目次
はじめに
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第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
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第4回「『資本論』を読む会」の案内
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第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第22回「『資本論』を読む会」の報告

第22回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎春の嵐と黄砂

 

 第22回「『資本論』を読む会」が開催された3月21日はよい天気でしたが、前日からの突風と黄砂の名残がまだあり、時々なま温かい強風が吹いていました。

 

  私たちが学習会を開催している堺市立南図書館の3階会議室の窓から見える桜の木は、赤い蕾を膨らませていました。この桜もすぐにも開花を迎え、私たちの目を楽しませてくれることでしょう。

 

  花の季節が巡って来たのに、私たちの学習会はなかなか開花しそうになく、相変わらずの集まりでした。といっても学習会の内容そのものは充実したものだったのです。さっそく、その報告に移りましょう。今回は等価形態の第二の特性と第三の特性の途中まで進みました。

 

◎等価形態の第二の特色

 

 第9パラグラフから始まります。いつもの通り、まずパラグラフの本文を紹介し、文節ごとにイ)、ロ)、ハ)……の記号を打ち、それぞれの解読を順次行うことにします。

 

【9】

 

 (イ)等価物として役だつ商品の身体は、つねに抽象的人間労働の具体化として認められ、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。 (ロ)つまり、この具体的な労働が抽象的人間労働の表現になるのである。 (ハ)たとえば上着が抽象的人間労働の単なる実現として認められるならば、実際に上着に実現される裁縫は抽象的人間労働の単なる実現形態として認められるのである。 (ニ)リンネルの価値表現では、裁縫の有用性は、それが衣服をつくり、したがって人品をもつくるということにあるのではなく、それ自身が価値であると見られるような物体、つまりリンネル価値に対象化されている労働と少しも区別されない労働の凝固であると見られるような物体をつくることにあるのである。  (ホ)このような価値鏡をつくるためには、裁縫そのものは、人間労働であるというその抽象的属性のほかにはなにも反映してはならないのである。》

 

 今回から〈等価形態の第二の特色〉の説明です。初版付録や「補足と改定」、あるいはフランス語版では、パラグラフの前に表題として、〈β 等価形態の第二の特性具体的な労働がその反対物たる抽象的な人間労働になる〉(初版付録)とか、〈価値形態(「等価形態」の誤植?--引用者) 第二の独自性〉(「補足と改定」)、〈等価形態の第二の特色。具体的労働が、その対立物である抽象的人間労働の表示形態になる〉(フランス語版)と書かれていて、これから考察する課題がまず明らかにされていますが、現行版では、【9】パラグラフそのものには何もそれらしいものはなく、その代わりに【11】パラグラフで、それまでの考察の結論として表題と同じ内容が述べられています。とにかく文節ごとに、詳細に検討していくことにしましょう。

 

 (イ) 等価形態として役立つ商品の身体、例えば上着の商品体は、価値体として認められます。すなわちその自然形態が価値の形態、価値が具体的な形をとって目に見える物として現れたものとして認められています。上着の具体的な現物形態が価値の形態として、だから無差別な人間労働が対象化したもの、抽象的人間労働がそこに具体的に凝固しているものとして、認められるのです。しかし他方で、上着という物的姿を形作っているのは、抽象的人間労働ではなくて、一定の有用な具体的な労働--裁縫労働なのです。

 

 (ロ) だからここでは、この具体的な有用労働が、抽象的人間労働が具体的な姿をとって現れているものになっているわけです。すなわちその表現になっているのです。

 

 (ハ) 上着形態、上着の物的形態が、抽象的人間労働の単なる実現形態、抽象的人間労働がその物的姿をとって自らを現わし実現したものと認められるなら、実際には上着を形作っている裁縫労働が抽象的人間労働の単なる実現形態として認められるわけです。

 

 学習会では、ここの〈単なる実現として認められるならば、・・・・単なる実現形態として認められる〉という言い方のなかで〈単なる〉が二回出てくるのですが、どうしてここで〈単なる〉と言われているのか、これは何を意味しているのだろうか、という疑問が出されました。

 

 これは次のようなことではないか、という意見が出ました。上着が価値体として認められるということは、上着の自然形態が価値の形態として認められるということですが、価値というのは抽象的人間労働の凝固であり、無差別な人間労働だけからなっています。しかし上着の自然形態というのは、決して、例えば裁縫労働という具体的な有用労働だけからなっているわけではありません。それは具体的な有用労働と物的素材との結合の産物であり、上着の目に見える物的姿は、それが形作られている物的素材(ウール生地等)と、それに支出された裁縫労働の産物であることが目に見えています(裁縫労働は痕跡として見えているだけですが)。しかし上着の自然形態が価値の形態として認められるということは、上着が純粋に無差別な労働だけからなっているとみなされるわけです。その結果、上着の物的姿を形作った裁縫労働だけが抽象的人間労働の表現形態になっているといわれているわけです。だから〈単なる〉というのは、上着が単に労働だけからなっているものと認められるという含意ではないかというわけです。

 

 (ニ) リンネルの価値表現では、上着の使用価値は、ただリンネルの価値を具体的に表すという役割だけが問われているだけで、上着の使用価値本来の有用性は何も問われていません。だから上着の使用価値を形作る裁縫労働の有用性も、上着の使用価値本来の有用性を形作る側面は何も問題にされずに、ただリンネルの価値に対象化されている労働と少しも区別されない労働、つまり抽象的人間労働の凝固であるという物体をつくるという面だが問われているわけです。

 

 ここで〈裁縫の有用性は、それが衣服をつくり、したがって人品をもつくるということにあるのではなく〉と言われていますが、〈人品をもつくる〉というのは、新日本新書版では、〈「馬子にも衣装」を意味するというドイツの諺をもじっている〉との説明があります。そして実際、フランス語版では〈リンネルの価値を上衣において表現するばあい、仕立屋の労働の有用性は、この労働が上衣を作る、そしてまた、ドイツの諺によれば人を作る、という点にあるのではなく〉(江夏他訳30頁)となっています。

 

 (ホ) 「相対的価値形態の内実」の最後の【11】パラグラフでは、それまでの考察の結論として〈価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態が商品Aの価値形態となる。言いかえれば、商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる〉と言われていたように、リンネルの価値表現では、上着の身体がリンネルの価値鏡になります。そして価値鏡としての上着の身体を作るためには、裁縫労働そのものは、抽象的人間労働であるという属性以外の何も反映してはならないのだというのです。これは裁縫労働に抽象的人間労働がその内的契機として含まれているということではありません。裁縫労働という具体的な労働そのものが抽象的人間労働そのものの反映なのだということなのです。つまり裁縫労働が抽象的人間労働という目に見えない内的なものが外的な物として現れた実現形態としてあるということなのです。

 

 ここで上着の身体がリンネルの〈価値鏡〉になる、とありますが、この鏡は「魔法の鏡」ではないか、という話が出ました。というのは普通の鏡なら、鏡の前に立ったものの外面を映し出すだけですが、この価値鏡の場合は、リンネルのゴワゴワした直接的な対象性に隠された内的本質である価値を映し出すからです。「魔法の鏡」の前に立つと、その人の美しい外面に隠された醜い本質が、悪魔の顔として映し出されるのと同じだというのですが、果たしてどうでしょうか。

 

◎等価形態の第二の特色の神秘性(転倒)

 

【10】

 

 (イ)裁縫の形態でも織布の形態でも、人間の労働力が支出される。 (ロ)(それだから、どちらも人間労働という一般的な属性をもっているのであり、また、それだから、一定の場合には、たとえば価値生産の場合には、どちらもただこの観点のもとでのみ考察されうるのである。 (ハ)こういうことは、なにも神秘的なことではない。  (ニ)ところが、商品の価値表現では、事柄がねじ曲げられてしまうのである。 (ホ)たとえば、織布はその織布としての具体的形態においてではなく人間労働としての一般的属性においてリンネル価値を形成するのだということを表現するためには、織布にたいして、裁縫が、すなわちリンネルの等価物を生産する具体的労働が、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として対置されるのである。》

 

 〈等価形態の第一の特色〉を論じたところでも、【8】パラグラフで等価形態にある上着が直接的交換可能性という属性を、あたかも重さがあるとか、寒さを防ぐというような上着が持っている自然的な属性と同じように、生まれながらに持っているかのように見えるという〈等価形態の謎〔Raetselhafte〕〉について論じていましたが、今回のパラグラフは、それ対応させて、同じような等価形態の神秘的性格が第二の特色に関連して論じられているように思えます。

 

 (イ)、(ロ)、(ハ) われわれは「第2節 商品に表される労働の二重性」の最後のパラグラフで、〈すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する〉と言われていたのを知っています。ここで言われていることはこのことです。すなわち、裁縫労働も織布労働も、人間労働力が支出され、だからどちらも人間労働という一般的な属性を持っている。だからある場合には、すなわち価値生産という場合には、労働の一般的な属性において考察され、使用価値生産の場合には、労働の具体的な属性から考察される。こういうことには神秘的なことは何一つないわけです。

 

 (ニ)、(ホ) ところが、商品の価値表現では、事柄がねじ曲げられてしまいます。織布労働がその一般的属性、すなわち無差別な人間労働一般という属性においてリンネルの価値を形成するということを表現するために、この織布労働に対して、リンネルの等価物である上着を生産する裁縫労働が、その具体的な労働の形態のままで、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として現れ、対置されなければならないのです。裁縫という具体的な労働が抽象的人間労働が現実に目に見えるものとして現れ出てたものとみなされるのです。初版付録では次のように書かれています。

 

 〈価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。たとえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人間労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるということ裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。〉(国民文庫版142-3頁)

 

 これがどれほど奇妙なことであり、また価値表現の理解を困難にするかは、やはり初版付録では次のように説明されています。

 

 〈この転倒によってはただ感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として認められるだけであって、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として認められるのではないのであるが、この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とは両方とも法である、と言うならば、それは自明なことである。これに反して、もし私が、法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関速は不可解になるのである。〉(同上)

 

【11】

 

 《だから、具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということは、等価形態の第二の特色なのである。》

 

 これは初版付録や「補足と改定」、フランス語版では最初に表題として掲げられているものが、現行版では、最後に結論として述べられているわけです。

 

◎等価形態の第三の特色

 

【12】

 

 《 (イ)しかし、この具体的労働、裁縫が、無差別な人間労働の単なる表現として認められるということによって、それは、他の労働との、すなわちリンネルに含まれている労働との、同等性の形態をもつのであり、したがってまた、それは、すべての他の商品生産労働と同じに私的労働でありながら、しかもなお直接に社会的な形態にある労働なのである。 (ロ)それだからこそ、この労働は、他の商品と直接に交換されうる生産物となって現われるのである。 (ハ)だから、私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということは、等価形態の第三の特色である。》

 

 初版付録や「補足と改定」、フランス語版では、やはり最初に表題がついています。すなわち〈γ 等価形態の第三の特性。私的労働がその反対物の形態たる直接的に社会的な形態 における労働になる。〉(初版付録)、〈第三の独自性。等〉(「補足と改定」)、〈等価形態の第三の特色 。〉(フランス語版)というようにです。

 

 (イ) 上着の現物形態を作る具体的な裁縫労働が、無差別な人間労働、抽象的人間労働の表現として認められることによって、その労働は、他の労働との、つまりリンネルに含まれている労働、リンネルの価値を形成した労働と同等性の形態をもつのです。そしてそのことにみって、裁縫労働は、すべての他の商品を生産する労働と同じように私的労働でありながら、同時に直接に社会的な形態にある労働と認められるわけです。ここで「直接に社会的な形態にある労働」とありますが、「第二節 商品に表される労働の二重性」において、次のような一文がありました。

 

 〈いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体――社会的分業が現われている。社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。・・・・ただ、独立に行なわれていて互いに依存し合っていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである。

 

 また初版付録の〈γ 等価形態の第三の特性〉の冒頭には次のような一文があります。

 

 〈諸労働生産物は、もしそれらが互いに無関係に営まれる独立な諸私的労働の諸生産物でないならば、諸商品にはならないであろう。これらの私的労働の社会的関連素材的に存在するのは、それらが一つの自然発生的な社会的分業の諸分肢であり、したがってまた、それらの生産物によっていろいろな種類の欲望を充足するかぎりにおいてのことであって、これらの欲望の総体からはやはり社会的な諸欲望の自然発生的な体系が成り立っているのである。しかし、このような、互いに無関係に営まれる諸私的労働素材的な関連は、ただ、それらの諸生産物の交換によってのみ、媒介され、したがってまた実現されるのである。それゆえ、私的労働の生産物が社会的な形態をもっているのは、ただ、それが価値形態を、したがってまた他の諸労働生産物との交換可能性の形態を、もっているかぎりにおいてのみのことである。それが直接に社会的な形態をもっているのは、それ自身の物体形態または現物形態が同時に他の商品とのそれの交換可能性の形態であり、言い換えれば、他の商品にたいして価値形態として認められているかぎりにおいてのことである。しかし、われわれがすで見たように、こういうことがある労働生産物にとって生ずるのは、ただ、それが、それにたいする他の商品の価値関係によって、等価形態にある場合、すなわち、他の商品にたいして等価物の役割を演ずる場合だけである。〉(前掲144頁)

 

 つまり諸商品を生産する労働は直接には私的労働であり、だからこそそれらは商品として交換されなければならないわけです。しかしそれらが交換されるためには、それらを生産した労働が、社会的な形態を持たねばなりません。そしてそれがすなわち諸商品の価値形態なのです。諸商品は価値形態を持つことによって、他の商品との交換可能性の形態を持つことになるのです。しかしそのためには諸商品は他の商品を自身の等価物にし、等価物商品を生産する労働を私的労働でありながら、しかもなお直接に社会的な形態を持った労働にすることによって、そうした自身の価値形態を持つのだということです。だから等価物を生産する労働は私的労働でありながら、同時に直接に社会的な形態にある労働になっているのです。

 

  しかし、裁縫労働が直接に社会的な形態にある労働になっている、といっても、それはあくまでも上着という商品に対象化された労働についてのみ言いうることであって、決して、現実に支出された裁縫労働そのものがその流動的な状態において、そうした形態にあるということではありません。言い換えれば、裁縫労働者が直接に社会的な関係のなかにあってその労働を行ったのではないということです。裁縫労働者はあくまでも一私人として上着を生産し、彼の支出する労働は直接には私的労働なのです。ただその労働が私的に支出されて商品に対象化されたあと、商品同士が互い関係し会う世界=商品世界において、すなわちその価値関係において、特定の商品上着が等価物という位置に置かれるかぎりにおいて、上着に対象化された労働がそうしたものと見做されるということなのです。だからこの場合、具体的な裁縫労働そのものが、抽象的人間労働の具体化として認められるように、私的労働そのものが、なおかつ直接に社会的な形態にある労働になっているわけです。

 

 (ロ) だからそのように、私的労働でありながら、なおかつ直接的に社会的な形態にある労働である裁縫労働の産物であるからこそ、上着は、等価形態の最初に考察したように、他の商品と直接に交換されうる生産物になっているわけです。

 

 初版付録からもう一つ紹介しておきましょう。

 

 〈裁縫労働というような、一定の、具体的な労働が、たとえばリンネルというような別種の商品に含まれている別種の労働との同等性の形態をもっていることができるのは、ただ、その特定の形態が、別種の諸労働の同等性を、またはそれらの労働における同等なものを、現実に形成しているあるものの表現として認められているかぎりにおいてのみのことである。しかし、別種の諸労働が同等であるのは、ただ、それらが人間労働一般、抽象的人間労働、すなわち人間労働力の支出であるかぎりにおいてのみのことである。だから、すでに明らかにしたように、等価物のなかに含まれている特定の具体的な労働抽象的人間労働の特定の実現形態または現象形態として認められているので、その労働は他の労働との同等性の形態をもっているのであり、したがってまた、すべての他の商品生産労働と同様に私的労働であるのに、しかもなお直接的に社会的な形態にある労働なのである。それだからこそ、その労働は他の商品と直接に交換されうる生産物となって現われるのである。〉(同上)

 

 (ニ) これは第二の特色の場合と一緒に、結論として第三の特色が定式化されているだけです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

【付属資料】

 

【9】パラグラフに関連して

 

《初版本文》

 

 〈20エレのリンネル=1着の上着 または xエレの連寝るはy着の上着に値する、という相対的な価値表現のなかでは、上着はただ価値または労働凝固体としてのみ認められているのではあるが、しかし、それだからこそ. 労働凝固体は上着として認められ、上着はそのなかに人間労働が凝固しているところの形態として認められるのである。使用価値上着がリンネル価値の現象形態になるのは、ただ、リンネルが抽象的人間労働の、つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、直接的物質化としての上着物質に関係しているからにほかならない。上着という対象性は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的につかまえられる対象性として、したがってまた現物形態における価値として、認められているのである。リンネルは価値としては上着と同じ本質のものであるがゆえに、上着という現物形態がこのようにリンネル自身の価値の現象形態になるのである。しかし、使用価値上着に表わされている労働は、単なる人間労働ではないのであって、一定の、有用な労働 、裁縫労働である。単なる人間労働、人間労働力の支出は、どのようにでも規定されることはできるが、それ自体としては無規定である。それは、ただ、人間労働力が特定の形態において支出されるときにはじめて、特定の労働として実現され、対象化されることができるのである。なぜならば、ただ特定の労働にたいしてのみ、自然素材は、すなわち労働がそれにおいて対象化される外的な物質は、相対するのだからである。ただへーゲル的な「概念」だけが、外的な素材なしで自己を客観化することを達成するのである。

 

 リンネルは、人間労働の直接的な実現形態としての裁縫労働に関係することになしには、価値または肉体化した人間労働としての上着に関係することはできない。とはいえ、リンネルを使用価値上着に関係させるものは、上着の羊毛的な快適さでもなければ、上着のボタンをかけられた有様でもなく、そのほか上着に使用価値として刻印するなんらかの有用的な質でもない。上着は、リソネルのためには、ただ、リンネルの価値対象性をリンネルのごわごわした使用対象性と区別して表わす、ということに役だつだけである。リンネルは、その価値をアギ〔植物名〕樹脂とか乾燥人糞とか靴墨とかで表現したとしても、同じ目的を達したであろう。それゆえ、同様に、裁縫労働がリンネルにとって有効であるのも、それが合目的的に生産的な活動であり有用労働であるかぎりにおいてのことではなくて、ただ、それが特定の労働として人間労働一般の実現形態であり対象化様式であるかぎりにおいてのみのことである。もしリンネルがその価値を上着においてではなく靴墨において表現したとすれぽ、リンネルにとってはまたやはり裁縫ではなく靴墨作りが抽象的人間労働の直接的実現形態として認められたであろう。つまり、ある使用価値または商品体が価値の現象形態または等価物となるのは、ただ、別のある商品が、前記の商品体に含まれている具体的な有用労働種類に、抽象的人間労働の直接的実現形態としてのそれに、関係する、ということによってのみである。〉(国民文庫版48-50頁)

 

《初版付録》

 

 〈β 等価形態の第二の特性具体的な労働がその反対物たる抽象的な人間労働になる

 

  上着はリンネルの価値表現において価値体として認められており、したがって、上着の物体形態または現物形態は、価値形態として、すなわち、無差別な人間労働の、単なる人間労働の、具体化として、認められている。しかし、それによって上着という有用物がつくられてその特定の形態を得るところの労働は、抽象的人間労働ではなく、単なる人間労働ではなくて、一定の、有用な具体的な労働種類--裁縫労働である。単純な相対的な価値形態が要求するのは、一商品たとえばリンネルの価値がただ一つの別の商品種類だけで表現されるということである。しかし、この別の商品種類がなんであるか、ということは単純な価値形態にとってはまったくどうでもいいのである。商品種類上着ではなく、リンネルの価値は、商品種類小麦ででも、あるいはまた商品種類小麦でではなく商品種類、等々ででも、表現されうるであろう。しかし、上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、つねに、リンネルの等価物はリンネルにたいして価値体として、したがってまた、単なる人間労働の具体化として、認められているであろう。そしてまたつねに、等価物の特定の物体形態は、それが上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、抽象的人間労働の具体化ではなくて、裁縫労働なり農民労働なり鉱山労働なりとにかく一定の具体的な有用労働種類の具体化であることに変わりはないであろう。だから、等価物の商品体を生産する特定の具体的な有用労働は、つねに必然的に、単なる人間労働の、すなわち抽象的人間労働の特定の実現形態または現象形態として認められなければならないのである。たとえば上着が価値体として、したがって単なる人間労働の具体化として、認められうるのは、ただ、裁縫労働が、それにおいて人間労働力が支出されるところの、すなわち、それにおいて抽象的人間労働が実現されるところの、特定の形態として認められているかぎりにおいてのみのことである。〉(国民文庫版141-2頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈価値形態(「等価形態」の誤植?--引用者) 第二の独自性

 

  等価物-商品の身体は,価値表現のなかでは,つねに,抽象的人間的労働の体化として通用し,しかも,つねに,一定の有用的具体的労働の生産物である。したがって,この具体的労働が,ここでは,抽象的人間的労働の表現にのみ役立つ。たとえば,上着が抽象的人間的労働の単なる実現として通用するとすれば,実際に上着に実現される裁縫労働は抽象的人間的労働の単なる実現形態として通用する。リンネルの価値表現においては,裁縫労働の有用性は,それが衣装をつくり,したがってまた風采をあげるということにあるのではなくて,それが価値であること,したがって,リンネルの価値に対象化された労働とまったく区別されない労働の凝固体であること,が見てとれるような一身体をつくることにある。このような価値鏡をつくるためには,裁縫労働そのものは,人間的労働というその抽象的属性以外のなにものも反映してはならない。〉(小黒正夫訳76頁)

 

《フランス語版》

 

 〈等価形態の第二の特色。具体的労働が、その対立物である抽象的人間労働の表示形態になる。

 

  等価物の体躯は、商品の価値表現では、つねに抽象的人間労働の具現として現われ、しかもつねに、特殊で具体的な有用労働の生産物である。したがって、この具体的労働は、ここでは、抽象的労働を表現することにだけ役立つ。たとえば、一着の上衣が抽象的労働の単なる実現であるならば、上衣のなかに実現されている仕立屋の行為もまた、抽象的労働の単なる実現形態にほかならない。リンネルの価値を上衣において表現するばあい、仕立屋の労働の有用性は、この労働が上衣を作る、そしてまた、ドイツの諺によれば人を作る、という点にあるのではなく、この労働が、価値の透きとおって見える体躯を、すなわち、リンネルの価値のなかに実現されている労働となんら区別されることのない労働の見本を、生産する、という点にある。このような価値の鏡になれるためには、仕立屋の労働そのものは、人間労働という属性以外になにものをも反映してはならないのである。〉(江夏他訳29-30頁)

 

【10】パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈われわれは、ここにおいて、価値形態の理解を妨げるあらゆる困難の噴出点に立っているのである。商品の価値を商品の使用価値から区別するということ、または、使用価値を形成する労働を、単に人間労働力の支出として商品価値に計算されるかぎりでのその同じ労働から区別するということは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態において考察する場合には、他方の形態においては考察しないのであるし、また逆の揚合には逆である。これらの抽象的な対立物はおのずから互いに分かれるのであって、したがってまた容易に識別されるものである。商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態の場合にはそうではない。使用価値または商品体はここでは一つの新しい役割を演ずるのである。それは商品価値の現象形態に、したがってそれ自身の反対物に、なるのである。それと同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な労働が、それ自身の反対物に、抽象的人間労働の単なる実現形態に、なる。ここでは、商品の対立的な諸規定が別々に分かれて現われるのではなくて、互いに相手のなかに反射し合っている。こういうことは、一見したところではあまりにも奇妙であるとはいえ、いっそう綿密に熟慮してみれば、必然的であることが判明する。商品は、もともと、一つの二重物、使用価値にして価値、有用労働の生産物にして抽象的な労働凝固体なのである。それゆえ、自分をそのあるがままのものとして表わすためには、商品はその形態を二重化しなげればならないのである。使用価値という形態のほうは、商品は生まれつきそれをもっている。それ滴品の現物形態である。価値形態のほうは、商品は他の諸商品との交際においてはじめてそれを得るのである。ところが、商品の価値形態は、それ自身もまたやはり対象的な形態でなければならない。諸商品の唯一の対象的な諸形態は、諸商品の使用姿態であり、諸商品の現物形態である。ところで、ある商品の、例えばリンネルの、現物形態は、その商品の価値形態の正反対物であるから、その商品は、ある別の現物形態を、ある別の商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければならない。その商品は、自分自身にたいして直接にずくことかできないことを、直接に他の商品にたいして、したがってまた回り道をして自分陣にたいして、することかできるのである。その商品は自分の価値を自分自身の身体において、または自分自身の使用価値において、表現することはできないのであるが、しかし、直接的価値定在としての他の使用価値または商品体に関係することはできるのである。その商品は、それ自身のなかに含まれている具体的な労働にたいしては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態として関係することはできないが、しかし、他の商品種類に含まれている具体的な労働にたいしては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態として関係することかできるのである。そうするためにその商品が必要とするのは、ただ、他の商品を自分に等価物として等置する、ということだけである。一商品の使用価値は、一般にただ、それがこのような仕方で他の一商品の価値の現象形態として役だつかぎりにおいてのみ、この他の商品のために存在するのである。……しかし、両商贔の価値関係をその質的な側面から見るならば、かの単純な価値表現のなかに価値形態の、したがってまた、簡単に言えば貨幣形態の、秘密を発見するのである〉(前掲50-52頁)

 

《初版付録》

 

 〈価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。たとえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人間労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるということ裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。この取り違えは不可避である。というのは、労働生産物で表わされている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無差別な人間労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が別種の一生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてのみのことだからである。

 

  この転倒によってはただ感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として認められるだけであって、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として認められるのではないのであるが、この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とは両方とも法である、と言うならば、それは自明なことである。これに反して、もし私が、法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関速は不可解になるのである。〉(前掲142-3頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈裁縫労働の形態でも織布労働の形懇でも,人間的労働力が支出される。それゆえ,どちらも人間的労働という一般的属性をもっており,またそれゆえ,特定の場合,たとえば価値生産の場合には,どちらもただこの観点のもとでのみ考察されうる。こうしたことはすべて,なにも神秘的なことではない。ところが,商品の価値表現においては,事態がねじ曲げられる。たとえば,織布労働が,織布労働としてのその具体的形態においてではなく,かえって,人間的労働としてのその一般的属性においてリンネル価値を形成するということを表現するために,織布労働にたいして裁縫労働が,すなわちリンネルの等価物を生産する具体的労働が,抽象的人間的労働を実現する表現形態が,対置されるのである。こうして,織布労働それ自身は,その抽象的属性の単なる表現に変化するのである。〉(前掲同)

 

《フランス語版》

 

 〈機織や衣服の仕立という、生産活動の二つの形態は、人間労働力の支出を必要とする。したがって、双方とも、人間労働であるという共通の属性をもっているのであって、たとえば価値の生産が問題であるような若干のばあいにはこの観点からのみ考察されるべきなのだ。そこには神秘的なものはなにもないが、商品の価値表現ではことがあべこべに理解される。たとえば、機織が、機織としてではなく人間労働一般という特性において、リンネルの価値を形成する、ということを表現するために、機織には別の労働、リンネルの等価物である上衣を生産する労働が、人間労働を表示する明示の形態として対置される。仕立屋の労働はこのようにして、それ自身の抽象的特性の単純な表現に変態するわけである。〉(前掲30頁)

 

【12】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 〈γ 等価形態の第三の特性私的労働がその反対物の形態たる直接的に社会的な形態 における労働になる

 

  諸労働生産物は、もしそれらが互いに無関係に営まれる独立な諸私的労働の諸生産物でないならば、諸商品にはならないであろう。これらの私的労働の社会的関連素材的に存在するのは、それらが一つの自然発生的な社会的分業の諸分肢であり、したがってまた、それらの生産物によっていろいろな種類の欲望を充足するかぎりにおいてのことであって、これらの欲望の総体からはやはり社会的な諸欲望の自然発生的な体系が成り立っているのである。しかし、このような、互いに無関係に営まれる諸私的労働素材的な関連は、ただ、それらの諸生産物の交換によってのみ、媒介され、したがってまた実現されるのである。それゆえ、私的労働の生産物が社会的な形態をもっているのは、ただ、それが価値形態を、したがってまた他の諸労働生産物との交換可能性の形態を、もっているかぎりにおいてのみのことである。それが直接に社会的な形態をもっているのは、それ自身の物体形態または現物形態が同時に他の商品とのそれの交換可能性の形態であり、言い換えれば、他の商品にたいして価値形態として認められているかぎりにおいてのことである。しかし、われわれがすで見たように、こういうことがある労働生産物にとって生ずるのは、ただ、それが、それにたいする他の商品の価値関係によって、等価形態にある場合、すなわち、他の商品にたいして等価物の役割を演ずる場合だけである。

 

  等価物が直接的に社会的な形態をもっているのは、それが他の商品との直接的交換可能性の形態をもっているかぎりにおいてのことであり、そして、それがこの直接的交換可能性の形態をもっているのは、それが他の商品にたいして価値体として、したがってまた同等なものとして認められているかぎりにおいてのことである。だから、等価物に含まれている特定な有用労働もまた、直接的に社会的な形態にある労働として、すなわち、他の商品に含まれている労働との同等性の形態をもっている労働として、認められているのである。裁縫労働というような、一定の、具体的な労働が、たとえばリンネルというような別種の商品に含まれている別種の労働との同等性の形態をもっていることができるのは、ただ、その特定の形態が、別種の諸労働の同等性を、またはそれらの労働における同等なものを、現実に形成しているあるものの表現として認められているかぎりにおいてのみのことである。しかし、別種の諸労働が同等であるのは、ただ、それらが人間労働一般、抽象的人間労働、すなわち人間労働力の支出であるかぎりにおいてのみのことである。だから、すでに明らかにしたように、等価物のなかに含まれている特定の具体的な労働抽象的人間労働の特定の実現形態または現象形態として認められているので、その労働は他の労働との同等性の形態をもっているのであり、したがってまた、すべての他の商品生産労働と同様に私的労働であるのに、しかもなお直接的に社会的な形態 にある労働なのである。それだからこそ、その労働は他の商品と直接に交換されうる生産物となって現われるのである。〉(前掲143-6頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈[A]

 

  第三の独自性。等

 

  したがって,私的労働の生産物は,それが価値形態,すなわち等しい物として通用する形態,つまり他の労働生産物との交換可能性をもっかぎりにおいてのみ社会的形態をもつ。 ある労働生産物は,それが他の労働生産物の価値表現のなかで等価物の位置を占めるや否や,したがって,身体形態が同時に価値形態,他の商品との交換可能性の形態,すなわち, 等しい物として通用する形態であると同時に,直接的社会的形態をもつのである。

 

  われわれはいままで次のことを見てきた。一等価物に含まれている具体的有用な労働種類は,人間的労働一般の実現形態として通用する。そのことによって,その労働種類は,他の労働との同等性のすなわち等しい物として通用するという形態をもつのであり,したがって,それは,他のすべての商品を生産する労働と同じように私的労働であるにもかかわらず,直接社会的形態にある労働なのである。

 

 [B]

 

  しかし,裁縫労働というこの具体的労働が,区別のない人間的労働の単なる表現として通用することによって,それは,他の労働,すなわちリンネルに含まれている労働との同等性の形態をとるのであり,したがってまた,それは,商品を生産する他のあらゆる労働と同じく私的労働であるにもかかわらず,しかも直接に社会的な形態にある労働なあである。だからこそ,その労働は,他の商品と直接に交換されうる一生産物で自分自身を表わすのである。そして次に--〉(前掲77頁)

 

《フランス語版》

 

 〈等価形態の第三の特色 。等価物を生産する具体的労働、われわれの例では仕立屋の具体的労働は、無差別な人間労働の表現として役立つということによってのみ、他の労働、リンネルが包蔵している労働と同等であるという形態をもち、したがって、他のすべての商品生産労働と同じように、私的労働でありながらも直接に社会的な形態のもとにある労働、になるのである。このために、この労働は、他の商品と直接に交換可能な生産物によって実現されるわけである。〉(前掲30頁)

 

 


第23回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

 

                                    

  谷垣 「総理、普天間基地の、今、腹案があるとおっしゃった。移設先は沖縄県内ですか。県外ですか。国外ですか。」

 

  鳩山 「いくら谷垣総裁といえども、私にそれが県内であるとか、県外であるといわれても、お答えはできない。」

 

 3月31日に行われた党首討論での一幕である。

 

 普天間基地移設問題が討論の中心であった。

 

 鳩山首相は「腹案」があるというが、新聞報道によると、政府がとりまとめようとしている移設案というのは、「県内での移設作業を2段階に分け、当面は名護市などにある米軍キャンプ・シュワブ陸上部への機能移転を進めつつ、うるま市の米軍ホワイトビーチ沖合を最終的な移設先とする。併せて、県外に基地機能を分散し、負担軽減を図る」というものらしい。

 

 

 

 しかしこれでは現行案よりはるかに酷い内容である。「少なくとも県外・国外」との選挙公約を裏切るだけでなく、現行案より大規模な基地をさらに沖縄に二つも作るというのだから、あきれる。

 

 それはそうと、そもそも軍隊や基地、あるいは兵器といったものは、経済学的にはどのように考えたらよいのであろうか。

 

  こうしたものは極めて政治的な問題であり、経済学の対象ではないというなら、あるいはそうかも知れない。しかし自衛隊では何十万という若者の労働力がまったく不生産的に浪費されており、国家の防衛予算は4.8兆円もあり、一般歳出の1割近い規模に膨れ上がっている。軍隊や軍事活動が不生産的な労働力や労働であることはいうまでもないが、しかし基地を作ったり、戦車やミサイルなど兵器を生産する労働はどうであろうか。それらを生産するのは、一般の土木・建設労働者や産業労働者であり、彼らは他の産業の生産的労働者と何の区別もないように見える。兵器の生産も一見すると物質的な生産活動であり、他の社会的な富を生産する労働と何の区別もないように思えるのである。

 

 しかしこうした労働は本源的には決して生産的なものとは言えないし、また価値を形成する労働とも言えないのである。確かに軍需産業の諸企業は、兵器を生産することによって利潤を上げており、その限りでは、資本家の立場からみれば、生産的ではある。しかし本源的には決してそうではないし、価値を形成しているわけではないのである。

 

 それは諸商品の価値とは何か、というもっとも根本的な問題から考えてみれば、明らかになる。商品の交換価値について、マルクスは、クーゲルマンへの手紙(1868.7.11付け)のなかで、次のように述べている。


 《どんな国民でも、1年はおろか、2、3週間でも労働を停止しようものなら、くたばってしまうことは、どんな子供でも知っています。どんな子供でも知っていると言えば、次のことにしてもそうです、すなわち、それぞれの欲望の量に応じる生産物の量には、社会的総労働のそれぞれ一定の量が必要だ、ということです。社会的労働をこのように一定の割合に配分することの必要性は、社会的生産の確定された形態によってなくなるものではなく、ただその現われ方を変えるだけのことというのも、自明のところです。自然の諸法則というのはなくすことができないものです。歴史的にさまざまな状態のなかで変わり得るものは、それらの法則が貫徹されていく形態だけなのです。そして社会的労働の連関が個々人の労働生産物の私的交換をその特微としているような社会状態で、この労働の一定の割合での配分が貫徹される形態こそが、これらの生産物の交換価値にほかならないのです。》(全集32巻454頁)

 

 つまり諸商品の価値というのは、社会の物質代謝を構成する私的な諸生産を社会的に関連づける法則(=価値法則)に基づくものなのだ。しかし兵器の生産は、決して社会の物質代謝の構成部分をなすわけではない。それは本源的には社会の浪費であり、寄生的要素なのである。だから兵器の生産が例え直接的には物質的であっても、本源的に不生産的であり、価値を形成するとは言えないのである。

 

  このように、何が本源的に生産的かどうかは、価値法則と不可分に関連しているのである。こうした問題も『資本論』をしっかり学ぶことから理解できるのである。是非、あなたも、一緒に『資本論』を読んでみませんか。

 


第23回「『資本論』を読む会」の報告

第23回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎散り際が潔くない桜

 

 軍歌の「同期の桜」を持ち出すまでもなく、桜花はその散り際の見事さが、昔からよく言われるのですが、今年の桜はぐずぐずと何時までたっても木々に残っています。

 

  会場の図書館の三階から見えるソメイヨシノも、すでに4月も半ばを過ぎているというのに、かなりのものが残って咲いていました。その健気な姿も称賛に値しないこともありません。

 

  ところで、私たちの読書会も、そろそろ“散り所”ではないかという噂がちらほら聞こえなくもないのですが、今年の桜と同様、しつこく続けようとしているかに見えます。窓際に見える残り花を横目に、今回は、比較的短時間に等価形態の最後まで終えました。その報告を“しつこく”しておきしょう。

 

◎最後に展開された等価形態の二つの特色とは?

 

 今回は、等価形態の第三の特色が終わったあとに続くもので、第13パラグラフから始まりました。いつものように、まずパラグラフ全文を紹介し、文節ごとに内容を確認して行きましょう。

 

【13】

 

 《 (イ)最後に展開された等価形態の二つの特色は、価値形態を他の多くの思考形態や社会形態や自然形態とともにはじめて分析したあの偉大な探究者にさかのぼってみれば、もっと理解しやすいものになる。 (ロ)その人は、アリストテレスである。》

 

 (イ)、(ロ)  ここで〈最後に展開された等価形態の二つの特色〉とは何かが問題になりました。これはいうまでもなく、等価形態の第二の特色(〈具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということ〉)と第三の特色(〈私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということ〉)のことを指すのだろう、ということが確認されました。そして、この二つの特色は、等価形態の第一の特色(〈使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということ〉)と較べてみると、共通しているのは、等価形態の特色が価値の実体である人間労働の次元にまで掘り下げて論じられているということです。だからそうした問題がアリストテレスの価値形態の分析を振り返ってみると〈もっと理解しやすいものになる〉ということではないかということです。

 

◎『経済学批判』におけるアリストテレスへの言及

 

 また今回問題になるアリストテレスについては、『経済学批判』でも言及されていることが指摘されました。そして学習会の一連の議論のなかでは、『批判』における一文も併せて検討されましたので、まず、『批判』の文章を紹介しておくことにしましょう。

 

 それは《労働時間が金と商品とのあいだの尺度であり、そして金はすべての商品が金で測られるかぎりでだけ価値の尺度となるものであるから、あたかも貨幣が諸商品を通約可能なものとするように見えるのは、流通過程のたんなる外見にすぎない〔*〕。むしろ対象化された労働時間としての諸商品の通約性こそが、金を貨幣とするのである。》という本文の中にある〔*〕印部分の注としてある、次のような一文です。

 

 《〔*〕アリストテレスは、たしかに商品の交換価値が商品価格の前提となっていることを見ぬいている。「……貨幣があるまえに交換があったことは、明らかである。なぜならば、五台の寝台が一軒の家と交換されようと、また五台の寝台の値うちにあたる貨幣と交換されようと、すこしも区別はないからだ。」他方、商品は価格においてはじめて互いに交換価値の形態をもつのであるから、彼は、商品は貨幣によって通約可能となると考えた。「すべてのものは価格をもたなければならない。なぜなら、そうしてこそともかくも交換がおこなわれ、したがって社会が存在するであろうからだ。貨幣はものさしと同様に、実際にものを通約可能〔ου´μμετρα〕にし、ついでそれらを互いに等置する。なぜなら、交換なしには社会はありえず、しかし同等性なしには交換はありえず、通約性なしには同等性はありえないからである。」彼は、貨幣で測られるこれらのいろいろなものが、まったく通約できない大きさであることを見おとしはしなかった。彼の求めたものは、交換価値としての諸商品の単一性であるが、古代ギリシア人である彼は、これを見いだすことができなかった。彼は、それ自体で通約できないものを、実践的な要求にとって必要なかぎりで貨幣によって通約できるものとすることによって、この困難からまぬがれた。「たしかにこのようにさまざまなものが通約できるということは、ほんとうはありえないことだが、けれども実践上の要求におうじてそれがおこなわれるのである。」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第五巻、第八章、ベッカー編、オックスフォード、一八三七年)》(全集13巻50-1頁)

 

 つまり『経済学批判』では、アリストテレスの主張は、貨幣があたかも諸商品を通約可能なものにするかのように見える、流通過程の外見に捕らわれた見解の一つとして紹介されているのです。だからアリストテレスの主張は、通約可能になる背景にある尺度としての労働時間を見ていない例として上げられているわけです。ところが『資本論』では、反対にアリストテレスの見解は、通約可能の中に質的同一性を見ている積極的な例として上げられており、ただその質的同一性が何であるかは歴史的制約のなかでアリストテレスには理解できなかったのだ、ということになっているわけです。

 

◎アリストテレスは単純な価値形態(交換価値)が貨幣形態(商品価格)の前提であることを見抜いている

 

【14】

 

 《 (イ)アリストテレスがまず第一に明言しているのは、商品の貨幣形態は、ただ、単純な価値形態のいっそう発展した姿、すなわちある商品の価値を任意の他の一商品で表現したもののいっそう発展した姿でしかないということである。 (ロ)というのは、彼は次のように言っているからである。

 

   (ハ) 「5台の寝台=1軒の家」

    ("Κλιναι πεντε αντι οικιαζ")

 

 ということは、

 

    「5台の寝台=これこれの額の貨幣」

    ("Κλιναι πεντε αντι...οσου αι πεντε κλιναι")

 

  というのと「違わない」と。》

 

 (イ)、(ロ)、(ハ)  ここでは、アリストテレスの〈言っている〉こととして、二つの等式が紹介されていますが、『経済学批判』では先に見たように、アリストテレス自身の言葉として、「・・・・貨幣があるまえに交換があったことは、明らかである。なぜならば、五台の寝台が一軒の家と交換されようと、また五台の寝台の値うちにあたる貨幣と交換されようと、すこしも区別はないからだ」という一文が紹介されています。

 

  アリストテレスが「5台の寝台=1軒の家」ということは「5台の寝台=これこれの貨幣」というのと「違わない」と述べているように、彼は商品の貨幣形態は、単純な価値形態のいっそう発展した姿だ、つまりある商品の価値を任意の他の一商品で表現したもののいっそう発展した姿でしかないと明言しているわけです。『経済学批判』でも〈アリストテレスは、たしかに商品の交換価値が商品価格の前提となっていることを見ぬいている〉とも指摘されています。つまり〈商品の交換価値〉、すなわち商品の単純な価値形態は、〈商品価格〉、すなわち商品の貨幣形態の〈前提〉であることを見抜いているというのです。

 

◎アリストテレスの論理

 

【15】

 

 《 (イ)彼は、さらに、この価値表現がひそんでいる価値関係はまた、家が寝台に質的に等置されることを条件とするということ、そして、これらの感覚的に違った諸物は、このような本質の同等性なしには、通約可能な量として互いに関係することはできないであろうということを見ぬいている。 (ロ)彼は言う、「交換は同等性なしにはありえないが、同等性はまた通約可能性なしにはありえない」("ουτ ισοτηζ μη ουσηζ συμμετριαζ")と。 (ハ)ところが、ここでにわかに彼は立ちどまって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう。 (ニ)「しかしこのように種類の違う諸物が通約可能だということ」すなわち、質的に等しいということは、「ほんとうは不可能なのだ」("τη μεν ουν αληθεια αδυνατον")と。 (ホ)このような等置は、ただ、諸物の真の性質には無縁なものでしかありえない、つまり、ただ「実際上の必要のための応急手段」でしかありえない、というのである〔24〕。》

 

 (イ) ここでは、マルクスはアリストテレスは、価値関係のなかに価値表現を見いだしており、そしてそのためには、家=寝台という質的等置を条件としていること、だから家や寝台といった感覚的に異なる諸物は、本質的な同質性を持たない限り、通約可能な量として互いに関係することはできないことを見抜いているのだと指摘されています。

 

  ところが、その実例として(ロ)で紹介されているアリストテレスの文章は、すでに見た『批判』の次の文章の一部(下線部分)です。

 

 「すべてのものは価格をもたなければならない。なぜなら、そうしてこそともかくも交換がおこなわれ、したがって社会が存在するであろうからだ。貨幣はものさしと同様に、実際にものを通約可能〔ου´μμετρα〕にし、ついでそれらを互いに等置する。なぜなら、交換なしには社会はありえず、しかし同等性なしには交換はありえず、通約性なしには同等性はありえないからである。」

 

 この一文に対して、マルクスは『批判』では、〈他方、商品は価格においてはじめて互いに交換価値の形態をもつのであるから、彼は、商品は貨幣によって通約可能となると考えた〉と指摘しており、その実例として紹介されているのです。つまりこれはアリストテレスの分析の不十分さ、間違いを指摘しているのです。そもそもすでに紹介したように、『批判』でのアリストテレスへの言及は、〈労働時間が金と商品とのあいだの尺度であり、そして金はすべての商品が金で測られるかぎりでだけ価値の尺度となるものであるから、あたかも貨幣が諸商品を通約可能なものとするように見えるのは、流通過程のたんなる外見にすぎない〔*〕。むしろ対象化された労働時間としての諸商品の通約性こそが、金を貨幣とするのである〉という本文中の〔*〕印部分の注として書かれており、アリストテレスの価値形態の分析は、〈あたかも貨幣が諸商品を通約可能なものとするように見える〉〈流通過程のたんなる外見〉に捕らわれた一例なのです。

 

  ところが『資本論』では、通約可能性のなかに〈本質の同等性〉を見抜いている、積極的な見解として紹介されているわけです。

 

  上記の『批判』に紹介されているアリストテレスの主張の論理を詳細に検討してみると、確かにそれは次のようになっていることが分かります。

 

  まずアリストテレスにとっては、社会の存続が第一の前提としてあり、そのためにはとにもかくにも交換が行われなければならないということがあります。そして交換が行われるためには、すべてのものは価格を持たなければならないというわけです。すべての物が価格をもつということは、貨幣で通約可能にされることであり、通約性なしに、同等性はなく、同等性なしには交換はない、と続いています。つまり交換の前提には貨幣によるすべてのものの通約性があり、通約性によってそれらははじめて同等性をもち、それによって交換が可能になるのだと考えているわけです。確かにこうしたアリストテレスの論理には転倒があります。なぜなら、これだと諸物は貨幣によって通約可能になり、それによってはじめて同等性を持ち、よって交換可能になるのですが、しかし、実際には、すべてのものが同等性を持っているから、貨幣によって通約可能になるのだからです。

 

  しかし、ではアリストテレスはこうした関係を見抜いていないのかというとそうではありません。というのは、よくみると、彼は貨幣を「ものさし」と「同様」だと考えているからです。さまざまな物を「ものさし」で計って互いに較べることができるのは、さまざまな物に「長さ」という質的な同等性があるからであり、だからこそ「ものさし」はさまざまな物を同じ質である長さという属性だけで、比較可能なものに、つまり通約可能なものにすることができるわけです。さまざまな物は「ものさし」によって初めて「長さ」を持つわけではなく、もともと「長さ」という共通の属性を持っているからこそ、「ものさし」でそれらが量的に比較可能な状態に置かれるわけです。アリストテレスはこうした「ものさし」とさまざまな物の通約可能性との関係を明確に掴んでいます。にも関わらず、アリストテレスが諸商品の交換のなかに転倒した関係しか見なかったのは、彼には貨幣によって通約可能になるすべてのものに共通な「本質の同等性」なるものを見いだすことはできなかったからなのです。だから--

 

 (ハ) 〈ここでにわかに彼は立ちどまって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう〉わけです。

 

 また(ニ)と(ホ)で紹介されているアリストテレスの一文も、やはり『批判』では次のように紹介されています。

 

 〈「たしかにこのようにさまざまなものが通約できるということは、ほんとうはありえないことだが、けれども実践上の要求におうじてそれがおこなわれるのである。」〉

 

 つまりアリストテレスには、(イ)で指摘されているように、感覚的に異なる諸物が貨幣によって通約可能になるためには、それらに〈本質の同等性〉がなければならないことは、見抜いているのですが、しかし諸商品に内在するそうした同等性を見いだすことができず、だからそれらを通約することも「ほんとうはありえない」のだが、ただ〈実践上の要求におうじてそれがおこなわれる〉だけだと考えたわけです。だから、アリストテレスの上記の文章は、流通過程の外見に捕らわれた主張であるかのような展開になっているわけです。

 

◎「価値概念」とは?

 

【16】

 

 《 (イ)つまり、アリストテレスは、彼のそれからさきの分析がどこで挫折したかを、すなわち、それは価値概念がなかったからだということを、自分でわれわれに語っているのである。 (ロ)この同等なもの、すなわち、寝台の価値表現のなかで家が寝台のために表わしている共通な実体は、なんであるか?  (ハ)そのようなものは「ほんとうは存在しえないのだ」とアリストテレスは言う。 (ニ)なぜか?  (ホ)家が寝台にたいして或る同等なものを表わしているのは、この両方のもの、寝台と家とのうちにある現実に同等なものを、家が表わしているかぎりでのことである。 (ヘ)そしてこの同等なものは――人間労働なのである。》

 

 (イ) アリストテレスには、価値概念が無かったことが、彼が価値形態の分析を先に進めることができなかった理由であることを、われわれに語っているわけです。

 

  ここで価値概念という言葉が出てきますが、これは何かということが議論になりました。これは初版本文にある次の一文が参考になると思います。

 

 《決定的に重要なことは、価値形態と価値実態と価値の大きさとの関係を発見するということ、すなわち、観念的に表現すれば、価値形態とは価値概念から発していることを論証することだったのである。》(国民文庫版77頁)

 

 つまり価値概念というのは、諸商品の価値はその商品に対象化され結晶した抽象的人間労働であるということ(価値実態)とその大きさかが商品に対象化された社会的に必要な労働時間によって規定される(価値の大きさ)ということです。

 

 (ロ)、(ハ) 寝台の価値を家によって表現されているなかでの共通の実態は、何か、ということに、アリストテレスはそんなものは本当は存在しないと言います。

 

 (ニ)、(ホ)、(ヘ) 家が寝台に対して表す同等なもの、両者に共通なものというのは、人間労働だからです。それがアリストテレスには分からなかったわけです。

 

◎「価値表現の秘密」とは?

 

【17】

 

 《 (イ)しかし、商品価値の形態では、すべての労働が同等な人間労働として、したがって同等と認められるものとして表現されているということを、アリストテレスは価値形態そのものから読みとることができなかったのであって、それは、ギリシアの社会が奴隷労働を基礎とし、したがって人間やその労働力の不等性を自然的基礎としていたからである。 (ロ)価値表現の秘密、すなわち人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。 (ハ)しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。 (ニ)アリストテレスの天才は、まさに、彼が諸商品の価値表現のうちに一つの同等性関係を発見しているということのうちに、光り輝いている。 (ホ)ただ、彼の生きていた社会の歴史的な限界が、ではこの同等性関係は「ほんとうは」なんであるのか、を彼が見つけだすことを妨げているだけである。》

 

  (イ) アリストテレスが商品の価値形態のなかに、共通の実態を見いだすことができなかったのは、ギリシアの社会が奴隷労働を基礎としていたからです。つまり人間や労働力の不平等を自然的基礎にしていたからです。

 

  (ロ) すべての人間が平等であり、同等であるという観念が民衆の先入見として強固になったときに、はじめて人間労働一般やすべての労働の同等性や同等な妥当性という、価値表現の秘密は解きあかされ、その謎が解明され得るのです。

 

 ここで「価値表現の秘密」という言葉が出てきますが、これは何かが問題になりました。そしてそれと関連して、そもそもこの(ロ)の一文はどのように解釈したらよいのかが問題になり、いろいろ議論した結果、最終的には、次のように理解すべきだろうということになりました。

 

  まずこの文章は、〈価値表現の秘密〉で一旦区切り、それを〈すなわち〉で受け、〈人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性は〉と続いています。だから〈価値表現の秘密〉というのは〈人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性〉ということだろうということになりました。そして、それが主語になっていて、〈人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである〉と続いていると解釈できるということになりました。

 

 (ハ) しかしすべての人間が平等であり、同等であるというような観念は、商品形態が労働生産物の一般的な形態になり、すべての人々が商品所有者として互いに人格として認め合う社会、つまり資本主義社会においてこそ、初めて可能なのです。

 

 (ニ) アリストテレスの天才は、彼が諸商品の価値表現のなかに一つの質的同等性を見いだしているところにあると言えます。

 

 (ホ) ただ彼が生きた奴隷制社会という歴史的な限界が、彼が諸商品の同等性を見いだすことを不可能にしたのであり、だから彼はそうしたものは「ほんとうは」あり得ないのだが、社会が存続する上での実践上における必要がそれを可能にしているのだと、便宜的に解釈したのです。

 

 さて、このアリストテレスの例は、等価形態の第二と第三の特色を理解しやすくするものと説明されているのですが、もう一つ第二の特色と第三の特色との関連が、よく分かりません。もちろん、人間労働一般としての同等性、同等な妥当性がこれらの特色に関連しているといえば言えますが、しかし第二の特色(〈具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということ〉)とや第三の特色(〈私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということ〉)のそれぞれの内容が、このアリストテレスの例を見たあと〈もっと理解しやすいものにな〉ったかというと、なかなかそのようには思えません。しかしそれは私だけかも知れません。

 

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 【付属資料】

 

  『経済学批判』からの紹介はすでに行ったので、ここでは省きます。

 

●【13】パラグラフに関連して

 

《初版付録》

 

 《ここで最後に述へた等価形態の二つの特性は、われわれがあの偉大な探究者までさかのぼってみるとき、さらにいっそう理解しやすくなる。その人は、価値形態をも、あのように多くの思考形態や社会形態や自然形態と同様に、はじめて分析し、しかもたいていは彼の現代の後継者たち以上にそれに成功しているのである。アリストテレスこそはまさにその人なのである。》(国民文庫版146頁)

 

《フランス語版》

 

 《最後に検討した等価形態の二つの特色は、価値形態や他のあれほど多くの諸形態--思惟形態であろうと社会形態であろうと自然形態であろうと--を最初に分析した偉大な思想家にまでさかのぼってみれば、さらにいっそう把握しやすくなる。その思想家はアリストテレスである。》(江夏他訳31頁)

 

●【14】

 

《初版付録》

 

 《アリストテレスがまず第一に明言しているのは、商品の貨幣形態は、ただ、単純な価値形態のいっそう発展した姿、すなわち、ある商品の価値をなんらかの任意の他の一商品で表現したもののいっそう発展した姿でしかないということである。なぜならば、彼は次のように言っているからである。

 

    〈5台の寝台=1軒の家〉

    ("Κλιναι πεντε αντι οικιαζ")

 

  というのは、

 

    〈5台の寝台=これこれの額の貨幣〉

    ("Κλιναι πεντε αντι...οσου αι πεντε κλιναι")

 

  というのと「違わない」と。》(前掲146頁)

 

《フランス語版》

 

 《アリストテレスはまず、商品の貨幣形態が、単純な価値形態の、すなわち、ある商品の価値をなんらかの他商品において表現したものの発展した姿にほかならない、ということをはっきり表現している。彼はこう言っているからである。

 

  「5台の寝台1軒の家〈Κλιναι πεντε αντι οικιαζ〉」

 

   「5台の寝台これこれの額の貨幣〈Κλιναι πεντε αντι...οσου αι πεντε κλιναι〉」

 

  と「ちがいがない」、と。》(前掲31頁)

 

●【15】

 

《初版付録》

 

 《彼は、さらに、この価値表現がひそんでいる価値関係はまた、家が寝台に質的に等置されることを条件とする、そして、これらの感覚的に違った諸物は、このような本質の同等性なしには通約可能な大きさとして互いに関係することはできないであろう、ということを見抜いている。彼は言う、「交換は同等性なしにはありえないが、同等性はまた通約可能性なしにはありえない」("ουτ ισοτηζ μη ουσηζ συμμετριαζ")と。ところが、ここでにわかに彼は立ちどまって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう。「しかし、このように種類の違う諸物が通約可能だということ」、すなわち、質的に同じだということは、「ほんとうは不可能なのだ」("τη μεν ουν αληθεια αδυνατον")と。このような等置は、ただ、諸物の真の性質には無縁なものでしかありえない、つまり、ただ「実際上の必要のための応急手段」でしかありえない、というのである。》(前掲146-7頁)

 

《フランス語版》

 

 《彼はさらに次のことを理解している。すなわち、この価値表現を含んでいる価値関係ののほうでも、家が質の観点からは寝台に等しいと宣言されていること、また、感覚的に異なったこれらの物体は、このような本質の同等性がなければ通約可能な量として相互に比較できないことを前提しているのである、と。彼は言う。「交換は同等性なしには生じえず、同等性も通約可能性なしには生じえない」〈ουτ ισοτηζ μη ουσηζ συμμετριαζ〉、と。ところが彼はここで価値形態の分析をためらって断念する。彼はつけ加えて言う。「これほどにちがった物が相互に通約可能であること」、すなわち、質的に等しいということは「実際は不可能であるくτη μεν ουν αληθεια αδυνατον〉」。これらの物の同等性を肯定することは、これらの物の本性に反することでしかありえない、「人は実際上の必要のためにこの同等性を頼りにしているだけである」、と。》(前掲31頁)

 

●【16】

 

《初版付録》

 

 《つまり、アリストテレスは、彼のそれからさきの分析がどこで挫折したかを、すなわち、それは価値概念が欠けていたからだということを、自分でわれわれに語っているのである。この同等なもの、すなわち、寝台の価値表現において家が寝台のために表わしている共通の実体とは、なになのだろうか? そのようなものは「ほんとうは存在しえないのだ」とアリストテレスは言う。なぜか? 家が寝台にたいしてある同等なものを表わしているのは、この両方のもの、寝台と家とのうちにある現実に同等なものを、家が表わしているかぎりでのことである。そして、この同等なものは――人間労働なのである。》(前掲147頁)

 

《フランス語版》

 

 《したがって、アリストテレス自身、自分の分析がどこで座礁したか--価価値概念の不充分さで座礁したか--を、われわれに語ってくれている。「なんだかわからない」同等のもの、すなわち、寝台の価値表現のなかで家が寝台にたいして表わしている共通な実体とは、なにか? 「そんな物は実際にはありえない」、とアリストテレスは言う。どうしてなのだ? 家が寝台にたいして同等なあるものを表わすのは、家が、この双方のなかにある現実に同等のものを表わすかぎりでのことなのだ。この現実に同等のものとは、いったいなにか? 人間労働である。》(前掲31-32頁)

 

●【17】

 

《初版付録》

 

 《しかし、諸商品価値の形態においてはすべての労働が同等な人間労働として、したがって同等と認められるものとして、表現されているということを、アリストテレスは諸商品の価値形態から読み取ることができなかったのであって、それは、ギリシアの社会が奴隷労働にもとづいており、したがって人間および彼らの労働の不等性自然的基礎としていたからである。価値表現の秘密、すなわち、人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりにおいての、すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。しかし、そういうことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた諸商品所有者としての人間たち相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。アリストテレスの天才は、まさに、彼が諸商品の価値表現のうちに一つの同等性関係を発見しているということのうちに、光り輝いている。ただ、彼の生きていた社会の歴史的な限界が、ではこの同等性関係は「ほんとうは」なんであるのか、を彼が見つけだすことを妨げているだけである。》(前掲148頁)

 

《フランス語版》

 

 《アリストテレスは、商品の価値形態のうちに、すべての労働がそこでは無差別な、したがって同等な人間労働として表現されていることを、読みとれなかったが、彼をそうさせたのは、ギリシアの社会が奴隷労働にもとついており、人間やその労働力の不等性を自然的基礎にしていたからである。価値表現の秘密、すなわち、すぺての労働は、それが人間労働であるがためにまたそうであるかぎり同等であり等価である、ということを解読することができるのは、ただ、人間の平等という概念がすでに民衆の先入観念として破りがたく堅固になったときだけである。ところが、このことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態になった社会、したがって、商品生産者や商品交換者としての人間相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会で、はじめて生ずるのである。アリストテレスの天才を示すもの、それは、彼が商品の価値表現のうちに同等性の関係を発見したことである。ただ、彼の生活していた社会が特殊な状態であるために、この関係の真の内容がなんであるかを見出すことが妨げられていたのである。》(前掲32頁)

 


第24回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

 

 

 アイスランド火山噴火による欧州連合(EU)の航空網の混乱は、なんとか収束に向かいつつあるようだが、改めて今日における航空運輸機関の重要性を私たちに再認識させるものとなった。

 

 

 EUの執行機関、欧州委員会は、今回の火山灰飛散による航空業界の損失が、欧州全体で総額15億~25億ユーロ(約1900億~3100億円)にのぼると推計、10万便以上が欠航し、1000万人以上の旅行者が滞在先で足止めされたという。

 

 

 遠くヨーロッパの空の話とはいえ、欧州との空の物流網の停止は、日本の産業界にもさまざまな影響を与えた。

 

  例えば、欧州向けの半導体用感光性樹脂、液晶テレビ用偏光フィルムの出荷停止(住友化学)、福岡、神奈川県の2工場の操業を停止(日産自動車)、欧州向けノートパソコンの出荷停止(富士通)、15~19日までに団体ツアー客1914人がキャンセル(JTB)、全70店でノルウェー産生サーモンを冷凍物に変更(回転すし「すし銚子丸」)、オランダ産のアマリリスやヒヤシンスの切り花の出荷停止(大田花き)等々という具合である。

 

 ところで航空機や鉄道・バス、船舶など運輸・交通機関は経済学的にはどのように考えたらよいのであろうか。これらは人や物を運送するものの、他の産業部門のように、物質的な生産物を生み出しているようには思えない。それらは果たして物質的な生産部門と考えるべきなのかどうかである。

 

 マルクスは交通・運輸機関を「社会的生産過程の一般的な条件」(『資本論』第1部全集23a501頁)だとする一方、生産された使用価値は、ただその消費によってのみ実現されるが、そのためには消費されるまでの場所変換が必要になる。だからこの場所変換を行う運輸業は「追加的生産過程」(第2部全集版183頁)なのだとも規定している。また次のようにも述べている。

 

 〈輸送業が販売するものは、場所の変更そのものである。生み出される有用効果は、輸送過程すなわち輸送業の生産過程と不可分に結び付けられている。人間と商品は輸送手段と一緒に旅をする。そして、輸送手段の旅、輸送手段の場所的運動が、まさに輸送手段の作用によって生じた生産過程である。その有用効果は、生産過程の期間中にのみ消費されうる。その有用効果は、この過程とは異なる使用物--すなわち、その生産後にはじめて取り引き物品として機能し、商品として流通する使用物--としては存在しない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じく、その有用効果〔の生産〕に消費された生産諸要素(労働力および生産諸手段)の価値、プラス、輸送業に就業している労働者たちの剰余労働が創造した剰余価値、によって規定されている。この有用効果は、その消費とともに消え失せる。それが生産的に消費されるならば、したがって、それ自身が輸送中の商品の一生産段階であるならば、その価値は、追加価値としてその商品そのものに移転される。〉(『資本論』第2部全集版69頁)

 

 だから運輸業は他の物質的生産部門と同じ一部門を構成するのであり、他の生産部門と同様に価値を生産しているのである。

 

 このように『資本論』はその時々に起こるさまざまな問題を理論的・科学的に考える指針を与えてくれる。あなたも、是非、一緒に『資本論』を読んでみませんか。

 


第24回「『資本論』を読む会」の報告

第24回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎まぶしい新緑

 

 第24回「『資本論』を読む会」が開催された16日は、さわやかな五月晴れに恵まれ、会場の堺市立南図書館の3階の窓から見る新緑は色鮮やかでした。

 

  この図書館は、大阪の南の丘陵に位置する広大な泉北ニュータウンの中心駅ともいうべき泉が丘駅のすぐに近くにあります。交通の便のよいところにある図書館ですが、その裏には開発される以前の小高い山が一部そのまま残っており、それが教室の窓から一望できます。一言で新緑と言っても、その色合いは千差万別であり、とても言語に尽くすことはできません。ショッキンググリーンとでも表現するしかないようなものもあれば、茶褐色に近い濃緑色をまるでフリルのようにクリーム色で縁取ったものもあったりします。いくら眺めても見飽きることはありません。

 

  窓からの風景をながながと書いたのは、ピースさんが少し開始時間に遅れてきたので、その間、窓から外を眺める時間がたっぷりとれたからです。今回から、新しい項目「4 単純な価値形態の全体」に入りましたが、色々と意見が出たためか、進んだのは、なんと、たったの二つのパラグラフだけでした。しかしその議論は充実しており、報告の内容も決して見劣りするものではありません。それでは、さっそく、その報告に移りましょう。

 

◎「4 単純な価値形態の全体」について

 

 まず、最初に、ピースさんから、今回から始める新しい項目について、簡単にそれまでの等価形態までの展開との関連などが説明され、亀仙人からも一定の補足がありました。この項目の位置づけとして、次のような確認がされたといえます。

 

 まず、この〈単純な価値形態の全体〉というのは、これまで〈A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態〉として、〈x量の商品A=y量の商品B または、x量の商品Aはy量の商品Bに値する。(20エレのリンネル=1着の上着 または、二〇エレのリンネルは一着の上着に値する)〉という等式を例に上げ、まず〈一 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態〉で、〈単純な価値形態〉には、相対的価値形態と等価形態が価値表現の両極として含まれていることが確認され、そのあと〈二 相対的価値形態〉と〈三 等価形態〉とにわけて、それぞれを個別に考察してきたわけです。

 

  だから今回の新しい項目である〈単純な価値形態の全体〉というのは、それまで個別に考察してきたそれぞれのもの(相対的価値形態と等価形態)を総合して、全体として考察するということです。だからこの項目は〈A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態〉の最後に位置しているわけです。

 

  だからまた、この「4 単純な価値形態の全体」は、項目「A」で考察された「単純な価値形態」を一つの自立した主体として捉えかえし、その直接的な考察(【1】パラグラフ)、学説史的考察(【2】パラグラフ)、総括的な考察(【3】パラグラフ)、歴史的な考察(【4】パラグラフ)、そして歴史的考察から不可避に生じる、次の発展(「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」(【5】~【7】パラグラフ)が論じられることになるわけです。

 

 こうした確認と見通しのもとに、第1パラグラフから具体的に検討を開始しました。

 

◎「単純な価値形態の全体」の直接的な考察

 

 今回も、これまでの通り、最初に『資本論』の本文を紹介し、それを文節ごとに検討していくという形で紹介したいと思います。また関連する資料は【付属資料】として、一番最後に別途まとめて紹介することにします。では最初は、第1パラグラフの本文です。

 

【1】

 

 〈 (イ)一商品の単純な価値形態は、種類を異にする一商品に対するその商品の価値関係のうちに、あるいはそれとの交換関係のうちに、含まれている。 (ロ)商品Aの価値は、質的には、商品Bの商品Aとの直接的交換可能性によって表現される。 (ハ)それは、量的には、一定量の商品Bの、与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現される。 (ニ)言いかえれば、一商品の価値は、「交換価値」としてのそれの表示によって、独立に表現されている。 (ホ)この章のはじめでは、普通の流儀にしたがって、商品は使用価値および交換価値であると言ったが、これは、厳密に言えば、誤りであった。 (ヘ)商品は、使用価値または使用対象、および「価値」である。 (ト)商品は、その価値がその現物形態とは異なる一つの独特な現象形態、交換価値という現象形態をとるやいなや、あるがままのこのような二重物として自己を表すが、商品は、孤立的に考察されたのではこの形態を決してとらず、つねにただ、第二の、種類を異にする商品との価値関係または交換関係の中でのみ、この形態をとるのである。 (チ)もっとも、このことを心得ておきさえすれば、先の言い方も有害ではなく、簡約に役立つ。〉

 

 このパラグラフでは、「単純な価値形態の全体」の直接的な考察が行われます。ここではわれわれは最初の「単純な価値形態」の直接的な表象に戻ります。しかし「A」の最初にわれわれに与えられた直接的な表象は、まだその内的構造はまったくわれわれには分からないものでしたが、今では、われわれはその内的な構造を詳しく分析して辿ってきた結果、それらは論理的に透けて見えています。つまり「単純な価値形態の全体」の論理的な構造が透けて見えているような、「全体」としての最初の直接的な表象にもどっているわけです。だから直接的な考察といっても、その内部構造が何も分からない状態のものとは異なり、それらが透けて見えている状態での考察なのです。だから直接的なものが、その内的なものとどのように関連し合い、内的なものがどのようにして自らを発現して直接的なものとして現われているのかというように、直接的なものとそれがそのようなものとして発現してきた内的なものとの論理的・必然的な関連において、再び全体としての直接的なものを説明するというような考察になるわけです。まず、このような観点を踏まえて、このパラグラフを各文節ごとに詳しく検討して行くことにしましょう。

 

 (イ) われわれが、これまで考察してきたように、一つの商品の単純な価値形態は、別の種類の一商品に対する、その商品の価値関係のうちに、あるいは交換関係のうちに、含まれていました。

 

 さて、ここに「価値関係」と「交換関係」という言葉が出てきます。この二つは同じと考えてよいのか、違うならどのように違うのか、ということが問題になりました。

 

  まず「交換関係」については、第1節の価値の分析の最初のあたりで次のように出てきました。

 

 〈さらに、二つの商品、たとえば小麦と鉄とをとってみよう。それらの交換関係がどうであろうと、この関係は、つねに、与えられた量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わすことができる。たとえば 1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄 というように。この等式はなにを意味しているのか? 同じ大きさの一つの共通物が、二つの違った物のうちに、すなわち一クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、存在するということである。〉(下線は引用者)

 

 だから交換関係というのは、価値と使用価値の統一物である商品が互いに交換される関係、あるいは割合を意味します。それらが交換されるということは、二つの商品の、価値が量的に等しいだけでなく、使用価値が異なるからであり(同じであれば交換する意味がありません)、だから交換関係という場合は、商品を価値とともに使用価値において見ていることが分かります。

 

 次に「価値関係」ですが、これは初版付録の相対的価値形態の考察の小項目をみると分かります。

 

 〈(2)相対的価値形態

 

   a 同等性関係

 

    b 価値関係  〉

 

 先の第1節からの引用文では、二つの商品の交換関係のなかに、同等性の関係を見ていました。つまり引用文の例でいうと、「小麦=鉄」の関係がそこにあるわけです。この二つの異なる使用価値が同じものであるのは、それらのなかに同じものがあるからです。そしてその同じものというのがすなわち価値なのです。つまり両者は価値であるかぎりにおいて同じなのです。だから小麦が自分と同じものとしての鉄に関係するということ、あるいは、鉄が同じ実体を持つものとして小麦に等置されるということは、鉄がこの関係において価値として認められている、ということを表現しているわけです。鉄は小麦に等置されますが、それもやはり小麦が価値であるかぎりにおいてのことです。だから、二商品の同等性関係というのは、「価値関係」なのだ、と初版付録では書いています。

 

  だから「交換関係」というのは、二商品が互いに交換される関係や割合のことですが、二つの使用価値が異なる商品が交換されるということは、それらの異なる商品が互いに等しい関係を持っているということ、「同等性関係」にあるということです。そして二つの商品が同等であるというのは、それらが価値である限りにおいて言えることです。だから二つの商品の「同等性関係」とは「価値関係」なのです。だから「価値関係」というのは、「交換関係」におかれた二つの商品が、価値という一面においては互いに等しいのだと関係しあうものだということができます。そしてこの「価値関係」のなかに一つの商品の「価値表現」が潜んでいたわけです。ただし、二商品の共通な価値属性が、それらを互いに価値関係のなかに置くのであって、二商品の交換関係、あるいは価値関係が、両者に共通な価値属性を持たせるのではないということが肝心です。

 

  そして少し先走って論じるなら、この社会を労働によって支える生産者たちが彼らの労働によってとり結ぶ彼らの社会的関係が、これらの物の、すなわち諸労働生産物の、「価値関係」として現われているということです。だから「価値関係」は、その背後に隠されている一つの社会的な関係の現象形態でしかないということです。

 

 (ロ) 次は単純な価値形態の全体を、質的な面と量的な面から考察します。まず質的な面では、商品Aの価値は、商品Bの商品Aとの直接的な交換可能性によって表現されています。つまり価値関係の内実は、商品Aの価値が商品Bに対して、商品Bは自分と直接交換可能だと一方的に宣言し働きかけることによって表されているわけです。

 

 (ハ) 次は量的な側面です。商品Aの価値の大きさは、一定量の商品Bが、ある与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現されています。つまり商品Bの一定の使用価値量によって表されています。

 

 ここで量的な考察では質的な場合とは異なり、「交換可能性」が言われるだけで、「直接的交換可能性」とはなっていないのはどうしてなのかという疑問が出されました。それは「直接的」に交換可能かどうかという問題は量の問題ではなく、等価形態の質の問題だからではないか、という意見が出されました。実際、「3 等価形態」の第1パラグラフでは等価形態の質的な考察がなされていましたが、そこでは〈したがって、一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態である〉と言われていたのでした。それに対して、等価形態の量的考察が行われている第2・3パラグラフでは、そうした文言は出てきません。つまり量的には、そうした直接交換可能性という質的なものを前提して論じられているから、ただ「交換可能性」でよいのではないかというのです。

 

  もちろん、これはこれでよいのですが、もう少し内容に踏み込んで考えてみましょう。

 

  「直接的交換可能性」の「直接的」とはどういうことかを考えてみましょう。これは文字通り「直接」に交換可能ということです。商品はそのままでは決して直接には交換可能ではありません。というのは商品の直接的な存在はその自然形態であり、使用価値だからです。使用価値の場合は、偶然、交換相手がそれを必要としていた場合は交換可能ですが、そうでなければ、使用価値のままでは直接には交換できません。だから商品は交換可能となるためには、一旦、直接に交換可能なもの(貨幣)に転換する必要があるのです。

 

  つまり等価物が直接に交換可能なのは、等価物の使用価値そのもの、その自然形態が価値そのものに、価値が具体的な形態をとって現われたものとして通用しているかにほかなりません。だから等価物の場合は、価値の具体物として認められるその使用価値のままで、それこそ「直接」に交換可能なのです。それ自体が価値そのものですから、あらゆる商品の価値に等置されうるからです。しかもここで商品Bが商品Aに対して直接的交換可能性を持っているというのは、商品Bの使用価値が商品Aの価値が具体的な形で現われたものだからなのです。つまり商品Bの使用価値によって商品Aの価値が表されているからなのです。だからマルクスはここで〈商品Aの価値は、質的には、商品Bの商品Aとの直接的交換可能性によって表現される〉と述べているのだと思います。ここで〈質的には〉と述べているのは、ここでは商品Aの価値の量ではなく、価値そのものが如何に表現されるかということだけが問題になっているからです。

 

  それに対して、量的には商品Aと商品Bが交換されるということは、商品Aの価値の大きさと商品Bの価値の大きさが同じであるからにほかなりません。この両方の価値の大きさというのはいずれも両方の商品に内在的なものであって、だからここでは直接性は何も問題にはならないのです。ただ商品Aの価値の大きさは、それと交換される商品Bの使用価値の量(例えば上着ならその1着、2着というその使用価値量)によって表現されているのです。だから商品Aの価値量は、ある与えられた内在的な量なのですが(だからそれは当然目に見えません)、それはそれと交換可能な商品Bの使用価値量によって目に見える形で表現されているのです。だからマルクスは(商品Aの価値は)量的には、一定量の商品Bの、与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現される〉と述べているのだと思います。つまり商品Aの価値は量的には、商品Bの使用価値の一定量との交換されるということによって、その価値量そのものは表現されているので、「直接的」かどうかはここでは問われていないわけです。「直接的」というのはあくまでも交換可能性の「質的」側面ということができます。

 

 (ニ)  一商品の価値が質的にも量的にも、どのように表現されているかを確認して言えることは、一商品の価値は、「交換価値」として表示されることによって、初めて独立に表現されているのだということです。そもそも私たちは第1節で商品の価値を探るために、次のように考察を開始しました。

 

 〈交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として現われる。

 

 これが交換価値をもっとも直接的に表象として捉えたものでした。さらに私たちの分析は次のように進みました。

 

 〈ある一つの商品、たとえば1クォーターの小麦は、x量の靴墨とか、y量の絹とか、z量の金とか、要するにいろいろに違った割合の諸商品と交換される。だから、小麦は、さまざまな交換価値をもっているのであって、ただ一つの交換価値をもっているのではない。

 

 だからこうしたさまざまな交換価値こそ、1クォーターの小麦の価値を表すものだったのです。だからこの第1節でも、次のような考察がなされていました。

 

 〈およそ交換価値は、ただ、それとは区別されるある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない〉。

 

 そして今では私たちは、こうしたことは、「ある内実」、つまり「価値」の表現様式であり、現象形態であることをすでに知っているわけです。

 

  つまり20エレのリンネルの価値は、それと直接に交換可能である別の商品、上着1着によって表されているわけです。上着1着というのは、20エレのリンネルの「交換価値」なのです。それは20エレのリンネルの価値が、リンネル自身とは区別されて、上着1着として独立して表現されているものなのです。

 

 ここで〈独立に〉というのは、どういうことかが問題になりましたが、すでに上記の説明でお分かりだと思います。すなわち一商品の価値は、その商品のなかに使用価値と統一された形で内在的に存在しています。だからその限りでは価値そのものは、独立した定在はないわけです。しかし交換価値はそうした内在的な価値が、その商品の使用価値とは区別された形で、すなわち〈独立に〉、別の異種の商品の姿を借りて存在し、表されていることなのです。

 

 (ホ) この章のはじめでは、普通の流儀にしたがって、商品は使用価値および交換価値であると言いましたが、これは厳密にいうと間違いでした。

 

 ここで「この章のはじめ」というのは、どこを指しているのか、ということが問題になりました。「この章」というのは、当然「第1章 商品」を指しています。では「商品は使用価値および交換価値である」という文言は、どこで言われたのでしょうか。それは第2節の冒頭の次の一文を指すのではないかと思われます。

 

 〈最初から商品はわれわれにたいして二面的なものとして、使用価値および交換価値として、現われた

 

 また『経済学批判』では、「第1章 商品」の冒頭のパラグラフに次のように出てきます。

 

 〈一見したところでは、ブルジョア的富は一つの巨大な商品の集まりとして現われ、一つ一つの商品はその富の基本的定在として現われる。ところがそれぞれの商品は、使用価値と交換価値という二重の観点のもとに自己をあらわしている。〉(国民文庫版23頁)

 

 しかしこうした言い方は厳密にいうと間違いだったというのです。

 

 (ヘ) というのは、厳密にいうと、商品は使用価値または使用対象であるとともに「価値」であるというべきだからです。

 

 初版付録の「価値形態」では、冒頭、次のように言われています。

 

 〈商品の分析は、商品は一つの二重物、使用価値にして価値である、ということを示した。〉(国民文庫版128頁)

 

 また『資本論』の第3節の冒頭でも次のように言われていました。

 

 〈それらが商品であるのは、ただ、それらが二重なものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからである。

 

 (ト) 商品はそれを孤立的に見ているだけでは、こうした二重物として見えません。というのは商品の直接目に見えるものはその現物形態であり、価値は目に見えないからです。だから商品の価値が、商品自身の現物形態と異なる別の現物形態として現われて、初めて商品は二重物として見えることになります。その商品の価値が目に見える現物形態をとったものが、すなわち「交換価値」なのです。だから商品は、こうした二重物として現われるためには、常に、第二の種類を異にする商品との価値関係または交換関係のなかに置かれる必要があるのです。

 

 第3節の最初でも次のように言われていました。

 

 〈商品は、ただそれが二重形態、すなわち現物形態と価値形態とをもつかぎりでのみ、商品として現われるのであり、言いかえれば商品という形態をもつのである。

 

 だからこうした商品の二重形態は、常に別の商品との価値関係または交換関係をとることによって示されるわけです。

 

 (チ) もっとも、こうしたことを心得ておけば、先の言い方、つまり「商品は使用価値および交換価値である」という言い方も、有害ではなく、簡約に役立つでしょう。

 

 先の第2節冒頭の一文や『経済学批判』の冒頭の一文をみると、「われわれにたいして・・・・現われた」とか「自己をあらわしている」というようになっていて、厳密には、必ずしも「商品は使用価値および交換価値である」という文言になっているわけではありません。つまりそれだけ慎重に書かれているわけです。しかし例え「現われた」とか「現わしている」といっても、一つの商品を孤立的に見ている限りでは、そうした二重物としては「現われない」わけで、その意味では、二つの言い方もやはり厳密にいうと正しいとはいえません。しかし常に商品が二つの商品の関係のなかで二重物として現われるということが分かっているなら、こうした言い方も意味があるといえるわけです。リンネルの交換価値は、確かにリンネルとは異なる別の商品、上着の現物形態の一定量として表されますが、しかしそれもリンネル自身の価値の形態であることに違いはないのですから、だからこういう意味で、商品は使用価値および交換価値であるといえるわけです。

 

◎学説史的考察

 

 次は第2パラグラフです。ただし注も一緒に検討します。またこのパラグラフで出てくる幾つかの経済学者やそれに関連する用語については、それぞれ『資本論辞典』などの説明を付属資料として紹介しますので、詳しくはそれらを参照するようにしてください。

 

 【2】

 

  〈( イ)われわれの分析が証明したように、商品の価値形態または価値表現が商品価値の性質から生じるのであり、逆に、価値および価値の大きさが交換価値としてのそれらの表現様式から生じるのではない。 (ロ)ところが、この逆の考え方が、重商主義者たち、およびその近代的な蒸しかえし屋であるフェリエ、ガニルなど(22)の妄想であると共に、彼らとは正反対の論者である近代自由貿易外交員、たとえばバスティアとその一派の妄想でもある。 (ハ)重商主義者たちは、価値表現の質的な側面に、したがって貨幣をその完成姿態とする等価形態に重きをおき、これに対して、自分の商品をどんな価格ででもたたき売らなければならない近代自由貿易行商人たちは、相対的価値形態の量的側面に重きをおく。 (ニ)その結果、彼らにとっては、商品の価値も価値の大きさも交換関係による表現のうち以外には存在せず、したがって、ただ日々の物価表のうちにのみ存在する。 (ホ)スコットランド人マクラウドは、ロンバード街〔ロンドンの金融街〕の混乱をきわめた諸表現をできる限り学問的に飾り立てるという彼の職能において、迷信的な重商主義者たちと啓蒙された自由貿易行商人たちとの見事な総合をなしている。

 (22) 第2版への注。F・L・A・フェリエ(“関税副検査官 sous-inspecteur des douanes ”)『商業との関係から見た政府について』、パリ、一八〇五年、および、シャルル・ガニル『経済学の諸体系について』、第二版、パリ、一八二一年。〉

 

 このパラグラフは初版本文や初版付録にはありません。第2版で初めて登場したものです(実際には、第2版の準備のために書かれた『補足と改訂』で初めて出てきます)。第2版で初めて登場する事情を、山内清氏は次のように述べています。

 

 〈初版発行後に、マルクスは、ユーリウス・ファウハーが彼の発行する『国民経済・文化史四季報』第20巻に、匿名者のマルクスをバスティア追随者にみたてた書評をのせているのに出くわした。英国でそれをクーゲルマンから受取ったマルクスは、クーゲルマンに次のような手紙を出している。「ファウハーには同意の手紙をやらないで下さい。そうでないと、この小便小僧は自分をあまりにもえらく思いすぎるでしょう。彼が到達したところは、第2版が出るころにでもなれば私が価値の大きさに関する適当な箇所でバスティアに二つ三つ痛棒をくらわすだろう、ということに尽きています。」(1868.7.11付)。またマルクスは、同日付のエンゲルスあての手紙でもこの点に言及し、バスティア流の価値論が全くの俗流的な労働節約説にあることを指摘している。「さらにまたドイツのバスティア追随者たちは知らないことだが--商品の価値を規定する労働は、その商品に費やされる労働ではなくて、その商品が買い手のために省いてやる労働だ、というこの惨めな言い方(交換と労働との関連についてとりとめのないことを言う子供くさい文句)は、そのほかの、彼の葡萄酒販売買的な諸範疇のどれか一つと同様に、バスティアの発明品ではないのだ。」

 

  さらにマルクスは、1868年の『私のF・バスティア剽窃』という論文で逆にバスティアの剽窃を暴露し、そしてここで決定的な痛棒を加えたのである。〉(『資本論商品章詳注』87-8頁)。

 

 マルクスが、このパラグラフを加えた背景に、こうした事情があったことはそのとおりかも知れません。しかしこのパラグラフの内容を検討すると、確かにバスティアにも言及していますが、しかしそれだけが問題になっているわけではなく、バスティアに「痛棒をくらわす」ことが中心になっているようにも思われないのです。  それよりも私たちはより重要な事実に気づきます。つまりこの「4 単純な価値形態の全体」という項目そのものが、初版本文や同付録にはないものなのです。例えば初版付録では、〈γ 等価形態の第三の特性私的労働がその反対物たる直接的に社会的な形態における労働になる〉のあとに続くものは、〈δ 等価形態の第四の特性商品形態の呪物崇拝は等価形態においては相対的価値形態におけるよりもいっそう顕著である〉という、第2版では「第4節 商品の物神的性格とその秘密」に移されたと思えるような内容の項目が続き、そのあと第2版の「単純な価値形態の全体」と内容的に一致するものが(四)~(九)の6つの項目にわけて論じられているだけなのです。

 

  つまり単純な価値形態における価値表現の両極である相対的価値形態と等価形態が、それぞれ個別に考察されたあとに、それらが総合されて、再度、「単純な価値形態の全体」が捉え返されるというような構成は、第2版で初めて採用されたものなのです(もちろん、実際には、『補足と改訂』ですでにこの項目は見られます)。だから「単純な価値形態の全体」が自立した主体としてあらためて捉え返される項目が新たに設定されることによって、初めてその学説史的な考察も本文のなかに挿入されるようになったと考える方が、このパラグラフが第2版で初めて挿入された理由として、より適切ではないかと思います。バスティアへの「痛棒」はむしろその“ついで”といえるのではないでしょうか。

 

  とりあえず、そうしたことを確認して、このパラグラフの内容を文節ごとに検討して行きましょう。

 

 (イ) 私たちの、これまでの価値形態の分析で明らかになったように、商品の価値形態または価値表現は、商品の価値の本性から生じるのであって、逆に、価値やその大きさが、交換価値としてのそれらの表現様式から生じるのではありません。

 

 以前にも紹介しましたが、マルクスは初版本文のなかで次のように述べています。

 

 〈しかし、決定的に重要なことは、価値形態と価値実体と価値の大きさとの関係を発見するということ、すなわち観念的に表現すれば、価値形態は価値概念から発していることを論証するということだったのである〉(国民文庫版77頁)

 

 つまりこれまでの価値形態の分析が明らかにしてきたのは、価値形態は価値概念から発しているということ、価値形態は内在的な価値が現象したものであることを論証してきたわけです。だから当然、価値やその大きさが、現象形態である交換価値から生じるなどという考えは転倒以外の何物でもないのですが、しかしブルジョア経済学者たちはこの現象に固執するわけです。

 

    (ロ) しかし、こうした現象としての交換価値にしがみつく逆転した考え方が、かつての重商主義者たちや、その近代的な蒸し返し屋であるフェリエ、ガニルなどの妄想であり、さらに彼らの保護貿易主義とは正反対の論者である近代自由貿易外交員、例えばバスティアとその一派の妄想でもあるのです。

 

    ここでは「重商主義」という用語が出てきますが、『資本論辞典』は次のように説明しています。

 

 【ー般に重商主義とは.16~18世紀にわたる資本の〈本源的蓄積〉の時期にあらわれた経済政策および経済理論書の総称である。・・・・重商主義政策の基本的主体は絶対主義的形態をもつ国家であり,それは〈商人資本〉の運動に支援されながらいわゆる本源的蓄積のための諸政策を暴力的に遂行する。この時期には,すでに大市場の形成がなされており,〈世界市場〉が発生し,商業資本はみずから生産に関与して小生産者を駆逐するにいたり,一方種々なる形の〈マニュファクチァ〉が発生した.国家は,貿易差額を大ならしめ国内の貨幣を増加させるために,輸出産業を奨励・統制し.労働日の延長と労賃の固定化を目的とする労働立法を制定した。・・・・だが重商主義が,商業資本の運動において自立化した流通過程の表面的現象から出発して,それゆえに経済上の仮象のみをとりあげたことは,己の学説の根本的限界をなしている・・・・たとえば,剰余価値を剰余貨幣,つまり貿易差額の過剰分で表示したり.貨幣をそのまま資本だとみたりしたのは,そうした誤りにもとづいている。それゆえに重商主義的学説は,価値のうちにただ社会的形態の実体なき仮象のみをみたり貨幣や資本の形態規定性をそのまま一面的に説明することによって,ブルジョア社会の外面的特徴を端的につかみだすことに成坊したとはいえ,そうした現象の背後にひそむ本質的生産諸関係を洞察するまでには至らなかったのであり,そのために〈古典派経済学〉からの批判を受けることになるのである。】(石垣博美)(資本論辞典238-9頁)

 

 こうした重商主義者に対して、その〈近代的な蒸し返し屋〉といわれている、フェリエやガニルは、第一次フランス帝政の時代に帝政を擁護し、また帝政の公職について、ボナパルトの貿易禁止制度の賛美者であったと言われています。古典派経済学は価値形態に注意を払わなかったとマルクスは指摘していますが(後述参照)、彼らは逆に諸商品の価値とその大きさを、交換価値、あるいは価値形態から説明したのです。

 

  これに対して、彼らの保護貿易主義とは正反対の自由貿易主義の立場に立つバスティアは〈価値は交換されたサーヴィスの比例である〉とし、商品の価値も価値の大きさも交換関係による表現のうち以外には存在しない立場をとったと言われています(以上、付属資料参照)

 

 また先に紹介した初版本文の注24でマルクスは次のように書いています。

 

 〈(24) 古典派経済学の根本欠陥の一つは、商品の、またいっそう特殊には商品価値の、分析から、価値をまさに交換価値となすところの価値の形態を見つけ出すことに成功しなかった、ということである。A .スミスやリカードのような、まさにその最良の代表者たちにおいてさえ、古典派経済学は、価値形態を、まったくどうでもよいものとして、または商品そのものの性質には外的なものとして、取り扱っているのである。その原因は、ただ、価値の大きさの分析にすっかり注意を奪われてしまったということだけではない。それは、もっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式の最も抽象的な、しかしまた最も一般的な形態なのであって、このことによってこの生産様式は、社会的な生産様式の一つの特殊な種類として、したがってまた同時に歴史的に、特徴づけられているのである。それゆえ、もしこの生産様式を社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的にまた、価値形態の、したがって商品形態の、さらに発展しては貨幣形態や資本形態などの、独自性をも見そこなうことになるのである。それだから、労働時間による価値の大きさの計測についてはまったく一致している経済学者たちのあいだにも、貨幣、すなわち一般的な等価物の完成した姿については、きわめて雑多できわめて矛盾している諸見解が見られるのである。このことは、たとえば、ありふれた貨幣の定義ではもはやまにあわない銀行業の取扱いにさいして、明瞭に現われてくる。このことから、反対に、復活した重商主義(ガニルその他) が生じたのであって、これは価値においてただ社会的な形態だけを、またはむしろただ社会的な形態の無実体な外観だけを、見るのである。--ここで一度はっきり言っておくが、私は、W ・ペティ以来の、ブルジョア的諸生産関係の内的な関連を探究する経済学のすべてを,俗流経済学と対立させて、古典派経済学と呼ぶのであって、俗流経済学のほうは、ただ外観上の関連のなかを右往左往するだけで、いわば粗雑きわまる現象のもっともらしい平易化と、ブルジョアの自家需要とのために、科学的な経済学によってはとっくに与えられている材料を絶えず繰り返して反芻するのであるが、そのほかには、自分たち自身の最良の世界についてのブルジョア的生産当事者たちのありふれた、ひとりよがりの見解を、体系づけ、屍理屈づけ、永遠の真理として宣言するだけで満足しているのである。〉(国民文庫版77-8頁)

 

 マクラウドについては、もっと時代は後になりますが、これは付属資料を参照して頂くだけにしましょう。

 

 (ハ) 重商主義者たちは、価値表現の質的な側面に、だから等価形態の完成姿態である貨幣に重きを置き、それに対して、近代的自由貿易行商人たちは、とにかく自分の商品をどんな価格でもたたき売る必要から、相対的価値形態の量的側面を重視したのです。

 

 価値表現の質的な側面というのは、第1パラグラフでも述べられていたように、等価形態に置かれる商品が「直接的交換可能性」を持つことによって表現されるということでした。この等価形態の直接的交換可能性が発展し、完成したものこそ、どんな商品とも直接に交換可能である(何でも買える)貨幣です。重商主義者たちは、貿易差額を拡大して国内の貨幣の増大を追求し、輸出を奨励する一方、輸入を制限する保護貿易政策をとったと言われています。

 

  他方、自由貿易主義者は、市場の拡大を目的とし、そのためには価格の引き下げを必要としたので、商品の価格という量的側面だけに注意を払ったということです。

 

 (ニ) その結果、両者は、商品の価値も価値の大きさも、商品に内在するものとは見えず、ただ交換関係によるそれらの表現だけに固執し、ただ日々の物価表のうちに存在するものとみなすのです。

 

 (ホ) マクラウドは、ロンバード街という金融市場の中心において、銀行業者を代表して、これらの論者たちを総合して、混乱した諸表象をできる限り学問的に飾りたてています。

 

 このように第2パラグラフは、「単純な価値形態の全体」としてその直接的な表象として捉えられる交換価値が、歴史的には重商主義者たちによって(また近代にはその蒸し返し屋によって)、その質的側面が重視され、あらゆる商品との直接的交換可能性をもつ貨幣をとりわけ重視する主張として現われたこと、また近代の自由貿易論者も同じように現象としての交換価値だけに捕らわれているが、彼らは量的側面を重視し、市場拡大のために商品をたたき売ろうとしたこと、そしてさらに今日の金融街においても、同じ様な現象に捕らわれた主張がマクラウドに見られるというような展開になっています。つまり「単純な価値形態の全体」が学説史的に考察されていると言ってよいのではないかと思います。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

【付属資料】

 

【1】パラグラフに関連して

 

《初版付録》

 

 《(四) 価値が独立に現われるやいなやそれは交換価値という形態をもつ。  価値表現は二つの極を、相対的価値形態等価形態とを、もっている。まず第一に、等価物として機能する商品について言えば、その商品は他の商品にたいして価値姿態として、直接的に交換可能な形態にある物体--交換価値として、認められている。ところが、その価値が相対的に表現されているところの商品が交換価値の形態をもつのは、(1)その商品の価値存在がその商品との他の一商品体の交換可能性によって明示されるからであり、(2)その商品の価値の大きさがその商品と他の商品とが交換されうる割合によって表現されるからである。--それだから、一般に、交換価値は商品価値の独立な現象形態なのである。》(国民文庫版152頁)

 

《補足と改訂》

 

 《ところで,簡単な価値形態を全体として考察するならば,まず第一に,交換価値は質的および量的に規定された商品価値の単なる表現方法,すなわち現象形態である,しかしながら、商品価値それ自身の本性から発した表現方法である,ということが明らかになる。その価値が表現されるべき商品は,自分と等しい物として,他の種類の商品--両方の商品が人間的労働の結晶であるかぎりにおいて--との関係にはいり,そしてそのことによって,その価値を〈表現する〉。》

                  [B]

 

 [14]価値形態 etc p.775,776(§4)  一商品の簡単な価値形態は,種類を異にする一商品にたいするその商品の価値関係のうちに,あるいは後者との交換関係のうちに,含まれている。商品Aの価値は,質的には,商品Bの商品Aとの直接的交換可能性によって表現されうる。それは,質的には,一定分量の商品Bの,与えられた分量の商品Aとの交換可能性によって表現される。言い換えれぽ,一商品の価値は,交換価値としてのそれの表示によって,自立的に表現されている。

 

                    ◇

 

  この章のはじめでは,普通の流儀にしたがって,商品は使用価値および交換価値であると言ったが,これは,厳密に言えば,誤りであった。商品は,使用価埴または使用対象,および価値である。商品は,その価値がその自然形態とは異なる一つの独自な現象形態,交換価値という現象形態をとるやいなや,あるがままのこのような二重物として自己を表すが,商品は,孤立的に考察されたのではこの形態を決してとらず,つねにただ,第二の,種類を異にする商品との価値関係または交換関係のなかでのみ,この形態をとるのである,もっとも,このことを心得ておきさえすれば,さきの言い方も有害ではなく,簡約に役立つ。》(77-78頁)

 

《フランス語版》

 

 《一商品の単純な価値形態は、ただ一つの他種類の商品--たとえそれがなんであろうと--にたいするこの商品の価値関係あるいは交換関係のうちに含まれている。商品A の価値は、質的には、Aと直接に交換可能な商品B の属性によって表現される。それは、量的には、一定分量のBと任意分量のAとのつねに可能な交換によって表現される。換言すれば、一商品の価値は、その商品が交換価値の座に置かれることによってしか表現されないのだ。われわれが本章の初めで、普通の言いかたにしたがって、商品は使用価値でもあり交換価値でもあると述べたのは、文字どおりにとれば誤りであった。商品は使用価値すなわち有用物でもあり、価値でもある。商品は、その価値が、その自然形態とは区別される固有の現象形態、交換価値という形態をもつやいなや、あるがままの二重の物として現われるが、商品は、単独に考察すれば、こうした形態をけっしてもたない。このことがわかっているかぎり、古い言いかたももはや有害ではなく、簡略にすることに役立つ。》(32-33頁)

 

【2】パラグラフに関連して

 

《補足と改訂》

 

 《われわれの分析が証明したように,価値形態または価値表現が商品価値の本性から生じるのであり,逆に,価値および価値の大きさが交換価値としてのそれらの表現様式から生じるのではない。ところが,この逆の考え方が,重商主義者たち,およびその近代的な蒸し返し屋であるフーリエ(22 第二版への注:F.L.A.フーリエ(関税副検査官):『商業との関係から見た政府について』,パリ1805),ガニル(注:Ch.ガニル:『経済学の諸体系について』,第2版、パリ,1821)などの妄想であるとともに,彼らとは正反対の論者である近代自由貿易外交員,たとえばバスティアとその一派の妄想でもある。重商主義者たちは,価値表現の質的な側面に,それゆえ貨幣をその完成姿態とする等価形態に重きをおき,これにたいして,自分の商品をどんな価格ででもたたき売らなければならない近代貿易行商人たちは,相対的価値形態の量的側面に重きをおく。その結果,彼らにとっては,商品の価値も価値の大きさも交換価値による表現のうち以外には実存せず,したがって,実際には日々の物価表のうちに実存する。スコットランド人マクラウドは,ロンバード街の混乱をきわめた経済的諸表象をできる限り学問的に飾り立てるという彼の職能において,迷信的な重商主義者たちと啓蒙された自由貿易行商人たちとのみごとな総合をなしている。》(78-79頁)

 

《フランス語版》

 

 《われわれの分析の結果は、こういうことになる。すなわち、商品の価値形態は、商品価値の本性から生ずるのであって、逆に、価値や価値量が、それらを交換関係によって表現するところの様式から生ずるわけではない、と。しかし、これこそが、重商主義者やその近代的熱狂者であるフェリェやガニル(21)らの誤りでもあり、また、その対立者であるパスティアやその一派のような自由貿易の外交員たちの誤りでもある。重商主義者たちは、価値表現の質的な側面に、したがって、貨幣形態のうちに明白に実現される商品の等価形態に、とりわけ立脚している。これと反対に、近代の自由貿易のチャンピオンたちは、自分の商品を是非とも厄介払いしようとして、もっぱら相対的価値形態の量的な側面を強調する。したがって、彼らにとっては、価値も価値量も交換関係によって表現するしかないのであって、このことは実際には、毎日の時価による相場のみが存在しているということを意味している。スコットランド人のマクラウドは、ロンバード街--ロンドンの大銀行家の街--の雑然とした経済的先入観念を、実に盛りだくさんな博識で包んで飾りたてることを仕事にしていて、迷信的な重商主義者たちと自由貿易の自由思想家たちとのみごとな総合を、つくりあげている。》(33頁)

 

【資本論辞典】から

 

フェリエ(1777~1861)フランスの関税制度検査官・経済学者.主著『商業との関係から見た政府について』(18005)には.スミス理論との折衷の形をとった新主重商主義的主張がみられる.マルクスは彼を‘ポナパルトの貿易禁止制の賛美者'および,彼とガニールとを第一次フランス帝国の‘帝政時代の経済学者'とよんでいる.『資本論』第1巻第1章では,彼をガニールとともに.重商主義の‘近代的な蒸しかえし屋'と評価し,彼が諸商品の価値およびその大いさを,逆にそれらの交換価値.すなわち価値形態から生ずるとしたものとして批判している(KI-66:青木1・154-155:岩波1-121-122).なお『剰余価値学説史』第1部第4章では.生産的・不生産的労働について,ガルニエ, ローダデ-ル,ガニール,シュトルヒ,シーニア,ロッシ等と同列に検討され(MWI-193.228.282:青木2-327,379,429), とくにスミスの生鹿的労働論および資本蓄積論にたいする彼の論評の保護貿易主義的性格が指摘されている(MWI-214-215 :青木2-359~360)(資本論辞典537頁)

 

ガニール  Charles Ganilh(1758-1836)フランスの経済学者・金融評論家で,新重商主義者.フランス革命時代およびその後のナポレオン帝政時代に多くの公職につく.当時のフランス金融事情にかんする歴史的著作がおそらくもっとも重要なものであるうが,なおその他の経済学の著書とは別に,《Dictionnaire analytique d'economie politique》(1826)を書いている.これは多はの難点をもち,当時一般の注意を惹いた問題を知りうる程度のものである.マルクスが直接引用している主著は,《Des systèms d'économie po1itque,de la valeur comparative de leurs doctrines,et de celle qui parait la plus favorable aux.progres de la richesse》(led.,1809:2ed.1821)の再販本である.新重商主義的主張を内容とし,マルタ旦は‘復活した重商主義'とよび,彼を重商主義の‘近代的な蒸しかえし屋'あるいはフェリエとともに‘帝政時代の経済学者'と評価した. 批判は,まずガニールが,寓は交換価値からなり,貨幣--貨幣たるかぎりの商品--だとして,商品の価値を交換の生産物と考えた重商主義的見解に向けられ,それは商品の価値形態から逆に価値が生ずるとする誤れる見方であり,けっきよし価値の実体を見ることなく,価値のうちにただ商品経済の社会的形態のみを,あるいは実体なきその仮象のみを見るものとした(k1-66.87.98;青木1-164~155.155.185.203;岩波1-121~122,158.181.MWI第4章第8項). なお富は交換価値からなるという見方に関連して,『剰余価値学説史』では,ガニールが,生底的・不生産的労働の区別をも交換によって判断し,労賃の支払われる労働は,非物質的生産に従事する労働や召使などの労働といえども,すべて生産的労働であるとして,スミスの生産的・不生産的労働の区別を論破しようとしたことを,ガルエル,ローダデールの説と同様,‘まったくくだらない話'であり‘大衆文芸的論議" ‘教養ある饒舌にすぎない'としている(MWI第4章第8項および262:青木2-285~300,428-429),そしてガニールは,ガルニエが重商主義に逆戻りすると同様.重商主義に逆戻りし.重商主義の‘剰余価値'にかんする見解を,はっきりさせたとされる(MWI-168;青木2-287),さらに,機械採用の自然的必然的作用として,彼が,労働人口は絶対的に減少し,‘純生産物で生活する人口'数は増加すると考え,こうした仕方で人類は向上するのだとじて,生産的人口の減少に味方したことを批判している(KI-471:青木3-720~721 :岩波3-238~239.MWI第4章第9項). なお,資料的には,『資本論』第1巻第4章で,労賃の後払いが可能になった瞬間に,商業信用が始まったとする彼の文章を引用している(KI-182:青木2-325;岩波2-70).また同じく第5章では,農業で労働手段として土地を利用するのに,前提となるべき緒労働過程の大きな系列を彼が適切に数えあげていると指摘している(KI-187:青木2-333;岩波2-70).この指摘は.さきの彼の主著と異なり,『剰余価値説史』でマルクスが‘未見の書'とした彼の《Théorie de l'economie politique,etc.》(1815)によっている.(資本論辞典481頁)

 

パスティア(1801-1850) フランスの俗流経済学者で自由貿易論者.南フランスの葡萄栽培地方の貿易商の子に生まれ,1840年代のイギリス穀物法闘争に刺戟されて,盛んに自由貿易論を主張《Journal des Economistes》に寄稿したり,ボルドーやパリーに自由通商協会を段立して協会機関誌《La Liberte des Echanges》を創刊,その編集者となる等の活動をした,1848年2月革命以後は社会主義の反対者として,ルイ・ブラン,プルドン等を批判してパンフレットを書き,憲法制定議会議員,立法議会議員となった.主著《Les harmonies economiques》(1850)を出版後.イタリアに赴きローマで死す. その主著にみられるように,彼はセー以上に徹底した楽観的な経済的調和論者であり,古典派経済学の弁援者であった.マルクスは,セーにはまだ不偏不党の態度から彼自身で経済的諸問題の解決に努力している跡がみられるが,パスティアになると,もともと調和論者であり,剽窃をこととし支配階級にとって不愉快な古典派経済学の側面はきりすて,皮相なやり方でその階級のために情熱的な弁護をやっていると批判した(MWIII-573-574:改造社版全集11-565).というのは,彼は,ケアリーと同じように,資本主義的生産の現実的諸対立を実はそれがりリカードなどが経済理論の内部でつくり出したものだと考え(MWIII同上箇所.KI-590;青木3-880 :岩波3-431),資本主義的生産諸関係とそれらの敵対作用をみることなく,そのもっとも表面的でもっとも拍象的な状態,つまりそれ自身として考察された単純なる商品流通にみられる‘自由と平等と“労働"にもとづく所有の王国'を真理だと考えたからである(Briefe uber “Das Kapital”91:国民上88).そして彼は,プルジョア社会は自然的制度であり.それ以前の社会は人為的制度であると考え,たとえば古代のギリシャ人やローマ人は強奪によってのみ生活していたとしている(KI-87;青木1-186:岩波1-159).バスティアのこの皮相さは,一方では,同様に無批判な経済学者であり保護貿易論者であるケアリーと相通ずるものであり(K1 -590-591:青木3-880-881・岩浪3-431),剽窃問題までも,起したのであるが,他方,それは彼の経済理論が‘サーヴィス'という範疇を基礎としている点に明瞭にみられる.彼は,人聞のすべてのサーヴィスが生産的であるとし,価値は交換されたサーグィスの比例であるとした.マルクスはその点を批判してつぎのようにいう.だからバスティアにとっては,商品の価値も価値の大いきも交換関係による表現のうち以外には実存しない,したがって日々の価格表の番付けのうちにのみ実存することとなる(KI-66;青木1-154:岩波1-122).ところで,サーヴィス(役立ち)とは,商品のであれ労働のであれ,実はある使用価値の有用的な働き以外のなにものでもない.そして交換価値をきめるものは,そのような商品や労働が使用価値として行なうサーヴィスではなく,商品が生産されるさいにその商品自身に向かつてなされるサーヴィス,つまりそれを生産するに必要な労働なのである.たとえば,ある機械の交換価値は,その機械をもって短縮しうる労働時間の量によってきまるのではなくて,その機械あるいはそれと同一種類の機械を生産するのに必要な労働時間の量によってきまるのである.バスティアは.交換価値をその労働時聞に還元するのではなく,サーヴィスの交換に解消する,かくして労働生産物が商品として交換される特殊な形態規定性は捨象されてしまうことになる,と(Kr31:岩波36:国民28-29:選集補3.21:青木41-42).またバスティアは,利潤・利子も, シーニァ的な資本家の節約によるサーヴィスにたいする報酬として,地代も土地所有者の土地提供のサーヴィスにたいする報酬と考えた. 『資本論』および『剰余価値学説史』第3部のプルドンの利子論の箇所では,無償信用をめぐる彼とプルドンとの利子生み資本にかんする論争書《Gratuité du Credit. Discusson entre M. Fr. Bastiat et M. Proudhon 》(1850)がとりあげられているが,そこでは一方的にプルドンの批判に力点が置かれている(KIII-378~380;青木10-490~493:岩波10-18~22.MWIII附録第I項).『剰余価値学説史』第3 部のルターの高利子輸の項では,バスティアが利子をサーヴィスにたいする報酬として,セーと同様に弁護していること,ここにわれわれはすでに'各人は他の人に役立つ'という理解からする競争鋭または調和説を見出すとされている(MWIII-591:改造社版全集11-583).バスティアは,自由競争下では等しいサーヴィスの交換が行なわれ,社会の進歩とともにより少ないサーヴィスをもってより多い富が獲得され,祉会は神の摂理によって調和的に発展すると考えていた.(資本論辞典531-2頁)

マクラウドHenry Dunning Macleod(1821-1902) イギリスの経済学者. スコットランドに生まれ,ケンブリッジ大学で法律学を学び,1849年弁護士となる.ついでくロイヤル・ブリティッシュ・バンク) (The RoyalBritish Bank)の取締役となり. 1854年に株式銀行法における銀行の権限にかんする法律問題に関係して,はじめて経済学に関心をもち,歴史的・理論的研究をはじめた.その成果として主著《The Theory and Prartice of Banking》(2vo1s.1855-56)が生まれたが,この書物はイングランド銀行の政策の歴史的研究に重点があり,ながらくこの問題についての典拠として利用されてきた.彼は銀行の信用創造力をきわめて高く評価tし,銀行は本質的に〈信用の製造所〉(manufactory of credit)であるとし,信用創造過程をはじめて詳細に追求した.彼は当時の経済学界の主流から孤立し, 大学の教職につくことができず,また1856年に前記の銀行が破産したさい,彼は同僚の取締役とともに,詐欺罪で有罪を宣告され,社会的立場は不利となり,不遇のうちに一生を終った.主著のほか,《The Elements of Political Economy》(1858); 《The Elements ofBanking》(1878) 《The Theory of Credit》(2vols.1889-1891)などがあり,彼が一人で書いた《A Dictiomiry of Political Economy》(1863)は,第1巻(A~C) しか出版されなかったが.金融史の資料として現在でも十分利用価値がある. 『資本論』ではマタラウドの名前は,まず価値形態論で出てくる.そこでは重商主義者は価値表現の質的側面に,商品の等価形態に重点をおくが,自由貿易行商人は相対的価値形態の量的側面に重点をおくとして,‘スコットランド人のマクラウドは,ロンバード街の縦横に錯雑した諸表象をできるだけ学問風に紛飾するのを彼の任務として,迷信的な重商主義者たちと啓蒙された自由貿易行商人たちとのあいだのすばらしい総合をなしている'(KI-66:青木1-154:岩波1-119) 主述べているが,その典拠は挙げていない.つぎに資本の一般的定式を倫ずるにあたって, G-W-Gの流通形式で増殖する価値がその生涯の循環において交互にとる特殊的現象形態を固定させて,資本は貨幣であると規定する論者の例として,‘生産的目的に用いられる通貨は資本である'というマクラウドの一句が挙げられている(KI-161:青木2-294-295;岩波2-22).最後に固定資本と流動資本との区別を銀行業者的立場からmoney at call とmoney not at callの区別にしてしまう代表者の一人としてマタラウドが挙げられている(KII-224;青木6-293;岩波6-119).なお『経済学批判』では,マクラウドは貨幣一般をそのもっとも発展した形態である支払手段から発生させている,と指摘されている(Kr153;岩波187-1;国民178;選集補3-165;青木189-190).(資本論辞典556-7頁)

 

重商主義 Merkanti1system ー般に重商主義とは.16~18世紀にわたる資本の〈本源的蓄積〉の時期にあらわれた経済政策および経済理論書の総称である.だが,マルクスは,この時期を二つの段階に分け,前の段階を重金主義となし.後の段階を‘より発展した重商主義'としている(KR-57;青木5-81;岩波5-96).厳密な意味の重商主義は,この後の段階をなす.重商主義政策の基本的主体は絶対主義的形態をもつ国家であり,それは〈商人資本〉の運動に支援されながらいわゆる本源的蓄積のための諸政策を暴力的に遂行する.この時期には,すでに大市場の形成がなされており,〈世界市場〉が発生し,商業資本はみずから生産に関与して小生産者を駆逐するにいたり,一方種々なる形の〈マニュファクチァ〉が発生した.国家は,貿易差額を大ならしめ国内の貨幣を増加させるために,輸出産業を奨励・統制し.労働日の延長と労賃の固定化を目的とする労働立法を制定した(KI第7篇第24章). マルタスは重商主義の経済学説を‘近代的生産様式の最初の理論的とり扱い'であるとみなしている(KIII-369:青木9-478;岩波9-211).けだし,この学説は,重金主義が富の形態を貨幣のみに帰着せしめて,流通部面という没概念的立場を固持するのにたいして,同じく流通部面に立脚しているにしても,その根抵にはたんなる商品流通にとどまらず,商品生産をも必然的要素として含蓄しているからであり,重金主義の資本観がG-W-G'なる無概念的形態において表現されるとすれば.後者のそれはG-W…P…W'-G'という排他的形態で表現されうるものだからである(KII-57 ;青木5-81:岩波5-96).このように重商主義は,世界商業に直接つながる国民的労働の特定の部門を,富または貨幣の唯一の源泉だとする観点をもっており,粗野かつ素朴なかたちでではあるが,いちおうブルジョア社会の生産の特徴を,つまりそれが交換価値によって支配されているということを認識していたのであって,そのかぎりでは‘近代経済の一定の領域のなかでは完全な市民権'をもっているのである(Kr171:岩波209;国民199:選集補3-185;青木211). だが重商主義が,商業資本の運動において自立化した流通過程の表面的現象から出発して,それゆえに経済上の仮象のみをとりあげたことは,己の学説の根本的限界をなしている.だから‘近世的経済についての現実的科学は,理論的考察が流通過程より生産過程に移行したところにはじめて開始される'という立場からみると,これはまだ科学としての経済学的認識とはいえないし,またそれがG…G'の循環形式での一面的資本把慢に固執したかぎりでは,窮極的にはこの貨幣資本の循環形式に固有な欺瞞性や幻想的性格をのがれることはできなかったのである(KII-57;青木5-81 ;岩波5-95).たとえば,剰余価値を剰余貨幣,つまり貿易差額の過剰分で表示したり.貨幣をそのまま資本だとみたりしたのは,そうした誤りにもとづいている(KIII-834;青木13-1106:岩波11-289).それゆえに重商主義的学説は,価値のうちにただ社会的形態の実体なき仮象のみをみたり貨幣や資本の形態規定性をそのまま一面的に説明することによって,ブルジョア社会の外面的特徴を端的につかみだすことに成坊したとはいえ,そうした現象の背後にひそむ本質的生産諸関係を洞察するまでには至らなかったのであり,そのために〈古典派経済学〉からの批判を受けることになるのである(KI-87;青木1-188;岩波1-162)(石垣博美)(資本論辞典238-9頁)

 



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