目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第9回「『資本論』を読む会」の案内
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第10回「『資本論』を読む会」の案内
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第14回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第15回「『資本論』を読む会」の案内

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

 

                                     

  今年の夏は、何かおかしい。

 

 すでに8月の声も聞こうかというのに、いまだに梅雨前線が日本列島に居すわって、各地でゲリラ的な集中豪雨をもたらし、突風、竜巻まで引き起し、十数人もの死者など甚大な被害を与えている。日照時間の少なさから北海道ではジャガイモなど根菜類の収穫が遅れ、野菜の値上がりが報じられている。これもやはり地球規模の環境破壊の影響であろうか。

 

 最近の新聞(「朝日」7月30日夕刊)でも、ヒマラヤの氷河が1984年撮影のものと2004年撮影のものと二つの写真が比較されていたが、氷河が急速に溶けだしていることが、視覚的に確認された。

 

(『朝日』7月30日夕刊より)

 

 

 

 地球環境の異変が叫ばれてすでに久しいが、しかしこうした地球規模による環境の破壊や異変の根本原因が資本主義的生産様式そのものにあるということは、あまり指摘されたことはない。

 

 マルクスは、人間の生産活動を生物学の用語を使って「社会的物質代謝」と規定している。人間は労働によって自然から有用物を取り出し摂取し、不要なものを自然に返す代謝活動を社会的に行なっている。だから社会にとって有用なものを生産するために、社会の総労働を必要な生産分野に配分しなければならないが、しかし人間はそれを意識的に行なっているわけではない。個々の生産分野はそれぞれ独立に私的な利害にもとづいて行なわれながら、その生産物を商品として交換することで、彼らの生産の社会的な結びつきを実現しているのである。だからどの分野にどれだけの労働を配分するかは、商品の交換の結果として決まってくるだけである。

 

 だから人間は、彼らの社会的物質代謝を自分たちの意識のもとにコントロールしているのではなくて、反対に社会的物質代謝の諸法則は、一つの“自然法則”として、人間を支配し統制する経済的な諸法則という形で立ち現れているのである。人間がそれらの諸法則に翻弄されていることは、今日の深刻な経済恐慌が私たちに何をもたらしているかを考えてみれば、明らかである。

 

 しかも資本主義的生産においては、個々の生産は集中・集積され、ますます大規模に徹底的に組織的に行なわれながら、しかし社会的には私的な生産でしかなく、依然として生産物は商品として交換されている。個々の資本は利潤を唯一の推進動機として猛烈な競争によって生産力を飛躍的に高める一方で、生産の社会的結びつきは、ただ商品交換を通じた偶然的な諸結果にまかせるしかない生産様式なのである。

 

 だから個々の資本はただ儲けることを最大の目的にし、社会全体のことを考えて生産するわけではない。ましてや地球規模の社会的物質代謝を考慮して生産することはできない。高度に発達した現代の物質的生産力は、豊かな富を生み出す一方で、社会的に統御されないために、地球環境には盲目的に作用して、それを破壊する。これが今日の地球規模の環境破壊や異変の本当の原因なのである。

 

 マルクスは将来の社会ではこうした社会的物質代謝を意識的な統制のもとにおく必要があると、次のように述べている。

 

 《社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。》(『資本論』第3部、全集版25b1051頁)

 

 人類が当面する地球規模の危機も、資本主義的生産様式が歴史的に克服される必要があることを示している。『資本論』はそうした人類史の壮大な歴史観にもとづいた科学的な経済書である。貴方も一緒にそうした『資本論』を読んでみませんか。

 


第15回「『資本論』を読む会」の報告

第15回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎お盆休みの最終日

 

 第15回「『資本論』を読む会」はお盆休みの最終日になる8月16日に開催されました。

  図書館は開いていましたが、3階の集会室はわれわれ以外は誰も使っておらず、閑散としていました。

  泉が丘駅前では、行きは自民党、帰りは共産党と、公示を前にそれぞれ候補者本人が来て挨拶し、ビラを配布していました。改革クラブも宣伝カーで回っていました。ビラを見ると、自民党は「責任力」が謳い文句。何でも「力」をつけて良いなら、民主党はせいぜい「バラマキ力」、公明党は「変節力」、共産党は「ルール力」、社民党は「護憲力」でしょうか。選挙は30日。果たして政権交代はなるのでしょうか。

 

◎「相対的価値形態の内実」

 

 今回は、「第3節 価値形態または交換価値」の「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」の「2 相対的価値形態」の「a 相対的価値形態の内実」の最初からはじめたのですが、結局、たった三つのパラグラフを進んだだけでした。

  これはお盆だから、簡単に切り上げたからではなく、それだけ議論が紛糾したからなのです。とにかくパラグラフごとに紹介してゆきましょう。

 

 しかしパラグラフに移る前に、まず表題についてです。表題はそこでの課題を明らかにしていますから、それをまず見ておきましょう。

 

 《 2 相対的価値形態 》

 

 これは《1 価値表現の両極--相対的価値形態と等価形態》で、20エレのリンネル=1着の上着(x量の商品A=y量の商品B)という等式のうち、その価値を表す商品20エレのリンネルは、自らの価値を別の商品である1着の上着で相対的に表しており、その場合は、リンネルは「相対的価値形態」にあると説明されていました。その「相対的価値形態」が、つまりリンネルの「価値」が「相対的」に表される「形態」が、まず考察の対象にされるというわけです。

 

 《 a 相対的価値形態の内実 》

 

 これは「相対的価値形態」として、まずその「内実」(Inhalt・内容)を問題にするということです。興味深いことに、初版付録では、この部分はさらに次のような小見出しに細分されていることです。

 

 a 同等性関係

 b 価値関係  

 c 価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の内実

 

 つまり現行版の表題は、初版付録の三つ目の表題に一致していると考えることができます。現行版は初版付録と比べても、この項目は厳密化されて膨らんでいますから、現行版の「a 相対的価値形態」の最初の数パラグラフは、内容的には、初版付録の「a 同等性関係」と「b 価値関係」に該当すると考えてよいでしょう。私の考えでは、これは第1・3パラグラフがそれに当たるのではないかと思っています。しかしそれはそれぞれのパラグラフを詳しく見ていくなかで考えることにしましょう。

 

◎価値関係に価値表現が潜んでいるとは?

 

 それでは、次は、第1パラグラフに移ります。

 

 《ある一つの商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいるかを見つけだすためには、この価値関係を、さしあたりその量的関係からまったく独立に、考察しなければならない。人は、たいてい、これと正反対のことを行っており、価値関係のうちに、二種類の商品の一定量同士が等しいとされる割合だけを見ている。その場合、見落とされているのは、異種の物の大きさは、それらが同じ単位に還元されてはじめて、量的に比較されうるものとなるということである。それらは、同じ単位の諸表現としてのみ、同名の、したがって通約可能な大きさなのである(17)。》

 

 最初に、先にも紹介しましたが、「初版付録」と「補足と改訂」および「フランス語版」では、この部分はどうなっているのかをみておくことにしましょう。

 

 《《初版付録》  

 

 〈 a 同等性関係  自分の価値を表現しようとするものはリンネルなのだから、リンネルのほうかちイニシアチブは出ている。リンネルは、上着にたいして、すなわち、なんらかの別な、リンネル自身とは種類の違う商品にたいして、ある関係にはいる。この関係は等置の関係である。20エレのリンネル=1着の上着という表現の基礎は、事実上、リンネル=上着であって、これは、言葉で表わせば、ただ、商品種類上着は自分とは違う商品種類リンネルと同じ性質のもの同じ実体のものである、ということでしかない。人々はたいていはこのことを見落とすのであるが、そのわけは、注意が、量的な関係によって、すなわち、一方の商品種類が他方の商品種類と等置されている特定の割合によって、奪われてしまうからである。人々が忘れているのは、違う諸物の大きさは、それらが同じ単位に換算されたのちに、はじめて量的に比較されうる、ということである。ただ同じ単位の諸表現としてのみ、それらは同じ分母の、したがってまた通約可能な大きさなのである。だから、前述の表現では、リンネルが自分と同じものとしての上着に関係するのであり、言い換えれば、上着が同じ実体の同じ本質の物としてのリンネルに関係させられるのである。だから、上着はリンネルに質的に等置されるのである。〉(国民文庫版133-134頁)

 

 《補足と改訂》

 

                     [A]

 ある一つの商品,たとえばリンネル,の相対的価値表現--20エレのリンネル=1着の上着 すなわち20エレのリンネルは1着の上着に領する--において,人は,たいてい,量的な関係だけを,すなわちある商品が他の商品と等しいとされる一定の割合だけを,見ようとする。その場合,見落とされているのは,異なった物の大きさは,それらが同じ単位に還元されてはじめて,量的に比較されうるものとなるということである。それらは,同じ単位のもろもろの表現としてのみ,同名の,それゆえ同じ単位で計量されうる大きさなのである。

                     [B]

 ある一つの商品の簡単な価殖表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいるかをみつけ出すためには,この価値関係を,さしあたりその量的関係からまったく独立に,考察しなければならない。人は,たいてい,これと正反対のことを行っており,価値関係のうちに,二種類の商品の一定分量どうしが等しいとされる一定の割合だけを見ている。その場合,見落とされているのは,異なった物の大きさは,それらは同じ単位に還元されて〈Zrückfürung〉はじめて,量的に比較されうるものとなるということである。それらは,同じ単位のもろもろの表現としてのみ,同名の,それゆえ同し単位で計量されうる大きさなのである。〉(『補足と改訂』前掲61-63頁)

 

 《フランス語版》

 

  〈一商品の単純な価値表現がどのように二つの商品の価値関係のうちに含まれているか、を見つけ出すためには、まず、この価値関係を、その量的な側面は無視して、考察しなければならない。一般に行なわれているのはこれと逆のことであって、価値関係のうちに、二種の商品の一定量が相互に等しいと表わされている割合を、もっぱら考察するのである。相異なる物は、同じ単位に換算されたのちにはじめて量的に比較しうることが、忘れられている。ただそのばあいにだけ、これらの物は同じ分母をもち、通約可能になる。〉(前掲19-20頁)

 

 さて、ここで問題になったのは冒頭の《ある一つの商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいるか》という部分でした。

 

  これを見ると、価値表現は価値関係のなかに「潜んでいる」と読めるが、両者の関係はどういうものか、そもそも価値関係とは何か、交換関係とはどう違うのか、そして価値表現が「潜んでいる」ということは、そのなかに隠れているということか、とするなら価値関係は一見すると見えている(明らかである)ことになるのか、そして価値表現はそうではなくてそこに隠されているということか、等々と、それはそれは、大変な議論が、例によってJJ富村さんなどから次々と出されて、紛糾しました。順序を追って考えてゆきましょう。

 

 まず確認しなければならないのは、20エレのリンネル=1着の上着(x量の商品A=y量の商品B)という等式は、次のような意味をもっているということです。すなわちわれわれの住むこの社会は、われわれが生きていくのに必要もののほとんどを商品として生産し、それを社会的に交換することによって維持されているということです。だから二商品の等式は、そうした社会の物質代謝をなしている商品交換のもっとも基本的な関係として、二商品が交換される関係を取り出しているということです。しかもそれは現実に存在している客観的な商品交換の関係から、それに付随するさまざまなもの、例えばそれらが資本の生産した商品であるという属性や、商品の売買にまつわる信用や、商品所有者や購買者の思惑や欲望、貨幣等々、実際に商品が交換され売買されている諸関係に付随するさまざまな諸問題はとりあえずはすべて捨象されて、とにかく商品と商品が社会的に交換されるという物質代謝のもっとも抽象的な関係だということです。だからそれは直接には、ある一つの商品の一定量が別の他の商品の一定量と交換されるという現実としてわれわれの前には現われているのです。これが交換関係です。それは直接にはそれぞれの一定の使用価値量の交換割合としてわれわれには見えています。

 

 しかし二つの使用価値が交換されるということは、それらが同等であり、等置されるものであるからです。リンネルと上着が等置されるから、それらは交換可能なのであって、実際に交換されているわけです。それが初版付録にいう「同等性関係」ということではないでしょうか。そして二商品の同等性関係というのは、それらの価値の関係であるということです。つまり価値として両者は等しいことを意味しているということです。だから20エレのリンネル=1着の上着という等置は、リンネルと上着を両者のもつ価値の側面から観た場合の等置関係なわけです。これが、すなわち価値関係です。価値はもちろん目に見えないから、価値関係も見えません。しかし交換関係は現実の客観的な過程ですから、目に見えています。ただ等置されている関係(同等性関係)は見えても、何が等しいのかは見えていません。そして何が等しいかと言えば、それらは価値として等しいということです。だから《価値としてはリンネルと上着は同じ本質のものである》わけです。

 

 価値表現は、価値関係をさらに論理的に解剖するなかから見出すことができるように思えます。価値表現は、それは「表現」ですから、価値が表され、見えているわけですが、しかしその見えているカラクリは直接には見えませんし分かりません。それを説明するのが「相対的価値形態の内実」というわけです。

 

 以前、大阪で「『資本論』を学ぶ会」で学習したときに、そのニュースのなかで、これらの諸カテゴリーの関係を図示した次のようなへたくそな図を紹介しましたが、参考のために再び紹介しておきます。

 

 

 

◎ベイリーが価値形態と価値とを混同しているとは?

 

 次は、注17です。

 

 《 (17) S・べイリーのように、価値形態の分析にたずさわった少数の経済学者たちが何の成果もあげることができなかったのは、一つには、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二には、実際的なブルジョアからの生(ナマ)の影響のもとに、はじめからもっぱら量的規定性だけに注目しているからである。「量の支配が・・・・価値をなす」(『貨幣とその価値の転変』、ロンドン、1837年、11ページ)。著者はS・ベイリー。》

 

 ここではベイリーが「価値形態と価値とを混同している」というのは、どういうことかという質問がでました。これについてはマルクス自身が『剰余価値学説史』のベイリー批判のなかで論じているものを紹介するだけにします。

 

 《われわれは、価値が価格で計られ、表現されているのを見いだす。したがって、〔べーリはこう主張するのである〕・われわれは--価値とはなにかを知らないで満足することができる、〔と〕。価値尺度の貨幣への発展、さらにまた価格の度量標準としての貨幣の発展と、その発展のなかで価値そのものの概念を交換される諸商品の内在的尺度として発見することとを、彼は混同しているのである。彼が正当なのは、この貨幣は不変の価値をもっている商品であることを要しない、としている点である。だが彼は、このことから、こう推論する、商品そのものとは独立な、それとは区別される価値規定は、不必要である、と。

  諸商品の価値が諸商品の共通な単位として与えられるようになれば、そのときには諸商品の相対的価値の測定とそれの表現とは一致することになる。だが、われわれは諸商品の直接的定在とは違っている一単位に到達しないかぎり、表現に到達することはない。

  AとBとのあいだの距離という、べーリの事例にあっても、両方のあいだの距離について語るには、両方がすでにともに空間のなかの点(または線) であることが想定される。それらは、点に、しかも同一線上の点に、変えられるから、それらの距離がインチとかフィートなどで表現されうるのである。二つの商品AとBとの共通な単位は、一見したところでは、それらの交換可能性である。それらは「交換可能な」物である。「交換可能な」物としてそれらは同じ単位名称の大きさなのである。だが、このような「交換可能な」物としての「諸商品の」存在は、使用価値としての諸商品の存在とは違っていなければならない。それは、なんであろうか。…(中略)…貨幣は、単に、諸商品の価値が流通過程で現われる形態にすぎない。だが、私は、どのようにしてx量の綿花をy量の貨幣で表わすことができるであろうか? この問題は次のような問題に帰着する。すなわち、私は一般にどのようにして一商品を他の商品で、または諸商品を等価物として、表わすことができるであろうか? というのがそれである。これに解答を与えるのは、ただ、価値の発展、つまり一商品の他の商品での表示にはかかわりのない価値の説明だけである。》(『学説史』III215-6頁)

 

◎園児20人=関取1人

 

 次は第二パラグラフです。

 

 《 20エレのリンネル=1着の上着 であろうと、=20着の上着 であろうと、=x着の上着 であろうと、すなわち、一定量のリンネルが多くの上着に値しようと少ない上着に値しようと、このような割合はどれも、リンネルと上着とは、価値の大きさとしては、同じ単位の諸表現であり、同じ性質の物であるということを、つねに含んでいる。リンネル=上着 が等式の基礎である。》

 

 「フランス語版」もほぼ同じような内容なので、「補足と改訂」から類似する部分を紹介しておきましょう。

 

 《補足と改訂》

 

                  [A1]

  実際,20エレのリンネル=1着の上着という表現において,リンネルは上着に等しい大きさとして,上着に関係させられている,すなわち,上着に質的に等置されている。リンネル=上着が等式の基礎であり,ある一つの商品の,他の違う種類の商品との等置関係が,どのような割合で結ばれていようとも,それはその商品の価値関係である。上着とリンネルとは、両者が価値である限りにおいて同じ物である。使用価値あるいは商品体としては、リンネルは上着と区別される,価値としてはリンネルは上着と同じ本質の物である。

                  [A2]

  実際,表現--20エレのリンネル=1着の上着--においては,リンネルと上着とは同名の大きさとして意味をもっている。リンネル=上着がこの等式の基礎である。20エレのリンネル=1着の上着であろうと,2着の上着であろうと,x着の上着であろうと,どの場合においても,商品リンネルは,同じ牲質の物としての自分と等しい物としての,異なる種類の商品・上着と関係させられているのであり,すなわち,リンネルは上着に質的に等置されているのである。

                  [B]

  20エレのリンネル=1着の上着であろうと,=20着の上着であろうと,=x着の上着であろうと,すなわち,一定分量のリンネルがどれだけ多くの上着に値しようと,どれだけ少ない上着に値しようと,このような割合はどれもリンネルと上着とは,価値の大きさとしては同し単位の諸表現であり,同じ性質の物であるということを,つねにふくんでいる。リンネル=上着が等式の基礎である。したがって,異なる種類の商品の質的等置が,価値関係の現実的内容である。今や,この内容が現象している形態を考察することが重要である。〉(61-63頁)

 

 まずここでは20エレのリンネルに等置される上着の使用価値の量がどれほどであろうと、とにかくそれが上着の一定量として表されるということは、リンネルと上着が量的に比較されているということであり、そのためには二つの商品は同じ質に還元されているということです。先の『学説史』のベーリ批判でも《AとBとのあいだの距離という、べーリの事例にあっても、両方のあいだの距離について語るには、両方がすでにともに空間のなかの点(または線) であることが想定される。それらは、点に、しかも同一線上の点に、変えられるから、それらの距離がインチとかフィートなどで表現されうるのである》と述べていましたが、AとBとの距離を問う、ということはAとBが同じ空間で同一線上にある点という質的同一性が前提されているわけです。だからリンネルと上着が量的に比較される(等置される)ということは、リンネルと上着が同じ質に還元されて初めて言いうることだということです。

 

 JJ富村さんは、この議論の途中でやおら立ち上がって、黒板に次のような等式を書きました。

 

 園児20人=1人の関取

 

 つまりこの等式では園児も関取も、ともに重量という単位に還元されて比較されているのだというわけです。この場合は重量が共通の単位といわけです。

 

 ピースさんが用意してくれたレジュメでは「二つの商品は同じ単位の表現をしており、抽象的人間労働という同質性をもっていることが基礎となる」と説明されていましたが、まだこの時点では、同質性として問題になっているのは、「価値」であって、その実体としての「抽象的人間労働」そのものが問題になっていないのではないかということになりました。

 

◎「価値物」とは?

 

 次は第三パラグラフです。

 

 《 しかし、質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか? リンネルが、その「等価」としての上着、またはリンネルと「交換されうるもの」としての上着に対して関係させられることによって、である。この関係の中では、上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する。なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだからである。他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。すなわち、一つの自立した表現を受け取る。なぜなら、ただ価値としてのみ、リンネルは、等価物としての上着、またはそれと交換されうるものとしての上着に関係するからである。たとえば、酪酸は、蟻酸プロピルとは異なる物体である。しかし、両者は、同じ化学的実体--炭素(C)、水素(H)、および酸素(O)から成りたち、しかも同じ比率の組成、すなわち C4H8O2 で成りたっている。今酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、この関係の中では、第一に、蟻酸プロピルは単にC4H8O2の存在形態としてのみ通用し、第二に、酪酸もまた C4H8O2 から成りたっていることがのべられるであろう。すなわち、蟻酸プロピルが酪酸に等置されることによって、その化学的実体が、その物体形態から区別されて、表現されるであろう。》

 

 まず、類似した説明として「初版付録」と「補足と改訂」および「フランス語版」から紹介しておきます。

 

 《初版付録》

 

  〈 b 価値関係。  上着がリンネルと同じものであるのは、ただ両方とも価値であるかぎりにおいてのことである。だから、リンネルが自分と同じものとしての上着に関係するということ、または、上着が同じ実体をもつものとしてリンネルに等置されるという、このことは、上着がこの関係において価価として認められている、ということを表現している。上着はリンネルに等置されるが、それもやはりリンネルが価値であるかぎりにおいてのことである。だから、同等性関係価値関係なのであるが、しかし、価値関係は、なによりもまず、自分の価値を表現する商品の、価値または価値存在の表現なのである。使用価値または商品体としては、リンネルは上着とは違っている。これに反して、リンネルの価値存在は、上着という別の商品種類がリンネルに等置されるところの、またはリンネルと本質の同じものとして認められるところの、関係において、出現し自分を表現するのである。〉(国民文庫版134-5頁)

 

 《補足と改訂》

 

                    [A1]

  さて,ある一つの商品A,例えばリンネルは,どのようにして、自分と等しい価値の物すなわち自分の等価物としての,何かある他の商品B,例えば上着と関係するのだろうか。

  答えは簡単に商品価値の本性から明らかになる。ある一つの商品は,それが単に,それの生産に支出された人間的労働力の物的表現,物的外皮である限りにおいて,したがって,人間的労働そのものの,抽象的人間的労働の,結晶である限りにおいて,それは価値なのである。そのことは,石炭が暖房材料としては,それによって吸収された太陽光線の物質的外皮に他ならない,というのと同じことである。

  したがって,ある一つの商品A,例えばリンネル,は他のある商品B,例えば上着と,価値として等置されることができるのは,その他の商品,上着がこの関係のなかで単なる価値物として通用する,すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通用する,あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する限りにおいてのみである。〉(62-3頁)

 

 《フランス語版》

 

   〈 だが、等質であり同一の本質であることがこのように確認された二つの商品は、このばあい同じ役割を演じるわけではない。このぼあい表現されるのは、リンネルの価値だけである。それでは、どのようにして? リンネルの等価物としての、すなわち、リンネルに代位しうるかこれと交換しうる物としての上衣という別種の商品に、リンネルを比較することによって。まず明らかなことだが、上衣がこの関係に入るのは、もっぱら、価値の存在形態としてである。上衣は価値を表現することによってはじめて、他の商品に相対する価値として現われることができるからである。他方、リンネル自体が価値であることは、ここで姿を現わす、すなわち別の一表現を獲得する。実際、もしリンネルがそれ自体価値でな.ければ、上衣の価値がリソネルとの等式に置かれ、あるいはリンネルに等価物として役立ちうるだろうか?

  化学から一つの類推を借用しよう。酪酸と蟻酸プロピルは、外観も物理的、化学的性質もちがう二つの物体である。それにもかかわらず、両者は同じ元素--炭素、水素、酸素--を含んでいる。その上、両者はこれらの元素をC4H8O2という同じ割合で含んでいる。さて、もし蟻酸プロピルを酪酸との等式に置くか、あるいは酪酸の等価物とすれば、蟻酸プロピルはこの関係では、C4H8O2の存在形態としてのみ、すなわち、酪酸と共通である実体の存在形態としてのみ、現われるだろう。したがって、蟻酸プロピルが酪酸の等価物としての役割を演じる等式は、酪酸の実体をそれの物体形態とは全くちがうあるものとして表現する、いくらかぎこちないやり方であろう。〉(20-21頁)

 

 ここでは「価値物」というものを如何に捉えたらよいのか、という問題を少し論じておきましょう。この解釈については「価値体」と関連させて、さまざまに主張されていますが、「価値体」については、今回はとりあえずはおいておきます。

 

 久留間鮫造著『貨幣論』(大月書店、1979.12.24)のなかで、「価値物と価値体との区別について」と題して、この問題が論じられています。そこで大谷禎之介氏は久留間鮫造氏の旧著『価値形態論と交換過程論』では両者が区別されずに論じられ、事実上、価値物を価値体と同じものとしているが、しかしそれだと価値物は等価形態に立つ商品についてのみ言いうることになる、しかしマルクス自身はそうは述べていないと、『資本論』からいくつかの引用文を紹介し、それらの引用文から結論されることとして次のように述べています。

 

 〈 これらの個所からは、次のようなことが読み取れるのではないでしょうか。すなわち、労働生産物が商品になると、それは価値対象性を与えられているもの、すなわち価値物となる。しかし、ある商品が価値物であること、それが価値対象性をもったものであることは、その商品体そのものからはつかむことができない。商品は他商品を価値物として自分に等置する。この関係のなかではその他商品は価値物として意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を価値物として自己に等置した商品そのものも価値物であることが表現されることになる。約言すれば、商品の価値表現とは、質的にみれば、商品が価値物であることの表現であり、等価物とはその自然形態がそのまま価値物として意義をもつ商品だ、ということです。/いま申しました、《その自然形態がそのまま価値物として意義をもつもの》、これが先生の意味での「価値物」ですが、マルクスはこれをさす言葉としては、むしろ「価値体」というのを使っているのではないかと思われるのです〉(『貨幣論』97~98頁)。

 

 これに対して、久留間氏は〈 この点については、いま君が言われたことはまったくそのとおりです。「価値体」あるいは「価値物として通用する物」と言うべきであったのを「価値物」と言ったのはぼくのたいへんなミスでした〉(同99頁)と間違いを認め、大谷説に同調しています。つまり「価値物」とは「価値対象性をもったもの」という意味だというのです。だからまたそれはリンネルについても言いうるものと捉えられているわけです。しかし果たしてそうなのでしょうか。

 

 われわれは以前、紹介したモストの『資本論入門』の次の一文(これはマルクス自身が書き直したと思われるものです)をもう一度紹介しておきましょう。

 

 《 さてここで交換価値に、つまり諸商品の価値が表現されるさいの形態に、立ち戻ろう。この価値形態は生産物交換から、また生産物交換とともに、しだいに発展してくる。  生産がもっぱら自家需要に向けられているかぎり、交換はごくまれに、それも交換者たちがちょうど余剰分をもっているようなあれこれの対象について、生じるにすぎない。たとえば毛皮が塩と、しかもまず最初はまったく偶然的なもろもみの比率で交換される。この取引がたびたび繰り返されるだけでも、交換比率はだんだん細かに決められるようになり、一枚の毛皮はある一定量の塩とだけ交換されるようになる。生産物交換のこの最も未発展の段階では、交換者のそれぞれにとって、他の交換者の財貨が等価物として役立っている。すなわち、それ自体として彼の生産した財貨と交換可能であるばかりでなく、彼自身の財貨の価値を見えるようにする鏡でもあるような、価値物として役立つのである。》(10頁)

 

 ご覧の通り、マルクスは《 生産物交換のこの最も未発展の段階では、交換者のそれぞれにとって、他の交換者の財貨が等価物として役立っている。すなわち、それ自体として彼の生産した財貨と交換可能であるばかりでなく、彼自身の財貨の価値を見えるようにする鏡でもあるような、価値物として役立つのである》と述べています。つまり等価物というのは、相対的価値形態にある商品の価値を見えるようにする鏡であり、そのようなものとして価値物として役立つと述べているわけです。だから「価値物」というのは、相対的価値形態にある商品の価値が「見えるようにする鏡」の役割を果たしているものという意味であるわけです。単に「価値対象性をもったもの」ということでは、価値が見えるものとはならないでしょう。

 

 またすでに紹介した「補足と改訂」では、次のようにも述べています。

 

 《 したがって,ある一つの商品A,例えばリンネル,は他のある商品B,例えば上着と,価値として等置されることができるのは,その他の商品,上着がこの関係のなかで単なる価値物として通用する,すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通用する,あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する限りにおいてのみである。》

 

 つまりここでは「価値物」を説明して、《すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通用する,あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する》と述べています。つまり「価値物」としての上着は、ただ人間労働だけから成っている(つまり具体的な裁縫労働と生産諸手段との結合の産物ではない、その使用価値の姿が人間労働として通用している)ものであり、だから《その肉体が人間労働以外の何物をも表さない物》だと説明してされています。だから「価値物」としての上着はまさにその肉体が価値そのものであるような物なのです。すなわち価値の実存形態、すなわち本質である価値が物(Ding)として現われているものだということができます。

 さらにこれは前回紹介したものですが、マルクスは初版本文のなかで「等価物」を説明して、次のように述べていました。

 

 《 等価物という規定は、ある商品が価値一般であるということを含んでいるだけではなく、その商品が、それの物的な姿において、それの使用形態において、他の商品に価値として認められており、したがって、直接に、他の商品にとっての交換価値として現存している、ということをも含んでいる。》(夏目訳36頁)

 

 だから「等価物」である上着がリンネルの「価値物」として認められる(通用する)ということは、やはりその上着という物的な姿において、リンネルの価値として認められる(直接に、リンネルの交換価値として存在している)ということではないかと思います。

 

 では、「価値物」と「価値体」とはどう異なるのか、それとも同じものなのか、ということについては、すぐにまた議論する機会があるでしょうから、今回は論じるのはやめておきましょう。

 

 だからこのパラグラフの説明としては、次のようになると思います。

 

 リンネルの価値はどのように表現されるのか? リンネルが、自分に等しいものとしての、自分と「交換されうるもの」としての上着に、関係することによってである。この関係のなかでは、上着は、価値の存在形態として、つまりリンネルの価値そのものが物として現われているものとして、すなわち「価値物」として認められる。そうしたものとしてのみ上着はリンネルに等置されるのだからである。するとリンネルの価値存在もそうした関係のなかで自らの表現を受け取ることになる。つまりリンネルの価値は、上着という姿で、一つの物として目に見える形で表されているわけである。上着は、ここではリンネルの価値の目に見える存在形態として、つまり価値物として通用しているのである。

 

 


第16回「『資本論』を読む会」の案内

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

                                       

 2009年総選挙は民主党が単独過半数を大きく越え、圧勝しました。

 自民党は議席をほぼ3分の1に減らし惨敗。

 

 小泉元首相は「自民党をぶっ壊す」などとうそぶいて、国民をだまし、危機に陥った自民党を救ったつもりだったのでしょうが、小泉政治の弊害は社会を蝕み、今回の自民党惨敗に一役買ったとも言えます。その意味では元首相は、その思惑とは異なり、“公約”どおり、自民党を「ぶっ壊した」のかも知れません。

 

 さて、新たに政権党になった民主党のマニフェストの目玉の一つは高速道路の無料化です。それが果たして本当に実現されるのかどうか、またどういう効果や混乱を社会にもたらすのかは、予断を許しません。が、少なくとも無料化当初は高速道路が混雑し、どこも渋滞だらけになることだけは確かでしょう。  

 

 

 ところで高速道路や鉄道、港湾など大型の社会的な資本は経済学的にはどのように考えたら良いのでしょうか。マルクスは、『資本論』でこの問題についても考察しています。

 

 これらは生産材料など生産過程でその使用価値が消費され生産物に価値がすべて移転する「流動資本」とは区別して、生産過程に一定期間(その耐用期間だけ)留まり続け、磨滅部分だけ価値を生産物に移転させる「固定資本」と規定されています。「固定資本」は、一般には生産過程で使用される機械や道具、あるいは建屋などのことですが、それだけではなく、道路や運河、ダム、鉄橋、港湾等々、耐久構築物などもこの分類に入ります。

 

 しかしこうした極めて長期間の耐用年数をもっているものは、機械や道具などとは異なり、その損耗は、まただからその補填も、実際上はほとんどないに等しく、ただ修理費だけが必要になる、とマルクスは次のように指摘しています。

 

 《このことは、耐用期間の長い全ての構築物にあてはまる。つまり、そのような構築物の場合には、それらに前貸しされた資本がそれらの損耗に応じてだんだん補填されて行く必要はないのであって、ただ維持と修理とのための毎年の平均費用が生産物の価格につけ加えられさえすればよいのである。》(『資本論』第2部、全集24巻221頁)

 

 ところで、今日の高速道路料金は、「償還主義」を原則としています。つまりその建設費を何十年かで償還することを前提に計算されています。しかしこうした料金設定は、そもそも不要且つ不当なわけです。なぜなら、仮に50年で建設費を償還する計算なら、高速道路が50年で磨滅してしまうことを前提することになるからです。しかしそんな高速道路はありえません。それらは半永久的に使用可能なわけです。だから高速道路などの場合は、ただ維持と補修の費用だけを徴収すればよいわけで、それをもし税金で賄うなら、例え高速道路でも無料であることは、一般の道路が無料であるのと同じであり、当たり前なわけです。

 だから民主党のマニフェストの立場は、必ずしも経済原則から逸脱しているわけではありません。

 

  『資本論』は、このよう現代的な問題も論じています。是非、貴方も 一緒に読んでみませんか。

 


第16回「『資本論』を読む会」の報告

第16回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎changeの秋?

 

 民主党政権が誕生し、鳩山外交も上々の滑り出しのように見えます。新しい政権に変わって、われわれの生活も何か変わるのでしょうか?

 

 「チェンジの秋」を予感させるものの、私たちの『資本論』を読む会は相変わらずで、進捗は亀のごとくです。今回も、議論はそこそこでしたが、進んだのは、結局、二つのパラグラフと注だけでした。さっそくその報告に移ります。

 

◎第3パラグラフに出てくる「価値物」について若干議論

 

 最初にピースさんから、前回の第3パラグラフに出てくる「価値物」について、意見があり、若干、その問題について議論になりました。  ピースさんは「報告」の解釈に理解を示してくれましたが、報告を担当した亀仙人は報告の立場は必ずしも一般的ではないこと、それは故久留間鮫造氏の最初の立場に近いが、しかし久留間氏は、そうした「価値物」の理解に立ちながら、しかし「価値体」との区別については無意識だったが故に、大谷禎之介氏の指摘に動揺し、自身の立場を捨て、大谷説に与するようになったことが紹介されました。

 

 しかし、実は、大谷氏の説明ではリンネルの価値の表現がなされていないのです。例えば、前回紹介した大谷氏の主張をもう一度紹介してみましょう。

 

  〈労働生産物が商品になると、それは価値対象性を与えられているもの、すなわち価値物となる。しかし、ある商品が価値物であること、それが価値対象性をもったものであることは、その商品体そのものからはつかむことができない。商品は他商品を価値物として自分に等置する。この関係のなかではその他商品は価値物として意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を価値物として自己に等置した商品そのものも価値物であることが表現されることになる。〉(『貨幣論』98頁)

 

  このように大谷氏は価値表現を説明していますが、これでは価値は何一つ表現されたことにはなりません。「表現される」ということは、それが目に見えるようになるということです。そしてそのためには、価値が何らかの形ある物として現われる必要があるのです。しかし大谷氏の説明はそうしたものとはなっていません。というのは、大谷氏は「価値物」=「価値対象性を持ったもの」と説明するからです。例えば、この言葉を大谷氏の説明文に出てくる「価値物」の代わりに挿入すれば、それが分かります。

 

  〈商品は他商品を[価値対象性を持ったもの]として自分に等置する。この関係のなかではその他商品は[価値対象性を持ったもの]として意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を[価値対象性を持ったもの]として自己に等置した商品そのものも[価値対象性を持ったもの]であることが表現されることになる。〉

 

  このように書き換えてみると、何一つ価値が表現されていないことが分かります。というのは〈[価値対象性を持ったもの]として意義をもつ、通用する〉と言っても、それだけでは、価値が目に見えるものとして、すなわち形ある物として現われていることにはならないからです。形あるものと顕れていないなら、それは表現されたとは言えません。マルクスは《上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する》と述べています。《価値の存在形態》というのは、本来は“まぼろし”のような対象性しかもたない価値が、形ある物として存在するということなのです。それが《価値物》の意味です。だからそうした「価値物」の理解に立たない大谷説では、価値は表現されているとは言えないのです。(※)

 

  大谷氏は〈《その自然形態がそのまま価値物として意義をもつもの》、これが先生(=故久留間鮫造--引用者)の意味での「価値物」ですが、マルクスはこれをさす言葉としては、むしろ「価値体」というのを使っているのではないかと思われるのです〉とも述べています。しかし、これだと「価値体」によって始めてリンネルの価値は表現されることになり、「価値物」の段階ではまだ表現されていないことになってしまいます。しかしマルクス自身は第3パラグラフでも《他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。すなわち、一つの自立した表現を受け取る》と述べており、第3パラグラフの段階ですでにリンネルの価値は表現されていると述べているのです。だから大谷氏のような「価値物」理解では、こうしたマルクスの第3パラグラフの説明を理解不能にしてしまうのです。

 

  しかしピースさんは、大谷氏の主張にも一定の理解を示し、第3パラグラフに出てくる「価値物」、つまりリンネルとの価値関係におかれた上着が受け取る形態規定としての「価値物」と、一般に使われる場合の「価値物」とがあるのではないか、とも指摘されました。つまり大谷氏が主張されるような意味での「価値物」もありうるが、しかしそれはリンネルとの価値関係におかれた上着に付着する「価値物」の規定とは異なるものであり、だから「価値物」には二様の意味があるし、あってもよい、との意見です。これについては亀仙人は自身の意見を保留しました。

 

  確かに大谷氏が紹介している『資本論』からのいくつかの引用文では、ピースさんの意見を肯定するような用例が見られるように思えます。しかしよくよく吟味してみると、やはりそうではなく、マルクス自身は「価値物」という言葉で、価値が形ある物として存在すること、つまり目に見える形で顕れているものと捉えていることが分かるのです。しかしそれを大谷氏が紹介する引用文一つ一つについて、検証すると横道にそれすぎるので、割愛します(またその機会があればやることにしましょう)。

 

(※補足: この「価値物」が出てくる第3パラグラフの原文は次のようになります。

 

  "In diesem Verhaltnis gilt der Rock als Existenzform von Wert, als Wertding, denn nur als solches ist er dasselbe wie die Leinwand."

 

 ここに出てくる「Existenzform」という単語は日本語では「存在形態」とか「実存形態」等と訳されていますが、「Dei Existenz」はヘーゲル論理学では「現存在」と訳され、ヘーゲルは、この言葉について、次のように説明しています。

 

 〈Existenz〔現存在〕という言葉は、ラテン語のexistere〔出現する〕という動詞から作られたものであって、出現している有〔Hervorgegangensein〕を示す。すなわち現存在とは、根拠から出現し、媒介を揚棄することによって回復された有である。〉(『小論理学』岩波文庫下43頁)

 

 だから「Existenzform」は「現存在の形態」ともいうべきものです。それは本質(価値)が有として、つまり直接的な形で出現したものだと理解すべきものなのです。そして価値が直接的なものとして出現しているからこそ、それは表現されている--つまり目に見えるものとして表されている--といえるのです。「価値物」というのはそういうものと理解すべきなのです。)

 

◎第4パラグラフの位置づけ

 

 さて、それでは第4節の検討に入って行きましょう。まずは、例のごとく全文を紹介することからはじめます(今回から、分節ごとに検討するために、分節にイ)、ロ)、ハ)…の記号を打っていくことにします)。

 

  イ)われわれが、価値としては諸商品は人間労働の単なる凝固体であると言えば、われわれの分析は諸商品を価値抽象に還元するけれども、商品にその現物形態とは異なる価値形態を与えはしない。ロ)一商品の他の商品に対する価値関係の中ではそうではない。ここでは、その商品の価値性格が、その商品の他の商品に対する関係によって、現れでるのである。》

 

  これまでは、パラグラフの引用に続いて、そのパラグラフに類似したそれ以外の文献を年代順に資料として紹介してきたのですが、やや煩雑に過ぎるので、それらはすべて付録に回し、すぐにパラグラフの検討に入ることにします。

 

  最初に問題になったのは、このパラグラフの位置づけでした。前回の報告で紹介しましたが、第3パラグラフに該当する初版付録の小項目は、「b 価値関係」でした。初版付録ではそれに続いて、「c 価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の内実」が続き、それが現行の第4パラグラフ以降にほぼ該当します。だから第3パラグラフの段階では、まだ現行の小項目「a 相対的価値形態の内実」の本題には入っておらず、本題は第4パラグラフから始まると考えることが出来きます。そして第3パラグラフまでは、そのための前提の考察と位置づけられます。つまり第3パラグラフでは、上着がリンネルとの価値関係において、価値物として妥当することによって、リンネルの価値存在が表現されることが示されました。つまりリンネルが“相対的な価値の形態”--相対的に価値を表現する形式--にあることが示されたのです。だから次に問題になるのは、本題である、その「形式」の「内実」というわけです。

 

   ということは、「相対的価値形態の内実」というのは、相対的価値形態がその価値の実体である「抽象的な人間労働の凝固体」まで掘り下げられてそこから説明されること、すなわち「価値の概念」からその現象形態たる「価値形態」まで展開することだということが分かります。それが相対的価値形態が持っている内容(Gehalt)だというのです。

 

  そしてそう考えると、この第4パラグラフは、それまでの前提の考察を踏まえた、本題の入り口であり、第5パラグラフ以降への橋渡し、導入部分だということが分かるのです。だからこの第4パラグラフの内容については、やはり第5パラグラフ(あるいはそれ以降のパラグラフ)と関連させて理解する必要があるわけです。

 

 イ)の部分は、第1節で次のように論じていたことを思い出させます(下線は引用者)。

 

  《そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値--商品価値である。》(全集版52頁)

 

  これは価値の概念を導出する部分に該当します。つまりこの第4パラグラフでは、価値の実体である抽象的人間労働の凝固を確認するとともに、それではいまだ《幻のような同一の対象性以外》の何もでもなく、「価値の形態--価値が形があって目に見える状態--にはなっていないことを再確認しているわけです。  しかし同時に、われわれは第1節では次のようにも述べられていたことを思い出します(下線は引用者)。

 

  《もしもわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば、われわれは、労働生産物を使用価値にしている物体的諸成分と諸形態をも捨象しているのである。それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的性状はすべて消しさられている。それはまた、もはや、指物(サシモノ)労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格と共に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている》(全集版51-2頁)

 

  つまりこの第1節では、抽象的人間労働に還元するためには、労働生産物に表れている(痕跡を残している)労働の具体的性格、裁縫労働とか織布労働といった性格も捨象され、消え失せなければならないことが言われています。しかし同じような人間労働一般への還元が第5パラグラフにも出てくるのですが、しかし同じ「還元」でも、第1節とは異なるのです。だからそれとの対比の意味も込めて、あらかじめ、ここでこうした問題が再び論じられているということも出来るのです。

 

  次にロ)の部分について検討しましょう。ここでは第3パラグラフで見たように、価値関係のなかでリンネルの価値が表現されたように、一商品への他の商品の価値関係のなかでは、《その商品の価値性格》《現れでる》と述べています。ここで現れでる「価値性格」とは何かが問題になりました。ピースさんは、「それは直接には目に見えないという性格のことではないか」と言いましたが、それでは内容的におかしくなります。なぜなら、価値関係のなかで価値の「直接には目に見えないという性格」が《現れでる》ということになっては意味不明だからです。

 

  やはりここでは「抽象的人間労働の凝固」こそが「価値性格」の内容だと考えるべきでしょう。つまり、一つは価値というのは純粋に社会的なものだということです。商品交換を通じて、その生産のために支出され、生産物に表れている具体的な諸労働が、人間労働一般に還元されることによって社会的性格をもつということ、それが価値性格の一つの側面です。さらに価値性格としては、価値を形成する労働の抽象的・社会的な性格だけではなく、それが商品という物的対象に結晶したものである、凝固したものである、という性格もあるわけです。そうした価値性格の二つの側面が二商品の価値関係のなかで現れ出てくるというのです。そして価値性格の二つの側面の現出過程を説明するのが、だいたい第5パラグラフと第6パラグラフに該当するわけです。だから次は第5パラグラフの検討に入ることにしましょう。

 

◎第5パラグラフの検討

 

  イ)たとえば、上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって、上着に潜んでいる労働がリンネルに潜んでいる労働に等置される。ロ)ところで、たしかに、上着をつくる裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体的労働である。ハ)しかし、織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、実際に還元する。ニ)このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのである。ホ)異種の諸商品の等価表現だけが--異種の諸商品にひそんでいる、異種の諸労働を、実際にそれらに共通なものに、人間労働一般に、還元することによって--価値形成労働の特有な性格を表すのである(17a)。》

 

  まずイ)について、第2パラグラフで見たように、20エレのリンネル=1着の上着 という等式の基礎には、 リンネル=上着 があったように、ここでは リンネル=上着 の基礎には、 リンネルに潜んでいる労働=上着に潜んでいる労働 の関係(リンネルに潜んでいる労働に対する上着に潜んでいる労働の等置関係)がなりたつことが指摘されています。そして第3パラグラフでは、 リンネル=上着 の同等性の関係とは価値関係であることが指摘され、リンネルの価値が価値物である上着によって表現されていることが示されたのでした。ここでは類似した関係がその基礎にある労働に関して考察されていると言えます。

 

   しかし注意が必要なのは、《上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって》と述べられていることです。だから第3パラグラフを前提にした考察だということです。第3パラグラフでは、リンネルに等置された上着は価値物として通用しなければならないことが指摘されたのですが、ではそもそも〈「価値物」として通用する〉とは、どういうことなのかが、今度は、価値の実体に遡って問題にされ、解明されているのです。

 

  ロ)では、その考察の前提として、《たしかに、上着をつくる裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体的労働である》ことが確認されています。これは上着とリンネルとは種類の異なる使用価値であり、よってそれらの使用価値をつくるために支出された具体的な有用労働も種類の異なるものだということです。

 

  次にハ)では《織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、実際に還元する》と言われています。

 

 ここで注意が必要なのは、第4パラグラフのところでも指摘しましたが、同じ「還元」でも、ここで述べられていることは、第1節で労働の具体的な諸属性が捨象されたのとは異なる「還元」だということです。というのは、上着が「価値物」として等置されているからです。「上着が価値物として通用する」ということは、前回(第15回)の第3パラグラフの考察でも紹介しましたが、《すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通用する,あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する》(「補足と改訂)ということです。あるいは初版本文では《相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである。使用価値である上着がリンネル価値の現象形態になるのは、リンネルが、抽象的な人間的な労働の、つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、直接的な具象物としての・上着という素材に、関係しているからにほかならない。上着という対象は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的な・手でつかみうる・対象性として、したがって現物形態においての価値として、認められている》(江夏訳37頁)とも述べられています。

 

  つまりここで《実際に還元する》と言われているのは、裁縫労働の具体的な諸属性を捨象して、それを人間労働一般に還元するということではなくて、裁縫労働という特定の具体的な労働がそのまま人間労働一般の直接的な実現形態としてあること、すなわち、裁縫労働が抽象的人間労働が実現される特定の形態として意義をもっていることなのです。ヘーゲルチックに言い換えるならば、人間労働一般が、裁縫労働という具体的労働を通じて、直接的なものとして現われているということでもあります。あるいは第3パラグラフと類似させていうなら、裁縫労働が、人間労働一般を代表するものとして通用しているということなのです。リンネルにとっては、裁縫労働は、自分自身に対象化されているのと同質の人間労働一般を代表するものとして通用しているわけです。

 

 またリンネルにとっては、裁縫労働という具体的属性はそうした役割しか意味がない、ともマルクスは述べています。

 

  《リンネルは、人間労働の直接的実現形態としての裁断労働に関係することがなければ、価値あるいは具体化した人間労働としての・上着に、関係することができない。……上着は、リンネルにとっては、リンネルの価値対象性をリンネルの糊で固めた使用対象性と区別して表わすということにしか、役立っていない。……だから、裁断労働がリンネルにとって同じように有効であるのも、それが目的にかなった生産活動あるいは有用な労働であるかぎりにおいてのことではなくて、それが特定の労働として人間労働一般の実現形態すなわち対象化様式であるかぎりにおいてのことでしかない。リンネルがその価値を上着ではなく靴墨で表現したならば、リンネルにとっては、裁断の代わりに靴墨作りが同じく、抽象的な、人間的な、労働の・直接的実現形態として認められたであろう。つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、このことは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれている、具体的な、有用な、労働種類--抽象的な、人問的な、労働の・直接的実現形態としての--に関係する、ということに依拠しているものでしかない》(初版本文、同上38頁)

 

  もちろん、この初版本文では、この第5パラグラフ以降で展開されることが先走って述べられている部分もあるのですが、重要なのは、《実際に還元する》ということが、第1節で述べられていた「還元」とは異なる点を理解することです。

 

  次は、ニ)の《このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのである》の部分です。

 

  先のハ)で、織布労働との等置は、裁縫労働そのものを両者に共通な、抽象的人間労働の直接的な実現形態にすることが指摘されたのですが、そのことによって、リンネルの価値を形成する抽象的人間労働が、抽象的人間労働の対象様式である裁縫労働という具体的労働によって目に見える形で表されているということです。つまり上着に表れている裁縫労働こそが、本来は目に見えない「思考産物」(初版本文)であるリンネルの価値を形成する抽象的人間労働の具体的な実現形態であり、それによって、目に見える形で表されているものだというのです。

 

 ところで、ここで《まわり道》という言葉がでてきます。リンネルは価値としては抽象的人間労働の凝固ですが、しかしそれはリンネルそのものを見るだけでは分かりません。しかしリンネルは、直接には出来ないことを、間接的には、すなわち「回り道を通って」なら出来るということです。リンネルは、《自分自身にたいしては直接に行ないえないことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、行なうことができる》(初版本文前掲39頁)のです。すなわち自分に上着を価値物として等置することによって、上着をつくる裁縫労働を抽象的人間労働の直接的な実現形態にし、そのことによって、自らの価値を形成する労働を、すなわちそれが抽象的人間労働であることを、それの直接的な実現形態である裁縫労働によって目に見える形で表すことが出来るということです。ここでは裁縫労働という具体的で感覚的なものが、抽象的人間労働という抽象的一般的なものの特定の実現形態として意義をもっているのです。

 

  またここでは《語られるのである》とも述べています。一体、誰が語るのでしょうか? これは少し先走りますが、第10パラグラフで、《上述のように、商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのことを、リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである》(全集版71頁)と書かれています。ここで《商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのこと》というのは、われわれが第1節で商品の価値を分析して明らかにされたことを意味します。その商品価値の分析で明らかになったことを、リンネルが上着との価値関係のなかで、リンネル自身が語るというのですから、やはり上記の《語られるのである》も、リンネル自身が語っているものとして理解すべきでしょう。

 

 次は最後のホ)《異種の諸商品の等価表現だけが--異種の諸商品にひそんでいる、異種の諸労働を、実際にそれらに共通なものに、人間労働一般に、還元することによって--価値形成労働の特有な性格を表すのである》ですが、これはこれまで述べてきたことをより一般的に言い換えて、繰り返していると言えます。ここでも《実際に・・・・還元する》ということが出てきますが、すでに述べたような意味として理解する必要があります。

 

◎注17aについて

 

 注17aについては、それほど詳しい議論はしませんでした。だから注については、分節ごとの解読は必要ないと思います。しかしとりあえず、全文をまず紹介しておきましょう。

 

  《(17a) 第2版への注。ウィリアム・ペティの後、価値の性質を見ぬいた最初の経済学者の一人であるあの有名なフランクリンは、次のようにのべている。「商業は総じてある一つの労働を別の労働と交換することにほかならないから、あらゆるものの価値は労働によって最も正しく評価される」(『B・フランクリン著作集』、スパークス編、ボストン、1836年、第2巻、267ページ〔『紙幣の性質と必要についてのささやかな研究』〕)。フランクリンは、あらゆるものの価値を「労働によって」評価することによって、彼が、交換される諸労働の相違を捨象していること、したがってそれらの労働を等しい人間労働に還元していること、を自分では意識していない。にもかかわらず、彼は自分ではわかっていないことを語っている。つまり、彼は、はじめにまず「ある一つの労働」について語り、次に、「別の労働」について語り、最後に、あらゆる物の価値の実体という以外に何の限定ももたない「労働」について語っているのである。》

 

  この注で問題になったのは、本文のこの個所の注としては、あまり相応しくないのではないかということでした。というのは、この注17aでは、フランクリンが、商品の価値を労働によって評価することによって、交換される諸労働の相違を捨象して、それらの労働を等しい人間労働に還元しているのであるが、それを意識せずにやっているのだ、というものです。しかし本文で問題になっているのは、諸労働の相違を捨象して労働一般に還元するということではなくて、むしろここで《実際に・・・・還元する》ということで述べられているのは、具体的な労働を抽象的人間労働の直接的な実現形態にするということですから、注17aで言われていることと必ずしも合致していないのではないか、ということなのです。

 

   そして実際、フランス語版では、この注は削除され、この注17aとほぼ同じ内容のものが、「第4節 商品の物神性とその秘密」の注31の冒頭に若干変更されて紹介されていることが指摘されました。その部分を紹介しておきましょう。なおこの注は本文の《きわめて不完全なやり方ではあるが、経済学は確かに、価値と価値量とを分析した。(31)》(江夏他訳55頁)という部分に付けられたものです。

 

 《(31)ウィリァム・ペティ以後に価値をその真実の内容に還元した最初の経済学者の一人である、かの著名なフランクリンは、ブルジョア経済学が行なう分析のやり方の一例を、われわれに提供していると言ってもよい。彼は言う。「交易一般とは労働と労働との交換にほかならないから、すべての物の価値は労働によって最も正確に評価される」(スパークス編『ペンジャミン・フランクリン等の労作』、ボストン、1836年、第2巻、267ページ)。フランクリンは、物が価値をもつのは、物体が重量をもっのと全く同じように自然である、と思っている。彼の観点からすれば、この価値がどのようにして最大限正確に評価されるかを見出すことだけが、問題なのである。彼は、「どんな物の価値も労働によって最も正確に評価される」と述べながら、交換される労働の差異を捨象して同等な人間労働に還元していることに気づいてさえいない。彼はこれとはちがってこう言うべぎであったろう。長靴または短靴と机との交換は、靴製造と指物細工との交換にほかならないから、長靴の価値が最も正確に評価されるのは指物師の労働によってである! と。彼は労働一般という言葉を用いることによって、さまざまな労働の有用な性格と具体的な形態を捨象している。》(江夏訳56頁)

 

  このフランス語版の注の方が、最初の注17aの内容に相応しいのかも知れません。ついでに『経済学批判』のなかで、フランクリンの同じ主張について、マルクスが論じている部分も参考のために上げておきます。

 

  《フランクリンにあっては、労働時間は、経済学者流儀で一面的にただちに価値の尺度としてあらわされる。現実の生産物の交換価値への転化は自明のことであり、したがって問題は、その価値の大きさを測る尺度を発見することだけである。彼は言う。

 

 「商業は一般に労働と労働との交換にほかならないから、すべてのものの価値は、労働によって最も正しく評価される〔*〕。」

 

  〔*〕 "Trade in general being nothing else but the exchange of labour for labour, the value of all things is, as I have said before, most justly measured by labour."(前掲書、267ページ)。

 

  この場合、労働ということばのかわりに、現実的労働ということばを置き換えるならば、一つの形態の労働と他の形態の労働とが混同されていることが、ただちに発見されるであろう。商業とは、たとえば靴屋の労働、鉱山労働、紡績労働、画家の労働等々の交換であるからといって、長靴の価値は画家の労働によって最も正しく評価されるであろうか? フランクリンは逆に、長靴、鉱産物、紡糸、絵画等々の価値は、なんら特殊な質をもたない、したがってたんなる量によって測ることのできる抽象的労働によって規定される、と考えたのである〔*〕。しかし彼は、交換価値にふくまれている労働を、抽象的一般的労働、個人的労働の全面的外化から生じる社会的労働として展開しなかったから、必然的に、この外化した労働の直接的存在形態である貨幣を誤解した。だから彼にとっては、貨幣と交換価値を生みだす労働とは、なんら内面的な関連をもたず、貨幣はむしろ、技術的な便宜のために交換のなかへ外からもちこまれた用具なのである〔**〕。フランクリンの交換価値の分析は、経済学の一般的歩みにたいしては直接の影響をあたえないままにとどまった。なぜならば、彼はただ経済学の個々の問題を一定の実践上の機会にきいして取り扱ったにすぎなかったからである。

 

  〔*〕 前掲書。『アメリカの紙幣にかんする論評と事実』、1764年。

  〔**〕 『アメリカ政治論集』。所収、『アメリカの紙幣にかんする論評と事実』、1764年、を参照(前掲個所)。》(国民文庫65-6頁)

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【付属資料】

 

 ここでは、今回検討した、それぞれのパラグラフに関連した、他の文献からの引用文を紹介しておきましょう(下線はすべてマルクスによる強調)。

 

◎第4パラグラフに関連したもの

 

《初版本文》

 

 《価値としては、リンネルはただ労働だけから成っており、透明結晶した労働の凝固をなしている。しかし、現実にはこの結晶体は非常に濁っている。この結晶体のなかに労働が発見されるかぎりでは、しかもどの商品体でも.労働の痕跡を示しているというわけではないが、その労働は無差別な人間労働ではなく、織布や紡績などであって、これらの労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく、むしろいろいろな自然素材と混和されているのである。リンネルを人間労働の単に物的な表現として把握するためには、それを現実に物としているところのすべてのものを無視しなければならない。それ自身抽象的であってそれ以外の質も内容もない人間労働の対象性は、必然的に抽象的な対象性であり、一つの思考産物である。こうして亜麻織物は頭脳織物となる。ところが諸商品は諸物である。諸商品がそれであるところのもの、諸商品は物的にそういうものでなければならない。言い換えれば、諸商品自身の物的な諸関係のなかでそういうものであることを示さなければならない。リンネルの生産においては一定量の人間労働力が支出されている。リンネルの価値は、こうして支出されている労働の単に対象的な反射なのであるが、しかし、その価値は、上着にたいするリンネルの物体において反射されているのではない。その価値は、上着にたいするリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚的な表現を得るのである。リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時に使用価値としては上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル-物体に対立するリンネル-価値現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形態となるのである(18)。

 (18)それゆえ、リンネルの価値を上着で表わす場合にはリンネルの上着価値と言い、それを穀物で表す場合にはリンネルの穀物価値と言ったりするのである。このような表現は、どれもみな、上着や穀物などという使用価値に現われるものはリンネルの価値である、ということを意味して.いるのである。》(国民文庫版46-7頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈                 [B]

  商品の分析はわれわれに次のような結論をあきらかにした。すなわち,価値としては全ての商品は,その肉体のさまざまな多様性にもかかわらず,同じ単位のたんなる表現であり,すなわち質的に等しい,ということである。しかしながら,商品自身はあいかわらず,その価値性格のほんの少しの徴候をも自分からは示すことなく,生まれたままの自然形態にとどまっている。

 価値としては、リンネルはただ支出された人問的労働力だけから成り立っており,そしてそれゆえ,透明に結晶した労働凝固体を成している。しかし,現実にはこの結晶体は非常に濁っている。この結晶体のなかに労働が発見されるかぎりでは,しかもどの商品体でも労働の痕跡を示しているというわけではないが,その労働は無差別な人間的労働ではなくて,織布や紡績などであって,これらの労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく,むしろいろいろな自然素材と結びついているのである。それゆえ,リンネルをそれの生産に支出された人間的労働力の単なる物的表現として把握するためには,それを現実に物としているものすべてを無視しなければならない。それ自身抽象的でありそれ以外の質も内容ももたない人間的労働のそのものの対象性は,必然的に抽象的対象性であり,一つの思考物である。こうして亜麻織物は頭脳織物となる。〉(63頁)

 

《フランス語版》

 

 〈われわれが、すべての商品は価値としては結晶した人間労働にほかならないと言えば、われわれの分析は、これらの商品を価値という抽象概念に還元しているのであるが、その前にも後にも、商品はただ一つの形態、すなわち有用物という自然形態しか所有していない。ある商品が他の商品と価値関係に置かれるやいなや、事情が全く変わる。この瞬間からある商品の価値性格は、他の商品にたいする自己の関係を規定するところの固有な属性として、現われ、確認されるのである。〉(21頁)

 

◎第5パラグラフに関連したもの

 

《初版本文》

 

 《20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)。使用価値である上着がリンネル価値の現象形態になるのは、リンネルが、抽象的な人間的な労働の、つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、直接的な具象物としての・上着という素材に、関係しているからにほかならない。上着という対象は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的な・手でつかみうる・対象性として、したがって現物形態においての価値として、認められている。リンネルが価値としては上着と同じ本質をもっているから、上着の現物形態が、このように、リンネル自身の価値の現象形態になるわけである。だが、使用価値である上着のうちに表わされている労働は、単なる人間労働ではないのであって、裁断労働という特定の有用な労働である。単なる人間労働、人間労働力の支出は、確かにどのようにでも規定できるが、それ自体としては無規定である。それは、人間労働力が特定の形態で支出されるときにだけ、特定の労働として実現され対象化されうるのである。というのは、特定の労働にたいしてのみ、自然素材が、すなわち労働が対象化されている外界の物質が、相対するからである。ひとりヘーゲルの「概念」だけが、外界の素材なしで自己を客観化することを達成している(19)。

(18a)ある意味では、人間も商品と同じである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるものでもなければ、我は我なりというフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は自分をまず他人のなかに映し出してみる。人間ペテロは、自分と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、初めて、人間としてての自分自身に関係する。ところが、ペテロにとっては、パウロの全身がまた、パウロのパウロ然なたる肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである。 (19)「概念は、初めは主観的でしかないが、外界の物質あるいは素材を必要とせずに、自己自身の活動に適合しながら自己を客観化することへと前進する。」へーゲル『論理学』、三六七ページ。所収、『エンチクロペディー、第一部、ベルリン、1840年。』

 

 リンネルは、人間労働の直接的実現形態としての裁断労働に関係することがなければ、価値あるいは具体化した人間労働としての・上着に、関係することができない。だが、リンネルをして上着という使用価値に興味を抱かせるものは、上着がもっている羊毛製の快適さでもなければ、ボタンをかけた上着の恰好でもなければ、上着に使用価値の特徴を与えている他のなんらかの有用な品質でもない。上着は、リンネルにとっては、リンネルの価値対象性をリンネルの糊で固めた使用対象性と区別して表わすということにしか、役立っていない。リンネルは、自分の価値をあぎ剤〔あぎは植物名。あぎ剤は駆虫剤、通経剤などのことを言う〕とか乾燥人糞とか靴墨とかで表現しても、同じ目的を達したであろう。だから、裁断労働がリンネルにとって同じように有効であるのも、それが目的にかなった生産活動あるいは有用な労働であるかぎりにおいてのことではなくて、それが特定の労働として人間労働一般の実現形態すなわち対象化様式であるかぎりにおいてのことでしかない。リンネルがその価値を上着ではなく靴墨で表現したならば、リンネルにとっては、裁断の代わりに靴墨作りが同じく、抽象的な、人間的な、労働の・直接的実現形態として認められたであろう(19a)。つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、このことは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれている、具体的な、有用な、労働種類--抽象的な、人問的な、労働の・直接的実現形態としての--に関係する、ということに依拠しているものでしかない。

(19a)すなわち、靴墨の調整そのものが靴墨作りと俗に呼ばれているかぎりでは。

 

 われわれはここでは、価値形態の理解を妨げているあらゆる困難の噴出点に立っている。商品の価値を商品の使用価値から区別すること、または、使用価値を形成している労働を、たんに人間労働力の支出として商品価値のなかに計算されているかぎりでのその同じ労働から区別することは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態において考察するぱあいには、それを、他方の形態においては考察しないのであって、逆のばあいには逆になる。これらの抽象的な対立は、おのずから分離するものであり、したがって区別しやすい。商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではない。使用価値あるいは商品体が、ここでは、ある新しい役割を演じている。それは、商品価値の・したがってそれ白身の反対物の・現象形態になる。同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な、有用な、労働は、それ自身の反対物、すなわち、抽象的な、入間的な、労働の・単なる実現形態になる。商品の対立しあっている諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに反射しあっている。このことは、一見したところいかにも奇妙であるが、さらに深く熟慮すると、必然的であることが明らかになる。商品はもともと、ある二面的な物、使用価値にして価値、府用な労働の生産物にして抽象的な労働膠着物なのである。だから、自分をそのあるがままのものとして表わすためには、商品はその形態を二重にしなければならない。使用価値という形態のほうは、商品が生まれつきもっているものである。この形態は、商品の現物形態である。価値形態のほうは、商品が他の諸商品との関係において初めて手に入れるものである。ところが、商品の価値形態は、それ自身やはり対象的な形態でなければならない。諸商品がもっている唯一の対象的な形態は、自分たちの使用姿態、自分たちの現物形態である。ところで、一商品たとえばリンネルの現物形態は、この商品の価値形態の正反対物であるから、この商品は、一つの別の現物形態、すなわち別の一商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければならない。この商品は、自分自身にたいしては直接に行ないえないことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、行なうことができるのである。この商品は、自分の価値を、自分自身の体躯であるいは自分自身の使用価値で、表現することはできないが、直接的な価値存在としての・一つの別の使用価値あるいは商品体に、関係することができる。この商品は、自分自身のなかに含まれている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態としての具体的労働には、関係することができなくても、別の商品種類に含まれている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態としての具体的労働には、もちろん関係することができる。そうするためにこの商品に必要なことは、別の商品を等価物として自分に等置する、ということだけである。一商品の使用価値が別の一商品にたいして一般的に存在しているのは、この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立っている、というかぎりにおいてのことでしかない。単純な相対的価値表現である x量の商品A=y量の商品B のなかに、量的な関係だけを考察すると、見いだされるのはまたも、相対的価値の変動にかんする前述の諸法則だけであって、これらの法則はすべて、諸商品の価値量はそれらの商品の生産に必要な労働時間によって規定されている、ということにもとついているのである。ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)。

(20)へーゲル以前には、本職の論理学者たちが判断および推論の範例の形態内容さえをも見落としていたのだから、経済学者たちが素材について関心をもつことにすっかり影響されて、相対的価値表現の形態内容を見落としてきたということは、怪しむにあたらない。》(江夏訳37-40頁)

 

《初版付録》

 

 〈c 価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の内実

 

 上着が価値であるのは、ただ、それがそれの生産において支出された人間労働力の物的な表現であり、したがって、抽象的な人間労働の凝固であるかぎりにおいてのみのことである--抽象的な労働であるのは、上着のなかに含まれている労働の特定の、有用な、具体的な性格からは抽象されているからであり、人間労働であるのは、労働がここではただ人間労働力一般の支出としてのみ物を言うからである。したがって、リンネルは、人間労働を唯一の素材としている一物体としての上着に関係させられることなしには、一つの価値物としての上着に関係することはできないし、言い換えれば、価値としての上着に関係させられることはできない。ところが、価値としては、リンネルも同じ人間労働の凝固なのである。だから、この関係のなかでは、上着という物体が、リンネルと自分とに共通な価値実体すなわち人間労働を代表しているのである。だから、この関係のなかでは、上着はただ価値の姿としてのみ、したがってまたリンネルの価値姿態としてのみ、リンネル価値の感覚的な現象形態としてのみ、認められているのである。こうして、価値関係を媒介として、一商品の価値は、他の一商品の使用価値において、すなわち、他の、自分自身とは種類の違う一商品体において、表現されるのである。〉(文庫版135頁)

 

《補足と改訂》

 

 〈                [B]

                  ◇

 それゆえ,価値関係--他の商品との交わり--のなかでリンネルの価値は使用対象性とは異なった表現を獲得する。しかし,どのようにしてか。リンネルが上着に等しいものとして表現されることによってである,それはちょうど,キリスト教徒の羊的性格が神の仔羊との同等性において現れるのと同じである。  しかし,上着,上着商品の身体は一つの単なる使用価値である。それゆえ,リンネルの価値はそれとは反対のもの,他の何らかの種類の使用価値,それが何であれとにかく使用価値で,表現される。しかしながら,使用価値上着が価値を表現していないのは,リンネルの任意の一片が価値を表現していないのと同じである。このことは,同じ上着が,リンネルの自分との関係のなかではこの関係の外部におけるよりも,多くの意味をもつ,ということを示すだけである。ちょうど,多くの人間は金モールで飾られた上着の中ではその外でよりも多くの意味をもっように。  上着の生産においては,裁縫労働という形態のもとに,人間的労働力が実際に支出され,したがって,上着のなかに人間的労働が堆積されている。それゆえ,この面からすれば,上着体は価値の担い手である。もっとも,上着のこの属性そのものは,上着がどんなにすり切れてもその糸目から透けて見えるわけではないが。そして,リンネルの価値関係のなかでは,上着はただこの面だけから通用する。リンネルが自分に等しい物としての上着体に閑係するのは,上着が価値体であるからであり,そしてそのかぎりでのことである。  いまや,明かになったことは,リンネルはその価値を上着と等しい物としての表現を通して、使用価値上着における自分自身の価値の表現を通してのみ,あますところなく表現された、ということである。〉  〈リンネル商品は,当然のことながら頭脳をもたないのであるから,その価値を形成している労働がどの種類のものであるかを表現するために、他の方法でそれをはじめる。自分に質的に等しい物としての,価値物としての上着との関係は、上着に潜んでいる労働をリンネルにひそんでいる労働に等置する。ところで,確かに,上着をつくる裁縫労働は,リンネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体的労働である。しかし,織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のなかの現実に等しい物に、人間的労働一般という両方に共通な性格に、実際に還元する。この回り道を通ったうえで,織布労働も,それが価値を織り出す限りにおいては,裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと,すなわち抽象的人間的労働であること,が語られるのである。〉

 

《フランス語版》

 

  〈上衣がリソネルの等価物として置かれるならば、上衣に含まれている労働は、リンネルに含まれている労働と同一であると確認される。確かに、裁断は機織とはちがう。だが、機織にたいする裁断の等式は事実上、裁断を、機織と現実に共通なものに、人間労働という性格に還元する。このような回り道をして、機織は、それが価値を織るかぎりでは衣類の裁断と区別されないということが、すなわち、抽象的な人間労働であるということが、表現されるのである。したがって、この等式は、リンネルの価値を構成する労働の独自な性格を表現している。〉(21頁)

 

 


第17回「『資本論』を読む会」の案内

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

 

                               

 鳩山・民主党連立政権は、最初の正念場を迎えつつあります。マニフェストで謳った「子供手当て」等の諸政策実現のための財源を捻出することが問われているからです。このために、総額14.7兆円の補正予算の見直しを行い、ようやく2.5兆円(17%にあたる)を確保したと言われています。しかしこれでは10年度に「子供手当て」等の実施に必要な7.1兆円に達せず、さらに上積みをと考えているようです。

 

 しかし見通しはなかなか厳しい。というのは、税収が当初見込みの46兆円を大幅に下回ることが予想され(40兆円を切るとの予想)、その補填のために、結局は、また赤字国債の発行を余儀なくされつつあるからです。

 

 かくして、マニフェストでバラマキを約束した民主党政権のもとで、財政破綻はますます進行することは必至の状況です。

 

 09年度の国債の累積発行残高は592兆円(国民一人当たり463万円の借金!)、地方自治体の借金も含めると債務残高は816兆円にのぼり、国内総生産(GDP)に対する比率は174%と主要先進7ヶ国のなかでは最大です(二番目に多いイタリアでも114%、他の5ヶ国は60~70%)。

 

 

 この借金の返済をどうするのか。民主党は消費税の増税は少なくとも4年間は考えないとも言いますが、無駄を省くだけでは、この借金の返済は事実上不可能です。これらの借金は、まさに危機に陥った資本主義体制を救済するために、歴代の自民党政権が膨大な国家の財政信用膨張政策を発動することによって積み上げてきたものだからです。だから例え民主党政権であろうが、自民党と同じように、資本主義を前提にし、その体制的危機の救済を自民党と同様自らの絶対的な使命とするかぎり、この借金の泥沼から抜け出ることはことは出来ません。

 

 マルクスは国債の発行は、増税、しかも大衆課税である間接税(消費税)の導入とその「自動累進」化による「加重課税」を不可避にさせると次のように指摘しています。

 

 《国債は国庫収入を後ろだてとするものであって、この国庫収入によって年々の利子などの支払がまかなわれなければならないのだから、近代的租税制度は国債制度の必然的な補足物になったのである。国債によって、政府は直接に納税者にそれを感じさせることなしに臨時費を支出することができるのであるが、しかしその結果はやはり増税が必要になる。他方、次々に契約される負債の累積によってひき起こされる増税は、政府が新たな臨時支出をするときにはいつでも新たな借入れをなさざるをえないようにする。それゆえ、最も必要な生活手段にたいする課税(したがってその騰貴)を回転軸とする近代的財政は、それ自体のうちに自動的累進の萌芽をはらんでいるのである。過重課税は偶発事件ではなく、むしろ原則なのである。それだから、この制度を最初に採用したオランダでは、偉大な愛国者デ・ウィットが彼の筬言《しんげん》のなかでこの制度を称賛して、賃金労働者を従順、倹約、勤勉にし……これに労働の重荷を背負わせるための最良の制度だとしたのである。》(『資本論』第1部全集版23b986-7頁)

 

 民主党政権のもとでも、資本主義の矛盾を労働者大衆にしわ寄せする以外にないことはますます明らかになるでしょう。もし民主党が労働者大衆の側に徹底して立つというのなら、資本主義そのものを克服する以外にあり得ないからです。財政の逼迫は民主党を追い詰めて、結局は、民主党も自民党と同じであり、第二自民党でしかないことを暴露するでしょう。

 

 貴方も民主党政権の本質を見抜くためにも、『資本論』を一緒に学びませんか。

 



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