目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
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第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第18回「『資本論』を読む会」の案内

『資 本 論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

 

                                    

 

 10月26日、新政権の下で最初の臨時国会が開かれ、鳩山由紀夫首相が初めて所信表明演説を行ないました。

 

 

 

 「友愛政治の実現」をスローガンに、「無血の平成維新」を断行するという内容です。

 

 「いのちを守り、国民生活を第一とした政治」とか「居場所と出番のある社会」、「支え合って生きていく日本」、「人間のための経済」等々、耳障りのよい言葉が羅列されています。こうした多くの美辞麗句の裏に何が隠されているのでしょうか。それを私たちは見抜かなければなりません。

 

 それは他ならぬ、鳩山首相の政治理念である「友愛」のスローガンそのものが明らかにしています。

 

 首相は8月末「Voice」に発表した≪特別寄稿≫「私の政治哲学~祖父に学んだ『友愛』の旗印」のなかで、「友愛」について、次のように説明しています。

 

 「現代の日本人に好まれている言葉の一つが『愛』だが、これは普通〈love〉のことだ。そのため、私が『友愛』を語るのを聞いてなんとなく柔弱な印象を受ける人が多いようだ。しかし私の言う『友愛』はこれとは異なる概念である。それはフランス革命のスローガン『自由・平等・博愛』の『博愛=フラタナティ(fraternité)』のことを指す。」

 

 しかしフランス革命の「自由・平等・博愛」がもたらした現実は何だったのかが問題なのです。

 

 

 マルクスは、すでに同じスローガンを掲げた1848年の「フランス共和国憲法」について、《初めから終わりまで、もっとも不誠実な企図を背後に隠した、美しい言葉の寄せ集めにすぎない》(全集第7巻511頁)と断じています。このマルクスの言葉は鳩山首相の所信表明演説にはより一層当てはまります。

 

 というのはこのスローガンは封建社会からの解放を唱えるブルジョア革命においてのみ、正当であり、現実的であり、偉大な意義を持ったのであって、すでに1848年の資本主義が一人立ちした段階においては、もはや一つの欺瞞でしかなく、ましてや爛熟し頽廃した今日の資本主義社会においては単に時代錯誤であるばかりではなく、醜い詭弁でしかないからです。

 

 このスローガンの実際の内容を、マルクスは『資本論』で次のように述べています。

 

 《労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の部面は、実際、天賦人権の真の楽園であった。ここで支配しているのは、自由、平等、所有、およびベンサムだけである。自由! というのは、一商品たとえば労働力の買い手と売り手は、彼らの自由意志によって規定されているだけだからである。……平等! というのは、彼らは商品所有者としてのみたがいに関係しあい、等価物と等価物を交換するからである。所有! というのは、だれもみな、自分の物を自由に処分するだけだからである。ベンサム!(「功利主義」の意味--引用者)  というのは、両当事者のどちらにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。》(全集23a230-1頁)

 

 つまり「博愛(友愛)」は、「所有」「ベンサム」というこのブルジョア社会の現実を覆い隠す“イチジクの葉”にすぎないのです。

 

 今回の演説でも、鳩山首相は、障害者など社会の弱者をすべての人々が「支え合う」「きずな」の大切さや、そうした社会の実現を訴えましたが、しかし彼が持つ何十億という個人資産をそうした「支え合い」のために、例えその一部でも差し出したという話は聞いたことがありません。

 

 現実には、彼は、崇高な理念の陰で、何十億という個人資産の「所有」にしがみつき、明日の生活にも困って「毎年3万人以上のかたがたがのいのちが、絶望のなかで絶たれているのに」、彼は妻とたった二人だけで広大な敷地を持つ邸宅と別荘を複数持ち、有り余る豊かな生活を享受しながら、そうした人たちにどんな手もさしのべようともしない立派な「功利主義」者として振る舞っているのです!

 

 貴方も、美辞麗句の裏に隠された鳩山政権の正体を見抜くために、『資本論』を一緒に読んでみませんか。

 


第18回「『資本論』を読む会」の報告

第18回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎紅葉の季節

 

 今年はどうも紅葉が早いような気がします。例年のシーズンを考えて、お仲間は12月の上旬に京都での紅葉狩りを計画し、嵐山にある宿泊施設に予約を入れているらしいのですが、これではどうやら季節を外しそうな感じもしてきました。

 

 ところで、我が「『資本論』を読む会」の“紅一点”のクミさんは、仕事で今回はお休みになり、これまた前回と同様寂しい開催になりました。なにしろ新しい参加者はなく、少人数でチビチビとやっているものですから、一人でも休むと途端に寂しくなります。何とも侘しい限りではあります。

 

 まあ、そんな愚痴を言っていてもしょうがないので、報告に移りましょう。

 

 今回は、「a 相対的価値形態の内実」の最後まで終えました。だから、今回の報告は、この「内実」で課題とした諸問題をとことん明らかにしたいと考えていますので、あるいは、少しは長くなるかも知れません。  これまでも報告が長すぎると苦情(?)が来ているのですが、まあ、難しいところなんですから、解説もとにかく懇切丁寧を心がけていますので、少々の冗長なところは我慢して、お許し願いたいと思います。

 

◎これまでの展開の中間総括

 

 さて、今回は第9パラグラフからです。このパラグラフはこれまで考察してきたことを中間的に総括しているのではないか、と思います。まずその全文を紹介しましょう。今回も分節ごとに検討するために、各分節にイ)、ロ)、ハ)・・・・の記号を打ち、関連資料は後回しにします。

 

  イ)こうして、上着がリンネルの等価となる価値関係の中では、上着形態が価値形態として通用する。 ロ)したがって、商品リンネルの価値が商品上着の身体で表現される。 ハ)一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるのである。 ニ)使用価値としては、リンネルは、上着とは感性的に異なるものであるが、価値としては、リンネルは「上着に等しいもの」であり、したがって、上着のように見える。 ホ)このようにして、リンネルは、その現物形態とは異なる価値形態を受け取る。 ヘ)リンネルの価値存在が上着との同一性に現れるのは、キリスト教徒の羊的性質が神の仔羊との同一性に現れるのと同じである。》

 

 イ)、ここで《こうして》というのは、直接には前パラグラフ(第8)を指しているのですが、第7・8の両パラグラフを指しているとも考えることができます。というのはこの二つのパラグラフで上着がリンネルとの価値関係に置かれると新たな形態規定を受けることが確認されていたからです。つまりその自然形態が直接価値を表すということです。だからそうした考察を受けて、《こうして》、リンネルの等価となる関係のなかでは、上着形態、つまり上着という商品体、あるいは上着の姿そのものが、価値の形態、つまり「価値が形あるものとして現われているもの」として通用するのだというわけです。

 

 ロ)、だから商品リンネルの価値が商品上着の身体で表現される。ここでは、すでに先の分節が第7・8パラグラフを直接受けたものであったのに対して、この分節は、そうではなく、むしろこれまでの考察を結論的にまとめたものということができます。つまり第4・5・6パラグラフでは、リンネルの価値がどのようにして表現されるのかを、上着が価値物として通用するという内容を価値の実体にまで掘り下げて考察することによって明らかにするものでしたが、しかしそのことは、反面では、第7・8パラグラフで考察したように、等価におかれる上着が新たな形態規定(その自然形態が直接価値を表すという)を受けることでもあったというわけです。つまりリンネルの価値が表現される過程は、他面では等価に置かれた上着が新たな形態規定を受け取る過程でもあり、そうした両過程があいまって、リンネルの価値表現が完成するのだというのがマルクスがここで述べていることではないかと思います。

 

 ハ)、ここで初めて「価値」と「使用価値」とが対比した形で出てきます。リンネルの「価値」が上着の「使用価値」で表現される、これがこれまでの一連の考察の結論なわけです。またここでは「一商品の価値が他の商品の使用価値で表現される」というように、リンネルと上着との関連が、一般化した形で述べられています。これがこのパラグラフが一つの中間的総括であることを示していると言えます。

 

 ニ)、ここからはまた視点をリンネルに戻して、使用価値としてはリンネルは上着と感性的に違ったものであるが、自身の価値としては、リンネルは上着と等しいもの、上着そのものとして見えるのだということです。

 

 ホ)、だからリンネルは自分自身の現物形態(使用価値)とは別に、価値形態、つまり価値が実際に目に見える物的姿をとって現われているものを、今では受け取ったのだと述べています。これは第3節の冒頭(前文)で、《商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである》と述べていたことを思い出させます。つまりリンネルはこうして初めて《二重形態》を獲得し、《商品形態》を受け取ったわけです。

 

 ヘ)ここでまた分かりにくい例示がでてきますが、これは何を言いたいのでしょうか。  とりあえず、マルクスがここで述べていることを等式で表しますと、次のようになります。

 

 リンネル=上着  キリスト教徒=神の仔羊

 

 まず、ここに出てくる「神の仔羊」というのは、聖書にあるヨハネの言葉として「世の罪を負う神の仔羊を観よ。我に後れ来らん者は我よりも優れる者なり」というのがあるらしく、それから考えるに、「神の仔羊」は「キリスト」を指すらしいです。  だから《リンネルの価値存在が上着との同一性に現れる》というのは、リンネル=上着という同一性によって、リンネルの価値存在が上着の姿に現われるということですから、それに類似させて考えると、キリスト教徒=神の小羊(キリスト) の同一性のなかに、キリスト教徒の羊的性質、つまり従順で疑うことを知らず、ただ盲目的にリーダーに付いていくだけという性質が、キリストという姿で現されているということでしょうか。つまりキリスト教徒がキリストを信じ敬うのは、自分のなかに存在している羊のような従順で疑うことを知らないお人好しの性質を、ただキリストのなかに写して見ているだけなのだ、ということのようです。それとリンネルが上着の姿に自分の価値を写して見ているのと同じだということでしょうか。

 

◎「商品語」とは何か?

 

 次は第10パラグラフです。ここに奇妙な《商品語》という問題が登場します。果たしてそれは何を意味するのか、それが問題です。まず全文を紹介しましょう。

 

  イ)上述のように、商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのことを、リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである。 ロ)ただ、リンネルは、自分だけに通じる言葉で、商品語で、その思いを打ちあける。 ハ)労働は人間労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成するということを言うために、リンネルは、上着がリンネルに等しいものとして通用する限り、したがって価値である限り、上着はリンネルと同じ労働から成りたっていると言う。 ニ)リンネルの高尚な価値対象性は糊でごわごわしたリンネルの身体とは異なっているということを言うために、リンネルは、価値が上着に見え、したがって、リンネル自身も価値物としては上着と瓜二つであるという。 ホ)ついでに言えば、商品語も、ヘブライ語のほかに、もっと多くの、あるいはより正確な、あるいはより不正確な、方言をもっている。 ヘ)たとえば、ドイツ語の "Wertsein" 〔値する〕は、ロマンス語系の動詞、 valere,valer,valoir 〔イタリア語、スペイン語、フランス語の「値する」〕にくらべて、商品Bの商品Aとの等置が商品A自身の価値表現であることを言い表すには不適切である。ト)“パリはたしかにミサに値する! Paris vaut bien messe! ”》

 

 このパラグラフでは、これまでの一連の敍述とは一風変わった内容になっているような気がします。ここではマルクスは《商品語》という奇妙な問題を持ち出しているからです。少なくともこれまでの敍述から見ると、このパラグラフは一転した印象を受けます。確かにわれわれは第5パラグラフでも《語られる》という表現を見ました。そしてそのときには、このパラグラフを参照に挙げて、《語る》のはだからリンネルだろうと指摘しておいたのでした。しかしリンネルが語るというのはそもそもどういうことなのでしょうか。それに、このパラグラフは一体何のためにあるのでしょうか。どういう意義と役割を担ったパラグラフなのでしょうか。それが問題です。そしてそのためには、どうやらこのパラグラフでマルクスがいうところの《商品語》とは何なのかを解明する必要があるように思えます。とにかく分節ごとに詳細に考えて行くことにしましょう。

 

 イ)、まずここで《上述のように》というのは、この「a 相対的価値形態の内実」のこれまでの敍述を指していると考えて良いでしょう。つまり「これまで展開してきたことで分かるように」ということです。《商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのことを》というの場合の、《さきに》というのは、商品価値の分析を行なったのは、第1節と第2節ですから、第1節や第2節でわれわれが行なった分析ということでしょう。その分析が《われわれに語った》と、ここでも《語る》という文言が出てきますが、この場合の《語る》というのは、分析が《語る》わけですから、「分析によって明らかになったように」という文意を少し文学的に言い換えただけでしょう。だからこの場合の《語る》「言語」なるものは何かということは、この際は問題にはならないでしょう。しかし《リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである》という場合の《語る》はそうではないわけです。ここで《リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや》というのは、《上述のように》と述べているように、リンネルが上着を等置関係(価値関係)に置くやいなやということであり、だからこれまで分析を深めて考察してきたことを指していると思われます。  しかし、ここでわれわれは重要な問題に気づきます。つまり第1節や第2節では、《われわれ》《分析》してきたのであり、その分析が《われわれ》《語った》のでした。しかし《上述》の考察の過程は、確かにそれもわれわれの分析ではありますが、しかしそれだけではなくて、それらは商品自身の振る舞いでもあったということです。つまり《上述》の一連の分析では、商品が主体(主語)であり、リンネルと上着という二つの商品自身が互いに関連し合う過程だったということです。だからここでマルクスは《リンネル自身が語る》と述べているのでしょう。第1節や第2節では、観察者であるわれわれが対象を分析し考察し認識する過程であったのですが、第3節では、商品自身が互いに関連し合う世界を対象にしているわけです。商品自身が主体となって関連し合う過程を、マルクスは商品自身が《語る》世界と考えているのではないかと思います。

 

 ロ)、《ただ、リンネルは、自分だけに通じる言葉で、商品語で、その思いを打ちあける》。この一文も奇妙ですが、商品が主体であることを考えれば、ある程度は分かるような気がします。ただ商品(この場合はリンネル)が主体と言っても、リンネルは自分だけに通じる言葉で、つまり《商品語で》《その思いを打ちあける》と述べています。ということはリンネルの《思い》はただ一方通行であって、相手にはまったく通じていないことになります。ではリンネルが《思い》を打ち明けている相手は、この場合は誰なのでしょうか。やはりそれはこの場合は上着でしょう。商品同士が互いに関連し合う世界(商品世界)の話なのですから、リンネルが思いを打ち明ける相手もやはり商品以外にはないはずだからです。だからこの場合は「われわれ(つまり第三者の観察者)に語っている」わけではないわけです。リンネルが語る《商品語》は、リンネルにしか通じなくて、上着にはまったく通じていない、にも関わらずリンネルは健気にもその思いを上着に打ち明けているとマルクスは述べているように思えます。つまりリンネルの上着に対するこの場合の働きかけはまったくの一方通行的なもので、上着の与り知らないものだ、ということのようです。そしてリンネルは、彼の《思い》が上着に通じているかどうかということはお構いなしに、ただ一方的にそれを打ち明けているわけです。その打ち明ける内容が、次に書かれています。それはどうやら二つあることが分かります。

 

 ハ)、これは一つ目の《思い》であり、《語り》です。まず《労働は人間労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成するということ》というのは、われわれが第1・2節の商品価値の分析で明らかになったことです。それをリンネル自身が《商品語》で語るわけですから、これがリンネルが考えていること、つまりリンネルの《思い》であり、その次に書かれていることが、リンネルが実際に《商品語》《語っている》内容なのでしょう。すなわち《上着がリンネルに等しいものとして通用する限り、したがって価値である限り、上着はリンネルと同じ労働から成りたっている》ということです。確かに前者はわれわれ、つまり第三者の観察者がその分析から分かった内容であり、後者の場合は、確かにリンネルがリンネル自身の目線で問題を見て《語っている》内容になっているように思えます。ただ後者をマルクスは《商品語》だというのですが、では《商品語》とはそもそも何なのかということが問題になります。  それはある商品と別のある商品が互いに関連し合うときに、特定の商品の立場から両商品の反省関係を一方の商品自身の《語り》として述べているものと考えることができるように思えます。つまりこの場合、リンネルは上着を自身に対する等置関係に置き、自分から二商品の反省関係を展開しているわけです。それが《商品語》です。上着が自分と等しいものと置かれ、通用する限りは、二つは同質であり、だから上着は価値でなければならない、そうであるなら、上着という姿そのものは、リンネルと同じ労働からから成り立っている。つまり人間労働一般から成り立っている。これがリンネルが上着に対して一方的に述べていることだ、とマルクスはいうわけです。  このような反省関係というのは、例えば初版本文の次のような一文を読めばよく分かります。

 

 《リンネルは、他の商品を自分に価値として等置することによって、自分を価値としての自分自身に関係させる。リンネルは、自分を価値としての自分自身に関係させることによって、同時に自分を使用価値としての自分自身から区別する。》(国民文庫版45頁、訳文を若干変えています)。

 

 マルクスのいう《商品語》は、こうした商品自身が交わす反省関係を、一商品の《語り》として述べているものと考えることができます。

 

 ニ)、次は二つ目の《思い》であり、《語り》です。《リンネルの高尚な価値対象性は糊でごわごわしたリンネルの身体とは異なっている》というのは、われわれが価値の分析によって明らかになったことです。つまりリンネルの価値は純粋に社会的なものであり、よってリンネルの価値には一分子もの自然物質は含まれていない、リンネルの使用価値をどんなにすり切れるほど捜してもリンネルの価値を見出すことはできない、等々、ということです。それが《価値が上着に見え、したがって、リンネル自身も価値物としては上着と瓜二つである》というのだと述べられています。リンネルは自分の価値は上着に見えると言います。ということはリンネルの《糊でごわごわした》使用価値より上着の使用価値(ウールで出来ている?)の方が《高尚》なものとどうやら考えているようです。とにかくリンネルは自分の《高尚な価値対象性》は上着の姿をとっている。だからリンネル自身も価値が目に見える物としてある限りは上着と瓜二つであり、上着そのものだ、と主張するわけです。

 

 さて、ここで、この二つの《思い》《商品語》《語られる》内容を表にまとめてみましょう。

 

 

 われわれが第1節や第2節で商品の価値を分析して明らかになったことを、リンネルが上着との価値関係のなかで、リンネル自身が語るというのですが、われわれは第1節では、確かに価値の現象形態である交換価値から出発して価値を抽出しました。つまりわれわれは交換価値という価値の現象形態からその本質に辿る過程を歩んだのでした。しかしそうした歩みをリンネルは上着との反省関係のなかでリンネル自身の反省の言葉として語っているわけです。  この《商品語》で語られている二つの内容は、第4パラグラフで述べられていた。「商品の価値性格」の二つの内容、すなわち一つは抽象的人間労働という「価値を形成する労働の独自な性格」と、もう一つは「人間労働の凝固体」としての価値の「対象的性格」に対応していることが分ります。つまりリンネルが商品語で語ると述べられている内容は、リンネルが自身の価値性格を語っていることでもあるわけです。そしてそれはわれわれが第5パラグラフと第6パラグラフで見てきた内容なのです。だからマルクスはこのパラグラフの冒頭で《上述のように》と始めているわけです。そしてここではそれらをリンネル自身が語る《商品語》として説明しているのですが、こうした説明には果たしてどんな意義があるのでしょうか。それが問題です。

 

  われわれが第1節で諸商品の交換関係から商品の価値を分析し抽象したのは、われわれの思惟による理論的営為であり、われわれの意志的な行為でした。そしてその分析の結果は、われわれの分析そのものからわれわれに語られた(明らかになった)のでした。

 

  しかしそうしたいっさいのことは、実際には、われわれが意識的に分析して認識する以前に、商品自身が他の商品との交わりのなかで客観的に商品自身が語っている内容なのだ、というのがマルクスが言いたいことなのです。つまりそうした反省規定は、何かわれわれが外的に商品の交換関係を分析して、われわれの頭脳を使ってやっていることだけではなくて、商品自身が他の商品との関係のなかで社会的に行なっている客観的な過程なのだというのです。だからそれらは商品という物象と物象との社会的関係そのものにある客観的な過程なのであり、それはわれわれの認識から独立した過程であって、むしろわれわれの意識や行為はそうした物象的関係に規制され拘束されるという転倒した関係こそがそこにはあるのだ、というのがマルクスがこの《商品語》として語っている内容ではないだろうかと思います。つまりこのパラグラフの内容は、第4節で問題になる商品の物神的性格の内容を先取りしてその示唆を,あるいはその基礎を与えたものと言えるでしょう。

 

  このように考えて、初めて、なぜ、マルクスが《商品語》という奇妙な問題をここに、つまり次の最後の第11パラグラフで全体の総括と結論を述べる前に、持ち出しているのか、持ち出さなければならなかったのかが、良く分かるような気がします。

 

 ホ)、ここからは《ついでに言えば》というわけだから付け足しでしょう。《商品語》にかこつけてマルクスは、《商品語も、ヘブライ語のほかに、もっと多くの、あるいはより正確な、あるいはより不正確な、方言をもっている》と述べています。ここで《商品語》といえば、《ヘブライ語》が標準語だという観念があることを前提に、《より正確な、あるいはより不正確な、方言をもっている》と述べているのですが、ヘブライ語が商品語の標準語だということは、ユダヤ民族が古代から商業の民だったということだけではなく、近代においてもユダヤ人が商人や金貸しとして文学などでも描かれることを暗に示唆しているのでしょう(『ヴェニスの商人』に出てくるシャイロックはユダヤ人の金貸しです、等々)。

 

 ニ)、ここでは、ホ)で指摘していた《より不正確な方言》としてドイツ語の《Wertsein〔値する〕》が、そして《より正確な方言》として《ロマンス語系の動詞、 valere,valer,valoir 〔イタリア語、スペイン語、フランス語の「値する」〕》が紹介されています。その理由は次の分節の例から類推できますので、次の分節の検討に移ります。

 

 ト)、ここでは《“パリはたしかにミサに値する! Paris vaut bien messe! ”》という文例が書かれていますが、この文例の説明としては、新日本新書版の訳者注が詳しいので、それをまず紹介しておきましょう。

 

 〈*〔新旧両キリスト教徒の激しい抗争のなかで、1593年に新教支持のアンリ四世が、旧教徒の支配するパリに進撃するにあたり、王位につくための障害である新教を捨てて、旧教カトリックのミサに出席しようと考えたときの言葉。大臣シュリが王に改宗をすすめたときの言葉とも言われ、シュリの言では「パリ」の代わりに「王位」。ここでマルクスは、この言葉をvaloirの用例として使っており、フランス語ではvautがパリのすぐ次にくるが、これに比べてドイツ語ではwertが主語と離れて末尾に来てしまうので不適切だというわけであろう)〉(90頁)

 

 さて、この文例にはどんな意義があるのかも、学習会で少し議論になったのですが、JJ富村さんが、新書版の訳者解説を参考に、次のように説明してくれました。

 

  簡単な価値形態の等式、《20エレのリンネルは1着の上着に値する》(商品Aは商品Bに値する)と上記の《“パリはたしかにミサに値する! 》のそれぞれの原文を書き並べてみましょう。

 

 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock west.(der Ware A sind der Ware B west.)

 

 Paris vaut bien messe!

 

 ここでwestvautの位置に注目して下さい。ドイツ語の場合は、westはリンネル(商品A)(Leinwand)(der Ware A)と離れているのに対して、vautの場合はParisのすぐに近くに来ています。だからマルクスはドイツ語は《商品Bの商品Aとの等置が商品A自身の価値表現であることを言い表すには不適切である》と述べているように思えます。

 

◎全体の総括・結論

 

 次はいよいよ最後のパラグラフです。

 

  イ)したがって、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態が商品Aの価値形態となる。 ロ)言いかえれば、商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる(18)。 ハ)商品Aが価値体としての、人間労働の物質化としての、商品Bに関係することによって、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料にする。 ニ)商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値という形態をもつ。》

 

 このパラグラフは、その位置から考えても、これまでの「a 相対的価値形態の内実」全体のまとめであり、総括・結論でしょう。

 

 イ)、この《したがって》は、「a 相対的価値形態の内実」全体の考察を踏まえた《したがって》でしょう。そしてここでは《価値関係の媒介によって》と価値関係が重要な位置を占めています。価値関係が問題だったのだ、ということです。だからこの《価値関係》というのは、その前の第10パラグラフを踏まえると、商品自身が商品世界のなかで主体的に取り結ぶ関係として捉えられているということになります。それは何か観察者である第三者のわれわれが二商品の等置関係から同等性を見出し、それが価値の分析を踏まえて、それはだから価値関係であるというのではなく、価値関係というのは、商品自身が主体となって互いに関連し合う商品世界において生じている客観的過程であり、商品自身が取り結んでいる関係なのだ、という意味で《価値関係の媒介》が商品Bの現物形態を商品Aの価値形態にしていると述べているわけです。またここではすでにリンネルや上着など特定の商品ではなく、商品A、Bとして一般化されて論じられています。

 

 ロ)、これは《言いかえれば》ということですから、イ)と同じ内容を商品Bの面から見たものでしょう。とすれば、イ)の内容は第4・5・6パラグラフで展開したリンネルの価値が如何にして表現されるかの過程の説明に対応し、そうした過程が他面では上着に新たな形態規定を与える過程でもあるということを説明した第7・8パラグラフが、このロ)に対応していると考えることもできます。つまり第7・8パラグラフで述べた上着がリンネルのとの価値関係に置かれることによって受け取る新たな形態規定は、すなわち上着がリンネルの《価値鏡》になるということだということです。あるいは第7・8で述べた上着に付着する新たな形態規定というのは《価値鏡》という属性だということでしょうか。

 

 ニ)、これがこの全体の結語です。すなわち相対的価値形態の内実が展開されて、相対的価値形態とは何かが明らかにされたわけです。ここで《このように》と述べていますが、この《このように》は、直前のイ)とロ)の内容を指しているように思えます。つまり商品Bの現物形態が商品Aの価値形態になるという第4~6パラグラフの内容と、商品Bが商品Aの価値鏡になるという第7・8パラグラフの内容によって、商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表されて、相対的価値という形態を持っているのだと、というわけです。

 

◎最後の注も検討

 

 最後に注18がついています。これも全文紹介して少し検討しておきましょう(しかし分節ごとの検討は必要ないと考えます)。

 

  《(18) このことは、商品と同じようにいくらか人間にもあてはまる。人間は、鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる。人間ペテロは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関係を通じてはじめて人間としての自分自身に関係する。だが、それと共に、ペテロにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態として通用するのである。》

 

 これは商品の反省関係を例示するものと考えることが出来ます。人間は他の人間と交わる(交際する)ことによって始めて自分自身が人間であることを自覚するというのです。つまりある個人が自身の人間としての本質を自覚をするのは、他の個人との社会的関係を取り結ぶことによって可能であるということです。そしてその場合には人間としての本質は他の人間に直接現われているとも述べています(それが価値鏡というわけです)。ペテロとパウロの間にある本質(人間種族)は両者に内在するものですが、それ自体としてはその一方でもなく、他方でもない(直接には現われていない)、抽象的な第三者です。しかしこのような内的本質は、両者の関連によって顕現し、確証されます。人間は他者と関係することによって自らの本質を他者に写し出し、自分自身と関係し自覚する。自身と他者との区別とともに、両者の同一性を自覚して、始めて、一人の人間として自己内反省し、その自立性を獲得するわけです。

…………………………………………………………………………

 

 以下は、この「a 相対的価値形態の内実」のなかで検討し残した問題を補足的に論じることにします。

 

●「事実上の還元」の解釈への補足

 

 われわれが商品語の考察で気付いたのは、マルクスは商品の価値が表現される過程を、商品が主体的に行なっている過程として捉えているということでした。そうした視点から、もう一度、第4パラグラフを読み直すと興味深い点に気付きます。まず第4パラグラフを引用してみましょう。

 

  《われわれが、価値としては諸商品は人間労働の単なる凝固体であると言えば、われわれの分析は諸商品を価値抽象に還元するけれども、商品にその現物形態とは異なる価値形態を与えはしない。一商品の他の商品に対する価値関係の中ではそうではない。ここでは、その商品の価値性格が、その商品の他の商品に対する関係によって、現れでるのである。》

 

 ここでは、マルクスは《われわれ》、つまり第三者(観察者)の視点と、商品自身の他の商品との関連とを使い分けていることに気づきます。つまり《価値としては諸商品は人間労働の単なる凝固体である》というのは、われわれが第1節で分析した内容です。しかしそこでは価値形態はただ前提されていただけで、商品の価値からそれを説明できたのではありません。しかし《一商品の他の商品に対する価値関係の中ではそうではない》、つまりここで問題なのは、マルクスは、商品自身が互いに結び合う関係として、「価値関係」を捉えているということです。そしてそうした視点は、第5パラグラフ以下の考察に一貫していることが分かるのです。

 

 マルクスがこうした商品相互の関連に視点を移したのは、では第4パラグラフからか、というとそうではありません。それはまず第3節の前文の次のような文言のなかに示唆されています。

 

  《商品の価値対象性は、寡婦のクイックリー〔シェイクスピアの『ヘンリー四世』などの中の人物〕と違って、どうつかまえたらいいかだれにもわからない。商品体の感性的にがさがさした対象性とは正反対に、諸商品の価値対象性には、一原子の自然素材も入りこまない。だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくりまわしても、それは、価値物としては、依然としてつかまえようがないものである。けれども、諸商品が価値対象性をもつのは、ただ、価値対象性が人間労働という同じ社会的単位の表現である限りにほかならないこと、したがって、商品の価値対象性は純粋に社会的なものであること、を思い出せば、それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現れうるということも、おのずから明らかである。実際、われわれは、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている諸商品の価値の足跡を探りあてた。今や、われわれは、価値のこの現象形態に立ちかえらなければならない。》(全集版64頁)

 

 ここでは商品の価値対象性の捕まえどこのろなさを指摘していますが、これはいうまでもなく、われわれ、つまり第三者としての観察者の立場からの視点です。そうした観察者として第1節における分析を振り返り、《けれども、諸商品が価値対象性をもつのは、ただ、価値対象性が人間労働という同じ社会的単位の表現である限りにほかならないこと、したがって、商品の価値対象性は純粋に社会的なものであること、を思い出せば、それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現れうるということも、おのずから明らかである》と述べています。ここで《商品と商品との社会的関係においてのみ現れうる》というのは、商品自身が主体となって互いに関連する関係、つまり価値関係において、それは《現われうる》というわけです。

 

  また第3パラグラフの途中からも、視点の転換が見られます。第3パラグラフの最初のあたりを引用してみましょう。

 

  《しかし、質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか? リンネルが、その「等価」としての上着、またはリンネルと「交換されうるもの」としての上着に対して関係させられることによって、である。》

 

  最初の部分は、それまでの考察と同じように、「われわれ」が二商品の等置関係を考察しているのですが、《では、どのようにしてか?》以下は、そうではないことに気づきます。ここでは《リンネルが》とリンネルが主語(主体)になっています。リンネルが上着を「等価」なものとして、あるいは「交換されうるもの」として、自分に関係させるわけです。全集版では、まだ第三者がリンネルを上着とそうした関係に《関連させる》ように読めなくもないですが、しかし新書版の『資本論』では、この部分は次のように訳されています。

 

  《しかし、質的に等価された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか? リンネルが、その「等価物」としての、またはそれと「交換されうるもの」としての上着

にたいしてもつ関連によって、である。》(新日本出版社版85頁)

 

 この新書版の訳だと、リンネルが主体(主語)となって上着を自分に等置する関連において、リンネルが自身の価値存在を現出させるのだということがよく分かります。つまりわれわれ第三者(観察者)の思惟による分析ではなく、商品自身が取り結ぶ関連が問題になっているわけです。だから商品を主体に据えての価値関係の考察は、ここから始まるわけです。

 

 そしてわれわれは、そうした観点から、もう一度、第5パラグラフを見てみると、そこでは、マルクスが第4パラグラフで示唆していた第1節で述べていたのと異なる「還元」について述べていると、以前は指摘しましたが、しかしその際、「実際に還元する」という文言について十分な考察をしていなかったことに気付かされるのです。  この場合の「実際に還元する」というのは、まさに商品が主体の世界において商品自身によって「実際に行なわれている還元」だとマルクスが述べているように思えます。第1節では観察者である「われわれ」がその思惟によって対象を分析し、具体的諸労働の有用的属性を捨象して抽象的人間労働に還元したのでした、しかしこの第5パラグラフでは、商品自らがその相互の関連において、その交換において、あるいはその交換の前提となる自身の価値表現において、商品自身が実際に彼らに対象化されている具体的諸労働を抽象的一般的な人間労働に還元しているのだ、という意味なのです。つまりここで「実際に還元する」とマルクスが述べているのは、商品自身がその行為(交換とその前提としての価値を表現する営為)において行なっている「還元」なのだ、という含意があるのだと思います

 

●「a 相対的価値形態の内実」全体の構成を概観する

 

 われわれは「a 相対的価値形態の内実」を終えるにあたり、これまでの考察を踏まえて、この部分全体の論理的構成と展開を、各パラグラフごとに分けて確認しておきたいと思います。それは次のようなものと考えられます。

 

 (1)~(2)パラグラフ--相対的価値形態の分析の前提の確認

 

 (3)パラグラフ--相対的価値形態とは何か、リンネルの価値は如何にして表現されているかを見ている。リンネルの上着との直接的反省関係によるリンネル価値の実存形態の現出、上着が価値物として通用する。

 

 (4)~(8)パラグラフ--直接的な反省関係から現出した現存在としての価値物を、その根拠に遡って、現象形態(「価値体」)として把握する過程。

   まず(4)は(5)(6)の導入部分であり、第三者としての観察者による分析によってではなく、商品を主体とする価値関係においてこそ、リンネルの価値性格(抽象的人間労働とその凝固体という二契機)が現れ出ることが確認されている。

   (5)はだから、そのリンネルの価値性格の一つの契機である、価値を形成する労働の独自の性格、すなわち抽象的人間労働が如何にして裁縫労働によって現出しているかが解明されている。

   そして(6)はもう一つの価値性格の契機としての抽象的人間労働の対象化された形態が、上着形態として現出していることが確認されている。

   (7)(8)は、(5)(6)がリンネルの価値の実体である抽象的人間労働の凝固体が如何にして現出して来るかの解明であったのに対して、その過程の裏面として上着とそれを形成した裁縫労働が、リンネルとの価値関係に置かれることによって新たな形態規定性を受け取ることが説明されている。かくして上着体はリンネルの価値の現象形態として説明され、「価値体」規定が与えられる。

 

 (9)パラグラフ--上述の過程(3~8)の中間総括。ここで初めてリンネルの価値が上着の使用価値によって表現されていることが確認されている。上着の使用価値がリンネルの価値の現象形態となっていることの確認である。

 

 (10)パラグラフ--上述の過程は、われわれが第1節、第2節で商品の価値を分析して明らかになったことは、実は商品自身が現実の商品の交換において(現実の商品市場において)実際に商品自身によって行なわれていることなのだということを確認している。第1節や第2節では、われわれが観察者として、その思惟によって、諸商品の価値を分析したが、第3節では商品が主体となり、商品自身の関連が考察の対象なのである。つまり物象こそが主体であり、そうした物象に、むしろ人間は規制され従属するという、転倒した関係がここで示唆されている。 

   つまりここでマルクスが「商品語」という奇妙なものを持ち出しているのは、上記のわれわれの考察は、確かにわれわれの観察によって初めてなされたことだが、しかしそれは現実の商品交換のなかで商品自身が日々行なっていることなのだ、ということである。これは後に、第4節で商品の物神的性格が考察されるが、その前提として物象化がここ考察されていると言える。

 

 (11)パラグラフ--全体の総括であり、結論である。これまでの考察の結果を、より一般化された形で再確認されている。

 

 このようにこの「a 相対的価値形態の内実」は極めて厳密に論理的に展開されていることがわかります。

 

●「価値物」について再論(補論)

 

 次は最後に残された宿題とも言うべきものです。第16回の報告で「価値物」の議論を紹介したさいに、次のように述べました。

 

 〈確かに大谷氏が紹介している『資本論』からのいくつかの引用文では、ピースさんの意見を肯定するような用例が見られるように思えます。しかしよくよく吟味してみると、やはりそうではなく、マルクス自身は「価値物」という言葉で、価値が形ある物として存在すること、つまり目に見える形で顕れているものと捉えていることが分かるのです。しかしそれを大谷氏が紹介する引用文一つ一つについて、検証すると横道にそれすぎるので、割愛します(またその機会があればやることにしましょう)。〉

 

 つまりこれは宿題として残されているのです。そこでこの問題を最後に考えてみたいと思います。

 

 大谷氏は、『資本論』からの引用文を紹介する前にまず久留間鮫造氏の『価値形態論と交換過程論』からの一文を長く引用したあと、次のように問題を提起しています(傍点は下線に変換)。

 

 〈いまの引用では、等価形態に置かれる上着は、この形態に置かれたときにはじめて「価値物」になる、「価値物」としての形態規定性を与えられることになっています。ここでの「価値物」の意味は、次のところにはっきりと示されています、--「ではどのようにして上衣は--その自然形態そのものが--そのまま価値をあらわすものに、すなわち価値物になるのか……」。また、繰り返して、「抽象的人間的労働の体化物すなわち価値物」と言われています。「価値物」がこのようなものであるとすると、それはもちろん等価形態に立つ商品についてのみ言いうることで、相対的価値形態にある商品、たとえばリンネルはつねに「価値物」ではないということになります。じっさい先生は、上着のほうについてのみ「価値物」と言っておられます。ところが、マルクスの場合には、「価値物(Wertding)」という言葉が先生が使われているのとは違った意味で使われているように思われてならない。『資本論』の第1章からその用例を示すと、次のようなものがあります。〉(『貨幣論』96頁)

 

 そして大谷氏は『資本論』から五つの引用文を紹介しているわけです。しかしそのうちの2~3の引用文は、すでにわれわれがこの「a 相対的価値形態の内実」を詳細に検討するなかで明らかにしてきたものです(第3、第5、第10の各パラグラフに出てくる「価値物」が引用されている)。だからわれわれは大谷氏が最初と最後に引用紹介しているものだけをここでは検討すれば良いと思います。それらが、大谷氏によると、「価値物」は上着だけでなく、リンネルについても言いうる用例であり、〈「価値物」とは価値対象性をもつもの〉という概念を示すものだというわけです。果たしてそうなのか、マルクスはそうした意味で「価値物」という用語を使っているのか、それをこれからその二つの引用文について検討してみようというわけです。それは次のようなものです。

 

 まず大谷氏が最初に引用しているのは、前にも紹介しましたが、次のような第3節の前文に出てくる文章です。

 

 《商品の価値対象性は、寡婦のクイックリー〔シェイクスピアの『ヘンリー四世』などの中の人物〕と違って、どうつかまえたらいいかだれにもわからない。商品体の感性的にがさがさした対象性とは正反対に、諸商品の価値対象性には、一原子の自然素材も入りこまない。だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくりまわしても、それは、価値物としては、依然としてつかまえようがないものである。》(全集版64頁)

 

 ここに出てくる「価値物」が、果たして大谷氏がいうような意味で使われているのかどうか、です。

 

 ここでは商品の価値対象性はとらえどころがないことが言われています。というのは商品の直接的な自然な対象性はその使用価値であり、それはわれわれには感覚的にも捉えることかできます。ところが商品の価値対象性は純粋に社会的なものであり、よって自然素材をまったく含まない、使用価値とは正反対のものだからです。つまりこの場合、商品が価値対象性をもつものであることは、前提されているのです。その上で、マルクスはその価値対象性は、しかし直接には、感覚的には、捉えどころのないものだ、と述べていることが分かります。だからもし大谷氏のように「価値物」=「価値対象性を持つもの」とするなら、この文章はおかしなことになります。なぜなら、そうなると、上記の一文は次のようになるからです。

 

 〈だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくりまわしても、それは、「価値対象性を持つもの」としては、依然としてつかまえようがないものである。〉

 

 しかし商品が価値対象性を持つものであることが前提されているからこそ、商品の価値対象性は捉えどころがないものだということが論じられ得るのであって、それさえも分からないのなら、そもそもそれが捉えどころがあるのかないのかも問題にはならないのではないでしょうか。価値対象性を持つものであるかどうかも、依然としてつかまえようがないというのでは論理的に不合理としかいいようがないわけです。

 

  それに対して、われわれが主張する「価値物」とは「価値の存在形態」であり、「価値が目に見えるような形ある物」として現われているものだと理解するなら、上記の一文はスッキリと理解できます。

 

 〈だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくりまわしても、それは、「価値が目に見える形ある物」としては、依然としてつかまえようがないものである〉

 

 またこの場合は、確かに一つの商品だけが問題になっていますが、しかし一つの商品だけを見ているかぎりは依然としてそれを「価値物」としては捉えられないというのですから、それはむしろ「価値物」という規定は、二商品の価値関係においてはじめて与えられる規定、つまり形態規定であることを論証しているとも言えるわけです。だからこの引用文を根拠に「価値物」がリンネルにも妥当するなどという大谷氏の主張は正当化はできないのです。

 

 次に大谷氏が最後に引用しているのは、「第4節 商品の物神的性格とその秘密」のなかにある次の一文です。

 

 《労働生産物は、それらの交換の内部で、はじめてそれらのたがいに感性的に異なる使用対象性から分離された、社会的に同等な、価値対象性を受け取る。有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂がはじめて実際に発現するのは、有用物が交換を目あてに生産されるまでに、したがって、諸物の価値性格がすでにそれらの生産そのものにおいて考慮されるまでに、交換が十分な広がりと重要性とを獲得した時である。》(全集版99頁)

 

 この一文は、一見すると、如何にも大谷氏らの「価値物」理解を正当化するように思えます。マルクスは《感性的に異なる使用対象性》《社会的に同等な、価値対象性》を上げ、それを言い換える形で《有用物と価値物》を挙げているのですから、この場合の《価値物》《価値対象性を受け取る》こと、つまり「価値対象性も持つもの」という大谷氏の主張を根拠づけているように見えるわけです。

 

  しかしこの文章を良く吟味してみるとそうではありません。例えば、マルクスは《それらの交換の内部で》と書いているように、ここで問題になっているのは諸物なのです。《それらが互いに感性的に異なる使用価値から分離》されて、《社会的に同等な、価値対象性を受け取る》と述べています。ここで《受け取る》のは《それら》《諸物》であり、《それら》《諸物》《それらの互いに感性的に異なる使用価値から分離》されて、つまりそれらの諸使用価値と区別された存在として、《社会的に同等な、価値対象性を受け取る》と述べているのですから、この《社会的に同等な、価値対象性》というのは、ある特定の労働生産物がそうした一般的な等価物として分離されてくる事態をマルクスは述べていると考えるべきなのです。この文章は、すでに貨幣形態まで説明が終わったあとに展開されている、第4節の文章であることも考える必要があります。

 

  また上記の引用文は、次の文章とまったく同じ内容を述べていると考えることが出来ます。

 

 《交換の不断の反復は、交換を一つの規則的な社会的過程にする。したがって、時の経過と共に、労働生産物の少なくとも一部分は、意図的に交換めあてに生産されざるをえなくなる。この瞬間から、一面では、直接的必要のための諸物の有用性と交換のための諸物の有用性とのあいだの分離が確定する。諸物の使用価値は、諸物の交換価値から分離する。》(全集版23a118頁)

 

 これは「第2章 交換過程」の中の一文ですが、ここで注意が必要なのは、《諸物の使用価値》が分離するのは、《諸物の交換価値》からだということです。これは先の第4節の引用文のなかにある《有用物と価値物》に該当すると考えてよいでしょう。つまりこの二つの引用文から類推するに、マルクスが先の第4節の引用文で述べている《価値物》《交換価値》を意味していると考えられるのです。いうまでもなく、《交換価値》というのは、価値が目に見える形で現象している形態にあるものです。すなわち、上記の引用文が述べているのは、諸物の使用価値が、価値の現象形態としての《交換価値》から分離するということです。だから使用価値が分離するのは、ただ単に「価値対象性を持つもの」というような価値を内在的に持っている物からではなく、価値が現象して目に見えている物からなのです。またそれを言い換えて《直接的必要のための諸物の有用性と交換のための諸物の有用性とのあいだの分離が確定する》とも述べています。《交換のための諸物の有用性》というのは、諸物の使用価値がただ交換のためにだけに使われるということです。つまり等価物に置かれた商品の使用価値が価値を表すためにだけに使われるということなのです。だからこれもやはり価値が目に見える形で現われた物を意味しているのです。

 

  だからもう一度、最初の引用文に返ると、マルクスが《有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂》と述べている《価値物》というのは、単に「価値対象性を持つもの」といった意味ではなく、「価値が目に見える物という形で」現われているもの、つまり「一般的な等価物」、あるいは「貨幣」を意味しているのです。そのように理解すべきものなのです。かくして大谷氏らの主張にはまったく根拠がないことがこの引用文でも論証されるのです。

 

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【付属資料】

 

第9パラグラフに関連するもの

 

《補足と改訂》

 

 《それゆえ,価値関係--他の商品との交わり--のなかでリンネルの価値は使用対象性とは異なった表現を獲得する。しかし,どのようにしてか。リンネルが上着に等しいものとして表現されることによってである,それはちょうど,キリスト教徒の羊的性格が神の仔羊との同等性において現れるのと同じである。  しかし,上着,上着商品の身体は一つの単なる使用価値である。それゆえ,リンネルリ価値はそれとは反対のもの,他の何らかの種類の使用価値,それが何であれとにかく使用価値で,表現される。……  リンネルの上着にたいする価値関係おいて上着は普通の商品体であると同時に,幽霊体〈Gespensterleib〉であり、抽象的人間労働の蛹化であゐ。したがって,この関連の内部では,上着は,そのウールのもつふくよかさも,最新流行のスタイルも通用しないし,聖なる香りを嗅ぐこともないし,その他使用価埴としての上着を飾る有用な肉体的精神的特徴も,通用しない。まさしく,上着の位置にリンネルとは違う商品体であればどの商品体であっても,鉄であろうと,小麦であろうと,臭い焼肉〈Assa Foetida〉であろうと,人糞肥料等々であろうと,何の問題もなくとって替わることができるのである。  それゆえ,自分の価直と等しいものとしての,等価物としての上着との関係を通してリンネルは,自分の自然形態とは切り離された価値形態を獲得する。一面でこの関係は,リンネルの価値を形成している労働の抽象的人間的性格を表現するが,他方,この価埴実体が対象的形態をもつ。上着と等しいものとして、リンネル価値は,リンネル体とは感覚的に全く対照的である。》(65頁、67頁)

 

《フランス語版》

 

 《したがって、上衣をリンネルの等価物とする関係は、上衣形態をリンネルの価値形態に変態するか、あるいは、リンネルの価値を上衣の使用価値のなかで表現する。使用価値としては、リンネルは上衣と感覚的に異なる物体であるが、価値としては、上衣がリンネルと等価物であることから明瞭に証明されるように、上衣に等しい物であり、上衣に見えるのである。キリスト教徒の羊のような性質が、このキリスト教徒が神の仔羊と類似していることのうちに現われるように、リンネルの価値属性は、リンネルが上衣と同等であることのうちに現われる。》(22頁)

 

●第10パラグラフに関連するもの

 

《初版本文》--特定できるものはないが、この価値関係がリンネルの一方的なものであることを論じている部分を引用しておく。

 

 《価値形態の両方の規定、または交換価値としての商品価値の両方の表現様式は、単に相対的であるとはいえ、両方が同じ程度に相対的に見えるのではない。リンネルの相対的価値 20エレのリンネル=1着の上着 においては、リンネルの交換価値が明白に他の一商品にたいするリンネルの関係として示されている。上着のほうは、たしかにただ、リンネルがそれ自身の価値の現象形態としての、したがってまたリンネルと直接に交換されうるものとしての、上着に関係するかぎりにおいてのみ、等価物である。ただこの関係のなかにおいてのみ上着は等価物なのである。しかし、上着は受動的にふるまっている。それはけっしてイニシアチブを取ってはいない。上着が関係のなかにあるのは、それが関係させられるからである。それだから、リンネルとの関係から上着に生ずる性格は、上着のほうからの関係の結果として現われるのではなくて、上着の作為なしに存在するのである。それだけではない。リンネルが上着に関係する特定の仕方、たとえ上着がまったく控え目であって、けっして「うぬぼれて気の狂った仕立屋」の製品ではなくても、まったく、上着を「魅惑する」ように仕立てられている。すなわち、リンネルは、抽象的人間的労働の感覚的に存在する物質化としての、したがってまた現に存在する価値体としての、上着に関係するのである。上着がこういうものであるのは、ただリンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであり、またそのかぎりにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリンネルの反射規定なのである。ところが、それがまったく逆に見えるのである。一方では、上着は自分自身では、関係する労をとってはいない。他方では、リンネルが上着に関係するのは、上着をなにかあるものにするためではなくて、上着はリンネルがなくてもなにかあるものであるからなのである。それだから、上着にたいするリンネルの関係の完成した所産、上着の等価形態、すなわち直接に交換されうる使用価値としての上着の被規定性は、たとえば保温するという上着の属性などどまったく同じように、リンネルにたいする関係の外にあっても上着には物的に属しているように見えるのである。相対的な価値の第一の形態または単純な形態 20エレのリンネル=1着の上着 にあっては、このまちがった外観はまだ固定されてはいない。なぜならば、この形態は直接に反対のことをも言い表わしているからである。すなわち、上着がリンネルの等価物であるということ、および、これらの両商品のそれぞれがこのような被規定性をもつのは、ただ、他方の商品がその商品を自分の相対的な価値表現とするからであり、また、そうするかぎりにおいてのことである、ということがそれである。》(国民文庫版55-6頁)

 

《補足と改訂》

 

 《[B]

  [7]2)相対的価値形態

  a)相対的価値形態の内実

    ………………………………(略)

  商品の分析はわれわれに次のような結論をあきらかにした。すなわち,価値としては全ての商品は,その肉体のさまざまな多様性にもかかわらず,同じ単位のたんなる表現であり,すなわち質的に等しい,ということである。しかしながら,商品自身はあいかわらず,その価値性格のほんの少しの徴候をも目分からは示すことなく,生まれたままの自然形態にとどまっている。

  [B1]

  他方,ある一つの商品,たとえばリンネルが,他の商品,たとえば上着と価値関係に入るや否や。つまり,この関係はそれ自身の他の商品との関係である。〈さきに分析がわれわれに語ったことを,いまやリンネル自身が語るのである。ただ,リンネルは,自分だけに通じる言葉で,商品語で,その思いを表現する。もちろん,商品語もまたさまざまな方言をもっている。たとえば,ロマンス語の動詞valer,valoirはドイッ語のWerthseinと比べて,商品Aの価値が表現されている異なった種類の商品Bとの価値同等性関係が,商品A自身の関連であることを,より適切に表現している。)使用価値あるいは使用対象としてはリンネルは,そのごわごわした肉体によってすでに感覚的に使用対象・上著とは区別されている。しかし,商品としてはリンネルは単に使用対象,商品体であるだけではなく,同時に何か全く違った物,見えない物,つまり価値である。リンネルは異なった種類の商品・上着と関係することによって,自分と等しい物としての上着と関連することによって,上着がいきなりリンネルと質的に等置される関係のなかで,自らの価値存在を表すのである。リンネルは上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。

  [B2]

  他方,ある一つの商品,たとえばリンネルが,他の商品,たとえば上着と価値関係にはいるや否や。この関係は,その商品自身の他の商品に対する関係である。使用価値としては,リンネルはそのごわごわした肉体によって感覚的に使用価値上着とは区別される。しかし,それは商品である,それゆえ物質的に普通の使用物であるばかりではなく,より高度な,見ることの出来ない本質--価値,でもあるのである。リンネルはある一つの異なった種類の,したがって明かに自分とは違った商品上着と,自分と等しい物として関係することによって,上着がいきなりリンネルと質的に等置される関係のなかで,リンネルはこの自らの価値存在を表すのである。リンネルはその無愛想な見かけにもかかわらず,上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。さきに,リンネル価値の分析がわれわれに語ったことを,リンネル商品が上着との関係を通して,いまや自ら語るのでのである。ただ,リンネルは,自分だけに通じる言葉で,商品語で,その思いを打ち明ける。もちろん,商品語も,ヘブライ語以外にもさまざまな,あるいはより的確なあるいはそれほど的確でない方言を持っている。そこで,たとえば,ドイツ語のWerthseinはロマンス語の動詞valere,valer,valoirと比べて,商品Bとの同等性関係を,商品Aの固有の価値関係として表現するには,あまり明示的ではない。〈Pari sa vaut bien une messe.〉》(「補足と改訂」63-65頁)

 

《第二版》

 

 《要するに、商品価値の分析が以前われわれに語ってくれたいっさいのことを、リンネルが上着という他の商品と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語ってくれる。リンネルは、自分だけが熟知している言葉である商品語で、自分の思想を漏らしているにすぎない。人間労働という抽象的な属性においての労働が、リンネル自身の価値を形成している、と言うために、リンネルはこう言う、--上着がリンネルと同等であり、したがって価値であるかぎり、上着は、リンネルが成り立っているのと同じ労働から成り立っている、と。自分の崇高な価値対象性は自分のごわごわした体躯とはちがっている、と言うために、リンネルはこう言う、--価値が上着のように見え、したがって、自分自身は価値物としては上着とうり二つである、と。 ついでに言っておくと、商品語にも、ヘブライ語のほかに、正確な--正確さの点では程度の差があるが--方言がなお数多くある。たとえば、ドイツ語の“Werthsein”〔「値する」〕は、商品Bを商品Aに等置することが商品Aの固有の価値表現になるということを表現する手立てとしては、ロマン語の動詞であるvalere,Valer,valoir,よりも適切ではない。パリはまさにミサに値する〈“valoir”〉!〔アンリ四世が王位につくため改宗したときに発した言葉。ただし、この言葉は、“valoir”というロマン語の動詞の用例として引用されたものにすぎない。〕》(第二版邦訳30-1頁)

 

《フランス語版》

 

 《リンネルが上衣という他の商品と交わりを結ぶやいなや、価値の分析が以前われわれに知らせてくれたいっさいのことを、リソネル自体が語ってくれる、ということがわかる。リンネルはただ、自分が日常親しんでいる言葉、商品の言葉でしか、自分の考えを洩らさない。自分の価値がその抽象的な属性においては人間労働から生じているということを表現するために、リンネルはこう言う。上衣は、私と同じだけの価値をもつかぎり、すなわち、価値であるかぎり、私自身と同じ労働から成っているのだ、と。リンネルのもつ価値としての崇高な実在が、こわばって筋のある自分の体躯とはちがうことを表現するために、リンネルはこう言う。価値は上衣の姿をとり、したがって、卵が一つ一つ互いに類似しているように私自身も価値物としては上衣に類似している、と。ついでに注意しておくと、商品語には、ヘブライ語のほかに、多かれ少なかれ正確な別の方言や訛りが数多くある。商品Bが商品Aと等価であるという確認が、商品Aの固有の価値表現になるのだ、ということを言い表わす点で、たとえば、「値する〈Wertsain〉」というドイツ語は、ロマン語の動詞Valere,valer,およびフラソス語のvaloirほどにはっきりとしていない。パリは確かにミサに値する〔アンリ四世が王位につくため、新教から旧教に改宗したとぎに発した言葉〕。》(23頁)

 

●第11パラグラフに関連するもの

 

《初版本文》--特定しがたいが、注(18a)がつけられている部分を引用しておく。

 

 《20エレのリンネル=1着の上着、または、xエレのリンネルはy着の上着に値する、という相対的な価値表現のなかでは、上着はただ価値または労働凝固体としてのみ認められているのではあるが、しかし、それだからこそ、労働凝固体は上着として認められ、上着はそのなかに人間労働が凝固しているところの形態として認められているのである(18。a)使用価値上着がリンネル価値の現象形態になるのは、ただ、リンネルが抽象的人間労働の、つまリリンネル自身のうちに.対象化されている労働と同種の労働の、直接的物質化としての上着物質に関係しているからにほかならない。上着という対象性は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的につかまえられる対象性として、したがってまた現物形態における価値として、認められているのである。リンネルは価値としては上着と同じ本質のものであるがゆえに、上着という現物形態がこのようにリンネル自身の価値の現象形態になるのである。しかし、使用価値上着に表わされている労働は、単なる人間労働ではないのであって、一定の、有用な労働、裁縫労働である。単なる人間労働、人間労働力の支出は、どのようにでも規定されることはできるが、それ自体としては無規定である。それは、ただ、人間労働力が特定の形態において支出されるときにはじめて、特定の労働として実現され、対象化されることができるのである。なぜならば、ただ特定の労働にたいしてのみ、自然素材は、すなわち労働がそれにおいて対象化される外的な物質は、相対するのだからである。》(国民文庫版48頁)

 

《補足と改訂》

 

 《したがって,価値関係の媒介によって,商品Bの自然形態が商品Aの価値形態,商品種類Aの価値鏡となる。(注18,人間について)商品Aが肉体化した価値としての,すなわち人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって,商品Aは自分と違う商品の肉体を自分自身の価値表現の材料にする。そのようにして,ある一つの商品の価値がある異なった種類の商品の使用価値において表現され,相対的価埴の形態を受け取る。》(67頁)

 

《フランス語版》

 

 《価値関係によって、商品Bの自然形態が商品Aの価値形態になる、すなわち、Bの体躯がAにとってAの価値の鏡に(17)なる。このように、商品Bの使用価値のうちに表現された商品Aの価値が、相対的形態を獲得するのである。》(23頁)

 

●注18に関連するもの

 

《初版本文》

 

 《(18a)見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するきである。しかし、それとともに、またパウロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種族の現象形態として認められるのである。》(国民文庫版49頁)

 

《フランス語版》

 

 《(17)ある関係のもとでは、人間も商品と同じである。人間はけっして鏡をもって生まれてくるのでもないし、フィヒテ--彼の自我は確認されるためになにものをも必要としない--流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間はまず、自分以外の人間のうちにのみ自分の姿を映して、自分を認めるのである。したがって、彼には、皮膚と毛をもった、自分以外のこの人間が、人間という類の現象形態であるかのように見える。》(23頁)

 


第19回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

                                    

 11月20日、菅直人副総理(経済財政担当相)は、11月の月例経済報告で日本経済は「緩やかなデフレ状況にある」と宣言しました。

 

 

 デフレーション(deflation)の明確な定義は無いようですが、IMF(国際通貨基金)は「少なくとも2年程度下落が続く状態」などと定義しているようです。要するに物価が持続的に下落する状態です。

 

 物価、つまり「商品の価格」は、何によって決まってくるのでしょうか。

 

 『資本論』の第1篇では「商品と貨幣」が論じられています。そこでは商品の「価格」は、商品の「価値」の貨幣表現だと述べています。つまり商品の価格は、貨幣によって商品の価値を相対的に計った(尺度した)ものなのです。そして商品の「価値の大きさ」は、その商品の生産のために社会的に必要な労働時間によって規定される、云々。

 

 こうした『資本論』で論じられている、商品の「価値」と「価格」の理論は今日においても当然妥当します。しかし今日の物価を規定する要因は、もっと複雑であり、さまざまなものによって媒介されています。少し、物価下落の考えられうる要因を挙げてみましょう。

 

 (1)、まず当然、商品の「価値」の低下があります。これはパソコンやテレビなど電化製品などの価格の下落などはそれらを生産する技術の革新によって、生産力が上がった分だけ、一つの商品に支出される労働量が減少して、価値が低下した結果と考えられます。

 

 (2)、貨幣価値の変動。これは金を生産する生産力の変化によって、金の価値量が変化し、よってその金によって相対的に表現された商品の価格が、例えその価値が変わらなくても変化する場合があることです。しかし金の価値そのものは、そんなに急速に変化するようなものではないですから、とりあえずは考えなくてもよいでしょう。

 

 (3)、度量標準の変化。これは現代の通貨(円)が、どれだけの金量を代表しているのかという問題です。私たちが使っている「一万円札」は日銀が発行する銀行券です。それが一般流通に入って通貨(流通手段)として流通しています。その限りでは金を代理して流通する紙幣と同じ流通法則に立脚しているのです。これは兌換銀行券か不換銀行券かの相違とは無関係です。しかし現在の日銀券のように不換券の場合(金との交換が停止されている場合)は、それがどれだけの金量を代表しているのかは、法的、制度的には決まっていません。だからそれは日常的に変化しているわけですが、その変化は、金の市場価格(円価格)に反映しており、それによって現在の一万円札が、だいたいどれぐらいの金量を代理しているかの見当はつけることができます。ただこれは一般的には、代表する金量は減る傾向にあり、通貨の「価値」は下落傾向にあるので、その限りでは物価を一般的に押し上げるように作用するのです。だからこれはデフレではなくインフレ要因として作用するのです。

 

 (4)、為替相場の変動。これは円がドルやその他の通貨に対して高くなる場合が考えられます。その場合は、輸入商品の価格が下落します。例えばドン・キホーテの690円のジーンズが用意した3万本がたちまち売り切れたなどという例は、そうしたケースに当てはまるでしょう。為替相場は、だいたいにはそれぞれの国の通貨の「価値」(それぞれの通貨が代表する金量)を反映しますが、直接には、その国の国際収支に規定されています。一般に、輸入より輸出が多かったり、外国に投資した資本からの収入が多かった場合に高くなりますが、為替投機によっても急速に変動する場合もあります。

 

 (5)、原油の高騰のように、国際的な商品投機による物価変動が国内に波及する場合もありえます。つまり今日の物価下落は、一時期の原油の高騰(それはもっぱら投機によるものと考えられています)から較べれば、比較的その価格が落ち着いている状態を反映している側面もありうるわけです。

 

 (6)、最後に、これは今回の物価下落の一番重要な要因と思いますが、マルクスは過剰生産恐慌時には、過剰な商品や資本の「価値の破壊」が強行されると指摘しています。つまり過剰な商品は強制的に投げ売りされるし、過剰な生産整備はスクラップ化されざるをえません。今回の物価下落の原因としては、サブプライム金融恐慌によって暴露された過剰生産が調整されている局面という要素が一番大きいように思います。政府は2001年3月にもデフレ宣言を行ないましたが、あの時も2000年のアメリカのITバブルが崩壊した時期に合致します。むろし今回の「価値の破壊」がドラスチックに進まないのは、これもさまざまな要因がこれまた絡んでいますが(その大きな要因としては政府のエコ補助などさまざまな救済策があるでしょう)、デフレ圧力を通貨価値の下落によるインフレ圧力がある程度相殺しているからだとも考えられます。本来ならもっと激しい物価の下落があってもおかしくはないのです。

 

 このように物価の一般的下落といってもさまざまな要因が絡まっていますが、しかしそれらを解明するためにも、やはり『資本論』の研究はその基礎として必要なのです。貴方も日常的な経済現象をより深く理論的に把握するためにも『資本論』を一緒に読んでみませんか。

 


第19回「『資本論』を読む会」の報告

第19回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎“師走”

 

 「師走」『語源由来辞典』によると、当て字で、語源は諸説あるそうで、正確なものは未詳だそうです。しかし主なものとしては、師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月という意味があるようです。それ以外には、「年が果てる」意味の「年果つ(としはつ)」が変化したとするものや、「四季の果てる月」を意味する「四極(しはつ)」からとする説、あるいは「一年の最後になし終える」意味の「為果つ(しはつ)」からとする説などがあるということです。

 

 ところで「師走」だからというわけでもないのでしょうが、第19回「『資本論』を読む会」は何とも慌ただしく、あっというまに終わってしまいました。だからあまり報告することもない状態なので、実は、報告者は困っている次第なのです。

 

 今回は「b 相対的価値形態の量的規定性」をすべて終えました。この部分は確かにあまり難しい問題はない所ではあるのですが、しかしそれにしても簡単にやり過ぎたように、報告者には思えました。

 

 だから報告担当の亀仙人は、敢えて難しい問題をぶつけてみました。すなわち、現行版の『資本論』では(初版付録もそうですが)、「相対的価値形態の内実」のあとに、「量的規定性」が考察されているが、初版本文では量的規定性が考察されたあとに相対的価値形態が考察されていること、また相対的価値形態の考察もその展開は現行版や初版付録とは一見すると逆の展開になっているように見えるが、これはどうしてなのか、という問題です。これは初版本文の論理的展開はどうなっているのか、という問題とも関連して(しかもマルクス自身は、本文の敍述こそ《弁証法が・・・・はるかに鮮明》だと、初版序文で書いているわけです)、大変、興味深いテーマではありますが、しかし、やはりこれはあまりにも問題が横道に逸れ過ぎるので、またその機会があれば、論じることにして、今回は割愛したいと思います(どこかの誰かさんが「報告が長すぎる」とブツクサ言っていることてもありますし)。

 

◎各パラグラフごとの検討

 

 とにかくこれまで通り、パラグラフごとに簡単な解説を書いておくことにしましょう。ただ今回は、分節ごとの詳細な解読は不要と考えて、パラグラフごとに全体を解説することにします。これまで通り、最初にパラグラフ全体を紹介し、そのあとに解説をつけるという順序で行なうことにします。また関連資料は最後に回します。

 

【1パラグラフ】

 

 《その価値が表現されるべき商品は、どれも、与えられた量のある使用対象--15シェッフェルの小麦、100ポンドのコーヒーなど--である。この与えられた商品量は、一定量の人間労働を含んでいる。したがって、価値形態は、単に価値一般だけではなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大きさをも表現しなければならない。したがって、商品Bに対する商品Aの、上着に対するリンネルの、価値関係においては、上着という商品種類は、単に価値体一般として、リンネルに質的に等置されるだけではなく、一定量のリンネル、たとえば20エレのリンネルに対して、一定量の価値体または等価物、たとえば一着の上着が等置されるのである。》

 

 まずこれまで考察してきた商品の価値の表現においては、二つの商品の等置関係の質的な面だけが考察されてきましたが、しかし実際には、その価値が表現される商品は、どれもある与えられた分量の使用対象なわけです。

 

 第1章では、《鉄、紙などいっさいの有用物は、二重の観点から、質および量の観点から、考察されなければならない。このような物はどれも、多くの属性からなる一つの全体であり、したがって、さまざまな面で有用でありえる。これらのさまざまな面と、したがって物のいろいろな使用の仕方とを発見することは、歴史的な行為である。有用物の量をはかる社会的尺度を見つけだすこともそうである。諸商品尺度の相違は、一部は、はかられる対象の性質の相違から生じ、一部は、慣習から生じる》とされ、《使用価値の考察に際しては、1ダースの時計、1エレのリンネル〔亜麻布〕、1トンの鉄などのようなその量的規定性がつねに前提されている》と指摘されていました。

 

  ここでは《15シェッフェルの小麦、100ポンドのコーヒーなど》が例として上げらています。ここで《シェッフェル》というのは、新日本新書版の解説によれば、「古い穀物単位」であり、その値は地域によって異なるが、1シェッフェルは23-223リットルと極めて大きな幅があることが紹介されており、プロイセンでは54.96リットルだとの説明があります。

 

 こうした一定量の商品は、だから一定量の人間労働を含んでいるわけです。つまり一定の価値の大きさをもっているわけです。

 

 だからわれわれがこれまで見てきた、価値の相対的表現である、価値形態は、単に価値一般だけでなく、量的に規定された価値、つまり価値の大きさも表現しなければならないというわけです。

 

 したがって、商品Bに対する商品Aの、上着に対するリンネルの、価値関係においては、上着は価値体一般としてリンネルに質的に等置されたのですが、一定量のリンネル、例えば20エレのリンネルに対しては、一定量の価値体または等価物として、例えば一着の上着が等置されるというわけです。

 

  要するに、ここでは、われわれはこれまで相対的価値形態の質的側面を見ることによって、その内実を明らかにすることが出来たのですが、今度は、それらは同時に量的規定性をもったものであることが再確認されていると言えるでしょう。

 

【2パラグラフ】

 

 《「20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは一着の上着に値する」という等式の前提にあるのは、一着の上着には20エレのリンネルにひそんでいるのとまったく同じ量の価値実体がひそんでいること、すなわち、両方の商品量は等しい量の労働または等しい大きさの労働時間を費やさせることである。ところが、20エレのリンネルまたは一着の上着の生産に必要な労働時間は、織布労働または裁縫労働の生産力が変動するたびに、変動する。そこで、このような変動が価値の大きさの相対的表現に与える影響について立ちいって研究しなければならない。》

 

 「20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは一着の上着に値する」という等式の前提にあるのは、二つの商品にはまったく同じ量の価値の実体、抽象的人間労働の凝固がひそんでいるということです。つまり両方の商品の二つのそれぞれの量の生産のためには、等しい量の人間労働、または等しい大きさの労働時間が必要だということです。

 

 しかし、20エレのリンネルあるいは一着の上着の生産に必要な労働時間は、織布労働または裁縫労働の生産力が変われば、変化します。だから、こうした変化が価値の大きさの相対的表現にどのような影響を与えるのかを立ち入って研究する必要があるということです。

 

 ここでは、「20エレのリンネル=1着の上着」という等式においては、確かに二つのそれぞれの量の商品の価値が等しいことを示していますが、しかし価値の大きさの表現としては、あくまでも一定量のリンネルの価値の大きさだけが表現されているのであって、一定量の上着の価値の大きさそのものは表現という点では問題にはなっていないこと、にもかかわらず、リンネルの価値の大きさの表現においても、上着の価値の大きさが関連してくるのだ、という指摘がありました。

 

【3パラグラフ】

 

 《 Ⅰ リンネルの価値は変動するが(19)、上着価値は不変のままである場合。たとえば、亜麻のとれる耕地〔Boden〕がますますやせた結果、リンネルの生産に必要な労働が二倍になるとすれば、リンネルの価値は二倍になる。今や一着の上着は20エレのリンネルの半分の労働時間を含むにすぎないから、20エレのリンネル=1着の上着 の代わりに、20エレのリンネル=2着の上着 となるであろう。これに対して、たとえば織機の改良によって、リンネルの生産に必要な労働時間が半分に減少すれば、リンネル価値は半分に低下する。それに応じて、今や、20エレのリンネル=1/2着の上着 となる。したがって、商品Aの相対的価値、すなわち商品Bで表現される商品Aの価値は、商品Bの価値が不変のままでも、商品Aの価値に正比例して、上昇または低下する。》

 

  I  リンネルの価値の大きさは変動するが、上着の価値は不変である場合。

 

 それは例えば、亜麻が不作の結果、リンネルの生産に必要な労働時間が二倍になるならば、リンネルの価値も二倍になります。

 

 だから一着の上着は20エレのリンネルの半分の労働時間を含むに過ぎないから、20エレのリンネル=2着の上着という等式になります。

 

 これに反して、織機の改良によって、リンネルの生産に必要な労働時間が半分になれば、リンネルの価値は半分になり、よっていまや、20エレのリンネル=半分の上着となります。したがって、商品Aの相対的価値、つまり商品Bで表された商品のAの価値は、商品Bの価値が不変でも、商品Aの価値の変動に正比例して、上昇または下落するという結論がでてきます。

 

 ここでは「1/2着の上着」という表現がでてきますが、1/2着の上着は使用価値ではないということから、マルクスを批判する論者があることが所沢の「『資本論』を読む会」では問題になったようだという紹介があり、そこでの解説は見事であるという意見がありました。 (http://shihonron.exblog.jp/9939276/を参照)

 

【4パラグラフ】

 

 《 Ⅱ リンネルの価値は不変のままであるが、上着価値が変動する場合。こうした事情のもとで、たとえば羊毛の刈りとりが思わしくないために、上着の生産に必要な労働時間が二倍になれば、20エレのリンネル=1着 の上着の代わりに、今や、20エレのリンネル=1/2着の上着 となるであろう。これに反して、上着の価値が半分に減少すれば、20エレのリンネル=2着の上着 となるであろう。だから、商品Aの価値が不変のままで

も、商品Aの相対的な、商品Bで表現される価値は、Bの価値変動に逆比例して、低下または上昇する。》

 

 II リンネルの価値が不変で、上着の価値が変動する場合。

 

 羊毛の刈り取りが思わしくないために、上着の生産に必要な労働時間が二倍になると、価値が二倍になり、20エレのリンネル=1/2の上着 となります。

 

 これに反して、上着の価値が半分に減少すれば、20エレのリンネル=2着の上着 となります。

 

 だから、商品Aの価値が不変でも、商品Aの相対的な価値が、商品Bで表現される場合、商品Bの価値変動に逆比例して、それは上下するといえます。

 

【5パラグラフ】

 

 《 ⅠおよびⅡのもとでのさまざまの場合を比較してみると、相対的価値の大きさの同じ変動が正反対の原因から生じうることがわかる。実際、20エレのリンネル=1着の上着 は、(1)リンネルの価値が二倍になっても、上着の価値が半分に減少しても、20エレのリンネル=2着の上着 という等式になり、また、(2)リンネルの価値が半分に低下しても、上着の価値が二倍に上昇しても、20エレのリンネル=1/2着の上着 という等式になるのである。》

 

  I とIIの場合におけるさまざまな場合を比較すると、相対的価値の大きさの同じ変動が正反対の原因から生じうることがわかります。例えば「20エレのリンネル=1着の上着」が「20エレのリンネル=1/2着の上着」に変動した場合、その原因は、一つは上着の価値は変わらないのに、リンネルの価値が半分になったからであり、もう一つはリンネルの価値に変化がないのに、上着の価値が二倍に上がったから、という二つの原因が考えられました。つまり一方は価値が下がったから、他方は価値が上がったから、同じ相対的価値の変動が生じたことになるわけです。

 

 実際、「20エレのリンネル=1着の上着」という等式は、(1)リンネル価値が二倍になっても、あるいは上着の価値が半分になっても、「20エレのリンネル=2着の上着」になる。(2)他方、リンネルの価値が半減しても、上着の価値が二倍になっても、「20エレのリンネル=1/2着の上着」という等式になります。

 

【6パラグラフ】

 

  《 Ⅲ リンネルおよび上着の生産に必要な労働量が、同時に同じ方向に、同じ比率で変動することもある。この場合には、これらの商品の価値がどんなに変動しようと、あい変わらず、20エレのリンネル=1着の上着 である。これらの商品の価値変動は、これらの商品を、価値が不変のままであった第三の商品と比較すれば、すぐにわかる。すべての商品の価値が、同時に、同じ比率で、上昇または低下すれば、それらの商品の相対的価値は不変のままであろう。これらの商品の現実の価値変動は、同じ労働時間内に、今や一般的に、以前よりも多量かまたは少量の商品量が供給されるということから見てとれるであろう。》

 

 III リンネルと上着の生産に必要な労働量が、同時に同じ方向に、同じ比率で変動する場合。

 

 この場合には、二つの商品の価値がどんなに変動しようと、二つの商品で表される相対的価値の大きさには変動はありません。

 

 これらの価値の変化は、価値が不変な第三の商品と比較することによってわかります。

 

 すべての商品が、同時に、同じ比率で、上昇または低下するならば、それらの商品の相対的価値は不変のままです。

 

 これらの商品の価値の変動は、同じ労働時間内に、以前よりもより多くかより少ない商品量が供給されることから見ることができるということです。

 

【7パラグラフ】

 

  《 Ⅳ リンネルおよび上着の生産にそれぞれ必要な労働時間、したがってこれらの商品の価値が、同時に同じ方向に、しかし等しくない程度で変動するか、あるいは反対の方向に変動するなどなどのことがありえる。この種のありとあらゆる組あわせが一商品の相対的価値に与える影響は、Ⅰ、Ⅱ、およびⅢの場合を応用すれば、簡単にわかる。》

 

 IV リンネルおよび上着の生産に必要な労働時間が、よってそれらの価値が、同時に同じ方向に、しかし等しくない程度で変動したり、あるいは反対の方向に変動するなどのことはありえます。

 

 この種のありとあらゆる組み合わせが一つの商品の相対的価値に与える影響は、 I 、II、IIIのケースを応用すれば、簡単にわかるということです。

 

【8パラグラフ】

 

  《 こうして、価値の大きさの現実の変動は、価値の大きさの相対的表現または相対的価値の大きさには、明確にもあますところなしにも反映されはしない。一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変のままでも、変動しうる。一商品の相対的価値は、その商品の価値が変動しても、不変のままでありえる。そして、最後に、一商品の価値の大きさとこの価値の大きさの相対的表現とが同時に変動しても、この変動が一致する必要は少しもない(20)。》

 

 こうして、実際の価値の変動は、その相対的表現、あるいは相対的価値の大きさには、明確に、忠実に反映されることはありません。

 

 一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変でも変動するし、

 

 一商品の相対的価値は、その商品が変動しても、不変のままでありえます。

 

 だから最後に、一商品の価値の大きさとその相対的表現とが同時に変動しても、その変動が一致する必要はまったくないわけです。

 

【注20】

 

  《(20) 第2版への注。価値の大きさとその相対的表現とのこうした不一致は、俗流経済学によっていつもながらの鋭敏さで利用されてきた。たとえば、次のとおり。「Aと交換されるBが騰貴するために--そのあいだにAに支出される労働は減少していないのに--Aが低落するということをひとたび認めれば、諸君の一般的価値原理は崩壊する。・・・・もしも、Aの価値がBに対して相対的に上昇するので、Bの価値がAに対して相対的に低下するということが承認されるならば、リカードが、一商品の価値はそれに体現された労働の量によってつねに規定されるという、彼の大命題の基礎にすえた根拠が崩れさる。なぜなら、もしもAの費用におけるある変動が、Aと交換されるBとの関係におけるAそれ自身の価値を変化させるだけでなく、Bの生産に必要とされる労働量には何の変動も生じなかったのにBの価値をもAの価値に対して相対的に変化させるならば、その場合には、一つの物品に支出される労働量がその価値を規制するということを断言する学説が崩壊するだけでなく、一つの物品の生産費がその価値を規制するという学説も崩壊するからである」(J・ブロードハースト『経済学』、ロンドン、一八四二年、一一、一四ページ)。 ・ ブロードハースト氏は、同じように、次のように言うこともできよう。どうか一つ、10/20、10/50、10/100等々という比をよく見たまえ。10という数は不変のままなのに、その比率上の大きさ、すなわち、20、50、100という分母に対するその相対的な大きさは、たえず減少している。だから、一つの整数、たとえば、10の大きさは、それに含まれる1という単位の数によって「規制」されているという大原理は崩壊する、と。》

 

 ここでは、商品の価値の相対的な表現が、その価値の変化を必ずしも忠実に表さないということから、だから商品の価値がそれに体現された労働の量によって規定されるというリカードの価値論の崩壊を主張するブロードバーストの誤りが、分数を例に使って、実に分かりやすく説明されています。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

【付属資料】

 

【表題】

 

《初版付録》--「d 価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の量的な被規定性

 

【1】

 

《初版本文》

 

 《これまではただ価値の実体と価値の大きさとが規定されただけなので、今度は価値の形態の分析のほうに方向転換することにしよう。  まず第一に、ふたたび商品価値の第一の現象形態に立ち帰ってみよう。  二つの量の商品をとってみて、それらはそれらの生産に等しい労働時間がかかる、つまり、それらは等しい大きさの価値である、とすれば、40エレのリンネル=2着の上着、すなわち.40エレのリンネルは二着の上着に値する、ということになる。われわれが見るのは、リンネルの価値が一定量の上着で表現されている、ということである。ある一つの商品の価値は、このように別の一つの商品の使用価値で表わされている場合には、その商品の相対的な価値と呼ばれる。》

 

《初版付録》

 

 《とはいえ、20エレのリンネルは、ただ、価値一般、すなわち人間労働の凝固であるだけではなくて、それは特定の大きさの価値である。すなわち、それのなかには一定量の人間労働が対象化されている。それだから、上着にたいするリンネルの価値関係においては、上着という商品種類が、単に、価値体一般として、すなわち人間労働の物体化として、リンネルに質的に等置されるだけではなくて、この価値体の一定量が、1ダース等々ではなく一着の上着が、一着の上着のなかに20エレのリンネルにおけるとちょうど同じだけの価値実体すなわち人間労働が含まれているかぎりにおいて、等置されるのである。》

 

補足と改訂》

 

 《[A]

[11〕b)相対的価値形態の量的規定性

 その価値が表現されるべき商品は,どれも,与えられた分量の使用対象--何シェッフェルの小麦,何ポンドのコーヒー等々--である。この与えられた商品分量は,一定分量の人間的労働を含んでいる。したがって,価値形態は,単に価値一般だけではなく,量的に規定された価値,すなわち価値の大きさをも表現しなければならない。それゆえ,商品Bにたいする商品Aの価値関係においては,商品種類Bは商品Aに質的に等置されるだけではなく,ある与えられた分量のAにたいしてBが,20エレのリンネルにたいして一定量の等価物が,等置される。

[B]

b)相対的価値形態の量的規定性

 その価値が表現されるべき商品は,何シェッフェルの小麦,何ポンドのコーヒー等々といった与えられた分量である。その商品分量は一定量の人間的労働を含んでいる。それゆえ,商品は価値一般としてだけではなく,量的に規定された価値すなわち価値の大きさとしても表現されなければならない。》

 

《フランス語版》

 

 《価値が表現されるべきどの商品も、ある分量の有用物、たとえば15ブヅシェルの小麦、100ポンドのコーヒー等であって、一定の分量の労働を含んでいる。したがって、価値形態は、たんに価値一般ばかりでなく、ある価値量をも表現しなければならない。商品A の商品Bにたいする価値関係では、商品Bが質の観点でAに等しいと宣言されるだけでなく、さらにBのある分量がA の与えられた分量に等しいのである。》

 

【2】

 

《初版本文》

 

 《一商品の相対的な価値は、その商品の価値が不変のままであっても、変動することがありうる。逆に、その商品の相対的な価値は不変のままでありうる。たとえその価値は変動しようとも。すなわち、40エレのリンネル=2着の上着 という等式が前提しているのは、両方の商品に同じ量の労働が費やされている、ということである。しかし、それらの商品を生産する労働の生産力に変動が生ずれば、そのつど、それらの商品の生産に必要な労働時間は変動するのである。そこで、このような変動が相対的な価値に及ぼす影響を考察してみよう。》

 

《補足と改訂》

 

 《[A]

 20エレのリンネル=1着の上着,すなわち,20エレのリンネルは1着の上着に値するという等式の前提にあるのは,1着の上着には20エレのリンネルに潜んでいるのとまったく同じ量の価値実体が潜んでいること,すなわち,両方の商品分量は等しい量の労働または等しい大きさの労働時間を費やさせるということ,である。ところが,20エレのリンルまたは1着の上着の生産に必要な労働時間は,織布労働または裁縫労働の生産力が変動するたびに,変動する。そこで,このような変動が価値の大きさの相対的表現に与える影響について立ち入って研究しなければならない。

[B]

 20エレのリンネル=1着の上着,すなわち20エレのリンネルは1着の上着に値するという等弐の前提にあるのは,両方の商品分量は等しい量の労働を費やさせる、または等しい大きさの労働時間で生産されることである。ところが,さまざまな種類の労働の生産力が変動するたびに,そのときどきの商品分量の生産に必要な労働時間が変動する。そこで,われわはこのような変動が、ある商品,われわれの例ではリンネルの価値の大きさの相対的表現に与える影響について考察してみよう。》

 

《フランス語版》

 

 《20メートルのリンネル=一着の上衣、あるいは20メートルのリンネルが一着の上衣に値するという等式は、両商品のどちらも同量の労働が費やされているか、あるいは、両商品が同じ時間内に生産される、ということを前提している。だが、この時間は両商品のどちらにとっても、それを作り出す労働の生産力が変動するたびごとに変動する。さて、この変動が価値量の相対的表現に及ぼす影響を調ぺてみよう。》

 

【3】

 

《初版本文》

 

 《 I 上着の価値が不変なままであるときに、リンネルの価値が変動する、としよう。たとえば亜麻を栽培する土地の豊度の低下の結果として、リンネルの生産のために支出される労働時間が二倍になるとすれば、リンネルの価値は二倍になる。40エレのリンネル=2着の上着 にかわって、40エレのリンネル=4着の上着 となるであろう。なぜならば、2着の上着は今では40エレのリンネルの半分だけの労働時間しか含んでいないからである。これとは反対に、たとえば織機の改良の結果として、リンネルの生産に必要な労働時間が半分だけ減少するとすれば、リンネルの価値は半分だけ低下する。したがって今度は40エレのリンネル=1着の上着 となる。それだから、商品Aの相対的な価値、すなわちその商品の価値が商品Bで表現されたものは、商品Bの価値が不変のままであれば、商品Aの価値に正比例して上がり下がりするのである。》

 

《フランス語版》--ほぼ同じだが、傍点(下線に変換)が付けられている。

 

 《 I 上衣の価値が不変のままであるのに、リンネルの価値が変動するばあい。亜麻を供給する土地の収穫高がいちだんと少なくなった結果、リンネルの生産に必要な労働時間が二倍になると仮定すれば、そのばあいリンネルの価値も二倍になる。20メートルのリンネル=1着の上衣 のかわりに、20メートルのリンネル=2着の上衣 になる。というのは、1着の上衣はいまでは半分の労働しか含んでいないからである。これに反して、織機の改良の結果、リンネルの生産に必要な時間が半減すれば、リンネルの価値も同じ比率で減少する。したがって、20メートルのリンネル=1/2の上衣 になる。だから、商品A の相対的価値、すなわち、商品B のうちに表現される商品A の価値は、商品B の価値が不変のままであっても、商品A の価値に正比例して上昇するかまたは低下する。》

 

【4】

 

《初版本文》

 

 《II 上着の価値が変動するときに、リンネルの価値は不変のままである、としよう。こういう事情のもとで上着の生産に必要な労働時間が、たとえば羊毛刈り取りの不調の結果として、二倍になるならば、40エレのリンネル=2着の上着 にかわって、今度は40エレのリンネル=1着の上着 となる。これに反して、上着の価値が半分だけ減少するならば、40エレのリンネル=4着の上着 となる。それゆえ、商品Aの価値が同じままであるならば、商品Aの相対的な、商品Bで表現される価値は、Bの価値変動に反比例して、低下したり上昇したりするのである。》

 

《フランス語版》--ほぼ同じだが、傍点(下線に変換)がついている。

 

 《 II 上衣の価値が変動するのに、リンネルの価値が不変のままであるばあい。この事情のもとでは、羊毛の刈取りがあまり順調でなかった結果、上衣の生産に必要な時間が二倍になると仮定すれば、20メートルのリンネル=一着の上衣 のかわりに、いまでは 20メートルのリンネル=1/2着の上衣 になる。これに反して、上衣の価値が半分に低下すれば、そのばあい 20メートルのリンネル=2着の上衣 になる。商品Aの価値が不変のままであっても、商品Bのうちに表現される商品Aの相対的価値は、商品Bの価値変動に反比例して上昇するかまたは低下する、ということがわかる。》

 

【5】

 

《初版本文》

 

 《 I とIIとのいろいろな場合を比較してみると、次のような結果になる。すなわち、相対的な価値の同じ変動がまったく反対の諸原因から生ずることがありうる、ということである。たとえば、40エレのリンネル=2着の上着 が(1)等式 40エレのリンネル=4着の上着 になるのは、リンネルの価値が二倍になるか、または上着の価値が半分だけ低下するからであって、(2)等式 40エレのリンネル=1着の上着 になるのは、リンネルの価値が半分だけ低下するか、または上着の価値が二倍に上昇するからである。》

 

《フランス語版》--同じだが、傍点(下線に変換)がついている。

 

 《 I とIIのなかに含まれている種々のばあいを比較すれば、相対的価値の同じ量的変動が全く相反した原因から生じうるということは、明らかである。したがって、20メートルのリンネル=1着の上衣 という等式が 20メートルのリンネル=2着の上衣 になるのは、リンネルの価値が二倍になるか、または上衣の価値が半減するからである。そしてまた 、20メートルのリンネル=1/2着の上衣 になるのは、リンネルの価値が半減するか、または上衣の価値が二倍になるからである。》

 

【6】

 

《初版本文》

 

 《III リンネルと上着との生産に必要な諸労働量が、同時に、同じ方向で、同じ割合で、変動する。こういう場合には、たとえリンネルと上着との価値がどのように変えられていようと、相変わらず 40エレのリンネル=1着の上着 である。それらの価値変動は、それらと、その価値が不変のままだった第三の一商品と比較してみれば、すぐに発見される。もしすべての商品の価値が同時に同じ割合で上昇または低下するならば、すべての商品の相対的な諸価値は不変のままである。それらの商品の現実の価値変動は、同じ労働時間で今や一般的に以前よりもより大きいかまたはより小さい商品量が供給されるであろう、ということから推知されるであろう。》

 

《フランス語版》--同じだが、傍点(下線に変換)がある。

 

 《 III リンネルと上衣との生産に必要な労働量が、同時に同じ方向に同じ比率で変動すれば、このばあいには、それらの価値変動がどうあろうと、以前と同じように 20メートルのリンネル=1着の上衣 である。この価値変動は、その価値が同じままである第三の商品と比較することによって、発見される。もしすぺての商品の価値が同時に同じ比率で増大または減少すれば、それらの相対的価値は全く変動しない。それらの商品の本当の価値変動は、同じ労働時間内に供給される商品量が、いまでは一般に、以前よりも多くなるか少なくなるかで、わかるはずである。》

 

【7】

 

《初版本文》

 

 《IV リンネルと上着とのそれぞれの生産に必要な労働時間、したがってまたそれらの物の価値は、同時に同じ方向においてではあるが違った程度において、あるいはまた反対の方向、等々において、変動することがありうるであろう。あらゆる可能なその種の組み合わせが一商品の相対的な価値に及ぼす影響は、 I とIIとIIIとの場合の適用によって簡単に明らかになるのである。》

 

【8】

 

《補足と改訂》

 

 《それゆえ,現実の価値の大きさの変動は,その相対的表現すなわち相対的価値の大きさに,曖昧さをのこさずあますところなく反映するというわけではない。ある一つの商品の相対的価値は,その価値が変化しなくても,変動することがある。その相対的価値は,その価値が変動しても変わらないことがある,そして最後に,その価値の大きさとこの価値の大きさの相対的表現とにおける同時的変動はなんら一致する必要はないのである。》

 

《フランス語版》

 

 《価値量の本当の変動は、価値量の相対的表現のうちにけっして明瞭にも全面的にも反映しない、ということがわかる。一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変のままであっても変動することがあるし、その商品の価値が変動しても不変のままであることもあるし、そして最後に、価値量の変動と価値量の相対的表現の変動とが、正確に照応せずに同時に起こることもある。(19)》

 

§ 初版付録には、独自に「e 相対的価値形態の全体。」という項目が設けられ、次のように論じられている。

 

 《 こうして、相対的な価値表現によって、第一に、商品の価値は、その商品自身の使用価値とは違った形態を得る。この商品の使用形態は、たとえばリンネルである。これに反して、この商品は自分の価値形態上着にたいする自分の同等性関係において、もっている。この、同 等性の関係によって、この商品とは感覚的に違っている別の一商品体が、この商品自身の価値存在の鏡となり、この商品自身の価値姿態となる。こうして、この商品は、その現物形態とは相違し無関係で独立な価値形態を得る。しかし、第二に、特定の大きさの価値としては、特定の価値の大きさとしては、この商品は、自分にたいして別の商品体が等置されているところの量的に規定された関係すなわち割合によって、量的に計られているのである。》(国民文庫版136-7頁)

 

 


第20回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 

                                    

 2010年という一つの区切りの年が明けました。

 

 昨年は、08年のリーマン・ショックによる金融恐慌に続く経済恐慌の一年でした。クライスラーやGMが倒産し、アメリカを代表する自動車産業が危機に陥り、今年になって、とうとう自動車の売り上げでは中国がアメリカを抜いて世界のトップに躍りでました。世界経済は大きく塗り替えられようとしています。

 

 2010年には、世界経済は果たして深刻な不況から抜け出ることができるのでしょうか。それともさらなる深いどん底へと引きずり込まれて行くのでしょうか。

 

 

 それはともかく、“サブプライム金融恐慌”に代表される金融バブルとその破綻について、『資本論』はどのように論じているのでしょう?

 

 『資本論』第3部第5篇第30~32章「貨幣資本と現実資本 I ~III」では、マルクス自身「比類なく困難な問題」として、貨幣資本の蓄積が現実資本の蓄積とどのように関連しているのか、またそれは一国で流通している貨幣の量と如何なる関係にあるのかが理論的に追究されています。そしてそうした考察の理論的前提として第29章「銀行資本の諸成分」では、銀行資本の一部を構成する「利子生み証券」(債務証書--有価証券--、サブプライム・ローン債権を担保にした資産担保証券などもそれに含まれます)が、「架空な貨幣資本」であることを明らかにしています。マルクスは現実資本の蓄積から相対的に自立してそれらを何倍も上回る規模に膨れ上がって運動する貨幣資本の運動を、「規則的に繰り返される収入」「資本換算」されて形成される「架空資本」という形態で存在する「利子生み資本」(moneyed Capitalとしての貨幣資本)の運動であることを明らかにし、さらに次のように論じています。

 

 「すべてこれらの証券は、実際には、将来の生産にたいする蓄積された請求権、権利名義のほかにはなにも表していないのであって、この権利名義の貨幣価値または資本価値は、国債の場合のようにまったくどんな資本も表していないか、または、それが表している現実の資本の価値とは無関係に規制されるのである。/すべての資本主義的生産の国には、このような形態で巨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed capitalが存在している。そして、貨幣資本の蓄積というものの大きな部分は、生産にたすいるこのような請求権の蓄積のほかには、すなわちこのような請求権の市場価値の蓄積、その幻想的な資本価値の蓄積のほかには、なにも意味していないのである。」(全集版600頁)

 

 だからこうした「架空な貨幣資本」の蓄積がどんなに膨大な額に膨れ上がろうが、現実の社会の富から考えるなら、それらは「純粋に幻想的」なものでしかなく、だから「このような名目的な貨幣資本のしゃぼん玉の破裂によっては一文も貧しくはならない」(同)のだと論じています。

 

 サブプライムによる資産担保証券や、デリバティブなどのさまざまな金融派生商品が氾濫し、膨大な過剰な貨幣資本が世界の金融市場を荒し回り世界経済を金融的危機に陥れいるような、今日の世界資本主義を理論的に解明していくためにも、やはり『資本論』をしっかり学ぶことが不可欠なのです。

 

 貴方も、是非、一緒に『資本論』を読んでみませんか?

 



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