目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第9回「『資本論』を読む会」の報告

第9回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎師走の学習会

 

 第9回の「『資本論』を読む会」は、28日の暮れも押し詰まってからの慌ただしい開催となりました。しかし議論は内容の充実したものになり、会場を借りている午後5時近くまで行なったのでした。というわけで、今回はさっそく、議論の紹介に移ることにします。

 

◎各パラグラフの位置づけ

 

 今回は「第二節 商品に表される労働の二重性」の第6パラグラフから、「使用価値と有用労働」を取り上げている最後の第8パラグラフまで学習しましたが、最初に問題になったのは、第6パラグラフと第5パラグラフとの関係でした。この二つのパラグラフはほぼ同じような内容を述べているように思えるのですが、それぞれどういう役割を持っているのかが問題になったのです。そしてそれに関連して、この第二節の前半部分(「使用価値と有用労働」が対象になっている)の各パラグラフのそれぞれの位置づけが問題になりました。

 

 まず第6パラグラフの冒頭が《したがって、われわれは次のことを見てきた。--》という言葉から始まっているところを見ると、この第6パラグラフはそれまで述べてきたことを振り返って、全体の総括を行なっているところと見ることができます。

 

  ではそれはどこからどこまでを振り返っているのかというと、第二節の第1パラグラフと第2パラグラフは第二節全体の導入部分と考えることができますから(第1パラグラフは第一節を振り返り、それを踏まえて、第二節で取り上げる「労働の二重性」の重要性の確認、第2パラグラフは第二節全体で取り上げる二商品〔上着とリンネル〕の具体例の説明)、第6パラグラフで総括しているのは、第3~5パラグラフまでで述べてきたことと考えられます。

 

 まず第6パラグラフの最初の二つの分節は、それぞれ第3パラグラフと第4パラグラフの内容を確認しています。そして最後の分節は、第5パラグラフで確認した内容を違った観点からみていることが分かります。

 

 第3パラグラフは使用価値の分析から入っています。これは第二節の表題が「商品に表される労働の二重性」とあるように、「商品に表される労働」が問題だからです。第1パラグラフでは、第一節で見たように、商品は《使用価値および交換価値として、われわれの前に現われた》ことが確認され、第2パラグラフでは、リンネルと上着が例しとて上げられます。だから第3パラグラフでは使用価値としての上着の考察から入っているわけです。そしてその有用性が使用価値として表されている労働を考察し、それを有用労働と規定します。この観点のもとでは労働は常にその有用効果との関連から考察されます。第4パラグラフでは、使用価値が異なれば、労働も異なることが指摘されます。質的に異なる使用価値は商品の前提であること。第5パラグラフでは、さまざまな種類の使用価値は、多様な有用的労働の総体--社会的分業--を示すことが指摘され、同時に社会的分業は商品の前提だが、その逆は成り立たないこと、商品を生産する分業は「自立的な、互いに独立の、私的労働」にもとづくものであることが明らかにされています。

 

 そして第6パラグラフでは、それらをもう一度確認しているのです。特に《生産物が一般的に商品という形態をとっている社会》とは「資本主義社会」のことですから、資本主義社会では、社会的分業は「一つの多岐的な体制」に発展していることが確認されているわけです。

 

◎「商品生産者の社会」と「商品生産社会」

 

 またこれと関連して、マルクスは《生産物が一般的に商品という形態をとっている社会》を言い換えて、《すなわち商品生産者の社会》と述べていますが、これは「商品生産社会」と同じと考えるべきかどうかが議論になりました。

 

 まずここで《商品生産者》というのは、資本家のことでしょう。ただ第1章では資本関係は捨象されていますから、単に「商品生産者」となっているだけだ、との指摘がありました。

 

 ピースさんは「商品生産社会」「資本主義社会」と対比させ、それは資本主義以前の商品を生産する社会と理解していたと述べましたが、亀仙人は、そもそもマルクス自身は、「商品生産社会」という用語自体を使っていないのではないかと指摘ししました(そして実際、後に『資本論』のテキスト版全体を検索してみたが1~3巻からは「商品生産社会」という用語は一件も検索に引っ掛かりませんでした。またマル・エン全集の事項索引にもありません)。もし「商品生産社会」をマルクスがいうように、《生産物が一般的に商品という形態をとっている社会》という意味で使うなら、それは資本主義社会と同義であるし、その場合は、それを資本主義社会と対比させて、それ以前の商品を生産する社会と理解するなら間違いであろうとも指摘されたのでした。

 

◎「一定の合目的的な生産活動」

 

 このパラグラフでは、どの使用価値にも合目的的な労働が含まれている、しかもそれらが商品として相対するためには、諸使用価値は質的に違った有用労働の生産物でなければならない、ということが言われ、資本主義社会では、それらの質的に違った有用労働が、一つの社会的分業に発展すると言われています。

 

  つまり商品に対象化されている労働は、一定の合目的的な活動であるが、しかしそれは私事であり、その限りで限界のある合目的性であることが分かります。社会主義社会でも、その労働は合目的的であるが、しかしそれはその労働が直接社会的であるが故の合目的性でもあり、その意味では資本主義社会のそれとは異なる側面を持っているわけです。

 

 マルクスは『土地の国有化について』という小論のなかで、将来の社会では《生産手段の国民的集中は、合理的な共同計画に従って意識的に行動する、自由で平等な生産者たちの諸協同組合(諸アソシエーション--引用者)からなる一社会の自然的基礎となるであろう》(全集18巻55頁)と述べていますが、将来の社会主義社会を形成する自由な生産者たちのさまざまなアソシエーションは、生産諸手段相互の物的・技術的関連という「自然的土台」に直接規定されて存在するものなのです。だから資本主義社会における労働の「合目的性」はその限りでは「一定」の限界のあるものです。つまりそれは特定の使用価値を生産するという合目的性であすが、しかしそれらの社会的な関連を直接に持っているわけではない、あるいは意識していない合目的性なのです。

 

 しかし社会主義社会では、生産諸手段の諸使用価値が示す自然的基礎にもとづいて、諸労働は意識的に社会的に関係づけられています。社会主義社会では、どういう使用価値をどれだけ生産するかは、使用価値そのものが示す一定の物質的・技術的関連によって規定され、また最終的な使用価値の実現においてもそれを欲求する人々の合目的な意識性が想定されています。

 

  つまりこのパラグラフは、最初の「一定の合目的的な生産的労働」が、さまざまな有用労働の質的区別をなしているが、しかしそれらは「自立した生産者達の私事として互いに独立に営まれる有用労働」としての、「一定の」制限ある「合目的性」である、というふうに展開されているわけです。

 

◎第7・8パラグラフの位置づけとその内容

 

 次に第7・8パラグラフに入りましたが、ここから若干、内容が変わっていることが確認されましたが、やはりこの二つのパラグラフの全体のなかでの位置づけが問題になりました。

 

  この二つのパラグラフは、いわば第二節の前半で問題になっている「使用価値と有用労働」歴史的な位置づけを論じている部分と考えることができます。

 

  『資本論』の各部・篇・章・節等々の敍述の特徴として言えることは、最初は直接的な表象に現われる現象の分析から入り、その背後にある本質を探り出し、それらの内的関連を明らかにして、最初の諸現象をその本質から展開して説明する(概念を明らかにする)、そして最後に対象となっているカテゴリーの歴史性を示す、という展開が指摘できますが、この第7・8パラグラフは、そうした最後の歴史性を明らかにする部分と考えることができます。

 

  これは例えば「第一章 商品」「第4節 商品の呪物的性格とその秘密」、あるいは「第一部 資本の生産過程」「第8篇 本源的蓄積」(ただしフランス語版の場合)と同じような位置づけをもっていると考えることができる、との指摘がありました。

 

  第7パラグラフでは、特に第6パラグラフまでで論じられている問題と関連させて、使用価値と有用労働の歴史的な性格を論じていると考えることができます。 最初の《上着にとっては、それが裁縫師自身によって着られるか、それとも裁縫師の顧客によって着られるかは、どうでもよいことである。どちらの場合でも、上着は使用価値として作用する》というのは、使用価値のどういう特性をいわんとしているのかが問題になりました。上着にとって、それを誰が着るかはどうでもよい、つまり使用価値として作用する場合の、対象はどういう社会的関係にある存在かは問わない。上着とそれを使用する人との関係は直接的であって、媒介するものは何もない、ということでしょうか。確かにパンを食べる人は、誰であろうが、その行為そのものは生物的な自然的な行為でもあるということでしょう。ただ使用価値によっては、一定の社会的関係を前提する場合もあります。例えば奢侈品は資本家を想定し、労働者の消費は、必要生活手段に限定されている、等々。しかしそれは諸使用価値の特性からというより、それを実際に消費する人間の社会的関係に規定されたものといえます。使用価値そのものは、その有用効果を実現する人間とは直接的な関係をもっており、それは物質代謝そのものであり、その限りでは自然的であるといえます。

 

  次に「同じように」やはり上着という特定の使用価値という立場から問題を見て、今度は《上着とそれを生産する労働との関係》を見ています。つまりその労働がどういう社会的関係の下に支出されるかは、やはり上着そのものにとってはどうでもよいことだというのです。ここで《社会的分業の自立した一分岐となる》というのは、商品を生産する労働ということでしょう。裁縫労働は、商品生産以前からあったということです。

 

  しかし諸使用価値の定在は、自然素材を特殊な欲求に適合させるある一つの特有な目的にそった生産活動が必要でした。ここで《特殊な自然素材を人間の特殊な欲求に適合させるある一つの特有な目的にそった生産活動》というのは、やはり第6パラグラフで出てきた《一定の合目的的な生産的活動》と同義でしょう。

 

  こうした考察を前提に、《だから、労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、あらゆる社会形態から独立した、人間の一存立条件であり、人間と自然との物質代謝を、したがって人間の生活を、媒介する永遠の自然必然性である》ということが結論的に言われているわけです。

 

 つまり最初の使用価値そのものはそれを使う人やそれをつくる人が誰であるか、どういう社会的関係にある人であるかは問わないが、しかし一定の合目的的な労働が含まれていることだけは示しています。だから使用価値を形成する労働は社会的関係を問わないのであり、それは一つの自然必然性なのだ、というのがここでの結論と考えることができます。

 

 これは使用価値の生産とその消費というのは、その限りでは人間が他の動物と共有する自然的な物質代謝活動そのものであって、それは社会関係如何を問わないということです。もっとも「生産」というのは人間に固有のものですが、人間は社会的である前にすでに生産していたといえるのかも知れません。いずれにしても、人間が進化の過程で猿から人間になるにしても、そのあいだもやはり生きていなければならず、そのためには特定の自然素材を自身の欲求に合うように摂取していたことはだけは確かでしょう。

 

 第8パラグラフでは、使用価値は二つの要素(自然素材と労働)の結合であること、しかしこの二つの要素のうち、自然こそが基底であることが指摘されています。《人間は、彼の生産において、自然そのものがやる通りにふるまうことができるだけである。すなわち、素材の形態を変えることができるだけである。それだけではない。形態を変えるこの労働そのものにおいても、人間はたえず自然力に支えられている》

 

 つまり第8パラグラフでは、さらに「使用価値や有用労働」のその基底にあるもの(=自然)を指摘し、そういう意味でそれらが限界づけられていることを明らかにする役割を持っているといえます。またそういう意味で、それらの歴史的性格が示されているとも考えることができるわけです。

 

◎還元主義?

 

 マルクスは注13で、ピエートロ・ヴェッリ『経済学に関する諸考察』からの引用を行なっていますが、そこでは「宇宙のすべての現象は、人間の手によって生み出されようと物理学の一般的諸法則によって生み出されようと、事実上の創造ではなく、単に素材の変形であるにすぎない」と述べています。マルクスはヴェッリが「使用価値」について述べていることを自覚していなかったが、しかしそれは使用価値について本質的なことを述べていると考えて、引用していると考えることができます。しかしこの引用文では、いささか自然還元主義的な内容があるのではないか、という疑問が出されました。

 

 確かに使用価値に表される労働は、ただ自然がやるとおりにふるまうだけであり、ただ「素材の変形」をするだけともいえますが、しかしそれらが「事実上の創造では」ないというのは言い過ぎではないだろうか、という疑問です。というのは、自然にある素材を変形するだけとはいえ、そこには必ず新たな「質」を生み出すという契機が存在しており、ある場合には自然界にも存在しない、「新しい質」を生み出しているともいえるのであり、その限りではそれは「創造」以外の何ものでもないからです。

 

  例えば、パソコンはそれを構成する諸部分に分解して、それぞれの素材を辿れば、さまざまな物的素材をただ変形させただけともいえますが、しかしそうした変形によって明らかに「新しい質」を生み出しており、そうした「新しい質」「新しい使用価値」として、「創造」されたものだということを確認することも重要ではないか、それをただすべて素材に、あるいは自然に分解・還元してしまうなら、それはある種の還元主義ではないか、というのです。

 


第10回「『資本論』を読む会」の案内

第10回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 

 昨年末、「トヨタショック」が世界を駆け巡った。

 

 11月にトヨタは09年3月期の大幅減益の見通しを発表したが、そのわずか一カ月後、すぐにその見通しを修正して、12月には営業損益が前期実績の2兆2703億円の黒字から一転して1500億円の赤字に転落する見通しを明らかにした。

 

 あの「世界のトヨタ」が苦境に陥っている。欧米メディアはトップニュースで伝えた。「ビックスリー(米自動車3大メーカー)を超えて、最強の自動車メーカーにさえ打撃」(米紙ウォールストリート・ジャーナル)。「日本経済の象徴であるトヨタの不振は、不況が日本経済にいかに打撃を与えているかを示す例になっている」(南ドイツ新聞)(08年12月26日産経)。

 

 昨年9月の米大手金融機関のリーマン・ブラザーズの破産は、「リーマンショック」として、世界を金融恐慌の嵐に巻き込んだが、それに続く「トヨタショック」は、バブルの破綻と金融恐慌の勃発は、単にそれに続く全般的な過剰生産恐慌の先駆けに過ぎなかったことを明らかにしている。

 

 日本の自動車業界は08年の前半は我が世の春を謳歌してきた。円安や新興市場における販売増などの追い風を受けて、2008年の3月期は軒並み増収増益を達成し、その利益体質はまさに磐石のように見えたのである。主要3社の営業利益は、トヨタ自動車が前年比1.4%増の約2.3兆円、日産自動車が1.8%増の約7900億円、ホンダに至っては12%増の約9530億円、それぞれ過去最高益を実現した。しかしそれはただ世界的な信用膨張によるバブル景気に浮かれていただけに過ぎなかった。

 

 今や、各社とも一転して業績予想を大幅に下方修正している。トヨタの幹部は「09年の販売見通しを立てようにも、数字が次から次へと動いて立てられない」と悲鳴を上げているという。

 

 

 

 しかも苦境は、何も自動車業界だけではない。

 

 同じように好景気を謳歌してきた家電業界にも軒並み荒波が押し寄せつつある。ソニー、東芝は09年3月期連結業績が営業赤字へ転落の見通しであり、シャープやパナソニックは液晶パネル工場など巨額の投資が裏目に出ていると指摘されている。さらに自動車業界に鋼板を供給してきた鉄鋼業界も、粗鋼生産量が過去最高を記録した「30年ぶりの春」から、一転して「減産の嵐が吹き荒れている」。

 

 かくして〈ブルジョア的生産のすべての矛盾は、一般的世界市場恐慌において集合的に爆発〉しているのである(『剰余価値学説史』全集26巻672頁)。

 

 恐慌は、この資本主義的生産様式そのものの歴史的限界を暴露するものである。それは何か絶対的な生産様式ではなく、ただ歴史的な発展段階に対応したものでしかないことを、純粋に経済学的な仕方で、すなわちブルジョア的な立場から、示すものである。それは多くの人たちにさまざまな災厄をもたらすが、しかしまさにそのことによって、人類は資本主義社会そのものを乗り越えて進まなければならないこと教えるものなのである。

 

 今、まさに生じつつある世界的な大恐慌を理論的に解明するためにも、是非、貴方も『資本論』を一緒に読んでみませんか。

 


第10回「『資本論』を読む会」の報告

第10回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎前回(第9回)の報告へのクレーム

 

 やや唐突にこうした問題から始めることをお許しください。

 

 第9回「『資本論』を読む会」の報告に二つのクレームというか、問題点の指摘がありました。

 

 一つは、ピースさんからのもので、わが大御所は、〈前回の報告は分かりにくかった。もっと、『資本論』の内容がよく分かるようなものにして欲しい。あまり難しい内容だと、「『資本論』を読む会」そのものが、そんな難しいことをやっているのか、と敬遠されかねない〉というのです。

 

  確かにそうかも知れません。ただ少し弁解させて頂きますと、私たちの「読む会」は、一回で進むのはほんの数パラグラフに過ぎません。だからその内容をただ解説するだけなら、ほんの数行で終わりかねないのです。だから出来るだけ、その数パラグラフを理解する上で必要な問題をアレコレと論じることになってしまうわけです。

 

  そして『資本論』は読めば読むほどその奥の深さが分かるというような代物でして、それまでの自分の理解の浅さを痛感すること頻りなのです。だから『資本論』を何度読み直しても新しい発見があり、より深い問題が見えてくるという次第です。

 

 だからそれらを何とか紹介したいという気持ちがついつい前にでてしまうわけです。だからまた他方で、これまである程度議論されてきたような内容はほとんど取り上げないということになってしまうわけです。

 

  ただこれまでの報告では、テキストの内容は、読者の皆さんがすでに読まれていることを前提に、そこで問題になる部分や、難解な部分、テキストを理解するに必要な問題を主に論じるという形でやってきました。しかし、これからは『資本論』を直接読まれていない方や、読んだが忘れた、という方も分かるように、テキストの内容そのものも要約する形で報告を行なうことにしたいと思います。

 

 もう一つの問題点の指摘は、埼玉の所沢の「『資本論』を読む会」に参加されているNさん(亀仙人の友人でもあります)からの指摘です。次のようなメールを頂きました。

 

  【「使用価値に支出されている労働」「商品に支出されている労働」という表現がされていましたが、「使用価値をつくる労働」あるいは「使用価値に表される(対象化される)労働」といった表現の方がよいのではないかと思いました。というのは、労働を専ら労働力の支出という観点から見たものが抽象的人間的労働であり、具体的有用的労働については支出という言葉を用いない方が区別が鮮明になると思うからです。】

 

 そしてこうした問題を理解する資料として、次のような文献からの引用も紹介して頂きました。

 

 【抽象的人間的労働について、私の念頭にあったのは、大谷氏の以下のような記述です。

 

 《労働力支出としての労働とは、人間の力の支出、発揮として見られた活動である。「君はたくさん労働するが、僕はあまり労働しない」。「僕は昨日たくさん労働したが、今日はあまり労働しなかった」、「これを生産するのには多くの労働がいるが、あれを生産するのには少しの労働しか要らない」などと言うとき、ひとは「労働」という言葉をこの意味で使っている。この意味での労働は、さまざまの具体的形態をもつ現実の労働から労働力支出という共通の質だけを抽象してみた労働だから抽象的労働と呼ばれ、またその共通の質が人間の労働力の支出だから人間的労働とも呼ばれる。抽象的労働の量は継続時間で測られる。その計測単位は、時間(time)の計測単位である。時間(hour)、分、などである。なお「人間の労働」、あるいはたんに「人間労働」と言うときには、一般に具体的労働と抽象的労働との両面をもつ人間の労働のことを指し、「人間的労働」と言うとき、つまり「的」をいれて言うときには、人間の労働の一つの側面である、人間労働力の支出としての労働(つまり抽象的労働)のことを指す。(3)

   (注3)「人間の労働」あるいは「人間労働」はドイツ語のdie menschliche Arbeit (定冠詞つき)の訳語、「人間的労働」はmenschliche Arbeit (無冠詞)の訳語であって、ドイツ語では両者ははっきりと区別される。「的」の有無に注意してほしい。》(『図解社会経済学』18-19頁)】

 

 まったく不勉強の至りで、大谷禎之介氏の著書は私も一応は読んでいたのですが、そんなことが書かれていたことなどすっかり忘れており、Nさんが指摘されるような点にはまったく気づきませんでした。そこでさっそく、前回の報告の一部の文言を訂正させて頂いた次第です。

 

  ただこの大谷氏の指摘については、若干、私なりに調べたこともあるので、あとで紹介したいと思っています(またピースさんに叱られそうですが)。

 

◎第9・10パラグラフの内容と議論の紹介

 

 今回はこの二つのパラグラフだけを議論しました。二つのパラグラフといっても第9パラグラフはただ次のような一文があるだけです(ただし、以後、『資本論』のテキストを紹介する場合は、その内容を要約したものです)。

 

・今度からは使用対象である限りでの商品から、商品価値に移る。

 

 だから議論のしようもありません。ただここで「商品価値」とあるのは、フランス語版では「商品の価値」となっている、ということが紹介された程度でした。

 

 しかし第10パラグラフはかなり長く、しかも込み入った内容であります。だからこの部分は各分節ごとに見ていくことにします。

 

・われわれの想定によれば、上着はリンネルの二倍の価値をもっている。

 

 ここで「われわれの想定」というのは、第二パラグラフを指しています。

 

・量的な区別はさしあたり問題にしない。

 

 ということは「質」をまず問題にしようということでしょう。

 

・そこで20エレのリンネルは一着の上着と同じ価値の大きさを持つという例を思い出そう。

 

 この二つの使用価値の等置は何を意味するかを問題にようとしているわけです。

 

・「価値」としては上着とリンネルは「同じ実体をもつ物」であり、「同種の労働の客観的表現である」。

 

 ここには、「価値」=「同じ実体」=「同種の労働」という関係がなりたち、「」=「客観的表現」という関係がみられます。つまり上着もリンネルも「価値」としては、つまり「価値」という側面からみるならば、「同じ実体」として「同種の労働」をその内に持ち、それを上着やリンネルという「物」によって「客観的」に表現しているのだ、という捉え方をここから導き出しているように思えます。

 

・ところが、裁縫労働と織布労働とは、質的に異なる労働である。

 

 つまりその前の分節では「同じ実体」として「同種の労働」を持つというが、しかし現実には裁縫労働と織布労働とは質的に違うというわけです。

 

・しかし、ある社会状態では同じ人間が裁縫労働と織布労働を代わる代わるやるのだから、この二つは同じ個人の異なる労働様式、労働諸形態にすぎず、それはわが裁縫師が上着を仕立てたり、ズボンを仕立てるのに同じ個人的労働の変化を前提するのと同じである。さらに、資本主義社会では、労働需要の状況によっては、ある人間労働が、あるときは裁縫労働の形でまたあるときは織布労働の形で、供給されなければならない。

 

 ここでさまざまな労働には同じ実体があるという例として二つの例が上げられていると説明したピースさんに対して、いや三つではないか、と亀仙人が問題にしましたが、まあ、これはあまり本質的な議論ではありません。

 

  以上までで、フランス語版では段落が区切られています。この段落の区切り方が今一つよく分からないのですが、まあ、これもとりあえずは拘らないことにします。

 

・だから労働のこうした有用な性格を度外視すれば、労働に残るのは、それが人間的労働力の支出であるということだけである。

 

 ・裁縫労働と織布労働とは、質的に異なる生産活動であるが、ともに、人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出であり、こうした意味で、ともに、人間的労働である。

 

 ・それらは、人間的労働力を支出する二つの異なった形態にすぎない。

 

 まあ以上が一つの区切りとして、さまざまな種類の労働に共通する「同じ実体」としての「人間的労働」の説明をやっている部分の紹介です。

 

  こうしたマルクスの説明を理解する上で、参考になるのは、マルクスがモストの書いたものをほとんど書き直すほど手を入れたとされている『資本論入門』の次の一文です。

 

 《未発展な社会状態では、同じ人間がこもごも、非常に違った種類の労働を行なう。あるときは畠を耕し、あるときは機を織り、あるときは鉄を鍛え、あるときは大工仕事を行なう、等々。しかし、彼の仕事がどんなに多種多様であっても、それらは常に、彼が自分自身の脳髄、自分の神経、筋肉、手等々を用いるときの、一言で言えば彼が自分自身の労働力を支出するときの、異なった有用的な仕方でしかない。彼の労働はいつでも力の支出--労働そのもの--なのであって、この支出の有用的な形態、つまり労働種類が彼の目的とする有用効果に応じて変化するのである。》(大谷禎之介訳、岩波書店、6-7頁)

 

 問題はここで言われている労働はまったく商品生産に限定された労働ではないことに注意が必要です。これらは、そもそもは価値を形成する抽象的人間労働が実際にはどういう労働か、あるいは実際の労働のどういう契機を意味するかを論じていると思えるのですが、しかしそこでマルクスが例として上げているものは、必ずしも商品生産者の労働に限定して論じていないことに気づきます。これは注目されてしかるべきでしょう。

 

 もう一つよく似た『資本論』の別の部分(第四節)からの一文も引用しておきましょう。

 

 《したがって、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではない。それはまた、価値規定の内容から生じるのでもない。と言うのは、第一に、有用労働または生産的活動がたがいにどんなに異なっていても、それらが人間的有機体の諸機能であること、そして、そのような機能は、その内容やその形態がどうであろうと、どれも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは、一つの生理学的真理だからである。》(全集版97頁)

 

 つまり「価値規定の内容」をなす、抽象的人間労働というのは、資本主義や商品生産に固有のものと考えるべきではないということのようです。もちろん、この問題はこれまで多くの人たちによって論争されてきた問題ですが、今回はこの問題を取り上げるわけではありません。

 

 まあ、以上までが、だいたい、価値を形成する労働の性格を確定している部分と言えるでしょう。しかしマルクス自身は、初版や第二版でも、またフランス語版でもここで段落を切っているわけではありません。しかしそれはまあ、あまり拘らないことにします。この部分では、とにかくその形態は問わないが、何らかの人間の力の支出としての労働という形で捉えられていることがわかります。そしてその次からは単純労働と複雑労働との関係を論じることになるのですが、だからこの二つの労働、つまり単純労働と複雑労働とは、ともにこうした人間労働力の支出、力の支出、として捉えられているのですが、しかしその力の強さが異なるものだとして捉えられる、という形で分節としては、繋がっているように思えます。人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出といっても、そこには力としての相違があるというわけです。だから同じ一日の労働日に支出された労働であっても、違った価値の大きさとして結果するというわけです。

 

 それでは次の分節に移ることにします。

 

◎単純労働と複雑労働

 

・人間的労働力は、あれこれの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならないが、商品の価値は、人間的労働自体を、人間的労働一般の支出を、表している。

 

 この一文で、「あれこれの形態で支出される」というのは、要するにさまざまな有用な形態で支出されるということでしょう。つまり使用価値を形成する労働には一定の発達が前提されるが、商品の価値は、人間労働一般の支出を表しているから、その発達とは関係はない、と言いたいことのように思えます。しかしそのあとで論じられる複雑労働は一定の育成期間を経たものということですから、発達した労働とも言えます。ただそうした複雑労働も商品の価値としては、単純労働に還元されるというわけですから、とにかく商品の価値としては、極めて素朴な人間的労働一般の支出を表しているだけだ、というのが、ここで言いたいことではないかと思われます。

 

・ブルジョア社会では、将軍や銀行家が大きな役割を演じ、人間自体はみすぼらしい役割を演じているが、この場合の人間的労働もそのとおりである。

 

 この部分は何が言いたいのか今一つよく分からないと思うのですが、あとで紹介する初版の一文を参照すると、そこでは単純労働の例として農僕の労働が上げられていますが、それについて、マルクスは《例えば、農僕の労働力は単純な労働力とみなされ、したがってまた、その労働力の支出は単純な労働、すなわち、それ以上に修飾のついていない人間労働とみなされるであろうが、……》と述べています。つまり《それ以上に修飾のついていない人間労働》というわけです。だから将軍や銀行家というような肩書で修飾されている人はブルジョア社会では大きな役割を演じているが、そうした肩書のない人間自体はみすぼらしいのと同じように、価値を形成する人間的労働もそうした何の飾りもないものなのだ、ということなのでしょう。

 

・それは平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である。

 

 ここで「特殊な発達」という文言が出てきますが、一つ前の分節で「多少とも発達していなければならない」という文言がありましたが、それと対応していると考えられます。つまり「商品の価値は、人間的労働自体を、人間的労働一般の支出を、表している」と述べていたのを、ここではそれは「単純な労働力の支出」だと言い換えているわけです。それは「普通の人間ならだれでも」「平均的に」もっており、別に特殊な発達を必要とせずに、ただその肉体そのものにもっているような労働力の支出だということでしょうか。つまり価値として表される労働も、そうしたみすぼらしい役割を果たしているのだ、とマルクスは言いたいのでしょう。

 

・確かに単純な平均労働そのものは、国を異にし文化史上の時代を異にすれば、その性格を変えるが、現に存在する一つの社会では、与えられている。

 

 単純な平均労働は、国が異なれば、文化史上の時代が変われば、「その性格を変える」と述べています。ここで、「その性格」とありますが、一体、どういうものとして理解したらよいのでしょうか。「平均的な、単純な、普通の人ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力」と言っても「その性格が変わる」と述べているわけですから、これは例えば、一昔前の義務教育が普及していない時代だと、読み書きや簡単な計算ができるという条件は、単純な労働とはいえなかったが、今日では、それは「単純な労働」といえるというようなことではないでしょうか。

 

・より複雑な労働は、単純労働の何乗か、何倍かされたものとしてのみ通用する。

 

 ・この還元が絶えず行なわれていることは、経験が示している。

 

 ・ある商品は複雑な労働の生産物かも知れないが、その価値は、一定分量の単純労働を表すにすぎない。

 

 つまりどんな複雑な労働の生産物も、価値としては単純労働の倍数として表されるということです。なお、この部分は初版ではもっと詳しく次のようになっています。

 

 《例えば、農僕の労働力は単純な労働力とみなされ、したがってまた、その労働力の支出は単純な労働、すなわち、それ以上に修飾のついていない人間労働とみなされるであろうが、これとは反対に裁縫労働は、より高度に発達した労働力の支出とみなされるであろう。それだから、農僕の一労働日はたとえば1/2Wという価値表現で示されるが、裁縫師の一労働日はWという価値表現で示されるのである。とはいえ、この相違はただ量的であるにすぎない。もし上着が裁縫師の一労働日の生産物であるならば、それは農僕の二労働日の生産物と同じ価値をもっている。しかし、こうして裁縫労働はつねにただ何倍かされた農民労働としてのみ数えられるのである。いろいろな労働種類がそれらの度量単位としての単純労働に換算されるいろいろな割合は、一つの社会的な過程によって生産者達の背後で確定されるのであって、それゆえに生産者たちにとっては習慣によって与えられているもののように思われるのである。》(国民文庫35頁)

 

・さまざまな種類の労働がその度量単位である単純労働に還元されるさまざまな比率は、生産者達の背後で一つの社会的過程によって確定され、したがって生産者たちには慣習によって与えられているかのように見える。

 

 ここで「さまざまな種類の労働」とありますが、これは具体的な労働を意味しているのでしょうか。それとも複雑労働でもその複雑の度合いが違って「さまざまである」という意味で、「さまざまな種類の労働」と述べているのでしょうか。しかしこれは、先に紹介した初版の文章を読むと、どうやらさまざまな具体的労働を意味しているように思えます。例えば農僕と裁縫師の労働等々というわけです。

 

  ここで「生産者たちの背後で一つの社会的過程によって確定される」というのがなかなか分かりにくいと思いますが、先に上げた『資本論入門』では次のように述べています。

 

 《諸商品の価値が意味するのは、これらの物の生産は人間的労働力の支出を要したということ、しかも社会的な労働力の支出を要したということだけである。ここで社会的な労働力と言うのは、発展した分業のもとではおのおのの個人的な労働力はもはや、社会的な労働力の一つの構成部分として作用するにすぎないからである。したがって、発展した分業が成立してからは、個人的な労働--力の支出という意味での労働--のそれぞれの量もまた、社会的な平均労働の、すなわち社会的な労働力の平均的支出の大小さまざまな量として意味をもつだけである。ある商品に対象化されている平均労働が多ければ多いほど、この商品の価値はそれだけ大きいのである。》(前掲8頁)

 

・簡単にするために、以下はどんな種類の労働も直接に単純な労働力とみなす。

 

 今回は都合で早く終える必要があり、時間が無かったので、議論できなかったのですが、そもそもどうして複雑労働と単純労働というような区別が生じるのか、そしてまたどうして複雑労働は単純労働よりも同じ時間内により多くの価値jjとして対象化されることが出来るのか、社会主義でも同じような区別がありうるのか、等々という問題も、問題としては出されました。しかし、残念ながら、議論は出来ずに持ち越されました。皆さんも一度考えてみて下さい。

 

◎「労働力の支出」という表現について

 

 最初に埼玉のNさんからの問題提起を紹介しましたが、Nさんの教示を受けて、私も大谷氏の著書を引っ張りだして、読み直したりしました。

 

  大谷氏の説明だと「労働力の支出としての労働とは、人間の力の支出、発揮として見られた活動である。……この意味での労働は、さまざまの具体的形態をもつ現実の労働から労働力支出という共通の質だけを抽象してみた労働だから抽象的労働と呼ばれ、またその共通の質が人間の労働力の支出だから人間的労働とも呼ばれる」と説明されています。そして「人間の労働」や単に「人間労働」という場合は、具体的側面と抽象的側面を両方持ったものとしての人間の労働を指し、「人間的労働」というように「的」が入ると、「人間労働力の支出としての、つまり抽象的労働のことを指すのだということのようです。  だからこの大谷氏の説明だと、「労働力の支出」という場合は抽象的な人間労働の支出のことだということになります。

 

 しかしその後、いろいろと調べてみますと、必ずしもこうした指摘に合致しない用例があることに気づきました。それはまだ学習していませんが、この第二節の最後のパラグラフです。

 

 《すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する。》(全集版63頁)

 

 これをみると、使用価値を生産する具体的有用労働についても《特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出》と説明されており、《支出》という用語が使われています。だから最初のNさんの問題提起に戻りますが、「使用価値に支出されている労働」という表現も、それを「特殊な、目的を規定された人間労働力の支出」として理解するならば、こうした表現そのものは必ずしも間違いとはいえないのではないかという気がします。だからまた「商品に支出されている労働」という場合も、それがそうした二つの側面を合わせ持った労働の支出と考えるならば、必ずしも問題が生じる表現ではないのではないか、という気がするのです。もちろん、Nさんの問題提起を否定する気はありませんが--それはそれで問題を厳密に理解する必要を教えて頂いたと思っています--、しかしこうしたマルクス自身の表現もあるということを一言紹介しておきたいと思います。

 


第11回「『資本論』を読む会」の案内

第11回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 

 今、自民党内では、「政府紙幣」の発行が議論になっているのだそうである。

 

 2月6日、自民党の菅義偉選対副委員長を中心に「政府紙幣・無利子国債の発行を検討する議員連盟の設立準備会」なるものが開かれたりしている。

 

 しかも、自民党内だけではなく、民主党の岩国哲人衆議院議員も「8項目の緊急経済対策」の一つとして「政府紙幣発行」を提言したり、経済アナリストの森永卓郎氏なども「もはや政府紙幣の発行しかない」などと述べたりしているのだそうである。

 

 かくしていまやマスコミのなかでもこの議論が大きく取り上げられ、テレビでは討論番組まで組まれたりしているありさまである。もちろん、実際にそれが発行されるのかどうか、あるいは、発行されるとしても、どういう形で発行されるのか、といったことはまったく不明である。

 

昭和20年に発行された政府紙幣(ウィキペディアから)

 

 どうやら、100年に一度の大不況なのだから、何でも許されるということらしい。しかしこれはもはや“末期症状”としか言いようがない事態である。確かに政府・地方合わせて1000兆円というGDPの2倍にも達する天文学的な債務を抱え、日本の国家は実質上は破綻しているといえば確かにそうである。しかし少なくともいまはまだそれは現実化していないのである。しかし、もし政府紙幣を発行したら、それこそ、それが引き金になって、破綻は現実のものとなり、日本はたちまち“ジンバブエ化”するであろう(ジンバブエでは何と100兆ドル札が発行されているのだという!)。

 

 日本で現在発行されているのは、千円、2千円、5千円、1万円の日本銀行券と500円以下の硬貨(補助貨幣)である。前者は日本銀行が発行し、後者は政府が発行している。これまでマルクス経済学者の間では、金との交換を停止した不換化した日銀券は果たして銀行券、すなわち信用貨幣といえるのか、そうではなくそれは国家紙幣と同じになってしまったのか、という問題について数多くの論争が行なわれてきた。「現在の日銀券はますます紙幣化しつつある」などと折衷的な立場を取る人もいるらしいが、こうした問題はいまだ理論的に明確に解決されているとは言い難いのである。政府紙幣の発行は、再びこうした議論を巻き起こすかも知れない。

 

 マルクスは『資本論』の第1部第3章「貨幣または商品流通」のなかで、国家紙幣は貨幣の諸機能の一つである鋳貨(流通手段)としての機能から生まれ、信用貨幣は支払手段としての機能から生まれると指摘している。さらに本来の信用貨幣である銀行券は、信用制度が発展するなど資本主義的生産のより複雑な関係を前提するとも述べている。

 

 政府紙幣の何たるかを理解し、それがどんな影響力をもたらすかを考えるためにも、やはり『資本論』をしっかり学ぶ必要があるわけである。ぜひ、貴方も一緒に『資本論』を学んで見ませんか。


第11回「『資本論』を読む会」の報告

第11回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎春は“花粉症”の季節?

 

 3月にもなると、ようやく寒さも弛み、「山」も「里」も「野」も近くにはありませんが、「春~が来た♪」ことを実感します。  「花~がさき、鳥~がなく、春」は、やはり心をウキウキさせるものですが、最近は、残念なことに、反対に憂鬱な季節になってしまったようです。“花粉症”です。街を歩くと何と「マスク人間」の多いことか!

 

  ピースさんも、JJ富村さんも、花粉症で、二人ともマスクをしています。ピースさんは8日の「読む会」の直前まで風邪でダウンしていたのですが、JJ富村さんも傍で見ていても気の毒なぐらい重い症状です。私たちが会議室に着いたとき、彼はすでに先にきて窓際の机に伏せていたので、眠っているのかと思ったのですが、そうではなく、花粉症が辛くて、伏せていたというのです。「読む会」の途中でも、時々、マスクを外して鼻などを洗浄する薬を噴霧したりしていました。

 

  幸い私、亀仙人は、山の中で育ったような人間であるためか、小さいときから漆の木の下を通っただけでもかぶれて顔全体を腫らしたりしていたのですが(この場合の治療法として、栗の葉の煮汁に顔を浸けさせられた)、いまだに花粉症の症状は出ていません。

 

  いずれにせよ、憂鬱で思考力も鈍る花粉症ですが、「読む会」の議論はなかなか充実したもので、11~15と五つもパラグラフを進み、第2節の最後のパラグラフを残すまで行きました。さっそく、その報告を行ないましょう。

 

◎第11パラグラフの位置づけとその内容

 

 まず、このパラグラフの位置づけというか、役割から考えてみましょう。第9パラグラフから、考察の対象は、それまでの商品の使用価値とそれに表されている有用労働から、商品の価値に移りました。そこでマルクスは第10パラグラフでは、まず上着とリンネルという二つの商品を価値の側面からみた場合にもっとも直接的な表象として捉えられる二商品の価値の量的比較から入っています。

 

  《上着はリンネルの二倍の価値をもっている》。

 

  しかし価値の量的区別にはどんな問題があるのか、ということはさしあたりは問題としないとして、そうした量的比較が可能である前提に質的同一性があること、だからまずその質的同一性から問題にすることが言われていました。

 

  ところで次の第12パラグラフは、この後回しにされた価値の量が問題になっています。だからこの第11パラグラフは、第9パラグラフから始まった価値の質的な考察の最後を締めくくるものであり、それの「まとめ」だということが分かります。

 

  その内容を理解するために、そもそも価値の質的考察がどのように進められてきたのかを少し振り返ってみましょう。第10パラグラフではマルクスは次のように考察を進めていました。

 

  まず上着とリンネルとは価値として量的に比較できるのは、両者が同じ実体を持つ物であるからであり、同種の労働の客観的表現であることが指摘されました。そしてこの「同種の労働」とは何かが明らかにされ、それは裁縫労働や織布労働の有用的性格を度外視した《人間労働力一般の支出》であること、それは《人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出》という意味での《人間労働力の支出》であることが指摘されました。それはまた《平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である》こと。だから価値の実体としては、複雑な労働も単純な労働に還元されていることが指摘されたのでした。

 

  そして第11パラグラフではもう一度、それまでの考察をまめているわけです。だから次に第11パラグラフを分節ごとに見て行きましょう。

 

【11】

 

・したがって、価値である上着およびリンネルにおいては、それらの使用価値の区別が捨象されているように、これらの価値に表されている労働においては、裁縫および織布労働というそれらの有用的形態の区別が捨象されている。

 

 われわれは以前は《使用価値に表されている労働》、すなわち《有用的労働》をみたが、 今は《価値に表されている労働》を問題にしている。上着とリンネルを価値という側面から見ると、まったく無区別な同質のものとして捉えられる。だからそれらを価値という側面で見るということは、それらを質的に区別している使用価値の相違を捨象することになる。それらを質的に違った使用価値たらしめているのは、裁縫労働や織布労働という有用労働なのだから、そうした使用価値を捨象するということは、裁縫労働や織布労働の有用的形態の区別も捨象するということになる。

 

・使用価値である上着およびリンネルが目的を規定された生産的活動と布および糸との結合したものであり、これに対して価値である上着およびリンネルは単なる同種の労働凝固体であるように、これらの価値に含まれている労働は、布および糸に対するその生産的なふるまいによってではなく、ただ人間労働力の支出としてのみ通用する。

 

 使用価値として見た上着やリンネルは、裁縫労働や織布労働という目的を規定された生産的活動と労働対象である布や糸との結合の産物であるように、それらを価値という側面で見るということは、それらの価値に含まれている労働も、布や糸に対する生産的な振る舞いによってではなく、ただそうした有用的性格を捨象された単なる人間労働力の支出としてのみ通用するものとなるのである。

 

・裁縫労働と織布労働とが使用価値である上着およびリンネルの形成要素であるのは、まさにこれらの労働の異なる質によってである。

 

 ・裁縫労働と織布労働とが上着価値およびリンネル価値の実体であるのは、ただ、これらの労働の特殊な質が捨象され、両方の労働が等しい質、人間労働という質をもっている限りでのことである。

 

 要するに上着やリンネルを価値の側面で見るということは、それらに支出されている労働を、上着やリンネルの使用価値に表されている裁縫労働や織布労働という具体的な特殊な目的を持った側面、労働のそういう形態を捨象して、単なる人間労働力の支出として見ることになる、ということが再確認されたわけです。

 

◎商品の価値に表される労働の量的考察

 

 次の第12パラグラフから価値に表される労働の量的考察が始まります。これも分節ごとに紹介しておきましょう。まず第12パラグラフです。

 

【12】

 

・だが、上着もリンネルも単に価値そのものであるだけではなく、一定の大きさをもつ価値であり、われわれの想定では、一着の上着は一〇エレの二倍の価値がある。

 

 ・これらの価値の大きさのこの相違はどこから生じるのか? それは、リンネルが上着の半分の労働しか含んでおらず、したがって、上着を生産するにはリンネルを生産する時間の二倍にわたって労働力が支出されなければならない、ということから生じる。

 

★このパラグラフでは商品の価値の量が、商品に含まれる労働の大きさにもとづくこと、そして労働の大きさは,労働力の支出の大きさに、故に労働力が支出される継続時間に関係することが明らかにされています。次は第13パラグラフです。

 

【13】

 

・したがって、商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的にのみ意義をもつのだが、価値の大きさとの関連では、それがもはやそれ以上の質をもたない人間労働に還元されたのち、ただ量的にのみ意義をもつ。

 

 ここで《もはやそれ以上の質をもたない人間労働に還元さ》れているというのは、価値に表されている人間労働も一つの質であるが、それは使用価値がもつ特殊な質を一つの質に還元したものなのです。そしてそれはそれ以上に還元しようのない質になっているために、もはや量的な区別しか問題にならないというわけです。これはヘーゲルの論理学の「有論」を彷彿とさせる敍述です。つまり「質のどん詰まり」としての向自有が、すなわち人間労働一般というわけです。

 

・前の場合には、労働のどのようにしてと、何をするかが問題となり、後の場合には、労働のどれだけ多くが、すなわちその継続時間が問題となる。

 

 使用価値として表されている労働の場合には、《労働のどのようにして》、つまりその具体的形態が問われ、《何をするか》、すなわちその目的意識性が問われたのですが、価値として表される労働においては、ただその《どれだけ》が、つまり量だけが問題となり、よってその継続時間が問題というわけです。

 

・一商品の価値の大きさは、その商品に含まれている労働の量だけを表すから、諸商品は、一定の比率においては、つねに等しい大きさの価値でなければならない。

 

★最後の分節にある《商品に含まれている労働》という文言が少し問題になりました。これまでマルクスは《商品に表される労働》とか《使用価値に表される労働》あいは《価値に表される労働》という言い方はしてきましたが、ここでは《含まれる労働》という表現をしていることです。しかしこれはそれが指摘されただけで特にそれ以上問題にはなりませんでした。

 

  さて、このパラグラフでは、価値の量との関連で見た労働が、使用価値との関連で見た労働の質的相違を還元して、それ以上還元できないまでに還元されているから、量的にのみ意義をもつことが明らかにされています。つまりこのパラグラフでは価値の量として表されている労働と使用価値として表されている労働との関連が考察されたわけです。そうした考察の端緒としての位置づけを持っているように思われます。つまり使用価値との関連で見た労働では、「どのようにして」「何をするか」が問われ、価値の大きさとの関連で見た労働では、「どれだけ」が問われる、と。これは次のパラグラフでは使用価値に関連する生産力と価値との関連を考察するための、いわばその導入部分であり、その前提である、といえわけです。それでは、次の第14パラグラフを見てみましょう。

 

【14】

 

・たとえば、一着の上着の生産に必要とされるすべての有用労働の生産力が不変のままにとどまるならば、上着の価値の大きさは、上着自身の量が増えるにつれて増大する。

 

 ここで《すべての有用労働》と述べられているのは、単に裁縫労働だけではなく、裁縫労働と結合されるリンネルを織る労働も、織布労働と結合される糸を紡ぐ製糸労働も、とにかく最終的な個人的消費手段である上着という使用価値を生産するに必要とされるすべての有用労働がここでは問題になっていると考えられます。そしてそれらのすべての労働の生産力が不変であるなら、上着の価値の大きさは、上着の量が増えれば、増えるというわけです。

 

・一着の上着がx労働日を表すなら、二着の上着は2x労働日を表す、等々。

 

 ・しかし、一着の上着の生産に必要な労働が二倍に増加するか、あるいは半分に減少するものと仮定しよう。

 

 ・前の場合には、一着の上着は以前の二着の上着と同じ価値をもち、後の場合には、二着の上着が以前の一着と同じ価値しかもたない。

 

 ・もっとも、どちらの場合でも、一着の上着はあい変わらず一着の上着として役立ち、それに含まれている有用労働もあい変わらず同じ質のものである。ただ、その生産に支出された労働量が変わったのである。

 

★生産力の変化と上着という使用価値との関連をまず問題にし、さらにそれが上着の価値とどういう関係にあるかを見ています。生産力の変化は、有用労働に関連するが、しかし生産力が変化しても、一着の上着という使用価値はもとのままの相変わらず同じ一着の上着として役立つだけで、使用価値としての役割も、またそれに含まれている有用労働にも何の変化もないというわけです。にも拘らず、生産力は有用労働に関連し、だから価値には直接関連しないはずなのに、生産力の変化は、一着の上着という使用価値そのものには何の変化ももたらさないのに、逆に価値には変化をもたらすというわけです。この逆説的な現実を指摘しています。

 

  ところで、ここでは生産力が変わっても、《有用労働も相変わらず同じ質のもの》といえるのかどうかが問題になりました。例えば裁縫労働の場合、手縫いするのとミシンを使って縫うのとでは、有用労働の質が変化しているのではないか、むしろ有用労働の質的変化こそ、生産力を変化させる要因の一つではないのか、という疑問が出されました。これはハッキリ決着がついたといえないのですが、要するに上着という有用性そのものは、生産力が変わっても変わらないのだから、その使用価値の有用性からみた場合に、それを形成する労働の有用性というもの、そいう意味での質にも変化がないと言っているのではないかと、という結論になりました。だから裁縫労働の具体的形態に変化があっても、同じ有用性に結実するという限りで、同じ質を持っているといえるのではないかというのですが、まあ、今一つよく分からないのが正直なところです。

 

【15】

 

・より大きい量の使用価値は、それ自体としては、より大きい素材的富をなす。

 

 ・二着の上着は、一着の上着より大きい素材的富をなす。

 

 ・二着の上着があれば、二人に着せることができるが、一着の上着では一人にしか着せられない、等々。

 

 ・といっても、素材的富の量の増大に対応して、同時にその価値の大きさが低下することもありえる。

 

 ・このような対立的運動は、労働の二面的性格から生じる。

 

 使用価値の量が増大しているのに、その価値が低下するというような、対立的な運動は、使用価値に表される労働と価値に表される労働という労働の二面的性格から生じることが指摘されています。

 

・生産力は、もちろんつねに、有用な具体的労働の生産力であり、実際、ただ、与えられた時間内における目的にしたがった生産活動の作用度だけを規定する。

 

 ここでは生産力について、厳密に規定がされています。すなわち、有用な具体的労働の生産力であって、与えられた時間内に目的にしたがった生産活動の作用度だけを規定する。

 

・だから、有用労働は、その生産力の上昇または低下に正比例して、より豊かな生産物源泉ともなれば、より貧しい生産物源泉ともなる。

 

・これに対して、生産力の変動は、それ自体としては、価値に表される労働にはまったく影響しない。

 

 これもすでに指摘したことですが、もう一度、生産力の変動は、それ自体としては、価値に表される労働にはまったく影響しない、ことが述べられています。

 

・生産力は、労働の具体的な有用な形態に属するから、労働の具体的な有用な形態が捨象されるやいなや、生産力は、当然、もはや労働に影響を与えることはできなくなる。

 

 ここでは、どうして生産力の変動は、それ自体として価値に表される労働に影響しないのか、その理由が述べられています。

 

・だから、生産力がどんなに変動しても、同じ労働は、同じ時間内には、つねに同じ価値の大きさを生み出す。

 

・ところが、同じ労働は同じ時間内に、異なった量の使用価値を--生産力が上がれば、より大きい量を、生産力が下がれば、より小さい量を--提供する。

 

 所沢の「『資本論』を読む会」では、ここに出てくる《同じ労働》とは何かということが議論になったようです(ttp://shihonron.exblog.jp/m2008-09-01/)。〈「次の部分で使用価値を与えるとされているのだから、あるがままの労働(具体的労働の側面と抽象的労働の側面をあわせもつ労働)ではないか」という発言が〉あった、と報告されています。

 

・したがって、労働の多産性を増大させ、したがって、労働によって提供される使用価値の総量を増大させるような生産力の変動は、もしもそれがこの使用価値総量の生産に必要な労働時間の総計を短縮させるならば、この増大した使用価値総量の価値の大きさを減少させる。反対の場合には逆になる。

 

 この最後の分節の解釈を巡ってかなり長い時間議論し、JJ富村さんなんかは、黒板を使って問題を整理しながら論じたりしましたが、今一つスッキリと解決したとは言えませんでした。

 

  まずここでは「使用価値総量」が問題になっていますが、どうしてここで使用価値総量が問題になっているのでしょう。このパラグラフは量的考察の最後でもあり、しかもその最後の分節です。だから単なる一着の上着の使用価値だけではなく、「使用価値総量」が問題になっていると考えることができます。ただここで「使用価値総量」と言っても、すべての使用価値全体を意味するのではなく、例えば上着なら上着の総量を意味しているのではないかということになりました。

 

  さらにこの分節の理解を困難にさせているのは、生産力の変動が使用価値総量も価値総量も同時に変化させる場合について述べているからです。

 

  例えば、使用価値総量を増大させる生産力の変動は、使用価値の一単位の価値を減少させるというのなら、まったく問題なく理解できます。この場合は生産力の変動が使用価値総量を増大させても、その使用価値総量の価値そのものには変化がないために(なぜなら、《生産力は、もちろんつねに、有用な具体的労働の生産力であり、実際、ただ、与えられた時間内における目的にしたがった生産活動の作用度だけを規定》し、《生産力の変動は、それ自体としては、価値に表される労働にはまったく影響しない》から)、一単位の使用価値の価値量は減少するのだと理解することができるわけです。しかしマルクスが述べているのは、こうしたことでは必ずしもないわけです。だからややこしいのです。

 

  マルクスが述べているのは、使用価値総量を増大させる生産力の変動が、その生産された使用価値総量の価値をも減少させる場合についてです。というのは、その生産力の増大は、使用価値総量を増大させるだけでなく、その増大した使用価値総量を生産するのに必要な労働時間の総計をも短縮するケースについて述べているのだからです。そして確かにこのように理解すれば、それはその限りではまったくそのとおりなのですが、どうしてこうしたケースの考察が量的考察の最後になされる必要があるのか、しかも《使用価値総量》とその生産に必要な《労働時間の総計》が問題にされる必要があるのか、ということが今一つよく分からないのです。これはとりあえず、疑問として出すだけにしておきます。

 

【追記】

 

  この最後の分節の理解について、補足しておきます。私たちは「使用価値総量」を「例えば上着なら上着の総量を意味している」と理解したのですが、それがそもそもマルクスがこの分節で何を言いたいのかを分からなくさせたようです。ここは文字どおり「使用価値総量」とは、その社会が必要とする使用価値総量と理解すべきなのです。そうすると、マルクスが言いたいことは次のようなことです。

 

 生産力が高度化すれば、社会が必要とする使用価値総量を増大させ、社会が享受する素材的富を増大させるが、同時にその使用価値総量の生産に必要な労働時間も短縮させもする。そうした生産力の変動は、しかし資本主義的生産においては、使用価値総量の価値の大きさを減少させ、それは資本主義的生産の攪乱・恐慌に繋がるのである。しかし将来の社会であるなら、それは自由時間の拡大に結果する。しかしもし戦争などで生産力が破壊されるなら、逆の結果を生み出す。第二次世界大戦はまさにそうした形で資本主義を延命させたといえるであろう。云々。

 

 もちろん、かなり脚色して書いてみましたが、このように理解するなら、この分節が商品の価値に表される労働の量的考察の最後に相応しい内容であることがお分かりになるでしょう。

 



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