目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
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第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第22回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

 

                                    

 「トヨタ神話の崩壊」、「史上最悪のリコール」。

 

 トヨタのリコール問題が世界のマスコミを騒がせている。

 

 今回のリコールの対象は大きくわけて三つある。

 

 一つはアメリカにおいて、フロアマットを二重に敷いたことによって暴走して四人が死亡するという事故が発端になったものである。トヨタは当初、自社の責任を否定しながらも、結局、8車種計426万台を対象にしたリコールに追い込まれた。

 

  もう一つはフロアマットとは無関係にアクセルペダルが元に戻りにくい不具合の発生である。これも8車種計230万台のリコールの実施を発表した。

 

  そして最後はトヨタの技術の粋を集めたとされるハイブリッド車プリウスのブレーキ問題である。これは前二者が海外市場に限定されたものであったのに対して、日本市場においても、プリウスとブレーキシステムを共有している5車種計20数万台のリコールを届け出ることになった。

 

 アメリカの公聴会に出席したあと日本のテレビ局に出演した豊田章男社長は「事業の急拡大が人材育成のスピードを上回った」と、今回のリコール問題を引き起こした原因について述べたという。

 

 

アメリカの公聴会に出席した豊田社長

 

 確かにトヨタのここ数年の生産拡大には驚異的なものがある。1998年から2007年の十年間で海外に16工場を建設、年平均1.6工場の「怒濤の工場建設ラッシュ」と言われた。生産台数も99年以降ほぼ毎年50万台の生産能力を増強させ、世界生産台数は2001年の513万台に対して07年には853万台に達している。こうしたなかで品質低下への懸念がグループ内でも徐々に増していたと言われている。

 

 

 今回のトヨタのリコール問題に限っていうなら、こうした問題が直接の原因として考えられる。しかし資本主義的生産においては、すべての技術は「資本の技術」として、すべての生産力は「資本の生産力」としてしか存在しないという現実こそが、根本的な原因なのである。資本主義的生産は直接には使用価値を目的にした生産ではない、ただ価値(剰余価値=利潤)を目的にした生産なのである。資本にとっては、高度な技術や生産力も、ただ労働を搾取し最大の利潤を獲得するためにのみ存在する。だからその生産は、直接には使用価値、つまりそれを使用する顧客を考えたものとはならず、それらはただ利潤獲得に必要な限りで顧慮されるにすぎないのである。

 

 マルクスは次のように述べている。

 

 《科学や自然力や大量の労働生産物のこのような社会的労働に基づく充用は、すべてそれ自身ただ労働の搾取手段としてのみ、剰余労働を取得する手段としてのみ、それゆえ、労働に対立し資本に所属する諸力としてのみ現われるのである。もちろん、資本は、ただ労働を搾取するためにのみこれらすべての手段を充用するのであるが、労働を搾取するためには、資本はそれらの手段を生産に充用しなければならない。このようにして労働の社会的生産力の発展もこの発展の諸条件も、資本の行為として現われるのであって、これにたいして個々の労働者は受動的な態度をとるだけでなく、むしろ労働者に対立してこれが進行するのである。》(『剰余価値学説史』26巻 I 498頁)

 

 資本主義的生産は労働の社会的生産力を高度に発展させ、人類の福祉を豊かにする物質的基礎を形成する。しかしそれはあくまでも一つの間接的な歴史的な結果に過ぎず、それらを直接に目的とした結果ではない。だからそうした物質的生産力の発展は、他方で何万何千万もの犠牲をもたらす戦争や膨大な環境破壊、労働力の飽くなき搾取と浪費等々を通してしか実現できないのである。資本主義的生産様式の克服こそが問題の根本的解決への道である。

 

 その理解のために、あなたも、ともに『資本論』を読んでみませんか?

 


第22回「『資本論』を読む会」の報告

第22回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎春の嵐と黄砂

 

 第22回「『資本論』を読む会」が開催された3月21日はよい天気でしたが、前日からの突風と黄砂の名残がまだあり、時々なま温かい強風が吹いていました。

 

  私たちが学習会を開催している堺市立南図書館の3階会議室の窓から見える桜の木は、赤い蕾を膨らませていました。この桜もすぐにも開花を迎え、私たちの目を楽しませてくれることでしょう。

 

  花の季節が巡って来たのに、私たちの学習会はなかなか開花しそうになく、相変わらずの集まりでした。といっても学習会の内容そのものは充実したものだったのです。さっそく、その報告に移りましょう。今回は等価形態の第二の特性と第三の特性の途中まで進みました。

 

◎等価形態の第二の特色

 

 第9パラグラフから始まります。いつもの通り、まずパラグラフの本文を紹介し、文節ごとにイ)、ロ)、ハ)……の記号を打ち、それぞれの解読を順次行うことにします。

 

【9】

 

 (イ)等価物として役だつ商品の身体は、つねに抽象的人間労働の具体化として認められ、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。 (ロ)つまり、この具体的な労働が抽象的人間労働の表現になるのである。 (ハ)たとえば上着が抽象的人間労働の単なる実現として認められるならば、実際に上着に実現される裁縫は抽象的人間労働の単なる実現形態として認められるのである。 (ニ)リンネルの価値表現では、裁縫の有用性は、それが衣服をつくり、したがって人品をもつくるということにあるのではなく、それ自身が価値であると見られるような物体、つまりリンネル価値に対象化されている労働と少しも区別されない労働の凝固であると見られるような物体をつくることにあるのである。  (ホ)このような価値鏡をつくるためには、裁縫そのものは、人間労働であるというその抽象的属性のほかにはなにも反映してはならないのである。》

 

 今回から〈等価形態の第二の特色〉の説明です。初版付録や「補足と改定」、あるいはフランス語版では、パラグラフの前に表題として、〈β 等価形態の第二の特性具体的な労働がその反対物たる抽象的な人間労働になる〉(初版付録)とか、〈価値形態(「等価形態」の誤植?--引用者) 第二の独自性〉(「補足と改定」)、〈等価形態の第二の特色。具体的労働が、その対立物である抽象的人間労働の表示形態になる〉(フランス語版)と書かれていて、これから考察する課題がまず明らかにされていますが、現行版では、【9】パラグラフそのものには何もそれらしいものはなく、その代わりに【11】パラグラフで、それまでの考察の結論として表題と同じ内容が述べられています。とにかく文節ごとに、詳細に検討していくことにしましょう。

 

 (イ) 等価形態として役立つ商品の身体、例えば上着の商品体は、価値体として認められます。すなわちその自然形態が価値の形態、価値が具体的な形をとって目に見える物として現れたものとして認められています。上着の具体的な現物形態が価値の形態として、だから無差別な人間労働が対象化したもの、抽象的人間労働がそこに具体的に凝固しているものとして、認められるのです。しかし他方で、上着という物的姿を形作っているのは、抽象的人間労働ではなくて、一定の有用な具体的な労働--裁縫労働なのです。

 

 (ロ) だからここでは、この具体的な有用労働が、抽象的人間労働が具体的な姿をとって現れているものになっているわけです。すなわちその表現になっているのです。

 

 (ハ) 上着形態、上着の物的形態が、抽象的人間労働の単なる実現形態、抽象的人間労働がその物的姿をとって自らを現わし実現したものと認められるなら、実際には上着を形作っている裁縫労働が抽象的人間労働の単なる実現形態として認められるわけです。

 

 学習会では、ここの〈単なる実現として認められるならば、・・・・単なる実現形態として認められる〉という言い方のなかで〈単なる〉が二回出てくるのですが、どうしてここで〈単なる〉と言われているのか、これは何を意味しているのだろうか、という疑問が出されました。

 

 これは次のようなことではないか、という意見が出ました。上着が価値体として認められるということは、上着の自然形態が価値の形態として認められるということですが、価値というのは抽象的人間労働の凝固であり、無差別な人間労働だけからなっています。しかし上着の自然形態というのは、決して、例えば裁縫労働という具体的な有用労働だけからなっているわけではありません。それは具体的な有用労働と物的素材との結合の産物であり、上着の目に見える物的姿は、それが形作られている物的素材(ウール生地等)と、それに支出された裁縫労働の産物であることが目に見えています(裁縫労働は痕跡として見えているだけですが)。しかし上着の自然形態が価値の形態として認められるということは、上着が純粋に無差別な労働だけからなっているとみなされるわけです。その結果、上着の物的姿を形作った裁縫労働だけが抽象的人間労働の表現形態になっているといわれているわけです。だから〈単なる〉というのは、上着が単に労働だけからなっているものと認められるという含意ではないかというわけです。

 

 (ニ) リンネルの価値表現では、上着の使用価値は、ただリンネルの価値を具体的に表すという役割だけが問われているだけで、上着の使用価値本来の有用性は何も問われていません。だから上着の使用価値を形作る裁縫労働の有用性も、上着の使用価値本来の有用性を形作る側面は何も問題にされずに、ただリンネルの価値に対象化されている労働と少しも区別されない労働、つまり抽象的人間労働の凝固であるという物体をつくるという面だが問われているわけです。

 

 ここで〈裁縫の有用性は、それが衣服をつくり、したがって人品をもつくるということにあるのではなく〉と言われていますが、〈人品をもつくる〉というのは、新日本新書版では、〈「馬子にも衣装」を意味するというドイツの諺をもじっている〉との説明があります。そして実際、フランス語版では〈リンネルの価値を上衣において表現するばあい、仕立屋の労働の有用性は、この労働が上衣を作る、そしてまた、ドイツの諺によれば人を作る、という点にあるのではなく〉(江夏他訳30頁)となっています。

 

 (ホ) 「相対的価値形態の内実」の最後の【11】パラグラフでは、それまでの考察の結論として〈価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態が商品Aの価値形態となる。言いかえれば、商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる〉と言われていたように、リンネルの価値表現では、上着の身体がリンネルの価値鏡になります。そして価値鏡としての上着の身体を作るためには、裁縫労働そのものは、抽象的人間労働であるという属性以外の何も反映してはならないのだというのです。これは裁縫労働に抽象的人間労働がその内的契機として含まれているということではありません。裁縫労働という具体的な労働そのものが抽象的人間労働そのものの反映なのだということなのです。つまり裁縫労働が抽象的人間労働という目に見えない内的なものが外的な物として現れた実現形態としてあるということなのです。

 

 ここで上着の身体がリンネルの〈価値鏡〉になる、とありますが、この鏡は「魔法の鏡」ではないか、という話が出ました。というのは普通の鏡なら、鏡の前に立ったものの外面を映し出すだけですが、この価値鏡の場合は、リンネルのゴワゴワした直接的な対象性に隠された内的本質である価値を映し出すからです。「魔法の鏡」の前に立つと、その人の美しい外面に隠された醜い本質が、悪魔の顔として映し出されるのと同じだというのですが、果たしてどうでしょうか。

 

◎等価形態の第二の特色の神秘性(転倒)

 

【10】

 

 (イ)裁縫の形態でも織布の形態でも、人間の労働力が支出される。 (ロ)(それだから、どちらも人間労働という一般的な属性をもっているのであり、また、それだから、一定の場合には、たとえば価値生産の場合には、どちらもただこの観点のもとでのみ考察されうるのである。 (ハ)こういうことは、なにも神秘的なことではない。  (ニ)ところが、商品の価値表現では、事柄がねじ曲げられてしまうのである。 (ホ)たとえば、織布はその織布としての具体的形態においてではなく人間労働としての一般的属性においてリンネル価値を形成するのだということを表現するためには、織布にたいして、裁縫が、すなわちリンネルの等価物を生産する具体的労働が、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として対置されるのである。》

 

 〈等価形態の第一の特色〉を論じたところでも、【8】パラグラフで等価形態にある上着が直接的交換可能性という属性を、あたかも重さがあるとか、寒さを防ぐというような上着が持っている自然的な属性と同じように、生まれながらに持っているかのように見えるという〈等価形態の謎〔Raetselhafte〕〉について論じていましたが、今回のパラグラフは、それ対応させて、同じような等価形態の神秘的性格が第二の特色に関連して論じられているように思えます。

 

 (イ)、(ロ)、(ハ) われわれは「第2節 商品に表される労働の二重性」の最後のパラグラフで、〈すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する〉と言われていたのを知っています。ここで言われていることはこのことです。すなわち、裁縫労働も織布労働も、人間労働力が支出され、だからどちらも人間労働という一般的な属性を持っている。だからある場合には、すなわち価値生産という場合には、労働の一般的な属性において考察され、使用価値生産の場合には、労働の具体的な属性から考察される。こういうことには神秘的なことは何一つないわけです。

 

 (ニ)、(ホ) ところが、商品の価値表現では、事柄がねじ曲げられてしまいます。織布労働がその一般的属性、すなわち無差別な人間労働一般という属性においてリンネルの価値を形成するということを表現するために、この織布労働に対して、リンネルの等価物である上着を生産する裁縫労働が、その具体的な労働の形態のままで、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として現れ、対置されなければならないのです。裁縫という具体的な労働が抽象的人間労働が現実に目に見えるものとして現れ出てたものとみなされるのです。初版付録では次のように書かれています。

 

 〈価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。たとえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人間労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるということ裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。〉(国民文庫版142-3頁)

 

 これがどれほど奇妙なことであり、また価値表現の理解を困難にするかは、やはり初版付録では次のように説明されています。

 

 〈この転倒によってはただ感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として認められるだけであって、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として認められるのではないのであるが、この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とは両方とも法である、と言うならば、それは自明なことである。これに反して、もし私が、法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関速は不可解になるのである。〉(同上)

 

【11】

 

 《だから、具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということは、等価形態の第二の特色なのである。》

 

 これは初版付録や「補足と改定」、フランス語版では最初に表題として掲げられているものが、現行版では、最後に結論として述べられているわけです。

 

◎等価形態の第三の特色

 

【12】

 

 《 (イ)しかし、この具体的労働、裁縫が、無差別な人間労働の単なる表現として認められるということによって、それは、他の労働との、すなわちリンネルに含まれている労働との、同等性の形態をもつのであり、したがってまた、それは、すべての他の商品生産労働と同じに私的労働でありながら、しかもなお直接に社会的な形態にある労働なのである。 (ロ)それだからこそ、この労働は、他の商品と直接に交換されうる生産物となって現われるのである。 (ハ)だから、私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということは、等価形態の第三の特色である。》

 

 初版付録や「補足と改定」、フランス語版では、やはり最初に表題がついています。すなわち〈γ 等価形態の第三の特性。私的労働がその反対物の形態たる直接的に社会的な形態 における労働になる。〉(初版付録)、〈第三の独自性。等〉(「補足と改定」)、〈等価形態の第三の特色 。〉(フランス語版)というようにです。

 

 (イ) 上着の現物形態を作る具体的な裁縫労働が、無差別な人間労働、抽象的人間労働の表現として認められることによって、その労働は、他の労働との、つまりリンネルに含まれている労働、リンネルの価値を形成した労働と同等性の形態をもつのです。そしてそのことにみって、裁縫労働は、すべての他の商品を生産する労働と同じように私的労働でありながら、同時に直接に社会的な形態にある労働と認められるわけです。ここで「直接に社会的な形態にある労働」とありますが、「第二節 商品に表される労働の二重性」において、次のような一文がありました。

 

 〈いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体――社会的分業が現われている。社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。・・・・ただ、独立に行なわれていて互いに依存し合っていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである。

 

 また初版付録の〈γ 等価形態の第三の特性〉の冒頭には次のような一文があります。

 

 〈諸労働生産物は、もしそれらが互いに無関係に営まれる独立な諸私的労働の諸生産物でないならば、諸商品にはならないであろう。これらの私的労働の社会的関連素材的に存在するのは、それらが一つの自然発生的な社会的分業の諸分肢であり、したがってまた、それらの生産物によっていろいろな種類の欲望を充足するかぎりにおいてのことであって、これらの欲望の総体からはやはり社会的な諸欲望の自然発生的な体系が成り立っているのである。しかし、このような、互いに無関係に営まれる諸私的労働素材的な関連は、ただ、それらの諸生産物の交換によってのみ、媒介され、したがってまた実現されるのである。それゆえ、私的労働の生産物が社会的な形態をもっているのは、ただ、それが価値形態を、したがってまた他の諸労働生産物との交換可能性の形態を、もっているかぎりにおいてのみのことである。それが直接に社会的な形態をもっているのは、それ自身の物体形態または現物形態が同時に他の商品とのそれの交換可能性の形態であり、言い換えれば、他の商品にたいして価値形態として認められているかぎりにおいてのことである。しかし、われわれがすで見たように、こういうことがある労働生産物にとって生ずるのは、ただ、それが、それにたいする他の商品の価値関係によって、等価形態にある場合、すなわち、他の商品にたいして等価物の役割を演ずる場合だけである。〉(前掲144頁)

 

 つまり諸商品を生産する労働は直接には私的労働であり、だからこそそれらは商品として交換されなければならないわけです。しかしそれらが交換されるためには、それらを生産した労働が、社会的な形態を持たねばなりません。そしてそれがすなわち諸商品の価値形態なのです。諸商品は価値形態を持つことによって、他の商品との交換可能性の形態を持つことになるのです。しかしそのためには諸商品は他の商品を自身の等価物にし、等価物商品を生産する労働を私的労働でありながら、しかもなお直接に社会的な形態を持った労働にすることによって、そうした自身の価値形態を持つのだということです。だから等価物を生産する労働は私的労働でありながら、同時に直接に社会的な形態にある労働になっているのです。

 

  しかし、裁縫労働が直接に社会的な形態にある労働になっている、といっても、それはあくまでも上着という商品に対象化された労働についてのみ言いうることであって、決して、現実に支出された裁縫労働そのものがその流動的な状態において、そうした形態にあるということではありません。言い換えれば、裁縫労働者が直接に社会的な関係のなかにあってその労働を行ったのではないということです。裁縫労働者はあくまでも一私人として上着を生産し、彼の支出する労働は直接には私的労働なのです。ただその労働が私的に支出されて商品に対象化されたあと、商品同士が互い関係し会う世界=商品世界において、すなわちその価値関係において、特定の商品上着が等価物という位置に置かれるかぎりにおいて、上着に対象化された労働がそうしたものと見做されるということなのです。だからこの場合、具体的な裁縫労働そのものが、抽象的人間労働の具体化として認められるように、私的労働そのものが、なおかつ直接に社会的な形態にある労働になっているわけです。

 

 (ロ) だからそのように、私的労働でありながら、なおかつ直接的に社会的な形態にある労働である裁縫労働の産物であるからこそ、上着は、等価形態の最初に考察したように、他の商品と直接に交換されうる生産物になっているわけです。

 

 初版付録からもう一つ紹介しておきましょう。

 

 〈裁縫労働というような、一定の、具体的な労働が、たとえばリンネルというような別種の商品に含まれている別種の労働との同等性の形態をもっていることができるのは、ただ、その特定の形態が、別種の諸労働の同等性を、またはそれらの労働における同等なものを、現実に形成しているあるものの表現として認められているかぎりにおいてのみのことである。しかし、別種の諸労働が同等であるのは、ただ、それらが人間労働一般、抽象的人間労働、すなわち人間労働力の支出であるかぎりにおいてのみのことである。だから、すでに明らかにしたように、等価物のなかに含まれている特定の具体的な労働抽象的人間労働の特定の実現形態または現象形態として認められているので、その労働は他の労働との同等性の形態をもっているのであり、したがってまた、すべての他の商品生産労働と同様に私的労働であるのに、しかもなお直接的に社会的な形態にある労働なのである。それだからこそ、その労働は他の商品と直接に交換されうる生産物となって現われるのである。〉(同上)

 

 (ニ) これは第二の特色の場合と一緒に、結論として第三の特色が定式化されているだけです。

 

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【付属資料】

 

【9】パラグラフに関連して

 

《初版本文》

 

 〈20エレのリンネル=1着の上着 または xエレの連寝るはy着の上着に値する、という相対的な価値表現のなかでは、上着はただ価値または労働凝固体としてのみ認められているのではあるが、しかし、それだからこそ. 労働凝固体は上着として認められ、上着はそのなかに人間労働が凝固しているところの形態として認められるのである。使用価値上着がリンネル価値の現象形態になるのは、ただ、リンネルが抽象的人間労働の、つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、直接的物質化としての上着物質に関係しているからにほかならない。上着という対象性は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的につかまえられる対象性として、したがってまた現物形態における価値として、認められているのである。リンネルは価値としては上着と同じ本質のものであるがゆえに、上着という現物形態がこのようにリンネル自身の価値の現象形態になるのである。しかし、使用価値上着に表わされている労働は、単なる人間労働ではないのであって、一定の、有用な労働 、裁縫労働である。単なる人間労働、人間労働力の支出は、どのようにでも規定されることはできるが、それ自体としては無規定である。それは、ただ、人間労働力が特定の形態において支出されるときにはじめて、特定の労働として実現され、対象化されることができるのである。なぜならば、ただ特定の労働にたいしてのみ、自然素材は、すなわち労働がそれにおいて対象化される外的な物質は、相対するのだからである。ただへーゲル的な「概念」だけが、外的な素材なしで自己を客観化することを達成するのである。

 

 リンネルは、人間労働の直接的な実現形態としての裁縫労働に関係することになしには、価値または肉体化した人間労働としての上着に関係することはできない。とはいえ、リンネルを使用価値上着に関係させるものは、上着の羊毛的な快適さでもなければ、上着のボタンをかけられた有様でもなく、そのほか上着に使用価値として刻印するなんらかの有用的な質でもない。上着は、リソネルのためには、ただ、リンネルの価値対象性をリンネルのごわごわした使用対象性と区別して表わす、ということに役だつだけである。リンネルは、その価値をアギ〔植物名〕樹脂とか乾燥人糞とか靴墨とかで表現したとしても、同じ目的を達したであろう。それゆえ、同様に、裁縫労働がリンネルにとって有効であるのも、それが合目的的に生産的な活動であり有用労働であるかぎりにおいてのことではなくて、ただ、それが特定の労働として人間労働一般の実現形態であり対象化様式であるかぎりにおいてのみのことである。もしリンネルがその価値を上着においてではなく靴墨において表現したとすれぽ、リンネルにとってはまたやはり裁縫ではなく靴墨作りが抽象的人間労働の直接的実現形態として認められたであろう。つまり、ある使用価値または商品体が価値の現象形態または等価物となるのは、ただ、別のある商品が、前記の商品体に含まれている具体的な有用労働種類に、抽象的人間労働の直接的実現形態としてのそれに、関係する、ということによってのみである。〉(国民文庫版48-50頁)

 

《初版付録》

 

 〈β 等価形態の第二の特性具体的な労働がその反対物たる抽象的な人間労働になる

 

  上着はリンネルの価値表現において価値体として認められており、したがって、上着の物体形態または現物形態は、価値形態として、すなわち、無差別な人間労働の、単なる人間労働の、具体化として、認められている。しかし、それによって上着という有用物がつくられてその特定の形態を得るところの労働は、抽象的人間労働ではなく、単なる人間労働ではなくて、一定の、有用な具体的な労働種類--裁縫労働である。単純な相対的な価値形態が要求するのは、一商品たとえばリンネルの価値がただ一つの別の商品種類だけで表現されるということである。しかし、この別の商品種類がなんであるか、ということは単純な価値形態にとってはまったくどうでもいいのである。商品種類上着ではなく、リンネルの価値は、商品種類小麦ででも、あるいはまた商品種類小麦でではなく商品種類、等々ででも、表現されうるであろう。しかし、上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、つねに、リンネルの等価物はリンネルにたいして価値体として、したがってまた、単なる人間労働の具体化として、認められているであろう。そしてまたつねに、等価物の特定の物体形態は、それが上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、抽象的人間労働の具体化ではなくて、裁縫労働なり農民労働なり鉱山労働なりとにかく一定の具体的な有用労働種類の具体化であることに変わりはないであろう。だから、等価物の商品体を生産する特定の具体的な有用労働は、つねに必然的に、単なる人間労働の、すなわち抽象的人間労働の特定の実現形態または現象形態として認められなければならないのである。たとえば上着が価値体として、したがって単なる人間労働の具体化として、認められうるのは、ただ、裁縫労働が、それにおいて人間労働力が支出されるところの、すなわち、それにおいて抽象的人間労働が実現されるところの、特定の形態として認められているかぎりにおいてのみのことである。〉(国民文庫版141-2頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈価値形態(「等価形態」の誤植?--引用者) 第二の独自性

 

  等価物-商品の身体は,価値表現のなかでは,つねに,抽象的人間的労働の体化として通用し,しかも,つねに,一定の有用的具体的労働の生産物である。したがって,この具体的労働が,ここでは,抽象的人間的労働の表現にのみ役立つ。たとえば,上着が抽象的人間的労働の単なる実現として通用するとすれば,実際に上着に実現される裁縫労働は抽象的人間的労働の単なる実現形態として通用する。リンネルの価値表現においては,裁縫労働の有用性は,それが衣装をつくり,したがってまた風采をあげるということにあるのではなくて,それが価値であること,したがって,リンネルの価値に対象化された労働とまったく区別されない労働の凝固体であること,が見てとれるような一身体をつくることにある。このような価値鏡をつくるためには,裁縫労働そのものは,人間的労働というその抽象的属性以外のなにものも反映してはならない。〉(小黒正夫訳76頁)

 

《フランス語版》

 

 〈等価形態の第二の特色。具体的労働が、その対立物である抽象的人間労働の表示形態になる。

 

  等価物の体躯は、商品の価値表現では、つねに抽象的人間労働の具現として現われ、しかもつねに、特殊で具体的な有用労働の生産物である。したがって、この具体的労働は、ここでは、抽象的労働を表現することにだけ役立つ。たとえば、一着の上衣が抽象的労働の単なる実現であるならば、上衣のなかに実現されている仕立屋の行為もまた、抽象的労働の単なる実現形態にほかならない。リンネルの価値を上衣において表現するばあい、仕立屋の労働の有用性は、この労働が上衣を作る、そしてまた、ドイツの諺によれば人を作る、という点にあるのではなく、この労働が、価値の透きとおって見える体躯を、すなわち、リンネルの価値のなかに実現されている労働となんら区別されることのない労働の見本を、生産する、という点にある。このような価値の鏡になれるためには、仕立屋の労働そのものは、人間労働という属性以外になにものをも反映してはならないのである。〉(江夏他訳29-30頁)

 

【10】パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈われわれは、ここにおいて、価値形態の理解を妨げるあらゆる困難の噴出点に立っているのである。商品の価値を商品の使用価値から区別するということ、または、使用価値を形成する労働を、単に人間労働力の支出として商品価値に計算されるかぎりでのその同じ労働から区別するということは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態において考察する場合には、他方の形態においては考察しないのであるし、また逆の揚合には逆である。これらの抽象的な対立物はおのずから互いに分かれるのであって、したがってまた容易に識別されるものである。商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態の場合にはそうではない。使用価値または商品体はここでは一つの新しい役割を演ずるのである。それは商品価値の現象形態に、したがってそれ自身の反対物に、なるのである。それと同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な労働が、それ自身の反対物に、抽象的人間労働の単なる実現形態に、なる。ここでは、商品の対立的な諸規定が別々に分かれて現われるのではなくて、互いに相手のなかに反射し合っている。こういうことは、一見したところではあまりにも奇妙であるとはいえ、いっそう綿密に熟慮してみれば、必然的であることが判明する。商品は、もともと、一つの二重物、使用価値にして価値、有用労働の生産物にして抽象的な労働凝固体なのである。それゆえ、自分をそのあるがままのものとして表わすためには、商品はその形態を二重化しなげればならないのである。使用価値という形態のほうは、商品は生まれつきそれをもっている。それ滴品の現物形態である。価値形態のほうは、商品は他の諸商品との交際においてはじめてそれを得るのである。ところが、商品の価値形態は、それ自身もまたやはり対象的な形態でなければならない。諸商品の唯一の対象的な諸形態は、諸商品の使用姿態であり、諸商品の現物形態である。ところで、ある商品の、例えばリンネルの、現物形態は、その商品の価値形態の正反対物であるから、その商品は、ある別の現物形態を、ある別の商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければならない。その商品は、自分自身にたいして直接にずくことかできないことを、直接に他の商品にたいして、したがってまた回り道をして自分陣にたいして、することかできるのである。その商品は自分の価値を自分自身の身体において、または自分自身の使用価値において、表現することはできないのであるが、しかし、直接的価値定在としての他の使用価値または商品体に関係することはできるのである。その商品は、それ自身のなかに含まれている具体的な労働にたいしては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態として関係することはできないが、しかし、他の商品種類に含まれている具体的な労働にたいしては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態として関係することかできるのである。そうするためにその商品が必要とするのは、ただ、他の商品を自分に等価物として等置する、ということだけである。一商品の使用価値は、一般にただ、それがこのような仕方で他の一商品の価値の現象形態として役だつかぎりにおいてのみ、この他の商品のために存在するのである。……しかし、両商贔の価値関係をその質的な側面から見るならば、かの単純な価値表現のなかに価値形態の、したがってまた、簡単に言えば貨幣形態の、秘密を発見するのである〉(前掲50-52頁)

 

《初版付録》

 

 〈価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。たとえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人間労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるということ裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。この取り違えは不可避である。というのは、労働生産物で表わされている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無差別な人間労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が別種の一生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてのみのことだからである。

 

  この転倒によってはただ感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として認められるだけであって、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として認められるのではないのであるが、この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とは両方とも法である、と言うならば、それは自明なことである。これに反して、もし私が、法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関速は不可解になるのである。〉(前掲142-3頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈裁縫労働の形態でも織布労働の形懇でも,人間的労働力が支出される。それゆえ,どちらも人間的労働という一般的属性をもっており,またそれゆえ,特定の場合,たとえば価値生産の場合には,どちらもただこの観点のもとでのみ考察されうる。こうしたことはすべて,なにも神秘的なことではない。ところが,商品の価値表現においては,事態がねじ曲げられる。たとえば,織布労働が,織布労働としてのその具体的形態においてではなく,かえって,人間的労働としてのその一般的属性においてリンネル価値を形成するということを表現するために,織布労働にたいして裁縫労働が,すなわちリンネルの等価物を生産する具体的労働が,抽象的人間的労働を実現する表現形態が,対置されるのである。こうして,織布労働それ自身は,その抽象的属性の単なる表現に変化するのである。〉(前掲同)

 

《フランス語版》

 

 〈機織や衣服の仕立という、生産活動の二つの形態は、人間労働力の支出を必要とする。したがって、双方とも、人間労働であるという共通の属性をもっているのであって、たとえば価値の生産が問題であるような若干のばあいにはこの観点からのみ考察されるべきなのだ。そこには神秘的なものはなにもないが、商品の価値表現ではことがあべこべに理解される。たとえば、機織が、機織としてではなく人間労働一般という特性において、リンネルの価値を形成する、ということを表現するために、機織には別の労働、リンネルの等価物である上衣を生産する労働が、人間労働を表示する明示の形態として対置される。仕立屋の労働はこのようにして、それ自身の抽象的特性の単純な表現に変態するわけである。〉(前掲30頁)

 

【12】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 〈γ 等価形態の第三の特性私的労働がその反対物の形態たる直接的に社会的な形態 における労働になる

 

  諸労働生産物は、もしそれらが互いに無関係に営まれる独立な諸私的労働の諸生産物でないならば、諸商品にはならないであろう。これらの私的労働の社会的関連素材的に存在するのは、それらが一つの自然発生的な社会的分業の諸分肢であり、したがってまた、それらの生産物によっていろいろな種類の欲望を充足するかぎりにおいてのことであって、これらの欲望の総体からはやはり社会的な諸欲望の自然発生的な体系が成り立っているのである。しかし、このような、互いに無関係に営まれる諸私的労働素材的な関連は、ただ、それらの諸生産物の交換によってのみ、媒介され、したがってまた実現されるのである。それゆえ、私的労働の生産物が社会的な形態をもっているのは、ただ、それが価値形態を、したがってまた他の諸労働生産物との交換可能性の形態を、もっているかぎりにおいてのみのことである。それが直接に社会的な形態をもっているのは、それ自身の物体形態または現物形態が同時に他の商品とのそれの交換可能性の形態であり、言い換えれば、他の商品にたいして価値形態として認められているかぎりにおいてのことである。しかし、われわれがすで見たように、こういうことがある労働生産物にとって生ずるのは、ただ、それが、それにたいする他の商品の価値関係によって、等価形態にある場合、すなわち、他の商品にたいして等価物の役割を演ずる場合だけである。

 

  等価物が直接的に社会的な形態をもっているのは、それが他の商品との直接的交換可能性の形態をもっているかぎりにおいてのことであり、そして、それがこの直接的交換可能性の形態をもっているのは、それが他の商品にたいして価値体として、したがってまた同等なものとして認められているかぎりにおいてのことである。だから、等価物に含まれている特定な有用労働もまた、直接的に社会的な形態にある労働として、すなわち、他の商品に含まれている労働との同等性の形態をもっている労働として、認められているのである。裁縫労働というような、一定の、具体的な労働が、たとえばリンネルというような別種の商品に含まれている別種の労働との同等性の形態をもっていることができるのは、ただ、その特定の形態が、別種の諸労働の同等性を、またはそれらの労働における同等なものを、現実に形成しているあるものの表現として認められているかぎりにおいてのみのことである。しかし、別種の諸労働が同等であるのは、ただ、それらが人間労働一般、抽象的人間労働、すなわち人間労働力の支出であるかぎりにおいてのみのことである。だから、すでに明らかにしたように、等価物のなかに含まれている特定の具体的な労働抽象的人間労働の特定の実現形態または現象形態として認められているので、その労働は他の労働との同等性の形態をもっているのであり、したがってまた、すべての他の商品生産労働と同様に私的労働であるのに、しかもなお直接的に社会的な形態 にある労働なのである。それだからこそ、その労働は他の商品と直接に交換されうる生産物となって現われるのである。〉(前掲143-6頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈[A]

 

  第三の独自性。等

 

  したがって,私的労働の生産物は,それが価値形態,すなわち等しい物として通用する形態,つまり他の労働生産物との交換可能性をもっかぎりにおいてのみ社会的形態をもつ。 ある労働生産物は,それが他の労働生産物の価値表現のなかで等価物の位置を占めるや否や,したがって,身体形態が同時に価値形態,他の商品との交換可能性の形態,すなわち, 等しい物として通用する形態であると同時に,直接的社会的形態をもつのである。

 

  われわれはいままで次のことを見てきた。一等価物に含まれている具体的有用な労働種類は,人間的労働一般の実現形態として通用する。そのことによって,その労働種類は,他の労働との同等性のすなわち等しい物として通用するという形態をもつのであり,したがって,それは,他のすべての商品を生産する労働と同じように私的労働であるにもかかわらず,直接社会的形態にある労働なのである。

 

 [B]

 

  しかし,裁縫労働というこの具体的労働が,区別のない人間的労働の単なる表現として通用することによって,それは,他の労働,すなわちリンネルに含まれている労働との同等性の形態をとるのであり,したがってまた,それは,商品を生産する他のあらゆる労働と同じく私的労働であるにもかかわらず,しかも直接に社会的な形態にある労働なあである。だからこそ,その労働は,他の商品と直接に交換されうる一生産物で自分自身を表わすのである。そして次に--〉(前掲77頁)

 

《フランス語版》

 

 〈等価形態の第三の特色 。等価物を生産する具体的労働、われわれの例では仕立屋の具体的労働は、無差別な人間労働の表現として役立つということによってのみ、他の労働、リンネルが包蔵している労働と同等であるという形態をもち、したがって、他のすべての商品生産労働と同じように、私的労働でありながらも直接に社会的な形態のもとにある労働、になるのである。このために、この労働は、他の商品と直接に交換可能な生産物によって実現されるわけである。〉(前掲30頁)

 

 


第23回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

 

                                    

  谷垣 「総理、普天間基地の、今、腹案があるとおっしゃった。移設先は沖縄県内ですか。県外ですか。国外ですか。」

 

  鳩山 「いくら谷垣総裁といえども、私にそれが県内であるとか、県外であるといわれても、お答えはできない。」

 

 3月31日に行われた党首討論での一幕である。

 

 普天間基地移設問題が討論の中心であった。

 

 鳩山首相は「腹案」があるというが、新聞報道によると、政府がとりまとめようとしている移設案というのは、「県内での移設作業を2段階に分け、当面は名護市などにある米軍キャンプ・シュワブ陸上部への機能移転を進めつつ、うるま市の米軍ホワイトビーチ沖合を最終的な移設先とする。併せて、県外に基地機能を分散し、負担軽減を図る」というものらしい。

 

 

 

 しかしこれでは現行案よりはるかに酷い内容である。「少なくとも県外・国外」との選挙公約を裏切るだけでなく、現行案より大規模な基地をさらに沖縄に二つも作るというのだから、あきれる。

 

 それはそうと、そもそも軍隊や基地、あるいは兵器といったものは、経済学的にはどのように考えたらよいのであろうか。

 

  こうしたものは極めて政治的な問題であり、経済学の対象ではないというなら、あるいはそうかも知れない。しかし自衛隊では何十万という若者の労働力がまったく不生産的に浪費されており、国家の防衛予算は4.8兆円もあり、一般歳出の1割近い規模に膨れ上がっている。軍隊や軍事活動が不生産的な労働力や労働であることはいうまでもないが、しかし基地を作ったり、戦車やミサイルなど兵器を生産する労働はどうであろうか。それらを生産するのは、一般の土木・建設労働者や産業労働者であり、彼らは他の産業の生産的労働者と何の区別もないように見える。兵器の生産も一見すると物質的な生産活動であり、他の社会的な富を生産する労働と何の区別もないように思えるのである。

 

 しかしこうした労働は本源的には決して生産的なものとは言えないし、また価値を形成する労働とも言えないのである。確かに軍需産業の諸企業は、兵器を生産することによって利潤を上げており、その限りでは、資本家の立場からみれば、生産的ではある。しかし本源的には決してそうではないし、価値を形成しているわけではないのである。

 

 それは諸商品の価値とは何か、というもっとも根本的な問題から考えてみれば、明らかになる。商品の交換価値について、マルクスは、クーゲルマンへの手紙(1868.7.11付け)のなかで、次のように述べている。


 《どんな国民でも、1年はおろか、2、3週間でも労働を停止しようものなら、くたばってしまうことは、どんな子供でも知っています。どんな子供でも知っていると言えば、次のことにしてもそうです、すなわち、それぞれの欲望の量に応じる生産物の量には、社会的総労働のそれぞれ一定の量が必要だ、ということです。社会的労働をこのように一定の割合に配分することの必要性は、社会的生産の確定された形態によってなくなるものではなく、ただその現われ方を変えるだけのことというのも、自明のところです。自然の諸法則というのはなくすことができないものです。歴史的にさまざまな状態のなかで変わり得るものは、それらの法則が貫徹されていく形態だけなのです。そして社会的労働の連関が個々人の労働生産物の私的交換をその特微としているような社会状態で、この労働の一定の割合での配分が貫徹される形態こそが、これらの生産物の交換価値にほかならないのです。》(全集32巻454頁)

 

 つまり諸商品の価値というのは、社会の物質代謝を構成する私的な諸生産を社会的に関連づける法則(=価値法則)に基づくものなのだ。しかし兵器の生産は、決して社会の物質代謝の構成部分をなすわけではない。それは本源的には社会の浪費であり、寄生的要素なのである。だから兵器の生産が例え直接的には物質的であっても、本源的に不生産的であり、価値を形成するとは言えないのである。

 

  このように、何が本源的に生産的かどうかは、価値法則と不可分に関連しているのである。こうした問題も『資本論』をしっかり学ぶことから理解できるのである。是非、あなたも、一緒に『資本論』を読んでみませんか。

 


第23回「『資本論』を読む会」の報告

第23回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎散り際が潔くない桜

 

 軍歌の「同期の桜」を持ち出すまでもなく、桜花はその散り際の見事さが、昔からよく言われるのですが、今年の桜はぐずぐずと何時までたっても木々に残っています。

 

  会場の図書館の三階から見えるソメイヨシノも、すでに4月も半ばを過ぎているというのに、かなりのものが残って咲いていました。その健気な姿も称賛に値しないこともありません。

 

  ところで、私たちの読書会も、そろそろ“散り所”ではないかという噂がちらほら聞こえなくもないのですが、今年の桜と同様、しつこく続けようとしているかに見えます。窓際に見える残り花を横目に、今回は、比較的短時間に等価形態の最後まで終えました。その報告を“しつこく”しておきしょう。

 

◎最後に展開された等価形態の二つの特色とは?

 

 今回は、等価形態の第三の特色が終わったあとに続くもので、第13パラグラフから始まりました。いつものように、まずパラグラフ全文を紹介し、文節ごとに内容を確認して行きましょう。

 

【13】

 

 《 (イ)最後に展開された等価形態の二つの特色は、価値形態を他の多くの思考形態や社会形態や自然形態とともにはじめて分析したあの偉大な探究者にさかのぼってみれば、もっと理解しやすいものになる。 (ロ)その人は、アリストテレスである。》

 

 (イ)、(ロ)  ここで〈最後に展開された等価形態の二つの特色〉とは何かが問題になりました。これはいうまでもなく、等価形態の第二の特色(〈具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということ〉)と第三の特色(〈私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということ〉)のことを指すのだろう、ということが確認されました。そして、この二つの特色は、等価形態の第一の特色(〈使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということ〉)と較べてみると、共通しているのは、等価形態の特色が価値の実体である人間労働の次元にまで掘り下げて論じられているということです。だからそうした問題がアリストテレスの価値形態の分析を振り返ってみると〈もっと理解しやすいものになる〉ということではないかということです。

 

◎『経済学批判』におけるアリストテレスへの言及

 

 また今回問題になるアリストテレスについては、『経済学批判』でも言及されていることが指摘されました。そして学習会の一連の議論のなかでは、『批判』における一文も併せて検討されましたので、まず、『批判』の文章を紹介しておくことにしましょう。

 

 それは《労働時間が金と商品とのあいだの尺度であり、そして金はすべての商品が金で測られるかぎりでだけ価値の尺度となるものであるから、あたかも貨幣が諸商品を通約可能なものとするように見えるのは、流通過程のたんなる外見にすぎない〔*〕。むしろ対象化された労働時間としての諸商品の通約性こそが、金を貨幣とするのである。》という本文の中にある〔*〕印部分の注としてある、次のような一文です。

 

 《〔*〕アリストテレスは、たしかに商品の交換価値が商品価格の前提となっていることを見ぬいている。「……貨幣があるまえに交換があったことは、明らかである。なぜならば、五台の寝台が一軒の家と交換されようと、また五台の寝台の値うちにあたる貨幣と交換されようと、すこしも区別はないからだ。」他方、商品は価格においてはじめて互いに交換価値の形態をもつのであるから、彼は、商品は貨幣によって通約可能となると考えた。「すべてのものは価格をもたなければならない。なぜなら、そうしてこそともかくも交換がおこなわれ、したがって社会が存在するであろうからだ。貨幣はものさしと同様に、実際にものを通約可能〔ου´μμετρα〕にし、ついでそれらを互いに等置する。なぜなら、交換なしには社会はありえず、しかし同等性なしには交換はありえず、通約性なしには同等性はありえないからである。」彼は、貨幣で測られるこれらのいろいろなものが、まったく通約できない大きさであることを見おとしはしなかった。彼の求めたものは、交換価値としての諸商品の単一性であるが、古代ギリシア人である彼は、これを見いだすことができなかった。彼は、それ自体で通約できないものを、実践的な要求にとって必要なかぎりで貨幣によって通約できるものとすることによって、この困難からまぬがれた。「たしかにこのようにさまざまなものが通約できるということは、ほんとうはありえないことだが、けれども実践上の要求におうじてそれがおこなわれるのである。」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第五巻、第八章、ベッカー編、オックスフォード、一八三七年)》(全集13巻50-1頁)

 

 つまり『経済学批判』では、アリストテレスの主張は、貨幣があたかも諸商品を通約可能なものにするかのように見える、流通過程の外見に捕らわれた見解の一つとして紹介されているのです。だからアリストテレスの主張は、通約可能になる背景にある尺度としての労働時間を見ていない例として上げられているわけです。ところが『資本論』では、反対にアリストテレスの見解は、通約可能の中に質的同一性を見ている積極的な例として上げられており、ただその質的同一性が何であるかは歴史的制約のなかでアリストテレスには理解できなかったのだ、ということになっているわけです。

 

◎アリストテレスは単純な価値形態(交換価値)が貨幣形態(商品価格)の前提であることを見抜いている

 

【14】

 

 《 (イ)アリストテレスがまず第一に明言しているのは、商品の貨幣形態は、ただ、単純な価値形態のいっそう発展した姿、すなわちある商品の価値を任意の他の一商品で表現したもののいっそう発展した姿でしかないということである。 (ロ)というのは、彼は次のように言っているからである。

 

   (ハ) 「5台の寝台=1軒の家」

    ("Κλιναι πεντε αντι οικιαζ")

 

 ということは、

 

    「5台の寝台=これこれの額の貨幣」

    ("Κλιναι πεντε αντι...οσου αι πεντε κλιναι")

 

  というのと「違わない」と。》

 

 (イ)、(ロ)、(ハ)  ここでは、アリストテレスの〈言っている〉こととして、二つの等式が紹介されていますが、『経済学批判』では先に見たように、アリストテレス自身の言葉として、「・・・・貨幣があるまえに交換があったことは、明らかである。なぜならば、五台の寝台が一軒の家と交換されようと、また五台の寝台の値うちにあたる貨幣と交換されようと、すこしも区別はないからだ」という一文が紹介されています。

 

  アリストテレスが「5台の寝台=1軒の家」ということは「5台の寝台=これこれの貨幣」というのと「違わない」と述べているように、彼は商品の貨幣形態は、単純な価値形態のいっそう発展した姿だ、つまりある商品の価値を任意の他の一商品で表現したもののいっそう発展した姿でしかないと明言しているわけです。『経済学批判』でも〈アリストテレスは、たしかに商品の交換価値が商品価格の前提となっていることを見ぬいている〉とも指摘されています。つまり〈商品の交換価値〉、すなわち商品の単純な価値形態は、〈商品価格〉、すなわち商品の貨幣形態の〈前提〉であることを見抜いているというのです。

 

◎アリストテレスの論理

 

【15】

 

 《 (イ)彼は、さらに、この価値表現がひそんでいる価値関係はまた、家が寝台に質的に等置されることを条件とするということ、そして、これらの感覚的に違った諸物は、このような本質の同等性なしには、通約可能な量として互いに関係することはできないであろうということを見ぬいている。 (ロ)彼は言う、「交換は同等性なしにはありえないが、同等性はまた通約可能性なしにはありえない」("ουτ ισοτηζ μη ουσηζ συμμετριαζ")と。 (ハ)ところが、ここでにわかに彼は立ちどまって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう。 (ニ)「しかしこのように種類の違う諸物が通約可能だということ」すなわち、質的に等しいということは、「ほんとうは不可能なのだ」("τη μεν ουν αληθεια αδυνατον")と。 (ホ)このような等置は、ただ、諸物の真の性質には無縁なものでしかありえない、つまり、ただ「実際上の必要のための応急手段」でしかありえない、というのである〔24〕。》

 

 (イ) ここでは、マルクスはアリストテレスは、価値関係のなかに価値表現を見いだしており、そしてそのためには、家=寝台という質的等置を条件としていること、だから家や寝台といった感覚的に異なる諸物は、本質的な同質性を持たない限り、通約可能な量として互いに関係することはできないことを見抜いているのだと指摘されています。

 

  ところが、その実例として(ロ)で紹介されているアリストテレスの文章は、すでに見た『批判』の次の文章の一部(下線部分)です。

 

 「すべてのものは価格をもたなければならない。なぜなら、そうしてこそともかくも交換がおこなわれ、したがって社会が存在するであろうからだ。貨幣はものさしと同様に、実際にものを通約可能〔ου´μμετρα〕にし、ついでそれらを互いに等置する。なぜなら、交換なしには社会はありえず、しかし同等性なしには交換はありえず、通約性なしには同等性はありえないからである。」

 

 この一文に対して、マルクスは『批判』では、〈他方、商品は価格においてはじめて互いに交換価値の形態をもつのであるから、彼は、商品は貨幣によって通約可能となると考えた〉と指摘しており、その実例として紹介されているのです。つまりこれはアリストテレスの分析の不十分さ、間違いを指摘しているのです。そもそもすでに紹介したように、『批判』でのアリストテレスへの言及は、〈労働時間が金と商品とのあいだの尺度であり、そして金はすべての商品が金で測られるかぎりでだけ価値の尺度となるものであるから、あたかも貨幣が諸商品を通約可能なものとするように見えるのは、流通過程のたんなる外見にすぎない〔*〕。むしろ対象化された労働時間としての諸商品の通約性こそが、金を貨幣とするのである〉という本文中の〔*〕印部分の注として書かれており、アリストテレスの価値形態の分析は、〈あたかも貨幣が諸商品を通約可能なものとするように見える〉〈流通過程のたんなる外見〉に捕らわれた一例なのです。

 

  ところが『資本論』では、通約可能性のなかに〈本質の同等性〉を見抜いている、積極的な見解として紹介されているわけです。

 

  上記の『批判』に紹介されているアリストテレスの主張の論理を詳細に検討してみると、確かにそれは次のようになっていることが分かります。

 

  まずアリストテレスにとっては、社会の存続が第一の前提としてあり、そのためにはとにもかくにも交換が行われなければならないということがあります。そして交換が行われるためには、すべてのものは価格を持たなければならないというわけです。すべての物が価格をもつということは、貨幣で通約可能にされることであり、通約性なしに、同等性はなく、同等性なしには交換はない、と続いています。つまり交換の前提には貨幣によるすべてのものの通約性があり、通約性によってそれらははじめて同等性をもち、それによって交換が可能になるのだと考えているわけです。確かにこうしたアリストテレスの論理には転倒があります。なぜなら、これだと諸物は貨幣によって通約可能になり、それによってはじめて同等性を持ち、よって交換可能になるのですが、しかし、実際には、すべてのものが同等性を持っているから、貨幣によって通約可能になるのだからです。

 

  しかし、ではアリストテレスはこうした関係を見抜いていないのかというとそうではありません。というのは、よくみると、彼は貨幣を「ものさし」と「同様」だと考えているからです。さまざまな物を「ものさし」で計って互いに較べることができるのは、さまざまな物に「長さ」という質的な同等性があるからであり、だからこそ「ものさし」はさまざまな物を同じ質である長さという属性だけで、比較可能なものに、つまり通約可能なものにすることができるわけです。さまざまな物は「ものさし」によって初めて「長さ」を持つわけではなく、もともと「長さ」という共通の属性を持っているからこそ、「ものさし」でそれらが量的に比較可能な状態に置かれるわけです。アリストテレスはこうした「ものさし」とさまざまな物の通約可能性との関係を明確に掴んでいます。にも関わらず、アリストテレスが諸商品の交換のなかに転倒した関係しか見なかったのは、彼には貨幣によって通約可能になるすべてのものに共通な「本質の同等性」なるものを見いだすことはできなかったからなのです。だから--

 

 (ハ) 〈ここでにわかに彼は立ちどまって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう〉わけです。

 

 また(ニ)と(ホ)で紹介されているアリストテレスの一文も、やはり『批判』では次のように紹介されています。

 

 〈「たしかにこのようにさまざまなものが通約できるということは、ほんとうはありえないことだが、けれども実践上の要求におうじてそれがおこなわれるのである。」〉

 

 つまりアリストテレスには、(イ)で指摘されているように、感覚的に異なる諸物が貨幣によって通約可能になるためには、それらに〈本質の同等性〉がなければならないことは、見抜いているのですが、しかし諸商品に内在するそうした同等性を見いだすことができず、だからそれらを通約することも「ほんとうはありえない」のだが、ただ〈実践上の要求におうじてそれがおこなわれる〉だけだと考えたわけです。だから、アリストテレスの上記の文章は、流通過程の外見に捕らわれた主張であるかのような展開になっているわけです。

 

◎「価値概念」とは?

 

【16】

 

 《 (イ)つまり、アリストテレスは、彼のそれからさきの分析がどこで挫折したかを、すなわち、それは価値概念がなかったからだということを、自分でわれわれに語っているのである。 (ロ)この同等なもの、すなわち、寝台の価値表現のなかで家が寝台のために表わしている共通な実体は、なんであるか?  (ハ)そのようなものは「ほんとうは存在しえないのだ」とアリストテレスは言う。 (ニ)なぜか?  (ホ)家が寝台にたいして或る同等なものを表わしているのは、この両方のもの、寝台と家とのうちにある現実に同等なものを、家が表わしているかぎりでのことである。 (ヘ)そしてこの同等なものは――人間労働なのである。》

 

 (イ) アリストテレスには、価値概念が無かったことが、彼が価値形態の分析を先に進めることができなかった理由であることを、われわれに語っているわけです。

 

  ここで価値概念という言葉が出てきますが、これは何かということが議論になりました。これは初版本文にある次の一文が参考になると思います。

 

 《決定的に重要なことは、価値形態と価値実態と価値の大きさとの関係を発見するということ、すなわち、観念的に表現すれば、価値形態とは価値概念から発していることを論証することだったのである。》(国民文庫版77頁)

 

 つまり価値概念というのは、諸商品の価値はその商品に対象化され結晶した抽象的人間労働であるということ(価値実態)とその大きさかが商品に対象化された社会的に必要な労働時間によって規定される(価値の大きさ)ということです。

 

 (ロ)、(ハ) 寝台の価値を家によって表現されているなかでの共通の実態は、何か、ということに、アリストテレスはそんなものは本当は存在しないと言います。

 

 (ニ)、(ホ)、(ヘ) 家が寝台に対して表す同等なもの、両者に共通なものというのは、人間労働だからです。それがアリストテレスには分からなかったわけです。

 

◎「価値表現の秘密」とは?

 

【17】

 

 《 (イ)しかし、商品価値の形態では、すべての労働が同等な人間労働として、したがって同等と認められるものとして表現されているということを、アリストテレスは価値形態そのものから読みとることができなかったのであって、それは、ギリシアの社会が奴隷労働を基礎とし、したがって人間やその労働力の不等性を自然的基礎としていたからである。 (ロ)価値表現の秘密、すなわち人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。 (ハ)しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。 (ニ)アリストテレスの天才は、まさに、彼が諸商品の価値表現のうちに一つの同等性関係を発見しているということのうちに、光り輝いている。 (ホ)ただ、彼の生きていた社会の歴史的な限界が、ではこの同等性関係は「ほんとうは」なんであるのか、を彼が見つけだすことを妨げているだけである。》

 

  (イ) アリストテレスが商品の価値形態のなかに、共通の実態を見いだすことができなかったのは、ギリシアの社会が奴隷労働を基礎としていたからです。つまり人間や労働力の不平等を自然的基礎にしていたからです。

 

  (ロ) すべての人間が平等であり、同等であるという観念が民衆の先入見として強固になったときに、はじめて人間労働一般やすべての労働の同等性や同等な妥当性という、価値表現の秘密は解きあかされ、その謎が解明され得るのです。

 

 ここで「価値表現の秘密」という言葉が出てきますが、これは何かが問題になりました。そしてそれと関連して、そもそもこの(ロ)の一文はどのように解釈したらよいのかが問題になり、いろいろ議論した結果、最終的には、次のように理解すべきだろうということになりました。

 

  まずこの文章は、〈価値表現の秘密〉で一旦区切り、それを〈すなわち〉で受け、〈人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性は〉と続いています。だから〈価値表現の秘密〉というのは〈人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性〉ということだろうということになりました。そして、それが主語になっていて、〈人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである〉と続いていると解釈できるということになりました。

 

 (ハ) しかしすべての人間が平等であり、同等であるというような観念は、商品形態が労働生産物の一般的な形態になり、すべての人々が商品所有者として互いに人格として認め合う社会、つまり資本主義社会においてこそ、初めて可能なのです。

 

 (ニ) アリストテレスの天才は、彼が諸商品の価値表現のなかに一つの質的同等性を見いだしているところにあると言えます。

 

 (ホ) ただ彼が生きた奴隷制社会という歴史的な限界が、彼が諸商品の同等性を見いだすことを不可能にしたのであり、だから彼はそうしたものは「ほんとうは」あり得ないのだが、社会が存続する上での実践上における必要がそれを可能にしているのだと、便宜的に解釈したのです。

 

 さて、このアリストテレスの例は、等価形態の第二と第三の特色を理解しやすくするものと説明されているのですが、もう一つ第二の特色と第三の特色との関連が、よく分かりません。もちろん、人間労働一般としての同等性、同等な妥当性がこれらの特色に関連しているといえば言えますが、しかし第二の特色(〈具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということ〉)とや第三の特色(〈私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということ〉)のそれぞれの内容が、このアリストテレスの例を見たあと〈もっと理解しやすいものにな〉ったかというと、なかなかそのようには思えません。しかしそれは私だけかも知れません。

 

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 【付属資料】

 

  『経済学批判』からの紹介はすでに行ったので、ここでは省きます。

 

●【13】パラグラフに関連して

 

《初版付録》

 

 《ここで最後に述へた等価形態の二つの特性は、われわれがあの偉大な探究者までさかのぼってみるとき、さらにいっそう理解しやすくなる。その人は、価値形態をも、あのように多くの思考形態や社会形態や自然形態と同様に、はじめて分析し、しかもたいていは彼の現代の後継者たち以上にそれに成功しているのである。アリストテレスこそはまさにその人なのである。》(国民文庫版146頁)

 

《フランス語版》

 

 《最後に検討した等価形態の二つの特色は、価値形態や他のあれほど多くの諸形態--思惟形態であろうと社会形態であろうと自然形態であろうと--を最初に分析した偉大な思想家にまでさかのぼってみれば、さらにいっそう把握しやすくなる。その思想家はアリストテレスである。》(江夏他訳31頁)

 

●【14】

 

《初版付録》

 

 《アリストテレスがまず第一に明言しているのは、商品の貨幣形態は、ただ、単純な価値形態のいっそう発展した姿、すなわち、ある商品の価値をなんらかの任意の他の一商品で表現したもののいっそう発展した姿でしかないということである。なぜならば、彼は次のように言っているからである。

 

    〈5台の寝台=1軒の家〉

    ("Κλιναι πεντε αντι οικιαζ")

 

  というのは、

 

    〈5台の寝台=これこれの額の貨幣〉

    ("Κλιναι πεντε αντι...οσου αι πεντε κλιναι")

 

  というのと「違わない」と。》(前掲146頁)

 

《フランス語版》

 

 《アリストテレスはまず、商品の貨幣形態が、単純な価値形態の、すなわち、ある商品の価値をなんらかの他商品において表現したものの発展した姿にほかならない、ということをはっきり表現している。彼はこう言っているからである。

 

  「5台の寝台1軒の家〈Κλιναι πεντε αντι οικιαζ〉」

 

   「5台の寝台これこれの額の貨幣〈Κλιναι πεντε αντι...οσου αι πεντε κλιναι〉」

 

  と「ちがいがない」、と。》(前掲31頁)

 

●【15】

 

《初版付録》

 

 《彼は、さらに、この価値表現がひそんでいる価値関係はまた、家が寝台に質的に等置されることを条件とする、そして、これらの感覚的に違った諸物は、このような本質の同等性なしには通約可能な大きさとして互いに関係することはできないであろう、ということを見抜いている。彼は言う、「交換は同等性なしにはありえないが、同等性はまた通約可能性なしにはありえない」("ουτ ισοτηζ μη ουσηζ συμμετριαζ")と。ところが、ここでにわかに彼は立ちどまって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう。「しかし、このように種類の違う諸物が通約可能だということ」、すなわち、質的に同じだということは、「ほんとうは不可能なのだ」("τη μεν ουν αληθεια αδυνατον")と。このような等置は、ただ、諸物の真の性質には無縁なものでしかありえない、つまり、ただ「実際上の必要のための応急手段」でしかありえない、というのである。》(前掲146-7頁)

 

《フランス語版》

 

 《彼はさらに次のことを理解している。すなわち、この価値表現を含んでいる価値関係ののほうでも、家が質の観点からは寝台に等しいと宣言されていること、また、感覚的に異なったこれらの物体は、このような本質の同等性がなければ通約可能な量として相互に比較できないことを前提しているのである、と。彼は言う。「交換は同等性なしには生じえず、同等性も通約可能性なしには生じえない」〈ουτ ισοτηζ μη ουσηζ συμμετριαζ〉、と。ところが彼はここで価値形態の分析をためらって断念する。彼はつけ加えて言う。「これほどにちがった物が相互に通約可能であること」、すなわち、質的に等しいということは「実際は不可能であるくτη μεν ουν αληθεια αδυνατον〉」。これらの物の同等性を肯定することは、これらの物の本性に反することでしかありえない、「人は実際上の必要のためにこの同等性を頼りにしているだけである」、と。》(前掲31頁)

 

●【16】

 

《初版付録》

 

 《つまり、アリストテレスは、彼のそれからさきの分析がどこで挫折したかを、すなわち、それは価値概念が欠けていたからだということを、自分でわれわれに語っているのである。この同等なもの、すなわち、寝台の価値表現において家が寝台のために表わしている共通の実体とは、なになのだろうか? そのようなものは「ほんとうは存在しえないのだ」とアリストテレスは言う。なぜか? 家が寝台にたいしてある同等なものを表わしているのは、この両方のもの、寝台と家とのうちにある現実に同等なものを、家が表わしているかぎりでのことである。そして、この同等なものは――人間労働なのである。》(前掲147頁)

 

《フランス語版》

 

 《したがって、アリストテレス自身、自分の分析がどこで座礁したか--価価値概念の不充分さで座礁したか--を、われわれに語ってくれている。「なんだかわからない」同等のもの、すなわち、寝台の価値表現のなかで家が寝台にたいして表わしている共通な実体とは、なにか? 「そんな物は実際にはありえない」、とアリストテレスは言う。どうしてなのだ? 家が寝台にたいして同等なあるものを表わすのは、家が、この双方のなかにある現実に同等のものを表わすかぎりでのことなのだ。この現実に同等のものとは、いったいなにか? 人間労働である。》(前掲31-32頁)

 

●【17】

 

《初版付録》

 

 《しかし、諸商品価値の形態においてはすべての労働が同等な人間労働として、したがって同等と認められるものとして、表現されているということを、アリストテレスは諸商品の価値形態から読み取ることができなかったのであって、それは、ギリシアの社会が奴隷労働にもとづいており、したがって人間および彼らの労働の不等性自然的基礎としていたからである。価値表現の秘密、すなわち、人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりにおいての、すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。しかし、そういうことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた諸商品所有者としての人間たち相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。アリストテレスの天才は、まさに、彼が諸商品の価値表現のうちに一つの同等性関係を発見しているということのうちに、光り輝いている。ただ、彼の生きていた社会の歴史的な限界が、ではこの同等性関係は「ほんとうは」なんであるのか、を彼が見つけだすことを妨げているだけである。》(前掲148頁)

 

《フランス語版》

 

 《アリストテレスは、商品の価値形態のうちに、すべての労働がそこでは無差別な、したがって同等な人間労働として表現されていることを、読みとれなかったが、彼をそうさせたのは、ギリシアの社会が奴隷労働にもとついており、人間やその労働力の不等性を自然的基礎にしていたからである。価値表現の秘密、すなわち、すぺての労働は、それが人間労働であるがためにまたそうであるかぎり同等であり等価である、ということを解読することができるのは、ただ、人間の平等という概念がすでに民衆の先入観念として破りがたく堅固になったときだけである。ところが、このことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態になった社会、したがって、商品生産者や商品交換者としての人間相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会で、はじめて生ずるのである。アリストテレスの天才を示すもの、それは、彼が商品の価値表現のうちに同等性の関係を発見したことである。ただ、彼の生活していた社会が特殊な状態であるために、この関係の真の内容がなんであるかを見出すことが妨げられていたのである。》(前掲32頁)

 


第24回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

 

 

 アイスランド火山噴火による欧州連合(EU)の航空網の混乱は、なんとか収束に向かいつつあるようだが、改めて今日における航空運輸機関の重要性を私たちに再認識させるものとなった。

 

 

 EUの執行機関、欧州委員会は、今回の火山灰飛散による航空業界の損失が、欧州全体で総額15億~25億ユーロ(約1900億~3100億円)にのぼると推計、10万便以上が欠航し、1000万人以上の旅行者が滞在先で足止めされたという。

 

 

 遠くヨーロッパの空の話とはいえ、欧州との空の物流網の停止は、日本の産業界にもさまざまな影響を与えた。

 

  例えば、欧州向けの半導体用感光性樹脂、液晶テレビ用偏光フィルムの出荷停止(住友化学)、福岡、神奈川県の2工場の操業を停止(日産自動車)、欧州向けノートパソコンの出荷停止(富士通)、15~19日までに団体ツアー客1914人がキャンセル(JTB)、全70店でノルウェー産生サーモンを冷凍物に変更(回転すし「すし銚子丸」)、オランダ産のアマリリスやヒヤシンスの切り花の出荷停止(大田花き)等々という具合である。

 

 ところで航空機や鉄道・バス、船舶など運輸・交通機関は経済学的にはどのように考えたらよいのであろうか。これらは人や物を運送するものの、他の産業部門のように、物質的な生産物を生み出しているようには思えない。それらは果たして物質的な生産部門と考えるべきなのかどうかである。

 

 マルクスは交通・運輸機関を「社会的生産過程の一般的な条件」(『資本論』第1部全集23a501頁)だとする一方、生産された使用価値は、ただその消費によってのみ実現されるが、そのためには消費されるまでの場所変換が必要になる。だからこの場所変換を行う運輸業は「追加的生産過程」(第2部全集版183頁)なのだとも規定している。また次のようにも述べている。

 

 〈輸送業が販売するものは、場所の変更そのものである。生み出される有用効果は、輸送過程すなわち輸送業の生産過程と不可分に結び付けられている。人間と商品は輸送手段と一緒に旅をする。そして、輸送手段の旅、輸送手段の場所的運動が、まさに輸送手段の作用によって生じた生産過程である。その有用効果は、生産過程の期間中にのみ消費されうる。その有用効果は、この過程とは異なる使用物--すなわち、その生産後にはじめて取り引き物品として機能し、商品として流通する使用物--としては存在しない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じく、その有用効果〔の生産〕に消費された生産諸要素(労働力および生産諸手段)の価値、プラス、輸送業に就業している労働者たちの剰余労働が創造した剰余価値、によって規定されている。この有用効果は、その消費とともに消え失せる。それが生産的に消費されるならば、したがって、それ自身が輸送中の商品の一生産段階であるならば、その価値は、追加価値としてその商品そのものに移転される。〉(『資本論』第2部全集版69頁)

 

 だから運輸業は他の物質的生産部門と同じ一部門を構成するのであり、他の生産部門と同様に価値を生産しているのである。

 

 このように『資本論』はその時々に起こるさまざまな問題を理論的・科学的に考える指針を与えてくれる。あなたも、是非、一緒に『資本論』を読んでみませんか。

 



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