけるこの表現を通して、さまざまに異なった商品の価値は、簡単であり、しかも共同的であり、統一的な形態--一般的相対的形態をうけとる。〉(小黒正夫訳下11頁)

 

 〈            [B]

  一般的価値形態の要素をなしている1着の上着=2 0エレのリンネル、1クオターの小麦=20エレのリンネル等といった個々の価値等式を考察すれば、相対的価値表現の最初の姿、すなわち、簡単な価値形態を見いだす。たとえば、上着の価値は、ただ上着とは異なった種類の商品の使用価値において、すなわち、リンネルにおいてのみ表現される。しかし、コーヒ一、茶、小麦、鉄、ようするに他のすべての商品種類の価値は、いまや同じようにリンネルで表現されている。価値等式のこの関連は価値形態に一つの全く新しい性格を刻印する。

  最初の価値形態では、商品Aがそれで価値を表現する商品Bは、何でもよいが、なんらかの、Aとは異なった商品種類である。それとは逆に、新たに見いだされた価値形態は、唯一の商品種類、たとえばリンネルだけが価値表現の材料に役立つということから生ずる。同じ等価物において表現されるということによって、さまざまに異なった商品の価値が一つの共通の形態を、簡単でしかも統一的な、したがって一般的な形態を受け取る。〉(同12頁)

 

 〈           [C]

  a )商品はそれぞれの価値を、いまや1)簡単に表わしている、なぜなら、ただ一つの商品種類で表わしているからであり、かつ2)統一的に表わしている、なぜなら、同じ商品種類で表わしているからである。諸商品の価値形態は、簡単かつ共同的であり、それゆえ一般的である。〉(同21頁)

 

《フランス語版》

 

 〈諸商品はいまではその価値を、(1)ただ一つの商品種類のうちに表現しているから、単純なやり方で表現しているし、(2)同じ商品種類のうちに表現しているから、統一的に表現しているのである。それら商品の価値形態は単純で共通であり、したがって、一般的である。〉(36頁)

 

 

●【2】パラグラフ

 

《補足と改訂》

 

 〈         [A]

 その一般的な性格によってはじめて価値形態は価値概念に対応する。最初の簡単な価値形態は、ただ、一商品の価値をそれ自身の身体、すなわち、それ自身の使用対象性と異なるものにおいてのみ表現したが、一般的相対的価値形態は、すべての他の商品の使用価値とは異なるものにおいて、唯一の例外である等価物商品で、価値を表現する。いまや、たとえば上着は、リンネルと等しい物として、自分自身の上着体とは異なっており、同じように、鉄、金、小麦等とも異なっている。すべての他の商品がその価値を、いまや同じように、リンネルという制服で見せていることによって、上着は価値として現われると同時に、他のすべての商品にたいして交換価値という形態をもつのである。第二の、または展開された価値形態において得ようと努力したが得られなかったもの、すなわち、相対的価値形態の一般的社会的性格が、達成された。〉

 

 〈         [C]

  b)形態 I およびIIは、どちらも、一商品の価値を、その商品自身の使用価値または身体とは区別されたものとして表現したにすぎなかった。〉(前掲21頁)

 

《フランス語版》(第2パラグラフと第3パラグラフとには改行がなく、一つのパラグラフになっている)

 

 〈形態 I と形態IIは、一商品の価値をうまく表現しているといっても、それ自身の使用価値すなわちそれ自身の物体から区別されたあるものとしてのことでしかない。第一形態は、 1着の上衣=20メートルのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄 等というような等式を提供する。上衣の価値はリンネルに等しいあるもの、茶の価値は鉄に等しいあるもの、等々として表現されているが、上衣や茶のこうした価値表現は、リンネルと鉄がちがうのと同じく、互いにちがっている。この形態は、実地の上では、労働生産物が偶然な孤立的交換によってのみ商品に転化された原始時代にしか、明瞭に現われてこない。〉(38-9頁)

 

●【3】パラグラフ

 

《補足と改訂》

 

 〈               [A]

 その一般的な性格によってはじめて価値形態は価値概念に対応する。最初の簡単な価値形態は、ただ、一商品の価値をそれ自身の身体、すなわち、それ自身の使用対象性と異なるものにおいてのみ表現したが、一般的相対的価値形態は、すべての他の商品の使用価値とは異なるものにおいて、唯一の例外である等価物商品で、価値を表現する。いまや、たとえば上着は、リンネルと等しい物として、自分自身の上着体とは異なっており、同じように、鉄、金、小麦等とも異なっている。すべての他の商品がその価値を、いまや同じように、リンネルという制服で見せていることによって、上着は価値として現われると同時に、他のすべての商品にたいして交換価値という形態をもつのである。第二の、または展開された価値形態において得ようと努力したが得られなかったもの、すなわち、相対的価値形態の一般的社会的性格が、達成された。〉(同11-12頁)

 

 〈              [B]

 最初の価値形態では、商品Aがそれで価値を表現する商品Bは、何でもよいが、なんらかの、Aとは異なった商品種類である。それとは逆に、新たに見いだされた価値形態は、唯一の商品種類、たとえばリンネルだけが価値表現の材料に役立つということから生ずる。同じ等価物において表現されるということによって、さまざまに異なった商品の価値が一つの共通の形態を、簡単でしかも統一的な、したがって一般的な形態を受け取る。

  最初の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄、などのような価値等式を示した。上着商品の価値はリンネルに等しいものとして、ただ、それ自身の使用価値、すなわち上着体から区別されるだけであり、おなじように、茶商品価値は鉄と等しいものとしてそれ自身の使用価値、すなわち茶から区別されるだけである、等。しかし、上着価値と茶価値、すなわち、リンネルに等しいものと鉄に等しいものとは、使用価値リンネルと鉄とが異なっているように、異なっている。したがって、このような個々の価値表現は上着商品と茶商品を、一般的にさまざまな商品を、互いに価値として、すなわち同じ単位の表現として関係させはしない。この形態が実際に現われるのは、明かに、ただ、労働生産物が偶然的なときおり行われる交換によって商品に転化されるそもそもの始まりにおいてだけである。〉(同12-13頁)

 

 〈             [C]

 第一の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄などのような価値等式を示した。上着価値はリンネルに等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というように表現されるが、リンネルに等しいもの、および鉄に等しいものという上着および茶のこの価値表現は、リンネルと鉄が異なっているように、互いに異なっている。この形態が実際に現われるのは、明らかに、ただ、労働生産物が偶然的な散発的に行われる交換によって商品に転化されるそもそもの始まりにおいてだけである。〉(同21頁)

 

《フランス語版》(第2パラグラフと一緒に表示)

 

●【4】パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈形態IIにおいて、すなわち20エレのリンネル=1着の上着、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=x量の鉄、等々 において、リンネルは自分の相対的価値表現を発展させているのであるが、この形態IIでは、リンネルは、一つの特殊的な等価物としての個々の商品である上着やコーヒー等々に関係し、そしてまた、自分の特殊的なもろもろの等価形態の広がりとしての全商品をひっくるめたものに関係している。リンネルにたいしては、どの個々の商品種類もまだ、単一の等価物においてと同じに、等価物そのものとしては認められていないのであって、特殊的な等価物として認められているにすぎず、ここでは一方の特殊的な等価物が他方のそれを排除している。これに反して、逆の関係に置かれた第二形態であり、したがって第二形態のうちに含まれているところの形態IIIにあっては、リンネルは、すべての他商品にとっての等価物という種属形態として現われている。このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな類や種や亜種や科等々を形成しているライオンや虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそれらのほかに、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在しているかのようなものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をことごとく包括しているところの、このような単一なるものは、動物等々のように、ある普遍的なものである。だから、リンネルが、別の一商品が価値の現象形態としてのリンネルに関係したことによって、単一の等価物になったのと同様に、リンネルは、すべての商品に共通な、価値の現象形態として、一般的な等価物一般的な価値体抽象的な人間的な労働の一般的な具象物に、なるわけである。だから、リンネルのうちに具象化された特殊的な労働が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているわけである。〉(48-9頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈              [B]

 1着の上着=20エレのリンネルまたは=1 0ポンドの茶または=1/2トンの鉄または=1クオーターの小麦等といった展開された価値形態は、上着商品の価値を上着体に対してリンネルと等しいものとして対置するばかりではなく、交互に、茶と等しいもの、鉄と等しいもの、小麦と等しいもの等としても対置する。依然として、上着商品の価値は、最初の価値形態よりはより完全にではあるにせよ、ただ、それ自身の使用価値と対立したものとしてのみ表現されているだけである。他面、いまや、上着商品の価値それ自身がさまざまに異なった形態で表現されているだけではない。その表現は他のすべての商品をそれ自身の価値の表現から、したがってまた、それらと上着商品との共同の価値表現からも、明確に排除する。茶の価値は茶と等しいものとして、鉄の価値は鉄と等しいものとしては表現されることはできない、等。この展開された価値形態が、はじめて実際に現れるのは、ある労働生産物、たとえば家畜等が、もはや例外的や偶然であったりせずに慣習的に、他のさまざまな商品と交換されるときであり、したがって、その価値性格がすでに大いに固定しているときである。

  簡単な価値形態も展開された価値形態も、ただ、現実の価値形態の準備的発展段階でしかない。一商品の価値を表現するという第一歩は、必然的に価値を、それ自身の使用価値、すなわち、それ自身の商品体とは異なった物として表現せざるをえなかった。しかしながら、それはやはり最初の一歩でしかなかった。一商品の価値がはじめて現実的に表現されるのは、価値がそれ自身の使用価値とは異なった物として表現されるだけではなく、すべての他の商品との共通性としても表現されるときである。したがって、共同の価値形態においてのみ、諸商品は互いに価値として現象することができ、すなわち、お互いのために交換価値として自分を見せあうことができる。商品世界は、すべての商品がその価値を一つのそして同じ、唯一の商品種類で表現することによって、統一的な一般的相対的価値形態を護得する。そのことによって、すべての商品は排除された商品を自分たちの共通の等価物商品、すなわち、一般的等価物にする。

  1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄等といった価値表現においては、価値形態の生産<Production>は、いわば、個々の商品の、すなわち、その価値をリンネルと等しいものとしてみずからの上着体から区別する上着商品の、またその価値を鉄と等しいものとしてみずからの茶体から区別する茶商品の、私事として現象する。1着の上着=20エレのリンネルまたは=1 0ポンドの茶または=1/2トンの鉄または=1クオーターの小麦または=等、あるいは、1クオーターの小麦=1着の上着または=20エレのリンネルまたは=等、といった全体的価値形態においても、上着や小麦、ようするに一連のそれぞれの商品は、ここでは返って見知らぬ価値表現のために単なる受動的な材料を提供しているにすぎない他の商品の関与なしに、自分の価値表現を得る。それに対して、一商品の一般的相対的価値形態は商品世界の共同事業としてのみ成立し、そして、元々から社会的刻印をもっている。諸商品はその価値性格においては互いに異なった自然、物ではなくて、同じ社会的物であるということは、すでに、一般的価値形態の形成のなかで表現されている。〉(同13-14頁)

 

 〈              [C]

 b)第二の形態は、第一の形態よりも完全に、一商品、たとえば上着の価値の上着自身の使用価値との区別を、表現している。というのは、上着の価値は、いまや、リンネルに等しいもの、鉄に等しいもの、茶に等しいもの、等々として、つまり、上着に等しいものでないだけで他のあらゆるものに等しいものとして、あらゆる可能な姿において、上着自身の自然形態に相対するからである。他面、この形態は諸商品の共通な価値表現を、すべて、まったく不可能にする。というのは、それぞれの商品の価値表現において、他のあらゆる商品は、それの等価物であり、したがって、自分自身の価値表現から排除されているからである。この展開された価値形態が、はじめて実際に現れるのは、ある労働生産物、たとえば家畜が、もはや例外的ではなくすでに慣習的に、他のさまざまな商品と交換されるときである。  それにたいして、一般的相対的価値表現においては、上着、コーヒ一、鉄といったそれぞれすべての商品が、一つの同じ自分の自然形態とは異なった価値形態を、たとえばリンネルという形態をもつ。〉(同21-22頁)

 

《フランス語版》

 

 〈第二形態は、たとえば上衣という一商品の価値と、それ自身の使用価値とのあいだにある差異を、第一形態よりも完全に表現している。実際のところ、上衣の価値はここでは、その自然形態に対立してあらゆる可能な姿をとる。すなわち、それは上衣を除いてリンネルや茶や鉄やすぺてのものに類似している。他方、この形態は、諸商品に共通などんな価値表現をも不可能にする。というのは、なんらかの一商品の価値表現にあっては、他のすべての商品は、この商品の等価物として現われ、したがって、自分たち自身の価値を表現する能力がないからである。ある労働生産物、たとえば家畜がもはや例外的にではなく、すでに習慣的に、他の種々の商品と交換されるようになるやいなや、この発展した価値形態が現実に出現するのである。〉(39頁)

 

●【5】パラグラフ

 

《補足と改訂》

 

 〈             [B]

  ところで、より立ち入って見てみると、いまや、上着、鉄、金、ようするにリンネル自身を例外としてすべての商品の価値は、一つの同じ形態、すなわち、リンネルと等しいものとして、表現される。

  この制服はすべての商品の価値を、他のすべての使用価値の自然形態から区別するのと同じように、それら自身の使用価値から区別し、それゆえ、それとすべての商品に共通なもの、すなわち価値存在の現象形態である。このことは商品世界においては普通のことである、それゆえ、しかし、一般的に通用する価値表現は、すべての商品種類がその価値をリンネルで表現する、すなわち、自らを等価物としてのリンネルに関連させる簡単な価値等式の列からのみ発生する。それゆえ、すべての商品は、リンネルを直接自分たちと交換可能なものとして現わすことによってのみ、その価値を交換価値として表現する。そのようにして、リンネルすなわち等価物の自然形態が商品世界の一般的価値姿態に、社会的な価値の化身になる。(以下、関連する展開がながながと続くが、長すぎてしまうので割愛します)〉(前掲14-15頁)

 

 〈             [C]

    b)新しく得られた形態は、商品世界の諸価値を、商品世界から排除された一つの同じ商品種類、たとえばリンネルで表現し、こうして、すべての商品価値を、それらのリンネルとの同等性によって表わす。リンネルに等しいものとして、どの商品の価値も、いまや、その商品自身の使用価値から区別されているだけでなく、それ以外のあらゆる使用価値から区別されており、まさに同時にその商品とすべての商品とに共通なものとして、表現されている。だから、この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関連させ、言い換えれば、諸商品を互いに交換価値として現象させるのである。〉(同22頁)

 

《フランス語版》

 

 〈これと反対に、相対的価値の一般的表現にあっては、上衣、コーヒー、鉄等のようなそれぞれの商品が、たとえばその自然形態とは異なるリンネル形態という、同一の価値形態をもっている。リンネルとのこの類似によって、各商品の価値はいまや、たんにそれ自身の使用価値から区別されるだけでなく、さらになお、他のすべての使用価値からも区別されるのであって、それがために、すべての商品の共通で無差別な性格として表わされる。この形態は、諸商品を交換価値として相互に向かいあって出現させることによって、これらの諸商品を価値として相互に関連させあう、最初のものなのだ。〉(39頁)

 


第29回「『資本論』を読む会」の案内

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

                                                                                                        

 

 尖閣諸島海域での中国漁船と海上保安庁の巡視船との衝突をめぐり、中国船長の逮捕と釈放という菅政権の稚拙な外交政策とも相まって、この領域の領有権を巡る争いが、深刻化しています。

 

 

 菅首相は1日の所信表明演説でも、「尖閣諸島は歴史的にも国際法的にも我が国固有の領土」だと主張。与野党を問わず、共産党も含めてこうした政府の立場に賛同しています。マスコミも菅政権の「弱腰外交」などと無責任な非難を強め、中国への敵愾心や民族主義や排外主義を煽っています。

 

 

 この問題に労働者はどのような姿勢で接近し、対応すべきでしょうか。

 

 それは「労働者階級には領土問題などは存在しない」という原則です。

 

 そもそも地球上の土地や海洋が、歴史的に、さまざまな国家に分割・領有されてきたのは、これまでの社会が私的所有を基礎にした社会だからなのです。今日のそれぞれの国の中でも、土地は多くの個人や法人、あるいは国家によって分割・所有され、「それはAの所有する土地だ」、「いやそうではないBの所有地だ」等々と争われています。土地の私的所有とその領有を巡る争いは、まさに古代から今日までそれぞれの歴史的な条件のなかに存在し、今日では帝国主義的な覇権のもとに資源の争奪をめぐる国家間の争いとしても現われているのです。

 

 私的所有が歴史的に発生し発展してきたのは、社会を構成する個々人が自分たちの社会的な物質代謝を、生産力の発展の過程で、その発展が不十分であるが故に、自覚的に直接コントロールすることができなくなった一結果です。だから本来は自分たち自身の関係である社会的な関係が、彼らから疎外された経済的な生産諸関係とか政治的・法的諸関係として立ち現れ、それらが特定の個人や集団によって壟断されることによって、個々人は私的な存在に貶められ、自分たち自身の関係そのものによって反対に支配・統制されるという転倒した現象が生じているのです。つまり生産力の発展がいまだ不十分なために、歴史的に制約された発展段階にあったがためなのです。そして現代の資本主義的生産様式は、高度な生産諸力を飛躍的に発展させて、こうした歴史的な階級社会の最後の発展段階でもあるのです。

 

 だから資本主義的生産様式は、すでにそれ自体のなかに将来の社会の芽を生み出してもいます。労働者階級は、資本主義的外皮を打ち破り、こうしたすでに潜在的に存在する将来の社会的生産様式を資本主義の胎内から解放して、それを築き発展させてゆくべき歴史的使命を担っています。私的所有にもとづく最後の生産様式を、私的所有のない新しい生産様式へと飛躍させなければならないのです。

 

 それは労働の真の意味での解放でもあります。資本主義的生産様式のもとで高度に発展した社会的生産の物質的・技術的土台の上に直接に労働する諸個人が互いの関係を自覚的に取り結び、彼らの社会的な関係を彼ら自身のものとして取り戻すのです。それは同時に社会的な物質代謝を彼ら自身が意識的に統制し、自然と人間との関係を合理的にコントロールするということでもあります。だからそれはもはや人間の社会が、その疎外形態に過ぎない生産諸関係(経済的諸関係)としても政治的諸関係としても現われなくなることでもあるのです。

 

 マルクスは将来の社会から見た今日の土地の私有について、次のように述べています。

 

 「より高度な経済的社会構成体(将来の共産主義社会--引用者)の立場から見れば、地球にたいする個々人の私有は、ちょうど一人の人間のもう一人の人間にたいする私有のように(奴隷制のこと--引用者)、ばかげたものとして現われるであろう。一つの社会全体でさえも、一つの国でさえも、じつにすべての同時代の社会をいっしょにしたものでさえも、土地の所有者ではないのである(これは地球上のすべての海洋についても然りです--引用者)。それらはただ土地の占有者であり土地の用益者であるだけであって、それらは、よき家父〔boni patres familias〕として、土地を改良して次の世代に伝えなければならないのである。」(『資本論』第3部、全集25巻b995頁)

 

 だから地球上のすべての土地や海洋やその資源は、人類の共有の財産であって、人類はそこから、自身の社会的な物質代謝を意識的且つ合理的に統制して、有用なものを取り出し、彼らの生活を、よってまた彼らの社会を維持し発展させて行かなければなりません。そしてそれを何世代にもわたって後世に伝えて行かなければならないのです。だから将来の新しい社会の形成をめざす労働者階級には、そもそも地球上の一部を切り取り私有するような領土問題など存在しないのです。

 

 共産党のように民主党や自民党などと一緒に尖閣諸島の「日本の領有権は、歴史的にも国際的にも明確な根拠がある」(笠井議員)等々と叫ぶことは、この党がすでに共産主義の立場や労働者階級の立場を裏切っていることを暴露しているのです。

 

  『資本論』は、このように領有権問題における労働者階級の原則的な立場についても、明確にその理論的裏付けを与えています。是非、貴方も一緒に『資本論』を読んでみませんか。

 


第29回「『資本論』を読む会」の報告

第29回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎堺まつり

 

 第29回「『資本論』を読む会」を開催した10月17日(日)は、あいにく「堺まつり」と重なってしまい、ピースさんはどうしてもパレードの参加団体の顧問として「まつり」に参加する必要があり、「読む会」を欠席しました。

 

 だから「読む会」はいつもにも増して寂しい開催となりました。しかもいつもレジュメとレポートを担当してくれるピースさんがいないので、大変困ったのですが、何とか「一般的価値形態」の「1 価値形態の変化した性格」の第6パラグラフから始めて、「1」の最後(9パラグラフ)まで終えることができました。さっそくその報告を紹介しましょう。

 

◎一般的相対的価値形態の変化した姿の質的考察の「まとめ」

 

 今回は6パラグラフから始めたのですが、それまでとの繋がりが分かるように、前回(第28回)の報告で紹介した全体の構成を少し手を入れて採録しておきましょう。それは次のようなものでした。

 

 〈1 価値形態の変化した性格〉は、〈相対的価値形態の変化した姿〉と〈等価形態の変化した姿〉という順序で考察されています。〈相対的価値形態の変化した姿〉は、その質的な考察(【1】~【6】パラグラフ)と量的な考察(【7】パラグラフ)とに分けられて、そのあと〈等価形態の変化した姿〉(【8】パラグラフ)が考察され、さらに〈価値形態の変化全体のまとめ〉(【9】パラグラフ)が加わっています。

 

 つまり6パラグラフは〈相対的価値形態の変化した姿〉の〈質的な考察〉の最後のパラグラフであり、いわばその「まとめ」ともいうべき位置にあることが分かります。

 

 それではさっそく本文を詳細に検討して行くことにしましょう。これまでと同じように、まず本文を紹介し、各文節ごとに(イ)、(ロ)、(ハ)・・・・と符号を打って、解読していくことにします。

 

【6】パラグラフ

 

 〈 (イ)前のほうの二つの形態は、商品の価値を、ただ一つの異種の商品によってであれ、その商品とは別の一連の多数の商品によってであれ、一商品ごとに表現する。 (ロ)どちらの場合にも、自分に一つの価値形態を与えることは、いわば個別商品の私事であって、個別商品は他の諸商品の助力なしにこれをなしとげるのである。 (ハ)他の諸商品は、その商品にたいして、等価物という単に受動的な役割を演ずる。 (ニ)これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。 (ホ)一つの商品が一般的価値表現を得るのは、同時に他のすべての商品が自分たちの価値を同じ等価物で表現するからにほかならない。 (ヘ)そして、新たに現われるどの商品種類もこれにならわなければならない。 (ト)こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」であるからこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現われてくるのである。〉

 

 (イ) 前の二つの形態(単純な価値形態と展開された価値形態)の場合は、ある商品の価値を、ただ一つの異種の商品によってであれ(単純な価値形態の場合)、その商品とは別の一連の多くの商品によってであれ(展開された価値形態の場合)、あくまでも、例えばリンネルならリンネルの価値という一つの商品ごとに表現するものです。

 

 (ロ) だから、どちらの場合にも、リンネルが自分に一つの価値形態を与えることは、リンネルの私事であって、リンネルは他の商品の助力なしにこれをやることになります。

 

 (ハ) といっても勿論、他の商品からはその等価物としての助力は得なければならないわけですが、しかしこれらの価値形態で能動的なのはリンネルだけであり、しかもそれはあくまでもリンネルの私事としての能動性であり、単純な価値形態であれ、展開された価値形態であれ、等価物として助力させられる商品はただ受動的にそれに協力するだけです。

 

 (ニ)、(ホ)、(ヘ) これに反して、一般的価値形態では、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立します。つまり能動的なのは上着だけではなくて、リンネルで価値を表現するすべての商品、茶やコーヒーや鉄等々も上着と同じように能動的に、しかも共同して彼らの価値をリンネルで表現しているのであり、だからこの価値形態は商品世界の共同の仕事なのです。こうして初めてある一つの商品、例えば上着は一般的価値形態を得るのです。つまりこの形態で上着の価値は茶とも、コーヒーとも、鉄等々とも同じものとして、つまり「一般的なもの」という形態を得ているわけです。だからこの形態では 1着の上着=20エレのリンネル と一見すると最初の単純な価値形態にもどるように見えますが、しかしそこには他のすべての商品世界全体がリンネルによって価値を表現していることが前提されているのです。だからまた新たに商品世界に入ってくる商品もこれにならわなければならないことになるのてす。というのは、新たな商品が例え自らの価値をリンネルとは別の商品で表そうとしても、もはや等価物になる商品はないからです。新たな商品がもし例えリンネルとは別の商品で自らの価値を表す場合があっても、それは単に最初の偶然的な価値形態に逆戻りすることによってでしかないでしょう。

 

 (ト) こうして、諸商品の価値対象性は、これらの商品の純粋に「社会的な定在」であり、だからそれら諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるということ、よって諸商品の価値形態はただ社会的に認められた形態でなければならないとういことが、この一般的相対的価値形態においては明瞭に現われているのです。

 

 ここで学習会では「社会的な定在」というのがわざわざ鍵括弧に入っているが、そもそも「社会的な定在」というのは、どういうものなのかが問題になりました。価値形態の最初のところでも(第三節の前文)、〈商品の価値対象性は純粋に社会的なものである〉との記述が見られましたが、そもそも「社会的なものである」というのはどういうことでしょうか。

 

 マルクスは『補足と改訂』の[B]原稿のなかで次のように述べています。

 

 〈価値としての労働体の生産は、労働体を同じ単位の、〈それらに共通なものの、それらのなかにある等しいものの)表現に還元する。このことは、同じ単位の表現として、単位としての人間的労働にたいする関係、商品相互の関係、を含む。あるいは、この同じ単位の表現としての労働生産物相互の関係はそれらの価値存在である。そして、この関係を通してのみ、単なる労働生産物から、有用な使用対象が--商品になる。それゆえ、ある労働生産物が、それだけを切り放して考察した場合価値ではないのと同じように、それは商品ではないのである。それは、他の労働生産物と一緒になって、すなわちさまざまな労働生産物が同じ単位の、人間的労働の結晶としてお互いに等置される関係においてのみ、価値になるのである。 

  したがって、つぎのように言うことができょう:諸商品の価値はそれらに共通な実体としての労働にたいする関係以外のなにものでもないのであるから、ある一つの商品のこの価値はまた、その商品が価値としての他の商品とむすぶ関係のなかでのみ、したがって、さまぎまな商品の価値関係においてのみ、現われることができるのである。このことから、さまざまな商品の関係においてのみ、価値表現は見いだされうるし、すなわち、商品は価値形態をもちうるのである。このことは、価値形態がどのように価値の本性それ自身から発しているかを、われわれに示している。〉(小黒訳19-20頁)

 

 このようにマルクスは商品というのは、そもそも労働生産物の相互の社会的な関係こそがそれらを商品にし、また価値存在にするのだということを強調しています。私たちは商品の価値は商品に備わった自然属性ではなくて、超自然的属性であり、社会的な属性であること、すなわち「社会的な実体」であるということを知っています。ここで社会的実体であるというのはそもそもどういうことでしょうか。それはようするに社会的な関係のなかで存在するようなものだということです。それは個々の商品とは別個に存在するわけではありませんが、しかし個々の商品だけを孤立させてしまうなら、すでにそこには存在せず、よってそれは商品ですらないというようなものなのです。だから個々の商品のなかにありながら、しかし個々の商品だけにあるわけではないようなものなのです。つまりそれは諸商品の関係のなかに存在するものなのです。だからそれはまた、諸商品の関係のなかでのみその存在を現わすものでもあるわけです。だから当然、商品の価値は他の諸商品との関係のなかでのみ現われ得るし、表現され得たわけです。商品の価値というのは、社会的な物質代謝が維持されるために、社会の総労働が与えられた生産力の下で必要な諸分野に適当に配分されるべきものとして客観的に法則的に貫いているような性格のものなのです。だからそれは単に一つの商品の他の一つの商品との関係だけではなくて、すべての商品の社会的関係にもとづいて初めて自己を十全に現わすものでもあるわけです。その意味では、一般的相対的価値形態はこうした価値の社会的性格をもっとも明瞭に現わしているものだと言えると思います。

 

◎〈相対的価値形態の変化した姿〉の「量的考察」

 

 次の7パラグラフは、これまでの〈相対的価値形態の変化した姿〉の「質的考察」に対応した「量的考察」に該当します。

 

【7】パラグラフ

 

 〈 (イ)リンネルに等しいものという形態ではいまやすべての商品が質的に同等なもの、すなわち価値一般として現われるだけではなく、同時に、量的に比較されうる価値量として現われる。 (ロ)すべての商品がそれぞれの価値量を同じ一つの材料、リンネルに映すので、これらの価値量は互いに反映しあう。 (ハ)たとえば、10ポンドの茶=20エレのリンネル、そして、40ポンドのコーヒー=20エレのリンネル。 (ニ)したがって10ポンドの茶=40ポンドのコーヒー というように。 (ホ)または1ポンドのコーヒーに含まれている価値実体、労働は、1ポンドの茶に含まれているそれの4分の1でしかない、というように。〉

 

 (イ) リンネルに等しいものという形ですべての商品の価値は質的に同等なものとして現われているだけではなく、同時に、量的に比較可能なものとして、すなわち価値量としても現われています。

 

 (ロ) というのは、すべての商品がそれぞれの価値量を同じ一つの材料、リンネルに映し出すのですから、それらは同じ価値の大きさとして比較可能なものとなるわけです。つまりリンネルはすべての商品の価値の鏡(公式の鏡)になり、すべての商品は同じ鏡でそれぞれの価値とその大きさを映し出すので、同時にそれらの商品は価値量としても互いに反映し合うことになるのです。

 

 (ハ)、(ニ)、(ホ) 例えば、10ポンドの茶の価値が20エレのリンネルとして映し出され、同時に40ポンドのコーヒーの価値も20エレのリンネルとして映し出されるなら、10ポンドの茶の価値は、40ポンドのコーヒーと同じというように。あるいはまた1ポンドのコーヒーの価値の大きさは、1/4ポンドの茶の価値と同じ大きさであるということ、あるいは1ポンドのコーヒー含まれている価値実体、労働は、1ポンドの茶に含まれているそれの4分の1でしかない、というように。

 

◎等価形態の変化した姿

 

 初版付録では、ここに〈二 等価形態の変化した姿〉という項目が入ります。だからこのパラグラフでは一般的価値形態では等価形態はどのように変化しているかが考察されています。

 

【8】パラグラフ

 

 〈 (イ)商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品、リンネルに、一般的等価物という性格を押しつける。 (ロ)リンネル自身の現物形態がこの世界の共通な価値姿態なのであり、それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。 (ハ)リンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な蛹化として認められる。 (ニ)織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、すなわち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである。 (ホ)一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働一般の一般的な現象形態にする。 (ヘ)このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実の労働のすべての具体的形態と有用的属性とが捨象されている労働として、消極的に表わされているだけではない。 (ト)この労働自身の積極的な性質がはっきりと現われてくる。 (チ)この労働は、いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労働力の支出に、還元されたものである。〉

 

 (イ) 商品世界を構成するすべての商品は、一般的な相対的価値形態において、商品世界から除外されたリンネルよって自らの価値を表すことによって、リンネルに一般的な等価物という性格を押しつけます。

 

  ここでマルクスは〈一般的等価物としての性格を押しつける〉〈押しつける〉という表現を使っていますが、リンネルの一般的等価物としての性格はあくまでもリンネルが受動的に商品世界から押しつけられたものだとの理解が重要だということが指摘されました。というのはこの一般的等価形態が貨幣形態にまでなるとその性格があたかも貨幣が生まれながらに持っているかの外観が生じ、だから諸商品の交換関係から、貨幣が生まれるという関係が逆転して、貨幣があるから商品がある、すなわち貨幣によって諸商品が流通させられるのだという観念が生じてくるからだということです。

 

 (ロ) 単純な価値形態においても明らかになったように、リンネル自身の現物形態が、価値の形態になるのですが、ここではさらにそれは商品世界に共通の価値姿態になるのです。だからまたリンネルはその現物形態のままで他のすべての商品と直接に交換可能なものになります。

 

 (ハ) いまではリンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な蛹化として認められます。初版本文には次のような説明があります。

 

 形態IIIにあっては、リンネルは、すべての他商品にとっての等価物という種属形態として現われている。このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな類や種や亜種や科等々を形成しているライオンや虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそれらのほかに、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在しているかのようなものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をことごとく包括しているところの、このような単一なるものは、動物等々のように、ある普遍的なものである。だから、リンネルが、別の一商品が価値の現象形態としてのリンネルに関係したことによって、単一の等価物になったのと同様に、リンネルは、すべての商品に共通な、価値の現象形態として、一般的な等価物一般的な価値体抽象的な人間的な労働の一般的な具象物に、なるわけである。だから、リンネルのうちに具象化された特殊的な労働が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているわけである。〉(江夏訳48頁)

 

 ところで、学習会ではここにある〈蛹化〉という言葉が問題になりました。「蛹」というのは昆虫の「さなぎ」のことです。なぜ、こうした表現が使われているのか、ということです。

 

  この問題については、以前、大阪で「『資本論』を学ぶ会」を開催していたときにも問題になり、「学ぶ会ニュース」No.20で論じたことがありました。だからそこでの説明を参考のために紹介しておきましょう。またそこで紹介されていたアゲハチョウの一生を図示したものも紹介しておきます。

 

 【ここで〈一般的社会的蛹化〉とは、何を意味するのか、ということが問題になりました。報告者は〈中身は一般的社会的労働である。それが化けて蛹(サナギ)になったということ?〉と報告しましたが、今一つ自信がないようでした。

 

  確かにリンネルの身体が、〈いっさいの人間的労働の目に見える化身〉として通用するということと、〈一般的社会的蛹化〉とは、同じ内容を述べたものであることは、前後の文脈から理解できます。つまり〈いっさいの人間的労働〉とは、リンネルでその価値を表す、商品世界のリンネル以外のすべての商品に対象化された〈いっさいの人間的労働〉です。〈人間的労働〉といった一般的なものは、確かに商品に対象化された具体的労働の抽象的属性であり、その限りでは商品に対象化され、商品に実在するものですが、商品を見てもそれ自体としては目に見えるものではありません。ところがリンネルの身体が、そうした一般物の目に見える形に化けたものとして通用するわけです。それが〈一般的社会的蛹化〉とも表現されています。

 

 蛹化(ヨウカ)とは、〈昆虫の幼虫が、蛹に変態すること〉と『広辞苑』にあります。蛹はさらに変態して蝶になるわけですが、蛹は成虫の蝶や蜻蛉(トンボ)などに比べて、まだ地味な姿態をしています。しかしそれは艶(アデ)やかな蝶に変身する一歩手前まで来ているわけです。同じように一般的な等価物も、例えばリンネルの場合、それは単なる一つの商品でしかなく、他の商品とそれほど変わらない特別な存在ではありません。しかしそれは貨幣(金)になる一歩手前です。簡単な価値形態から展開された価値形態と変態を繰り返して、ようやく価値形態は貨幣形態の一歩手前まで来たわけです。つまり一般的等価物はひかり輝くまばゆい貨幣に羽化する一歩手前の蛹のようなものであるとマルクスは述べているのではないでしょうか? 参加者の一人からは、これはマルクス特有の“文学的表現”ではないか、との意見もありました。  また先に紹介した河上肇も次のように述べています。

 

 〈拡大された価値形態から一般的価値形態への変態もまた、量から質への転化の一例である。前者の形態における一商品(例えばリンネル)の相対的価値の表現の系列が、その商品と交換されるために登場する他の諸商品の数を増すにつれて次第に延長されてある限度に達するときには、方程式は自然に転倒されて、一般的価値形態を表示するものに変態するのである。かくて幼虫の蛹への変態が実現される。〉(同上286頁)】

 

 (ニ)、(ホ) 私たちが単純な価値形態の等価形態で考察したように、ここではリンネルを生産する織布労働が、つまり私的労働が、同時に、そのまま一般的な社会的形態になります。しかも一般的等価形態においては、織布労働が、すべての労働と同等であることがこの形態そのものによって表されているわけです。というのは、一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルという使用価値に実現されている具体的な労働である織布労働が、すべての他の商品に含まれているそれぞれの具体的な労働、例えば上着を生産する裁断労働やコーヒー栽培労働、鉱山労働など他のすべての労働種類によって等置され、こうすることよって織布労働という具体的な労働そのものを、裁断労働やコーヒー栽培労働や鉱山労働など他のすべての労働種類に共通である人間労働一般の一般的な現象形態にするわけです。

 

 (ヘ)、(ト)、(チ) こうして諸商品の価値に対象化されている労働は、いまでは、それらの現実の労働の具体的形態と有用的属性とが捨象された労働として、すなわち抽象的一般的人間労働として消極的に表されているだけではありません。この労働自身の積極的な本性がはっきりと現われてきます。この労働は、すべての現実の労働が人間的労働というそれらに共通な性格に、人間的労働の支出に、還元されたものなのです。

 

 ここで学習会では、〈消極的〉〈積極的〉ということで何を言いたいのかが問題なりました。

 

  労働生産物が商品になり価値を持つのは、それらが互いの交換において社会的な関係を取り結ぶことによってです。しかし労働生産物がこうした関係に置かれるのは、それらに同等なものがあるからにほかなりません。異なる使用価値をもつ労働生産物を同等なものにするためには、それらの使用価値を生産するために支出された労働の具体的で有用な属性を捨象して、抽象的な人間労働一般に還元しなければなりませんでした。それらの生産のために支出された労働は、具体的属性を捨象された抽象的な属性によって始めて同等性を獲得し、交換関係という社会的な関係を取り結ぶことができたのです。

 

  しかし一般的な等価形態においては、価値を形成する労働のこうした抽象的・一般的な性格は、単に具体的属性を捨象された抽象的なものとしてだけではなくて、それらがリンネルを生産する織布労働という具体的形態において現象することによって、それ自体が形をあるものとして積極的に現われているというわけです。それはあたかも〈ライオンや虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそれらのほかに、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在しているかのようなもの〉(前掲初版本文)なのです。ライオンや虎や兎の同等性は、それらをそのように分類する諸特徴を捨象して、それらを動物そのものに還元することによって可能ですが、いまでは、単にそうした具体的属性を捨象された消極的な抽象的なものとしての動物そものものだけではなくて、それらの実在する諸動物とならんで動物そのものという一般物、動物界全体の固体的化身が現実に存在しているのだというわけです。〈リンネルは、すべての商品に共通な、価値の現象形態として、一般的な等価物一般的な価値体抽象的な人間的な労働の一般的な具象物に、なるわけで〉す。〈だから、リンネルのうちに具象化された特殊的な労働が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているわけで〉す(同)。これが〈積極的な性質がはっきりと現われてくる〉ということの内容ではないかと思います。『補足と改訂』にも次のような説明があります。

 

 〈個々の等式はいまや、リンネルが鉄価値、コヒ一価値、金価値等、一言で言えば商品世界の価値を形成している労働の明確な物質化であると声をそろえていっている他の無数の等式によって補足されている。それゆえ、リンネルは価値物質化--等価物商品の肉体--としてすべての他の商品体に含まれている労働の、したがって、無区別な人間的労働の物質化であり、そして、リンネルと等しいものとしてすべての商品は、いまや一般に、以前の価値形態が限定付きでしか表現できなかったもの、すなわち商品を価値にしている労働の一般的人間的すなわち抽象的人間的性格を表現しているのである。リンネル体を形成する一定の具体的労働--リンネル紡織--は、他のすべての商品の価値を形成する労働と同じ種類の労働であるから、リンネル紡織は人間的労働それ自体の一般的現象形態である。それゆえ、リンネル紡織は、それが私的労働であったとしても、やはり、その自然形態においてその他のすべての労働との同等性の形態をもった、すなわち、直接的に一般的社会的形態にある。〉(小黒訳下14-15頁)

 

◎一般的相対的価値形態の変化した性格の「まとめ」

 

 次は、〈1 価値形態の変化した性格〉の最後のパラグラフであり、その「まとめ」です。

 

【9】パラグラフ

 

 〈 (イ)諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表わす一般的価値形態は、それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している。 (ロ)こうして、一般的価値形態は、この世界のなかでは労働の一般的な人間的性格が労働の独自な社会的性格となっているということを明らかに示しているのである。〉

 

 (イ)  一般的価値形態は、諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表します。それだけではなく、それ自身の構造によって、それは諸労働生産物を商品にする社会的な関係そのものの表現であるもことを示しています。

 

 (ロ) こうして、一般的価値形態は、この世界(ブルジョア社会)のなかでは労働の一般的な人間的性格が労働の独自の社会的性格となっているということを明らかに示しているのです。

 

 マルクスは『補足と改訂』のなかで、〈労働の一般的なすなわち抽象的な性格は商品生産においては、その社会的性格である、・・・・社会的労働のこの規定された形態は、商品生産をその他の生産様式から区別する〉(小黒訳16頁)と指摘して、次のようにさらに例を上げて説明しています。

 

 〈たとえば、家夫長制的家族、古代アジア的共同体等において、家族構成員や共同体構成員のさまざまな労働は、もともとから、一定の社会的性格をもっている。それらの労働は特殊な家族機能ないしは、共同体機能である。(「もしある農民家族がそれ自身の消費のために上着とリンネルと小麦とを生産するとすれば、これらの物はその家族にはその家族労働のいろいろに違った生産物として相対してはいるが、しかしそれら自身が互いに諸商品として相対してはいない。」) (P. 32) (「もし労働が〔古代アジア的共同体の労働のように〕直接的に社会的な、すなわち共同の、労働であるとすれば、諸生産物は、その生産者たちのための共同生産物であるという直接的社会的性格を受け取るであろうが、生産者どうしにとって商品という性格は受け取らないであろう。・・・・諸私的労働の社会的な形態とは、同じ労働としてのそれらの相互の関係である。つまり、千差万別のいろいろな労働の同等性はただそれらの不等性の捨象においてのみ存在しうるのだから、それらの社会的な形態は、人間的労働一般としての、人間労働力の支出としての、それらの相互の関係であって、このような人間的労働の支出は、すべての人間的労働が、その内容やその作業様式がどうであろうとも、実際にそういうものなのである。どの社会的な労働形態においてもさまざまな諸個人の労働はやはり人間労働として互いに関係させられているのであるが、ここではこの関係そのものが諸労働の独自に社会的な形態として認められるのである。ところが、これらの私的労働のどれもがその現物形態においては抽象的な人間労働のこの独自性に社会的な形態をもってはいないのであって、それは、ちょうど、商品がその現物形態においては単なる労働凝固体という、すなわち価値という、社会的な形態をもってはいないのと同じことである。……『社会的であること』の標準は、それぞれの生産様式に特有な諸関係の性質から借りられるべきであって、それに無縁な諸観念から借りられるべきではないのである。」) (p. 32 本文)〉(同前16-17頁)

 

 このような商品を生産する労働の独自な社会的性格については、〈第4節 商品の物神的性格とその秘密〉のなかで展開されるものです。ここでの記述は、それに繋がるものと言えるでしょう。

 

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【付属資料】

 

●【6】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 〈価値形態は、この形態の一般的な性格によって、初めて、価値概念にかなったものになる。価値形態は、諸商品が、無差別で同質な人間労働の単なる膠状物として、すなわち、同じ労働実体の物的な表現として、相互に現われあっている、というような形態でなければならなかった。このことがいまでは達成されている。なぜならば、諸商品のどれもが、同じ労働の具象物として、すなわち、リンネルに含まれている労働の具象物として、または、労働の同じ具象物として、すなわちリンネルとして、表現されているからである。こうして、諸商品は質的に等置されているわけである。〉(江夏訳901頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈          [C]

 c )まえの二つの形態は、商品の価値を、種類を異にするただ一つの商品によってであれ、その高品とは異なる一連の多数の商品によってであれ、ー商品ごとに表現する。どちらの場合にも、自分自身に一つの価値形態を与えることは、いわば個々の商品の私事であり、個々の商品は他の諸商品の関与なしにそれをなしとげる。他の諸商品は、その商品にたいして、等価物という単に受動的な役割を演じる。これにたいして、一般的相対的価値形態は高品世界の共同事業としてのみ成立する。一商品が一般的価値表現を獲得するのは、同時に他のすべての商品がそれらの価値を等価物で表現するからにほかならず、そして、新しく登場するどの商品種類もこれにならわなければならないのである。これによって、諸商品の価値対象性は--その存在が単に社会的な物として表現されるがゆえに--諸商品の全面的な社会的関連によってのみそれにふさわしく表現されうること、それゆえ、諸商品の価値形態は社会的に通用する形態でなければならないこと、が現われてくる。〉(小黒訳下22頁)

 

《フランス語版》

 

 〈最初の二つの形態は、なんらかの一商品の価値を、これとは別の一商品かまたは一連の多くの他商品のうちに表現している。どちらの場合も、みずから価値形態になるのは個々の各商品のいわば私事であって、各商品は他の商品から手だしを受けることなく価値形態に到達する。他の商品はこの各商品にたいして、等価物という純粋に受動的な役割を演 じる。これに反して、一般的な相対的価値形態は、総体としての諸商品の共通の作業としてのみ産み出される。一商品が一般的な価値表現を獲得するのは、ただ、他のすべての商品が同時にそれらの価値を同じ等価物のうちに表現するからであって、新たに現われる商品種類はどれもこれと同じことをしなければならない。さらに、次のことが自明になる。すなわち、価値の観点からすれば純粋に社会的な物である諸商品もまた、それらの相互関係をすべて包括する系列によってしか、この社会的な存在を表現することができず、したがって、それらの価値形態は社会的に有効な形態であるにちがいない、ということ。〉(39-40頁)

 

●【7】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 〈同時に、諸商品が、量的に比較されている。すなわち、一定の価値の大きさとして相互に表示されあっている。たとえば、10ポンドの茶20エレのリンネル であるし、40ポンドのコーヒー20エレのリンネル である。したがって、10ポンドの茶40ポンドのコーヒー である。すなわち、1ポンドのコーヒーのなかには、1ポンドの茶に比べて、1/4の価値実体すなわち労働しか含まていない。〉(江夏訳901頁)

 

《補足と改訂》

 

〈          [C]

 δ)共同の等価物商品の自然形態であるリンネルは、いまや、公式の価値制服である。リンネルにおいて、諸商品は互いに、価値としてのその質的同等性を示すだけではなく、同時に、価値の大きさとしての量的差異をも示す。[22 ]諸商品はその価値の大きさを一つの同じ材料リンネルに映し出すのであるから、この価値の大きさは相互に反映しあう。〉(小黒訳下22頁)

 

《フランス語版》

 

 〈共通の等価物になる商品すなわちリンネルの自然形態は、いまでは公式な価値形態である。したがって、諸商品は相互に質的な同等性として現われるばかりでなく、さらになお価値の量的差異としても現われる。リンネルという同じ鏡の上に投影された価値量が、相互に反映しあう。  一例。10ポンドの茶=20メートルのリンネル、そして、40ポンドのコーヒー=20メートルのリンネル、したがって、10ポンドの茶=40ポンドのコーヒー であり、あるいは、一ポンドのコーヒーのなかには、一ポンドの茶に含まれている 労働の四分の一の労働しかない〉(40頁)

 

●【8】パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈 形態IIにおいて、すなわち、20エレのリンネル=1着の上衣,または=u量のコーヒー,または=v量の茶,または=x量の鉄,等々 において、リンネルは自分の相対的価値表現を発展させているのであるが、この形態IIでは、リンネルは、一つの特殊的な等価物としての個々の商品である上着やコーヒー等々に関係し、そしてまた、自分の特殊的なもろもろの等価形態の広がりとしての全商品をひっくるめたものに関係している。リンネルにたいしては、どの個々の商品種類もまだ、単一の等価物においてと同じに、等価物そのものとしては認められていないのであって、特殊的な等価物として認められているにすぎず、ここでは一方の特殊的な等価物が他方のそれを排除している。これに反して、逆の関係に置かれた第二形態であり、したがって第二形態のうちに含まれているところの形態IIIにあっては、リンネルは、すべての他商品にとっての等価物という種属形態として現われている。このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな類や種や亜種や科等々を形成しているライオンや虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそれらのほかに、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在しているかのようなものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をことごとく包括しているところの、このような単一なるものは、動物等々のように、ある普遍的なものである。だから、リンネルが、別の一商品が価値の現象形態としてのリンネルに関係したことによって、単一の等価物になったのと同様に、リンネルは、すべての商品に共通な、価値の現象形態として、一般的な等価物一般的な価値体抽象的な人間的な労働の一般的な具象物に、なるわけである。だから、リンネルのうちに具象化された特殊的な労働が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているわけである。

 

  商品Aの価値が商品Bで表されることによって、商品Bは単一の等価物になるのであるが、この表示のさいには、商品Bがどんな特殊な種類のものであるかはどうでも良いことであった。商品Bの体躯性が商品Aのそれとは別の種類でなければならないし、したがってまた、別の有用な労働の生産物でなければならなかった、というだけのことである。上着は、自分の価値をリンネルで表すことによって、実現された人間労働としてのリンネルに関係したし、まさにそれゆえに、人間労働の実現形態としてのリンネル織りに関係したのであるが、リンネル織りが別のもろもろの労働種類から区別されて特殊に規定されているということは、全くどうでもよいことであった。それは、ただ、裁断労働とは別の種類のものでなければならなかったし、とにかくある特定の労働種類でなければならなかったのである。リンネルが一般的な等価物になると、そうではなくなる。この使用価値が、いまでは、この使用価値の特殊な規定--この規定に依拠して、この使用価値は、コーヒーや鉄等々という他のすべての商品種類とは区別されたリンネルになる--をもったままで、すべての他商品の一般的な価値形態になり、したがって一般的な等価物になっているのである。だから、この使用価値のうちに表されている、特殊な、有用な、労働種類が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているが、そのように認められているのは、まさに、この労働種類が、たんに裁断労働からばかりではなくコーヒー栽培や鉱山労働や他のすべての労働種類からも区別されているところの、リンネル織りという特殊に規定されている労働である、というかぎりにおいてのことなのである。逆に、他のすべての労働種類は、リンネルの、すなわち一般的な等価物の、相対的価値表現形態II)にあっては、人間労働の特殊な実現形態としてしか認められていない。〉(江夏訳48-49頁)

 

《初版付録》

 

 〈(二)等価形態の変化した姿

 

 特殊的な等価形態が、いまでは、一般的な等価形態にまで発展している。すなわち、等価形態にある商品が、いまでは--一般的な等価物になっている。--商品体リンネルの現物形態が、他のすべての商品の価値姿態として認められているのであるから、この現物形態は、商品世界のすべての要素とのリンネルの無差別性あるいは直接的な交換可能性という形態なのである。だから、リンネルの現物形態は、同時に、リンネルの一般的社会的形態でもある。

 

  リンネルは、他のすべての商品にとっては、たといこれらの商品がどれほど種類を異にする労働の生産物であろうとも、これらの生産物そのもののなかに含まれている労働の現象形態として、したがって、同質で無差別な人間労働の具体化として、認められている。だから、機織りというこの特殊な具体的な労働種類が、いまでは、リンネルにたいする商品世界の価値関係を通じて、抽象的な人間的な労働の・すなわち、人間労働力一般の支出の・一般的でしかも直接的に十全な実現形態として、認められている。

 

  まさにそうであるからこそ、リンネルのなかに含まれている私的労働は、直接に一般的-社会的形態に、あるいは他のすべての労働と同等であるという形態に、あるところの労働としても、認められているのである。

 

  だから、ある商品が一般的な等価形態をもっているばあいには、すなわち、一般的な等価物として機能しているばあいには、この商品の現物形態あるいは物体形態は、すべての人間労働の目に見える化身すなわち一般的社会的蛹化として、認められているのである。〉(江夏訳901-2頁)

 

《補足と改訂》

 

〈          [B]

 ところで、より立ち入って見てみると、いまや、上着、鉄、金、ようするにリンネル自身を例外としてすべての商品の価値は、一つの同じ形態、すなわち、リンネルと等しいものとして、表現される。

 

  この制服はすべての商品の価値を、他のすべての使用価値の自然形態から区別するのと同じように、それら自身の使用価値から区別し、それゆえ、それとすべての商品に共通なもの、すなわち価値存在の現象形態である。このことは商品世界においては普通のことである、それゆえ、しかし、一般的に通用する価値表現は、すべての商品種類がその価値をリンネルで表現する、すなわち、自らを等価物としてのリンネルに関連させる簡単な価値等式の列からのみ発生する。それゆえ、すべての商品は、リンネルを直接自分たちと交換可能なものとして現わすことによってのみ、その価値を交換価値として表現する。そのようにして、リンネルすなわち等価物の自然形態が商品世界の一般的価値姿態に、社会的な価値の化身になる。

 

  さまざまに異なった商品世界の肉体のなかに潜んでいる共通物、その価値実体である労働は、リンネルと等しいものとして、初めて同じ社会的装いをうけとり、それゆえまた、価値を形成する労働の特別な性格が初めてそれに照応した表現をうけとる。

 

  その関連が一般的価値形態を形成しているそれぞれの価値表現は、単なる簡単な相対的な価値表現でしかない。簡単な価値形態の分析が示したことは、1着の上着=20エレのリンネルという等式は、上着価値を形成する労働の感覚的な表現、つまり物質化に転化する、ということである。しかし、個々の等式はいまや、リンネルが鉄価値、コヒ一価値、金価値等、一言で言えば商品世界の価値を形成している労働の明確な物質化であると声をそろえていっている他の無数の等式によって補足されている。それゆえ、リンネルは価値物質化--等価物商品の肉体--としてすべての他の商品体に含まれている労働の、したがって、無区別な人間的労働の物質化であり、そして、リンネルと等しいものとしてすべての商品は、いまや一般に、以前の価値形態が限定付きでしか表現できなかったもの、すなわち商品を価値にしている労働の一般的人間的すなわち抽象的人間的性格を表現しているのである。リンネル体を形成する一定の具体的労働--リンネル紡織--は、他のすべての商品の価値を形成する労働と同じ種類の労働であるから、リンネル紡織は人間的労働それ自体の一般的現象形態である。それゆえ、リンネル紡織は、それが私的労働であったとしても、やはり、その自然形態においてその他のすべての労働との同等性の形態をもった、すなわち、直接的に一般的社会的形態にある。〉(小黒訳下14-15頁)

 

〈          [C]

 e)商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品であるリンネルに、一般的等価物という性格を押しつける。リンネル自身の自然形態がこの世界の共通な価値姿態であり、したがって、リンネルは、他のすべての商品と直接に交換されうるものである。

 

  f)リンネルを生産する織布労働という私的労働が、同時に、一般的な社会的形態にある労働として、他のすべての労働と同等性の形態の労働として適用する。一般的価値形態を構成する無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商品に含まれている労働に、順々に等置し、そうすることによって、織布労働を人間的労働一般の一般的現象形態にする。

 

  ζ) こうして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用的属性が捨象される労働として消極的に表わされているだけではよい。この労働自身の積極的な本性がはっきりと現われてくる。この労働は、いっさいの現実的労働が人間的労働というそれらに共通な性格に、人間的労働の支出に、還元されたものである。〉(小黒訳下22-3頁)

 

《フランス語版》

 

 〈商品世界を包括する一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価物商品に、一般的等価物という性格を押しつける。リンネルはいまや他のすぺての商品と直接に交換可能である。したがって、リンネルの自然形態は同時にその社会的形態でもある。リンネルを生産する私的労働である機織は、これがために、社会的労働という性格、他のすべての労働と同等である形態を獲得する。一般的価値形態を構成する無数の等式は、リンネルのなかに実現されている労働を、このリンネルとかわるがわる比較される各商品のなかに含まれている労働と同一視して、機織を、人間労働がそのなかに現われるところの一般的な形態にする。このようにして、商品の価値のなかに実現されている労働は、たんに消極的に、すなわち、実在の労働の具体的形態と有用な属性とがそこで消滅するところの抽象として、表わされるだけではない。その積極的な性質がはっきりと確認される。この労働は、すべての実在の労働を、人間労働すなわち同じ人間労働力の支出というそれらの共通な性格に、還元したものである。〉(40-41頁)

 

●【9】パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈価値としては、諸商品は、同じ単位の表現、抽象的な、人間的な、労働の・表現である。交換価値という形態にあっては、諸商品は互いに価値として現われており、互いに価値として関係しあっている。諸商品は、このことによって、同時に、自分たちの共通な社会的実体としての・抽象的な、人間的な、労働に、関係している。これらの商品の社会的な関係は、もっぱら、それらが相互に、それらのこういった社会的実体の表現--量的にしかちがわず質的には同じであり、したがって互いに置き換えが可能であるし互いに交換が可能である、というような表現--として認められているという点において、成り立っている。有用物として一商品が社会的な規定を受け取っているのは、その商品がその所持者以外の人々にとって使用価値であり、したがって社会的な必要をみたす、というかぎりにおいてのことである。ところが、この商品の有用な属性がこの商品を誰の必要に関係させているかということにはかかわりなく、このような属性によって、この商品はつねに、人間の必要に関係する対象になるだけであって、別の諸商品にたいしての商品にはならない。単なる諸使用対象を商品に転化させるものだけが、それらの使用対象を、商品として互いに関係させることができ、したがって、社会的な関係のなかに置くことができるのである。ところが、これこそが諸使用対象の価値なのである。だから、諸使用対象が価値として、人聞の労働膠着物として、認められているところの形態が、これらの使用対象の社会的な形態である。つまり、商品の社会的な形態と、価値形態あるいは交換可能性の形態とは、同一のものである。ある商品の現物形態が同時に価値形態であるならば、この商品は、他の諸商品との直接的交換可能性という形態を、したがって直接的に社会的な形態を、もっていることになる。〉(江夏訳49-50頁)、

 

《補足と改訂》

 

〈          [C]

 労働生産物を、同じ区別のない人間的労働の同じ種類の凝固として表わす一般的価値形態は、それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している。こうして、一般的価値形態は、商品世界の内部では労働の一般的人間的性格が労働の独自な社会的性格をなしているといいうことを明らかにしている。〉(小黒訳23頁)

 

《フランス語版》

 

 〈一般的価値形態は、その購成自体によって、この形態が商品世界の社会的表現であることを示している。したがって、この形態は、この世界では労働の人間的あるいは一般的性格が、労働の独自な社会的性格を形成しているということを、明らかにしている。〉(41頁)

 

 

 


第30回「『資本論』を読む会」の案内

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

                                    

  11月2日に開票された、アメリカの中間選挙は、オバマ民主党の大敗に終わった。民主党は下院で過半数を割り込み、上院では辛うじて過半数は維持したものの大幅な後退を余儀なくされた。

 

米中間選挙で敗北したオバマ大統領

 

 オバマ大統領は、敗因について「米国民にとって最大の懸念は、経済であることには疑いの余地がない。必要な前進ができていないという事実、私に直接の責任がある」と経済問題への対応の不十分さにあることを認めた。

 

  実際、米CNNの出口調査でも投票にあたって重視した政策では「経済」を挙げた人が62%に登ったという。今年9月の全米の失業者数は1477万人に登り、失業率も9.7%となっている。さらに仕事を失うだけでなく、資産の差し押さえなどで住む場所さえ失う人が増大しているのだという。

 

 しかし下院で過半数を割ったオバマ政権は、景気対策の主導権を失ったも同然とも言われている。オバマ政権は、この間、景気刺激策として史上最大となる7800億ドル(約64兆円)もの財政出動を行ってきた。しかし下院で過半数を握った共和党は、それらの政策を「大きな政府」政策として批判しており、今後は財政出動が困難になると予測されているからである。

 

 こうしたなかで11月3日、米連邦準備制度理事会(FRB)は、来年6月までに6000億ドル(約49兆円)の長期国債(米債)を金融機関から買い入れるなどの追加の金融緩和策を決めた。FRBは2008年のリーマン・ショックによる金融恐慌に対応するために、同12月にいわゆる「ゼロ金利政策」を導入、昨年3月には長期国債3000億ドルの購入や住宅ローン担保証券や政府機関債の購入など、矢継ぎ早に信用を膨張させる政策を打ち出してきた。今回の国債の購入額はそれらを大幅に上回る規模である。

 

 これを受けて、日本銀行は、すでに35兆円の基金をもとに、5兆円規模の長期国債の市中銀行からの購入や、株価指数連動型上場投資信託(ETF)や不動産投資信託(J-REIT)の市場購入などに踏み切ることを打ち出していたが、それを始めるために、5日、政策決定会合を前倒しして、週明けから開始することを決めたのだという。

 

 こうした日米の膨大ないわゆる「金融緩和策」というものの実体は一体何なのであろうか。すなわち経済学的にはそれらはどのように説明されるべきであろうか。またそれは今後の世界経済にどのような影響を及ぼすのであろうか。

 

 人によっては、こうした政府の政策を、「通貨の垂れ流し」とか「ヘリコプターで通貨をばらまく」とか、あるいは「輪転機をフル回転してドルをばらまく」などと説明する。しかしこれらは厳密な意味での「通貨」とは直接には何の関係もない。それらはマルクスが「帳簿信用」と述べている操作にもとづいている。つまり預金の帳簿記録をただ書き換えているだけに過ぎないのである。それを政府の信用(公信用)だけにもとづいて行っているわけだ。だからこうした膨大な貨幣の貸し借りが可能なのである(国債等の債権購入の実際の内容は利子生み資本に固有の運動である「貸借」である)。マルクスは「通貨」と「貨幣資本(moneyed Capital)」とは、恐慌時のような支払手段としての現金への需要が強烈に生じる一時期を除けば、直接には関連しないと次のようにのべている(ただし、こうした現金需要そのものも、信用制度が高度に発達している現在では、例え恐慌時でもほとんどなくなっている)。

 

 〈このような場合(恐慌時--引用者)のほかは、通貨の絶対量は利子率(つまり貸し付け可能な貨幣資本の増減--同)には影響しない。なぜならば、この絶対量は――通貨の節約や速度を不変と前提すれば――第一には、諸商品の価格と諸取引の量とによって規定されており(といってもたいていの場合一方の契機は他方の契機の作用を麻痺させるのであるが)、また最後に信用の状態(諸支払の相殺度合い--同)によって規定されているが、逆にそれが信用の状態を規定するのではけっしてないからである。また、第二には、商品価格と利子とのあいだにはなにも必然的な関連はないからである。〉(『資本論』第3部第33章全集25b680頁)

 

 以前に指摘した、「通貨」と「為替」との区別と同様に、またその区別を理解するためにも、「通貨」と「貨幣資本(利子生み資本)」との区別を理解することは、今日の複雑な金融諸政策の実際の内容を読み解くには極めて重要なのである。

 

 さて、こうした政府の政策は、当然、市中銀行の貸し付け可能な貨幣資本を増大させる。だから金利は実質上ゼロに張りつく。しかしそれらが生産的な投資、すなわち蓄積に向かうことはほとんどできない。なぜなら、日米の産業資本はリーマン・ショック以後露呈した過剰生産に直面しており、何一つそれらが解消されていないからである。いくら市中銀行に実質ゼロ金利で入手した貸し付け資本が潤沢にあっても、彼らは将来焦げつきが予想され損失が確実な中小企業などに貸し付けるわけがないし、また大企業の側も低落した利潤率のもとで新規投資をする余地をほとんどなくしているからである。だからそれらのほとんどは銀行準備の一形態である様々な「金融商品」の購入に充てられざるを得ない。特に日米の金融機関に溢れる膨大な貨幣資本(moneyed Capital)は新興諸国の債権や土地等への投機資金として流出しており、それらの国々でバブルを引き起こす可能性が指摘されている。

 

 

 そしてこうした貨幣資本の流出は、同時に、日米の為替相場(ドルや円)を押し下げる効果をもち、他方、それが流入する新興諸国(例えば中国やインド、ブラジル等)の為替相場を押し上げて、それらの国々の輸出を困難にさせている。だからオバマや菅は、それをドル高や円高に対抗する有効な為替政策の一つともしているわけである。

 

 8日の人民日報は、米追加緩和策は間接的な為替操作だとする論説を掲載し、FRBの行動は「世界の通貨切り下げ競争を誘発、『通貨戦争』や貿易保護主義につながり、世界経済の脅威になる」と指摘した。しかしそういう中国政府自身も、米国などの強い抗議にも関わらず、為替相場に直接介入する姿勢を変えず、膨大な外貨準備を積み上げるばかりなのである。

 

 かくして、世界の大国は今や国内経済の行き詰まりのなかでますます余裕を失い、互いの損失を相手に押しつけ合う競争へと駆り立てられ、経済的・政治的な軋轢と対立・抗争の時代へと突入しつつあるかである。

 

 こうした世界情勢や各国政府の経済政策の実際の内容を解明していくためにも、やはり『資本論』をしっかり研究することがますます必要となりつつある。是非、貴方も『資本論』を共に読んでみませんか。

 


第30回「『資本論』を読む会」の報告

第30回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎紅葉

 

 どこに行っても紅葉がまばゆいばかりです。

 

 しかしその華やかさの陰で、はらはらと舞落ちる病葉は何故か儚い気持ちにわれわれを誘うものです。

 

 枯れ葉の行く末に何らかの暗示を受けながら、しかし私たちの「『資本論』を読む会」は依然として続けていくようではあります。はらはらと事毎に参加者が減りながらも、しぶとく続けていく意義が何処にあるのか、誰も分かりません。

 

 残念ながら、今回も寂しい開催になりました。途中、何人かが会場を覗きに来られましたが、いずれもどうやら目指す会場を間違って訪れたようで、謝って去りました。

 

 というわけで、今回は〈C 一般的価値形態〉〈二 相対的価値形態と等価形態の発展関係〉をやったのですが、淡々と進み〈二〉の最後まで終えることができました。その報告を行うことにしましょう。

 

◎〈二〉全体の構成

 

 いつものように、今回学習する〈二〉の課題とその構成について、まず見て行くことにしましょう。

 

 〈 一 価値形態の変化した性格〉では、獲得された一般的価値形態では、相対的価値形態と等価形態がどのように変化しているかが、それぞれ個別に考察されました。相対的価値形態と等価形態のそれぞれが形態 I (単純な価値形態)、形態II(展開された価値形態)、形態III(一般的価値形態)という価値形態の発展のなかで如何に変化したかが論理的にも歴史的にも遡って考察されていました。

 

 そうした考察を踏まえて、この〈二〉では、相対的価値形態と等価形態という二つの価値形態が、今度は統一されて、両者の関係の発展が考察されていると言えます。

 

 初版付録では、すでに紹介しましたように(第28回報告参照)、この部分は〈(3) 相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係〉と〈(4) 相対的価値形態と等価形態との対極性の発展〉という二つの項目に分けられていました。だからここでは〈相対的価値形態と等価形態との発展関係〉が、〈相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展開係〉(【1】・【2】)と〈相対的価値形態と等価形態との対極性の発展〉(【3】~【7】)とに分けて考察されているわけです。

 

 そしてまたその考察は〈一〉の場合と同じように、形態 I 、形態II、形態IIIの順にその発展関係が考察されています。

 

 それでは前置きはこれぐらいにして、具体的にパラグラフをみて行くことにしましょう。今回もこれまでと同じように、まず本文を提示し、その文節ごとに(イ)、(ロ)、(ハ)・・・・・記号を付して、それぞれを平易に書き下す形で進めることにします。

 

◎相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係

 

 まず第1パラグラフです。

 

【1】〈 (イ)相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応する。 (ロ)しかし、これは注意を要することであるが、等価形態の発展はただ相対的価値形態の発展の表現と結果でしかないのである。〉

 

 (イ) 相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応しています。

 

 (ロ) しかしこのことは十分注意すべきことですが、等価形態の発展は、相対的価値形態の発展の表現であり、その結果に過ぎません。イニシアチブは、あくまでも相対的価値形態にあり、等価形態はただ受動的にそれを受け取るに過ぎません。

 

 ここで特に(ロ)で述べられていることは重要であることが指摘されました。JJ富村さんは、ここで書かれていることそのものは、そんなに難しいことではなく、これまでの展開を踏まえれば、何となく分かるような気がする、と述べました。しかし、それに対して、事はそれほど簡単ではないのだとの指摘がありました。というのは前回(第29回)の報告でも、〈一〉の【8】パラグラフの解説のなかで、一般的な相対的価値形態がリンネルに一般的等価物という性格を「押しつける」という表現に関連して、次のように説明しました。

 

 「ここでマルクスは〈一般的等価物としての性格を押しつける〉と〈押しつける〉という表現をとっていますが、リンネルの一般的等価物としての性格はあくまでもリンネルが受動的に商品世界から押しつけられたものだとの理解が重要だということが指摘されました。というのはこの一般的等価形態が貨幣になるとその性格があたかも貨幣が生まれながらに持っているかの外観が生じ、だから諸商品の交換関係から、貨幣が生まれるという関係が逆転して、貨幣によって諸商品が流通させられるという観念が生じてくるからだということです。」

 

 今回は、この転倒した観念に、現実には、どれほど多くの人たちが惑わされているかということが話題になり、次のような例が紹介されました。

 

 例えば戦後の世界資本主義は「管理通貨体制」と言われています。あるいは「管理通貨制度の下にある」とも。つまり「通貨」が国家によって「管理」されていると捉えられているのです。もちろん、ここには「通貨」概念の混乱が背景にあります。「通貨」というのは厳密には貨幣の流通手段と支払手段との機能を合わせたものを意味します。そしてこうした意味での「通貨」を「管理」できるなどと考えるのは、貨幣についてのまさに転倒した観念の産物なのです。ところが、ブルジョア経済学者だけではなく、ほとんどのマルクス経済学者も、今日のいわゆる「不換制」の下では、「通貨」は国家によって「管理」されているのだという認識を持っています。しかし、「通貨」を概念的に捉えれば、それを「管理」するなどいうことができないことは明らかなのです。なぜなら、このパラグラフでマルクスが強調しているように、諸商品の交換という現実があって(そしてそのために諸商品がその価値を相対的な価値形態として表すという現実があって)、貨幣形態(一般的等価形態)があるのだからです。イニシアチブをとっているのは商品交換という現実です。だからもし「通貨」を「管理」しようと思うなら、商品の交換そのものを「管理」しなければならないことになるのです。そしてそれは実質上、われわれの社会的な物質代謝を「管理」するということに他なりません。しかしこんなことは現代の資本主義社会をひっくり返さない限り不可能事でしょう。ところがマルクス経済学者を自認する人たちまで、資本主義を前提したままで、「通貨」の「管理」は可能だと考え、現代の資本主義はそうした体制なのだと説明して、何の疑いも持たず、いわばそれが常識と化しているありさまなのです。

 

 こうした現代資本主義においては「通貨」は「管理」されていると捉えている人たちの誤りには二つの理由が考えられます。一つは先に指摘した「通貨」概念の混乱にもとづくものです。つまり「通貨」と「利子生み資本という意味での貨幣資本(moneyed Capital)」との区別が分からずにごっちゃに論じていることから来るものです(これについては第30回の「案内」でも少し述べました)。本当は「利子生み資本としての貨幣資本(moneyed Capital)」の運動なのに、それを「通貨」の運動と捉えてしまっているのです。しかし「通貨」は社会的な物質代謝に直接関連します(媒介します)が、「貨幣資本(moneyed Capital)」は社会的な再生産の外部にある信用制度の下で運動する貨幣なのです。だからこうした人為的な制度のもとでは、それは信用(特に公信用)を背景にいくらでも膨張したり縮小したり、ある程度までは恣意的に左右できるわけです。だからそれを「通貨」と捉えると、「通貨」は国家によって恣意的に「管理」されていると捉えることになってしまうわけです。

 

 もう一つは貨幣名を変更することを持って、「通貨」を「管理」していると錯覚していることです。これについて詳しく説明すると、あとで学習する予定の〈第3章 貨幣または商品流通〉の内容にあまりにも踏み込みすぎますので、それは割愛しますが、いずれにせよ、貨幣名は確かに時の権力者によって恣意的に決めることが可能です。しかし、それは商品の価値量を表現する等価物の使用価値量が、例えば上着を「1着」「2着」と数えたり、ラクダを「1頭」「2頭」と数えるのも、ただ社会的な慣習にもとづいているように、一般に社会的な慣習によるものだからであり、だからまた貨幣としての金の量をどのように数えるのかも(それが貨幣名を決めるということです)、その限りでは恣意的に決めることが可能だというにすぎないのです。だからこれも決して「通貨」を「管理」しているわけではないのです。現代の不換制の下においても基本的にはこの延長上にあると考えるべきなのです。

 

 このように『資本論』を読んでいる限りでは分かったつもりになっていても、いざ、現実の過程を説明しようとなると、結局は『資本論』が何度も強調し注意している間違った転倒した観念にとらわれている例が実に多いのだという説明でした。

 

 次は第2パラグラフです。

 

【2】〈 (イ)一商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的等価物にする。 (ロ)相対的価値の展開された形態、すなわちすべての他の商品での一商品の価値の表現は、これらの商品にいろいろに違った種類の特殊的等価物という形態を刻印する。 (ハ)最後に、ある特別な商品種類が一般的等価形態を与えられるのであるが、それは、すべての他の商品がこの商品種類を自分たちの統一的な一般的な価値形態の材料にするからである。〉

 

 (イ) 一商品の単純な、個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的等価物にします。

 

 (ロ) 一商品の全体的な相対的価値形態は、一商品の価値を表す他のすべての商品に、それぞれ種類の違った特殊的な等価物という形態を与えます。

 

 (ハ) そして最後のすべての商品が共同でその価値を表す一般的な相対的価値形態は、その価値を表す材料となる商品世界から排除されたある特別な商品に一般的等価形態を与えます。

 

 この部分は初版付録では、次のようにより詳しい展開になっています。

 

 〈単純な相対的価値形態は、一商品の価値を、唯一の他の商品種類でのみ表現するのであって、この商品種類がなんであってもかまわない。だから、この商品は、それ自身の使用価値形態あるいは現物形態とは異なる価値形態しか受け取らない。この商品の等価物も、単一の等価形態しか受け取らない。発展した相対的価値形態は、一商品の価値を、他のすべての商品で表現する。だから、他のすべての商品は、多くの特殊的な等価物という形態すなわち特殊的な等価形態を、受け取るわけである。最後に、商品世界は、自分に、統一的な一般的な相対的価値形態を与えるが、そうするのは、商品世界が唯一の商品種類をのけものにし、この唯一の商品種類のうちに、他のすべての商品が自分たちの価値を共同で表現するからである。こうすることによって、こののけものにされた商品が一般的な等価物になる。すなわち、この等価形態が一般的な等価形態になるわけである。〉(江夏訳902頁)

 

 より詳しい説明にはなっていますが、基本的に言われていることは同じことです。ここでは単純な相対的価値形態→「個別的」な等価形態、展開された相対的価値形態→「特殊的」等価形態、一般的相対的価値形態→「一般的」等価形態、という相互の発展関係が対比された形で示されています。ここで等価形態が「個別」、「特殊」、「一般」という形で発展して、商品の価値の概念にもっと相応しい形態を獲得する過程が示されているといえるでしょう。

 

◎ 相対的価値形態と等価形態との対極性の発展

 

 次の第3パラグラフからは、相対的価値形態と等価形態との対極性の発展です。

 

【3】〈 (イ)しかし、価値形態一般が発展するのと同じ程度で、その二つの極の対立、相対的価値形態と等価形態との対立もまた発展する。〉

 

 (イ) 相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係とともに、それは同時に両形態の対極性、対立の発展でもあるのです。

 

 このパラグラフも初版付録では詳しく展開されていますので、まずそれを紹介しておきましょう。

 

 〈相対的価値形態と等価形態との対極的な対立、あるいは、不可分な一対であるとともに同じく絶えず排除しあっているというと、したがって、(1)一商品は、他の商品が反対の形態になければ、一方の形態にあることができないということ、そしてまた、(2)一商品が一方の形態にあると、その商品は、この価値表現では、同時に他方の形態にもあることができないということ--価値表現の両契機のこういった対極的な対立は、価値形態一般が発展または完成するのと同じ度合いで発展し硬化する〉(江夏訳902頁)

 

 ここでは〈対極的な対立〉を説明して、〈不可分な一対であるとともに同じく絶えず排除しあっているということ〉という説明が加えられ、さらにぞれぞれについて(1)(2)と説明されています。すなわち〈不可分の一対である〉ということは、〈一商品は、他の商品が反対の形態になければ、一方の形態にあることができないということ〉と説明され、〈絶えず排除しあっているということ〉については、〈一商品が一方の形態にあると、その商品は、この価値表現では、同時に他方の形態にもあることができないということ〉という説明が加えられています。そしてさらに、こうした〈対極的な対立〉の発展が、〈価値形態一般が発展または完成するのと同じ度合いで発展し硬化する〉と説明されています。つまり対立が発展するということは、その対立が硬化する度合いが発展するということだということです。つまりそれぞれ対立した極に来る商品が特定のものに固定されることが、すなわちその対極性の発展の内容であることが示唆されています。

 

 ヘーゲルは「対立」について次のように説明しています。

 

 〈本質の区別は対立であり、区別されたものは自己にたいして他者一般をではなく、自己に固有の他者を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に固有の他者である〉(『小論理学』岩波文庫、下28頁)

 

 また以前にも紹介したことがある『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)は、さらに分かりやすく次のように解説しています。

 

 〈第一に、・・・・対立的な二つのものは、その規定性に関しては相互に排斥しあう関係にあって、たがいに自分は他方のものではないということが、そのまま直接に自分自身の規定と合致するという関係にあります。  第二に、・・・・人間のうちあって男性でないものといえばただちに女性を意味するように、兩極的な対立物は、たがいに、たんなる他者としてではなくて、それぞれに固有の他者としてあるのです。  第三に、・・・・両者は、一つのものの不可分の二側面として互いに前提しあい依存しあう関係にあります。  このように、その規定性にかんしては相互排斥的な兩極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること、これが対立です。〉(70-1頁)

 

 つまり相対的価値形態と等価形態とは、互いに前提しあいながら、同時に相互に排斥しあっているような関係にあるということです。こうした対立的な関係が、それぞれの価値形態の発展によって、対立そのものも発展し、硬化するというわけです。そうした対極性の発展関係が、単純な価値形態(【4】)から展開した価値形態(【5】)、そして一般的価値形態(【6】・【7】)へと価値形態が発展する度合いに応じて、どのように発展しているかを考察しようというわけです。

 

 だから第4パラグラフは単純な価値形態ではそれがどうなっているかの考察です。

 

【4】〈 (イ)すでに第一の形態――20エレのリンネル=1着の上着――もこの対立を含んではいるが、それを固定させてはいない。 (ロ)同じ等式が前のはらから読まれるかあとのほうから読まれるかにしたがって、リンネルと上着というような二つの商品極のそれぞれが、同じように、あるときは相対的価値形態にあり、あるときは等価形態にある。 (ハ)両極の対立をしっかりとつかんでおくには、ここではまだ骨が折れるのである。〉

 

 (イ) すでに第一の形態(単純な価値形態)にも対立が含んでいることは〈A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態〉の〈一 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態〉のなかでみてきました。例えば次のように説明されていました。

 

 〈相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。この両極は、つねに、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている。

 

 だから相対的価値形態にリンネルがあるということは、リンネルは同時に等価形態にあることはできず、必ず他の別のある商品、例えば上着でなけれはならなかったのです。

 

  しかし単純な価値形態では、まだそれは固定させてはいませんでした。

 

 (ロ) 例えば20エレのリンネル=1着の上着という等式がなりたつということは、同時に1着の上着=20エレのリンネルという等式も成り立ちました。つまりどちらの商品もあるときは相対的価値形態にあり、また別のあるときには等価形態にもあることができたのです。

 

 (ハ) だからこの場合、二つの形態が互いに排斥し合う関係にあるということをつかむためには、いささが骨が折れたのでした。だから次のような考察がなされたのでした。

 

 〈たとえば、リンネルの価値をリンネルで表現することはできない。20エレのリンネル=20エレのリンネル はけっして価値表現ではない。この等式が意味しているのは、むしろ逆のことである。すなわち、二〇エレのリンネルは二〇エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルに、ほかならないということである。つまり、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、なにか別の一商品がリンネルにたいして等価形態にあるということを前提しているのである。他方、等価物の役を演ずるこの別の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それは自分の価値を表わしているのではない。それは、ただ別の商品の価値表現に材料を提供しているだけである。

   もちろん、20エレのリンネル=1着の上着 または、二〇エレのリンネルは一着の上着に値するという表現は、1着の上着=20エレのリンネル または一着の上着は二〇エレのリンネルに値するという逆関係を含んでいる。しかし、そうではあっても、上着の価値を相対的に表現するためには、この等式を逆にしなければならない。そして、そうするやいなや、上着に代わってリンネルが等価物になる。だから、同じ商品が同じ価値表現で同時に両方の形態で現われることはできないのである。この両形態はむしろ対極的に排除しあうのである。

 

 次の第5パラグラフは展開された価値形態の場合です。

 

【5】〈 (イ)形態Ⅱでも、やはりただ一つ一つの商品種類がそれぞれの相対的価値を総体的に展開しうるだけである。 (ロ)言いかえれば、すべての他の商品がその商品種類にたいして等価形態にあるからこそ、またそのかぎりでのみ、その商品種類自身が、展開された相対的価値形態をもつのである。 (ハ)ここではもはや価値等式――たとえば 20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=1クォーターの小麦、等々――の二つの辺をおきかえることは、この等式の全性格を変えてこれを全体的価値形態から一般的価値形態に転化させることなしには、不可能である。〉

 

 (イ) 形態II(展開された価値形態)でも、やはり両形態の対極的な対立は含まれています。すなわち、一つ一つの商品種類がそれぞれの相対的価値をそれ以外のすべての商品によって展開して表現しうるだけです。ある一つの商品種類が展開された相対的価値形態にあるなら、それはそれを表現する材料である他の多くの特殊的な等価形態の一つになることはできません。

 

 (ロ) 言いかえれば、すべての他の商品が、その一つの商品種類に対して特殊な等価形態にあるからこそ、またその限りにおいてのみ、その一つの商品種類は展開された相対的価値形態を持つのです。確かにここでは、その一つの商品種類は、ある特定の商品に固定されてはいません。

 

 (ハ) しかし、ここでは単純な価値形態のように、この価値等式そのもの、例えば 20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=1クォーターの小麦、等々の二つの辺をひっくり返すことは、もはやできません。それをやるとこの等式そのものを全性格を変えてしまい、全体的な価値形態から一般的価値形態に転化させることになってしまうからです。つまりここでは対極的な対立の「硬化」はその限りでは一段と進んでいることが分かります。

 

 次は一般的価値形態の場合についてですが、これは一般的な相対的価値形態(【6】)と一般的な等価形態(【7】)とに分けて考察されています(その間に注24が入ります)。

 

【6】〈 (イ)このあとのほうの形態、すなわち形態Ⅲが最後に商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えるのであるが、それは、ただ一つの例外だけを除いて、商品世界に属する全商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである。 (ロ)したがって、一商品、リンネルが他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接的に社会的な形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態をとっていないからであり、またそのかぎりでのことなのである(24)。〉

 

 (イ) 形態III(一般的価値形態)は、商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えますが、それはただ一つの例外を除いて、商品世界のすべての商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またその限りにおいてのみです。これは相対的価値形態と等価形態の対極的な対立が、商品世界のすべての商品と、その商品世界から排除されたある例外的な商品種類という形で現われていることを意味します。ここでは一般的等価形態にある商品は、商品世界から排除された例外的存在としてあります。つまりその限りでは「硬化」は一段と進んでいるともいえます。

 

 (ロ) だから、この例外的な一商品、例えばリンネルが他のすべての商品との直接的な交換可能性の形態にある、あるいは直接的に社会的な形態にあるということは、他のすべての商品がこうした形態から排除されているからであり、またその限りにおいてのことなのです。

 

 初版本文では次のように説明しています。

 

 〈諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、自分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。そして、まさにこういった形態において、諸商品は、交換可能なものとして、しかも量的に規定された割合で交換可能なものとして、互いに関係しあっている。なぜならば、1着の上着=20エレのリンネル、u量のコーヒー=20エレのリンネル、等々 であれば、1着の上着=u量のコーヒーでもあるからだ。すべての商品が同一商品のうちに自分たちを価値量として映し出すことによって、これらの商品は互いに価値量として映りあっているのである。ところが、これらの商品が使用対象としてもっている諸現物形態は、これらの商品同士にとっては、こういった回り道を経てのみ、したがって直接にではなく、価値の現象形態として認められているのである。だから、これらの商品は、自分たちの姿のままであれば、直接的に交換可能なものではなくなる。つまり、それらは、相互間での直接的交換可能性という形態をもっていない、すなわち、それらの社会的に妥当な形態は、媒介された形態なのである。逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、リンネルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態になり、したがって、直接的にリンネルの一般的社会的形態になるわけである。〉(江夏訳52頁)

 

 商品の直接的な存在は、その使用価値です。私たちは商品を見て感覚的に捉えうるのは、その物的存在でしかありません。だから一般に商品はその使用価値のままでは直接には交換できないのです。だから、それができるようになるためには、それが他の商品と同じものであることを示す必要があり、それがすなわちその商品の価値なわけです。商品は自らの価値を目に見える形で表現して、その現物形態が価値そのものであるものに転換してこそ、他の諸商品と直接に交換可能なもの、直接に社会的に妥当な形態を獲得することがてきます。そしてそうした現物形態が価値そのものを表すものこそ、すなわち等価形態であり、そうした商品世界から排除された唯一の例外的存在が、すなわち一般的等価形態だということです。

 

 この第6パラグラフについている注24も紹介して解読しておきましょう。しかし、各文節ごとの詳しい解読は省略します。

 

【注24】〈(24) じっさい、一般的直接的交換可能性の形態を見ても、それが一つの対立的な商品形態であって、ちょうど一磁極の陽性が他の磁極の陰性と不可分であるように非直接的交換可能性の形態と不可分であるということは、けっしてわからないのである。それだからこそ、すべての商品に同時に直接的交換可能性の極印を押すことができるかのように妄想することもできるのであって、それは、ちょうど、すべてのカトリック教徒を教皇にすることができると妄想することもできるようなものである。商品生産に人間の自由と個人の独立との頂点を見る小市民にとっては、この形態につきもののいろいろな不都合、ことにまた諸商品の非直接的交換可能性から免れるということは、もちろんまったく望ましいことであろう。この俗物的ユートピアを描きあげたものがプルドンの社会主義なのであるが、それは、私がほかのところで示したように〔26〕、けっして独創という功績などのあるものではなく、むしろ彼よりもずっと前にグレーやブレーやその他の人々によってもっとずっとよく展開されたのである。こういうことは、このような知恵が今日でもある種の仲間のあいだでは「科学」という名のもとに流行しているということを妨げないのである。プルドンの学派ほど「科学」という言葉を乱用した学派はかってなかった。じっさい、「まさに概念の欠けているところに、言葉がうまくまにあうようにやってくるものなんだ〔27〕。」〉

 

 一般的等価形態の直接的な交換可能性というのは、それが一つの対立的な商品形態であるからこそそうなのです。つまりそれは他のすべての商品が非直的な交換可能性にあるからこそそうなのです。それはちょうど一つの磁極の陽性が他の磁極の陰性と不可分であるように不可分なのです。しがしこうしたことは小ブルジョア的な観念には理解されない。だから彼らはすべての商品に同時に直接的交換可能性の極印を押すことができるかに妄想することができるのです。それは丁度、すべてのカトリック教徒を教皇にできると妄想するのと同じです。  商品生産に人間の自由や個人の独立の頂点をみる小市民にとっては、この形態につきもののいろいろな不都合から免れようとすること、つり諸商品の非直接的交換可能性から免れるということはまことに望ましいことです。こうした俗物的なユートピアを描きあげたものがプルードンの社会主義なのです。それは私が『哲学の貧困』のなかで明らかにしたように、決して独創的なものではなく、彼よりずっと前にグレーやブレーやその他の人でとによってもっとずっとよく展開されたものなのです。  しかしこういうことは、このような智恵が「科学」という名のもとに流行することを妨げないのです。プルードン学派ほど「科学」という言葉を乱用した学派かくてありませんでした。というのも「まさに概念の欠けているところに、言葉がうまくまにあうようにやってくるもの」だからです。

 

 これに関連しては、エンゲルスが『哲学の貧困』の序文で述べている一文を紹介しておきましょう。またここでマルクスが言及しているグレーやブレーについては詳しくは【付属資料】を参照してください。

 

 〈労働が商品価値の尺度であることが認識されるやいなや、律気なブルジョアの善良な感晴も、この正義の原則を名目上は認めはするが、実際にはたえず平然とそれを無視しているようにみえる世間の意地悪さによって、ふかく傷つけられるのを感じないわけにはいかない。とりわけ小ブルジョア、すなわち彼のまじめな労働--たとえそれが彼の職人と徒弟の労働にほかならないにしても--が大生産と機械との競争によって日一日とますますその価値を失いつつある小ブルジョアは、とりわけ小生産者は、労働価値に従う生産物の交換が最終的に完全に例外なく実現しているような社会を、熱望しないわけにはゆかない。いいかえれば、商品生産の一つの法則はもっぱら完全に妥当するが、そのもとでのみ法則が一般に妥当しうるところの諸条件、すなわち商品生産の、さらに資本制生産の、他の諸法則が廃棄されるような社会を、熱望しないわけにはゆかない。

   このユートピアが、近代の--現実上あるいは観念上の--小ブルジョアの思考様式のなかにきわめて深く根をおろしていることの証拠は、次の事実である。このユートピアは、1831年にすでにジョソ・グレイによって体系的に展開され、30年代にイギリスにおいて実地に試みられかつ理論的にひろめられ、ドイツではロートベルトゥスによって1842年に、フランスではプルードンによって1846年に最新の真理と宣言され、さらに1871年にはロートベルトゥスによって、ふたたび社会問題の解決として、いわば彼の社会的遺言書として公表され、そして1884年にまたもや、それは、ロートベルトゥスの名のもとにプロイセンの国家社会主義をくいものにしようと懸命になっている出世主義者一味を信奉者にかちえている〉(全集第4巻879頁)

 

 次の第7パラグラフでは一般的な等価形態における対極的な対立がどうなっているかが考察されています。

 

【7】〈 (イ)反対に、一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた一般的な相対的価値形態からは排除されている。 (ロ)もしもリンネルが、すなわち一般的等価形態にあるなんらかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身のために等価物として役だたなければならないであろう。 (ハ)その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネル となり、それは価値も価値量も表わしていない同義反復になるであろう。 (ニ)一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態Ⅲを逆にしなければならないのである。 (ホ)一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されるのである。 (ヘ)こうして、いまでは、展開された相対的価値形態すなわち形態Ⅱが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われるのである。〉

 

 (イ) 一般的な相対的価値形態について上記のようにいえるということは、反対に、一般的等価物の役割を演ずる商品については、この商品が、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態からは排除されているということがいえるわけです。

 

 (ロ) もしもリンネルが、つまり一般的等価形態にある何らかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとなると、その商品は自分自身のために等価物として役立たなければならなくなるでしょう。

 

 (ハ)しかしその場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネル となり、私たちが価値表現の兩極を考察したときに確認したように、これは価値も価値量も表さない同義反復でしかなく、ただ〈二〇エレのリンネルは二〇エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルに、ほかならないということ〉を示すだけに過ぎません。

 

 (ニ) 一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態IIIを逆にしなければならないのです。

 

 (ホ) 一般的等価物は、他のすべての商品の身体で、その無限の列で、自身の価値を相対的に表現するしかないのです。

 

 (ヘ) こうして、いまでは、展開された相対的価値形態、すなわち形態IIが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われているのです。

 

 ここで「等価物商品の独自な相対的価値形態」という用語が出てきますが、これについて大谷禎之介氏は『価値形態』という論文で次のように述べています。

 

 〈だから、一般的等価物となっている商品の価値を相対的に表現するためには形態C(形態III--引用者)を逆にしなければならない。そうすれば、それの価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されることになる。形態Cを逆をすれば、ふたたび形態B(形態II--引用者)が現われるのだから、いまや、展開された価値形態すなわち形態Bが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われているのである。ただし、等価物商品の価値を表現する商品体の列は、等価物である商品が直接に交換しうる他の諸商品のそれぞれの量を示す等式の列であって、形態から見れば展開された相対的価値形態と同じものであるが、それは事実上、商品世界に属するすべての商品の一般的価値表現の無限の列を、あるいはそれの一覧表を逆に読んだものにほかならない。だからそれは、等価物商品の独自な相対的価値形態と言われるのである。(第26図)〉(下線は大谷氏。『経済志林』第61巻220-1頁)

 

 ついでに大谷氏が図示している「第26図」も紹介しておきます。ただこれはあくまでも一つの参考して紹介するのであって、その是非は各自判断して下さい。

 

 

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【付属資料】

 

●〈二〉の表題について

 

《初版付録》--二つの項目に分けられている。

 

 〈(3)相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展開係〉

 〈(4)相対的価値形態と等価形態との対極性の発展〉

 

《補足と改訂》

 

 〈2)相対的価値形態と等価形態との発展関係〉(小黒訳下23頁)

 

《フランス語版》

 

 〈(b) 相対的価値形態と等価形態との発展関係〉

 

●【1】パラグラフに関するもの

 

《初版付録》

 

 〈相対的価値形態の発展度には、等価形態の発展度が対応している。ところが、このことは充分に注意すべきことだが、等価形態の発展は、相対的価値形態の発展の表現でありかつまた結果であるにすぎないイニシアチブは、後者のほうから発動する。〉(江夏訳902頁)

 

《フランス語版》

 

 〈等価形態は相対的形態とともに、同時に、段階的に発展する。しかし、このばあいよく注意すべきことだが、前者の発展はたんに後者の発展の結果であり表現でしかない。発端が始まるのは後者からである。〉(江夏他訳41頁)

 

●【2】パラグラフに関するもの

 

《初版付録》

 

 〈単純な相対的価値形態は、一商品の価値を、唯一の他の商品種類でのみ表現するのであって、この商品種類がなんであってもかまわない。だから、この商品は、それ自身の使用価値形態あるいは現物形態とは異なる価値形態しか受け取らない。この商品の等価物も、単一の等価形態しか受け取らない。発展した相対的価値形態は、一商品の価値を、他のすべての商品で表現する。だから、他のすべての商品は、多くの特殊的な等価物という形態すなわち特殊的な等価形態を、受け取るわけである。最後に、商品世界は、自分に、統一的な一般的な相対的価値形態を与えるが、そうするのは、商品世界が唯一の商品種類をのけものにし、この唯一の商品種類のうちに、他のすべての商品が自分たちの価値を共同で表現するからである。こうすることによって、こののけものにされた商品が一般的な等価物になる。すなわち、この等価形態が一般的な等価形態になるわけである。〉(江夏訳902頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈最初の文章 +

  一商品の簡単な、または個別的な価値形態は、他の一商品を個々の等価物にする。相対的価値の展開された形態、すなわち他のすべての商品による一商品の価値の表現は、それらの商品にさまざまな種類の特殊的等価物という形態を刻印する。最後に、ある一つの特殊的な商品種類が一般的等価形態を受け取るが、それは、他のすべての商品が、その商品種類を、それらの商品の一般的相対的価値形態の材料にするからである。〉(小黒訳下23頁)

 

《フランス語版》

 

 〈一商品の単純なあるいは単独な相対的価値形態は、なんらかほかの一商品を偶然的な等価物として前提している。発展した相対的価値形態、他のすべての商品においての一商品のこうした価値表現は、他のすべての商品全部にいろいろな種類の特殊な等価形態を押しつける。最後に、独自な一商品が一般的等価形態を獲得するが、それというのも、他のすべての商品がこの商品を、自分たちの一般的な相対的価値形態の材料にするからである。〉(江夏他訳41頁)

 

●【3】パラグラフに関するもの

 

《初版付録》

 

 〈相対的価値形態と等価形態との対極的な対立、あるいは、不可分な一対であるとともに同じく絶えず排除しあっているというと、したがって、(1)一商品は、他の商品が反対の形態になければ、一方の形態にあることができないということ、そしてまた、(2)一商品が一方の形態にあると、その商品は、この価値表現では、同時に他方の形態にもあることができないということ--価値表現の両契機のこういった対極的な対立は、価値形態一般が発展または完成するのと同じ度合いで発展し硬化する。〉(江夏訳902頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈しかし、価値形態一般が発展するのと同じ程度で、その両極である相対的価値形態と等価形態との対立もまた発展する。〉(小黒訳下23頁)

 

《フランス語版》--独自のパラグラフとしてはない、次のパラグラフと一緒のパラグラフになっている。

 

●【4】パラグラフに関するもの

 

《初版本文》

 

 〈単純な相対的価値形態(形態 I )である 1着の上着=20エレのリンネルが、一般的な相対的価値形態である 1着の上着=20エレのリンネルから区別されるのは、この等式が今では次の系列の一環を形成しているからにほかならない。

 

 1着の上着=20エレのリンネル

  u量のコーヒー=20エレのリンネル

  v量の茶=20エレのリンネル

   等々

 

 つまり、形態 I は、じっさいには、リンネルが一つの単一の等価物から一般的な等価物に発展しているということによってのみ、区別されている。したがって、単純な相対的価値表現にあっては、自分の価値量を表現する商品ではなく、価値量がそれにおいて表現されるところの商品が、直接的交換可能性の形態、等価形態、したがって直接的に社会的な形態を得ているとすれば、同じことは、一般的な相対的価値表現についてもあてはまる。だが、単純な相対的価値形態にあっては、この区別はまだ形式的であってぼやけている。1着の上着=20エレのリンネル では、上着が自分の価値を相対的に、すなわちリンネルで、表現しており、そうすることによって、リンネルが等価形態を得ているとしても、この等式は、20エレのリンネル=1着の上着 という逆の関係を直接に含んでいるのであって、この関係では、上着が等価形態を得ており、リンネルの価値が相対的に表現されているのである。相対的価値としての・および等価物としての・両商品の価値形態がもっところの、このように対称的であり相互的である表示は、もう生じていない。1着の上着=20エレのリンネル 一般的な相対的価値形態--この形態ではリンネルが一般的な等価物である--が、20エレのリンネル=1着の上着 に転倒されても、そのことによって、上着は、すべての他商品にとっては一般的等価物になるのではなくて、リンネルの特殊な等価物になるにすぎない。〉(江夏訳50-1頁)

 

《初版付録》

 

 〈形態 I においては、この両形態はすでに互いに排除しあっているが、このことは形式的であるにすぎない。同じ等式を前方から読むか後方から読むかに応じて、リンネルと上着という両商品種のそれぞれが、一様に、あるときは相対的価値形態にあり、あるときは等価形態にある。対極的な対立をしっかりとらえておくには、このばあいまだ骨が折れる。〉(江夏訳902-3頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着--は、すでにこの対立を含んでいるが、それを固定化させてはいない。例えば20エレの[リンネル]=1着の上着という価値等式において、一方の極の上着が相対的価値形態にあり、反対の極のリンネルが等価形態にある。いま、この同じ等式を逆から読めば、上着とリンネルは単純に役割を交換するが、等式の形は不変である。それゆえ、ここでは、対立を固持するのはまだ骨がおれる〉(小黒訳下24頁)

 

《フランス語版》

 

 〈しかし、価値形態一般が発展するのに応じて、その二つの極である相対的価値と等価物との対立もまた発展する。20メートルのリンネル1着の上衣 という第一の価値形態自体が、すでにこの対立を含んでいるが、この対立を固定してはいない。この等式では、一方の項であるリンネルが相対的価値形態のもとにあり、これと反対の項である上衣が等価形態のもとにある。いまこの等式をあべこべに読むならば、リンネルと上衣とはただたんにその役割を変えるだけだが、等式の形態は同じままである。したがって、このばあい両項間の対立を固定することは困難である。〉(江夏他訳41頁)

 

●【5】パラグラフに関するもの

 

《初版付録》

 

 〈形態IIにおいては、いつでも一つ一つの商品種類がそれの相対的価値を総和として発展させることができるのは、すなわち、この商品種類自身が発展した相対的価値形態をもっているのは、他のすべての商品がこの商品種類にたいして等価形態にあるからこそであり、また、そのかぎりにおいてのことでしかない。〉(江夏訳903頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈         [C]

  したがって、ここではもはや、20エレのリンネル=1着の上着または=1 0ポンドの茶または1クオーターの小麦または等といった価値等式の両辺を置き換えることは、等式の全性格を変えることなしに、そして、等式を全体的な価値形態から一般的価値形態へ転換するこなしには不可能である。

           [D]

  したがって、ここではもはや、等式の両辺を置き換えることは、この等式の全性格を変えてそれを全体的価値形態から一般的価値形態に転化させることなしには、不可能である。〉(小黒訳下24頁)

 

《フランス語版》

 

 〈形態IIでは、一種類の商品がその相対的価値を完全に発展させることができる、すなわち、総和の相対的価値形態を帯びている。というのは、他のすべての商品がこの商品にたいして等価形態のもとにあるからであり、またそのかぎでのことである。  この形態では、この等式の性格を完全に変えて、これを総和の価値形態から一般的価値形態に移行させることなしには、この等式の両項を置き換えることがもはやできなくなっている。〉(江夏他訳41-2頁)

 

●【6】パラグラフに関するもの

 

《初版本文》

 

 〈諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、自分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。そして、まさにこういった形態において、諸商品は、交換可能なものとして、しかも量的に規定された割合で交換可能なものとして、互いに関係しあっている。なぜならば、1着の上着=20エレのリンネル、u量のコーヒー=20エレのリンネル、等々 であれば、1着の上着=u量のコーヒーでもあるからだ。すべての商品が同一商品のうちに自分たちを価値量として映し出すことによって、これらの商品は互いに価値量として映りあっているのである。ところが、これらの商品が使用対象としてもっている諸現物形態は、これらの商品同士にとっては、こういった回り道を経てのみ、したがって直接にではなく、価値の現象形態として認められているのである。だから、これらの商品は、自分たちの姿のままであれば、直接的に交換可能なものではなくなる。つまり、それらは、相互間での直接的交換可能性という形態をもっていない、すなわち、それらの社会的に妥当な形態は、媒介された形態なのである。逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、リンネルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態になり、したがって、直接的にリンネルの一般的社会的形態になるわけである。〉(江夏訳52頁)

 

  〈だから、商品が、すべての他商品との直接的交換可能性という形態で、したがって直接的に社会的な形態で、存在しているのは、すべての他商品がこの形態で存在していないからでしかなく、またそのかぎりにおいてのことでしかない。すなわち、商品は総じて、それの直接的な形態がそれの使用価値という形態であってそれの価値という形態ではないために、直接的に交換可能な形態あるいは社会的な形態では、もともと存在していないからなのである。

 

  一般的な直接的交換可能性という形態を見ても、この形態が対立的な商品形態であり、非直接的交換可能性という形態と不可分であるのは、あたかも磁極の一方の陽性が他方の陰性と不可分であるようなものだ、といったことは、じっさいにはけっしてわからない。だから、すべての商品に直接的交換可能性の極印を同時に押すことができると想像しうるのであって、このことは、すべての労働者を資本家にすることができるかのように想像しうるのと、同じでである。ところが、じっさいには、一般的な相対的価値形態一般的な等価形態とは、諸商品の同じ社会的形態の、対立的な、相互に前提しあい、相互に斥撥しあう両極なのである。(23)〉(同上53頁)

 

《初版付録》

 

  〈最後に、形態IIIにおいては、商品世界は一般的社会的な相対的価値形態をもっているが、このことは、商品世界に属するすべての商品が、等価形態あるいは直接的な交換可能性という形態から排除されているからこそであり、また、そのかぎりにおいてのことでしかない。〉(江夏訳903頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈             [A]

  さいごに、形態III、

           1着の上着        =

           1 0ポンドの茶     =

           1クオーターの小麦 = 2 0エレのリンネル

           x商品のA         =

                    その他の商品      =

 において、商品世界が一般的社会的な相対的価値形態をもつのは、全ての商品が、ただ一つの商品をのぞいて、等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりにおいてでのことにすぎない。リンネルという一つの商品が、ここで、他の全ての商品との直接的交換可能性の形態または直接的社会的形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態にないからであり、またその限りでのことである。(これに対する注、本文p.31と注23)

 それゆえここでは、相対的価値形態自身が諸商品を等価形態から排除している。一般的等価物として機能し、それゆえ、商品の一般的相対的価値形態から排除されている商品については逆である。

  一般的等価物として機能する商品の相対的価値は、そのように等式を逆転することによって表現され、それゆえ・・・・に解消する。

               [B]

  最後の形態、形態Eが、最終的に商品世界に一般的相対的価値形態をあたえる。

               [B2]

 ・・・ 、ただ一つの例外をのぞいて、すべての商品が等価形態から排除されているからであり、またその限りにおいてである。だから、リンネルという一つの商品が他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接的社会的形態にあるのは、他のすべての商品がそこにないからでありまたその限りでのことである。(これに対する注、本文p.31 と注23)

  一般的等価物として機能し、商品の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態から排除されている商品については逆である。〉(小黒訳下24-5頁)

 

《フランス語版》

 

 〈終りに、最後の形態である形態IIIは、諸商品全体に一般的で画一的な相対的価値表現を与えるが、それは、この形態がただ一つの商品を例外として、他のすべての商品を等価形態から排除するからであり、またそのかぎりでのことである。したがって、リンネルという一商品は、他のすべての商品との直接的交換可能性という形態のもとにあるが、それは、他のすべての商品がこの形態のもとにないからであり、またそのかぎりでのことである。(23)〉

 

●【注24】に関するもの

 

《初版本文》

 

 〈(23)商品生産という形態のなかに人間の自由と個人の独立との頂点を見る小市民にとっては、この形態につきものの不都合から、ことにまた諸商品の非直接的交換可能性から免れるということは、もちろん、大いに望ましいことであろう。この俗物的なユートピアを描きあげたものが、プルードンの社会主義であって、この社会主義は、私が他の箇所で示しておいたように、けっして独創性という功績をもっているわけではなく、むしろ、彼よりもはるか以前に、ブレーやグレーやその他の人人々の手で、はるかにもっとうまく叙述されていた。このことは、このような知恵が今日フランスでは「科学」という名のもとではびこっているのを、妨げてはいない。プルードン学派ほど、「科学」という言葉を乱用した学派はなかった。なぜならば、「まさに概念の欠けているところに、言葉がうまく間にあうようにやってくるものなんだ。」ゲーテ『ファウスト』岩波文庫版、相良守峯訳、第1部、133頁、より引用〕。〉

 

《フランス語版》

 

 〈(23) 直接的、普遍的な交換可能性という形態は、一見したところでは、次のことをすこしも示していない。すなわち、この形態は、自己のうちに対立を含んでいる分極形態であって、磁石の一方の極の陽極としての役割が、他方の極の陰極としての役割から分離できないのと全く同じように、この形態は、直接的な交換が不可能であるような反対の形態から分離できない、ということ。したがって、人は、すぺての商品を直接的に交換可能なものにする能力が自分にある、と想像することができる。ちょうど、すべてのカトリック教徒を同時に教皇にすることができる、と想像することもできるように。だが、実際には、一般的な相対的価値形態と一般的な等価形態とは、諸商品の同じ社会的関係の、相互に想定しあい相互に排除しあう二つの対極なのである。  諸商品間の直接的交換がこのように不可能であることは、現在の生産形態--ブルジョア経済学者はこの生産形態のうちに人間の自由と個人の独立との絶頂を見ている--に結びついている主要な不都合の一つであるが、この障害を克服するために、多くの無駄で空想的な努力が試みられてきた。私が別の場所で示したように、この試みではプルードンは、プレーやグレーやその他の人々に先を越されていたのである。〉(江夏他訳42頁)

 

・ブレイ、ジョン・フランシス(1809-1895)アメリカ生まれのイギリスのユートピア社会主義者、経済学者としてはオーエンの信奉者、職業は植字工、1837年創立のリーズ労働者協会の会計係、1842年にアメリカに帰る。ブレイの著書は『労働者の不当な処遇と労働者の救済策』(1839年)があるが、『哲学の貧困』ではそこからかなり長い引用がなされている(全集第4巻97-106頁参照)。そのなかでマルクスが結論的に述べている部分を紹介しておこう。

 〈はじめにあったのは、生産物の交換ではなくて、生産に困協力する労働の交換である。生産物の交換様式は、生産諸力の交換様式に依存するのである。一般に、生産物の交換の形態は、生産の形態〔生産様式--ドイツ語版〕に照応する。後者を変えれば、それに応じて前者も変化するようになるであろう。それゆえにわれわれは社会の歴史のなかに、生産物を交換する様式がそれらの生産物を生産する様式にもとついて規定されるのを見るのである。私的交換もまた一定の生産様式に照応している。そして、この生産様式そのものがまた、諸階級の敵対関係に照応しているのである。だから、階級対立がなければ私的交換はありえない。  しかし、実直な〔ブルジョア的〕良心はこの明白な事実を拒否する。ブルジョアであるかぎり、人はこの敵対関係をば、他人の犠牲において自分だけ儲けることをだれにも許さない調和と永遠の正義の関係〔状態--ドイツ語版〕とみなすほかには、どうしようもないのである。ブルジョアにとっては、私的交換は諸階級の敵対関係がなくとも存続しうるのである。彼にとっては、私的交換と階級対立とは、まったく関係のない事がらなのである。ブルジョアが心のなかで考えているような私的交換は、実際におこなわれている私的交換とは似てもつかぬものなのである。  ブレイ氏は、実直なブルジョアの幻想をば、彼が実現したいと念願している理想に祭りあげる。私的交換を浄化することによって、私的交換のなかに彼の見いだすいっさいの敵対関係を除去することによって、彼が社会のなかに忍びこませようと念願している「平等主義的」諸関係を見いだすことができる、と彼は信じこんでいるのである。  ブレイ氏がこの世の中に適用しようと念願しているこの平等主義的関係なるものは、この、現実を是正する理想なるものは、それ自体が現在の社会の反映にすぎないのであり、したがってまた、現在の社会の美化された影にほかならぬものを基礎として社会を再建することはまったく不可能なことを、氏は理解しないのである。この影がふたたびはっきりとした姿となるにつれて、人々は、この姿が社会の夢想された理想像であるどころか、社会の実際の姿であることに、気づいていくのである。〉(全集第4巻105-6頁)

 

・グレイ、ジョン(1798-1850)、イギリスのユートピア社会主義者、ロバート・オーエンの門弟。グレイの著書は『社会制度論、交換原理についての一論』(1831年)、『貨幣の性質および用途にかんする講義』(1848年)等がある。マルクスは、『経済学批判』でグレーの学説について詳しく言及している(全集第13巻66-69頁参照)。今その最初の部分を紹介しておこう。

 

 〈労働時間を貨幣の直接の度量単位だとする学説は、ジョン・グレーによってはじめて体系的に展開された。彼は、国民のための一つの中央銀行に、その支店をつうじて種々の商品の生産についやされる労働時間を確かめさせようとする。生産者は、商品と引き換えに公式の価値証明書、すなわち彼の商品がふくんでいるだけの労働時間にたいする受領証を受け取る。そして一労働週、一労働日、一労働時間等々のこれらの銀行券は、同時に、銀行の倉庫に収納されている他のすべての商品のかたちでの等価物にたいする指図証券として役だつ。これがその根本原則であって、それは細目にわたって、またすべて現存のイギリスの諸制度にもとづいて、注意ぶかく考えぬかれている。(以下略)〉(66頁)

 

●【7】パラグラフに関するもの

 

《初版本文》

 

 〈上着の相対的価値形態が一般的であるのは、上着のそれが同時に、すべての他商品の相対的価値形態であるからにほかならない。上着にあてはまることは、コーヒー等々にもあてはまる。だから、諸商品の一般的な相対的価値形態はこれらの商品そのものが一般的な等価形態から排除する、という結果になる。逆に、リンネルのような一商品は、それが一般的な等価形態をもつやいなや、一般的な相対的価値形態から排除される。リンネルの一般的な、他の諸商品と統一的な、相対的価値形態は、20エレのリンネル=20エレのリンネル であろう。だが、これは同義反覆であって、この同義反、一般的な等価形態にありしたがって絶えず交換可能な形態にあるこういった商品の価値量を、表現するものではない。むしろ、20エレのリンネル=1着の上着、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=等々という発展した相対的価値形態が、いまでは、一般的な等価物の独自な相対的価値表現になるのである。〉(江夏訳51-2頁)

 

《初版付録》

 

 〈逆に、一般的な等価形態にある商品、すなわち、一般的な等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態からは、排除されている。もしリンネルが、すなわち一般的な等価形態にあるなんらかの一商品が、同時に、一般的な相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は、等価物としての自分自身に関係させられなければならないであろう。そうなると、われわれの手にはいってくるものは、20エレのリンネル20エレのリンネル という、価値も価値の大きさも表現されることのない同義反覆である、ということになる。一般的な等価物の相対的価値を表現するためには、形態IIIを逆にしなければならない。一般的な等価物は、他の誇商品と共通な相対的価値形態をなんらもっていないのであって、それの価値は他のすべての商品体の無限の系列のうちに相対的に表現されている。こうして、いまでは、発展した相対的価値形態、すなち形態IIが、一般的な等価物の役割を演ずる商品の独自な相対的価値形態として、現われているわけである。〉(江夏訳903頁)

 

《フランス語版》

 

 〈この形態IIIのもとでは、商品世界が社会的、一般的な相対的価値形態をもっているのは、その世界を構成するすべての商品が、等価形態から、すなわち、それらの商品が直接的に交換可能であるところの形態から、排除されているからにほかならない。これと反対に、一般的等価物として機能する商品、たとえぽリンネルは、一般的な相対的価値形態に参加することができないであろう。参加するためには、リンネルは自分自身のために等価物として役立つことができなければならないであろう。そのばあい、20メートルのリンネル20メートルのリンネル という、価値も価値量も表現しない同義反復が得られる。一般的等価物の相対的価値を表現するためには、形態IIIをあぺこべに読まなければならない。一般的等価物は、他の商品と共通な相対的形態をすこしももたないのであって、その価値は、他のすべての商品の果てしない系列のうちに相対的に表現される。このようにして、発展した相対的価値形態、すなわち形態IIはいまや、一般的等価物が自分自身の価値をそのうちに表現するところの独自な形態として現われる。〉(江夏42-3頁)

 



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