目次
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第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
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第3回「『資本論』を読む会」の案内
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第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第10回「『資本論』を読む会」の案内

第10回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 

 昨年末、「トヨタショック」が世界を駆け巡った。

 

 11月にトヨタは09年3月期の大幅減益の見通しを発表したが、そのわずか一カ月後、すぐにその見通しを修正して、12月には営業損益が前期実績の2兆2703億円の黒字から一転して1500億円の赤字に転落する見通しを明らかにした。

 

 あの「世界のトヨタ」が苦境に陥っている。欧米メディアはトップニュースで伝えた。「ビックスリー(米自動車3大メーカー)を超えて、最強の自動車メーカーにさえ打撃」(米紙ウォールストリート・ジャーナル)。「日本経済の象徴であるトヨタの不振は、不況が日本経済にいかに打撃を与えているかを示す例になっている」(南ドイツ新聞)(08年12月26日産経)。

 

 昨年9月の米大手金融機関のリーマン・ブラザーズの破産は、「リーマンショック」として、世界を金融恐慌の嵐に巻き込んだが、それに続く「トヨタショック」は、バブルの破綻と金融恐慌の勃発は、単にそれに続く全般的な過剰生産恐慌の先駆けに過ぎなかったことを明らかにしている。

 

 日本の自動車業界は08年の前半は我が世の春を謳歌してきた。円安や新興市場における販売増などの追い風を受けて、2008年の3月期は軒並み増収増益を達成し、その利益体質はまさに磐石のように見えたのである。主要3社の営業利益は、トヨタ自動車が前年比1.4%増の約2.3兆円、日産自動車が1.8%増の約7900億円、ホンダに至っては12%増の約9530億円、それぞれ過去最高益を実現した。しかしそれはただ世界的な信用膨張によるバブル景気に浮かれていただけに過ぎなかった。

 

 今や、各社とも一転して業績予想を大幅に下方修正している。トヨタの幹部は「09年の販売見通しを立てようにも、数字が次から次へと動いて立てられない」と悲鳴を上げているという。

 

 

 

 しかも苦境は、何も自動車業界だけではない。

 

 同じように好景気を謳歌してきた家電業界にも軒並み荒波が押し寄せつつある。ソニー、東芝は09年3月期連結業績が営業赤字へ転落の見通しであり、シャープやパナソニックは液晶パネル工場など巨額の投資が裏目に出ていると指摘されている。さらに自動車業界に鋼板を供給してきた鉄鋼業界も、粗鋼生産量が過去最高を記録した「30年ぶりの春」から、一転して「減産の嵐が吹き荒れている」。

 

 かくして〈ブルジョア的生産のすべての矛盾は、一般的世界市場恐慌において集合的に爆発〉しているのである(『剰余価値学説史』全集26巻672頁)。

 

 恐慌は、この資本主義的生産様式そのものの歴史的限界を暴露するものである。それは何か絶対的な生産様式ではなく、ただ歴史的な発展段階に対応したものでしかないことを、純粋に経済学的な仕方で、すなわちブルジョア的な立場から、示すものである。それは多くの人たちにさまざまな災厄をもたらすが、しかしまさにそのことによって、人類は資本主義社会そのものを乗り越えて進まなければならないこと教えるものなのである。

 

 今、まさに生じつつある世界的な大恐慌を理論的に解明するためにも、是非、貴方も『資本論』を一緒に読んでみませんか。

 


第10回「『資本論』を読む会」の報告

第10回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎前回(第9回)の報告へのクレーム

 

 やや唐突にこうした問題から始めることをお許しください。

 

 第9回「『資本論』を読む会」の報告に二つのクレームというか、問題点の指摘がありました。

 

 一つは、ピースさんからのもので、わが大御所は、〈前回の報告は分かりにくかった。もっと、『資本論』の内容がよく分かるようなものにして欲しい。あまり難しい内容だと、「『資本論』を読む会」そのものが、そんな難しいことをやっているのか、と敬遠されかねない〉というのです。

 

  確かにそうかも知れません。ただ少し弁解させて頂きますと、私たちの「読む会」は、一回で進むのはほんの数パラグラフに過ぎません。だからその内容をただ解説するだけなら、ほんの数行で終わりかねないのです。だから出来るだけ、その数パラグラフを理解する上で必要な問題をアレコレと論じることになってしまうわけです。

 

  そして『資本論』は読めば読むほどその奥の深さが分かるというような代物でして、それまでの自分の理解の浅さを痛感すること頻りなのです。だから『資本論』を何度読み直しても新しい発見があり、より深い問題が見えてくるという次第です。

 

 だからそれらを何とか紹介したいという気持ちがついつい前にでてしまうわけです。だからまた他方で、これまである程度議論されてきたような内容はほとんど取り上げないということになってしまうわけです。

 

  ただこれまでの報告では、テキストの内容は、読者の皆さんがすでに読まれていることを前提に、そこで問題になる部分や、難解な部分、テキストを理解するに必要な問題を主に論じるという形でやってきました。しかし、これからは『資本論』を直接読まれていない方や、読んだが忘れた、という方も分かるように、テキストの内容そのものも要約する形で報告を行なうことにしたいと思います。

 

 もう一つの問題点の指摘は、埼玉の所沢の「『資本論』を読む会」に参加されているNさん(亀仙人の友人でもあります)からの指摘です。次のようなメールを頂きました。

 

  【「使用価値に支出されている労働」「商品に支出されている労働」という表現がされていましたが、「使用価値をつくる労働」あるいは「使用価値に表される(対象化される)労働」といった表現の方がよいのではないかと思いました。というのは、労働を専ら労働力の支出という観点から見たものが抽象的人間的労働であり、具体的有用的労働については支出という言葉を用いない方が区別が鮮明になると思うからです。】

 

 そしてこうした問題を理解する資料として、次のような文献からの引用も紹介して頂きました。

 

 【抽象的人間的労働について、私の念頭にあったのは、大谷氏の以下のような記述です。

 

 《労働力支出としての労働とは、人間の力の支出、発揮として見られた活動である。「君はたくさん労働するが、僕はあまり労働しない」。「僕は昨日たくさん労働したが、今日はあまり労働しなかった」、「これを生産するのには多くの労働がいるが、あれを生産するのには少しの労働しか要らない」などと言うとき、ひとは「労働」という言葉をこの意味で使っている。この意味での労働は、さまざまの具体的形態をもつ現実の労働から労働力支出という共通の質だけを抽象してみた労働だから抽象的労働と呼ばれ、またその共通の質が人間の労働力の支出だから人間的労働とも呼ばれる。抽象的労働の量は継続時間で測られる。その計測単位は、時間(time)の計測単位である。時間(hour)、分、などである。なお「人間の労働」、あるいはたんに「人間労働」と言うときには、一般に具体的労働と抽象的労働との両面をもつ人間の労働のことを指し、「人間的労働」と言うとき、つまり「的」をいれて言うときには、人間の労働の一つの側面である、人間労働力の支出としての労働(つまり抽象的労働)のことを指す。(3)

   (注3)「人間の労働」あるいは「人間労働」はドイツ語のdie menschliche Arbeit (定冠詞つき)の訳語、「人間的労働」はmenschliche Arbeit (無冠詞)の訳語であって、ドイツ語では両者ははっきりと区別される。「的」の有無に注意してほしい。》(『図解社会経済学』18-19頁)】

 

 まったく不勉強の至りで、大谷禎之介氏の著書は私も一応は読んでいたのですが、そんなことが書かれていたことなどすっかり忘れており、Nさんが指摘されるような点にはまったく気づきませんでした。そこでさっそく、前回の報告の一部の文言を訂正させて頂いた次第です。

 

  ただこの大谷氏の指摘については、若干、私なりに調べたこともあるので、あとで紹介したいと思っています(またピースさんに叱られそうですが)。

 

◎第9・10パラグラフの内容と議論の紹介

 

 今回はこの二つのパラグラフだけを議論しました。二つのパラグラフといっても第9パラグラフはただ次のような一文があるだけです(ただし、以後、『資本論』のテキストを紹介する場合は、その内容を要約したものです)。

 

・今度からは使用対象である限りでの商品から、商品価値に移る。

 

 だから議論のしようもありません。ただここで「商品価値」とあるのは、フランス語版では「商品の価値」となっている、ということが紹介された程度でした。

 

 しかし第10パラグラフはかなり長く、しかも込み入った内容であります。だからこの部分は各分節ごとに見ていくことにします。

 

・われわれの想定によれば、上着はリンネルの二倍の価値をもっている。

 

 ここで「われわれの想定」というのは、第二パラグラフを指しています。

 

・量的な区別はさしあたり問題にしない。

 

 ということは「質」をまず問題にしようということでしょう。

 

・そこで20エレのリンネルは一着の上着と同じ価値の大きさを持つという例を思い出そう。

 

 この二つの使用価値の等置は何を意味するかを問題にようとしているわけです。

 

・「価値」としては上着とリンネルは「同じ実体をもつ物」であり、「同種の労働の客観的表現である」。

 

 ここには、「価値」=「同じ実体」=「同種の労働」という関係がなりたち、「」=「客観的表現」という関係がみられます。つまり上着もリンネルも「価値」としては、つまり「価値」という側面からみるならば、「同じ実体」として「同種の労働」をその内に持ち、それを上着やリンネルという「物」によって「客観的」に表現しているのだ、という捉え方をここから導き出しているように思えます。

 

・ところが、裁縫労働と織布労働とは、質的に異なる労働である。

 

 つまりその前の分節では「同じ実体」として「同種の労働」を持つというが、しかし現実には裁縫労働と織布労働とは質的に違うというわけです。

 

・しかし、ある社会状態では同じ人間が裁縫労働と織布労働を代わる代わるやるのだから、この二つは同じ個人の異なる労働様式、労働諸形態にすぎず、それはわが裁縫師が上着を仕立てたり、ズボンを仕立てるのに同じ個人的労働の変化を前提するのと同じである。さらに、資本主義社会では、労働需要の状況によっては、ある人間労働が、あるときは裁縫労働の形でまたあるときは織布労働の形で、供給されなければならない。

 

 ここでさまざまな労働には同じ実体があるという例として二つの例が上げられていると説明したピースさんに対して、いや三つではないか、と亀仙人が問題にしましたが、まあ、これはあまり本質的な議論ではありません。

 

  以上までで、フランス語版では段落が区切られています。この段落の区切り方が今一つよく分からないのですが、まあ、これもとりあえずは拘らないことにします。

 

・だから労働のこうした有用な性格を度外視すれば、労働に残るのは、それが人間的労働力の支出であるということだけである。

 

 ・裁縫労働と織布労働とは、質的に異なる生産活動であるが、ともに、人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出であり、こうした意味で、ともに、人間的労働である。

 

 ・それらは、人間的労働力を支出する二つの異なった形態にすぎない。

 

 まあ以上が一つの区切りとして、さまざまな種類の労働に共通する「同じ実体」としての「人間的労働」の説明をやっている部分の紹介です。

 

  こうしたマルクスの説明を理解する上で、参考になるのは、マルクスがモストの書いたものをほとんど書き直すほど手を入れたとされている『資本論入門』の次の一文です。

 

 《未発展な社会状態では、同じ人間がこもごも、非常に違った種類の労働を行なう。あるときは畠を耕し、あるときは機を織り、あるときは鉄を鍛え、あるときは大工仕事を行なう、等々。しかし、彼の仕事がどんなに多種多様であっても、それらは常に、彼が自分自身の脳髄、自分の神経、筋肉、手等々を用いるときの、一言で言えば彼が自分自身の労働力を支出するときの、異なった有用的な仕方でしかない。彼の労働はいつでも力の支出--労働そのもの--なのであって、この支出の有用的な形態、つまり労働種類が彼の目的とする有用効果に応じて変化するのである。》(大谷禎之介訳、岩波書店、6-7頁)

 

 問題はここで言われている労働はまったく商品生産に限定された労働ではないことに注意が必要です。これらは、そもそもは価値を形成する抽象的人間労働が実際にはどういう労働か、あるいは実際の労働のどういう契機を意味するかを論じていると思えるのですが、しかしそこでマルクスが例として上げているものは、必ずしも商品生産者の労働に限定して論じていないことに気づきます。これは注目されてしかるべきでしょう。

 

 もう一つよく似た『資本論』の別の部分(第四節)からの一文も引用しておきましょう。

 

 《したがって、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではない。それはまた、価値規定の内容から生じるのでもない。と言うのは、第一に、有用労働または生産的活動がたがいにどんなに異なっていても、それらが人間的有機体の諸機能であること、そして、そのような機能は、その内容やその形態がどうであろうと、どれも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは、一つの生理学的真理だからである。》(全集版97頁)

 

 つまり「価値規定の内容」をなす、抽象的人間労働というのは、資本主義や商品生産に固有のものと考えるべきではないということのようです。もちろん、この問題はこれまで多くの人たちによって論争されてきた問題ですが、今回はこの問題を取り上げるわけではありません。

 

 まあ、以上までが、だいたい、価値を形成する労働の性格を確定している部分と言えるでしょう。しかしマルクス自身は、初版や第二版でも、またフランス語版でもここで段落を切っているわけではありません。しかしそれはまあ、あまり拘らないことにします。この部分では、とにかくその形態は問わないが、何らかの人間の力の支出としての労働という形で捉えられていることがわかります。そしてその次からは単純労働と複雑労働との関係を論じることになるのですが、だからこの二つの労働、つまり単純労働と複雑労働とは、ともにこうした人間労働力の支出、力の支出、として捉えられているのですが、しかしその力の強さが異なるものだとして捉えられる、という形で分節としては、繋がっているように思えます。人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出といっても、そこには力としての相違があるというわけです。だから同じ一日の労働日に支出された労働であっても、違った価値の大きさとして結果するというわけです。

 

 それでは次の分節に移ることにします。

 

◎単純労働と複雑労働

 

・人間的労働力は、あれこれの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならないが、商品の価値は、人間的労働自体を、人間的労働一般の支出を、表している。

 

 この一文で、「あれこれの形態で支出される」というのは、要するにさまざまな有用な形態で支出されるということでしょう。つまり使用価値を形成する労働には一定の発達が前提されるが、商品の価値は、人間労働一般の支出を表しているから、その発達とは関係はない、と言いたいことのように思えます。しかしそのあとで論じられる複雑労働は一定の育成期間を経たものということですから、発達した労働とも言えます。ただそうした複雑労働も商品の価値としては、単純労働に還元されるというわけですから、とにかく商品の価値としては、極めて素朴な人間的労働一般の支出を表しているだけだ、というのが、ここで言いたいことではないかと思われます。

 

・ブルジョア社会では、将軍や銀行家が大きな役割を演じ、人間自体はみすぼらしい役割を演じているが、この場合の人間的労働もそのとおりである。

 

 この部分は何が言いたいのか今一つよく分からないと思うのですが、あとで紹介する初版の一文を参照すると、そこでは単純労働の例として農僕の労働が上げられていますが、それについて、マルクスは《例えば、農僕の労働力は単純な労働力とみなされ、したがってまた、その労働力の支出は単純な労働、すなわち、それ以上に修飾のついていない人間労働とみなされるであろうが、……》と述べています。つまり《それ以上に修飾のついていない人間労働》というわけです。だから将軍や銀行家というような肩書で修飾されている人はブルジョア社会では大きな役割を演じているが、そうした肩書のない人間自体はみすぼらしいのと同じように、価値を形成する人間的労働もそうした何の飾りもないものなのだ、ということなのでしょう。

 

・それは平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である。

 

 ここで「特殊な発達」という文言が出てきますが、一つ前の分節で「多少とも発達していなければならない」という文言がありましたが、それと対応していると考えられます。つまり「商品の価値は、人間的労働自体を、人間的労働一般の支出を、表している」と述べていたのを、ここではそれは「単純な労働力の支出」だと言い換えているわけです。それは「普通の人間ならだれでも」「平均的に」もっており、別に特殊な発達を必要とせずに、ただその肉体そのものにもっているような労働力の支出だということでしょうか。つまり価値として表される労働も、そうしたみすぼらしい役割を果たしているのだ、とマルクスは言いたいのでしょう。

 

・確かに単純な平均労働そのものは、国を異にし文化史上の時代を異にすれば、その性格を変えるが、現に存在する一つの社会では、与えられている。

 

 単純な平均労働は、国が異なれば、文化史上の時代が変われば、「その性格を変える」と述べています。ここで、「その性格」とありますが、一体、どういうものとして理解したらよいのでしょうか。「平均的な、単純な、普通の人ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力」と言っても「その性格が変わる」と述べているわけですから、これは例えば、一昔前の義務教育が普及していない時代だと、読み書きや簡単な計算ができるという条件は、単純な労働とはいえなかったが、今日では、それは「単純な労働」といえるというようなことではないでしょうか。

 

・より複雑な労働は、単純労働の何乗か、何倍かされたものとしてのみ通用する。

 

 ・この還元が絶えず行なわれていることは、経験が示している。

 

 ・ある商品は複雑な労働の生産物かも知れないが、その価値は、一定分量の単純労働を表すにすぎない。

 

 つまりどんな複雑な労働の生産物も、価値としては単純労働の倍数として表されるということです。なお、この部分は初版ではもっと詳しく次のようになっています。

 

 《例えば、農僕の労働力は単純な労働力とみなされ、したがってまた、その労働力の支出は単純な労働、すなわち、それ以上に修飾のついていない人間労働とみなされるであろうが、これとは反対に裁縫労働は、より高度に発達した労働力の支出とみなされるであろう。それだから、農僕の一労働日はたとえば1/2Wという価値表現で示されるが、裁縫師の一労働日はWという価値表現で示されるのである。とはいえ、この相違はただ量的であるにすぎない。もし上着が裁縫師の一労働日の生産物であるならば、それは農僕の二労働日の生産物と同じ価値をもっている。しかし、こうして裁縫労働はつねにただ何倍かされた農民労働としてのみ数えられるのである。いろいろな労働種類がそれらの度量単位としての単純労働に換算されるいろいろな割合は、一つの社会的な過程によって生産者達の背後で確定されるのであって、それゆえに生産者たちにとっては習慣によって与えられているもののように思われるのである。》(国民文庫35頁)

 

・さまざまな種類の労働がその度量単位である単純労働に還元されるさまざまな比率は、生産者達の背後で一つの社会的過程によって確定され、したがって生産者たちには慣習によって与えられているかのように見える。

 

 ここで「さまざまな種類の労働」とありますが、これは具体的な労働を意味しているのでしょうか。それとも複雑労働でもその複雑の度合いが違って「さまざまである」という意味で、「さまざまな種類の労働」と述べているのでしょうか。しかしこれは、先に紹介した初版の文章を読むと、どうやらさまざまな具体的労働を意味しているように思えます。例えば農僕と裁縫師の労働等々というわけです。

 

  ここで「生産者たちの背後で一つの社会的過程によって確定される」というのがなかなか分かりにくいと思いますが、先に上げた『資本論入門』では次のように述べています。

 

 《諸商品の価値が意味するのは、これらの物の生産は人間的労働力の支出を要したということ、しかも社会的な労働力の支出を要したということだけである。ここで社会的な労働力と言うのは、発展した分業のもとではおのおのの個人的な労働力はもはや、社会的な労働力の一つの構成部分として作用するにすぎないからである。したがって、発展した分業が成立してからは、個人的な労働--力の支出という意味での労働--のそれぞれの量もまた、社会的な平均労働の、すなわち社会的な労働力の平均的支出の大小さまざまな量として意味をもつだけである。ある商品に対象化されている平均労働が多ければ多いほど、この商品の価値はそれだけ大きいのである。》(前掲8頁)

 

・簡単にするために、以下はどんな種類の労働も直接に単純な労働力とみなす。

 

 今回は都合で早く終える必要があり、時間が無かったので、議論できなかったのですが、そもそもどうして複雑労働と単純労働というような区別が生じるのか、そしてまたどうして複雑労働は単純労働よりも同じ時間内により多くの価値jjとして対象化されることが出来るのか、社会主義でも同じような区別がありうるのか、等々という問題も、問題としては出されました。しかし、残念ながら、議論は出来ずに持ち越されました。皆さんも一度考えてみて下さい。

 

◎「労働力の支出」という表現について

 

 最初に埼玉のNさんからの問題提起を紹介しましたが、Nさんの教示を受けて、私も大谷氏の著書を引っ張りだして、読み直したりしました。

 

  大谷氏の説明だと「労働力の支出としての労働とは、人間の力の支出、発揮として見られた活動である。……この意味での労働は、さまざまの具体的形態をもつ現実の労働から労働力支出という共通の質だけを抽象してみた労働だから抽象的労働と呼ばれ、またその共通の質が人間の労働力の支出だから人間的労働とも呼ばれる」と説明されています。そして「人間の労働」や単に「人間労働」という場合は、具体的側面と抽象的側面を両方持ったものとしての人間の労働を指し、「人間的労働」というように「的」が入ると、「人間労働力の支出としての、つまり抽象的労働のことを指すのだということのようです。  だからこの大谷氏の説明だと、「労働力の支出」という場合は抽象的な人間労働の支出のことだということになります。

 

 しかしその後、いろいろと調べてみますと、必ずしもこうした指摘に合致しない用例があることに気づきました。それはまだ学習していませんが、この第二節の最後のパラグラフです。

 

 《すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する。》(全集版63頁)

 

 これをみると、使用価値を生産する具体的有用労働についても《特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出》と説明されており、《支出》という用語が使われています。だから最初のNさんの問題提起に戻りますが、「使用価値に支出されている労働」という表現も、それを「特殊な、目的を規定された人間労働力の支出」として理解するならば、こうした表現そのものは必ずしも間違いとはいえないのではないかという気がします。だからまた「商品に支出されている労働」という場合も、それがそうした二つの側面を合わせ持った労働の支出と考えるならば、必ずしも問題が生じる表現ではないのではないか、という気がするのです。もちろん、Nさんの問題提起を否定する気はありませんが--それはそれで問題を厳密に理解する必要を教えて頂いたと思っています--、しかしこうしたマルクス自身の表現もあるということを一言紹介しておきたいと思います。

 


第11回「『資本論』を読む会」の案内

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 今、自民党内では、「政府紙幣」の発行が議論になっているのだそうである。

 

 2月6日、自民党の菅義偉選対副委員長を中心に「政府紙幣・無利子国債の発行を検討する議員連盟の設立準備会」なるものが開かれたりしている。

 

 しかも、自民党内だけではなく、民主党の岩国哲人衆議院議員も「8項目の緊急経済対策」の一つとして「政府紙幣発行」を提言したり、経済アナリストの森永卓郎氏なども「もはや政府紙幣の発行しかない」などと述べたりしているのだそうである。

 

 かくしていまやマスコミのなかでもこの議論が大きく取り上げられ、テレビでは討論番組まで組まれたりしているありさまである。もちろん、実際にそれが発行されるのかどうか、あるいは、発行されるとしても、どういう形で発行されるのか、といったことはまったく不明である。

 

昭和20年に発行された政府紙幣(ウィキペディアから)

 

 どうやら、100年に一度の大不況なのだから、何でも許されるということらしい。しかしこれはもはや“末期症状”としか言いようがない事態である。確かに政府・地方合わせて1000兆円というGDPの2倍にも達する天文学的な債務を抱え、日本の国家は実質上は破綻しているといえば確かにそうである。しかし少なくともいまはまだそれは現実化していないのである。しかし、もし政府紙幣を発行したら、それこそ、それが引き金になって、破綻は現実のものとなり、日本はたちまち“ジンバブエ化”するであろう(ジンバブエでは何と100兆ドル札が発行されているのだという!)。

 

 日本で現在発行されているのは、千円、2千円、5千円、1万円の日本銀行券と500円以下の硬貨(補助貨幣)である。前者は日本銀行が発行し、後者は政府が発行している。これまでマルクス経済学者の間では、金との交換を停止した不換化した日銀券は果たして銀行券、すなわち信用貨幣といえるのか、そうではなくそれは国家紙幣と同じになってしまったのか、という問題について数多くの論争が行なわれてきた。「現在の日銀券はますます紙幣化しつつある」などと折衷的な立場を取る人もいるらしいが、こうした問題はいまだ理論的に明確に解決されているとは言い難いのである。政府紙幣の発行は、再びこうした議論を巻き起こすかも知れない。

 

 マルクスは『資本論』の第1部第3章「貨幣または商品流通」のなかで、国家紙幣は貨幣の諸機能の一つである鋳貨(流通手段)としての機能から生まれ、信用貨幣は支払手段としての機能から生まれると指摘している。さらに本来の信用貨幣である銀行券は、信用制度が発展するなど資本主義的生産のより複雑な関係を前提するとも述べている。

 

 政府紙幣の何たるかを理解し、それがどんな影響力をもたらすかを考えるためにも、やはり『資本論』をしっかり学ぶ必要があるわけである。ぜひ、貴方も一緒に『資本論』を学んで見ませんか。


第11回「『資本論』を読む会」の報告

第11回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎春は“花粉症”の季節?

 

 3月にもなると、ようやく寒さも弛み、「山」も「里」も「野」も近くにはありませんが、「春~が来た♪」ことを実感します。  「花~がさき、鳥~がなく、春」は、やはり心をウキウキさせるものですが、最近は、残念なことに、反対に憂鬱な季節になってしまったようです。“花粉症”です。街を歩くと何と「マスク人間」の多いことか!

 

  ピースさんも、JJ富村さんも、花粉症で、二人ともマスクをしています。ピースさんは8日の「読む会」の直前まで風邪でダウンしていたのですが、JJ富村さんも傍で見ていても気の毒なぐらい重い症状です。私たちが会議室に着いたとき、彼はすでに先にきて窓際の机に伏せていたので、眠っているのかと思ったのですが、そうではなく、花粉症が辛くて、伏せていたというのです。「読む会」の途中でも、時々、マスクを外して鼻などを洗浄する薬を噴霧したりしていました。

 

  幸い私、亀仙人は、山の中で育ったような人間であるためか、小さいときから漆の木の下を通っただけでもかぶれて顔全体を腫らしたりしていたのですが(この場合の治療法として、栗の葉の煮汁に顔を浸けさせられた)、いまだに花粉症の症状は出ていません。

 

  いずれにせよ、憂鬱で思考力も鈍る花粉症ですが、「読む会」の議論はなかなか充実したもので、11~15と五つもパラグラフを進み、第2節の最後のパラグラフを残すまで行きました。さっそく、その報告を行ないましょう。

 

◎第11パラグラフの位置づけとその内容

 

 まず、このパラグラフの位置づけというか、役割から考えてみましょう。第9パラグラフから、考察の対象は、それまでの商品の使用価値とそれに表されている有用労働から、商品の価値に移りました。そこでマルクスは第10パラグラフでは、まず上着とリンネルという二つの商品を価値の側面からみた場合にもっとも直接的な表象として捉えられる二商品の価値の量的比較から入っています。

 

  《上着はリンネルの二倍の価値をもっている》。

 

  しかし価値の量的区別にはどんな問題があるのか、ということはさしあたりは問題としないとして、そうした量的比較が可能である前提に質的同一性があること、だからまずその質的同一性から問題にすることが言われていました。

 

  ところで次の第12パラグラフは、この後回しにされた価値の量が問題になっています。だからこの第11パラグラフは、第9パラグラフから始まった価値の質的な考察の最後を締めくくるものであり、それの「まとめ」だということが分かります。

 

  その内容を理解するために、そもそも価値の質的考察がどのように進められてきたのかを少し振り返ってみましょう。第10パラグラフではマルクスは次のように考察を進めていました。

 

  まず上着とリンネルとは価値として量的に比較できるのは、両者が同じ実体を持つ物であるからであり、同種の労働の客観的表現であることが指摘されました。そしてこの「同種の労働」とは何かが明らかにされ、それは裁縫労働や織布労働の有用的性格を度外視した《人間労働力一般の支出》であること、それは《人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出》という意味での《人間労働力の支出》であることが指摘されました。それはまた《平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である》こと。だから価値の実体としては、複雑な労働も単純な労働に還元されていることが指摘されたのでした。

 

  そして第11パラグラフではもう一度、それまでの考察をまめているわけです。だから次に第11パラグラフを分節ごとに見て行きましょう。

 

【11】

 

・したがって、価値である上着およびリンネルにおいては、それらの使用価値の区別が捨象されているように、これらの価値に表されている労働においては、裁縫および織布労働というそれらの有用的形態の区別が捨象されている。

 

 われわれは以前は《使用価値に表されている労働》、すなわち《有用的労働》をみたが、 今は《価値に表されている労働》を問題にしている。上着とリンネルを価値という側面から見ると、まったく無区別な同質のものとして捉えられる。だからそれらを価値という側面で見るということは、それらを質的に区別している使用価値の相違を捨象することになる。それらを質的に違った使用価値たらしめているのは、裁縫労働や織布労働という有用労働なのだから、そうした使用価値を捨象するということは、裁縫労働や織布労働の有用的形態の区別も捨象するということになる。

 

・使用価値である上着およびリンネルが目的を規定された生産的活動と布および糸との結合したものであり、これに対して価値である上着およびリンネルは単なる同種の労働凝固体であるように、これらの価値に含まれている労働は、布および糸に対するその生産的なふるまいによってではなく、ただ人間労働力の支出としてのみ通用する。

 

 使用価値として見た上着やリンネルは、裁縫労働や織布労働という目的を規定された生産的活動と労働対象である布や糸との結合の産物であるように、それらを価値という側面で見るということは、それらの価値に含まれている労働も、布や糸に対する生産的な振る舞いによってではなく、ただそうした有用的性格を捨象された単なる人間労働力の支出としてのみ通用するものとなるのである。

 

・裁縫労働と織布労働とが使用価値である上着およびリンネルの形成要素であるのは、まさにこれらの労働の異なる質によってである。

 

 ・裁縫労働と織布労働とが上着価値およびリンネル価値の実体であるのは、ただ、これらの労働の特殊な質が捨象され、両方の労働が等しい質、人間労働という質をもっている限りでのことである。

 

 要するに上着やリンネルを価値の側面で見るということは、それらに支出されている労働を、上着やリンネルの使用価値に表されている裁縫労働や織布労働という具体的な特殊な目的を持った側面、労働のそういう形態を捨象して、単なる人間労働力の支出として見ることになる、ということが再確認されたわけです。

 

◎商品の価値に表される労働の量的考察

 

 次の第12パラグラフから価値に表される労働の量的考察が始まります。これも分節ごとに紹介しておきましょう。まず第12パラグラフです。

 

【12】

 

・だが、上着もリンネルも単に価値そのものであるだけではなく、一定の大きさをもつ価値であり、われわれの想定では、一着の上着は一〇エレの二倍の価値がある。

 

 ・これらの価値の大きさのこの相違はどこから生じるのか? それは、リンネルが上着の半分の労働しか含んでおらず、したがって、上着を生産するにはリンネルを生産する時間の二倍にわたって労働力が支出されなければならない、ということから生じる。

 

★このパラグラフでは商品の価値の量が、商品に含まれる労働の大きさにもとづくこと、そして労働の大きさは,労働力の支出の大きさに、故に労働力が支出される継続時間に関係することが明らかにされています。次は第13パラグラフです。

 

【13】

 

・したがって、商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的にのみ意義をもつのだが、価値の大きさとの関連では、それがもはやそれ以上の質をもたない人間労働に還元されたのち、ただ量的にのみ意義をもつ。

 

 ここで《もはやそれ以上の質をもたない人間労働に還元さ》れているというのは、価値に表されている人間労働も一つの質であるが、それは使用価値がもつ特殊な質を一つの質に還元したものなのです。そしてそれはそれ以上に還元しようのない質になっているために、もはや量的な区別しか問題にならないというわけです。これはヘーゲルの論理学の「有論」を彷彿とさせる敍述です。つまり「質のどん詰まり」としての向自有が、すなわち人間労働一般というわけです。

 

・前の場合には、労働のどのようにしてと、何をするかが問題となり、後の場合には、労働のどれだけ多くが、すなわちその継続時間が問題となる。

 

 使用価値として表されている労働の場合には、《労働のどのようにして》、つまりその具体的形態が問われ、《何をするか》、すなわちその目的意識性が問われたのですが、価値として表される労働においては、ただその《どれだけ》が、つまり量だけが問題となり、よってその継続時間が問題というわけです。

 

・一商品の価値の大きさは、その商品に含まれている労働の量だけを表すから、諸商品は、一定の比率においては、つねに等しい大きさの価値でなければならない。

 

★最後の分節にある《商品に含まれている労働》という文言が少し問題になりました。これまでマルクスは《商品に表される労働》とか《使用価値に表される労働》あいは《価値に表される労働》という言い方はしてきましたが、ここでは《含まれる労働》という表現をしていることです。しかしこれはそれが指摘されただけで特にそれ以上問題にはなりませんでした。

 

  さて、このパラグラフでは、価値の量との関連で見た労働が、使用価値との関連で見た労働の質的相違を還元して、それ以上還元できないまでに還元されているから、量的にのみ意義をもつことが明らかにされています。つまりこのパラグラフでは価値の量として表されている労働と使用価値として表されている労働との関連が考察されたわけです。そうした考察の端緒としての位置づけを持っているように思われます。つまり使用価値との関連で見た労働では、「どのようにして」「何をするか」が問われ、価値の大きさとの関連で見た労働では、「どれだけ」が問われる、と。これは次のパラグラフでは使用価値に関連する生産力と価値との関連を考察するための、いわばその導入部分であり、その前提である、といえわけです。それでは、次の第14パラグラフを見てみましょう。

 

【14】

 

・たとえば、一着の上着の生産に必要とされるすべての有用労働の生産力が不変のままにとどまるならば、上着の価値の大きさは、上着自身の量が増えるにつれて増大する。

 

 ここで《すべての有用労働》と述べられているのは、単に裁縫労働だけではなく、裁縫労働と結合されるリンネルを織る労働も、織布労働と結合される糸を紡ぐ製糸労働も、とにかく最終的な個人的消費手段である上着という使用価値を生産するに必要とされるすべての有用労働がここでは問題になっていると考えられます。そしてそれらのすべての労働の生産力が不変であるなら、上着の価値の大きさは、上着の量が増えれば、増えるというわけです。

 

・一着の上着がx労働日を表すなら、二着の上着は2x労働日を表す、等々。

 

 ・しかし、一着の上着の生産に必要な労働が二倍に増加するか、あるいは半分に減少するものと仮定しよう。

 

 ・前の場合には、一着の上着は以前の二着の上着と同じ価値をもち、後の場合には、二着の上着が以前の一着と同じ価値しかもたない。

 

 ・もっとも、どちらの場合でも、一着の上着はあい変わらず一着の上着として役立ち、それに含まれている有用労働もあい変わらず同じ質のものである。ただ、その生産に支出された労働量が変わったのである。

 

★生産力の変化と上着という使用価値との関連をまず問題にし、さらにそれが上着の価値とどういう関係にあるかを見ています。生産力の変化は、有用労働に関連するが、しかし生産力が変化しても、一着の上着という使用価値はもとのままの相変わらず同じ一着の上着として役立つだけで、使用価値としての役割も、またそれに含まれている有用労働にも何の変化もないというわけです。にも拘らず、生産力は有用労働に関連し、だから価値には直接関連しないはずなのに、生産力の変化は、一着の上着という使用価値そのものには何の変化ももたらさないのに、逆に価値には変化をもたらすというわけです。この逆説的な現実を指摘しています。

 

  ところで、ここでは生産力が変わっても、《有用労働も相変わらず同じ質のもの》といえるのかどうかが問題になりました。例えば裁縫労働の場合、手縫いするのとミシンを使って縫うのとでは、有用労働の質が変化しているのではないか、むしろ有用労働の質的変化こそ、生産力を変化させる要因の一つではないのか、という疑問が出されました。これはハッキリ決着がついたといえないのですが、要するに上着という有用性そのものは、生産力が変わっても変わらないのだから、その使用価値の有用性からみた場合に、それを形成する労働の有用性というもの、そいう意味での質にも変化がないと言っているのではないかと、という結論になりました。だから裁縫労働の具体的形態に変化があっても、同じ有用性に結実するという限りで、同じ質を持っているといえるのではないかというのですが、まあ、今一つよく分からないのが正直なところです。

 

【15】

 

・より大きい量の使用価値は、それ自体としては、より大きい素材的富をなす。

 

 ・二着の上着は、一着の上着より大きい素材的富をなす。

 

 ・二着の上着があれば、二人に着せることができるが、一着の上着では一人にしか着せられない、等々。

 

 ・といっても、素材的富の量の増大に対応して、同時にその価値の大きさが低下することもありえる。

 

 ・このような対立的運動は、労働の二面的性格から生じる。

 

 使用価値の量が増大しているのに、その価値が低下するというような、対立的な運動は、使用価値に表される労働と価値に表される労働という労働の二面的性格から生じることが指摘されています。

 

・生産力は、もちろんつねに、有用な具体的労働の生産力であり、実際、ただ、与えられた時間内における目的にしたがった生産活動の作用度だけを規定する。

 

 ここでは生産力について、厳密に規定がされています。すなわち、有用な具体的労働の生産力であって、与えられた時間内に目的にしたがった生産活動の作用度だけを規定する。

 

・だから、有用労働は、その生産力の上昇または低下に正比例して、より豊かな生産物源泉ともなれば、より貧しい生産物源泉ともなる。

 

・これに対して、生産力の変動は、それ自体としては、価値に表される労働にはまったく影響しない。

 

 これもすでに指摘したことですが、もう一度、生産力の変動は、それ自体としては、価値に表される労働にはまったく影響しない、ことが述べられています。

 

・生産力は、労働の具体的な有用な形態に属するから、労働の具体的な有用な形態が捨象されるやいなや、生産力は、当然、もはや労働に影響を与えることはできなくなる。

 

 ここでは、どうして生産力の変動は、それ自体として価値に表される労働に影響しないのか、その理由が述べられています。

 

・だから、生産力がどんなに変動しても、同じ労働は、同じ時間内には、つねに同じ価値の大きさを生み出す。

 

・ところが、同じ労働は同じ時間内に、異なった量の使用価値を--生産力が上がれば、より大きい量を、生産力が下がれば、より小さい量を--提供する。

 

 所沢の「『資本論』を読む会」では、ここに出てくる《同じ労働》とは何かということが議論になったようです(ttp://shihonron.exblog.jp/m2008-09-01/)。〈「次の部分で使用価値を与えるとされているのだから、あるがままの労働(具体的労働の側面と抽象的労働の側面をあわせもつ労働)ではないか」という発言が〉あった、と報告されています。

 

・したがって、労働の多産性を増大させ、したがって、労働によって提供される使用価値の総量を増大させるような生産力の変動は、もしもそれがこの使用価値総量の生産に必要な労働時間の総計を短縮させるならば、この増大した使用価値総量の価値の大きさを減少させる。反対の場合には逆になる。

 

 この最後の分節の解釈を巡ってかなり長い時間議論し、JJ富村さんなんかは、黒板を使って問題を整理しながら論じたりしましたが、今一つスッキリと解決したとは言えませんでした。

 

  まずここでは「使用価値総量」が問題になっていますが、どうしてここで使用価値総量が問題になっているのでしょう。このパラグラフは量的考察の最後でもあり、しかもその最後の分節です。だから単なる一着の上着の使用価値だけではなく、「使用価値総量」が問題になっていると考えることができます。ただここで「使用価値総量」と言っても、すべての使用価値全体を意味するのではなく、例えば上着なら上着の総量を意味しているのではないかということになりました。

 

  さらにこの分節の理解を困難にさせているのは、生産力の変動が使用価値総量も価値総量も同時に変化させる場合について述べているからです。

 

  例えば、使用価値総量を増大させる生産力の変動は、使用価値の一単位の価値を減少させるというのなら、まったく問題なく理解できます。この場合は生産力の変動が使用価値総量を増大させても、その使用価値総量の価値そのものには変化がないために(なぜなら、《生産力は、もちろんつねに、有用な具体的労働の生産力であり、実際、ただ、与えられた時間内における目的にしたがった生産活動の作用度だけを規定》し、《生産力の変動は、それ自体としては、価値に表される労働にはまったく影響しない》から)、一単位の使用価値の価値量は減少するのだと理解することができるわけです。しかしマルクスが述べているのは、こうしたことでは必ずしもないわけです。だからややこしいのです。

 

  マルクスが述べているのは、使用価値総量を増大させる生産力の変動が、その生産された使用価値総量の価値をも減少させる場合についてです。というのは、その生産力の増大は、使用価値総量を増大させるだけでなく、その増大した使用価値総量を生産するのに必要な労働時間の総計をも短縮するケースについて述べているのだからです。そして確かにこのように理解すれば、それはその限りではまったくそのとおりなのですが、どうしてこうしたケースの考察が量的考察の最後になされる必要があるのか、しかも《使用価値総量》とその生産に必要な《労働時間の総計》が問題にされる必要があるのか、ということが今一つよく分からないのです。これはとりあえず、疑問として出すだけにしておきます。

 

【追記】

 

  この最後の分節の理解について、補足しておきます。私たちは「使用価値総量」を「例えば上着なら上着の総量を意味している」と理解したのですが、それがそもそもマルクスがこの分節で何を言いたいのかを分からなくさせたようです。ここは文字どおり「使用価値総量」とは、その社会が必要とする使用価値総量と理解すべきなのです。そうすると、マルクスが言いたいことは次のようなことです。

 

 生産力が高度化すれば、社会が必要とする使用価値総量を増大させ、社会が享受する素材的富を増大させるが、同時にその使用価値総量の生産に必要な労働時間も短縮させもする。そうした生産力の変動は、しかし資本主義的生産においては、使用価値総量の価値の大きさを減少させ、それは資本主義的生産の攪乱・恐慌に繋がるのである。しかし将来の社会であるなら、それは自由時間の拡大に結果する。しかしもし戦争などで生産力が破壊されるなら、逆の結果を生み出す。第二次世界大戦はまさにそうした形で資本主義を延命させたといえるであろう。云々。

 

 もちろん、かなり脚色して書いてみましたが、このように理解するなら、この分節が商品の価値に表される労働の量的考察の最後に相応しい内容であることがお分かりになるでしょう。

 


第12回「『資本論』を読む会」の案内

第12回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 

 AIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)の巨額報酬が問題になっている。

 

 AIGと言えば、今回の金融危機のもとになった金融バブルを煽った張本人であり、昨年9月にリーマン・ブラザーズが破綻に追い込まれる一方で、米政府による救済を受け、公的資金が四回にわけて投入され、その総計が1700億ドル(約17兆円)にも達している保険大手である。

 

 今回、そのバブルを煽った金融商品部門の幹部に総額約160億円(一人当たりの最高額は約6億2700万円)ものボーナスが支払われたというのである。一方で政府の公的資金の支援を受けながら、他方で、破綻をもたらした“犯罪人”たちに巨額の報酬が支払われていたのである。これは事実上、税金を山分けしていたに等しい。

 

AIGに対する公聴会で抗議する人たち

 

 しかも高額報酬を受け取っていたのは、AIGの幹部だけではない。米銀最大手のバンク・オブ・アメリカに吸収合併された証券大手のメリルリンチの幹部も、昨年、巨額の報酬を受けとっていたことが明らかになっている。同社を統合したバンカメには総額450億ドル(約4兆5000億円)の公的資金が注入されているのである。

 

 ボーナスのトップ10の社員への支払い総額は約209億円(平均約20億円!)。しかも巨額報酬を受け取っていたのは、バブルを煽った専門家達である。例えば、投資銀行部門の責任者33億8000万円、トレーディングの責任者13億円、金融商品の責任者18億7000万円、商品取引の責任者16億5000万円、中東・アフリカの責任者15億円、グローバル戦略の責任者29億4000万円、グローバルセールスとトレーディングの責任者39億4000万円と凄まじい数字が並んでいる。

 

 彼らは自らの責任で破綻を招きながら、税金で穴埋めされることをよいことに、暴利を貪っていたのである。何と腐敗した連中であろうか。

 

 しかしこれは信用が極端まで膨張した腐敗した資本主義の避けることのできない一つの現象なのである。マルクスは資本主義的生産における信用の役割を論じるなかで、次のように指摘している。

 

 《それは、新しい金融貴族を再生産し、企画屋や発起人や名目だけの役員の姿をとった新しい種類の寄生虫を再生産し、会社の創立や株式発行や株式取引についての思惑と詐欺との全制度を再生産する。》(全集版25巻a559頁)

 

 《そして、信用はこれらの少数者にますます純粋な山師の性格を与える。》(同560頁)

 

  《信用制度が過剰生産や商業での過度な投機の主要な槓杆として現われるとすれば、それは、ただ、その性質上弾力的な再生産過程がここでは極限まで強行されるからである。……それゆえ、信用制度は生産力の物質的発展と世界市場の形成とを促進するのであるが、これらのものを新たな生産形態の物質的基礎としてある程度の高さに達するまでつくり上げるということは、資本主義的生産様式の歴史的任務なのである。それと同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発、恐慌を促進し、したがってまた古い生産様式の解体の諸要素を促進するのである。》(同562-3頁)

 

 バブルの破綻と世界恐慌の勃発が古い生産様式の解体を促進するものであるなら、こうしたバブルの中で暴利を貪った“寄生虫の大量発生”も、資本主義的生産様式が新しい生産様式によって置き換えられなければならないことを教えるものの一つでもあるのであろう。

 

 貴方も世界恐慌をより深く理解するためにも、ともに『資本論』を読んでみませんか。

 



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