目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第10回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第19回「『資本論』を読む会」の報告

第19回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎“師走”

 

 「師走」『語源由来辞典』によると、当て字で、語源は諸説あるそうで、正確なものは未詳だそうです。しかし主なものとしては、師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月という意味があるようです。それ以外には、「年が果てる」意味の「年果つ(としはつ)」が変化したとするものや、「四季の果てる月」を意味する「四極(しはつ)」からとする説、あるいは「一年の最後になし終える」意味の「為果つ(しはつ)」からとする説などがあるということです。

 

 ところで「師走」だからというわけでもないのでしょうが、第19回「『資本論』を読む会」は何とも慌ただしく、あっというまに終わってしまいました。だからあまり報告することもない状態なので、実は、報告者は困っている次第なのです。

 

 今回は「b 相対的価値形態の量的規定性」をすべて終えました。この部分は確かにあまり難しい問題はない所ではあるのですが、しかしそれにしても簡単にやり過ぎたように、報告者には思えました。

 

 だから報告担当の亀仙人は、敢えて難しい問題をぶつけてみました。すなわち、現行版の『資本論』では(初版付録もそうですが)、「相対的価値形態の内実」のあとに、「量的規定性」が考察されているが、初版本文では量的規定性が考察されたあとに相対的価値形態が考察されていること、また相対的価値形態の考察もその展開は現行版や初版付録とは一見すると逆の展開になっているように見えるが、これはどうしてなのか、という問題です。これは初版本文の論理的展開はどうなっているのか、という問題とも関連して(しかもマルクス自身は、本文の敍述こそ《弁証法が・・・・はるかに鮮明》だと、初版序文で書いているわけです)、大変、興味深いテーマではありますが、しかし、やはりこれはあまりにも問題が横道に逸れ過ぎるので、またその機会があれば、論じることにして、今回は割愛したいと思います(どこかの誰かさんが「報告が長すぎる」とブツクサ言っていることてもありますし)。

 

◎各パラグラフごとの検討

 

 とにかくこれまで通り、パラグラフごとに簡単な解説を書いておくことにしましょう。ただ今回は、分節ごとの詳細な解読は不要と考えて、パラグラフごとに全体を解説することにします。これまで通り、最初にパラグラフ全体を紹介し、そのあとに解説をつけるという順序で行なうことにします。また関連資料は最後に回します。

 

【1パラグラフ】

 

 《その価値が表現されるべき商品は、どれも、与えられた量のある使用対象--15シェッフェルの小麦、100ポンドのコーヒーなど--である。この与えられた商品量は、一定量の人間労働を含んでいる。したがって、価値形態は、単に価値一般だけではなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大きさをも表現しなければならない。したがって、商品Bに対する商品Aの、上着に対するリンネルの、価値関係においては、上着という商品種類は、単に価値体一般として、リンネルに質的に等置されるだけではなく、一定量のリンネル、たとえば20エレのリンネルに対して、一定量の価値体または等価物、たとえば一着の上着が等置されるのである。》

 

 まずこれまで考察してきた商品の価値の表現においては、二つの商品の等置関係の質的な面だけが考察されてきましたが、しかし実際には、その価値が表現される商品は、どれもある与えられた分量の使用対象なわけです。

 

 第1章では、《鉄、紙などいっさいの有用物は、二重の観点から、質および量の観点から、考察されなければならない。このような物はどれも、多くの属性からなる一つの全体であり、したがって、さまざまな面で有用でありえる。これらのさまざまな面と、したがって物のいろいろな使用の仕方とを発見することは、歴史的な行為である。有用物の量をはかる社会的尺度を見つけだすこともそうである。諸商品尺度の相違は、一部は、はかられる対象の性質の相違から生じ、一部は、慣習から生じる》とされ、《使用価値の考察に際しては、1ダースの時計、1エレのリンネル〔亜麻布〕、1トンの鉄などのようなその量的規定性がつねに前提されている》と指摘されていました。

 

  ここでは《15シェッフェルの小麦、100ポンドのコーヒーなど》が例として上げらています。ここで《シェッフェル》というのは、新日本新書版の解説によれば、「古い穀物単位」であり、その値は地域によって異なるが、1シェッフェルは23-223リットルと極めて大きな幅があることが紹介されており、プロイセンでは54.96リットルだとの説明があります。

 

 こうした一定量の商品は、だから一定量の人間労働を含んでいるわけです。つまり一定の価値の大きさをもっているわけです。

 

 だからわれわれがこれまで見てきた、価値の相対的表現である、価値形態は、単に価値一般だけでなく、量的に規定された価値、つまり価値の大きさも表現しなければならないというわけです。

 

 したがって、商品Bに対する商品Aの、上着に対するリンネルの、価値関係においては、上着は価値体一般としてリンネルに質的に等置されたのですが、一定量のリンネル、例えば20エレのリンネルに対しては、一定量の価値体または等価物として、例えば一着の上着が等置されるというわけです。

 

  要するに、ここでは、われわれはこれまで相対的価値形態の質的側面を見ることによって、その内実を明らかにすることが出来たのですが、今度は、それらは同時に量的規定性をもったものであることが再確認されていると言えるでしょう。

 

【2パラグラフ】

 

 《「20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは一着の上着に値する」という等式の前提にあるのは、一着の上着には20エレのリンネルにひそんでいるのとまったく同じ量の価値実体がひそんでいること、すなわち、両方の商品量は等しい量の労働または等しい大きさの労働時間を費やさせることである。ところが、20エレのリンネルまたは一着の上着の生産に必要な労働時間は、織布労働または裁縫労働の生産力が変動するたびに、変動する。そこで、このような変動が価値の大きさの相対的表現に与える影響について立ちいって研究しなければならない。》

 

 「20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは一着の上着に値する」という等式の前提にあるのは、二つの商品にはまったく同じ量の価値の実体、抽象的人間労働の凝固がひそんでいるということです。つまり両方の商品の二つのそれぞれの量の生産のためには、等しい量の人間労働、または等しい大きさの労働時間が必要だということです。

 

 しかし、20エレのリンネルあるいは一着の上着の生産に必要な労働時間は、織布労働または裁縫労働の生産力が変われば、変化します。だから、こうした変化が価値の大きさの相対的表現にどのような影響を与えるのかを立ち入って研究する必要があるということです。

 

 ここでは、「20エレのリンネル=1着の上着」という等式においては、確かに二つのそれぞれの量の商品の価値が等しいことを示していますが、しかし価値の大きさの表現としては、あくまでも一定量のリンネルの価値の大きさだけが表現されているのであって、一定量の上着の価値の大きさそのものは表現という点では問題にはなっていないこと、にもかかわらず、リンネルの価値の大きさの表現においても、上着の価値の大きさが関連してくるのだ、という指摘がありました。

 

【3パラグラフ】

 

 《 Ⅰ リンネルの価値は変動するが(19)、上着価値は不変のままである場合。たとえば、亜麻のとれる耕地〔Boden〕がますますやせた結果、リンネルの生産に必要な労働が二倍になるとすれば、リンネルの価値は二倍になる。今や一着の上着は20エレのリンネルの半分の労働時間を含むにすぎないから、20エレのリンネル=1着の上着 の代わりに、20エレのリンネル=2着の上着 となるであろう。これに対して、たとえば織機の改良によって、リンネルの生産に必要な労働時間が半分に減少すれば、リンネル価値は半分に低下する。それに応じて、今や、20エレのリンネル=1/2着の上着 となる。したがって、商品Aの相対的価値、すなわち商品Bで表現される商品Aの価値は、商品Bの価値が不変のままでも、商品Aの価値に正比例して、上昇または低下する。》

 

  I  リンネルの価値の大きさは変動するが、上着の価値は不変である場合。

 

 それは例えば、亜麻が不作の結果、リンネルの生産に必要な労働時間が二倍になるならば、リンネルの価値も二倍になります。

 

 だから一着の上着は20エレのリンネルの半分の労働時間を含むに過ぎないから、20エレのリンネル=2着の上着という等式になります。

 

 これに反して、織機の改良によって、リンネルの生産に必要な労働時間が半分になれば、リンネルの価値は半分になり、よっていまや、20エレのリンネル=半分の上着となります。したがって、商品Aの相対的価値、つまり商品Bで表された商品のAの価値は、商品Bの価値が不変でも、商品Aの価値の変動に正比例して、上昇または下落するという結論がでてきます。

 

 ここでは「1/2着の上着」という表現がでてきますが、1/2着の上着は使用価値ではないということから、マルクスを批判する論者があることが所沢の「『資本論』を読む会」では問題になったようだという紹介があり、そこでの解説は見事であるという意見がありました。 (http://shihonron.exblog.jp/9939276/を参照)

 

【4パラグラフ】

 

 《 Ⅱ リンネルの価値は不変のままであるが、上着価値が変動する場合。こうした事情のもとで、たとえば羊毛の刈りとりが思わしくないために、上着の生産に必要な労働時間が二倍になれば、20エレのリンネル=1着 の上着の代わりに、今や、20エレのリンネル=1/2着の上着 となるであろう。これに反して、上着の価値が半分に減少すれば、20エレのリンネル=2着の上着 となるであろう。だから、商品Aの価値が不変のままで

も、商品Aの相対的な、商品Bで表現される価値は、Bの価値変動に逆比例して、低下または上昇する。》

 

 II リンネルの価値が不変で、上着の価値が変動する場合。

 

 羊毛の刈り取りが思わしくないために、上着の生産に必要な労働時間が二倍になると、価値が二倍になり、20エレのリンネル=1/2の上着 となります。

 

 これに反して、上着の価値が半分に減少すれば、20エレのリンネル=2着の上着 となります。

 

 だから、商品Aの価値が不変でも、商品Aの相対的な価値が、商品Bで表現される場合、商品Bの価値変動に逆比例して、それは上下するといえます。

 

【5パラグラフ】

 

 《 ⅠおよびⅡのもとでのさまざまの場合を比較してみると、相対的価値の大きさの同じ変動が正反対の原因から生じうることがわかる。実際、20エレのリンネル=1着の上着 は、(1)リンネルの価値が二倍になっても、上着の価値が半分に減少しても、20エレのリンネル=2着の上着 という等式になり、また、(2)リンネルの価値が半分に低下しても、上着の価値が二倍に上昇しても、20エレのリンネル=1/2着の上着 という等式になるのである。》

 

  I とIIの場合におけるさまざまな場合を比較すると、相対的価値の大きさの同じ変動が正反対の原因から生じうることがわかります。例えば「20エレのリンネル=1着の上着」が「20エレのリンネル=1/2着の上着」に変動した場合、その原因は、一つは上着の価値は変わらないのに、リンネルの価値が半分になったからであり、もう一つはリンネルの価値に変化がないのに、上着の価値が二倍に上がったから、という二つの原因が考えられました。つまり一方は価値が下がったから、他方は価値が上がったから、同じ相対的価値の変動が生じたことになるわけです。

 

 実際、「20エレのリンネル=1着の上着」という等式は、(1)リンネル価値が二倍になっても、あるいは上着の価値が半分になっても、「20エレのリンネル=2着の上着」になる。(2)他方、リンネルの価値が半減しても、上着の価値が二倍になっても、「20エレのリンネル=1/2着の上着」という等式になります。

 

【6パラグラフ】

 

  《 Ⅲ リンネルおよび上着の生産に必要な労働量が、同時に同じ方向に、同じ比率で変動することもある。この場合には、これらの商品の価値がどんなに変動しようと、あい変わらず、20エレのリンネル=1着の上着 である。これらの商品の価値変動は、これらの商品を、価値が不変のままであった第三の商品と比較すれば、すぐにわかる。すべての商品の価値が、同時に、同じ比率で、上昇または低下すれば、それらの商品の相対的価値は不変のままであろう。これらの商品の現実の価値変動は、同じ労働時間内に、今や一般的に、以前よりも多量かまたは少量の商品量が供給されるということから見てとれるであろう。》

 

 III リンネルと上着の生産に必要な労働量が、同時に同じ方向に、同じ比率で変動する場合。

 

 この場合には、二つの商品の価値がどんなに変動しようと、二つの商品で表される相対的価値の大きさには変動はありません。

 

 これらの価値の変化は、価値が不変な第三の商品と比較することによってわかります。

 

 すべての商品が、同時に、同じ比率で、上昇または低下するならば、それらの商品の相対的価値は不変のままです。

 

 これらの商品の価値の変動は、同じ労働時間内に、以前よりもより多くかより少ない商品量が供給されることから見ることができるということです。

 

【7パラグラフ】

 

  《 Ⅳ リンネルおよび上着の生産にそれぞれ必要な労働時間、したがってこれらの商品の価値が、同時に同じ方向に、しかし等しくない程度で変動するか、あるいは反対の方向に変動するなどなどのことがありえる。この種のありとあらゆる組あわせが一商品の相対的価値に与える影響は、Ⅰ、Ⅱ、およびⅢの場合を応用すれば、簡単にわかる。》

 

 IV リンネルおよび上着の生産に必要な労働時間が、よってそれらの価値が、同時に同じ方向に、しかし等しくない程度で変動したり、あるいは反対の方向に変動するなどのことはありえます。

 

 この種のありとあらゆる組み合わせが一つの商品の相対的価値に与える影響は、 I 、II、IIIのケースを応用すれば、簡単にわかるということです。

 

【8パラグラフ】

 

  《 こうして、価値の大きさの現実の変動は、価値の大きさの相対的表現または相対的価値の大きさには、明確にもあますところなしにも反映されはしない。一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変のままでも、変動しうる。一商品の相対的価値は、その商品の価値が変動しても、不変のままでありえる。そして、最後に、一商品の価値の大きさとこの価値の大きさの相対的表現とが同時に変動しても、この変動が一致する必要は少しもない(20)。》

 

 こうして、実際の価値の変動は、その相対的表現、あるいは相対的価値の大きさには、明確に、忠実に反映されることはありません。

 

 一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変でも変動するし、

 

 一商品の相対的価値は、その商品が変動しても、不変のままでありえます。

 

 だから最後に、一商品の価値の大きさとその相対的表現とが同時に変動しても、その変動が一致する必要はまったくないわけです。

 

【注20】

 

  《(20) 第2版への注。価値の大きさとその相対的表現とのこうした不一致は、俗流経済学によっていつもながらの鋭敏さで利用されてきた。たとえば、次のとおり。「Aと交換されるBが騰貴するために--そのあいだにAに支出される労働は減少していないのに--Aが低落するということをひとたび認めれば、諸君の一般的価値原理は崩壊する。・・・・もしも、Aの価値がBに対して相対的に上昇するので、Bの価値がAに対して相対的に低下するということが承認されるならば、リカードが、一商品の価値はそれに体現された労働の量によってつねに規定されるという、彼の大命題の基礎にすえた根拠が崩れさる。なぜなら、もしもAの費用におけるある変動が、Aと交換されるBとの関係におけるAそれ自身の価値を変化させるだけでなく、Bの生産に必要とされる労働量には何の変動も生じなかったのにBの価値をもAの価値に対して相対的に変化させるならば、その場合には、一つの物品に支出される労働量がその価値を規制するということを断言する学説が崩壊するだけでなく、一つの物品の生産費がその価値を規制するという学説も崩壊するからである」(J・ブロードハースト『経済学』、ロンドン、一八四二年、一一、一四ページ)。 ・ ブロードハースト氏は、同じように、次のように言うこともできよう。どうか一つ、10/20、10/50、10/100等々という比をよく見たまえ。10という数は不変のままなのに、その比率上の大きさ、すなわち、20、50、100という分母に対するその相対的な大きさは、たえず減少している。だから、一つの整数、たとえば、10の大きさは、それに含まれる1という単位の数によって「規制」されているという大原理は崩壊する、と。》

 

 ここでは、商品の価値の相対的な表現が、その価値の変化を必ずしも忠実に表さないということから、だから商品の価値がそれに体現された労働の量によって規定されるというリカードの価値論の崩壊を主張するブロードバーストの誤りが、分数を例に使って、実に分かりやすく説明されています。

 

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【付属資料】

 

【表題】

 

《初版付録》--「d 価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の量的な被規定性

 

【1】

 

《初版本文》

 

 《これまではただ価値の実体と価値の大きさとが規定されただけなので、今度は価値の形態の分析のほうに方向転換することにしよう。  まず第一に、ふたたび商品価値の第一の現象形態に立ち帰ってみよう。  二つの量の商品をとってみて、それらはそれらの生産に等しい労働時間がかかる、つまり、それらは等しい大きさの価値である、とすれば、40エレのリンネル=2着の上着、すなわち.40エレのリンネルは二着の上着に値する、ということになる。われわれが見るのは、リンネルの価値が一定量の上着で表現されている、ということである。ある一つの商品の価値は、このように別の一つの商品の使用価値で表わされている場合には、その商品の相対的な価値と呼ばれる。》

 

《初版付録》

 

 《とはいえ、20エレのリンネルは、ただ、価値一般、すなわち人間労働の凝固であるだけではなくて、それは特定の大きさの価値である。すなわち、それのなかには一定量の人間労働が対象化されている。それだから、上着にたいするリンネルの価値関係においては、上着という商品種類が、単に、価値体一般として、すなわち人間労働の物体化として、リンネルに質的に等置されるだけではなくて、この価値体の一定量が、1ダース等々ではなく一着の上着が、一着の上着のなかに20エレのリンネルにおけるとちょうど同じだけの価値実体すなわち人間労働が含まれているかぎりにおいて、等置されるのである。》

 

補足と改訂》

 

 《[A]

[11〕b)相対的価値形態の量的規定性

 その価値が表現されるべき商品は,どれも,与えられた分量の使用対象--何シェッフェルの小麦,何ポンドのコーヒー等々--である。この与えられた商品分量は,一定分量の人間的労働を含んでいる。したがって,価値形態は,単に価値一般だけではなく,量的に規定された価値,すなわち価値の大きさをも表現しなければならない。それゆえ,商品Bにたいする商品Aの価値関係においては,商品種類Bは商品Aに質的に等置されるだけではなく,ある与えられた分量のAにたいしてBが,20エレのリンネルにたいして一定量の等価物が,等置される。

[B]

b)相対的価値形態の量的規定性

 その価値が表現されるべき商品は,何シェッフェルの小麦,何ポンドのコーヒー等々といった与えられた分量である。その商品分量は一定量の人間的労働を含んでいる。それゆえ,商品は価値一般としてだけではなく,量的に規定された価値すなわち価値の大きさとしても表現されなければならない。》

 

《フランス語版》

 

 《価値が表現されるべきどの商品も、ある分量の有用物、たとえば15ブヅシェルの小麦、100ポンドのコーヒー等であって、一定の分量の労働を含んでいる。したがって、価値形態は、たんに価値一般ばかりでなく、ある価値量をも表現しなければならない。商品A の商品Bにたいする価値関係では、商品Bが質の観点でAに等しいと宣言されるだけでなく、さらにBのある分量がA の与えられた分量に等しいのである。》

 

【2】

 

《初版本文》

 

 《一商品の相対的な価値は、その商品の価値が不変のままであっても、変動することがありうる。逆に、その商品の相対的な価値は不変のままでありうる。たとえその価値は変動しようとも。すなわち、40エレのリンネル=2着の上着 という等式が前提しているのは、両方の商品に同じ量の労働が費やされている、ということである。しかし、それらの商品を生産する労働の生産力に変動が生ずれば、そのつど、それらの商品の生産に必要な労働時間は変動するのである。そこで、このような変動が相対的な価値に及ぼす影響を考察してみよう。》

 

《補足と改訂》

 

 《[A]

 20エレのリンネル=1着の上着,すなわち,20エレのリンネルは1着の上着に値するという等式の前提にあるのは,1着の上着には20エレのリンネルに潜んでいるのとまったく同じ量の価値実体が潜んでいること,すなわち,両方の商品分量は等しい量の労働または等しい大きさの労働時間を費やさせるということ,である。ところが,20エレのリンルまたは1着の上着の生産に必要な労働時間は,織布労働または裁縫労働の生産力が変動するたびに,変動する。そこで,このような変動が価値の大きさの相対的表現に与える影響について立ち入って研究しなければならない。

[B]

 20エレのリンネル=1着の上着,すなわち20エレのリンネルは1着の上着に値するという等弐の前提にあるのは,両方の商品分量は等しい量の労働を費やさせる、または等しい大きさの労働時間で生産されることである。ところが,さまざまな種類の労働の生産力が変動するたびに,そのときどきの商品分量の生産に必要な労働時間が変動する。そこで,われわはこのような変動が、ある商品,われわれの例ではリンネルの価値の大きさの相対的表現に与える影響について考察してみよう。》

 

《フランス語版》

 

 《20メートルのリンネル=一着の上衣、あるいは20メートルのリンネルが一着の上衣に値するという等式は、両商品のどちらも同量の労働が費やされているか、あるいは、両商品が同じ時間内に生産される、ということを前提している。だが、この時間は両商品のどちらにとっても、それを作り出す労働の生産力が変動するたびごとに変動する。さて、この変動が価値量の相対的表現に及ぼす影響を調ぺてみよう。》

 

【3】

 

《初版本文》

 

 《 I 上着の価値が不変なままであるときに、リンネルの価値が変動する、としよう。たとえば亜麻を栽培する土地の豊度の低下の結果として、リンネルの生産のために支出される労働時間が二倍になるとすれば、リンネルの価値は二倍になる。40エレのリンネル=2着の上着 にかわって、40エレのリンネル=4着の上着 となるであろう。なぜならば、2着の上着は今では40エレのリンネルの半分だけの労働時間しか含んでいないからである。これとは反対に、たとえば織機の改良の結果として、リンネルの生産に必要な労働時間が半分だけ減少するとすれば、リンネルの価値は半分だけ低下する。したがって今度は40エレのリンネル=1着の上着 となる。それだから、商品Aの相対的な価値、すなわちその商品の価値が商品Bで表現されたものは、商品Bの価値が不変のままであれば、商品Aの価値に正比例して上がり下がりするのである。》

 

《フランス語版》--ほぼ同じだが、傍点(下線に変換)が付けられている。

 

 《 I 上衣の価値が不変のままであるのに、リンネルの価値が変動するばあい。亜麻を供給する土地の収穫高がいちだんと少なくなった結果、リンネルの生産に必要な労働時間が二倍になると仮定すれば、そのばあいリンネルの価値も二倍になる。20メートルのリンネル=1着の上衣 のかわりに、20メートルのリンネル=2着の上衣 になる。というのは、1着の上衣はいまでは半分の労働しか含んでいないからである。これに反して、織機の改良の結果、リンネルの生産に必要な時間が半減すれば、リンネルの価値も同じ比率で減少する。したがって、20メートルのリンネル=1/2の上衣 になる。だから、商品A の相対的価値、すなわち、商品B のうちに表現される商品A の価値は、商品B の価値が不変のままであっても、商品A の価値に正比例して上昇するかまたは低下する。》

 

【4】

 

《初版本文》

 

 《II 上着の価値が変動するときに、リンネルの価値は不変のままである、としよう。こういう事情のもとで上着の生産に必要な労働時間が、たとえば羊毛刈り取りの不調の結果として、二倍になるならば、40エレのリンネル=2着の上着 にかわって、今度は40エレのリンネル=1着の上着 となる。これに反して、上着の価値が半分だけ減少するならば、40エレのリンネル=4着の上着 となる。それゆえ、商品Aの価値が同じままであるならば、商品Aの相対的な、商品Bで表現される価値は、Bの価値変動に反比例して、低下したり上昇したりするのである。》

 

《フランス語版》--ほぼ同じだが、傍点(下線に変換)がついている。

 

 《 II 上衣の価値が変動するのに、リンネルの価値が不変のままであるばあい。この事情のもとでは、羊毛の刈取りがあまり順調でなかった結果、上衣の生産に必要な時間が二倍になると仮定すれば、20メートルのリンネル=一着の上衣 のかわりに、いまでは 20メートルのリンネル=1/2着の上衣 になる。これに反して、上衣の価値が半分に低下すれば、そのばあい 20メートルのリンネル=2着の上衣 になる。商品Aの価値が不変のままであっても、商品Bのうちに表現される商品Aの相対的価値は、商品Bの価値変動に反比例して上昇するかまたは低下する、ということがわかる。》

 

【5】

 

《初版本文》

 

 《 I とIIとのいろいろな場合を比較してみると、次のような結果になる。すなわち、相対的な価値の同じ変動がまったく反対の諸原因から生ずることがありうる、ということである。たとえば、40エレのリンネル=2着の上着 が(1)等式 40エレのリンネル=4着の上着 になるのは、リンネルの価値が二倍になるか、または上着の価値が半分だけ低下するからであって、(2)等式 40エレのリンネル=1着の上着 になるのは、リンネルの価値が半分だけ低下するか、または上着の価値が二倍に上昇するからである。》

 

《フランス語版》--同じだが、傍点(下線に変換)がついている。

 

 《 I とIIのなかに含まれている種々のばあいを比較すれば、相対的価値の同じ量的変動が全く相反した原因から生じうるということは、明らかである。したがって、20メートルのリンネル=1着の上衣 という等式が 20メートルのリンネル=2着の上衣 になるのは、リンネルの価値が二倍になるか、または上衣の価値が半減するからである。そしてまた 、20メートルのリンネル=1/2着の上衣 になるのは、リンネルの価値が半減するか、または上衣の価値が二倍になるからである。》

 

【6】

 

《初版本文》

 

 《III リンネルと上着との生産に必要な諸労働量が、同時に、同じ方向で、同じ割合で、変動する。こういう場合には、たとえリンネルと上着との価値がどのように変えられていようと、相変わらず 40エレのリンネル=1着の上着 である。それらの価値変動は、それらと、その価値が不変のままだった第三の一商品と比較してみれば、すぐに発見される。もしすべての商品の価値が同時に同じ割合で上昇または低下するならば、すべての商品の相対的な諸価値は不変のままである。それらの商品の現実の価値変動は、同じ労働時間で今や一般的に以前よりもより大きいかまたはより小さい商品量が供給されるであろう、ということから推知されるであろう。》

 

《フランス語版》--同じだが、傍点(下線に変換)がある。

 

 《 III リンネルと上衣との生産に必要な労働量が、同時に同じ方向に同じ比率で変動すれば、このばあいには、それらの価値変動がどうあろうと、以前と同じように 20メートルのリンネル=1着の上衣 である。この価値変動は、その価値が同じままである第三の商品と比較することによって、発見される。もしすぺての商品の価値が同時に同じ比率で増大または減少すれば、それらの相対的価値は全く変動しない。それらの商品の本当の価値変動は、同じ労働時間内に供給される商品量が、いまでは一般に、以前よりも多くなるか少なくなるかで、わかるはずである。》

 

【7】

 

《初版本文》

 

 《IV リンネルと上着とのそれぞれの生産に必要な労働時間、したがってまたそれらの物の価値は、同時に同じ方向においてではあるが違った程度において、あるいはまた反対の方向、等々において、変動することがありうるであろう。あらゆる可能なその種の組み合わせが一商品の相対的な価値に及ぼす影響は、 I とIIとIIIとの場合の適用によって簡単に明らかになるのである。》

 

【8】

 

《補足と改訂》

 

 《それゆえ,現実の価値の大きさの変動は,その相対的表現すなわち相対的価値の大きさに,曖昧さをのこさずあますところなく反映するというわけではない。ある一つの商品の相対的価値は,その価値が変化しなくても,変動することがある。その相対的価値は,その価値が変動しても変わらないことがある,そして最後に,その価値の大きさとこの価値の大きさの相対的表現とにおける同時的変動はなんら一致する必要はないのである。》

 

《フランス語版》

 

 《価値量の本当の変動は、価値量の相対的表現のうちにけっして明瞭にも全面的にも反映しない、ということがわかる。一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変のままであっても変動することがあるし、その商品の価値が変動しても不変のままであることもあるし、そして最後に、価値量の変動と価値量の相対的表現の変動とが、正確に照応せずに同時に起こることもある。(19)》

 

§ 初版付録には、独自に「e 相対的価値形態の全体。」という項目が設けられ、次のように論じられている。

 

 《 こうして、相対的な価値表現によって、第一に、商品の価値は、その商品自身の使用価値とは違った形態を得る。この商品の使用形態は、たとえばリンネルである。これに反して、この商品は自分の価値形態上着にたいする自分の同等性関係において、もっている。この、同 等性の関係によって、この商品とは感覚的に違っている別の一商品体が、この商品自身の価値存在の鏡となり、この商品自身の価値姿態となる。こうして、この商品は、その現物形態とは相違し無関係で独立な価値形態を得る。しかし、第二に、特定の大きさの価値としては、特定の価値の大きさとしては、この商品は、自分にたいして別の商品体が等置されているところの量的に規定された関係すなわち割合によって、量的に計られているのである。》(国民文庫版136-7頁)

 

 


第20回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

                                    

 2010年という一つの区切りの年が明けました。

 

 昨年は、08年のリーマン・ショックによる金融恐慌に続く経済恐慌の一年でした。クライスラーやGMが倒産し、アメリカを代表する自動車産業が危機に陥り、今年になって、とうとう自動車の売り上げでは中国がアメリカを抜いて世界のトップに躍りでました。世界経済は大きく塗り替えられようとしています。

 

 2010年には、世界経済は果たして深刻な不況から抜け出ることができるのでしょうか。それともさらなる深いどん底へと引きずり込まれて行くのでしょうか。

 

 

 それはともかく、“サブプライム金融恐慌”に代表される金融バブルとその破綻について、『資本論』はどのように論じているのでしょう?

 

 『資本論』第3部第5篇第30~32章「貨幣資本と現実資本 I ~III」では、マルクス自身「比類なく困難な問題」として、貨幣資本の蓄積が現実資本の蓄積とどのように関連しているのか、またそれは一国で流通している貨幣の量と如何なる関係にあるのかが理論的に追究されています。そしてそうした考察の理論的前提として第29章「銀行資本の諸成分」では、銀行資本の一部を構成する「利子生み証券」(債務証書--有価証券--、サブプライム・ローン債権を担保にした資産担保証券などもそれに含まれます)が、「架空な貨幣資本」であることを明らかにしています。マルクスは現実資本の蓄積から相対的に自立してそれらを何倍も上回る規模に膨れ上がって運動する貨幣資本の運動を、「規則的に繰り返される収入」「資本換算」されて形成される「架空資本」という形態で存在する「利子生み資本」(moneyed Capitalとしての貨幣資本)の運動であることを明らかにし、さらに次のように論じています。

 

 「すべてこれらの証券は、実際には、将来の生産にたいする蓄積された請求権、権利名義のほかにはなにも表していないのであって、この権利名義の貨幣価値または資本価値は、国債の場合のようにまったくどんな資本も表していないか、または、それが表している現実の資本の価値とは無関係に規制されるのである。/すべての資本主義的生産の国には、このような形態で巨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed capitalが存在している。そして、貨幣資本の蓄積というものの大きな部分は、生産にたすいるこのような請求権の蓄積のほかには、すなわちこのような請求権の市場価値の蓄積、その幻想的な資本価値の蓄積のほかには、なにも意味していないのである。」(全集版600頁)

 

 だからこうした「架空な貨幣資本」の蓄積がどんなに膨大な額に膨れ上がろうが、現実の社会の富から考えるなら、それらは「純粋に幻想的」なものでしかなく、だから「このような名目的な貨幣資本のしゃぼん玉の破裂によっては一文も貧しくはならない」(同)のだと論じています。

 

 サブプライムによる資産担保証券や、デリバティブなどのさまざまな金融派生商品が氾濫し、膨大な過剰な貨幣資本が世界の金融市場を荒し回り世界経済を金融的危機に陥れいるような、今日の世界資本主義を理論的に解明していくためにも、やはり『資本論』をしっかり学ぶことが不可欠なのです。

 

 貴方も、是非、一緒に『資本論』を読んでみませんか?

 


第20回「『資本論』を読む会」の報告

第20回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎新年を迎えたが

 

 新しい年を迎え、民主党政権になって初めての国会における予算審議が始まったものの、小沢幹事長や鳩山首相の金と政治の疑惑問題ばかりが話題になり、ちっとも自民党政権時代と変わっていないじゃないか、と思わざるを得ません。

 

 そもそも小沢一郎などという人物は、田中角栄や金丸信など自民党の中でももっとも自民党的なゼネコンと結びついた金権政治の伝統を受け継ぐ人であって、こんな人が牛耳る民主党に何かそれまでの自民党と違ったものを期待することが間違いだったのだ、ということがようやく国民の中にも実感して理解されるようになってきたといえるのでしょうか。

 

 鳩山政権の支持率が低下して、すでに不支持と逆転したといいます。民主党にも愛想を尽かした国民は、次に何に期待し、選択するのでしょうか。

 

 代わり映えのしない政治に対して愚痴ばかりが出ますが、わが「『資本論』を読む会」の状況もいま一つ盛り上がりにかけ、愚痴の一つもこぼしたくなる状況には変わりはありません。

 

 今回からは、第1章「商品」の第3節「価値形態または交換価値」の「(3)等価形態」に入りました。議論はいろいろと脱線して、和やかな雰囲気のもとに学習会は進みましたが、そうしたことあり、結局、進んだのは最初の三つのパラグラフのみでした。さっそくその報告をやることにしましょう。

 

◎等価形態を質と量の二面から考察

 

 今回、進んだ三つのパラグラフは、等価形態を質の面(第1パラグラフ)と量の面(第2・3パラグラフ)から考察しているところです。それぞれパラグラフごとに検討していくことにします。

 

【1】《 (イ)すでに見たように、一商品A(リンネル)は、その価値を異種の一商品B(上着)の使用価値で表わすことによって、商品Bそのものに、一つの独特な価値形態、等価物という価値形態を押しつける。 (ロ)リンネル商品はそれ自身の価値存在を顕わにしてくるのであるが、それは、上着がその物体形態とは違った価値形態をとることなしにリンネル商品に等しいとされることによってである。 (ハ)だから、リンネルは実際にそれ自身の価値存在を、上着が直接にリンネルと交換されうるものだということによって、表現するのである。 (ニ)したがって、一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態である。》

 

 (イ) われわれは、「2 相対的価値形態」において、その「内実」を分析して、リンネルの商品の価値がどのように上着の使用価値によって表現されているかを見てきました。そしてリンネル価値が上着で表現されるということは、上着に独特な形態規定性を与えることによってなされることを見てきたわけです。それが等価物という形態です。等価物も《一つの独特な価値形態》である、とここでは書かれていますが、初版本文には次のような一文があります。

 

  《われわれの分析が明らかにしてきたのは、一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値形態を包括している、ということである。リンネルは、その価値と、その特定の価値の大きさとを、上着で表わしている。リンネルはその価値を他の一商品にたいする価値関係において、したがって交換価値として、示すのである。他方において、リンネルがその価値をそれにおいて相対的に表現するところの、この別の商品、上着は、まさにそれゆえに、リンネルと直接に交換されうる使用価値という形態を、すなわち等価物という形態を、受け取るのである。両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態なのである。両方が、じつはただ、同じ相対的な価値表現の諸契機であり、相互に制約され合っている諸規定でしかないのであるが、それら二つの等置された商品極の上に対極的に分けられているのである。》(国民文庫版53頁)

 

 ここでは《一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値形態を包括している》と述べています。すなわち「相対的価値形態」と「等価形態」です。この《両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態なの》だということです。

 

 (ロ) 「相対的価値形態の内実」の第4~6パラグラフでは、リンネルの価値がどのようにして表現されるのかについて明らかにされていました。そしてそのことは第7・8パラグラフで明らかにされたように、上着が新たな形態規定性を帯びることによってであること、すなわち上着の自然形態そのものが価値として通用すること、すなわち価値体になることだと説明されました。つまり上着の物体形態そのものが価値の形態になることによって、リンネルと等しいとされたわけです。

 

 (ハ) そして上着の物体形態そのものが価値の形態になっているのだから、上着はそのままで直接リンネルと交換されうるものなのです。ここで重要なのは「直接に」ということです。すべての商品は価値としては、交換可能なものですが、「直接」にそうしたものとしてあるわけではありません。というのは商品の「直接」的な存在はその使用価値だからです。だから商品は価値として現れるような形態を持たないと交換されえないのです。ところが等価形態にある商品は、それによって価値を表現する商品に対しては、その直接的定在である使用価値そのものが価値の形態になっているわけですから、その商品は「直接に」交換可能となるわけです。価値を表現する一商品は、等価物にある商品をそうした状態に置くことによって、自らの価値を表現しているのです。

 

 (ニ) だから一商品の等価形態というのは、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態にあるということです。つまり等価形態というのはそれを等価形態におく商品と直接に交換できるという性質を持っているのです。

 

 フランス語版では、この部分が三つのパラグラフに分かれていることが指摘されました。ついでにフランス語版を紹介しておきましょう。

 

 《すでに見たことだが、商品A(リンネル)は、その価値を、異なる商品B(上衣)の使用価値のうちに表現すると同時に、商品Bにたいし、特殊な価値形態である等価形態を押しつける。リンネルはそれ自身の価値性格を次のような関係によって表わす。すなわち、自然形態にあるがままの上衣という別の商品が、リンネルに等しいとされる関係によって。したがって、リンネルは、自分自身があるものに値していることを、上衣という別の商品が直接に自分と交換可能であるという事実によって、表現している。

 すべての商品は、価値としては人間労働という同じ単位の同等な表現であり、相互に置き換えることができる。したがって、商品が価値として現われる形態をもつやいなや、この商品は別の商品と交換可能なものになる。

 一商品は、それを等価物とする他のすべての商品と、直接に交換可能である。すなわち、価値関係においてこの商品の占める位置が、その自然形態を、他の商品の価値形態にする。この商品は、それが他の商品にたいし価値として現われ、そのようなものとして値うちをもち、したがって、他の商品と交換可能なものになるためには、その自然形態とちがった形態をとるには及ぼない。したがって、一商品にとって等価形態とは、その商品が他の商品と直接に交換可能であるところの形態なのである。》(江夏他訳26-7頁)

 

 このフランス語版で特に問題になったのは、第2パラグラフです。ここでは《すべての商品》が問題になっており、だから商品の一般的な交換可能性について論じています。初版付録でも同じような文言が冒頭にきています。

 

 《諸価値としては、すべての商品は、同じ単位の、すなわち人間労働の、同等と認められる互いに置き替えられる、すなわち交換可能な諸表現である。それゆえ、ある商品が一般に他の商品と交換されうるのは、その商品が価値として現われるような形態をもっているかぎりにおいてのことである》(国民文庫版137頁)

 

 しかし現行版(第二版)では、そうした文言がなくなり、だからフランス語版で再び復活したことになります(しかし位置を変えて)。つまり初版付録やフランス語版では商品の「一般的な」交換可能性と等価形態の「直接的な」交換可能性とが対比される形で論じられているわけです。つまり一般に商品は交換されうるためには、価値として現れることが必要なのですが、等価形態にある商品はその現物形態そのものが価値として認めらるから、だからそれはそれをそうしたものとして認める商品とは「直接的」に交換可能である、というわけです。

 

  また現行版では、上着とリンネルとが例に上げられて、最後まで二商品の価値関係として説明されていますが、フランス語版では最初はリンネルと上着が例に上げられているものの、第3パラグラフでは、等価形態にある商品は、それを等価物にする《他のすべての商品と、直接に交換可能である》と述べられており、やや展開された価値形態に近い表現になっていることも指摘されました。

 

  最後に、ここで言われている「直接的交換可能性」について、どうしてこんなことをいう必要があるのだろうか? という素朴な疑問が出されました。それに対して、この「直接的交換可能性」というのは、等価形態が貨幣にまで発展すると、「金(カネ)があればなんでも買える」という貨幣の極めて強力な特質として現れてくるものだ、との説明がありました。「金さえあれば何でも欲しい物が手に入る」という金の魔力は、まさに等価形態の直接的交換可能性に基づいているわけです。貨幣になるとそれが貨幣そのものが持っている魔力のように見えますが、実はそうではなく、それは等価形態におかれた商品が、ただ一方的に《押しつけ》られた性質にすぎず、等価形態におかれた上着にとってはまったく与り知らない、ただ受動的に一方的に押しつけられた役割にすぎないわけです。そうした等価形態の「質」的側面が、貨幣にまで発展すると、まるで貨幣そのものが生まれながら持っている一つの魔力のように見えてくるのですから、おかしなものです。

 

 「ということは、貨幣に発展する等価形態の考察こそが、マルクスにとってはメインなのだろうか?」という疑問も出ましたが、しかし等価形態の謎を解明するためには、相対的価値形態の内実が解明される必要があり、むしろ相対的価値形態そのものの解明の困難さが貨幣の謎の解明の困難さでもあったことが指摘されました。

 

 貨幣が主役のように見えている現象の転倒性についても話が及び(なにしろ話はいくらでも脱線したので)、現象的には貨幣があって商品が売買されて流通するように見えるが、本当は商品の流通という現実(あるいは商品の交換によって社会の物質代謝が維持されているという現実)があるからこそ、貨幣の流通もあるのであり、そうした関係がわれわれには転倒して見えているのだということも指摘されました。またそうした転倒した現象に捕らわれた自称マルクス経済学者の典型的な主張の紹介など話は尽きないほどに脱線したのですが、その報告まですると、この報告そのものが脱線しかねないので割愛したいと思います。

 

◎等価形態の量的側面の考察

 

 次は第2パラグラフです。まず全文紹介します。

 

【2】《 (イ)ある一つの商品種類、たとえば上着が、別の一商品種類、たとえばリンネルのために、等価物として役だち、したがってリンネルと直接に交換されうる形態にあるという独特な属性を受け取るとしても、それによっては、上着とリンネルとが交換されうる割合はけっして与えられてはいない。 (ロ)この割合は、リンネルの価値量が与えられているのだから、上着の価値量によって定まる。 (ハ)上着が等価物として表現され、リンネルが相対的価値として表現されていようと、または逆にリンネルが等価物として表現され、上着が相対的価値として表現されていようと、上着の価値量は、相変わらず、その生産に必要な労働時間によって、したがって上着の価値形態にはかかわりなく、規定されている。 (ニ)しかし、商品種類上着が価値表現において等価物の位置を占めるならば、この商品種類の価値量は価値量としての表現を与えられてはいない。 (ホ)この商品種類は価値等式のなかではむしろただ或る物の一定量として現われるだけである。》

 

 まず注意が必要なのは、「等価形態の量的側面の考察」と言っても、初版本文では《量的な被規定性は一商品の等価形態のなかには包括されていない》(53頁)と述べられており、初版付録でも表題として《 b 量的な被親定性は等価形態には含まれていない》となっています。つまり等価形態には量的被規定性はないということが、この量的側面の考察で論じらていることなのです。それを頭に入れて、各文節ごとに詳しく見ていくことにしましょう。

 

 (イ) われわれが先に考察した、「相対的価値形態の内実」の冒頭では《 ある一つの商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいるかを見つけだすためには、この価値関係を、さしあたりその量的関係からまったく独立に、考察しなければならない》と述べられていました。つまりわれわが考察したリンネルの価値が上着によって表現されることによって、等価形態におかれた上着が、リンネルと直接に交換されうる形態にあるという《独特の属性を受け取って》も、それらはまだ質的な考察にもとづくものであり、そこには量的規定性はなく、だからまたそれらがどういう割合で交換されるのかということも与えられていないわけです。

 

 (ロ) その割合は、リンネルの価値量が与えられていれば、上着の価値量によって決まってきます。

 

 (ハ) そしてこの割合は、上着が等価形態になり、リンネルが相対的価値形態になっても、あるいはその逆にリンネルが等価形態になり、上着が相対的価値形態になっても、同じです。つまり、上着の価値量は、それが等価形態にあるか、それとも相対的価値形態にあるかに関わりなく、ただ上着の生産に必要な労働時間によって決まっており、決して、価値形態によって決まるわけではありません。

 

 (ニ) しかし、上着の価値量は価値形態とは関わりがないといっても、その価値量の「表現」は、上着が価値表現のどの位置を占めるかによって違ってきます。上着が等価物の位置を占めるなら、その価値量は価値量としての表現は与えられていないのです。《上着が価値表現のなかで等価物の位置をしめるや否や,その価値の大きさは,価値の大きさとしての表現をなんら演じないで,価値等式においては,むしろただ一定分量の使用価値としての役をつとめるにすぎない》(『補足と改定』70頁)

 

 (ホ) 等価物の商品は、ただ価値を表現する材料として、ある使用価値の一定量として現れるだけです。  《ある一つの商品の価値が相対的に表現されるとすれば,その価値の大きさも表現される,なぜならばその商品は--その価値が表現されるべき一定の商品分量として--価値等式に入っていくのだからである。それに対して,等価物として役にたつ商品は,決して価値の大きさとして表現されることはなく,一定分量の使用価値としてのみ役にたつ。たとえば,20エレのリンネルが1あるいは2あるいはx着の上着に値するという表現においては,20エレのリンネルはこれこれの量に値するすなわち量的に規定された価値として表現される。しかし何においてか。1あるいは2あるいはx着の上着において,すなわち,使用対象上着の一定分量においてである。なぜならば,上着はここでは等価物としての役をつとめ,すなわちその使用価値形態が価値体として通用し、この使用価値の一定分量がまた,他の商品のある価値分量を表現するのに充分であるからである。》(『補足と改定』70-71頁)

 

 そもそも等価形態に置かれた商品上着は、もちろん、一定量の価値を持っているからこそ,等価物に置かれたのですが、しかしリンネルの価値表現においては、自身の価値を表すのではなく、ただ相対的価値形態にあるリンネルの価値を表す材料になるだけです。だから等価形態にある上着の価値そのものは、そもそもリンネルとの価値等式においては何も表されていないわけです。だからもともと価値が表されていないのですから、その価値の量も表されていないのは、ある意味では当然ともいえます。しかしでは上着の価値量はリンネルの価値表現においては何の関係もないかというとそうではありません。20エレのリンネルの価値量は、上着の使用価値の一定量、たとえば「1着」の上着という形で表されているわけです。ここで「1着」というのは、上着の使用価値の量的表現ですが、それによってリンネルは、自身の価値を量的に表現しているわけです。それは上着の使用価値そのものがリンネルの価値を表しているからです。だから上着の使用価値の量がリンネルの価値の量を表すことになるわけです。しかし上着が「1着」であるか、それとも「2着」であるかは、リンネルの価値が与えられているなら、上着の価値量によって決まってきます。にも関わらず、リンネルの価値量の相対的表現においては、上着はただその使用価値の量的規定性しか持たないのです。つまり等価形態にある上着の価値量は、リンネル価値量の相対的表現においては、規定的に関係しているが、リンネルの価値量の表現そのものには直接には現れてこないわけです。    

 

次は第3パラグラフです。

 

【3】《 (イ)たとえば、四〇エレのリンネルは「値する」――なにに? 二着の上着に。 (ロ)商品種類上着がここでは等価物の役割を演じ、使用価値上着がリンネルにたいして価値体として認められているので、一定量の上着はまた一定の価値量リンネルを表現するに足りるのである。 (ハ)したがって、二着の上着は四〇エレのリンネルの価値量を表現することはできるが、しかしそれはそれ自身の価値量、上着の価値量を表現することはけっしてできないのである。 (ニ)価値等式における等価物は、つねに、ただ、ある物の、ある使用価値の、単純な量の形態をもっているだけだというこの事実の皮相な理解は、べーリをもその多くの先行者や後続者をも惑わして、価値表現のうちに単なる量的な関係を見るに至らせたのである。 (ホ)そうではなく、一商品の等価形態はけっして量的な価値規定を含んではいないのである。》

 

 (イ)(ロ) 例えば40エレのリンネルは二着の上着に値するという場合、上着は等価物の役割を演じており、その使用価値がリンネルに対して価値体として認められています。だから一定量の上着の使用価値量だけで、リンネルの一定の価値量を表現するのに十分なのです。

 

 (ハ) しかし二着の上着という上着の使用価値量は確かに40エレのリンネルの価値量を表すことはできますが、しかし上着自身の価値量そのものを表現することは決してできません。

 

 (ニ) 価値等式における等価物は、だから常にある使用価値の一定量という単純な量の形態を持っているだけなのです。しかしこの事実の皮相な理解は、ベーリやその他の多くの先行者や後続者たちを惑わして、価値表現のなかに単なる量的な関係だけを見る誤りに陥らせたのです。

 

 (ホ) むしろ一商品の等価形態には、何の量的な価値規定も含まれていないのです。

 

 ここではベーリの誤った理解が言われていますが、それはどういうものなのか、またベーリの「先行者」「後続者」とも言われていますが、それはどういう人物たちなのかという質問が出されました。まず後者としては、『補足と改定』のなかで、次のような紹介があることが指摘されました。

 

 《価値形態すなわち価値表現は完全に商品価値の本性とその大きさから発生するのである。そして逆に,価値および価値の大きさが交換価値としてのそれ自身の表現方法から生ずるのではない。それは,一面では価値一般に関しては重商主義者とその近代的蒸し返し屋であるフーリエ(注:F.L.A.Ferrier (関税副検査官)『商業との関係から見た政府について』パリ1805年) やガニール(注:Ch.Ganilh 『経済学の諸体系について』第2版パリ1821年) ,マクロード等が妄想していることであり,他方,価値の大きさに関しては近代自由貿易論者であるバスティアとその仲間たちが妄想していることである。》(69-70頁)

 《(注:価値等式における等価物は,つねに,ただ,一定分量の使用価値の役をつとめるにすぎないというこの事実の全く皮相な理解は,ベイリー( 『貨幣とその変遷』ロンドン18371.c.)を迷わせて,価殖表現のなかに量的な関係だけを見るにいたらせた。)》(71頁)

 

 ではベーリの主張はどういうものか、ということについては、『剰余価値学説史』の中で紹介されているのではないか、との指摘がありましたが、『学説史』そのものは当日持っていなかったので、ここでその典型的な主張を紹介をしておきましょう。ベーリはリカードを批判して次のように述べています(全集版第26巻III116-117頁)。

 

  「大部分の諸商品または一商品を除くすべての商品を生産する労働の絶対量が増加しても、この一商品の価値は変わらないと言うことができるであろうか?〔どんな意味でなのか?〕というのは、それは、他のすべての商品のより少ない量と交換されるだろうからである。もし実際に、価値の増減ということの意味が、当該商品を生産した労働量の増滅のことを主張しているつもりで言われているとすれば、私がいま反対理由にあげた結論は、十分真実でありうるであろう。だが、リカード氏が言っているように、二つの商品を生産する比較的労働量が、これら二つの商品を相互に交換する比率、すなわち各商品の交換価値の原因であると言うことは--、各商品の交換価値が、他の商品または他の商品の存在とのどんな関係も考慮されずに、その商品を生産した労働量のことを意味すると言うこととは、非常に違っている。」(『考察』、13ページ。)

 

  「リカード氏は、事実われわれに向かってこう言っている、『自分が読者の注意をひきたいと思う研究は、諸商品の相対的価値の変動の効果に関してであって、絶対的価値のそれに関してではない』と。あたかも彼は、そこでは、相対的ではない交換価値のようなある物が存在する、と考えていたかのようである。」(同前、9/10ぺージ。)  「リカード氏が価値という言葉の彼の最初の用法から離れて、それを相対的なものではなくなにか絶対的なものにしたということは、『価値と富、両方を区別する特性』と題する彼の一章のなかで、もっと明瞭になっている。そこで論じられている問題は、他の人によっても論じられたものだが、純粋に用語上のもので、役にはたたない。」(同前、15ぺージ以下。)

 

 このベーリの主張に対するマルクスの批判もついでに紹介しておきます(同上163頁)。

 

 《諸商品が使用価値として相互に交換される量的な関係は、なるほど諸商品の価値の表現であり、諸商品の実現された価値であるが、しかしその量的関係は、それらの商品の価値そのものではない、というのは同じ価値関係が使用価値のまったく違った量で表わされるからである。……諸商品の価値としての定在は、その商品自身の使用価値--その商品の使用価値としての定在--では表現されない。それは、他の使用価値でのその商品の表現のなかに、すなわち、このような他の使用価値がその商品と交換される関係のなかに、現象する。1オンスの金と1トンの鉄とが等しくて、それゆえ金の少量が鉄の多量と交換されるとすれば、そのために、鉄で表現される1オンスの金の価値のほうが金で表現される鉄の価値よりも大きいであろうか? 諸商品がそれらに含まれている労働に比例して交換されるということは、諸商品が、同じ労働量を表わすかぎりでは、相等しく、同じものである。……だから同時にそれは、各商品が、対自的に考察されれば、その商品自身の使用価値、すなわちその商品自身の使用価値としての定在とは区別されたものである、ということを意味している。》

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

【付属資料】

 

 これらのパラグラフに関連すると思われるものを紹介しておきます。

 

1】パラグラフ

 

《初版本文》

 

 《われわれの分析が明らかにしてきたのは、一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値形態を包括している、ということである。リンネルは、その価値と、その特定の価値の大きさとを、上着で表わしている。リンネルはその価値を他の一商品にたいする価値関係において、したがって交換価値として、示すのである。他方において、リンネルがその価値をそれにおいて相対的に表現するところの、この別の商品、上着は、まさにそれゆえに、リンネルと直接に交換されうる使用価値という形態を、すなわち等価物という形態を、受け取るのである。両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態なのである。両方が、じつはただ、同じ相対的な価値表現の諸契機であり、相互に制約され合っている諸規定でしかないのであるが、それら二つの等置された商品極の上に対極的に分けられているのである。》(国民文庫版53頁)

 

《初版付録》

 

 《a 直接的交換可能性の形態

 

 諸価値としては、すべての商品は、同じ単位の、すなわち人間労働の、同等と認められる互いに置き替えられる、すなわち交換可能な諸表現である。それゆえ、ある商品が一般に他の商品と交換されうるのは、その商品が価値として現われるような形態をもっているかぎりにおいてのことである。ある商品体が他の商品と直接に交換されうるのは、その商品体の直接的な形態 、すなわちそれ自身の物体形態または現物形態が、他の商品にたいして価値を表わしている、すなわち、価値姿態として認められているかぎりにおいてのことである。このような属性を上着は自分にたいするリンネルの価値関係においてもっている。そうでなければ、リンネルの価値上着という物では表現されえないであろう。だから、商品が一般に等価形態をもっているということは、ただ、価値表現におけるその商品の位置によって、その商品自身の現物形態が他の商品のための価値形態として認められているということ、すなわち、その商品が他の商品との直接的交換可能性の形態をもっているということを意味しているだけである。だから、その商品は、他の商品にたいして価値として現われ価値として認められて他の商品に価値として働きかけるために、あらかじめ、その商品の直接的な現物形態とは違う形態をとる必要はないのである》(同上137-8頁)

 

《補足と改訂》

 

 《a) 直接的交換可能性の形態》という項目はあるが、それに直接続く内容は初版付録の《b)》の内容である。そして《等価形態の独自性への移行》という項目のあとに続く次のものが、この最初のものに合致している。

 

 《われわれは次のことを見てきた。--一商品(リンネル)は,その価値を,種類を異にする一商品Bの使用価値(上着)で表現することによって,商品Bそのものに,一つの独自な価値形態,等価物という価値形態を押しつける。リンネルは,自分自身を上着と等しいものとして表現することによって,その価値存在を表現する。すでに見たように、この表現のなかでは,上着体は,リンネルと等しいものとして通用し,それと置き換えることができ、それと交換可能である価値体として、同じ単位の人間的労働の表現として役にたつ。

 

 結論--したがって、リンネルはその価値存在を、同じに通用するという性質を、つまり交換可能性を、上着が直接それと交換できるということを通して、表現する。それゆえ、一商品の等価形態は、他の商品との直接的交換可能性の形態である、そしてその商品がこの形態を受け取るのは、他の商品の価値がそれで、つまり、他の商品の価値表現におけるそれの立場を通してのみ、表現されているからにほかならない。

 

  b)すでに見たように、そのことを通して上着体はリンネルに対して価値体となる、すなわち、上着商品の自然形態が価値形態になる。

 

 [B2]

 

  (8)われわれは次のことを見てきた。--一商品A( リンネル)は,種類を異にすにる一商品Bの使用価値(上着)でその価値を表現することによって,商品B そのものに,一つの独自な価値形態、等価物という形態を押しつける。リンネルは、ある他の商品、上着がそままの姿で、その自然形態においてリンネルに等しいものとして通用する関係を通してそれ自身の価値性格を外に現わす。したがって、リンネルは、事実として、他の商品上着が直接リンネルと交換されうるということを通して,自分の価値存在を表現する。したがって,一商品の等価形態は他の商品との直接交換可能性の形態である,そしてある商品がこの形態をうけとるのは,それにおいて他の商品の価値が,つまり,他の商品の価値表現におけるそれの立場を通してのみ,表現されるときにかぎられる。この文章は8)の最後。》(小黒正夫訳72-73頁)

 

《フランス語版》

 

 《すでに見たことだが、商品A(リンネル)は、その価値を、異なる商品B(上衣)の使用価値のうちに表現するのと同時に、商品Bにたいし、特殊な価値形態である等価形態を押しつける。リンネルはそれ自身の価値性格を次のような関係によって表わす。すなわち、自然形態にあるがままの上衣という別の商品が、リンネルに等しいとされる関係によって。したがって、リンネルは、自分自身があるものに値していることを、上衣という別の商品が直接に自分と交換可能であるという事実によって、表現している。

 

  すべての商品は、価値としては人間労働という同じ単位の同等な表現であり、相互に置き換えることができる。したがって、商品が価値として現われる形態をもつやいなや、この商品は別の商品と交換可能なものになる。  一商品は、それを等価物とする他のすべての商品と、直接に交換可能である。すなわち、価値関係においてこの商品の占める位置が、その自然形態を、他の商品の価値形態にする。この商品は、それが他の商品にたいし価値として現われ、そのようなものとして値うちをもち、したがって、他の商品と交換可能なものになるためには、その自然形態とちがった形態をとるには及ばない。したがって、一商品にとって等価形態とは、その商品が他の商品と直接に交換可能であるところの形態なのである。》

 

2】パラグラフ

 

《初版本文》

 

 《量的な被規定性は一商品の等価形態のなかには包括されていない。たとえば、上着がリンネルの等価物である、という特定の関係は、上着の等価形態から、すなわちリンネルとの上着の直接的交換可能性の形態から生ずるのではなくて、労働時間による価値の大きざの規定から生ずるのである。リンネルがそれ自身の価値を上着で表わすことができるのは、ただ、リンネルが、結晶した人間労働の所与の量としての一定の上着量に関係するからにほかならない。もし上着の価値が変わるならば、この関係もまた変わるのである。とはいえ、リンネルの相対的な価値が変わるためには、その相対的な価値が存在していなければならないのであり、そしてその相対的な価値は、ただ、上着の価値が与えられている場合にのみ形成されうるのである。いま、リンネルがそれ自身の価値を上着の一着で表わすか、二着で表わすか、それともx着で表わすか、ということは、この前提のもとでは、まったく、自分の価値が上着形態で表わされるべきリンネルの一エレの価値の大きさとエレ数とによって定まる。一商品の価値の大きさは、ただ他の一商品の使用価値においてのみ、相対的な価値としてのみ、表現されることができるのである。これに反して、直接に交換可能な使用価値の形態すなわち等価物の形態を、一商品は、逆にただ他の一商品の価値がそれにおいて表現されるところの材料としてのみ、受け取るのである。

 

  この区別は、その単純な、または第一の、形態における相対的な価値表現の特性によって、不明瞭にされている。すなわち、等式 20エレのリンネル=一着の上着 または 20エレのリンネルは,一着の上着に値する は、明らかに、同じ等式 一着の上着=20エレのリンネル または 一着の上着は二〇エレのリンネルに値する を含意している。つまり、リンネルの相対的な価値表現においては上着が等価物としての役割を演じているのであるが、この価値表現は逆関係的に上着の相対的な価値表現を含んでいるのであって、それにおいてはリンネルが等価物としての役割を演じているのである。》(前掲53-4頁)

 

《初版付録》

 

 《b 量的な被親定性は等価形態には含まれていない

 

 上着という形態をもっている一つの物がリンネルと直接に交換されうるということ、または、金という形態をもっている一つの物がすべての他の商品と直接に交換されうるということ、--このような、一物の等価形態は、まったくなんらの量的な被規定性をも含んではいない。

 

  第一に、リンネルの価値表現のための材料として役だつ上着という商品は、このような表現においても、一二着等々ではなくて一着の上着というように、つねに量的に規定されている。では、なぜであろうか? そのわけは、二〇エレのリンネルがその相対的な価値表現においてはただ価値一般として表現されているだけではなくて同時に特定の価値量として計られているからである。しかし、一二着ではなくて一着の上着が二〇エレのリンネルと同じだけの労働を含んでおり、それだから二〇エレのリンネルに等置されるのだ、ということは、商品種類リンネルと直接に交換されうるという商品種類上着の特徴的な属性とは、まったくなんの関係もないのである。

 

  第二に、もし二〇エレのリンネルが特定の大きさの価値としては一着の上着で表現されるならば、逆関係的に一着の上着の価値の大きさもまた二〇エレのリンネルで表現され、したがってやはり量的に計られているのであるが、しかし、ただ間接的に表現の逆転によってであり、上着が等価物の役割を演ずるかぎりにおいてのことではなくて、むしろ上着自身の価値をリンネルで相対的に表わしているかぎりにおいてのことなのである。

 

  第三に、われわれは、20エレのリンネル=一着の上着 または、20エレのリンネルは一着の上着に値する、という定式を、二〇エレのリンネルと一着の上着等価物である、または 、両方とも同じ大きさの価値である、というように表現することもできる。この場合には、われわれは両方の商品のどちらかの価値他方の商品の使用価値で表現するのではない。したがって、両方の商品のどちらも等価形態に置かれるのではない。ここで等価物が意味しているのは、ただ、両方の物が前もってわれわれの頭のなかで暗黙のうちに価値という抽象物に還元されたのちに、大きさの等しいものである、ということにすぎない。》(同上138-9頁)

 

《補足と改訂》

 

 《ある一種類の商品,たとえば上着が,別の種類の商品,たとえばリンネルのために等価物として役立ち,それゆえ,上着がリンネルと直接に交換されうる形態にあるという特徴的な属性を受け取るとしても,それによって,上着とリンネルとが交換される比率が与えられるわけでは決してない。

 

 [A 1]

 

  これは,リンネルの価値が与えられた大きさであるばあい,つねに上着の価値の大きさによって決まる。上着が--等価物として表わされ--そしてリンネルが相対的価値として表わされているか,あるいは上着が相対的価値としてそしてリンネルが等価物として表わされているか。--それゆえ,そのことはこの価値形態とは無関係な規定である。価値形態すなわち価値表現は完全に商品価値の本性とその大きさから発生するのである。そして逆に,価値および価値の大きさが交換価値としてのそれ自身の表現方法から生ずるのではない。それは,一面では価値一般に関しては重商主義者とその近代的蒸し返し屋であるフーリエ(注:F.L.A.Ferrier (関税副検査官)『商業との関係から見た政府について』パリ1805年) やガニール(注:Ch.Ganilh 『経済学の諸体系について』第2版パリ1821年) ,マクロード等が妄想していることであり,他方,価値の大きさに関しては近代自由貿易論者であるバスティアとその仲間たちが妄想していることである。

 

 [A2]

 

  それは,リンネルの価値の大きさが与えられているのだから,上着の価値の大きさによって決まる。上着が--等価物として表現され,リンネルが相対的価値として表現されていようとも,あるいは逆にリンネルが等価物として表現され上着が相対的価値として表現されていようとも,上着の価値の大きさは,依然として,上着の生産に必要な労働時間によって,してがって上着の価値形態とはかかわりなく,規定されている。しかし,上着が価値表現のなかで等価物の位置をしめるや否や,その価値の大きさは,価値の大きさとしての表現をなんら演じないで,価値等式においては,むしろただ一定分量の使用価値としての役をつとめるにすぎない。

 

 [A3]

 

  それは,リンネルの価値の大きさが与えられているのだから,上着の価値の大きさによって決まる。上着が--等価物として表現されリンネルが相対的価値として表現されていようとも,あるいは逆にリンネルが等価物として表現され上着が相対的価値として表現されていようとも,それらが交換される比率は変わらないままであり,それらの生産に必要な労働時間で計られたそれらのそのときどきの価値は,それゆえ,それらの価値形態とは無関係な規定である。  それの価値が相対的に表現される商品は,つねに価値の大きさとして表現され,一方逆に等価物は決して価値等式において価値の大きさとしての役を演ずることはなく,つねに一定分量の使用価値としての役をつとめるにすぎない。

 

 [A '1]

 

  ある一つの商品の価値が相対的に表現されるとすれば,その価値の大きさも表現される,なぜならばその商品は--その価値が表現されるべき一定の商品分量として--価値等式に入っていくのだからである。それに対して,等価物として役にたつ商品は,決して価値の大きさとして表現されることはなく,一定分量の使用価値としてのみ役にたつ。たとえば,20エレのリンネルが1あるいは2あるいはx着の上着に値するという表現においては,20エレのリンネルはこれこれの量に値するすなわち量的に規定された価値として表現される。しかし何においてか。1あるいは2あるいはx着の上着において,すなわち,使用対象上着の一定分量においてである。なぜならば,上着はここでは等価物としての役をつとめ,すなわちその使用価値形態が価値体として通用し、この使用価値の一定分量がまた,他の商品のある価値分量を表現するのに充分であるからである。(注:価値等式における等価物は,つねに,ただ,一定分量の使用価値の役をつとめるにすぎないというこの事実の全く皮相な理解は,ベイリー( 『貨幣とその変遷』ロンドン18371.c.)を迷わせて,価値表現のなかに量的な関係だけを見るにいたらせた。)

 

  したがって,ある商品の等価形態にはなんらの量的価値規定をも含まないのである。》(前掲69-71頁)

 

《フランス語版》

 

 《たとえば、上衣のような商品が、リンネルのような他の商品に等価物として役立ち、したがって、リンネルと直接に交換可能であるという特有の属性を得ても、この交換が行なわれうる比率は、けっして与えられてはいない。リンネルの価値量が与えられているから、この比率は上衣の価値量に依存するであろう。たとえ価値関係において、上衣が等価物として現われリンネルが相対的価値として現われようとも、またはこれと逆であろうとも、交換の行なわれる比率は依然同じである。したがって、生産に必要な労働時間の比較によって測られる二商品のそれぞれの価値量は、価値形態とは全く関係のない規定である。》(前掲27頁)

 

3】パラグラフ

 

《補足と改訂》

 

 《[A'2]

 

 たとえば,40エレのリンネルは値する--なににか? 2着の上着に,である。ここでは,上着という商品種類は等価物の役割を演じており、上着という使用価値は,それゆえ,リンネルに対して価値体として通用しているのであるから,リンネルという一定の価値分量を表現するためには,やはり一定分量の上着があれば十分なのである。したがって,2着の上着は,40エレのリンネルの価値を表現することはできるが,それ自身の価値の大きさを表現することは決してできない。価値等式における等価物は,つねに,ただ,一つの物の単なる分量という形態をとるにすぎないというこの事実の皮相な理解は,ベイリーを--彼の多くの先行者や後続者と同じように--迷わせて, 価値表現のうちにただ量的な関係のみを見るにいたらせた。

 

 一商品の等価形態には,むしろ,なんの量的な価値規定も含まれてないのである。》(前掲71頁)

 

《フランス語版》

 

 《価値が相対的形態のもとにあるような商品は、つねに価値量として表現されるが、他方これと反対に、つねに有用物の単なる量として等式のうちに現われる等価物については、そうではない。たとえば四〇メートルのリンネルはなにに値するか? 二着の上衣に値する。上衣という商品は、ここでは等価物の役割を演じ、こうしてリンネルの価値に体躯を与えるから、ある分量の上衣は、リンネルがもつ価値の分量を表現するのに充分である。したがって、二着の上衣は、四〇メートルのリンネルの価値量を表現することができるが、自分自身の価値量を表現することはできない。価値等式では等価物が有用物の単なる分量としてのみ現われるという事実を、皮相に観察したために、S ・べーリや彼以前および以後の多くの経済学者が誤りに陥ったのである。彼らは価値表現のうちに量的関係しか見なかった。ところで、商品は等価形態のもとでは、あるなんらかの物体の単なる量として現われるが、それはまさに、この商品の価値量が表現されないからなのである。》(前掲27頁)

 

 

 


第21回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

 

 

 「いのちを、守りたい。  いのちを守りたいと、願うのです。」

 

 鳩山首相の施政方針演説である。  昨年の所信表明演説も美辞麗句でよそよそしく飾られていたが、今回の施政方針演説もただ観念的で崇高な理念が掲げられているのみである。

 

 

 「資本主義社会を維持しつつ、行き過ぎた『道徳なき商業』」、『労働なき富』を、どのように制御していくべきなのか。人間が人間らしく幸福に生きていくために、どのような経済が、政治が、社会が、教育が望ましいのか。今、その理念が、哲学が問われています。」  「人間のための経済、再び」  「経済のしもべとして人間が存在するのではなく、人間の幸福を実現するための経済をつくり上げるのがこの内閣の使命です。」  「『商業の道徳』を育み、『労働をともなう富』を取り戻すための挑戦」等々。

 

 資本主義の現実と本質を知る労働者にとって、これらは何と空疎な文言として響くことか。マルクスは次のように述べている。

 

 《“わが亡き後に洪水は来たれ! Apres moi le deluge! ”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。したがって、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命に対し、何らの顧慮も払わない。肉体的、精神的萎縮、早死、過度労働の拷問に関する苦情に答えて資本家は言う--われらが楽しみ(利潤)を増やすがゆえに、それが何でわれらを苦しめるというのか? と。》(『資本論』第1巻、全集23a353頁)

 

 これこそが、労働者が日々体験している資本主義の現実ではないだろうか!

 

 一方で「資本主義社会の維持」を掲げながら、他方で、『労働なき富』を批判し(それをいうならまず自分自身を批判せよ!)、「『労働をともなう富』を取り戻す」ことを謳う鳩山首相の理念は、マルクスがブルジョア経済学者を批判して次のように述べたことがもっともよく当てはまる。

 

 《賃労働は自己疎外された労働であって、それにたいしては、それによってつくりだされた富が他人の富として対立し、それ自身の生産力がそれの生産物の生産力として対立し、それの致富が自己貧窮化として対立し、それの社会的な力がそれを支配する社会の力として対立するのである。ところが、このような、資本主義的生産において現われるところの、社会的労働の特定の独自な歴史的な形態を、これらの経済学者たち(鳩山首相と読め--引用者)は、一般的な永久的な形態、自然真理として言い表わし、また、このような諸生産関係を、社会的労働の絶対的な(歴史的ではない)必然的な、合自然的で理性的な諸関係として言い表わすのである。資本主義的生産の視野のなかに完全に閉じこめられているために、彼らは(鳩山首相は--同)、社会的労働がここでとるところの対立的な形態を、この対立から解放されたこの形態そのものと同様に必然的なものと断定するのである。こうして彼らは一方では労働を絶対的だとし(というのは、彼らにとっては賃労働は労働と同義なのだからである)、他方では資本を同様に絶対的だとし、労働者の貧窮と非労働者の富(鳩山家の巨万の富はまさにこれだ--同)とを同時に富の唯一の源泉として言い表わすのだから、彼らは絶えず絶対的な諸矛盾のなかで動いていながら、少しもそれを感じてはいないのである(だからノーテンキなことも言っていられるわけだ--同)。》(『学説史』26巻III340頁)

 

 ブルジョア社会の現実に対する無知を曝け出し、ノーテンキな理念を掲げることしか知らない鳩山政権を批判するためにも、あなたも、ともに『資本論』を一緒に読んでゆきませんか。

 


第21回「『資本論』を読む会」の報告

第21回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎春の陽気

 

 大阪は、ここ数日は好天に恵まれ、春のような陽気が続いています。

 

  第21回「『資本論』を読む会」開催当日(2月21日)もよい天気で、私たちが学習会を行った教室は50人ほどが入るほどの大きさなのですが、いつもはその真ん中の一番前の黒板に近い席を占めてこじんまりとやるのですが、今回はよい天気に誘われて窓際の席の各自思い思いの場所に座り、行いました。おかげで学習会の最中に居眠りをしてほとんど聞いていなかったなどと、帰り道で話している人もあったほどでした。

 

 そうした陽気もあってか、等価形態の「第一の特性」をすべて終えました(第4~8パラグラフ)。さっそく、その報告を行いましょう。

 

◎「等価形態の矛盾」とは?

 

 今回は第4パラグラフからです。例によって全文を紹介し、議論も含めてその文節ごとの解読を紹介してゆきましょう。

 

【4】パラグラフ

 

 《等価形態の考察にさいして目につく第一の特色は、使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということである。》

 

 ここから等価形態の「特色」(初版付録は「特性」、『補足と改定』は「独自性」となっている)の考察が始まっています。それは使用価値がその反対物である価値の現象形態になるということです。  ところで、この等価形態の特色の考察の前に、『補足と改定』や『フランス語版』では次のような導入文があることが紹介されました。

 

《補足と改訂》

 

 《等価形態の独自性への移行  等価形態が内包する矛盾はその独自性をさらに詳細に考察することを必要とする。》(小黒正夫訳72頁)

 

《フランス語版》

 

 《等価形態が含んでいる矛盾は、いまでは、この形態の特色のいっそう徹底的な考察を要求している。  等価形態の第一の特色 。使用価値が、その対立物である価値の表示形態になる。》(江夏美千穂/上杉聡彦訳27頁)

 

 ここで《等価形態が内包する矛盾》(補足と改定)や《等価形態が含んでいる矛盾》(フランス語版)と言われているものは、一体、何を指しているのだろうかということが問題になりました。

 

  ピースさんはローゼンベルグの『資本論注解』を紹介してくれました。確かに『注解』でも〈ついでマルクスは右にあげた諸矛盾の特徴づけにうつる。それは三つある〉と述べて、等価形態の三つの特性を紹介しているのですが、ローゼンベルグの『注解』でも、いま一つ〈右にあげた諸矛盾〉が何を指しているのかよく分からないのです。ただその諸矛盾がより詳細に考察されて、三つの特性(独自性)が与えられていることは分かります。しかし何をもって〈諸矛盾〉と述べているのかは、やはりもう一つよく分かりません。

 

  亀仙人は、これらの導入文を見る限り、それまでの等価形態の考察(質的および量的)の結果、《等価形態の内包する矛盾》が明らかになったので、そのことはさらに等価形態の独自性を詳細に考察する必要があると読むことができるように思える。だからその直前で行われている等価形態の量的考察のなかに、その矛盾があるのではないか、と指摘して、次のような考えを述べました。

 

  “等価形態の内包する矛盾は、それまでに考察したことを直接受けたものだから、特に、等価形態には量的な被規定性は含まれていないということを意味するのではないかと思う。それがどうして矛盾しているのかというと、リンネルの価値は与えられているので、その量的表現は、上着の価値の量によって決まってくるわけだが、実際のリンネルの価値量の相対的な表現においては、上着の価値の量的規定性そのものは現れて来ないということではないかと思う。等価形態に置かれた上着は、ただ「一着」の上着というように上着の使用価値の一定量として表され、それで十分だから、上着の価値量がどれだけかは、そこではまったく表されていない。だから、リンネルの価値の量的表現は、上着の価値の大きさによって決まるのに、その表現形態においては上着の価値の量的規定性そのものは現れて来ないわけです。これをマルクスは等価形態が含んでいる矛盾と述べているようのではないか。”というわけです。

 

  ただその場合でも、何がどのように矛盾しているのか、そもそも矛盾とは何か、ということが問題になりました。この「矛盾」というのはそもそも何か、ということについては、以前、大阪で行った「『資本論』を学ぶ会」のニュースNo.16で鰺坂真他編『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)からその内容を一部紹介したことがありますので、それをもう一度紹介しておくことにします。

 

 【同書には本質について次のような説明があります。

 

 〈本質は、より規定的にいえば、事物のうちにあって、その多様な諸形態にうちに自己をうつしだし、それらに媒介された一定の恒常的なものです。そして、このような本質の、もっとも基本的で抽象的な規定が、同一、区別、根拠という三つのカテゴリーです。〉(同66頁)

 

 ところで今問題になっている「対立」や「矛盾」は、まさにこの本質の「基本的で抽象的な規定」の一つである「区別」のなかにあります。それは次のように説明されています。

 

 〈区別は、より単純な形態からより複雑な形態へと三つにわけられます。それが、差異・対立・矛盾です。〉(同69頁)

 

  〈差異とは、最初の直接的な形態での区別であり、相互に無関係な別々のもののあいだでの区別です。〉しかしこうした〈たんなる差異的区別は、かならずしも事物にとって必要な不可欠な区別ではありません。/たとえば、ひとびとのあいだには、背丈とか体重その他の点で、いろいろな差異的な区別があります。しかしこれらの区別は、人類そのものにとって、本質的な、なくてはならない区別ではありません。人類にとっての本質的な区別は、たとえば、男女や親子の区別であり、この種の本質的な区別は、それがより本質的な区別であればあるほど、当の事物のうちにある、いわゆる両極的な区別となっています。/対立とは、このような、事物のうちにある両極的な区別をいいます。右と左、プラスとマイナス、N極とS極などの区別がそれです。/この対立的な区別には、次の点で差異的な区別と異なっています。/第一に、対立は、右のことからして、事物におけるもっとも本質的で必然的な区別です。そして、対立的な二つのものは、その規定性に関しては相互に排斥しあう関係にあって、たがいに自分は他方のものではないということが、そのまま直接に自分自身の規定と合致するという関係にあります。/第二に、一般にあるものの他者とは、そのものではないもの、そのものの否定です。しかしペンではないものといっても、かならずしも本という特定のものを意味しません。ところが、人間のうちにあって男性でないものといえばただちに女性を意味するように、両極的な対立物はたがいに、たんなる他者としてではなくて、それぞれに固有の他者としてあるのです。/第三に、右のことは、かならずしも一方のものが他方の存在そのものを否定する関係にあることを意味しているわけではありません。むしろ両者は、一つのものの不可分の二側面として、たがいに前提しあい依存しあう関係にあります。このように、その規定性にかんしては相互排斥的な両極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること、これが対立です。〉(69~71頁)

 

  〈ところで、事物における本質的であるがたんに対立的でしかない区別にたいして、二つのものが、その存在そのものに関して、一方では共存の関係にあり、他方では逆に相互排除の関係にあるとき、この二つのものの関係が、矛盾としての対立です。この関係を論理的に表現すると、「AはAであるとともに非Aである」ということになります。〉(71頁)】

 

 だから矛盾というのは〈二つのものが、その存在そのものに関して、一方では共存の関係にあり、他方では逆に相互排除の関係にあるとき、この二つのものの関係が、矛盾としての対立〉だということです。上着の価値の大きさは、リンネルの価値の量的表現を規定しているのに、実際の表現形態ではそれは含まれていないということ、これが矛盾ということではないでしょうか。

 

◎《取り替え〔Quidproquo〕》と《現物の皮》

 

【5】パラグラフ

 

 (イ)商品の現物形態が価値形態になるのである。 (ロ)だが、よく注意せよ。 (ハ)この取り替え〔Quidproquo〕が一商品B (上着や小麦や鉄など)にとって起きるのは、ただ任意の他の一商品A (リンネルなど)が商品Bにたいしてとる価値関係のなかだけでのことであり、ただこの関係のなかだけでのことである。 (ニ) どんな商品も、等価物としての自分自身に関係することはできないのであり、したがってまた、自分自身の現物の皮を自分自身の価値の表現にすることはできないのだから、商品は他の商品を等価物としてそれに関係しなければならないのである。 (ホ) すなわち、他の商品の現物の皮を自分自身の価値形態にしなければならないのである。》

 

 イ) 《商品の現物形態が価値形態になるのである》とあります。これは先のパラグラフ(【4】)と較べると、《使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になる》を直接言い換えたものです。つまり《商品の現物形態》=《使用価値》、《価値形態》=《(使用価値の)反対物の、価値の、現象形態》という関係にあることが分かります。

 

 ロ)、ハ) だが注意する必要があるのは、《この取り替え〔Quidproquo〕》が一商品Bにおいて生じるのは、別の一商品Aが商品Bに対してとる価値関係においてだけだということです。

 

 ここで《取り替え〔Quidproquo〕》という言葉が出てきますが、この言葉については、所沢の「『資本論』を読む会」の報告では次のような大谷禎之介氏の説明が紹介されていますので、重引しておきましょう。

 

 〈マルクスが使っているこの《入れ替わり[Quidproquo]》という表現は、あるものとあるものとが、入れ替わって現れることであって、それによって人びとが欺かれることになる。たとえばモーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』で、アルマヴィーヴェ伯爵を懲らしめるために伯爵夫人とスザンナが衣装を取り替えて別人になりすます。そしてこれに伯爵がまんまとひっかかる。これが《入れ替わり》である。〉(大谷禎之介「価値形態」「経済誌林」第61巻第2号191頁)

 

 つまり使用価値が価値の現象形態になります。使用価値というのは、それ自体が直接的なものです。つまり直接目に見える感覚的なものとして存在しています。しかし価値はそうしたものではありません。にも関わらず、その使用価値の直接的な定在が、価値が目に見える形で現れたものとしての意義を持たされるわけです。つまり価値が目に見えるように現れたものとして、その使用価値の直接性があるということです。だから使用価値の直接的な定在がそのまま価値の直接的な定在になっています。しかしあくまでも上着の使用価値がリンネルの価値の直接的な目に見える定在になっているのであって、上着の使用価値が上着の価値の直接的な定在になれるわけではありません。そしてそのためには上着の使用価値が価値の形態になるという入れ替わりがそこには生じなければならないわけです。もちろん、入れ替わりといっても上着の使用価値そのものは何も変わっていないのです。ただそのままの使用価値にリンネルの価値の現象形態という新たな形態規定性(役割)が付け加えられるだけなのです。しかしその付け加えられた新たな形態規定においては、上着の使用価値は、ただリンネルの価値の現象形態であるという役割しか持たされず、上着の使用価値自体に存在している他のさまざまの属性--例えば羊毛でできていて着心地がよいといったこと--はそこでは直接には問題になっていません。

 

  しかも重要なことは、上着がこうした役割を担わされるのは、リンネルとの価値関係に置かれる限りでのことだということです。

 

 ニ) というのは、どんな商品も、自分自身を自分自身の等価物にすることはできません。

 

 これは「1 価値形態の両極」のところで、指摘されていた《20エレのリンネル=20エレのリンネル》という等式が価値表現ではなく、むしろ20エレのリンネルは一定量の使用価値だということを示すだけだと言われていたことと同じです。これでは何も価値は表現されていないのです。つまりどんな商品も自分自身の現物の皮(自分自身の使用価値)を自分自身の価値の表現に利用できないのです。だからどんな商品も自身の価値を表現しようとするなら、他の別の商品を等価物にして、それと関係する必要があるわけです。

 

 ここで使用価値を《現物の皮》と表現していますが、これはどういう意味なんだろうということも問題になりました。これは使用価値は直接的なものであるのに対して、価値は内在的なものであるということを具体的なイメージで示すものではないかということになりました。つまり使用価値は物の表面に顕れていて直接目に見えるものであるということで、それを動物の表面を覆っている皮に例えているわけです。それに対して価値は内在的なもので、直接には見えず、だから皮に覆われて見えなくされているものというイメージで捉えられているわけです。

 

 ホ) だから、その内在的な価値が直接的な目に見えるものにするためには、自分自身の皮は役に立たないこと、他人の皮の中に自分の内在的価値を映し出すのだということ、つまり他の商品の現物の皮を自分自身の価値の形態にしなければならないということです。

 

◎棒砂糖の例

 

【6】パラグラフ

 

 (イ)このことをわかりやすくするのは、商品体としての商品体に、すなわち使用価値としての商品体にあてがわれる尺度の例であろう。 (ロ)棒砂糖は物体だから重さがあり、したがって重量をもっているが、どんな棒砂糖からもその重量を見てとったり感じとったりすることはできない。 (ハ)そこで、われわれは、その重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片をとってみる。 (ニ)鉄の物体形態は、それ自体として見れば、棒砂糖の物体形態と同様に、重さの現象形態ではない。 (ホ)それにもかかわらず、棒砂糖を重さとして表現するために、われわれはそれを鉄との重量関係におく。 (ヘ)この関係のなかでは、鉄は、重さ以外のなにものをも表わしていない物体とみなされるのである。 (ト)それゆえ、種々の鉄量は、砂糖の重量尺度として役だち、砂糖体にたいして単なる重さの姿、重さの現象形態を代表するのである。 (チ)この役割を鉄が演ずるのは、ただ、砂糖とか、またはその重量が見いだされるべきそのほかの物体が鉄にたいしてとるこの関係のなかだけでのことである。 (リ)もしこの両方の物に重さかないならば、それらの物はこのような関係にはいることはできないであろうし、したがって一方のものが他方のものの重さの表現に役だつこともできないであろう。 (ヌ)両方を秤りの皿にのせてみれば、それらが重さとしては同じものであり、したがって一定の割合では同じ重量のものでもあるということが、実際にわかるのである。 (ル)鉄体が重量尺度としては棒砂糖にたいしてただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現では上着体はリンネルにたいしてただ価値だけを代表しているのである。》

 

 イ) この等価形態の第一の特性(使用価値がその反対物である価値の現象形態になる)を分かりやすく説明するために、商品を量り売りするために、商品そのものの量を計る場合を考えてみましょう。例えば商品としての棒砂糖を量り売りするために、使用価値としての棒砂糖そのものの量を計る必要がありますが、それを考えてみるわけです。

 

 ロ) 商品としての棒砂糖もやはり物体だから重さがあります。だからその重さで商品としての棒砂糖の量、つまりその使用価値の量を計ることができるわけです。しかし棒砂糖の重さは棒砂糖だけを見ているだけでは、見たり感じたりすることはできません。だから使用価値としての棒砂糖の量をその重さで計るためには、まずその棒砂糖の重さそのものを目に見えるような形で表し、その上で、買い手が自分自身の目でその量がどれぐらいかを確認できるように、計って見せなければなりません。買い手は自分の目で確認しない限り、これは幾らの棒砂糖だと一方的に言われても信用出来ないわけです。だからどうしても目に見えない棒砂糖の重さを、目に見えるようにして、その上でその量を買い手の目の前で計って見せる必要があるわけです。

 

 ハ) だから売り手は天秤計りを持ち出して、一方の皿に一定量の棒砂糖を乗せ、他方の皿にあらかじめ確定されている分銅を乗せて、その釣り合いを見ながら計るところを見せるわけです。こうして買い手は棒砂糖の重さを、よってその使用価値の量を自分の目で確認して納得して買うことが出来るわけです。

 

 ニ) しかし今、もし分銅が鉄で出来ているとするなら、それもやはり単なる鉄の固まりであり、鉄も物体としては、それだけを見ていても、やはり棒砂糖と同じで、その重さを見たり感じたりすることは出来ません。つまり鉄も、やはり重さが目に見えるような形で顕れている物とはいえないのです。

 

 ホ) それだのに、われわれ(買い手)はその鉄片によって、棒砂糖の重さが目に見えていると感じ、使用価値としての棒砂糖の量がそれによって計ることが出来たと納得するわけです。どうしてそうなっているのか、それが問題です。それは天秤ばかりで一方の棒砂糖と他方の分銅とが釣り合っていることを買い手は確認したからです。この場合、棒砂糖と分銅とは重量として同じである、つまり重量として等置の関係にあることを示しています。天秤ばかりは、この二つの物体が、互いの重さにおいて釣り合っていることを目に見える形で表しているのです。売り手は、天秤ばかりによって二つの物体を重量関係においたのです。

 

 ヘ) そしてこの重量関係において、鉄片は、重さ以外の何ものをも表さない物体とみなされているのです。

 

 ト) だから、さまざまな量の鉄片は、棒砂糖の重量の尺度として役立つのです。そしてその場合は、鉄片は棒砂糖に対して、ただ単に重さそのものの姿として、重さが目に見える形で顕れたものとして役立っています。つまり重さの現象形態を代表しているのです。

 

 チ) 鉄片が、こうした役割を演じるのは、ただ棒砂糖とか、それ以外のその重量を表そうとするものが、この鉄片に対してとる関係、すなわち重量関係のなかだけのことです。

 

 リ) もちろん、両方に重さがないなら、両方を天秤ばかりに乗せることも出来ないし、だから重量関係に置くことも出来ません。だから一方を他方の重さの表現として役立てることも出来ないわけです。

 

 ヌ) 両方を天秤ばかりの皿に乗せるなら、それらが釣り合い、それらは重さとしては同じであり、したがって一定の割合では同じ重量のものであることが、実際に目に見える形で分かります。この場合、棒砂糖の重さそのものが鉄片の個数として具体的に目に見える形で顕れているのです。

 

 ル) 鉄の固まりが重量の尺度としては棒砂糖に対して、ただ重さだけを代表して、それを目に見える形で表しているのに対して、われわれの価値表現においては上着はリンネルに対して、ただ価値だけを代表し、それを目に見える形として表しているのです。

 

 ここでは、ピースさんが準備してくれたレジュメでは、〈天秤に棒砂糖を左側に、鉄を右側において釣り合わせる。この関係において、棒砂糖は右側の鉄を見て私と同じ質量を持っていることを見る〉という説明があったのですが、これに対して、マルクスは「価値」と「価値量」とにアナロジーさせて、「重さ」と「重量」とを区別しながら意識的に使い分けており、「質量」だとそれが分からないのではないかとの指摘がありました。

 

◎棒砂糖の例の限界--自然的属性と超自然的属性

 

【7】パラグラフ

 

 (イ)とはいえ、類似はここまでである。 (ロ)鉄は、棒砂糖の重量表現では、両方の物体に共通な自然属性、それらの重さを代表している――、ところが、上着は、リンネルの価値表現では、両方の物の超自然的な属性、すなわちそれらの価値、純粋に社会的な或るものを代表しているのである。》

 

 イ)、ロ) しかし棒砂糖の例にはおのずと限界があります。というのは、鉄は、棒砂糖の重量表現においては、重さという、両方の物体が持っている一つの自然属性を代表しているのに対して、われわれが問題にしているリンネルの価値表現においては、等価形態にある上着は、両方の商品が持つ超自然的な属性、すなわち価値という、純粋に社会的なあるもの代表しているのだからです。

 

 ところで、ここではマルクスは商品の価値を、商品という「物の超自然的属性」であると述べています。これを読んで、以前、商品の価値を商品の「属性」だと述べたことを批判した人があったことを思い出しました。その人は次のように批判したのでした。

 

 〈(O氏は--引用者)価値が“実体”であるということから、それは商品の属性――ただし自然的な属性ではなく、社会的な属性であると断るのだが――であると断言してはばからない。いかに「社会的」と言おうが、商品の「属性」、つまり商品そのものに属する性質であると言うかぎり、まさに物神崇拝意識そのものである。〉

 

 しかし価値を〈商品そのものに属する性質であると言う〉意味で、「商品の属性」といえば、物心崇拝意識そのものだという批判は、本当に正しいものでしょうか。例えば、マルクスは『補足と改定』では、次のように書いています。

 

 《しかし,類似はここまでである。重量は鉄と棒砂糖との物質的属性である。それにたいして、リンネルと上着の,要するにすべての商品の価値性格は社会的な刻印であり、そしてそのことによって,価値関係のなかで商品の物的な属性となる。》(前掲73頁)

 

 ここではマルクスは商品の価値性格は《価値関係のなかで商品の物的な属性となる》と述べています。もし商品の価値を商品に刻印される社会的属性だと述べることが、物神崇拝意識そのものだというなら、マルクスもそうだといわねばならなくなるでしょう。問題はそういうことではなくて、価値関係によって物的な属性として現れてくるものを、価値関係の外でもそういうものとして捉えること、すなわち商品そのものが生まれながらに持つ物的な属性であるかに捉えることが、物神崇拝意識そのものだということではないでしょうか。

 

◎等価形態の謎

 

【8】パラグラフ

 

 《 (イ)ある一つの商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体やその諸属性とはまったく違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するのだから、この表現そのものは、それが或る社会的関係を包蔵していることを暗示している。 (ロ)等価形態については逆である。 (ハ)等価形態は、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの姿の物が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさにこのことによって成り立っている。 (ニ)いかにも、このことは、ただリンネル商品が等価物としての上着商品に関係している価値関係のなかで認められているだけである(21)。 (ホ)しかし、ある物の諸属性は、その物の他の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかではただ実証されるだけなのだから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとか保温に役だつとかいう属性と同様に、生まれながらにもっているように見える。 (ヘ)それだからこそ、等価形態の不可解さが感ぜられるのであるが、この不可解さは、この形態が完成されて貨幣となって経済学者の前に現われるとき、はじめて彼のブルジョア的に粗雑な目を驚かせるのである。 (ト)そのとき、彼はなんとかして金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにもっとまぶしくないいろいろな商品を持ち出し、かつて商品等価物の役割を演じたことのあるいっさいの商品賎民の目録を繰り返しこみあげてくる満足をもって読みあげるのである。 (チ)彼は、20エレのリンネル=1着の上着 というような最も単純な価値表現がすでに等価形態の謎を解かせるものだということには、気がつかないのである。》

 

 イ)、ロ) 相対的価値形態も価値が目に見えるように現れるのですが、この場合は、例えばリンネルの価値存在をリンネルの身体やその諸属性とはまったく違った、別の商品の身体やその物的属性によって、例えば上着なら上着の自然属性によって表すのだから、商品と商品との社会的関係において現れてくることが分かります。だからそれらの価値関係の背後に社会的関係が潜んでいることが暗示されているのです。しかし等価形態についてはそれが逆になっているです。

 

 さて、この部分の『補足と改定』を見ると、次のようになっています。

 

 《すべての商品の価値性格は社会的な刻印であり、そしてそのことによって,価値関係のなかで商品の物的な属性となる。この入れ替わりは,両方の形態に現われているのであるが,商品の相対的価値形態におけるよりも等価形態においてより決定的に現われる。すなわち,一商品の相対的価値形懇は明かに他の商品との関係によって媒介されている。この形態が商品体の価値存在を,その感覚的存在およびその物的属性とはっきりと区別することによって,その形態は同時に,価値関係そのものを背後に潜んでいる社会的関係の単なる現象形態でありうるということを示唆している。等価形態においては逆である。》(前掲同)

 

 このようにマルクスはここでは《入れ替わり》は両方の形態に現れていると述べています。相対的価値形態においても、相対的価値形態にある商品の価値が、その使用価値と区別されて、別の商品の使用価値によって表されるという限りでは、やはり自然形態が価値の形態になるという入れ替わりがあるのですが、しかし、その入れ替わりは、他の商品との関係に媒介されていることもはっきりしており、価値関係が社会的関係の現象形態であることを示唆しているというのです。しかし同じ入れ替わりでも等価形態においては、それが逆であり、価値関係内部でのことであることが見えにくくなっているというのです。

 

 ハ)、ニ) というのは、等価形態の場合、商品体、例えば上着のそのあるがままの姿、その自然形態そのものが価値を表しており、だから上着そのものが、生まれながらに価値の形態を持っているかのように見えるからです。もちろん、等価形態にある上着が直接価値を表すのは、リンネルとの価値関係のなかでのみ認められることであり、上着の表している価値というのは、リンネルの価値であって、上着の価値ではないのですが、自然形態そのものが価値を表しているから、価値が、上着自身の自然属性であるかに見えてしまうというのです。

 

 ホ) というのは、ある物の諸属性というのは、ある物が他の物との関係から生じるのではなくて、ただ他の物との関係のなかで確認されるだけであるから、等価形態にある上着が価値を表すということも、あるいは直接的交換可能性の形態も、同じように上着の自然属性、例えば重さがあるとか、保温に役立つといった属性と同じように、生まれながらに持っているもののように見えてしまうというわけです。

 

 この部分の『補足と改定』の一部は次のようになっています。

 

 《しかし,ある物の一定の肉体的属性は,この属性が効力をもつようになる他の物との関係から生じるのではなく,この関係は,返って,逆に,すでに存在している属性をあらわにするだけであるから,上着は,価値関係とは関係なく,その等価形態を,つまり直接的交換可能性の形態を,重さがあるとか寒さを防ぐとかというその属性と全く同じように,生まれながらにもっているように見える。》(前掲74頁)

 

 つまり等価形態にある商品は、その自然形態そのものが価値の形態として認められ、よってその使用価値のままに、そのままで自らの価値を表す商品とは直接に交換可能なものとして通用するわけだから、そうした諸属性が、本来は相対的価値形態にある商品との価値関係のなかでのみ生ずるものであるのに、あたかも等価形態にある商品が生まれながらに持っている他の自然属性と同じようなものとして見えてしまうということです。というのは物の属性というのは等価形態のように他の物との関係で初めて生じるというような性格のものではないから、等価形態の諸属性も価値関係を離れても、等価形態に置かれた商品自体が自然に持っているもののように見えるのだということです。

 

 ヘ) こうして等価形態の謎的性格が感じられます。この謎的性格は、等価形態が完成されて貨幣になって、ブルジョア経済学者の粗雑な目にもようやく驚きを持って迎えられることになります。

 

 ト) 彼は何とかとしてその金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにそれ以前に貨幣の役割を担ったさまざまな貨幣商品を持ってきて、それを説明したつもりになるのです。つまりこうしたまぶしくないものでも、そうした役割を果たしたのだから、燦然と輝き、誰もが欲しがる金銀がそうした役割を持っているのは当然なのだというわけです。

 

 チ) しかし彼は、もっと簡単な価値形態、20エレのリンネル=1着の上着 の中にこそ、こうした等価形態の謎を解く鍵があるということを考えてもみないのです。

 

 ところで所沢の「『資本論』を読む会」の学習会の報告では、「《等価形態の謎》とは、どのような内容なのか」という疑問が出されことが紹介され、大谷禎之介氏の「貨幣形態の謎」と「貨幣の謎」についての言及が紹介されています。この問題については、先にも紹介しました、大阪の「『資本論』を学ぶ会」の「ニュース」No.23でも以前紹介したことがあるので、それをここに再現しておきましょう。

 

 【◎「謎」と「秘密」の区別!?

 

 さて紙数は残りわずかとなりましたので、最後に、問題提起だけをやっておきます。『ニュース』前号(№22)で、第三節のまとめとして久留間鮫造著『価値形態論と交換過程論』の一節を引用しましたが、そこで久留間氏は第三節(価値形態論)の課題を「貨幣形態の謎を、そしてそれと同時にまた貨幣の謎を解くことにある」と述べていました。ここで「貨幣形態の謎」とは、「一般に商品の価値が特殊の一使用価値--金--の一定量という形態で表現されることの謎」と説明され、「貨幣の謎」とは「金の使用価値--本来価値の反対物たるもの--がそのまま一般に価値として妥当することの謎」である、と説明されています。そして「貨幣形態および貨幣の謎の核心」は「価値形態そのものの謎」であり、それは「商品の価値はそれに等値される他商品の使用価値で表示されるということ、そしてそのさい、この他商品の使用価値は、それを自らに等値する商品にとって価値の形態になるということこれである」と説明されていました。

 

 また大谷禎之介氏も『価値形態』という論文で次のように述べています。「物である金(Au)の量が価値の量を表現する、というようなことがいったいどのようにして可能なのか。・・・・この謎を〈貨幣形態の謎〉と呼ぶ」「物である金、使用価値としての金が、その反対物である価値そのものとして通用することの謎、〈貨幣の謎〉」と。

 

 ところが最近、こうした久留間氏や大谷氏の「謎」の理解に異論が出されていることを知りました。まず武田信照氏は次のように指摘します。「(久留間)氏のいうように、上着という商品体=使用価値が直接価値形態になることが等価形態の謎なのではない。そうではなくて、リンネルとの価値関係の内部でのみ認められるこのような等価商品の性格が、この価値関係から独立しても認められるようにみえること、つまりその性格が上着という使用価値の生まれながらの自然属性にみえること、これが等価形態の謎なのである。非自然属性が自然属性にみえる等価形態の謎は、最も発展した等価形態である貨幣において完成した姿であらわれる」(『法経論集』経済・経営篇、53頁)と。

 

 これに対して藤本義昭氏は、この武田氏の指摘は正しいが、しかし武田氏は「上着がいかにして価値物となるかという問題」の理解で間違っていると指摘し、久留間氏にあっては「価値形態の秘密」および「貨幣の秘密」と「等価形態の謎」及び「貨幣の謎」とが「厳密に区別されずに混同されている」と指摘しています(『大阪市大論集』第30号、11頁)。そして次のように説明しています。

 

 〈簡単な価値形態に則して言えば、リンネル価値が上着の使用価値で表現されることによって上着が直接に価値物として意義をもち、リンネルの等価物となることは、この二商品の価値関係のうちにひそんでいる「価値形態の秘密」ではあっても、等価形態の謎ではない。この「価値形態の秘密」の発見は、上着が生まれながらにして直接交換可能性という属性をもつようにみえる等価形態の謎を解消させはするが、等価形態という上着に刻印された「一つの新たな形態」を解消させはしないのである。だから『資本論』では、「貨幣形態の生成を論証すること・・・これによって同時に貨幣の謎も消滅する」とされているように、金という特定の商品が生まれながらにして貨幣であるという「虚偽の仮象」をはぎとるために、貨幣形態の生成を論証することが価値形態論の課題として明確に提示されるのである。マルクスはこの課題を「いっさいの価値形態の秘密」の発見とそれを基礎にした価値形態の発展的移行の究明によって果たすのであるが、このうち前者が第三節の「A簡単な、個別的な、また偶然的な価値形態」における主要な課題である〉(同11~2頁)

 

 こうした疑問にどのように答えるのか、一度、皆様も考えてみてください。ここではこうした疑問や批判を検討する余裕はないので問題提起だけをしておきます。】

 

 武田氏の指摘はもっともであるような気がします。しかし藤本氏の主張は果たしてどうでしょうか。

 

◎反省規定という奇妙なもの

 

 最後は、注21です。

 

 《(21))およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである。》

 

  これと同じ注は初版本文にもありますが(付録にはない)、その注が付けられている本文では、次のような一文があります。

 

  《価値形態の両方の規定、または交換価値としての商品価値の両方の表示様式は、単に相対的であるとはいえ、両方が同じ程度に相対的に見えるのではない。リンネルの相対的価値 20エレのリンネル=一着の上着 においては、リンネルの交換価値が明白に他の一商品にたいするリンネルの関係として示されている。上着のほうは、たしかにただ、リンネルがそれ自身の価値の現象形態としての、したがってまたリンネルと直接に交換されうるものとしての、上着に関係するかぎりにおいてのみ、等価物である。ただこの関係のなかにおいてのみ上着は等価物なのである。しかし、上着は受動的にふるまっている。それはけっしてイニシアチブを取ってはいない。上着が関係のなかにあるのは、それが関係させられるからである。それだから、リンネルとの関係から上着に生ずる性格は、上着のほうからの関係の結果として現われるのではなくて、上着の作為なしに存在するのである。それだけではない。リンネルが上着に関係する特定の仕方は、たとえ上着がまったく控え目であって、けっして「うぬぼれて気の狂った仕立屋」の製品ではなくても、まったく、上着を「魅惑する」ように仕立てられている。すなわちリンネルは、抽象的人間労働の感覚的に存在する物質化としての、したがってまた現に存在する価値体としての、上着に関係するのである。上着がこういうものであるのは、ただ、リンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであり、またそのかぎりにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリンネルの反射規定なのである。ところが、それがまったく逆に見えるのである。一方では、上着は自分自身では、関係する労をとってはいない。他方では、リンネルが上着に関係するのは、上着をなにかあるものにするためではなくて、上着はリンネルがなくてもなにかあるものであるからなのである。それだから、上着にたいするリンネルの関係の完成した所産、上着の等価形態、すなわち直接に交換されうる使用価値としての上着の被規定性は、たとえば保温するという上着の属性などとまったく同じように、リンネルにたいする関係のにあっても上着には物的に属しているように見えるのである。相対的な価値の第一の形態または単純な形態 20エレのリンネル=一着の上着 にあっては、このまちがった外観はまだ固定されてはいない。なぜならば、この形態は直接に反対のことをも言い表わしているからである。すなわち、上着がリンネルの等価物であるということ、および、これらの両商品のそれぞれがこのような被規定性をもつのは、ただ、他方の商品がその商品を自分の相対的な価値表現とするからであり、また、そうするかぎりにおいてのことである、ということがそれである。(21)》

 

 また『補足と改定』では、注としてではないのですが、次のような面白い例を使った説明も見ることが出来ます。

 

 《実際,ある商品が等価物の役割を演ずるのは,ある他の商品の価値がそれにおいて表現されているからであり,またその限りでしかない。一商品の等価形態はこの関係から発生し,この関係の内部でのみ存在し,したがって,この関係に媒介されている。同じように、老婆の魔女的性格もまた迷信深い農民と彼女との関係のなかで成り立つのである,しかし,この老婆が農民にとって魔女として通用するのは,彼女が何もしなくても魔女的性格をもっているように見えるからでしかない。同じように,ある商品,たとえば上着が他の商品、たとえばリンネルの等価物であるのは,上着が何もしなくてもこの性格をもっているように見えるからにすぎない。上着は,リンネルが上着を自分自身の価値鏡にするかぎりにおいてのみ,等価物の形態を受け取る。リンネルは,上着がもともと,生まれながら価値鏡であるから,自分の価値を上着に映すように見える。その結果・・・》前掲73頁)

 

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【付属資料】

 

 ここではこれまでと同様に、今回検討した各パラグラフごとに、関連する資料として引用集を紹介しておきます。

 

【4】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 《c 等価形態の諸特性

  α 等価形態の第一の特性使用価値がその反対物たる価値の現象形態になる。》(国民文庫版139頁)

 

《補足と改訂》

 

 《等価形態の独自性への移行

  等価形態が内包する矛盾はその独自性をさらに詳細に考察することを必要とする》(小黒訳72頁)

 

《フランス語版》

 

 《等価形態が含んでいる矛盾は、いまでは、この形態の特色のいっそう徹底的な考察を要求している。  価形態の第一の特色 。使用価値が、その対立物である価値の表示形態になる。》(江夏他訳27頁)

 

【5】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 《商品の現物形態が価値形態になる。しかし、注意せよ、このような取り違えが一商品B(上着または小麦または鉄、等々)にとって起こるのは、ただ、その商品にたいして任意の他の一商品A(リンネル、等々)がはいるところの価値関係のなかにおいてのみのことでありただこの関係のなかにおいてのみのことである。それ自体としては、孤立的に考察すれば、たとえば上着は、リンネルまったく同じように、ただ、有用な物、使用価値であり、したがってまた、その上着形態も、ただ、一定の商品種類の使用価値の形態または現物形態であるにすぎない。しかし、どの商品も等価物としての自分自身に関係することはできないのだししたがってまたそれ自身の現物外皮をそれ自身の価値の表現とすることもできないのだから、商品は等価物としての他の商品に関係しなければならないのであり、言い換えれば、他の一商品体の現物外皮を自分自身の価値形態にしなければならないのである。》(前掲139-140頁)

 

《フランス語版》

 

 《商品の自然形態がその価値形態になる。だが、実際には、この取り替えが商品B(上衣、小麦、鉄等)にとって生ずるのは、ただ、他の商品A(リンネル等)が商品B にたいしてとる価値関係の限界内でのことであり、たんにこの限界内に限られる。たとえば上衣は、これを単独に考察すれば、リンネルと同じく絶対に使用価値という有用物でしかなく、その形態は、特殊な種類の商品の自然形態でしかない。だが、どんな商品も等価物として自分自身に関係することはできないし、自分の自然形態を自分自身の価値形態にすることもないから、どんな商品も必ず他の商品を等価物として選ばなければならず、これによって後者の使用価値が前者にとって価値形態の役を果たすのである。》(前掲27-28頁)

 

【6】パラグラフ

 

《初版付録》

 

 《このことをわれわれに明示するものは、商品体としての、すなわち使用価値としての、商品体にあてがわれる尺度の例であろう。棒砂糖は、物体だから、重さがあり、したがってまた重量をもっているが、どんな棒砂糖からもその重さを見てとったり感じとったりすることはできない。そこで、われわれは、その重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片をとってみよう。鉄の物体形態は、それ自体として見れば、棒砂糖の物体形態と同様に、重さの現象形態ではない。それにもかかわらず、棒砂糖を重さまたは重量として表現するためには、われわれは棒砂糖を鉄との重量関係に置く。この関係のなかでは、鉄は、重さまたは重量以外のなにものをも表わしていない物体として認められている。それだからこそ、いろいろな鉄量は、砂糖の重量尺度として役だち、砂糖体にたいして単なる重さの姿重さの現象形態を代表するのである。このような役割を鉄が演ずるのは、ただ、砂糖とか、またはその重量が見いだされるべきなんらかの他の物体が鉄にたいしてとるところの、この関係のなかにおいてのみのことである。もしこの両方の物に重さがないならば、これらの物はこのような関係のなかにはいることはできないであろうし、したがってまた一方のものが他方のものの重さの表現に役だつこともできないであろう。われわれがこの両方の物を秤りの皿に載せてみれば、それらの物が重さとしては同じものであり、したがってまた一定の割合にあれば同じ重量のものである、ということが実際にわかるのである。この場合に鉄体が棒砂糖にたいしてただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては上着体はリンネルにたいしてただ価値だけを代表しているのである》(前掲140-1頁)

 

《フランス語版》

 

 《物体としての商品、すなわち使用価値としての商品に適用される尺度が、上述したことを読者の眼に直接明らかにするための事例として役立つ。棒砂糖は物体であるから重い、したがって重量をもっている。だが、この重量をたんに外観上眼で見ることもまたは手で触れることもできない。さて、既知の重量をもつさまざまな鉄片をとってみよう。鉄の物体形態は、それ自体として考察すれば、棒砂糖の物体形態と同じく重量の表示形態ではない。しかし、棒砂糖が重いことを表現するために、われわれは棒砂糖を鉄との重量関係に置く。鉄はこの関係のなかでは、重量以外になにも表わさない物体と見なされる。したがって、砂糖の重量を測るために用いられる鉄の量は、砂糖という物体にたいして単なる形態、すなわち、重量が表示される形態を表わす。鉄がこの役割を演じることができるのは、砂糖であろうと、重量を必ずもつ他のどんな物体であろうと、それらがこういった観点で鉄と関係させられるかぎりでのことなのだ。もし両物体に重さがなければ、相互間にこの種のどんな関係もありえないであろうし、一方が他方の重量の表現に役立つこともできないであろう。両者を双方とも天秤盤にのせると、両者が重量としては同じ物であり、したがって、両者がある比率のもとで同じ重さでもあることが、実際にわかるのである。鉄体が重量の尺度としては棒砂糖にたいして重量しか代表しないのと同じように、われわれの価値表現でも、上衣体はリンネルにたいして価値しか代表しない。》(前掲28頁)

 

【7】パラグラフ

 

《補足と改訂》--次のパラグラフと一緒に掲載

 

《フランス語版》

 

 《しかし、類似はここで終る。鉄は、棒砂糖の重量表現では、両物体に共通な自然的特性、それらの重量を代表するのにたいし、上衣体は、リンネルの価値表現では、両物体の超自然的特性、それらの価値、純粋に社会的な刻印という性格を代表する。》(前掲28-9 頁)

 

【8】パラグラフ

 

《補足と改訂》

 

 《[A1]

 

  しかし,類似はここまでである。重量は鉄と棒砂糖との物質的属性である。それにたいして、リンネルと上着の,要するにすべての商品の価値性格は社会的な刻印であり、そしてそのことによって,価値関係のなかで商品の物的な属性となる。この入れ替わりは,両方の形態に現われているのであるが,商品の相対的価値形態におけるよりも等価形態においてより決定的に現われる。すなわち,一商品の相対的価値形懇は明かに他の商品との関係によって媒介されている。この形態が商品体の価値存在を,その感覚的存在およびその物的属性とはっきりと区別することによって,その形態は同時に,価値関係そのものを背後に潜んでいる社会的関係の単なる現象形態でありうるということを示唆している。相対的価値形態(等価形態の間違い?--引用者)においては逆である。

 

  実際,ある商品が等価物の役割を演ずるのは,ある他の商品の価値がそれにおいて表現されているからであり,またその限りでしかない。一商品の等価形態はこの関係から発生し,この関係の内部でのみ存在し,したがって,この関係に媒介されている。同じように、老婆の魔女的性格もまた迷信深い農民と彼女との関係のなかで成り立つのである,しかし,この老婆が農民にとって魔女として通用するのは,彼女が何もしなくても魔女的性格をもっているように見えるからでしかない。同じように,ある商品,たとえば上着が他の商品、たとえばリンネルの等価物であるのは,上着が何もしなくてもこの性格をもっているように見えるからにすぎない。上着は,リンネルが上着を自分自身の価値鏡にするかぎりにおいてのみ,等価物の形態を受け取る。リンネルは,上着がもともと,生まれながら価値鏡であるから,自分の価値を上着に映すように見える。その結果……

 

 [A2]

 

  しかし,類似はここまでである。鉄体は,棒砂糖の重量表現においては,両方の物体に共通な自然属性であるそれらの重さを代表するのにたいして--上着体は,リンネルの価値表現においては,両方の物の超自然的属性,それらの価値を,純粋に社会的な刻印という性格を,代表する。リンネルといったような一商品体の相対的価値形態は,その価値存在を,その商品体の感覚的な存在およびその物的属性とは完全に区別されるものとして,たとえば20エレのリンネルと1着の上着との同等性として表現するのであるが,そのことによって,価値関係がその背後に潜んでいる社会的関係を現しているということを,この形態は同時に暗示している。等価形態については逆である。等価形態とは,まさに,ある商品の身体が,その物が,あるがままで直接的に価値を表しているということなのである。  

 

 [10〕確かに,このことが通用するのは,ある他の商品,たとえばリンネルの上着商品との価値関係の内部でのことにすぎない。(注21,p.23) しかし,ある物の一定の肉体的属性は,この属性が効力をもつようになる他の物との関係から生じるのではなく,この関係は,返って,逆に,すでに存在している属性をあらわにするだけであるから,上着は,価値関係とは関係なく,その等価形態を,つまり直接的交換可能性の形態を,重さがあるとか寒さを防ぐとかというその属性と全く同じように,生まれながらにもっているように見える。そこから,等価形態の謎的性格が生じるのであるが,この謎的性格が経済学者の粗野な実際的な目を見はらせるのは,やっと,等価形態が完成されて貨幣となって彼の前に立ち現わるときである。20エレのリンネル= 1着の上着という最も簡単な価値表現がすでに,等価物の謎的性格をもっているということに,ほんのすこしも気づくことをせずに,かえって彼は,金銀の神秘的性格を説明し去ろうと妄想して,金銀の代わりに目をくらませることのさらに少ないいろいろな商品をこっそりもってきて,かつては商品等価物の役割を演じたことのあるこれらいっさいの商品賎民の目録を棒読みする。

 

  [B]

 

  等価形態 第1の独自性

 

  しかし,類似はここまでである。鉄体は,棒砂糖の重量表現においては,両方の物体に共通な自然属性,--それらの重さ--,を代表するのにたいして,上着体はリンネルの価値表現においては,両方の物の超自然的属性を,それらの価値を,純粋に社会的なものを,代表する。

 

  一商品,たとえばリンネルの相対的価値形態は,リンネルの価値存在を,リンネルの身体およびこの身体の属性と完全に区別されるものとして,たとえば上着にひとしいものとして表現するのであるが,この形態は,この表現が社会的関係を隠していることを暗示している。

 

  等価形態については逆である。等価形態とは、まさに、ある商品体、たとえば上着がこのあるがままの物が,価値を表現し、したがって,生まれながらにして価値形態をもっている、ということなのである。確かに,このことが通用するのは,ただ,他の商品たとえばリンネルが,等価物としての上着に関係させられている価値関係の内部でのことにすぎない。(注21,p,23)しかし,ある物の身体的諸属牲は,その物の他の諸物との関係から生じるのではなく,むしろこのような関係のなかで確認されるだけであるから,上着もまた,その等価形態を,直接的交換可能性というその属性を,重さがあるとか寒さを防ぐとかというその属柱と同じように,生まれながらにもっているかのように見えるのである。そこから,等価形態の謎的性格が生じるのであるが,この謎的性格が経済学者のブルジョワ的な粗雑な目を見はらせるのは,やっと, 等価形態が完成されて貨幣となって彼の前に立ち現れるときである。そのとき,彼は,金銀の神秘的性格を説明し去ろうとして,金銀の代わりに目をくらませることのさらに少ないいろいろな商品をこっそりもってきて,かつては商品等価物の役割を演じたことのあるこれらいっさいの商品賎民の目録を棒読みしては,そのたびた満足のよろこびを新たにする。すでに,20エレのリンネル=1着の上着というようなもっとも簡単な価値表現が等価形態の謎を解く鍵を与えていることなど, 彼は感づきもしないのである。》(前掲73-76頁)

 

《フランス語版》

 

 《相対的形態が、たとえばリンネルという商品の価値を、その体躯そのものおよびその属性とは全く異なるあるものとして、たとえば上衣に類似しているあるものとして表現するとき、この相対的形態は、ある社会的関係がこの表現のもとに隠されていることを示している。

 

  等価形態のばあいは、逆のことが起こる。等価形態はまさに、ある商品体たとえば上衣が、そういうものとしてのこの物が、価値を表現し、したがって、当然に価値形態をもっている、ということから成り立っている。確かに、このことが正しいのは、リンネルのような他の商品が等価物としての上衣に関係するかぎりのことでしかない。(20)だが、ある物の物質的属性は、他の物にたいする外的関係から生ずるのではなく、この関係のなかで確認されるにすぎないのと同様に、上衣もその等価形態を、すなわち、直接に交換可能であるという属性を、重いとか熱いとかいう属性と同じく当然に、自然から引き出しているように見えるのであって、リンネルとの価値関係から引き出しているのではないかのように見える。ここから等価物の謎のような側面が生まれるのであって、この側面は、この形態がすっかり完成して貨幣の姿でブルジョア経済学者に現われるときにはじめて、彼の眼を驚かす。次いで彼は、銀や金のこの神秘的な性格を一掃するために、銀や金をそれほど眩しくない商品にこっそりとりかえようとする。彼は、かつて等価物の役割を演じてきたすべての物品のカタログをなんどもなんども作り変えては、そのたびに喜びを新たにする。二〇メートルのリンネルが一着の上衣に値するといったような最も単純な価値表現が、すでに謎を含んでいることも、自分がこの単純な価値形態のもとで謎解きの努力をしなければならないことも、彼は予感していない。》(前掲29頁)

 

【注21】

 

《フランス語版》

 

 《(20) ほかの概念界でも、やはりこのとおりである。たとえば、この人が玉であるのは、他の人々が彼の臣民と見なされ、それに応じて振舞うからでしかない。これらの人々は逆に、彼が王であるから自分たちは臣民であると信じている。》(同前)

 

 

 

 

 

 



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