目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
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第4回「『資本論』を読む会」の案内
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第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第17回「『資本論』を読む会」の案内

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

 

                               

 鳩山・民主党連立政権は、最初の正念場を迎えつつあります。マニフェストで謳った「子供手当て」等の諸政策実現のための財源を捻出することが問われているからです。このために、総額14.7兆円の補正予算の見直しを行い、ようやく2.5兆円(17%にあたる)を確保したと言われています。しかしこれでは10年度に「子供手当て」等の実施に必要な7.1兆円に達せず、さらに上積みをと考えているようです。

 

 しかし見通しはなかなか厳しい。というのは、税収が当初見込みの46兆円を大幅に下回ることが予想され(40兆円を切るとの予想)、その補填のために、結局は、また赤字国債の発行を余儀なくされつつあるからです。

 

 かくして、マニフェストでバラマキを約束した民主党政権のもとで、財政破綻はますます進行することは必至の状況です。

 

 09年度の国債の累積発行残高は592兆円(国民一人当たり463万円の借金!)、地方自治体の借金も含めると債務残高は816兆円にのぼり、国内総生産(GDP)に対する比率は174%と主要先進7ヶ国のなかでは最大です(二番目に多いイタリアでも114%、他の5ヶ国は60~70%)。

 

 

 この借金の返済をどうするのか。民主党は消費税の増税は少なくとも4年間は考えないとも言いますが、無駄を省くだけでは、この借金の返済は事実上不可能です。これらの借金は、まさに危機に陥った資本主義体制を救済するために、歴代の自民党政権が膨大な国家の財政信用膨張政策を発動することによって積み上げてきたものだからです。だから例え民主党政権であろうが、自民党と同じように、資本主義を前提にし、その体制的危機の救済を自民党と同様自らの絶対的な使命とするかぎり、この借金の泥沼から抜け出ることはことは出来ません。

 

 マルクスは国債の発行は、増税、しかも大衆課税である間接税(消費税)の導入とその「自動累進」化による「加重課税」を不可避にさせると次のように指摘しています。

 

 《国債は国庫収入を後ろだてとするものであって、この国庫収入によって年々の利子などの支払がまかなわれなければならないのだから、近代的租税制度は国債制度の必然的な補足物になったのである。国債によって、政府は直接に納税者にそれを感じさせることなしに臨時費を支出することができるのであるが、しかしその結果はやはり増税が必要になる。他方、次々に契約される負債の累積によってひき起こされる増税は、政府が新たな臨時支出をするときにはいつでも新たな借入れをなさざるをえないようにする。それゆえ、最も必要な生活手段にたいする課税(したがってその騰貴)を回転軸とする近代的財政は、それ自体のうちに自動的累進の萌芽をはらんでいるのである。過重課税は偶発事件ではなく、むしろ原則なのである。それだから、この制度を最初に採用したオランダでは、偉大な愛国者デ・ウィットが彼の筬言《しんげん》のなかでこの制度を称賛して、賃金労働者を従順、倹約、勤勉にし……これに労働の重荷を背負わせるための最良の制度だとしたのである。》(『資本論』第1部全集版23b986-7頁)

 

 民主党政権のもとでも、資本主義の矛盾を労働者大衆にしわ寄せする以外にないことはますます明らかになるでしょう。もし民主党が労働者大衆の側に徹底して立つというのなら、資本主義そのものを克服する以外にあり得ないからです。財政の逼迫は民主党を追い詰めて、結局は、民主党も自民党と同じであり、第二自民党でしかないことを暴露するでしょう。

 

 貴方も民主党政権の本質を見抜くためにも、『資本論』を一緒に学びませんか。

 


第17回「『資本論』を読む会」の報告

第17回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎秋祭り

 

 泉州地域の秋祭りの季節はほとんど過ぎていましたが、第17回「『資本論』を読む会」を開催した10月18日は、あいにく「堺まつり」と重なってしまいました。  おかげで、祭りのパレードに参加する団体を世話するピースさんは、どうしても都合がつかず、結局、「読む会」をお休みされ、寂しい開催となりました。

 

 今回は「a 相対的価値形態の内実」の第6~8パラグラフの学習を行ないました。ここらあたりはなかなか難しいところでもあり、じっくり時間をかけて議論しました。さっそくその報告をしましょう。

 

◎《課題はすでに解決されている》とは?(第6パラグラフ)

 

 まず第6パラグラフ全体を紹介しておきます。今回も分節ごとに検討するために、イ)、ロ)、ハ)……と記号を付します。また関連資料は付録として後回しにします。

 

 イ)もっとも、リンネルの価値を構成している労働の特有な性格を表現するだけでは十分ではない。 ロ)流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するけれども、価値ではない。 ハ)それは、凝固状態において、対象的形態において、価値になる。 ニ)リンネル価値を人間労働の凝固体として表現するためには、リンネル価値は、リンネルそのものとは物的に異なっていると同時に、リンネルと他の商品とに共通なある「対象性」として表現されなければならない。 ホ)課題はすでに解決されている。》

 

 まず イ)の一文は、直接、第5パラグラフを受けたものです。だからこの一文を読むと、第5パラグラフの課題が《 リンネルの価値を構成している労働の特有な性格》がどのように表現されるのかを明らかにすることであったことが分かります。しかしそれが表現されるだけでは《十分ではない》というのです。何に対して十分ではないというのでしょうか。いうまでもなく、「リンネルの価値を表現する」という点ではまだ十分ではないということです。

 

 そして ロ)では、その不十分な理由が説明されています。第5パラグラフでは《 リンネルの価値を構成している労働の特有な性格》、つまりそれが一般的人間労働であることが、その実現形態となっている裁縫労働によって目に見える形で表現されていることが明らかにされたのですが、しかし一般的人間労働ということが表現されても、それだけでは、まだ価値を表現したことにはならないのです。というのは、人間労働は価値を形成するが、価値そのものではないからです。

 

 というのは、ハ)、第1節で明らかになったように、価値というのは、商品に対象化された一般的な人間労働だからです。だから人間労働が商品の生産のために支出されて、その流動状態から対象的な形態になって始めて、つまり商品のなかに凝固して、始めてそれは価値になるわけだからです。

 

 ニ)、だからリンネルの価値をある物的な対象物に凝固したものとして表すためには、それはリンネルとは物的に異なると同時に、リンネルと他の商品と共通なある「対象性」として表す必要があるというのです。  さて、この部分で、《 リンネルと他の商品とに共通なある「対象性」》という一文を如何に理解するかが問題になりました。ここで「他の商品」というのは果たして何を意味しているのでしょうか。上着のことでしょうか。もし上着なら、“リンネルと上着とに共通なある「対象性」”ということでマルクスは何をいわんとしているのでしょうか。学習会では、この「他の商品」というのは、上着ではなく、リンネルと同じようにその価値を上着で表す商品、例えば靴墨とか鉄とかを意味しているのではないか、ということになりました。つまりリンネルは自分とは物的に異なっていると同時に、リンネルが靴墨や鉄やコーヒーのような他の商品と共通してそれらの価値を表すある「対象性」として表現されなければならないのであり、それはすなわちこの場合は上着のことではないか、というわけです。だからこの「他の商品」を「上着」と捉えると、おかしくなると考えたのです。

 

  しかしよくよく考えてみると、そのように考えると、上着はすでに一般的な等価物になっていることになってしまいます。二商品の価値関係を考察しているこの段階で、そうした問題が論じられていると考えることが果たして妥当なのか、という疑問が禁じえません。

 

  そこでこの問題を考えるために、同じ部分のフランス語版を参照してみたいと思います。

 

  《 しかしながら、リンネルの価値を産む労働の独自な性格が表現されるだけでは、充分でない。流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、確かに、価値を形成するが、価値ではない。それは、ある物体という形態で凝固した状態においてのみ、価値になるのである。したがって、リンネルの価値を表現するためにみたさなければならない諸条件は、自己矛盾しているように見える。一方では、リンネルの価値を、抽象的な人間労働の純粋な凝縮として表わさなければならない。商品は価値としては、これ以外の実在をもたないからである。同時にこの凝縮は、リンネル自体とは明らかにちがったある物体という形態を帯びなければならず、この形態は、リンネルのものでありながら、リンネルにとっては他の商品と共通なものなのである。この問題はすでに解決されている。》(江夏他訳21頁)

 

  ここでマルクスが《 リンネルの価値を表現するためにみたさなければならない諸条件は、自己矛盾しているように見える》と述べていますが、どういう点で《自己矛盾》だというのでしょうか。それは一方では、《抽象的な人間労働の純粋な凝固》として表すとともに、他方では《リンネル自体とは明らかにちがったある物体という形態》を帯びなければならないからだといわれています。

  リンネルの直接的な対象性というのは、そのゴワゴワとした使用価値です。しかしそこにはそれをどんなにすり切れるほど捜してみてもリンネルの価値そのものを見出すことはできません。だからリンネルの価値は、そのゴワゴワした対象性とは違った別のある物体形態として表さなければ目に見える形では現われて来ないのです。だからこの別のある物体というのは、それは別の商品の直接的な対象性でしかありません。しかしそれはリンネルの価値がそれによって表現されているわけですから、その別のある商品の物体形態は、リンネルの価値の物体形態でもあり、その限りではリンネルのものなのです。しかしそれはリンネルのものではあるとはいっても、しかし別の商品の直接的な対象性ですから、それは当然、別の商品の対象性でもあり、別の商品のものであることには違いはありません。だからその別のある商品の直接的な対象性は、その別の商品のものであると同時に、リンネルとの価値関係のなかでは、リンネルの価値の物体形態でもあり、その限りではリンネルのものでもあるという関係にあるわけです。だからマルクスは、それはリンネルのものであると同時に別の他の商品のものでもある「対象性」として表現される必要がある、と述べているのではないでしょうか。

 

  だから最初の問題に戻ると、《リンネルと他の商品とに共通なある「対象性」》という場合の《他の商品》とは、やはり「上着」であると言わなければなりません。ここでマルクスが言っていることは、上着の直接的な対象性は、当然上着のものですが、しかしそれはリンネルとの価値関係に置かれると、リンネルの価値の物的表現形態となり、リンネルの価値の対象性が目に見える形(対象性)として現われたものなのだから、その限りではリンネルのものでもある、だからその「対象性」はリンネルと上着とに共通なものだと述べているわけです。それは一方では上着の直接的な自然な対象性であると同時に、他方ではリンネルの価値が目に見える形で現われた物的な対象性でもあるわけです。

 

 次は ホ)です。ここで《課題はすでに解決されている》とマルクスは述べているのは、どういう意味なのでしょうか。興味深いことに、それは論者によって様々に理解されているのです。少しその代表的なものを紹介してみましょう。

 

 ●山内清著『資本論商品章詳注』--〈直前の3と5の段落、すなわちリンネルの価値存在の現出過程をさす。〉

 

 ●白須五郎著『マルクス価値論の地平』--〈「課題は既に解決されている」というのは、リンネル価値の表現に関して第三パラや第五パラの叙述で既に解決済みであって、第七パラ以降の叙述が単なる補論あるいは詳論にすぎないことを示しているのであろうか。決してそうではあるまい。……そうではなくて、この文言が意味するのは、第三パラで価値表現の表層構造が確認され、更に第五パラで価値実体レベルで価値の純粋な社会的性格の表現が基本的に開明されたことによって、価値の対象性としての表現を問うこの課題の解決にとっての必要条件が既に準備されていること、このことである。〉

 

 ●松石勝彦著『資本論研究』--〈リンネル価値を「人間労働の凝固」として表現するためには、上衣とに「共通な『対象性』として表現されねばならない」が、「課題はすでに解決されている」。すなわち、第一段ですでにリンネル価値が上衣に共通な価値として表現されており、第二段では異種商品の等価表現が異種労働を人間労働一般に還元し、これの凝固・対象化が価値であることをみたのであるから、以上を総合すれば、事実上リンネル価値は「人間労働の凝固」として、上衣とに「共通な『対象性』として表現」されているのである。〉

 

 これらの解釈に共通するのは、《課題はすでに解決されている》というのですから、当然、それまで述べてきたことのなかですでに解決済みのことだとマルクスは言っているのだろうと解釈していることです。ところが以前にも参照させてもらった所沢の「『資本論』を読む会」では、この部分について、次のような理解を紹介しています(http://shihonron.exblog.jp/m2008-09-01/)。

 

 〈★「課題はすでに解決されている」ことの内容は続く箇所で述べられている。〉

 

 つまり次に続く第7パラグラフ以降で、その内容が述べられているのだというのです。

 

 なんとも分かりにくいのですが、マルクスも罪な表現をしたものです。しかし実は、この問題については、マルクス自身が第二版のために準備した『補足と改訂』のなかで、ズバリ次のように述べているのです。

 

 《 もっとも,リンネルの上着との同等性関係がリンネルに含まれている労働の抽象的人間的性格を表現するだけでは充分ではない。人間的労働すなわち流動状態にある人間的労働力は価値を形成するが,価値ではない。それは凝固した状態で,対象的形態で,価値になる。  ところで,リンネル価値の対象的形態とは何であろうか? 上着形態である。》(小黒訳66頁)

 

 ここではマルクスは《課題はすでに解決されている》などというややこしい表現は使わずに、ズバリ《リンネル価値の対象的形態とは何であろうか? 上着形態である》と明確に述べています。つまりマルクスが《課題はすでに解決されている》ということで言いたいのは、これまでわれわれはリンネルに上着を等置してきたのだから、当然、リンネルの価値の対象的形態として、われわれが見出すのは、上着形態でしかないのだ、ということなのです。分かってみればマルクスは難しいことを言っているのではなくて、いとも簡単なことを簡単に言っているだけであることが分かるのです。

 

◎第7パラグラフについて

 

 イ)リンネルの価値関係の中で、上着が、リンネルに質的に等しいものとして、すなわち同じ性質の物として、通用するのは、上着が一つの価値だからである。 ロ)だから、上着は、ここでは、価値がそれにおいて現れる物として、または手でつかめるその現物形態で価値を表す物として、通用する。 ハ)ところで、上着は、すなわち上着商品の身体は、たしかに単なる一使用価値である。 ニ)上着が価値を表現していないのは、リンネルの任意の一片が価値を表現していないのと同じである。 ホ)このことは、ただ次のことを示すだけである。 ヘ)すなわち、上着はリンネルに対する価値関係の内部ではその外部でよりも多くの意味をもつということである。 ト)ちょうど、多くの人間は金モールで飾られた上着の中ではその外でよりも多くの意味をもつように。》

 

 このパラグラフは、当然のことですが、第6パラグラフを直接受けたものであることが分かります。つまり第6パラグラフの最後の文言、《課題はすでに解決されている》の代わりに《リンネル価値の対象的形態とは何であろうか? 上着形態である》という文言に置き換えてみると、その続き具合がよく分かります。つまりリンネルの価値は上着形態であるが、ではリンネルの価値は上着形態であるとはそもそもどういうことかをもう一度反芻しているように思えるのです。とにかく分節ごとに見ていくことにしましょう。

 

 イ) では、リンネルの価値の対象的形態が上着形態であるというのは、リンネルの価値関係のなかでは、上着がリンネルと質的に等しいものとして通用しているからであり、だから上着そのものが一つの価値だからだと述べています。

 

 ロ)、だからここでは、上着は、価値がそれにおいて現われる物として、手でつかめる現物形態で表すものとして、通用しているのだ、ということです。

 

 ハ)、しかし商品体としての上着は、単なる一つの使用価値である。

 

 ニ)、だから上着の使用価値がその価値を表していないことは、リンネルの使用価値がリンネルの価値を表していないのと同じなのです。

 

 ホ)・ヘ)、だからこのことは、上着はリンネルに対する価値関係の内部では、それを単独でみている場合とは違って、より多くの意味をもつということです。これは一般に「形態規定性」とも言います。つまり上着はリンネルとの価値関係の内部では、新たな形態規定性を受け取る、帯びる、ということです。

 

 ト)、それはちょうど、金モールで飾られた上着のなかではその外でよりも多くの意味をもつのと同じだと述べています。  この部分の理解で若干の議論がありました。JJ富村さんがもう一つここでマルクスが何を言いたいのかよく分からないと問題提起をしたからです。つまりこの例とその前で述べていることと、どういう点で類似しているのかということです。

 

  この部分はフランス語版の方が面白いので、まずそれを紹介しておきましょう。

 

  《それはちょうど、金モールの衣裳をつけた多くの重要人物が、金モールをはずせば全くくだらなくなる、のと同じである。》(江夏他訳21-22頁)

 

 だからこの場合、上着に新たに付着する形態規定性(つまりその自然形態が価値の現物形態として通用するという)をマルクスは金モールに例えていると考えることができます。つまり上着はリンネルとの価値関係の外では、つまり上着を単独で見ているだけなら、ただの上着に過ぎませんが、しかしリンネルとの価値関係のなかに置かれると、まるで金モールを着た人間のように、それ以上の意味を持ちはじめるというのです。ただこの上着の金モールで着飾ったような神秘的な性格そのものはまだこの時点では潜在的であり、はっきりとは現われていません。しかしマルクスの例えはそうしたものを見据えたものと言えるのかも知れません。

 

 だからこのパラグラフは、それまでのリンネルの価値が上着形態によって表現された現出過程を振り返って、改めてリンネルとの価値関係におかれることによって上着に付着する新たな形態規定性を、それとして確認しているものと言えます。そうしてその点では、次のパラグラフも同じものと言うことができます。

 

◎第8パラグラフについて

 

  イ)上着の生産においては、裁縫労働という形態のもとに、人間労働力が実際に支出された。 ロ)したがって、上着の中には人間労働が堆積されている。 ハ)この側面からすれば、上着は「価値の担い手」である。 ニ)もっとも、上着のこの属性そのものは、上着がどんなにすり切れてもその糸目からすけて見えるわけではないが。 ホ)そして、リンネルの価値関係の中では、上着はただこの側面だけから、したがってただ体現された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する。 ヘ)ボタンをかけた〔よそよそしい〕上着の外観にもかかわらず、リンネルは、上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。 ト)しかし、上着がリンネルに対して価値を表すことは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。 チ)ちょうど、個人Aが個人Bにたいして王位に対する態度をとることは、同時にAにとって王位がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪の毛、その他なお多くのものが国王の交替のたびに替わるということなしには、できないように。》

 

 イ)、ロ)、ハ)、について、これは第2節で論じられていたことを前提すれば、簡単な事実です。  まずイ)、上着の生産においては、裁縫労働という具体的な有用労働を通じて、人間労働一般が支出されています。

 

 ロ)、したがって上着のなかには人間労働一般が堆積されているわけです。

 

 ハ)、だからこの面では上着は「価値の担い手」です。  ここで「価値の担い手」という文言が鍵かっこで括られていますが、その前の第6パラグラフでも「対象性」が鍵かっこに入っていました。これは恐らくこの言葉を強調する意味があるのではないかと思います。われわれは「価値の担い手」という言葉から、第1節でも次のような一文があったことを思い出します。

 

  《使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態においては、それは--同時に交換価値の素材的担い手をなしている。》(全集版49頁)

 

 第7パラグラフで出てくる「価値の担い手」は、この第1節と同じことを述べているのでしょうか。それにしては、第1節の場合は「交換価値の素材的担い手」と書いてあり、今回の場合(「価値の担い手」)とは若干異なります。以前(第2回の報告)、第1節のこの部分を検討したときにも、少し学習会で議論になった内容を紹介しましたが、そのときにも〈「一クォーターの小麦」の交換価値の「素材的担い手」になっているのは「一クォーターの小麦」という使用価値そのものなのか〉ということが問題になりました。そして結局、この第1章の場合は、そうではなく、『経済学批判』の一文を参照すると、〈「一クォーターの小麦」の「交換価値の素材的担い手をなしている」ものとしてマルクスが語っているのは、「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」等々の諸使用価値のことであることが分かる〉と結論付けたのでした。これは「価値」の現象形態である「交換価値」の「素材的担い手」というわけですから、そのように理解できたのです。  しかし今回の場合は、そうではありません。上着に支出された人間労働が上着のなかに堆積されており、この側面から見るなら上着は「価値の担い手」だと述べているのですから、上着が担い手になっている価値とは上着の価値以外の何物でもないのです。つまりこの場合は上着の価値は上着という物的対象のなかにあるという意味で、上着は「価値の担い手」になっていると述べているのだと思います。その意味では第1節で述べていることとは違った内容なのです。

 

 ニ)、だから上着が「担い手」になっている上着自身の価値は、依然として目に見えるようなものになっているわけではありません(それは現象形態にはなっていないから)。だから「上着のこの属性そのもの」、つまり上着のなかに人間労働力が堆積されて上着の価値になっているという属性、つまり抽象的人間労働の凝固体という属性そのものは、上着がどんなにすり切れても見えないわけです。

 

 ホ)、ところがリンネルとの価値関係におかれた上着は、ただ《この側面だけから》、つまり人間労働一般が堆積されているという側面だけから、《したがってただ体現された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する》と言われています。これは以前にも紹介しましたが、《すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通用する,あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する》(「補足と改訂)ということと同じことを述べているように思えます。つまり上着を作るのは裁縫労働という具体的な労働であり、その具体的有用労働を通じて人間労働力一般が支出されたのですが、しかしリンネルとの価値関係におかれた上着の場合は、この具体的有用労働である裁縫労働そのものが人間労働力一般の支出形態として通用するのですから、上着はただ単に人間労働力一般だけが支出されたものとして通用しているのだというのです。上着の具体的な物的姿態を形作ったのは具体的な有用労働である裁縫労働なのですが、その裁縫労働が、ここでは、つまりリンネルとの価値関係におかれた上着においては、一般的人間労働そのものの支出形態として通用しているのですから、その裁縫労働によって形作られた上着の具体的な姿態そのものが、価値そのものとして通用している。つまり上着は、その身体で価値を表すものである「価値体」として通用しているのだ、というわけです。

 

  ここで「価値体」という用語がでてきますが、これは先の第3パラグラフででてきた「価値物」とどう違うのかが問題になります。しかし、それは項を改めて問題にすることにします。

 

 ヘ)、上着を単独で見ている限りでは、上着をいくら見ても上着のなかにある(隠された?)その価値は絶対に見えません。ところがリンネルが自分と価値関係におかれた上着をみた場合、リンネルはボタンをかけてよそよそしく振る舞い、つまり自身の価値を隠しているように見える上着なのに、そうした上着の姿そのものがリンネルにとっては、価値そのものとして見えるのだ、上着そのものの姿にリンネルのなかにある価値を上着の姿に反射させて見ているのだというわけです。

 

 ト)、しかし上着がリンネルに対して価値を表すということは、リンネルにとって価値が上着そのものに見える、価値が上着形態をとっている以外には不可能です。

 

 チ) は、上記に述べたことをまた例を上げて説明しているのですが、これも少し学習会で議論になりました。これもフランス語版の方が分かりやすそうなので、それをまず紹介しましょう。

 

 《同じように、私人Aは個人Bにたいして、Bの眼に映ずる陛下が直接Aの容貌と体躯とを帯びなければ、陛下であることを表わしえないのである。陛下が人民の新たな父となるたびごとに、顔面や毛髪やその他多くの物を変えるのは、おそらくこのためであろう。》(22頁)

 

 単なる一私人に過ぎないAが個人Bに対して王として映るのは、Aの容貌や体躯が王そのものとして見えないと、Bに対してAは王としては見えないというわけです。王位それ自体は何か目に見えるものではありません。だから王位を何か具体的なものとして平民が見ようとするなら、結局は、王位についた人物の顔かたちを王そのものとして見るしかないのだ、ということのようです。だから新しい人が王になると、顔面や毛髪やその他の色々なものを変えて、如何にも王らしく見せるのは、このためだろうというわけです。みすぼらしい格好では、いくら王だといっても誰も王としては見えない、表現されたことにはならないということかも知れません。これは例えば芸術家は如何にもそれらしい格好をするのと似ているかも知れません。

 

  つまりリンネルにとって上着が価値を表すためには、上着の姿そものが価値そのものになっていないと価値が目に見える形で見えたことにはならないということです。

 

◎「価値物」と「価値体」との区別と関連について

 

 最後に、「価値物」と「価値体」との区別と関連について考えてみましょう。この両概念の区別と関連を理解するということは、それぞれの用語が出てくる第3パラグラフと、第8パラグラフとの関連、その両パラグラフの間における一連の展開を知るということでもあります。

 

 第3パラグラフでは、リンネルが「相対的価値形態」にあるということはどういうことかが明らかにされています。

 

 そもそもリンネルが「相対的価値形態」にあるということは、本来は幻のようで捉えどころのない対象性しか持たないリンネルの価値が、上着という他の商品に関連することによって、相対的に、目に見える具体的な形ある対象性(物)として表されているということです。そしてそのためには、リンネルと同等性の関係(=価値関係)に置かれた上着は「価値物」として通用しなければならない、というのがマルクスが述べていたことです。

 

 つまり上着がリンネルとの価値関係においては、価値が「形ある物として現われているようなもの」として通用しなければならないのだということです。

 

  そして第4~6パラグラフでは、上着がリンネルとの価値関係において「価値物」として通用するということはどういうことなのかが、価値の実体にまで遡って明らかにされています。

 

 すなわちリンネルの価値を形成する労働の独自の性格(抽象的人間労働)とそれが物的対象に凝固した状態にあるということが、上着をつくる裁縫労働と、その上着の物的な具体的な身体によって表現されていることが明らかにされているのです。

 

  まず第5パラグラフでは、上着をつくる裁縫労働がリンネルをつくる織布労働に等置されることによって、一般的人間労働に実際に還元されること、つまりリンネルの価値を形成した抽象的人間労働が、上着に表れている(痕跡として残っている)裁縫労働という具体的で感覚的に捉えられる労働によって表現されていることが明らかにされ、次に第6パラグラフでは、そうした一般的人間労働の実現形態として意義を持っている裁縫労働がつくったものが、まさに上着そのもの、上着のその具体的な姿であるのだから、そうした上着体そのものが一般的な人間労働の凝固したものなのだ、ということでした。

 

  だから、第7・8パラグラフでは、そうした一般的人間労働の実現形態である裁縫労働がつくった上着体こそが抽象的人間労働の凝固体、すなわち価値そのもの、「一般的な価値肉体」(初版本文)であること、すなわち価値がそれ自身を形あるものとして表しているもの、すなわち「価値体」であることが示されたのです。

 

 だから「価値物」も「価値体」も、どちらも価値を「物」として表しているものですが、「価値物」は、リンネルと上着という二商品の直接的な反省関係から導き出されたものであるのに対して、「価値体」は、なぜ自然形態が価値という抽象的なものを表しているのかを、価値の概念(実体)にまで遡ってその根拠が明らかにされたものだということができます。

 

 いささかヘーゲルチックに説明すると、「価値物」も「価値体」も本質的(価値)が直接的なものとして現われているものという点では同じですが、「価値物」は「価値」という二商品に内在する「本質」が二商品の直接的な反省関係によって「物」として現われたものですが(だからこれは「現存在」です)、「価値体」は、さらにその現存在(「価値物」)

を本質(価値の概念)との関連によって捉え返されたものであり、よってその(本質=価値概念の)直接的「現象」として掴まれたものだということが出来るかも知れません。つまり「価値物」=価値の現存在、「価値体」=価値の現象形態ということです。

 

 その意味では、故久留間鮫造氏の最初の理解は必ずしも厳密なものとはいえませんが決して間違ったものでは無かったと思います。ただ久留間氏は両概念の区別と関連について無自覚であったが故に、大谷禎之介氏の指摘に動揺し、その誤った見解に追随する結果になってしまったといえるかも知れません(ただ『貨幣論』を詳細に検討してみると、「価値体」の捉え方については、両者は一致しているものの、久留間氏は「価値物」の捉え方については、大谷説に最後まで与しなかったような感じも受けます)。

 

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【付属資料】

 

 ここでこれまでと同じように、各パラグラフに関連する文献からの引用文を紹介しておきます。

 

◎第6パラグラフに関連したもの

 

 --は、すでに本文の読解のなかで紹介しましたので、重複を避けます。

 

◎第7パラグラフに関連したもの

 

《初版本文》

 

 〈使用価値または商品体はここでは一つの新しい役割を演ずるのである。それは商品価値の現象形態に、したがってそれ自身の反対物に、なるのである。それと同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な有用労働が、それ自身の反対物に、抽象的人間労働の単なる実現形態に、なる。ここでは、商品の対立的な諸規定が別々に分かれて現われるのではなくて、互いに相手のなかに反射し合っている。〉(国民文庫版51頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈しかし,上着、上着商品の身体は一つの単なる使用価値である。それゆえ,リンネルの価値はそれとは反対のもの,他の何らかの種類の使用価値,それが何であれとにかく使用価値で,表現される。しかしながら,使用価値上着が価値を表現していないのは,リンネルの任意の一片が価値を表現していないのと同じである。このことは,同じ上着が,リンネルの自分との関係のなかではこの関係の外部におけるよりも,多くの意味をもつ、ということを示すだけである。ちょうど,多くの人間は金モールで飾られた上着の中ではその外でよりも多くの意味をもっように。〉(小黒訳前掲文献65頁)

 

《フランス語版》

 

 《実際には、われわれがすでに見たように、上衣が等価物として置かれるやいなや、上衣はもはや自分の価値性格を証明明するための旅券を必要としない。こうした役割において、上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる。ところが、上衣は、上衣商品の体躯は、単なる使用価値でしかなく、一着の上衣は、リンネルの任意の一片と同じように、価値を表現するものではない。このことはただたんに、上衣がリンネルとの価値関係のうちでは、この関係のぞとでよりも多くのことを意味する、ということを証明しているにすぎない。それはちょうど、金モールの衣裳をつけた多くの重要人物が、金モールをはずせば全くくだらなくなる、のと同じである。》(江夏訳21-22頁)

 

◎第8パラグラフに関連したもの

 

 なおここでは、第8パラグラフと直接関連はしていませんが、「価値体」について言及している部分の引用も紹介しておきます。

 

《初版本文》

 

 〈リンネルは、抽象的人間労働の感覚的に存在する物質化としての、したがってまた現に存在する【価値体】としての、上着に関係するのである。上着がこういうものであるのは、ただ、リンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであり、またその限りにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリンネルの反射規定なのである。〉(文庫版55-56頁、【 】は引用者)

 

《初版付録》

 

 〈上着にたいするリンネルの価値関係においては、上着という商品種類が、単に、【価値体】一般として、すなわち人間労働の物体化として、リンネルに質的に等置されるだけではなくて、この価値体の一定量が、……等置されるのである。〉(文庫版136頁、【 】は引用者)  〈しかし、上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、つねに、リンネルの等価物はリンネルにたいしては【価値体】として、したがってまた、単なる人間労働の具体化として、認められるであろう。そしてまたつねに、等価物の特定の物体形態は、それが上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、抽象的人間労働の具体化ではなくて、裁縫労働なり農民労働なた鉱山労働なりとにかく一定の具体的な有用労働種類の具体化であることに変わりはないであろう。だから、等価物の商品を生産する特定の具体的な有用労働は、つねに必然的に、単なる人間労働の、すなわち抽象的人間労働の、特定の実現形態または現象形態として認められなければならないのである。例えば上着が【価値体】として、したがって単なる人間労働の具体化として、認められうるのは、ただ、裁縫労働が、それちおいて人間労働力が支出されるところの、すなわち、それにおいて抽象的人間労働が実現されるところの、特定の形態として認められているかぎりにおいてきみのことである。  価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。たとえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人問労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるということが裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。この取り違えは不可避である。というのは、労働生産物で表わされている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無差別な人間労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が別種の一生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてのみのことだからである。  この転倒によってはただ感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として認められるだけであって、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として認められるのではないのであるが、この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とは両方とも法である、と言うならば、それは白明なことである。これに反して、もし私が、法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関連は不可解になるのである。〉(文庫版142-3頁、【 】は引用者)  〈等価物が直接的に社会的な形態をもっているのは、それが他の商品との直接的交換可能性の形態をもっているかぎりにおいてのことであり、そして、それがこの直接的交換可能性の形態をもっているのは、それが他の商品にたいして【価値体として、したがってまた同等なものとして認められているかぎりにおいてのことである。だから、等価物に含まれている特定な有用労働もまた、直接的に社会的な形態にある労働として、すなわち、他の商品に含まれている労働との同等性の形態をもっている労働として、認められているのである。裁縫労働というような、一定の、具体的な労働が、たとえばリンネルというような別種の商品に含まれている別種の労働との同等性の形態をもっていることができるのは、ただ、その特定の形態が、別種の諸労働の同等性を、またはそれらの労働における同等なものを.現実に形成しているあるものの表現として認められているかぎりにおいてのみのことである。しかし、別種の諸労働が同等であるのは、ただ、それらが人間労働一般、抽象的人間労働、すなわち人間労働力の支出であるかぎりにおいてのみのことである。だから、すでに明らかにしたように、等価物のなかに含まれている特定の具体的な労働抽象的人間労働の特定の実現形態または現象形態として認められているので、その労働は他の労働との同等性の形態をもっているのであり、したがってまた、すべての他の商品生産労働と同様に私的労働であるのに、しかもなお直接的に社会的な形態にある労働なのである。〉(145頁、【 】は引用者)

 

《補足と改訂》

 

 〈上着の生産においては,裁縫労働という形態のもとに,人間的労働力が実際に支出され,したがって,上着のなかに人間的労働が堆積されている。それゆえ,この面からすれば、上着体は価値の担い手である。もっとも,上着のこの属性そのものは,上着がどんなにすり切れてもその糸目から透けて見えるわけではないが。そして,リンネルの価値関係のなかでは、上着はただこの面だけから通用する。リンネルが自分に等しい物としての上着体に閑係するのは、上着が価値体であるからであり,そしてそのかぎりでのことである。  いまや、明かになったことは,リンネルはその価値上着と等しい物としての表現を通して、使用価値上着における自分自身の価値の表現を通してのみ,あますところ掌く表現された、ということである。〉(前掲65頁)  〈リンネルの価簿関係のなかで上着形態は、すでに見たように、価値体として、その自然形態上着形態が価値形態として通用する。使用価値としてはリンネルは上着とは異なっている。価値としてはリンネルはそれとは反対である。しかし,上着がリンネルにたいして価植を表すことは,同時にリンネルにとって価殖が上着で表されていることなしには,できないことである。ちょうど,個人Aが個人Bにたいして陛下にたいする態度をとることは,同時にAにとって陛下がBという肉体的姿態をとること,したがって,顔っき,髪の毛,その他なお多くのものが,国王の交替のたびにかわることなしには,できないように。〉(前掲66頁)

 

《フランス語版》

 

 《上衣の生産では、実際に、なにがしかの人間労働力がある特殊な形態のもとで支出された。だから、人間労働がその上衣のなかに積み重ねられている。この観点からすれば、上衣は価値の担い手である。もっとも、この特性は、上衣がどんなに擦り切れていても、上衣の透いた糸目を通して外に現われるものではないが。しかも、リンネルとの価値関係においては、上衣はこれ以外のことを意味しない。上衣の外貌がどんなにあばた面であっても、リソネルは上衣のうちに、価値に満ちた姉妹魂を認めたのだ。これが、ことがらのプラトニックな側面である。上衣が自己の外面的な関係のなかに価値を実際に表わすことができるのは、同時に価値が一着の上衣という姿をとるかぎりでのことなのだ。同じように、私人Aは個人Bにたいして、Bの眼に映ずる陛下が直接Aの容貌と体躯とを帯びなけれぽ、陛下であることを表わしえないのである。陛下が人民の新たな父となるたびごとに、顔面や毛髪やその他多くの物を変えるのは、おそらくこのためであろう。》(江夏訳22頁)

 

《補足》(国王と臣下のもう一つの例)

 

 《(21) およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、他の人々が彼に対して臣下としての態度をとるからにほかならない。ところが、彼らは、彼が王であるから、自分たちは臣下なのだと思うのである。》(全集版78頁)

 


第18回「『資本論』を読む会」の案内

『資 本 論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

 

                                    

 

 10月26日、新政権の下で最初の臨時国会が開かれ、鳩山由紀夫首相が初めて所信表明演説を行ないました。

 

 

 

 「友愛政治の実現」をスローガンに、「無血の平成維新」を断行するという内容です。

 

 「いのちを守り、国民生活を第一とした政治」とか「居場所と出番のある社会」、「支え合って生きていく日本」、「人間のための経済」等々、耳障りのよい言葉が羅列されています。こうした多くの美辞麗句の裏に何が隠されているのでしょうか。それを私たちは見抜かなければなりません。

 

 それは他ならぬ、鳩山首相の政治理念である「友愛」のスローガンそのものが明らかにしています。

 

 首相は8月末「Voice」に発表した≪特別寄稿≫「私の政治哲学~祖父に学んだ『友愛』の旗印」のなかで、「友愛」について、次のように説明しています。

 

 「現代の日本人に好まれている言葉の一つが『愛』だが、これは普通〈love〉のことだ。そのため、私が『友愛』を語るのを聞いてなんとなく柔弱な印象を受ける人が多いようだ。しかし私の言う『友愛』はこれとは異なる概念である。それはフランス革命のスローガン『自由・平等・博愛』の『博愛=フラタナティ(fraternité)』のことを指す。」

 

 しかしフランス革命の「自由・平等・博愛」がもたらした現実は何だったのかが問題なのです。

 

 

 マルクスは、すでに同じスローガンを掲げた1848年の「フランス共和国憲法」について、《初めから終わりまで、もっとも不誠実な企図を背後に隠した、美しい言葉の寄せ集めにすぎない》(全集第7巻511頁)と断じています。このマルクスの言葉は鳩山首相の所信表明演説にはより一層当てはまります。

 

 というのはこのスローガンは封建社会からの解放を唱えるブルジョア革命においてのみ、正当であり、現実的であり、偉大な意義を持ったのであって、すでに1848年の資本主義が一人立ちした段階においては、もはや一つの欺瞞でしかなく、ましてや爛熟し頽廃した今日の資本主義社会においては単に時代錯誤であるばかりではなく、醜い詭弁でしかないからです。

 

 このスローガンの実際の内容を、マルクスは『資本論』で次のように述べています。

 

 《労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の部面は、実際、天賦人権の真の楽園であった。ここで支配しているのは、自由、平等、所有、およびベンサムだけである。自由! というのは、一商品たとえば労働力の買い手と売り手は、彼らの自由意志によって規定されているだけだからである。……平等! というのは、彼らは商品所有者としてのみたがいに関係しあい、等価物と等価物を交換するからである。所有! というのは、だれもみな、自分の物を自由に処分するだけだからである。ベンサム!(「功利主義」の意味--引用者)  というのは、両当事者のどちらにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。》(全集23a230-1頁)

 

 つまり「博愛(友愛)」は、「所有」「ベンサム」というこのブルジョア社会の現実を覆い隠す“イチジクの葉”にすぎないのです。

 

 今回の演説でも、鳩山首相は、障害者など社会の弱者をすべての人々が「支え合う」「きずな」の大切さや、そうした社会の実現を訴えましたが、しかし彼が持つ何十億という個人資産をそうした「支え合い」のために、例えその一部でも差し出したという話は聞いたことがありません。

 

 現実には、彼は、崇高な理念の陰で、何十億という個人資産の「所有」にしがみつき、明日の生活にも困って「毎年3万人以上のかたがたがのいのちが、絶望のなかで絶たれているのに」、彼は妻とたった二人だけで広大な敷地を持つ邸宅と別荘を複数持ち、有り余る豊かな生活を享受しながら、そうした人たちにどんな手もさしのべようともしない立派な「功利主義」者として振る舞っているのです!

 

 貴方も、美辞麗句の裏に隠された鳩山政権の正体を見抜くために、『資本論』を一緒に読んでみませんか。

 


第18回「『資本論』を読む会」の報告

第18回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎紅葉の季節

 

 今年はどうも紅葉が早いような気がします。例年のシーズンを考えて、お仲間は12月の上旬に京都での紅葉狩りを計画し、嵐山にある宿泊施設に予約を入れているらしいのですが、これではどうやら季節を外しそうな感じもしてきました。

 

 ところで、我が「『資本論』を読む会」の“紅一点”のクミさんは、仕事で今回はお休みになり、これまた前回と同様寂しい開催になりました。なにしろ新しい参加者はなく、少人数でチビチビとやっているものですから、一人でも休むと途端に寂しくなります。何とも侘しい限りではあります。

 

 まあ、そんな愚痴を言っていてもしょうがないので、報告に移りましょう。

 

 今回は、「a 相対的価値形態の内実」の最後まで終えました。だから、今回の報告は、この「内実」で課題とした諸問題をとことん明らかにしたいと考えていますので、あるいは、少しは長くなるかも知れません。  これまでも報告が長すぎると苦情(?)が来ているのですが、まあ、難しいところなんですから、解説もとにかく懇切丁寧を心がけていますので、少々の冗長なところは我慢して、お許し願いたいと思います。

 

◎これまでの展開の中間総括

 

 さて、今回は第9パラグラフからです。このパラグラフはこれまで考察してきたことを中間的に総括しているのではないか、と思います。まずその全文を紹介しましょう。今回も分節ごとに検討するために、各分節にイ)、ロ)、ハ)・・・・の記号を打ち、関連資料は後回しにします。

 

  イ)こうして、上着がリンネルの等価となる価値関係の中では、上着形態が価値形態として通用する。 ロ)したがって、商品リンネルの価値が商品上着の身体で表現される。 ハ)一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるのである。 ニ)使用価値としては、リンネルは、上着とは感性的に異なるものであるが、価値としては、リンネルは「上着に等しいもの」であり、したがって、上着のように見える。 ホ)このようにして、リンネルは、その現物形態とは異なる価値形態を受け取る。 ヘ)リンネルの価値存在が上着との同一性に現れるのは、キリスト教徒の羊的性質が神の仔羊との同一性に現れるのと同じである。》

 

 イ)、ここで《こうして》というのは、直接には前パラグラフ(第8)を指しているのですが、第7・8の両パラグラフを指しているとも考えることができます。というのはこの二つのパラグラフで上着がリンネルとの価値関係に置かれると新たな形態規定を受けることが確認されていたからです。つまりその自然形態が直接価値を表すということです。だからそうした考察を受けて、《こうして》、リンネルの等価となる関係のなかでは、上着形態、つまり上着という商品体、あるいは上着の姿そのものが、価値の形態、つまり「価値が形あるものとして現われているもの」として通用するのだというわけです。

 

 ロ)、だから商品リンネルの価値が商品上着の身体で表現される。ここでは、すでに先の分節が第7・8パラグラフを直接受けたものであったのに対して、この分節は、そうではなく、むしろこれまでの考察を結論的にまとめたものということができます。つまり第4・5・6パラグラフでは、リンネルの価値がどのようにして表現されるのかを、上着が価値物として通用するという内容を価値の実体にまで掘り下げて考察することによって明らかにするものでしたが、しかしそのことは、反面では、第7・8パラグラフで考察したように、等価におかれる上着が新たな形態規定(その自然形態が直接価値を表すという)を受けることでもあったというわけです。つまりリンネルの価値が表現される過程は、他面では等価に置かれた上着が新たな形態規定を受け取る過程でもあり、そうした両過程があいまって、リンネルの価値表現が完成するのだというのがマルクスがここで述べていることではないかと思います。

 

 ハ)、ここで初めて「価値」と「使用価値」とが対比した形で出てきます。リンネルの「価値」が上着の「使用価値」で表現される、これがこれまでの一連の考察の結論なわけです。またここでは「一商品の価値が他の商品の使用価値で表現される」というように、リンネルと上着との関連が、一般化した形で述べられています。これがこのパラグラフが一つの中間的総括であることを示していると言えます。

 

 ニ)、ここからはまた視点をリンネルに戻して、使用価値としてはリンネルは上着と感性的に違ったものであるが、自身の価値としては、リンネルは上着と等しいもの、上着そのものとして見えるのだということです。

 

 ホ)、だからリンネルは自分自身の現物形態(使用価値)とは別に、価値形態、つまり価値が実際に目に見える物的姿をとって現われているものを、今では受け取ったのだと述べています。これは第3節の冒頭(前文)で、《商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである》と述べていたことを思い出させます。つまりリンネルはこうして初めて《二重形態》を獲得し、《商品形態》を受け取ったわけです。

 

 ヘ)ここでまた分かりにくい例示がでてきますが、これは何を言いたいのでしょうか。  とりあえず、マルクスがここで述べていることを等式で表しますと、次のようになります。

 

 リンネル=上着  キリスト教徒=神の仔羊

 

 まず、ここに出てくる「神の仔羊」というのは、聖書にあるヨハネの言葉として「世の罪を負う神の仔羊を観よ。我に後れ来らん者は我よりも優れる者なり」というのがあるらしく、それから考えるに、「神の仔羊」は「キリスト」を指すらしいです。  だから《リンネルの価値存在が上着との同一性に現れる》というのは、リンネル=上着という同一性によって、リンネルの価値存在が上着の姿に現われるということですから、それに類似させて考えると、キリスト教徒=神の小羊(キリスト) の同一性のなかに、キリスト教徒の羊的性質、つまり従順で疑うことを知らず、ただ盲目的にリーダーに付いていくだけという性質が、キリストという姿で現されているということでしょうか。つまりキリスト教徒がキリストを信じ敬うのは、自分のなかに存在している羊のような従順で疑うことを知らないお人好しの性質を、ただキリストのなかに写して見ているだけなのだ、ということのようです。それとリンネルが上着の姿に自分の価値を写して見ているのと同じだということでしょうか。

 

◎「商品語」とは何か?

 

 次は第10パラグラフです。ここに奇妙な《商品語》という問題が登場します。果たしてそれは何を意味するのか、それが問題です。まず全文を紹介しましょう。

 

  イ)上述のように、商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのことを、リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである。 ロ)ただ、リンネルは、自分だけに通じる言葉で、商品語で、その思いを打ちあける。 ハ)労働は人間労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成するということを言うために、リンネルは、上着がリンネルに等しいものとして通用する限り、したがって価値である限り、上着はリンネルと同じ労働から成りたっていると言う。 ニ)リンネルの高尚な価値対象性は糊でごわごわしたリンネルの身体とは異なっているということを言うために、リンネルは、価値が上着に見え、したがって、リンネル自身も価値物としては上着と瓜二つであるという。 ホ)ついでに言えば、商品語も、ヘブライ語のほかに、もっと多くの、あるいはより正確な、あるいはより不正確な、方言をもっている。 ヘ)たとえば、ドイツ語の "Wertsein" 〔値する〕は、ロマンス語系の動詞、 valere,valer,valoir 〔イタリア語、スペイン語、フランス語の「値する」〕にくらべて、商品Bの商品Aとの等置が商品A自身の価値表現であることを言い表すには不適切である。ト)“パリはたしかにミサに値する! Paris vaut bien messe! ”》

 

 このパラグラフでは、これまでの一連の敍述とは一風変わった内容になっているような気がします。ここではマルクスは《商品語》という奇妙な問題を持ち出しているからです。少なくともこれまでの敍述から見ると、このパラグラフは一転した印象を受けます。確かにわれわれは第5パラグラフでも《語られる》という表現を見ました。そしてそのときには、このパラグラフを参照に挙げて、《語る》のはだからリンネルだろうと指摘しておいたのでした。しかしリンネルが語るというのはそもそもどういうことなのでしょうか。それに、このパラグラフは一体何のためにあるのでしょうか。どういう意義と役割を担ったパラグラフなのでしょうか。それが問題です。そしてそのためには、どうやらこのパラグラフでマルクスがいうところの《商品語》とは何なのかを解明する必要があるように思えます。とにかく分節ごとに詳細に考えて行くことにしましょう。

 

 イ)、まずここで《上述のように》というのは、この「a 相対的価値形態の内実」のこれまでの敍述を指していると考えて良いでしょう。つまり「これまで展開してきたことで分かるように」ということです。《商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのことを》というの場合の、《さきに》というのは、商品価値の分析を行なったのは、第1節と第2節ですから、第1節や第2節でわれわれが行なった分析ということでしょう。その分析が《われわれに語った》と、ここでも《語る》という文言が出てきますが、この場合の《語る》というのは、分析が《語る》わけですから、「分析によって明らかになったように」という文意を少し文学的に言い換えただけでしょう。だからこの場合の《語る》「言語」なるものは何かということは、この際は問題にはならないでしょう。しかし《リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである》という場合の《語る》はそうではないわけです。ここで《リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや》というのは、《上述のように》と述べているように、リンネルが上着を等置関係(価値関係)に置くやいなやということであり、だからこれまで分析を深めて考察してきたことを指していると思われます。  しかし、ここでわれわれは重要な問題に気づきます。つまり第1節や第2節では、《われわれ》《分析》してきたのであり、その分析が《われわれ》《語った》のでした。しかし《上述》の考察の過程は、確かにそれもわれわれの分析ではありますが、しかしそれだけではなくて、それらは商品自身の振る舞いでもあったということです。つまり《上述》の一連の分析では、商品が主体(主語)であり、リンネルと上着という二つの商品自身が互いに関連し合う過程だったということです。だからここでマルクスは《リンネル自身が語る》と述べているのでしょう。第1節や第2節では、観察者であるわれわれが対象を分析し考察し認識する過程であったのですが、第3節では、商品自身が互いに関連し合う世界を対象にしているわけです。商品自身が主体となって関連し合う過程を、マルクスは商品自身が《語る》世界と考えているのではないかと思います。

 

 ロ)、《ただ、リンネルは、自分だけに通じる言葉で、商品語で、その思いを打ちあける》。この一文も奇妙ですが、商品が主体であることを考えれば、ある程度は分かるような気がします。ただ商品(この場合はリンネル)が主体と言っても、リンネルは自分だけに通じる言葉で、つまり《商品語で》《その思いを打ちあける》と述べています。ということはリンネルの《思い》はただ一方通行であって、相手にはまったく通じていないことになります。ではリンネルが《思い》を打ち明けている相手は、この場合は誰なのでしょうか。やはりそれはこの場合は上着でしょう。商品同士が互いに関連し合う世界(商品世界)の話なのですから、リンネルが思いを打ち明ける相手もやはり商品以外にはないはずだからです。だからこの場合は「われわれ(つまり第三者の観察者)に語っている」わけではないわけです。リンネルが語る《商品語》は、リンネルにしか通じなくて、上着にはまったく通じていない、にも関わらずリンネルは健気にもその思いを上着に打ち明けているとマルクスは述べているように思えます。つまりリンネルの上着に対するこの場合の働きかけはまったくの一方通行的なもので、上着の与り知らないものだ、ということのようです。そしてリンネルは、彼の《思い》が上着に通じているかどうかということはお構いなしに、ただ一方的にそれを打ち明けているわけです。その打ち明ける内容が、次に書かれています。それはどうやら二つあることが分かります。

 

 ハ)、これは一つ目の《思い》であり、《語り》です。まず《労働は人間労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成するということ》というのは、われわれが第1・2節の商品価値の分析で明らかになったことです。それをリンネル自身が《商品語》で語るわけですから、これがリンネルが考えていること、つまりリンネルの《思い》であり、その次に書かれていることが、リンネルが実際に《商品語》《語っている》内容なのでしょう。すなわち《上着がリンネルに等しいものとして通用する限り、したがって価値である限り、上着はリンネルと同じ労働から成りたっている》ということです。確かに前者はわれわれ、つまり第三者の観察者がその分析から分かった内容であり、後者の場合は、確かにリンネルがリンネル自身の目線で問題を見て《語っている》内容になっているように思えます。ただ後者をマルクスは《商品語》だというのですが、では《商品語》とはそもそも何なのかということが問題になります。  それはある商品と別のある商品が互いに関連し合うときに、特定の商品の立場から両商品の反省関係を一方の商品自身の《語り》として述べているものと考えることができるように思えます。つまりこの場合、リンネルは上着を自身に対する等置関係に置き、自分から二商品の反省関係を展開しているわけです。それが《商品語》です。上着が自分と等しいものと置かれ、通用する限りは、二つは同質であり、だから上着は価値でなければならない、そうであるなら、上着という姿そのものは、リンネルと同じ労働からから成り立っている。つまり人間労働一般から成り立っている。これがリンネルが上着に対して一方的に述べていることだ、とマルクスはいうわけです。  このような反省関係というのは、例えば初版本文の次のような一文を読めばよく分かります。

 

 《リンネルは、他の商品を自分に価値として等置することによって、自分を価値としての自分自身に関係させる。リンネルは、自分を価値としての自分自身に関係させることによって、同時に自分を使用価値としての自分自身から区別する。》(国民文庫版45頁、訳文を若干変えています)。

 

 マルクスのいう《商品語》は、こうした商品自身が交わす反省関係を、一商品の《語り》として述べているものと考えることができます。

 

 ニ)、次は二つ目の《思い》であり、《語り》です。《リンネルの高尚な価値対象性は糊でごわごわしたリンネルの身体とは異なっている》というのは、われわれが価値の分析によって明らかになったことです。つまりリンネルの価値は純粋に社会的なものであり、よってリンネルの価値には一分子もの自然物質は含まれていない、リンネルの使用価値をどんなにすり切れるほど捜してもリンネルの価値を見出すことはできない、等々、ということです。それが《価値が上着に見え、したがって、リンネル自身も価値物としては上着と瓜二つである》というのだと述べられています。リンネルは自分の価値は上着に見えると言います。ということはリンネルの《糊でごわごわした》使用価値より上着の使用価値(ウールで出来ている?)の方が《高尚》なものとどうやら考えているようです。とにかくリンネルは自分の《高尚な価値対象性》は上着の姿をとっている。だからリンネル自身も価値が目に見える物としてある限りは上着と瓜二つであり、上着そのものだ、と主張するわけです。

 

 さて、ここで、この二つの《思い》《商品語》《語られる》内容を表にまとめてみましょう。

 

 

 われわれが第1節や第2節で商品の価値を分析して明らかになったことを、リンネルが上着との価値関係のなかで、リンネル自身が語るというのですが、われわれは第1節では、確かに価値の現象形態である交換価値から出発して価値を抽出しました。つまりわれわれは交換価値という価値の現象形態からその本質に辿る過程を歩んだのでした。しかしそうした歩みをリンネルは上着との反省関係のなかでリンネル自身の反省の言葉として語っているわけです。  この《商品語》で語られている二つの内容は、第4パラグラフで述べられていた。「商品の価値性格」の二つの内容、すなわち一つは抽象的人間労働という「価値を形成する労働の独自な性格」と、もう一つは「人間労働の凝固体」としての価値の「対象的性格」に対応していることが分ります。つまりリンネルが商品語で語ると述べられている内容は、リンネルが自身の価値性格を語っていることでもあるわけです。そしてそれはわれわれが第5パラグラフと第6パラグラフで見てきた内容なのです。だからマルクスはこのパラグラフの冒頭で《上述のように》と始めているわけです。そしてここではそれらをリンネル自身が語る《商品語》として説明しているのですが、こうした説明には果たしてどんな意義があるのでしょうか。それが問題です。

 

  われわれが第1節で諸商品の交換関係から商品の価値を分析し抽象したのは、われわれの思惟による理論的営為であり、われわれの意志的な行為でした。そしてその分析の結果は、われわれの分析そのものからわれわれに語られた(明らかになった)のでした。

 

  しかしそうしたいっさいのことは、実際には、われわれが意識的に分析して認識する以前に、商品自身が他の商品との交わりのなかで客観的に商品自身が語っている内容なのだ、というのがマルクスが言いたいことなのです。つまりそうした反省規定は、何かわれわれが外的に商品の交換関係を分析して、われわれの頭脳を使ってやっていることだけではなくて、商品自身が他の商品との関係のなかで社会的に行なっている客観的な過程なのだというのです。だからそれらは商品という物象と物象との社会的関係そのものにある客観的な過程なのであり、それはわれわれの認識から独立した過程であって、むしろわれわれの意識や行為はそうした物象的関係に規制され拘束されるという転倒した関係こそがそこにはあるのだ、というのがマルクスがこの《商品語》として語っている内容ではないだろうかと思います。つまりこのパラグラフの内容は、第4節で問題になる商品の物神的性格の内容を先取りしてその示唆を,あるいはその基礎を与えたものと言えるでしょう。

 

  このように考えて、初めて、なぜ、マルクスが《商品語》という奇妙な問題をここに、つまり次の最後の第11パラグラフで全体の総括と結論を述べる前に、持ち出しているのか、持ち出さなければならなかったのかが、良く分かるような気がします。

 

 ホ)、ここからは《ついでに言えば》というわけだから付け足しでしょう。《商品語》にかこつけてマルクスは、《商品語も、ヘブライ語のほかに、もっと多くの、あるいはより正確な、あるいはより不正確な、方言をもっている》と述べています。ここで《商品語》といえば、《ヘブライ語》が標準語だという観念があることを前提に、《より正確な、あるいはより不正確な、方言をもっている》と述べているのですが、ヘブライ語が商品語の標準語だということは、ユダヤ民族が古代から商業の民だったということだけではなく、近代においてもユダヤ人が商人や金貸しとして文学などでも描かれることを暗に示唆しているのでしょう(『ヴェニスの商人』に出てくるシャイロックはユダヤ人の金貸しです、等々)。

 

 ニ)、ここでは、ホ)で指摘していた《より不正確な方言》としてドイツ語の《Wertsein〔値する〕》が、そして《より正確な方言》として《ロマンス語系の動詞、 valere,valer,valoir 〔イタリア語、スペイン語、フランス語の「値する」〕》が紹介されています。その理由は次の分節の例から類推できますので、次の分節の検討に移ります。

 

 ト)、ここでは《“パリはたしかにミサに値する! Paris vaut bien messe! ”》という文例が書かれていますが、この文例の説明としては、新日本新書版の訳者注が詳しいので、それをまず紹介しておきましょう。

 

 〈*〔新旧両キリスト教徒の激しい抗争のなかで、1593年に新教支持のアンリ四世が、旧教徒の支配するパリに進撃するにあたり、王位につくための障害である新教を捨てて、旧教カトリックのミサに出席しようと考えたときの言葉。大臣シュリが王に改宗をすすめたときの言葉とも言われ、シュリの言では「パリ」の代わりに「王位」。ここでマルクスは、この言葉をvaloirの用例として使っており、フランス語ではvautがパリのすぐ次にくるが、これに比べてドイツ語ではwertが主語と離れて末尾に来てしまうので不適切だというわけであろう)〉(90頁)

 

 さて、この文例にはどんな意義があるのかも、学習会で少し議論になったのですが、JJ富村さんが、新書版の訳者解説を参考に、次のように説明してくれました。

 

  簡単な価値形態の等式、《20エレのリンネルは1着の上着に値する》(商品Aは商品Bに値する)と上記の《“パリはたしかにミサに値する! 》のそれぞれの原文を書き並べてみましょう。

 

 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock west.(der Ware A sind der Ware B west.)

 

 Paris vaut bien messe!

 

 ここでwestvautの位置に注目して下さい。ドイツ語の場合は、westはリンネル(商品A)(Leinwand)(der Ware A)と離れているのに対して、vautの場合はParisのすぐに近くに来ています。だからマルクスはドイツ語は《商品Bの商品Aとの等置が商品A自身の価値表現であることを言い表すには不適切である》と述べているように思えます。

 

◎全体の総括・結論

 

 次はいよいよ最後のパラグラフです。

 

  イ)したがって、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態が商品Aの価値形態となる。 ロ)言いかえれば、商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる(18)。 ハ)商品Aが価値体としての、人間労働の物質化としての、商品Bに関係することによって、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料にする。 ニ)商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値という形態をもつ。》

 

 このパラグラフは、その位置から考えても、これまでの「a 相対的価値形態の内実」全体のまとめであり、総括・結論でしょう。

 

 イ)、この《したがって》は、「a 相対的価値形態の内実」全体の考察を踏まえた《したがって》でしょう。そしてここでは《価値関係の媒介によって》と価値関係が重要な位置を占めています。価値関係が問題だったのだ、ということです。だからこの《価値関係》というのは、その前の第10パラグラフを踏まえると、商品自身が商品世界のなかで主体的に取り結ぶ関係として捉えられているということになります。それは何か観察者である第三者のわれわれが二商品の等置関係から同等性を見出し、それが価値の分析を踏まえて、それはだから価値関係であるというのではなく、価値関係というのは、商品自身が主体となって互いに関連し合う商品世界において生じている客観的過程であり、商品自身が取り結んでいる関係なのだ、という意味で《価値関係の媒介》が商品Bの現物形態を商品Aの価値形態にしていると述べているわけです。またここではすでにリンネルや上着など特定の商品ではなく、商品A、Bとして一般化されて論じられています。

 

 ロ)、これは《言いかえれば》ということですから、イ)と同じ内容を商品Bの面から見たものでしょう。とすれば、イ)の内容は第4・5・6パラグラフで展開したリンネルの価値が如何にして表現されるかの過程の説明に対応し、そうした過程が他面では上着に新たな形態規定を与える過程でもあるということを説明した第7・8パラグラフが、このロ)に対応していると考えることもできます。つまり第7・8パラグラフで述べた上着がリンネルのとの価値関係に置かれることによって受け取る新たな形態規定は、すなわち上着がリンネルの《価値鏡》になるということだということです。あるいは第7・8で述べた上着に付着する新たな形態規定というのは《価値鏡》という属性だということでしょうか。

 

 ニ)、これがこの全体の結語です。すなわち相対的価値形態の内実が展開されて、相対的価値形態とは何かが明らかにされたわけです。ここで《このように》と述べていますが、この《このように》は、直前のイ)とロ)の内容を指しているように思えます。つまり商品Bの現物形態が商品Aの価値形態になるという第4~6パラグラフの内容と、商品Bが商品Aの価値鏡になるという第7・8パラグラフの内容によって、商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表されて、相対的価値という形態を持っているのだと、というわけです。

 

◎最後の注も検討

 

 最後に注18がついています。これも全文紹介して少し検討しておきましょう(しかし分節ごとの検討は必要ないと考えます)。

 

  《(18) このことは、商品と同じようにいくらか人間にもあてはまる。人間は、鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる。人間ペテロは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関係を通じてはじめて人間としての自分自身に関係する。だが、それと共に、ペテロにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態として通用するのである。》

 

 これは商品の反省関係を例示するものと考えることが出来ます。人間は他の人間と交わる(交際する)ことによって始めて自分自身が人間であることを自覚するというのです。つまりある個人が自身の人間としての本質を自覚をするのは、他の個人との社会的関係を取り結ぶことによって可能であるということです。そしてその場合には人間としての本質は他の人間に直接現われているとも述べています(それが価値鏡というわけです)。ペテロとパウロの間にある本質(人間種族)は両者に内在するものですが、それ自体としてはその一方でもなく、他方でもない(直接には現われていない)、抽象的な第三者です。しかしこのような内的本質は、両者の関連によって顕現し、確証されます。人間は他者と関係することによって自らの本質を他者に写し出し、自分自身と関係し自覚する。自身と他者との区別とともに、両者の同一性を自覚して、始めて、一人の人間として自己内反省し、その自立性を獲得するわけです。

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 以下は、この「a 相対的価値形態の内実」のなかで検討し残した問題を補足的に論じることにします。

 

●「事実上の還元」の解釈への補足

 

 われわれが商品語の考察で気付いたのは、マルクスは商品の価値が表現される過程を、商品が主体的に行なっている過程として捉えているということでした。そうした視点から、もう一度、第4パラグラフを読み直すと興味深い点に気付きます。まず第4パラグラフを引用してみましょう。

 

  《われわれが、価値としては諸商品は人間労働の単なる凝固体であると言えば、われわれの分析は諸商品を価値抽象に還元するけれども、商品にその現物形態とは異なる価値形態を与えはしない。一商品の他の商品に対する価値関係の中ではそうではない。ここでは、その商品の価値性格が、その商品の他の商品に対する関係によって、現れでるのである。》

 

 ここでは、マルクスは《われわれ》、つまり第三者(観察者)の視点と、商品自身の他の商品との関連とを使い分けていることに気づきます。つまり《価値としては諸商品は人間労働の単なる凝固体である》というのは、われわれが第1節で分析した内容です。しかしそこでは価値形態はただ前提されていただけで、商品の価値からそれを説明できたのではありません。しかし《一商品の他の商品に対する価値関係の中ではそうではない》、つまりここで問題なのは、マルクスは、商品自身が互いに結び合う関係として、「価値関係」を捉えているということです。そしてそうした視点は、第5パラグラフ以下の考察に一貫していることが分かるのです。

 

 マルクスがこうした商品相互の関連に視点を移したのは、では第4パラグラフからか、というとそうではありません。それはまず第3節の前文の次のような文言のなかに示唆されています。

 

  《商品の価値対象性は、寡婦のクイックリー〔シェイクスピアの『ヘンリー四世』などの中の人物〕と違って、どうつかまえたらいいかだれにもわからない。商品体の感性的にがさがさした対象性とは正反対に、諸商品の価値対象性には、一原子の自然素材も入りこまない。だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくりまわしても、それは、価値物としては、依然としてつかまえようがないものである。けれども、諸商品が価値対象性をもつのは、ただ、価値対象性が人間労働という同じ社会的単位の表現である限りにほかならないこと、したがって、商品の価値対象性は純粋に社会的なものであること、を思い出せば、それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現れうるということも、おのずから明らかである。実際、われわれは、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている諸商品の価値の足跡を探りあてた。今や、われわれは、価値のこの現象形態に立ちかえらなければならない。》(全集版64頁)

 

 ここでは商品の価値対象性の捕まえどこのろなさを指摘していますが、これはいうまでもなく、われわれ、つまり第三者としての観察者の立場からの視点です。そうした観察者として第1節における分析を振り返り、《けれども、諸商品が価値対象性をもつのは、ただ、価値対象性が人間労働という同じ社会的単位の表現である限りにほかならないこと、したがって、商品の価値対象性は純粋に社会的なものであること、を思い出せば、それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現れうるということも、おのずから明らかである》と述べています。ここで《商品と商品との社会的関係においてのみ現れうる》というのは、商品自身が主体となって互いに関連する関係、つまり価値関係において、それは《現われうる》というわけです。

 

  また第3パラグラフの途中からも、視点の転換が見られます。第3パラグラフの最初のあたりを引用してみましょう。

 

  《しかし、質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか? リンネルが、その「等価」としての上着、またはリンネルと「交換されうるもの」としての上着に対して関係させられることによって、である。》

 

  最初の部分は、それまでの考察と同じように、「われわれ」が二商品の等置関係を考察しているのですが、《では、どのようにしてか?》以下は、そうではないことに気づきます。ここでは《リンネルが》とリンネルが主語(主体)になっています。リンネルが上着を「等価」なものとして、あるいは「交換されうるもの」として、自分に関係させるわけです。全集版では、まだ第三者がリンネルを上着とそうした関係に《関連させる》ように読めなくもないですが、しかし新書版の『資本論』では、この部分は次のように訳されています。

 

  《しかし、質的に等価された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか? リンネルが、その「等価物」としての、またはそれと「交換されうるもの」としての上着

にたいしてもつ関連によって、である。》(新日本出版社版85頁)

 

 この新書版の訳だと、リンネルが主体(主語)となって上着を自分に等置する関連において、リンネルが自身の価値存在を現出させるのだということがよく分かります。つまりわれわれ第三者(観察者)の思惟による分析ではなく、商品自身が取り結ぶ関連が問題になっているわけです。だから商品を主体に据えての価値関係の考察は、ここから始まるわけです。

 

 そしてわれわれは、そうした観点から、もう一度、第5パラグラフを見てみると、そこでは、マルクスが第4パラグラフで示唆していた第1節で述べていたのと異なる「還元」について述べていると、以前は指摘しましたが、しかしその際、「実際に還元する」という文言について十分な考察をしていなかったことに気付かされるのです。  この場合の「実際に還元する」というのは、まさに商品が主体の世界において商品自身によって「実際に行なわれている還元」だとマルクスが述べているように思えます。第1節では観察者である「われわれ」がその思惟によって対象を分析し、具体的諸労働の有用的属性を捨象して抽象的人間労働に還元したのでした、しかしこの第5パラグラフでは、商品自らがその相互の関連において、その交換において、あるいはその交換の前提となる自身の価値表現において、商品自身が実際に彼らに対象化されている具体的諸労働を抽象的一般的な人間労働に還元しているのだ、という意味なのです。つまりここで「実際に還元する」とマルクスが述べているのは、商品自身がその行為(交換とその前提としての価値を表現する営為)において行なっている「還元」なのだ、という含意があるのだと思います

 

●「a 相対的価値形態の内実」全体の構成を概観する

 

 われわれは「a 相対的価値形態の内実」を終えるにあたり、これまでの考察を踏まえて、この部分全体の論理的構成と展開を、各パラグラフごとに分けて確認しておきたいと思います。それは次のようなものと考えられます。

 

 (1)~(2)パラグラフ--相対的価値形態の分析の前提の確認

 

 (3)パラグラフ--相対的価値形態とは何か、リンネルの価値は如何にして表現されているかを見ている。リンネルの上着との直接的反省関係によるリンネル価値の実存形態の現出、上着が価値物として通用する。

 

 (4)~(8)パラグラフ--直接的な反省関係から現出した現存在としての価値物を、その根拠に遡って、現象形態(「価値体」)として把握する過程。

   まず(4)は(5)(6)の導入部分であり、第三者としての観察者による分析によってではなく、商品を主体とする価値関係においてこそ、リンネルの価値性格(抽象的人間労働とその凝固体という二契機)が現れ出ることが確認されている。

   (5)はだから、そのリンネルの価値性格の一つの契機である、価値を形成する労働の独自の性格、すなわち抽象的人間労働が如何にして裁縫労働によって現出しているかが解明されている。

   そして(6)はもう一つの価値性格の契機としての抽象的人間労働の対象化された形態が、上着形態として現出していることが確認されている。

   (7)(8)は、(5)(6)がリンネルの価値の実体である抽象的人間労働の凝固体が如何にして現出して来るかの解明であったのに対して、その過程の裏面として上着とそれを形成した裁縫労働が、リンネルとの価値関係に置かれることによって新たな形態規定性を受け取ることが説明されている。かくして上着体はリンネルの価値の現象形態として説明され、「価値体」規定が与えられる。

 

 (9)パラグラフ--上述の過程(3~8)の中間総括。ここで初めてリンネルの価値が上着の使用価値によって表現されていることが確認されている。上着の使用価値がリンネルの価値の現象形態となっていることの確認である。

 

 (10)パラグラフ--上述の過程は、われわれが第1節、第2節で商品の価値を分析して明らかになったことは、実は商品自身が現実の商品の交換において(現実の商品市場において)実際に商品自身によって行なわれていることなのだということを確認している。第1節や第2節では、われわれが観察者として、その思惟によって、諸商品の価値を分析したが、第3節では商品が主体となり、商品自身の関連が考察の対象なのである。つまり物象こそが主体であり、そうした物象に、むしろ人間は規制され従属するという、転倒した関係がここで示唆されている。 

   つまりここでマルクスが「商品語」という奇妙なものを持ち出しているのは、上記のわれわれの考察は、確かにわれわれの観察によって初めてなされたことだが、しかしそれは現実の商品交換のなかで商品自身が日々行なっていることなのだ、ということである。これは後に、第4節で商品の物神的性格が考察されるが、その前提として物象化がここ考察されていると言える。

 

 (11)パラグラフ--全体の総括であり、結論である。これまでの考察の結果を、より一般化された形で再確認されている。

 

 このようにこの「a 相対的価値形態の内実」は極めて厳密に論理的に展開されていることがわかります。

 

●「価値物」について再論(補論)

 

 次は最後に残された宿題とも言うべきものです。第16回の報告で「価値物」の議論を紹介したさいに、次のように述べました。

 

 〈確かに大谷氏が紹介している『資本論』からのいくつかの引用文では、ピースさんの意見を肯定するような用例が見られるように思えます。しかしよくよく吟味してみると、やはりそうではなく、マルクス自身は「価値物」という言葉で、価値が形ある物として存在すること、つまり目に見える形で顕れているものと捉えていることが分かるのです。しかしそれを大谷氏が紹介する引用文一つ一つについて、検証すると横道にそれすぎるので、割愛します(またその機会があればやることにしましょう)。〉

 

 つまりこれは宿題として残されているのです。そこでこの問題を最後に考えてみたいと思います。

 

 大谷氏は、『資本論』からの引用文を紹介する前にまず久留間鮫造氏の『価値形態論と交換過程論』からの一文を長く引用したあと、次のように問題を提起しています(傍点は下線に変換)。

 

 〈いまの引用では、等価形態に置かれる上着は、この形態に置かれたときにはじめて「価値物」になる、「価値物」としての形態規定性を与えられることになっています。ここでの「価値物」の意味は、次のところにはっきりと示されています、--「ではどのようにして上衣は--その自然形態そのものが--そのまま価値をあらわすものに、すなわち価値物になるのか……」。また、繰り返して、「抽象的人間的労働の体化物すなわち価値物」と言われています。「価値物」がこのようなものであるとすると、それはもちろん等価形態に立つ商品についてのみ言いうることで、相対的価値形態にある商品、たとえばリンネルはつねに「価値物」ではないということになります。じっさい先生は、上着のほうについてのみ「価値物」と言っておられます。ところが、マルクスの場合には、「価値物(Wertding)」という言葉が先生が使われているのとは違った意味で使われているように思われてならない。『資本論』の第1章からその用例を示すと、次のようなものがあります。〉(『貨幣論』96頁)

 

 そして大谷氏は『資本論』から五つの引用文を紹介しているわけです。しかしそのうちの2~3の引用文は、すでにわれわれがこの「a 相対的価値形態の内実」を詳細に検討するなかで明らかにしてきたものです(第3、第5、第10の各パラグラフに出てくる「価値物」が引用されている)。だからわれわれは大谷氏が最初と最後に引用紹介しているものだけをここでは検討すれば良いと思います。それらが、大谷氏によると、「価値物」は上着だけでなく、リンネルについても言いうる用例であり、〈「価値物」とは価値対象性をもつもの〉という概念を示すものだというわけです。果たしてそうなのか、マルクスはそうした意味で「価値物」という用語を使っているのか、それをこれからその二つの引用文について検討してみようというわけです。それは次のようなものです。

 

 まず大谷氏が最初に引用しているのは、前にも紹介しましたが、次のような第3節の前文に出てくる文章です。

 

 《商品の価値対象性は、寡婦のクイックリー〔シェイクスピアの『ヘンリー四世』などの中の人物〕と違って、どうつかまえたらいいかだれにもわからない。商品体の感性的にがさがさした対象性とは正反対に、諸商品の価値対象性には、一原子の自然素材も入りこまない。だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくりまわしても、それは、価値物としては、依然としてつかまえようがないものである。》(全集版64頁)

 

 ここに出てくる「価値物」が、果たして大谷氏がいうような意味で使われているのかどうか、です。

 

 ここでは商品の価値対象性はとらえどころがないことが言われています。というのは商品の直接的な自然な対象性はその使用価値であり、それはわれわれには感覚的にも捉えることかできます。ところが商品の価値対象性は純粋に社会的なものであり、よって自然素材をまったく含まない、使用価値とは正反対のものだからです。つまりこの場合、商品が価値対象性をもつものであることは、前提されているのです。その上で、マルクスはその価値対象性は、しかし直接には、感覚的には、捉えどころのないものだ、と述べていることが分かります。だからもし大谷氏のように「価値物」=「価値対象性を持つもの」とするなら、この文章はおかしなことになります。なぜなら、そうなると、上記の一文は次のようになるからです。

 

 〈だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくりまわしても、それは、「価値対象性を持つもの」としては、依然としてつかまえようがないものである。〉

 

 しかし商品が価値対象性を持つものであることが前提されているからこそ、商品の価値対象性は捉えどころがないものだということが論じられ得るのであって、それさえも分からないのなら、そもそもそれが捉えどころがあるのかないのかも問題にはならないのではないでしょうか。価値対象性を持つものであるかどうかも、依然としてつかまえようがないというのでは論理的に不合理としかいいようがないわけです。

 

  それに対して、われわれが主張する「価値物」とは「価値の存在形態」であり、「価値が目に見えるような形ある物」として現われているものだと理解するなら、上記の一文はスッキリと理解できます。

 

 〈だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくりまわしても、それは、「価値が目に見える形ある物」としては、依然としてつかまえようがないものである〉

 

 またこの場合は、確かに一つの商品だけが問題になっていますが、しかし一つの商品だけを見ているかぎりは依然としてそれを「価値物」としては捉えられないというのですから、それはむしろ「価値物」という規定は、二商品の価値関係においてはじめて与えられる規定、つまり形態規定であることを論証しているとも言えるわけです。だからこの引用文を根拠に「価値物」がリンネルにも妥当するなどという大谷氏の主張は正当化はできないのです。

 

 次に大谷氏が最後に引用しているのは、「第4節 商品の物神的性格とその秘密」のなかにある次の一文です。

 

 《労働生産物は、それらの交換の内部で、はじめてそれらのたがいに感性的に異なる使用対象性から分離された、社会的に同等な、価値対象性を受け取る。有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂がはじめて実際に発現するのは、有用物が交換を目あてに生産されるまでに、したがって、諸物の価値性格がすでにそれらの生産そのものにおいて考慮されるまでに、交換が十分な広がりと重要性とを獲得した時である。》(全集版99頁)

 

 この一文は、一見すると、如何にも大谷氏らの「価値物」理解を正当化するように思えます。マルクスは《感性的に異なる使用対象性》《社会的に同等な、価値対象性》を上げ、それを言い換える形で《有用物と価値物》を挙げているのですから、この場合の《価値物》《価値対象性を受け取る》こと、つまり「価値対象性も持つもの」という大谷氏の主張を根拠づけているように見えるわけです。

 

  しかしこの文章を良く吟味してみるとそうではありません。例えば、マルクスは《それらの交換の内部で》と書いているように、ここで問題になっているのは諸物なのです。《それらが互いに感性的に異なる使用価値から分離》されて、《社会的に同等な、価値対象性を受け取る》と述べています。ここで《受け取る》のは《それら》《諸物》であり、《それら》《諸物》《それらの互いに感性的に異なる使用価値から分離》されて、つまりそれらの諸使用価値と区別された存在として、《社会的に同等な、価値対象性を受け取る》と述べているのですから、この《社会的に同等な、価値対象性》というのは、ある特定の労働生産物がそうした一般的な等価物として分離されてくる事態をマルクスは述べていると考えるべきなのです。この文章は、すでに貨幣形態まで説明が終わったあとに展開されている、第4節の文章であることも考える必要があります。

 

  また上記の引用文は、次の文章とまったく同じ内容を述べていると考えることが出来ます。

 

 《交換の不断の反復は、交換を一つの規則的な社会的過程にする。したがって、時の経過と共に、労働生産物の少なくとも一部分は、意図的に交換めあてに生産されざるをえなくなる。この瞬間から、一面では、直接的必要のための諸物の有用性と交換のための諸物の有用性とのあいだの分離が確定する。諸物の使用価値は、諸物の交換価値から分離する。》(全集版23a118頁)

 

 これは「第2章 交換過程」の中の一文ですが、ここで注意が必要なのは、《諸物の使用価値》が分離するのは、《諸物の交換価値》からだということです。これは先の第4節の引用文のなかにある《有用物と価値物》に該当すると考えてよいでしょう。つまりこの二つの引用文から類推するに、マルクスが先の第4節の引用文で述べている《価値物》《交換価値》を意味していると考えられるのです。いうまでもなく、《交換価値》というのは、価値が目に見える形で現象している形態にあるものです。すなわち、上記の引用文が述べているのは、諸物の使用価値が、価値の現象形態としての《交換価値》から分離するということです。だから使用価値が分離するのは、ただ単に「価値対象性を持つもの」というような価値を内在的に持っている物からではなく、価値が現象して目に見えている物からなのです。またそれを言い換えて《直接的必要のための諸物の有用性と交換のための諸物の有用性とのあいだの分離が確定する》とも述べています。《交換のための諸物の有用性》というのは、諸物の使用価値がただ交換のためにだけに使われるということです。つまり等価物に置かれた商品の使用価値が価値を表すためにだけに使われるということなのです。だからこれもやはり価値が目に見える形で現われた物を意味しているのです。

 

  だからもう一度、最初の引用文に返ると、マルクスが《有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂》と述べている《価値物》というのは、単に「価値対象性を持つもの」といった意味ではなく、「価値が目に見える物という形で」現われているもの、つまり「一般的な等価物」、あるいは「貨幣」を意味しているのです。そのように理解すべきものなのです。かくして大谷氏らの主張にはまったく根拠がないことがこの引用文でも論証されるのです。

 

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【付属資料】

 

第9パラグラフに関連するもの

 

《補足と改訂》

 

 《それゆえ,価値関係--他の商品との交わり--のなかでリンネルの価値は使用対象性とは異なった表現を獲得する。しかし,どのようにしてか。リンネルが上着に等しいものとして表現されることによってである,それはちょうど,キリスト教徒の羊的性格が神の仔羊との同等性において現れるのと同じである。  しかし,上着,上着商品の身体は一つの単なる使用価値である。それゆえ,リンネルリ価値はそれとは反対のもの,他の何らかの種類の使用価値,それが何であれとにかく使用価値で,表現される。……  リンネルの上着にたいする価値関係おいて上着は普通の商品体であると同時に,幽霊体〈Gespensterleib〉であり、抽象的人間労働の蛹化であゐ。したがって,この関連の内部では,上着は,そのウールのもつふくよかさも,最新流行のスタイルも通用しないし,聖なる香りを嗅ぐこともないし,その他使用価埴としての上着を飾る有用な肉体的精神的特徴も,通用しない。まさしく,上着の位置にリンネルとは違う商品体であればどの商品体であっても,鉄であろうと,小麦であろうと,臭い焼肉〈Assa Foetida〉であろうと,人糞肥料等々であろうと,何の問題もなくとって替わることができるのである。  それゆえ,自分の価直と等しいものとしての,等価物としての上着との関係を通してリンネルは,自分の自然形態とは切り離された価値形態を獲得する。一面でこの関係は,リンネルの価値を形成している労働の抽象的人間的性格を表現するが,他方,この価埴実体が対象的形態をもつ。上着と等しいものとして、リンネル価値は,リンネル体とは感覚的に全く対照的である。》(65頁、67頁)

 

《フランス語版》

 

 《したがって、上衣をリンネルの等価物とする関係は、上衣形態をリンネルの価値形態に変態するか、あるいは、リンネルの価値を上衣の使用価値のなかで表現する。使用価値としては、リンネルは上衣と感覚的に異なる物体であるが、価値としては、上衣がリンネルと等価物であることから明瞭に証明されるように、上衣に等しい物であり、上衣に見えるのである。キリスト教徒の羊のような性質が、このキリスト教徒が神の仔羊と類似していることのうちに現われるように、リンネルの価値属性は、リンネルが上衣と同等であることのうちに現われる。》(22頁)

 

●第10パラグラフに関連するもの

 

《初版本文》--特定できるものはないが、この価値関係がリンネルの一方的なものであることを論じている部分を引用しておく。

 

 《価値形態の両方の規定、または交換価値としての商品価値の両方の表現様式は、単に相対的であるとはいえ、両方が同じ程度に相対的に見えるのではない。リンネルの相対的価値 20エレのリンネル=1着の上着 においては、リンネルの交換価値が明白に他の一商品にたいするリンネルの関係として示されている。上着のほうは、たしかにただ、リンネルがそれ自身の価値の現象形態としての、したがってまたリンネルと直接に交換されうるものとしての、上着に関係するかぎりにおいてのみ、等価物である。ただこの関係のなかにおいてのみ上着は等価物なのである。しかし、上着は受動的にふるまっている。それはけっしてイニシアチブを取ってはいない。上着が関係のなかにあるのは、それが関係させられるからである。それだから、リンネルとの関係から上着に生ずる性格は、上着のほうからの関係の結果として現われるのではなくて、上着の作為なしに存在するのである。それだけではない。リンネルが上着に関係する特定の仕方、たとえ上着がまったく控え目であって、けっして「うぬぼれて気の狂った仕立屋」の製品ではなくても、まったく、上着を「魅惑する」ように仕立てられている。すなわち、リンネルは、抽象的人間的労働の感覚的に存在する物質化としての、したがってまた現に存在する価値体としての、上着に関係するのである。上着がこういうものであるのは、ただリンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであり、またそのかぎりにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリンネルの反射規定なのである。ところが、それがまったく逆に見えるのである。一方では、上着は自分自身では、関係する労をとってはいない。他方では、リンネルが上着に関係するのは、上着をなにかあるものにするためではなくて、上着はリンネルがなくてもなにかあるものであるからなのである。それだから、上着にたいするリンネルの関係の完成した所産、上着の等価形態、すなわち直接に交換されうる使用価値としての上着の被規定性は、たとえば保温するという上着の属性などどまったく同じように、リンネルにたいする関係の外にあっても上着には物的に属しているように見えるのである。相対的な価値の第一の形態または単純な形態 20エレのリンネル=1着の上着 にあっては、このまちがった外観はまだ固定されてはいない。なぜならば、この形態は直接に反対のことをも言い表わしているからである。すなわち、上着がリンネルの等価物であるということ、および、これらの両商品のそれぞれがこのような被規定性をもつのは、ただ、他方の商品がその商品を自分の相対的な価値表現とするからであり、また、そうするかぎりにおいてのことである、ということがそれである。》(国民文庫版55-6頁)

 

《補足と改訂》

 

 《[B]

  [7]2)相対的価値形態

  a)相対的価値形態の内実

    ………………………………(略)

  商品の分析はわれわれに次のような結論をあきらかにした。すなわち,価値としては全ての商品は,その肉体のさまざまな多様性にもかかわらず,同じ単位のたんなる表現であり,すなわち質的に等しい,ということである。しかしながら,商品自身はあいかわらず,その価値性格のほんの少しの徴候をも目分からは示すことなく,生まれたままの自然形態にとどまっている。

  [B1]

  他方,ある一つの商品,たとえばリンネルが,他の商品,たとえば上着と価値関係に入るや否や。つまり,この関係はそれ自身の他の商品との関係である。〈さきに分析がわれわれに語ったことを,いまやリンネル自身が語るのである。ただ,リンネルは,自分だけに通じる言葉で,商品語で,その思いを表現する。もちろん,商品語もまたさまざまな方言をもっている。たとえば,ロマンス語の動詞valer,valoirはドイッ語のWerthseinと比べて,商品Aの価値が表現されている異なった種類の商品Bとの価値同等性関係が,商品A自身の関連であることを,より適切に表現している。)使用価値あるいは使用対象としてはリンネルは,そのごわごわした肉体によってすでに感覚的に使用対象・上著とは区別されている。しかし,商品としてはリンネルは単に使用対象,商品体であるだけではなく,同時に何か全く違った物,見えない物,つまり価値である。リンネルは異なった種類の商品・上着と関係することによって,自分と等しい物としての上着と関連することによって,上着がいきなりリンネルと質的に等置される関係のなかで,自らの価値存在を表すのである。リンネルは上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。

  [B2]

  他方,ある一つの商品,たとえばリンネルが,他の商品,たとえば上着と価値関係にはいるや否や。この関係は,その商品自身の他の商品に対する関係である。使用価値としては,リンネルはそのごわごわした肉体によって感覚的に使用価値上着とは区別される。しかし,それは商品である,それゆえ物質的に普通の使用物であるばかりではなく,より高度な,見ることの出来ない本質--価値,でもあるのである。リンネルはある一つの異なった種類の,したがって明かに自分とは違った商品上着と,自分と等しい物として関係することによって,上着がいきなりリンネルと質的に等置される関係のなかで,リンネルはこの自らの価値存在を表すのである。リンネルはその無愛想な見かけにもかかわらず,上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。さきに,リンネル価値の分析がわれわれに語ったことを,リンネル商品が上着との関係を通して,いまや自ら語るのでのである。ただ,リンネルは,自分だけに通じる言葉で,商品語で,その思いを打ち明ける。もちろん,商品語も,ヘブライ語以外にもさまざまな,あるいはより的確なあるいはそれほど的確でない方言を持っている。そこで,たとえば,ドイツ語のWerthseinはロマンス語の動詞valere,valer,valoirと比べて,商品Bとの同等性関係を,商品Aの固有の価値関係として表現するには,あまり明示的ではない。〈Pari sa vaut bien une messe.〉》(「補足と改訂」63-65頁)

 

《第二版》

 

 《要するに、商品価値の分析が以前われわれに語ってくれたいっさいのことを、リンネルが上着という他の商品と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語ってくれる。リンネルは、自分だけが熟知している言葉である商品語で、自分の思想を漏らしているにすぎない。人間労働という抽象的な属性においての労働が、リンネル自身の価値を形成している、と言うために、リンネルはこう言う、--上着がリンネルと同等であり、したがって価値であるかぎり、上着は、リンネルが成り立っているのと同じ労働から成り立っている、と。自分の崇高な価値対象性は自分のごわごわした体躯とはちがっている、と言うために、リンネルはこう言う、--価値が上着のように見え、したがって、自分自身は価値物としては上着とうり二つである、と。 ついでに言っておくと、商品語にも、ヘブライ語のほかに、正確な--正確さの点では程度の差があるが--方言がなお数多くある。たとえば、ドイツ語の“Werthsein”〔「値する」〕は、商品Bを商品Aに等置することが商品Aの固有の価値表現になるということを表現する手立てとしては、ロマン語の動詞であるvalere,Valer,valoir,よりも適切ではない。パリはまさにミサに値する〈“valoir”〉!〔アンリ四世が王位につくため改宗したときに発した言葉。ただし、この言葉は、“valoir”というロマン語の動詞の用例として引用されたものにすぎない。〕》(第二版邦訳30-1頁)

 

《フランス語版》

 

 《リンネルが上衣という他の商品と交わりを結ぶやいなや、価値の分析が以前われわれに知らせてくれたいっさいのことを、リソネル自体が語ってくれる、ということがわかる。リンネルはただ、自分が日常親しんでいる言葉、商品の言葉でしか、自分の考えを洩らさない。自分の価値がその抽象的な属性においては人間労働から生じているということを表現するために、リンネルはこう言う。上衣は、私と同じだけの価値をもつかぎり、すなわち、価値であるかぎり、私自身と同じ労働から成っているのだ、と。リンネルのもつ価値としての崇高な実在が、こわばって筋のある自分の体躯とはちがうことを表現するために、リンネルはこう言う。価値は上衣の姿をとり、したがって、卵が一つ一つ互いに類似しているように私自身も価値物としては上衣に類似している、と。ついでに注意しておくと、商品語には、ヘブライ語のほかに、多かれ少なかれ正確な別の方言や訛りが数多くある。商品Bが商品Aと等価であるという確認が、商品Aの固有の価値表現になるのだ、ということを言い表わす点で、たとえば、「値する〈Wertsain〉」というドイツ語は、ロマン語の動詞Valere,valer,およびフラソス語のvaloirほどにはっきりとしていない。パリは確かにミサに値する〔アンリ四世が王位につくため、新教から旧教に改宗したとぎに発した言葉〕。》(23頁)

 

●第11パラグラフに関連するもの

 

《初版本文》--特定しがたいが、注(18a)がつけられている部分を引用しておく。

 

 《20エレのリンネル=1着の上着、または、xエレのリンネルはy着の上着に値する、という相対的な価値表現のなかでは、上着はただ価値または労働凝固体としてのみ認められているのではあるが、しかし、それだからこそ、労働凝固体は上着として認められ、上着はそのなかに人間労働が凝固しているところの形態として認められているのである(18。a)使用価値上着がリンネル価値の現象形態になるのは、ただ、リンネルが抽象的人間労働の、つまリリンネル自身のうちに.対象化されている労働と同種の労働の、直接的物質化としての上着物質に関係しているからにほかならない。上着という対象性は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的につかまえられる対象性として、したがってまた現物形態における価値として、認められているのである。リンネルは価値としては上着と同じ本質のものであるがゆえに、上着という現物形態がこのようにリンネル自身の価値の現象形態になるのである。しかし、使用価値上着に表わされている労働は、単なる人間労働ではないのであって、一定の、有用な労働、裁縫労働である。単なる人間労働、人間労働力の支出は、どのようにでも規定されることはできるが、それ自体としては無規定である。それは、ただ、人間労働力が特定の形態において支出されるときにはじめて、特定の労働として実現され、対象化されることができるのである。なぜならば、ただ特定の労働にたいしてのみ、自然素材は、すなわち労働がそれにおいて対象化される外的な物質は、相対するのだからである。》(国民文庫版48頁)

 

《補足と改訂》

 

 《したがって,価値関係の媒介によって,商品Bの自然形態が商品Aの価値形態,商品種類Aの価値鏡となる。(注18,人間について)商品Aが肉体化した価値としての,すなわち人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって,商品Aは自分と違う商品の肉体を自分自身の価値表現の材料にする。そのようにして,ある一つの商品の価値がある異なった種類の商品の使用価値において表現され,相対的価埴の形態を受け取る。》(67頁)

 

《フランス語版》

 

 《価値関係によって、商品Bの自然形態が商品Aの価値形態になる、すなわち、Bの体躯がAにとってAの価値の鏡に(17)なる。このように、商品Bの使用価値のうちに表現された商品Aの価値が、相対的形態を獲得するのである。》(23頁)

 

●注18に関連するもの

 

《初版本文》

 

 《(18a)見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するきである。しかし、それとともに、またパウロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種族の現象形態として認められるのである。》(国民文庫版49頁)

 

《フランス語版》

 

 《(17)ある関係のもとでは、人間も商品と同じである。人間はけっして鏡をもって生まれてくるのでもないし、フィヒテ--彼の自我は確認されるためになにものをも必要としない--流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間はまず、自分以外の人間のうちにのみ自分の姿を映して、自分を認めるのである。したがって、彼には、皮膚と毛をもった、自分以外のこの人間が、人間という類の現象形態であるかのように見える。》(23頁)

 


第19回「『資本論』を読む会」の案内

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

                                    

 11月20日、菅直人副総理(経済財政担当相)は、11月の月例経済報告で日本経済は「緩やかなデフレ状況にある」と宣言しました。

 

 

 デフレーション(deflation)の明確な定義は無いようですが、IMF(国際通貨基金)は「少なくとも2年程度下落が続く状態」などと定義しているようです。要するに物価が持続的に下落する状態です。

 

 物価、つまり「商品の価格」は、何によって決まってくるのでしょうか。

 

 『資本論』の第1篇では「商品と貨幣」が論じられています。そこでは商品の「価格」は、商品の「価値」の貨幣表現だと述べています。つまり商品の価格は、貨幣によって商品の価値を相対的に計った(尺度した)ものなのです。そして商品の「価値の大きさ」は、その商品の生産のために社会的に必要な労働時間によって規定される、云々。

 

 こうした『資本論』で論じられている、商品の「価値」と「価格」の理論は今日においても当然妥当します。しかし今日の物価を規定する要因は、もっと複雑であり、さまざまなものによって媒介されています。少し、物価下落の考えられうる要因を挙げてみましょう。

 

 (1)、まず当然、商品の「価値」の低下があります。これはパソコンやテレビなど電化製品などの価格の下落などはそれらを生産する技術の革新によって、生産力が上がった分だけ、一つの商品に支出される労働量が減少して、価値が低下した結果と考えられます。

 

 (2)、貨幣価値の変動。これは金を生産する生産力の変化によって、金の価値量が変化し、よってその金によって相対的に表現された商品の価格が、例えその価値が変わらなくても変化する場合があることです。しかし金の価値そのものは、そんなに急速に変化するようなものではないですから、とりあえずは考えなくてもよいでしょう。

 

 (3)、度量標準の変化。これは現代の通貨(円)が、どれだけの金量を代表しているのかという問題です。私たちが使っている「一万円札」は日銀が発行する銀行券です。それが一般流通に入って通貨(流通手段)として流通しています。その限りでは金を代理して流通する紙幣と同じ流通法則に立脚しているのです。これは兌換銀行券か不換銀行券かの相違とは無関係です。しかし現在の日銀券のように不換券の場合(金との交換が停止されている場合)は、それがどれだけの金量を代表しているのかは、法的、制度的には決まっていません。だからそれは日常的に変化しているわけですが、その変化は、金の市場価格(円価格)に反映しており、それによって現在の一万円札が、だいたいどれぐらいの金量を代理しているかの見当はつけることができます。ただこれは一般的には、代表する金量は減る傾向にあり、通貨の「価値」は下落傾向にあるので、その限りでは物価を一般的に押し上げるように作用するのです。だからこれはデフレではなくインフレ要因として作用するのです。

 

 (4)、為替相場の変動。これは円がドルやその他の通貨に対して高くなる場合が考えられます。その場合は、輸入商品の価格が下落します。例えばドン・キホーテの690円のジーンズが用意した3万本がたちまち売り切れたなどという例は、そうしたケースに当てはまるでしょう。為替相場は、だいたいにはそれぞれの国の通貨の「価値」(それぞれの通貨が代表する金量)を反映しますが、直接には、その国の国際収支に規定されています。一般に、輸入より輸出が多かったり、外国に投資した資本からの収入が多かった場合に高くなりますが、為替投機によっても急速に変動する場合もあります。

 

 (5)、原油の高騰のように、国際的な商品投機による物価変動が国内に波及する場合もありえます。つまり今日の物価下落は、一時期の原油の高騰(それはもっぱら投機によるものと考えられています)から較べれば、比較的その価格が落ち着いている状態を反映している側面もありうるわけです。

 

 (6)、最後に、これは今回の物価下落の一番重要な要因と思いますが、マルクスは過剰生産恐慌時には、過剰な商品や資本の「価値の破壊」が強行されると指摘しています。つまり過剰な商品は強制的に投げ売りされるし、過剰な生産整備はスクラップ化されざるをえません。今回の物価下落の原因としては、サブプライム金融恐慌によって暴露された過剰生産が調整されている局面という要素が一番大きいように思います。政府は2001年3月にもデフレ宣言を行ないましたが、あの時も2000年のアメリカのITバブルが崩壊した時期に合致します。むろし今回の「価値の破壊」がドラスチックに進まないのは、これもさまざまな要因がこれまた絡んでいますが(その大きな要因としては政府のエコ補助などさまざまな救済策があるでしょう)、デフレ圧力を通貨価値の下落によるインフレ圧力がある程度相殺しているからだとも考えられます。本来ならもっと激しい物価の下落があってもおかしくはないのです。

 

 このように物価の一般的下落といってもさまざまな要因が絡まっていますが、しかしそれらを解明するためにも、やはり『資本論』の研究はその基礎として必要なのです。貴方も日常的な経済現象をより深く理論的に把握するためにも『資本論』を一緒に読んでみませんか。

 



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