目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第9回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第19回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

                                    

 11月20日、菅直人副総理(経済財政担当相)は、11月の月例経済報告で日本経済は「緩やかなデフレ状況にある」と宣言しました。

 

 

 デフレーション(deflation)の明確な定義は無いようですが、IMF(国際通貨基金)は「少なくとも2年程度下落が続く状態」などと定義しているようです。要するに物価が持続的に下落する状態です。

 

 物価、つまり「商品の価格」は、何によって決まってくるのでしょうか。

 

 『資本論』の第1篇では「商品と貨幣」が論じられています。そこでは商品の「価格」は、商品の「価値」の貨幣表現だと述べています。つまり商品の価格は、貨幣によって商品の価値を相対的に計った(尺度した)ものなのです。そして商品の「価値の大きさ」は、その商品の生産のために社会的に必要な労働時間によって規定される、云々。

 

 こうした『資本論』で論じられている、商品の「価値」と「価格」の理論は今日においても当然妥当します。しかし今日の物価を規定する要因は、もっと複雑であり、さまざまなものによって媒介されています。少し、物価下落の考えられうる要因を挙げてみましょう。

 

 (1)、まず当然、商品の「価値」の低下があります。これはパソコンやテレビなど電化製品などの価格の下落などはそれらを生産する技術の革新によって、生産力が上がった分だけ、一つの商品に支出される労働量が減少して、価値が低下した結果と考えられます。

 

 (2)、貨幣価値の変動。これは金を生産する生産力の変化によって、金の価値量が変化し、よってその金によって相対的に表現された商品の価格が、例えその価値が変わらなくても変化する場合があることです。しかし金の価値そのものは、そんなに急速に変化するようなものではないですから、とりあえずは考えなくてもよいでしょう。

 

 (3)、度量標準の変化。これは現代の通貨(円)が、どれだけの金量を代表しているのかという問題です。私たちが使っている「一万円札」は日銀が発行する銀行券です。それが一般流通に入って通貨(流通手段)として流通しています。その限りでは金を代理して流通する紙幣と同じ流通法則に立脚しているのです。これは兌換銀行券か不換銀行券かの相違とは無関係です。しかし現在の日銀券のように不換券の場合(金との交換が停止されている場合)は、それがどれだけの金量を代表しているのかは、法的、制度的には決まっていません。だからそれは日常的に変化しているわけですが、その変化は、金の市場価格(円価格)に反映しており、それによって現在の一万円札が、だいたいどれぐらいの金量を代理しているかの見当はつけることができます。ただこれは一般的には、代表する金量は減る傾向にあり、通貨の「価値」は下落傾向にあるので、その限りでは物価を一般的に押し上げるように作用するのです。だからこれはデフレではなくインフレ要因として作用するのです。

 

 (4)、為替相場の変動。これは円がドルやその他の通貨に対して高くなる場合が考えられます。その場合は、輸入商品の価格が下落します。例えばドン・キホーテの690円のジーンズが用意した3万本がたちまち売り切れたなどという例は、そうしたケースに当てはまるでしょう。為替相場は、だいたいにはそれぞれの国の通貨の「価値」(それぞれの通貨が代表する金量)を反映しますが、直接には、その国の国際収支に規定されています。一般に、輸入より輸出が多かったり、外国に投資した資本からの収入が多かった場合に高くなりますが、為替投機によっても急速に変動する場合もあります。

 

 (5)、原油の高騰のように、国際的な商品投機による物価変動が国内に波及する場合もありえます。つまり今日の物価下落は、一時期の原油の高騰(それはもっぱら投機によるものと考えられています)から較べれば、比較的その価格が落ち着いている状態を反映している側面もありうるわけです。

 

 (6)、最後に、これは今回の物価下落の一番重要な要因と思いますが、マルクスは過剰生産恐慌時には、過剰な商品や資本の「価値の破壊」が強行されると指摘しています。つまり過剰な商品は強制的に投げ売りされるし、過剰な生産整備はスクラップ化されざるをえません。今回の物価下落の原因としては、サブプライム金融恐慌によって暴露された過剰生産が調整されている局面という要素が一番大きいように思います。政府は2001年3月にもデフレ宣言を行ないましたが、あの時も2000年のアメリカのITバブルが崩壊した時期に合致します。むろし今回の「価値の破壊」がドラスチックに進まないのは、これもさまざまな要因がこれまた絡んでいますが(その大きな要因としては政府のエコ補助などさまざまな救済策があるでしょう)、デフレ圧力を通貨価値の下落によるインフレ圧力がある程度相殺しているからだとも考えられます。本来ならもっと激しい物価の下落があってもおかしくはないのです。

 

 このように物価の一般的下落といってもさまざまな要因が絡まっていますが、しかしそれらを解明するためにも、やはり『資本論』の研究はその基礎として必要なのです。貴方も日常的な経済現象をより深く理論的に把握するためにも『資本論』を一緒に読んでみませんか。

 


第19回「『資本論』を読む会」の報告

第19回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎“師走”

 

 「師走」『語源由来辞典』によると、当て字で、語源は諸説あるそうで、正確なものは未詳だそうです。しかし主なものとしては、師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月という意味があるようです。それ以外には、「年が果てる」意味の「年果つ(としはつ)」が変化したとするものや、「四季の果てる月」を意味する「四極(しはつ)」からとする説、あるいは「一年の最後になし終える」意味の「為果つ(しはつ)」からとする説などがあるということです。

 

 ところで「師走」だからというわけでもないのでしょうが、第19回「『資本論』を読む会」は何とも慌ただしく、あっというまに終わってしまいました。だからあまり報告することもない状態なので、実は、報告者は困っている次第なのです。

 

 今回は「b 相対的価値形態の量的規定性」をすべて終えました。この部分は確かにあまり難しい問題はない所ではあるのですが、しかしそれにしても簡単にやり過ぎたように、報告者には思えました。

 

 だから報告担当の亀仙人は、敢えて難しい問題をぶつけてみました。すなわち、現行版の『資本論』では(初版付録もそうですが)、「相対的価値形態の内実」のあとに、「量的規定性」が考察されているが、初版本文では量的規定性が考察されたあとに相対的価値形態が考察されていること、また相対的価値形態の考察もその展開は現行版や初版付録とは一見すると逆の展開になっているように見えるが、これはどうしてなのか、という問題です。これは初版本文の論理的展開はどうなっているのか、という問題とも関連して(しかもマルクス自身は、本文の敍述こそ《弁証法が・・・・はるかに鮮明》だと、初版序文で書いているわけです)、大変、興味深いテーマではありますが、しかし、やはりこれはあまりにも問題が横道に逸れ過ぎるので、またその機会があれば、論じることにして、今回は割愛したいと思います(どこかの誰かさんが「報告が長すぎる」とブツクサ言っていることてもありますし)。

 

◎各パラグラフごとの検討

 

 とにかくこれまで通り、パラグラフごとに簡単な解説を書いておくことにしましょう。ただ今回は、分節ごとの詳細な解読は不要と考えて、パラグラフごとに全体を解説することにします。これまで通り、最初にパラグラフ全体を紹介し、そのあとに解説をつけるという順序で行なうことにします。また関連資料は最後に回します。

 

【1パラグラフ】

 

 《その価値が表現されるべき商品は、どれも、与えられた量のある使用対象--15シェッフェルの小麦、100ポンドのコーヒーなど--である。この与えられた商品量は、一定量の人間労働を含んでいる。したがって、価値形態は、単に価値一般だけではなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大きさをも表現しなければならない。したがって、商品Bに対する商品Aの、上着に対するリンネルの、価値関係においては、上着という商品種類は、単に価値体一般として、リンネルに質的に等置されるだけではなく、一定量のリンネル、たとえば20エレのリンネルに対して、一定量の価値体または等価物、たとえば一着の上着が等置されるのである。》

 

 まずこれまで考察してきた商品の価値の表現においては、二つの商品の等置関係の質的な面だけが考察されてきましたが、しかし実際には、その価値が表現される商品は、どれもある与えられた分量の使用対象なわけです。

 

 第1章では、《鉄、紙などいっさいの有用物は、二重の観点から、質および量の観点から、考察されなければならない。このような物はどれも、多くの属性からなる一つの全体であり、したがって、さまざまな面で有用でありえる。これらのさまざまな面と、したがって物のいろいろな使用の仕方とを発見することは、歴史的な行為である。有用物の量をはかる社会的尺度を見つけだすこともそうである。諸商品尺度の相違は、一部は、はかられる対象の性質の相違から生じ、一部は、慣習から生じる》とされ、《使用価値の考察に際しては、1ダースの時計、1エレのリンネル〔亜麻布〕、1トンの鉄などのようなその量的規定性がつねに前提されている》と指摘されていました。

 

  ここでは《15シェッフェルの小麦、100ポンドのコーヒーなど》が例として上げらています。ここで《シェッフェル》というのは、新日本新書版の解説によれば、「古い穀物単位」であり、その値は地域によって異なるが、1シェッフェルは23-223リットルと極めて大きな幅があることが紹介されており、プロイセンでは54.96リットルだとの説明があります。

 

 こうした一定量の商品は、だから一定量の人間労働を含んでいるわけです。つまり一定の価値の大きさをもっているわけです。

 

 だからわれわれがこれまで見てきた、価値の相対的表現である、価値形態は、単に価値一般だけでなく、量的に規定された価値、つまり価値の大きさも表現しなければならないというわけです。

 

 したがって、商品Bに対する商品Aの、上着に対するリンネルの、価値関係においては、上着は価値体一般としてリンネルに質的に等置されたのですが、一定量のリンネル、例えば20エレのリンネルに対しては、一定量の価値体または等価物として、例えば一着の上着が等置されるというわけです。

 

  要するに、ここでは、われわれはこれまで相対的価値形態の質的側面を見ることによって、その内実を明らかにすることが出来たのですが、今度は、それらは同時に量的規定性をもったものであることが再確認されていると言えるでしょう。

 

【2パラグラフ】

 

 《「20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは一着の上着に値する」という等式の前提にあるのは、一着の上着には20エレのリンネルにひそんでいるのとまったく同じ量の価値実体がひそんでいること、すなわち、両方の商品量は等しい量の労働または等しい大きさの労働時間を費やさせることである。ところが、20エレのリンネルまたは一着の上着の生産に必要な労働時間は、織布労働または裁縫労働の生産力が変動するたびに、変動する。そこで、このような変動が価値の大きさの相対的表現に与える影響について立ちいって研究しなければならない。》

 

 「20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは一着の上着に値する」という等式の前提にあるのは、二つの商品にはまったく同じ量の価値の実体、抽象的人間労働の凝固がひそんでいるということです。つまり両方の商品の二つのそれぞれの量の生産のためには、等しい量の人間労働、または等しい大きさの労働時間が必要だということです。

 

 しかし、20エレのリンネルあるいは一着の上着の生産に必要な労働時間は、織布労働または裁縫労働の生産力が変われば、変化します。だから、こうした変化が価値の大きさの相対的表現にどのような影響を与えるのかを立ち入って研究する必要があるということです。

 

 ここでは、「20エレのリンネル=1着の上着」という等式においては、確かに二つのそれぞれの量の商品の価値が等しいことを示していますが、しかし価値の大きさの表現としては、あくまでも一定量のリンネルの価値の大きさだけが表現されているのであって、一定量の上着の価値の大きさそのものは表現という点では問題にはなっていないこと、にもかかわらず、リンネルの価値の大きさの表現においても、上着の価値の大きさが関連してくるのだ、という指摘がありました。

 

【3パラグラフ】

 

 《 Ⅰ リンネルの価値は変動するが(19)、上着価値は不変のままである場合。たとえば、亜麻のとれる耕地〔Boden〕がますますやせた結果、リンネルの生産に必要な労働が二倍になるとすれば、リンネルの価値は二倍になる。今や一着の上着は20エレのリンネルの半分の労働時間を含むにすぎないから、20エレのリンネル=1着の上着 の代わりに、20エレのリンネル=2着の上着 となるであろう。これに対して、たとえば織機の改良によって、リンネルの生産に必要な労働時間が半分に減少すれば、リンネル価値は半分に低下する。それに応じて、今や、20エレのリンネル=1/2着の上着 となる。したがって、商品Aの相対的価値、すなわち商品Bで表現される商品Aの価値は、商品Bの価値が不変のままでも、商品Aの価値に正比例して、上昇または低下する。》

 

  I  リンネルの価値の大きさは変動するが、上着の価値は不変である場合。

 

 それは例えば、亜麻が不作の結果、リンネルの生産に必要な労働時間が二倍になるならば、リンネルの価値も二倍になります。

 

 だから一着の上着は20エレのリンネルの半分の労働時間を含むに過ぎないから、20エレのリンネル=2着の上着という等式になります。

 

 これに反して、織機の改良によって、リンネルの生産に必要な労働時間が半分になれば、リンネルの価値は半分になり、よっていまや、20エレのリンネル=半分の上着となります。したがって、商品Aの相対的価値、つまり商品Bで表された商品のAの価値は、商品Bの価値が不変でも、商品Aの価値の変動に正比例して、上昇または下落するという結論がでてきます。

 

 ここでは「1/2着の上着」という表現がでてきますが、1/2着の上着は使用価値ではないということから、マルクスを批判する論者があることが所沢の「『資本論』を読む会」では問題になったようだという紹介があり、そこでの解説は見事であるという意見がありました。 (http://shihonron.exblog.jp/9939276/を参照)

 

【4パラグラフ】

 

 《 Ⅱ リンネルの価値は不変のままであるが、上着価値が変動する場合。こうした事情のもとで、たとえば羊毛の刈りとりが思わしくないために、上着の生産に必要な労働時間が二倍になれば、20エレのリンネル=1着 の上着の代わりに、今や、20エレのリンネル=1/2着の上着 となるであろう。これに反して、上着の価値が半分に減少すれば、20エレのリンネル=2着の上着 となるであろう。だから、商品Aの価値が不変のままで

も、商品Aの相対的な、商品Bで表現される価値は、Bの価値変動に逆比例して、低下または上昇する。》

 

 II リンネルの価値が不変で、上着の価値が変動する場合。

 

 羊毛の刈り取りが思わしくないために、上着の生産に必要な労働時間が二倍になると、価値が二倍になり、20エレのリンネル=1/2の上着 となります。

 

 これに反して、上着の価値が半分に減少すれば、20エレのリンネル=2着の上着 となります。

 

 だから、商品Aの価値が不変でも、商品Aの相対的な価値が、商品Bで表現される場合、商品Bの価値変動に逆比例して、それは上下するといえます。

 

【5パラグラフ】

 

 《 ⅠおよびⅡのもとでのさまざまの場合を比較してみると、相対的価値の大きさの同じ変動が正反対の原因から生じうることがわかる。実際、20エレのリンネル=1着の上着 は、(1)リンネルの価値が二倍になっても、上着の価値が半分に減少しても、20エレのリンネル=2着の上着 という等式になり、また、(2)リンネルの価値が半分に低下しても、上着の価値が二倍に上昇しても、20エレのリンネル=1/2着の上着 という等式になるのである。》

 

  I とIIの場合におけるさまざまな場合を比較すると、相対的価値の大きさの同じ変動が正反対の原因から生じうることがわかります。例えば「20エレのリンネル=1着の上着」が「20エレのリンネル=1/2着の上着」に変動した場合、その原因は、一つは上着の価値は変わらないのに、リンネルの価値が半分になったからであり、もう一つはリンネルの価値に変化がないのに、上着の価値が二倍に上がったから、という二つの原因が考えられました。つまり一方は価値が下がったから、他方は価値が上がったから、同じ相対的価値の変動が生じたことになるわけです。

 

 実際、「20エレのリンネル=1着の上着」という等式は、(1)リンネル価値が二倍になっても、あるいは上着の価値が半分になっても、「20エレのリンネル=2着の上着」になる。(2)他方、リンネルの価値が半減しても、上着の価値が二倍になっても、「20エレのリンネル=1/2着の上着」という等式になります。

 

【6パラグラフ】

 

  《 Ⅲ リンネルおよび上着の生産に必要な労働量が、同時に同じ方向に、同じ比率で変動することもある。この場合には、これらの商品の価値がどんなに変動しようと、あい変わらず、20エレのリンネル=1着の上着 である。これらの商品の価値変動は、これらの商品を、価値が不変のままであった第三の商品と比較すれば、すぐにわかる。すべての商品の価値が、同時に、同じ比率で、上昇または低下すれば、それらの商品の相対的価値は不変のままであろう。これらの商品の現実の価値変動は、同じ労働時間内に、今や一般的に、以前よりも多量かまたは少量の商品量が供給されるということから見てとれるであろう。》

 

 III リンネルと上着の生産に必要な労働量が、同時に同じ方向に、同じ比率で変動する場合。

 

 この場合には、二つの商品の価値がどんなに変動しようと、二つの商品で表される相対的価値の大きさには変動はありません。

 

 これらの価値の変化は、価値が不変な第三の商品と比較することによってわかります。

 

 すべての商品が、同時に、同じ比率で、上昇または低下するならば、それらの商品の相対的価値は不変のままです。

 

 これらの商品の価値の変動は、同じ労働時間内に、以前よりもより多くかより少ない商品量が供給されることから見ることができるということです。

 

【7パラグラフ】

 

  《 Ⅳ リンネルおよび上着の生産にそれぞれ必要な労働時間、したがってこれらの商品の価値が、同時に同じ方向に、しかし等しくない程度で変動するか、あるいは反対の方向に変動するなどなどのことがありえる。この種のありとあらゆる組あわせが一商品の相対的価値に与える影響は、Ⅰ、Ⅱ、およびⅢの場合を応用すれば、簡単にわかる。》

 

 IV リンネルおよび上着の生産に必要な労働時間が、よってそれらの価値が、同時に同じ方向に、しかし等しくない程度で変動したり、あるいは反対の方向に変動するなどのことはありえます。

 

 この種のありとあらゆる組み合わせが一つの商品の相対的価値に与える影響は、 I 、II、IIIのケースを応用すれば、簡単にわかるということです。

 

【8パラグラフ】

 

  《 こうして、価値の大きさの現実の変動は、価値の大きさの相対的表現または相対的価値の大きさには、明確にもあますところなしにも反映されはしない。一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変のままでも、変動しうる。一商品の相対的価値は、その商品の価値が変動しても、不変のままでありえる。そして、最後に、一商品の価値の大きさとこの価値の大きさの相対的表現とが同時に変動しても、この変動が一致する必要は少しもない(20)。》

 

 こうして、実際の価値の変動は、その相対的表現、あるいは相対的価値の大きさには、明確に、忠実に反映されることはありません。

 

 一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変でも変動するし、

 

 一商品の相対的価値は、その商品が変動しても、不変のままでありえます。

 

 だから最後に、一商品の価値の大きさとその相対的表現とが同時に変動しても、その変動が一致する必要はまったくないわけです。

 

【注20】

 

  《(20) 第2版への注。価値の大きさとその相対的表現とのこうした不一致は、俗流経済学によっていつもながらの鋭敏さで利用されてきた。たとえば、次のとおり。「Aと交換されるBが騰貴するために--そのあいだにAに支出される労働は減少していないのに--Aが低落するということをひとたび認めれば、諸君の一般的価値原理は崩壊する。・・・・もしも、Aの価値がBに対して相対的に上昇するので、Bの価値がAに対して相対的に低下するということが承認されるならば、リカードが、一商品の価値はそれに体現された労働の量によってつねに規定されるという、彼の大命題の基礎にすえた根拠が崩れさる。なぜなら、もしもAの費用におけるある変動が、Aと交換されるBとの関係におけるAそれ自身の価値を変化させるだけでなく、Bの生産に必要とされる労働量には何の変動も生じなかったのにBの価値をもAの価値に対して相対的に変化させるならば、その場合には、一つの物品に支出される労働量がその価値を規制するということを断言する学説が崩壊するだけでなく、一つの物品の生産費がその価値を規制するという学説も崩壊するからである」(J・ブロードハースト『経済学』、ロンドン、一八四二年、一一、一四ページ)。 ・ ブロードハースト氏は、同じように、次のように言うこともできよう。どうか一つ、10/20、10/50、10/100等々という比をよく見たまえ。10という数は不変のままなのに、その比率上の大きさ、すなわち、20、50、100という分母に対するその相対的な大きさは、たえず減少している。だから、一つの整数、たとえば、10の大きさは、それに含まれる1という単位の数によって「規制」されているという大原理は崩壊する、と。》

 

 ここでは、商品の価値の相対的な表現が、その価値の変化を必ずしも忠実に表さないということから、だから商品の価値がそれに体現された労働の量によって規定されるというリカードの価値論の崩壊を主張するブロードバーストの誤りが、分数を例に使って、実に分かりやすく説明されています。

 

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【付属資料】

 

【表題】

 

《初版付録》--「d 価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の量的な被規定性

 

【1】

 

《初版本文》

 

 《これまではただ価値の実体と価値の大きさとが規定されただけなので、今度は価値の形態の分析のほうに方向転換することにしよう。  まず第一に、ふたたび商品価値の第一の現象形態に立ち帰ってみよう。  二つの量の商品をとってみて、それらはそれらの生産に等しい労働時間がかかる、つまり、それらは等しい大きさの価値である、とすれば、40エレのリンネル=2着の上着、すなわち.40エレのリンネルは二着の上着に値する、ということになる。われわれが見るのは、リンネルの価値が一定量の上着で表現されている、ということである。ある一つの商品の価値は、このように別の一つの商品の使用価値で表わされている場合には、その商品の相対的な価値と呼ばれる。》

 

《初版付録》

 

 《とはいえ、20エレのリンネルは、ただ、価値一般、すなわち人間労働の凝固であるだけではなくて、それは特定の大きさの価値である。すなわち、それのなかには一定量の人間労働が対象化されている。それだから、上着にたいするリンネルの価値関係においては、上着という商品種類が、単に、価値体一般として、すなわち人間労働の物体化として、リンネルに質的に等置されるだけではなくて、この価値体の一定量が、1ダース等々ではなく一着の上着が、一着の上着のなかに20エレのリンネルにおけるとちょうど同じだけの価値実体すなわち人間労働が含まれているかぎりにおいて、等置されるのである。》

 

補足と改訂》

 

 《[A]

[11〕b)相対的価値形態の量的規定性

 その価値が表現されるべき商品は,どれも,与えられた分量の使用対象--何シェッフェルの小麦,何ポンドのコーヒー等々--である。この与えられた商品分量は,一定分量の人間的労働を含んでいる。したがって,価値形態は,単に価値一般だけではなく,量的に規定された価値,すなわち価値の大きさをも表現しなければならない。それゆえ,商品Bにたいする商品Aの価値関係においては,商品種類Bは商品Aに質的に等置されるだけではなく,ある与えられた分量のAにたいしてBが,20エレのリンネルにたいして一定量の等価物が,等置される。

[B]

b)相対的価値形態の量的規定性

 その価値が表現されるべき商品は,何シェッフェルの小麦,何ポンドのコーヒー等々といった与えられた分量である。その商品分量は一定量の人間的労働を含んでいる。それゆえ,商品は価値一般としてだけではなく,量的に規定された価値すなわち価値の大きさとしても表現されなければならない。》

 

《フランス語版》

 

 《価値が表現されるべきどの商品も、ある分量の有用物、たとえば15ブヅシェルの小麦、100ポンドのコーヒー等であって、一定の分量の労働を含んでいる。したがって、価値形態は、たんに価値一般ばかりでなく、ある価値量をも表現しなければならない。商品A の商品Bにたいする価値関係では、商品Bが質の観点でAに等しいと宣言されるだけでなく、さらにBのある分量がA の与えられた分量に等しいのである。》

 

【2】

 

《初版本文》

 

 《一商品の相対的な価値は、その商品の価値が不変のままであっても、変動することがありうる。逆に、その商品の相対的な価値は不変のままでありうる。たとえその価値は変動しようとも。すなわち、40エレのリンネル=2着の上着 という等式が前提しているのは、両方の商品に同じ量の労働が費やされている、ということである。しかし、それらの商品を生産する労働の生産力に変動が生ずれば、そのつど、それらの商品の生産に必要な労働時間は変動するのである。そこで、このような変動が相対的な価値に及ぼす影響を考察してみよう。》

 

《補足と改訂》

 

 《[A]

 20エレのリンネル=1着の上着,すなわち,20エレのリンネルは1着の上着に値するという等式の前提にあるのは,1着の上着には20エレのリンネルに潜んでいるのとまったく同じ量の価値実体が潜んでいること,すなわち,両方の商品分量は等しい量の労働または等しい大きさの労働時間を費やさせるということ,である。ところが,20エレのリンルまたは1着の上着の生産に必要な労働時間は,織布労働または裁縫労働の生産力が変動するたびに,変動する。そこで,このような変動が価値の大きさの相対的表現に与える影響について立ち入って研究しなければならない。

[B]

 20エレのリンネル=1着の上着,すなわち20エレのリンネルは1着の上着に値するという等弐の前提にあるのは,両方の商品分量は等しい量の労働を費やさせる、または等しい大きさの労働時間で生産されることである。ところが,さまざまな種類の労働の生産力が変動するたびに,そのときどきの商品分量の生産に必要な労働時間が変動する。そこで,われわはこのような変動が、ある商品,われわれの例ではリンネルの価値の大きさの相対的表現に与える影響について考察してみよう。》

 

《フランス語版》

 

 《20メートルのリンネル=一着の上衣、あるいは20メートルのリンネルが一着の上衣に値するという等式は、両商品のどちらも同量の労働が費やされているか、あるいは、両商品が同じ時間内に生産される、ということを前提している。だが、この時間は両商品のどちらにとっても、それを作り出す労働の生産力が変動するたびごとに変動する。さて、この変動が価値量の相対的表現に及ぼす影響を調ぺてみよう。》

 

【3】

 

《初版本文》

 

 《 I 上着の価値が不変なままであるときに、リンネルの価値が変動する、としよう。たとえば亜麻を栽培する土地の豊度の低下の結果として、リンネルの生産のために支出される労働時間が二倍になるとすれば、リンネルの価値は二倍になる。40エレのリンネル=2着の上着 にかわって、40エレのリンネル=4着の上着 となるであろう。なぜならば、2着の上着は今では40エレのリンネルの半分だけの労働時間しか含んでいないからである。これとは反対に、たとえば織機の改良の結果として、リンネルの生産に必要な労働時間が半分だけ減少するとすれば、リンネルの価値は半分だけ低下する。したがって今度は40エレのリンネル=1着の上着 となる。それだから、商品Aの相対的な価値、すなわちその商品の価値が商品Bで表現されたものは、商品Bの価値が不変のままであれば、商品Aの価値に正比例して上がり下がりするのである。》

 

《フランス語版》--ほぼ同じだが、傍点(下線に変換)が付けられている。

 

 《 I 上衣の価値が不変のままであるのに、リンネルの価値が変動するばあい。亜麻を供給する土地の収穫高がいちだんと少なくなった結果、リンネルの生産に必要な労働時間が二倍になると仮定すれば、そのばあいリンネルの価値も二倍になる。20メートルのリンネル=1着の上衣 のかわりに、20メートルのリンネル=2着の上衣 になる。というのは、1着の上衣はいまでは半分の労働しか含んでいないからである。これに反して、織機の改良の結果、リンネルの生産に必要な時間が半減すれば、リンネルの価値も同じ比率で減少する。したがって、20メートルのリンネル=1/2の上衣 になる。だから、商品A の相対的価値、すなわち、商品B のうちに表現される商品A の価値は、商品B の価値が不変のままであっても、商品A の価値に正比例して上昇するかまたは低下する。》

 

【4】

 

《初版本文》

 

 《II 上着の価値が変動するときに、リンネルの価値は不変のままである、としよう。こういう事情のもとで上着の生産に必要な労働時間が、たとえば羊毛刈り取りの不調の結果として、二倍になるならば、40エレのリンネル=2着の上着 にかわって、今度は40エレのリンネル=1着の上着 となる。これに反して、上着の価値が半分だけ減少するならば、40エレのリンネル=4着の上着 となる。それゆえ、商品Aの価値が同じままであるならば、商品Aの相対的な、商品Bで表現される価値は、Bの価値変動に反比例して、低下したり上昇したりするのである。》

 

《フランス語版》--ほぼ同じだが、傍点(下線に変換)がついている。

 

 《 II 上衣の価値が変動するのに、リンネルの価値が不変のままであるばあい。この事情のもとでは、羊毛の刈取りがあまり順調でなかった結果、上衣の生産に必要な時間が二倍になると仮定すれば、20メートルのリンネル=一着の上衣 のかわりに、いまでは 20メートルのリンネル=1/2着の上衣 になる。これに反して、上衣の価値が半分に低下すれば、そのばあい 20メートルのリンネル=2着の上衣 になる。商品Aの価値が不変のままであっても、商品Bのうちに表現される商品Aの相対的価値は、商品Bの価値変動に反比例して上昇するかまたは低下する、ということがわかる。》

 

【5】

 

《初版本文》

 

 《 I とIIとのいろいろな場合を比較してみると、次のような結果になる。すなわち、相対的な価値の同じ変動がまったく反対の諸原因から生ずることがありうる、ということである。たとえば、40エレのリンネル=2着の上着 が(1)等式 40エレのリンネル=4着の上着 になるのは、リンネルの価値が二倍になるか、または上着の価値が半分だけ低下するからであって、(2)等式 40エレのリンネル=1着の上着 になるのは、リンネルの価値が半分だけ低下するか、または上着の価値が二倍に上昇するからである。》

 

《フランス語版》--同じだが、傍点(下線に変換)がついている。

 

 《 I とIIのなかに含まれている種々のばあいを比較すれば、相対的価値の同じ量的変動が全く相反した原因から生じうるということは、明らかである。したがって、20メートルのリンネル=1着の上衣 という等式が 20メートルのリンネル=2着の上衣 になるのは、リンネルの価値が二倍になるか、または上衣の価値が半減するからである。そしてまた 、20メートルのリンネル=1/2着の上衣 になるのは、リンネルの価値が半減するか、または上衣の価値が二倍になるからである。》

 

【6】

 

《初版本文》

 

 《III リンネルと上着との生産に必要な諸労働量が、同時に、同じ方向で、同じ割合で、変動する。こういう場合には、たとえリンネルと上着との価値がどのように変えられていようと、相変わらず 40エレのリンネル=1着の上着 である。それらの価値変動は、それらと、その価値が不変のままだった第三の一商品と比較してみれば、すぐに発見される。もしすべての商品の価値が同時に同じ割合で上昇または低下するならば、すべての商品の相対的な諸価値は不変のままである。それらの商品の現実の価値変動は、同じ労働時間で今や一般的に以前よりもより大きいかまたはより小さい商品量が供給されるであろう、ということから推知されるであろう。》

 

《フランス語版》--同じだが、傍点(下線に変換)がある。

 

 《 III リンネルと上衣との生産に必要な労働量が、同時に同じ方向に同じ比率で変動すれば、このばあいには、それらの価値変動がどうあろうと、以前と同じように 20メートルのリンネル=1着の上衣 である。この価値変動は、その価値が同じままである第三の商品と比較することによって、発見される。もしすぺての商品の価値が同時に同じ比率で増大または減少すれば、それらの相対的価値は全く変動しない。それらの商品の本当の価値変動は、同じ労働時間内に供給される商品量が、いまでは一般に、以前よりも多くなるか少なくなるかで、わかるはずである。》

 

【7】

 

《初版本文》

 

 《IV リンネルと上着とのそれぞれの生産に必要な労働時間、したがってまたそれらの物の価値は、同時に同じ方向においてではあるが違った程度において、あるいはまた反対の方向、等々において、変動することがありうるであろう。あらゆる可能なその種の組み合わせが一商品の相対的な価値に及ぼす影響は、 I とIIとIIIとの場合の適用によって簡単に明らかになるのである。》

 

【8】

 

《補足と改訂》

 

 《それゆえ,現実の価値の大きさの変動は,その相対的表現すなわち相対的価値の大きさに,曖昧さをのこさずあますところなく反映するというわけではない。ある一つの商品の相対的価値は,その価値が変化しなくても,変動することがある。その相対的価値は,その価値が変動しても変わらないことがある,そして最後に,その価値の大きさとこの価値の大きさの相対的表現とにおける同時的変動はなんら一致する必要はないのである。》

 

《フランス語版》

 

 《価値量の本当の変動は、価値量の相対的表現のうちにけっして明瞭にも全面的にも反映しない、ということがわかる。一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変のままであっても変動することがあるし、その商品の価値が変動しても不変のままであることもあるし、そして最後に、価値量の変動と価値量の相対的表現の変動とが、正確に照応せずに同時に起こることもある。(19)》

 

§ 初版付録には、独自に「e 相対的価値形態の全体。」という項目が設けられ、次のように論じられている。

 

 《 こうして、相対的な価値表現によって、第一に、商品の価値は、その商品自身の使用価値とは違った形態を得る。この商品の使用形態は、たとえばリンネルである。これに反して、この商品は自分の価値形態上着にたいする自分の同等性関係において、もっている。この、同 等性の関係によって、この商品とは感覚的に違っている別の一商品体が、この商品自身の価値存在の鏡となり、この商品自身の価値姿態となる。こうして、この商品は、その現物形態とは相違し無関係で独立な価値形態を得る。しかし、第二に、特定の大きさの価値としては、特定の価値の大きさとしては、この商品は、自分にたいして別の商品体が等置されているところの量的に規定された関係すなわち割合によって、量的に計られているのである。》(国民文庫版136-7頁)

 

 


第20回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

                                    

 2010年という一つの区切りの年が明けました。

 

 昨年は、08年のリーマン・ショックによる金融恐慌に続く経済恐慌の一年でした。クライスラーやGMが倒産し、アメリカを代表する自動車産業が危機に陥り、今年になって、とうとう自動車の売り上げでは中国がアメリカを抜いて世界のトップに躍りでました。世界経済は大きく塗り替えられようとしています。

 

 2010年には、世界経済は果たして深刻な不況から抜け出ることができるのでしょうか。それともさらなる深いどん底へと引きずり込まれて行くのでしょうか。

 

 

 それはともかく、“サブプライム金融恐慌”に代表される金融バブルとその破綻について、『資本論』はどのように論じているのでしょう?

 

 『資本論』第3部第5篇第30~32章「貨幣資本と現実資本 I ~III」では、マルクス自身「比類なく困難な問題」として、貨幣資本の蓄積が現実資本の蓄積とどのように関連しているのか、またそれは一国で流通している貨幣の量と如何なる関係にあるのかが理論的に追究されています。そしてそうした考察の理論的前提として第29章「銀行資本の諸成分」では、銀行資本の一部を構成する「利子生み証券」(債務証書--有価証券--、サブプライム・ローン債権を担保にした資産担保証券などもそれに含まれます)が、「架空な貨幣資本」であることを明らかにしています。マルクスは現実資本の蓄積から相対的に自立してそれらを何倍も上回る規模に膨れ上がって運動する貨幣資本の運動を、「規則的に繰り返される収入」「資本換算」されて形成される「架空資本」という形態で存在する「利子生み資本」(moneyed Capitalとしての貨幣資本)の運動であることを明らかにし、さらに次のように論じています。

 

 「すべてこれらの証券は、実際には、将来の生産にたいする蓄積された請求権、権利名義のほかにはなにも表していないのであって、この権利名義の貨幣価値または資本価値は、国債の場合のようにまったくどんな資本も表していないか、または、それが表している現実の資本の価値とは無関係に規制されるのである。/すべての資本主義的生産の国には、このような形態で巨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed capitalが存在している。そして、貨幣資本の蓄積というものの大きな部分は、生産にたすいるこのような請求権の蓄積のほかには、すなわちこのような請求権の市場価値の蓄積、その幻想的な資本価値の蓄積のほかには、なにも意味していないのである。」(全集版600頁)

 

 だからこうした「架空な貨幣資本」の蓄積がどんなに膨大な額に膨れ上がろうが、現実の社会の富から考えるなら、それらは「純粋に幻想的」なものでしかなく、だから「このような名目的な貨幣資本のしゃぼん玉の破裂によっては一文も貧しくはならない」(同)のだと論じています。

 

 サブプライムによる資産担保証券や、デリバティブなどのさまざまな金融派生商品が氾濫し、膨大な過剰な貨幣資本が世界の金融市場を荒し回り世界経済を金融的危機に陥れいるような、今日の世界資本主義を理論的に解明していくためにも、やはり『資本論』をしっかり学ぶことが不可欠なのです。

 

 貴方も、是非、一緒に『資本論』を読んでみませんか?

 


第20回「『資本論』を読む会」の報告

第20回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎新年を迎えたが

 

 新しい年を迎え、民主党政権になって初めての国会における予算審議が始まったものの、小沢幹事長や鳩山首相の金と政治の疑惑問題ばかりが話題になり、ちっとも自民党政権時代と変わっていないじゃないか、と思わざるを得ません。

 

 そもそも小沢一郎などという人物は、田中角栄や金丸信など自民党の中でももっとも自民党的なゼネコンと結びついた金権政治の伝統を受け継ぐ人であって、こんな人が牛耳る民主党に何かそれまでの自民党と違ったものを期待することが間違いだったのだ、ということがようやく国民の中にも実感して理解されるようになってきたといえるのでしょうか。

 

 鳩山政権の支持率が低下して、すでに不支持と逆転したといいます。民主党にも愛想を尽かした国民は、次に何に期待し、選択するのでしょうか。

 

 代わり映えのしない政治に対して愚痴ばかりが出ますが、わが「『資本論』を読む会」の状況もいま一つ盛り上がりにかけ、愚痴の一つもこぼしたくなる状況には変わりはありません。

 

 今回からは、第1章「商品」の第3節「価値形態または交換価値」の「(3)等価形態」に入りました。議論はいろいろと脱線して、和やかな雰囲気のもとに学習会は進みましたが、そうしたことあり、結局、進んだのは最初の三つのパラグラフのみでした。さっそくその報告をやることにしましょう。

 

◎等価形態を質と量の二面から考察

 

 今回、進んだ三つのパラグラフは、等価形態を質の面(第1パラグラフ)と量の面(第2・3パラグラフ)から考察しているところです。それぞれパラグラフごとに検討していくことにします。

 

【1】《 (イ)すでに見たように、一商品A(リンネル)は、その価値を異種の一商品B(上着)の使用価値で表わすことによって、商品Bそのものに、一つの独特な価値形態、等価物という価値形態を押しつける。 (ロ)リンネル商品はそれ自身の価値存在を顕わにしてくるのであるが、それは、上着がその物体形態とは違った価値形態をとることなしにリンネル商品に等しいとされることによってである。 (ハ)だから、リンネルは実際にそれ自身の価値存在を、上着が直接にリンネルと交換されうるものだということによって、表現するのである。 (ニ)したがって、一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態である。》

 

 (イ) われわれは、「2 相対的価値形態」において、その「内実」を分析して、リンネルの商品の価値がどのように上着の使用価値によって表現されているかを見てきました。そしてリンネル価値が上着で表現されるということは、上着に独特な形態規定性を与えることによってなされることを見てきたわけです。それが等価物という形態です。等価物も《一つの独特な価値形態》である、とここでは書かれていますが、初版本文には次のような一文があります。

 

  《われわれの分析が明らかにしてきたのは、一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値形態を包括している、ということである。リンネルは、その価値と、その特定の価値の大きさとを、上着で表わしている。リンネルはその価値を他の一商品にたいする価値関係において、したがって交換価値として、示すのである。他方において、リンネルがその価値をそれにおいて相対的に表現するところの、この別の商品、上着は、まさにそれゆえに、リンネルと直接に交換されうる使用価値という形態を、すなわち等価物という形態を、受け取るのである。両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態なのである。両方が、じつはただ、同じ相対的な価値表現の諸契機であり、相互に制約され合っている諸規定でしかないのであるが、それら二つの等置された商品極の上に対極的に分けられているのである。》(国民文庫版53頁)

 

 ここでは《一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値形態を包括している》と述べています。すなわち「相対的価値形態」と「等価形態」です。この《両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態なの》だということです。

 

 (ロ) 「相対的価値形態の内実」の第4~6パラグラフでは、リンネルの価値がどのようにして表現されるのかについて明らかにされていました。そしてそのことは第7・8パラグラフで明らかにされたように、上着が新たな形態規定性を帯びることによってであること、すなわち上着の自然形態そのものが価値として通用すること、すなわち価値体になることだと説明されました。つまり上着の物体形態そのものが価値の形態になることによって、リンネルと等しいとされたわけです。

 

 (ハ) そして上着の物体形態そのものが価値の形態になっているのだから、上着はそのままで直接リンネルと交換されうるものなのです。ここで重要なのは「直接に」ということです。すべての商品は価値としては、交換可能なものですが、「直接」にそうしたものとしてあるわけではありません。というのは商品の「直接」的な存在はその使用価値だからです。だから商品は価値として現れるような形態を持たないと交換されえないのです。ところが等価形態にある商品は、それによって価値を表現する商品に対しては、その直接的定在である使用価値そのものが価値の形態になっているわけですから、その商品は「直接に」交換可能となるわけです。価値を表現する一商品は、等価物にある商品をそうした状態に置くことによって、自らの価値を表現しているのです。

 

 (ニ) だから一商品の等価形態というのは、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態にあるということです。つまり等価形態というのはそれを等価形態におく商品と直接に交換できるという性質を持っているのです。

 

 フランス語版では、この部分が三つのパラグラフに分かれていることが指摘されました。ついでにフランス語版を紹介しておきましょう。

 

 《すでに見たことだが、商品A(リンネル)は、その価値を、異なる商品B(上衣)の使用価値のうちに表現すると同時に、商品Bにたいし、特殊な価値形態である等価形態を押しつける。リンネルはそれ自身の価値性格を次のような関係によって表わす。すなわち、自然形態にあるがままの上衣という別の商品が、リンネルに等しいとされる関係によって。したがって、リンネルは、自分自身があるものに値していることを、上衣という別の商品が直接に自分と交換可能であるという事実によって、表現している。

 すべての商品は、価値としては人間労働という同じ単位の同等な表現であり、相互に置き換えることができる。したがって、商品が価値として現われる形態をもつやいなや、この商品は別の商品と交換可能なものになる。

 一商品は、それを等価物とする他のすべての商品と、直接に交換可能である。すなわち、価値関係においてこの商品の占める位置が、その自然形態を、他の商品の価値形態にする。この商品は、それが他の商品にたいし価値として現われ、そのようなものとして値うちをもち、したがって、他の商品と交換可能なものになるためには、その自然形態とちがった形態をとるには及ぼない。したがって、一商品にとって等価形態とは、その商品が他の商品と直接に交換可能であるところの形態なのである。》(江夏他訳26-7頁)

 

 このフランス語版で特に問題になったのは、第2パラグラフです。ここでは《すべての商品》が問題になっており、だから商品の一般的な交換可能性について論じています。初版付録でも同じような文言が冒頭にきています。

 

 《諸価値としては、すべての商品は、同じ単位の、すなわち人間労働の、同等と認められる互いに置き替えられる、すなわち交換可能な諸表現である。それゆえ、ある商品が一般に他の商品と交換されうるのは、その商品が価値として現われるような形態をもっているかぎりにおいてのことである》(国民文庫版137頁)

 

 しかし現行版(第二版)では、そうした文言がなくなり、だからフランス語版で再び復活したことになります(しかし位置を変えて)。つまり初版付録やフランス語版では商品の「一般的な」交換可能性と等価形態の「直接的な」交換可能性とが対比される形で論じられているわけです。つまり一般に商品は交換されうるためには、価値として現れることが必要なのですが、等価形態にある商品はその現物形態そのものが価値として認めらるから、だからそれはそれをそうしたものとして認める商品とは「直接的」に交換可能である、というわけです。

 

  また現行版では、上着とリンネルとが例に上げられて、最後まで二商品の価値関係として説明されていますが、フランス語版では最初はリンネルと上着が例に上げられているものの、第3パラグラフでは、等価形態にある商品は、それを等価物にする《他のすべての商品と、直接に交換可能である》と述べられており、やや展開された価値形態に近い表現になっていることも指摘されました。

 

  最後に、ここで言われている「直接的交換可能性」について、どうしてこんなことをいう必要があるのだろうか? という素朴な疑問が出されました。それに対して、この「直接的交換可能性」というのは、等価形態が貨幣にまで発展すると、「金(カネ)があればなんでも買える」という貨幣の極めて強力な特質として現れてくるものだ、との説明がありました。「金さえあれば何でも欲しい物が手に入る」という金の魔力は、まさに等価形態の直接的交換可能性に基づいているわけです。貨幣になるとそれが貨幣そのものが持っている魔力のように見えますが、実はそうではなく、それは等価形態におかれた商品が、ただ一方的に《押しつけ》られた性質にすぎず、等価形態におかれた上着にとってはまったく与り知らない、ただ受動的に一方的に押しつけられた役割にすぎないわけです。そうした等価形態の「質」的側面が、貨幣にまで発展すると、まるで貨幣そのものが生まれながら持っている一つの魔力のように見えてくるのですから、おかしなものです。

 

 「ということは、貨幣に発展する等価形態の考察こそが、マルクスにとってはメインなのだろうか?」という疑問も出ましたが、しかし等価形態の謎を解明するためには、相対的価値形態の内実が解明される必要があり、むしろ相対的価値形態そのものの解明の困難さが貨幣の謎の解明の困難さでもあったことが指摘されました。

 

 貨幣が主役のように見えている現象の転倒性についても話が及び(なにしろ話はいくらでも脱線したので)、現象的には貨幣があって商品が売買されて流通するように見えるが、本当は商品の流通という現実(あるいは商品の交換によって社会の物質代謝が維持されているという現実)があるからこそ、貨幣の流通もあるのであり、そうした関係がわれわれには転倒して見えているのだということも指摘されました。またそうした転倒した現象に捕らわれた自称マルクス経済学者の典型的な主張の紹介など話は尽きないほどに脱線したのですが、その報告まですると、この報告そのものが脱線しかねないので割愛したいと思います。

 

◎等価形態の量的側面の考察

 

 次は第2パラグラフです。まず全文紹介します。

 

【2】《 (イ)ある一つの商品種類、たとえば上着が、別の一商品種類、たとえばリンネルのために、等価物として役だち、したがってリンネルと直接に交換されうる形態にあるという独特な属性を受け取るとしても、それによっては、上着とリンネルとが交換されうる割合はけっして与えられてはいない。 (ロ)この割合は、リンネルの価値量が与えられているのだから、上着の価値量によって定まる。 (ハ)上着が等価物として表現され、リンネルが相対的価値として表現されていようと、または逆にリンネルが等価物として表現され、上着が相対的価値として表現されていようと、上着の価値量は、相変わらず、その生産に必要な労働時間によって、したがって上着の価値形態にはかかわりなく、規定されている。 (ニ)しかし、商品種類上着が価値表現において等価物の位置を占めるならば、この商品種類の価値量は価値量としての表現を与えられてはいない。 (ホ)この商品種類は価値等式のなかではむしろただ或る物の一定量として現われるだけである。》

 

 まず注意が必要なのは、「等価形態の量的側面の考察」と言っても、初版本文では《量的な被規定性は一商品の等価形態のなかには包括されていない》(53頁)と述べられており、初版付録でも表題として《 b 量的な被親定性は等価形態には含まれていない》となっています。つまり等価形態には量的被規定性はないということが、この量的側面の考察で論じらていることなのです。それを頭に入れて、各文節ごとに詳しく見ていくことにしましょう。

 

 (イ) われわれが先に考察した、「相対的価値形態の内実」の冒頭では《 ある一つの商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいるかを見つけだすためには、この価値関係を、さしあたりその量的関係からまったく独立に、考察しなければならない》と述べられていました。つまりわれわが考察したリンネルの価値が上着によって表現されることによって、等価形態におかれた上着が、リンネルと直接に交換されうる形態にあるという《独特の属性を受け取って》も、それらはまだ質的な考察にもとづくものであり、そこには量的規定性はなく、だからまたそれらがどういう割合で交換されるのかということも与えられていないわけです。

 

 (ロ) その割合は、リンネルの価値量が与えられていれば、上着の価値量によって決まってきます。

 

 (ハ) そしてこの割合は、上着が等価形態になり、リンネルが相対的価値形態になっても、あるいはその逆にリンネルが等価形態になり、上着が相対的価値形態になっても、同じです。つまり、上着の価値量は、それが等価形態にあるか、それとも相対的価値形態にあるかに関わりなく、ただ上着の生産に必要な労働時間によって決まっており、決して、価値形態によって決まるわけではありません。

 

 (ニ) しかし、上着の価値量は価値形態とは関わりがないといっても、その価値量の「表現」は、上着が価値表現のどの位置を占めるかによって違ってきます。上着が等価物の位置を占めるなら、その価値量は価値量としての表現は与えられていないのです。《上着が価値表現のなかで等価物の位置をしめるや否や,その価値の大きさは,価値の大きさとしての表現をなんら演じないで,価値等式においては,むしろただ一定分量の使用価値としての役をつとめるにすぎない》(『補足と改定』70頁)

 

 (ホ) 等価物の商品は、ただ価値を表現する材料として、ある使用価値の一定量として現れるだけです。  《ある一つの商品の価値が相対的に表現されるとすれば,その価値の大きさも表現される,なぜならばその商品は--その価値が表現されるべき一定の商品分量として--価値等式に入っていくのだからである。それに対して,等価物として役にたつ商品は,決して価値の大きさとして表現されることはなく,一定分量の使用価値としてのみ役にたつ。たとえば,20エレのリンネルが1あるいは2あるいはx着の上着に値するという表現においては,20エレのリンネルはこれこれの量に値するすなわち量的に規定された価値として表現される。しかし何においてか。1あるいは2あるいはx着の上着において,すなわち,使用対象上着の一定分量においてである。なぜならば,上着はここでは等価物としての役をつとめ,すなわちその使用価値形態が価値体として通用し、この使用価値の一定分量がまた,他の商品のある価値分量を表現するのに充分であるからである。》(『補足と改定』70-71頁)

 

 そもそも等価形態に置かれた商品上着は、もちろん、一定量の価値を持っているからこそ,等価物に置かれたのですが、しかしリンネルの価値表現においては、自身の価値を表すのではなく、ただ相対的価値形態にあるリンネルの価値を表す材料になるだけです。だから等価形態にある上着の価値そのものは、そもそもリンネルとの価値等式においては何も表されていないわけです。だからもともと価値が表されていないのですから、その価値の量も表されていないのは、ある意味では当然ともいえます。しかしでは上着の価値量はリンネルの価値表現においては何の関係もないかというとそうではありません。20エレのリンネルの価値量は、上着の使用価値の一定量、たとえば「1着」の上着という形で表されているわけです。ここで「1着」というのは、上着の使用価値の量的表現ですが、それによってリンネルは、自身の価値を量的に表現しているわけです。それは上着の使用価値そのものがリンネルの価値を表しているからです。だから上着の使用価値の量がリンネルの価値の量を表すことになるわけです。しかし上着が「1着」であるか、それとも「2着」であるかは、リンネルの価値が与えられているなら、上着の価値量によって決まってきます。にも関わらず、リンネルの価値量の相対的表現においては、上着はただその使用価値の量的規定性しか持たないのです。つまり等価形態にある上着の価値量は、リンネル価値量の相対的表現においては、規定的に関係しているが、リンネルの価値量の表現そのものには直接には現れてこないわけです。    

 

次は第3パラグラフです。

 

【3】《 (イ)たとえば、四〇エレのリンネルは「値する」――なにに? 二着の上着に。 (ロ)商品種類上着がここでは等価物の役割を演じ、使用価値上着がリンネルにたいして価値体として認められているので、一定量の上着はまた一定の価値量リンネルを表現するに足りるのである。 (ハ)したがって、二着の上着は四〇エレのリンネルの価値量を表現することはできるが、しかしそれはそれ自身の価値量、上着の価値量を表現することはけっしてできないのである。 (ニ)価値等式における等価物は、つねに、ただ、ある物の、ある使用価値の、単純な量の形態をもっているだけだというこの事実の皮相な理解は、べーリをもその多くの先行者や後続者をも惑わして、価値表現のうちに単なる量的な関係を見るに至らせたのである。 (ホ)そうではなく、一商品の等価形態はけっして量的な価値規定を含んではいないのである。》

 

 (イ)(ロ) 例えば40エレのリンネルは二着の上着に値するという場合、上着は等価物の役割を演じており、その使用価値がリンネルに対して価値体として認められています。だから一定量の上着の使用価値量だけで、リンネルの一定の価値量を表現するのに十分なのです。

 

 (ハ) しかし二着の上着という上着の使用価値量は確かに40エレのリンネルの価値量を表すことはできますが、しかし上着自身の価値量そのものを表現することは決してできません。

 

 (ニ) 価値等式における等価物は、だから常にある使用価値の一定量という単純な量の形態を持っているだけなのです。しかしこの事実の皮相な理解は、ベーリやその他の多くの先行者や後続者たちを惑わして、価値表現のなかに単なる量的な関係だけを見る誤りに陥らせたのです。

 

 (ホ) むしろ一商品の等価形態には、何の量的な価値規定も含まれていないのです。

 

 ここではベーリの誤った理解が言われていますが、それはどういうものなのか、またベーリの「先行者」「後続者」とも言われていますが、それはどういう人物たちなのかという質問が出されました。まず後者としては、『補足と改定』のなかで、次のような紹介があることが指摘されました。

 

 《価値形態すなわち価値表現は完全に商品価値の本性とその大きさから発生するのである。そして逆に,価値および価値の大きさが交換価値としてのそれ自身の表現方法から生ずるのではない。それは,一面では価値一般に関しては重商主義者とその近代的蒸し返し屋であるフーリエ(注:F.L.A.Ferrier (関税副検査官)『商業との関係から見た政府について』パリ1805年) やガニール(注:Ch.Ganilh 『経済学の諸体系について』第2版パリ1821年) ,マクロード等が妄想していることであり,他方,価値の大きさに関しては近代自由貿易論者であるバスティアとその仲間たちが妄想していることである。》(69-70頁)

 《(注:価値等式における等価物は,つねに,ただ,一定分量の使用価値の役をつとめるにすぎないというこの事実の全く皮相な理解は,ベイリー( 『貨幣とその変遷』ロンドン18371.c.)を迷わせて,価殖表現のなかに量的な関係だけを見るにいたらせた。)》(71頁)

 

 ではベーリの主張はどういうものか、ということについては、『剰余価値学説史』の中で紹介されているのではないか、との指摘がありましたが、『学説史』そのものは当日持っていなかったので、ここでその典型的な主張を紹介をしておきましょう。ベーリはリカードを批判して次のように述べています(全集版第26巻III116-117頁)。

 

  「大部分の諸商品または一商品を除くすべての商品を生産する労働の絶対量が増加しても、この一商品の価値は変わらないと言うことができるであろうか?〔どんな意味でなのか?〕というのは、それは、他のすべての商品のより少ない量と交換されるだろうからである。もし実際に、価値の増減ということの意味が、当該商品を生産した労働量の増滅のことを主張しているつもりで言われているとすれば、私がいま反対理由にあげた結論は、十分真実でありうるであろう。だが、リカード氏が言っているように、二つの商品を生産する比較的労働量が、これら二つの商品を相互に交換する比率、すなわち各商品の交換価値の原因であると言うことは--、各商品の交換価値が、他の商品または他の商品の存在とのどんな関係も考慮されずに、その商品を生産した労働量のことを意味すると言うこととは、非常に違っている。」(『考察』、13ページ。)

 

  「リカード氏は、事実われわれに向かってこう言っている、『自分が読者の注意をひきたいと思う研究は、諸商品の相対的価値の変動の効果に関してであって、絶対的価値のそれに関してではない』と。あたかも彼は、そこでは、相対的ではない交換価値のようなある物が存在する、と考えていたかのようである。」(同前、9/10ぺージ。)  「リカード氏が価値という言葉の彼の最初の用法から離れて、それを相対的なものではなくなにか絶対的なものにしたということは、『価値と富、両方を区別する特性』と題する彼の一章のなかで、もっと明瞭になっている。そこで論じられている問題は、他の人によっても論じられたものだが、純粋に用語上のもので、役にはたたない。」(同前、15ぺージ以下。)

 

 このベーリの主張に対するマルクスの批判もついでに紹介しておきます(同上163頁)。

 

 《諸商品が使用価値として相互に交換される量的な関係は、なるほど諸商品の価値の表現であり、諸商品の実現された価値であるが、しかしその量的関係は、それらの商品の価値そのものではない、というのは同じ価値関係が使用価値のまったく違った量で表わされるからである。……諸商品の価値としての定在は、その商品自身の使用価値--その商品の使用価値としての定在--では表現されない。それは、他の使用価値でのその商品の表現のなかに、すなわち、このような他の使用価値がその商品と交換される関係のなかに、現象する。1オンスの金と1トンの鉄とが等しくて、それゆえ金の少量が鉄の多量と交換されるとすれば、そのために、鉄で表現される1オンスの金の価値のほうが金で表現される鉄の価値よりも大きいであろうか? 諸商品がそれらに含まれている労働に比例して交換されるということは、諸商品が、同じ労働量を表わすかぎりでは、相等しく、同じものである。……だから同時にそれは、各商品が、対自的に考察されれば、その商品自身の使用価値、すなわちその商品自身の使用価値としての定在とは区別されたものである、ということを意味している。》

 

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【付属資料】

 

 これらのパラグラフに関連すると思われるものを紹介しておきます。

 

1】パラグラフ

 

《初版本文》

 

 《われわれの分析が明らかにしてきたのは、一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値形態を包括している、ということである。リンネルは、その価値と、その特定の価値の大きさとを、上着で表わしている。リンネルはその価値を他の一商品にたいする価値関係において、したがって交換価値として、示すのである。他方において、リンネルがその価値をそれにおいて相対的に表現するところの、この別の商品、上着は、まさにそれゆえに、リンネルと直接に交換されうる使用価値という形態を、すなわち等価物という形態を、受け取るのである。両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態なのである。両方が、じつはただ、同じ相対的な価値表現の諸契機であり、相互に制約され合っている諸規定でしかないのであるが、それら二つの等置された商品極の上に対極的に分けられているのである。》(国民文庫版53頁)

 

《初版付録》

 

 《a 直接的交換可能性の形態

 

 諸価値としては、すべての商品は、同じ単位の、すなわち人間労働の、同等と認められる互いに置き替えられる、すなわち交換可能な諸表現である。それゆえ、ある商品が一般に他の商品と交換されうるのは、その商品が価値として現われるような形態をもっているかぎりにおいてのことである。ある商品体が他の商品と直接に交換されうるのは、その商品体の直接的な形態 、すなわちそれ自身の物体形態または現物形態が、他の商品にたいして価値を表わしている、すなわち、価値姿態として認められているかぎりにおいてのことである。このような属性を上着は自分にたいするリンネルの価値関係においてもっている。そうでなければ、リンネルの価値上着という物では表現されえないであろう。だから、商品が一般に等価形態をもっているということは、ただ、価値表現におけるその商品の位置によって、その商品自身の現物形態が他の商品のための価値形態として認められているということ、すなわち、その商品が他の商品との直接的交換可能性の形態をもっているということを意味しているだけである。だから、その商品は、他の商品にたいして価値として現われ価値として認められて他の商品に価値として働きかけるために、あらかじめ、その商品の直接的な現物形態とは違う形態をとる必要はないのである》(同上137-8頁)

 

《補足と改訂》

 

 《a) 直接的交換可能性の形態》という項目はあるが、それに直接続く内容は初版付録の《b)》の内容である。そして《等価形態の独自性への移行》という項目のあとに続く次のものが、この最初のものに合致している。

 

 《われわれは次のことを見てきた。--一商品(リンネル)は,その価値を,種類を異にする一商品Bの使用価値(上着)で表現することによって,商品Bそのものに,一つの独自な価値形態,等価物という価値形態を押しつける。リンネルは,自分自身を上着と等しいものとして表現することによって,その価値存在を表現する。すでに見たように、この表現のなかでは,上着体は,リンネルと等しいものとして通用し,それと置き換えることができ、それと交換可能である価値体として、同じ単位の人間的労働の表現として役にたつ。

 

 結論--したがって、リンネルはその価値存在を、同じに通用するという性質を、つまり交換可能性を、上着が直接それと交換できるということを通して、表現する。それゆえ、一商品の等価形態は、他の商品との直接的交換可能性の形態である、そしてその商品がこの形態を受け取るのは、他の商品の価値がそれで、つまり、他の商品の価値表現におけるそれの立場を通してのみ、表現されているからにほかならない。

 

  b)すでに見たように、そのことを通して上着体はリンネルに対して価値体となる、すなわち、上着商品の自然形態が価値形態になる。

 

 [B2]

 

  (8)われわれは次のことを見てきた。--一商品A( リンネル)は,種類を異にすにる一商品Bの使用価値(上着)でその価値を表現することによって,商品B そのものに,一つの独自な価値形態、等価物という形態を押しつける。リンネルは、ある他の商品、上着がそままの姿で、その自然形態においてリンネルに等しいものとして通用する関係を通してそれ自身の価値性格を外に現わす。したがって、リンネルは、事実として、他の商品上着が直接リンネルと交換されうるということを通して,自分の価値存在を表現する。したがって,一商品の等価形態は他の商品との直接交換可能性の形態である,そしてある商品がこの形態をうけとるのは,それにおいて他の商品の価値が,つまり,他の商品の価値表現におけるそれの立場を通してのみ,表現されるときにかぎられる。この文章は8)の最後。》(小黒正夫訳72-73頁)

 

《フランス語版》

 

 《すでに見たことだが、商品A(リンネル)は、その価値を、異なる商品B(上衣)の使用価値のうちに表現するのと同時に、商品Bにたいし、特殊な価値形態である等価形態を押しつける。リンネルはそれ自身の価値性格を次のような関係によって表わす。すなわち、自然形態にあるがままの上衣という別の商品が、リンネルに等しいとされる関係によって。したがって、リンネルは、自分自身があるものに値していることを、上衣という別の商品が直接に自分と交換可能であるという事実によって、表現している。

 

  すべての商品は、価値としては人間労働という同じ単位の同等な表現であり、相互に置き換えることができる。したがって、商品が価値として現われる形態をもつやいなや、この商品は別の商品と交換可能なものになる。  一商品は、それを等価物とする他のすべての商品と、直接に交換可能である。すなわち、価値関係においてこの商品の占める位置が、その自然形態を、他の商品の価値形態にする。この商品は、それが他の商品にたいし価値として現われ、そのようなものとして値うちをもち、したがって、他の商品と交換可能なものになるためには、その自然形態とちがった形態をとるには及ばない。したがって、一商品にとって等価形態とは、その商品が他の商品と直接に交換可能であるところの形態なのである。》

 

2】パラグラフ

 

《初版本文》

 

 《量的な被規定性は一商品の等価形態のなかには包括されていない。たとえば、上着がリンネルの等価物である、という特定の関係は、上着の等価形態から、すなわちリンネルとの上着の直接的交換可能性の形態から生ずるのではなくて、労働時間による価値の大きざの規定から生ずるのである。リンネルがそれ自身の価値を上着で表わすことができるのは、ただ、リンネルが、結晶した人間労働の所与の量としての一定の上着量に関係するからにほかならない。もし上着の価値が変わるならば、この関係もまた変わるのである。とはいえ、リンネルの相対的な価値が変わるためには、その相対的な価値が存在していなければならないのであり、そしてその相対的な価値は、ただ、上着の価値が与えられている場合にのみ形成されうるのである。いま、リンネルがそれ自身の価値を上着の一着で表わすか、二着で表わすか、それともx着で表わすか、ということは、この前提のもとでは、まったく、自分の価値が上着形態で表わされるべきリンネルの一エレの価値の大きさとエレ数とによって定まる。一商品の価値の大きさは、ただ他の一商品の使用価値においてのみ、相対的な価値としてのみ、表現されることができるのである。これに反して、直接に交換可能な使用価値の形態すなわち等価物の形態を、一商品は、逆にただ他の一商品の価値がそれにおいて表現されるところの材料としてのみ、受け取るのである。

 

  この区別は、その単純な、または第一の、形態における相対的な価値表現の特性によって、不明瞭にされている。すなわち、等式 20エレのリンネル=一着の上着 または 20エレのリンネルは,一着の上着に値する は、明らかに、同じ等式 一着の上着=20エレのリンネル または 一着の上着は二〇エレのリンネルに値する を含意している。つまり、リンネルの相対的な価値表現においては上着が等価物としての役割を演じているのであるが、この価値表現は逆関係的に上着の相対的な価値表現を含んでいるのであって、それにおいてはリンネルが等価物としての役割を演じているのである。》(前掲53-4頁)

 

《初版付録》

 

 《b 量的な被親定性は等価形態には含まれていない

 

 上着という形態をもっている一つの物がリンネルと直接に交換されうるということ、または、金という形態をもっている一つの物がすべての他の商品と直接に交換されうるということ、--このような、一物の等価形態は、まったくなんらの量的な被規定性をも含んではいない。

 

  第一に、リンネルの価値表現のための材料として役だつ上着という商品は、このような表現においても、一二着等々ではなくて一着の上着というように、つねに量的に規定されている。では、なぜであろうか? そのわけは、二〇エレのリンネルがその相対的な価値表現においてはただ価値一般として表現されているだけではなくて同時に特定の価値量として計られているからである。しかし、一二着ではなくて一着の上着が二〇エレのリンネルと同じだけの労働を含んでおり、それだから二〇エレのリンネルに等置されるのだ、ということは、商品種類リンネルと直接に交換されうるという商品種類上着の特徴的な属性とは、まったくなんの関係もないのである。

 

  第二に、もし二〇エレのリンネルが特定の大きさの価値としては一着の上着で表現されるならば、逆関係的に一着の上着の価値の大きさもまた二〇エレのリンネルで表現され、したがってやはり量的に計られているのであるが、しかし、ただ間接的に表現の逆転によってであり、上着が等価物の役割を演ずるかぎりにおいてのことではなくて、むしろ上着自身の価値をリンネルで相対的に表わしているかぎりにおいてのことなのである。

 

  第三に、われわれは、20エレのリンネル=一着の上着 または、20エレのリンネルは一着の上着に値する、という定式を、二〇エレのリンネルと一着の上着等価物である、または 、両方とも同じ大きさの価値である、というように表現することもできる。この場合には、われわれは両方の商品のどちらかの価値他方の商品の使用価値で表現するのではない。したがって、両方の商品のどちらも等価形態に置かれるのではない。ここで等価物が意味しているのは、ただ、両方の物が前もってわれわれの頭のなかで暗黙のうちに価値という抽象物に還元されたのちに、大きさの等しいものである、ということにすぎない。》(同上138-9頁)

 

《補足と改訂》

 

 《ある一種類の商品,たとえば上着が,別の種類の商品,たとえばリンネルのために等価物として役立ち,それゆえ,上着がリンネルと直接に交換されうる形態にあるという特徴的な属性を受け取るとしても,それによって,上着とリンネルとが交換される比率が与えられるわけでは決してない。

 

 [A 1]

 

  これは,リンネルの価値が与えられた大きさであるばあい,つねに上着の価値の大きさによって決まる。上着が--等価物として表わされ--そしてリンネルが相対的価値として表わされているか,あるいは上着が相対的価値としてそしてリンネルが等価物として表わされているか。--それゆえ,そのことはこの価値形態とは無関係な規定である。価値形態すなわち価値表現は完全に商品価値の本性とその大きさから発生するのである。そして逆に,価値および価値の大きさが交換価値としてのそれ自身の表現方法から生ずるのではない。それは,一面では価値一般に関しては重商主義者とその近代的蒸し返し屋であるフーリエ(注:F.L.A.Ferrier (関税副検査官)『商業との関係から見た政府について』パリ1805年) やガニール(注:Ch.Ganilh 『経済学の諸体系について』第2版パリ1821年) ,マクロード等が妄想していることであり,他方,価値の大きさに関しては近代自由貿易論者であるバスティアとその仲間たちが妄想していることである。

 

 [A2]

 

  それは,リンネルの価値の大きさが与えられているのだから,上着の価値の大きさによって決まる。上着が--等価物として表現され,リンネルが相対的価値として表現されていようとも,あるいは逆にリンネルが等価物として表現され上着が相対的価値として表現されていようとも,上着の価値の大きさは,依然として,上着の生産に必要な労働時間によって,してがって上着の価値形態とはかかわりなく,規定されている。しかし,上着が価値表現のなかで等価物の位置をしめるや否や,その価値の大きさは,価値の大きさとしての表現をなんら演じないで,価値等式においては,むしろただ一定分量の使用価値としての役をつとめるにすぎない。

 

 [A3]

 

  それは,リンネルの価値の大きさが与えられているのだから,上着の価値の大きさによって決まる。上着が--等価物として表現されリンネルが相対的価値として表現されていようとも,あるいは逆にリンネルが等価物として表現され上着が相対的価値として表現されていようとも,それらが交換される比率は変わらないままであり,それらの生産に必要な労働時間で計られたそれらのそのときどきの価値は,それゆえ,それらの価値形態とは無関係な規定である。  それの価値が相対的に表現される商品は,つねに価値の大きさとして表現され,一方逆に等価物は決して価値等式において価値の大きさとしての役を演ずることはなく,つねに一定分量の使用価値としての役をつとめるにすぎない。

 

 [A '1]

 

  ある一つの商品の価値が相対的に表現されるとすれば,その価値の大きさも表現される,なぜならばその商品は--その価値が表現されるべき一定の商品分量として--価値等式に入っていくのだからである。それに対して,等価物として役にたつ商品は,決して価値の大きさとして表現されることはなく,一定分量の使用価値としてのみ役にたつ。たとえば,20エレのリンネルが1あるいは2あるいはx着の上着に値するという表現においては,20エレのリンネルはこれこれの量に値するすなわち量的に規定された価値として表現される。しかし何においてか。1あるいは2あるいはx着の上着において,すなわち,使用対象上着の一定分量においてである。なぜならば,上着はここでは等価物としての役をつとめ,すなわちその使用価値形態が価値体として通用し、この使用価値の一定分量がまた,他の商品のある価値分量を表現するのに充分であるからである。(注:価値等式における等価物は,つねに,ただ,一定分量の使用価値の役をつとめるにすぎないというこの事実の全く皮相な理解は,ベイリー( 『貨幣とその変遷』ロンドン18371.c.)を迷わせて,価値表現のなかに量的な関係だけを見るにいたらせた。)

 

  したがって,ある商品の等価形態にはなんらの量的価値規定をも含まないのである。》(前掲69-71頁)

 

《フランス語版》

 

 《たとえば、上衣のような商品が、リンネルのような他の商品に等価物として役立ち、したがって、リンネルと直接に交換可能であるという特有の属性を得ても、この交換が行なわれうる比率は、けっして与えられてはいない。リンネルの価値量が与えられているから、この比率は上衣の価値量に依存するであろう。たとえ価値関係において、上衣が等価物として現われリンネルが相対的価値として現われようとも、またはこれと逆であろうとも、交換の行なわれる比率は依然同じである。したがって、生産に必要な労働時間の比較によって測られる二商品のそれぞれの価値量は、価値形態とは全く関係のない規定である。》(前掲27頁)

 

3】パラグラフ

 

《補足と改訂》

 

 《[A'2]

 

 たとえば,40エレのリンネルは値する--なににか? 2着の上着に,である。ここでは,上着という商品種類は等価物の役割を演じており、上着という使用価値は,それゆえ,リンネルに対して価値体として通用しているのであるから,リンネルという一定の価値分量を表現するためには,やはり一定分量の上着があれば十分なのである。したがって,2着の上着は,40エレのリンネルの価値を表現することはできるが,それ自身の価値の大きさを表現することは決してできない。価値等式における等価物は,つねに,ただ,一つの物の単なる分量という形態をとるにすぎないというこの事実の皮相な理解は,ベイリーを--彼の多くの先行者や後続者と同じように--迷わせて, 価値表現のうちにただ量的な関係のみを見るにいたらせた。

 

 一商品の等価形態には,むしろ,なんの量的な価値規定も含まれてないのである。》(前掲71頁)

 

《フランス語版》

 

 《価値が相対的形態のもとにあるような商品は、つねに価値量として表現されるが、他方これと反対に、つねに有用物の単なる量として等式のうちに現われる等価物については、そうではない。たとえば四〇メートルのリンネルはなにに値するか? 二着の上衣に値する。上衣という商品は、ここでは等価物の役割を演じ、こうしてリンネルの価値に体躯を与えるから、ある分量の上衣は、リンネルがもつ価値の分量を表現するのに充分である。したがって、二着の上衣は、四〇メートルのリンネルの価値量を表現することができるが、自分自身の価値量を表現することはできない。価値等式では等価物が有用物の単なる分量としてのみ現われるという事実を、皮相に観察したために、S ・べーリや彼以前および以後の多くの経済学者が誤りに陥ったのである。彼らは価値表現のうちに量的関係しか見なかった。ところで、商品は等価形態のもとでは、あるなんらかの物体の単なる量として現われるが、それはまさに、この商品の価値量が表現されないからなのである。》(前掲27頁)

 

 

 


第21回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

 

 

 「いのちを、守りたい。  いのちを守りたいと、願うのです。」

 

 鳩山首相の施政方針演説である。  昨年の所信表明演説も美辞麗句でよそよそしく飾られていたが、今回の施政方針演説もただ観念的で崇高な理念が掲げられているのみである。

 

 

 「資本主義社会を維持しつつ、行き過ぎた『道徳なき商業』」、『労働なき富』を、どのように制御していくべきなのか。人間が人間らしく幸福に生きていくために、どのような経済が、政治が、社会が、教育が望ましいのか。今、その理念が、哲学が問われています。」  「人間のための経済、再び」  「経済のしもべとして人間が存在するのではなく、人間の幸福を実現するための経済をつくり上げるのがこの内閣の使命です。」  「『商業の道徳』を育み、『労働をともなう富』を取り戻すための挑戦」等々。

 

 資本主義の現実と本質を知る労働者にとって、これらは何と空疎な文言として響くことか。マルクスは次のように述べている。

 

 《“わが亡き後に洪水は来たれ! Apres moi le deluge! ”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。したがって、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命に対し、何らの顧慮も払わない。肉体的、精神的萎縮、早死、過度労働の拷問に関する苦情に答えて資本家は言う--われらが楽しみ(利潤)を増やすがゆえに、それが何でわれらを苦しめるというのか? と。》(『資本論』第1巻、全集23a353頁)

 

 これこそが、労働者が日々体験している資本主義の現実ではないだろうか!

 

 一方で「資本主義社会の維持」を掲げながら、他方で、『労働なき富』を批判し(それをいうならまず自分自身を批判せよ!)、「『労働をともなう富』を取り戻す」ことを謳う鳩山首相の理念は、マルクスがブルジョア経済学者を批判して次のように述べたことがもっともよく当てはまる。

 

 《賃労働は自己疎外された労働であって、それにたいしては、それによってつくりだされた富が他人の富として対立し、それ自身の生産力がそれの生産物の生産力として対立し、それの致富が自己貧窮化として対立し、それの社会的な力がそれを支配する社会の力として対立するのである。ところが、このような、資本主義的生産において現われるところの、社会的労働の特定の独自な歴史的な形態を、これらの経済学者たち(鳩山首相と読め--引用者)は、一般的な永久的な形態、自然真理として言い表わし、また、このような諸生産関係を、社会的労働の絶対的な(歴史的ではない)必然的な、合自然的で理性的な諸関係として言い表わすのである。資本主義的生産の視野のなかに完全に閉じこめられているために、彼らは(鳩山首相は--同)、社会的労働がここでとるところの対立的な形態を、この対立から解放されたこの形態そのものと同様に必然的なものと断定するのである。こうして彼らは一方では労働を絶対的だとし(というのは、彼らにとっては賃労働は労働と同義なのだからである)、他方では資本を同様に絶対的だとし、労働者の貧窮と非労働者の富(鳩山家の巨万の富はまさにこれだ--同)とを同時に富の唯一の源泉として言い表わすのだから、彼らは絶えず絶対的な諸矛盾のなかで動いていながら、少しもそれを感じてはいないのである(だからノーテンキなことも言っていられるわけだ--同)。》(『学説史』26巻III340頁)

 

 ブルジョア社会の現実に対する無知を曝け出し、ノーテンキな理念を掲げることしか知らない鳩山政権を批判するためにも、あなたも、ともに『資本論』を一緒に読んでゆきませんか。

 



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