目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
第6回「『資本論』を読む会」の報告
第7回「『資本論』を読む会」の案内
第7回「『資本論』を読む会」の報告
第8回「『資本論』を読む会」の案内
第8回「『資本論』を読む会」の報告
第9回「『資本論』を読む会」の案内
第9回「『資本論』を読む会」の報告
第10回「『資本論』を読む会」の案内
第10回「『資本論』を読む会」の報告
第11回「『資本論』を読む会」の案内
第11回「『資本論』を読む会」の報告
第12回「『資本論』を読む会」の案内
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第13回「『資本論』を読む会」の案内
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第14回「『資本論』を読む会」の案内
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第15回「『資本論』を読む会」の案内
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第16回「『資本論』を読む会」の案内
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第17回「『資本論』を読む会」の案内
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第18回「『資本論』を読む会」の案内
第18回「『資本論』を読む会」の報告
第19回「『資本論』を読む会」の案内
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第20回「『資本論』を読む会」の案内
第20回「『資本論』を読む会」の報告
第21回「『資本論』を読む会」の案内
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第22回「『資本論』を読む会」の案内
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第23回「『資本論』を読む会」の案内
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第24回「『資本論』を読む会」の案内
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第25回「『資本論』を読む会」の案内
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第26回「『資本論』を読む会」の案内
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第27回「『資本論』を読む会」の案内
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第28回「『資本論』を読む会」の案内
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第29回「『資本論』を読む会」の案内
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第30回「『資本論』を読む会」の案内
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第32回「『資本論』を読む会」の案内
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第33回「『資本論』を読む会」の案内
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第34回「『資本論』を読む会」の案内
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第36回「『資本論』を読む会」 の案内
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第37回「『資本論』を読む会」の案内
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第38回「『資本論』を読む会」の案内
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第39回「『資本論』を読む会」の案内
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第40回「『資本論』を読む会」の案内
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第42回「『資本論』を読む会」の案内
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第43回「『資本論』を読む会」の案内
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第44回「『資本論』を読む会」の案内
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第45回「『資本論』を読む会」の案内
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第46回「『資本論』を読む会」の案内
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第47回「『資本論』を読む会」の案内
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第48回「『資本論』を読む会」の案内
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第49回「『資本論』を読む会」の案内
第49回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第8回「『資本論』を読む会」の案内

第8回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 株価が激しい乱高下を繰り返しながら暴落し続け、10月24日の東京株式市場の日経平均株価は8000円を大きく割り込み、03年のバブル後の最安値とほんとど同じ状態に戻ってしまった。

 

 

 こうした株価の低迷が実体経済に影響を及ぼし、深刻な経済停滞が予想されるとマスコミでは報じている。

 

 なるほど現象的にはそうではある。しかし現象は必ずしも本質を示すわけではない。現象的には金融の破綻が株式の暴落をもたらし、それが実体経済にも影響及ぼして深刻な不況と停滞をもたらしつつあるかにみえる。

 

  しかし本質的な関係はその逆である。マルクスは貨幣・金融恐慌は一般的な生産恐慌の特殊的局面として現われると指摘し、《経済学の浅薄さは、とりわけ、産業循環の局面転換期の単なる兆候に過ぎない信用の膨張・収縮をこの転換の原因にするということのうちに現われている。》(『資本論』第1巻全集版825頁)と指摘する。

 

 そしてさらに次のようにもいう。

 

  《生産過程の全関連が信用に立脚しているような生産体制においては、急に信用が停止されて、もはや現金払いしか通用しなくなれば、明らかに、恐慌が、支払手段を求めての殺到が、起こらざるをえない。だから、一見したところでは、全恐慌がただ信用恐慌および貨幣恐慌としてのみ現れるのである。そしてじっさい、問題はただ手形の貨幣への転換可能性だけなのである。しかしこれらの手形の多くは現実の売買を表しているのであって、この売買が社会的な必要をはるかにこえて膨張することが、結局は全恐慌の基礎になっているのである。》(『資本論』第3巻同627頁)

 

 つまり現実の再生産過程の構造そのものにすでに破綻が内在しているのに、信用制度がその破綻を覆い隠し、再生産過程の弾力性を極限まて引き延ばしてさらにその破綻を拡大するが、やがてそれは自ずからその限界に突き当たり、破局が現実化する。株価の崩落はその前兆を示すに過ぎないのである。

 

 もちろん、国家信用が崩壊しないかぎり、現代の政府は公信用を拡大して、こうした破局が暴力的に生じることを防ぐことは出来る。しかしいずれにせよ調整は不可避である。政府の介入は、その調整過程を暴力的にではなく、ただ過程をダラダラとした長期の停滞のなかで行うことを可能にするに過ぎない。しかも国家財政の膨大な赤字と引換にである。主要な先進国は総力を上げて、資本の救済に乗り出している。しかし、それは他方で国家破綻の可能性をますます増大させるのみであろう。

 

 貴方も、現象に隠れた本質を見抜くために、是非、『資本論』を読んでみませんか?

 


第8回「『資本論』を読む会」の報告

第8回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

紅葉

 

 秋も深まり紅葉の季節になりました。会場の堺市立南図書館の三階の第一会議室の窓には、紅葉した桜などが色鮮やかに映えています。

 

 「実りの秋」とか「読書の秋」と言われますが、「『資本論』を読む会」には新しい参加者はいまだ現われず、さびしい状態が続いています。残念ながら、実りの時期はいま少し先のようです。

 

 ただ二階の図書館掲示板に備えつけのケースに入れてあった「『資本論』を読む会」の案内は、10枚全部が無くなっており、誰かがそれらを持ち帰ったのでしょう。必ずや何らかの連絡があるものと信じています。

 

 新しい参加者があり、その人の希望によっては、もう一度最初から、『資本論』を始めても良いと私たちは思っています。もっとも新しい参加者がある度に最初に戻っていたら、いつまでたっても先に進めないではないかと、思われるかも知れませんが、それははまあそれで、臨機応変、適切な対処を考えることにしましょう。

 

 是非、多くの皆様のご参加をお待ちしております。

 

◎「労働の二重性」が経済学の理解にとって決定的な点であるとは?

 

 ようやく第2節に入りました。つまり第1節を7回に分けて学習したことになります。何ともゆっくりした進み方ですが、これが私たちのやり方なのです。とにかく徹底して議論するのが、我が「『資本論』を読む会」のモットーなのですから。

 

 まず最初に問題になったのは、マルクスが第一パラグラフで〈労働の二面的性質は、私によって始めて批判的に指摘された〉として、〈この点は、経済学の理解にとって決定的な点であるから、ここで立ち入って説明しておこう〉と述べているのですが、経済学の理解にとってどのように決定的なのかについて何も説明がそのあとにもないのではないか、それをどう理解したらよいのか、という質問がでました。しかしこれについてはズバリとその内容を説明できる人はありませんでした。だから少しマルクスが「労働の二重性」について述べている箇所を調べてみることにしましょう。

 

 まずマルクスが〈私によって始めて批判的に指摘されたものである〉として上げている『経済学批判』の箇所があります。それは次のような部分を指すと思えます。

 

 〈諸商品の交換価値は、じつは同等で一般的な労働としての個々人の労働相互の関係にほかならず、労働の独特な社会的形態の対象的表現にほかならないのであるから、労働は交換価値の、したがってまた富が交換価値から成りたつかぎりでは富の唯一の源泉である、と言うのは同義反復である。自然素材そのものは労働をふくまないから交換価値をふくまず、また交換価値そのものは自然素材をふくんでいないということも、同じ同義反復である。しかしウィリアム・ペティが「労働は富の父であり、大地はその母である」と言い、あるいはバークリ主教が「四原素とそのなかにふくまれる人間の労働が富の真の源泉ではないか?」と問うたとき、あるいはまたアメリカ人Th・クーパーが「試みに一塊のパンからそれについやされた労働を、パン屋、粉挽き屋、小作農等々の労働をとりさってみなさい、あとにいったいなにが残るか? ひとつかみの、野生の、どんな人間にとっても使いものにならない雑草だけだ」とわかりやすく説明したとき、これらすべての見方で問題とされているのは、交換価値の源泉である抽象的労働ではなく、素材的富の一源泉としての具体的労働、つまり使用価値をつくりだすかぎりでの労働である。商品の使用価値が前提されているのだから、商品についやされた労働の特殊な有用性、一定の合目的性が前提されているわけであるが、商品の立場からすれば、これでもって同時に有用労働としての労働にたいするすべての関心は尽きている。使用価値としてのパンにわれわれの関心を起こさせるのは、食料品としてのそれの諸属性であって、小作農、粉晩き屋、パン屋等々の労働ではない。もしなんらかの発明によってこれらの労働の20分の19がはぶかれたとしても、一塊のパンはそれまでと同じ役を果たすであろう。もしもパンができあがったものとして天から降ってきたところで、その使用価値の一片をも失わないであろう。交換価値を生みだす労働は、一般的等価物としての諸商品の同等性のうちに実現されるのにたいして、合目的な生産的活動としての労働は、諸商品の使用価値の無限の多様性のうちに実現される。交換価値を生みだす労働は抽象的な一般的な同等の労働であるのにたいして、使用価値を生みだす労働は、形態と素材とにおうじて際限なくさまざまな労働様式に分かれる具体的な特殊な労働である。

  使用価値をつくりだすかぎりでの労働については、労働が、それによってつくりだされた富、すなわち素材的富の唯一の源泉であると言うのは誤りである。この労働は素材的なものをあれやこれやの目的に充用する活動であるから、それは前提として素材を必要とする。いろいろな使用価値では、労働と自然素材との割合は非常に違っているが、しかし使用価値はいつも自然的基礎をふくんでいる。自然のものをなんらかの形態で取得するための合目的活動としては、労働は人間存在の自然条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の、すべての社会的形態から独立した一条件である。これに反して、交換価値を生みだす労働は、労働の独特な社会的一形態である。たとえば裁縫労働は、特殊な生産的活動としてのその素材的規定性では上着を生産するが、しかし上着の交換価値は生産しない。裁縫労働が上着の交換価値を生産するのは、裁縫労働としてではなくて、抽象的一般的労働としてであり、そしてこの抽象的一般的労働は、裁縫師が縫いあげたのではない一つの社会的関連に属する。だから古代の家内工業では、女子は上着の交換価値を生産することなく、上着を生産した。素材的富の一源泉としての労働は、税関吏アダム・スミスにわかっていたのと同じように、立法者モーセにもわかっていたのである。〉(全集13巻20~22頁、原注は省略、下線はマルクスによる強調)

 

 まあ、これを読んだだけでは、最初の疑問、つまり「労働の二重性」は、なぜ〈経済学の理解にとって決定的な点である〉のかは必ずしも明確ではありません。むしろそれは、引用した少し前の次のような部分から分かるのではないでしょうか。

 

 〈最後に、交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関係が、いわば逆さまに、つまり物と物との社会的関係としてあらわされることである。一つの使用価値が交換価値として他の使用価値に関係するかぎりでだけ、いろいろな人間の労働は同等な一般的な労働として互いに関係させられる。したがって交換価値とは人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、物の外被の下に隠された関係ということをつけくわえなければならない。……(中略)……社会的生産関係が対象の形態をとり、そのために労働における人と人との関係がむしろ物相互の関係および物の人にたいする関係としてあらわされること、このことをあたりまえのこと、自明のことのように思わせるのは、ただ日常生活の習慣にほかならない。商品では、この神秘化はまだきわめて単純である。……(中略)……もっと高度の生産諸関係では、単純性というこの外観は消えうせてしまう。重金主義のすべての錯覚は、貨幣が一つの社会的生産関係を、しかも一定の属性をもつ自然物という形態であらわすということを貨幣から察知しなかった点に由来する。重金主義の錯覚を見くだして嘲り笑う現代の経済学者たちにあっても、彼らがもっと高度の経済学的諸範疇、たとえば資本を取り扱うことになると、たちまち同じ錯覚が暴露される。彼らが不器用に物としてやっとつかまえたと思ったものが、たちまち社会関係として現われ、そして彼らかようやく社会関係として固定してしまったものが、こんどは物として彼らを愚弄する場合に、彼らの素朴な驚嘆の告白のうちに、この錯覚が突然現われるのである。〉(同上19-20頁、同)

 

 だから「労働の二重性」を理解するということは、経済学が対象にする経済的事象とはそもそも何なのかを理解することでもあるのです。だからマルクスは〈この点は、経済学の理解にとって決定的な点であるから、ここで立ち入って説明しておこう〉と述べているのではないでしょうか。

 

 実際、「労働の二重性」は、これから学ぶ『資本論』の各所に(第1巻にも第2巻にも第3巻にも)登場します。しかしそれらは、それらを学ぶときのためにとっておき、前もって紹介するのはやめておきましょう。

 

『経済学批判要綱』における「労働の二重性」への言及

 

 しかし『経済学批判』の前に書かれた、『資本論』の最初の草稿といわれている『経済学批判要綱』では、「労働の二重性」についてどのように論じているのかを見てみることにしましょう。『要綱』でも「労働の二重性」に言及した部分は多いのですが、これまで学習した部分の理解にも役立つと思える部分を一つだけ紹介しておきます。

 

 〈個々人の労働は、生産の行為それ自体の内部で考察すれば、彼が直接に生産物を、かれの特殊な活動の対象を買うための貨幣である。しかしこの貨幣は、まさにこの限定された生産物だけを買う特殊的な貨幣であるにすぎない。直接に一般的貨幣であるためには、個々人の労働は初めから特殊的な労働ではなくて、一般的労働でなければならず、すなわち初めから、一般的生産の分肢として措定されていなければならないであろう。しかしこうしたことが前提されるとすれば、交換によって初めて労働に一般的性格が与えられることにはならず、労働の前提としてなっている共同社会的性格が個々人の生産物への参与の仕方を規定することになろう。生産の共同社会的性格が初めから生産物を共同社会的、一般的なものにすることになろう。本源的に生産の内部で行なわれる交換--諸交換価値の交換ではなくて、共同社会のもろもろの必要によって、共同社会の諸目的によって規定されている諸活動の交換--が、初めから個々人の共同社会的な生産物世界への参与を含んでいるであろう。諸交換価値の基礎の上では、労働は交換を通じて初めて一般的なものとして措定される。上記の〔共同社会的な〕生産の基礎の上では、労働は交換に先立ってそのような一般的労働として措定されているであろう。すなわち諸生産物の交換は、およそ個々人の一般的生産の参加が媒介される媒体ではないであろう。媒介はもちろん行なわれなければならない。個々人の自立した生産から出発する前者の場合には--この自立したもろもろの生産が、それらの相互間の諸関連によって事後的にどれほど規定され、変容を被るにしても--、媒介は、諸商品の交換、交換価値、貨幣--これらはすべて、一個同一の関係の表現である--によって行なわれる。第二の場合には、前提自体が媒介されている。すなわち共同社会的生産、生産の基礎としての共同社会性が前提されている。個々人の労働は初めから社会的労働として措定されている。それゆえ彼がつくり、またつくるのをたすける生産物の特殊的な物質的姿態がどうであろうとも、彼が彼の労働で買ったものは一つの規定された特殊的な生産物ではなくて、共同社会的生産への一定の参加分なのである。したがってまた彼はなんら特殊的な生産物を交換する必要はない。彼の生産物は決して交換価値ではない。生産物は、個々人にとっての一般的性格を受け取るために、まず一つの特殊的な形態に転置される必要はない。諸交換価値の交換において必然的につくりだされる労働の分割〔分業〕にかわって、個々人の共同社会的消費への参加を帰結としてもたらすような一つの労働の有機的組織ができてくるであろう。第一の場合には、生産の社会的性格は、まず諸生産物を諸交換価値に引き上げること、こうした諸交換価値の交換とによって初めて、事後的に措定される。第二の場合には、生産の社会的性格は前提されており、生産物世界への参加、消費への参加は、相互に独立した諸労働または諸労働生産物の交換によって媒介されてはいない。生産の社会的性格は、個人がその内部で活動している社会的な生産諸条件によって媒介されている。〉(『資本論』草稿集第一巻160-161頁、下線はマルクスによる強調)

 

 ながながと引用しましたが、まあ、今回はこれぐらいにします。

 


第9回「『資本論』を読む会」の案内

第9回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 

 

 世界的な金融恐慌は、経済恐慌の様相を深めて、いよいよ現実資本の「価値の破壊」、すなわち倒産や人員整理の段階に突入しつつあります。世界中で労働者の“首切り”の嵐が吹き荒れようとしているのです。

 

 アメリカの自動車産業はいまや“風前の灯火”で、政府に1兆4千億円もの支援をと泣きついています。それは同時に大幅なリストラを意味します。すでにGMは4工場の閉鎖と3工場合わせて2000人の人員削減計画を発表。IBMは最大1万3000人の人員削減、サンマイクロシステムズは6000人、AT&Tは全従業員の約4%に相当する約1万2000人削減、等々、人員削減の記事を追っていくと枚挙に暇がないくらいです。

 

 日本でも自動車関連企業主要十社だけで15000人(トヨタ6000人、日産1500人、ツマダ1400人等々)の削減が予定されています。今は、いわゆる「派遣切り」といわれるように、派遣労働者など非正規雇用の労働者に集中していますが、しかしそれだけに留まる保証は何もありません。

 

 12月4日、東京で2000人の労働者が「派遣を切るな」と決起し、「僕たちにも2009年を迎えさせて下さい」「寮から追い出さないで」「ホームレスにしないで」等々と訴えたといいます(12月5日『朝日』)。また契約を打ち切られたいすずの期間従業員や派遣社員440人のうち有志が解雇撤回を求めて労働組合を結成し、闘いに立ち上がったことも報じられています。まさに労働者階級と資本家階級との死に物狂いの闘いの火蓋が切って落とされたのです。

 

 

(12月5日『朝日』より) 

 

  マルクスは次のように述べています。

 

  〈“わが亡き後に洪水は来たれ! ”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。したがって、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命に対し、何らの顧慮も払わない。肉体的、精神的萎縮、早死、過度労働の拷問に関する苦情に答えて資本家は言う--われらが楽しみ(利潤)を増やすがゆえに、それが何でわれらを苦しめるというのか?と。しかし、全体として見れば、このこともまた、個々の資本家の善意または悪意に依存するものではない。自由競争は、資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家に対して外的な強制法則として通させるのである。〉(『資本論』第1巻全集版23a352-3頁)

 

  だから資本家たちも生き残りをかけて必至の立場に追い込まれているのです。だから労働者はただ団結して自分たちの要求を資本に突きつけて闘うしか、その生活を守り未来を切り開くことはできません。

 

  『資本論』は、資本主義のもとで、労働者が置かれた状態を労働者に自覚させ、彼らこそがこの社会をその労働によって支え動かしていること、彼らこそがこの社会の主人公であり、未来を切り開く力であることを知らせ、その団結と闘いを呼びかけるものです。貴方も、是非、『資本論』を学び、ともに闘いに起ち上がりましょう。

 

 


第9回「『資本論』を読む会」の報告

第9回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎師走の学習会

 

 第9回の「『資本論』を読む会」は、28日の暮れも押し詰まってからの慌ただしい開催となりました。しかし議論は内容の充実したものになり、会場を借りている午後5時近くまで行なったのでした。というわけで、今回はさっそく、議論の紹介に移ることにします。

 

◎各パラグラフの位置づけ

 

 今回は「第二節 商品に表される労働の二重性」の第6パラグラフから、「使用価値と有用労働」を取り上げている最後の第8パラグラフまで学習しましたが、最初に問題になったのは、第6パラグラフと第5パラグラフとの関係でした。この二つのパラグラフはほぼ同じような内容を述べているように思えるのですが、それぞれどういう役割を持っているのかが問題になったのです。そしてそれに関連して、この第二節の前半部分(「使用価値と有用労働」が対象になっている)の各パラグラフのそれぞれの位置づけが問題になりました。

 

 まず第6パラグラフの冒頭が《したがって、われわれは次のことを見てきた。--》という言葉から始まっているところを見ると、この第6パラグラフはそれまで述べてきたことを振り返って、全体の総括を行なっているところと見ることができます。

 

  ではそれはどこからどこまでを振り返っているのかというと、第二節の第1パラグラフと第2パラグラフは第二節全体の導入部分と考えることができますから(第1パラグラフは第一節を振り返り、それを踏まえて、第二節で取り上げる「労働の二重性」の重要性の確認、第2パラグラフは第二節全体で取り上げる二商品〔上着とリンネル〕の具体例の説明)、第6パラグラフで総括しているのは、第3~5パラグラフまでで述べてきたことと考えられます。

 

 まず第6パラグラフの最初の二つの分節は、それぞれ第3パラグラフと第4パラグラフの内容を確認しています。そして最後の分節は、第5パラグラフで確認した内容を違った観点からみていることが分かります。

 

 第3パラグラフは使用価値の分析から入っています。これは第二節の表題が「商品に表される労働の二重性」とあるように、「商品に表される労働」が問題だからです。第1パラグラフでは、第一節で見たように、商品は《使用価値および交換価値として、われわれの前に現われた》ことが確認され、第2パラグラフでは、リンネルと上着が例しとて上げられます。だから第3パラグラフでは使用価値としての上着の考察から入っているわけです。そしてその有用性が使用価値として表されている労働を考察し、それを有用労働と規定します。この観点のもとでは労働は常にその有用効果との関連から考察されます。第4パラグラフでは、使用価値が異なれば、労働も異なることが指摘されます。質的に異なる使用価値は商品の前提であること。第5パラグラフでは、さまざまな種類の使用価値は、多様な有用的労働の総体--社会的分業--を示すことが指摘され、同時に社会的分業は商品の前提だが、その逆は成り立たないこと、商品を生産する分業は「自立的な、互いに独立の、私的労働」にもとづくものであることが明らかにされています。

 

 そして第6パラグラフでは、それらをもう一度確認しているのです。特に《生産物が一般的に商品という形態をとっている社会》とは「資本主義社会」のことですから、資本主義社会では、社会的分業は「一つの多岐的な体制」に発展していることが確認されているわけです。

 

◎「商品生産者の社会」と「商品生産社会」

 

 またこれと関連して、マルクスは《生産物が一般的に商品という形態をとっている社会》を言い換えて、《すなわち商品生産者の社会》と述べていますが、これは「商品生産社会」と同じと考えるべきかどうかが議論になりました。

 

 まずここで《商品生産者》というのは、資本家のことでしょう。ただ第1章では資本関係は捨象されていますから、単に「商品生産者」となっているだけだ、との指摘がありました。

 

 ピースさんは「商品生産社会」「資本主義社会」と対比させ、それは資本主義以前の商品を生産する社会と理解していたと述べましたが、亀仙人は、そもそもマルクス自身は、「商品生産社会」という用語自体を使っていないのではないかと指摘ししました(そして実際、後に『資本論』のテキスト版全体を検索してみたが1~3巻からは「商品生産社会」という用語は一件も検索に引っ掛かりませんでした。またマル・エン全集の事項索引にもありません)。もし「商品生産社会」をマルクスがいうように、《生産物が一般的に商品という形態をとっている社会》という意味で使うなら、それは資本主義社会と同義であるし、その場合は、それを資本主義社会と対比させて、それ以前の商品を生産する社会と理解するなら間違いであろうとも指摘されたのでした。

 

◎「一定の合目的的な生産活動」

 

 このパラグラフでは、どの使用価値にも合目的的な労働が含まれている、しかもそれらが商品として相対するためには、諸使用価値は質的に違った有用労働の生産物でなければならない、ということが言われ、資本主義社会では、それらの質的に違った有用労働が、一つの社会的分業に発展すると言われています。

 

  つまり商品に対象化されている労働は、一定の合目的的な活動であるが、しかしそれは私事であり、その限りで限界のある合目的性であることが分かります。社会主義社会でも、その労働は合目的的であるが、しかしそれはその労働が直接社会的であるが故の合目的性でもあり、その意味では資本主義社会のそれとは異なる側面を持っているわけです。

 

 マルクスは『土地の国有化について』という小論のなかで、将来の社会では《生産手段の国民的集中は、合理的な共同計画に従って意識的に行動する、自由で平等な生産者たちの諸協同組合(諸アソシエーション--引用者)からなる一社会の自然的基礎となるであろう》(全集18巻55頁)と述べていますが、将来の社会主義社会を形成する自由な生産者たちのさまざまなアソシエーションは、生産諸手段相互の物的・技術的関連という「自然的土台」に直接規定されて存在するものなのです。だから資本主義社会における労働の「合目的性」はその限りでは「一定」の限界のあるものです。つまりそれは特定の使用価値を生産するという合目的性であすが、しかしそれらの社会的な関連を直接に持っているわけではない、あるいは意識していない合目的性なのです。

 

 しかし社会主義社会では、生産諸手段の諸使用価値が示す自然的基礎にもとづいて、諸労働は意識的に社会的に関係づけられています。社会主義社会では、どういう使用価値をどれだけ生産するかは、使用価値そのものが示す一定の物質的・技術的関連によって規定され、また最終的な使用価値の実現においてもそれを欲求する人々の合目的な意識性が想定されています。

 

  つまりこのパラグラフは、最初の「一定の合目的的な生産的労働」が、さまざまな有用労働の質的区別をなしているが、しかしそれらは「自立した生産者達の私事として互いに独立に営まれる有用労働」としての、「一定の」制限ある「合目的性」である、というふうに展開されているわけです。

 

◎第7・8パラグラフの位置づけとその内容

 

 次に第7・8パラグラフに入りましたが、ここから若干、内容が変わっていることが確認されましたが、やはりこの二つのパラグラフの全体のなかでの位置づけが問題になりました。

 

  この二つのパラグラフは、いわば第二節の前半で問題になっている「使用価値と有用労働」歴史的な位置づけを論じている部分と考えることができます。

 

  『資本論』の各部・篇・章・節等々の敍述の特徴として言えることは、最初は直接的な表象に現われる現象の分析から入り、その背後にある本質を探り出し、それらの内的関連を明らかにして、最初の諸現象をその本質から展開して説明する(概念を明らかにする)、そして最後に対象となっているカテゴリーの歴史性を示す、という展開が指摘できますが、この第7・8パラグラフは、そうした最後の歴史性を明らかにする部分と考えることができます。

 

  これは例えば「第一章 商品」「第4節 商品の呪物的性格とその秘密」、あるいは「第一部 資本の生産過程」「第8篇 本源的蓄積」(ただしフランス語版の場合)と同じような位置づけをもっていると考えることができる、との指摘がありました。

 

  第7パラグラフでは、特に第6パラグラフまでで論じられている問題と関連させて、使用価値と有用労働の歴史的な性格を論じていると考えることができます。 最初の《上着にとっては、それが裁縫師自身によって着られるか、それとも裁縫師の顧客によって着られるかは、どうでもよいことである。どちらの場合でも、上着は使用価値として作用する》というのは、使用価値のどういう特性をいわんとしているのかが問題になりました。上着にとって、それを誰が着るかはどうでもよい、つまり使用価値として作用する場合の、対象はどういう社会的関係にある存在かは問わない。上着とそれを使用する人との関係は直接的であって、媒介するものは何もない、ということでしょうか。確かにパンを食べる人は、誰であろうが、その行為そのものは生物的な自然的な行為でもあるということでしょう。ただ使用価値によっては、一定の社会的関係を前提する場合もあります。例えば奢侈品は資本家を想定し、労働者の消費は、必要生活手段に限定されている、等々。しかしそれは諸使用価値の特性からというより、それを実際に消費する人間の社会的関係に規定されたものといえます。使用価値そのものは、その有用効果を実現する人間とは直接的な関係をもっており、それは物質代謝そのものであり、その限りでは自然的であるといえます。

 

  次に「同じように」やはり上着という特定の使用価値という立場から問題を見て、今度は《上着とそれを生産する労働との関係》を見ています。つまりその労働がどういう社会的関係の下に支出されるかは、やはり上着そのものにとってはどうでもよいことだというのです。ここで《社会的分業の自立した一分岐となる》というのは、商品を生産する労働ということでしょう。裁縫労働は、商品生産以前からあったということです。

 

  しかし諸使用価値の定在は、自然素材を特殊な欲求に適合させるある一つの特有な目的にそった生産活動が必要でした。ここで《特殊な自然素材を人間の特殊な欲求に適合させるある一つの特有な目的にそった生産活動》というのは、やはり第6パラグラフで出てきた《一定の合目的的な生産的活動》と同義でしょう。

 

  こうした考察を前提に、《だから、労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、あらゆる社会形態から独立した、人間の一存立条件であり、人間と自然との物質代謝を、したがって人間の生活を、媒介する永遠の自然必然性である》ということが結論的に言われているわけです。

 

 つまり最初の使用価値そのものはそれを使う人やそれをつくる人が誰であるか、どういう社会的関係にある人であるかは問わないが、しかし一定の合目的的な労働が含まれていることだけは示しています。だから使用価値を形成する労働は社会的関係を問わないのであり、それは一つの自然必然性なのだ、というのがここでの結論と考えることができます。

 

 これは使用価値の生産とその消費というのは、その限りでは人間が他の動物と共有する自然的な物質代謝活動そのものであって、それは社会関係如何を問わないということです。もっとも「生産」というのは人間に固有のものですが、人間は社会的である前にすでに生産していたといえるのかも知れません。いずれにしても、人間が進化の過程で猿から人間になるにしても、そのあいだもやはり生きていなければならず、そのためには特定の自然素材を自身の欲求に合うように摂取していたことはだけは確かでしょう。

 

 第8パラグラフでは、使用価値は二つの要素(自然素材と労働)の結合であること、しかしこの二つの要素のうち、自然こそが基底であることが指摘されています。《人間は、彼の生産において、自然そのものがやる通りにふるまうことができるだけである。すなわち、素材の形態を変えることができるだけである。それだけではない。形態を変えるこの労働そのものにおいても、人間はたえず自然力に支えられている》

 

 つまり第8パラグラフでは、さらに「使用価値や有用労働」のその基底にあるもの(=自然)を指摘し、そういう意味でそれらが限界づけられていることを明らかにする役割を持っているといえます。またそういう意味で、それらの歴史的性格が示されているとも考えることができるわけです。

 

◎還元主義?

 

 マルクスは注13で、ピエートロ・ヴェッリ『経済学に関する諸考察』からの引用を行なっていますが、そこでは「宇宙のすべての現象は、人間の手によって生み出されようと物理学の一般的諸法則によって生み出されようと、事実上の創造ではなく、単に素材の変形であるにすぎない」と述べています。マルクスはヴェッリが「使用価値」について述べていることを自覚していなかったが、しかしそれは使用価値について本質的なことを述べていると考えて、引用していると考えることができます。しかしこの引用文では、いささか自然還元主義的な内容があるのではないか、という疑問が出されました。

 

 確かに使用価値に表される労働は、ただ自然がやるとおりにふるまうだけであり、ただ「素材の変形」をするだけともいえますが、しかしそれらが「事実上の創造では」ないというのは言い過ぎではないだろうか、という疑問です。というのは、自然にある素材を変形するだけとはいえ、そこには必ず新たな「質」を生み出すという契機が存在しており、ある場合には自然界にも存在しない、「新しい質」を生み出しているともいえるのであり、その限りではそれは「創造」以外の何ものでもないからです。

 

  例えば、パソコンはそれを構成する諸部分に分解して、それぞれの素材を辿れば、さまざまな物的素材をただ変形させただけともいえますが、しかしそうした変形によって明らかに「新しい質」を生み出しており、そうした「新しい質」「新しい使用価値」として、「創造」されたものだということを確認することも重要ではないか、それをただすべて素材に、あるいは自然に分解・還元してしまうなら、それはある種の還元主義ではないか、というのです。

 


第10回「『資本論』を読む会」の案内

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 昨年末、「トヨタショック」が世界を駆け巡った。

 

 11月にトヨタは09年3月期の大幅減益の見通しを発表したが、そのわずか一カ月後、すぐにその見通しを修正して、12月には営業損益が前期実績の2兆2703億円の黒字から一転して1500億円の赤字に転落する見通しを明らかにした。

 

 あの「世界のトヨタ」が苦境に陥っている。欧米メディアはトップニュースで伝えた。「ビックスリー(米自動車3大メーカー)を超えて、最強の自動車メーカーにさえ打撃」(米紙ウォールストリート・ジャーナル)。「日本経済の象徴であるトヨタの不振は、不況が日本経済にいかに打撃を与えているかを示す例になっている」(南ドイツ新聞)(08年12月26日産経)。

 

 昨年9月の米大手金融機関のリーマン・ブラザーズの破産は、「リーマンショック」として、世界を金融恐慌の嵐に巻き込んだが、それに続く「トヨタショック」は、バブルの破綻と金融恐慌の勃発は、単にそれに続く全般的な過剰生産恐慌の先駆けに過ぎなかったことを明らかにしている。

 

 日本の自動車業界は08年の前半は我が世の春を謳歌してきた。円安や新興市場における販売増などの追い風を受けて、2008年の3月期は軒並み増収増益を達成し、その利益体質はまさに磐石のように見えたのである。主要3社の営業利益は、トヨタ自動車が前年比1.4%増の約2.3兆円、日産自動車が1.8%増の約7900億円、ホンダに至っては12%増の約9530億円、それぞれ過去最高益を実現した。しかしそれはただ世界的な信用膨張によるバブル景気に浮かれていただけに過ぎなかった。

 

 今や、各社とも一転して業績予想を大幅に下方修正している。トヨタの幹部は「09年の販売見通しを立てようにも、数字が次から次へと動いて立てられない」と悲鳴を上げているという。

 

 

 

 しかも苦境は、何も自動車業界だけではない。

 

 同じように好景気を謳歌してきた家電業界にも軒並み荒波が押し寄せつつある。ソニー、東芝は09年3月期連結業績が営業赤字へ転落の見通しであり、シャープやパナソニックは液晶パネル工場など巨額の投資が裏目に出ていると指摘されている。さらに自動車業界に鋼板を供給してきた鉄鋼業界も、粗鋼生産量が過去最高を記録した「30年ぶりの春」から、一転して「減産の嵐が吹き荒れている」。

 

 かくして〈ブルジョア的生産のすべての矛盾は、一般的世界市場恐慌において集合的に爆発〉しているのである(『剰余価値学説史』全集26巻672頁)。

 

 恐慌は、この資本主義的生産様式そのものの歴史的限界を暴露するものである。それは何か絶対的な生産様式ではなく、ただ歴史的な発展段階に対応したものでしかないことを、純粋に経済学的な仕方で、すなわちブルジョア的な立場から、示すものである。それは多くの人たちにさまざまな災厄をもたらすが、しかしまさにそのことによって、人類は資本主義社会そのものを乗り越えて進まなければならないこと教えるものなのである。

 

 今、まさに生じつつある世界的な大恐慌を理論的に解明するためにも、是非、貴方も『資本論』を一緒に読んでみませんか。

 



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