目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
第6回「『資本論』を読む会」の報告
第7回「『資本論』を読む会」の案内
第7回「『資本論』を読む会」の報告
第8回「『資本論』を読む会」の案内
第8回「『資本論』を読む会」の報告
第9回「『資本論』を読む会」の案内
第9回「『資本論』を読む会」の報告
第10回「『資本論』を読む会」の案内
第10回「『資本論』を読む会」の報告
第11回「『資本論』を読む会」の案内
第11回「『資本論』を読む会」の報告
第12回「『資本論』を読む会」の案内
第12回「『資本論』を読む会」の報告
第13回「『資本論』を読む会」の案内
第13回「『資本論』を読む会」の報告
第14回「『資本論』を読む会」の案内
第14回「『資本論』を読む会」の報告
第15回「『資本論』を読む会」の案内
第15回「『資本論』を読む会」の報告
第16回「『資本論』を読む会」の案内
第16回「『資本論』を読む会」の報告
第17回「『資本論』を読む会」の案内
第17回「『資本論』を読む会」の報告
第18回「『資本論』を読む会」の案内
第18回「『資本論』を読む会」の報告
第19回「『資本論』を読む会」の案内
第19回「『資本論』を読む会」の報告
第20回「『資本論』を読む会」の案内
第20回「『資本論』を読む会」の報告
第21回「『資本論』を読む会」の案内
第21回「『資本論』を読む会」の報告
第22回「『資本論』を読む会」の案内
第22回「『資本論』を読む会」の報告
第23回「『資本論』を読む会」の案内
第23回「『資本論』を読む会」の報告
第24回「『資本論』を読む会」の案内
第24回「『資本論』を読む会」の報告
第25回「『資本論』を読む会」の案内
第25回「『資本論』を読む会」の報告
第26回「『資本論』を読む会」の案内
第26回「『資本論』を読む会」の報告
第27回「『資本論』を読む会」の案内
第27回「『資本論』を読む会」の報告
第28回「『資本論』を読む会」の案内
第28回「『資本論』を読む会」の報告
第29回「『資本論』を読む会」の案内
第29回「『資本論』を読む会」の報告
第30回「『資本論』を読む会」の案内
第30回「『資本論』を読む会」の報告
第31回「『資本論』を読む会」の案内
第31回「『資本論』を読む会」の報告
第32回「『資本論』を読む会」の案内
第32回「『資本論』を読む会」の報告
第33回「『資本論』を読む会」の案内
第33回「『資本論』を読む会」の報告
第34回「『資本論』を読む会」の案内
第34回「『資本論』を読む会」の報告
第35回「『資本論』を読む会」の案内
第35回「『資本論』を読む会」の報告
第36回「『資本論』を読む会」 の案内
第36回「『資本論』を読む会」の報告
第37回「『資本論』を読む会」の案内
第37回「『資本論』を読む会」の報告
第38回「『資本論』を読む会」の案内
第38回「『資本論』を読む会」の報告
第39回「『資本論』を読む会」の案内
第39回「『資本論』を読む会」の報告
第40回「『資本論』を読む会」の案内
第40回「『資本論』を読む会」の報告
第41回「『資本論』を読む会」の案内
第41回「『資本論』を読む会」の報告
第42回「『資本論』を読む会」の案内
第42回「『資本論』を読む会」の報告
第43回「『資本論』を読む会」の案内
第43回「『資本論』を読む会」の報告
第44回「『資本論』を読む会」の案内
第44回「『資本論』を読む会」の報告
第45回「『資本論』を読む会」の案内
第45回「『資本論』を読む会」の報告
第46回「『資本論』を読む会」の案内
第46回「『資本論』を読む会」の報告
第47回「『資本論』を読む会」の案内
第47回「『資本論』を読む会」の報告
第48回「『資本論』を読む会」の案内
第48回「『資本論』を読む会」の報告
第49回「『資本論』を読む会」の案内
第49回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

閉じる


<<最初から読む

50 / 101ページ

第25回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

 

 ギリシャの財政破綻に端を発する信用不安がスペインやポルトガルなどにも広がり、欧州の共通通貨「ユーロ」安が止まらず、世界的な株安をももたらしている。

 

政府の緊縮政策に抗議するギリシャの労働者

 

 ギリシャの財政危機に対しては、欧州連合(EU)と国際通貨基金(IMF)が総額1100億ユーロ(約13兆円)の支援策を決め、ユーロ圏緊急首脳会議でも、財政難のユーロ導入国に対する基金の設立や欧州中央銀行(ECB)も含めた、ユーロ圏安定保証のためにあらゆる手段を講じることや、EUの財政規律の強化等を合意したものの、スペインの中央銀行が貯蓄銀行「カハスール」を傘下においたことが伝わると、再び信用不安が広がり、5月26日には、ニューヨーク株式市場のダウ工業株30種平均は3カ月ぶりに1万ドルの大台を割り込み、日本でも日経平均株価は1万円を割ってしまった。ユーロ安も止まらず26日現在、1ユーロは110円を割り込んでいるありさまである。

 

 ところでユーロ安とか、円高、ドル安とか色々言われるが、この「為替相場(為替レート)」というのは、そもそも何を表しているのであろうか。一般には「異なる通貨の交換比率のことである」と説明されている。これはブルジョア経済学者だけではなく、マルクス経済学者にもこうした説明で済ませている人が多い。しかし果たしてこうした説明は正しいのであろうか。

 

  『資本論』第3部第5篇第35章は「貴金属と為替相場」である。しかし、さまざまな抜粋部分やエンゲルスが書き加えた部分を除くと、マルクス自身が「為替相場」について書いたものは極めて少ない。本格的にはほとんど論じてないと言ってもよいほどである。では、マルクス自身はそれに関心がなかったかというと、とんでもないのである。「ロンドン・ノート1850-1853年」とMEGA編集者によって名付けられた24冊のノートには膨大な抜粋と考察が残されているのだという。

 

 本来、マルクスの「経済学批判」体系プランでは、為替相場は、後半体系の「4.国家における総括」と「6.世界市場と恐慌」との間に位置する「5.国際的関係(外国貿易)」のなかで主題的に論じるべきものだったのである。だから前半体系の、しかもその一部を占めるに過ぎない『資本論』では、ほとんど言及されなかったのもやむをえない。しかし『資本論』の最初の「貨幣論」と第3部第5篇の「利子生み資本論」を正確に理解すれば、自ずと為替や為替相場についても正しい理解に到達できると確信している。

 

 「為替」というのは、遠隔地間の諸支払を銀行など金融機関を媒介して振り替えることによって、現金を運ばずに決済するための信用用具(有価証券)である。だからそれは決して厳密な意味での「通貨」と同じではないのである。  「通貨」とは貨幣の流通手段と支払手段という二つの機能を併せた、「広い意味での流通手段」のことであり、今日でいうなら、日本国内で流通している円札や硬貨、アメリカ国内で流通しているドル札や硬貨、ユーロ圏内ならユーロ札や硬貨、つまり一般に「現金」と言われているものである。しかし為替市場で売買されているのは、こうしたものではなく、有価証券の一種である「為替」なのである。

 

  前者は、それぞれの国内における一般的な商品市場で流通し、その流通必要量は、その時々のそれぞれの国内における(だから外国との間ではないことに注意!)商品流通の状態、すなわち流通する諸商品の価格総額、流通速度、信用の状態(相殺される諸支払の度合い)によって規定され、通貨の「価値」(その代表する金量)も同じようにそれぞれの国内の商品流通の現実によって規定されている。

 

  それに対して後者は、有価証券の売買であるから、貨幣市場の問題であり、だから厳密には利子生み資本、あるいはmoneyed Capitalとしての貨幣資本の運動として捉えるべきなのである。だから、為替の市場価格は、東京やニューヨーク、あるいはロンドン等の外為市場における、その時々の円建てやドル建て、あるいはユーロ建ての為替の需給如何によって、それぞれの通貨建て為替の他の通貨による購買価格が変動するのである(だから両替のように「通貨」そのものが交換されているわけではないし、ここには現金そのものは一切姿を表さない)。そして為替の需給は、投機的なものを除けば、貿易収支や資本収支、つまりそれぞれの国の国際収支の変化に対応して変動するのである

 

  このように、両者はまったく異なる流通(商品市場と貨幣市場)に属し、通常は直接的には関連しない(もちろん両者は間接的には関連しているし、それが如何なる関連にあるかを理論的に解明することが重要なのであるが、それを正しく説明しているものはほとんど見かけない)。だから、この両者を区別できずに、混同するならば、マルクスが批判した銀行学派と同じ誤りに陥ることになるであろう。

 

 「為替相場」を「通貨の交換比率」などと説明することは、まさにこうした誤りに陥っていることを示しているのである。そうした誤った主張の中には国際的な商品取引でもドルなどの「通貨」が実際に流通していると考えているとしか思えないような説明をしているケースさえある。残念ながら、ここでは批判を十分理論的に展開する余裕はないが、こうした問題一つとっても、『資本論』をしっかり研究することの重要性を確認しなければならないのである。

 

 是非、貴方も国際的な金融諸現象を理論的に深く理解するためにも、ともに『資本論』を読んでみませんか。

 


第25回「『資本論』を読む会」の報告

第25回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎梅雨空

 

 毎日、うっとうしい天気が続きます。

 

  第25回「『資本論』を読む会」が開催された6月20日(日)も、どんよりとした曇り空でしたが、家を出るとすぐにパラパラと降ってきました。私たちは傘を持って出かけたのは言うまでもありません。

 

  鳩山に代わる菅政権になっても、民主党政権の本質は何も変わらないような気がします。理念ばかりの“おぼっちゃま”政治から、庶民感覚の“市民派”政治への転換かと期待したのですが、「消費税10%」が飛び出し、“現実主義”の名のもとにより露骨な庶民いじめの政治が横行しそうな気配です。政治の世界も、相変わらず“うっとうしい”状態が続きそうではあります。

 

  さて、「読む会」は前回から入った「4、単純な価値形態の全体」の続きで、第3パラグラフから始まりましたが、今回は、この「4」の最後まで終えました。さっそく、その報告に移りましょう。

 

◎「単純な価値形態の全体」の総括的な考察

 

 前回の報告で、この「4」全体の構成を次のように紹介しました。

 

 〈この「4 単純な価値形態の全体」は、項目「A」で考察された「単純な価値形態」を一つの自立した主体として捉えかえし、その直接的な考察(【1】パラグラフ)、学説史的考察(【2】パラグラフ)、総括的な考察(【3】パラグラフ)、歴史的な考察(【4】パラグラフ)、そして歴史的考察から不可避に生じる、次の発展段階(「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」(【5】~【7】パラグラフ)が論じられることになる〉と。

 

 だから今回、最初の検討対象になった第3パラグラフでは「単純な価値形態の全体」の「総括的な考察」が行われることになります。これまでと同じように、まずパラグラフ全体の本文を紹介し、それを文節ごとに学習会の報告と併せて詳細に検討していくことにしましょう。また関連する付属資料は最後に別途紹介することにします。まずは第3パラグラフの本文です。

 

【3】

 

 〈 (イ)商品Bに対する価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立ちいって考察してみると、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということがわかった。 (ロ)したがって、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され、この関係の中では、<それの>価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値としてのみ意義を持っており、これに対して、<それで>価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値としてのみ意義を持つ。 (ハ)したがって、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。〉

 

 (イ) 商品Bに対する商品Aの価値関係のなかに含まれている商品Aの価値表現を立ち入って考察してみますと、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ商品Aの使用価値の姿として意義をもち、商品Bの現物形態は、ただ商品Aの価値形態、すなわち商品Aの価値が形ある物として現われているもの、あるいは価値姿態として、すなわち商品Aの価値が具体的な姿をとった物として意義をもつことが分かりました。

 

 (ロ) だから商品Aのうちに包み込まれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、つまり二つの商品の対立的な関係によって表されているわけです。この関係のなかでは、商品A、つまりその価値が表現されるべき一方の商品は、直接には、つまり直接目に見えるものとしては、使用価値としてのみ意義を持っており、これに対して、商品B、つまりそれで価値が表現されるもう一つの商品の場合は、直接には、つまりその目に見えるものとして存在しているものとしては、ただ商品のAの交換価値としてのみ意義をもっていることになります。

 

 ここで、〈内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され〉るとありますが、そもそも「対立」というのは、どう理解したら良いのか、その「内的」なものが「外的」なものによって表されるとはどういう事かが問題になりました。  まず「対立」については、以前、大阪市内で行っていた「『資本論』を学ぶ会」で毎回発行された『学ぶ会ニュース』の一文が亀仙人から紹介されました。それをもう一度、紹介しておきましょう。

 

 【◎「使用価値と価値との内的対立」とは?

 

 これは第3パラグラフの議論で出てきた疑問です。直接には第3パラの内容の理解というよりも、「商品のうちに包み込まれている使用価値と価値との内的対立」という表現に関して、使用価値と価値は商品の二つの「属性」とか「契機」とかであって、「対立」しているとどうして言えるのかという疑問でした。そしてそもそも「使用価値と価値の内的対立」とはどういうことかが問題になり、「対立」と「矛盾」とはどう違うのか、といった論理学的な問題にまで発展しました。

 

  まず「使用価値と価値の対立」の理解としては、次のように言えるのではないでしょうか。商品の使用価値には価値は全く含まれていません。一つの商品をどんなにひねくり回しても、透かして見ても、価値は見えてきません。他方、価値には一原子の自然素材も入り込んでいないということはまた明らかです。このように両者は全く互いに排除しあった関係にあります。また使用価値が大きくなっても、そこに含まれる価値が必ずしも増大するとは限らず、むしろ両者は全く反対の動きさえします。このように量的にも両者は全く独立した動きをするものとしてあります。しかしまた両者は商品の二契機である限り、互いに分かれがたく前提しあっています。価値は使用価値が前提されなければ価値ではありえないし、また使用価値はそれが商品の使用価値であるためには価値の担い手でなければなりません。これが「対立」の内容ではないかと思います。

 

  次に「対立」や「区別」、「矛盾」といった論理学のカテゴリーの説明については、鰺坂真他編『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)から簡単な紹介をするだけにします。

 

  同書には本質について次のような説明があります。

 

 〈本質は、より規定的にいえば、事物のうちにあって、その多様な諸形態のうちに自己をうつしだし、それらに媒介された一定の恒常的なものです。そして、このような本質の、もっとも基本的で抽象的な規定が、同一、区別、根拠という三つのカテゴリーです。〉(同66頁)

 

 ところで今問題になっている「対立」や「矛盾」は、まさにこの本質の「基本的で抽象的な規定」の一つである「区別」のなかにあります。それは次のように説明されています。

 

 〈区別は、より単純な形態からより複雑な形態へと三つにわけられます。それが、差異・対立・矛盾です。〉(同69頁)

 

 〈差異とは、最初の直接的な形態での区別であり、相互に無関係な別々のもののあいだでの区別です。〉しかしこうした〈たんなる差異的区別は、かならずしも事物にとって必要な不可欠な区別ではありません。/たとえば、ひとびとのあいだには、背丈とか体重その他の点で、いろいろな差異的な区別があります。しかしこれらの区別は、人類そのものにとって、本質的な、なくてはならない区別ではありません。人類にとっての本質的な区別は、たとえば、男女や親子の区別であり、この種の本質的な区別は、それがより本質的な区別であればあるほど、当の事物のうちにある、いわゆる両極的な区別となっています。/対立とは、このような、事物のうちにある両極的な区別をいいます。右と左、プラスとマイナス、N極とS極などの区別がそれです。/この対立的な区別には、次の点で差異的な区別と異なっています。/第一に、対立は、右のことからして、事物におけるもっとも本質的で必然的な区別です。そして、対立的な二つのものは、その規定性に関しては相互に排斥しあう関係にあって、たがいに自分は他方のものではないということが、そのまま直接に自分自身の規定と合致するという関係にあります。/第二に、一般にあるものの他者とは、そのものではないもの、そのものの否定です。しかしペンではないものといっても、かならずしも本という特定のものを意味しません。ところが、人間のうちにあって男性でないものといえばただちに女性を意味するように、両極的な対立物はたがいに、たんなる他者としてではなくて、それぞれに固有の他者としてあるのです。/第三に、右のことは、かならずしも一方のものが他方の存在そのものを否定する関係にあることを意味しているわけではありません。むしろ両者は、一つのものの不可分の二側面として、たがいに前提しあい依存しあう関係にあります。このように、その規定性にかんしては相互排斥的な両極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること、これが対立です。〉(69~71頁)  〈ところで、事物における本質的であるがたんに対立的でしかない区別にたいして、二つのものが、その存在そのものに関して、一方では共存の関係にあり、他方では逆に相互排除の関係にあるとき、この二つのものの関係が、矛盾としての対立です。この関係を論理的に表現すると、「AはAであるとともに非Aである」ということになります。〉(71頁)

 

 区別、対立、矛盾の関係がだいたいお分かりいただけたでしょうか? 詳しくは同書を参考にしていただくとしてこれぐらいにしたいと思います。】(「『資本論』を学ぶ会ニュース」No.16より)

 

 ここでは「内的対立」の説明はされていますが、「外的対立」については、そもそも価値表現の両極として相対的価値形態と等価形態というのは、まさに二つの商品が一つの価値表現の兩極として「対立」関係にあることを示しています。例えば、初版付録の項目を紹介しますと、次のようになっています。

 

 〈(一)価値表現の兩極相対的価値形態と等価形態

    a 両形態の不可分性

    b 両形態の対極性〉(国民文庫版129-130頁)

 

 このように相対的価値形態と等価形態は、〈その規定性にかんしては相互排斥的な両極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること〉が分かります。つまりこの両者は二つの商品として外的な「対立」的な関係にあることが分かるのです。

 

  つまり商品Aと商品Bのそれぞれがとる二つの価値の形態、すなわち相対的価値形態と等価形態は、商品Aに内在する使用価値と価値の内的対立が、二商品の価値の形態として、外的な対立として現われたものであることが分かるのです。

 

 (ハ) だから、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのです。  これが「単純な価値形態の全体」の「総括的な考察」の結論ということが出来ます。

 

  初版付録には、次のような具体的な説明が付いています。

 

 〈もし私が、商品としてはリンネルは使用価値にして交換価値である、と言うならば、それは私が商品の性質について私が分析によって得た判断である。これに反して、20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、という表現においては、リンネルそのものが、自分が(1)使用価値(リンネル)であり、(2)それとは区別される交換価値(上着と同じもの)であり、(3)これらの二つの別々なものの統一、つまり商品である、ということを語っているのである。〉(同上153頁)

 

 ここでは私たちが「相対的価値形態の内実」に出てくる「商品語」について考察したときに指摘したことが、マルクス自身の言葉として語られています。すなわち、価値関係というのは、商品自身が主体的に関係しあう物象的な商品世界の話であるということです。そこでは商品自身が商品語で他の商品に語りかけているわけです。 つまりリンネル自身が上着との価値関係を取り結ぶことによって、自分が商品であることを語るわけですが、そのためには、(1) まずリンネルは自分は使用価値であり、(2) そしてそれとは区別される交換価値(上着と同じもの)である、と語ることによって、(3) 自分自身が商品であることを示すのだというわけです。

 

◎「単純な価値形態の全体」の歴史的な考察

 

 次は第4パラグラフですから「歴史的な考察」です。もちろん、「歴史的な考察」と言っても、それが歴史的に如何に形成されたかを考察するというより、「単純な価値形態」が歴史的な存在であるということ、つまり歴史的なある発展段階の産物であり、歴史的に限界のあるものであることが考察され、指摘されるわけです。

 

【4】

 

 〈 (イ)労働生産物は、どのような社会状態においても使用対象であるが、労働生産物を商品に転化するのは、ただ、使用物の生産において支出された労働を、その使用物の「対象的」属性として、すなわちその使用物の価値として表す歴史的に規定された一つの発展の時期だけである。 (ロ)それゆえ、こうなる--商品の単純な価値形態は、同時に労働生産物の単純な商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展は価値形態の発展と一致する、と。〉

 

 (イ) 労働生産物は、どのような社会状態においても使用対象ですが、労働生産物を商品にするのは、ただある歴史的な発展段階においてに過ぎません。すなわち、その使用物を生産するために支出された労働が、その使用物の「対象的」属性として、すなわちその使用物の価値として表される歴史的な一時期なのです。

 

  だから労働生産物が商品形態をもつためには、すなわち、それが使用価値と交換価値という対立物の統一体として現われるためには、その使用物に支出された労働が、使用物の価値の形態として現われる歴史的条件と一致することが分かります。

 

 (ロ) だから、商品の単純な価値形態は、単純な商品形態であり、商品形態の発展は価値形態の発展と一致するのです。

 

 ここで「対象的」が鍵括弧に入っているのはどうしてか、という疑問が出されました。それは商品の価値というのは、商品という客観的な対象物に備わった一つの社会的属性ではあるが、しかし商品の使用価値の諸属性のように商品自身の自然的属性とは区別された、われわれには直接には目に見えない、その意味では「幻想的な」、社会的属性であり、そこには自然物は一分子も含まれていません。しかし商品という対象物に備わった属性という意味では確かにそれもその限りでは対象的存在であるために、他の自然属性と区別する意味を込めて鍵括弧に括っているのではないか、という意見が出されました。しかし、完全な了解をえられたわけではありません。

 

 また「商品形態の発展」という文言が出てきますが、そもそも「商品形態」が発展するというのはどう考えたらよいのか、という疑問が出されましたが、これについてはピースさんが、これは商品として生産される生産物がますます増大し拡大するという意味ではないかと指摘し、ほぼそういう理解で一致しました。

 

  ただ一つ付け加えますと、すぐに後にも紹介しますが、初版付録には〈貨幣形態はただ発展した商品形態でしかないのだから、ただ、単純な商品形態から源を発しているのである〉という文言があります。つまりここでは「発展した商品形態」というのは、貨幣形態を意味しているわけです。つまり「商品形態の発展」というのは、商品形態が貨幣形態にまで発展するという含意なのかも知れない、ということです。

 

◎「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」

 

 初版付録には次のような項目があります。

 

(七) 商品形態と貨幣形態との関係

 20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、というかわりに、20エレのリンネル=2ポンド・スターリング または、20エレのリンネルは2ポンド・スターリングに値する、という形態を置いてみるならば、貨幣形態は商品の単純な価値形態のいっそう発展した姿、したがって労働生産物の単純な商品形態のいっそう発展した姿にまったくほかならない、ということは一見して明らかである。貨幣形態はただ発展した商品形態でしかないのだから、ただ、単純な商品形態から源を発しているのである。それだから、単純な商品形態が理解されていさえすれば、残るのは、ただ、単純な商品形態 20エレのリンネル=1着の上着 が 20エレのリンネル=2ポンド・スターリング という姿をとるために通過しなければならない諸変態の列を考察することだけである〉(国民文庫版154頁)

 

 つまり、単純な価値形態の全体を考察したわれわれは、ここから単純な価値形態から貨幣形態にまで発展する諸系列を考察するわけですが、そのためには、単純な価値形態から次の発展段階である、「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」が問題にされなければならないわけです。

 

  ただこの「移行」部分は大きくは二つに分かれます。一つは「単純な価値形態」が最も発展した貨幣形態(=価格形態)から見て不十分なものであることが考察されている部分(【5】【6】)と、そして文字通りの次の発展段階への「移行」が論じられている部分(【7】)とにです。

 

【5】

 

 〈(イ) 単純な価値形態、すなわち、一連の変態をへてはじめて価格形態に成熟するこの萌芽形態の不十分さは、一見して明らかである。〉

 

 (イ) このパラグラフでは、単純な価値形態が一連の変態をとげてはじめて価格形態に成熟するための萌芽形態であり、そしてその限りで不十分さを持っていることが指摘されているだけです。それに対して、次の【6】パラグラフでは、その不十分さの具体的な考察が行われます。

 

【6】

 

 〈 (イ)ある一つの商品Bでの表現は、商品Aの価値をただ商品A自身の使用価値から区別するだけであり、したがってまた、商品Aを、それ自身とは異なる何らかの個々の商品種類に対する交換関係におくだけであり、商品Aの他のすべての商品との質的同等性および量的比例関係を表すものではない。 (ロ)一商品の単純な相対的価値形態には、他の一商品の個々の等価形態が対応する。 (ハ)こうして、上着は、リンネルの相対的価値表現の中では、リンネルというこの個々の商品種類との関係で等価形態または直接的交換可能性の形態をとるにすぎない。〉

 

 (イ) 単純な価値形態では、商品A、例えばリンネルの価値は、商品B(上着)よって表現され、商品A(リンネル)は価値形態を持ちます。しかし商品A(リンネル)は、自身の使用価値と区別された価値形態(交換価値)をもつだけです。しかも、商品A(リンネル)は、ただ商品B(上着)という単一のリンネル自身とは異なる商品種類に対する関係をもつだけです。しかし価値としては、商品A(リンネル)は、すべての他の商品と同じなのです。だから商品A(リンネル)の価値形態は、商品A(リンネル)を、すべての他の商品に対する質的な同等性や量的な比例関係に置く形態でも無ければならないはずなのです。

 

 (ロ) ところが単純な価値形態では、商品の単純な相対的価値形態には他の一商品の単一な(個別的な)等価形態が対応するだけです。つまりこの場合は商品B(上着)は、ただ単一の等価物として機能するだけなのです。

 

 (ハ) こうして、上着は、リンネルとの相対的な価値表現においては、ただ単一の商品種類リンネルに対してだけ等価形態または直接的交換可能性の形態をもっているのみなのです。

 

【7】

 

 〈 (イ)けれども、個別的な価値形態は、おのずから、それよりも完全な一形態に移行する。 (ロ)たしかに、個別的な価値形態の媒介によって、一商品Aの価値は別の種類のただ一つの商品によって表現されるだけである。 (ハ)しかし、この第二の商品がどのような種類のものであるか、上着か、鉄か、小麦などかどうかということは、まったくどうでもよいことである。 (ニ)したがって、商品Aが他のあれこれの商品種類に対して価値関係に入るのに従って、同一の商品のさまざまな単純な価値表現が生じる(22a)。 (ホ)商品Aの可能な価値表現の数は、商品Aと異なる商品種類の数によって制限されているだけである。 (ヘ)だから、商品Aの個別的価値表現は、商品Aのさまざまな単純な価値表現のたえず延長可能な列に転化する。〉

 

 (イ)  しかし、個別的な価値形態は、おのずから、より完全な一形態へと移行します。

 

 ここではこれまでの「単純な価値形態」ではなく「個別的な価値形態」という文言が使われています。もともと「単純な価値形態」とわれわれが言ってきたものは、表題としては「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」でした(この表題そのものはエンゲルス版に固有であって、マルクスが直接携わった版にはこうした表題そのものはありません--詳しくは第14回の報告〔その1〕を参照)。ここで「簡単な価値形態」というのは、ほぼ「単純な価値形態」と同義でしょう。「個別的」と「偶然的」というのは、等価形態について言われているように思えます(上記報告参照)。つまり単純な価値形態においては、等価形態にある商品は、個別の一商品だけであり、ある一商品が等価物として置かれるのは偶然的であるという含意と考えられるのです。だからここで「個別的な価値形態」という文言が出てくるのは、等価形態に着目して、それが個別の一商品に限定されているという意味を込めて使われていると考えるべきではないかと思います。つまり個別の一商品によって表された価値形態という意味で、「個別的な価値形態」ということです。

 

 (ロ) 確かに、個別的な価値形態では、一商品Aの価値は別の種類のただ一つの商品によって表現されているだけです。

 

 (ハ) しかし第二の商品がどのような種類のものであるか、上着か、鉄か、小麦かどうかということは、まったくどうでもよいことです。

 

 (ニ) だから商品A(リンネル)が、あれこれの他の商品種類に対して価値関係に入るのに従って、同一の商品、すなわち商品A(リンネル)のさまざまな単純な価値形態が生じることになります。

 

 (ホ) 商品A(リンネル)の可能な価値表現の数は、商品A(リンネル)と異なる商品種類の数によって制限されているだけです。

 

 (ヘ) だから、商品Aの個別的な価値表現は、商品Aのさまざまな単純な価値表現のたえず延長可能な列に転化することになります。すなわち「全体的な、または展開された価値形態」に移行することになるのです。

 

【注】

 

 〈(22a) 第2版への注。たとえば、ホメロスにあっては、一つの物の価値が一連のさまざまな物で表現される〔ホメロス『イリアス』、第七書、第四七二-四七五行。呉茂一訳、岩波文庫、中、三九ページ〕。〉

 

 これは〈商品Aが他のあれこれの商品種類に対して価値関係に入るのに従って、同一の商品のさまざまな単純な価値表現が生じる〉という一文に付けられた注ですが、要するに、ホメロスの場合は、一つの物(葡萄酒)が、さまざまな物と交換されることが言及されているということのようです。『イーリアス』から当該部分を紹介しておきましょう。

 

 〈折ふしレームノス島から、葡萄酒を運んで来た船が、浜にかかった、……その船々から、頭髪を長く垂らしたアカイア人らは、酒をとって来た、ある者どもは青銅に換え、あるいは輝く鉄(くろがね)に換え、あるいはまた牛の皮に、あるいは生身の牛そのものに、他の者どもは奴婢(やっこ)に換えて、賑々しい宴をもうけ、……〉(岩波文庫、中、38-9頁)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

【付属資料】

 

●【3】パラグラフに関連して

 

《初版付録》

 

 〈(五) 商品の単純な価値形態はその商品のなかに含まれている使用価値と交換価値との対立の単純な現象形態である

 上着にたいするリンネルの価値関係においては、リンネルの現物形態はただ使用価値の姿としてのみ認められており、上着の現物形態はただ価値形態または交換価値の姿としてのみ認められている。したがって、商品のなかに含まれている使用価値と価値との内的な対立は、一つの外的な対立すなわち二つの商品の関係によって表わされているのであって、これらの商品の一方は値接にはただ使用価値としてのみ認められ、他方は直接にはただ交換価値としてのみ認められているのであり、言い換えれば、この関係のなかでは使用価値と交換価値という両方の対立的な規定が二つの商品のあいだで対極的に分けられているのである。--もし私が、商品としてはリンネルは使用価値にして交換価値である、と言うならば、それは私が商品の性質について私が分析によって得た判断である。これに反して、20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、という表現においては、リンネルそのものが、自分が(1)使用価値(リンネル)であり、(2)それとは区別される交換価値(上着と同じもの)であり、(3)これらの二つの別々なものの統一、つまり商品である、ということを語っているのである。〉(同上152-3頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立ち入って考察してみると,この価値表現の内部では,商品Aの自然形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち,商品Bの自然形態はただ価値形態または価値の姿態としてのみ意義をもつ,ということがわかった。したがって,商品のうちに包み込まれている使用価値と価値との内的対立は一つの外的対立によって,すなわち二つの商品の関係によって表わされ,この関係のなかでは,それの価値が表現されるべき商品Aは,直接にはただ使用価値としてのみ意義をもち,これにたいして,それで価値が表現される商品Bは直接にはただ交換価値としてのみ意義をもつ。したがって,一商品の簡単な価値形態は,その商品に含まれている使用価値と価傾との対立の簡単な現象形態なのである。〉(79頁)

 

《フランス語版》

 

 〈BによってのAの価値表現を注意深く考察すれば、次のことが示された。すなわち、この関係では、商品Aの自然形態が使用価値形態としてのみ現われ、商品Bの自然形態が価値形態としてのみ現われる、と。このように、一商品の使用価値と価値との内的対立は、二つの商品の関係によって現われるが、この関係では、価値が表現されるぺきAは、使用価値としての地位のみを直接に得るが、これに反し、価値を表現するBは、交換価値としての地位のみを直接に得るのである。したがって、一商品の単純な価値形態は、この商品が包蔵している対立の、すなわち、使用価値と価値との対立の、単純な現象形態である。〉(33-34頁)

 

●【4】パラグラフに関連して

 

《初版付録》

 

 〈(六) 商品の単純な価値形態は労働生産物の単純な商品形態である

 使用価値の形態は、その現物形態における労働生産物を世のなかに出す。だから、労働生産物は、それが商品形態をもつためには、すなわち、それが使用価値と交換価値という対立物の統一体として現われるためには、ただ価値形態を必要とするだけである。それだから、価値形態の発展は商品形態の発展と同じなのである。〉(同上153頁)  

 

《補足と改訂》

 

 〈労働生産物は,どのような社会状態においても使用価値すなわち使用対象であるが,労働生産物を商品に転化するのは,ただ,使用物の生産において支出された労働を,対象的属性として,すなわちその使用物の価値として表す歴史的に規定された社会の一つの発展の時期だけである。労働生産物は,その価値が交換価値の形態,すなわち,その使用価値の自然形態とは対象的な形態をもち,したがって,それと同時に労働生産物がこの対立の統一として表わされるや否や,商品形態を受け取るのである。それゆえ,こうなる一商品の簡単な価値形態は,同時に労働生産物の簡単な南品形態であり,したがってまた,商品形態の発展は価値形態の発展と一致する,と。〉(79頁)

 

《フランス語版》

 

 〈労働生産物は、どんな社会状態においても使用価値、すなわち有用物である。だが、労働生産物が一般的に商品に転化するのは、社会の歴史的発展上の一定の時代にかぎられるのであって、その時代は、有用物の生産に支出された労働が、この物に固有な特性、すなわちこの物の価値、という性格を帯びるような時代である。〉(34頁)

 

●【5】パラグラフに関連して

 

《初版付録》

 

 〈(七) 商品形態と貨幣形態との関係

 20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、というかわりに、20エレのリンネル=2ポンド・スターリング または、20エレのリンネルは2ポンド・スターリングに値する、という形態を置いてみるならば、貨幣形態は商品の単純な価値形態のいっそう発展した姿、したがって労働生産物の単純な商品形態のいっそう発展した姿にまったくほかならない、ということは一見して明らかである。貨幣形態はただ発展した商品形態でしかないのだから、ただ、単純な商品形態から源を発しているのである。それだから、単純な商品形態が理解されていさえすれば、残るのは、ただ、単純な商品形態 20エレのリンネル=1着の上着 が 20エレのリンネル=2ポンド・スターリング という姿をとるために通過しなければならない諸変態の列を考察することだけである〉(同上154頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈簡単な価値形態,すなわち,一連の変態を経てはじめて価格形態に成熟するこの萌芽形態の不十分さは,一見して明らかである。〉(79頁)

 

《フランス語版》

 

 〈一見すれば、単純な価値形態の不充分さが認められるが、この形態は、価格形態に到達する以前に一連の変態を経なければならない胚種なのである。〉(34頁)

 

●【6】パラグラフに関連して

 

《初版本文》

 

 〈柑対的な価値の単純な形態においては、すなわち二つの商品の等価性の表現においては、価値の形態発展は両方の商品にとって、たとえそのつど反対の方向においてであっても、一様である。相対的な価値表現は、さらに、両方の商品のそれぞれに関して統一的である。というのは、リンネルはその価値を、ただ、一つの商品、上着においてのみ表わしており、また逆の場合は逆であるからである。しかし、両方の商品にとってはこの価値表現は二重であり、それらのおのおのにとって違っている。最後に、両方の商品のおのおのは、ただ他方の個別的な商品種類にとって等価物であるだけであり、したがってただ個別的な等価物であるだけである。〉(国民文庫版57頁)

 

《初版付録》

 

 〈(八) 単純な相対的価値形態と単一な等価形態

 上着での価値表現はリンネルに価値形態を与えはするが、この価値形態によってはリンネルは、ただ、価値として使用価値としての自分自身から区別されるだけである。この形態はまたリンネルを、ただ、上着にたいする、すなおちなんらかの単一な、リンネル自身とは違う商品種類にたいする、関係に置くだけである。しかし、価値としてはリンネルはすべての他の商品と同じなのである。それゆえ、リンネルの価値形態はまた、リンネルを、すべての他の商品にたいする質的な同等性および量的な釣り合いの関係に置く形態でもなければならない。--一商品の単純な相対的価値形態には他の一商品の単一な等価形態が対応する。すなわち、それにおいて価値が表現されるところの商品は、この場合にはただ単一な等価物として機能するだけである。こうして、上着は、リンネルの相対的な価値表現においては、ただこの単一な商品種類リンネルにたいして等価形態または直接的交換可能性の形態をもっているだけである。〉(同上154-5頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈なにかある自分とは違った種類の商品Bでの価値表現は,商品Aの価値をただ商品Aの使用価値から区別するだけであり,それゆえまた,商品Aを,それ自身とは異なるなんらかの個々の商品種類にたいする交換関係におくだけであり,商品Aの他のすべての商品との質的同等性および量的比例関係を表わすものではない。一商品の簡単な相対的価値表現には,他の一商品の個々の等価形態が対応する。こうして,上着は,リンネルの相対的価値表現のなかでは,リンネルというこの個々の商品種類との関連で等価形態または直接的交換可能性の形態をとるにすぎない。〉(79-80頁)

 

《フランス語版》

 

 〈実際のところ、単純な形態は、一商品の価値と使用価値とを区別して、この商品を、なんらかの他の一つの商品種類との交換関係に置くにすぎず、すべての商品にたいするこの商品の質的同等性と量的比率とを表わすものではない。一商品の価値がこの単純な形態において表現されるやいなや、他の一商品のほうも単純な等価形態を帯びる。こうして、たとえぽ上衣は、リソネルの相対的な価値表現では、リンネルというただ一つの商品にたいする関係によってのみ、等価形態、すなわち自分が直接に交換可能なものであることを示す形態、をもっているにすぎない。〉(34頁)

 

●【7】パラグラフに関連して

 

《初版本文》

 

 〈このよううな等式、すなわち、20エレのリンネル=1着の上着 または 20エレのリンネルは1着の上着に値する、というような等式は、明らかに、商品の価値をただまったく局限的に一面的に表現しでいるだけである。もし私がたとえばリンネルを、上着とではなく、他の諸商品と比較するならば、私はまた別の相対的な諸価値表現、すなわち、20エレのリンネル=u量のコーヒー 20エレのリンネル=v量の茶 などというような別の諸等式を得ることになる。リンネルは、それとは別な諸商品があるのとちょうど同じ数の違った相対的な価値表現をもつのであって、リンネルの相対的な価値表現の数は、新たに現われてくる諸商品種類の数とともに絶えず増加するのである(22)。

 

 (22)「各商品の価値は、交換にさいしてのその商品の割合を表わすのだから、われわれは、各商品の価値を、その商品が比較される商品がなんであるかにしたがって……穀物価値とか布価値とか呼ぶことできるであろう。したがってまた、無数の違った種類の価値があるのであり、そこにある諸商品と同じ数の価値の種類があるのであって、それらはみな等しく真実でもあり、また等しく名目的でもある。」(『価値の性質、尺度および諸原因に関する批判的論究。主としてリカード氏とその追随者たちとの諸著作に関連して。意見の形成と公表とに関する試論の著者の著』、ロンドン、1825年、39ぺージ。〔日本評論社『世界古典文庫』版、鈴木訳『リカアド価値論の批判』、54ページ。〕) 当時イギリスで大いに騒がれたこの匿名の書の著者S・べーリは、このように同じ商品価値の種々雑多な相対的な表現を指摘することによって、価値の概念規定をすべて否定し去ったと妄信している。それにしても、彼自身の偏狭さにもかかわらず、彼がリカード学説の急所に触れたということは、たとえぽ『ウェストミンスター・レヴュー』のなかで彼を攻撃したリカード学派の立腹がすでに証明したところである。〉(同上57-8頁)

 

《初版付録》

 

 〈(九) 単純な価値形態から展開された価値形態への移行

 単純な価値形態は、一商品の価値がただ一つの--といってもそれがなんであってもかまわないのだが--他の種類の商品で表現される、ということを条件とする。だから、リンネルの価値が鉄や麦やその他で表現されても、それは、その価値が商品種類上着で表現される場合とまったく同じに、リンネルの単純な相対的な価値表現なのである。したがって、リンネルが価値関係にはいる相手の商品種類がこれであるか、あれであるか、にしたがって、そのつどリンネルの違った単純な相対的な価値表現が成立するのである。可能性から言えば、リンネルは、それとは別種な諸商品が存在するのとちょうど同じだけのいろいろな価値表現をもっているわけである。つまり、事実上リンネルの完全な相対的な価値表現は、一つの個別的な単純な相対的な価値表現なのではなくて、リンネルの単純な相対的な諸価値表現の総和なのである。こうして、われわれは次のような形態を得ることになる。〉(同上155-6頁

 

《補足と改訂》

 

 〈とはいえ,簡単な価値形態は,おのずから,それよりも完全な一形態に移行する。確かに,簡単な価値形態の媒介によって,一商品の価値は別の種類のただ一つの商品によって表現されるだけである。しかし,この第二の商品がどのような種類のものであるか,上着か,鉄か,小麦等かということは,まったくどうでもよいことである。(p.777,4)それゆえ,商品Aが他のあれこれの商品種類にたいして価値関係にはいるのに従って,同一の商品のさまざまな簡単な価値表現が生じる。商品Aの可能な価値表現の数は,商品Aと異なる商品種類の数によって制限されているだけである。だから,商品Aの個別的価値表現は,商品のさまざまな簡単な価値表現の絶えず延長可能な列に転化する。〉(80頁)

 

《フランス語版》

 

 〈それにもかかわらず、単純な価値形態はおのずから、もっと完全な形態に移行する。単純な価値形態は確かに、商品Aの価値をただ一つの他種類の商品においてしか表現しない。だが、この第二の種類の商品は全く、上衣、鉄、小麦等々、全くお望みどおりでかまわない。したがって、一商品の価値表現は、他の諸商品にたいするこの商品の価値関係と同じくらい多様になる。したがって、この商品の単独な価値表現は、随意に延長できる一連の単純な表現に変態されるのである。〉(34-35頁)

 


第26回「『資本論』を読む会」の案内

『 資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

                                    

 参院選が公示されました。

 

 菅直人首相は、所信表明演説や記者会見のなかで、「『強い経済』゛『強い財政』゛『強い社会保障』の一体的実現を、政治の強いリーダーシップで実現していく」と訴え、「経済成長を大きな軸に置き、2011年度予算編成に当たりたい。成長を支えるには強い財政が必要だ。日本の債務残高は国内総生産(GDP)比180%を超えている。ギリシャの例を引くまでもなく、財政が破綻すれば人々の生活、社会保障が破綻する」と消費税率引き上げの必要性を強調。「早期に超党派で議論を始め、自民党が提案した税率10%を一つの参考にしたい」と具体的な数値にまで言及したために、俄かに消費税の引き上げが、参院選の大きな争点として浮上してきました。

 

 

 2010年度の国債発行は、総額162兆4139億円を計画。09年度当初より30兆1285億円増。10年度末の国債発行残高(財投債除く)は637兆円の見込みで、国民1人あたり499万円の借金になる計算です。 国家財政が早くからすでに破綻していることは明らかです。そしてそのツケがやがては国民に押しつけられるだろうということも容易に予測できました。しかしそれがよりにもよって民主党政権によって実行されようとしているのです。

 

 

 理念先行の美辞麗句だけの鳩山内閣に代わって、庶民派宰相・菅内閣の誕生で少しはましな政治になるのかと期待しましたが、とんでもありません。菅政権は、“現実主義”の名のもとに、財政破綻のツケを庶民に押しつける大増税に先鞭をつける歴史的役割を果たそうとしているかです。まったく酷い内閣が誕生したものです。

 

 現在の財政破綻に国民が何か責任があるのでしょうか。決して否です。歴代の自民党政府が膨大な赤字国債を毎年毎年発行してきたのは、資本の危機を救済するがためです。特に90年代のバブル崩壊後の深刻な不況では、銀行などバブル時に“濡れ手に粟”のぼろ儲けをした資本家たちを救済するために膨大な資金を提供してきました。何度も景気浮揚策と称して無駄な公共事業にカネをつぎ込むために赤字国債を垂れ流してきたのです。現在の財政破綻に責任を負わなければならないのは独占資本なのです。ところが現在の独占資本は税金をほとんど払っていません。税収に占める法人税の割合は極めて少なくなっています(図表参照)。

 

 にも関わらず、菅政権は、そうした独占資本には法人税の減税を約束する一方で、財政破綻のツケをすべて国民を押しつけようというのです。消費税は、所得税のように国民が直接その痛みを感じることなく収奪できる、政府にとって都合のよい税制です。だからこれに一度手をつけると止めども無く、それに頼る財政が累進的に進むのです。

 

 マルクスは国債と税制は不可分の関係にあり、生活手段に課税する消費税を軸とする財政は、それ自体に自動累進の萌芽を含んでいると次のように指摘しています。

 

 《国債は国庫収入を後ろだてとするものであって、この国庫収入によって年々の利子などの支払がまかなわれなければならないのだから、近代的租税制度は国債制度の必然的な補足物になったのである。国債によって、政府は直接に納税者にそれを感じさせることなしに臨時費を支出することができるのであるが、しかしその結果はやはり増税が必要になる。他方、次々に契約される負債の累積によってひき起こされる増税は、政府が新たな臨時支出をするときにはいつでも新たな借入れをなさざるをえないようにする。それゆえ、最も必要な生活手段にたいする課税(したがってその騰貴)を回転軸とする近代的財政は、それ自体のうちに自動的累進の萌芽をはらんでいるのである。過重課税は偶発事件ではなく、むしろ原則なのである。それだから、この制度を最初に採用したオランダでは、偉大な愛国者デ・ウィットが彼の筬言(しんげん)のなかでこの制度を称賛して、賃金労働者を従順、倹約、勤勉にし……これに労働の重荷を背負わせるための最良の制度だとしたのである。》(『資本論』第1部全集23巻b986-7頁)

 

 増税押しつけの菅民主党政権には、この参院選挙でキッパリとノーを突きつけなければなりません。貴方も国債と税制のからくりを見抜くためにも、ともに『資本論』を読んでみませんか。

 


第26回「『資本論』を読む会」の報告

第26回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎さーァ、暑い夏がきた

 

 うっとうしく長く続いた梅雨が、激しい雷雨によって開け、一転、暑い夏がやってきました。

 

 大雨をもたらした激しい雷雨は各地に大きな被害をもたらしましたが、私ごとながら、我が家でも、落雷が近くに落ちたためか、パソコンのモニターがフラッシュ状態になり、間欠的にしか画面が見えなくなる被害を被りました。結局、諦めて新しいモニターを購入する羽目に。

 

 しかし土曜日からは一転して夏日になり、第26回「『資本論』を読む会」も、真夏に相応しい強い日差しのなかでの開催となりました。子供たちにはうれしい夏休みにも突入。連日、猛暑日が続いています。おかげで全く集中力が働かず、この報告もアップが遅れました(これは言い訳)。

 

 今回からは〈B 全体的な、または展開された価値形態〉という新しい項目に入りました。とにかく、その報告を行うことにしましょう。

 

◎「全体的な、または展開された」とは?

 

 JJ富村さんが、突端から、〈「全体的な、または展開された」というのは、等価形態について言っているのだろうか?〉という質問を発したものですから、まずは、この新しい項目そのものの解釈が問題になり、おかげで、この項目の位置づけや全体の構成、見通しが話し合われました。まず、そこから確認しておくことにしましょう。

 

 今回から学習する新しい項目Bは、いうまでもなく、〈A 単純な、個別的な、偶然的な価値形態〉のより発展したものです。そしてAと同じように、Bも、価値形態の兩極である、相対的価値形態と等価形態がそれぞれに分析され、その上で、それらが総合されて、この新しい発展した価値形態であるBの欠陥が指摘され、次の発展段階への移行が考察される、という展開になっています。

 

  ただ相対的価値形態にしても、等価形態にしても、あくまでも「全体的な、展開された価値形態」としてのそれであり、これまでの単純な価値形態の考察を前提に、展開された価値形態に固有の問題を、それぞれについて明らかにしているわけです。 まず相対的価値形態については、最初はその質的な考察を行い、次いでその量的考察が行われています。等価形態については、Bに固有の特徴として、その特殊的な性格が明らかにされています。

 

  そして次の価値形態(C 一般的価値形態)への移行として、展開された価値形態が全体として考察され、その欠陥がかなりの分量で考察されています。

 

  この展開された価値形態から、次のステップである一般的価値形態への移行については、多くの論争がありますが、JJ富村さんも、その問題に関連する質問を発して、かなりの拘りを示したのですが、しかし、この問題は今回はやらずに、次回に回すことにしました。

 

 とにかく、〈B 全体的な、または展開された価値形態〉とはどういうものか、その具体例を示しておきましょう。

 

【2】

 

 〈(20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=40ポンドのコーヒー または=1クォーターの小麦 または=2オンスの金 または=1/2トンの鉄 または=等々)〉

 

 これが〈全体的な、または展開された価値形態〉です。

 

  ここでピースさんのレジュメでは、「A商品=B商品の関係にあっては、個別的に等しいとされていた関係が、他の全ての商品と等しいという関係を形成することによって、等しい内容が一般的な現象として表されることになる」とあったので、「一般的な現象」という言い方はどんなものだろうか、という疑問が出され、この価値形態の性格が問題になりました。亀仙人は、この形態の特徴は〈20エレのリンネル=1着の上着〉という単純な形態だけでなく、〈20エレのリンネル=10ポンドの茶〉、〈20エレのリンネル=40ポンドのコーヒー〉、〈20エレのリンネル=1クォーターの小麦〉等々という単純な価値形態の無限の列が並ぶというところにあるのではないか、つまり一つの商品の単純な価値形態が並列することで、そうした無限の列そのものによって、今度は一つの商品の価値が表現されているところに特徴があるのではないか、いわばリンネル以外の他の多くの商品が「共同的」に一つの商品であるリンネルの価値を表現しているのではないか、と指摘しました。

 

 また同時に、初版付録では、この後に、現行版やフランス語版にもない、次のような項目とパラグラフが入っていることも指摘されました。

 

 〈(一) 列の無限性

 

 〈このような、単純な相対的な諸価値表現の列は、その性質上、いくらでも延長されることができ、言い換えれば、けっして終結することがない。なぜならば、絶えず新たな商品種類が出現して、どの新たな商品種類も新たな価値表現の材料となるからである。〉(国民文庫156頁)

 

 とにかく、具体的なマルクスの説明を検討して行くことにしましょう。今回もまず本文を紹介し、その各文節ごとに(イ)、(ロ)・・・・と記号を打ち、文節ごとに詳しく見ていくことにします。

 

◎相対的価値形態の質的考察

 

 まず最初は、〈全体的な、または展開された価値形態〉の相対的価値形態の質的考察が行われます。

 

【1】

 

 〈 (イ)ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。 (ロ)他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる(23)。 (ハ)こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。 (ニ)なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。 (ホ)すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてこの労働に等しいとされているからである。 (ヘ)それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。 (ト)商品として、リンネルはこの世界の市民である。(チ)同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。〉

 

   (イ) リンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の商品によって表されています。

 

  ここで「商品世界」という言葉が出てきますが、以前にもこの言葉については説明したことがあったと思います。これは商品自身が主体となって互いに関係し合う世界のことでした(第18回報告を参照)。リンネル自身が、商品世界にある、他のあらゆる商品に関係して、自身の価値を表現している形態(価値形態)と考えることができます。

 

 (ロ) そしてこの関係においては、「他の商品体」、つまり他のすべての商品の諸使用価値、その自然諸姿態は、どれもリンネルの価値を写し出す鏡になるわけです。

 

 (ハ) こうして初めて、本当に、実際的にも、リンネルの価値は無差別な人間労働の凝固として現われています。

 

 (ニ)、(ホ) なぜなら、リンネルの価値を形成する労働は、いまでは明瞭に、他のすべての商品に支出されている労働に等しいとされているからです。リンネルの価値を形成する労働は、ある場合には裁縫労働の姿をとり、ある場合には茶を生産する労働の姿をとり、ある場合にはコーヒー生産労働と同じであり、小麦生産労働と同じ等々だからです。つまりリンネルの価値を形成する労働は、他のすべての具体的な労働と同じなのですが、だからこそそれはその無限の同等性によって、それ自体が無差別な人間労働そのものの凝固であることを、実際的にも明らかにしているのだといえるからです。

 

 (ヘ) だから、いまではリンネルはその展開された価値形態によって、単純な価値形態の場合のように、ただ一つの種類の商品に対してだけではなくて、商品世界のすべての商品種類に関係し、自身の価値を表すのですから、商品世界と社会的な関係に立っていることになります。

 

 (ト) リンネルは、商品として、この世界の市民なのです。つまり商品として認められ、この同じ商品社会の一員であることが示されているわけです。

 

 (チ) 同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品の価値はそれが現われる使用価値の特殊な諸形態には無関係だということが示されていることでもあるのです。

 

 ここでリンネルを商品世界の「市民」としているのは、示唆的です。商品世界というのは商品自身が主体として互いに関係し合う世界であること、商品が互いに関係して一つの世界を形作っている(しかもそれは人間の意識から自立して、反対に人間をそれに従属させるような物象的な世界として立ち現れている)ことを考えれば、こうしたアナロジーは理解できます。近代的な市民社会も個々の人間が個々バラバラな一市民としてその構成員になって形成する社会ですが、市民社会そのものを個々の市民がコントロールしているのではなく、むしろ彼ら自身の関係である市民社会は彼ら自身からは自立して、反対に彼らをしばり統制する社会として立ち現れていますが、商品世界もまったく同じだといえるからです。

 

 次は(ロ)の文節につけられた〈注23〉についてですが、これも一応検討しましたので、紹介しておきます。しかし今回は文節ごとの考察は省略します。

 

【注23】

 

 〈(23) それゆえ、リンネルの価値を上着で表わす場合にはリンネルの上着価値と言い、穀物で表わす場合にはリンネルの穀物価値と言ったりするのである。このような表現は、どれもみな、上着や穀物などという使用価値に現われるものはリンネルの価値だということを意味している。「各商品の価値は、交換にさいしてのその商品の割合を表わすのだから、われわれは、各商品の価値を、その商品が比較される商品がなんであるかにしたがって……穀物価値とか布価値とか呼ぶことができるであろう。したがってまた、そこにある商品と同じ数の違った価値の種類があって、それらはみな等しく真実でもあり、また等しく名目でもある。」(『価値の性質、尺度および諸原因に関する批判的論究。主としてリカード氏とその追随者たちの諸著作に関連して。意見の形成と公表とに関する試論の著者の著』、ロンドン、一八二五年、三九ページ。〔日本評論社「世界古典文庫」版、鈴木訳『リカアド価値論の批判』、五四ページ。〕)当時イギリスで大いに騒がれたこの匿名の書の著者S・べ-リは、このように同じ商品価値の種々雑多な相対的表現を指摘することによって、価値の概念規定をすべて否定し去ったと妄信している。それにしても、彼自身の偏狭さにもかかわらず、彼がリカード学説の急所に触れたことは、たとえば「ウェストミンスター・レヴュー』のなかで彼を攻撃したリカード学派の立腹がすでに証明したところである。〉

 

 だからリンネルの価値を上着で表す場合は、リンネルの上着価値といい、穀物で表す場合にはリンネルの穀物価値と言ったりするのです。そしてこのような表現は、上着や穀物などという使用価値に現われるものはリンネルの価値だということを意味しています。こうしたことから、リカードを批判するベーリーは商品の内在的な価値を否定し、商品の価値は、その時々の商品が交換される割合を表すだけだから、だからわれわれはその商品が比較される他の商品の種類によって穀物価値とか布価値というのだ、それらはすべて異なる種類の商品の数だけのその商品の価値の種類があることを示しており、よってそれはすべて等しく真実であり、名目でもある、という主張をしたのです。このようにベーリーは種々雑多な商品の価値表現を羅列することによって、価値の概念規定をすべて否定したと妄信したのです。それは確かに彼の偏狭さを示すものですが、しかし彼が、労働時間による価値規定を主張しながら、価値の形態には何ら注意を与えなかったリカード学説の急所に触れたことは確かであり、それはリカード学派が彼を激しく攻撃したことによっても証明されています。

 

 ここで〈リカード学説の急所〉というのは何かが問題になりました。これはリカードが価値の大きさをそれに対象化されている労働時間に還元はしたが、その形態には注意を払わなかったことではないか、との説明がありましたが、もう少し『剰余価値学説史』から関連すると思われる部分を紹介しておきましょう。

 

 〈リカードは、商品の相対的価値(または交換価値)は「労働の量」によって規定されるということから出発する。(われわれは、リカードが使っている価値という言葉のいろいろな意味を、結びのところで検討することができる。ベーリの批判、同時にリカードの欠陥は、これに基づいている。)この「労働」の牲格は、これ以上には研究されていない。もし二つの商品が等価である--または一定の比率で等価である、または、同じことであるが、それらが含んでいる「労働に応じて大きさが違う--とすれば、その場合には、それらの商品は、それらが交換価値であるかぎりでは、実体の点では、相等しいということも明ちかである。それらの商品の実体は労働である。だからこそ、それらの商品は「価値」なのである。その大きさは、それらの商品がこの実体をより多く含むか、または、より少ししか含まないかに応じて違っている。ところで、リカードは、この労働の姿態--交換価値をつくりだすものとしての、または交換価値で表わされるものとしての、労働の特殊な規定--を、この労働の性格研究していない。したがって彼は、この労働貨幣との関連を、すなわちこの労働が貨幣として表わされなければならないことを、理解していない。したがって彼は、商品の交換価値の労働時間による規定と、諸商品が貨幣形成にまで進む必然牲とのあいだの関連を、まったくつかんでいない。ここから彼のまちがった貨幣理論が出てくる。彼の場合には、はじめからただ価値の大きさだけが問題なのである。すなわち、商品の価値の大きさはその生産に心要な労働量に此例するということだけが問題なのである。ここからリカードは出発する。彼は、A・スミスを自分の出発点として、はっきり指摘している(〔リカード『経済学および課税の原理』〕第一章第一節)。 

  ところで、リカードの方法は、次のようなものである。すなわち、彼は、商品の価値の大きさは労働時間によって規定されるということから出発し、次いで、その他の経済的な諸関係や諸範疇がこの価値の規定に矛盾するかどうか、または、それらがこの価値の規定をどの程度修正するか、を研究する。経済学の歴史におけるこのようなやり方の歴史的な正当性とその科学的な必然性とは一見しただげで明らかであるとはいえ、同時にまた、それの科学的な不十分性も一見しただけで明らかである。この不十分性は、単に叙述の仕方のうちに(形式的に)現われるだけでなく、まちがった結論に導くものでもある。というのは、それは必要な諸中間項を飛び越えて直接的な仕方で経済学的諸範躊の相互の整合を証明しようとするのだからである。〉(26巻II209-210頁)

 

 〈べーリは、はじめのほうにあげた著書のなかで次のように言う。「彼ら」(リカードとその追随者たち)「は、価値を二つの物のあいだの関係とはみなさないで、それをある一定の労働量によって生産された積極的な所産とみなしている。」(〔べーリ『価値の性質、尺度、諸原因に関する批判的論究、……』〕三〇ページ。〔世界古典文庫版、鈴木鴻一郎訳『リカード価値論の批判』、目本評論社、四七ページ。〕)  彼らは「価値をなにか内在的かつ絶対的なものと」(同前、八ページ〔鈴木訳、三ニページ〕)みなしている。 

  あとのほうの非難がでてくるのは、リカードの欠陥の多い叙述のためである。というのは、彼は、価値をその形態--価値の実体としての労働が取るところの特定の形態--に関して研究することをまったくやらないで、ただ価値の大きさだけを、諸商品の価値の大きさの相違をひき起こすところの、この抽象的-一般的な、そしてこの形態においては社会的な労働の量を研究しているだけだからである。もしそうでなかったなら、べーリは次のことがわかったであろう。すなわち、すべての商品が交換価値であるかぎり、それらの商品はただ社会的労働時間の相対的な表現にすぎないということによって、価値概念の相対性はけっして廃棄されないということ、また、すべての商品の相対性は、けっしてただこれらの商品の相互に交換される関係だけから成っているのではなく、これらのすべての商品が、それらの実体であるこの社会的労働にたいしてもつ関係からも成っているのだということ、である。〉(26巻II220頁)

 

◎相対的価値形態の量的考察

 

 次は、〈全体的な、または展開された価値形態〉の相対的価値形態の量的考察です。

 

【2】

 

 〈 (イ)第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。 (ロ)これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。 (ハ)リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。 (ニ)二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。 (ホ)交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる。〉

 

 (イ) 第一の形態、つまり〈A 単純な、個別的な、偶然的な価値形態〉である、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的割合で交換されるということは、偶然的事実であり得ます。

 

 (ロ) これに対して、第二の形態、つまり〈B 全体的な、または展開された価値形態〉では、偶然的現象とは本質的に違っていることを示唆しています。つまりそれを規制している背景が、すぐに現われてくるのです。  ここで〈それを規制している背景〉というのは何を指しているのかが問題になりましたが、これはその後に説明されていることであるが、二つの商品が交換される割合を規制するのは、二つの商品の価値量だということであろう、ということになりました。

 

 (ハ) リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄などの無数の違った商品所持者のものである無数の異なる商品のどれで表されようと、常に同じ大きさかであることが分かってきます。

 

 (ニ)、(ホ) だから二人の個人的な商品所持者の偶然的な関係はなくなり、交換が商品の価値量を規制するのではなくて、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規定するということが明らかになっています。

 

 「単純な価値形態の全体」のところで、〈商品の単純な価値形態は、同時に労働生産物の単純な商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展は価値形態の発展と一致する〉と指摘されていたことが、ここでは具体的に論じられているように思えます。つまり、明らかにマルクスは単純な価値形態(第一形態)から展開された価値形態(第二形態)への発展を、歴史的な商品形態の発展との関連のなかで考察し、論じているように思えるのです。

 

  ところが、久留間鮫造著『貨幣論』では「簡単な価値形態はどういう意味で『偶然的』であるのか」という項目のなかで、「安易に歴史的発展と結びつけてはならない」とサブタイトルで書かれていることが紹介され、この点、どのように考えたらよいのか、少し議論になりました。『貨幣論』から少し紹介してみましょう。

 

  まず大谷氏が〈またこの「偶然的な」というのは、価値形態の歴史的発展の過程と関連づけて理解することができるのでしょうか。そのような見解もあるように思いますが〉(同書89頁)と問題を提起したのに対して、久留間氏は、『資本論』の冒頭のパラグラフを紹介して、〈これによっても、ここでの分析の対象とされている商品は「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富」の「基本形態として現われる」商品であって、商品生産がまだ一般化していないで生産物が偶然的に商品になるような場合の商品でないことは明らかだと思います〉(同)と応えています。そして単純な価値形態を「偶然的」とするのは〈これはとりもなおさず、展開した価値形態の場合に等価形態を構成していた無数の商品種類のうちから、たまたま上着を取り出してきたにすぎません。……そういう意味で、マルクスは、簡単な価値形態を「偶然的な価値形態」と言っているのでしょう〉(同90頁)と応えています。そして〈このいわゆる偶然的な価値形態は歴史的発展の過程と関係づけることができるものなのかどうか、とう質問ですが、こうしたことが問題になるのは、恐らく、同じ『資本論』のなかに次のような記事が見いだされるからだと思います〉(同91頁)と述べて、次の一文が紹介されています。

 

 〈第一の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄 などという価値等式を与えた。上着価値はリンネルに等しいもの、茶価値は鉄に等しいものというように表現されるのであるが、しかし、リンネルに等しいものと鉄に等しいものとは、すなわち上着や茶のこれらの価値表現は、リンネルと鉄とが違っているように違っている。この形態が実際にはっきりと現われるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折りの交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。〉(全集版89頁)

 

 そして次のように述べています。

 

 〈なるほどここには、「この形態」は「労働生産物が偶然的な……交換によって商品に転化される最初の時期」に「実際に現われる」と書かれていますが、ここで「この形態」と言っているのは、左右両辺のどちらもただ一つの種類の商品がおかれている、等式としての形態であって、これを、商品の価値表現の基本的な形態としての簡単な価値形態と同じだと読んだら、とんでもない間違いになるでしょう。〉(同92頁)

 

 しかしこのような久留間氏の説明は納得が行きません。久留間氏が紹介している引用文は、価値形態の次の発展段階である〈C 一般的価値形態〉に出てくる一文なので、当然、私たちも、そこで問題にするとは思いますが、少し今の段階で触れておくならば、マルクスがここで「この形態」と述べているのは、明らかに「第一の形態」のことであり、そしてマルクスが「第一の形態」と述べているのは、われわれが今問題にしているパラグラフを見ても、それは「単純な価値形態」を指していることは疑うことのできないことだからです。

 

  だからマルクスは明らかに単純な価値形態から展開された価値形態、さらに一般的価値形態への発展を商品形態の歴史的な発展と関連させて論じていることは明らかなのです。では、どうしてマルクスは資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富の基本形態としての商品の分析を行っているのに、それを歴史的な商品形態の発展と関連させて考察しているのでしょうか。それはマルクスの「経済学の方法」と密接に関連しています。マルクスは『経済学批判要綱』のなかで、それに関連して次のように述べています。

 

 〈他方--これはわれわれにとってはるかに重要なことであるが--、われわれの方法は、歴史的考察が入って来なければならない諸地点を、言い換えれば、生産過程のたんに歴史的な姿態にすぎないブルジョア経済が自己を超えてそれ以前の歴史的な生産諸様式を指し示すにいたる諸地点を、示している。だから、ブルジョア経済の諸法則を展開するためには、生産諸関係の現実の歴史を記述する必要はない。とはいえ、この生産諸関係を、それ自体歴史的に生成した諸関係として正しく観察し演繹するならば、それはつねに、この体制の背後にある過去を指し示すような、最初の諸方程式--例えてみれば自然科学における経験的諸数値のようなもの--に到達するのである。とすれば、これらの示唆は、現在あるものを正しく把握することとあいまって、過去の理解--これは一つの独立した仕事であって、これにもいずれは取り組みたいものだが--への鍵をも提供してくれる。同様にしてこの正しい考察は、他方で、生産諸関係の現在の姿態の止揚--それゆえ未来の予示、生成していく運動--が示唆されるにいたる諸地点に到達する。一方では前ブルジョア的諸段階が、たんに歴史的な、すなわちすでに止揚された諸前提として現われ、他方では今日の生産諸条件が、自己自身を止揚する諸条件として、それゆえまた、新たな社会状態のための歴史的な諸前提を措定する諸条件として現われるのである。〉(『経済学批判要綱』草稿集②100-1頁、強調=下線はマルクス)

 

 つまりそれ自体が歴史的存在である近代ブルジョア社会の正しい認識は、不可避に一方では対象の歴史的に遡った過去の諸関係へと私たちを導くのであり、他方ではその未来の諸関係へも、すなわちそれ自身の中に自己を止揚する諸条件が生まれつつあることを私たちに示すのです。だから、私たちの認識は対象の歴史性にまで至ってこそ本当に正しいものになりうるということができるのです。だから冒頭の商品の分析で対象にしているのは、確かに資本主義的生産様式が支配的に行われている社会における商品なのですが、しかし資本主義的生産様式そのものも長い過去を持つ存在であり、歴史的に生成し、発展し、そして消滅していく限界あるものです。だからその正しい観察と分析は不可避に、それぞれの諸範疇自身(それらもまたそれぞれに固有の歴史を持っている)の過去へと私たちを誘導するのです。こういうわけで、マルクスは価値形態の発展は商品形態の発展と一致すると指摘し、両者を関連づけて論じているのだと思います。

 

◎特殊的等価形態

 

 これまでは、展開された価値形態の「相対的価値形態」の考察でしたが、今度は、「等価形態」の考察です。「展開された価値形態」の等価形態の特徴は、その「特殊的」なところにあります。よって、次の小見出しは〈二 特殊的等価形態〉となっています。まずそのパラグラフの紹介をしましょう。

 

【1】

 

 〈 (イ)上着や茶や小麦や鉄などの商品はどれもリンネルの価値表現では等価物として、したがってまた価値体として、認められている。 (ロ)これらの商品のそれぞれの特定の現物形態は、いまでは他の多くのものと並んで一つの特殊的等価形態である。 (ハ)同様に、いろいろな商品体に含まれているさまざまな特定の具体的な有用な労働種類も、いまでは、ちょうどその数だけの、人間労働そのものの特殊な実現形態または現象形態として認められているのである。〉

 

 (イ) 展開された価値形態においては、等価形態に置かれる諸商品、上着や茶や小麦や鉄などは、いずれもリンネルの価値の等価物として、したがって価値体として、つまりその使用価値、自然姿態が価値を表すものとして、認められています。

 

 (ロ) これらの諸商品のそれぞれの特定の現物形態は、いまでは他の多くの現物形態と並べられることによって、一つの特殊的な等価形態となっています。

 

 (ハ) そしてそのことは、同様に、それぞれの商品体(諸使用価値)に含まれているさまざまな特定の具体的な有用労働種類も、やはりいまでは、つまり他のさまざまな有用労働と並ぶことによって、ちょうどその数だけの、人間労働そのもの(人間労働一般)の特殊な実現形態または現象形態として認められているのです。

 

 ここで「展開された価値形態」の等価形態が、特殊的等価形態であることの意味について少し議論になりました。ヘーゲルの論理学ではその概念論の最初の概念そのものの三つのモメントとして、普遍、特殊、個別が検討されていますが、これとどのような関係にあるのか、ということも話題になりました。

 

  「展開された価値形態」の等価形態が「特殊的」であるのは、さまざまな無限の等価物が並列された中での「特定のもの」という意味だと思います。それに対して、単純な価値形態の等価形態が「個別的」であるのは、この場合も確かに特定の商品が等価物に置かれるという点では同じですが、しかし、この場合はたまたまその商品が等価形態に置かれたにすぎず、別の他の多くの商品が同時に等価物に置かれていることを前提していません。ところが「展開された価値形態」の等価形態は、そうした無限の諸商品による等価形態を前提した上での、特定の等価形態だという意味で「特殊的等価形態」なのです。

 

  ヘーゲル概念論の普遍、特殊、個別と無理やり関連づける必要性もないのですが、マルクス自身は単純な価値形態の全体を〈一連の変態を経てはじめて価格形態に成熟するこの萌芽形態〉と述べており、それが発展して貨幣形態になるとの考えがあることは明らかだと思います。ヘーゲルの「個別」は自己発展する主体としての事物の意味がありますが、その限りでは個別的な等価形態が発展し、特殊的形態から一般的形態へと発展して、貨幣形態へと移行するという考えがマルクスにもあったことは確かではないか、という意見が出されました。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

【付属資料】

 

    ここでは関連すると思われるものを各文献から紹介しておきます。

 

●表題

 

《初版本文》

 

 〈II 相対的な価値の第二の、または展開された形態。〉

 

《初版付録》

 

 〈II 全体的な、または展開された価値形態〉

 

《第二版》

 

 〈B 総和のあるいは発展した価値形態〉〉

 

《フランス語版》

 

 〈B 総和の、あるいは発展した価値形態〉

 

●展開された価値形態の例示に関連して

 

《初版本文》

 

 〈20エレのリンネル=1着の上着 または =u量のコーヒー または =v量の茶 または =x量の鉄 または =y量の小麦 または =等々(z量の商品A=u量の商品B または =v量の商品C または =w量の商品D または =x量の商品E または =y量の商品F または =等々)。〉

 

《初版付録》

 

 〈20エレのリンネル=1着の上着 または =10ポンドの茶 または =40ポンドのコーヒー または =1クォーターの小麦 または =2オンスの金 または =1/2トンの鉄 または =等々。〉

 

《第二版》

 

 〈z量の商品A=u量の商品B または=v量の商品C または=w量の商品D または=x量の商品E または=等々(20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=40ポンドのコーヒー または=1クォーターの小麦 または=2オンスの金 または=1/2トンの鉄 または=等々)〉

 

《フランス語版》

 

 〈z量の商品Au量の商品Bまたはv量の商品Cまたはx量の商品Eまたは=その他(20メートルのリンネル1着の上衣または10ポンドの茶または40ポンドのコーヒーまたは2オンスの金または1/2トンの鉄または=その他)〉

 

●初版本文と同付録にのみある小見出しとパラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈さしあたりまず明らかに第一の形態は第二の形態の基礎的要素をなしている。なぜならば、後者は20エレのリンネル=1着の上着、20エレのリンネル=u量のコーヒー 等々ま というような多数の簡単な相対的な価値表現から成り立っているからである。〉(60頁)

 

《初版付録》

 

 〈(一) 列の無限性

 

 〈このような、単純な相対的な諸価値表現の列は、その性質上、いくらでも延長されることができ、言い換えれば、けっして終結することがない。なぜならば、絶えず新たな商品種類が出現して、どの新たな商品種類も新たな価値表現の材料となるからである。〉(156頁)

 

●第1節小見出し

 

《初版付録》

 

 〈(二) 展開された相対的価値形態

 

《第二版》

 

 〈(1)発展した相対的価値形態〉

 

《フランス語版》

 

 〈(a) 発展した相対的価値形態〉

 

●第1節の【1】パラグラフに関連して

 

《初版本文》

 

 〈20エレのリンネル=1着の上着 という表現では、上着はリンネルにおいて対象化されている労働の現象形態として認められていた。こうして、リンネルのなかに含まれている労働は、上着のなかに含まれている労働に等置され、したがってまた同種の人間労働として規定されたのである。とはいえ、この規定は明示的には現われていなかった。第一の形態はリンネルのなかに含まれている労働をただ裁縫労働にたいしてのみ直接に等置している。第二の形態はこれとは違っている。リンネルは、その相対的な諸価値表現の無限な、いくらでも延長されうる列において、リソネル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係している。それだから、ここではリンネルの価価がはじめて真に価値として、すなわち人間労働一般の結晶として、示されているのである。〉(60-1頁)

 

《初版付録》

 

 〈一商品の、たとえばリンネルの、価値はいまや商品世界のすぺての他の要素で表わされている。どの他の商品体でもリンネル価値の鏡となる。こうして、この価値そのものがばじめて真に無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、リンネル価値を形成する労働は、それとはどの他の人間労働でも、たとえその労働がどんな現物形態をもっていようとも、したがってまた上着、小麦、鉄、金、等々のどれに対象化されようとも、同等と認められるところの労働としていまや明言的に示されているからである。それだから、リンネルは、その価値形態によって、いまではまた、もはやただ単一な他の商品種類にたいしてのみではなく、商品世界にたいして社会的な関係のなかに立ってもいるのである。商品としてリンネルはこの世界の市民である。同時に、その諸表現の無限の列のなかには、商品価値はそれが現われるところの使用価値のどんな特殊な形態にたいしても無関係である、ということが示されているのである。〉(156-7頁)

 

《フランス語版》

 

 〈一商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは、他の無数の要素のうちに表現される。その価値は、まるで鏡に映されるかのように他のすぺての商品体のうちに反映される(22)。〉(35頁)  〈他の労働はどれも、それが裁断、種まき、鉄または金の採掘等どんな自然形態であろうとも、いまでは、リンネルの価値のうちに凝固された労働、したがって、人間労働という性格を示す労働、に等しいと断言される。総和の相対的価値形態は、一商品をすべての商品との社会的関係のもとに置く。同時に、相対的価値表現の際限ないこの系列は、商品の価値が使用価値のどんな特殊形態をも無差別に帯びる、ということを証明する。〉(36頁)

 

●「注23」に関連して

 

《フランス語版》

 

 〈2) それゆえ、人は、リンネルの価値を上衣で表現するぱあいにはリンネルの上衣価値と言い、小麦で表現するぱあいにはリンネルの小麦価値、等々と言う。このような表現はどれも、これらさまざまの使用価値のうちに現われるものはリンネル自身の価値である、ということを意味している。

 

  「一商品の価値は、それの交換関係を表示している。したがって、われわれは、この商品が比較される商品に応じて、その小麦価値とか上衣価値とか言うことができるのである。そしてそのばあいには、無数の価値の種類、すなわち、現に存在している商品の種類と同数の価値の種類があり、それらはすべてひとしく実在的でもあり、ひとしく名目的でもある」(『価値の性質、尺度、および原因にかんする批判的論文。主としてリカード氏やその追随者たちの著作に関連して。諸見解の形成、……にかんする試論の著者の著』、ロンドン、一八二五年、三九ぺージ)。S・べーリは、当時イギリスで大騒ぎをおこしたこの匿名の著作の著者であるが、彼は、同じ商品の価値についてさまざまな相対的表現をこのように列挙することによって、価値概念の肯定をどれも壊滅させたと思いこんでいる。彼の精神がどんなに狭量であろうとも、やはり彼の精神は、往々リカード理論の欠陥をあばいた。このことを証明するものは、リカード学派がたとえば『ウェストミンスター・レヴュー』のなかで、彼を憎々しげに攻撃したことである。〉(35-6頁)

 

●第1節の【2】パラグラフに関連して

 

《初版本文》

 

 〈第一の形態 20エレのリンネル=1着の上着 においては、これらの二つの商品がこのような特定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的な事実に見えることがありうる。これに反して、第二の形態においては、この偶然的な現象とは本質的に区別されていてこの現象を規定している背景がすぐさま明らかに見えてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄などで示されていても、つまりまったく違った所有者たちの手にある無数に違った商品で示されていても、つねに同じ大きさのままである。二人の個別的な商品所有の偶然的な関係はなくなってしまう。交換が商品の価値の大きさを規定するのではなくて、逆に商品の価値の 大きさが商品の価値のいろいろな交換の割合を規定するのだ、ということが明白になるのである。〉(60頁)

 

《フランス語版》

 

 〈20メートルのリンネル=1着の上衣 という第一形態では、これらの二商品がこの一定の比率で交換可能であるのは、偶然であるように見えるかもしれない。  これに反して、第二形態では、この外観を包み隠しているものが、すぐにわかる。リンネルの価値は、衣服やコーヒーや鉄で、すなわち、この上なく多様な交換者に属している無数の商品によって表現されても、つねに同じである。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換関係を規制する、ということが自明になる。〉36頁)

 

●第2節の小見出し

 

《初版付録》

 

 〈(三) 特殊的な等価形態。〉

 

《フランス語版》

 

 〈(b) 特殊な等価形態〉

 

●第2節本文に関連して

 

《初版付録》

 

 〈上着や茶や小麦などの商品は、いずれもリンネルの価値表現においては等価物として、したがってまだ価値体として、認められている。これらの商品のそれぞれの特定の現物形態は、いまでは他の多くのものと並んで一つの特殊的な等価形態である。同様に、いろいろな商品体に含まれているさまざまな特定の具体的な有用な労働種類も、ちょうど同数の、単なる人間労働の特殊的な実現形態または現象形態として認められているのである。〉(157頁)

 

《フランス語版》

 

 〈上衣、小麦、茶、鉄等、一つ一つの商品が、リンネルの価値表現では等価物として役立つ。これら商品のそれぞれの自然形態がいまでは、他の数多くの商品とならんで、一つの特殊な等価形態になる。これと同じように、さまざまな商品体のなかに含まれているさまざまな有用労働種類も、それと同数の、純粋で単純な人間労働の特殊な実現形態あるいは表示形態を、表わしている。〉(36頁)

 


第27回「『資本論』を読む会」の案内

第27回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 毎日、うだるような暑さが続きますが、暦の上では、もう「立秋」だそうです。そういえば、熱帯夜も朝方は心なしか過ごしやすくなったような気がする、今日この頃ではあります。

 

 とにかく記録的な猛暑日が日本列島を覆っています。しかし異常な気象状況は、世界を見渡すと日本の比ではないような気もします。

 

 ロシアでは先月末、首都モスクワの気温が130年ぶりに37.4度を記録し、暑さによって7月31日には369カ所で山火事が発生、8月1日には774カ所に拡大したと言います(火災による死者は34人に)。森林や泥炭火災によるスモッグが都市部を覆っているとか。

 

 またパキスタン北西部では、記録的な豪雨が発生。洪水による死者が1100人を超え、孤立状態になっている被災者が数万人に上るといわれています。

 

 洪水はお隣の中国でも。7月初旬から続く豪雨によって全国的な被害が発生。当局は、「27の省・自治区・直轄市で1億1300万人が被災し、701人が死亡、347人が行方不明。倒壊家屋は64万5500棟に達し、経済損失は1422億元(1元=13円)、805万人を緊急避難させている」と発表。洪水被害救済対策に人民解放軍や武装警察、民兵ら200万人を動員して現地で対応に当たらせていると報じられています。

 

 このような世界的な異常気象--集中豪雨、竜巻、熱波、寒波等々--は地球温暖化の進行とともに増加してきたのはいうまでもありません。しかし今年の異常気象の直接の原因としては、偏西風の蛇行が固定化していることが指摘されています。地球温暖化は赤道付近と極地方との気温差を小さくし、地球上の大気の流れに変化を起こしているというのです。熱波や寒波、長雨という異常気象には、対流圏上空のジェット気流の蛇行が固定化するブロッキング現象が関わっているそうです。地球温暖化の進行は、地球の中緯度地帯(日本もこの中に位置します)で、このブロッキングの発生を増加させ、さまざまな異常な気象を生み出しているというのです。

 

『毎日新聞』から

 

 それにしても、世界中の異常な気象の諸現象やその被害状況があっという間に世界中をかけめぐり、詳細なデータがインターネットから入手できます。またそれを引き起こす地球規模の大気の運動メカニズムも今では科学的に解明されて、しかもその時々刻々のデータもインターネットで公開されています。

 

 確かに地球温暖化などの異常な気候変動は、地球規模に拡大された資本主義の無政府的な生産によるといえますが、そのことは同時に、資本主義的生産様式の発達は、その解決の諸条件も生み出しつつあるともいえるわけです。人類はその社会的な物質代謝活動で地球規模の自然条件を左右するまでになってしまったのですが、しかしそれは同時にわれわれが地球規模で自然と人間活動との間の物質代謝を意識的に統制し、コントロールしなければならないこと、またそれができるだけの科学的・技術的諸条件も、高度に発達した生産力によって作り出してきたことをも示しているわけです。

 

 マルクスは『経済学批判』「序言」で次のように述べています。

 

 〈一つの社会構成は、それが十分包容しうる生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、新しい、さらに高度の生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会自体の胎内で孵化されおわるまでは、けっして古いものにとって代わることはない。それだから、人間はつねに、自分が解決しうる課題だけを自分に提起する。なぜならば、詳しく考察してみると、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、またはすくなくとも生まれつつある場合にだけ発生することが、つねに見られるであろうからだ。〉(全集13巻7頁)

 

 地球規模の異常気象を引き起こしている人類は、同時にそれを解決する物質的諸条件もすでに生み出しているともいえるでしょう。問題はその主体的な条件である世界の労働者階級の闘いが発展していくことです。その条件の形成のためにも、ともに『資本論』を読んでみませんか。

 



読者登録

亀仙人さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について