目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
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第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第26回「『資本論』を読む会」の案内

『 資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

                                    

 参院選が公示されました。

 

 菅直人首相は、所信表明演説や記者会見のなかで、「『強い経済』゛『強い財政』゛『強い社会保障』の一体的実現を、政治の強いリーダーシップで実現していく」と訴え、「経済成長を大きな軸に置き、2011年度予算編成に当たりたい。成長を支えるには強い財政が必要だ。日本の債務残高は国内総生産(GDP)比180%を超えている。ギリシャの例を引くまでもなく、財政が破綻すれば人々の生活、社会保障が破綻する」と消費税率引き上げの必要性を強調。「早期に超党派で議論を始め、自民党が提案した税率10%を一つの参考にしたい」と具体的な数値にまで言及したために、俄かに消費税の引き上げが、参院選の大きな争点として浮上してきました。

 

 

 2010年度の国債発行は、総額162兆4139億円を計画。09年度当初より30兆1285億円増。10年度末の国債発行残高(財投債除く)は637兆円の見込みで、国民1人あたり499万円の借金になる計算です。 国家財政が早くからすでに破綻していることは明らかです。そしてそのツケがやがては国民に押しつけられるだろうということも容易に予測できました。しかしそれがよりにもよって民主党政権によって実行されようとしているのです。

 

 

 理念先行の美辞麗句だけの鳩山内閣に代わって、庶民派宰相・菅内閣の誕生で少しはましな政治になるのかと期待しましたが、とんでもありません。菅政権は、“現実主義”の名のもとに、財政破綻のツケを庶民に押しつける大増税に先鞭をつける歴史的役割を果たそうとしているかです。まったく酷い内閣が誕生したものです。

 

 現在の財政破綻に国民が何か責任があるのでしょうか。決して否です。歴代の自民党政府が膨大な赤字国債を毎年毎年発行してきたのは、資本の危機を救済するがためです。特に90年代のバブル崩壊後の深刻な不況では、銀行などバブル時に“濡れ手に粟”のぼろ儲けをした資本家たちを救済するために膨大な資金を提供してきました。何度も景気浮揚策と称して無駄な公共事業にカネをつぎ込むために赤字国債を垂れ流してきたのです。現在の財政破綻に責任を負わなければならないのは独占資本なのです。ところが現在の独占資本は税金をほとんど払っていません。税収に占める法人税の割合は極めて少なくなっています(図表参照)。

 

 にも関わらず、菅政権は、そうした独占資本には法人税の減税を約束する一方で、財政破綻のツケをすべて国民を押しつけようというのです。消費税は、所得税のように国民が直接その痛みを感じることなく収奪できる、政府にとって都合のよい税制です。だからこれに一度手をつけると止めども無く、それに頼る財政が累進的に進むのです。

 

 マルクスは国債と税制は不可分の関係にあり、生活手段に課税する消費税を軸とする財政は、それ自体に自動累進の萌芽を含んでいると次のように指摘しています。

 

 《国債は国庫収入を後ろだてとするものであって、この国庫収入によって年々の利子などの支払がまかなわれなければならないのだから、近代的租税制度は国債制度の必然的な補足物になったのである。国債によって、政府は直接に納税者にそれを感じさせることなしに臨時費を支出することができるのであるが、しかしその結果はやはり増税が必要になる。他方、次々に契約される負債の累積によってひき起こされる増税は、政府が新たな臨時支出をするときにはいつでも新たな借入れをなさざるをえないようにする。それゆえ、最も必要な生活手段にたいする課税(したがってその騰貴)を回転軸とする近代的財政は、それ自体のうちに自動的累進の萌芽をはらんでいるのである。過重課税は偶発事件ではなく、むしろ原則なのである。それだから、この制度を最初に採用したオランダでは、偉大な愛国者デ・ウィットが彼の筬言(しんげん)のなかでこの制度を称賛して、賃金労働者を従順、倹約、勤勉にし……これに労働の重荷を背負わせるための最良の制度だとしたのである。》(『資本論』第1部全集23巻b986-7頁)

 

 増税押しつけの菅民主党政権には、この参院選挙でキッパリとノーを突きつけなければなりません。貴方も国債と税制のからくりを見抜くためにも、ともに『資本論』を読んでみませんか。

 


第26回「『資本論』を読む会」の報告

第26回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎さーァ、暑い夏がきた

 

 うっとうしく長く続いた梅雨が、激しい雷雨によって開け、一転、暑い夏がやってきました。

 

 大雨をもたらした激しい雷雨は各地に大きな被害をもたらしましたが、私ごとながら、我が家でも、落雷が近くに落ちたためか、パソコンのモニターがフラッシュ状態になり、間欠的にしか画面が見えなくなる被害を被りました。結局、諦めて新しいモニターを購入する羽目に。

 

 しかし土曜日からは一転して夏日になり、第26回「『資本論』を読む会」も、真夏に相応しい強い日差しのなかでの開催となりました。子供たちにはうれしい夏休みにも突入。連日、猛暑日が続いています。おかげで全く集中力が働かず、この報告もアップが遅れました(これは言い訳)。

 

 今回からは〈B 全体的な、または展開された価値形態〉という新しい項目に入りました。とにかく、その報告を行うことにしましょう。

 

◎「全体的な、または展開された」とは?

 

 JJ富村さんが、突端から、〈「全体的な、または展開された」というのは、等価形態について言っているのだろうか?〉という質問を発したものですから、まずは、この新しい項目そのものの解釈が問題になり、おかげで、この項目の位置づけや全体の構成、見通しが話し合われました。まず、そこから確認しておくことにしましょう。

 

 今回から学習する新しい項目Bは、いうまでもなく、〈A 単純な、個別的な、偶然的な価値形態〉のより発展したものです。そしてAと同じように、Bも、価値形態の兩極である、相対的価値形態と等価形態がそれぞれに分析され、その上で、それらが総合されて、この新しい発展した価値形態であるBの欠陥が指摘され、次の発展段階への移行が考察される、という展開になっています。

 

  ただ相対的価値形態にしても、等価形態にしても、あくまでも「全体的な、展開された価値形態」としてのそれであり、これまでの単純な価値形態の考察を前提に、展開された価値形態に固有の問題を、それぞれについて明らかにしているわけです。 まず相対的価値形態については、最初はその質的な考察を行い、次いでその量的考察が行われています。等価形態については、Bに固有の特徴として、その特殊的な性格が明らかにされています。

 

  そして次の価値形態(C 一般的価値形態)への移行として、展開された価値形態が全体として考察され、その欠陥がかなりの分量で考察されています。

 

  この展開された価値形態から、次のステップである一般的価値形態への移行については、多くの論争がありますが、JJ富村さんも、その問題に関連する質問を発して、かなりの拘りを示したのですが、しかし、この問題は今回はやらずに、次回に回すことにしました。

 

 とにかく、〈B 全体的な、または展開された価値形態〉とはどういうものか、その具体例を示しておきましょう。

 

【2】

 

 〈(20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=40ポンドのコーヒー または=1クォーターの小麦 または=2オンスの金 または=1/2トンの鉄 または=等々)〉

 

 これが〈全体的な、または展開された価値形態〉です。

 

  ここでピースさんのレジュメでは、「A商品=B商品の関係にあっては、個別的に等しいとされていた関係が、他の全ての商品と等しいという関係を形成することによって、等しい内容が一般的な現象として表されることになる」とあったので、「一般的な現象」という言い方はどんなものだろうか、という疑問が出され、この価値形態の性格が問題になりました。亀仙人は、この形態の特徴は〈20エレのリンネル=1着の上着〉という単純な形態だけでなく、〈20エレのリンネル=10ポンドの茶〉、〈20エレのリンネル=40ポンドのコーヒー〉、〈20エレのリンネル=1クォーターの小麦〉等々という単純な価値形態の無限の列が並ぶというところにあるのではないか、つまり一つの商品の単純な価値形態が並列することで、そうした無限の列そのものによって、今度は一つの商品の価値が表現されているところに特徴があるのではないか、いわばリンネル以外の他の多くの商品が「共同的」に一つの商品であるリンネルの価値を表現しているのではないか、と指摘しました。

 

 また同時に、初版付録では、この後に、現行版やフランス語版にもない、次のような項目とパラグラフが入っていることも指摘されました。

 

 〈(一) 列の無限性

 

 〈このような、単純な相対的な諸価値表現の列は、その性質上、いくらでも延長されることができ、言い換えれば、けっして終結することがない。なぜならば、絶えず新たな商品種類が出現して、どの新たな商品種類も新たな価値表現の材料となるからである。〉(国民文庫156頁)

 

 とにかく、具体的なマルクスの説明を検討して行くことにしましょう。今回もまず本文を紹介し、その各文節ごとに(イ)、(ロ)・・・・と記号を打ち、文節ごとに詳しく見ていくことにします。

 

◎相対的価値形態の質的考察

 

 まず最初は、〈全体的な、または展開された価値形態〉の相対的価値形態の質的考察が行われます。

 

【1】

 

 〈 (イ)ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。 (ロ)他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる(23)。 (ハ)こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。 (ニ)なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。 (ホ)すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてこの労働に等しいとされているからである。 (ヘ)それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。 (ト)商品として、リンネルはこの世界の市民である。(チ)同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。〉

 

   (イ) リンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の商品によって表されています。

 

  ここで「商品世界」という言葉が出てきますが、以前にもこの言葉については説明したことがあったと思います。これは商品自身が主体となって互いに関係し合う世界のことでした(第18回報告を参照)。リンネル自身が、商品世界にある、他のあらゆる商品に関係して、自身の価値を表現している形態(価値形態)と考えることができます。

 

 (ロ) そしてこの関係においては、「他の商品体」、つまり他のすべての商品の諸使用価値、その自然諸姿態は、どれもリンネルの価値を写し出す鏡になるわけです。

 

 (ハ) こうして初めて、本当に、実際的にも、リンネルの価値は無差別な人間労働の凝固として現われています。

 

 (ニ)、(ホ) なぜなら、リンネルの価値を形成する労働は、いまでは明瞭に、他のすべての商品に支出されている労働に等しいとされているからです。リンネルの価値を形成する労働は、ある場合には裁縫労働の姿をとり、ある場合には茶を生産する労働の姿をとり、ある場合にはコーヒー生産労働と同じであり、小麦生産労働と同じ等々だからです。つまりリンネルの価値を形成する労働は、他のすべての具体的な労働と同じなのですが、だからこそそれはその無限の同等性によって、それ自体が無差別な人間労働そのものの凝固であることを、実際的にも明らかにしているのだといえるからです。

 

 (ヘ) だから、いまではリンネルはその展開された価値形態によって、単純な価値形態の場合のように、ただ一つの種類の商品に対してだけではなくて、商品世界のすべての商品種類に関係し、自身の価値を表すのですから、商品世界と社会的な関係に立っていることになります。

 

 (ト) リンネルは、商品として、この世界の市民なのです。つまり商品として認められ、この同じ商品社会の一員であることが示されているわけです。

 

 (チ) 同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品の価値はそれが現われる使用価値の特殊な諸形態には無関係だということが示されていることでもあるのです。

 

 ここでリンネルを商品世界の「市民」としているのは、示唆的です。商品世界というのは商品自身が主体として互いに関係し合う世界であること、商品が互いに関係して一つの世界を形作っている(しかもそれは人間の意識から自立して、反対に人間をそれに従属させるような物象的な世界として立ち現れている)ことを考えれば、こうしたアナロジーは理解できます。近代的な市民社会も個々の人間が個々バラバラな一市民としてその構成員になって形成する社会ですが、市民社会そのものを個々の市民がコントロールしているのではなく、むしろ彼ら自身の関係である市民社会は彼ら自身からは自立して、反対に彼らをしばり統制する社会として立ち現れていますが、商品世界もまったく同じだといえるからです。

 

 次は(ロ)の文節につけられた〈注23〉についてですが、これも一応検討しましたので、紹介しておきます。しかし今回は文節ごとの考察は省略します。

 

【注23】

 

 〈(23) それゆえ、リンネルの価値を上着で表わす場合にはリンネルの上着価値と言い、穀物で表わす場合にはリンネルの穀物価値と言ったりするのである。このような表現は、どれもみな、上着や穀物などという使用価値に現われるものはリンネルの価値だということを意味している。「各商品の価値は、交換にさいしてのその商品の割合を表わすのだから、われわれは、各商品の価値を、その商品が比較される商品がなんであるかにしたがって……穀物価値とか布価値とか呼ぶことができるであろう。したがってまた、そこにある商品と同じ数の違った価値の種類があって、それらはみな等しく真実でもあり、また等しく名目でもある。」(『価値の性質、尺度および諸原因に関する批判的論究。主としてリカード氏とその追随者たちの諸著作に関連して。意見の形成と公表とに関する試論の著者の著』、ロンドン、一八二五年、三九ページ。〔日本評論社「世界古典文庫」版、鈴木訳『リカアド価値論の批判』、五四ページ。〕)当時イギリスで大いに騒がれたこの匿名の書の著者S・べ-リは、このように同じ商品価値の種々雑多な相対的表現を指摘することによって、価値の概念規定をすべて否定し去ったと妄信している。それにしても、彼自身の偏狭さにもかかわらず、彼がリカード学説の急所に触れたことは、たとえば「ウェストミンスター・レヴュー』のなかで彼を攻撃したリカード学派の立腹がすでに証明したところである。〉

 

 だからリンネルの価値を上着で表す場合は、リンネルの上着価値といい、穀物で表す場合にはリンネルの穀物価値と言ったりするのです。そしてこのような表現は、上着や穀物などという使用価値に現われるものはリンネルの価値だということを意味しています。こうしたことから、リカードを批判するベーリーは商品の内在的な価値を否定し、商品の価値は、その時々の商品が交換される割合を表すだけだから、だからわれわれはその商品が比較される他の商品の種類によって穀物価値とか布価値というのだ、それらはすべて異なる種類の商品の数だけのその商品の価値の種類があることを示しており、よってそれはすべて等しく真実であり、名目でもある、という主張をしたのです。このようにベーリーは種々雑多な商品の価値表現を羅列することによって、価値の概念規定をすべて否定したと妄信したのです。それは確かに彼の偏狭さを示すものですが、しかし彼が、労働時間による価値規定を主張しながら、価値の形態には何ら注意を与えなかったリカード学説の急所に触れたことは確かであり、それはリカード学派が彼を激しく攻撃したことによっても証明されています。

 

 ここで〈リカード学説の急所〉というのは何かが問題になりました。これはリカードが価値の大きさをそれに対象化されている労働時間に還元はしたが、その形態には注意を払わなかったことではないか、との説明がありましたが、もう少し『剰余価値学説史』から関連すると思われる部分を紹介しておきましょう。

 

 〈リカードは、商品の相対的価値(または交換価値)は「労働の量」によって規定されるということから出発する。(われわれは、リカードが使っている価値という言葉のいろいろな意味を、結びのところで検討することができる。ベーリの批判、同時にリカードの欠陥は、これに基づいている。)この「労働」の牲格は、これ以上には研究されていない。もし二つの商品が等価である--または一定の比率で等価である、または、同じことであるが、それらが含んでいる「労働に応じて大きさが違う--とすれば、その場合には、それらの商品は、それらが交換価値であるかぎりでは、実体の点では、相等しいということも明ちかである。それらの商品の実体は労働である。だからこそ、それらの商品は「価値」なのである。その大きさは、それらの商品がこの実体をより多く含むか、または、より少ししか含まないかに応じて違っている。ところで、リカードは、この労働の姿態--交換価値をつくりだすものとしての、または交換価値で表わされるものとしての、労働の特殊な規定--を、この労働の性格研究していない。したがって彼は、この労働貨幣との関連を、すなわちこの労働が貨幣として表わされなければならないことを、理解していない。したがって彼は、商品の交換価値の労働時間による規定と、諸商品が貨幣形成にまで進む必然牲とのあいだの関連を、まったくつかんでいない。ここから彼のまちがった貨幣理論が出てくる。彼の場合には、はじめからただ価値の大きさだけが問題なのである。すなわち、商品の価値の大きさはその生産に心要な労働量に此例するということだけが問題なのである。ここからリカードは出発する。彼は、A・スミスを自分の出発点として、はっきり指摘している(〔リカード『経済学および課税の原理』〕第一章第一節)。 

  ところで、リカードの方法は、次のようなものである。すなわち、彼は、商品の価値の大きさは労働時間によって規定されるということから出発し、次いで、その他の経済的な諸関係や諸範疇がこの価値の規定に矛盾するかどうか、または、それらがこの価値の規定をどの程度修正するか、を研究する。経済学の歴史におけるこのようなやり方の歴史的な正当性とその科学的な必然性とは一見しただげで明らかであるとはいえ、同時にまた、それの科学的な不十分性も一見しただけで明らかである。この不十分性は、単に叙述の仕方のうちに(形式的に)現われるだけでなく、まちがった結論に導くものでもある。というのは、それは必要な諸中間項を飛び越えて直接的な仕方で経済学的諸範躊の相互の整合を証明しようとするのだからである。〉(26巻II209-210頁)

 

 〈べーリは、はじめのほうにあげた著書のなかで次のように言う。「彼ら」(リカードとその追随者たち)「は、価値を二つの物のあいだの関係とはみなさないで、それをある一定の労働量によって生産された積極的な所産とみなしている。」(〔べーリ『価値の性質、尺度、諸原因に関する批判的論究、……』〕三〇ページ。〔世界古典文庫版、鈴木鴻一郎訳『リカード価値論の批判』、目本評論社、四七ページ。〕)  彼らは「価値をなにか内在的かつ絶対的なものと」(同前、八ページ〔鈴木訳、三ニページ〕)みなしている。 

  あとのほうの非難がでてくるのは、リカードの欠陥の多い叙述のためである。というのは、彼は、価値をその形態--価値の実体としての労働が取るところの特定の形態--に関して研究することをまったくやらないで、ただ価値の大きさだけを、諸商品の価値の大きさの相違をひき起こすところの、この抽象的-一般的な、そしてこの形態においては社会的な労働の量を研究しているだけだからである。もしそうでなかったなら、べーリは次のことがわかったであろう。すなわち、すべての商品が交換価値であるかぎり、それらの商品はただ社会的労働時間の相対的な表現にすぎないということによって、価値概念の相対性はけっして廃棄されないということ、また、すべての商品の相対性は、けっしてただこれらの商品の相互に交換される関係だけから成っているのではなく、これらのすべての商品が、それらの実体であるこの社会的労働にたいしてもつ関係からも成っているのだということ、である。〉(26巻II220頁)

 

◎相対的価値形態の量的考察

 

 次は、〈全体的な、または展開された価値形態〉の相対的価値形態の量的考察です。

 

【2】

 

 〈 (イ)第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。 (ロ)これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。 (ハ)リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。 (ニ)二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。 (ホ)交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる。〉

 

 (イ) 第一の形態、つまり〈A 単純な、個別的な、偶然的な価値形態〉である、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的割合で交換されるということは、偶然的事実であり得ます。

 

 (ロ) これに対して、第二の形態、つまり〈B 全体的な、または展開された価値形態〉では、偶然的現象とは本質的に違っていることを示唆しています。つまりそれを規制している背景が、すぐに現われてくるのです。  ここで〈それを規制している背景〉というのは何を指しているのかが問題になりましたが、これはその後に説明されていることであるが、二つの商品が交換される割合を規制するのは、二つの商品の価値量だということであろう、ということになりました。

 

 (ハ) リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄などの無数の違った商品所持者のものである無数の異なる商品のどれで表されようと、常に同じ大きさかであることが分かってきます。

 

 (ニ)、(ホ) だから二人の個人的な商品所持者の偶然的な関係はなくなり、交換が商品の価値量を規制するのではなくて、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規定するということが明らかになっています。

 

 「単純な価値形態の全体」のところで、〈商品の単純な価値形態は、同時に労働生産物の単純な商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展は価値形態の発展と一致する〉と指摘されていたことが、ここでは具体的に論じられているように思えます。つまり、明らかにマルクスは単純な価値形態(第一形態)から展開された価値形態(第二形態)への発展を、歴史的な商品形態の発展との関連のなかで考察し、論じているように思えるのです。

 

  ところが、久留間鮫造著『貨幣論』では「簡単な価値形態はどういう意味で『偶然的』であるのか」という項目のなかで、「安易に歴史的発展と結びつけてはならない」とサブタイトルで書かれていることが紹介され、この点、どのように考えたらよいのか、少し議論になりました。『貨幣論』から少し紹介してみましょう。

 

  まず大谷氏が〈またこの「偶然的な」というのは、価値形態の歴史的発展の過程と関連づけて理解することができるのでしょうか。そのような見解もあるように思いますが〉(同書89頁)と問題を提起したのに対して、久留間氏は、『資本論』の冒頭のパラグラフを紹介して、〈これによっても、ここでの分析の対象とされている商品は「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富」の「基本形態として現われる」商品であって、商品生産がまだ一般化していないで生産物が偶然的に商品になるような場合の商品でないことは明らかだと思います〉(同)と応えています。そして単純な価値形態を「偶然的」とするのは〈これはとりもなおさず、展開した価値形態の場合に等価形態を構成していた無数の商品種類のうちから、たまたま上着を取り出してきたにすぎません。……そういう意味で、マルクスは、簡単な価値形態を「偶然的な価値形態」と言っているのでしょう〉(同90頁)と応えています。そして〈このいわゆる偶然的な価値形態は歴史的発展の過程と関係づけることができるものなのかどうか、とう質問ですが、こうしたことが問題になるのは、恐らく、同じ『資本論』のなかに次のような記事が見いだされるからだと思います〉(同91頁)と述べて、次の一文が紹介されています。

 

 〈第一の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄 などという価値等式を与えた。上着価値はリンネルに等しいもの、茶価値は鉄に等しいものというように表現されるのであるが、しかし、リンネルに等しいものと鉄に等しいものとは、すなわち上着や茶のこれらの価値表現は、リンネルと鉄とが違っているように違っている。この形態が実際にはっきりと現われるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折りの交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。〉(全集版89頁)

 

 そして次のように述べています。

 

 〈なるほどここには、「この形態」は「労働生産物が偶然的な……交換によって商品に転化される最初の時期」に「実際に現われる」と書かれていますが、ここで「この形態」と言っているのは、左右両辺のどちらもただ一つの種類の商品がおかれている、等式としての形態であって、これを、商品の価値表現の基本的な形態としての簡単な価値形態と同じだと読んだら、とんでもない間違いになるでしょう。〉(同92頁)

 

 しかしこのような久留間氏の説明は納得が行きません。久留間氏が紹介している引用文は、価値形態の次の発展段階である〈C 一般的価値形態〉に出てくる一文なので、当然、私たちも、そこで問題にするとは思いますが、少し今の段階で触れておくならば、マルクスがここで「この形態」と述べているのは、明らかに「第一の形態」のことであり、そしてマルクスが「第一の形態」と述べているのは、われわれが今問題にしているパラグラフを見ても、それは「単純な価値形態」を指していることは疑うことのできないことだからです。

 

  だからマルクスは明らかに単純な価値形態から展開された価値形態、さらに一般的価値形態への発展を商品形態の歴史的な発展と関連させて論じていることは明らかなのです。では、どうしてマルクスは資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富の基本形態としての商品の分析を行っているのに、それを歴史的な商品形態の発展と関連させて考察しているのでしょうか。それはマルクスの「経済学の方法」と密接に関連しています。マルクスは『経済学批判要綱』のなかで、それに関連して次のように述べています。

 

 〈他方--これはわれわれにとってはるかに重要なことであるが--、われわれの方法は、歴史的考察が入って来なければならない諸地点を、言い換えれば、生産過程のたんに歴史的な姿態にすぎないブルジョア経済が自己を超えてそれ以前の歴史的な生産諸様式を指し示すにいたる諸地点を、示している。だから、ブルジョア経済の諸法則を展開するためには、生産諸関係の現実の歴史を記述する必要はない。とはいえ、この生産諸関係を、それ自体歴史的に生成した諸関係として正しく観察し演繹するならば、それはつねに、この体制の背後にある過去を指し示すような、最初の諸方程式--例えてみれば自然科学における経験的諸数値のようなもの--に到達するのである。とすれば、これらの示唆は、現在あるものを正しく把握することとあいまって、過去の理解--これは一つの独立した仕事であって、これにもいずれは取り組みたいものだが--への鍵をも提供してくれる。同様にしてこの正しい考察は、他方で、生産諸関係の現在の姿態の止揚--それゆえ未来の予示、生成していく運動--が示唆されるにいたる諸地点に到達する。一方では前ブルジョア的諸段階が、たんに歴史的な、すなわちすでに止揚された諸前提として現われ、他方では今日の生産諸条件が、自己自身を止揚する諸条件として、それゆえまた、新たな社会状態のための歴史的な諸前提を措定する諸条件として現われるのである。〉(『経済学批判要綱』草稿集②100-1頁、強調=下線はマルクス)

 

 つまりそれ自体が歴史的存在である近代ブルジョア社会の正しい認識は、不可避に一方では対象の歴史的に遡った過去の諸関係へと私たちを導くのであり、他方ではその未来の諸関係へも、すなわちそれ自身の中に自己を止揚する諸条件が生まれつつあることを私たちに示すのです。だから、私たちの認識は対象の歴史性にまで至ってこそ本当に正しいものになりうるということができるのです。だから冒頭の商品の分析で対象にしているのは、確かに資本主義的生産様式が支配的に行われている社会における商品なのですが、しかし資本主義的生産様式そのものも長い過去を持つ存在であり、歴史的に生成し、発展し、そして消滅していく限界あるものです。だからその正しい観察と分析は不可避に、それぞれの諸範疇自身(それらもまたそれぞれに固有の歴史を持っている)の過去へと私たちを誘導するのです。こういうわけで、マルクスは価値形態の発展は商品形態の発展と一致すると指摘し、両者を関連づけて論じているのだと思います。

 

◎特殊的等価形態

 

 これまでは、展開された価値形態の「相対的価値形態」の考察でしたが、今度は、「等価形態」の考察です。「展開された価値形態」の等価形態の特徴は、その「特殊的」なところにあります。よって、次の小見出しは〈二 特殊的等価形態〉となっています。まずそのパラグラフの紹介をしましょう。

 

【1】

 

 〈 (イ)上着や茶や小麦や鉄などの商品はどれもリンネルの価値表現では等価物として、したがってまた価値体として、認められている。 (ロ)これらの商品のそれぞれの特定の現物形態は、いまでは他の多くのものと並んで一つの特殊的等価形態である。 (ハ)同様に、いろいろな商品体に含まれているさまざまな特定の具体的な有用な労働種類も、いまでは、ちょうどその数だけの、人間労働そのものの特殊な実現形態または現象形態として認められているのである。〉

 

 (イ) 展開された価値形態においては、等価形態に置かれる諸商品、上着や茶や小麦や鉄などは、いずれもリンネルの価値の等価物として、したがって価値体として、つまりその使用価値、自然姿態が価値を表すものとして、認められています。

 

 (ロ) これらの諸商品のそれぞれの特定の現物形態は、いまでは他の多くの現物形態と並べられることによって、一つの特殊的な等価形態となっています。

 

 (ハ) そしてそのことは、同様に、それぞれの商品体(諸使用価値)に含まれているさまざまな特定の具体的な有用労働種類も、やはりいまでは、つまり他のさまざまな有用労働と並ぶことによって、ちょうどその数だけの、人間労働そのもの(人間労働一般)の特殊な実現形態または現象形態として認められているのです。

 

 ここで「展開された価値形態」の等価形態が、特殊的等価形態であることの意味について少し議論になりました。ヘーゲルの論理学ではその概念論の最初の概念そのものの三つのモメントとして、普遍、特殊、個別が検討されていますが、これとどのような関係にあるのか、ということも話題になりました。

 

  「展開された価値形態」の等価形態が「特殊的」であるのは、さまざまな無限の等価物が並列された中での「特定のもの」という意味だと思います。それに対して、単純な価値形態の等価形態が「個別的」であるのは、この場合も確かに特定の商品が等価物に置かれるという点では同じですが、しかし、この場合はたまたまその商品が等価形態に置かれたにすぎず、別の他の多くの商品が同時に等価物に置かれていることを前提していません。ところが「展開された価値形態」の等価形態は、そうした無限の諸商品による等価形態を前提した上での、特定の等価形態だという意味で「特殊的等価形態」なのです。

 

  ヘーゲル概念論の普遍、特殊、個別と無理やり関連づける必要性もないのですが、マルクス自身は単純な価値形態の全体を〈一連の変態を経てはじめて価格形態に成熟するこの萌芽形態〉と述べており、それが発展して貨幣形態になるとの考えがあることは明らかだと思います。ヘーゲルの「個別」は自己発展する主体としての事物の意味がありますが、その限りでは個別的な等価形態が発展し、特殊的形態から一般的形態へと発展して、貨幣形態へと移行するという考えがマルクスにもあったことは確かではないか、という意見が出されました。

 

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【付属資料】

 

    ここでは関連すると思われるものを各文献から紹介しておきます。

 

●表題

 

《初版本文》

 

 〈II 相対的な価値の第二の、または展開された形態。〉

 

《初版付録》

 

 〈II 全体的な、または展開された価値形態〉

 

《第二版》

 

 〈B 総和のあるいは発展した価値形態〉〉

 

《フランス語版》

 

 〈B 総和の、あるいは発展した価値形態〉

 

●展開された価値形態の例示に関連して

 

《初版本文》

 

 〈20エレのリンネル=1着の上着 または =u量のコーヒー または =v量の茶 または =x量の鉄 または =y量の小麦 または =等々(z量の商品A=u量の商品B または =v量の商品C または =w量の商品D または =x量の商品E または =y量の商品F または =等々)。〉

 

《初版付録》

 

 〈20エレのリンネル=1着の上着 または =10ポンドの茶 または =40ポンドのコーヒー または =1クォーターの小麦 または =2オンスの金 または =1/2トンの鉄 または =等々。〉

 

《第二版》

 

 〈z量の商品A=u量の商品B または=v量の商品C または=w量の商品D または=x量の商品E または=等々(20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=40ポンドのコーヒー または=1クォーターの小麦 または=2オンスの金 または=1/2トンの鉄 または=等々)〉

 

《フランス語版》

 

 〈z量の商品Au量の商品Bまたはv量の商品Cまたはx量の商品Eまたは=その他(20メートルのリンネル1着の上衣または10ポンドの茶または40ポンドのコーヒーまたは2オンスの金または1/2トンの鉄または=その他)〉

 

●初版本文と同付録にのみある小見出しとパラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈さしあたりまず明らかに第一の形態は第二の形態の基礎的要素をなしている。なぜならば、後者は20エレのリンネル=1着の上着、20エレのリンネル=u量のコーヒー 等々ま というような多数の簡単な相対的な価値表現から成り立っているからである。〉(60頁)

 

《初版付録》

 

 〈(一) 列の無限性

 

 〈このような、単純な相対的な諸価値表現の列は、その性質上、いくらでも延長されることができ、言い換えれば、けっして終結することがない。なぜならば、絶えず新たな商品種類が出現して、どの新たな商品種類も新たな価値表現の材料となるからである。〉(156頁)

 

●第1節小見出し

 

《初版付録》

 

 〈(二) 展開された相対的価値形態

 

《第二版》

 

 〈(1)発展した相対的価値形態〉

 

《フランス語版》

 

 〈(a) 発展した相対的価値形態〉

 

●第1節の【1】パラグラフに関連して

 

《初版本文》

 

 〈20エレのリンネル=1着の上着 という表現では、上着はリンネルにおいて対象化されている労働の現象形態として認められていた。こうして、リンネルのなかに含まれている労働は、上着のなかに含まれている労働に等置され、したがってまた同種の人間労働として規定されたのである。とはいえ、この規定は明示的には現われていなかった。第一の形態はリンネルのなかに含まれている労働をただ裁縫労働にたいしてのみ直接に等置している。第二の形態はこれとは違っている。リンネルは、その相対的な諸価値表現の無限な、いくらでも延長されうる列において、リソネル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係している。それだから、ここではリンネルの価価がはじめて真に価値として、すなわち人間労働一般の結晶として、示されているのである。〉(60-1頁)

 

《初版付録》

 

 〈一商品の、たとえばリンネルの、価値はいまや商品世界のすぺての他の要素で表わされている。どの他の商品体でもリンネル価値の鏡となる。こうして、この価値そのものがばじめて真に無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、リンネル価値を形成する労働は、それとはどの他の人間労働でも、たとえその労働がどんな現物形態をもっていようとも、したがってまた上着、小麦、鉄、金、等々のどれに対象化されようとも、同等と認められるところの労働としていまや明言的に示されているからである。それだから、リンネルは、その価値形態によって、いまではまた、もはやただ単一な他の商品種類にたいしてのみではなく、商品世界にたいして社会的な関係のなかに立ってもいるのである。商品としてリンネルはこの世界の市民である。同時に、その諸表現の無限の列のなかには、商品価値はそれが現われるところの使用価値のどんな特殊な形態にたいしても無関係である、ということが示されているのである。〉(156-7頁)

 

《フランス語版》

 

 〈一商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは、他の無数の要素のうちに表現される。その価値は、まるで鏡に映されるかのように他のすぺての商品体のうちに反映される(22)。〉(35頁)  〈他の労働はどれも、それが裁断、種まき、鉄または金の採掘等どんな自然形態であろうとも、いまでは、リンネルの価値のうちに凝固された労働、したがって、人間労働という性格を示す労働、に等しいと断言される。総和の相対的価値形態は、一商品をすべての商品との社会的関係のもとに置く。同時に、相対的価値表現の際限ないこの系列は、商品の価値が使用価値のどんな特殊形態をも無差別に帯びる、ということを証明する。〉(36頁)

 

●「注23」に関連して

 

《フランス語版》

 

 〈2) それゆえ、人は、リンネルの価値を上衣で表現するぱあいにはリンネルの上衣価値と言い、小麦で表現するぱあいにはリンネルの小麦価値、等々と言う。このような表現はどれも、これらさまざまの使用価値のうちに現われるものはリンネル自身の価値である、ということを意味している。

 

  「一商品の価値は、それの交換関係を表示している。したがって、われわれは、この商品が比較される商品に応じて、その小麦価値とか上衣価値とか言うことができるのである。そしてそのばあいには、無数の価値の種類、すなわち、現に存在している商品の種類と同数の価値の種類があり、それらはすべてひとしく実在的でもあり、ひとしく名目的でもある」(『価値の性質、尺度、および原因にかんする批判的論文。主としてリカード氏やその追随者たちの著作に関連して。諸見解の形成、……にかんする試論の著者の著』、ロンドン、一八二五年、三九ぺージ)。S・べーリは、当時イギリスで大騒ぎをおこしたこの匿名の著作の著者であるが、彼は、同じ商品の価値についてさまざまな相対的表現をこのように列挙することによって、価値概念の肯定をどれも壊滅させたと思いこんでいる。彼の精神がどんなに狭量であろうとも、やはり彼の精神は、往々リカード理論の欠陥をあばいた。このことを証明するものは、リカード学派がたとえば『ウェストミンスター・レヴュー』のなかで、彼を憎々しげに攻撃したことである。〉(35-6頁)

 

●第1節の【2】パラグラフに関連して

 

《初版本文》

 

 〈第一の形態 20エレのリンネル=1着の上着 においては、これらの二つの商品がこのような特定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的な事実に見えることがありうる。これに反して、第二の形態においては、この偶然的な現象とは本質的に区別されていてこの現象を規定している背景がすぐさま明らかに見えてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄などで示されていても、つまりまったく違った所有者たちの手にある無数に違った商品で示されていても、つねに同じ大きさのままである。二人の個別的な商品所有の偶然的な関係はなくなってしまう。交換が商品の価値の大きさを規定するのではなくて、逆に商品の価値の 大きさが商品の価値のいろいろな交換の割合を規定するのだ、ということが明白になるのである。〉(60頁)

 

《フランス語版》

 

 〈20メートルのリンネル=1着の上衣 という第一形態では、これらの二商品がこの一定の比率で交換可能であるのは、偶然であるように見えるかもしれない。  これに反して、第二形態では、この外観を包み隠しているものが、すぐにわかる。リンネルの価値は、衣服やコーヒーや鉄で、すなわち、この上なく多様な交換者に属している無数の商品によって表現されても、つねに同じである。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換関係を規制する、ということが自明になる。〉36頁)

 

●第2節の小見出し

 

《初版付録》

 

 〈(三) 特殊的な等価形態。〉

 

《フランス語版》

 

 〈(b) 特殊な等価形態〉

 

●第2節本文に関連して

 

《初版付録》

 

 〈上着や茶や小麦などの商品は、いずれもリンネルの価値表現においては等価物として、したがってまだ価値体として、認められている。これらの商品のそれぞれの特定の現物形態は、いまでは他の多くのものと並んで一つの特殊的な等価形態である。同様に、いろいろな商品体に含まれているさまざまな特定の具体的な有用な労働種類も、ちょうど同数の、単なる人間労働の特殊的な実現形態または現象形態として認められているのである。〉(157頁)

 

《フランス語版》

 

 〈上衣、小麦、茶、鉄等、一つ一つの商品が、リンネルの価値表現では等価物として役立つ。これら商品のそれぞれの自然形態がいまでは、他の数多くの商品とならんで、一つの特殊な等価形態になる。これと同じように、さまざまな商品体のなかに含まれているさまざまな有用労働種類も、それと同数の、純粋で単純な人間労働の特殊な実現形態あるいは表示形態を、表わしている。〉(36頁)

 


第27回「『資本論』を読む会」の案内

第27回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 毎日、うだるような暑さが続きますが、暦の上では、もう「立秋」だそうです。そういえば、熱帯夜も朝方は心なしか過ごしやすくなったような気がする、今日この頃ではあります。

 

 とにかく記録的な猛暑日が日本列島を覆っています。しかし異常な気象状況は、世界を見渡すと日本の比ではないような気もします。

 

 ロシアでは先月末、首都モスクワの気温が130年ぶりに37.4度を記録し、暑さによって7月31日には369カ所で山火事が発生、8月1日には774カ所に拡大したと言います(火災による死者は34人に)。森林や泥炭火災によるスモッグが都市部を覆っているとか。

 

 またパキスタン北西部では、記録的な豪雨が発生。洪水による死者が1100人を超え、孤立状態になっている被災者が数万人に上るといわれています。

 

 洪水はお隣の中国でも。7月初旬から続く豪雨によって全国的な被害が発生。当局は、「27の省・自治区・直轄市で1億1300万人が被災し、701人が死亡、347人が行方不明。倒壊家屋は64万5500棟に達し、経済損失は1422億元(1元=13円)、805万人を緊急避難させている」と発表。洪水被害救済対策に人民解放軍や武装警察、民兵ら200万人を動員して現地で対応に当たらせていると報じられています。

 

 このような世界的な異常気象--集中豪雨、竜巻、熱波、寒波等々--は地球温暖化の進行とともに増加してきたのはいうまでもありません。しかし今年の異常気象の直接の原因としては、偏西風の蛇行が固定化していることが指摘されています。地球温暖化は赤道付近と極地方との気温差を小さくし、地球上の大気の流れに変化を起こしているというのです。熱波や寒波、長雨という異常気象には、対流圏上空のジェット気流の蛇行が固定化するブロッキング現象が関わっているそうです。地球温暖化の進行は、地球の中緯度地帯(日本もこの中に位置します)で、このブロッキングの発生を増加させ、さまざまな異常な気象を生み出しているというのです。

 

『毎日新聞』から

 

 それにしても、世界中の異常な気象の諸現象やその被害状況があっという間に世界中をかけめぐり、詳細なデータがインターネットから入手できます。またそれを引き起こす地球規模の大気の運動メカニズムも今では科学的に解明されて、しかもその時々刻々のデータもインターネットで公開されています。

 

 確かに地球温暖化などの異常な気候変動は、地球規模に拡大された資本主義の無政府的な生産によるといえますが、そのことは同時に、資本主義的生産様式の発達は、その解決の諸条件も生み出しつつあるともいえるわけです。人類はその社会的な物質代謝活動で地球規模の自然条件を左右するまでになってしまったのですが、しかしそれは同時にわれわれが地球規模で自然と人間活動との間の物質代謝を意識的に統制し、コントロールしなければならないこと、またそれができるだけの科学的・技術的諸条件も、高度に発達した生産力によって作り出してきたことをも示しているわけです。

 

 マルクスは『経済学批判』「序言」で次のように述べています。

 

 〈一つの社会構成は、それが十分包容しうる生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、新しい、さらに高度の生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会自体の胎内で孵化されおわるまでは、けっして古いものにとって代わることはない。それだから、人間はつねに、自分が解決しうる課題だけを自分に提起する。なぜならば、詳しく考察してみると、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、またはすくなくとも生まれつつある場合にだけ発生することが、つねに見られるであろうからだ。〉(全集13巻7頁)

 

 地球規模の異常気象を引き起こしている人類は、同時にそれを解決する物質的諸条件もすでに生み出しているともいえるでしょう。問題はその主体的な条件である世界の労働者階級の闘いが発展していくことです。その条件の形成のためにも、ともに『資本論』を読んでみませんか。

 


第27回「『資本論』を読む会」の報告

第27回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎残暑、厳しいおり

 

 今年の暑さは記録的でした。大阪では9月になっても、まだ猛暑日が続いています。8月29日の第27回「『資本論』を読む会」の開催日も厳しい残暑のなかで行われました。

 

  “猛暑特需”というものがあるらしく、連日の猛暑様々でアイス製造業など一部の業界は潤っているのだそうです。しかし“猛暑特需”があるなら、“猛暑枯れ”もあるのではないでしょうか。植木の話ではありません。こんな猛暑日の昼日中にのこのこと炎暑のなかを出かけようなどと誰も思わないだろうということです。そのためともいえませんが、おかげで第27回「『資本論』を読む会」は、常連の参加者さえ姿を見せず、いつものことながら寂しい開催になりました。

 

 しかしまあ、愚痴を言っていても始まりません。今回は〈B 全体的な、または展開された価値形態〉の〈三 全体的な、または展開された価値形態の欠陥〉からやりましたが、Bの最後まで終えることができました。さっそく、その報告に移りましょう。

 

◎どうして「欠陥」なのか?

 

 まず、今回の表題〈三 全体的な、または展開された価値形態の欠陥〉が問題になりました。つまりどうして「欠陥」なのか? というのです。

 

  前回までは〈B 全体的な、または展開された価値形態〉の相対的価値形態と等価形態について、それぞれ考察が行われましたが、今回からは、それらの考察を踏まえて、それらを統一した上で、〈全体的な、または展開された価値形態の欠陥〉が考察の対象になっています。しかしBの全体としての考察が、どうしてその「欠陥」の考察になるのでしょうか。また「欠陥」というのは、何から較べての「欠陥」なのでしょうか?

 

  それは私たちが先に見た、Bの相対的価値形態(その質的および両的考察)と等価形態のそれぞれの考察は、A(単純な価値形態)の考察を踏まえたB(展開された価値形態)に固有の課題を明らかにするものであると指摘しましたが、それは同時にAの不十分な点が如何にしてBにおいて克服されているのかの考察でもあったのです。Aの最後で次のように言われていました。

 

 〈単純な価値形態、すなわち一連の諸変態を経てはじめて価格形態にまで成熟するこの萌芽形態の不十分さは、一見して明らかである〉(全集版83頁)

 

 つまり単純な価値形態の「不十分さ」というのは、〈一連の諸変態を経てはじめて価格形態にまで成熟するこの萌芽形態としての不十分さ〉なのです。つまり価値形態が価格形態(=貨幣形態)にまで発展することによって、価値はその概念にもっとも相応しい形態を獲得し、自立した姿態を得るとともに、諸商品を質的に同じで量的に比較可能なものとして表すことができるようになるのですが、価値形態の各発展段階は、だからそうしたもっとも発展した貨幣形態からみた場合に、いまだその「不十分さ」や「欠陥」があると言うことなのです。だから単純な価値形態の最後にその「不十分さ」が指摘されたように、展開された価値形態の場合も、その最後に、その欠陥が指摘され、次の発展段階への移行の必然性が明らかにされるという展開になっているわけです。

 

  とにかく、具体的に、以下、文節ごとに詳しく見て行くことにしましょう。

 

 (イ)第一に、商品の相対的価値表現は未完成である。というのは、その表示の列は完結することがないからである。 (ロ)一つの価値等式が他の等式につながってつくる連鎖は、新たな価値表現の材料を与える新たな商品種類が現われることに、相変わらずいくらでも引き伸ばされるものである。 (ハ)第二に、この連鎖はばらばらな雑多な価値表現の多彩な寄木細工をなしている。 (ニ)最後に、それぞれの商品の相対的価値が、当然そうならざるをえないこととして、この展開された形態で表現されるならば、どの商品の相対的価値形態も、他のどの商品の相対的価値形態とも違った無限の価値表現列である。 (ホ)――展開された相対的価値形態の欠陥は、それに対応する等価形態に反映する。 (ヘ)ここでは各個の商品種類の現物形態が、無数の他の特殊的等価形態と並んで一つの特殊的等価形態なのだから、およそただそれぞれが互いに排除しあう制限された等価形態があるだけである。 (ト)同様に、それぞれの特殊的商品等価物に含まれている特定の具体的な有用な労働種類も、ただ、人間労働の特殊的な、したがって尽きるところのない現象形態でしかない。 (チ)人間労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、たしかにあの特殊的諸現象形態の総範囲のうちにもってはいる。(リ)しかし、そこでは人間労働は統一的な現象形態をもってはいないのである。〉

 

 〈全体的な、または展開された価値形態の欠陥〉も、やはり相対的価値形態と等価形態にわけてそれぞれが考察されています。まず相対的価値形態の欠陥です。

 

 (イ)、(ロ )第一に、商品の相対的価値表現は、未完成です。というのは、その表現の列は完結することがないからです。というのは、新たな商品種類が現われるごとに、価値等式の列は、相変わらずいくらで引き伸ばされて、限りがないからです。

 

 (ハ) 第二に、この価値表現の繋がりは、さまざまな表現の寄せ集めのままです。

 

 〈この第二形態は同じ商品の価値のために相対的な諸表現の雑多きわまる寄木細工を与える〉(初版本文、国民文庫版58頁)

 

 (ロ) 最後に、それぞれの商品の相対的価値は、この展開された形態で表現されるならば、当然のことながら、どの商品の(展開された)相対的価値形態も、他のどの商品の(展開された)相対的価値形態とも違った無限の価値表現の列になります。つまり諸商品それぞれが違った展開された価値形態で自らの価値を表現するわけですが、それらがすべて違っているわけです。

 

 次は等価形態の欠陥です。

 

 (ホ) 展開された相対的価値形態の欠陥は、それに対応する等価形態の欠陥として反映します。

 

 (ヘ) ここでは各個の商品の現物形態が、無数の他の特殊的等価形態と並んで、一つの特殊的等価形態ですから、それらは互いに排除しあう限られた等価形態があるだけです。

 

 (ト) 同じように、それぞれの特殊的な等価物に含まれている特定の具体的な有用労働種類も、ただ人間労働の特殊的な、したがって尽きることのない現象形態でしかありません。

 

 (チ)、(リ) 人間労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、特殊的諸現象形態の総範囲のうちに持っていますが、しかし、人間労働は統一的な現象形態をまだ持っていないのです。

 

  この部分はフランス語版では次のようになっています。

 

 〈人間労働は確かに、その完全なあるいは総和の表示形態を、その特殊な形態の総体のうちにもっている。だが、形態と表現との統一が欠けている。〉(36-7頁)

 

 そして山内清氏はこの部分をフランス語版と関連させて次のように説明しています。理解をより深めるために、紹介しておきましょう。

 

   〈仏語版がいうように、第二形態は、その形態的内実と形態的形式とが不一致である。第二形態は、その形態にある限りですべての商品の質的同等性を表現するが、そういう形態的内実を、全体性、総範囲性という形態的形式で示しているにすぎず、本来そうあるべき、単純性、統一性、共同性の形式をもっていないのである。〉(山内清著『資本論商品章詳注』97頁)

 

◎全体的な価値形態から一般的な価値形態への移行

 

 次のパラグラフとの間に初版付録には〈(五) 全体的な価値形態から一般的な価値形態への移行〉という表題があることが指摘されました(国民文庫版158頁)。つまりここからは、価値形態の次の発展段階への移行が問題になるわけです。

 

 (イ)とはいえ、展開された相対的価値形態は、単純な相対的価値表現すなわち第一の形態の諸等式の総計から成っているにすぎない。 

 (ロ)たとえば、 

    20エレのリンネル=1着の上着 

    20エレのリンネル=10ポンドの茶 

  などの総計からである。〉

 

 (イ)、(ロ) しかし、展開された相対的価値形態は、単純な相対的価値形態、すなわち第一形態の諸等式の総計からなっているにすぎません。すなわち、 

    20エレのリンネル=1着の上着 

    20エレのリンネル=10ポンドの茶 

  などの総計からです。

 

 〈 (イ) しかし、これらの等式は、それぞれ、逆にすればまた次のような同じ意味の等式をも含んでいる。 

   (ロ) すなわち 

    1着の上着=20エレのリンネル 

    10ポンドの茶=20エレのリンネル 

  などを含んでいる。〉

 

 (イ)、(ロ) そして、これらの等式は、それぞれを逆にすれば、次のような同じ意味の等式を含んでいます。すなわち、    

   1着の上着=20エレのリンネル 

    10ポンドの茶=20エレのリンネル 

  という等式をです。

 

 (イ)じっさい、ある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換し、したがってまたリンネルの価値を一連の他の商品で表現するならば、必然的に他の多くの商品所持者もまた彼らの商品をリンネルと交換しなければならず、したがってまた彼らのいろいろな商品の価値を同じ第三の商品で、すなわちリンネルで表現しなければならない。―― (ロ)そこで、20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=etc. という列を逆にすれば、すなわち事実上すでにこの列に含まれている逆関係を言い表わしてみれば、次のような形態が与えられる。〉

 

 (イ) そして、実際の交換関係を考えてみますと、ある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換して、自分の価値を一連の他の商品で表現するとしますと、それは必然的に他の多くの商品の所持者も彼らの商品を同じ第三の商品であるリンネルと交換しなければなりませんし、だから彼らはいろいろな商品の価値をリンネルで表現しなければならないことになります。

 

 ところでここでマルクスがリンネルを〈同じ第三の商品〉と述べていることに異論を唱えている人がいます(山内清前掲書)。つまり〈リンネルは、第二形態では当事者の一方であるから、「第三の」は疑問〉(前掲99頁)だというのです。しかし上記の一文をよく読むと、マルクスは〈彼らのいろいろな商品の価値を〉と述べています。つまりリンネルと交換して自分たちの商品の価値を表現する〈他の多くの商品所持者〉にとっては、彼らの商品相互の関係から見ると、リンネルは〈同じ(あるいは共通の)第三の商品〉になると述べているのです。ここでは、すでに表式が逆転して、リンネルがすでに一般的等価形態になっているのですから、こうした表現はそれを示唆しているものと考えられ、何ら問題はないと思います。

 

 (ロ) だから、20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=etc. という列を逆にすれば、すなわち実際上は、これらの列に含まれている逆関係を表わしてみますと、次のような形態が与えられるわけです。

 

 そしてその与えられる新しい価値形態こそ、一般的価値形態であり、次の項目では、以下のような等式が示されています。

 

〈 C 一般的価値形態

   1着の上着       =

    10ポンドの茶     =

    40ポンドのコーヒー =

    1クォーターの小麦 =        20エレのリンネル

     2オンスの金     =

     1/2トンの鉄    =

     x量の商品A     =

     等々の商品     =             〉

 

◎第二形態から第三形態への移行をめぐる論争

 

 このマルクスの第二形態(全体的な、または展開された価値形態)から第三形態(一般的価値形態)への移行については、賛否両論があり、従来から論争が繰り返されてきました。それらは大きくは、マルクスが「逆関係」を使って説明しているのを否定する主張と、それを肯定する主張とに分けることができます。今、その代表的なものを知るために、白須五男氏がまとめたものを紹介してみましょう。

 

 〈【逆連関否定の移行論】

   I

  (1) 価値形態の中に交換過程的論理を導入し、商品所有者の相互的な欲望表現を価値表現と同一視し、その表現の不一致から発生する交換の困難を解決するものとして第三形態を措定しようとする説--宇野弘蔵氏および宇野学派の多くの論者の見解 。

  (2) マルクスの価値表現を相互的価値表現であると批判し、価値実体も商品所有者の欲望もともに前提せず、交換過程的論理を排除した「純化された価値形態的論理」それ自体の内で、価値と使用価値の二要因の矛盾が展開されることを通して第三形態を導出しようとする説--中野正氏、鈴木鴻一郎氏(および玉野井芳郎氏) の見解。   

  II

  (3) 価値形態論の内部では第二形態から第三形態への移行を理論的に説くことには本質的困難が伴い、その発展過程に交換過程の全面的外化の矛盾を対応させることによって第三形態の成立が可能になるとする説--冨塚良三氏の見解 。

  (4) 逆連関を前提せずに、価値概念とその定在様式(価値形態)との矛盾の展開だけから第三形態の成立を措定しようとする説--武田信照氏の見解 。

 III

 (5) 価値形態論を価値表現の「類型論」として位置付け、第二形態から第三形態への移行は本来交換過程論の課題であって、価値形態論の内部ではその移行の論理は始めから説きえないとする説--大島雄一氏の見解 。   

 

【逆連関肯定の移行論】

 (6) 価値概念と価値の定在様式との不一致(矛盾)を形態移行の動力として価値概念に照応する第三形態を導出し、貨幣の現実的必然性が問題となる交換過程はその第二形態から第三形態への移行を媒介するものと捉える説--見田石介氏、尼寺義弘氏の見解。

 (7) 価値表現の両極性と両項の互換性についての「独自な」解釈に基いて、第二形態およびその逆連関としての第三形態が同一時点では必ずただ一つだけ成立可能と捉える説--頭川博氏の見解。〉(『マルクス価値論の地平と原理』158-9頁)

 

 なかなか、これだけでは、それぞれの主張を理解することはできませんが、さまざまな主張が入り乱れて論争が行われていることは了解頂けたのではないでしょうか。そのすべてについて具体的に検討することは、ほとんど不可能であるし、またその必要性もないと思いますので、ここでは、逆関係を否定する代表的な主張として、富塚氏の主張を批判的に検討してみることにしましょう。富塚氏の主張は次の一文に典型的に現われています。

 

 〈元来、20ヤールの亜麻布=1着の上衣 という等式関係は、亜麻布商品の所有者が「上衣一着とならば亜麻布20ヤールを交換してもよい」といっていることを表現しているにすぎないのであって、それは全く亜麻布所有者にとっての私事にすぎず、亜麻布所有者がそういっているからといって、上衣の所有者がそれに応じなければならないという理由は全くない。上衣の所有者はその商品を亜麻布と交換することを望まないかもしれず、仮りに亜麻布と交換しようとする揚合にも、20ヤールでは不足だとするかもしれない。要するに、20ヤールの亜麻布=1着の上衣 という亜麻布にとっての価値表現の関係は、20ヤールの亜麻布が必ず一着の上衣と交換されるということを表現してはおらず、1着の上衣=20ヤールの亜麻布 という逆の価値表現の関係を当初から予定してはいないのである。〉(『恐慌論研究』244頁)

 

 こうした富塚氏の主張は、明らかに価値形態を見誤っているとか言いようがありません。富塚氏は、マルクスが商品の価値を分析するのに、商品の交換関係から考察を開始したことを忘れています。マルクスは第1章で次のように書いています。

 

 〈交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として現われる。〉(下線は引用者、全集版49頁)

  〈さらに、二つの商品、たとえば小麦と鉄とをとってみよう。それらの交換関係がどうであろうと、この関係は、つねに、与えられた量の 小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わすことができる。たとえば 1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄 というように。この等式はなにを意味しているのか?〉云々(下線は引用者、同50頁)

 

 こうした考察から出発して、私たちは商品の価値をつかみだし、その実体を考察したのです。マルクスは、価値の実体を考察したあと、その量的考察に移る前に次のように述べていました。

 

 〈だから、商品の交換関係または交換価値のうちに現われる共通物は、商品の価値なのである。研究の進行は、われわれを、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値につれもどすことになるであろう。しかし、この価値は、さしあたりまずこの形態にはかかわりなしに考察されなければならない。〉(同52頁)

 

 だから第三節から始まった価値形態の分析は、マルクスがここでいう〈価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値〉の分析に他ならないのです。だから価値形態の分析においては、常にその背景として交換関係が前提されているということが留意されていなければならないのです。そして二商品の交換関係を前提すれば、リンネルと上着との交換には、当然、上着とリンネルとの交換が含まれており、リンネルの価値を上着で表すということと同時に、上着の価値をリンネルで表すという逆の関係が常に含まれていることはあまりにも当然のことではないでしょうか。価値形態の考察においては、二商品のこうした交換関係から商品所有者やその欲望を捨象して、二商品の交換という事実だけを取り出して、観察し、分析しているわけです。

 

 こうした第二形態から第三形態への発展を、マルクスはモスト著『資本論入門』のなかでは歴史的に次のように描いています。

 

 〈交換のその次に高い段階(第二形態--引用者)を、われわれはこんにちでもまだ、たとえばシベリアの狩猟種族のところで見いだす。彼らが提供するのは、交換向けのほとんどただ一つの財貨、つまり毛皮である。ナイフ、武器、火酒(かしゆ)、塩等々といった彼らに供給される他人のすべての商品が、彼らにとってはそっくりそのまま、彼ら自身の財貨のさまざまの等価物として役立つ。毛皮の価値がこうして受け取る表現が多様であることは、この価値を生産物の使用価値から分離して表象することを習慣にするが、他方では、同一の価値をたえず増大する数のさまざまの等価物で計量することが必要となる結果、この価値の大きさの規定が固定するようになる。つまり、ここでは毛皮の交換価値はすでに、以前ばらばらに行なわれていただけの生産物交換の場合(第一形態--引用者)に比べて、はるかにはっきりした姿をもっているのであり、したがってまた、いまではこれらの物そのものもすでに、はるかに高い程度で商品という性格をもっているのである。

 

  こんどはこの取引を、異郷の商品所持者の側から観察してみよう彼らのおのおのはシベリアの狩人たちにたいして、自分の財貨の価値を毛皮で表現しなければならない。こうして毛皮は、一般的等価物になる。一般的等価物は、他人のすべての商品と直接に交換可能であるばかりでなく、また他人のすべての商品にとって、共通の価値表現のために、したがってまた価値を計るものおよび価値を比較するものとしても役立つ。言い換えれば、毛皮は生産物交換のこの範囲のなかでは、貨幣となるのである。〉(大谷禎之介訳10-11頁)

 

◎第二形態から第三形態への発展には、どういう商品形態の発展が対応しているのか?

 

 第二形態から第三形態への移行を逆の関係から説明するマルクスのやり方を肯定するにしても、では、第二形態から第三形態への移行においては、ただ観察の視点の転換だけが問題なのでしょうか。〈全体的な、または展開された価値形態〉を、それまでリンネルの側から見ていたのを、ひっくり返して、それまで等価形態に置かれていた諸商品の側から見て、それらの相対的な価値の表現として見ただけなのでしょうか。そうではなく、やはり第二形態から第三形態への移行にも、商品形態の発展が対応しているのでしょうか、それが問題です。  大谷氏はこの点で、先のマルクスの『入門』の説明は、〈やや舌足らずで、誤解を招く可能性がある〉と指摘しています。確かにそういう面がないとはいえませんが、しかし『入門』の説明でも、商品形態の発展を物語っているようにも思えます(それは後に紹介します)。しかし、とりあえず、この点では大谷氏の説明が参考になるので、紹介しておくことにしましょう。

 

  大谷氏は『価値形態』経済志林』61巻2号)で次のように述べています。

 

 〈じっさい,ある人が自分のリンネルを他の多くの商品と交換し,したがってまたリンネルの価値をそれらの商品で表現するならば,必然的に,他の多くの商品所持者もそれぞれ自分の商品をリンネルと交換しなければならず,したがってまたそれぞれ自分の商品の価値を,みな同じ商品,リンネルで表現しなければならないわけである。

 

  すでに述べたように,これらの他商品が相互にまったく無関係に存在して,相互にまったく無関係にリンネルと交換するのであれば,それらの商品がもつ価値形態は単純な価値形態でしかない。けれども,ここで生じる交換関係の発展の方向は,リンネルばかりでなく,これら他商品のほうでも他の多くの諸商品と交換関係を結び,したがってこれらの諸商品がみな同一の場で交換されるようになっていく,というものであるほかはない。その行き着くところは,リンネルの開展された価値形態を潜めている交換関係のなかで,リンネルにたいする多くの他商品の側でも,互いに商品として関わりをもち,同じ商品世界を形成しているということ,どの他商品もリンネルと交換しようとしているということである。そして,一方の側に開展された価値形態を含む交換関係は,他方の側にそのような多くの商品が立っことを排除するものではないのである。〉(212頁)

 

 つまりこういうことです。モストの『入門』の例を参考に考えてみましょう。シベリアの狩猟種族が彼らの獲物である毛皮を、狩りの旅の途中で出会うさまざまな種族と、それらの種族の生産した武器や火酒、塩等々と交換していく場合、毛皮は展開された価値形態を獲得します。しかし、毛皮と交換される武器や火酒、塩等々の側から見ると、それらの交換はいまだそれらの生産者にとっては偶然的なものにすぎません。だからそれらの商品から見た場合は、それらはいまだ単純な価値形態に過ぎないわけです。

 

  しかしそうした交換がさらに発展して行くと、武器や火酒や塩等々を生産する種族たちにとっても、商品の交換はますます偶然的なものではなくなり、彼らの間でも互いに商品を交換し合う関係が発展してくるわけです。そうした場合に、彼らは互いの商品交換において、それぞれの価値をまずは毛皮で表現して、彼らの商品の価値を比較しあうようになります。その上で、彼らは互いの商品を交換し合うわけです。そして、これがすなわち一般的な価値形態なのです。だから第二形態から第三形態への発展にも、商品交換の、よってまた商品形態の発展が対応していると考えられるわけです。先の『入門』を丁寧に読めば、マルクスは、こうした商品交換の歴史的な発展を描いていることが読み取ることができると思います。

 

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【付属資料】

 

●【1】パラグラフに関連して

 

《初版本文》

 

 〈第一の形態 20エレのリンネル=1着の上着 は二つの商品の価値のために二つの相対的な表現を与えた。この第二の形態は同じ商品の価値のために相対的な諸表現の雑多きわまる寄木細工を与える。価値の大きさの表現のためにもなんらかのものが得られたようには見えない。なぜならば、20エレのリンネル=1着の上着 においては、じっさいどの表現においても同じままであるリンネルの価値の大きさが、ちょうど 20エレのリンネル=u量の茶 等々におけるのと同じに、あますところなく示されているからである。また、等価物の形態規定のためにもなんらかのものが得られたようには見えない。なぜならば、20エレのリンネル=u量のコーヒー 等々においては、コーヒー等々は、上着がそうだったのとまったく同じように、ただ個別的な等価物であるにすぎないからである。〉(国民文庫版58-9頁)

 

《初版付録》

 

 〈第一に、リンネルの相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示の動は完結することがないからである。第二に、それはぼらばらな雑多な価値表現の多彩な寄木細工をなしている。最後に、これはそうならざるをえないことであるが、それぞれの商品の相対的な価値がこの展開された形態で表現されるならば、どの商品の相対的価値形態も、他のどの商品の相対的価値形態とも違った無限な価値表現列である。--展開された相対的価値形態の欠陥は、それに対応する等価形態に反映する。各個の商品種類の現物形態がここでは無数の他の特殊的な等価形態と並んで一つの特殊的な等価形態であるのだから、およそ、ただ、それぞれが互いに排除し合う制限された等価形態があるだけである。同様に、それぞれの特殊的な商品等価物に含まれている特定の具体的な有用な労働種類も、ただ、人間労働の特殊的な、したがって尽きることのない現象形態でしかない。人間労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、たしかにあの特殊的な諸現象形態の総範囲のうちにもってはいる。しかし、こうして人間労働は統一的な現象形態をもってはいないのである。〉(同158頁)

 

《フランス語版》

 

 〈まず、相対的な価値表現は、その表現系列がけっして終結されないために、未完成である。それぞれの価値比較を環とする鎖は、ある新たな商品種類が新たな表現の材料を提供するにつれて、随意に伸ばすことができる。もしさらに、そうならざるをえないとおりに、この形態が、すべての商品種類に適用されることによつて一般化されるならば、結局は、諸商品の価値表現と同数の、さまざまな際限のない諸系列が、得られるであろう。発展した相対的価値形態の不備は、この形態に対応する等価形態に反映する。それぞれの商品種類の自然形態がここでは、他の無数の特殊な等価形態とならんで、一つの特殊な等価形態を提供するから、一般的に言って、それぞれが他を排除するような断片的な等価形態のみが存在する。これと同じように、それぞれの等価物のうちに含まれている具体的な有用労働種類も、そこでは、人間労働の特殊な形態、すなわち、人間労働の不完全な表示のみを表わす。人間労働は確かに、その完全なあるいは総和の表示形態を、その特殊な形態の総体のうちにもっている。だが、形態と表現との統一が欠けている。〉(江夏訳36-7頁)

 

●【初版付録にのみある表題】

 

 〈(五) 全体的な価値形態から一般的な価値形態への移行〉(前掲158頁)

 

●【2】パラグラフに関連して

 

《初版付録》

 

 〈とはいえ、全体的なまたは展開された相対的価値形態は、ただ、単純な相対的な価値表現すなわち第一の形態の諸等式の総計から成っているにすぎない。たとえば、

   20エレのリンネル=1着の上着

   20エレのリンネル=10ポンドの茶、等々

  の総計からである〉(同159頁)

 

《フランス語版》--次のパラグラフとくっついている

 

●【3】パラグラフに関連して

 

《初版付録》

 

 〈しかし、これらの等式は、それぞれ、逆関係的には次のような同じ意味の諸等式をも含んでいる。すなわち、

    1着の上着=20エレのリンネル

    10ポンドの茶=20エレのリンネル、等々

  を含んでいる。〉(同159頁)

 

《フランス語版》

 

 〈しかし、総和のあるいは発展した相対的価値形態は、単純な相対的表現の総計、すなわち、次のような第一形態の等式、

   20メートルのリンネル1着の上衣

   20メートルのリンネル10ポンドの茶、等、

  の総計からのみ成り立っているが、この等式の一つ一つが、次のような同一の等式を逆に含んでいるのである。

   1着の上衣  20メートルのリンネル

  10ポンドの茶20メートルのリンネル、等〉(前掲37頁)

 

●【4】パラグラフに関連して

 

《初版本文》

 

 〈第二の形態は、第一の形態の諸等式だけの合計から成り立っている。しかし、これらの等式のそれぞれ、たとえば 20エレのリンネル=1着の上着 は、その逆の関係 1着の上着=20エレのリンネル をも包括しているのであって、ここでは上着が自分の価値をリンネルで示しており、まさにそれゆえにリンネルを等価物として示しているのである。ところで、こういうことはリンネルの無数の相対的な価値表現のどれにもあてはまるのだから、そこでわれわれは次のような形態を得るのである。〉前掲(61頁)

 

《初版付録》

 

 〈じっさい、リンネルの所持者が彼の商品を多くの他の商品と交換し、したがってまた彼の商品の価値を一連の他の商品で表現するならば、必然的に多くの他の商品所持者もまた彼らの商品をリンネルと交換するにちがいなく、したがってまた彼らのいろいろな商品の価値同じ第三の商品で、すなわちリンネルで表現するにちがいない。--そこで、20エレのリンネル=1着の上着 または =10ポンドの茶 または =等々、という列を逆にすれば、すなわち、それ自体としてすでにこの列のなかに含まれている逆関係を言い表わしてみれば、われわれは次のような形態を得る。〉(同159-160頁)

 

《フランス語版》

 

 〈実際のところ、リンネルの所有者がリンネルを他の多数の商品と交換し、したがって、その価値を一連の同じ数だけの項のうちに表現するならば、他の商品の所有者たちは、自分たちの商品をリンネルと交換して、自分たちのさまざまな商品の価値を、リンネルという同一の項のうちに表現せざるをえない。20メートルのリンネル=1着の上衣、または=10ポンドの茶 または=その他 という系列を転倒するならば、すなわち、この系列のうちにすでに暗々裡に含まれている相反等式を表現するならば、次の形態が得られる。〉(前掲37-8頁)

 

 

 


第28回「『資本論』を読む会」の案内

『 資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

                                    

                                    

 民主党の代表選挙が、菅直人首相と小沢一郎元幹事長との一騎討ちとなり、 党を二分する激しい選挙戦が闘われています。

 

 停滞する日本経済を如何に建て直すか、折りからの急速な円高にどう対応するか等々も一つの争点です。日本記者クラブで行われた公開討論会でも対応が問われましたが、なかなか両候補とも有効な手段が打ち出せないというのが本当のところではないでしょうか。

 

 

 以前にも指摘しましたが(第25回案内参照)、「為替」というのは、遠隔地間の諸支払を銀行など金融機関を媒介して振り替えることによって、現金を運ばずに決済するための信用用具(有価証券)であり、だから決して厳密な意味での「通貨」と同じではないし、為替相場は通貨の交換レートとは概念的には異なるものなのです。

 

  通貨と為替とはまったく異なる流通(一方は商品市場、他方は貨幣市場)に属し、通常は直接的には関連しないが、しかし間接的には関連しているし、その関連を理論的に解明することが重要であるが、それを正しく説明しているものはほとんど見かけないとも指摘しました。だから今回は、この点を少し説明したいと思います。

 

 菅首相は、先の討論会で、記者の質問に答えて、「今回の急激な円高の背景には、アメリカ経済が期待されたほどの回復にいたっていないという、(米連邦準備制度理事会議長の)バーナンキさんなんかの自らの発言もあって、ある意味ドル安という形で円高になってきている」と答えていました。

 

 ここで「ドル安という形で円高になってきている」という意味は、ドルの“減価”が背景にあると言いたいのだと思います。もちろん、菅首相が通貨と為替との区別ができているとは思えませんが、こうした指摘には一定の客観的な根拠がないとはいえません。

 

 ニューヨーク金市場における金価格のここ2カ月間の推移をみますと、図にあるように、7月始めから9月始めにかけて、金価格は1オンス1200ドルから1250ドルへと高値に推移しています(つまりそれだけドルの代表する金量は減り、ドルは“減価”しています)。

 

 

 これに対して、東京金市場では、同じ期間、1グラムの金の価格は3400円前後を上下しているだけで、一方的な上昇傾向を示しているわけではありません。

 1グラム=0.03215トロイオンスで換算した場合、1ドル札と1万円札はそれぞれどれだけの金量を代表し、それがどのように推移したのかを見てみますと、7月初めごろの円とドルの通貨の実際のレートは1円=89.4ドルであるのに対して、9月初めにはそれが1円=84.6ドルになっています。

 

 これは通常言われている「為替レート」とは異なり、実際のアメリカ国内で流通しているドル札の代表する金量と日本国内で流通する円札の代表する金量との比較から計算した、その意味ではその概念にかなった「通貨レート」なのです。

 

 為替相場における、ドル建て、円建てのそれぞれの為替の価格も、当然、こうした各国の通貨の“価値”(代表する金量)をもとにしていることはいうまでもありません。金が諸商品の価値を尺度する唯一の貨幣商品であることは今日でも変わっていないのです。人によっては、金はすでに貨幣ではなく、「潜在的な貨幣としてあるだけだ」(状況の変化によっては貨幣になりうる可能性はあるが、現実には貨幣ではない)と言います。しかしそれは間違っています。金が「潜在的に貨幣」であるといいうるのは、金が鉱山から採掘されて、まだ金採掘業者がそれを他の諸商品との交換に出す前の段階にある金に言いうることであって、例えば金が世界のさまざまな金融機関、特に中央銀行やあるいは諸個人によって貯蔵されている場合については言い得ません。それらは本源的な蓄蔵貨幣として存在する金であり、だからそれらは“正真正銘”の貨幣そのもの(「本来的な貨幣」、あるはマルクスがいうところの「第三の規定による貨幣」)なのです。こうした誤った主張が出てくるのは、貨幣についての正しい概念が欠落しているからだと思います。実際に流通していなければ貨幣とはいえないというのは、古典派経済学的な間違った貨幣論に戻ることにほかなりません。

 

 そもそも諸商品の価値とは、与えられた生産諸力のもとで諸商品の使用価値が表している社会的分業にもとづいて、それらの使用価値を生産するために、社会の総労働を如何に配分されるべきかを示す指標なのです。それによって基本的な社会の物質代謝は維持されているのです。そしてその価値を目に見えるように表現し尺度するのが貨幣なのです。というのは、この社会ではそうした総労働の配分は意識的に行われるのではなく、ただ諸商品の交換の結果として客観的に貫かれるものとして存在するからです。だから諸商品の価値はただ別の共通な一商品によって相対的にしか表現できないし、尺度出来ないのです。そして商品世界から排除されて、そうした諸商品の価値を表現し尺度するものこそ貨幣なのです。

 

 だから今日の社会で諸商品が生産され、それがさまざまな形で売買されて、それを必要とするところに配分され、生産的にかあるいは個人的に消費されて、社会の物質代謝が維持されていることは誰もが認めることです。ということはこの社会に厳然として価値法則が貫いていること、諸商品を流通させるに必要な貨幣量が、それぞれの国ごとに客観的な法則として厳然として存在していることを、それらは示しているのです。

 

 実際にアメリカ国内で流通しているドル札であるとか、日本国内で流通している円札などは、そうした客観的に決まってくる流通必要貨幣量(流通必要金量)をただ代理しているだけなのです。

 

 それらがどれだけの金量を代理しているかは、不換制の今日では法的・制度的には決まっていません。しかし法的・制度的に決まっていないからといって、それらが一定の金量を代理している現実そのものが無くなるわけではありません。実際に流通しているドル札や円札がどれだけの金量を代理しているかは、現実の経済過程(実際の商品流通の現実)によって決まってくるのです。

 

 そもそも流通代理物がどれだけの金量を代理しているかは、何か法的・制度的に決められるものではなくて、あくまでも現実の経済過程そのものが決めるのです。兌換制は、実際の経済過程で決まってくる金量を(だからそれは常に変動するわけですが)、常に一定の量に戻す力が働くように制度的に保障しているだけなのです。

 

 歴史的には、金鋳貨が流通しているときでさえ、それらの鋳貨は現実の流通過程では象徴と化すために、実際の金の市場価格とのずれが生じてくるのであって、そうした結果、時の権力者(国王など)は金貨の度量標準の変更を余儀なくされたりしたのです。

 

 では、実際に流通しているドル札や円札がどれだけの金量を代理しているのかを知るのはどうすれば出来るのでしょうか。

 

 それをわれわれが知りうるは、それぞれの国における金の市場価格以外にはありません。

 

 金の市場価格は、さまざまな要因によって決まり、変動します。一つは金の価値そのものの変化によって、あるいは現実の流通必要金量の変化によって、流通代理物の量が流通の外部から強制的な注入によって変化することによって、さらには直接的な金の需給によってです。だから時々刻々変化する実際の金の市場価格そのものは、直接にそれぞれの通貨がどれだけの金量を代理しているのかを必ずしも正確に表しているとはいえませんが、しかし直接的な需給の変動を均せば、やはりそれは流通代理物がどれけの金量を代理しているのかをわれわれに教えているのです。

 

 しかし実際には、金は他の商品と同じように売買されており、単なる一つの商品にすぎないように見えます。しかしこれは単なる外観であって、決して金の売買と他の商品の売買とは同じではありません。もちろん、金も例えば工業用の材料として売買されるなら、それは他の商品と同じです。しかし金取り引きの多くはそうした金の使用価値を実現する(金を何らかの生産に使う)ためのものではありません。多くの人(あるいは法人・機関)は金を購入したからといって、金を消費するわけでは無いのです。だから金商品の購入というのは一つの外観であって、実際にはそれは流通貨幣を蓄蔵貨幣に転換しているのです。むしろこうした金の売買の現実こそが、金が依然として貨幣であることを物語っているのです。

 

 金を蓄蔵しているのは、石油やレアアースを備蓄しているのはわけがちがうのです。後者はやがてはそれを使用する(消費する)ために備蓄しているのですが(だから物質代謝の一過程ですが)、金の備蓄(蓄蔵)はただ価値の絶対的な形態を手にしているだけで、必要とあればいつでも通貨(流通貨幣)に転換して、諸商品の購入に充てることを考えて蓄蔵されているのです(だからそれは物質代謝を媒介するだけで、物質代謝の一過程ではない)。

 

 さて問題は、為替です。各国の通貨(ドル札や円札)そのものは、すでに何度も述べたように、決して為替とは直接には関係せず、その“価値”(代表する金量)はそれぞれの国内の商品市場の現実(流通する商品の価格総額、流通速度、諸支払の相殺度合い)に規定されているのであり、その限りでは独立変数なのです。

 

 実際の為替の相場そのものは直接には為替の需給に左右されますが、しかしそうした為替の売買には、国際的な諸商品の売買が反映しており(もちろん、為替は国際的な価値の移転だけのためにも売買されますが)、そして諸商品が売買される価格は、それぞれの国の通貨の“価値”によって規定されていることはいうまでもありません。だから為替の売買も、そのベースにはそれぞれの通貨の“価値”の比率が存在するといえるわけです。

 

 だから菅首相の肩をもつわけではありませんが、今回の円高には両国の通貨“価値”の比率の変化がある程度反映しているといえるかも知れません。

 

 為替と通貨との区別と関連はなかなか難しいものですが、そうした問題も『資本論』を研究するなかで、理論的に解明していくことが可能です。貴方も是非、共に『資本論』を読んでみませんか。

 



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