目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
第6回「『資本論』を読む会」の報告
第7回「『資本論』を読む会」の案内
第7回「『資本論』を読む会」の報告
第8回「『資本論』を読む会」の案内
第8回「『資本論』を読む会」の報告
第9回「『資本論』を読む会」の案内
第9回「『資本論』を読む会」の報告
第10回「『資本論』を読む会」の案内
第10回「『資本論』を読む会」の報告
第11回「『資本論』を読む会」の案内
第11回「『資本論』を読む会」の報告
第12回「『資本論』を読む会」の案内
第12回「『資本論』を読む会」の報告
第13回「『資本論』を読む会」の案内
第13回「『資本論』を読む会」の報告
第14回「『資本論』を読む会」の案内
第14回「『資本論』を読む会」の報告
第15回「『資本論』を読む会」の案内
第15回「『資本論』を読む会」の報告
第16回「『資本論』を読む会」の案内
第16回「『資本論』を読む会」の報告
第17回「『資本論』を読む会」の案内
第17回「『資本論』を読む会」の報告
第18回「『資本論』を読む会」の案内
第18回「『資本論』を読む会」の報告
第19回「『資本論』を読む会」の案内
第19回「『資本論』を読む会」の報告
第20回「『資本論』を読む会」の案内
第20回「『資本論』を読む会」の報告
第21回「『資本論』を読む会」の案内
第21回「『資本論』を読む会」の報告
第22回「『資本論』を読む会」の案内
第22回「『資本論』を読む会」の報告
第23回「『資本論』を読む会」の案内
第23回「『資本論』を読む会」の報告
第24回「『資本論』を読む会」の案内
第24回「『資本論』を読む会」の報告
第25回「『資本論』を読む会」の案内
第25回「『資本論』を読む会」の報告
第26回「『資本論』を読む会」の案内
第26回「『資本論』を読む会」の報告
第27回「『資本論』を読む会」の案内
第27回「『資本論』を読む会」の報告
第28回「『資本論』を読む会」の案内
第28回「『資本論』を読む会」の報告
第29回「『資本論』を読む会」の案内
第29回「『資本論』を読む会」の報告
第30回「『資本論』を読む会」の案内
第30回「『資本論』を読む会」の報告
第31回「『資本論』を読む会」の案内
第31回「『資本論』を読む会」の報告
第32回「『資本論』を読む会」の案内
第32回「『資本論』を読む会」の報告
第33回「『資本論』を読む会」の案内
第33回「『資本論』を読む会」の報告
第34回「『資本論』を読む会」の案内
第34回「『資本論』を読む会」の報告
第35回「『資本論』を読む会」の案内
第35回「『資本論』を読む会」の報告
第36回「『資本論』を読む会」 の案内
第36回「『資本論』を読む会」の報告
第37回「『資本論』を読む会」の案内
第37回「『資本論』を読む会」の報告
第38回「『資本論』を読む会」の案内
第38回「『資本論』を読む会」の報告
第39回「『資本論』を読む会」の案内
第39回「『資本論』を読む会」の報告
第40回「『資本論』を読む会」の案内
第40回「『資本論』を読む会」の報告
第41回「『資本論』を読む会」の案内
第41回「『資本論』を読む会」の報告
第42回「『資本論』を読む会」の案内
第42回「『資本論』を読む会」の報告
第43回「『資本論』を読む会」の案内
第43回「『資本論』を読む会」の報告
第44回「『資本論』を読む会」の案内
第44回「『資本論』を読む会」の報告
第45回「『資本論』を読む会」の案内
第45回「『資本論』を読む会」の報告
第46回「『資本論』を読む会」の案内
第46回「『資本論』を読む会」の報告
第47回「『資本論』を読む会」の案内
第47回「『資本論』を読む会」の報告
第48回「『資本論』を読む会」の案内
第48回「『資本論』を読む会」の報告
第49回「『資本論』を読む会」の案内
第49回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

閉じる


<<最初から読む

12 / 101ページ

第6回「『資本論』を読む会」の案内

第6回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 福田首相があっさりと政権を投げ出し、自公政権は混迷を深めている。  もはや、さっさと解散・総選挙でも行い、政権交代でも何でもやってもらいたいものだ。

 

 景気後退が顕著になるなかで、政府は小泉政権が掲げた「構造改革路線」を転換し、財政膨張に依存した“景気浮揚策”へと後戻りしつつある。福田内閣が8月末にまとめた「総合経済対策」(事業規模11.7兆円、08年度補正1.8兆円)がそれだ。

 

 もし福田首相の後を、麻生太郎自民党幹事長が引き継ぐなら、財政の膨張はより一層野放図になるであろう。麻生氏は、幹事長就任後、「景気がその気になるまで、財政出動以外に手はない」(『朝日』9月2日)などと公言してきたからである。

 

 しかし日本の国家的債務は国・地方合わせて約1000兆円(実質GDPのほぼ倍!)と言われ、平成20年度の公債残高は約553兆円(国民一人当たり約433万円)である。これではほとんど国家的破産に近いといわなければならない。

 

 マルクスは国債制度は資本主義が歴史的に生まれてくる上で重要な役割を果たした、と次のように指摘している。

 

  《公債は本源的蓄積の最も強力なテコの一つとなる。それは、魔法の杖を振るかのように、不妊の貨幣に生殖力を与えてそれを資本に転化させ、そのためには貨幣は産業的投資や高利貸し的投資にさえつきものの骨折りや危険を犯す必要はない。国家に対する債権者は現実には何も与えはしない。というのは、貸しつけた金額は、容易に譲渡されうる公債証書に転化され、それは、ちょうどそれと同じ額の現金であるかのように、彼らの手中で機能し続けるからである。しかも、このようにして生み出される有閑金利生活者の階級や、政府と国民とのあいだに立って仲介者の役割を演じる金融業者たちの即製の富を別としても……国債は、株式会社やあらゆる種類の有価証券の取り引きや株式売買を、一言で言えば、取引所投機と近代的銀行支配とを、勃興させたのである。》(『資本論』第1部第24章、全集23b984-5頁)

 

 そして今日の公債制度、すなわち国債制度は、今度は、資本主義延命の「最も強力なテコの一つ」である。資本はさまざまな経済危機を国家に依存して、その財政や信用の膨張に依存して切り抜けてきた、その結果が、今日の膨大な国家的債務の累増なのだ。

 

 そしてその行き着く先は、国家の破綻か戦争か、それとも猛烈なインフレか、あるいは国民への徹底した重税かに帰着するしかない。いずれにしてもすべての負担は国民に転嫁される!

 

 だから労働者はこうした無責任な“景気浮揚策”などは御免である。この社会のより深い理解を得るためにも、是非、貴方も『資本論』を読んでみませんか?

 


第6回「『資本論』を読む会」の報告

第6回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎すでに冬近し?

 

 急に冷え込んできました。

 

 今回、報告を行う第6回「『資本論』を読む会」が開催された9月21日はまだ気温も高く、午前中はよい天気でした。天気予報は「雨」とありましたが、こんなよい天気だから予報は外れだな、と思いながら、傘も持たずに図書館に行ったのでした。ところが学習会が終わりに近づくと天気は一転し、土砂降りの雨になりました。私たちは、帰ろうにも帰ることができず、しばらく図書館で雨宿りをしていましたが、少し小降りになったところで、私はショルダーバッグを頭に乗せて、ピースさんやクミさんなどは持っていた汗ふきタオルを頭に乗せて、一散に駅まで走りました。さすがピースさんはフルマラソンをやっているだけあって、軽快でしたが、太っている私などは走っているつもりでも、現実には早足で歩いている程度で惨めなものでした。しかしそれでもなんとか駅にたどり着き、私などはかなり雨に濡れましたが、しかしまだ気温は温かかったので気にならなかったのです。何しろピースさんやクミさんはまだ汗ふきタオルを持っていたぐらいなのですから。

 

 ところがその日から一週間余りたっただけなのに、この寒さはどういうことでしょう。歳をとると時の経つのは早く感じるものですが、これはどう考えても早すぎます。これもやはり異常気象の一つなのでしょうか。この急激な気温の変化で体調を崩し、この報告もやや遅れることになりました。都合のよい言い訳ですが、ご容赦、ご容赦。

 

◎「抽象的人間労働」の議論を継続

 

 学習会はテキストのパラグラフとしてはまったく進まず、前回議論になった問題をもう一度議論することになりました。

 

 というのは、前回の議論に関連して、亀仙人から資料が配布され、その資料をもとにもう一度議論が再燃したからです。

 

 その資料というのは、埼玉の「『資本論』を読む会」の第110回の報告(http://shihonron.exblog.jp/9470612/)の中に、久留間鮫造氏や宇野弘蔵氏などが参加した研究会の記録をまとめた『資本論研究--商品および交換過程』(河出書房1948年)の中から引用されているものです。まずその議論になった引用文を紹介しておきましょう。

 

 〈相原   一寸、その前に、生産力と必要労働時間との関係を分かり易く教えていただきたいのです。

 

 労働生産力が大であればある程、或る品物の産出に必要とされる労働時間は小となり、価値も従って小となる。逆の場合は逆になるといって、必要労働時間は直接労働生産力の凡ゆる変化につれて変化する、ということが書いてある。ところが少し先には、労働の生産力は、労働の具体的な有用的な形態に属しているから、それは、労働の具体的な有用的な形態が抽象されるや否やもう労働には関係しない、云々、と述べられている。

 その間のつながりというのはどういうことになるのか。価値の大きさを定める社会的必要労働時間は直接に生産力の変化に逆比例して変化するようにも云われ、次にこの生産力の変化がそういった価値を作る抽象的な労働とは直接関係がない様にも云われていること、この点は生産力の増減が使用価値の増減であって、それを媒介としてつまり商品の単位当たりにすればそこに含まれている労働が増えたり減ったりするものだと理解していいのか、何かそこに品質と分量とのむずかしい関係がある様でもあり櫛田さんのものも読んだが、よく読まないせいか未だ安心ができない節があります。

 

 久留間  その疑問は価値の大いさに関する二つの異なった問題をはっきりと区別しないことから来るのではないでしょうか。いま引き合いにだされたマルクスの二つの命題はいずれも価値の大いさに関するものではあるがそれを問題にする視角が全然異なっていると思う。すなわち、生産力と無関係だといっている場合には、価値の大いさは本質的にはなんの大いさによってきめられるかを問題にしているのであって、それに対してマルクスは、専ら価値を形成する実体の大いさによって、即ち支出の態様の如何を問わない単なる人間労働力の支出としての労働の分量、即ち抽象的人間的労働の分量によってきまるのだと云っているのです。即ちこの観点からすれば、等しい人間労働力の支出は、それがどのような種類の使用価値のどれだけの分量に結果しようが、常に一定の価値を造り出すということになる。即ち労働の生産力には無関係だということになる。これはもともと、価値の大いさの問題とは云っても、価値の大いさをその実体の大いさに還元する問題に外ならないのであるから、本質的には価値そのものの問題、云わば価値の品質の問題と見ることができる。これに反して今ひとつの問題は、価値の大いさをその実体である労働分量に還元した後に生じる、云わば固有の意味においての価値の大いさの問題に関するのであって、ある特定の使用価値を生産するために社会的に必要な労働時間そのものが何によってきめられるかを問題にしているのである。だからそれは生産力に逆比例してきまると云って答えられるのが当然である。なぜかと云うに、この場合にはある特定の使用価値の生産に必要な労働時間が問題とされているのであり、人間の労働力のある特定の態様における支出が問題にされているからです。

 

 相原  必要労働時間の労働と、品質の方の時にいっている労働とは違いますか。

 

 久留間  必要労働時間というのは。いうまでもなく。一定の使用価値を作るのに必要な労働時間、例えば米一升を作るのに必要な労働時間、糸一斤を作るのに必要な労働時間、等々であって、従ってそれは、一定の使用価値との関連なしには、従ってまた労働の有用的具体的な性質に即することなしには考えられない。だからこそ、それは労働の生産力に逆比例することにもなるのである。ところで単にこの面のみから見るならば、必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎないのであるが、商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。だから必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない。それは有用的・具体的性質においては一定時間内に一定の使用価値を作り、抽象的性質においては一定時間内に一定の価値を作る。だから一定時間内に作られた一定の使用価値が一定の価値をもつと云うことになる。〉(110-111頁)

 

 ここで久留間氏が説明していること、すなわち〈価値の大いさに関する二つの異なった問題〉が〈区別〉して論じられているのが、すなわち14パラグラフと15パラグラフの違いであり、また両者の関連でもあるのではないか、というのが亀仙人の問題提起でした。

 

 つまり第14パラグラフ--

 

 《(14)したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。》

 

 で述べていることは、久留間氏が次のように説明していることを含意しているのではないか、

 

 〈価値の大いさは本質的にはなんの大いさによってきめられるかを問題にしているのであって、それに対してマルクスは、専ら価値を形成する実体の大いさによって、即ち支出の態様の如何を問わない単なる人間労働力の支出としての労働の分量、即ち抽象的人間的労働の分量によってきまるのだと云っているのです。……これはもともと、価値の大いさの問題とは云っても、価値の大いさをその実体の大いさに還元する問題に外ならないのであるから、本質的には価値そのものの問題、云わば価値の品質の問題と見ることができる。〉

 

 また次の15パラグラフ--

 

 《 (15)一商品の価値がその生産のあいだに支出された労働の量によって規定されるならば、ある人が怠惰または非熟練であればあるほど、彼はその商品の完成にそれだけ多くの時間を必要とするのだから、彼の商品はそれだけ価値が大きいと思われるかもしれない。しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が導入されてからは、一定の量の糸を織物に転化するためには、おそらく以前の半分の労働でたりたであろう。イギリスの手織り工はこの転化のために実際には以前と同じ労働時間を必要としたが、彼の個人的労働時間の生産物は、今ではもう半分の社会的労働時間を表すにすぎず、したがって、以前の価値の半分に低下したのである。》

 

 は、やはり久留間氏がもう一つの価値の大きさの問題として述べている説明--

 

 〈これに反して今ひとつの問題は、価値の大いさをその実体である労働分量に還元した後に生じる、云わば固有の意味においての価値の大いさの問題に関するのであって、ある特定の使用価値を生産するために社会的に必要な労働時間そのものが何によってきめられるかを問題にしているのである。だからそれは生産力に逆比例してきまると云って答えられるのが当然である。なぜかと云うに、この場合にはある特定の使用価値の生産に必要な労働時間が問題とされているのであり、人間の労働力のある特定の態様における支出が問題にされているからです。〉

 

 に該当するというわけです。

 

 つまりこの二つのパラグラフ(14と15)の関連は、14パラグラフではそもそも価値の大きさは何よって決められるかを問題にし、15パラグラフはある特定の商品の価値の大きさは何によって決められるかを問題にしているということができます。

 

 特定の商品の価値の大きさというのは、当然、その商品が何であるかということを不問にしては論じることはできません。つまりその商品の使用価値を無視しては論じられないのです。価値の大きさは対象化されている抽象的人間労働の量によって決まるが、しかしそれがどれだけの大きさであるか、つまりその限度は、結局、使用価値によって決まってくるわけです。もともと抽象的人間労働は現実の労働の一つの側面にすぎません。現実の労働は具体的有用労働と抽象的人間労働という二つの契機を持っており、両者を切り離すことはできません。抽象的人間労働の量の限度は、まさにそれが統一している他のもう一つの契機である具体的有用労働によって決まってくるのです。だからその量の限度は、具体的有用労働に関連する生産力によって規定されることになるのだと思います。


 他方、この具体的有用労働というのは、個人的にはまちまちです。特定の使用価値を生産するために支出される具体的有用労働は、その限りではその具体性も有用性も同じ質を持ちながら、やはり個別にはまちまちでしかありません。だから一律同一である抽象的人間労働の量的限度もやはり個別的にはまちまちなわけです。だから15パラグラフでは「個人的労働力」と「社会の総労働力」や「社会的平均労働力」との関連を説明しているのだと思います。

 

◎「必要労働時間という場合は、労働は同時に二重の性質において現われる」

 

 次に議論になったのは、もう一つは久留間氏の説明に関連してでした。

 

 久留間氏は「必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎない」とか「必要労働時間という場合は、労働は同時に二重の性質によって現われる」と述べ、必要労働時間を歴史貫通的なものとして捉えています。果たしてこれは正しいのかどうかが議論になりました。

 

 これを検討するために、前回の15パラグラフにおけるマルクスの考察をもう一度、再現してみましょう。そこでは次のような命題が展開されていました。今それぞれの命題に便宜的に番号を打ってみます。

 

(1)《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である》

(2)《商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する》

(3)《これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》 

(4)《社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である》

 

 このようなマルクスの展開と、久留間氏の次のような説明とを比較検討してみましょう。

 

 〈必要労働時間というのは。いうまでもなく。一定の使用価値を作るのに必要な労働時間、例えば米一升を作るのに必要な労働時間、糸一斤を作るのに必要な労働時間、等々であって、従ってそれは、一定の使用価値との関連なしには、従ってまた労働の有用的具体的な性質に即することなしには考えられない。だからこそ、それは労働の生産力に逆比例することにもなるのである。ところで単にこの面のみから見るならば、必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎないのであるが、商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。だから必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない。それは有用的・具体的性質においては一定時間内に一定の使用価値を作り、抽象的性質においては一定時間内に一定の価値を作る。だから一定時間内に作られた一定の使用価値が一定の価値をもつと云うことになる。〉

 

 久留間氏の説明をマルクスの展開と同様に、命題化して、番号をつけてその展開を見てみると次のようになります。

 

[1]〈必要労働時間というのは。……一定の使用価値を作るのに必要な労働時間……であ〉る。

[2]〈この面のみから見るならば、必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎない〉

[3]〈商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。〉

[4]〈だから必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない。それは有用的・具体的性質においては一定時間内に一定の使用価値を作り、抽象的性質においては一定時間内に一定の価値を作る。だから一定時間内に作られた一定の使用価値が一定の価値をもつと云うことになる。〉

 

 この久留間氏の説明の展開は、[1]、[2]は必要労働時間が歴史貫通的なものであることの説明であり、[3]はそれが商品生産社会では価値の大いさを規定するものとして現れることを指摘し、[4]では、この両者を統一した説明になっています。

 

 これをマルクスの展開と比較すると、マルクスの(4)は久留間氏の[1]に該当します。またマルクスの(1)は久留間氏の[3]に該当すると思われます。ただマルクスの展開の場合は、あくまでも価値の大きさの説明として一貫しているように思え、(4)の説明からはそれが直ちに歴史貫通的なものとして理解することできないように思えます。

 

 マルクスの説明は、《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である》から始まり、その「同等な人間労働」「同じ人間労働力の支出」とはそそもなにかを個別労働との関連から説明するものになっています。すなわち《これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》と。すでにここでは「社会的に必要な労働時間」が説明されており、(4)はそれをさらに厳密に言い換えたに過ぎないと言えます。

 マルクスの説明は、価値を形成する労働は同一の人間労働であり、それは個別の労働とは異なる。だから価値を形成する労働としては個別の人間労働は、他の労働と同一の人間労働力として通用しなければならない。それは一つの社会的平均的な労働力という性格をもち、そのようなものとして作用し、一つの商品の生産に社会的に、平均的に必要な、労働時間のみを用いる限りにおいて、そうしたものとして認められる、というものです。

 

 このようにマルクスの説明はあくまでも一商品の価値の大きさを説明するものとして終始しているように思われます。

 

 もしマルクスの命題の(4)が歴史貫通的なものであるという久留間氏の説明が正しいのであれば、このマルクスの展開にそって遡及すると、マルクスが「諸価値の実体をなす労働」として説明している「同等な人間労働」「同じ人間労働力の支出」もやはり歴史貫通的なものとして理解すべきではないでしょうか。なぜなら、マルクスの(3)の命題から考えるなら、ここで「同じ人間労働力」というのは、「一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて」とらえられた労働であり、だからそれは抽象的人間労働の契機だけではなく、具体的有用労働の契機からも捉えられており、久留間氏によれば〈生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎない〉と言えるように思えるからです。ところが久留間氏は[3]では次のように述べています。

 

 〈商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。〉。

 

 つまりこの久留間氏の説明だと「単なる人間労働力の支出」、つまりマルクスのいう「同一の人間労働」「同じ人間労働力の支出」というのは、有用的・具体的な性質を捨象されたものだというのです。しかしマルクスによれば、個別労働が「同じ人間労働力」として認められるのは、それが社会的平均労働力という性格を持つからであり、《一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる》から、つまり「社会的必要労働時間」である限りにおいてなのです。ところが久留間氏によると〈必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない〉というのです。つまり具体的・有用的な性質も含んだものだというのです。これでは一体どう理解したらよいのでしょうか?

 


第7回「『資本論』を読む会」の案内

第7回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 

 世界的な金融恐慌が勃発しつつあります。

 

 アメリカのサブプライムローン問題に端を発した世界的な信用収縮は、留まるところを知らず、リーマン・ブラザーズなど米大手金融機関の破綻へと発展し、欧州の金融機関にも波及して、国有化や国家の大幅な介入を招いています。

 

 9月29日のニューヨークの株式市場は777ドルという史上最大の下げ幅を記録しました。

 金融危機対策としてブッシュ政権が打ち出した緊急経済安定化法案を米議会下院が否決したからです。

 最大7千億ドル(約75兆円)の公的資金で金融機関の不良債権を買い取るというものですが、「金持ち優遇」「ボロ儲けのツケを国民に押しつけるな」という圧倒的な国民の批判の前に、与党の共和党議員でさえ7割近くも造反する有り様。

 

 しかしこれは当然です。これまでことあるごとに、“新自由主義”の理念を振りかざし、「小さな政府」を呼号し、自己責任を云々して、弱者を切り捨ててきたのですから、今更、泡銭に群がって荒稼ぎしてきた連中が、そのツケを払わされる段になって、政府に泣きつき救済せよなどというのは虫が良すぎます。

 

 というわけで、アメリカの金融危機はますます深刻の度を加えつつあります。世界経済の牽引役を果たしてきたアメリカ経済の破綻は、単にアメリカ一国に留まらず、世界的な経済恐慌へと発展しかねません。世界のブルジョアジーが震え上がり、米政府のみならず欧米や日本の政府が救済に必死になる所以でもあります。

 

 こうした金融恐慌や経済恐慌はどうして起こってくるのでしょうか。世界の資本家たちは何度もそれを経験しながら、やはりそれを繰り返すしか能がありません。

 

 マルクスは《世界市場恐慌は、ブルジョア的経済のあらゆる矛盾の現実的総括および暴力的調整としてつかまなければならない》(『学説史』II689頁)と述べています。

 

 そして恐慌は、資本主義的生産様式そのものの歴史的な限界を示すものだとも指摘しています。

 

 《尖鋭な諸矛盾、恐慌、痙攣においてこそ、社会の豊かな発展にとってはその従来の生産諸関係が、ますます適合しなくなったことが示される。資本にとって外的な諸関係を通じてではなく、資本の自己維持の条件としての資本の暴力的な破壊は、去って社会的生産のより高い段階に席を譲れと言う資本に対する忠告の最も適格な形態である。》(『経済学批判要綱』高木訳IV702頁)

 

 『資本論』はある意味では、どうして資本主義社会では恐慌が繰り返されるのか、それは歴史的にはどういう意味があるのか、を明らかにするために書かれていると言っても過言ではありません。

 

 貴方も、是非、現在の世界的な金融危機を解明するためにも『資本論』を読んでみませんか?

 


第7回「『資本論』を読む会」の報告

第7回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎ポスターも作成

 

  “天高く馬肥ゆる秋”と言いますが、第7回の「『資本論』を読む会」の開催日も、天高く秋晴れの好天日でした。

 

  ところが“紅一点”のクミさんは季節外れのインフルエンザに罹ったとかでお休み。寂しい開催となりました。

 

  おまけに、われわれ以外には、会場を使う人も少ないのか、全体にガランとして侘しさがつのります。

 

  今回、我が「『資本論』を読む会」はポスターを作成しました(写真参照)。

 

 というのはどうやら図書館の掲示板にポスターを貼り出してもらえそうだとピースさんが提案したからです。さっそく、埼玉の「所沢・『資本論』を読む会」のポスターが迫力があるので利用させてもらうことにし、連絡して送ってもらい、それを加工してつくりました。なかなかよいポスターが出来たと思ったのですが、残念ながら、図書館の掲示板には掲載できないとのことでした。掲載するのは、図書館が後援したり、支援する団体に限っているのだそうです。しかしわれわれの案内ビラを入れる箱を作ってくれるなど協力的なので、作ったポスター(A4)もそこに入れていたところ、さっそく無くなっていたので、持ち帰る人があったのだと思います。

 

  今後も案内ビラとポスターを裏表に印刷して、ボックスに入れておくことにしました。

 

 

◎金やダイヤモンドは価値どおりに支払われていない?

 

 今回は第16パラグラフから第1節の終わりまで進みました。テキストに入る前に、前回の「報告」に関連して、「抽象的人間労働」の概念について、それは歴史的なものなのか、それとも歴史貫通的なものなのか、という議論が行われたのですが、これは次の第2節でも必ずと言ってよいほど議論になる問題なので、ここではその報告は割愛します。

 

 今回はテキストは比較的進捗したのですが、それはあまりゴチャゴチャした議論が無かったからでもあります。しかしそのなかでも議論になったのは第17パラグラフでした。

 

 ここではマルクスは《ある一つの商品の生産に必要とされる労働時間が不変であれば、その商品の価値の大きさは不変のままであろう。しかし、その労働時間は、労働の生産力が変動するたびに、それにつれて変動する》と述べて、《労働の生産力》を規定する諸事情については色々とあるとしながら、とりわけ、(1)《労働者の熟練の平均度》(2)《科学とその工学的応用可能性との発展段階》(3)《生産過程の社会的結合》(4)《生産手段の規模とその作用能力》(5)《自然諸関係によって、規定される》としています。

 

 まずここで、上げられている生産力を規定する五つの事情について、それぞれ具体的にはどういうものが考えられるかについて議論になりました。

 

 例えば、「協業」や「分業」などによる生産力のアップはどれに入るのか、という問題がピースさんから出され、それはやはり(3)に入るのではないかということになりました。

 

 しかし、それに対しては亀仙人から、コンビナートなどのようなさまざまな産業分野が有機的に結合されるような場合はどうか、という質問も出されました。後者もゅ(2)や(4)の要素もあるように思うが、どちらかというと(3)に入る感じがするが、しかしそうなると両者はかなり内容的に違う感じもするわけで、果たしてどう考えたらよいのかという疑問だったと思います。これは未解決です。

 

 次にマルクスは価値の大きさを規定する労働時間は生産力によって規定されるとし、その生産力を規定する事情はさまざまあるとしながら、そのあとにそのことの例として書いていること--《たとえば、同じ量の労働でも、豊作の時には八ブッシェルの小麦に表され、凶作の時にはただ四ブッシェルの小麦に表されるにすぎない。同じ量の労働でも、豊かな鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を供給する、等々》--は、すべて(5)の《自然諸関係》に関連するものばかりではないか、その点、展開としては疑問がある、との指摘がありました(ただこれについては、そのあとの議論のなかでマルクスが《もしもほんのわずかの労働で石炭をダイヤモンドに変えることに成功すれば、ダイヤモンドの価値はレンガの価値以下になりうる》と述べている例は(2)の《科学とその工学的応用可能性との発展段階》に該当するだろうとの指摘はありました)。

 

 さらに問題になったのは、そのあとでマルクスが金とダイヤモンドの例を上げて述べていることです。まず引用しておきましょう。

 

 《ダイヤモンドは地表にはめったにみられないので、その発見には平均的に多くの労働時間が費やされる。そのため、ダイヤモンドはわずかな体積で多くの労働を表すことになる。ジェイコブは、金がかつてその全価値を支払われたことがあるかどうかを、疑っている。このことは、ダイヤモンドにはいっそうよくあてはまる。エッシュヴェーゲによれば、一八二三年の時点で、ブラジルのダイヤモンド鉱山の過去八〇年間の総産出高は、ブラジルの砂糖農園またはコーヒー農園の一年半分の平均生産物の価格にも達していなかった。ダイヤモンドの総産出高がはるかにより多くの労働を、したがって、より多くの価値を表していたにもかかわらず、そうだったのである。》(全集版s.54-55)

 

 つまりダイヤモンドは小さな体積で多くの労働を表し、だから小さなダイヤでも恐ろしく高いものだが、しかしマルクスがここで述べていることは、そういうことだけではなく、だから実際には、ダイヤモンドはその価値どおりには支払われたためしはない、ということのようである。つまりダイヤモンドは実際に売買されているよりももっと高価なものなのだ、とでも言いたいかである。

 

  しかしこれは果たして事実なのかどうかがまず疑問として出されました。そして、もしそれが事実なら、それは生産力が商品の価値を規定する例としては、むしろダイヤモンドは例外だということではないのか、それともここでマルクスが言いたいのは、ダイヤモンドの価格はその価値から乖離して売買されているということであろうか、もしそうならそれはどんな理由によるのか、ただ価値があまりにも膨大すぎるからなのか、そもそもそんなことをここで論じる意義が果たしてあるのか、という疑問が出されました。この疑問も解決されていません。

 

◎価値であることなしに、使用価値である、商品であることになしに、有用である

 

 次は最後の第18パラグラフが問題になりました。まず引用しておきましょう。

 

 《ある物は、価値であることなしに、使用価値でありえる。人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合がそれである。たとえば、空気、処女地、自然の草原、原生林などがそうである。ある物は、商品であることなしに、有用であり、人間労働の生産物でありえる。自分の生産物によって自分自身の欲求を満たす人は、たしかに使用価値を作りだすが、商品を作りだしはしない。商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない。》(s.55)

 

 ここでまず最初に《ある物は、価値であることなしに、使用価値でありえる》例として、マルクスは《人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合がそれであり。たとえば、空気、処女地、自然の草原、原生林などがそうである》と説明しているが、しかしその説明だとむしろ〈ある物は、労働生産物であることになしに、使用価値でありえる〉とすべきではないのか、という意見が出されました。

 

  というのは、その次にマルクスは《ある物は、商品であることなしに、有用であり、人間労働の生産物でありえる》と述べているからです。つまり今度は労働生産物であり、有用なものだが、商品ではない、すなわち価値ではないものを例として上げています。だから順序としては、まず最初に使用価値はあるが、労働生産物ではないもの、そしてその次は労働生産物であり、使用価値ではあるが、価値でないものを上げるというのが順序としてはよい様に思うというのです。

 

  しかしこれに対しては、マルクスはここでは《ある物が、価値である》とは、そもそもどういう場合かを論じるために書いているのであって、だから最初から《ある物が、価値であることなしに、……》と書きはじめているのは、これでよいのだ、という意見もでました。

 

 またエンゲルスが先に引用した文章に続けて、次の様な注を挿入していることについても少し意見がでました。

 

 《(しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は、封建領主のために年貢の穀物を生産し、僧侶のために十分の一税の穀物を生産した。しかし、年貢穀物も十分の一税穀物も、それらが他人のために生産されたということによっては、商品にはならなかった。商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手に、交換を通して移譲されなければならない)》(同)

 

 ここでマルクスは《商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない》と述べているだけであって、《他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産》したもの、その生産物はすべて商品になるとは言っていないのだから、エンゲルスの注は不要である、との意見がでました。しかし他方で、まあエンゲルスが注で書いているように、「誤解」を取り除くためなのだから、別に良いのではないかという意見もでました。

 

 全体に議論としては淡白でしたが、これは天気が良すぎたからか、まあ、こんな学習会もあるということです。

 


第8回「『資本論』を読む会」の案内

第8回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 株価が激しい乱高下を繰り返しながら暴落し続け、10月24日の東京株式市場の日経平均株価は8000円を大きく割り込み、03年のバブル後の最安値とほんとど同じ状態に戻ってしまった。

 

 

 こうした株価の低迷が実体経済に影響を及ぼし、深刻な経済停滞が予想されるとマスコミでは報じている。

 

 なるほど現象的にはそうではある。しかし現象は必ずしも本質を示すわけではない。現象的には金融の破綻が株式の暴落をもたらし、それが実体経済にも影響及ぼして深刻な不況と停滞をもたらしつつあるかにみえる。

 

  しかし本質的な関係はその逆である。マルクスは貨幣・金融恐慌は一般的な生産恐慌の特殊的局面として現われると指摘し、《経済学の浅薄さは、とりわけ、産業循環の局面転換期の単なる兆候に過ぎない信用の膨張・収縮をこの転換の原因にするということのうちに現われている。》(『資本論』第1巻全集版825頁)と指摘する。

 

 そしてさらに次のようにもいう。

 

  《生産過程の全関連が信用に立脚しているような生産体制においては、急に信用が停止されて、もはや現金払いしか通用しなくなれば、明らかに、恐慌が、支払手段を求めての殺到が、起こらざるをえない。だから、一見したところでは、全恐慌がただ信用恐慌および貨幣恐慌としてのみ現れるのである。そしてじっさい、問題はただ手形の貨幣への転換可能性だけなのである。しかしこれらの手形の多くは現実の売買を表しているのであって、この売買が社会的な必要をはるかにこえて膨張することが、結局は全恐慌の基礎になっているのである。》(『資本論』第3巻同627頁)

 

 つまり現実の再生産過程の構造そのものにすでに破綻が内在しているのに、信用制度がその破綻を覆い隠し、再生産過程の弾力性を極限まて引き延ばしてさらにその破綻を拡大するが、やがてそれは自ずからその限界に突き当たり、破局が現実化する。株価の崩落はその前兆を示すに過ぎないのである。

 

 もちろん、国家信用が崩壊しないかぎり、現代の政府は公信用を拡大して、こうした破局が暴力的に生じることを防ぐことは出来る。しかしいずれにせよ調整は不可避である。政府の介入は、その調整過程を暴力的にではなく、ただ過程をダラダラとした長期の停滞のなかで行うことを可能にするに過ぎない。しかも国家財政の膨大な赤字と引換にである。主要な先進国は総力を上げて、資本の救済に乗り出している。しかし、それは他方で国家破綻の可能性をますます増大させるのみであろう。

 

 貴方も、現象に隠れた本質を見抜くために、是非、『資本論』を読んでみませんか?

 



読者登録

亀仙人さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について