目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第13回「『資本論』を読む会」の案内

『資 本 論 』 を 読 ん で み ま せ ん か

 

 

 

 政府は4月末、総額15.4兆円にのぼる過去最大の経済対策の財政的裏付けとなる補正予算案を閣議決定し、国会に提出した。一カ月前に当初予算が成立したばかりであり、「異例ずくし」の予算と言われている。

 

 当初と合わせた予算規模は102兆円と初めて100兆円を突破。財源の多くは借金(国債)に頼り、歳入に占める税収の割合は45%と過去最低である。新規の国債の発行額は過去最悪の44兆円となり、ほぼ税収見通しと並ぶ。

 

 麻生内閣は、「景気の底割れリスクの回避」を掲げているが、その実態は、近づく選挙にむけての“バラマキ予算”、“国民買収予算”としか言いようがない。おまけにそのバラマキの対象は大手金融機関や大企業に対するもの以外は、車や家や家電等を買える富裕層を目当てにしたものでしかなく、母子家庭への生活保護費加算の打ち切りに象徴されるように、大企業を潤す公共事業を前倒しする一方で、社会補償費を削る姿勢にはまったく変化はなく、弱者に犠牲を強いる内容になっているのだ。

 

09年5月2日『朝日』から

 

 そればかりか国債残高は、09年度末で592兆円にのぼる見込みであり、国民一人あたり約463万円。つまり、生まれて来る赤ん坊は500万円近い借金を背負って生まれて来る勘定になる。5人家族だと2300万円を超える借金である。この借金は一体誰が返すのか。それは結局、国民しかいない。つまり将来の国民にすべての犠牲はしわよせされるのである。

 

 マルクスは国債について、次のように述べている。

 

 《国債はすべて全人民の勤労に課せられた抵当、人民の自由の縮小ではないだろうか? それは、国債所有者という名まえで知られている新しい一団の見えざる圧制者を生みだすのではないだろうか?》(マルクス・エンゲルス全集15巻117頁)

 

 つまりわれわれ全人民は、一人当たり500万円近い借金のために「勤労」することを強制され、それだけ「自由」を奪われる。他方、国債所有者として利子利得を居ながらにして我が物とする圧制者は国民を犠牲に肥え太るというわけである。

 

 麻生内閣の“選挙対策予算”、“国民買収予算”に反対し、「全人民」に災厄をもたらす資本主義社会の仕組みを解明し、理解するために、『資本論』を一緒に読んでみませんか。

 


第13回「『資本論』を読む会」の報告

第13回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎新型インフルエンザ

 

 新型インフルエンザが猛威をふるっています。神戸や大阪では高校生を中心に拡大しつつあったのが、いまや、あっというまに全国に広がりつつあります。 実は、愚息もこの14日にカナダ経由で帰国したのですが、すぐに保険所から電話とファックスがあり、「健康観察票」なるものが送られてきました。21日までが要観察期間であり、18日と21日に連絡するようにとのことでした。結局、愚息は何の症状らしいものもなく済んだのですが、「不要不急の外出を避ける」と言われても、長く海外に居て、帰国したものは直ちにしなければならないものが山ほどあり、そうも行きません。まず有効期限が切れた免許証の復活手続きが必要ですし、車検切れになった車の車検、仕事の打ち合わせ等々、公私にわたって目まぐるしいほど忙しいのです。とても家にじっとしていることなど出来ないのです。だから当然、水際策をすり抜けた感染者たちも恐らく同じでしょう。だからそうした人たちから一気に広がることは不可避ともいえます。

 

  幸か不幸か、わが「『資本論』を読む会」参加メンバーは花粉症から、日頃からマスクが外せない人たちが多いので、その点、感染しにくいのかも知れません。何が幸いするか分かりませんね。

 

◎「第3節 価値形態または交換価値」の前文

 

 さて、第13回「『資本論』を読む会」は、残念ながら欠席者が多く、ただでさえ少ない参加者なのに、一層寂しい開催となりました。しかし今回からは、第3節に入り、じっくり時間をかけて議論し、前文をすべて終えました。この前文は四つのパラグラフからなっていますが、各パラグラフごとにまず本文を示し、そのあとその解読と議論の紹介をやり、最後に、関連資料を紹介しておきましょう。

 

■第1パラグラフ

 

 《商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である。けれども、商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである。》

 

 この部分では、まずJJ富村さんから「本文では『商品は、使用価値または商品体の形態をとって、……この世に生まれる』とあるのを、レジメでは『商品は使用対象であると同時に価値の担い手=商品体として生産される』と説明しているが、『または』と『同時に』とでは意味が少し違うように思う」と発言。レジュメを提出したピースさんは、「商品体を価値体という意味に理解して説明している」と答えました。JJ富村さんは、「『または』というのは、商品は使用価値として生まれ、あるいは『商品体』として生まれる、と解釈すべきで、だから商品体は使用価値のことだと思う」と批判。ピースさんは、「同時に」と解釈したのは、間違っていることは認めましたが、「商品体」を使用価値と解釈することには納得ができないようで、「『商品体』というのは、『生産物が価格で表されていること』の意味ではないのか」と食い下がりましたが、JJ富村さんは「『これが商品のありのままの現物形態である』と本文にあるように、これは使用価値を意味している」と反論。どうやら軍配はJJ富村さんに上がったようです。

 

  やはり本文を読む限りでは、「商品体」というのは、「使用価値」を言い換えただけで、鉄やリンネル、小麦というような、商品のありふれた現物形態について述べていると考えるべきでしょう。これは初版付録(付属資料参照)を見ると、《使用価値の形態は、商品そのものの形態、鉄、リンネル、等々であり、商品体の、手でつかめる感覚的な存在形態である》と説明していることを見ても明らかです。ここでは「商品」の「」をマルクスは強調しています。つまり使用価値の形態は商品の身体そのものとして現われている形態であり、手でつかめる感覚的な存在形態だということでしょう。またフランス語版(同)では、「商品体」てはなく、《商品素材》とも翻訳されています。

 

  ピースさんが言及した「価値体」については、もう少しあとででてきますが、これについては色々と論争もありますので、ここでは説明は保留しておきましょう。

 

 さて、この第1パラグラフは、とにかく商品が商品であるということは、二重の「形態」を持つ必要があることが指摘されています。「形態」というのは、フォルムですが、要するに何らかの形あるものとして「現われているもの」です。私たちは第1節の商品の分析で、商品は使用価値であるととにも価値であるということが分かったのですが、しかし使用価値と価値というだけでは、二重の「形態」を持っているとはいえません。なぜなら、確かに使用価値は目に見えて手でつかめる現物形態ですが、価値そのものは手でつかんだり見たり出来るものではないからです。価値は内在的なものであり、そのものとしては「形態」として「現われている」わけではないのです。しかし商品である限りは、価値もその「形態」を、つまり目で見えるような姿で現われてこなければならない(現象しなければならない)というのです。だから商品はその使用価値としての現物形態とともに価値の形態(価値形態)という二重の「形態」を持つ限りでのみ、商品として「現われ」得る、つまり商品という「形態」をとることになるわけです。すなわちその姿で自分は商品だよ、と誰にでも分かるようなものとして存在することになるのだというわけです。

 

■第2パラグラフ

 

 《商品の価値対象性は、寡婦のクイックリー〔シェイクスピアの『ヘンリー四世』などの中の人物〕と違って、どうつかまえたらいいかだれにもわからない。商品体の感性的にがさがさした対象性とは正反対に、諸商品の価値対象性には、一原子の自然素材も入りこまない。だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくりまわしても、それは、価値物としては、依然としてつかまえようがないものである。けれども、諸商品が価値対象性をもつのは、ただ、価値対象性が人間労働という同じ社会的単位の表現である限りにほかならないこと、したがって、商品の価値対象性は純粋に社会的なものであること、を思い出せば、それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現れうるということも、おのずから明らかである。実際、われわれは、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている諸商品の価値の足跡を探りあてた。今や、われわれは、価値のこの現象形態に立ちかえらなければならない。》

 

 このパラグラフには「価値対象性」という用語が5回も出てきます(ところが初版付録やフランス語版ではまったくでてきません。フランス語版では「商品の価値がもつ実在」と言い換えられています)。それは商品が「持つ」ものであるが、しかし「まぼろしのような」ものであり、「亡霊のような」もの「知覚できないもの」と説明されています。「補足と改訂」では「それは,眼に見える商品体の正に反対物」とも言われ、「社会的価値対象性」という用語もでてきます(付属資料参照)。  「同じ社会的単位の、つまり人間労働の表現である限りでのみ、社会的対象性をもつ」とも言われています。あるいはまた価値対象性は「価値物」とも言われており、価値物としても、やはり「依然としてつかまえようがないもの」だとも言われています。

 

  そうしてこういう幻のような価値対象性は、しかし商品と商品との社会的関係においてのみ「現われうる」ということ。すなわちその「形態」(現象形態)をもつとも言われています。ここから「価値対象性」とは何なのか、どう理解したらよいのか、そしてそれと関連して「価値物」というのも、どのように理解したらよいのか、ということがこのパラグラフの理解と関連して問題になってきます(「価値対象性」と「価値物」とは同じものと考えて良いのか、それともそれは異なるものなのか、異なるならどういう点で異なるのか、云々)。

 

 「対象」というのは、私たちの主観にかかわりなく、客観的に実在し、私たちの主体的な働きかけが向けられるもののことです。だから「対象性」というのは、そうした実在性と私たちが何らかの働きかけがなしうる性質ということでしょう。商品そのものは一つの客観的に実在するものです。そして商品は使用価値であるとともに価値であるということが分かっています。しかし、使用価値の場合は、目に見えてごわごわしたりギラギラした現物形態を持っていて、一目でそうした対象性はハッキリしていますが、しかし価値の場合は、確かにそれも客観的に実在する商品そのもののなかにあり、だから対象的存在ではあるのですが、しかしその対象性はまったく目に見えないものであり、手で触れうるものでもないのです。だからそれは、幻のような、亡霊のような、つかまえどころのないものだ、ということなのです。

 

  「価値対象性」というのは、そうした価値の私たちの主体的な働きかけ(認識)から見た性質ということが出来るでしょう。それに対して「価値物」というのは、商品は使用価値としては「物」としての存在は明らかですが、価値としては決して「物」として捉えることは出来ません。「価値」は「物」として「現われて」いないからです。しかし価値が商品に内在するものであるなら、その本質は現象せざるをえず、それはやはり「物」として現われてくるのです。「価値物」というのは、だから価値が「物」として現われたものですが、しかし商品そのものの「物」としての存在はその自然的・素材的な定在なのです。しかしそれは商品の使用価値であって価値ではありません。価値には一片の自然素材も含まれていないからです。だから、商品自身の自然素材においては価値は「物」として現れようがないのです。だから一つの商品を見ている限りは、やはり「価値物」としても捉えようがないのです。

 

  だからそうした幻のような対象性が目に見えるようなものとして「現われる」のはどのようにして可能なのか、ということですが、それは価値というのはそもそも社会的なものなのだから、社会的な関係のなかで、それも現われて来るのだ、実際、私たちは二商品の交換関係から出発して、価値を見いだしたのだから、その現象形態にもどればよいのだ、ということなわけです。

 

■第3パラグラフ

 

 《だれでも、ほかのことは何も知らなくても、諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な現物形態とはきわめて著しい対照をなす共通の価値形態をもっているということは知っている。すなわち、貨幣形態である。しかし、今ここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも単純なもっとも目立たない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。それによって、同時に、貨幣の謎も消えうせる。》

 

 そして実際、私たちが日常目にする商品は、確かに使用価値の形態と価値の形態を持っています。この場合の価値の形態というのは、貨幣形態のことです。私たちが店頭に並んでいる品物が商品であるかどうかは、それに値札がついているかどうかで見分けることが出来るでしょう。この値札というのは、実は、その商品の貨幣形態なのです。つまり商品の価値を貨幣で表示したものが、すなわちその値札(価格)なのです。そしてそれが価値が目に見えるものとして現われているものなのです。だから商品は、その目に見える使用価値とともに、値札(価格)という貨幣形態によって自身の価値を目に見えるものとして現すことによって、商品であるという「形態」を持っていることになるのです。だからこそ私たちは、それを一目見れば、「あっ、これは商品だ、売り物だ」とわかるわけです。

 

  これはあまりにもありふれた現実であり、誰でも知っていることです。しかし、今、ここでやろうとしていることは、誰も知らないし、誰も試みたことさえないこと、では、どうして商品は値札をつけているのか、どのようにして値札をつけるようになったのか、値札をつけているということはどういう意味なのか、ということを説明しようということです。それはさまざまな商品の価値関係のなかに含まれている、価値を表現する形態を、そのもっとも単純なものから貨幣形態にいたるまで追跡して初めてわかることなのです。つまりそれはそもそも貨幣というのはどのようにして生まれてきたのか、ということを明らかにすることでもあるのです。それが分かれば、貨幣が持っているさまざまな不思議な力は何にもとづいているのか、そのカラクリが分かるでしょう。

 

 このパラグラフでは、やはりJJ富村さんから「貨幣の謎」の意味が質問されました。ピースさんは「謎というのは、何故、貨幣によって全ての商品が価格表現されているのか」ということではないかと説明しましたが、JJ富村さんあまり納得できない様子でした。この「貨幣の謎」については、これから価値形態を学んでゆく過程で分かってくることなのですが、少しだけ先回りして、紹介することにしましょう。

 

  実は、久留間鮫造『貨幣論』(大月書店1979年刊)のなかで「『貨幣の謎』とはどういうことか?」とそのものズバリの表題がつけられて、かなり詳しい説明があります。それをすべて紹介すると、長くなりすぎるので、その核心部分だけを紹介しますが、是非、各自一度読んでみて欲しいと思います。

 

 〈マルクスが「謎」と言っているのは、等価形態におかれる商品の自然形態が、そして発展すれば金銀の自然形態が、直接的な交換可能性というまったく社会的な性質を生まれながらにしてもっているように見える、ということです。〉(28頁)

 

■第4パラグラフ

 

 《もっとも単純な価値関係は、明らかに、どんな種類であろうと種類を異にするただ一つの商品に対する一商品の価値関係である。だから、二つの商品の価値関係は、一つの商品にとってのもっとも単純な価値表現を与える。》

 

 だから私たちの出発点は、もっとも単純な価値の関係、つまり二つの商品をそれぞれが持っている価値という側面で関係づけて考えることから始まるのです。この二つの商品の価値関係は、一つの商品の価値のもっとも単純な価値の表現でもあるのです。

 

 とりあえず、本文の説明は以上で終わりです。あとは関連資料を紹介しておきます。

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◎関連資料

 

§§「前文」の諸類型

 

 前文の原型は初版の本文にはなく、付録にある(初版本文とフランス語版には、価値形態への移行規定というべきものがある)。そしてマルクスは、第二版(これが現行版)のための補足と改訂を行い、さらにフランス語版ではわずかだが表現が変わっている。それぞれを全文、この順序で紹介する(太字はマルクスの強調)。

 

§初版本文とフランス語版の移行規定

 

 《これまではただ価値の実体と価値の大きさとが規定されただけなので、今度は価値の形態の分析の方に方向転換することにしよう。》(初版・国民文庫版40頁)

 

 《いまや、価値の実体と価値量とが規定された。まだなお価値形態を分析しなければならない。》(フランス語版・江夏他訳17頁)

 

§初版付録から

 

 《第1章(一)への付録

 

  価値形態

 

 商品の分析は、商品は一つの二重物、使用価値にして価値である、ということを示した。それだから、ある物が商品形態をとるためには、それは二重形態を、すなわちある使用価値の形態および価値の形態を、もたなければならない。使用価値の形態は、商品そのものの形態、鉄、リンネル、等々であり、商品体の、手でつかめる感覚的な存在形態である。これこそは商品の現物形態である。これにたいして、商品の価値形態は商品の社会的形態なのである。

 

  ところで、一商品の価値はどのようにして表現されるであろうか? つまり、価値はどのようにしてそれ自身の現象形態を得るのであろうか? いろいろな商品の関係によってである。そのような関係のなかに含まれている形態を正しく分析するためには、われわれはその形態の最も単純な未発展な姿から出発しなければならない。一商品の最も単純な関係は、明らかに、なんであるかを間わずただ一つの別の一商品に対するその商品の関係である。それだから二つの商品の関係は、一商品のための最も単純な価値表現を与えるのである。》(国民文庫版128-9頁)

 

§第二版のための「補足と改訂」から

 

 《

[A]

[2] 3)価値形態または交換価殖

 p.764 一つ一つの孤立した商品の価値対象性は見えないままである,なぜならば,それは,眼に見える商品体の正に反対物だからである。諸商品は一般に,それが同じ社会的単位の,つまり人間的労働の表現であるかぎりでのみ,それらの雑多な使用対象性とは異なった社会的価値対象性をもつのである。

[B]

[異文目録参照]

[C]

[3]3)価値形態。(注17)

 商品は,使用価値または商品体の形態でこの世に生まれてくる。これが商品のありふれた自然形態である。これとは反対に,商品の亡霊のような価値対象性は知覚できない。商品の価値対象性のなかには,むしろ,諸商品を感覚的にお互いに区別している全ての特徴が消え去っている。

[D]

L 商品は,使用価値または商品体の形態で,鉄,リンネル,小麦などとして,この世に生まれてくる。これが商品のありふれた自然形態である。とはいえ,商品が商品であるのは,それが二重のものであり,使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから,商品は,自然形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ,商品として現れ,言い換えれば,商品という形態をとるのである。

 

L 商品の価値対象性は,どうつかまえたらいいかわからないことによって,寡婦のクイックリーと区別される。商品体の感性的にぎらぎらした対象性とは正反対に,商品の価値対象性には,一原子の自然素材もはいり込まない。だから,一つ一つの商品を好きなだけひねくり回しても,それは価値物としては,依然としてつかまえようがないものである。とはいえ,商品が価値対象性をもつのは,ただ,それが人間的労働という同じ社会的単位の表現である限りにほかならないこと,それゆえ,商品の価値対象性は純粋に社会的なものであること,を思い出せば,それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われうるということも,おのずから明かである。実際,われわれは,諸商品の交換価値または交換関係から出発して,そこに隠されている諸商品の価値の足跡をさぐりあてた。いまや,われわれは,価値のこの現象形態に立ち返らなければならない。

 

L だれでも,ほかのことはなにも知らなくても,諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な自然形態とはきわめていちじるしい対照をなす一つの共通の価値形態,すなわち貨幣形態をもっているということは知っている。しかし,いまここでなしとげなければならないことは,ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと,すなわち貨幣形態の発生を立証すること,諸商品の価値関係のなかにふくまれている価値表現をそのもっとも簡単なもっともめだたない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで展開することである。それによって,同時に,貨幣の謎も消えうせる。

[10]3)価値形態

 商品は,一般に,それらが価値関係を取り結ぶ限りにおいてのみ,おたがいに関係を取り結ぶのであるetc

[3]L_p.764(++)

〔6]3価値形態

 1)交換価値として,すなわち,一商品の他の商品に対する関係において。 2)すなわち,それが,価値を表現している商品であるのか,あるいはさもなくば,価値が表現されている商品であるのか,によって……  われわれは,いま,価値表現全体の二つの形態--相対的価値形態と等価形態--を,それぞれそれ自体として,より立ち入って考察することとしよう。》(MEM主義研究第5号/小黒訳/59-61頁)

 

§現行版から

 

 《第3節 価値形態または交換価値

 

 商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である。けれども、商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである。

 

  商品の価値対象性は、寡婦のクイックリー〔シェイクスピアの『ヘンリー四世』などの中の人物〕と違って、どうつかまえたらいいかだれにもわからない。商品体の感性的にがさがさした対象性とは正反対に、諸商品の価値対象性には、一原子の自然素材も入りこまない。だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくりまわしても、それは、価値物としては、依然としてつかまえようがないものである。けれども、諸商品が価値対象性をもつのは、ただ、価値対象性が人間労働という同じ社会的単位の表現である限りにほかならないこと、したがって、商品の価値対象性は純粋に社会的なものであること、を思い出せば、それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現れうるということも、おのずから明らかである。実際、われわれは、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている諸商品の価値の足跡を探りあてた。今や、われわれは、価値のこの現象形態に立ちかえらなければならない。

 

  だれでも、ほかのことは何も知らなくても、諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な現物形態とはきわめて著しい対照をなす共通の価値形態をもっているということは知っている。すなわち、貨幣形態である。しかし、今ここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも単純なもっとも目立たない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。それによって、同時に、貨幣の謎も消えうせる。

 

  もっとも単純な価値関係は、明らかに、どんな種類であろうと種類を異にするただ一つの商品に対する一商品の価値関係である。だから、二つの商品の価値関係は、一つの商品にとってのもっとも単純な価値表現を与える。》(全集版64-5頁)

 

§フランス語版から

 

 《第三節 価値形態

 商品は、鉄やリソネルや羊毛等のような使用価値あるいは商品素材の形態で生まれてくる。これはただたんに商品の自然形態であるにすぎない。とはいうものの、商品が商品であるのは、商品が同時に二つの物、すなわち、有用物であるとともに価値の担い手であるからにほかならない。したがって、商品は自然形態と価値形態という二重の形態で現われるかぎりでしか、流通のなかに入ることができない。(16)

 

 (16)べーリのように価値形態を分析しようと試みた少数の経済学者は、どんな結論にも到達することができなかった。第一に、彼らはつねに価値とその形態とを混同するからであり、第二に、彼らはブルジョア的慣行の粗雑な影響のもとで、最初からもっばら量に心を奪われているからである。「量にたいする支配力が……価値を構成する」(S・べーリ『貨幣とその価値変動』、ロンドン、一八三七年、十一ページ)。

 

 商品の価値がもつ実在は、つかみどころがわからないという点では、フォルスタッフ〔シェイクスピアの戯曲『ウィンザーの陽気な女房たち』中の人物〕の女友達である寡婦クウィックリーとはちがっている。商品体のもつかさばりとは極度に対照的に、商品の価値のなかには素材が微塵も入りこんでいない。したがって、一つ一つの商品は、随意にどういじりまわすことができても、価値物としてはどこまでも手ではつかめない。だが、商品の価値には、純粋に社会的な実在のみがあるということ、また、その価値は、それが人間労働という同じ社会的単位の表現であるかぎりでのみ実在があるということ、を想い起こすならば、この社会的な実在もまた、社会的な取引においてのみ、ある商品と他の商品との関係においてのみ現われうることが、明らかになる。実際のところ、われわれは、商品の交換価値すなわち交換関係から出発して、そこに隠されている商品の価値の痕跡を発見した。いまやわれわれは、この形態--価値は最初この形態のもとでわれわれに姿を現わした--に、立ち戻らなければならない。

 

  ほかのことはなにも知らなくとも、商品が、そのさまざまな自然形態とは最も顕著に対照をなしているような一つの特殊な価値形態、貨幣形態をもっていることは、誰でも知っている。ブルジョア経済学がかつて試みなかったことを試みることが、いま問題なのだ。貨幣形態の発生を提供すること、すなわち、商品の価値関係のなかに含まれている価値 表現を、最も単純で最も目立たないスケッチから始めて、万人に一目瞭然なこの貨幣形態にまで発展させることが、問題なのである。それと同時に、貨幣の謎が解決されて消え失せるであろう。

 

  一般的に言って、諸商品は価値関係以外には相互に関係をもたないのであって、最も単純な価値関係は、明らかに、一商品の、どんな種類であれ他の異種の商品にたいする価値関係なのである。したがって、二商品の価値関係あるいは交換関係は、一商品にたいして最も単純な価値表現を提供する。》(江夏他訳/法政大学出版局/17-8頁)

 

§§その他の文献

 

 以下は、この前文を理解する上で、一つの参考になるかも知れないというものを紹介しておく。

 

§モスト『資本論入門』から

 

 この前文の最後の部分と「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」とも若干、関連すると思える。またここに出てくる「価値物」がどのように説明されているかにも注目。

 

 《さてここで交換価値に、つまり諸商品の価値が表現されるさいの形態に、立ち戻ろう。この価値形態は生産物交換から、また生産物交換とともに、しだいに発展してくる。

 

  生産がもっぱら自家需要に向けられているかぎり、交換はごくまれに、それも交換者たちがちょうど余剰分をもっているようなあれこれの対象について、生じるにすぎない。たとえば毛皮が塩と、しかもまず最初はまったく偶然的なもろもろの比率で交換される。この取引がたびたび繰り返されるだけでも、交換比率はだんだん細かに決められるようになり、一枚の毛皮はある一定量の塩とだけ交換されるようになる。生産物交換のこの最も未発展の段階では、交換者のそれぞれにとって、他の交換者の財貨が等価物として役立っている。すなわち、それ自体として彼の生産した財貨と交換可能であるばかりでなく、彼自身の財貨の価値を見えるようにする鏡でもあるような、価値物として役立つのである。》(大谷訳/岩波書店/10頁)

 

 


第14回「『資本論』を読む会」の案内

『資本論』 を 読 ん で み ま せ ん か 

 

 

                                     

  6月26日に上場企業の株主総会がピークを迎え、業績悪化による赤字決算や減配に、トヨタ自動車の豊田章男社長をはじめ、経営者はひたすら頭を下げる「おわび総会」になっていると新聞は報じている。90年代の半ばごろから「株主資本主義」ということが言われ、先行するアメリカにならって「コーポレート・ガバナンス(企業統治)」が声高に言われはじめた。つまり、株主が企業経営に注文をつけ、高配当、高株価を要求する「ものいう株主」のことである。今回の株主総会でも、怒号が飛び交う一幕もあったと新聞は報じている。

 

(09年6月26日『朝日』より)

 

 「株主資本主義」のもとで、法人企業の配当率と役員報酬(そして内部留保)だけが増大する一方で、労働分配率の顕著な低下が進み、非正規や派遣労働者の割合が増えてきた。例えば、02年から07年の全法人企業の支配配当総額は5兆円から15兆円と3倍にもなり、一人当たりの役員報酬も1800万円から3000万円へと増大しているのに、従業員給与はほぼ500万円の横ばいである。総務省の「労働力調査」によれば、非正規雇用労働者は98年の881万人から08年の1760万人に、派遣労働者は98年の90万人から07年の381万人へと増えている。

(『経済』09年7月号より)

 

 「株主資本主義」の下で、労働者への搾取が徹底して強化されてきたことは確かである。しかし注意しなければならないのは、問題は「株主資本主義」にあるのではないということである。「株主資本主義は、配当の増加や株価の上昇を意図して、企業に対してコスト削減による利潤の増大を求める」(同上『経済』12頁)と言われるが、しかしこうした傾向は資本主義に固有のものであり、何も「株主資本主義」だからそうであるというわけではない。だからまた「株主資本主義」を改めれば、あるいは「株主資本主義に閂(かんぬき)をかけ」(同26頁)ればよいという問題でもないのだ。問われているのは資本主義そのものである。マルクスは「株式会社の形成」の意義について次のように述べている。

 

 《 2 ……それは、資本主義的生産様式そのものの限界のなかでの、私的所有としての資本の廃止である。 

  3 ……このような、資本主義的生産の最高の発展の結果こそは、資本が生産者たちの所有に、といってももはや個々別々の生産者たちの私有としてのではなく、結合された生産者である彼らの所有としての、直接的社会所有としての所有に、再転化するための必然的な通過点なのである。それは、他面では、これまではまだ資本所有と結びついている再生産過程上のいっさいの機能が結合生産者たちの単なる機能に、社会的機能に、転化するための通過点なのである。》(全集25a557頁)

 

 まさに株式資本主義はこうした意味で、ますます将来の生産に近づけば近づくほど、その資本制的形態との矛盾を深め、労働者階級との軋轢を深めるのであるが、それ自体が将来の社会への主体的準備の一条件でもあるのである。

 貴方も現代の高度に発達した資本主義社会を読み解くためにも、ともに『資本論』を読んでみませんか。

 


第14回「『資本論』を読む会」の報告

第14回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎子供たちには楽しい夏休みだが

 

 猛暑日が続く、7月19日に、第14回「『資本論』を読む会」が開催されました。今年は3連休が入るために、ちょっぴり早い夏休みでしたが、さっそく暑さもウナギのぼりで、老体にはなかなか厳しい季節ではあります。 しかし会場の堺市立南図書館は冷房が効きすぎるぐらいで、タダで使わせてもらい、ありがたいことです。

 

 今回は、「第3節 価値形態または交換価値」の本題に入り、「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」の「1 価値表現の両極--相対的価値形態と等価形態」だけをやりました。さっそく、その報告をやりましょう。

 

◎「偶然的な」とは何か?

 

 まず問題になったのは、表題の「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」そのものでした。ここで「簡単な」「個別的な」というのは分かるが、「偶然的な」というのは、あたかも二つの商品が偶然に物々交換されているケースであるかに捉えられるが、そうではなく、例として上げられている2商品は資本主義的生産を前提にした商品を資本主義的関係を捨象して取り出されたものだ、とレポーターのピースさんが説明したのが切っ掛けでした。

 

 それに対して、そもそもこの表題はエンゲルスの手による第4版にもとづくもので、マルクス自身のものには、こうした表題が見られないとの指摘がありました。マルクス自身が書いた表題には、次のようなものがあります。

 

●初版本文--《 I  相対的な価値の第一の、または単純な、形態》

●初版付録--《 I  単純な価値形態》

●第2版-- 《A 単純なあるいは単一の価値形態》(江夏美千穂訳24頁)

●フランス語版--《A 単純な、あるいは偶然的な価値形態》(江夏他訳18頁)

 

 つまりエンゲルスは第2版とフランス語版をミックスして、この表題を現行のように改めたと思われます。上記の表題のなかで、「単純」で、「第一の」ものであり、「個別的な」あるいは「単一の」ものであることは分かるが、「偶然的な」ものであるとはどういうことかが改めて問題になりましたが、これは少し先走りますが、例えば、《B 全体的な、または展開された価値形態》《1 展開された相対的価値形態》の最後のあたりに、次のような一文があ

ることが紹介されました。

 

 《第1の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。》云々。

 

 この理解について、「偶然的」なのは「量的な割合」についてではないか、との意見もありましたが、そうではなく一定の量的割合も含めて二つの商品が交換されるということ自体も偶然的事実として説明されているのではないか、それに対して《全体的な、展開された価値形態》では、そうした《偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景》があることを指摘している、ということになりました。

 

 またフランス語版の《C 一般的価値形態》《(b)相対的価値形態と等価形態との発展関係》には、次のような一文があります。

 

 《一商品の単純なあるいは単独な相対的価値形態は、なんらかのほかの一商品を偶然的な等価物として前提している。発展した相対的価値形態、他のすべての商品においての一商品のこうした価値表現は、他のすべての商品全部にいろいろな種類の特殊な等価形態を押しつける。》(前掲訳41頁)

 

 だからやはり「偶然的な」というのは、リンネルの相対的価値を表す等価物が上着であるかどうかは偶然であって、それは別のどの商品でもよいという含意であろう、という結論になりました。

 

◎2商品の等式について

 

 さて、上記の表題の次にあるのは、次のような等式です。

 

 《x量の商品A=y量の商品B または、x量の商品Aはy量の商品Bに値する。  (20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する)》

 

 この等式についてJJ富村さんから、「実は以前から疑問に思っていたのだが……」と次のような疑問が出されました。数学では「=」の説明として、次の三つの条件を満たすことが要求されるというのです。

 

 (1)「A=A」

 (2)「A=B」→「B=A」

 (3)「A=B」、「B=C」→「A=C」

 

 しかし、2商品の単純な等式は(2)や(3)は否定されているように思うのだが、どう考えたら良いのか、というのです。それに対してピースさんは、(2)も(3)も商品の価値の関係としては成り立っているが、価値の表現としてはそれは別の表現になると言っているのではないか、との指摘がありました。また亀仙人は初版付録では、次のような一文があると紹介しました。

 

 《相対的価値と等価物とは両方ともただ商品価値の諸形態であるにすぎない。いま、ある商品が一方の形態にあるか、それとも対極的に対立した形態にあるか、ということは、もっぱら、価値表現におけるその商品の位置によって定まるのである。このことは、われわれによってここでまず第一に考察されている単純な価値形態において明確に現われる。内容から見れば両方の表現、  1 20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、と  2 1着の上着=20エレのリンネル または、1着の上着は20エレのリンネルに値する、とは、けっして違ってはいない形式から見れば、それらはただ違っているだけではなくて、対立している。》(国民文庫版132-3頁)

 

 つまりここではA=BとB=Aの二つの等式について、「内容から見れば、両方の表現……は、決して違っていない」と説明され、ただ「形式から見れば、それらはただ違っているだけではなくて、対立している」と説明されている、と。

 

◎「価値形態の分析には固有な困難がある」とは?

 

 等式のあとには小見出し《1 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態》があり、そのあと最初のパラグラフがあります。まずパラグラフ全体を紹介しておきましょう。

 

 《すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。それゆえ、この価値形態の分析には固有な困難がある。》

 

 まず、初版付録やフランス語版では、この一文は等式のすぐあと小見出しの前にあることが指摘されました。また初版本文では、小見出しはなく、等式が示されたあと、その分析の困難さが、次のように指摘されていることも紹介されました。

 

 《この形態は、それが単純であるがゆえに(16),分析するのが困難なものである。そのなかに含まれている異なった諸規定は、隠されており、未発展であり、抽象的であって、そのためにただ抽象力のいくらかの緊張によってのみ識別され、確認されうるものである。しかし、次のことだけは、一見して明らかである。すなわち、20エレのリンネル=1着の上着 であろうと、20エレのリンネル=x着の上着 であろうと、形態は同じままである、ということである(17)。

 

 (16)それは、いわば貨幣の細胞形態である。または、へーゲルならば言うであろうように、貨幣の即自態〔das Ansich〕である。

  (17)J・ベーリのように価値形態の分析に携わってきた少数の経済学者たちが少しも成果をあげることができなかったのは、一つには彼らが価値形態と価値とを混伺しているからであり、第二には、彼らが、実際的なブルジョアたちの粗雑さの影響のもとにあって、はじめからもっぱら量的な被規定性だけに着目しているからである。「量にたいする支配が……価値である。」(『貨幣とその価値の転変』、ロンドン、1837年、11ページ。)著者はJ・べーリ。》(国民文庫版43-4頁)

 

 また価値形態の分析の困難さについては、初版序文や当時のマルクスがエンゲルスと交わした書簡のなかにも次のようなものがあることが紹介されました。

 

●初版序文から

 

 《なにごとも初めがむずかしいということは、どの科学にもあてはまる。だから、第一章、ことに商品の分析を含む節を理解することは、最大の難関になるであろう。価値実体価値量の分析についてさらに詳しく言うと、私はこの分析をできるだけ万人向きのものにした(1)。価値形態の分析はそうはゆかない。このほうの分析は難解である。なぜなら、弁証法が、前者の叙述(『経済学批判』のこと--引用者)のばあいよりもはるかに鮮明だからである。だから、弁証法的な思考に全く不慣れな読者に、私は次のことをすすめておく。すなわち、15ページ(上から19行目)から34ページ末行までの部分はすっかり省いたまま読まずに、その代わり、本書に追補してある付録「価値形態」を読む、ということ。この付録では、問題の科学的な把握が許すかぎりでこの問題を単純にまた教師風にさえ叙述することが、試みられている。付録を読み終わってから、読者は本文に戻って35ページから読み続ければよい。

 

 (1)このことがなおさら必要だと思われるのは、シュルツェーデーリッチに反対したF・ラサールが彼の著書のなかで、上記の題目にかんしての私の説明の「精神的核心」を与えていると明言している一節でさえも、重大な誤解を含んでいるからである。ついでに言っておこう。F・ラサールは、たとえば資本の歴史的性格生産関係と生産様式との関連等々にかんする、彼の経済学上の労作のすべての一般的な理論的命題を、ほとんど一語一語たがわず、私が作り出した術語にいたるまで、私の著書から、しかも出所も示さずに借用したのであるが、こうしたやり方がなされたのは、おそらく宣伝上の考慮からであろう。もちろん、私が言うのは、彼のやっている細部にわたる論述や応用のことではないのであって、それらは私にはなんの関係もないことである。

 

 価値形態--それの完成した姿が貨幣形態である--は、きわめて無内容で単純である。それにもかかわらず、人間精神は二千年以上も前からその究明にむなしい努力をはらってきたが、他方、これよりもはるかに内容豊富で複雑な諸形態の分析は、少なくともだいたいのところまでは成功をおさめた。なぜか? 発育した身体は身体細胞よりも研究しやすいからである。その上、経済的諸形態の分析にさいしては、顕微鏡も化学試薬も役に立つことができない。抽象力が両者の代わりをしなければならない。ところが、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態あるいは商品の価値形態が、経済的な細胞形態である。教養のない者には、この形態の分析は、あちこちと細事のせんさくだけをやっているように見える。このばあいにはじっさい細事のせんさくが問題になるのだが、このことは、微細にわたる解剖ではこのようなせんさくが問題になるのと全く同じことである。》(初版前掲訳書9-11頁)

 

●マルクスからエンゲルスへの書簡(1867年6月22日)から

 

 《そのうえ、この問題はこの本全体にとってあまりにも決定的だ。経済学者諸氏はこれまで次のようなきわめて簡単なことを見落としてきた。すなわち、20エレのリンネル1枚の上着、という形態は、ただ、20エレのリンネル2ポンド・スターリングという形態の未発展の基礎でしかないということ、したがって、商品の価値をまだ他のすぺての商品にたいする関係としては表わしてはいないでただその商品自身の現物形態とは違うものとして表わしているだけの、最も簡単な商品形態が貨幣形態の全秘密を含んでおり、したがってまた、労働生産物のいっさいのブルジヨア的な形態の全秘密を縮約して含んでいる、ということがそれだ。僕は最初の叙述(ドゥンカー)では(『経済学批判』のこと--引用者)、価値表現の本来の分析をそれが発展して貨幣表現として現われてからはじめて与えるということによって、展開の困難を避けたのだ。》(全集31巻256-7頁)

 

 さらに初版付録の最後の項目は単純な商品形態は貨幣形態の秘密であるというものであり、そこには次のような一文が見られる、と紹介がありました。

 

  《貨幣形態の概念における困難は、一般的な等価形態の、したがって、一般的な価値形態一般の、形態IIIの、理解に限られる。しかし、形態IIIは、逆関係的に形態IIに解消し、そして、形態IIの構成要素は、形態 I 、すなわち20エレのリンネル=1着の上着 または、x量の商品A=y量の商品B である。そこで、使用価値と交換価値とがなんであるか、を知るならば、この形態 I は.任意の労働生産物たとえばリンネルを、商品としてすなわち使用価値と交換価値という対立物の統一として、表示する最も単純で最も未発展な仕方である、ということがわかる。そうすれば、同時に、単純な商品形態 20エレのリンネル=1着の上着 が、その完成した姿、20エレのリンネル=2ポンド・スターリング すなわち貨幣形態を獲得するために通らなければならない諸変態の列も容易に見いだされるのである。》(国民文庫版170-1頁)

 

◎「等価物」とは?

 

 次は第2パラグラフです。これもまず全文紹介しておきます。

 

 《ここでは二つの異種の商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着は、明らかに二つの違った役割を演じている。リンネルは自分の価値を上着で表わしており、上着はこの価値表現の材料として役だっている。第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。第一の商品の価値は相対的価値として表わされる。言いかえれば、その商品は相対的価値形態にある。第二の商品は等価物として機能している。言いかえれば、その商品は等価形態にある。》

 

 ここから単純な価値形態、先に例示した等式の具体的な分析が始まっています。しかしマルクスは等式では表示されていた、「x量」「y量」、「20エレ」「1着」という2商品の量的な関係は問題にはせずに、考察を開始しています。そしてまず単純な価値表現において、二つの商品が演じる役割の違いを指摘します。それは表にしますと次のようになります。

 

 

 ここで、「等価物として機能する」とありますが、「等価物」というのはどういうことかという疑問が出されました。所沢の「『資本論』を読む会」でも同じ質問が出され、〈「等しい価値を持つ物ということだろう」という結論になりました〉と報告されています(http://shihonron.exblog.jp/9825135/)。  確かにこの時点ではそうした説明で良いのだろうと思いますが、初版本文には次のような一文があると紹介がありました。

 

 《上着でのリンネル価値の表現は、上着そのものに、ある新しい形態を極印している。じっさい、リンネルの価値形態はなにを意味しているか? 上着がリンネルと交換可能であるということである。上着はいまや、それのあるがままの姿をもって、上着というそれの現物形態において、他の商品との直接的な交換可能性の形態、交換可能な使用価値あるいは等価物の形態をもっているのである。等価物という規定は、ある商品が価値一般であるということを含んでいるだけではなく、その商品が、それの物的な姿において、それの使用形態において、他の商品に価値として認められており、したがって、直接に、他の商品にとっての交換価値として現存している、ということをも含んでいる。》(夏目訳34-36頁)

 

◎不可分性と対極性

 

 次は第3パラグラフです。

 

 《相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。この両極は、つねに、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている。たとえば、リンネルの価値をリンネルで表現することはできない。20エレのリンネル=20エレのリンネル はけっして価値表現ではない。この等式が意味しているのは、むしろ逆のことである。すなわち、20エレのリンネルは20エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルに、ほかならないということである。つまり、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、なにか別の一商品がリンネルにたいして等価形態にあるということを前提しているのである。他方、等価物の役を演ずるこの別の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それは自分の価値を表わしているのではない。それは、ただ別の商品の価値表現に材料を提供しているだけである。》

 

 ここでは二つの商品がとっている相対的価値形態と等価形態というのが、どういう関係にあるのかを見ています。それは同じ一つの価値表現のなかの二つの形態という意味で、「互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な」関係にあるが、同時に「同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、両極」だと説明されています。初版付録では、この部分は細分されて、次のように説明されています。

 

 《いま、さらに詳しく分析しなくても、次の諸点ははじめから明らかである。

 

 a 両形態の不可分性

 

 相対的価値形態と等価形態とは、同じ価値表現の、互いに属し合い互いに制約し合っている不可分な諸契機である。

 

 b 両形態の対極性

 

 他方では、この両形態は、同じ価値表現の、互いに排除し合う、または対立し合う両端、すなわち両極である。それらは、つねに、価値表現が互いに関係させる別々の商品のうえに分かれている。たとえば、私はリンネルの価値をリンネルで表現することはできない。20エレのリンネル=20エレのリンネルは、けっして価値表現ではなくて、ただ一定量の使用対象リンネルを表現しているだけである。つまり、リンネルの価値は、ただ別の商品でしか、すなわちただ相対的にしか、表現されえないのである。だから、リンネルの相対的価値形態は、なんらかの別の一商品がリンネルにたいして等価形態にある、ということを前提しているのである。他方、リンネルの等価物として現われ、したがって等価形態にあるところの、この別の商品、ここでは上着は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それはそれの価値を表現しはしない。それはただ他の商品の価値表現に材料を提供しているだけである。》(国民文庫版130-1頁)

 

 ここで《20エレのリンネル=20エレのリンネル》という例が持ち出されているが、これは先に等式のところで議論した「(1)A=A」に該当するが、どうしてこれが持ち出されているのだろうか、ということが問題になりました。等式としてはマルクスも「(1)A=A」がありうることを認めているが、しかしそれは「価値表現」ではないと排除しているのではないかということになりました。

  だから「両形態の対極性」には(1)互いに排除し合う関係、(2)または対立し合う両端、両極という意味と、さらに(3)「つねに、価値表現が互いに関係させる別々の商品のうえに分かれている」という意味もあり、(4)一方の商品が相対的価値形態にある場合は、他方の商品は等価形態にあるということ、(5)等価形態にある商品は、同時に相対的価値形態にあることは出来ない、(6)つまりそれ自身の価値を表現することは出来ない、ということを含んでいるという指摘がありました。

 

◎逆関係

 

 次は第4パラグラフです。

 

 《もちろん、20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値するという表現は、1着の上着=20エレのリンネル または一着の上着は20エレのリンネルに値するという逆関係を含んでいる。しかし、そうではあっても、上着の価値を相対的に表現するためには、この等式を逆にしなければならない。そして、そうするやいなや、上着に代わってリンネルが等価物になる。だから、同じ商品が同じ価値表現で同時に両方の形態で現われることはできないのである。この両形態はむしろ対極的に排除しあうのである。》

 

 これも両形態の対極性の説明の続きと考えられます。「逆関係」はフランス語版では「逆の命題」とされています。同じ商品が同じ価値表現で同時に両方の形態で現われることが出来ないこと、だから両形態は互いに排除し合うことが説明されています。初版付録もほぼ同じような内容です。ただ初版付録には、このあとに次のような説明が続くのです。

 

 《そこで、われわれはリンネル生産者Aと上着生産者Bとのあいだの物々交換を考えてみよう。彼らが取引で一致するまえには、Aは、20エレのリンネルは2着の上着に値する(20エレのリンネル=2着の上着)、と言い、これにたいして、Bは、1着の上着は22エレのリンネルに値する(1着の上着=22エレのリンネル)、と言う。最後に、長いあいだ商談したあげく、彼らは一致する。Aは、20エレのリンネルは1着の上着に値する、と言い、Bは、一着の上着は20エレのリンネルに値する、と言う。この場合には、両方とも、リンネルも上着も、同時に相対的価値形態にあるとともに等価形態にある。だが、注意せよ、それは二人の別々の個人にとってのことであり、また、二つの別々な価値表現においてのことなのであって、それらがただ同時に現われるだけのことなのである。Aにとっては、彼のリンネルは、--というのは彼にとってイニシアチブは彼の商品から出ているのだから--相対的価値形態にあり、これにたいして、相手の商品、上着は、等価形態にある。Bの立場からすれば、これとは逆である。だから、同じ商品はどんな場合にも、この場合にもやはり、同じ価値表現において両方の形態を同時にもっていることはないのである。》(前掲国民文庫版131頁)

 

 ここでは「リンネル生産者A」と「上着生産者B」と、「生産者」が登場し、しかも両者のあいだにおける「物々交換」が問題になっています。もちろん、「物々交換」とはいうものの、二つの商品が交換されるまでの商談による両者の最終的な合意までで、交換のための準備の段階だとも言えます(だからこそ、それは価値表現の問題なわけです)。ここで生産者が登場するのも、最終的に商談が一致するまでであって、一致した段階では、やはり商品が主体になっています。だから最終的には当初に掲げている等式と同じ前提になっていると考えることが出来ます。そしてここでも、最終的に言いたいことは同じ商品はどんな場合にも、……同じ価値表現において両方の形態を同時にもっていることはないということです。ただ物々交換が一つの例として持ち出されていることは、注目される、という指摘がありました。

 

◎価値表現での商品の位置が問題

 

 次は第5パラグラフです。

 

 《そこで、ある商品が相対的価値形態にあるか、反対の等価形態にあるかは、ただ、価値表現のなかでのこの商品のそのつどの位置だけによって、すなわち、その商品が、自分の価値を表現される商品であるのか、それともそれで価値が表現される商品であるのかということだけによって、定まるのである。》

 

 この部分は初版付録では、次のような一つの項目が立てられ、最初の等式の説明のときに、紹介した詳しい説明があるのです。重複しますが、もう一度、全体を紹介しておきましょう。

 

 《c 相対的価値と等価物とはただ価値の諸形態であるにすぎない

 

 相対的価値と等価物とは両方ともただ商品価値の諸形態であるにすぎない。いま、ある商品が一方の形態にあるか、それとも対極的に対立した形態にあるか、ということは、もっぱら、価値表現におけるその商品の位置によって定まるのである。このことは、われわれによってここでまず第一に考察されている単純な価値形態において明確に現われる。内容から見れば、両方の表現、

  1 20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、と

  2 1着の上着=20エレのリンネル または、1着の上着は20エレのリンネルに値する、とは、けっして違って

はいない形式から見れば、それらはただ違っているだけではなくて、対立している。表現1においてはリンネルの価値が相対的に表現される。それだから、リンネルは相対的価値形態にあるのであるが、他方、同時に、上着の価値は等価物として表現されている。それだから、上着は等価形態にあるのである。いま、私が表現1を逆にするならば、私は表現2を得る。両商品は位置を取り替えるのであって、すると、たちまち上着は相対的価値形態にあり、これにたいしてリンネルは等価形態にある。両商品は同じ価値表現におけるそれぞれの位置を取り替えたので、両商品は価値形態を取り替えたのである。》(国民文庫版131-3頁)

 

 なおフランス語版にはこのパラグラフに該当するものはありません。

 

 


第15回「『資本論』を読む会」の案内

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

 

                                     

  今年の夏は、何かおかしい。

 

 すでに8月の声も聞こうかというのに、いまだに梅雨前線が日本列島に居すわって、各地でゲリラ的な集中豪雨をもたらし、突風、竜巻まで引き起し、十数人もの死者など甚大な被害を与えている。日照時間の少なさから北海道ではジャガイモなど根菜類の収穫が遅れ、野菜の値上がりが報じられている。これもやはり地球規模の環境破壊の影響であろうか。

 

 最近の新聞(「朝日」7月30日夕刊)でも、ヒマラヤの氷河が1984年撮影のものと2004年撮影のものと二つの写真が比較されていたが、氷河が急速に溶けだしていることが、視覚的に確認された。

 

(『朝日』7月30日夕刊より)

 

 

 

 地球環境の異変が叫ばれてすでに久しいが、しかしこうした地球規模による環境の破壊や異変の根本原因が資本主義的生産様式そのものにあるということは、あまり指摘されたことはない。

 

 マルクスは、人間の生産活動を生物学の用語を使って「社会的物質代謝」と規定している。人間は労働によって自然から有用物を取り出し摂取し、不要なものを自然に返す代謝活動を社会的に行なっている。だから社会にとって有用なものを生産するために、社会の総労働を必要な生産分野に配分しなければならないが、しかし人間はそれを意識的に行なっているわけではない。個々の生産分野はそれぞれ独立に私的な利害にもとづいて行なわれながら、その生産物を商品として交換することで、彼らの生産の社会的な結びつきを実現しているのである。だからどの分野にどれだけの労働を配分するかは、商品の交換の結果として決まってくるだけである。

 

 だから人間は、彼らの社会的物質代謝を自分たちの意識のもとにコントロールしているのではなくて、反対に社会的物質代謝の諸法則は、一つの“自然法則”として、人間を支配し統制する経済的な諸法則という形で立ち現れているのである。人間がそれらの諸法則に翻弄されていることは、今日の深刻な経済恐慌が私たちに何をもたらしているかを考えてみれば、明らかである。

 

 しかも資本主義的生産においては、個々の生産は集中・集積され、ますます大規模に徹底的に組織的に行なわれながら、しかし社会的には私的な生産でしかなく、依然として生産物は商品として交換されている。個々の資本は利潤を唯一の推進動機として猛烈な競争によって生産力を飛躍的に高める一方で、生産の社会的結びつきは、ただ商品交換を通じた偶然的な諸結果にまかせるしかない生産様式なのである。

 

 だから個々の資本はただ儲けることを最大の目的にし、社会全体のことを考えて生産するわけではない。ましてや地球規模の社会的物質代謝を考慮して生産することはできない。高度に発達した現代の物質的生産力は、豊かな富を生み出す一方で、社会的に統御されないために、地球環境には盲目的に作用して、それを破壊する。これが今日の地球規模の環境破壊や異変の本当の原因なのである。

 

 マルクスは将来の社会ではこうした社会的物質代謝を意識的な統制のもとにおく必要があると、次のように述べている。

 

 《社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。》(『資本論』第3部、全集版25b1051頁)

 

 人類が当面する地球規模の危機も、資本主義的生産様式が歴史的に克服される必要があることを示している。『資本論』はそうした人類史の壮大な歴史観にもとづいた科学的な経済書である。貴方も一緒にそうした『資本論』を読んでみませんか。

 



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