目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
第6回「『資本論』を読む会」の報告
第7回「『資本論』を読む会」の案内
第7回「『資本論』を読む会」の報告
第8回「『資本論』を読む会」の案内
第8回「『資本論』を読む会」の報告
第9回「『資本論』を読む会」の案内
第9回「『資本論』を読む会」の報告
第10回「『資本論』を読む会」の案内
第10回「『資本論』を読む会」の報告
第11回「『資本論』を読む会」の案内
第11回「『資本論』を読む会」の報告
第12回「『資本論』を読む会」の案内
第12回「『資本論』を読む会」の報告
第13回「『資本論』を読む会」の案内
第13回「『資本論』を読む会」の報告
第14回「『資本論』を読む会」の案内
第14回「『資本論』を読む会」の報告
第15回「『資本論』を読む会」の案内
第15回「『資本論』を読む会」の報告
第16回「『資本論』を読む会」の案内
第16回「『資本論』を読む会」の報告
第17回「『資本論』を読む会」の案内
第17回「『資本論』を読む会」の報告
第18回「『資本論』を読む会」の案内
第18回「『資本論』を読む会」の報告
第19回「『資本論』を読む会」の案内
第19回「『資本論』を読む会」の報告
第20回「『資本論』を読む会」の案内
第20回「『資本論』を読む会」の報告
第21回「『資本論』を読む会」の案内
第21回「『資本論』を読む会」の報告
第22回「『資本論』を読む会」の案内
第22回「『資本論』を読む会」の報告
第23回「『資本論』を読む会」の案内
第23回「『資本論』を読む会」の報告
第24回「『資本論』を読む会」の案内
第24回「『資本論』を読む会」の報告
第25回「『資本論』を読む会」の案内
第25回「『資本論』を読む会」の報告
第26回「『資本論』を読む会」の案内
第26回「『資本論』を読む会」の報告
第27回「『資本論』を読む会」の案内
第27回「『資本論』を読む会」の報告
第28回「『資本論』を読む会」の案内
第28回「『資本論』を読む会」の報告
第29回「『資本論』を読む会」の案内
第29回「『資本論』を読む会」の報告
第30回「『資本論』を読む会」の案内
第30回「『資本論』を読む会」の報告
第31回「『資本論』を読む会」の案内
第31回「『資本論』を読む会」の報告
第32回「『資本論』を読む会」の案内
第32回「『資本論』を読む会」の報告
第33回「『資本論』を読む会」の案内
第33回「『資本論』を読む会」の報告
第34回「『資本論』を読む会」の案内
第34回「『資本論』を読む会」の報告
第35回「『資本論』を読む会」の案内
第35回「『資本論』を読む会」の報告
第36回「『資本論』を読む会」 の案内
第36回「『資本論』を読む会」の報告
第37回「『資本論』を読む会」の案内
第37回「『資本論』を読む会」の報告
第38回「『資本論』を読む会」の案内
第38回「『資本論』を読む会」の報告
第39回「『資本論』を読む会」の案内
第39回「『資本論』を読む会」の報告
第40回「『資本論』を読む会」の案内
第40回「『資本論』を読む会」の報告
第41回「『資本論』を読む会」の案内
第41回「『資本論』を読む会」の報告
第42回「『資本論』を読む会」の案内
第42回「『資本論』を読む会」の報告
第43回「『資本論』を読む会」の案内
第43回「『資本論』を読む会」の報告
第44回「『資本論』を読む会」の案内
第44回「『資本論』を読む会」の報告
第45回「『資本論』を読む会」の案内
第45回「『資本論』を読む会」の報告
第46回「『資本論』を読む会」の案内
第46回「『資本論』を読む会」の報告
第47回「『資本論』を読む会」の案内
第47回「『資本論』を読む会」の報告
第48回「『資本論』を読む会」の案内
第48回「『資本論』を読む会」の報告
第49回「『資本論』を読む会」の案内
第49回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

閉じる


<<最初から読む

42 / 101ページ

第21回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

 

 

 「いのちを、守りたい。  いのちを守りたいと、願うのです。」

 

 鳩山首相の施政方針演説である。  昨年の所信表明演説も美辞麗句でよそよそしく飾られていたが、今回の施政方針演説もただ観念的で崇高な理念が掲げられているのみである。

 

 

 「資本主義社会を維持しつつ、行き過ぎた『道徳なき商業』」、『労働なき富』を、どのように制御していくべきなのか。人間が人間らしく幸福に生きていくために、どのような経済が、政治が、社会が、教育が望ましいのか。今、その理念が、哲学が問われています。」  「人間のための経済、再び」  「経済のしもべとして人間が存在するのではなく、人間の幸福を実現するための経済をつくり上げるのがこの内閣の使命です。」  「『商業の道徳』を育み、『労働をともなう富』を取り戻すための挑戦」等々。

 

 資本主義の現実と本質を知る労働者にとって、これらは何と空疎な文言として響くことか。マルクスは次のように述べている。

 

 《“わが亡き後に洪水は来たれ! Apres moi le deluge! ”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。したがって、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命に対し、何らの顧慮も払わない。肉体的、精神的萎縮、早死、過度労働の拷問に関する苦情に答えて資本家は言う--われらが楽しみ(利潤)を増やすがゆえに、それが何でわれらを苦しめるというのか? と。》(『資本論』第1巻、全集23a353頁)

 

 これこそが、労働者が日々体験している資本主義の現実ではないだろうか!

 

 一方で「資本主義社会の維持」を掲げながら、他方で、『労働なき富』を批判し(それをいうならまず自分自身を批判せよ!)、「『労働をともなう富』を取り戻す」ことを謳う鳩山首相の理念は、マルクスがブルジョア経済学者を批判して次のように述べたことがもっともよく当てはまる。

 

 《賃労働は自己疎外された労働であって、それにたいしては、それによってつくりだされた富が他人の富として対立し、それ自身の生産力がそれの生産物の生産力として対立し、それの致富が自己貧窮化として対立し、それの社会的な力がそれを支配する社会の力として対立するのである。ところが、このような、資本主義的生産において現われるところの、社会的労働の特定の独自な歴史的な形態を、これらの経済学者たち(鳩山首相と読め--引用者)は、一般的な永久的な形態、自然真理として言い表わし、また、このような諸生産関係を、社会的労働の絶対的な(歴史的ではない)必然的な、合自然的で理性的な諸関係として言い表わすのである。資本主義的生産の視野のなかに完全に閉じこめられているために、彼らは(鳩山首相は--同)、社会的労働がここでとるところの対立的な形態を、この対立から解放されたこの形態そのものと同様に必然的なものと断定するのである。こうして彼らは一方では労働を絶対的だとし(というのは、彼らにとっては賃労働は労働と同義なのだからである)、他方では資本を同様に絶対的だとし、労働者の貧窮と非労働者の富(鳩山家の巨万の富はまさにこれだ--同)とを同時に富の唯一の源泉として言い表わすのだから、彼らは絶えず絶対的な諸矛盾のなかで動いていながら、少しもそれを感じてはいないのである(だからノーテンキなことも言っていられるわけだ--同)。》(『学説史』26巻III340頁)

 

 ブルジョア社会の現実に対する無知を曝け出し、ノーテンキな理念を掲げることしか知らない鳩山政権を批判するためにも、あなたも、ともに『資本論』を一緒に読んでゆきませんか。

 


第21回「『資本論』を読む会」の報告

第21回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎春の陽気

 

 大阪は、ここ数日は好天に恵まれ、春のような陽気が続いています。

 

  第21回「『資本論』を読む会」開催当日(2月21日)もよい天気で、私たちが学習会を行った教室は50人ほどが入るほどの大きさなのですが、いつもはその真ん中の一番前の黒板に近い席を占めてこじんまりとやるのですが、今回はよい天気に誘われて窓際の席の各自思い思いの場所に座り、行いました。おかげで学習会の最中に居眠りをしてほとんど聞いていなかったなどと、帰り道で話している人もあったほどでした。

 

 そうした陽気もあってか、等価形態の「第一の特性」をすべて終えました(第4~8パラグラフ)。さっそく、その報告を行いましょう。

 

◎「等価形態の矛盾」とは?

 

 今回は第4パラグラフからです。例によって全文を紹介し、議論も含めてその文節ごとの解読を紹介してゆきましょう。

 

【4】パラグラフ

 

 《等価形態の考察にさいして目につく第一の特色は、使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということである。》

 

 ここから等価形態の「特色」(初版付録は「特性」、『補足と改定』は「独自性」となっている)の考察が始まっています。それは使用価値がその反対物である価値の現象形態になるということです。  ところで、この等価形態の特色の考察の前に、『補足と改定』や『フランス語版』では次のような導入文があることが紹介されました。

 

《補足と改訂》

 

 《等価形態の独自性への移行  等価形態が内包する矛盾はその独自性をさらに詳細に考察することを必要とする。》(小黒正夫訳72頁)

 

《フランス語版》

 

 《等価形態が含んでいる矛盾は、いまでは、この形態の特色のいっそう徹底的な考察を要求している。  等価形態の第一の特色 。使用価値が、その対立物である価値の表示形態になる。》(江夏美千穂/上杉聡彦訳27頁)

 

 ここで《等価形態が内包する矛盾》(補足と改定)や《等価形態が含んでいる矛盾》(フランス語版)と言われているものは、一体、何を指しているのだろうかということが問題になりました。

 

  ピースさんはローゼンベルグの『資本論注解』を紹介してくれました。確かに『注解』でも〈ついでマルクスは右にあげた諸矛盾の特徴づけにうつる。それは三つある〉と述べて、等価形態の三つの特性を紹介しているのですが、ローゼンベルグの『注解』でも、いま一つ〈右にあげた諸矛盾〉が何を指しているのかよく分からないのです。ただその諸矛盾がより詳細に考察されて、三つの特性(独自性)が与えられていることは分かります。しかし何をもって〈諸矛盾〉と述べているのかは、やはりもう一つよく分かりません。

 

  亀仙人は、これらの導入文を見る限り、それまでの等価形態の考察(質的および量的)の結果、《等価形態の内包する矛盾》が明らかになったので、そのことはさらに等価形態の独自性を詳細に考察する必要があると読むことができるように思える。だからその直前で行われている等価形態の量的考察のなかに、その矛盾があるのではないか、と指摘して、次のような考えを述べました。

 

  “等価形態の内包する矛盾は、それまでに考察したことを直接受けたものだから、特に、等価形態には量的な被規定性は含まれていないということを意味するのではないかと思う。それがどうして矛盾しているのかというと、リンネルの価値は与えられているので、その量的表現は、上着の価値の量によって決まってくるわけだが、実際のリンネルの価値量の相対的な表現においては、上着の価値の量的規定性そのものは現れて来ないということではないかと思う。等価形態に置かれた上着は、ただ「一着」の上着というように上着の使用価値の一定量として表され、それで十分だから、上着の価値量がどれだけかは、そこではまったく表されていない。だから、リンネルの価値の量的表現は、上着の価値の大きさによって決まるのに、その表現形態においては上着の価値の量的規定性そのものは現れて来ないわけです。これをマルクスは等価形態が含んでいる矛盾と述べているようのではないか。”というわけです。

 

  ただその場合でも、何がどのように矛盾しているのか、そもそも矛盾とは何か、ということが問題になりました。この「矛盾」というのはそもそも何か、ということについては、以前、大阪で行った「『資本論』を学ぶ会」のニュースNo.16で鰺坂真他編『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)からその内容を一部紹介したことがありますので、それをもう一度紹介しておくことにします。

 

 【同書には本質について次のような説明があります。

 

 〈本質は、より規定的にいえば、事物のうちにあって、その多様な諸形態にうちに自己をうつしだし、それらに媒介された一定の恒常的なものです。そして、このような本質の、もっとも基本的で抽象的な規定が、同一、区別、根拠という三つのカテゴリーです。〉(同66頁)

 

 ところで今問題になっている「対立」や「矛盾」は、まさにこの本質の「基本的で抽象的な規定」の一つである「区別」のなかにあります。それは次のように説明されています。

 

 〈区別は、より単純な形態からより複雑な形態へと三つにわけられます。それが、差異・対立・矛盾です。〉(同69頁)

 

  〈差異とは、最初の直接的な形態での区別であり、相互に無関係な別々のもののあいだでの区別です。〉しかしこうした〈たんなる差異的区別は、かならずしも事物にとって必要な不可欠な区別ではありません。/たとえば、ひとびとのあいだには、背丈とか体重その他の点で、いろいろな差異的な区別があります。しかしこれらの区別は、人類そのものにとって、本質的な、なくてはならない区別ではありません。人類にとっての本質的な区別は、たとえば、男女や親子の区別であり、この種の本質的な区別は、それがより本質的な区別であればあるほど、当の事物のうちにある、いわゆる両極的な区別となっています。/対立とは、このような、事物のうちにある両極的な区別をいいます。右と左、プラスとマイナス、N極とS極などの区別がそれです。/この対立的な区別には、次の点で差異的な区別と異なっています。/第一に、対立は、右のことからして、事物におけるもっとも本質的で必然的な区別です。そして、対立的な二つのものは、その規定性に関しては相互に排斥しあう関係にあって、たがいに自分は他方のものではないということが、そのまま直接に自分自身の規定と合致するという関係にあります。/第二に、一般にあるものの他者とは、そのものではないもの、そのものの否定です。しかしペンではないものといっても、かならずしも本という特定のものを意味しません。ところが、人間のうちにあって男性でないものといえばただちに女性を意味するように、両極的な対立物はたがいに、たんなる他者としてではなくて、それぞれに固有の他者としてあるのです。/第三に、右のことは、かならずしも一方のものが他方の存在そのものを否定する関係にあることを意味しているわけではありません。むしろ両者は、一つのものの不可分の二側面として、たがいに前提しあい依存しあう関係にあります。このように、その規定性にかんしては相互排斥的な両極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること、これが対立です。〉(69~71頁)

 

  〈ところで、事物における本質的であるがたんに対立的でしかない区別にたいして、二つのものが、その存在そのものに関して、一方では共存の関係にあり、他方では逆に相互排除の関係にあるとき、この二つのものの関係が、矛盾としての対立です。この関係を論理的に表現すると、「AはAであるとともに非Aである」ということになります。〉(71頁)】

 

 だから矛盾というのは〈二つのものが、その存在そのものに関して、一方では共存の関係にあり、他方では逆に相互排除の関係にあるとき、この二つのものの関係が、矛盾としての対立〉だということです。上着の価値の大きさは、リンネルの価値の量的表現を規定しているのに、実際の表現形態ではそれは含まれていないということ、これが矛盾ということではないでしょうか。

 

◎《取り替え〔Quidproquo〕》と《現物の皮》

 

【5】パラグラフ

 

 (イ)商品の現物形態が価値形態になるのである。 (ロ)だが、よく注意せよ。 (ハ)この取り替え〔Quidproquo〕が一商品B (上着や小麦や鉄など)にとって起きるのは、ただ任意の他の一商品A (リンネルなど)が商品Bにたいしてとる価値関係のなかだけでのことであり、ただこの関係のなかだけでのことである。 (ニ) どんな商品も、等価物としての自分自身に関係することはできないのであり、したがってまた、自分自身の現物の皮を自分自身の価値の表現にすることはできないのだから、商品は他の商品を等価物としてそれに関係しなければならないのである。 (ホ) すなわち、他の商品の現物の皮を自分自身の価値形態にしなければならないのである。》

 

 イ) 《商品の現物形態が価値形態になるのである》とあります。これは先のパラグラフ(【4】)と較べると、《使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になる》を直接言い換えたものです。つまり《商品の現物形態》=《使用価値》、《価値形態》=《(使用価値の)反対物の、価値の、現象形態》という関係にあることが分かります。

 

 ロ)、ハ) だが注意する必要があるのは、《この取り替え〔Quidproquo〕》が一商品Bにおいて生じるのは、別の一商品Aが商品Bに対してとる価値関係においてだけだということです。

 

 ここで《取り替え〔Quidproquo〕》という言葉が出てきますが、この言葉については、所沢の「『資本論』を読む会」の報告では次のような大谷禎之介氏の説明が紹介されていますので、重引しておきましょう。

 

 〈マルクスが使っているこの《入れ替わり[Quidproquo]》という表現は、あるものとあるものとが、入れ替わって現れることであって、それによって人びとが欺かれることになる。たとえばモーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』で、アルマヴィーヴェ伯爵を懲らしめるために伯爵夫人とスザンナが衣装を取り替えて別人になりすます。そしてこれに伯爵がまんまとひっかかる。これが《入れ替わり》である。〉(大谷禎之介「価値形態」「経済誌林」第61巻第2号191頁)

 

 つまり使用価値が価値の現象形態になります。使用価値というのは、それ自体が直接的なものです。つまり直接目に見える感覚的なものとして存在しています。しかし価値はそうしたものではありません。にも関わらず、その使用価値の直接的な定在が、価値が目に見える形で現れたものとしての意義を持たされるわけです。つまり価値が目に見えるように現れたものとして、その使用価値の直接性があるということです。だから使用価値の直接的な定在がそのまま価値の直接的な定在になっています。しかしあくまでも上着の使用価値がリンネルの価値の直接的な目に見える定在になっているのであって、上着の使用価値が上着の価値の直接的な定在になれるわけではありません。そしてそのためには上着の使用価値が価値の形態になるという入れ替わりがそこには生じなければならないわけです。もちろん、入れ替わりといっても上着の使用価値そのものは何も変わっていないのです。ただそのままの使用価値にリンネルの価値の現象形態という新たな形態規定性(役割)が付け加えられるだけなのです。しかしその付け加えられた新たな形態規定においては、上着の使用価値は、ただリンネルの価値の現象形態であるという役割しか持たされず、上着の使用価値自体に存在している他のさまざまの属性--例えば羊毛でできていて着心地がよいといったこと--はそこでは直接には問題になっていません。

 

  しかも重要なことは、上着がこうした役割を担わされるのは、リンネルとの価値関係に置かれる限りでのことだということです。

 

 ニ) というのは、どんな商品も、自分自身を自分自身の等価物にすることはできません。

 

 これは「1 価値形態の両極」のところで、指摘されていた《20エレのリンネル=20エレのリンネル》という等式が価値表現ではなく、むしろ20エレのリンネルは一定量の使用価値だということを示すだけだと言われていたことと同じです。これでは何も価値は表現されていないのです。つまりどんな商品も自分自身の現物の皮(自分自身の使用価値)を自分自身の価値の表現に利用できないのです。だからどんな商品も自身の価値を表現しようとするなら、他の別の商品を等価物にして、それと関係する必要があるわけです。

 

 ここで使用価値を《現物の皮》と表現していますが、これはどういう意味なんだろうということも問題になりました。これは使用価値は直接的なものであるのに対して、価値は内在的なものであるということを具体的なイメージで示すものではないかということになりました。つまり使用価値は物の表面に顕れていて直接目に見えるものであるということで、それを動物の表面を覆っている皮に例えているわけです。それに対して価値は内在的なもので、直接には見えず、だから皮に覆われて見えなくされているものというイメージで捉えられているわけです。

 

 ホ) だから、その内在的な価値が直接的な目に見えるものにするためには、自分自身の皮は役に立たないこと、他人の皮の中に自分の内在的価値を映し出すのだということ、つまり他の商品の現物の皮を自分自身の価値の形態にしなければならないということです。

 

◎棒砂糖の例

 

【6】パラグラフ

 

 (イ)このことをわかりやすくするのは、商品体としての商品体に、すなわち使用価値としての商品体にあてがわれる尺度の例であろう。 (ロ)棒砂糖は物体だから重さがあり、したがって重量をもっているが、どんな棒砂糖からもその重量を見てとったり感じとったりすることはできない。 (ハ)そこで、われわれは、その重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片をとってみる。 (ニ)鉄の物体形態は、それ自体として見れば、棒砂糖の物体形態と同様に、重さの現象形態ではない。 (ホ)それにもかかわらず、棒砂糖を重さとして表現するために、われわれはそれを鉄との重量関係におく。 (ヘ)この関係のなかでは、鉄は、重さ以外のなにものをも表わしていない物体とみなされるのである。 (ト)それゆえ、種々の鉄量は、砂糖の重量尺度として役だち、砂糖体にたいして単なる重さの姿、重さの現象形態を代表するのである。 (チ)この役割を鉄が演ずるのは、ただ、砂糖とか、またはその重量が見いだされるべきそのほかの物体が鉄にたいしてとるこの関係のなかだけでのことである。 (リ)もしこの両方の物に重さかないならば、それらの物はこのような関係にはいることはできないであろうし、したがって一方のものが他方のものの重さの表現に役だつこともできないであろう。 (ヌ)両方を秤りの皿にのせてみれば、それらが重さとしては同じものであり、したがって一定の割合では同じ重量のものでもあるということが、実際にわかるのである。 (ル)鉄体が重量尺度としては棒砂糖にたいしてただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現では上着体はリンネルにたいしてただ価値だけを代表しているのである。》

 

 イ) この等価形態の第一の特性(使用価値がその反対物である価値の現象形態になる)を分かりやすく説明するために、商品を量り売りするために、商品そのものの量を計る場合を考えてみましょう。例えば商品としての棒砂糖を量り売りするために、使用価値としての棒砂糖そのものの量を計る必要がありますが、それを考えてみるわけです。

 

 ロ) 商品としての棒砂糖もやはり物体だから重さがあります。だからその重さで商品としての棒砂糖の量、つまりその使用価値の量を計ることができるわけです。しかし棒砂糖の重さは棒砂糖だけを見ているだけでは、見たり感じたりすることはできません。だから使用価値としての棒砂糖の量をその重さで計るためには、まずその棒砂糖の重さそのものを目に見えるような形で表し、その上で、買い手が自分自身の目でその量がどれぐらいかを確認できるように、計って見せなければなりません。買い手は自分の目で確認しない限り、これは幾らの棒砂糖だと一方的に言われても信用出来ないわけです。だからどうしても目に見えない棒砂糖の重さを、目に見えるようにして、その上でその量を買い手の目の前で計って見せる必要があるわけです。

 

 ハ) だから売り手は天秤計りを持ち出して、一方の皿に一定量の棒砂糖を乗せ、他方の皿にあらかじめ確定されている分銅を乗せて、その釣り合いを見ながら計るところを見せるわけです。こうして買い手は棒砂糖の重さを、よってその使用価値の量を自分の目で確認して納得して買うことが出来るわけです。

 

 ニ) しかし今、もし分銅が鉄で出来ているとするなら、それもやはり単なる鉄の固まりであり、鉄も物体としては、それだけを見ていても、やはり棒砂糖と同じで、その重さを見たり感じたりすることは出来ません。つまり鉄も、やはり重さが目に見えるような形で顕れている物とはいえないのです。

 

 ホ) それだのに、われわれ(買い手)はその鉄片によって、棒砂糖の重さが目に見えていると感じ、使用価値としての棒砂糖の量がそれによって計ることが出来たと納得するわけです。どうしてそうなっているのか、それが問題です。それは天秤ばかりで一方の棒砂糖と他方の分銅とが釣り合っていることを買い手は確認したからです。この場合、棒砂糖と分銅とは重量として同じである、つまり重量として等置の関係にあることを示しています。天秤ばかりは、この二つの物体が、互いの重さにおいて釣り合っていることを目に見える形で表しているのです。売り手は、天秤ばかりによって二つの物体を重量関係においたのです。

 

 ヘ) そしてこの重量関係において、鉄片は、重さ以外の何ものをも表さない物体とみなされているのです。

 

 ト) だから、さまざまな量の鉄片は、棒砂糖の重量の尺度として役立つのです。そしてその場合は、鉄片は棒砂糖に対して、ただ単に重さそのものの姿として、重さが目に見える形で顕れたものとして役立っています。つまり重さの現象形態を代表しているのです。

 

 チ) 鉄片が、こうした役割を演じるのは、ただ棒砂糖とか、それ以外のその重量を表そうとするものが、この鉄片に対してとる関係、すなわち重量関係のなかだけのことです。

 

 リ) もちろん、両方に重さがないなら、両方を天秤ばかりに乗せることも出来ないし、だから重量関係に置くことも出来ません。だから一方を他方の重さの表現として役立てることも出来ないわけです。

 

 ヌ) 両方を天秤ばかりの皿に乗せるなら、それらが釣り合い、それらは重さとしては同じであり、したがって一定の割合では同じ重量のものであることが、実際に目に見える形で分かります。この場合、棒砂糖の重さそのものが鉄片の個数として具体的に目に見える形で顕れているのです。

 

 ル) 鉄の固まりが重量の尺度としては棒砂糖に対して、ただ重さだけを代表して、それを目に見える形で表しているのに対して、われわれの価値表現においては上着はリンネルに対して、ただ価値だけを代表し、それを目に見える形として表しているのです。

 

 ここでは、ピースさんが準備してくれたレジュメでは、〈天秤に棒砂糖を左側に、鉄を右側において釣り合わせる。この関係において、棒砂糖は右側の鉄を見て私と同じ質量を持っていることを見る〉という説明があったのですが、これに対して、マルクスは「価値」と「価値量」とにアナロジーさせて、「重さ」と「重量」とを区別しながら意識的に使い分けており、「質量」だとそれが分からないのではないかとの指摘がありました。

 

◎棒砂糖の例の限界--自然的属性と超自然的属性

 

【7】パラグラフ

 

 (イ)とはいえ、類似はここまでである。 (ロ)鉄は、棒砂糖の重量表現では、両方の物体に共通な自然属性、それらの重さを代表している――、ところが、上着は、リンネルの価値表現では、両方の物の超自然的な属性、すなわちそれらの価値、純粋に社会的な或るものを代表しているのである。》

 

 イ)、ロ) しかし棒砂糖の例にはおのずと限界があります。というのは、鉄は、棒砂糖の重量表現においては、重さという、両方の物体が持っている一つの自然属性を代表しているのに対して、われわれが問題にしているリンネルの価値表現においては、等価形態にある上着は、両方の商品が持つ超自然的な属性、すなわち価値という、純粋に社会的なあるもの代表しているのだからです。

 

 ところで、ここではマルクスは商品の価値を、商品という「物の超自然的属性」であると述べています。これを読んで、以前、商品の価値を商品の「属性」だと述べたことを批判した人があったことを思い出しました。その人は次のように批判したのでした。

 

 〈(O氏は--引用者)価値が“実体”であるということから、それは商品の属性――ただし自然的な属性ではなく、社会的な属性であると断るのだが――であると断言してはばからない。いかに「社会的」と言おうが、商品の「属性」、つまり商品そのものに属する性質であると言うかぎり、まさに物神崇拝意識そのものである。〉

 

 しかし価値を〈商品そのものに属する性質であると言う〉意味で、「商品の属性」といえば、物心崇拝意識そのものだという批判は、本当に正しいものでしょうか。例えば、マルクスは『補足と改定』では、次のように書いています。

 

 《しかし,類似はここまでである。重量は鉄と棒砂糖との物質的属性である。それにたいして、リンネルと上着の,要するにすべての商品の価値性格は社会的な刻印であり、そしてそのことによって,価値関係のなかで商品の物的な属性となる。》(前掲73頁)

 

 ここではマルクスは商品の価値性格は《価値関係のなかで商品の物的な属性となる》と述べています。もし商品の価値を商品に刻印される社会的属性だと述べることが、物神崇拝意識そのものだというなら、マルクスもそうだといわねばならなくなるでしょう。問題はそういうことではなくて、価値関係によって物的な属性として現れてくるものを、価値関係の外でもそういうものとして捉えること、すなわち商品そのものが生まれながらに持つ物的な属性であるかに捉えることが、物神崇拝意識そのものだということではないでしょうか。

 

◎等価形態の謎

 

【8】パラグラフ

 

 《 (イ)ある一つの商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体やその諸属性とはまったく違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するのだから、この表現そのものは、それが或る社会的関係を包蔵していることを暗示している。 (ロ)等価形態については逆である。 (ハ)等価形態は、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの姿の物が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさにこのことによって成り立っている。 (ニ)いかにも、このことは、ただリンネル商品が等価物としての上着商品に関係している価値関係のなかで認められているだけである(21)。 (ホ)しかし、ある物の諸属性は、その物の他の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかではただ実証されるだけなのだから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとか保温に役だつとかいう属性と同様に、生まれながらにもっているように見える。 (ヘ)それだからこそ、等価形態の不可解さが感ぜられるのであるが、この不可解さは、この形態が完成されて貨幣となって経済学者の前に現われるとき、はじめて彼のブルジョア的に粗雑な目を驚かせるのである。 (ト)そのとき、彼はなんとかして金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにもっとまぶしくないいろいろな商品を持ち出し、かつて商品等価物の役割を演じたことのあるいっさいの商品賎民の目録を繰り返しこみあげてくる満足をもって読みあげるのである。 (チ)彼は、20エレのリンネル=1着の上着 というような最も単純な価値表現がすでに等価形態の謎を解かせるものだということには、気がつかないのである。》

 

 イ)、ロ) 相対的価値形態も価値が目に見えるように現れるのですが、この場合は、例えばリンネルの価値存在をリンネルの身体やその諸属性とはまったく違った、別の商品の身体やその物的属性によって、例えば上着なら上着の自然属性によって表すのだから、商品と商品との社会的関係において現れてくることが分かります。だからそれらの価値関係の背後に社会的関係が潜んでいることが暗示されているのです。しかし等価形態についてはそれが逆になっているです。

 

 さて、この部分の『補足と改定』を見ると、次のようになっています。

 

 《すべての商品の価値性格は社会的な刻印であり、そしてそのことによって,価値関係のなかで商品の物的な属性となる。この入れ替わりは,両方の形態に現われているのであるが,商品の相対的価値形態におけるよりも等価形態においてより決定的に現われる。すなわち,一商品の相対的価値形懇は明かに他の商品との関係によって媒介されている。この形態が商品体の価値存在を,その感覚的存在およびその物的属性とはっきりと区別することによって,その形態は同時に,価値関係そのものを背後に潜んでいる社会的関係の単なる現象形態でありうるということを示唆している。等価形態においては逆である。》(前掲同)

 

 このようにマルクスはここでは《入れ替わり》は両方の形態に現れていると述べています。相対的価値形態においても、相対的価値形態にある商品の価値が、その使用価値と区別されて、別の商品の使用価値によって表されるという限りでは、やはり自然形態が価値の形態になるという入れ替わりがあるのですが、しかし、その入れ替わりは、他の商品との関係に媒介されていることもはっきりしており、価値関係が社会的関係の現象形態であることを示唆しているというのです。しかし同じ入れ替わりでも等価形態においては、それが逆であり、価値関係内部でのことであることが見えにくくなっているというのです。

 

 ハ)、ニ) というのは、等価形態の場合、商品体、例えば上着のそのあるがままの姿、その自然形態そのものが価値を表しており、だから上着そのものが、生まれながらに価値の形態を持っているかのように見えるからです。もちろん、等価形態にある上着が直接価値を表すのは、リンネルとの価値関係のなかでのみ認められることであり、上着の表している価値というのは、リンネルの価値であって、上着の価値ではないのですが、自然形態そのものが価値を表しているから、価値が、上着自身の自然属性であるかに見えてしまうというのです。

 

 ホ) というのは、ある物の諸属性というのは、ある物が他の物との関係から生じるのではなくて、ただ他の物との関係のなかで確認されるだけであるから、等価形態にある上着が価値を表すということも、あるいは直接的交換可能性の形態も、同じように上着の自然属性、例えば重さがあるとか、保温に役立つといった属性と同じように、生まれながらに持っているもののように見えてしまうというわけです。

 

 この部分の『補足と改定』の一部は次のようになっています。

 

 《しかし,ある物の一定の肉体的属性は,この属性が効力をもつようになる他の物との関係から生じるのではなく,この関係は,返って,逆に,すでに存在している属性をあらわにするだけであるから,上着は,価値関係とは関係なく,その等価形態を,つまり直接的交換可能性の形態を,重さがあるとか寒さを防ぐとかというその属性と全く同じように,生まれながらにもっているように見える。》(前掲74頁)

 

 つまり等価形態にある商品は、その自然形態そのものが価値の形態として認められ、よってその使用価値のままに、そのままで自らの価値を表す商品とは直接に交換可能なものとして通用するわけだから、そうした諸属性が、本来は相対的価値形態にある商品との価値関係のなかでのみ生ずるものであるのに、あたかも等価形態にある商品が生まれながらに持っている他の自然属性と同じようなものとして見えてしまうということです。というのは物の属性というのは等価形態のように他の物との関係で初めて生じるというような性格のものではないから、等価形態の諸属性も価値関係を離れても、等価形態に置かれた商品自体が自然に持っているもののように見えるのだということです。

 

 ヘ) こうして等価形態の謎的性格が感じられます。この謎的性格は、等価形態が完成されて貨幣になって、ブルジョア経済学者の粗雑な目にもようやく驚きを持って迎えられることになります。

 

 ト) 彼は何とかとしてその金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにそれ以前に貨幣の役割を担ったさまざまな貨幣商品を持ってきて、それを説明したつもりになるのです。つまりこうしたまぶしくないものでも、そうした役割を果たしたのだから、燦然と輝き、誰もが欲しがる金銀がそうした役割を持っているのは当然なのだというわけです。

 

 チ) しかし彼は、もっと簡単な価値形態、20エレのリンネル=1着の上着 の中にこそ、こうした等価形態の謎を解く鍵があるということを考えてもみないのです。

 

 ところで所沢の「『資本論』を読む会」の学習会の報告では、「《等価形態の謎》とは、どのような内容なのか」という疑問が出されことが紹介され、大谷禎之介氏の「貨幣形態の謎」と「貨幣の謎」についての言及が紹介されています。この問題については、先にも紹介しました、大阪の「『資本論』を学ぶ会」の「ニュース」No.23でも以前紹介したことがあるので、それをここに再現しておきましょう。

 

 【◎「謎」と「秘密」の区別!?

 

 さて紙数は残りわずかとなりましたので、最後に、問題提起だけをやっておきます。『ニュース』前号(№22)で、第三節のまとめとして久留間鮫造著『価値形態論と交換過程論』の一節を引用しましたが、そこで久留間氏は第三節(価値形態論)の課題を「貨幣形態の謎を、そしてそれと同時にまた貨幣の謎を解くことにある」と述べていました。ここで「貨幣形態の謎」とは、「一般に商品の価値が特殊の一使用価値--金--の一定量という形態で表現されることの謎」と説明され、「貨幣の謎」とは「金の使用価値--本来価値の反対物たるもの--がそのまま一般に価値として妥当することの謎」である、と説明されています。そして「貨幣形態および貨幣の謎の核心」は「価値形態そのものの謎」であり、それは「商品の価値はそれに等値される他商品の使用価値で表示されるということ、そしてそのさい、この他商品の使用価値は、それを自らに等値する商品にとって価値の形態になるということこれである」と説明されていました。

 

 また大谷禎之介氏も『価値形態』という論文で次のように述べています。「物である金(Au)の量が価値の量を表現する、というようなことがいったいどのようにして可能なのか。・・・・この謎を〈貨幣形態の謎〉と呼ぶ」「物である金、使用価値としての金が、その反対物である価値そのものとして通用することの謎、〈貨幣の謎〉」と。

 

 ところが最近、こうした久留間氏や大谷氏の「謎」の理解に異論が出されていることを知りました。まず武田信照氏は次のように指摘します。「(久留間)氏のいうように、上着という商品体=使用価値が直接価値形態になることが等価形態の謎なのではない。そうではなくて、リンネルとの価値関係の内部でのみ認められるこのような等価商品の性格が、この価値関係から独立しても認められるようにみえること、つまりその性格が上着という使用価値の生まれながらの自然属性にみえること、これが等価形態の謎なのである。非自然属性が自然属性にみえる等価形態の謎は、最も発展した等価形態である貨幣において完成した姿であらわれる」(『法経論集』経済・経営篇、53頁)と。

 

 これに対して藤本義昭氏は、この武田氏の指摘は正しいが、しかし武田氏は「上着がいかにして価値物となるかという問題」の理解で間違っていると指摘し、久留間氏にあっては「価値形態の秘密」および「貨幣の秘密」と「等価形態の謎」及び「貨幣の謎」とが「厳密に区別されずに混同されている」と指摘しています(『大阪市大論集』第30号、11頁)。そして次のように説明しています。

 

 〈簡単な価値形態に則して言えば、リンネル価値が上着の使用価値で表現されることによって上着が直接に価値物として意義をもち、リンネルの等価物となることは、この二商品の価値関係のうちにひそんでいる「価値形態の秘密」ではあっても、等価形態の謎ではない。この「価値形態の秘密」の発見は、上着が生まれながらにして直接交換可能性という属性をもつようにみえる等価形態の謎を解消させはするが、等価形態という上着に刻印された「一つの新たな形態」を解消させはしないのである。だから『資本論』では、「貨幣形態の生成を論証すること・・・これによって同時に貨幣の謎も消滅する」とされているように、金という特定の商品が生まれながらにして貨幣であるという「虚偽の仮象」をはぎとるために、貨幣形態の生成を論証することが価値形態論の課題として明確に提示されるのである。マルクスはこの課題を「いっさいの価値形態の秘密」の発見とそれを基礎にした価値形態の発展的移行の究明によって果たすのであるが、このうち前者が第三節の「A簡単な、個別的な、また偶然的な価値形態」における主要な課題である〉(同11~2頁)

 

 こうした疑問にどのように答えるのか、一度、皆様も考えてみてください。ここではこうした疑問や批判を検討する余裕はないので問題提起だけをしておきます。】

 

 武田氏の指摘はもっともであるような気がします。しかし藤本氏の主張は果たしてどうでしょうか。

 

◎反省規定という奇妙なもの

 

 最後は、注21です。

 

 《(21))およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである。》

 

  これと同じ注は初版本文にもありますが(付録にはない)、その注が付けられている本文では、次のような一文があります。

 

  《価値形態の両方の規定、または交換価値としての商品価値の両方の表示様式は、単に相対的であるとはいえ、両方が同じ程度に相対的に見えるのではない。リンネルの相対的価値 20エレのリンネル=一着の上着 においては、リンネルの交換価値が明白に他の一商品にたいするリンネルの関係として示されている。上着のほうは、たしかにただ、リンネルがそれ自身の価値の現象形態としての、したがってまたリンネルと直接に交換されうるものとしての、上着に関係するかぎりにおいてのみ、等価物である。ただこの関係のなかにおいてのみ上着は等価物なのである。しかし、上着は受動的にふるまっている。それはけっしてイニシアチブを取ってはいない。上着が関係のなかにあるのは、それが関係させられるからである。それだから、リンネルとの関係から上着に生ずる性格は、上着のほうからの関係の結果として現われるのではなくて、上着の作為なしに存在するのである。それだけではない。リンネルが上着に関係する特定の仕方は、たとえ上着がまったく控え目であって、けっして「うぬぼれて気の狂った仕立屋」の製品ではなくても、まったく、上着を「魅惑する」ように仕立てられている。すなわちリンネルは、抽象的人間労働の感覚的に存在する物質化としての、したがってまた現に存在する価値体としての、上着に関係するのである。上着がこういうものであるのは、ただ、リンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであり、またそのかぎりにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリンネルの反射規定なのである。ところが、それがまったく逆に見えるのである。一方では、上着は自分自身では、関係する労をとってはいない。他方では、リンネルが上着に関係するのは、上着をなにかあるものにするためではなくて、上着はリンネルがなくてもなにかあるものであるからなのである。それだから、上着にたいするリンネルの関係の完成した所産、上着の等価形態、すなわち直接に交換されうる使用価値としての上着の被規定性は、たとえば保温するという上着の属性などとまったく同じように、リンネルにたいする関係のにあっても上着には物的に属しているように見えるのである。相対的な価値の第一の形態または単純な形態 20エレのリンネル=一着の上着 にあっては、このまちがった外観はまだ固定されてはいない。なぜならば、この形態は直接に反対のことをも言い表わしているからである。すなわち、上着がリンネルの等価物であるということ、および、これらの両商品のそれぞれがこのような被規定性をもつのは、ただ、他方の商品がその商品を自分の相対的な価値表現とするからであり、また、そうするかぎりにおいてのことである、ということがそれである。(21)》

 

 また『補足と改定』では、注としてではないのですが、次のような面白い例を使った説明も見ることが出来ます。

 

 《実際,ある商品が等価物の役割を演ずるのは,ある他の商品の価値がそれにおいて表現されているからであり,またその限りでしかない。一商品の等価形態はこの関係から発生し,この関係の内部でのみ存在し,したがって,この関係に媒介されている。同じように、老婆の魔女的性格もまた迷信深い農民と彼女との関係のなかで成り立つのである,しかし,この老婆が農民にとって魔女として通用するのは,彼女が何もしなくても魔女的性格をもっているように見えるからでしかない。同じように,ある商品,たとえば上着が他の商品、たとえばリンネルの等価物であるのは,上着が何もしなくてもこの性格をもっているように見えるからにすぎない。上着は,リンネルが上着を自分自身の価値鏡にするかぎりにおいてのみ,等価物の形態を受け取る。リンネルは,上着がもともと,生まれながら価値鏡であるから,自分の価値を上着に映すように見える。その結果・・・》前掲73頁)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

【付属資料】

 

 ここではこれまでと同様に、今回検討した各パラグラフごとに、関連する資料として引用集を紹介しておきます。

 

【4】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 《c 等価形態の諸特性

  α 等価形態の第一の特性使用価値がその反対物たる価値の現象形態になる。》(国民文庫版139頁)

 

《補足と改訂》

 

 《等価形態の独自性への移行

  等価形態が内包する矛盾はその独自性をさらに詳細に考察することを必要とする》(小黒訳72頁)

 

《フランス語版》

 

 《等価形態が含んでいる矛盾は、いまでは、この形態の特色のいっそう徹底的な考察を要求している。  価形態の第一の特色 。使用価値が、その対立物である価値の表示形態になる。》(江夏他訳27頁)

 

【5】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 《商品の現物形態が価値形態になる。しかし、注意せよ、このような取り違えが一商品B(上着または小麦または鉄、等々)にとって起こるのは、ただ、その商品にたいして任意の他の一商品A(リンネル、等々)がはいるところの価値関係のなかにおいてのみのことでありただこの関係のなかにおいてのみのことである。それ自体としては、孤立的に考察すれば、たとえば上着は、リンネルまったく同じように、ただ、有用な物、使用価値であり、したがってまた、その上着形態も、ただ、一定の商品種類の使用価値の形態または現物形態であるにすぎない。しかし、どの商品も等価物としての自分自身に関係することはできないのだししたがってまたそれ自身の現物外皮をそれ自身の価値の表現とすることもできないのだから、商品は等価物としての他の商品に関係しなければならないのであり、言い換えれば、他の一商品体の現物外皮を自分自身の価値形態にしなければならないのである。》(前掲139-140頁)

 

《フランス語版》

 

 《商品の自然形態がその価値形態になる。だが、実際には、この取り替えが商品B(上衣、小麦、鉄等)にとって生ずるのは、ただ、他の商品A(リンネル等)が商品B にたいしてとる価値関係の限界内でのことであり、たんにこの限界内に限られる。たとえば上衣は、これを単独に考察すれば、リンネルと同じく絶対に使用価値という有用物でしかなく、その形態は、特殊な種類の商品の自然形態でしかない。だが、どんな商品も等価物として自分自身に関係することはできないし、自分の自然形態を自分自身の価値形態にすることもないから、どんな商品も必ず他の商品を等価物として選ばなければならず、これによって後者の使用価値が前者にとって価値形態の役を果たすのである。》(前掲27-28頁)

 

【6】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 《このことをわれわれに明示するものは、商品体としての、すなわち使用価値としての、商品体にあてがわれる尺度の例であろう。棒砂糖は、物体だから、重さがあり、したがってまた重量をもっているが、どんな棒砂糖からもその重さを見てとったり感じとったりすることはできない。そこで、われわれは、その重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片をとってみよう。鉄の物体形態は、それ自体として見れば、棒砂糖の物体形態と同様に、重さの現象形態ではない。それにもかかわらず、棒砂糖を重さまたは重量として表現するためには、われわれは棒砂糖を鉄との重量関係に置く。この関係のなかでは、鉄は、重さまたは重量以外のなにものをも表わしていない物体として認められている。それだからこそ、いろいろな鉄量は、砂糖の重量尺度として役だち、砂糖体にたいして単なる重さの姿重さの現象形態を代表するのである。このような役割を鉄が演ずるのは、ただ、砂糖とか、またはその重量が見いだされるべきなんらかの他の物体が鉄にたいしてとるところの、この関係のなかにおいてのみのことである。もしこの両方の物に重さがないならば、これらの物はこのような関係のなかにはいることはできないであろうし、したがってまた一方のものが他方のものの重さの表現に役だつこともできないであろう。われわれがこの両方の物を秤りの皿に載せてみれば、それらの物が重さとしては同じものであり、したがってまた一定の割合にあれば同じ重量のものである、ということが実際にわかるのである。この場合に鉄体が棒砂糖にたいしてただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては上着体はリンネルにたいしてただ価値だけを代表しているのである》(前掲140-1頁)

 

《フランス語版》

 

 《物体としての商品、すなわち使用価値としての商品に適用される尺度が、上述したことを読者の眼に直接明らかにするための事例として役立つ。棒砂糖は物体であるから重い、したがって重量をもっている。だが、この重量をたんに外観上眼で見ることもまたは手で触れることもできない。さて、既知の重量をもつさまざまな鉄片をとってみよう。鉄の物体形態は、それ自体として考察すれば、棒砂糖の物体形態と同じく重量の表示形態ではない。しかし、棒砂糖が重いことを表現するために、われわれは棒砂糖を鉄との重量関係に置く。鉄はこの関係のなかでは、重量以外になにも表わさない物体と見なされる。したがって、砂糖の重量を測るために用いられる鉄の量は、砂糖という物体にたいして単なる形態、すなわち、重量が表示される形態を表わす。鉄がこの役割を演じることができるのは、砂糖であろうと、重量を必ずもつ他のどんな物体であろうと、それらがこういった観点で鉄と関係させられるかぎりでのことなのだ。もし両物体に重さがなければ、相互間にこの種のどんな関係もありえないであろうし、一方が他方の重量の表現に役立つこともできないであろう。両者を双方とも天秤盤にのせると、両者が重量としては同じ物であり、したがって、両者がある比率のもとで同じ重さでもあることが、実際にわかるのである。鉄体が重量の尺度としては棒砂糖にたいして重量しか代表しないのと同じように、われわれの価値表現でも、上衣体はリンネルにたいして価値しか代表しない。》(前掲28頁)

 

【7】パラグラフ

 

《補足と改訂》--次のパラグラフと一緒に掲載

 

《フランス語版》

 

 《しかし、類似はここで終る。鉄は、棒砂糖の重量表現では、両物体に共通な自然的特性、それらの重量を代表するのにたいし、上衣体は、リンネルの価値表現では、両物体の超自然的特性、それらの価値、純粋に社会的な刻印という性格を代表する。》(前掲28-9 頁)

 

【8】パラグラフ

 

《補足と改訂》

 

 《[A1]

 

  しかし,類似はここまでである。重量は鉄と棒砂糖との物質的属性である。それにたいして、リンネルと上着の,要するにすべての商品の価値性格は社会的な刻印であり、そしてそのことによって,価値関係のなかで商品の物的な属性となる。この入れ替わりは,両方の形態に現われているのであるが,商品の相対的価値形態におけるよりも等価形態においてより決定的に現われる。すなわち,一商品の相対的価値形懇は明かに他の商品との関係によって媒介されている。この形態が商品体の価値存在を,その感覚的存在およびその物的属性とはっきりと区別することによって,その形態は同時に,価値関係そのものを背後に潜んでいる社会的関係の単なる現象形態でありうるということを示唆している。相対的価値形態(等価形態の間違い?--引用者)においては逆である。

 

  実際,ある商品が等価物の役割を演ずるのは,ある他の商品の価値がそれにおいて表現されているからであり,またその限りでしかない。一商品の等価形態はこの関係から発生し,この関係の内部でのみ存在し,したがって,この関係に媒介されている。同じように、老婆の魔女的性格もまた迷信深い農民と彼女との関係のなかで成り立つのである,しかし,この老婆が農民にとって魔女として通用するのは,彼女が何もしなくても魔女的性格をもっているように見えるからでしかない。同じように,ある商品,たとえば上着が他の商品、たとえばリンネルの等価物であるのは,上着が何もしなくてもこの性格をもっているように見えるからにすぎない。上着は,リンネルが上着を自分自身の価値鏡にするかぎりにおいてのみ,等価物の形態を受け取る。リンネルは,上着がもともと,生まれながら価値鏡であるから,自分の価値を上着に映すように見える。その結果……

 

 [A2]

 

  しかし,類似はここまでである。鉄体は,棒砂糖の重量表現においては,両方の物体に共通な自然属性であるそれらの重さを代表するのにたいして--上着体は,リンネルの価値表現においては,両方の物の超自然的属性,それらの価値を,純粋に社会的な刻印という性格を,代表する。リンネルといったような一商品体の相対的価値形態は,その価値存在を,その商品体の感覚的な存在およびその物的属性とは完全に区別されるものとして,たとえば20エレのリンネルと1着の上着との同等性として表現するのであるが,そのことによって,価値関係がその背後に潜んでいる社会的関係を現しているということを,この形態は同時に暗示している。等価形態については逆である。等価形態とは,まさに,ある商品の身体が,その物が,あるがままで直接的に価値を表しているということなのである。  

 

 [10〕確かに,このことが通用するのは,ある他の商品,たとえばリンネルの上着商品との価値関係の内部でのことにすぎない。(注21,p.23) しかし,ある物の一定の肉体的属性は,この属性が効力をもつようになる他の物との関係から生じるのではなく,この関係は,返って,逆に,すでに存在している属性をあらわにするだけであるから,上着は,価値関係とは関係なく,その等価形態を,つまり直接的交換可能性の形態を,重さがあるとか寒さを防ぐとかというその属性と全く同じように,生まれながらにもっているように見える。そこから,等価形態の謎的性格が生じるのであるが,この謎的性格が経済学者の粗野な実際的な目を見はらせるのは,やっと,等価形態が完成されて貨幣となって彼の前に立ち現わるときである。20エレのリンネル= 1着の上着という最も簡単な価値表現がすでに,等価物の謎的性格をもっているということに,ほんのすこしも気づくことをせずに,かえって彼は,金銀の神秘的性格を説明し去ろうと妄想して,金銀の代わりに目をくらませることのさらに少ないいろいろな商品をこっそりもってきて,かつては商品等価物の役割を演じたことのあるこれらいっさいの商品賎民の目録を棒読みする。

 

  [B]

 

  等価形態 第1の独自性

 

  しかし,類似はここまでである。鉄体は,棒砂糖の重量表現においては,両方の物体に共通な自然属性,--それらの重さ--,を代表するのにたいして,上着体はリンネルの価値表現においては,両方の物の超自然的属性を,それらの価値を,純粋に社会的なものを,代表する。

 

  一商品,たとえばリンネルの相対的価値形態は,リンネルの価値存在を,リンネルの身体およびこの身体の属性と完全に区別されるものとして,たとえば上着にひとしいものとして表現するのであるが,この形態は,この表現が社会的関係を隠していることを暗示している。

 

  等価形態については逆である。等価形態とは、まさに、ある商品体、たとえば上着がこのあるがままの物が,価値を表現し、したがって,生まれながらにして価値形態をもっている、ということなのである。確かに,このことが通用するのは,ただ,他の商品たとえばリンネルが,等価物としての上着に関係させられている価値関係の内部でのことにすぎない。(注21,p,23)しかし,ある物の身体的諸属牲は,その物の他の諸物との関係から生じるのではなく,むしろこのような関係のなかで確認されるだけであるから,上着もまた,その等価形態を,直接的交換可能性というその属性を,重さがあるとか寒さを防ぐとかというその属柱と同じように,生まれながらにもっているかのように見えるのである。そこから,等価形態の謎的性格が生じるのであるが,この謎的性格が経済学者のブルジョワ的な粗雑な目を見はらせるのは,やっと, 等価形態が完成されて貨幣となって彼の前に立ち現れるときである。そのとき,彼は,金銀の神秘的性格を説明し去ろうとして,金銀の代わりに目をくらませることのさらに少ないいろいろな商品をこっそりもってきて,かつては商品等価物の役割を演じたことのあるこれらいっさいの商品賎民の目録を棒読みしては,そのたびた満足のよろこびを新たにする。すでに,20エレのリンネル=1着の上着というようなもっとも簡単な価値表現が等価形態の謎を解く鍵を与えていることなど, 彼は感づきもしないのである。》(前掲73-76頁)

 

《フランス語版》

 

 《相対的形態が、たとえばリンネルという商品の価値を、その体躯そのものおよびその属性とは全く異なるあるものとして、たとえば上衣に類似しているあるものとして表現するとき、この相対的形態は、ある社会的関係がこの表現のもとに隠されていることを示している。

 

  等価形態のばあいは、逆のことが起こる。等価形態はまさに、ある商品体たとえば上衣が、そういうものとしてのこの物が、価値を表現し、したがって、当然に価値形態をもっている、ということから成り立っている。確かに、このことが正しいのは、リンネルのような他の商品が等価物としての上衣に関係するかぎりのことでしかない。(20)だが、ある物の物質的属性は、他の物にたいする外的関係から生ずるのではなく、この関係のなかで確認されるにすぎないのと同様に、上衣もその等価形態を、すなわち、直接に交換可能であるという属性を、重いとか熱いとかいう属性と同じく当然に、自然から引き出しているように見えるのであって、リンネルとの価値関係から引き出しているのではないかのように見える。ここから等価物の謎のような側面が生まれるのであって、この側面は、この形態がすっかり完成して貨幣の姿でブルジョア経済学者に現われるときにはじめて、彼の眼を驚かす。次いで彼は、銀や金のこの神秘的な性格を一掃するために、銀や金をそれほど眩しくない商品にこっそりとりかえようとする。彼は、かつて等価物の役割を演じてきたすべての物品のカタログをなんどもなんども作り変えては、そのたびに喜びを新たにする。二〇メートルのリンネルが一着の上衣に値するといったような最も単純な価値表現が、すでに謎を含んでいることも、自分がこの単純な価値形態のもとで謎解きの努力をしなければならないことも、彼は予感していない。》(前掲29頁)

 

【注21】

 

《フランス語版》

 

 《(20) ほかの概念界でも、やはりこのとおりである。たとえば、この人が玉であるのは、他の人々が彼の臣民と見なされ、それに応じて振舞うからでしかない。これらの人々は逆に、彼が王であるから自分たちは臣民であると信じている。》(同前)

 

 

 

 

 

 


第22回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

 

                                    

 「トヨタ神話の崩壊」、「史上最悪のリコール」。

 

 トヨタのリコール問題が世界のマスコミを騒がせている。

 

 今回のリコールの対象は大きくわけて三つある。

 

 一つはアメリカにおいて、フロアマットを二重に敷いたことによって暴走して四人が死亡するという事故が発端になったものである。トヨタは当初、自社の責任を否定しながらも、結局、8車種計426万台を対象にしたリコールに追い込まれた。

 

  もう一つはフロアマットとは無関係にアクセルペダルが元に戻りにくい不具合の発生である。これも8車種計230万台のリコールの実施を発表した。

 

  そして最後はトヨタの技術の粋を集めたとされるハイブリッド車プリウスのブレーキ問題である。これは前二者が海外市場に限定されたものであったのに対して、日本市場においても、プリウスとブレーキシステムを共有している5車種計20数万台のリコールを届け出ることになった。

 

 アメリカの公聴会に出席したあと日本のテレビ局に出演した豊田章男社長は「事業の急拡大が人材育成のスピードを上回った」と、今回のリコール問題を引き起こした原因について述べたという。

 

 

アメリカの公聴会に出席した豊田社長

 

 確かにトヨタのここ数年の生産拡大には驚異的なものがある。1998年から2007年の十年間で海外に16工場を建設、年平均1.6工場の「怒濤の工場建設ラッシュ」と言われた。生産台数も99年以降ほぼ毎年50万台の生産能力を増強させ、世界生産台数は2001年の513万台に対して07年には853万台に達している。こうしたなかで品質低下への懸念がグループ内でも徐々に増していたと言われている。

 

 

 今回のトヨタのリコール問題に限っていうなら、こうした問題が直接の原因として考えられる。しかし資本主義的生産においては、すべての技術は「資本の技術」として、すべての生産力は「資本の生産力」としてしか存在しないという現実こそが、根本的な原因なのである。資本主義的生産は直接には使用価値を目的にした生産ではない、ただ価値(剰余価値=利潤)を目的にした生産なのである。資本にとっては、高度な技術や生産力も、ただ労働を搾取し最大の利潤を獲得するためにのみ存在する。だからその生産は、直接には使用価値、つまりそれを使用する顧客を考えたものとはならず、それらはただ利潤獲得に必要な限りで顧慮されるにすぎないのである。

 

 マルクスは次のように述べている。

 

 《科学や自然力や大量の労働生産物のこのような社会的労働に基づく充用は、すべてそれ自身ただ労働の搾取手段としてのみ、剰余労働を取得する手段としてのみ、それゆえ、労働に対立し資本に所属する諸力としてのみ現われるのである。もちろん、資本は、ただ労働を搾取するためにのみこれらすべての手段を充用するのであるが、労働を搾取するためには、資本はそれらの手段を生産に充用しなければならない。このようにして労働の社会的生産力の発展もこの発展の諸条件も、資本の行為として現われるのであって、これにたいして個々の労働者は受動的な態度をとるだけでなく、むしろ労働者に対立してこれが進行するのである。》(『剰余価値学説史』26巻 I 498頁)

 

 資本主義的生産は労働の社会的生産力を高度に発展させ、人類の福祉を豊かにする物質的基礎を形成する。しかしそれはあくまでも一つの間接的な歴史的な結果に過ぎず、それらを直接に目的とした結果ではない。だからそうした物質的生産力の発展は、他方で何万何千万もの犠牲をもたらす戦争や膨大な環境破壊、労働力の飽くなき搾取と浪費等々を通してしか実現できないのである。資本主義的生産様式の克服こそが問題の根本的解決への道である。

 

 その理解のために、あなたも、ともに『資本論』を読んでみませんか?

 


第22回「『資本論』を読む会」の報告

第22回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎春の嵐と黄砂

 

 第22回「『資本論』を読む会」が開催された3月21日はよい天気でしたが、前日からの突風と黄砂の名残がまだあり、時々なま温かい強風が吹いていました。

 

  私たちが学習会を開催している堺市立南図書館の3階会議室の窓から見える桜の木は、赤い蕾を膨らませていました。この桜もすぐにも開花を迎え、私たちの目を楽しませてくれることでしょう。

 

  花の季節が巡って来たのに、私たちの学習会はなかなか開花しそうになく、相変わらずの集まりでした。といっても学習会の内容そのものは充実したものだったのです。さっそく、その報告に移りましょう。今回は等価形態の第二の特性と第三の特性の途中まで進みました。

 

◎等価形態の第二の特色

 

 第9パラグラフから始まります。いつもの通り、まずパラグラフの本文を紹介し、文節ごとにイ)、ロ)、ハ)……の記号を打ち、それぞれの解読を順次行うことにします。

 

【9】

 

 (イ)等価物として役だつ商品の身体は、つねに抽象的人間労働の具体化として認められ、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。 (ロ)つまり、この具体的な労働が抽象的人間労働の表現になるのである。 (ハ)たとえば上着が抽象的人間労働の単なる実現として認められるならば、実際に上着に実現される裁縫は抽象的人間労働の単なる実現形態として認められるのである。 (ニ)リンネルの価値表現では、裁縫の有用性は、それが衣服をつくり、したがって人品をもつくるということにあるのではなく、それ自身が価値であると見られるような物体、つまりリンネル価値に対象化されている労働と少しも区別されない労働の凝固であると見られるような物体をつくることにあるのである。  (ホ)このような価値鏡をつくるためには、裁縫そのものは、人間労働であるというその抽象的属性のほかにはなにも反映してはならないのである。》

 

 今回から〈等価形態の第二の特色〉の説明です。初版付録や「補足と改定」、あるいはフランス語版では、パラグラフの前に表題として、〈β 等価形態の第二の特性具体的な労働がその反対物たる抽象的な人間労働になる〉(初版付録)とか、〈価値形態(「等価形態」の誤植?--引用者) 第二の独自性〉(「補足と改定」)、〈等価形態の第二の特色。具体的労働が、その対立物である抽象的人間労働の表示形態になる〉(フランス語版)と書かれていて、これから考察する課題がまず明らかにされていますが、現行版では、【9】パラグラフそのものには何もそれらしいものはなく、その代わりに【11】パラグラフで、それまでの考察の結論として表題と同じ内容が述べられています。とにかく文節ごとに、詳細に検討していくことにしましょう。

 

 (イ) 等価形態として役立つ商品の身体、例えば上着の商品体は、価値体として認められます。すなわちその自然形態が価値の形態、価値が具体的な形をとって目に見える物として現れたものとして認められています。上着の具体的な現物形態が価値の形態として、だから無差別な人間労働が対象化したもの、抽象的人間労働がそこに具体的に凝固しているものとして、認められるのです。しかし他方で、上着という物的姿を形作っているのは、抽象的人間労働ではなくて、一定の有用な具体的な労働--裁縫労働なのです。

 

 (ロ) だからここでは、この具体的な有用労働が、抽象的人間労働が具体的な姿をとって現れているものになっているわけです。すなわちその表現になっているのです。

 

 (ハ) 上着形態、上着の物的形態が、抽象的人間労働の単なる実現形態、抽象的人間労働がその物的姿をとって自らを現わし実現したものと認められるなら、実際には上着を形作っている裁縫労働が抽象的人間労働の単なる実現形態として認められるわけです。

 

 学習会では、ここの〈単なる実現として認められるならば、・・・・単なる実現形態として認められる〉という言い方のなかで〈単なる〉が二回出てくるのですが、どうしてここで〈単なる〉と言われているのか、これは何を意味しているのだろうか、という疑問が出されました。

 

 これは次のようなことではないか、という意見が出ました。上着が価値体として認められるということは、上着の自然形態が価値の形態として認められるということですが、価値というのは抽象的人間労働の凝固であり、無差別な人間労働だけからなっています。しかし上着の自然形態というのは、決して、例えば裁縫労働という具体的な有用労働だけからなっているわけではありません。それは具体的な有用労働と物的素材との結合の産物であり、上着の目に見える物的姿は、それが形作られている物的素材(ウール生地等)と、それに支出された裁縫労働の産物であることが目に見えています(裁縫労働は痕跡として見えているだけですが)。しかし上着の自然形態が価値の形態として認められるということは、上着が純粋に無差別な労働だけからなっているとみなされるわけです。その結果、上着の物的姿を形作った裁縫労働だけが抽象的人間労働の表現形態になっているといわれているわけです。だから〈単なる〉というのは、上着が単に労働だけからなっているものと認められるという含意ではないかというわけです。

 

 (ニ) リンネルの価値表現では、上着の使用価値は、ただリンネルの価値を具体的に表すという役割だけが問われているだけで、上着の使用価値本来の有用性は何も問われていません。だから上着の使用価値を形作る裁縫労働の有用性も、上着の使用価値本来の有用性を形作る側面は何も問題にされずに、ただリンネルの価値に対象化されている労働と少しも区別されない労働、つまり抽象的人間労働の凝固であるという物体をつくるという面だが問われているわけです。

 

 ここで〈裁縫の有用性は、それが衣服をつくり、したがって人品をもつくるということにあるのではなく〉と言われていますが、〈人品をもつくる〉というのは、新日本新書版では、〈「馬子にも衣装」を意味するというドイツの諺をもじっている〉との説明があります。そして実際、フランス語版では〈リンネルの価値を上衣において表現するばあい、仕立屋の労働の有用性は、この労働が上衣を作る、そしてまた、ドイツの諺によれば人を作る、という点にあるのではなく〉(江夏他訳30頁)となっています。

 

 (ホ) 「相対的価値形態の内実」の最後の【11】パラグラフでは、それまでの考察の結論として〈価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態が商品Aの価値形態となる。言いかえれば、商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる〉と言われていたように、リンネルの価値表現では、上着の身体がリンネルの価値鏡になります。そして価値鏡としての上着の身体を作るためには、裁縫労働そのものは、抽象的人間労働であるという属性以外の何も反映してはならないのだというのです。これは裁縫労働に抽象的人間労働がその内的契機として含まれているということではありません。裁縫労働という具体的な労働そのものが抽象的人間労働そのものの反映なのだということなのです。つまり裁縫労働が抽象的人間労働という目に見えない内的なものが外的な物として現れた実現形態としてあるということなのです。

 

 ここで上着の身体がリンネルの〈価値鏡〉になる、とありますが、この鏡は「魔法の鏡」ではないか、という話が出ました。というのは普通の鏡なら、鏡の前に立ったものの外面を映し出すだけですが、この価値鏡の場合は、リンネルのゴワゴワした直接的な対象性に隠された内的本質である価値を映し出すからです。「魔法の鏡」の前に立つと、その人の美しい外面に隠された醜い本質が、悪魔の顔として映し出されるのと同じだというのですが、果たしてどうでしょうか。

 

◎等価形態の第二の特色の神秘性(転倒)

 

【10】

 

 (イ)裁縫の形態でも織布の形態でも、人間の労働力が支出される。 (ロ)(それだから、どちらも人間労働という一般的な属性をもっているのであり、また、それだから、一定の場合には、たとえば価値生産の場合には、どちらもただこの観点のもとでのみ考察されうるのである。 (ハ)こういうことは、なにも神秘的なことではない。  (ニ)ところが、商品の価値表現では、事柄がねじ曲げられてしまうのである。 (ホ)たとえば、織布はその織布としての具体的形態においてではなく人間労働としての一般的属性においてリンネル価値を形成するのだということを表現するためには、織布にたいして、裁縫が、すなわちリンネルの等価物を生産する具体的労働が、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として対置されるのである。》

 

 〈等価形態の第一の特色〉を論じたところでも、【8】パラグラフで等価形態にある上着が直接的交換可能性という属性を、あたかも重さがあるとか、寒さを防ぐというような上着が持っている自然的な属性と同じように、生まれながらに持っているかのように見えるという〈等価形態の謎〔Raetselhafte〕〉について論じていましたが、今回のパラグラフは、それ対応させて、同じような等価形態の神秘的性格が第二の特色に関連して論じられているように思えます。

 

 (イ)、(ロ)、(ハ) われわれは「第2節 商品に表される労働の二重性」の最後のパラグラフで、〈すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する〉と言われていたのを知っています。ここで言われていることはこのことです。すなわち、裁縫労働も織布労働も、人間労働力が支出され、だからどちらも人間労働という一般的な属性を持っている。だからある場合には、すなわち価値生産という場合には、労働の一般的な属性において考察され、使用価値生産の場合には、労働の具体的な属性から考察される。こういうことには神秘的なことは何一つないわけです。

 

 (ニ)、(ホ) ところが、商品の価値表現では、事柄がねじ曲げられてしまいます。織布労働がその一般的属性、すなわち無差別な人間労働一般という属性においてリンネルの価値を形成するということを表現するために、この織布労働に対して、リンネルの等価物である上着を生産する裁縫労働が、その具体的な労働の形態のままで、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として現れ、対置されなければならないのです。裁縫という具体的な労働が抽象的人間労働が現実に目に見えるものとして現れ出てたものとみなされるのです。初版付録では次のように書かれています。

 

 〈価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。たとえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人間労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるということ裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。〉(国民文庫版142-3頁)

 

 これがどれほど奇妙なことであり、また価値表現の理解を困難にするかは、やはり初版付録では次のように説明されています。

 

 〈この転倒によってはただ感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として認められるだけであって、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として認められるのではないのであるが、この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とは両方とも法である、と言うならば、それは自明なことである。これに反して、もし私が、法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関速は不可解になるのである。〉(同上)

 

【11】

 

 《だから、具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということは、等価形態の第二の特色なのである。》

 

 これは初版付録や「補足と改定」、フランス語版では最初に表題として掲げられているものが、現行版では、最後に結論として述べられているわけです。

 

◎等価形態の第三の特色

 

【12】

 

 《 (イ)しかし、この具体的労働、裁縫が、無差別な人間労働の単なる表現として認められるということによって、それは、他の労働との、すなわちリンネルに含まれている労働との、同等性の形態をもつのであり、したがってまた、それは、すべての他の商品生産労働と同じに私的労働でありながら、しかもなお直接に社会的な形態にある労働なのである。 (ロ)それだからこそ、この労働は、他の商品と直接に交換されうる生産物となって現われるのである。 (ハ)だから、私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということは、等価形態の第三の特色である。》

 

 初版付録や「補足と改定」、フランス語版では、やはり最初に表題がついています。すなわち〈γ 等価形態の第三の特性。私的労働がその反対物の形態たる直接的に社会的な形態 における労働になる。〉(初版付録)、〈第三の独自性。等〉(「補足と改定」)、〈等価形態の第三の特色 。〉(フランス語版)というようにです。

 

 (イ) 上着の現物形態を作る具体的な裁縫労働が、無差別な人間労働、抽象的人間労働の表現として認められることによって、その労働は、他の労働との、つまりリンネルに含まれている労働、リンネルの価値を形成した労働と同等性の形態をもつのです。そしてそのことにみって、裁縫労働は、すべての他の商品を生産する労働と同じように私的労働でありながら、同時に直接に社会的な形態にある労働と認められるわけです。ここで「直接に社会的な形態にある労働」とありますが、「第二節 商品に表される労働の二重性」において、次のような一文がありました。

 

 〈いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体――社会的分業が現われている。社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。・・・・ただ、独立に行なわれていて互いに依存し合っていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである。

 

 また初版付録の〈γ 等価形態の第三の特性〉の冒頭には次のような一文があります。

 

 〈諸労働生産物は、もしそれらが互いに無関係に営まれる独立な諸私的労働の諸生産物でないならば、諸商品にはならないであろう。これらの私的労働の社会的関連素材的に存在するのは、それらが一つの自然発生的な社会的分業の諸分肢であり、したがってまた、それらの生産物によっていろいろな種類の欲望を充足するかぎりにおいてのことであって、これらの欲望の総体からはやはり社会的な諸欲望の自然発生的な体系が成り立っているのである。しかし、このような、互いに無関係に営まれる諸私的労働素材的な関連は、ただ、それらの諸生産物の交換によってのみ、媒介され、したがってまた実現されるのである。それゆえ、私的労働の生産物が社会的な形態をもっているのは、ただ、それが価値形態を、したがってまた他の諸労働生産物との交換可能性の形態を、もっているかぎりにおいてのみのことである。それが直接に社会的な形態をもっているのは、それ自身の物体形態または現物形態が同時に他の商品とのそれの交換可能性の形態であり、言い換えれば、他の商品にたいして価値形態として認められているかぎりにおいてのことである。しかし、われわれがすで見たように、こういうことがある労働生産物にとって生ずるのは、ただ、それが、それにたいする他の商品の価値関係によって、等価形態にある場合、すなわち、他の商品にたいして等価物の役割を演ずる場合だけである。〉(前掲144頁)

 

 つまり諸商品を生産する労働は直接には私的労働であり、だからこそそれらは商品として交換されなければならないわけです。しかしそれらが交換されるためには、それらを生産した労働が、社会的な形態を持たねばなりません。そしてそれがすなわち諸商品の価値形態なのです。諸商品は価値形態を持つことによって、他の商品との交換可能性の形態を持つことになるのです。しかしそのためには諸商品は他の商品を自身の等価物にし、等価物商品を生産する労働を私的労働でありながら、しかもなお直接に社会的な形態を持った労働にすることによって、そうした自身の価値形態を持つのだということです。だから等価物を生産する労働は私的労働でありながら、同時に直接に社会的な形態にある労働になっているのです。

 

  しかし、裁縫労働が直接に社会的な形態にある労働になっている、といっても、それはあくまでも上着という商品に対象化された労働についてのみ言いうることであって、決して、現実に支出された裁縫労働そのものがその流動的な状態において、そうした形態にあるということではありません。言い換えれば、裁縫労働者が直接に社会的な関係のなかにあってその労働を行ったのではないということです。裁縫労働者はあくまでも一私人として上着を生産し、彼の支出する労働は直接には私的労働なのです。ただその労働が私的に支出されて商品に対象化されたあと、商品同士が互い関係し会う世界=商品世界において、すなわちその価値関係において、特定の商品上着が等価物という位置に置かれるかぎりにおいて、上着に対象化された労働がそうしたものと見做されるということなのです。だからこの場合、具体的な裁縫労働そのものが、抽象的人間労働の具体化として認められるように、私的労働そのものが、なおかつ直接に社会的な形態にある労働になっているわけです。

 

 (ロ) だからそのように、私的労働でありながら、なおかつ直接的に社会的な形態にある労働である裁縫労働の産物であるからこそ、上着は、等価形態の最初に考察したように、他の商品と直接に交換されうる生産物になっているわけです。

 

 初版付録からもう一つ紹介しておきましょう。

 

 〈裁縫労働というような、一定の、具体的な労働が、たとえばリンネルというような別種の商品に含まれている別種の労働との同等性の形態をもっていることができるのは、ただ、その特定の形態が、別種の諸労働の同等性を、またはそれらの労働における同等なものを、現実に形成しているあるものの表現として認められているかぎりにおいてのみのことである。しかし、別種の諸労働が同等であるのは、ただ、それらが人間労働一般、抽象的人間労働、すなわち人間労働力の支出であるかぎりにおいてのみのことである。だから、すでに明らかにしたように、等価物のなかに含まれている特定の具体的な労働抽象的人間労働の特定の実現形態または現象形態として認められているので、その労働は他の労働との同等性の形態をもっているのであり、したがってまた、すべての他の商品生産労働と同様に私的労働であるのに、しかもなお直接的に社会的な形態にある労働なのである。それだからこそ、その労働は他の商品と直接に交換されうる生産物となって現われるのである。〉(同上)

 

 (ニ) これは第二の特色の場合と一緒に、結論として第三の特色が定式化されているだけです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

【付属資料】

 

【9】パラグラフに関連して

 

《初版本文》

 

 〈20エレのリンネル=1着の上着 または xエレの連寝るはy着の上着に値する、という相対的な価値表現のなかでは、上着はただ価値または労働凝固体としてのみ認められているのではあるが、しかし、それだからこそ. 労働凝固体は上着として認められ、上着はそのなかに人間労働が凝固しているところの形態として認められるのである。使用価値上着がリンネル価値の現象形態になるのは、ただ、リンネルが抽象的人間労働の、つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、直接的物質化としての上着物質に関係しているからにほかならない。上着という対象性は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的につかまえられる対象性として、したがってまた現物形態における価値として、認められているのである。リンネルは価値としては上着と同じ本質のものであるがゆえに、上着という現物形態がこのようにリンネル自身の価値の現象形態になるのである。しかし、使用価値上着に表わされている労働は、単なる人間労働ではないのであって、一定の、有用な労働 、裁縫労働である。単なる人間労働、人間労働力の支出は、どのようにでも規定されることはできるが、それ自体としては無規定である。それは、ただ、人間労働力が特定の形態において支出されるときにはじめて、特定の労働として実現され、対象化されることができるのである。なぜならば、ただ特定の労働にたいしてのみ、自然素材は、すなわち労働がそれにおいて対象化される外的な物質は、相対するのだからである。ただへーゲル的な「概念」だけが、外的な素材なしで自己を客観化することを達成するのである。

 

 リンネルは、人間労働の直接的な実現形態としての裁縫労働に関係することになしには、価値または肉体化した人間労働としての上着に関係することはできない。とはいえ、リンネルを使用価値上着に関係させるものは、上着の羊毛的な快適さでもなければ、上着のボタンをかけられた有様でもなく、そのほか上着に使用価値として刻印するなんらかの有用的な質でもない。上着は、リソネルのためには、ただ、リンネルの価値対象性をリンネルのごわごわした使用対象性と区別して表わす、ということに役だつだけである。リンネルは、その価値をアギ〔植物名〕樹脂とか乾燥人糞とか靴墨とかで表現したとしても、同じ目的を達したであろう。それゆえ、同様に、裁縫労働がリンネルにとって有効であるのも、それが合目的的に生産的な活動であり有用労働であるかぎりにおいてのことではなくて、ただ、それが特定の労働として人間労働一般の実現形態であり対象化様式であるかぎりにおいてのみのことである。もしリンネルがその価値を上着においてではなく靴墨において表現したとすれぽ、リンネルにとってはまたやはり裁縫ではなく靴墨作りが抽象的人間労働の直接的実現形態として認められたであろう。つまり、ある使用価値または商品体が価値の現象形態または等価物となるのは、ただ、別のある商品が、前記の商品体に含まれている具体的な有用労働種類に、抽象的人間労働の直接的実現形態としてのそれに、関係する、ということによってのみである。〉(国民文庫版48-50頁)

 

《初版付録》

 

 〈β 等価形態の第二の特性具体的な労働がその反対物たる抽象的な人間労働になる

 

  上着はリンネルの価値表現において価値体として認められており、したがって、上着の物体形態または現物形態は、価値形態として、すなわち、無差別な人間労働の、単なる人間労働の、具体化として、認められている。しかし、それによって上着という有用物がつくられてその特定の形態を得るところの労働は、抽象的人間労働ではなく、単なる人間労働ではなくて、一定の、有用な具体的な労働種類--裁縫労働である。単純な相対的な価値形態が要求するのは、一商品たとえばリンネルの価値がただ一つの別の商品種類だけで表現されるということである。しかし、この別の商品種類がなんであるか、ということは単純な価値形態にとってはまったくどうでもいいのである。商品種類上着ではなく、リンネルの価値は、商品種類小麦ででも、あるいはまた商品種類小麦でではなく商品種類、等々ででも、表現されうるであろう。しかし、上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、つねに、リンネルの等価物はリンネルにたいして価値体として、したがってまた、単なる人間労働の具体化として、認められているであろう。そしてまたつねに、等価物の特定の物体形態は、それが上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、抽象的人間労働の具体化ではなくて、裁縫労働なり農民労働なり鉱山労働なりとにかく一定の具体的な有用労働種類の具体化であることに変わりはないであろう。だから、等価物の商品体を生産する特定の具体的な有用労働は、つねに必然的に、単なる人間労働の、すなわち抽象的人間労働の特定の実現形態または現象形態として認められなければならないのである。たとえば上着が価値体として、したがって単なる人間労働の具体化として、認められうるのは、ただ、裁縫労働が、それにおいて人間労働力が支出されるところの、すなわち、それにおいて抽象的人間労働が実現されるところの、特定の形態として認められているかぎりにおいてのみのことである。〉(国民文庫版141-2頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈価値形態(「等価形態」の誤植?--引用者) 第二の独自性

 

  等価物-商品の身体は,価値表現のなかでは,つねに,抽象的人間的労働の体化として通用し,しかも,つねに,一定の有用的具体的労働の生産物である。したがって,この具体的労働が,ここでは,抽象的人間的労働の表現にのみ役立つ。たとえば,上着が抽象的人間的労働の単なる実現として通用するとすれば,実際に上着に実現される裁縫労働は抽象的人間的労働の単なる実現形態として通用する。リンネルの価値表現においては,裁縫労働の有用性は,それが衣装をつくり,したがってまた風采をあげるということにあるのではなくて,それが価値であること,したがって,リンネルの価値に対象化された労働とまったく区別されない労働の凝固体であること,が見てとれるような一身体をつくることにある。このような価値鏡をつくるためには,裁縫労働そのものは,人間的労働というその抽象的属性以外のなにものも反映してはならない。〉(小黒正夫訳76頁)

 

《フランス語版》

 

 〈等価形態の第二の特色。具体的労働が、その対立物である抽象的人間労働の表示形態になる。

 

  等価物の体躯は、商品の価値表現では、つねに抽象的人間労働の具現として現われ、しかもつねに、特殊で具体的な有用労働の生産物である。したがって、この具体的労働は、ここでは、抽象的労働を表現することにだけ役立つ。たとえば、一着の上衣が抽象的労働の単なる実現であるならば、上衣のなかに実現されている仕立屋の行為もまた、抽象的労働の単なる実現形態にほかならない。リンネルの価値を上衣において表現するばあい、仕立屋の労働の有用性は、この労働が上衣を作る、そしてまた、ドイツの諺によれば人を作る、という点にあるのではなく、この労働が、価値の透きとおって見える体躯を、すなわち、リンネルの価値のなかに実現されている労働となんら区別されることのない労働の見本を、生産する、という点にある。このような価値の鏡になれるためには、仕立屋の労働そのものは、人間労働という属性以外になにものをも反映してはならないのである。〉(江夏他訳29-30頁)

 

【10】パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈われわれは、ここにおいて、価値形態の理解を妨げるあらゆる困難の噴出点に立っているのである。商品の価値を商品の使用価値から区別するということ、または、使用価値を形成する労働を、単に人間労働力の支出として商品価値に計算されるかぎりでのその同じ労働から区別するということは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態において考察する場合には、他方の形態においては考察しないのであるし、また逆の揚合には逆である。これらの抽象的な対立物はおのずから互いに分かれるのであって、したがってまた容易に識別されるものである。商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態の場合にはそうではない。使用価値または商品体はここでは一つの新しい役割を演ずるのである。それは商品価値の現象形態に、したがってそれ自身の反対物に、なるのである。それと同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な労働が、それ自身の反対物に、抽象的人間労働の単なる実現形態に、なる。ここでは、商品の対立的な諸規定が別々に分かれて現われるのではなくて、互いに相手のなかに反射し合っている。こういうことは、一見したところではあまりにも奇妙であるとはいえ、いっそう綿密に熟慮してみれば、必然的であることが判明する。商品は、もともと、一つの二重物、使用価値にして価値、有用労働の生産物にして抽象的な労働凝固体なのである。それゆえ、自分をそのあるがままのものとして表わすためには、商品はその形態を二重化しなげればならないのである。使用価値という形態のほうは、商品は生まれつきそれをもっている。それ滴品の現物形態である。価値形態のほうは、商品は他の諸商品との交際においてはじめてそれを得るのである。ところが、商品の価値形態は、それ自身もまたやはり対象的な形態でなければならない。諸商品の唯一の対象的な諸形態は、諸商品の使用姿態であり、諸商品の現物形態である。ところで、ある商品の、例えばリンネルの、現物形態は、その商品の価値形態の正反対物であるから、その商品は、ある別の現物形態を、ある別の商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければならない。その商品は、自分自身にたいして直接にずくことかできないことを、直接に他の商品にたいして、したがってまた回り道をして自分陣にたいして、することかできるのである。その商品は自分の価値を自分自身の身体において、または自分自身の使用価値において、表現することはできないのであるが、しかし、直接的価値定在としての他の使用価値または商品体に関係することはできるのである。その商品は、それ自身のなかに含まれている具体的な労働にたいしては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態として関係することはできないが、しかし、他の商品種類に含まれている具体的な労働にたいしては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態として関係することかできるのである。そうするためにその商品が必要とするのは、ただ、他の商品を自分に等価物として等置する、ということだけである。一商品の使用価値は、一般にただ、それがこのような仕方で他の一商品の価値の現象形態として役だつかぎりにおいてのみ、この他の商品のために存在するのである。……しかし、両商贔の価値関係をその質的な側面から見るならば、かの単純な価値表現のなかに価値形態の、したがってまた、簡単に言えば貨幣形態の、秘密を発見するのである〉(前掲50-52頁)

 

《初版付録》

 

 〈価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。たとえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人間労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるということ裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。この取り違えは不可避である。というのは、労働生産物で表わされている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無差別な人間労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が別種の一生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてのみのことだからである。

 

  この転倒によってはただ感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として認められるだけであって、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として認められるのではないのであるが、この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とは両方とも法である、と言うならば、それは自明なことである。これに反して、もし私が、法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関速は不可解になるのである。〉(前掲142-3頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈裁縫労働の形態でも織布労働の形懇でも,人間的労働力が支出される。それゆえ,どちらも人間的労働という一般的属性をもっており,またそれゆえ,特定の場合,たとえば価値生産の場合には,どちらもただこの観点のもとでのみ考察されうる。こうしたことはすべて,なにも神秘的なことではない。ところが,商品の価値表現においては,事態がねじ曲げられる。たとえば,織布労働が,織布労働としてのその具体的形態においてではなく,かえって,人間的労働としてのその一般的属性においてリンネル価値を形成するということを表現するために,織布労働にたいして裁縫労働が,すなわちリンネルの等価物を生産する具体的労働が,抽象的人間的労働を実現する表現形態が,対置されるのである。こうして,織布労働それ自身は,その抽象的属性の単なる表現に変化するのである。〉(前掲同)

 

《フランス語版》

 

 〈機織や衣服の仕立という、生産活動の二つの形態は、人間労働力の支出を必要とする。したがって、双方とも、人間労働であるという共通の属性をもっているのであって、たとえば価値の生産が問題であるような若干のばあいにはこの観点からのみ考察されるべきなのだ。そこには神秘的なものはなにもないが、商品の価値表現ではことがあべこべに理解される。たとえば、機織が、機織としてではなく人間労働一般という特性において、リンネルの価値を形成する、ということを表現するために、機織には別の労働、リンネルの等価物である上衣を生産する労働が、人間労働を表示する明示の形態として対置される。仕立屋の労働はこのようにして、それ自身の抽象的特性の単純な表現に変態するわけである。〉(前掲30頁)

 

【12】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 〈γ 等価形態の第三の特性私的労働がその反対物の形態たる直接的に社会的な形態 における労働になる

 

  諸労働生産物は、もしそれらが互いに無関係に営まれる独立な諸私的労働の諸生産物でないならば、諸商品にはならないであろう。これらの私的労働の社会的関連素材的に存在するのは、それらが一つの自然発生的な社会的分業の諸分肢であり、したがってまた、それらの生産物によっていろいろな種類の欲望を充足するかぎりにおいてのことであって、これらの欲望の総体からはやはり社会的な諸欲望の自然発生的な体系が成り立っているのである。しかし、このような、互いに無関係に営まれる諸私的労働素材的な関連は、ただ、それらの諸生産物の交換によってのみ、媒介され、したがってまた実現されるのである。それゆえ、私的労働の生産物が社会的な形態をもっているのは、ただ、それが価値形態を、したがってまた他の諸労働生産物との交換可能性の形態を、もっているかぎりにおいてのみのことである。それが直接に社会的な形態をもっているのは、それ自身の物体形態または現物形態が同時に他の商品とのそれの交換可能性の形態であり、言い換えれば、他の商品にたいして価値形態として認められているかぎりにおいてのことである。しかし、われわれがすで見たように、こういうことがある労働生産物にとって生ずるのは、ただ、それが、それにたいする他の商品の価値関係によって、等価形態にある場合、すなわち、他の商品にたいして等価物の役割を演ずる場合だけである。

 

  等価物が直接的に社会的な形態をもっているのは、それが他の商品との直接的交換可能性の形態をもっているかぎりにおいてのことであり、そして、それがこの直接的交換可能性の形態をもっているのは、それが他の商品にたいして価値体として、したがってまた同等なものとして認められているかぎりにおいてのことである。だから、等価物に含まれている特定な有用労働もまた、直接的に社会的な形態にある労働として、すなわち、他の商品に含まれている労働との同等性の形態をもっている労働として、認められているのである。裁縫労働というような、一定の、具体的な労働が、たとえばリンネルというような別種の商品に含まれている別種の労働との同等性の形態をもっていることができるのは、ただ、その特定の形態が、別種の諸労働の同等性を、またはそれらの労働における同等なものを、現実に形成しているあるものの表現として認められているかぎりにおいてのみのことである。しかし、別種の諸労働が同等であるのは、ただ、それらが人間労働一般、抽象的人間労働、すなわち人間労働力の支出であるかぎりにおいてのみのことである。だから、すでに明らかにしたように、等価物のなかに含まれている特定の具体的な労働抽象的人間労働の特定の実現形態または現象形態として認められているので、その労働は他の労働との同等性の形態をもっているのであり、したがってまた、すべての他の商品生産労働と同様に私的労働であるのに、しかもなお直接的に社会的な形態 にある労働なのである。それだからこそ、その労働は他の商品と直接に交換されうる生産物となって現われるのである。〉(前掲143-6頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈[A]

 

  第三の独自性。等

 

  したがって,私的労働の生産物は,それが価値形態,すなわち等しい物として通用する形態,つまり他の労働生産物との交換可能性をもっかぎりにおいてのみ社会的形態をもつ。 ある労働生産物は,それが他の労働生産物の価値表現のなかで等価物の位置を占めるや否や,したがって,身体形態が同時に価値形態,他の商品との交換可能性の形態,すなわち, 等しい物として通用する形態であると同時に,直接的社会的形態をもつのである。

 

  われわれはいままで次のことを見てきた。一等価物に含まれている具体的有用な労働種類は,人間的労働一般の実現形態として通用する。そのことによって,その労働種類は,他の労働との同等性のすなわち等しい物として通用するという形態をもつのであり,したがって,それは,他のすべての商品を生産する労働と同じように私的労働であるにもかかわらず,直接社会的形態にある労働なのである。

 

 [B]

 

  しかし,裁縫労働というこの具体的労働が,区別のない人間的労働の単なる表現として通用することによって,それは,他の労働,すなわちリンネルに含まれている労働との同等性の形態をとるのであり,したがってまた,それは,商品を生産する他のあらゆる労働と同じく私的労働であるにもかかわらず,しかも直接に社会的な形態にある労働なあである。だからこそ,その労働は,他の商品と直接に交換されうる一生産物で自分自身を表わすのである。そして次に--〉(前掲77頁)

 

《フランス語版》

 

 〈等価形態の第三の特色 。等価物を生産する具体的労働、われわれの例では仕立屋の具体的労働は、無差別な人間労働の表現として役立つということによってのみ、他の労働、リンネルが包蔵している労働と同等であるという形態をもち、したがって、他のすべての商品生産労働と同じように、私的労働でありながらも直接に社会的な形態のもとにある労働、になるのである。このために、この労働は、他の商品と直接に交換可能な生産物によって実現されるわけである。〉(前掲30頁)

 

 


第23回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

 

                                    

  谷垣 「総理、普天間基地の、今、腹案があるとおっしゃった。移設先は沖縄県内ですか。県外ですか。国外ですか。」

 

  鳩山 「いくら谷垣総裁といえども、私にそれが県内であるとか、県外であるといわれても、お答えはできない。」

 

 3月31日に行われた党首討論での一幕である。

 

 普天間基地移設問題が討論の中心であった。

 

 鳩山首相は「腹案」があるというが、新聞報道によると、政府がとりまとめようとしている移設案というのは、「県内での移設作業を2段階に分け、当面は名護市などにある米軍キャンプ・シュワブ陸上部への機能移転を進めつつ、うるま市の米軍ホワイトビーチ沖合を最終的な移設先とする。併せて、県外に基地機能を分散し、負担軽減を図る」というものらしい。

 

 

 

 しかしこれでは現行案よりはるかに酷い内容である。「少なくとも県外・国外」との選挙公約を裏切るだけでなく、現行案より大規模な基地をさらに沖縄に二つも作るというのだから、あきれる。

 

 それはそうと、そもそも軍隊や基地、あるいは兵器といったものは、経済学的にはどのように考えたらよいのであろうか。

 

  こうしたものは極めて政治的な問題であり、経済学の対象ではないというなら、あるいはそうかも知れない。しかし自衛隊では何十万という若者の労働力がまったく不生産的に浪費されており、国家の防衛予算は4.8兆円もあり、一般歳出の1割近い規模に膨れ上がっている。軍隊や軍事活動が不生産的な労働力や労働であることはいうまでもないが、しかし基地を作ったり、戦車やミサイルなど兵器を生産する労働はどうであろうか。それらを生産するのは、一般の土木・建設労働者や産業労働者であり、彼らは他の産業の生産的労働者と何の区別もないように見える。兵器の生産も一見すると物質的な生産活動であり、他の社会的な富を生産する労働と何の区別もないように思えるのである。

 

 しかしこうした労働は本源的には決して生産的なものとは言えないし、また価値を形成する労働とも言えないのである。確かに軍需産業の諸企業は、兵器を生産することによって利潤を上げており、その限りでは、資本家の立場からみれば、生産的ではある。しかし本源的には決してそうではないし、価値を形成しているわけではないのである。

 

 それは諸商品の価値とは何か、というもっとも根本的な問題から考えてみれば、明らかになる。商品の交換価値について、マルクスは、クーゲルマンへの手紙(1868.7.11付け)のなかで、次のように述べている。


 《どんな国民でも、1年はおろか、2、3週間でも労働を停止しようものなら、くたばってしまうことは、どんな子供でも知っています。どんな子供でも知っていると言えば、次のことにしてもそうです、すなわち、それぞれの欲望の量に応じる生産物の量には、社会的総労働のそれぞれ一定の量が必要だ、ということです。社会的労働をこのように一定の割合に配分することの必要性は、社会的生産の確定された形態によってなくなるものではなく、ただその現われ方を変えるだけのことというのも、自明のところです。自然の諸法則というのはなくすことができないものです。歴史的にさまざまな状態のなかで変わり得るものは、それらの法則が貫徹されていく形態だけなのです。そして社会的労働の連関が個々人の労働生産物の私的交換をその特微としているような社会状態で、この労働の一定の割合での配分が貫徹される形態こそが、これらの生産物の交換価値にほかならないのです。》(全集32巻454頁)

 

 つまり諸商品の価値というのは、社会の物質代謝を構成する私的な諸生産を社会的に関連づける法則(=価値法則)に基づくものなのだ。しかし兵器の生産は、決して社会の物質代謝の構成部分をなすわけではない。それは本源的には社会の浪費であり、寄生的要素なのである。だから兵器の生産が例え直接的には物質的であっても、本源的に不生産的であり、価値を形成するとは言えないのである。

 

  このように、何が本源的に生産的かどうかは、価値法則と不可分に関連しているのである。こうした問題も『資本論』をしっかり学ぶことから理解できるのである。是非、あなたも、一緒に『資本論』を読んでみませんか。

 



読者登録

亀仙人さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について