目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第9回「『資本論』を読む会」の案内
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第10回「『資本論』を読む会」の案内
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第11回「『資本論』を読む会」の案内
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第12回「『資本論』を読む会」の案内
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第13回「『資本論』を読む会」の案内
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第14回「『資本論』を読む会」の案内
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第15回「『資本論』を読む会」の案内
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第16回「『資本論』を読む会」の案内
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第17回「『資本論』を読む会」の案内
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第18回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告
第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第2回「『資本論』を読む会」の案内

第2回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 昨年夏に表面化したサブプライム問題は、たちまち世界中に広がり、世界経済の深刻な危機を招いています。

 

 サブプライムローンとは、アメリカの優良(プライム)でない階層(サブプライム)向けに貸し出した住宅ローンのことです。それがどうして世界経済を揺るがす震源になっているのでしょうか?

 

  それはこうしたローンを融資した金融機関が、その債権をいくつかの媒体機関を通じて証券化して売り出し、その媒体機関(投資銀行など)がそれをさらにいくつかの別の債権とまぜ合わせて、世界的なカネ余りのなかで、ぼろ儲けを企んでいるさまざまな機関投資家やヘッジファンドなどに売りつけていたからです。

 

 こうした世界の資産担保証券市場で売買されている証券類の総額は十数兆ドル(日本のGDPのほぼ3倍!)とも言われています。その約70%がアメリカ、残りの30%がヨーロッパ・アジアその他の市場で発行されているというのです。

 

  だからアメリカの住宅ブームが終わり、住宅価格の上昇が伸び悩むと、たちまちその価格上昇をあてにしてローンを組んでいた人たちが返済に行き詰まり、ローンの焦げつきを引き起し、こうした劣悪な債権を含んだ証券の価格が暴落して、それを買ってぼろ儲けを企んでいた連中=世界中の金融機関や投資家に膨大な損失をもたらしたというわけです。

 

 これは言ってみれば自業自得というべきなのでしょうが、しかしそれが世界経済の危機へと発展するからそうも言っておれません。

 

 だからブッシュ政権は、ローン債務者への支払い猶予に加え、総額18兆円の財政政策を打ち出しましたが、しかしその効果はほとんど見られないというのが現状なのです。

 

 こうした複雑な金融問題を解明していく基礎も『資本論』で与えられています。

 

 資本主義社会では、すべての定期的な一定の貨幣額の収入(貨幣請求権)は、資本還元されて、利子を生む架空な資本として価格を付けられ売買されるようになります。国債や株式、住宅ローン債権等もしかりなのです。マルクスは「利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であってたとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」(『資本論』第3部、全集版596頁)と述べています。

 

  だから『資本論』は決して古くさい古典などではなく、現代の「狂った」世界経済を根源的に解明する手段なのです。一度、是非、貴方も『資本論』を読んでみませんか。

 


第2回「『資本論』を読む会」の報告

第2回「『資本論』を読む会」の報告
 
 
◎新参加者もなく、欠席もあったりして、さらに寂しく……

 新参加者もなく(ピースさんの言うには、参加しそうな人があったらしいのだが?)、常連参加者の一人に不幸があり欠席したために、ただでさえ少ない参加者がさらに少なくなり、寂しい限りであった。しかし泣き言ばかり言っててもしょうがないから、とにかく読書会を続けることにした。
 参加者が少なかったから、という分けではないだろうが、テキストは捗り、前回はたった二つのパラグラフを終えただけだったのに、今回は四つも進み、第6パラグラフまで終わってしまった。
 だから議論もあっさりしたものだっただろう、って? これがなかなかどうして、何しろ自説を滔々と説いて止まない御仁がおるものですから……。

◎「交換価値の素材的担い手」とは?

 最初に問題提起をしたのは例によって例のごとくJJ富田さんだった。第4パラグラフの次の一文--

 《使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態においては、それは同時に交換価値の素材的担い手をなしている。》(新日本新書版61頁)

 ここで使用価値が「交換価値の素材的担い手をなしている」というのは、どういうことなのかというのである。
 この部分は、これまで当たり前のこととしてあまり問題にもされて来なかったところなのだが、JJ富田さんのいうには、これに続くパラグラフでは交換価値について述べているが、例えばそこで言われている「一クォーターの小麦」の諸交換価値として「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」などがあげられているが、「使用価値は……交換価値の素材的担い手をなしている」という場合、ここでいう「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」等々の諸使用価値のことを指しているのか、それとも「一クォーターの小麦」の交換価値の「素材的担い手」になっているのは「一クォーターの小麦」という使用価値そのものなのか、というのである。果たしてどうなんでしょう?

 「一クォーターの小麦」の交換価値は、当然、「一クォーターの小麦」自身が持っているものだから、その交換価値の素材的担い手というなら、 「一クォーターの小麦」という使用価値のことではないのか、というのがピースさんの意見。「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」等々は、「一クォーターの小麦」の交換価値を表現する材料にはなっているが、しかしそれは「素材的担い手」ということとはまた別のことではないのか、というわけ。

 亀仙人もピースさんとまったく同じように解釈していた。だからすぐにその意見に賛成したのだが、しかしあとで振り返って反省してみるに、JJ富田さんの問題提起は、もっと良く考えてみる必要があると思うようになった。

 この部分は、『資本論』を読んでいるだけだと、なかなか分かりにくい。「素材的担い手」というだけだと、どちらとも取れるような感じがするからである。ところが『経済学批判』を読むと、これがハッキリするのである。当日は『批判』を持っていなかったからしょうがなかったが、『批判』ではその部分は次のようになっている。

 《使用価値であるということは、商品にとって必要な前提であると思われるが、商品であるということは、使用価値にとって無関係な規定であるように思われる。経済的形態規定にたいしてこのように無関係な場合の使用価値は、すなわち使用価値としての使用価値は、経済学の考察範囲外にある。使用価値がこの範囲内にはいってくるのは、使用価値そのものが形態規定である場合だけである。直接には使用価値は、一定の経済的関係である交換価値があらわされる素材的土台である。》(国民文庫版25頁)

 ついでに『資本論草稿集』第3巻ではこの部分は次のように訳されている(ただし最後の部分だけ)。

 《……直接的には使用価値は、一定の経済的関係である交換価値が自らを表すさいの素材的な土台である。》(214頁)

 もちろん、『資本論』『批判』とは違った文献だし、書かれた年代にはかなりのブランクもある。だから両者がまったく同じ内容を論じているとは断定できないのだが、しかし『批判』では、マルクスが「素材的土台」として論じているのは、明らかに交換価値を表す対象であることが分かる。だからそれから類推して『資本論』の当該部分の解釈をやってみると、「一クォーターの小麦」の「交換価値の素材的担い手をなしている」ものとしてマルクスが語っているのは、「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」等々の諸使用価値のことであることが分かるのである。これがまあ、正しいのではないか。一件落着。

 (補足〔09.8.16〕:この『資本論』を読む会の報告を書き進めていくなかで、マルクスが第二版のために作成した『補足と改訂』のなかに、次のような一文があることを知った。

 《上着の生産においては,裁縫労働という形態のもとに,人間的労働力が実際に支出され,したがって,上着のなかに人間的労働が堆積されている。それゆえ,この面からすれば,上着体は価値の担い手である。もっとも,上着のこの属性そのものは,上着がどんなにすり切れてもその糸目から透けて見えるわけではないが。》(大黒正夫訳『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』第5号65頁)

 つまりここでは「素材的担い手」という文言はないが、上着体は上着の価値の担い手であるとのマルクスの言明がある。だからピースさんや亀仙人が最初に理解していた解釈もまんざら間違いとは言い切れないのではないかということを補足しておきたい。)

◎やはり第6パラグラフが問題に

 次に問題になったのは、やはり第6パラグラフであった。ここではマルクスは「一クォーターの小麦」が「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」などと交換される関係を例に引いて、そこから次のような二つの結論を導き出している。

 《それゆえ、こういうことになる。第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。しかし、第二に、交換価値は、一般にただ、それとは区別されるある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。》(新書版63頁)

 この二つの結論がどうして出てくるのか今一つ分かったようで分からない、という疑問が、やはりJJ富田さんから出された。
 ピースさんも今一つ納得ゆく説明ができなかったのだが、亀仙人は、以前、大阪でやった「『資本論』学ぶ会」でも同じところが問題になり、「『資本論』学ぶ会ニュース」でそれについて論じたことを指摘した。そしてそのニュースをその場で読み聞かせたのだが、ここではそれを紹介するだけにしておこう(以下同ニュース№5から)

 【議論になったのは、第6パラグラフを巡ってです。ここではマルクスは、交換価値から価値を導き出すために、まず1クオーターの小麦を例に上げ、それがさまざまな物と交換されることを指摘します。x量の靴墨、y量の絹、z量の金などです。そしてそうした小麦の他商品との交換を分析して結論として次の二つのことを導き出しています。

 「第一に、同じ商品の妥当な交換価値は一つの等しいものを表現する。しかし第二に、交換価値は、一般にただ、それとは区別されうるある内実の表現様式、『現象形態』でしかありえない」と。

 さて、ここで出された疑問は、結論として言われている二つのうち、最初のものは何となく分かるが、第二のものはどうしてそれが言えるのか、もう一つ良く分からない、この二つは同じことを別の観点から言っているのか、マルクスはここでは全体として「交換価値の限界」といったものを言いたいのか、といったものです。

 こうしてこの二つの結論の理解を巡って喧々諤々の議論が行われました。今、その議論の一つ一つを再現することは出来ませんが、これを考える上で、参考になると思える、文献から関連部分を紹介しておくことにしましょう。

 第二の結論として言われていることで、分かりにくいのは、なぜ、小麦と諸商品との交換関係から、交換価値が「ある内実の表現様式」だと分かるのか、ということではないかと思います。その点、マルクスは『剰余価値学説史』の中でベーリーの価値論を批判しているところで、次のような分かりやすい例を上げて説明しているところがあります。

 「ある物が他の物から離れている場合には、事実上、距離が、ある物と他の物とのあいだの関係である。だが同時に距離は、二つの物のあいだのこの関係とは違ったあるものである。それは空間の広がりであり、いくらかの長さであって、比較されうるこの二つの物以外の、他の二つの物の距離をも同様に表しうる。だが、これがすべてではない。もし二つの物のあいだの関係として距離を論じる場合には、われわれは、両方の物が相互に離れていることを可能にしているそれらの物自身の、ある『内在的なもの』、ある『属性』を想定しているのである。文字Aとテーブルとのあいだの距離というのは、なんのことであろうか?
 こんな問題はばかげているであろう。二つの物の距離を論じる場合に、われわれが論じているのは、空間のなかでの二つの物の相違なのである。したがって、われわれは、二つの物がともに空間のなかに含まれていること、空間の二つの点であること、を想定しているのである。したがってまた、われわれがその二つの物を同等化するのは、ともに空間のあり方としてである。そして、同等化したのちにはじめて、空間の観点のもとで、われわれは、二つの物を、空間の違った二つの点として区別するのである。空間に属しているということが、それらの物に共通な単位なのである」(全集二六巻・184~5頁)

 つまり小麦を靴墨や絹、金などとの交換関係に置くということは、両者に共通な「内在的なもの」「属性」の観点から両者を見ているということなわけです。だからマルクスは「ある内実の表現様式」だと結論したのではないでしょうか。

 もう一つ、河上肇はその『入門』で、この部分を、『資本論』の第一版、第二版、エンゲルス版、カウツキー版と比べながら、次のように説明しています。

 「かくの如く表現の仕方は版本によって種々の相違があるが、しかし何れにしても内容にさしたる相違はない。それは要するに次のことを意味する。--すでに述べたように、商品という以上は孤立して存在するものでなく、必ず他の種々なる商品と種々の割合で交換される。例えば1クォーターの小麦は、あるいは20ポンドの靴墨と交換され、あるいは2エルレの絹と交換され、あるいは半オンスの金、等々と交換されるのであるが、そうすると、その1クォーターの小麦の交換価値は、20ポンドの靴墨であると表現されると同時に、あるいは2エルレの絹であるとも、あるいは半オンスの金、等々であるとも、表現されることになり、かくてx量の靴墨、y量の絹、z量の金、等々は、各々分量を異にし且つ甚だしく種類を異にする使用価値であるにも関わらず、1クォーターの小麦の交換価値であるという点では、それらのものが皆な同じだということになる。すなわち吾々が日常の経験において見るところで、理屈でも何でもない。だが吾々はこのことから、交換価値は『かくの如き種々なる表現の仕方と区別されうる或る内容を有たねばならぬ』ということを推理しうるのである。同じものが或いは雲となり雨となり或いは雪となり氷となるというのであれば、これらのものは雲でもなく雨でもなく、すなわちそれ自身とは区別されうるところの、或る内容を有たねばならぬ。かくて吾々は先ず、交換価値なる現象形態と区別されうるところの、或る内容に考え到った。次に吾々は、その内容が何であるかの論究に進む」(『資本論入門』青木文庫第一分冊137~8頁)

 このように河上肇はわかりやすく説明しています。これらを参考に、皆さん自身でもう一度考えてみて下さい。】

 以上、今回は比較的簡単になりましたが、報告を終わります。

第3回「『資本論』を読む会」の案内

第3回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 『蟹工船』ブームなのだという。

 

 もちろん、あの小林多喜二『蟹工船』である。

 

 異常とも言える売れ行きに、新潮社は5月の時点で10万7千部増刷することを決定したという。

 

 買ってゆくのは「格差社会」の真っ只中にある「30代から50代の働きざかりの人が多い」とも言われ、「ワーキングプア」との関連で特設スタンドをおいたら飛ぶように売れた、などとも言われている。

 

 『蟹工船』で描かれている世界は、多喜二自身が「この一篇は、『植民地に於ける資本主義侵入史』の一頁である」と小説の最後の「付記」で書いているように、当時はまだ開拓途上にあって「植民地」とほとんど変わらなかった北海道における資本の「原始的な」「虐使」の実態である。

 

 人を人とも思わない資本の過酷な搾取の有り様がこれでもかこれでもかと描かれている。

 

 つまり『蟹工船』で描かれている世界は、当時でも最も劣悪な労働条件で酷使されていた労働者たちなのである。

  「ここの百に一つくらいのことがあったって、あっちじゃストライキだよ」と元芝浦の工場にいた労働者は語る。

  「--内地では、労働者が『横柄』になって無理がきかなくなり、市場もだいたい開拓されつくして、行き詰まってくると、資本家は『北海道・樺太へ』鉤爪をのばした。そこでは、彼らは朝鮮や、台湾の植民地と同じように、面白いほど無茶な『虐使』ができた。」

 

 と多喜二は書いている。

 それほど過酷な労働の実態がそこにはある。それがこの現在の高度に発達した資本主義の下で働く労働者たちに共感を呼んでいるのである!

 

 働いても働いてもカツカツの生活を維持するのがやっとの「ワーキングプア」たち。

 

 多くの労働者が超過密で長時間の労働に追いまくられるなかで、明日の生活の不安にさいなまれている。

 

 資本主義は80年前と何一つ変わっていないではないか、と誰もが思っている。

 『資本論』は“古くさくなった”と何度も言われてきた。しかし『資本論』で明らかにされている現実は、まさに今の資本主義の現実なのである。

 《資本主義制度の内部では、労働の社会的生産力を高めるいっさいの方法は、個々の労働者の犠牲として行われるのであり、生産を発展させるいっさいの手段は、生産者の支配と搾取との手段に転化し、労働者を部分人間へと不具化させ、労働者を機械の付属へとおとしめ、彼の労働苦で労働内容を破壊し、科学が自立的能力として労働過程に合体される程度に応じて労働過程の精神的能力を労働者に疎遠なものにするのであり、またこれらの方法・手段は、彼の労働条件をねじゆがめ、労働過程中ではきわめて卑劣で憎むべき専制支配のもとに彼を服従させ、彼の生活時間を労働時間に転化させ、彼の妻子を資本のジャガノートの車輪のもとに投げ入れる。しかし、剰余価値の生産のいっさいの方法は、同時に蓄積の方法であり、その逆に、蓄積のどの拡大も、右の方法の発展の手段となる。それゆえ資本が蓄積されるのにつれて、労働者の報酬がどうであろうと--高かろうと低かろうと--労働者の状態は悪化せざるをえないということになる。最後に、相対的過剰人口または産業予備軍を蓄積の範囲と活力とにたえず均衡させる法則は、ヘファイストスの楔(クサビ)がプロメテウスを岩に縛りつけたよりもいっそう固く、労働者を資本に縛りつける。この法則は資本の蓄積に照応する貧困の蓄積を条件づける。したがって、一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である。》(『資本論』第1巻・全集版840-1頁)

 『資本論』『蟹工船』の背後で何がどのように作用し、その過酷な搾取を必然ならしめているかを明らかにしている。

 『蟹工船』でストライキに立ち上がった労働者たちから現代の労働者は何を学ぶのだろうか? 彼らが『蟹工船』だけでなく、さらに『資本論』からも学び始めることだけは確かではないだろうか。

 貴方も是非『資本論』を私たちと一緒に読んでみませんか?

 【なお下記サイトからは「漫画蟹工船」が無料でダウンロードできます。

 http://www.takiji-library.jp/announce/2007/20070927.html

 


第3回「『資本論』を読む会」の報告

第3回「『資本論』を読む会」の報告
 
 
 
◎図書館は閉まり、フロアも真っ暗

 今回の「『資本論』を読む会」は、初めて夕方の6時開始でした。
 
 会場の堺市立南図書館に行くと、どうしたことか、入り口の自動ドアは開かず、中は電気も落ちて真っ暗でした。一瞬、曜日を間違えたかと思いました。しかし、そんなはずはないと思いなおし、ウロウロするうちに、中の守衛室には電気が灯っているので、守衛さんが部屋から出てくるのを待って、ドアの外から声をかけると、彼は自動ドアを手で開けて顔を出してくれたので、「実は、今日は読書会があるハズなんですかが…」というと、「ああ、あの『資本論』のやつですね」という。「まだ時間が早いのでそこて待っていてください」と薄暗いフロアーの椅子を指さします。ということは、やはり曜日は間違っていなかったのだと思い、なかに入る。そのうちJJ富田さんも半信半疑で別の自動ドアを手動で開けて入ってくるということで、ようやく一安心。
 
 しかしそれにしても、もう少し分かりやすい案内があってもよいのではないでしょうか。どうやら集会室は開いているが、図書館は土・日は午後5時までらしい。だから入り口の自動ドアも電気を切り、フロアの電灯も消してあるらしい。なるほど“節約精神”は買うにしても、しかしこれでは集会室の利用者は、とまどうだろう。私のように読書会が必ずあると確信しているような者でさえ、一瞬、曜日を間違えたかと疑ったほどだから、もし案内ビラやこのブログを見て初めて参加された方があったとしたら(そんな人はいないだろうって? そうとも限らないでしょう)、恐らくその人は入り口の自動ドアが開かず、中のフロアの電灯が消えているから、そのまま帰ってしまったに違いないのです。せめて自動ドアに「集会室の利用者は手でドアを開けて入ってください」ぐらいの案内があってしかるべきではないでしょうか(自動ドアを手動で開けるという発想は通常はなかなか出て来ないものです)。
 
 なになに、「タダで借りているのに、文句は言うな」ですって? しかし利用料が無料だから、サービスがいい加減でよいということはないでしょう。それに利用料が無料といっても図書館や集会室は市民税で運営されているのですから、まったく負担がないわけではないのです。
 
 というわけで(もちろん、それだけが理由ではないでしょうが)、今回の「『資本論』を読む会」も新参加者はゼロでした。

◎《幾何学上の一例》は問題を分かりやすくしているのか?

 さて、今回も進んだのは、たったの三つのパラグラフのみでした(第7~9パラグラフ)。参加者も同じ顔ぶれでややマンネリ化したのか、議論もあまり盛り上がらず、比較的短時間で終わりました。
 
 ここで問題になったのは、マルクスは第7パラグラフで、二つの商品の等式《1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄》から《同じ大きさのある共通物が、二つの異なった物の中に、……存在する》こと、だから《両者はどちらも、それが交換価値である限り、この第三のものに還元されうるものでなければならない》という結論を引き出しています(これはまあ良い)。そしてさらにそのことを説明して、第8パラグラフでは、《幾何学上の一例》を上げています。ところがこの《幾何学上の一例》が今一つよく分からないのです。ここでは出された疑問点をとにかく列挙してみましょう。

 (1)まず第7パラグラフでは二商品の等式から、第三のものへの還元を説明していますが、第8パラグラフでは等式ではなく、《直線形の面積をはかり、比較する》ことが課題になっています。これは第7パラグラフの説明としては、あまり適切とはいえないのではないか、という疑問です。
 
 もし幾何学上の一例の方も等式から説明するとなると、例えば、四角形と六角形がイコールで結ばれるなら、両者の中に《同じ大きさのある共通物が、二つの異なった物の中に、……存在する》こと、ということになり、結局、両者の共通物は何かというと、ただ面積が等しい、というような説明になるのではないか、ということなのです。

 (2)第7パラグラフでは、《同じ大きさのある共通物が、二つの異なった物の中に、……存在する》ことを見出しています。ということは《幾何学上の一例》でも、さまざまな形状の《直線形》の中に《同じ……共通物》を見い出さなければならないハズですが、マルクスはまずそれを《いくつかの三角形に分解》し、さらに《三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現--底辺×高さ/2--に還元される》としています。
 
 ここでマルクスがさまざまな《直線形》の《共通物》として見ているのは、果たして《三角形》なのか、それともその三角形の面積を求める公式である《底辺×高さ/2》なのか、ということが問題になりました。

 (3)もし《共通物》として《三角形》を見ているだけなら、それだけでは面積は比較できないから、当然、後者であろうということになります。しかしもし後者なら、果たしてそれはさまざまな《直線形》の中に存在する《共通物》といえるのかどうか、三角形を求める公式《底辺×高さ/2》は果たして何か一つの質といえるようなものなのかどうか、という疑問が出されました。
 
 もしさまざまな形状の《直線形》の共通の質を問題にするのなら、やはりそれはそれらの「面積」ではないのか、と。面積を求める公式と面積そのものとはやはり違うのであり、公式を一つの質と考えることが果たしてできるのかどうか、という疑問です。

 (4)またマルクスが《三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現--底辺×高さ/2--に還元される》ということで強調したいことは、《その目に見える形とはまったく異なる》もの《に還元される》ということではないか、という意見が出されました。
 
 一クォーターの小麦やaツェントナーの鉄の《その目に見える形とはまったく異なる》《第三のものに還元されうる》ということを、マルクスはこの一例で示そうとしているのではないか、ということなのです。
 
 しかしそう考えると、またおかしなことがでてきます。というのは、マルクスは《三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現-- 底辺×高さ/2--に還元される》と述べているだけであり、《その目に見える形とはまったく異なる》としているのは《三角形》に対してであって、決して最初の比較の対象であるさまざまな《直線形》に対してではないからです。もちろん、《底辺×高さ/2》が《三角形》と《その目に見える形とはまったく異なる》のだから、当然、最初の《直線形》とも《その目に見える形とはまったく異なる》といえるのではないか、とはいえますが、果たして《その目に見える形とはまったく異なる(もの)に還元される》ことが、ここでのポイントなのかどうか、どうなんでしょう?

 結局、この問題は未解決のままで終わり、まあ、そんなに細かく詮索しなくても良いのではないかという結論になりました。皆さんはどうお考えでしょうか?

 以上のように、今回の議論は内容的にはあまり面白くもなく、また時間も短く終わりましたが、とりあえず、報告しておきます。

(そろそろこの「『資本論』を読む会」も“終末”が見えつつあるですって? 誰ですか、そんな陰口を叩くのは!)

第4回「『資本論』を読む会」の案内

第4回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 7月7日から洞爺湖サミットが開かれる。

 

 今回のサミットのテーマは「環境・気候変動」「開発・アフリカ」「世界経済」そして「不拡散をはじめとする政治問題」だという。

 

 特に地球の環境変動問題は待ったなしと言われている。

 

 昨年2月、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が発表した第4次評価報告書によれば、2100年には地球の平均気温が最大で6.4℃上昇し、海面水位は平均38.5cm(最大59cm)上昇するとされている。

 

 地球規模の生態系の変化、異常水温現象の増加、太平洋熱帯域でのエルニーニョ現象の増強、海流の大規模な変化、深層循環の停止、あるいはこれらに伴う気候の大幅かつ非可逆的な変化等々、さまざまな恐ろしい未来図が予想されている。

 

 こうした地球環境の破壊も、資本主義の無政府的な生産が地球規模に広がり、あまりにも大規模になってしまった結果でしかない(世界の人口のほぼ3分の1を占める中国とインドの急速な資本主義的発展が決定的な影響を及ぼしつつある!)。

 われわれが地球環境破壊の原因とその本質を考え、その真の解決の方向を見いだすための理論的武器も、やはり『資本論』は与えている。

 マルクスは資本の無政府的な生産の本性を次のように明らかにしている。

 《資本が、人類の将来の退廃や結局どうしても止められない人口減少やの予想によって、自分の実際の運動をどれだけ決定されるかということは、ちょうど、地球が太陽に落下するかもしれないということによって、どれだけそれが決定されるかというようなものである。どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは、だれでも知っているのであるが、しかし、だれもが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。われ亡きあとに洪水はきたれ! 〔Apres moi le deluge!〕これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのである。》(第1巻352-3頁)

 だから世界の主要国の首脳がいくらサミットと称して鳩首会談をやろうと、すべての資本家国家はこの標語どおりのこと以上のことはしようとはしない。

 《資本主義的生産様式は、それが大中心地に集積させる都市人口がますます優勢になるに従って、一方では、社会の歴史的原動力を蓄積するが、他方では、人間と大地とのあいだの物質代謝を、すなわち、人間が食糧・衣料の形態で消費した耕地成分の耕地への回帰を、したがって持続的な耕地肥沃度の永久的自然条件を撹乱する。こうしてこの資本主義的生産様式は、都市労働者の肉体的健康と農村労働者の精神生活とを、同時に破壊する。しかしそれは同時に、あの物質代謝の単に自然発生的に生じた諸状態を破壊することを通じて、その物質代謝を、社会的生産の規制的法則として、また完全な人間の発展に適合した形態において、体系的に再建することを強制する。》(1巻656-7頁)

 今日の地球規模の環境破壊も、われわれに地球規模の《物質代謝を社会的生産の規制的法則として、完全な人間の発展に適合した形態において、体系的に再建することを強制する》ものの一つではないだろうか!

 《資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである。資本とその自己増殖とが生産の出発点と終点、動機と目的として現われるということである。生産はただ資本のための生産だということ、そしてそれとは反対に生産手段が生産者たちの社会のために生活過程を絶えず拡大形成して行くための単なる手段なのではないということである。生産者大衆の収奪と貧困化とにもとづく資本価値の維持と増殖とはただこのような制限のなかでのみ運動することができるのであるが、このような制限は、資本が自分の目的のために充用せざるをえない生産方法、しかも生産の無制限な増加、自己目的としての生産、労働の社会的生産力の無条件的発展に向かって突進する生産方法とは、絶えず矛盾することになる。手段――社会的生産力の無条件的発展――は、既存資本の増殖という制限された目的とは絶えず衝突せざるをえない。それだから、資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させこれに対応する世界市場をつくりだすための歴史的な手段だとすれば、それはまた同時に、このようなその歴史的任務とこれに対応する社会的生産関係とのあいだの恒常的矛盾なのである。》(3巻313-4頁)

 だから問題の根本的解決のためには、現代の資本主義的生産様式そのものを革命的に変革しなければならない。人間の自然に対する働きかけを資本の無政府性のままに放置するのではなく、それを人間自身の意識的な統制のもとに取り戻さなければならないのである。

 《すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。》(3巻1050-1頁)

 しかし、そのためにはこの資本主義社会を変革する労働者階級の闘いが必要であり、その階級闘争の発展が何よりも望まれる。

 貴方も是非、この資本主義社会を変革する武器として、『資本論』を学んでみませんか?

 



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