目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
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第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第4回「『資本論』を読む会」の案内

第4回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 7月7日から洞爺湖サミットが開かれる。

 

 今回のサミットのテーマは「環境・気候変動」「開発・アフリカ」「世界経済」そして「不拡散をはじめとする政治問題」だという。

 

 特に地球の環境変動問題は待ったなしと言われている。

 

 昨年2月、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が発表した第4次評価報告書によれば、2100年には地球の平均気温が最大で6.4℃上昇し、海面水位は平均38.5cm(最大59cm)上昇するとされている。

 

 地球規模の生態系の変化、異常水温現象の増加、太平洋熱帯域でのエルニーニョ現象の増強、海流の大規模な変化、深層循環の停止、あるいはこれらに伴う気候の大幅かつ非可逆的な変化等々、さまざまな恐ろしい未来図が予想されている。

 

 こうした地球環境の破壊も、資本主義の無政府的な生産が地球規模に広がり、あまりにも大規模になってしまった結果でしかない(世界の人口のほぼ3分の1を占める中国とインドの急速な資本主義的発展が決定的な影響を及ぼしつつある!)。

 われわれが地球環境破壊の原因とその本質を考え、その真の解決の方向を見いだすための理論的武器も、やはり『資本論』は与えている。

 マルクスは資本の無政府的な生産の本性を次のように明らかにしている。

 《資本が、人類の将来の退廃や結局どうしても止められない人口減少やの予想によって、自分の実際の運動をどれだけ決定されるかということは、ちょうど、地球が太陽に落下するかもしれないということによって、どれだけそれが決定されるかというようなものである。どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは、だれでも知っているのであるが、しかし、だれもが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。われ亡きあとに洪水はきたれ! 〔Apres moi le deluge!〕これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのである。》(第1巻352-3頁)

 だから世界の主要国の首脳がいくらサミットと称して鳩首会談をやろうと、すべての資本家国家はこの標語どおりのこと以上のことはしようとはしない。

 《資本主義的生産様式は、それが大中心地に集積させる都市人口がますます優勢になるに従って、一方では、社会の歴史的原動力を蓄積するが、他方では、人間と大地とのあいだの物質代謝を、すなわち、人間が食糧・衣料の形態で消費した耕地成分の耕地への回帰を、したがって持続的な耕地肥沃度の永久的自然条件を撹乱する。こうしてこの資本主義的生産様式は、都市労働者の肉体的健康と農村労働者の精神生活とを、同時に破壊する。しかしそれは同時に、あの物質代謝の単に自然発生的に生じた諸状態を破壊することを通じて、その物質代謝を、社会的生産の規制的法則として、また完全な人間の発展に適合した形態において、体系的に再建することを強制する。》(1巻656-7頁)

 今日の地球規模の環境破壊も、われわれに地球規模の《物質代謝を社会的生産の規制的法則として、完全な人間の発展に適合した形態において、体系的に再建することを強制する》ものの一つではないだろうか!

 《資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである。資本とその自己増殖とが生産の出発点と終点、動機と目的として現われるということである。生産はただ資本のための生産だということ、そしてそれとは反対に生産手段が生産者たちの社会のために生活過程を絶えず拡大形成して行くための単なる手段なのではないということである。生産者大衆の収奪と貧困化とにもとづく資本価値の維持と増殖とはただこのような制限のなかでのみ運動することができるのであるが、このような制限は、資本が自分の目的のために充用せざるをえない生産方法、しかも生産の無制限な増加、自己目的としての生産、労働の社会的生産力の無条件的発展に向かって突進する生産方法とは、絶えず矛盾することになる。手段――社会的生産力の無条件的発展――は、既存資本の増殖という制限された目的とは絶えず衝突せざるをえない。それだから、資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させこれに対応する世界市場をつくりだすための歴史的な手段だとすれば、それはまた同時に、このようなその歴史的任務とこれに対応する社会的生産関係とのあいだの恒常的矛盾なのである。》(3巻313-4頁)

 だから問題の根本的解決のためには、現代の資本主義的生産様式そのものを革命的に変革しなければならない。人間の自然に対する働きかけを資本の無政府性のままに放置するのではなく、それを人間自身の意識的な統制のもとに取り戻さなければならないのである。

 《すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。》(3巻1050-1頁)

 しかし、そのためにはこの資本主義社会を変革する労働者階級の闘いが必要であり、その階級闘争の発展が何よりも望まれる。

 貴方も是非、この資本主義社会を変革する武器として、『資本論』を学んでみませんか?

 


第4回「『資本論』を読む会」の報告

第4回「『資本論』を読む会」の

 

 

 

◎夏真っ盛り、とにかく暑い!(@_@)

 

 関西地方も梅雨が明け、第4回「『資本論』を読む会」が開催された20日も、お日さんがカンカンと照りつける好天日でした。こんな日には、若い者なら海や山に、あるいはプールへと、老人たちは静かに家でクーラーの効いた部屋で昼寝でもやりたいものです。何が因果かこのクソ暑い中、昼日中にノコノコと出かけなければならないのか、などと愚痴をこぼしながら、とにかく出かける羽目に相成りました。

 

 泉が丘駅から会場の図書館までほんの2~300m歩道橋を歩いていくのですが、途中から日差しを避けるものが何もなく、私は持っていた汗ふきタオルを頭に乗せて、照り返しの強い歩道橋を汗をタラタラ流しながら歩きました。

 

 しかしこんなに暑くても、ありがたい事に会場はクーラーが効いていました。私たちは第2集会室を利用したのですが、この部屋も4~50人規模の大きな部屋。それを私たちはたった4人で利用しました。こんな大きな部屋をたった4人で、しかもクーラーを効かせて、タダで使用するのは何となく気が引けるというか、後ろめたい気持ちが否めません。私たちはもっと小さな部屋があればそれで十分なのですが、あいにく図書館に併設されている集会室にはそうした適当な大きさのものがありません。もっとも私たちの隣の第1集会室(これも4~50人規模の大きな部屋だが)を利用しているグループもたったの3人ほどのようでしたので、まあ何というかその後ろめたさがやや和らいだというか、私たちだけが罪深いことをしているのではないという安堵感のようなものがあった次第です。

 

 こんな大きな集会室ですが、部屋を借りてくれているピースさんの話では、案外に土日は空いているのだそうです。平日の夜はさまざまなサークルで一杯のようですが、土日は誰もが休みたいのか、利用者は少ないといいます。それに図書館に併設されていることから、その利用目的が制限されている(「読書会」や「読み聞かせ会」、「お話し会」等々のグループの利用が多いよう)ことも、会場が案外空いている理由のようです。いずれにせよ、とにかくありがたい事です。

 

 ◎「価値」を導き出すややこしい論理

 

 さて、いよいよ私たちの『資本論』を読む会も佳境に入り、これまで多くの人達が議論し、論争してきた部分にさしかかってきました。まずその部分を全文引用しておきましょう。

 

 《使用価値としては、諸商品は、何よりもまず、相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、一原子の使用価値も含まない。

 

 そこで、諸商品体の使用価値を度外視すれば、諸商品体にまだ残っているのは、ただ一つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。しかし、労働生産物もまたすでにわれわれの手で変えられている。もしもわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば、われわれは、労働生産物を使用価値にしている物体的諸成分と諸形態をも捨象しているのである。それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的性状はすべて消しさられている。それはまた、もはや、指物(サシモノ)労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格と共に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。

 

 そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値--商品価値である。 諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現れた。そこで今、実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、今まさに規定された通りのそれらの価値が得られる。したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表している共通物とは、商品の価値である。……》(全集版51-2頁)

 

 何とも複雑な論理で、頭がこんがらがってしまいそうです。

 

 ピースさんは、「どうして、マルクスはこんなに回りくどい説明をしているのかなあ、“諸商品を互いに質的に区別している諸使用価値を捨象したら、あとに残るそれらの共通物がすなわち価値である”とスッキリ説明したらどうしてアカンのやろ」と疑問を出しました。

 

 実際、マルクスも引用文の最後のパラグラフでは《実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、……それらの価値が得られる》とスッキリ説明しています。

 

 もっともこれだと価値の実体が説明されたことにはならないのですが、だからマルクスはそれを説明するために色々と工夫したのではないか、ということになったのでした。

 

 そこで初版では、ここはどのように説明していたのかを見てみました。次のようになっています。

 

  《交換価値の実体が商品の物理的な手でつかめるある存在または使用価値としての商品の定在とはまったく違ったものであり独立なものであるということは、商品の交換関係がひと目でこれを示している。この交換関係は、まさに使用価値の捨象によって特徴づけられているのである。すなわち、交換価値から見れば、ある一つの商品は、それがただ正しい割合でそこにありさえすれば、どのほかの商品ともまったく同じなのである。

 

 それゆえ、諸商品は、それらの交換関係からは独立に、またはそれらが諸交換-価値として現われる場合の形態からは独立に、まず第一に、単なる諸価値として考察されるべきなのである。

 

 諸使用対象または諸財貨としては、諸商品は物体的に違っている諸物である。これに反して、諸商品の価値存在は諸商品の統一性をなしている。この統一性は、自然から生ずるのではなくて、社会から生ずるのである。いろいろに違う諸使用価値においてただ違って表わされるだけの、共通な社会的な実体、それは--労働である。

 

 諸価値としては諸商品は結晶した労働よりほかのなにものでもない。(以下、価値の量の考察に移っている)》(岡崎訳・国民文庫24-5頁、注は省略しました)

 

  なるほど、初版では全体に簡潔だし、ここにはまだ「抽象的人間労働」といった言葉もでて来きません。ただ「共通な社会的実体」としての「労働」が指摘されているのみです。そして論理としてはむしろスッキリしているような印象を与えます。

 

 しかしこれが第二版のための『補足と改訂』(1871年12月-1872年2月執筆)だと次のようになっています。

 

  《そこで,諸商品体の使用価値を度外視すれば,諸商品体にまだ残っているのは,一つの属性,労働生産物という属性だけである。しかし,労働生産物もまたすでにわれわれの手によって変えられている。もしわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば,われわれは,労働生産物を有用にしている,すなわち使用価値にしている肉体的諸成分と形態をも捨象しているのである。それはもはや,テーブル,家,糸,等その他なんらかの使用対象ではない。その感性的性状はすべて消し去られている。したがって,それはまた,もはや,指物労働,建築労働,紡績労働,あるいはその他何かある一定の有用的生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格とともに,労働生産物に含まれている労働の有用的性格も消えうせ,したがってまた,ある労働がなにかある一つの使用対象を生産するときの,一定の具体的形態も消えうせる。

 

 そこで,これらの労働生産物にのこっているものを考察しよう。いま,一つの商品は他の商品と同しようにみえる。それらはすべて,何かあるものの同じまぼろしのような対象性以外の物ではない。何のか? 区別のない,人間的労働の,すなわち,その支出の特殊な,有用的な,規定された形態にかかわりのない人間的労働力の支出の対象性である。これらの物が現わしているのは,それらの生産に人間的労働力が支出されており,人間的労働が堆積されている,ということ以外のなにものでもない。それらに共通な,この社会的実体の結晶として--これらの物は価値である。

 

 われわれは次のことを見てきた。--諸商品の交換関係あるいはそれらの交換価値の形態そのものは,交換価値を使用価値の抽象と,特徴づけた。使用価値の抽象が現実に行われ,いままさに規定されたとおりのそれらの価値が得られる。(以下、略)》(小黒正夫訳『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』第5・7号56頁)

 

 これは現行版にかなり近くなっていますが、まだ「抽象的人間労働」という用語そのものはこの範囲では出て来ません。しかしこの『補足と改訂』にはそのすぐあとに次のような注目すべき言及があります。

 

 《労働生産物を,それらの非常に多様な使用対象性とは異なる,同し種類の価値対象性に還元するさいに,一つの状況を見過ごしてはならない。すなわち,諸労働生産物が価値対象性を持つ,あるいは価値つまり単なる労働凝固であるのは,それらのなかに実現されているさまざまな具体的諸労働が,すべて抽象的人間的労働に還元されているからに他ならない,ということである。》(同)

 

  第二版ではこの二つが合わさって現行のような敍述になったと考えられるのではないでしょうか。

 

  さて、この部分については、戦前から今日に至るまで多くの議論がなされてきたのですが、それについては次回の報告の時にでも検討することにして、今回はこのぐらいにしましよう。


第5回「『資本論』を読む会」の案内

第5回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 総務省が7月25日に発表した6月の全国消費者物価指数は、前年同月比1.9%も上昇し、9カ月連続のプラスとなった。

 

 消費税率引き上げの影響で物価が上がった1998年1月以来、10年5カ月ぶりの高い伸び率だという。ガソリンの高騰や、穀物価格上昇に伴う食品の値上げなどが影響したなどと言われている。

 

 

 実際、身の回りの生活必需品を見回しても、値上げラッシュである。パンやスパゲッティ、チーズ、インスタントラーメン等々、食料品はいうに及ばず、電気やガスも値上げが予定されている。テレビのニュースでは教育費やPTAの会費まで値上げしているなどと報じていた。そして唯一労働者の賃金だけが低下し続けている、と。

 

 すでにインフレは明らかになりつつある。6月に大阪で開かれたG8財務相会合でも世界インフレが指摘され、「警戒を怠らず、共同で適切な行動を」などと訴えていたが、インフレは世界中で広がろうとしているのである。

 

 世界的なインフレは、サブプライム問題などによって、オイルマネーなど世界的な投機資金が金融商品を回避し、石油や穀物など現物商品の先物市場に流れ込んでいるからだとも言われているが、しかしその背景にはドルの“タレ流し”による過剰な貨幣資本があることは明らかである。

 

 こうした国家信用で膨れ上がった架空な貨幣資本は、為替や有価証券などに向かっている限りは、ただ剰余価値の上前をハネルための権利のやりとりでしかないし、物価に対する影響はほんどないのだが、しかし一旦、現物商品に向かうと、たちまちその架空性が暴露されて(というのはこうした架空な貨幣資本は現実資本に対する直接な請求権を代表していないから)、物価の騰貴を引き起し、結果として、その貨幣“価値”の下落、すなわちインフレをもたらすことになるのである。

 

 だから今日のインフレは国家的な信用膨張と深く結びついた現象であり、なかなか複雑ではあるが、しかしインフレそのものは、直接的には貨幣的現象であり、それを解明するためには、やはり『資本論』で明らかにされている「貨幣論」が必要なのである。

 

 だから貴方も是非、今日の複雑な経済現象を理論的に読み解くためにも、共に『資本論』を読んでみませんか?

 


第5回「『資本論』を読む会」の報告

第5回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎暑かった夏もおさらば

 

  8月も終わりに近づくと、急に涼しくなりました。

 

 私は友人夫婦と一緒に19~21日にかけて恒例の2泊3日の旅行に出かけ、標高1000m近くの高原の宿舎で過ごし、さすがは高原は涼しいなあ、などと言っていたのですが、帰ってくると、何のことはない、大阪の方が涼しくて、夜は窓を開けて寝ていると風邪を引きそうなほどでした。これでは何のための避暑旅行かといった次第でした。

 

 それほど今年の夏は短く、秋は早足で訪れつつあるようです。 これを喜ぶべきか、それとも悲しむべきか、子供達にとっては、楽しい夏休みが終わり、学校が始まるという何とも言えない複雑な気持ちではあるでしょうが、年寄りには、まあ身体が楽になるという点では、喜ぶべきなんでしょう。

 

 “実りの秋”と言います。しっかり『資本論』を研究して、実り多い秋にしたいものではあります。

 

◎「抽象的人間労働」と「同等な人間労働」

 

  最近は秋雨前線が停滞して、天気の悪い日が続きますが、わが「『資本論』を読む会」も、やや停滞気味で、ほとんど“移動”がありませんでした。

 

 といっても、何も議論もせずに終わったということではありません。問題が難しく何度議論してもなかなか埒が開かなかったからです。

 

 「抽象的人間労働」を如何に理解するかが問題でした。これは戦前から多くの学者が議論してきたものですから、私たちがたった数時間議論したからと言って埒が開くような性格のものではないと言えばそれまでですが、とにかく議論になった点を紹介しましょう。まず当該パラグラフを全部引用しておきます。

 

  (14)したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。

 

 (15)一商品の価値がその生産のあいだに支出された労働の量によって規定されるならば、ある人が怠惰または非熟練であればあるほど、彼はその商品の完成にそれだけ多くの時間を必要とするのだから、彼の商品はそれだけ価値が大きいと思われるかもしれない。しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が導入されてからは、一定の量の糸を織物に転化するためには、おそらく以前の半分の労働でたりたであろう。イギリスの手織り工はこの転化のために実際には以前と同じ労働時間を必要としたが、彼の個人的労働時間の生産物は、今ではもう半分の社会的労働時間を表すにすぎず、したがって、以前の価値の半分に低下したのである。》

 

  これはパラグラフで言うと、14と15パラグラフです(いま便宜的に引用文にパラグラフの番号を記してみました)。この二つのパラグラフの論理的な関係が今一つよく分からないのです。

 

 まず最初に気付くのは、14パラでは「抽象的人間労働」という用語が使われていますが、15パラではそれが見当たらないということです。「価値の大きさ」が問題になると、どうして「抽象的人間労働」(の量)ではなく、15パラで問題になっている「同等な人間労働」とか「同じ人間労働力の支出」とか「同一の人間労働力」とか「社会的平均労働力」「社会的平均労働」「社会的に必要な労働時間」等々が問題になるのか、前者と後者とはどのように関連しているのか、が問題になったのです。

 

◎まず最初は15パラグラフから

 

 15パラグラフでは、さまざまな用語がでてきますが、それらは次のような展開になっています。

 

 《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である》               

                        

 《商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する》  

                       

  《これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》 

                       ↓

  《社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である》

 

 ここでは、まず《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働、同じ人間労働力の支出である》との命題が述べられ、だから個々の労働は諸価値に現される限りは、《同一の人間労働力として通用する》こと、そして《同一の人間労働力として通用する》ということは、個々の労働が《社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用》する限りにおいてであること、というのは、《一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》と言えるからだ、とされています。

 

 つまりここでは「価値の実体をなす労働」と「個別の諸労働」との関連が明らかにされているように思えます。個々の労働はその総計によって「社会の総労働力」の一部を構成しますが、しかし個々の労働それ自体としては価値を形成する労働としては通用しないこと、それが価値の実体をなす労働として通用するためには、それらが社会的な平均労働力として作用しなければならず、《したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて》価値を形成すること、というのは、それらはそうしたものとしてのみ、「同等な人間労働」として通用するのであり、よってまた価値の実体となることができるのだからである、等々。

 

 だからここでは「諸価値の実体をなす、同等な人間労働」が量的に、より具体的により深くその内容が規定されているように思えます。

 

 ◎14パラグラフと二つのパラグラフの関連

 

  まあ、15パラグラフはこの程度でよいとして、それではそれが14パラグラフとどのように関連しているのか、それが問題です。次に14パラグラフを考察してみましょう。 14パラグラフで問題になったのは次の一文です。

 

 《では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。》

 

  ここでマルクスは《「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によって》と書いていますが、ここに出てくる「労働」は、その前の分節--《したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない》--に出てくる「抽象的人間労働」と同じなのか違うのかが問題になりました。

 

 ピースさんは同じではないかというし、亀仙人は「同じならどうして単に『労働』ではなく、『抽象的人間労働』という言葉を使わないのか」と疑問を呈したのですが、結論はでませんでした。

 

 この両者は同じと言えば同じですし、違うと言えば違うと言えます。明らかにマルクスはここで単に「労働」とのみ述べているのは、その次の15パラグラフとの絡みからだと思います。両者の違いは、「抽象的人間労働」は諸商品に対象化された労働であり、いわば「過去の労働」ですが、「価値を形成する実体」としての「労働」は、これから価値を形成する労働、つまり「生きた労働」という点にあるように思えます。「抽象的人間労働」は諸商品の交換関係から、それらの諸商品に共通なものとして、諸生産物に対象化され結晶している「社会的実体」として、抽出されたものです。それはもちろん、価値の実体をなすわけですから、社会的に共通な質に還元された労働であり、その具体的姿態が捨象された、一般化・抽象化された労働です。しかしわれわれが「価値を形成する実体」として捉えている「労働」は、これから価値を形成する労働として、その内容が問われています。それは「価値を形成する実体」とマルクスが説明しているように、すでに個別の労働とは異なる、何らかの社会的実体になった労働なわけです。だからそれは単に個別の労働から、その具体的姿態を捨象して、単なる労働一般として捉え、その継続時間を問題にすればよいというものではないわけです。

 

 商品に対象化された労働の場合、それはすでに商品のなかに物質化されたものなのてすから、その具体的姿態を捨象して「抽象的人間労働」に還元すれば、それはすでに一つの「社会的実体」ということができます。それは諸商品の交換関係、という一つの社会的関係から抽出されたものでもあるからです。つまり具体的な労働からその具体性を捨象し、抽象的人間労働に還元して、そのことによってその労働が社会的に共通な質を獲得するということのなかには、その労働が「同じ人間労働」「同じ人間労働力の支出」として捉えられるということが含まれているのです。だからその労働は個別に支出された労働とはすでに異なるものなのです。個別の労働の具体的姿態をただ捨象しただけでは不十分であり、そうした抽象された労働がその抽象性によって社会的な共通の質を獲得するためには、その労働が「同じ人間労働」「同じ人間労働力の支出」として通用するものに変わっていなければならないわけです。そこから第15パラグラフの説明に繋がって行くわけです。

 

 つまり「諸価値の実体をなす労働」である「同じ人間労働」「同じ人間労働力の支出」というのは、より具体的にその内容をみると、「社会的平均的労働力の支出」という意味を持ち、だからその継続時間というのは、「社会的に必要な労働時間」なのです。それは「現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である」とも規定されています。

 

 だから「価値を形成する実体」としての「同じ人間労働」とか「同じ人間労働力の支出」、あるいは「社会的平均的労働力の支出」、さらには「社会的に必要労働時間」というのは、「価値の実体」としての「抽象的人間労働」をより具体的にその内容を展開したものということができるのではないでしょうか。 

 

 一応、不十分ながら、結論らしきものとして、以上のことを述べておきます。もし、異論があればどしどし出してください。歓迎します。


第6回「『資本論』を読む会」の案内

第6回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 福田首相があっさりと政権を投げ出し、自公政権は混迷を深めている。  もはや、さっさと解散・総選挙でも行い、政権交代でも何でもやってもらいたいものだ。

 

 景気後退が顕著になるなかで、政府は小泉政権が掲げた「構造改革路線」を転換し、財政膨張に依存した“景気浮揚策”へと後戻りしつつある。福田内閣が8月末にまとめた「総合経済対策」(事業規模11.7兆円、08年度補正1.8兆円)がそれだ。

 

 もし福田首相の後を、麻生太郎自民党幹事長が引き継ぐなら、財政の膨張はより一層野放図になるであろう。麻生氏は、幹事長就任後、「景気がその気になるまで、財政出動以外に手はない」(『朝日』9月2日)などと公言してきたからである。

 

 しかし日本の国家的債務は国・地方合わせて約1000兆円(実質GDPのほぼ倍!)と言われ、平成20年度の公債残高は約553兆円(国民一人当たり約433万円)である。これではほとんど国家的破産に近いといわなければならない。

 

 マルクスは国債制度は資本主義が歴史的に生まれてくる上で重要な役割を果たした、と次のように指摘している。

 

  《公債は本源的蓄積の最も強力なテコの一つとなる。それは、魔法の杖を振るかのように、不妊の貨幣に生殖力を与えてそれを資本に転化させ、そのためには貨幣は産業的投資や高利貸し的投資にさえつきものの骨折りや危険を犯す必要はない。国家に対する債権者は現実には何も与えはしない。というのは、貸しつけた金額は、容易に譲渡されうる公債証書に転化され、それは、ちょうどそれと同じ額の現金であるかのように、彼らの手中で機能し続けるからである。しかも、このようにして生み出される有閑金利生活者の階級や、政府と国民とのあいだに立って仲介者の役割を演じる金融業者たちの即製の富を別としても……国債は、株式会社やあらゆる種類の有価証券の取り引きや株式売買を、一言で言えば、取引所投機と近代的銀行支配とを、勃興させたのである。》(『資本論』第1部第24章、全集23b984-5頁)

 

 そして今日の公債制度、すなわち国債制度は、今度は、資本主義延命の「最も強力なテコの一つ」である。資本はさまざまな経済危機を国家に依存して、その財政や信用の膨張に依存して切り抜けてきた、その結果が、今日の膨大な国家的債務の累増なのだ。

 

 そしてその行き着く先は、国家の破綻か戦争か、それとも猛烈なインフレか、あるいは国民への徹底した重税かに帰着するしかない。いずれにしてもすべての負担は国民に転嫁される!

 

 だから労働者はこうした無責任な“景気浮揚策”などは御免である。この社会のより深い理解を得るためにも、是非、貴方も『資本論』を読んでみませんか?

 



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