目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
第6回「『資本論』を読む会」の報告
第7回「『資本論』を読む会」の案内
第7回「『資本論』を読む会」の報告
第8回「『資本論』を読む会」の案内
第8回「『資本論』を読む会」の報告
第9回「『資本論』を読む会」の案内
第9回「『資本論』を読む会」の報告
第10回「『資本論』を読む会」の案内
第10回「『資本論』を読む会」の報告
第11回「『資本論』を読む会」の案内
第11回「『資本論』を読む会」の報告
第12回「『資本論』を読む会」の案内
第12回「『資本論』を読む会」の報告
第13回「『資本論』を読む会」の案内
第13回「『資本論』を読む会」の報告
第14回「『資本論』を読む会」の案内
第14回「『資本論』を読む会」の報告
第15回「『資本論』を読む会」の案内
第15回「『資本論』を読む会」の報告
第16回「『資本論』を読む会」の案内
第16回「『資本論』を読む会」の報告
第17回「『資本論』を読む会」の案内
第17回「『資本論』を読む会」の報告
第18回「『資本論』を読む会」の案内
第18回「『資本論』を読む会」の報告
第19回「『資本論』を読む会」の案内
第19回「『資本論』を読む会」の報告
第20回「『資本論』を読む会」の案内
第20回「『資本論』を読む会」の報告
第21回「『資本論』を読む会」の案内
第21回「『資本論』を読む会」の報告
第22回「『資本論』を読む会」の案内
第22回「『資本論』を読む会」の報告
第23回「『資本論』を読む会」の案内
第23回「『資本論』を読む会」の報告
第24回「『資本論』を読む会」の案内
第24回「『資本論』を読む会」の報告
第25回「『資本論』を読む会」の案内
第25回「『資本論』を読む会」の報告
第26回「『資本論』を読む会」の案内
第26回「『資本論』を読む会」の報告
第27回「『資本論』を読む会」の案内
第27回「『資本論』を読む会」の報告
第28回「『資本論』を読む会」の案内
第28回「『資本論』を読む会」の報告
第29回「『資本論』を読む会」の案内
第29回「『資本論』を読む会」の報告
第30回「『資本論』を読む会」の案内
第30回「『資本論』を読む会」の報告
第31回「『資本論』を読む会」の案内
第31回「『資本論』を読む会」の報告
第32回「『資本論』を読む会」の案内
第32回「『資本論』を読む会」の報告
第33回「『資本論』を読む会」の案内
第33回「『資本論』を読む会」の報告
第34回「『資本論』を読む会」の案内
第34回「『資本論』を読む会」の報告
第35回「『資本論』を読む会」の案内
第35回「『資本論』を読む会」の報告
第36回「『資本論』を読む会」 の案内
第36回「『資本論』を読む会」の報告
第37回「『資本論』を読む会」の案内
第37回「『資本論』を読む会」の報告
第38回「『資本論』を読む会」の案内
第38回「『資本論』を読む会」の報告
第39回「『資本論』を読む会」の案内
第39回「『資本論』を読む会」の報告
第40回「『資本論』を読む会」の案内
第40回「『資本論』を読む会」の報告
第41回「『資本論』を読む会」の案内
第41回「『資本論』を読む会」の報告
第42回「『資本論』を読む会」の案内
第42回「『資本論』を読む会」の報告
第43回「『資本論』を読む会」の案内
第43回「『資本論』を読む会」の報告
第44回「『資本論』を読む会」の案内
第44回「『資本論』を読む会」の報告
第45回「『資本論』を読む会」の案内
第45回「『資本論』を読む会」の報告
第46回「『資本論』を読む会」の案内
第46回「『資本論』を読む会」の報告
第47回「『資本論』を読む会」の案内
第47回「『資本論』を読む会」の報告
第48回「『資本論』を読む会」の案内
第48回「『資本論』を読む会」の報告
第49回「『資本論』を読む会」の案内
第49回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

閉じる


<<最初から読む

14 / 101ページ

第7回「『資本論』を読む会」の案内

第7回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 

 世界的な金融恐慌が勃発しつつあります。

 

 アメリカのサブプライムローン問題に端を発した世界的な信用収縮は、留まるところを知らず、リーマン・ブラザーズなど米大手金融機関の破綻へと発展し、欧州の金融機関にも波及して、国有化や国家の大幅な介入を招いています。

 

 9月29日のニューヨークの株式市場は777ドルという史上最大の下げ幅を記録しました。

 金融危機対策としてブッシュ政権が打ち出した緊急経済安定化法案を米議会下院が否決したからです。

 最大7千億ドル(約75兆円)の公的資金で金融機関の不良債権を買い取るというものですが、「金持ち優遇」「ボロ儲けのツケを国民に押しつけるな」という圧倒的な国民の批判の前に、与党の共和党議員でさえ7割近くも造反する有り様。

 

 しかしこれは当然です。これまでことあるごとに、“新自由主義”の理念を振りかざし、「小さな政府」を呼号し、自己責任を云々して、弱者を切り捨ててきたのですから、今更、泡銭に群がって荒稼ぎしてきた連中が、そのツケを払わされる段になって、政府に泣きつき救済せよなどというのは虫が良すぎます。

 

 というわけで、アメリカの金融危機はますます深刻の度を加えつつあります。世界経済の牽引役を果たしてきたアメリカ経済の破綻は、単にアメリカ一国に留まらず、世界的な経済恐慌へと発展しかねません。世界のブルジョアジーが震え上がり、米政府のみならず欧米や日本の政府が救済に必死になる所以でもあります。

 

 こうした金融恐慌や経済恐慌はどうして起こってくるのでしょうか。世界の資本家たちは何度もそれを経験しながら、やはりそれを繰り返すしか能がありません。

 

 マルクスは《世界市場恐慌は、ブルジョア的経済のあらゆる矛盾の現実的総括および暴力的調整としてつかまなければならない》(『学説史』II689頁)と述べています。

 

 そして恐慌は、資本主義的生産様式そのものの歴史的な限界を示すものだとも指摘しています。

 

 《尖鋭な諸矛盾、恐慌、痙攣においてこそ、社会の豊かな発展にとってはその従来の生産諸関係が、ますます適合しなくなったことが示される。資本にとって外的な諸関係を通じてではなく、資本の自己維持の条件としての資本の暴力的な破壊は、去って社会的生産のより高い段階に席を譲れと言う資本に対する忠告の最も適格な形態である。》(『経済学批判要綱』高木訳IV702頁)

 

 『資本論』はある意味では、どうして資本主義社会では恐慌が繰り返されるのか、それは歴史的にはどういう意味があるのか、を明らかにするために書かれていると言っても過言ではありません。

 

 貴方も、是非、現在の世界的な金融危機を解明するためにも『資本論』を読んでみませんか?

 


第7回「『資本論』を読む会」の報告

第7回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎ポスターも作成

 

  “天高く馬肥ゆる秋”と言いますが、第7回の「『資本論』を読む会」の開催日も、天高く秋晴れの好天日でした。

 

  ところが“紅一点”のクミさんは季節外れのインフルエンザに罹ったとかでお休み。寂しい開催となりました。

 

  おまけに、われわれ以外には、会場を使う人も少ないのか、全体にガランとして侘しさがつのります。

 

  今回、我が「『資本論』を読む会」はポスターを作成しました(写真参照)。

 

 というのはどうやら図書館の掲示板にポスターを貼り出してもらえそうだとピースさんが提案したからです。さっそく、埼玉の「所沢・『資本論』を読む会」のポスターが迫力があるので利用させてもらうことにし、連絡して送ってもらい、それを加工してつくりました。なかなかよいポスターが出来たと思ったのですが、残念ながら、図書館の掲示板には掲載できないとのことでした。掲載するのは、図書館が後援したり、支援する団体に限っているのだそうです。しかしわれわれの案内ビラを入れる箱を作ってくれるなど協力的なので、作ったポスター(A4)もそこに入れていたところ、さっそく無くなっていたので、持ち帰る人があったのだと思います。

 

  今後も案内ビラとポスターを裏表に印刷して、ボックスに入れておくことにしました。

 

 

◎金やダイヤモンドは価値どおりに支払われていない?

 

 今回は第16パラグラフから第1節の終わりまで進みました。テキストに入る前に、前回の「報告」に関連して、「抽象的人間労働」の概念について、それは歴史的なものなのか、それとも歴史貫通的なものなのか、という議論が行われたのですが、これは次の第2節でも必ずと言ってよいほど議論になる問題なので、ここではその報告は割愛します。

 

 今回はテキストは比較的進捗したのですが、それはあまりゴチャゴチャした議論が無かったからでもあります。しかしそのなかでも議論になったのは第17パラグラフでした。

 

 ここではマルクスは《ある一つの商品の生産に必要とされる労働時間が不変であれば、その商品の価値の大きさは不変のままであろう。しかし、その労働時間は、労働の生産力が変動するたびに、それにつれて変動する》と述べて、《労働の生産力》を規定する諸事情については色々とあるとしながら、とりわけ、(1)《労働者の熟練の平均度》(2)《科学とその工学的応用可能性との発展段階》(3)《生産過程の社会的結合》(4)《生産手段の規模とその作用能力》(5)《自然諸関係によって、規定される》としています。

 

 まずここで、上げられている生産力を規定する五つの事情について、それぞれ具体的にはどういうものが考えられるかについて議論になりました。

 

 例えば、「協業」や「分業」などによる生産力のアップはどれに入るのか、という問題がピースさんから出され、それはやはり(3)に入るのではないかということになりました。

 

 しかし、それに対しては亀仙人から、コンビナートなどのようなさまざまな産業分野が有機的に結合されるような場合はどうか、という質問も出されました。後者もゅ(2)や(4)の要素もあるように思うが、どちらかというと(3)に入る感じがするが、しかしそうなると両者はかなり内容的に違う感じもするわけで、果たしてどう考えたらよいのかという疑問だったと思います。これは未解決です。

 

 次にマルクスは価値の大きさを規定する労働時間は生産力によって規定されるとし、その生産力を規定する事情はさまざまあるとしながら、そのあとにそのことの例として書いていること--《たとえば、同じ量の労働でも、豊作の時には八ブッシェルの小麦に表され、凶作の時にはただ四ブッシェルの小麦に表されるにすぎない。同じ量の労働でも、豊かな鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を供給する、等々》--は、すべて(5)の《自然諸関係》に関連するものばかりではないか、その点、展開としては疑問がある、との指摘がありました(ただこれについては、そのあとの議論のなかでマルクスが《もしもほんのわずかの労働で石炭をダイヤモンドに変えることに成功すれば、ダイヤモンドの価値はレンガの価値以下になりうる》と述べている例は(2)の《科学とその工学的応用可能性との発展段階》に該当するだろうとの指摘はありました)。

 

 さらに問題になったのは、そのあとでマルクスが金とダイヤモンドの例を上げて述べていることです。まず引用しておきましょう。

 

 《ダイヤモンドは地表にはめったにみられないので、その発見には平均的に多くの労働時間が費やされる。そのため、ダイヤモンドはわずかな体積で多くの労働を表すことになる。ジェイコブは、金がかつてその全価値を支払われたことがあるかどうかを、疑っている。このことは、ダイヤモンドにはいっそうよくあてはまる。エッシュヴェーゲによれば、一八二三年の時点で、ブラジルのダイヤモンド鉱山の過去八〇年間の総産出高は、ブラジルの砂糖農園またはコーヒー農園の一年半分の平均生産物の価格にも達していなかった。ダイヤモンドの総産出高がはるかにより多くの労働を、したがって、より多くの価値を表していたにもかかわらず、そうだったのである。》(全集版s.54-55)

 

 つまりダイヤモンドは小さな体積で多くの労働を表し、だから小さなダイヤでも恐ろしく高いものだが、しかしマルクスがここで述べていることは、そういうことだけではなく、だから実際には、ダイヤモンドはその価値どおりには支払われたためしはない、ということのようである。つまりダイヤモンドは実際に売買されているよりももっと高価なものなのだ、とでも言いたいかである。

 

  しかしこれは果たして事実なのかどうかがまず疑問として出されました。そして、もしそれが事実なら、それは生産力が商品の価値を規定する例としては、むしろダイヤモンドは例外だということではないのか、それともここでマルクスが言いたいのは、ダイヤモンドの価格はその価値から乖離して売買されているということであろうか、もしそうならそれはどんな理由によるのか、ただ価値があまりにも膨大すぎるからなのか、そもそもそんなことをここで論じる意義が果たしてあるのか、という疑問が出されました。この疑問も解決されていません。

 

◎価値であることなしに、使用価値である、商品であることになしに、有用である

 

 次は最後の第18パラグラフが問題になりました。まず引用しておきましょう。

 

 《ある物は、価値であることなしに、使用価値でありえる。人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合がそれである。たとえば、空気、処女地、自然の草原、原生林などがそうである。ある物は、商品であることなしに、有用であり、人間労働の生産物でありえる。自分の生産物によって自分自身の欲求を満たす人は、たしかに使用価値を作りだすが、商品を作りだしはしない。商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない。》(s.55)

 

 ここでまず最初に《ある物は、価値であることなしに、使用価値でありえる》例として、マルクスは《人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合がそれであり。たとえば、空気、処女地、自然の草原、原生林などがそうである》と説明しているが、しかしその説明だとむしろ〈ある物は、労働生産物であることになしに、使用価値でありえる〉とすべきではないのか、という意見が出されました。

 

  というのは、その次にマルクスは《ある物は、商品であることなしに、有用であり、人間労働の生産物でありえる》と述べているからです。つまり今度は労働生産物であり、有用なものだが、商品ではない、すなわち価値ではないものを例として上げています。だから順序としては、まず最初に使用価値はあるが、労働生産物ではないもの、そしてその次は労働生産物であり、使用価値ではあるが、価値でないものを上げるというのが順序としてはよい様に思うというのです。

 

  しかしこれに対しては、マルクスはここでは《ある物が、価値である》とは、そもそもどういう場合かを論じるために書いているのであって、だから最初から《ある物が、価値であることなしに、……》と書きはじめているのは、これでよいのだ、という意見もでました。

 

 またエンゲルスが先に引用した文章に続けて、次の様な注を挿入していることについても少し意見がでました。

 

 《(しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は、封建領主のために年貢の穀物を生産し、僧侶のために十分の一税の穀物を生産した。しかし、年貢穀物も十分の一税穀物も、それらが他人のために生産されたということによっては、商品にはならなかった。商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手に、交換を通して移譲されなければならない)》(同)

 

 ここでマルクスは《商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない》と述べているだけであって、《他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産》したもの、その生産物はすべて商品になるとは言っていないのだから、エンゲルスの注は不要である、との意見がでました。しかし他方で、まあエンゲルスが注で書いているように、「誤解」を取り除くためなのだから、別に良いのではないかという意見もでました。

 

 全体に議論としては淡白でしたが、これは天気が良すぎたからか、まあ、こんな学習会もあるということです。

 


第8回「『資本論』を読む会」の案内

第8回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 株価が激しい乱高下を繰り返しながら暴落し続け、10月24日の東京株式市場の日経平均株価は8000円を大きく割り込み、03年のバブル後の最安値とほんとど同じ状態に戻ってしまった。

 

 

 こうした株価の低迷が実体経済に影響を及ぼし、深刻な経済停滞が予想されるとマスコミでは報じている。

 

 なるほど現象的にはそうではある。しかし現象は必ずしも本質を示すわけではない。現象的には金融の破綻が株式の暴落をもたらし、それが実体経済にも影響及ぼして深刻な不況と停滞をもたらしつつあるかにみえる。

 

  しかし本質的な関係はその逆である。マルクスは貨幣・金融恐慌は一般的な生産恐慌の特殊的局面として現われると指摘し、《経済学の浅薄さは、とりわけ、産業循環の局面転換期の単なる兆候に過ぎない信用の膨張・収縮をこの転換の原因にするということのうちに現われている。》(『資本論』第1巻全集版825頁)と指摘する。

 

 そしてさらに次のようにもいう。

 

  《生産過程の全関連が信用に立脚しているような生産体制においては、急に信用が停止されて、もはや現金払いしか通用しなくなれば、明らかに、恐慌が、支払手段を求めての殺到が、起こらざるをえない。だから、一見したところでは、全恐慌がただ信用恐慌および貨幣恐慌としてのみ現れるのである。そしてじっさい、問題はただ手形の貨幣への転換可能性だけなのである。しかしこれらの手形の多くは現実の売買を表しているのであって、この売買が社会的な必要をはるかにこえて膨張することが、結局は全恐慌の基礎になっているのである。》(『資本論』第3巻同627頁)

 

 つまり現実の再生産過程の構造そのものにすでに破綻が内在しているのに、信用制度がその破綻を覆い隠し、再生産過程の弾力性を極限まて引き延ばしてさらにその破綻を拡大するが、やがてそれは自ずからその限界に突き当たり、破局が現実化する。株価の崩落はその前兆を示すに過ぎないのである。

 

 もちろん、国家信用が崩壊しないかぎり、現代の政府は公信用を拡大して、こうした破局が暴力的に生じることを防ぐことは出来る。しかしいずれにせよ調整は不可避である。政府の介入は、その調整過程を暴力的にではなく、ただ過程をダラダラとした長期の停滞のなかで行うことを可能にするに過ぎない。しかも国家財政の膨大な赤字と引換にである。主要な先進国は総力を上げて、資本の救済に乗り出している。しかし、それは他方で国家破綻の可能性をますます増大させるのみであろう。

 

 貴方も、現象に隠れた本質を見抜くために、是非、『資本論』を読んでみませんか?

 


第8回「『資本論』を読む会」の報告

第8回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

紅葉

 

 秋も深まり紅葉の季節になりました。会場の堺市立南図書館の三階の第一会議室の窓には、紅葉した桜などが色鮮やかに映えています。

 

 「実りの秋」とか「読書の秋」と言われますが、「『資本論』を読む会」には新しい参加者はいまだ現われず、さびしい状態が続いています。残念ながら、実りの時期はいま少し先のようです。

 

 ただ二階の図書館掲示板に備えつけのケースに入れてあった「『資本論』を読む会」の案内は、10枚全部が無くなっており、誰かがそれらを持ち帰ったのでしょう。必ずや何らかの連絡があるものと信じています。

 

 新しい参加者があり、その人の希望によっては、もう一度最初から、『資本論』を始めても良いと私たちは思っています。もっとも新しい参加者がある度に最初に戻っていたら、いつまでたっても先に進めないではないかと、思われるかも知れませんが、それははまあそれで、臨機応変、適切な対処を考えることにしましょう。

 

 是非、多くの皆様のご参加をお待ちしております。

 

◎「労働の二重性」が経済学の理解にとって決定的な点であるとは?

 

 ようやく第2節に入りました。つまり第1節を7回に分けて学習したことになります。何ともゆっくりした進み方ですが、これが私たちのやり方なのです。とにかく徹底して議論するのが、我が「『資本論』を読む会」のモットーなのですから。

 

 まず最初に問題になったのは、マルクスが第一パラグラフで〈労働の二面的性質は、私によって始めて批判的に指摘された〉として、〈この点は、経済学の理解にとって決定的な点であるから、ここで立ち入って説明しておこう〉と述べているのですが、経済学の理解にとってどのように決定的なのかについて何も説明がそのあとにもないのではないか、それをどう理解したらよいのか、という質問がでました。しかしこれについてはズバリとその内容を説明できる人はありませんでした。だから少しマルクスが「労働の二重性」について述べている箇所を調べてみることにしましょう。

 

 まずマルクスが〈私によって始めて批判的に指摘されたものである〉として上げている『経済学批判』の箇所があります。それは次のような部分を指すと思えます。

 

 〈諸商品の交換価値は、じつは同等で一般的な労働としての個々人の労働相互の関係にほかならず、労働の独特な社会的形態の対象的表現にほかならないのであるから、労働は交換価値の、したがってまた富が交換価値から成りたつかぎりでは富の唯一の源泉である、と言うのは同義反復である。自然素材そのものは労働をふくまないから交換価値をふくまず、また交換価値そのものは自然素材をふくんでいないということも、同じ同義反復である。しかしウィリアム・ペティが「労働は富の父であり、大地はその母である」と言い、あるいはバークリ主教が「四原素とそのなかにふくまれる人間の労働が富の真の源泉ではないか?」と問うたとき、あるいはまたアメリカ人Th・クーパーが「試みに一塊のパンからそれについやされた労働を、パン屋、粉挽き屋、小作農等々の労働をとりさってみなさい、あとにいったいなにが残るか? ひとつかみの、野生の、どんな人間にとっても使いものにならない雑草だけだ」とわかりやすく説明したとき、これらすべての見方で問題とされているのは、交換価値の源泉である抽象的労働ではなく、素材的富の一源泉としての具体的労働、つまり使用価値をつくりだすかぎりでの労働である。商品の使用価値が前提されているのだから、商品についやされた労働の特殊な有用性、一定の合目的性が前提されているわけであるが、商品の立場からすれば、これでもって同時に有用労働としての労働にたいするすべての関心は尽きている。使用価値としてのパンにわれわれの関心を起こさせるのは、食料品としてのそれの諸属性であって、小作農、粉晩き屋、パン屋等々の労働ではない。もしなんらかの発明によってこれらの労働の20分の19がはぶかれたとしても、一塊のパンはそれまでと同じ役を果たすであろう。もしもパンができあがったものとして天から降ってきたところで、その使用価値の一片をも失わないであろう。交換価値を生みだす労働は、一般的等価物としての諸商品の同等性のうちに実現されるのにたいして、合目的な生産的活動としての労働は、諸商品の使用価値の無限の多様性のうちに実現される。交換価値を生みだす労働は抽象的な一般的な同等の労働であるのにたいして、使用価値を生みだす労働は、形態と素材とにおうじて際限なくさまざまな労働様式に分かれる具体的な特殊な労働である。

  使用価値をつくりだすかぎりでの労働については、労働が、それによってつくりだされた富、すなわち素材的富の唯一の源泉であると言うのは誤りである。この労働は素材的なものをあれやこれやの目的に充用する活動であるから、それは前提として素材を必要とする。いろいろな使用価値では、労働と自然素材との割合は非常に違っているが、しかし使用価値はいつも自然的基礎をふくんでいる。自然のものをなんらかの形態で取得するための合目的活動としては、労働は人間存在の自然条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の、すべての社会的形態から独立した一条件である。これに反して、交換価値を生みだす労働は、労働の独特な社会的一形態である。たとえば裁縫労働は、特殊な生産的活動としてのその素材的規定性では上着を生産するが、しかし上着の交換価値は生産しない。裁縫労働が上着の交換価値を生産するのは、裁縫労働としてではなくて、抽象的一般的労働としてであり、そしてこの抽象的一般的労働は、裁縫師が縫いあげたのではない一つの社会的関連に属する。だから古代の家内工業では、女子は上着の交換価値を生産することなく、上着を生産した。素材的富の一源泉としての労働は、税関吏アダム・スミスにわかっていたのと同じように、立法者モーセにもわかっていたのである。〉(全集13巻20~22頁、原注は省略、下線はマルクスによる強調)

 

 まあ、これを読んだだけでは、最初の疑問、つまり「労働の二重性」は、なぜ〈経済学の理解にとって決定的な点である〉のかは必ずしも明確ではありません。むしろそれは、引用した少し前の次のような部分から分かるのではないでしょうか。

 

 〈最後に、交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関係が、いわば逆さまに、つまり物と物との社会的関係としてあらわされることである。一つの使用価値が交換価値として他の使用価値に関係するかぎりでだけ、いろいろな人間の労働は同等な一般的な労働として互いに関係させられる。したがって交換価値とは人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、物の外被の下に隠された関係ということをつけくわえなければならない。……(中略)……社会的生産関係が対象の形態をとり、そのために労働における人と人との関係がむしろ物相互の関係および物の人にたいする関係としてあらわされること、このことをあたりまえのこと、自明のことのように思わせるのは、ただ日常生活の習慣にほかならない。商品では、この神秘化はまだきわめて単純である。……(中略)……もっと高度の生産諸関係では、単純性というこの外観は消えうせてしまう。重金主義のすべての錯覚は、貨幣が一つの社会的生産関係を、しかも一定の属性をもつ自然物という形態であらわすということを貨幣から察知しなかった点に由来する。重金主義の錯覚を見くだして嘲り笑う現代の経済学者たちにあっても、彼らがもっと高度の経済学的諸範疇、たとえば資本を取り扱うことになると、たちまち同じ錯覚が暴露される。彼らが不器用に物としてやっとつかまえたと思ったものが、たちまち社会関係として現われ、そして彼らかようやく社会関係として固定してしまったものが、こんどは物として彼らを愚弄する場合に、彼らの素朴な驚嘆の告白のうちに、この錯覚が突然現われるのである。〉(同上19-20頁、同)

 

 だから「労働の二重性」を理解するということは、経済学が対象にする経済的事象とはそもそも何なのかを理解することでもあるのです。だからマルクスは〈この点は、経済学の理解にとって決定的な点であるから、ここで立ち入って説明しておこう〉と述べているのではないでしょうか。

 

 実際、「労働の二重性」は、これから学ぶ『資本論』の各所に(第1巻にも第2巻にも第3巻にも)登場します。しかしそれらは、それらを学ぶときのためにとっておき、前もって紹介するのはやめておきましょう。

 

『経済学批判要綱』における「労働の二重性」への言及

 

 しかし『経済学批判』の前に書かれた、『資本論』の最初の草稿といわれている『経済学批判要綱』では、「労働の二重性」についてどのように論じているのかを見てみることにしましょう。『要綱』でも「労働の二重性」に言及した部分は多いのですが、これまで学習した部分の理解にも役立つと思える部分を一つだけ紹介しておきます。

 

 〈個々人の労働は、生産の行為それ自体の内部で考察すれば、彼が直接に生産物を、かれの特殊な活動の対象を買うための貨幣である。しかしこの貨幣は、まさにこの限定された生産物だけを買う特殊的な貨幣であるにすぎない。直接に一般的貨幣であるためには、個々人の労働は初めから特殊的な労働ではなくて、一般的労働でなければならず、すなわち初めから、一般的生産の分肢として措定されていなければならないであろう。しかしこうしたことが前提されるとすれば、交換によって初めて労働に一般的性格が与えられることにはならず、労働の前提としてなっている共同社会的性格が個々人の生産物への参与の仕方を規定することになろう。生産の共同社会的性格が初めから生産物を共同社会的、一般的なものにすることになろう。本源的に生産の内部で行なわれる交換--諸交換価値の交換ではなくて、共同社会のもろもろの必要によって、共同社会の諸目的によって規定されている諸活動の交換--が、初めから個々人の共同社会的な生産物世界への参与を含んでいるであろう。諸交換価値の基礎の上では、労働は交換を通じて初めて一般的なものとして措定される。上記の〔共同社会的な〕生産の基礎の上では、労働は交換に先立ってそのような一般的労働として措定されているであろう。すなわち諸生産物の交換は、およそ個々人の一般的生産の参加が媒介される媒体ではないであろう。媒介はもちろん行なわれなければならない。個々人の自立した生産から出発する前者の場合には--この自立したもろもろの生産が、それらの相互間の諸関連によって事後的にどれほど規定され、変容を被るにしても--、媒介は、諸商品の交換、交換価値、貨幣--これらはすべて、一個同一の関係の表現である--によって行なわれる。第二の場合には、前提自体が媒介されている。すなわち共同社会的生産、生産の基礎としての共同社会性が前提されている。個々人の労働は初めから社会的労働として措定されている。それゆえ彼がつくり、またつくるのをたすける生産物の特殊的な物質的姿態がどうであろうとも、彼が彼の労働で買ったものは一つの規定された特殊的な生産物ではなくて、共同社会的生産への一定の参加分なのである。したがってまた彼はなんら特殊的な生産物を交換する必要はない。彼の生産物は決して交換価値ではない。生産物は、個々人にとっての一般的性格を受け取るために、まず一つの特殊的な形態に転置される必要はない。諸交換価値の交換において必然的につくりだされる労働の分割〔分業〕にかわって、個々人の共同社会的消費への参加を帰結としてもたらすような一つの労働の有機的組織ができてくるであろう。第一の場合には、生産の社会的性格は、まず諸生産物を諸交換価値に引き上げること、こうした諸交換価値の交換とによって初めて、事後的に措定される。第二の場合には、生産の社会的性格は前提されており、生産物世界への参加、消費への参加は、相互に独立した諸労働または諸労働生産物の交換によって媒介されてはいない。生産の社会的性格は、個人がその内部で活動している社会的な生産諸条件によって媒介されている。〉(『資本論』草稿集第一巻160-161頁、下線はマルクスによる強調)

 

 ながながと引用しましたが、まあ、今回はこれぐらいにします。

 


第9回「『資本論』を読む会」の案内

第9回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 

 

 世界的な金融恐慌は、経済恐慌の様相を深めて、いよいよ現実資本の「価値の破壊」、すなわち倒産や人員整理の段階に突入しつつあります。世界中で労働者の“首切り”の嵐が吹き荒れようとしているのです。

 

 アメリカの自動車産業はいまや“風前の灯火”で、政府に1兆4千億円もの支援をと泣きついています。それは同時に大幅なリストラを意味します。すでにGMは4工場の閉鎖と3工場合わせて2000人の人員削減計画を発表。IBMは最大1万3000人の人員削減、サンマイクロシステムズは6000人、AT&Tは全従業員の約4%に相当する約1万2000人削減、等々、人員削減の記事を追っていくと枚挙に暇がないくらいです。

 

 日本でも自動車関連企業主要十社だけで15000人(トヨタ6000人、日産1500人、ツマダ1400人等々)の削減が予定されています。今は、いわゆる「派遣切り」といわれるように、派遣労働者など非正規雇用の労働者に集中していますが、しかしそれだけに留まる保証は何もありません。

 

 12月4日、東京で2000人の労働者が「派遣を切るな」と決起し、「僕たちにも2009年を迎えさせて下さい」「寮から追い出さないで」「ホームレスにしないで」等々と訴えたといいます(12月5日『朝日』)。また契約を打ち切られたいすずの期間従業員や派遣社員440人のうち有志が解雇撤回を求めて労働組合を結成し、闘いに立ち上がったことも報じられています。まさに労働者階級と資本家階級との死に物狂いの闘いの火蓋が切って落とされたのです。

 

 

(12月5日『朝日』より) 

 

  マルクスは次のように述べています。

 

  〈“わが亡き後に洪水は来たれ! ”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。したがって、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命に対し、何らの顧慮も払わない。肉体的、精神的萎縮、早死、過度労働の拷問に関する苦情に答えて資本家は言う--われらが楽しみ(利潤)を増やすがゆえに、それが何でわれらを苦しめるというのか?と。しかし、全体として見れば、このこともまた、個々の資本家の善意または悪意に依存するものではない。自由競争は、資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家に対して外的な強制法則として通させるのである。〉(『資本論』第1巻全集版23a352-3頁)

 

  だから資本家たちも生き残りをかけて必至の立場に追い込まれているのです。だから労働者はただ団結して自分たちの要求を資本に突きつけて闘うしか、その生活を守り未来を切り開くことはできません。

 

  『資本論』は、資本主義のもとで、労働者が置かれた状態を労働者に自覚させ、彼らこそがこの社会をその労働によって支え動かしていること、彼らこそがこの社会の主人公であり、未来を切り開く力であることを知らせ、その団結と闘いを呼びかけるものです。貴方も、是非、『資本論』を学び、ともに闘いに起ち上がりましょう。

 

 



読者登録

亀仙人さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について