目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第9回「『資本論』を読む会」の案内
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第10回「『資本論』を読む会」の案内
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第11回「『資本論』を読む会」の案内
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第12回「『資本論』を読む会」の案内
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第14回「『資本論』を読む会」の案内
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第15回「『資本論』を読む会」の案内
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第16回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第11回「『資本論』を読む会」の案内

第11回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 

 今、自民党内では、「政府紙幣」の発行が議論になっているのだそうである。

 

 2月6日、自民党の菅義偉選対副委員長を中心に「政府紙幣・無利子国債の発行を検討する議員連盟の設立準備会」なるものが開かれたりしている。

 

 しかも、自民党内だけではなく、民主党の岩国哲人衆議院議員も「8項目の緊急経済対策」の一つとして「政府紙幣発行」を提言したり、経済アナリストの森永卓郎氏なども「もはや政府紙幣の発行しかない」などと述べたりしているのだそうである。

 

 かくしていまやマスコミのなかでもこの議論が大きく取り上げられ、テレビでは討論番組まで組まれたりしているありさまである。もちろん、実際にそれが発行されるのかどうか、あるいは、発行されるとしても、どういう形で発行されるのか、といったことはまったく不明である。

 

昭和20年に発行された政府紙幣(ウィキペディアから)

 

 どうやら、100年に一度の大不況なのだから、何でも許されるということらしい。しかしこれはもはや“末期症状”としか言いようがない事態である。確かに政府・地方合わせて1000兆円というGDPの2倍にも達する天文学的な債務を抱え、日本の国家は実質上は破綻しているといえば確かにそうである。しかし少なくともいまはまだそれは現実化していないのである。しかし、もし政府紙幣を発行したら、それこそ、それが引き金になって、破綻は現実のものとなり、日本はたちまち“ジンバブエ化”するであろう(ジンバブエでは何と100兆ドル札が発行されているのだという!)。

 

 日本で現在発行されているのは、千円、2千円、5千円、1万円の日本銀行券と500円以下の硬貨(補助貨幣)である。前者は日本銀行が発行し、後者は政府が発行している。これまでマルクス経済学者の間では、金との交換を停止した不換化した日銀券は果たして銀行券、すなわち信用貨幣といえるのか、そうではなくそれは国家紙幣と同じになってしまったのか、という問題について数多くの論争が行なわれてきた。「現在の日銀券はますます紙幣化しつつある」などと折衷的な立場を取る人もいるらしいが、こうした問題はいまだ理論的に明確に解決されているとは言い難いのである。政府紙幣の発行は、再びこうした議論を巻き起こすかも知れない。

 

 マルクスは『資本論』の第1部第3章「貨幣または商品流通」のなかで、国家紙幣は貨幣の諸機能の一つである鋳貨(流通手段)としての機能から生まれ、信用貨幣は支払手段としての機能から生まれると指摘している。さらに本来の信用貨幣である銀行券は、信用制度が発展するなど資本主義的生産のより複雑な関係を前提するとも述べている。

 

 政府紙幣の何たるかを理解し、それがどんな影響力をもたらすかを考えるためにも、やはり『資本論』をしっかり学ぶ必要があるわけである。ぜひ、貴方も一緒に『資本論』を学んで見ませんか。


第11回「『資本論』を読む会」の報告

第11回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎春は“花粉症”の季節?

 

 3月にもなると、ようやく寒さも弛み、「山」も「里」も「野」も近くにはありませんが、「春~が来た♪」ことを実感します。  「花~がさき、鳥~がなく、春」は、やはり心をウキウキさせるものですが、最近は、残念なことに、反対に憂鬱な季節になってしまったようです。“花粉症”です。街を歩くと何と「マスク人間」の多いことか!

 

  ピースさんも、JJ富村さんも、花粉症で、二人ともマスクをしています。ピースさんは8日の「読む会」の直前まで風邪でダウンしていたのですが、JJ富村さんも傍で見ていても気の毒なぐらい重い症状です。私たちが会議室に着いたとき、彼はすでに先にきて窓際の机に伏せていたので、眠っているのかと思ったのですが、そうではなく、花粉症が辛くて、伏せていたというのです。「読む会」の途中でも、時々、マスクを外して鼻などを洗浄する薬を噴霧したりしていました。

 

  幸い私、亀仙人は、山の中で育ったような人間であるためか、小さいときから漆の木の下を通っただけでもかぶれて顔全体を腫らしたりしていたのですが(この場合の治療法として、栗の葉の煮汁に顔を浸けさせられた)、いまだに花粉症の症状は出ていません。

 

  いずれにせよ、憂鬱で思考力も鈍る花粉症ですが、「読む会」の議論はなかなか充実したもので、11~15と五つもパラグラフを進み、第2節の最後のパラグラフを残すまで行きました。さっそく、その報告を行ないましょう。

 

◎第11パラグラフの位置づけとその内容

 

 まず、このパラグラフの位置づけというか、役割から考えてみましょう。第9パラグラフから、考察の対象は、それまでの商品の使用価値とそれに表されている有用労働から、商品の価値に移りました。そこでマルクスは第10パラグラフでは、まず上着とリンネルという二つの商品を価値の側面からみた場合にもっとも直接的な表象として捉えられる二商品の価値の量的比較から入っています。

 

  《上着はリンネルの二倍の価値をもっている》。

 

  しかし価値の量的区別にはどんな問題があるのか、ということはさしあたりは問題としないとして、そうした量的比較が可能である前提に質的同一性があること、だからまずその質的同一性から問題にすることが言われていました。

 

  ところで次の第12パラグラフは、この後回しにされた価値の量が問題になっています。だからこの第11パラグラフは、第9パラグラフから始まった価値の質的な考察の最後を締めくくるものであり、それの「まとめ」だということが分かります。

 

  その内容を理解するために、そもそも価値の質的考察がどのように進められてきたのかを少し振り返ってみましょう。第10パラグラフではマルクスは次のように考察を進めていました。

 

  まず上着とリンネルとは価値として量的に比較できるのは、両者が同じ実体を持つ物であるからであり、同種の労働の客観的表現であることが指摘されました。そしてこの「同種の労働」とは何かが明らかにされ、それは裁縫労働や織布労働の有用的性格を度外視した《人間労働力一般の支出》であること、それは《人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出》という意味での《人間労働力の支出》であることが指摘されました。それはまた《平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である》こと。だから価値の実体としては、複雑な労働も単純な労働に還元されていることが指摘されたのでした。

 

  そして第11パラグラフではもう一度、それまでの考察をまめているわけです。だから次に第11パラグラフを分節ごとに見て行きましょう。

 

【11】

 

・したがって、価値である上着およびリンネルにおいては、それらの使用価値の区別が捨象されているように、これらの価値に表されている労働においては、裁縫および織布労働というそれらの有用的形態の区別が捨象されている。

 

 われわれは以前は《使用価値に表されている労働》、すなわち《有用的労働》をみたが、 今は《価値に表されている労働》を問題にしている。上着とリンネルを価値という側面から見ると、まったく無区別な同質のものとして捉えられる。だからそれらを価値という側面で見るということは、それらを質的に区別している使用価値の相違を捨象することになる。それらを質的に違った使用価値たらしめているのは、裁縫労働や織布労働という有用労働なのだから、そうした使用価値を捨象するということは、裁縫労働や織布労働の有用的形態の区別も捨象するということになる。

 

・使用価値である上着およびリンネルが目的を規定された生産的活動と布および糸との結合したものであり、これに対して価値である上着およびリンネルは単なる同種の労働凝固体であるように、これらの価値に含まれている労働は、布および糸に対するその生産的なふるまいによってではなく、ただ人間労働力の支出としてのみ通用する。

 

 使用価値として見た上着やリンネルは、裁縫労働や織布労働という目的を規定された生産的活動と労働対象である布や糸との結合の産物であるように、それらを価値という側面で見るということは、それらの価値に含まれている労働も、布や糸に対する生産的な振る舞いによってではなく、ただそうした有用的性格を捨象された単なる人間労働力の支出としてのみ通用するものとなるのである。

 

・裁縫労働と織布労働とが使用価値である上着およびリンネルの形成要素であるのは、まさにこれらの労働の異なる質によってである。

 

 ・裁縫労働と織布労働とが上着価値およびリンネル価値の実体であるのは、ただ、これらの労働の特殊な質が捨象され、両方の労働が等しい質、人間労働という質をもっている限りでのことである。

 

 要するに上着やリンネルを価値の側面で見るということは、それらに支出されている労働を、上着やリンネルの使用価値に表されている裁縫労働や織布労働という具体的な特殊な目的を持った側面、労働のそういう形態を捨象して、単なる人間労働力の支出として見ることになる、ということが再確認されたわけです。

 

◎商品の価値に表される労働の量的考察

 

 次の第12パラグラフから価値に表される労働の量的考察が始まります。これも分節ごとに紹介しておきましょう。まず第12パラグラフです。

 

【12】

 

・だが、上着もリンネルも単に価値そのものであるだけではなく、一定の大きさをもつ価値であり、われわれの想定では、一着の上着は一〇エレの二倍の価値がある。

 

 ・これらの価値の大きさのこの相違はどこから生じるのか? それは、リンネルが上着の半分の労働しか含んでおらず、したがって、上着を生産するにはリンネルを生産する時間の二倍にわたって労働力が支出されなければならない、ということから生じる。

 

★このパラグラフでは商品の価値の量が、商品に含まれる労働の大きさにもとづくこと、そして労働の大きさは,労働力の支出の大きさに、故に労働力が支出される継続時間に関係することが明らかにされています。次は第13パラグラフです。

 

【13】

 

・したがって、商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的にのみ意義をもつのだが、価値の大きさとの関連では、それがもはやそれ以上の質をもたない人間労働に還元されたのち、ただ量的にのみ意義をもつ。

 

 ここで《もはやそれ以上の質をもたない人間労働に還元さ》れているというのは、価値に表されている人間労働も一つの質であるが、それは使用価値がもつ特殊な質を一つの質に還元したものなのです。そしてそれはそれ以上に還元しようのない質になっているために、もはや量的な区別しか問題にならないというわけです。これはヘーゲルの論理学の「有論」を彷彿とさせる敍述です。つまり「質のどん詰まり」としての向自有が、すなわち人間労働一般というわけです。

 

・前の場合には、労働のどのようにしてと、何をするかが問題となり、後の場合には、労働のどれだけ多くが、すなわちその継続時間が問題となる。

 

 使用価値として表されている労働の場合には、《労働のどのようにして》、つまりその具体的形態が問われ、《何をするか》、すなわちその目的意識性が問われたのですが、価値として表される労働においては、ただその《どれだけ》が、つまり量だけが問題となり、よってその継続時間が問題というわけです。

 

・一商品の価値の大きさは、その商品に含まれている労働の量だけを表すから、諸商品は、一定の比率においては、つねに等しい大きさの価値でなければならない。

 

★最後の分節にある《商品に含まれている労働》という文言が少し問題になりました。これまでマルクスは《商品に表される労働》とか《使用価値に表される労働》あいは《価値に表される労働》という言い方はしてきましたが、ここでは《含まれる労働》という表現をしていることです。しかしこれはそれが指摘されただけで特にそれ以上問題にはなりませんでした。

 

  さて、このパラグラフでは、価値の量との関連で見た労働が、使用価値との関連で見た労働の質的相違を還元して、それ以上還元できないまでに還元されているから、量的にのみ意義をもつことが明らかにされています。つまりこのパラグラフでは価値の量として表されている労働と使用価値として表されている労働との関連が考察されたわけです。そうした考察の端緒としての位置づけを持っているように思われます。つまり使用価値との関連で見た労働では、「どのようにして」「何をするか」が問われ、価値の大きさとの関連で見た労働では、「どれだけ」が問われる、と。これは次のパラグラフでは使用価値に関連する生産力と価値との関連を考察するための、いわばその導入部分であり、その前提である、といえわけです。それでは、次の第14パラグラフを見てみましょう。

 

【14】

 

・たとえば、一着の上着の生産に必要とされるすべての有用労働の生産力が不変のままにとどまるならば、上着の価値の大きさは、上着自身の量が増えるにつれて増大する。

 

 ここで《すべての有用労働》と述べられているのは、単に裁縫労働だけではなく、裁縫労働と結合されるリンネルを織る労働も、織布労働と結合される糸を紡ぐ製糸労働も、とにかく最終的な個人的消費手段である上着という使用価値を生産するに必要とされるすべての有用労働がここでは問題になっていると考えられます。そしてそれらのすべての労働の生産力が不変であるなら、上着の価値の大きさは、上着の量が増えれば、増えるというわけです。

 

・一着の上着がx労働日を表すなら、二着の上着は2x労働日を表す、等々。

 

 ・しかし、一着の上着の生産に必要な労働が二倍に増加するか、あるいは半分に減少するものと仮定しよう。

 

 ・前の場合には、一着の上着は以前の二着の上着と同じ価値をもち、後の場合には、二着の上着が以前の一着と同じ価値しかもたない。

 

 ・もっとも、どちらの場合でも、一着の上着はあい変わらず一着の上着として役立ち、それに含まれている有用労働もあい変わらず同じ質のものである。ただ、その生産に支出された労働量が変わったのである。

 

★生産力の変化と上着という使用価値との関連をまず問題にし、さらにそれが上着の価値とどういう関係にあるかを見ています。生産力の変化は、有用労働に関連するが、しかし生産力が変化しても、一着の上着という使用価値はもとのままの相変わらず同じ一着の上着として役立つだけで、使用価値としての役割も、またそれに含まれている有用労働にも何の変化もないというわけです。にも拘らず、生産力は有用労働に関連し、だから価値には直接関連しないはずなのに、生産力の変化は、一着の上着という使用価値そのものには何の変化ももたらさないのに、逆に価値には変化をもたらすというわけです。この逆説的な現実を指摘しています。

 

  ところで、ここでは生産力が変わっても、《有用労働も相変わらず同じ質のもの》といえるのかどうかが問題になりました。例えば裁縫労働の場合、手縫いするのとミシンを使って縫うのとでは、有用労働の質が変化しているのではないか、むしろ有用労働の質的変化こそ、生産力を変化させる要因の一つではないのか、という疑問が出されました。これはハッキリ決着がついたといえないのですが、要するに上着という有用性そのものは、生産力が変わっても変わらないのだから、その使用価値の有用性からみた場合に、それを形成する労働の有用性というもの、そいう意味での質にも変化がないと言っているのではないかと、という結論になりました。だから裁縫労働の具体的形態に変化があっても、同じ有用性に結実するという限りで、同じ質を持っているといえるのではないかというのですが、まあ、今一つよく分からないのが正直なところです。

 

【15】

 

・より大きい量の使用価値は、それ自体としては、より大きい素材的富をなす。

 

 ・二着の上着は、一着の上着より大きい素材的富をなす。

 

 ・二着の上着があれば、二人に着せることができるが、一着の上着では一人にしか着せられない、等々。

 

 ・といっても、素材的富の量の増大に対応して、同時にその価値の大きさが低下することもありえる。

 

 ・このような対立的運動は、労働の二面的性格から生じる。

 

 使用価値の量が増大しているのに、その価値が低下するというような、対立的な運動は、使用価値に表される労働と価値に表される労働という労働の二面的性格から生じることが指摘されています。

 

・生産力は、もちろんつねに、有用な具体的労働の生産力であり、実際、ただ、与えられた時間内における目的にしたがった生産活動の作用度だけを規定する。

 

 ここでは生産力について、厳密に規定がされています。すなわち、有用な具体的労働の生産力であって、与えられた時間内に目的にしたがった生産活動の作用度だけを規定する。

 

・だから、有用労働は、その生産力の上昇または低下に正比例して、より豊かな生産物源泉ともなれば、より貧しい生産物源泉ともなる。

 

・これに対して、生産力の変動は、それ自体としては、価値に表される労働にはまったく影響しない。

 

 これもすでに指摘したことですが、もう一度、生産力の変動は、それ自体としては、価値に表される労働にはまったく影響しない、ことが述べられています。

 

・生産力は、労働の具体的な有用な形態に属するから、労働の具体的な有用な形態が捨象されるやいなや、生産力は、当然、もはや労働に影響を与えることはできなくなる。

 

 ここでは、どうして生産力の変動は、それ自体として価値に表される労働に影響しないのか、その理由が述べられています。

 

・だから、生産力がどんなに変動しても、同じ労働は、同じ時間内には、つねに同じ価値の大きさを生み出す。

 

・ところが、同じ労働は同じ時間内に、異なった量の使用価値を--生産力が上がれば、より大きい量を、生産力が下がれば、より小さい量を--提供する。

 

 所沢の「『資本論』を読む会」では、ここに出てくる《同じ労働》とは何かということが議論になったようです(ttp://shihonron.exblog.jp/m2008-09-01/)。〈「次の部分で使用価値を与えるとされているのだから、あるがままの労働(具体的労働の側面と抽象的労働の側面をあわせもつ労働)ではないか」という発言が〉あった、と報告されています。

 

・したがって、労働の多産性を増大させ、したがって、労働によって提供される使用価値の総量を増大させるような生産力の変動は、もしもそれがこの使用価値総量の生産に必要な労働時間の総計を短縮させるならば、この増大した使用価値総量の価値の大きさを減少させる。反対の場合には逆になる。

 

 この最後の分節の解釈を巡ってかなり長い時間議論し、JJ富村さんなんかは、黒板を使って問題を整理しながら論じたりしましたが、今一つスッキリと解決したとは言えませんでした。

 

  まずここでは「使用価値総量」が問題になっていますが、どうしてここで使用価値総量が問題になっているのでしょう。このパラグラフは量的考察の最後でもあり、しかもその最後の分節です。だから単なる一着の上着の使用価値だけではなく、「使用価値総量」が問題になっていると考えることができます。ただここで「使用価値総量」と言っても、すべての使用価値全体を意味するのではなく、例えば上着なら上着の総量を意味しているのではないかということになりました。

 

  さらにこの分節の理解を困難にさせているのは、生産力の変動が使用価値総量も価値総量も同時に変化させる場合について述べているからです。

 

  例えば、使用価値総量を増大させる生産力の変動は、使用価値の一単位の価値を減少させるというのなら、まったく問題なく理解できます。この場合は生産力の変動が使用価値総量を増大させても、その使用価値総量の価値そのものには変化がないために(なぜなら、《生産力は、もちろんつねに、有用な具体的労働の生産力であり、実際、ただ、与えられた時間内における目的にしたがった生産活動の作用度だけを規定》し、《生産力の変動は、それ自体としては、価値に表される労働にはまったく影響しない》から)、一単位の使用価値の価値量は減少するのだと理解することができるわけです。しかしマルクスが述べているのは、こうしたことでは必ずしもないわけです。だからややこしいのです。

 

  マルクスが述べているのは、使用価値総量を増大させる生産力の変動が、その生産された使用価値総量の価値をも減少させる場合についてです。というのは、その生産力の増大は、使用価値総量を増大させるだけでなく、その増大した使用価値総量を生産するのに必要な労働時間の総計をも短縮するケースについて述べているのだからです。そして確かにこのように理解すれば、それはその限りではまったくそのとおりなのですが、どうしてこうしたケースの考察が量的考察の最後になされる必要があるのか、しかも《使用価値総量》とその生産に必要な《労働時間の総計》が問題にされる必要があるのか、ということが今一つよく分からないのです。これはとりあえず、疑問として出すだけにしておきます。

 

【追記】

 

  この最後の分節の理解について、補足しておきます。私たちは「使用価値総量」を「例えば上着なら上着の総量を意味している」と理解したのですが、それがそもそもマルクスがこの分節で何を言いたいのかを分からなくさせたようです。ここは文字どおり「使用価値総量」とは、その社会が必要とする使用価値総量と理解すべきなのです。そうすると、マルクスが言いたいことは次のようなことです。

 

 生産力が高度化すれば、社会が必要とする使用価値総量を増大させ、社会が享受する素材的富を増大させるが、同時にその使用価値総量の生産に必要な労働時間も短縮させもする。そうした生産力の変動は、しかし資本主義的生産においては、使用価値総量の価値の大きさを減少させ、それは資本主義的生産の攪乱・恐慌に繋がるのである。しかし将来の社会であるなら、それは自由時間の拡大に結果する。しかしもし戦争などで生産力が破壊されるなら、逆の結果を生み出す。第二次世界大戦はまさにそうした形で資本主義を延命させたといえるであろう。云々。

 

 もちろん、かなり脚色して書いてみましたが、このように理解するなら、この分節が商品の価値に表される労働の量的考察の最後に相応しい内容であることがお分かりになるでしょう。

 


第12回「『資本論』を読む会」の案内

第12回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 

 AIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)の巨額報酬が問題になっている。

 

 AIGと言えば、今回の金融危機のもとになった金融バブルを煽った張本人であり、昨年9月にリーマン・ブラザーズが破綻に追い込まれる一方で、米政府による救済を受け、公的資金が四回にわけて投入され、その総計が1700億ドル(約17兆円)にも達している保険大手である。

 

 今回、そのバブルを煽った金融商品部門の幹部に総額約160億円(一人当たりの最高額は約6億2700万円)ものボーナスが支払われたというのである。一方で政府の公的資金の支援を受けながら、他方で、破綻をもたらした“犯罪人”たちに巨額の報酬が支払われていたのである。これは事実上、税金を山分けしていたに等しい。

 

AIGに対する公聴会で抗議する人たち

 

 しかも高額報酬を受け取っていたのは、AIGの幹部だけではない。米銀最大手のバンク・オブ・アメリカに吸収合併された証券大手のメリルリンチの幹部も、昨年、巨額の報酬を受けとっていたことが明らかになっている。同社を統合したバンカメには総額450億ドル(約4兆5000億円)の公的資金が注入されているのである。

 

 ボーナスのトップ10の社員への支払い総額は約209億円(平均約20億円!)。しかも巨額報酬を受け取っていたのは、バブルを煽った専門家達である。例えば、投資銀行部門の責任者33億8000万円、トレーディングの責任者13億円、金融商品の責任者18億7000万円、商品取引の責任者16億5000万円、中東・アフリカの責任者15億円、グローバル戦略の責任者29億4000万円、グローバルセールスとトレーディングの責任者39億4000万円と凄まじい数字が並んでいる。

 

 彼らは自らの責任で破綻を招きながら、税金で穴埋めされることをよいことに、暴利を貪っていたのである。何と腐敗した連中であろうか。

 

 しかしこれは信用が極端まで膨張した腐敗した資本主義の避けることのできない一つの現象なのである。マルクスは資本主義的生産における信用の役割を論じるなかで、次のように指摘している。

 

 《それは、新しい金融貴族を再生産し、企画屋や発起人や名目だけの役員の姿をとった新しい種類の寄生虫を再生産し、会社の創立や株式発行や株式取引についての思惑と詐欺との全制度を再生産する。》(全集版25巻a559頁)

 

 《そして、信用はこれらの少数者にますます純粋な山師の性格を与える。》(同560頁)

 

  《信用制度が過剰生産や商業での過度な投機の主要な槓杆として現われるとすれば、それは、ただ、その性質上弾力的な再生産過程がここでは極限まで強行されるからである。……それゆえ、信用制度は生産力の物質的発展と世界市場の形成とを促進するのであるが、これらのものを新たな生産形態の物質的基礎としてある程度の高さに達するまでつくり上げるということは、資本主義的生産様式の歴史的任務なのである。それと同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発、恐慌を促進し、したがってまた古い生産様式の解体の諸要素を促進するのである。》(同562-3頁)

 

 バブルの破綻と世界恐慌の勃発が古い生産様式の解体を促進するものであるなら、こうしたバブルの中で暴利を貪った“寄生虫の大量発生”も、資本主義的生産様式が新しい生産様式によって置き換えられなければならないことを教えるものの一つでもあるのであろう。

 

 貴方も世界恐慌をより深く理解するためにも、ともに『資本論』を読んでみませんか。

 


第12回「『資本論』を読む会」の報告

第12回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎あっ、という間に葉桜に

 

 今年の桜は開花も早かったが、散るのも早かったですねぇ。

 

  4月3日に、静岡の“花追い人”の知人に付き合って、奈良県宇陀市にある「又兵衛桜」を観に行きました。樹齢300年とも言われるしだれ桜の古木は7分咲きといった程度でしたが、しかしなかなか見事なものでした。まだその段階では染井吉野はちらほら程度だったのが、その日曜日には瞬く間に満開になり、一週間後には桜吹雪となって、あっという間に葉桜になってしまいました。今年はいわゆる“花冷え”が満開後に無かったことが花の足を早めた原因かも知れません。

 

  いずれにしても見事な散りっぷりです。われわれも別に一花咲かさずとも、散り際だけはかくありたいものです。

 

◎第16パラグラフをめぐる議論

 

 さて、今回は、第2節の最後のパラグラフである第16パラグラフだけをやりました。このパラグラフは第2節全体のまとめであり、それだけに十分時間をかけて議論する意義があると考えたからです。まずこのパラグラフをそのまま紹介しておきましょう。

 

  《すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する。》(全集版63頁)

 

 このパラグラフを巡っては、資料として出された(後に紹介)、このパラグラフの構造を分析した図を見て頂ければ分るように、マルクスは明らかに「労働の二重性」について、少なくとも「二段階」ともいうべき二つのレベルで見ていることが指摘されました。一つは「人間労働力の支出」というレベルであり、もう一つは労働の「属性」というレベルです。この二つのレベルは、抽象度が異なっているように思えます。

 

 「抽象的人間労働」については、これまで数多くの論争や議論がなされてきましたが、その論争の中心は、「抽象的人間労働」というのは、歴史的な概念なのか、それとも歴史貫通的な概念なのかという問題でした。1920年代には、当時のソ連において、ルービン等による論争がすでにあり、日本でも長く論争されてきた歴史があります。

 

 白須五男氏は『マルクス価値論の地平と原理』(広樹社1991.2.20)のなかで、日本のマルクス経済学者のなかで、〈もっとも基本的な対極をなしてきた立場〉として、次のように区分けしています。

 

 〈抽象的人間労働を商品生産社会に固有に定在する特殊歴史的な労働とみなす学説(歴史的カテゴリー説)〉に立つ人たち--(戦前)河上肇・櫛田民蔵(戦後)遊部久蔵・林直道・安部隆一・宮川実(最新)正木八郎・頭川博・松石勝彦(目される人)平田清明(哲学畑)広松渉(白須氏はそれぞれの主な著書や論文も紹介していますが、省略します)。

 

  〈反対にその労働をすべての社会形態に歴史貫通的に存在する労働とみなす学説(超歴史的カテゴリー説)〉に立つ人たち--白杉庄一郎・岩瀬文夫・山本二三丸・見田石介・荒又重雄・吉原泰助・種瀬茂(同)。

 

 なぜこの用語がこれほど問題になるのでしょうか。もちろん、それはこの用語がそれほど現在の資本主義社会を理解する上で決定的な本質的な概念であるからですが、しかし他方で、マルクス自身が、「抽象的人間労働」と基本的には同じ内容をなすと思えるものをさまざまな言い方で表して論じているからでもあるように思えます。そのなかには歴史的な概念であると思わせるものもあれば、歴史貫通的なものと思わせるものもあるわけです。だからなかなか理解が困難なんだと思います。

 

 しかしそうしたマルクスのさまざまな用語の使い方は(それにはどういうものがあるのか資料を参照してください)、しかしこの第2節の最後のパラグラフの構造を分析すると、そこにはマルクスなりの意図があることが明確に理解できるような気がします。

 

 すなわち「人間労働力の支出」というレベルで見ている場合は、歴史貫通的なものとしてそれを捉えているような気がします。それに対して「労働の属性」として二つの契機を捉えている場合は、歴史的なものとしてそれを捉えているような気がするのです。

 

 しかし問題はこの歴史貫通的な概念としての「人間労働力一般の支出」と歴史的概念である「抽象的人間労働」とは如何なる関係にあるのかを理解することだ、という問題提起が亀仙人からあり、それに関してひとしきり議論がなされました。しかし、問題はなかなか難しく結論が出たとはとても言えません。よって、その紹介は残念ながら割愛せざるをえません。最後に、今後も、この問題については、引き続いて考えていくことを確認して終わったのでした。

 

◎第16パラグラフの関連資料

 

1、このパラグラフのマルクスの敍述の変遷

 

 この最後のパラグラフの現行のような文言は、第二版で登場するのですが、そこに至るまでのほぼ同じ部分と考えられるものの、マルクス自身の敍述を辿ってみます(下線はマルクスによる強調個所)。

 

(1)初版から

 

 《以上に述べたことからは次のような結論が出てくる。すなわち、商品のなかには、もちろん、二つの違った種類の労働が含まれているわけではないが、しかし、同じ労働が、その労働の生産物としての商品の使用価値に関連して見られるか、それとも、その労働の単に対象的な表現としての商品価値に関連して見られるか、によって、違った規定を受けるし、また、対立的にさえ規定されている、ということである。商品は、価値であるためには、なによりもまず使用対象でなければならないのであるが、それと同時に、労働も、人間の労働力の支出として、したがってまた単なる人間労働として、数えられるためには、なによりもまず有用な労働、すなわち目的を規定された生産的な活動でなければならないのである。》(国民文庫版39-40頁)

 

(2)第二版への補足と改訂から

 

                  《[A]

  〔5〕p.13)すべての労働は,一面では,人間的労働力の支出である。他面では,目的を規定された形態でのすべての力の支出である。労働力が支出されるこの特殊な形態あるいはあり方は,商品の使用価値を,つまり一定の有用効果をもたらす。それとは反対に,商品価値は,次の事を述べているにすぎない。すなわち,この物は人間的労働力の支出以外のなにものも現してはおらず,この支出の量はそれの価値の大きさに現わされている,ということである。

                   [B]

  すべての労働は,一面では,人間的労働力の支出である。生産物の価値は,その生産物が支出された労働力すなわち人間的労働そのもの以外のなにものも現わしてはいないということ,そしてその支出の量はその価殖の大きさに表わされている,ということを意味しているのである。他面において,労働力は何らかの規定された形態において支出される,すなわち何らかの方法で使われた,そして特殊な,目的を規定された生産的行為としてのみ労働力は使用価値をすなわち有用効果を生み出す。

 

                  [C]

  [すべての労働は]一面では,人間的労働力ー般の支出,したがって抽象的人間的労働である。そして,抽象的人間的労働というこの属性において労働は価値を形成する。他面において,すべての労働は何らかの特殊な目的を規定された形態での人間的労働力の支出であり,そしてそのような具体的有用労働として労働は商品の使用価値を生産するのであのである。》(『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』第5号57-8頁、小黒正夫訳)

 

(3)第二版(現行版とほぼ同じ)

 

 《すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する。》(全集版63頁)

 

(4)フランス語版

 

 《上述の結果、次のことが生ずる。すなわち、厳密に言って、二種類の労働が商品のなかにあるわけではないが、労働をその生産物としての商品の使用価値に関連づけるか、または、その純粋に客体的な表現としての商品の価値に関連づけるかにしたがって、その商品のなかで同じ労働が自己とは反対のものになる、ということ。どんな労働も一方では、生理学的な意味で人間労働力の支出であり、この同等な人間労働という資格において商品の価値を形成する。他方、どんな労働も、特殊な目的によって規定されるなんらかの生産形態のもとでの、人間労働力の支出であって、この具体的な有用労働という資格において使用価値あるいは有用性を生産する。商品が価値であるためには、商品はなによりもまず有用でなければならないのと同じように、労働が人間労働力の支出、言葉の抽象的な意味での人間労働と見なされるためには、労働はなによりもまず有用でなければならない。》(江夏美千穂/上杉聰彦訳16頁)

 

2、このパラグラフの構造の解析

 

 まずこのパラグラフを再度引用しておきます。

 

 《すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する。》(全集版63頁)

 

 このパラグラフはシンメトリーな構造を持っています。それを図示してみましょう。

 

 

3、「抽象的人間労働」に類似するさまざまな用語例

 

 第2節では、この用語は最後のパラグラフに1回出てくるだけです。だからマルクスは同じような内容をさまざまな言い方で表しているわけです。それには一体、どういうものがあるのか、一度、この第2節の最後のパラグラフまでで、同じような内容がどういう用語で述べられているのか、すべて調べてみました(引用は全集版から頁数も同じ)。

 

§第1節から

 

■価値の社会的実体

 

(1)《一つの等しいもの》《ある内実

 

  《したがって、第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する、ということになる。しかし、第二に、交換価値は、そもそもただ、それとは区別されるべきある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。》(50頁)

 

(2)《同じ大きさのある共通物が……存在する》《第三のもの》(50頁)

 

(3)《同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働

 

  《そこで、諸商品体の使用価値を度外視すれば、諸商品体にまだ残っているのは、ただ一つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。しかし、労働生産物もまたすでにわれわれの手で変えられている。もしもわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば、われわれは、労働生産物を使用価値にしている物体的諸成分と諸形態をも捨象しているのである。それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的性状はすべて消しさられている。それはまた、もはや、指物(サシモノ)労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格と共に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。》(51-2頁)

 

(4)《幻のような同一の対象性》《区別のない人間労働》《その支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出》の《単なる凝固体》《これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけ》《社会的実体の結晶

 

  《そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもないのである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値、商品価値である。》(52頁)

 

■価値の量的考察

 

(5)《抽象的人間労働が対象化または物質化されている》《「価値を形成する実体」》《労働の分量》《労働の量》  

 

 《したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。》(52-3頁)

 

(6)《同等な人間労働》《同じ人間労働力の支出》《ここでは同一の人間労働力として通用する》《一つの社会的平均労働力という性格》《社会的平均労働力として作用》《一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》《社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。》

 

  《一商品の価値がその生産のあいだに支出された労働の量によって規定されるならば、ある人が怠惰または非熟練であればあるほど、彼はその商品の完成にそれだけ多くの時間を必要とするのだから、彼の商品はそれだけ価値が大きいと思われるかもしれない。しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。》(53頁)

 

(7)《社会的に必要な労働の量》《その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間》《等しい大きさの労働量》《商品の生産に必要な労働時間》《一定量の凝固した労働時間

 

  《したがって、ある使用価値の価値の大きさを規定するのは、社会的に必要な労働の量、または、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間にほかならない。個々の商品は、ここでは一般に、その商品種類の平均見本とみなされる)。それゆえ、等しい大きさの労働量が含まれている、または同じ労働時間で生産されうる諸商品は、同じ価値の大きさを持つのである。一商品の価値と他のすべての商品の価値との比は、一方の商品の生産に必要な労働時間と他方の商品の生産に必要な労働時間との比に等しい。「価値としては、すべての商品は、一定量の凝固した労働時間にほかならない」。》(53-4頁)

 

§第二節

 

(8)《同じ実体をもつ物》《同一性質の労働の客観的表現》《一定部分の人間労働》《労働の有用な性格を度外視すれば、労働に残るのは、それが人間労働力の支出であるということである》《人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出であり、こうした意味で、ともに、人間労働である》《人間の労働力を支出する》《人間の労働力そのもの》《人間労働自体を、人間労働〔第1版とフランス語版では、人間労働力、となっている〕一般の支出》(59頁)

 

(9)《それは、平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である》《単純労働》(60頁)

 

(10)《ただ人間労働力の支出としてのみ通用する》《ただ、これらの労働の特殊な質が捨象され、両方の労働が等しい質、人間労働という質》(61頁)

 

(11)《もはやそれ以上の質をもたない人間労働に還元された》《後の場合には、労働のどれだけ多くが、すなわちその継続時間が問題となる》(61頁)

 

(12)《すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。》(63頁)

 

 


第13回「『資本論』を読む会」の案内

『資 本 論 』 を 読 ん で み ま せ ん か

 

 

 

 政府は4月末、総額15.4兆円にのぼる過去最大の経済対策の財政的裏付けとなる補正予算案を閣議決定し、国会に提出した。一カ月前に当初予算が成立したばかりであり、「異例ずくし」の予算と言われている。

 

 当初と合わせた予算規模は102兆円と初めて100兆円を突破。財源の多くは借金(国債)に頼り、歳入に占める税収の割合は45%と過去最低である。新規の国債の発行額は過去最悪の44兆円となり、ほぼ税収見通しと並ぶ。

 

 麻生内閣は、「景気の底割れリスクの回避」を掲げているが、その実態は、近づく選挙にむけての“バラマキ予算”、“国民買収予算”としか言いようがない。おまけにそのバラマキの対象は大手金融機関や大企業に対するもの以外は、車や家や家電等を買える富裕層を目当てにしたものでしかなく、母子家庭への生活保護費加算の打ち切りに象徴されるように、大企業を潤す公共事業を前倒しする一方で、社会補償費を削る姿勢にはまったく変化はなく、弱者に犠牲を強いる内容になっているのだ。

 

09年5月2日『朝日』から

 

 そればかりか国債残高は、09年度末で592兆円にのぼる見込みであり、国民一人あたり約463万円。つまり、生まれて来る赤ん坊は500万円近い借金を背負って生まれて来る勘定になる。5人家族だと2300万円を超える借金である。この借金は一体誰が返すのか。それは結局、国民しかいない。つまり将来の国民にすべての犠牲はしわよせされるのである。

 

 マルクスは国債について、次のように述べている。

 

 《国債はすべて全人民の勤労に課せられた抵当、人民の自由の縮小ではないだろうか? それは、国債所有者という名まえで知られている新しい一団の見えざる圧制者を生みだすのではないだろうか?》(マルクス・エンゲルス全集15巻117頁)

 

 つまりわれわれ全人民は、一人当たり500万円近い借金のために「勤労」することを強制され、それだけ「自由」を奪われる。他方、国債所有者として利子利得を居ながらにして我が物とする圧制者は国民を犠牲に肥え太るというわけである。

 

 麻生内閣の“選挙対策予算”、“国民買収予算”に反対し、「全人民」に災厄をもたらす資本主義社会の仕組みを解明し、理解するために、『資本論』を一緒に読んでみませんか。

 



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