目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第9回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第24回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

 

 

 アイスランド火山噴火による欧州連合(EU)の航空網の混乱は、なんとか収束に向かいつつあるようだが、改めて今日における航空運輸機関の重要性を私たちに再認識させるものとなった。

 

 

 EUの執行機関、欧州委員会は、今回の火山灰飛散による航空業界の損失が、欧州全体で総額15億~25億ユーロ(約1900億~3100億円)にのぼると推計、10万便以上が欠航し、1000万人以上の旅行者が滞在先で足止めされたという。

 

 

 遠くヨーロッパの空の話とはいえ、欧州との空の物流網の停止は、日本の産業界にもさまざまな影響を与えた。

 

  例えば、欧州向けの半導体用感光性樹脂、液晶テレビ用偏光フィルムの出荷停止(住友化学)、福岡、神奈川県の2工場の操業を停止(日産自動車)、欧州向けノートパソコンの出荷停止(富士通)、15~19日までに団体ツアー客1914人がキャンセル(JTB)、全70店でノルウェー産生サーモンを冷凍物に変更(回転すし「すし銚子丸」)、オランダ産のアマリリスやヒヤシンスの切り花の出荷停止(大田花き)等々という具合である。

 

 ところで航空機や鉄道・バス、船舶など運輸・交通機関は経済学的にはどのように考えたらよいのであろうか。これらは人や物を運送するものの、他の産業部門のように、物質的な生産物を生み出しているようには思えない。それらは果たして物質的な生産部門と考えるべきなのかどうかである。

 

 マルクスは交通・運輸機関を「社会的生産過程の一般的な条件」(『資本論』第1部全集23a501頁)だとする一方、生産された使用価値は、ただその消費によってのみ実現されるが、そのためには消費されるまでの場所変換が必要になる。だからこの場所変換を行う運輸業は「追加的生産過程」(第2部全集版183頁)なのだとも規定している。また次のようにも述べている。

 

 〈輸送業が販売するものは、場所の変更そのものである。生み出される有用効果は、輸送過程すなわち輸送業の生産過程と不可分に結び付けられている。人間と商品は輸送手段と一緒に旅をする。そして、輸送手段の旅、輸送手段の場所的運動が、まさに輸送手段の作用によって生じた生産過程である。その有用効果は、生産過程の期間中にのみ消費されうる。その有用効果は、この過程とは異なる使用物--すなわち、その生産後にはじめて取り引き物品として機能し、商品として流通する使用物--としては存在しない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じく、その有用効果〔の生産〕に消費された生産諸要素(労働力および生産諸手段)の価値、プラス、輸送業に就業している労働者たちの剰余労働が創造した剰余価値、によって規定されている。この有用効果は、その消費とともに消え失せる。それが生産的に消費されるならば、したがって、それ自身が輸送中の商品の一生産段階であるならば、その価値は、追加価値としてその商品そのものに移転される。〉(『資本論』第2部全集版69頁)

 

 だから運輸業は他の物質的生産部門と同じ一部門を構成するのであり、他の生産部門と同様に価値を生産しているのである。

 

 このように『資本論』はその時々に起こるさまざまな問題を理論的・科学的に考える指針を与えてくれる。あなたも、是非、一緒に『資本論』を読んでみませんか。

 


第24回「『資本論』を読む会」の報告

第24回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎まぶしい新緑

 

 第24回「『資本論』を読む会」が開催された16日は、さわやかな五月晴れに恵まれ、会場の堺市立南図書館の3階の窓から見る新緑は色鮮やかでした。

 

  この図書館は、大阪の南の丘陵に位置する広大な泉北ニュータウンの中心駅ともいうべき泉が丘駅のすぐに近くにあります。交通の便のよいところにある図書館ですが、その裏には開発される以前の小高い山が一部そのまま残っており、それが教室の窓から一望できます。一言で新緑と言っても、その色合いは千差万別であり、とても言語に尽くすことはできません。ショッキンググリーンとでも表現するしかないようなものもあれば、茶褐色に近い濃緑色をまるでフリルのようにクリーム色で縁取ったものもあったりします。いくら眺めても見飽きることはありません。

 

  窓からの風景をながながと書いたのは、ピースさんが少し開始時間に遅れてきたので、その間、窓から外を眺める時間がたっぷりとれたからです。今回から、新しい項目「4 単純な価値形態の全体」に入りましたが、色々と意見が出たためか、進んだのは、なんと、たったの二つのパラグラフだけでした。しかしその議論は充実しており、報告の内容も決して見劣りするものではありません。それでは、さっそく、その報告に移りましょう。

 

◎「4 単純な価値形態の全体」について

 

 まず、最初に、ピースさんから、今回から始める新しい項目について、簡単にそれまでの等価形態までの展開との関連などが説明され、亀仙人からも一定の補足がありました。この項目の位置づけとして、次のような確認がされたといえます。

 

 まず、この〈単純な価値形態の全体〉というのは、これまで〈A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態〉として、〈x量の商品A=y量の商品B または、x量の商品Aはy量の商品Bに値する。(20エレのリンネル=1着の上着 または、二〇エレのリンネルは一着の上着に値する)〉という等式を例に上げ、まず〈一 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態〉で、〈単純な価値形態〉には、相対的価値形態と等価形態が価値表現の両極として含まれていることが確認され、そのあと〈二 相対的価値形態〉と〈三 等価形態〉とにわけて、それぞれを個別に考察してきたわけです。

 

  だから今回の新しい項目である〈単純な価値形態の全体〉というのは、それまで個別に考察してきたそれぞれのもの(相対的価値形態と等価形態)を総合して、全体として考察するということです。だからこの項目は〈A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態〉の最後に位置しているわけです。

 

  だからまた、この「4 単純な価値形態の全体」は、項目「A」で考察された「単純な価値形態」を一つの自立した主体として捉えかえし、その直接的な考察(【1】パラグラフ)、学説史的考察(【2】パラグラフ)、総括的な考察(【3】パラグラフ)、歴史的な考察(【4】パラグラフ)、そして歴史的考察から不可避に生じる、次の発展(「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」(【5】~【7】パラグラフ)が論じられることになるわけです。

 

 こうした確認と見通しのもとに、第1パラグラフから具体的に検討を開始しました。

 

◎「単純な価値形態の全体」の直接的な考察

 

 今回も、これまでの通り、最初に『資本論』の本文を紹介し、それを文節ごとに検討していくという形で紹介したいと思います。また関連する資料は【付属資料】として、一番最後に別途まとめて紹介することにします。では最初は、第1パラグラフの本文です。

 

【1】

 

 〈 (イ)一商品の単純な価値形態は、種類を異にする一商品に対するその商品の価値関係のうちに、あるいはそれとの交換関係のうちに、含まれている。 (ロ)商品Aの価値は、質的には、商品Bの商品Aとの直接的交換可能性によって表現される。 (ハ)それは、量的には、一定量の商品Bの、与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現される。 (ニ)言いかえれば、一商品の価値は、「交換価値」としてのそれの表示によって、独立に表現されている。 (ホ)この章のはじめでは、普通の流儀にしたがって、商品は使用価値および交換価値であると言ったが、これは、厳密に言えば、誤りであった。 (ヘ)商品は、使用価値または使用対象、および「価値」である。 (ト)商品は、その価値がその現物形態とは異なる一つの独特な現象形態、交換価値という現象形態をとるやいなや、あるがままのこのような二重物として自己を表すが、商品は、孤立的に考察されたのではこの形態を決してとらず、つねにただ、第二の、種類を異にする商品との価値関係または交換関係の中でのみ、この形態をとるのである。 (チ)もっとも、このことを心得ておきさえすれば、先の言い方も有害ではなく、簡約に役立つ。〉

 

 このパラグラフでは、「単純な価値形態の全体」の直接的な考察が行われます。ここではわれわれは最初の「単純な価値形態」の直接的な表象に戻ります。しかし「A」の最初にわれわれに与えられた直接的な表象は、まだその内的構造はまったくわれわれには分からないものでしたが、今では、われわれはその内的な構造を詳しく分析して辿ってきた結果、それらは論理的に透けて見えています。つまり「単純な価値形態の全体」の論理的な構造が透けて見えているような、「全体」としての最初の直接的な表象にもどっているわけです。だから直接的な考察といっても、その内部構造が何も分からない状態のものとは異なり、それらが透けて見えている状態での考察なのです。だから直接的なものが、その内的なものとどのように関連し合い、内的なものがどのようにして自らを発現して直接的なものとして現われているのかというように、直接的なものとそれがそのようなものとして発現してきた内的なものとの論理的・必然的な関連において、再び全体としての直接的なものを説明するというような考察になるわけです。まず、このような観点を踏まえて、このパラグラフを各文節ごとに詳しく検討して行くことにしましょう。

 

 (イ) われわれが、これまで考察してきたように、一つの商品の単純な価値形態は、別の種類の一商品に対する、その商品の価値関係のうちに、あるいは交換関係のうちに、含まれていました。

 

 さて、ここに「価値関係」と「交換関係」という言葉が出てきます。この二つは同じと考えてよいのか、違うならどのように違うのか、ということが問題になりました。

 

  まず「交換関係」については、第1節の価値の分析の最初のあたりで次のように出てきました。

 

 〈さらに、二つの商品、たとえば小麦と鉄とをとってみよう。それらの交換関係がどうであろうと、この関係は、つねに、与えられた量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わすことができる。たとえば 1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄 というように。この等式はなにを意味しているのか? 同じ大きさの一つの共通物が、二つの違った物のうちに、すなわち一クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、存在するということである。〉(下線は引用者)

 

 だから交換関係というのは、価値と使用価値の統一物である商品が互いに交換される関係、あるいは割合を意味します。それらが交換されるということは、二つの商品の、価値が量的に等しいだけでなく、使用価値が異なるからであり(同じであれば交換する意味がありません)、だから交換関係という場合は、商品を価値とともに使用価値において見ていることが分かります。

 

 次に「価値関係」ですが、これは初版付録の相対的価値形態の考察の小項目をみると分かります。

 

 〈(2)相対的価値形態

 

   a 同等性関係

 

    b 価値関係  〉

 

 先の第1節からの引用文では、二つの商品の交換関係のなかに、同等性の関係を見ていました。つまり引用文の例でいうと、「小麦=鉄」の関係がそこにあるわけです。この二つの異なる使用価値が同じものであるのは、それらのなかに同じものがあるからです。そしてその同じものというのがすなわち価値なのです。つまり両者は価値であるかぎりにおいて同じなのです。だから小麦が自分と同じものとしての鉄に関係するということ、あるいは、鉄が同じ実体を持つものとして小麦に等置されるということは、鉄がこの関係において価値として認められている、ということを表現しているわけです。鉄は小麦に等置されますが、それもやはり小麦が価値であるかぎりにおいてのことです。だから、二商品の同等性関係というのは、「価値関係」なのだ、と初版付録では書いています。

 

  だから「交換関係」というのは、二商品が互いに交換される関係や割合のことですが、二つの使用価値が異なる商品が交換されるということは、それらの異なる商品が互いに等しい関係を持っているということ、「同等性関係」にあるということです。そして二つの商品が同等であるというのは、それらが価値である限りにおいて言えることです。だから二つの商品の「同等性関係」とは「価値関係」なのです。だから「価値関係」というのは、「交換関係」におかれた二つの商品が、価値という一面においては互いに等しいのだと関係しあうものだということができます。そしてこの「価値関係」のなかに一つの商品の「価値表現」が潜んでいたわけです。ただし、二商品の共通な価値属性が、それらを互いに価値関係のなかに置くのであって、二商品の交換関係、あるいは価値関係が、両者に共通な価値属性を持たせるのではないということが肝心です。

 

  そして少し先走って論じるなら、この社会を労働によって支える生産者たちが彼らの労働によってとり結ぶ彼らの社会的関係が、これらの物の、すなわち諸労働生産物の、「価値関係」として現われているということです。だから「価値関係」は、その背後に隠されている一つの社会的な関係の現象形態でしかないということです。

 

 (ロ) 次は単純な価値形態の全体を、質的な面と量的な面から考察します。まず質的な面では、商品Aの価値は、商品Bの商品Aとの直接的な交換可能性によって表現されています。つまり価値関係の内実は、商品Aの価値が商品Bに対して、商品Bは自分と直接交換可能だと一方的に宣言し働きかけることによって表されているわけです。

 

 (ハ) 次は量的な側面です。商品Aの価値の大きさは、一定量の商品Bが、ある与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現されています。つまり商品Bの一定の使用価値量によって表されています。

 

 ここで量的な考察では質的な場合とは異なり、「交換可能性」が言われるだけで、「直接的交換可能性」とはなっていないのはどうしてなのかという疑問が出されました。それは「直接的」に交換可能かどうかという問題は量の問題ではなく、等価形態の質の問題だからではないか、という意見が出されました。実際、「3 等価形態」の第1パラグラフでは等価形態の質的な考察がなされていましたが、そこでは〈したがって、一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態である〉と言われていたのでした。それに対して、等価形態の量的考察が行われている第2・3パラグラフでは、そうした文言は出てきません。つまり量的には、そうした直接交換可能性という質的なものを前提して論じられているから、ただ「交換可能性」でよいのではないかというのです。

 

  もちろん、これはこれでよいのですが、もう少し内容に踏み込んで考えてみましょう。

 

  「直接的交換可能性」の「直接的」とはどういうことかを考えてみましょう。これは文字通り「直接」に交換可能ということです。商品はそのままでは決して直接には交換可能ではありません。というのは商品の直接的な存在はその自然形態であり、使用価値だからです。使用価値の場合は、偶然、交換相手がそれを必要としていた場合は交換可能ですが、そうでなければ、使用価値のままでは直接には交換できません。だから商品は交換可能となるためには、一旦、直接に交換可能なもの(貨幣)に転換する必要があるのです。

 

  つまり等価物が直接に交換可能なのは、等価物の使用価値そのもの、その自然形態が価値そのものに、価値が具体的な形態をとって現われたものとして通用しているかにほかなりません。だから等価物の場合は、価値の具体物として認められるその使用価値のままで、それこそ「直接」に交換可能なのです。それ自体が価値そのものですから、あらゆる商品の価値に等置されうるからです。しかもここで商品Bが商品Aに対して直接的交換可能性を持っているというのは、商品Bの使用価値が商品Aの価値が具体的な形で現われたものだからなのです。つまり商品Bの使用価値によって商品Aの価値が表されているからなのです。だからマルクスはここで〈商品Aの価値は、質的には、商品Bの商品Aとの直接的交換可能性によって表現される〉と述べているのだと思います。ここで〈質的には〉と述べているのは、ここでは商品Aの価値の量ではなく、価値そのものが如何に表現されるかということだけが問題になっているからです。

 

  それに対して、量的には商品Aと商品Bが交換されるということは、商品Aの価値の大きさと商品Bの価値の大きさが同じであるからにほかなりません。この両方の価値の大きさというのはいずれも両方の商品に内在的なものであって、だからここでは直接性は何も問題にはならないのです。ただ商品Aの価値の大きさは、それと交換される商品Bの使用価値の量(例えば上着ならその1着、2着というその使用価値量)によって表現されているのです。だから商品Aの価値量は、ある与えられた内在的な量なのですが(だからそれは当然目に見えません)、それはそれと交換可能な商品Bの使用価値量によって目に見える形で表現されているのです。だからマルクスは(商品Aの価値は)量的には、一定量の商品Bの、与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現される〉と述べているのだと思います。つまり商品Aの価値は量的には、商品Bの使用価値の一定量との交換されるということによって、その価値量そのものは表現されているので、「直接的」かどうかはここでは問われていないわけです。「直接的」というのはあくまでも交換可能性の「質的」側面ということができます。

 

 (ニ)  一商品の価値が質的にも量的にも、どのように表現されているかを確認して言えることは、一商品の価値は、「交換価値」として表示されることによって、初めて独立に表現されているのだということです。そもそも私たちは第1節で商品の価値を探るために、次のように考察を開始しました。

 

 〈交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として現われる。

 

 これが交換価値をもっとも直接的に表象として捉えたものでした。さらに私たちの分析は次のように進みました。

 

 〈ある一つの商品、たとえば1クォーターの小麦は、x量の靴墨とか、y量の絹とか、z量の金とか、要するにいろいろに違った割合の諸商品と交換される。だから、小麦は、さまざまな交換価値をもっているのであって、ただ一つの交換価値をもっているのではない。

 

 だからこうしたさまざまな交換価値こそ、1クォーターの小麦の価値を表すものだったのです。だからこの第1節でも、次のような考察がなされていました。

 

 〈およそ交換価値は、ただ、それとは区別されるある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない〉。

 

 そして今では私たちは、こうしたことは、「ある内実」、つまり「価値」の表現様式であり、現象形態であることをすでに知っているわけです。

 

  つまり20エレのリンネルの価値は、それと直接に交換可能である別の商品、上着1着によって表されているわけです。上着1着というのは、20エレのリンネルの「交換価値」なのです。それは20エレのリンネルの価値が、リンネル自身とは区別されて、上着1着として独立して表現されているものなのです。

 

 ここで〈独立に〉というのは、どういうことかが問題になりましたが、すでに上記の説明でお分かりだと思います。すなわち一商品の価値は、その商品のなかに使用価値と統一された形で内在的に存在しています。だからその限りでは価値そのものは、独立した定在はないわけです。しかし交換価値はそうした内在的な価値が、その商品の使用価値とは区別された形で、すなわち〈独立に〉、別の異種の商品の姿を借りて存在し、表されていることなのです。

 

 (ホ) この章のはじめでは、普通の流儀にしたがって、商品は使用価値および交換価値であると言いましたが、これは厳密にいうと間違いでした。

 

 ここで「この章のはじめ」というのは、どこを指しているのか、ということが問題になりました。「この章」というのは、当然「第1章 商品」を指しています。では「商品は使用価値および交換価値である」という文言は、どこで言われたのでしょうか。それは第2節の冒頭の次の一文を指すのではないかと思われます。

 

 〈最初から商品はわれわれにたいして二面的なものとして、使用価値および交換価値として、現われた

 

 また『経済学批判』では、「第1章 商品」の冒頭のパラグラフに次のように出てきます。

 

 〈一見したところでは、ブルジョア的富は一つの巨大な商品の集まりとして現われ、一つ一つの商品はその富の基本的定在として現われる。ところがそれぞれの商品は、使用価値と交換価値という二重の観点のもとに自己をあらわしている。〉(国民文庫版23頁)

 

 しかしこうした言い方は厳密にいうと間違いだったというのです。

 

 (ヘ) というのは、厳密にいうと、商品は使用価値または使用対象であるとともに「価値」であるというべきだからです。

 

 初版付録の「価値形態」では、冒頭、次のように言われています。

 

 〈商品の分析は、商品は一つの二重物、使用価値にして価値である、ということを示した。〉(国民文庫版128頁)

 

 また『資本論』の第3節の冒頭でも次のように言われていました。

 

 〈それらが商品であるのは、ただ、それらが二重なものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからである。

 

 (ト) 商品はそれを孤立的に見ているだけでは、こうした二重物として見えません。というのは商品の直接目に見えるものはその現物形態であり、価値は目に見えないからです。だから商品の価値が、商品自身の現物形態と異なる別の現物形態として現われて、初めて商品は二重物として見えることになります。その商品の価値が目に見える現物形態をとったものが、すなわち「交換価値」なのです。だから商品は、こうした二重物として現われるためには、常に、第二の種類を異にする商品との価値関係または交換関係のなかに置かれる必要があるのです。

 

 第3節の最初でも次のように言われていました。

 

 〈商品は、ただそれが二重形態、すなわち現物形態と価値形態とをもつかぎりでのみ、商品として現われるのであり、言いかえれば商品という形態をもつのである。

 

 だからこうした商品の二重形態は、常に別の商品との価値関係または交換関係をとることによって示されるわけです。

 

 (チ) もっとも、こうしたことを心得ておけば、先の言い方、つまり「商品は使用価値および交換価値である」という言い方も、有害ではなく、簡約に役立つでしょう。

 

 先の第2節冒頭の一文や『経済学批判』の冒頭の一文をみると、「われわれにたいして・・・・現われた」とか「自己をあらわしている」というようになっていて、厳密には、必ずしも「商品は使用価値および交換価値である」という文言になっているわけではありません。つまりそれだけ慎重に書かれているわけです。しかし例え「現われた」とか「現わしている」といっても、一つの商品を孤立的に見ている限りでは、そうした二重物としては「現われない」わけで、その意味では、二つの言い方もやはり厳密にいうと正しいとはいえません。しかし常に商品が二つの商品の関係のなかで二重物として現われるということが分かっているなら、こうした言い方も意味があるといえるわけです。リンネルの交換価値は、確かにリンネルとは異なる別の商品、上着の現物形態の一定量として表されますが、しかしそれもリンネル自身の価値の形態であることに違いはないのですから、だからこういう意味で、商品は使用価値および交換価値であるといえるわけです。

 

◎学説史的考察

 

 次は第2パラグラフです。ただし注も一緒に検討します。またこのパラグラフで出てくる幾つかの経済学者やそれに関連する用語については、それぞれ『資本論辞典』などの説明を付属資料として紹介しますので、詳しくはそれらを参照するようにしてください。

 

 【2】

 

  〈( イ)われわれの分析が証明したように、商品の価値形態または価値表現が商品価値の性質から生じるのであり、逆に、価値および価値の大きさが交換価値としてのそれらの表現様式から生じるのではない。 (ロ)ところが、この逆の考え方が、重商主義者たち、およびその近代的な蒸しかえし屋であるフェリエ、ガニルなど(22)の妄想であると共に、彼らとは正反対の論者である近代自由貿易外交員、たとえばバスティアとその一派の妄想でもある。 (ハ)重商主義者たちは、価値表現の質的な側面に、したがって貨幣をその完成姿態とする等価形態に重きをおき、これに対して、自分の商品をどんな価格ででもたたき売らなければならない近代自由貿易行商人たちは、相対的価値形態の量的側面に重きをおく。 (ニ)その結果、彼らにとっては、商品の価値も価値の大きさも交換関係による表現のうち以外には存在せず、したがって、ただ日々の物価表のうちにのみ存在する。 (ホ)スコットランド人マクラウドは、ロンバード街〔ロンドンの金融街〕の混乱をきわめた諸表現をできる限り学問的に飾り立てるという彼の職能において、迷信的な重商主義者たちと啓蒙された自由貿易行商人たちとの見事な総合をなしている。

 (22) 第2版への注。F・L・A・フェリエ(“関税副検査官 sous-inspecteur des douanes ”)『商業との関係から見た政府について』、パリ、一八〇五年、および、シャルル・ガニル『経済学の諸体系について』、第二版、パリ、一八二一年。〉

 

 このパラグラフは初版本文や初版付録にはありません。第2版で初めて登場したものです(実際には、第2版の準備のために書かれた『補足と改訂』で初めて出てきます)。第2版で初めて登場する事情を、山内清氏は次のように述べています。

 

 〈初版発行後に、マルクスは、ユーリウス・ファウハーが彼の発行する『国民経済・文化史四季報』第20巻に、匿名者のマルクスをバスティア追随者にみたてた書評をのせているのに出くわした。英国でそれをクーゲルマンから受取ったマルクスは、クーゲルマンに次のような手紙を出している。「ファウハーには同意の手紙をやらないで下さい。そうでないと、この小便小僧は自分をあまりにもえらく思いすぎるでしょう。彼が到達したところは、第2版が出るころにでもなれば私が価値の大きさに関する適当な箇所でバスティアに二つ三つ痛棒をくらわすだろう、ということに尽きています。」(1868.7.11付)。またマルクスは、同日付のエンゲルスあての手紙でもこの点に言及し、バスティア流の価値論が全くの俗流的な労働節約説にあることを指摘している。「さらにまたドイツのバスティア追随者たちは知らないことだが--商品の価値を規定する労働は、その商品に費やされる労働ではなくて、その商品が買い手のために省いてやる労働だ、というこの惨めな言い方(交換と労働との関連についてとりとめのないことを言う子供くさい文句)は、そのほかの、彼の葡萄酒販売買的な諸範疇のどれか一つと同様に、バスティアの発明品ではないのだ。」

 

  さらにマルクスは、1868年の『私のF・バスティア剽窃』という論文で逆にバスティアの剽窃を暴露し、そしてここで決定的な痛棒を加えたのである。〉(『資本論商品章詳注』87-8頁)。

 

 マルクスが、このパラグラフを加えた背景に、こうした事情があったことはそのとおりかも知れません。しかしこのパラグラフの内容を検討すると、確かにバスティアにも言及していますが、しかしそれだけが問題になっているわけではなく、バスティアに「痛棒をくらわす」ことが中心になっているようにも思われないのです。  それよりも私たちはより重要な事実に気づきます。つまりこの「4 単純な価値形態の全体」という項目そのものが、初版本文や同付録にはないものなのです。例えば初版付録では、〈γ 等価形態の第三の特性私的労働がその反対物たる直接的に社会的な形態における労働になる〉のあとに続くものは、〈δ 等価形態の第四の特性商品形態の呪物崇拝は等価形態においては相対的価値形態におけるよりもいっそう顕著である〉という、第2版では「第4節 商品の物神的性格とその秘密」に移されたと思えるような内容の項目が続き、そのあと第2版の「単純な価値形態の全体」と内容的に一致するものが(四)~(九)の6つの項目にわけて論じられているだけなのです。

 

  つまり単純な価値形態における価値表現の両極である相対的価値形態と等価形態が、それぞれ個別に考察されたあとに、それらが総合されて、再度、「単純な価値形態の全体」が捉え返されるというような構成は、第2版で初めて採用されたものなのです(もちろん、実際には、『補足と改訂』ですでにこの項目は見られます)。だから「単純な価値形態の全体」が自立した主体としてあらためて捉え返される項目が新たに設定されることによって、初めてその学説史的な考察も本文のなかに挿入されるようになったと考える方が、このパラグラフが第2版で初めて挿入された理由として、より適切ではないかと思います。バスティアへの「痛棒」はむしろその“ついで”といえるのではないでしょうか。

 

  とりあえず、そうしたことを確認して、このパラグラフの内容を文節ごとに検討して行きましょう。

 

 (イ) 私たちの、これまでの価値形態の分析で明らかになったように、商品の価値形態または価値表現は、商品の価値の本性から生じるのであって、逆に、価値やその大きさが、交換価値としてのそれらの表現様式から生じるのではありません。

 

 以前にも紹介しましたが、マルクスは初版本文のなかで次のように述べています。

 

 〈しかし、決定的に重要なことは、価値形態と価値実体と価値の大きさとの関係を発見するということ、すなわち観念的に表現すれば、価値形態は価値概念から発していることを論証するということだったのである〉(国民文庫版77頁)

 

 つまりこれまでの価値形態の分析が明らかにしてきたのは、価値形態は価値概念から発しているということ、価値形態は内在的な価値が現象したものであることを論証してきたわけです。だから当然、価値やその大きさが、現象形態である交換価値から生じるなどという考えは転倒以外の何物でもないのですが、しかしブルジョア経済学者たちはこの現象に固執するわけです。

 

    (ロ) しかし、こうした現象としての交換価値にしがみつく逆転した考え方が、かつての重商主義者たちや、その近代的な蒸し返し屋であるフェリエ、ガニルなどの妄想であり、さらに彼らの保護貿易主義とは正反対の論者である近代自由貿易外交員、例えばバスティアとその一派の妄想でもあるのです。

 

    ここでは「重商主義」という用語が出てきますが、『資本論辞典』は次のように説明しています。

 

 【ー般に重商主義とは.16~18世紀にわたる資本の〈本源的蓄積〉の時期にあらわれた経済政策および経済理論書の総称である。・・・・重商主義政策の基本的主体は絶対主義的形態をもつ国家であり,それは〈商人資本〉の運動に支援されながらいわゆる本源的蓄積のための諸政策を暴力的に遂行する。この時期には,すでに大市場の形成がなされており,〈世界市場〉が発生し,商業資本はみずから生産に関与して小生産者を駆逐するにいたり,一方種々なる形の〈マニュファクチァ〉が発生した.国家は,貿易差額を大ならしめ国内の貨幣を増加させるために,輸出産業を奨励・統制し.労働日の延長と労賃の固定化を目的とする労働立法を制定した。・・・・だが重商主義が,商業資本の運動において自立化した流通過程の表面的現象から出発して,それゆえに経済上の仮象のみをとりあげたことは,己の学説の根本的限界をなしている・・・・たとえば,剰余価値を剰余貨幣,つまり貿易差額の過剰分で表示したり.貨幣をそのまま資本だとみたりしたのは,そうした誤りにもとづいている。それゆえに重商主義的学説は,価値のうちにただ社会的形態の実体なき仮象のみをみたり貨幣や資本の形態規定性をそのまま一面的に説明することによって,ブルジョア社会の外面的特徴を端的につかみだすことに成坊したとはいえ,そうした現象の背後にひそむ本質的生産諸関係を洞察するまでには至らなかったのであり,そのために〈古典派経済学〉からの批判を受けることになるのである。】(石垣博美)(資本論辞典238-9頁)

 

 こうした重商主義者に対して、その〈近代的な蒸し返し屋〉といわれている、フェリエやガニルは、第一次フランス帝政の時代に帝政を擁護し、また帝政の公職について、ボナパルトの貿易禁止制度の賛美者であったと言われています。古典派経済学は価値形態に注意を払わなかったとマルクスは指摘していますが(後述参照)、彼らは逆に諸商品の価値とその大きさを、交換価値、あるいは価値形態から説明したのです。

 

  これに対して、彼らの保護貿易主義とは正反対の自由貿易主義の立場に立つバスティアは〈価値は交換されたサーヴィスの比例である〉とし、商品の価値も価値の大きさも交換関係による表現のうち以外には存在しない立場をとったと言われています(以上、付属資料参照)

 

 また先に紹介した初版本文の注24でマルクスは次のように書いています。

 

 〈(24) 古典派経済学の根本欠陥の一つは、商品の、またいっそう特殊には商品価値の、分析から、価値をまさに交換価値となすところの価値の形態を見つけ出すことに成功しなかった、ということである。A .スミスやリカードのような、まさにその最良の代表者たちにおいてさえ、古典派経済学は、価値形態を、まったくどうでもよいものとして、または商品そのものの性質には外的なものとして、取り扱っているのである。その原因は、ただ、価値の大きさの分析にすっかり注意を奪われてしまったということだけではない。それは、もっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式の最も抽象的な、しかしまた最も一般的な形態なのであって、このことによってこの生産様式は、社会的な生産様式の一つの特殊な種類として、したがってまた同時に歴史的に、特徴づけられているのである。それゆえ、もしこの生産様式を社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的にまた、価値形態の、したがって商品形態の、さらに発展しては貨幣形態や資本形態などの、独自性をも見そこなうことになるのである。それだから、労働時間による価値の大きさの計測についてはまったく一致している経済学者たちのあいだにも、貨幣、すなわち一般的な等価物の完成した姿については、きわめて雑多できわめて矛盾している諸見解が見られるのである。このことは、たとえば、ありふれた貨幣の定義ではもはやまにあわない銀行業の取扱いにさいして、明瞭に現われてくる。このことから、反対に、復活した重商主義(ガニルその他) が生じたのであって、これは価値においてただ社会的な形態だけを、またはむしろただ社会的な形態の無実体な外観だけを、見るのである。--ここで一度はっきり言っておくが、私は、W ・ペティ以来の、ブルジョア的諸生産関係の内的な関連を探究する経済学のすべてを,俗流経済学と対立させて、古典派経済学と呼ぶのであって、俗流経済学のほうは、ただ外観上の関連のなかを右往左往するだけで、いわば粗雑きわまる現象のもっともらしい平易化と、ブルジョアの自家需要とのために、科学的な経済学によってはとっくに与えられている材料を絶えず繰り返して反芻するのであるが、そのほかには、自分たち自身の最良の世界についてのブルジョア的生産当事者たちのありふれた、ひとりよがりの見解を、体系づけ、屍理屈づけ、永遠の真理として宣言するだけで満足しているのである。〉(国民文庫版77-8頁)

 

 マクラウドについては、もっと時代は後になりますが、これは付属資料を参照して頂くだけにしましょう。

 

 (ハ) 重商主義者たちは、価値表現の質的な側面に、だから等価形態の完成姿態である貨幣に重きを置き、それに対して、近代的自由貿易行商人たちは、とにかく自分の商品をどんな価格でもたたき売る必要から、相対的価値形態の量的側面を重視したのです。

 

 価値表現の質的な側面というのは、第1パラグラフでも述べられていたように、等価形態に置かれる商品が「直接的交換可能性」を持つことによって表現されるということでした。この等価形態の直接的交換可能性が発展し、完成したものこそ、どんな商品とも直接に交換可能である(何でも買える)貨幣です。重商主義者たちは、貿易差額を拡大して国内の貨幣の増大を追求し、輸出を奨励する一方、輸入を制限する保護貿易政策をとったと言われています。

 

  他方、自由貿易主義者は、市場の拡大を目的とし、そのためには価格の引き下げを必要としたので、商品の価格という量的側面だけに注意を払ったということです。

 

 (ニ) その結果、両者は、商品の価値も価値の大きさも、商品に内在するものとは見えず、ただ交換関係によるそれらの表現だけに固執し、ただ日々の物価表のうちに存在するものとみなすのです。

 

 (ホ) マクラウドは、ロンバード街という金融市場の中心において、銀行業者を代表して、これらの論者たちを総合して、混乱した諸表象をできる限り学問的に飾りたてています。

 

 このように第2パラグラフは、「単純な価値形態の全体」としてその直接的な表象として捉えられる交換価値が、歴史的には重商主義者たちによって(また近代にはその蒸し返し屋によって)、その質的側面が重視され、あらゆる商品との直接的交換可能性をもつ貨幣をとりわけ重視する主張として現われたこと、また近代の自由貿易論者も同じように現象としての交換価値だけに捕らわれているが、彼らは量的側面を重視し、市場拡大のために商品をたたき売ろうとしたこと、そしてさらに今日の金融街においても、同じ様な現象に捕らわれた主張がマクラウドに見られるというような展開になっています。つまり「単純な価値形態の全体」が学説史的に考察されていると言ってよいのではないかと思います。

 

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【付属資料】

 

【1】パラグラフに関連して

 

《初版付録》

 

 《(四) 価値が独立に現われるやいなやそれは交換価値という形態をもつ。  価値表現は二つの極を、相対的価値形態等価形態とを、もっている。まず第一に、等価物として機能する商品について言えば、その商品は他の商品にたいして価値姿態として、直接的に交換可能な形態にある物体--交換価値として、認められている。ところが、その価値が相対的に表現されているところの商品が交換価値の形態をもつのは、(1)その商品の価値存在がその商品との他の一商品体の交換可能性によって明示されるからであり、(2)その商品の価値の大きさがその商品と他の商品とが交換されうる割合によって表現されるからである。--それだから、一般に、交換価値は商品価値の独立な現象形態なのである。》(国民文庫版152頁)

 

《補足と改訂》

 

 《ところで,簡単な価値形態を全体として考察するならば,まず第一に,交換価値は質的および量的に規定された商品価値の単なる表現方法,すなわち現象形態である,しかしながら、商品価値それ自身の本性から発した表現方法である,ということが明らかになる。その価値が表現されるべき商品は,自分と等しい物として,他の種類の商品--両方の商品が人間的労働の結晶であるかぎりにおいて--との関係にはいり,そしてそのことによって,その価値を〈表現する〉。》

                  [B]

 

 [14]価値形態 etc p.775,776(§4)  一商品の簡単な価値形態は,種類を異にする一商品にたいするその商品の価値関係のうちに,あるいは後者との交換関係のうちに,含まれている。商品Aの価値は,質的には,商品Bの商品Aとの直接的交換可能性によって表現されうる。それは,質的には,一定分量の商品Bの,与えられた分量の商品Aとの交換可能性によって表現される。言い換えれぽ,一商品の価値は,交換価値としてのそれの表示によって,自立的に表現されている。

 

                    ◇

 

  この章のはじめでは,普通の流儀にしたがって,商品は使用価値および交換価値であると言ったが,これは,厳密に言えば,誤りであった。商品は,使用価埴または使用対象,および価値である。商品は,その価値がその自然形態とは異なる一つの独自な現象形態,交換価値という現象形態をとるやいなや,あるがままのこのような二重物として自己を表すが,商品は,孤立的に考察されたのではこの形態を決してとらず,つねにただ,第二の,種類を異にする商品との価値関係または交換関係のなかでのみ,この形態をとるのである,もっとも,このことを心得ておきさえすれば,さきの言い方も有害ではなく,簡約に役立つ。》(77-78頁)

 

《フランス語版》

 

 《一商品の単純な価値形態は、ただ一つの他種類の商品--たとえそれがなんであろうと--にたいするこの商品の価値関係あるいは交換関係のうちに含まれている。商品A の価値は、質的には、Aと直接に交換可能な商品B の属性によって表現される。それは、量的には、一定分量のBと任意分量のAとのつねに可能な交換によって表現される。換言すれば、一商品の価値は、その商品が交換価値の座に置かれることによってしか表現されないのだ。われわれが本章の初めで、普通の言いかたにしたがって、商品は使用価値でもあり交換価値でもあると述べたのは、文字どおりにとれば誤りであった。商品は使用価値すなわち有用物でもあり、価値でもある。商品は、その価値が、その自然形態とは区別される固有の現象形態、交換価値という形態をもつやいなや、あるがままの二重の物として現われるが、商品は、単独に考察すれば、こうした形態をけっしてもたない。このことがわかっているかぎり、古い言いかたももはや有害ではなく、簡略にすることに役立つ。》(32-33頁)

 

【2】パラグラフに関連して

 

《補足と改訂》

 

 《われわれの分析が証明したように,価値形態または価値表現が商品価値の本性から生じるのであり,逆に,価値および価値の大きさが交換価値としてのそれらの表現様式から生じるのではない。ところが,この逆の考え方が,重商主義者たち,およびその近代的な蒸し返し屋であるフーリエ(22 第二版への注:F.L.A.フーリエ(関税副検査官):『商業との関係から見た政府について』,パリ1805),ガニル(注:Ch.ガニル:『経済学の諸体系について』,第2版、パリ,1821)などの妄想であるとともに,彼らとは正反対の論者である近代自由貿易外交員,たとえばバスティアとその一派の妄想でもある。重商主義者たちは,価値表現の質的な側面に,それゆえ貨幣をその完成姿態とする等価形態に重きをおき,これにたいして,自分の商品をどんな価格ででもたたき売らなければならない近代貿易行商人たちは,相対的価値形態の量的側面に重きをおく。その結果,彼らにとっては,商品の価値も価値の大きさも交換価値による表現のうち以外には実存せず,したがって,実際には日々の物価表のうちに実存する。スコットランド人マクラウドは,ロンバード街の混乱をきわめた経済的諸表象をできる限り学問的に飾り立てるという彼の職能において,迷信的な重商主義者たちと啓蒙された自由貿易行商人たちとのみごとな総合をなしている。》(78-79頁)

 

《フランス語版》

 

 《われわれの分析の結果は、こういうことになる。すなわち、商品の価値形態は、商品価値の本性から生ずるのであって、逆に、価値や価値量が、それらを交換関係によって表現するところの様式から生ずるわけではない、と。しかし、これこそが、重商主義者やその近代的熱狂者であるフェリェやガニル(21)らの誤りでもあり、また、その対立者であるパスティアやその一派のような自由貿易の外交員たちの誤りでもある。重商主義者たちは、価値表現の質的な側面に、したがって、貨幣形態のうちに明白に実現される商品の等価形態に、とりわけ立脚している。これと反対に、近代の自由貿易のチャンピオンたちは、自分の商品を是非とも厄介払いしようとして、もっぱら相対的価値形態の量的な側面を強調する。したがって、彼らにとっては、価値も価値量も交換関係によって表現するしかないのであって、このことは実際には、毎日の時価による相場のみが存在しているということを意味している。スコットランド人のマクラウドは、ロンバード街--ロンドンの大銀行家の街--の雑然とした経済的先入観念を、実に盛りだくさんな博識で包んで飾りたてることを仕事にしていて、迷信的な重商主義者たちと自由貿易の自由思想家たちとのみごとな総合を、つくりあげている。》(33頁)

 

【資本論辞典】から

 

フェリエ(1777~1861)フランスの関税制度検査官・経済学者.主著『商業との関係から見た政府について』(18005)には.スミス理論との折衷の形をとった新主重商主義的主張がみられる.マルクスは彼を‘ポナパルトの貿易禁止制の賛美者'および,彼とガニールとを第一次フランス帝国の‘帝政時代の経済学者'とよんでいる.『資本論』第1巻第1章では,彼をガニールとともに.重商主義の‘近代的な蒸しかえし屋'と評価し,彼が諸商品の価値およびその大いさを,逆にそれらの交換価値.すなわち価値形態から生ずるとしたものとして批判している(KI-66:青木1・154-155:岩波1-121-122).なお『剰余価値学説史』第1部第4章では.生産的・不生産的労働について,ガルニエ, ローダデ-ル,ガニール,シュトルヒ,シーニア,ロッシ等と同列に検討され(MWI-193.228.282:青木2-327,379,429), とくにスミスの生鹿的労働論および資本蓄積論にたいする彼の論評の保護貿易主義的性格が指摘されている(MWI-214-215 :青木2-359~360)(資本論辞典537頁)

 

ガニール  Charles Ganilh(1758-1836)フランスの経済学者・金融評論家で,新重商主義者.フランス革命時代およびその後のナポレオン帝政時代に多くの公職につく.当時のフランス金融事情にかんする歴史的著作がおそらくもっとも重要なものであるうが,なおその他の経済学の著書とは別に,《Dictionnaire analytique d'economie politique》(1826)を書いている.これは多はの難点をもち,当時一般の注意を惹いた問題を知りうる程度のものである.マルクスが直接引用している主著は,《Des systèms d'économie po1itque,de la valeur comparative de leurs doctrines,et de celle qui parait la plus favorable aux.progres de la richesse》(led.,1809:2ed.1821)の再販本である.新重商主義的主張を内容とし,マルタ旦は‘復活した重商主義'とよび,彼を重商主義の‘近代的な蒸しかえし屋'あるいはフェリエとともに‘帝政時代の経済学者'と評価した. 批判は,まずガニールが,寓は交換価値からなり,貨幣--貨幣たるかぎりの商品--だとして,商品の価値を交換の生産物と考えた重商主義的見解に向けられ,それは商品の価値形態から逆に価値が生ずるとする誤れる見方であり,けっきよし価値の実体を見ることなく,価値のうちにただ商品経済の社会的形態のみを,あるいは実体なきその仮象のみを見るものとした(k1-66.87.98;青木1-164~155.155.185.203;岩波1-121~122,158.181.MWI第4章第8項). なお富は交換価値からなるという見方に関連して,『剰余価値学説史』では,ガニールが,生底的・不生産的労働の区別をも交換によって判断し,労賃の支払われる労働は,非物質的生産に従事する労働や召使などの労働といえども,すべて生産的労働であるとして,スミスの生産的・不生産的労働の区別を論破しようとしたことを,ガルエル,ローダデールの説と同様,‘まったくくだらない話'であり‘大衆文芸的論議" ‘教養ある饒舌にすぎない'としている(MWI第4章第8項および262:青木2-285~300,428-429),そしてガニールは,ガルニエが重商主義に逆戻りすると同様.重商主義に逆戻りし.重商主義の‘剰余価値'にかんする見解を,はっきりさせたとされる(MWI-168;青木2-287),さらに,機械採用の自然的必然的作用として,彼が,労働人口は絶対的に減少し,‘純生産物で生活する人口'数は増加すると考え,こうした仕方で人類は向上するのだとじて,生産的人口の減少に味方したことを批判している(KI-471:青木3-720~721 :岩波3-238~239.MWI第4章第9項). なお,資料的には,『資本論』第1巻第4章で,労賃の後払いが可能になった瞬間に,商業信用が始まったとする彼の文章を引用している(KI-182:青木2-325;岩波2-70).また同じく第5章では,農業で労働手段として土地を利用するのに,前提となるべき緒労働過程の大きな系列を彼が適切に数えあげていると指摘している(KI-187:青木2-333;岩波2-70).この指摘は.さきの彼の主著と異なり,『剰余価値説史』でマルクスが‘未見の書'とした彼の《Théorie de l'economie politique,etc.》(1815)によっている.(資本論辞典481頁)

 

パスティア(1801-1850) フランスの俗流経済学者で自由貿易論者.南フランスの葡萄栽培地方の貿易商の子に生まれ,1840年代のイギリス穀物法闘争に刺戟されて,盛んに自由貿易論を主張《Journal des Economistes》に寄稿したり,ボルドーやパリーに自由通商協会を段立して協会機関誌《La Liberte des Echanges》を創刊,その編集者となる等の活動をした,1848年2月革命以後は社会主義の反対者として,ルイ・ブラン,プルドン等を批判してパンフレットを書き,憲法制定議会議員,立法議会議員となった.主著《Les harmonies economiques》(1850)を出版後.イタリアに赴きローマで死す. その主著にみられるように,彼はセー以上に徹底した楽観的な経済的調和論者であり,古典派経済学の弁援者であった.マルクスは,セーにはまだ不偏不党の態度から彼自身で経済的諸問題の解決に努力している跡がみられるが,パスティアになると,もともと調和論者であり,剽窃をこととし支配階級にとって不愉快な古典派経済学の側面はきりすて,皮相なやり方でその階級のために情熱的な弁護をやっていると批判した(MWIII-573-574:改造社版全集11-565).というのは,彼は,ケアリーと同じように,資本主義的生産の現実的諸対立を実はそれがりリカードなどが経済理論の内部でつくり出したものだと考え(MWIII同上箇所.KI-590;青木3-880 :岩波3-431),資本主義的生産諸関係とそれらの敵対作用をみることなく,そのもっとも表面的でもっとも拍象的な状態,つまりそれ自身として考察された単純なる商品流通にみられる‘自由と平等と“労働"にもとづく所有の王国'を真理だと考えたからである(Briefe uber “Das Kapital”91:国民上88).そして彼は,プルジョア社会は自然的制度であり.それ以前の社会は人為的制度であると考え,たとえば古代のギリシャ人やローマ人は強奪によってのみ生活していたとしている(KI-87;青木1-186:岩波1-159).バスティアのこの皮相さは,一方では,同様に無批判な経済学者であり保護貿易論者であるケアリーと相通ずるものであり(K1 -590-591:青木3-880-881・岩浪3-431),剽窃問題までも,起したのであるが,他方,それは彼の経済理論が‘サーヴィス'という範疇を基礎としている点に明瞭にみられる.彼は,人聞のすべてのサーヴィスが生産的であるとし,価値は交換されたサーグィスの比例であるとした.マルクスはその点を批判してつぎのようにいう.だからバスティアにとっては,商品の価値も価値の大いきも交換関係による表現のうち以外には実存しない,したがって日々の価格表の番付けのうちにのみ実存することとなる(KI-66;青木1-154:岩波1-122).ところで,サーヴィス(役立ち)とは,商品のであれ労働のであれ,実はある使用価値の有用的な働き以外のなにものでもない.そして交換価値をきめるものは,そのような商品や労働が使用価値として行なうサーヴィスではなく,商品が生産されるさいにその商品自身に向かつてなされるサーヴィス,つまりそれを生産するに必要な労働なのである.たとえば,ある機械の交換価値は,その機械をもって短縮しうる労働時間の量によってきまるのではなくて,その機械あるいはそれと同一種類の機械を生産するのに必要な労働時間の量によってきまるのである.バスティアは.交換価値をその労働時聞に還元するのではなく,サーヴィスの交換に解消する,かくして労働生産物が商品として交換される特殊な形態規定性は捨象されてしまうことになる,と(Kr31:岩波36:国民28-29:選集補3.21:青木41-42).またバスティアは,利潤・利子も, シーニァ的な資本家の節約によるサーヴィスにたいする報酬として,地代も土地所有者の土地提供のサーヴィスにたいする報酬と考えた. 『資本論』および『剰余価値学説史』第3部のプルドンの利子論の箇所では,無償信用をめぐる彼とプルドンとの利子生み資本にかんする論争書《Gratuité du Credit. Discusson entre M. Fr. Bastiat et M. Proudhon 》(1850)がとりあげられているが,そこでは一方的にプルドンの批判に力点が置かれている(KIII-378~380;青木10-490~493:岩波10-18~22.MWIII附録第I項).『剰余価値学説史』第3 部のルターの高利子輸の項では,バスティアが利子をサーヴィスにたいする報酬として,セーと同様に弁護していること,ここにわれわれはすでに'各人は他の人に役立つ'という理解からする競争鋭または調和説を見出すとされている(MWIII-591:改造社版全集11-583).バスティアは,自由競争下では等しいサーヴィスの交換が行なわれ,社会の進歩とともにより少ないサーヴィスをもってより多い富が獲得され,祉会は神の摂理によって調和的に発展すると考えていた.(資本論辞典531-2頁)

マクラウドHenry Dunning Macleod(1821-1902) イギリスの経済学者. スコットランドに生まれ,ケンブリッジ大学で法律学を学び,1849年弁護士となる.ついでくロイヤル・ブリティッシュ・バンク) (The RoyalBritish Bank)の取締役となり. 1854年に株式銀行法における銀行の権限にかんする法律問題に関係して,はじめて経済学に関心をもち,歴史的・理論的研究をはじめた.その成果として主著《The Theory and Prartice of Banking》(2vo1s.1855-56)が生まれたが,この書物はイングランド銀行の政策の歴史的研究に重点があり,ながらくこの問題についての典拠として利用されてきた.彼は銀行の信用創造力をきわめて高く評価tし,銀行は本質的に〈信用の製造所〉(manufactory of credit)であるとし,信用創造過程をはじめて詳細に追求した.彼は当時の経済学界の主流から孤立し, 大学の教職につくことができず,また1856年に前記の銀行が破産したさい,彼は同僚の取締役とともに,詐欺罪で有罪を宣告され,社会的立場は不利となり,不遇のうちに一生を終った.主著のほか,《The Elements of Political Economy》(1858); 《The Elements ofBanking》(1878) 《The Theory of Credit》(2vols.1889-1891)などがあり,彼が一人で書いた《A Dictiomiry of Political Economy》(1863)は,第1巻(A~C) しか出版されなかったが.金融史の資料として現在でも十分利用価値がある. 『資本論』ではマタラウドの名前は,まず価値形態論で出てくる.そこでは重商主義者は価値表現の質的側面に,商品の等価形態に重点をおくが,自由貿易行商人は相対的価値形態の量的側面に重点をおくとして,‘スコットランド人のマクラウドは,ロンバード街の縦横に錯雑した諸表象をできるだけ学問風に紛飾するのを彼の任務として,迷信的な重商主義者たちと啓蒙された自由貿易行商人たちとのあいだのすばらしい総合をなしている'(KI-66:青木1-154:岩波1-119) 主述べているが,その典拠は挙げていない.つぎに資本の一般的定式を倫ずるにあたって, G-W-Gの流通形式で増殖する価値がその生涯の循環において交互にとる特殊的現象形態を固定させて,資本は貨幣であると規定する論者の例として,‘生産的目的に用いられる通貨は資本である'というマクラウドの一句が挙げられている(KI-161:青木2-294-295;岩波2-22).最後に固定資本と流動資本との区別を銀行業者的立場からmoney at call とmoney not at callの区別にしてしまう代表者の一人としてマタラウドが挙げられている(KII-224;青木6-293;岩波6-119).なお『経済学批判』では,マクラウドは貨幣一般をそのもっとも発展した形態である支払手段から発生させている,と指摘されている(Kr153;岩波187-1;国民178;選集補3-165;青木189-190).(資本論辞典556-7頁)

 

重商主義 Merkanti1system ー般に重商主義とは.16~18世紀にわたる資本の〈本源的蓄積〉の時期にあらわれた経済政策および経済理論書の総称である.だが,マルクスは,この時期を二つの段階に分け,前の段階を重金主義となし.後の段階を‘より発展した重商主義'としている(KR-57;青木5-81;岩波5-96).厳密な意味の重商主義は,この後の段階をなす.重商主義政策の基本的主体は絶対主義的形態をもつ国家であり,それは〈商人資本〉の運動に支援されながらいわゆる本源的蓄積のための諸政策を暴力的に遂行する.この時期には,すでに大市場の形成がなされており,〈世界市場〉が発生し,商業資本はみずから生産に関与して小生産者を駆逐するにいたり,一方種々なる形の〈マニュファクチァ〉が発生した.国家は,貿易差額を大ならしめ国内の貨幣を増加させるために,輸出産業を奨励・統制し.労働日の延長と労賃の固定化を目的とする労働立法を制定した(KI第7篇第24章). マルタスは重商主義の経済学説を‘近代的生産様式の最初の理論的とり扱い'であるとみなしている(KIII-369:青木9-478;岩波9-211).けだし,この学説は,重金主義が富の形態を貨幣のみに帰着せしめて,流通部面という没概念的立場を固持するのにたいして,同じく流通部面に立脚しているにしても,その根抵にはたんなる商品流通にとどまらず,商品生産をも必然的要素として含蓄しているからであり,重金主義の資本観がG-W-G'なる無概念的形態において表現されるとすれば.後者のそれはG-W…P…W'-G'という排他的形態で表現されうるものだからである(KII-57 ;青木5-81:岩波5-96).このように重商主義は,世界商業に直接つながる国民的労働の特定の部門を,富または貨幣の唯一の源泉だとする観点をもっており,粗野かつ素朴なかたちでではあるが,いちおうブルジョア社会の生産の特徴を,つまりそれが交換価値によって支配されているということを認識していたのであって,そのかぎりでは‘近代経済の一定の領域のなかでは完全な市民権'をもっているのである(Kr171:岩波209;国民199:選集補3-185;青木211). だが重商主義が,商業資本の運動において自立化した流通過程の表面的現象から出発して,それゆえに経済上の仮象のみをとりあげたことは,己の学説の根本的限界をなしている.だから‘近世的経済についての現実的科学は,理論的考察が流通過程より生産過程に移行したところにはじめて開始される'という立場からみると,これはまだ科学としての経済学的認識とはいえないし,またそれがG…G'の循環形式での一面的資本把慢に固執したかぎりでは,窮極的にはこの貨幣資本の循環形式に固有な欺瞞性や幻想的性格をのがれることはできなかったのである(KII-57;青木5-81 ;岩波5-95).たとえば,剰余価値を剰余貨幣,つまり貿易差額の過剰分で表示したり.貨幣をそのまま資本だとみたりしたのは,そうした誤りにもとづいている(KIII-834;青木13-1106:岩波11-289).それゆえに重商主義的学説は,価値のうちにただ社会的形態の実体なき仮象のみをみたり貨幣や資本の形態規定性をそのまま一面的に説明することによって,ブルジョア社会の外面的特徴を端的につかみだすことに成坊したとはいえ,そうした現象の背後にひそむ本質的生産諸関係を洞察するまでには至らなかったのであり,そのために〈古典派経済学〉からの批判を受けることになるのである(KI-87;青木1-188;岩波1-162)(石垣博美)(資本論辞典238-9頁)

 


第25回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

 

 ギリシャの財政破綻に端を発する信用不安がスペインやポルトガルなどにも広がり、欧州の共通通貨「ユーロ」安が止まらず、世界的な株安をももたらしている。

 

政府の緊縮政策に抗議するギリシャの労働者

 

 ギリシャの財政危機に対しては、欧州連合(EU)と国際通貨基金(IMF)が総額1100億ユーロ(約13兆円)の支援策を決め、ユーロ圏緊急首脳会議でも、財政難のユーロ導入国に対する基金の設立や欧州中央銀行(ECB)も含めた、ユーロ圏安定保証のためにあらゆる手段を講じることや、EUの財政規律の強化等を合意したものの、スペインの中央銀行が貯蓄銀行「カハスール」を傘下においたことが伝わると、再び信用不安が広がり、5月26日には、ニューヨーク株式市場のダウ工業株30種平均は3カ月ぶりに1万ドルの大台を割り込み、日本でも日経平均株価は1万円を割ってしまった。ユーロ安も止まらず26日現在、1ユーロは110円を割り込んでいるありさまである。

 

 ところでユーロ安とか、円高、ドル安とか色々言われるが、この「為替相場(為替レート)」というのは、そもそも何を表しているのであろうか。一般には「異なる通貨の交換比率のことである」と説明されている。これはブルジョア経済学者だけではなく、マルクス経済学者にもこうした説明で済ませている人が多い。しかし果たしてこうした説明は正しいのであろうか。

 

  『資本論』第3部第5篇第35章は「貴金属と為替相場」である。しかし、さまざまな抜粋部分やエンゲルスが書き加えた部分を除くと、マルクス自身が「為替相場」について書いたものは極めて少ない。本格的にはほとんど論じてないと言ってもよいほどである。では、マルクス自身はそれに関心がなかったかというと、とんでもないのである。「ロンドン・ノート1850-1853年」とMEGA編集者によって名付けられた24冊のノートには膨大な抜粋と考察が残されているのだという。

 

 本来、マルクスの「経済学批判」体系プランでは、為替相場は、後半体系の「4.国家における総括」と「6.世界市場と恐慌」との間に位置する「5.国際的関係(外国貿易)」のなかで主題的に論じるべきものだったのである。だから前半体系の、しかもその一部を占めるに過ぎない『資本論』では、ほとんど言及されなかったのもやむをえない。しかし『資本論』の最初の「貨幣論」と第3部第5篇の「利子生み資本論」を正確に理解すれば、自ずと為替や為替相場についても正しい理解に到達できると確信している。

 

 「為替」というのは、遠隔地間の諸支払を銀行など金融機関を媒介して振り替えることによって、現金を運ばずに決済するための信用用具(有価証券)である。だからそれは決して厳密な意味での「通貨」と同じではないのである。  「通貨」とは貨幣の流通手段と支払手段という二つの機能を併せた、「広い意味での流通手段」のことであり、今日でいうなら、日本国内で流通している円札や硬貨、アメリカ国内で流通しているドル札や硬貨、ユーロ圏内ならユーロ札や硬貨、つまり一般に「現金」と言われているものである。しかし為替市場で売買されているのは、こうしたものではなく、有価証券の一種である「為替」なのである。

 

  前者は、それぞれの国内における一般的な商品市場で流通し、その流通必要量は、その時々のそれぞれの国内における(だから外国との間ではないことに注意!)商品流通の状態、すなわち流通する諸商品の価格総額、流通速度、信用の状態(相殺される諸支払の度合い)によって規定され、通貨の「価値」(その代表する金量)も同じようにそれぞれの国内の商品流通の現実によって規定されている。

 

  それに対して後者は、有価証券の売買であるから、貨幣市場の問題であり、だから厳密には利子生み資本、あるいはmoneyed Capitalとしての貨幣資本の運動として捉えるべきなのである。だから、為替の市場価格は、東京やニューヨーク、あるいはロンドン等の外為市場における、その時々の円建てやドル建て、あるいはユーロ建ての為替の需給如何によって、それぞれの通貨建て為替の他の通貨による購買価格が変動するのである(だから両替のように「通貨」そのものが交換されているわけではないし、ここには現金そのものは一切姿を表さない)。そして為替の需給は、投機的なものを除けば、貿易収支や資本収支、つまりそれぞれの国の国際収支の変化に対応して変動するのである

 

  このように、両者はまったく異なる流通(商品市場と貨幣市場)に属し、通常は直接的には関連しない(もちろん両者は間接的には関連しているし、それが如何なる関連にあるかを理論的に解明することが重要なのであるが、それを正しく説明しているものはほとんど見かけない)。だから、この両者を区別できずに、混同するならば、マルクスが批判した銀行学派と同じ誤りに陥ることになるであろう。

 

 「為替相場」を「通貨の交換比率」などと説明することは、まさにこうした誤りに陥っていることを示しているのである。そうした誤った主張の中には国際的な商品取引でもドルなどの「通貨」が実際に流通していると考えているとしか思えないような説明をしているケースさえある。残念ながら、ここでは批判を十分理論的に展開する余裕はないが、こうした問題一つとっても、『資本論』をしっかり研究することの重要性を確認しなければならないのである。

 

 是非、貴方も国際的な金融諸現象を理論的に深く理解するためにも、ともに『資本論』を読んでみませんか。

 


第25回「『資本論』を読む会」の報告

第25回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎梅雨空

 

 毎日、うっとうしい天気が続きます。

 

  第25回「『資本論』を読む会」が開催された6月20日(日)も、どんよりとした曇り空でしたが、家を出るとすぐにパラパラと降ってきました。私たちは傘を持って出かけたのは言うまでもありません。

 

  鳩山に代わる菅政権になっても、民主党政権の本質は何も変わらないような気がします。理念ばかりの“おぼっちゃま”政治から、庶民感覚の“市民派”政治への転換かと期待したのですが、「消費税10%」が飛び出し、“現実主義”の名のもとにより露骨な庶民いじめの政治が横行しそうな気配です。政治の世界も、相変わらず“うっとうしい”状態が続きそうではあります。

 

  さて、「読む会」は前回から入った「4、単純な価値形態の全体」の続きで、第3パラグラフから始まりましたが、今回は、この「4」の最後まで終えました。さっそく、その報告に移りましょう。

 

◎「単純な価値形態の全体」の総括的な考察

 

 前回の報告で、この「4」全体の構成を次のように紹介しました。

 

 〈この「4 単純な価値形態の全体」は、項目「A」で考察された「単純な価値形態」を一つの自立した主体として捉えかえし、その直接的な考察(【1】パラグラフ)、学説史的考察(【2】パラグラフ)、総括的な考察(【3】パラグラフ)、歴史的な考察(【4】パラグラフ)、そして歴史的考察から不可避に生じる、次の発展段階(「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」(【5】~【7】パラグラフ)が論じられることになる〉と。

 

 だから今回、最初の検討対象になった第3パラグラフでは「単純な価値形態の全体」の「総括的な考察」が行われることになります。これまでと同じように、まずパラグラフ全体の本文を紹介し、それを文節ごとに学習会の報告と併せて詳細に検討していくことにしましょう。また関連する付属資料は最後に別途紹介することにします。まずは第3パラグラフの本文です。

 

【3】

 

 〈 (イ)商品Bに対する価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立ちいって考察してみると、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということがわかった。 (ロ)したがって、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され、この関係の中では、<それの>価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値としてのみ意義を持っており、これに対して、<それで>価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値としてのみ意義を持つ。 (ハ)したがって、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。〉

 

 (イ) 商品Bに対する商品Aの価値関係のなかに含まれている商品Aの価値表現を立ち入って考察してみますと、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ商品Aの使用価値の姿として意義をもち、商品Bの現物形態は、ただ商品Aの価値形態、すなわち商品Aの価値が形ある物として現われているもの、あるいは価値姿態として、すなわち商品Aの価値が具体的な姿をとった物として意義をもつことが分かりました。

 

 (ロ) だから商品Aのうちに包み込まれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、つまり二つの商品の対立的な関係によって表されているわけです。この関係のなかでは、商品A、つまりその価値が表現されるべき一方の商品は、直接には、つまり直接目に見えるものとしては、使用価値としてのみ意義を持っており、これに対して、商品B、つまりそれで価値が表現されるもう一つの商品の場合は、直接には、つまりその目に見えるものとして存在しているものとしては、ただ商品のAの交換価値としてのみ意義をもっていることになります。

 

 ここで、〈内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され〉るとありますが、そもそも「対立」というのは、どう理解したら良いのか、その「内的」なものが「外的」なものによって表されるとはどういう事かが問題になりました。  まず「対立」については、以前、大阪市内で行っていた「『資本論』を学ぶ会」で毎回発行された『学ぶ会ニュース』の一文が亀仙人から紹介されました。それをもう一度、紹介しておきましょう。

 

 【◎「使用価値と価値との内的対立」とは?

 

 これは第3パラグラフの議論で出てきた疑問です。直接には第3パラの内容の理解というよりも、「商品のうちに包み込まれている使用価値と価値との内的対立」という表現に関して、使用価値と価値は商品の二つの「属性」とか「契機」とかであって、「対立」しているとどうして言えるのかという疑問でした。そしてそもそも「使用価値と価値の内的対立」とはどういうことかが問題になり、「対立」と「矛盾」とはどう違うのか、といった論理学的な問題にまで発展しました。

 

  まず「使用価値と価値の対立」の理解としては、次のように言えるのではないでしょうか。商品の使用価値には価値は全く含まれていません。一つの商品をどんなにひねくり回しても、透かして見ても、価値は見えてきません。他方、価値には一原子の自然素材も入り込んでいないということはまた明らかです。このように両者は全く互いに排除しあった関係にあります。また使用価値が大きくなっても、そこに含まれる価値が必ずしも増大するとは限らず、むしろ両者は全く反対の動きさえします。このように量的にも両者は全く独立した動きをするものとしてあります。しかしまた両者は商品の二契機である限り、互いに分かれがたく前提しあっています。価値は使用価値が前提されなければ価値ではありえないし、また使用価値はそれが商品の使用価値であるためには価値の担い手でなければなりません。これが「対立」の内容ではないかと思います。

 

  次に「対立」や「区別」、「矛盾」といった論理学のカテゴリーの説明については、鰺坂真他編『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)から簡単な紹介をするだけにします。

 

  同書には本質について次のような説明があります。

 

 〈本質は、より規定的にいえば、事物のうちにあって、その多様な諸形態のうちに自己をうつしだし、それらに媒介された一定の恒常的なものです。そして、このような本質の、もっとも基本的で抽象的な規定が、同一、区別、根拠という三つのカテゴリーです。〉(同66頁)

 

 ところで今問題になっている「対立」や「矛盾」は、まさにこの本質の「基本的で抽象的な規定」の一つである「区別」のなかにあります。それは次のように説明されています。

 

 〈区別は、より単純な形態からより複雑な形態へと三つにわけられます。それが、差異・対立・矛盾です。〉(同69頁)

 

 〈差異とは、最初の直接的な形態での区別であり、相互に無関係な別々のもののあいだでの区別です。〉しかしこうした〈たんなる差異的区別は、かならずしも事物にとって必要な不可欠な区別ではありません。/たとえば、ひとびとのあいだには、背丈とか体重その他の点で、いろいろな差異的な区別があります。しかしこれらの区別は、人類そのものにとって、本質的な、なくてはならない区別ではありません。人類にとっての本質的な区別は、たとえば、男女や親子の区別であり、この種の本質的な区別は、それがより本質的な区別であればあるほど、当の事物のうちにある、いわゆる両極的な区別となっています。/対立とは、このような、事物のうちにある両極的な区別をいいます。右と左、プラスとマイナス、N極とS極などの区別がそれです。/この対立的な区別には、次の点で差異的な区別と異なっています。/第一に、対立は、右のことからして、事物におけるもっとも本質的で必然的な区別です。そして、対立的な二つのものは、その規定性に関しては相互に排斥しあう関係にあって、たがいに自分は他方のものではないということが、そのまま直接に自分自身の規定と合致するという関係にあります。/第二に、一般にあるものの他者とは、そのものではないもの、そのものの否定です。しかしペンではないものといっても、かならずしも本という特定のものを意味しません。ところが、人間のうちにあって男性でないものといえばただちに女性を意味するように、両極的な対立物はたがいに、たんなる他者としてではなくて、それぞれに固有の他者としてあるのです。/第三に、右のことは、かならずしも一方のものが他方の存在そのものを否定する関係にあることを意味しているわけではありません。むしろ両者は、一つのものの不可分の二側面として、たがいに前提しあい依存しあう関係にあります。このように、その規定性にかんしては相互排斥的な両極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること、これが対立です。〉(69~71頁)  〈ところで、事物における本質的であるがたんに対立的でしかない区別にたいして、二つのものが、その存在そのものに関して、一方では共存の関係にあり、他方では逆に相互排除の関係にあるとき、この二つのものの関係が、矛盾としての対立です。この関係を論理的に表現すると、「AはAであるとともに非Aである」ということになります。〉(71頁)

 

 区別、対立、矛盾の関係がだいたいお分かりいただけたでしょうか? 詳しくは同書を参考にしていただくとしてこれぐらいにしたいと思います。】(「『資本論』を学ぶ会ニュース」No.16より)

 

 ここでは「内的対立」の説明はされていますが、「外的対立」については、そもそも価値表現の両極として相対的価値形態と等価形態というのは、まさに二つの商品が一つの価値表現の兩極として「対立」関係にあることを示しています。例えば、初版付録の項目を紹介しますと、次のようになっています。

 

 〈(一)価値表現の兩極相対的価値形態と等価形態

    a 両形態の不可分性

    b 両形態の対極性〉(国民文庫版129-130頁)

 

 このように相対的価値形態と等価形態は、〈その規定性にかんしては相互排斥的な両極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること〉が分かります。つまりこの両者は二つの商品として外的な「対立」的な関係にあることが分かるのです。

 

  つまり商品Aと商品Bのそれぞれがとる二つの価値の形態、すなわち相対的価値形態と等価形態は、商品Aに内在する使用価値と価値の内的対立が、二商品の価値の形態として、外的な対立として現われたものであることが分かるのです。

 

 (ハ) だから、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのです。  これが「単純な価値形態の全体」の「総括的な考察」の結論ということが出来ます。

 

  初版付録には、次のような具体的な説明が付いています。

 

 〈もし私が、商品としてはリンネルは使用価値にして交換価値である、と言うならば、それは私が商品の性質について私が分析によって得た判断である。これに反して、20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、という表現においては、リンネルそのものが、自分が(1)使用価値(リンネル)であり、(2)それとは区別される交換価値(上着と同じもの)であり、(3)これらの二つの別々なものの統一、つまり商品である、ということを語っているのである。〉(同上153頁)

 

 ここでは私たちが「相対的価値形態の内実」に出てくる「商品語」について考察したときに指摘したことが、マルクス自身の言葉として語られています。すなわち、価値関係というのは、商品自身が主体的に関係しあう物象的な商品世界の話であるということです。そこでは商品自身が商品語で他の商品に語りかけているわけです。 つまりリンネル自身が上着との価値関係を取り結ぶことによって、自分が商品であることを語るわけですが、そのためには、(1) まずリンネルは自分は使用価値であり、(2) そしてそれとは区別される交換価値(上着と同じもの)である、と語ることによって、(3) 自分自身が商品であることを示すのだというわけです。

 

◎「単純な価値形態の全体」の歴史的な考察

 

 次は第4パラグラフですから「歴史的な考察」です。もちろん、「歴史的な考察」と言っても、それが歴史的に如何に形成されたかを考察するというより、「単純な価値形態」が歴史的な存在であるということ、つまり歴史的なある発展段階の産物であり、歴史的に限界のあるものであることが考察され、指摘されるわけです。

 

【4】

 

 〈 (イ)労働生産物は、どのような社会状態においても使用対象であるが、労働生産物を商品に転化するのは、ただ、使用物の生産において支出された労働を、その使用物の「対象的」属性として、すなわちその使用物の価値として表す歴史的に規定された一つの発展の時期だけである。 (ロ)それゆえ、こうなる--商品の単純な価値形態は、同時に労働生産物の単純な商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展は価値形態の発展と一致する、と。〉

 

 (イ) 労働生産物は、どのような社会状態においても使用対象ですが、労働生産物を商品にするのは、ただある歴史的な発展段階においてに過ぎません。すなわち、その使用物を生産するために支出された労働が、その使用物の「対象的」属性として、すなわちその使用物の価値として表される歴史的な一時期なのです。

 

  だから労働生産物が商品形態をもつためには、すなわち、それが使用価値と交換価値という対立物の統一体として現われるためには、その使用物に支出された労働が、使用物の価値の形態として現われる歴史的条件と一致することが分かります。

 

 (ロ) だから、商品の単純な価値形態は、単純な商品形態であり、商品形態の発展は価値形態の発展と一致するのです。

 

 ここで「対象的」が鍵括弧に入っているのはどうしてか、という疑問が出されました。それは商品の価値というのは、商品という客観的な対象物に備わった一つの社会的属性ではあるが、しかし商品の使用価値の諸属性のように商品自身の自然的属性とは区別された、われわれには直接には目に見えない、その意味では「幻想的な」、社会的属性であり、そこには自然物は一分子も含まれていません。しかし商品という対象物に備わった属性という意味では確かにそれもその限りでは対象的存在であるために、他の自然属性と区別する意味を込めて鍵括弧に括っているのではないか、という意見が出されました。しかし、完全な了解をえられたわけではありません。

 

 また「商品形態の発展」という文言が出てきますが、そもそも「商品形態」が発展するというのはどう考えたらよいのか、という疑問が出されましたが、これについてはピースさんが、これは商品として生産される生産物がますます増大し拡大するという意味ではないかと指摘し、ほぼそういう理解で一致しました。

 

  ただ一つ付け加えますと、すぐに後にも紹介しますが、初版付録には〈貨幣形態はただ発展した商品形態でしかないのだから、ただ、単純な商品形態から源を発しているのである〉という文言があります。つまりここでは「発展した商品形態」というのは、貨幣形態を意味しているわけです。つまり「商品形態の発展」というのは、商品形態が貨幣形態にまで発展するという含意なのかも知れない、ということです。

 

◎「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」

 

 初版付録には次のような項目があります。

 

(七) 商品形態と貨幣形態との関係

 20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、というかわりに、20エレのリンネル=2ポンド・スターリング または、20エレのリンネルは2ポンド・スターリングに値する、という形態を置いてみるならば、貨幣形態は商品の単純な価値形態のいっそう発展した姿、したがって労働生産物の単純な商品形態のいっそう発展した姿にまったくほかならない、ということは一見して明らかである。貨幣形態はただ発展した商品形態でしかないのだから、ただ、単純な商品形態から源を発しているのである。それだから、単純な商品形態が理解されていさえすれば、残るのは、ただ、単純な商品形態 20エレのリンネル=1着の上着 が 20エレのリンネル=2ポンド・スターリング という姿をとるために通過しなければならない諸変態の列を考察することだけである〉(国民文庫版154頁)

 

 つまり、単純な価値形態の全体を考察したわれわれは、ここから単純な価値形態から貨幣形態にまで発展する諸系列を考察するわけですが、そのためには、単純な価値形態から次の発展段階である、「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」が問題にされなければならないわけです。

 

  ただこの「移行」部分は大きくは二つに分かれます。一つは「単純な価値形態」が最も発展した貨幣形態(=価格形態)から見て不十分なものであることが考察されている部分(【5】【6】)と、そして文字通りの次の発展段階への「移行」が論じられている部分(【7】)とにです。

 

【5】

 

 〈(イ) 単純な価値形態、すなわち、一連の変態をへてはじめて価格形態に成熟するこの萌芽形態の不十分さは、一見して明らかである。〉

 

 (イ) このパラグラフでは、単純な価値形態が一連の変態をとげてはじめて価格形態に成熟するための萌芽形態であり、そしてその限りで不十分さを持っていることが指摘されているだけです。それに対して、次の【6】パラグラフでは、その不十分さの具体的な考察が行われます。

 

【6】

 

 〈 (イ)ある一つの商品Bでの表現は、商品Aの価値をただ商品A自身の使用価値から区別するだけであり、したがってまた、商品Aを、それ自身とは異なる何らかの個々の商品種類に対する交換関係におくだけであり、商品Aの他のすべての商品との質的同等性および量的比例関係を表すものではない。 (ロ)一商品の単純な相対的価値形態には、他の一商品の個々の等価形態が対応する。 (ハ)こうして、上着は、リンネルの相対的価値表現の中では、リンネルというこの個々の商品種類との関係で等価形態または直接的交換可能性の形態をとるにすぎない。〉

 

 (イ) 単純な価値形態では、商品A、例えばリンネルの価値は、商品B(上着)よって表現され、商品A(リンネル)は価値形態を持ちます。しかし商品A(リンネル)は、自身の使用価値と区別された価値形態(交換価値)をもつだけです。しかも、商品A(リンネル)は、ただ商品B(上着)という単一のリンネル自身とは異なる商品種類に対する関係をもつだけです。しかし価値としては、商品A(リンネル)は、すべての他の商品と同じなのです。だから商品A(リンネル)の価値形態は、商品A(リンネル)を、すべての他の商品に対する質的な同等性や量的な比例関係に置く形態でも無ければならないはずなのです。

 

 (ロ) ところが単純な価値形態では、商品の単純な相対的価値形態には他の一商品の単一な(個別的な)等価形態が対応するだけです。つまりこの場合は商品B(上着)は、ただ単一の等価物として機能するだけなのです。

 

 (ハ) こうして、上着は、リンネルとの相対的な価値表現においては、ただ単一の商品種類リンネルに対してだけ等価形態または直接的交換可能性の形態をもっているのみなのです。

 

【7】

 

 〈 (イ)けれども、個別的な価値形態は、おのずから、それよりも完全な一形態に移行する。 (ロ)たしかに、個別的な価値形態の媒介によって、一商品Aの価値は別の種類のただ一つの商品によって表現されるだけである。 (ハ)しかし、この第二の商品がどのような種類のものであるか、上着か、鉄か、小麦などかどうかということは、まったくどうでもよいことである。 (ニ)したがって、商品Aが他のあれこれの商品種類に対して価値関係に入るのに従って、同一の商品のさまざまな単純な価値表現が生じる(22a)。 (ホ)商品Aの可能な価値表現の数は、商品Aと異なる商品種類の数によって制限されているだけである。 (ヘ)だから、商品Aの個別的価値表現は、商品Aのさまざまな単純な価値表現のたえず延長可能な列に転化する。〉

 

 (イ)  しかし、個別的な価値形態は、おのずから、より完全な一形態へと移行します。

 

 ここではこれまでの「単純な価値形態」ではなく「個別的な価値形態」という文言が使われています。もともと「単純な価値形態」とわれわれが言ってきたものは、表題としては「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」でした(この表題そのものはエンゲルス版に固有であって、マルクスが直接携わった版にはこうした表題そのものはありません--詳しくは第14回の報告〔その1〕を参照)。ここで「簡単な価値形態」というのは、ほぼ「単純な価値形態」と同義でしょう。「個別的」と「偶然的」というのは、等価形態について言われているように思えます(上記報告参照)。つまり単純な価値形態においては、等価形態にある商品は、個別の一商品だけであり、ある一商品が等価物として置かれるのは偶然的であるという含意と考えられるのです。だからここで「個別的な価値形態」という文言が出てくるのは、等価形態に着目して、それが個別の一商品に限定されているという意味を込めて使われていると考えるべきではないかと思います。つまり個別の一商品によって表された価値形態という意味で、「個別的な価値形態」ということです。

 

 (ロ) 確かに、個別的な価値形態では、一商品Aの価値は別の種類のただ一つの商品によって表現されているだけです。

 

 (ハ) しかし第二の商品がどのような種類のものであるか、上着か、鉄か、小麦かどうかということは、まったくどうでもよいことです。

 

 (ニ) だから商品A(リンネル)が、あれこれの他の商品種類に対して価値関係に入るのに従って、同一の商品、すなわち商品A(リンネル)のさまざまな単純な価値形態が生じることになります。

 

 (ホ) 商品A(リンネル)の可能な価値表現の数は、商品A(リンネル)と異なる商品種類の数によって制限されているだけです。

 

 (ヘ) だから、商品Aの個別的な価値表現は、商品Aのさまざまな単純な価値表現のたえず延長可能な列に転化することになります。すなわち「全体的な、または展開された価値形態」に移行することになるのです。

 

【注】

 

 〈(22a) 第2版への注。たとえば、ホメロスにあっては、一つの物の価値が一連のさまざまな物で表現される〔ホメロス『イリアス』、第七書、第四七二-四七五行。呉茂一訳、岩波文庫、中、三九ページ〕。〉

 

 これは〈商品Aが他のあれこれの商品種類に対して価値関係に入るのに従って、同一の商品のさまざまな単純な価値表現が生じる〉という一文に付けられた注ですが、要するに、ホメロスの場合は、一つの物(葡萄酒)が、さまざまな物と交換されることが言及されているということのようです。『イーリアス』から当該部分を紹介しておきましょう。

 

 〈折ふしレームノス島から、葡萄酒を運んで来た船が、浜にかかった、……その船々から、頭髪を長く垂らしたアカイア人らは、酒をとって来た、ある者どもは青銅に換え、あるいは輝く鉄(くろがね)に換え、あるいはまた牛の皮に、あるいは生身の牛そのものに、他の者どもは奴婢(やっこ)に換えて、賑々しい宴をもうけ、……〉(岩波文庫、中、38-9頁)

 

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【付属資料】

 

●【3】パラグラフに関連して

 

《初版付録》

 

 〈(五) 商品の単純な価値形態はその商品のなかに含まれている使用価値と交換価値との対立の単純な現象形態である

 上着にたいするリンネルの価値関係においては、リンネルの現物形態はただ使用価値の姿としてのみ認められており、上着の現物形態はただ価値形態または交換価値の姿としてのみ認められている。したがって、商品のなかに含まれている使用価値と価値との内的な対立は、一つの外的な対立すなわち二つの商品の関係によって表わされているのであって、これらの商品の一方は値接にはただ使用価値としてのみ認められ、他方は直接にはただ交換価値としてのみ認められているのであり、言い換えれば、この関係のなかでは使用価値と交換価値という両方の対立的な規定が二つの商品のあいだで対極的に分けられているのである。--もし私が、商品としてはリンネルは使用価値にして交換価値である、と言うならば、それは私が商品の性質について私が分析によって得た判断である。これに反して、20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、という表現においては、リンネルそのものが、自分が(1)使用価値(リンネル)であり、(2)それとは区別される交換価値(上着と同じもの)であり、(3)これらの二つの別々なものの統一、つまり商品である、ということを語っているのである。〉(同上152-3頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立ち入って考察してみると,この価値表現の内部では,商品Aの自然形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち,商品Bの自然形態はただ価値形態または価値の姿態としてのみ意義をもつ,ということがわかった。したがって,商品のうちに包み込まれている使用価値と価値との内的対立は一つの外的対立によって,すなわち二つの商品の関係によって表わされ,この関係のなかでは,それの価値が表現されるべき商品Aは,直接にはただ使用価値としてのみ意義をもち,これにたいして,それで価値が表現される商品Bは直接にはただ交換価値としてのみ意義をもつ。したがって,一商品の簡単な価値形態は,その商品に含まれている使用価値と価傾との対立の簡単な現象形態なのである。〉(79頁)

 

《フランス語版》

 

 〈BによってのAの価値表現を注意深く考察すれば、次のことが示された。すなわち、この関係では、商品Aの自然形態が使用価値形態としてのみ現われ、商品Bの自然形態が価値形態としてのみ現われる、と。このように、一商品の使用価値と価値との内的対立は、二つの商品の関係によって現われるが、この関係では、価値が表現されるぺきAは、使用価値としての地位のみを直接に得るが、これに反し、価値を表現するBは、交換価値としての地位のみを直接に得るのである。したがって、一商品の単純な価値形態は、この商品が包蔵している対立の、すなわち、使用価値と価値との対立の、単純な現象形態である。〉(33-34頁)

 

●【4】パラグラフに関連して

 

《初版付録》

 

 〈(六) 商品の単純な価値形態は労働生産物の単純な商品形態である

 使用価値の形態は、その現物形態における労働生産物を世のなかに出す。だから、労働生産物は、それが商品形態をもつためには、すなわち、それが使用価値と交換価値という対立物の統一体として現われるためには、ただ価値形態を必要とするだけである。それだから、価値形態の発展は商品形態の発展と同じなのである。〉(同上153頁)  

 

《補足と改訂》

 

 〈労働生産物は,どのような社会状態においても使用価値すなわち使用対象であるが,労働生産物を商品に転化するのは,ただ,使用物の生産において支出された労働を,対象的属性として,すなわちその使用物の価値として表す歴史的に規定された社会の一つの発展の時期だけである。労働生産物は,その価値が交換価値の形態,すなわち,その使用価値の自然形態とは対象的な形態をもち,したがって,それと同時に労働生産物がこの対立の統一として表わされるや否や,商品形態を受け取るのである。それゆえ,こうなる一商品の簡単な価値形態は,同時に労働生産物の簡単な南品形態であり,したがってまた,商品形態の発展は価値形態の発展と一致する,と。〉(79頁)

 

《フランス語版》

 

 〈労働生産物は、どんな社会状態においても使用価値、すなわち有用物である。だが、労働生産物が一般的に商品に転化するのは、社会の歴史的発展上の一定の時代にかぎられるのであって、その時代は、有用物の生産に支出された労働が、この物に固有な特性、すなわちこの物の価値、という性格を帯びるような時代である。〉(34頁)

 

●【5】パラグラフに関連して

 

《初版付録》

 

 〈(七) 商品形態と貨幣形態との関係

 20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、というかわりに、20エレのリンネル=2ポンド・スターリング または、20エレのリンネルは2ポンド・スターリングに値する、という形態を置いてみるならば、貨幣形態は商品の単純な価値形態のいっそう発展した姿、したがって労働生産物の単純な商品形態のいっそう発展した姿にまったくほかならない、ということは一見して明らかである。貨幣形態はただ発展した商品形態でしかないのだから、ただ、単純な商品形態から源を発しているのである。それだから、単純な商品形態が理解されていさえすれば、残るのは、ただ、単純な商品形態 20エレのリンネル=1着の上着 が 20エレのリンネル=2ポンド・スターリング という姿をとるために通過しなければならない諸変態の列を考察することだけである〉(同上154頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈簡単な価値形態,すなわち,一連の変態を経てはじめて価格形態に成熟するこの萌芽形態の不十分さは,一見して明らかである。〉(79頁)

 

《フランス語版》

 

 〈一見すれば、単純な価値形態の不充分さが認められるが、この形態は、価格形態に到達する以前に一連の変態を経なければならない胚種なのである。〉(34頁)

 

●【6】パラグラフに関連して

 

《初版本文》

 

 〈柑対的な価値の単純な形態においては、すなわち二つの商品の等価性の表現においては、価値の形態発展は両方の商品にとって、たとえそのつど反対の方向においてであっても、一様である。相対的な価値表現は、さらに、両方の商品のそれぞれに関して統一的である。というのは、リンネルはその価値を、ただ、一つの商品、上着においてのみ表わしており、また逆の場合は逆であるからである。しかし、両方の商品にとってはこの価値表現は二重であり、それらのおのおのにとって違っている。最後に、両方の商品のおのおのは、ただ他方の個別的な商品種類にとって等価物であるだけであり、したがってただ個別的な等価物であるだけである。〉(国民文庫版57頁)

 

《初版付録》

 

 〈(八) 単純な相対的価値形態と単一な等価形態

 上着での価値表現はリンネルに価値形態を与えはするが、この価値形態によってはリンネルは、ただ、価値として使用価値としての自分自身から区別されるだけである。この形態はまたリンネルを、ただ、上着にたいする、すなおちなんらかの単一な、リンネル自身とは違う商品種類にたいする、関係に置くだけである。しかし、価値としてはリンネルはすべての他の商品と同じなのである。それゆえ、リンネルの価値形態はまた、リンネルを、すべての他の商品にたいする質的な同等性および量的な釣り合いの関係に置く形態でもなければならない。--一商品の単純な相対的価値形態には他の一商品の単一な等価形態が対応する。すなわち、それにおいて価値が表現されるところの商品は、この場合にはただ単一な等価物として機能するだけである。こうして、上着は、リンネルの相対的な価値表現においては、ただこの単一な商品種類リンネルにたいして等価形態または直接的交換可能性の形態をもっているだけである。〉(同上154-5頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈なにかある自分とは違った種類の商品Bでの価値表現は,商品Aの価値をただ商品Aの使用価値から区別するだけであり,それゆえまた,商品Aを,それ自身とは異なるなんらかの個々の商品種類にたいする交換関係におくだけであり,商品Aの他のすべての商品との質的同等性および量的比例関係を表わすものではない。一商品の簡単な相対的価値表現には,他の一商品の個々の等価形態が対応する。こうして,上着は,リンネルの相対的価値表現のなかでは,リンネルというこの個々の商品種類との関連で等価形態または直接的交換可能性の形態をとるにすぎない。〉(79-80頁)

 

《フランス語版》

 

 〈実際のところ、単純な形態は、一商品の価値と使用価値とを区別して、この商品を、なんらかの他の一つの商品種類との交換関係に置くにすぎず、すべての商品にたいするこの商品の質的同等性と量的比率とを表わすものではない。一商品の価値がこの単純な形態において表現されるやいなや、他の一商品のほうも単純な等価形態を帯びる。こうして、たとえぽ上衣は、リソネルの相対的な価値表現では、リンネルというただ一つの商品にたいする関係によってのみ、等価形態、すなわち自分が直接に交換可能なものであることを示す形態、をもっているにすぎない。〉(34頁)

 

●【7】パラグラフに関連して

 

《初版本文》

 

 〈このよううな等式、すなわち、20エレのリンネル=1着の上着 または 20エレのリンネルは1着の上着に値する、というような等式は、明らかに、商品の価値をただまったく局限的に一面的に表現しでいるだけである。もし私がたとえばリンネルを、上着とではなく、他の諸商品と比較するならば、私はまた別の相対的な諸価値表現、すなわち、20エレのリンネル=u量のコーヒー 20エレのリンネル=v量の茶 などというような別の諸等式を得ることになる。リンネルは、それとは別な諸商品があるのとちょうど同じ数の違った相対的な価値表現をもつのであって、リンネルの相対的な価値表現の数は、新たに現われてくる諸商品種類の数とともに絶えず増加するのである(22)。

 

 (22)「各商品の価値は、交換にさいしてのその商品の割合を表わすのだから、われわれは、各商品の価値を、その商品が比較される商品がなんであるかにしたがって……穀物価値とか布価値とか呼ぶことできるであろう。したがってまた、無数の違った種類の価値があるのであり、そこにある諸商品と同じ数の価値の種類があるのであって、それらはみな等しく真実でもあり、また等しく名目的でもある。」(『価値の性質、尺度および諸原因に関する批判的論究。主としてリカード氏とその追随者たちとの諸著作に関連して。意見の形成と公表とに関する試論の著者の著』、ロンドン、1825年、39ぺージ。〔日本評論社『世界古典文庫』版、鈴木訳『リカアド価値論の批判』、54ページ。〕) 当時イギリスで大いに騒がれたこの匿名の書の著者S・べーリは、このように同じ商品価値の種々雑多な相対的な表現を指摘することによって、価値の概念規定をすべて否定し去ったと妄信している。それにしても、彼自身の偏狭さにもかかわらず、彼がリカード学説の急所に触れたということは、たとえぽ『ウェストミンスター・レヴュー』のなかで彼を攻撃したリカード学派の立腹がすでに証明したところである。〉(同上57-8頁)

 

《初版付録》

 

 〈(九) 単純な価値形態から展開された価値形態への移行

 単純な価値形態は、一商品の価値がただ一つの--といってもそれがなんであってもかまわないのだが--他の種類の商品で表現される、ということを条件とする。だから、リンネルの価値が鉄や麦やその他で表現されても、それは、その価値が商品種類上着で表現される場合とまったく同じに、リンネルの単純な相対的な価値表現なのである。したがって、リンネルが価値関係にはいる相手の商品種類がこれであるか、あれであるか、にしたがって、そのつどリンネルの違った単純な相対的な価値表現が成立するのである。可能性から言えば、リンネルは、それとは別種な諸商品が存在するのとちょうど同じだけのいろいろな価値表現をもっているわけである。つまり、事実上リンネルの完全な相対的な価値表現は、一つの個別的な単純な相対的な価値表現なのではなくて、リンネルの単純な相対的な諸価値表現の総和なのである。こうして、われわれは次のような形態を得ることになる。〉(同上155-6頁

 

《補足と改訂》

 

 〈とはいえ,簡単な価値形態は,おのずから,それよりも完全な一形態に移行する。確かに,簡単な価値形態の媒介によって,一商品の価値は別の種類のただ一つの商品によって表現されるだけである。しかし,この第二の商品がどのような種類のものであるか,上着か,鉄か,小麦等かということは,まったくどうでもよいことである。(p.777,4)それゆえ,商品Aが他のあれこれの商品種類にたいして価値関係にはいるのに従って,同一の商品のさまざまな簡単な価値表現が生じる。商品Aの可能な価値表現の数は,商品Aと異なる商品種類の数によって制限されているだけである。だから,商品Aの個別的価値表現は,商品のさまざまな簡単な価値表現の絶えず延長可能な列に転化する。〉(80頁)

 

《フランス語版》

 

 〈それにもかかわらず、単純な価値形態はおのずから、もっと完全な形態に移行する。単純な価値形態は確かに、商品Aの価値をただ一つの他種類の商品においてしか表現しない。だが、この第二の種類の商品は全く、上衣、鉄、小麦等々、全くお望みどおりでかまわない。したがって、一商品の価値表現は、他の諸商品にたいするこの商品の価値関係と同じくらい多様になる。したがって、この商品の単独な価値表現は、随意に延長できる一連の単純な表現に変態されるのである。〉(34-35頁)

 


第26回「『資本論』を読む会」の案内

『 資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

                                    

 参院選が公示されました。

 

 菅直人首相は、所信表明演説や記者会見のなかで、「『強い経済』゛『強い財政』゛『強い社会保障』の一体的実現を、政治の強いリーダーシップで実現していく」と訴え、「経済成長を大きな軸に置き、2011年度予算編成に当たりたい。成長を支えるには強い財政が必要だ。日本の債務残高は国内総生産(GDP)比180%を超えている。ギリシャの例を引くまでもなく、財政が破綻すれば人々の生活、社会保障が破綻する」と消費税率引き上げの必要性を強調。「早期に超党派で議論を始め、自民党が提案した税率10%を一つの参考にしたい」と具体的な数値にまで言及したために、俄かに消費税の引き上げが、参院選の大きな争点として浮上してきました。

 

 

 2010年度の国債発行は、総額162兆4139億円を計画。09年度当初より30兆1285億円増。10年度末の国債発行残高(財投債除く)は637兆円の見込みで、国民1人あたり499万円の借金になる計算です。 国家財政が早くからすでに破綻していることは明らかです。そしてそのツケがやがては国民に押しつけられるだろうということも容易に予測できました。しかしそれがよりにもよって民主党政権によって実行されようとしているのです。

 

 

 理念先行の美辞麗句だけの鳩山内閣に代わって、庶民派宰相・菅内閣の誕生で少しはましな政治になるのかと期待しましたが、とんでもありません。菅政権は、“現実主義”の名のもとに、財政破綻のツケを庶民に押しつける大増税に先鞭をつける歴史的役割を果たそうとしているかです。まったく酷い内閣が誕生したものです。

 

 現在の財政破綻に国民が何か責任があるのでしょうか。決して否です。歴代の自民党政府が膨大な赤字国債を毎年毎年発行してきたのは、資本の危機を救済するがためです。特に90年代のバブル崩壊後の深刻な不況では、銀行などバブル時に“濡れ手に粟”のぼろ儲けをした資本家たちを救済するために膨大な資金を提供してきました。何度も景気浮揚策と称して無駄な公共事業にカネをつぎ込むために赤字国債を垂れ流してきたのです。現在の財政破綻に責任を負わなければならないのは独占資本なのです。ところが現在の独占資本は税金をほとんど払っていません。税収に占める法人税の割合は極めて少なくなっています(図表参照)。

 

 にも関わらず、菅政権は、そうした独占資本には法人税の減税を約束する一方で、財政破綻のツケをすべて国民を押しつけようというのです。消費税は、所得税のように国民が直接その痛みを感じることなく収奪できる、政府にとって都合のよい税制です。だからこれに一度手をつけると止めども無く、それに頼る財政が累進的に進むのです。

 

 マルクスは国債と税制は不可分の関係にあり、生活手段に課税する消費税を軸とする財政は、それ自体に自動累進の萌芽を含んでいると次のように指摘しています。

 

 《国債は国庫収入を後ろだてとするものであって、この国庫収入によって年々の利子などの支払がまかなわれなければならないのだから、近代的租税制度は国債制度の必然的な補足物になったのである。国債によって、政府は直接に納税者にそれを感じさせることなしに臨時費を支出することができるのであるが、しかしその結果はやはり増税が必要になる。他方、次々に契約される負債の累積によってひき起こされる増税は、政府が新たな臨時支出をするときにはいつでも新たな借入れをなさざるをえないようにする。それゆえ、最も必要な生活手段にたいする課税(したがってその騰貴)を回転軸とする近代的財政は、それ自体のうちに自動的累進の萌芽をはらんでいるのである。過重課税は偶発事件ではなく、むしろ原則なのである。それだから、この制度を最初に採用したオランダでは、偉大な愛国者デ・ウィットが彼の筬言(しんげん)のなかでこの制度を称賛して、賃金労働者を従順、倹約、勤勉にし……これに労働の重荷を背負わせるための最良の制度だとしたのである。》(『資本論』第1部全集23巻b986-7頁)

 

 増税押しつけの菅民主党政権には、この参院選挙でキッパリとノーを突きつけなければなりません。貴方も国債と税制のからくりを見抜くためにも、ともに『資本論』を読んでみませんか。

 



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